後漢書

志第二十五

百官二

太常、光祿勳、衛尉、太僕、廷尉、大鴻臚

 

太常

太常は、卿一人、中二千石。(盧植の礼注によると、「大楽正のごとし」という。)

本注によると、礼儀祭祀を掌る。祭祀ごとに、まずその礼儀を奏上し、行事に及んでは、常に天子を補佐する。(漢旧儀によると、「賛饗一人、秩六百石、天子を補佐することを掌る」という。)

博士の選抜試験ごとに、その可否を奏上する。大射、養老、大喪の儀式では、いずれもその礼儀を奏上する。毎月の晦日の前日に、陵廟を巡視する。(漢官によると、「員吏八十五人、うち十二人は四科、十五人は佐、五人は仮佐、十三人は百石、十五人は騎吏、九人は学事、十六人は守学事である。」臣昭が言うには、およそ漢官に記載されている列職の人数は、今すべて注として記す。やや煩雑ではあるが、周礼が官を列記し、人役を前に陳べて民の規範としたように、国の制度を実際に見るには、この宏大な模範は欠くことができないものである。)

丞一人、比千石。(盧植の礼注によると、「小楽正のごとし」という。)

六百石。

本注によると、およそ行礼および祭祀の小事を掌り、曹事を総括して署する。(漢旧儀によると、「丞は廟中の法に違う者を挙げる」という。)

その署曹掾史は、事に応じて員数を定める。諸卿も皆同様である。

太史令

太史令は一人、六百石。

本注にいう。天時と星暦を掌る。毎年終わりに近づくと、新年の暦を奏上する。国が祭祀・喪・娶の事を行う際には、吉日と時節の禁忌を奏上することを掌る。国に瑞応・災異がある時は、それを記録することを掌る。〈漢官にいう。「太史の待詔は三十七人。そのうち六人は暦を治め、三人は亀卜、三人は廬宅、四人は日時、三人は易筮、二人は典禳、九人は籍氏・許氏・典昌氏で各三人、嘉法・請雨・解事は各二人、医は一人。」〉

丞は一人。明堂及び霊台の丞は一人、二百石。

本注にいう。二つの丞は、明堂と霊台を守ることを掌る。霊台は日月星気を候うことを掌り、いずれも太史に属する。〈漢官にいう。「霊台の待詔は四十一人。そのうち十四人は星を候い、二人は日を候い、三人は風を候い、十二人は気を候い、三人は晷景を候い、七人は鍾律を候う。一人は舎人。」〉

博士祭酒

博士祭酒は一人、六百石。本来は僕射であったが、中興して祭酒に改められた。〈胡広がいう。「官名に祭酒とあるのは、皆、その職位の長である。古礼では、賓客が主人の饌を得ると、年長者一人が酒を挙げて地に祭った。旧説では、先があることを示すためとされる。」〉

博士は十四人、比六百石。

本注にいう。

は四家、施・孟・梁丘・京氏。

尚書

は三家、欧陽・大小夏侯氏。

は三家、魯・斉・韓氏。礼は二家、大小戴氏。

春秋

『二』は『公羊』の厳氏と顔氏を指す。弟子を教え導くことを掌る。国に疑わしい事があれば、問いを受け答えを承ることを掌る。本来の俸禄は四百石であったが、宣帝が秩を増した。〈本紀桓帝延熹二年に、秘書監を置いた。〉

太祝令

太祝令は一人、六百石。

本注によると、国中の祭祀において、祝文を読み神を迎え送ることを掌る。〈漢旧儀によると、「廟祭では、太祝令が主となり酒を司る。」漢官によると、「員吏は四十一人、うち二人は百石、二人は斗食、二十二人は佐、二人は学事、四人は守学事、九人は有秩である。百五十人の祝人、二百四十二人の宰、六十人の屠者がいる。」〉

丞は一人。

本注によると、小さな神々に関する祝の事を掌る。

太宰令

太宰令は一人、六百石。

本注によると、宰工・鼎・俎・饌具などの器物を掌る。国中の祭祀において、饌具を陳列することを掌る。〈漢官によると、「明堂丞一人、二百石。員吏四十二人、うち二人は百石、二人は斗食、二十三人は佐、九人は有秩、二人は学事、四人は守学事。宰は二百四十二人、屠者は七十三人、衛士は十五人。」〉

丞は一人。

大予楽令

大予楽令は一人、

本注によると、伎楽を掌る。国中の祭祀において、楽の演奏を請い掌り、大饗で楽を用いる際には、その陳列順序を掌る。〈漢官によると、「員吏二十五人、うち二人は百石、二人は斗食、七人は佐、十人は学事、四人は守学事。楽人の八佾舞は三百八十人。」盧植の礼注によると、「大〔予〕令は古の大胥のようである。漢の大楽律では、卑しい者の子は宗廟の酎の舞をすることができない。二千石から六百石までの官吏、および関内侯から五大夫までの子から、嫡子で身長五尺以上、年齢十二から三十、顔色が和らぎ、身体が整っている者を選び、舞人とする。」〉

丞は一人。〈盧植の礼注によると、「大楽丞は古の小胥のようである。」〉

高廟令

高廟令は一人、六百石。

本注にいう。廟を守り、掃除の巡視を掌る。

丞は置かない。〈漢官にいう。「員吏四人、衛士十五人。」〉

世祖廟令

世祖廟令は一人、六百石。

本注にいう。高廟と同じ。〈漢官にいう。「員吏六人、衛士二十人。」〉

陵園令

先帝の陵ごとに、陵園令が各一人、六百石。

本注にいう。陵園を守り、掃除の巡視を掌る。

丞および校長が各一人いる。

本注にいう。校長は、兵戎と盗賊の事を主管する。〈應劭の漢官名秩にいう。「丞は皆、孝廉郎で年少で功績の浅い者を選び、府長史・都官令・候司・馬に遷補する。」〉

陵食官令

先帝の陵ごとに、陵食官令が各一人、六百石。

本注にいう。朔望や時節の祭祀を掌る。〈漢官にいう。「各陵に食監一人、秩六百石。監丞一人、三百石。中黃門八人、従官二人。」案ずるに、食監とはすなわち食官令の号である。〉

右は太常に属する。

本注にいう。祠祀令が一人いたが、後に少府に転属した。太卜令があり、六百石で、後に廃止されて太史に併合された。中興以来、以前の官のうち合わせて十官を廃止した。〈前書を案ずるに、十官とは、太宰、均官、都水、雍太祝、五畤それぞれ一尉である。東観書にいう。「章帝はまた祀令、丞を置き、延平元年に廃止した。」〉

光祿勛

光祿勛、卿一人、中二千石。

本注にいう。宿衛宮殿門戸を掌り、謁見を司り、署郎が交代で直勤し戟を執り、門戸を宿衛することを典し、その德行を考課して進退する。〈胡広がいう。「勲は〈門昬〉のようなものである。易に『〈門昬〉寺となる』とある。〔宦〕寺は、殿宮門戸の職を主る。」〉

郊祀の事は、三献を掌る。〈漢官にいう。「員吏四十四人、そのうち十人は四科、三人は百石、一人は斗食、二人は佐、六人は騎吏、八人は学事、十三人は守学事、一人は官医。衛士八十一人。」〉

丞一人、比千石。

五官中郎將

五官中郎將一人、比二千石。

本注にいう。五官郎を主る。〈蔡質の漢儀にいう。「中郎の官署は、その府が太学に対している。」〉

五官中郎、比六百石。

本注にいう。定員なし。〈郎は年五十で五官に属するので、六百石という。〉

五官侍郎、比四百石。

本注にいう。定員なし。

五官郎中、比三百石。

本注にいう。定員なし。凡そ郎官は皆、交代で直勤し戟を執り、諸殿門を宿衛し、出ては車騎に充てる。ただ議郎のみは直勤の中に含まれない。〈蔡質の漢儀にいう。「三署の郎は光祿勛に会えば、板を執って拝礼する。五官左右将に会えば、板を執るが拝礼しない。三公諸卿に対しては敬礼しない。」〉

左中郎将

左中郎将は、比二千石である。

本注にいう。左署の郎を主管する。(蔡質の『漢儀』にいう。「中郎将の府は、五官中郎将の府に次ぐ。」)

中郎は比六百石。侍郎は比四百石。郎中は比三百石。(三郎。)

本注にいう。いずれも定員はない。

右中郎将

右中郎将は、比二千石である。

本注にいう。右署の郎を主管する。

中郎は比六百石。侍郎は比四百石。郎中は比三百石。

本注にいう。いずれも定員はない。(三郎とも、いずれも定員なし。)

虎賁中郎将

虎賁中郎将は、比二千石である。

本注にいう。虎賁の宿衛を主管する。(前書『漢書』に、武帝が期門を置き、平帝が虎賁と改めたとある。蔡質の『漢儀』にいう。「虎賁千五百人を主管し、定員はなく、多いときは千人に及ぶ。鶡冠を戴き、右中郎将の府に次ぐ。」また、虎賁はもと「虎奔」と書き、虎の奔るがごとしという意味であったが、王莽が古に勇士孟賁がいたことから、この名にした。孔安国は「虎が猛獣を奔走させるようだ」といい、その甚だ猛々しいことを言う。)

左右の僕射、左右の陛長がそれぞれ一人ずつおり、比六百石である。

本注にいう。僕射は、虎賁郎に射術を習わせることを主管する。陛長は、虎賁の当直を主管し、朝会の際には殿中にいる。(『漢官』にいう。「陛長は、墨綬と銅印を持つ。」)

虎賁中郎は、比六百石に相当する。虎賁侍郎は、比四百石に相当する。虎賁郎中は、比三百石に相当する。〈荀綽の『晉百官表注』に「虎賁の諸郎は、皆父が死ぬと子が代わる。これは漢の制度である」とある。〉

節従虎賁は、比二百石に相当する。〈四郎である。〉

本注にいう。いずれも定員はない。宿衛と侍従を掌る。節従虎賁から長く務めた者が転任し、才能がやや高い者は中郎に至る。

羽林中郎将

羽林中郎将は、比二千石に相当する。

本注にいう。羽林郎を主管する。〈案ずるに、漢末にはさらに四中郎将があり、皆軍を率いて征伐した。いつ設置されたかはわからない。董卓が東中郎将となり、盧植が北中郎将となり、献帝は曹植を南中郎将とした。〉

羽林郎は、比三百石に相当する。

本注にいう。定員はない。宿衛と侍従を掌る。常に漢陽、隴西、安定、北地、上郡、西河の六郡の良家の者を選んで補う。もとは武帝が便馬に従って狩猟し、帰還して殿陛の巖下の室に宿ったことによるので、巖郎と号した。〈『前書』に初め建章営騎と名付け、後に改名したとある。出て三百石の丞、尉を補う。荀綽の『晉百官表注』に「その厳厲で整い鋭いことを言う」とある。これに拠れば巖郎であり、志と異なる。蔡質の『漢儀』に「羽林郎は百二十八人、定員はなく、府は虎賁府の次にある」とある。〉

羽林左監

羽林左監は一人、六百石。

本注にいう。羽林左騎を主管する。〈『漢官』に「孝廉郎が作り、羽林九百人を主管する。二監の官属と史吏は、皆自ら羽林の中から出て、才能ある者が作る」とある。〉

丞一人。

羽林右監

羽林右監は一人、六百石。

本注にいう。羽林右騎を主管する。

丞が一人いる。

奉車都尉

奉車都尉は、比二千石である。

本注にいう。定員なし。〈漢官には三人とある。〉

天子の乗る車を掌る。

駙馬都尉

駙馬都尉は、比二千石である。

本注にいう。定員なし。〈漢官には五人とある。〉

副車の馬を掌る。

騎都尉

騎都尉は、比二千石である。

本注にいう。定員なし。〈漢官には十人とある。〉

羽林騎兵を監督する。

光祿大夫

光祿大夫は、比二千石である。

本注にいう。定員なし。〈漢官には三人とある。〉

すべての大夫、議郎はみな顧問応対を掌り、常務はなく、ただ詔令によって派遣される。諸侯国の嗣子の喪があれば、光禄大夫が弔問を掌る。

太中大夫

太中大夫は千石。

本注にいう。定員なし。〈漢官には「二十人、秩は比二千石」とある。〉

中散大夫

中散大夫は六百石。

本注にいう。定員なし。〈漢官には「三十人、秩は比二千石」とある。〉

諫議大夫

諫議大夫は六百石。

本注にいう。定員なし。〈胡広はいう。「光禄大夫は、もと中大夫であり、武帝の元狩五年に諫大夫を置いて光禄大夫とした。世祖(光武帝)が中興し、諫議大夫とした。また太中大夫、中散大夫がある。この四等は古くはみな天子の下大夫であり、列国の上卿に相当する。」漢官には三十人とある。〉

議郎

議郎は六百石。

本注にいう。定員なし。〈漢官には「五十人、常員なし」とある。〉

謁者僕射

謁者僕射は一人、比千石。

本注にいう。謁者台の長として、謁者を統率し、天子が出御する際には先導を務める。古くは武事を重んじ、主射がいてこれを監督記録した。ゆえに僕射という。〈蔡質の漢儀にいう。「尚書令に会う時は、対面して揖するだけで敬意を示さない。謁者に会う時は、手板を持って拝礼する。」〉

常侍謁者は五人、比六百石。

本注にいう。殿上の時節と威儀を主管する。〈漢官にいう。「謁者は三十人、そのうち二人は公府の掾で、六百石の〔持〕使である。」〉

謁者は三十人。そのうち給事謁者は四百石。灌謁者郎中は比三百石。

本注にいう。賓客の取次ぎと事務の受け付け、および上奏文の受け取りと回答を掌る。将軍、大夫以下の喪事には、使者として弔問に赴くことを掌る。本来の定員は七十人であったが、中興後は三十人だけである。〈荀綽の晉百官表注にいう。「漢代はみな孝廉で五十歳、威厳と容姿が厳かで賓客応対ができる者を用いた。明帝の詔に『謁者は堯の尊官であり、舜を試すために四門で賓客として迎え、四門が整然としていたものである』とある。昔、燕の太子が荊軻を使わして始皇を脅迫した時、変事が両楹の間で起こり、その後、謁者が匕首を持って腋下を刺した。高祖は武をやめて文を行ったので、板に替えたのである。」〉

初めは灌謁者となり、満一年で給事謁者となる。〈蔡質の漢儀にいう。「府の丞、長史、陵令に出向する者は、みな儀容が端正で、奉使に適任な者を選ぶ。」〉

以上は光祿勛に属する。

本注にいう。職務として光祿勛に属するのは、五官将から羽林右監まで、合わせて七つの部署である。奉車都尉から謁者までは、文書上で所属する。旧来は左右曹があり、秩は二千石で、殿中に上り、尚書の奏事を受け取り、審査して処理した。世祖(光武帝)がこれを廃止し、小黄門郎に事務を受け持たせ、車駕が出る時は黄門郎が兼務するようにした。請室令があり、車駕が出る時、先に立って行幸先を請い、警戒の車を迎えて報告し、慎重を重んじることを示した。中興後はただ郎が兼務し、用事が終われば解任する。また、車将、戸将、騎将の三将を廃止した。〈如淳がいう。「車を主管するのを車郎といい、戸の警衛を主管するのを戸郎という。」〉

および羽林令も廃止した。

衞尉

衞尉、卿一人、中二千石。

本注にいう。宮門の衛士と、宮中の巡回警備の事務を掌る。〈漢官にいう。「員吏は四十一人、そのうち九人は四科、二人は二百石、文学三人は百石、十二人は斗食、二人は佐、十二人は学事、一人は官医。衛士は六十人。」〉

丞一人、比千石。

公車司馬令

公車司馬令一人、六百石。

本注にいう。宮の南闕門を掌り、吏民の上章、四方の貢献、および公車に徴詣する者すべてを扱う。〈献帝起居注にいう。「建安八年、議郎衛林が公車司馬令となり、位は将、大夫に随った。旧来、公車令の位は都官、長史とともに将、大夫に従っていたが、林から始まった。」〉

丞、尉各一人。

本注にいう。丞はいみなをよく知る者を選び、非法を知ることを掌る。尉は闕門の兵禁を主とし、非常を戒める。〈胡広がいう。「諸門部はそれぞれ道を挟んで屯を陳べ、その傍らに兵を当て、威武を示し、戟を交えて、妄りに出入りする者を遮る。」〉

南宮衛士令

南宮衛士令一人、六百石。

本注にいう。南宮の衛士を掌る。〈漢官にいう。「員吏九十五人、衛士五百三十七人。」〉

丞一人。

北宮衛士令

北宮衛士令一人、六百石。

本注にいう。北宮の衛士を掌る。〈漢官にいう。「員吏七十二人、衛士四百七十一人。」〉

丞一人。

左右都候

左右都候各一人、六百石。〈周礼の司寤氏に夜士があり、干宝の注にいう。「今の都候の属である。」〉

本注にいう。剣戟士を主とし、宮中を巡行し、天子が収考する者があるとこれを行う。〈漢官にいう。「右都候は員吏二十二人、衛士四百十六人。左都候は員吏二十八人、衛士三百八十三人。」蔡質の漢儀にいう。「宮中で劾奏の罪ある者は、左都候が戟を持ち、戯車で縛し、詔獄に付して送る。官の大小に応じてそれぞれ所属に付す。馬の皮で覆う。尚書令、尚書僕射、尚書を見れば皆、板を持って拝し、丞、郎を見れば皆、揖する。」〉

それぞれ丞が一人ずついる。

宮掖の諸門の司馬

宮掖門には、各門に司馬が一人ずつおり、比千石である。

本注にいう。南宮の南屯司馬は、平城門を主管する。〈漢官にいう。「員吏九人、衛士百二人。」古今注にいう。建武十三年九月、初めてこの門を開いた。〉

宮門の蒼龍司馬は、東門を主管する。〈案ずるに、雒陽の宮門名は蒼龍闕門という。漢官にいう。「員吏六人、衛士四十人。」〉

玄武司馬は、玄武門を主管する。〈漢官にいう。「員吏二人、衛士三十八人。」〉

北屯司馬は、北門を主管する。〈漢官にいう。「員吏二人、衛士三十八人。」〉

北宮の朱爵司馬は、南掖門を主管する。〈漢官にいう。「員吏四人、衛士百二十四人。」古今注にいう。「永平二年十一月、初めて北宮の朱爵南司馬門を作った。」〉

東明司馬は、東門を主管する。〈漢官にいう。「員吏十三人、衛士百八十人。」〉

朔平司馬は、北門を主管する。〈漢官にいう。「員吏五人、衛士百一十七人。」〉

合わせて七門である。〈漢官にいう。「すべての員吏は皆、隊長と佐である。」〉

宮中に居住する者はすべて、所属する門に口籍がある。宮名の二あざなを、鉄印の文符とし、符を照合してから中に入れる。〈胡広がいう。「符は木を用い、長さ二寸、鉄印でこれに符する。」〉

もし外部の者が用事で入るべき場合は、本来の官の長史が封[C97D]伝を作成する。官位がある者は、出入りの際に御者にその官位を言わせる。

右は衛尉に属する。

本注にいう。中興の時に旅賁令を省き、衛士一人の丞とした。〈漢官目録にいう。「右の三卿は、太尉の管轄である。」〉

太僕

太僕には、卿が一人おり、中二千石である。

本注によると、車馬を掌る。天子が外出するたびに、鹵簿の車駕を奏上し、大駕を用いる際には御を執る。〈漢官によると、「員吏は七十人で、そのうち七人は四科、一人は二百石、文学八人は百石、六人は斗食、七人は佐、六人は騎吏、三人は仮佐、三十一人は学事、一人は官医である。」〉

丞が一人おり、比千石である。

考工令

考工令が一人おり、六百石である。

本注によると、兵器、弓弩、刀鎧などの製作を主管し、完成すると執金吾に伝えて武庫に入れさせ、また綬や諸雑工の織りを主管する。〈漢官によると、「員吏は百九人である。」〉

左右丞がそれぞれ一人いる。

車府令

車府令が一人おり、六百石である。

本注によると、乗輿および諸車を主管する。〈漢官によると、「員吏は二十四人である。」〉

丞が一人いる。

未央廄令

未央廄令が一人おり、六百石である。

本注によると、乗輿および廄中の諸馬を主管する。〈漢官によると、「員吏は七十人、卒騶は二十人である。」〉

長楽廐丞一人。〈漢官曰によると、「員吏十五人、率騶二十人。苜蓿菀官田所一人がこれを守る。」〉

右は太僕に属する。

本注曰く、旧来は六廐があり、いずれも六百石の令であった。〈前書によると、大廄・未央・家馬の三令があり、各五丞一尉。また車府・路軨・騎馬・駿馬の四令丞があった。晉灼曰く、「六廐の名なり、主として馬万匹を管轄す。」〉

中興の際に簡素化し、ただ一廐を置いたのみ。後に左駿令・廐を置き、別に乗輿御馬を主管したが、後には時に合併・廃止された。また牧師範があり、いずれも令官で、馬の飼育を主管し、河西六郡の境界内に分置されていたが、中興の際に全て廃止された。ただ漢陽に流馬菀があり、羽林郎が監領するのみであった。〈古今注によると、「漢安元年七月、承華廄令を置き、秩六百石。」〉

廷尉

廷尉、卿一人、中二千石。〈應劭曰く、「兵と獄は同じ制度であるため、廷尉と称す。」〉

本注曰く、獄を公平に裁き、応じるべき判決を上奏することを掌る。凡そ郡国が疑わしい罪を評議する場合、全て判決を下して報告する。〈胡廣曰く、「讞は質すことなり。」漢官曰く、「員吏百四十人、そのうち十一人は四科、十六人は二百石の廷吏、文学十六人は百石、十三人は獄史、二十七人は佐、二十六人は騎吏、三十人は仮佐、一人は官医。」〉

正、左監各一人。〈前漢には左右監平があったが、世祖は右を廃止し、なお左と称した。〉

左平一人、六百石。

本注曰く、詔獄を公平に判決することを掌る。

右は廷尉に属する。

本注曰く、孝武帝以降、中都官獄二十六所を置き、各々令長を名乗ったが、世祖の中興時に全て廃止され、ただ廷尉及び雒陽に詔獄があるのみとなった。〈蔡質漢儀によると、「正月の朝、百官が朝賀する際、光祿勳劉嘉、廷尉趙世がそれぞれ朝賀できないと辞退した。高賜が上奏して言うには、『皆、重病に苦しめられ、文武の官位を空しくし、上卿の補佐を欠いている。忠信断金の用が無いばかりか、礼を破り教化を傷つける過ちがあり、謹まず敬わない。廷尉に劉嘉の罪を治めさせ、河南尹に趙世の罪を治めさせてください。』議すると、趙世は廷尉を掌っていたため、他の官に転属させた。」〉

大鴻臚

大鴻臚、卿一人、中二千石。〈周禮の「象胥」である。干寶注によると、今の鴻臚にあたる。〉

本注曰く、諸侯及び四方の帰順した蛮夷を掌る。郊廟での礼儀行事においては、導き補佐し、行事を請い、許可されれば、群司に命じる。諸王が入朝する際は、郊外で出迎え、その礼儀を司る。また郡国の上計や、四方からの来朝もこれに属する。〈漢官曰く、「員吏五十五人、そのうち六人は四科、二人は二百石、文学六人は百石、一人は斗食、十四人は佐、六人は騎吏、十五人は学事、五人は官医。」永元十年、大匠應順が上言した。「百郡の計吏が国の光を観るのに、逆旅(公の宿舎)を利用せず、私館で不便を強いられ、ただ衣類を詰めた荷物は朽ちて露わになり、朝会の場所は遠く、事が整わない。昔、晋は覇国盟主に過ぎなかったが、諸侯を隷人の宿舎に泊めたことを、子産は大いに非難した。ましてや今、四海が広大であるのに、どうして(公舎が)無くてよいだろうか。」和帝はその言葉を嘉納し、すぐにこれを創設した。〉

皇子が王に封ぜられる際には、印綬を授ける儀礼を執り行う。また諸侯や諸侯の嗣子、および四方の夷狄で封を受ける者を拝する時は、台の下で鴻臚が召して拝礼させる。王が薨去した時には使者を遣わして弔問し、また王の嗣子を拝する。

丞一人。秩禄は千石に比する。

大行令

大行令一人、六百石。

本注に曰く:諸郎を主管する。〈漢官に曰く:「員吏四十人。」〉

丞一人。治礼郎四十七人。〈漢官に曰く:「そのうち四人は四科、五人二百石、文学五人百石、九人斗食、六人佐、六人学事、十二人守学事。」東観書に曰く:「斎祠と賓客の九賓に対する礼賛を主管する。また公室があり、中都官の斗食以下の者を調べ、功績の順序に従って補任する。」盧植の礼注に曰く:「大行郎も謁者の如く、容貌を兼ねて挙げる。」〉

右は大鴻臚に属する。

本注に曰く:秦を承けて典属国があり、別に四方夷狄の朝貢と侍子を主管したが、成帝の時に廃止され大鴻臚に併合された。中興して驛官と別火の二令・丞を省く。〈如淳曰:「漢儀注に:『別火は獄令官で、主に改火の事を治める。』」〉

及び郡邸長・丞を省き、ただ郎に郡邸を治めさせる。〈漢官目録に曰く:「右の三官は、司徒の管轄する所である。」〉