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後漢書
巻一百十四・百官一 太傅 太尉 司徒 司空 將軍
漢王朝が初めて興った時は、大きな混乱を引き継ぎ、兵は収まらず、法制度は粗雑に作られ、大まかに秦の制度に依拠し、後継者はそれを踏襲した。景帝の時に至り、呉楚の乱の難を感じて、初めて諸侯王を抑制し削減した。武帝の時に至ると、多くを改変したが、しかし奢侈が広がり、民の用は乏しくなった。世祖(光武帝)が中興すると、節約に努め、官を統合し職を削減し、費用を億単位で削減した。それによって残された欠陥を補い回復させ、自身の代では改めなかったが、四海は風に従い、中国は安楽となった。
昔、周公が周官を作り、職分を分けて明らかにし、法制度が互いに支え合い、王室は衰微したが、それでも長く存続できた。今その遺された書物によって、周王室が民を治める徳が既に至ったことを観察でき、また将来の事柄に有益な規範として、おそらくまだ尽きるところがない。それ故に新汲県令の王隆が『小学・漢官篇』を作ったが、諸々の文章や説は、大まかで究明されていない。(案:胡広が王隆のこの篇に注し、その論の注に曰く:「以前の安帝の時、越騎校尉の劉千秋が東観で校書し、好事家の樊長孫が彼に書を送って言った:『漢王朝の礼儀は、叔孫通らが草創し、皆律令に従って理官にあり、机の棚に蔵され、記録する者がなく、長く二代の業績を暗くして顕わにしない。誠に撰述し、周礼に擬えて、地位を定め職分を分け、それぞれ条理と秩序を持たせ、人が愚かであれ賢かであれ、朝廷に入っても迷わないようにすべきである。君は公族の元老として、正にその任に当たるべきであり、どうしてやめることができようか!』劉君はその言葉を大いに然りとし、同郷の通人である郎中の張平子と参議したが未だ定まらず、劉君は宗正・衛尉に転任し、平子は尚書郎・太史令となり、それぞれその職務に専念し、顧みる暇がなかった。順帝の時に至り、平子は侍中として典校書を務め、ようやく周官の解説を作り、漸次に漢の事柄を述べようとしたが、再び河間の相に遷任したため、遂に立てることができなかった。述作の功は、ただ容易ではない。既にこの言葉に感じ、故新汲県令の王文山の『小学』にある『漢官篇』を見ると、大まかに公卿の内外の職務を述べ、傍ら四夷に及び、博物で条理が通じ、多くを発明しており、旧来の制度と儀礼の品等を知るに足る。およそ法には完成しやすいものがあり、道には因襲と革新がある。それ故に、ここに集めるべきものを集め、詁解を作り、それぞれその下に付け、後続の事柄を綴り続け、世に行わせ、その主旨を明らかにし、前後の憤りと満ち溢れる思いを広め、来たるべき哲人の多聞の覧に増し助けとしたい。」)ただ班固が『百官公卿表』を著し、漢が秦を承けて官を設置した経緯を記し、王莽に至るまで、大まかに条理がある。しかしそれは皆、孝武帝の奢侈広大な事柄であり、また職分が詳らかでない。世祖の節約の制度は、常法とすべきである。それ故にその官簿に依拠し、大まかに職分を注記して、『百官志』とする。(臣の昭が曰く:本志は既に久しくこの注は百官簿である。今、昭はまた異同を採り、共に細字とし、もし互いに重複するならば、兼ねて本注を注すべきであり、特に分けて明らかにする必要がある。それ故に、凡そ旧注は全て大書とし、「本注曰」と称して、その異なることを表す。)凡そ官を置く根本、及び中興によって省かれたもので、再び見る機会のないものは、既に『漢書・百官表』にあるので、全てを記載しない。
上公一人。(『大戴記』に曰く:「傅は、傅(教え導く)の徳義である。」応劭の『漢官儀』に曰く:「傅は、覆(覆う)である。」賈生が曰く:「天子が先聖の徳を理解せず、君民の道を知らず、礼義の正しさを見ず、詩書に宗とせず、学業が法に則らず、これは太師の責務である。古くは斉の太公がその職にあった。天子が庶民に恵みを施さず、大臣に礼を尽くさず、訴訟の裁決が当を得ず、百官に経(常道)がなく、喪に哀しまず、祭りを敬わず、斎戒を戒めず、事を信じず、これは太傅の責務である。古くは周公がその職にあった。天子が地位に居て端直でなく、学業を受けて敬わず、言葉が整わず、音声が中らず、進退昇降が礼によらず、俯仰周旋に節度がない、これは太保の責務である。古くは燕の召公がその職にあった。天子が学業を怠ってその学に反し、左右の者がその師を欺き、諸侯に答え、大臣に遇して、文雅の辞を知らず、自分の言葉が適切かどうか、簡略に聞き少し誦するだけで、広くなく習熟しない、これは少師の責務である。天子が居処出入に礼によらず、衣服冠帯に制によらず、御器を側に列ねるに度によらず、采服を従えて好むに章(模様・規則)によらず、忿悦が義によらず、与奪が節度によらず、これは少傅の責務である。天子が居処して私的に安らぎ、易く、楽しみ耽り、飲食が時によらず、酔飽に節度がなく、寝起きが早晩定まらず、玩好の器弄に制がなく、これは少保の責務である。これは古の天子が自ら輔弼する礼であり、自ら天子となって賢智がこれを維持する。故に慮りに失策がなく、挙げるに過ちがなく、終身中るを得る。」)本注曰:善をもって導くことを掌り、常の職務はない。世祖は卓茂を太傅としたが、彼が薨去すると、それに因って省いた。その後、毎帝が初めて即位する時、常に太傅を置いて尚書事を録させ、薨去すると、常に省いた。(胡広の注に曰く:「猶、古の冢宰が己を総べるの義である。」案:霊帝の初め、陳蕃を太傅とし、陳蕃が誅殺された後、胡広が代わり、初めて一人に止まらなくなった。董卓が長安にいた時、また自ら尊んで太師とし、位は太傅の上にあった。応劭の『漢官儀』に曰く:「太師は古い官である。平帝元年、孔光が太傅として見え、詔を授かり、太師は朝せず、十日に一度食事を賜り、霊寿杖を賜り、省中に座を設け机を置いた。太師が省中に入る時は杖を用い、これ以来欠けている。」また『漢官』に云う:「太傅長史一人、秩千石、掾属二十四人、令史・御属二十二人。」荀綽の『晋百官表注』に曰く:「漢の太傅は掾属十人、御属一人、令史十二人を置き、長史を置く。漢とは異なる。」)
公一人。(応劭曰:「上から下を安んずることを尉といい、武官は皆これをもって称する。」『前書』に「秦の官」とあり、鄭玄の月令注にも「秦の官」とある。『尚書・中候』に舜が太尉であったと云い、束晳は秦の官ではないと根拠として、これをもって鄭玄を難じた。臣の昭が曰く:緯候の衆書は、神怪を貴び宗とし、出没隠顕し、動きに誕怪を挟む。陰陽を該核し、微かな起伏を迎え、あるいは先の徴兆があり、時に後に験証される。故に守り寄せて構想し、雑称して補佐を明らかにし、通儒は好み、時に文の滞りを略す。公輸、益州は、張衡の詰問に具にある。口無き漢の輔は、尹敏の諷諫に炳である。図讖は紛れ偽り、その俗は多い。太尉の官は実は天を司り、虞舜が宰となり、璇衡(天文の器)で政を賦した。これは後の位をもって前のことを書いたものであり、唐の官の実号であろうか?太尉の職掌することは、即ち舜の掌ったことであり、遂に同じ職掌をもって太尉を追称したのは、中候の妄りであり、およそ官としての誤りではない。康成(鄭玄)は淵博であるが、自ら中候に注し、礼を注するまで裁断して舜の位を忘れた。豈にそれが実であろうか!これは中候に譏りを発せず、月令によって正したのである。広微(束晳)の誚りは、碩いな意を探っていない。『説苑』に曰く「堯の時に当たり、舜は司徒であった」。『新論』に曰く「昔、堯が大麓で試した者は、天子の事を領録し、今の尚書官のようである」。『古史考』に曰く「舜は百揆に居り、百事を総領した」。説く者は百揆を堯の初めに別に置き、周で更に冢宰と名付けたとする。斯れ其の然りである。)
長史一人、千石。(盧植の礼注に曰く:「周の小宰のようである。」)
掾史属は二十四人。本注に言う。《漢旧注》によれば、東西曹掾は四百石に相当し、その他の掾は三百石に相当し、属は二百石に相当する。故に公府掾と呼び、古代の元士の三命に相当するものである。あるいは言う、漢初には掾史を辟召する際、皆上奏して言上したため、秩禄が命士に相当するものがあった。それについて言及しないものは、百石の属となった。その後は皆自ら辟除するようになったため、一律に百石となったという。(《漢書音義》に言う:「正を掾とし、副を属とする。」)西曹は府史の任用を主管する。東曹は二千石の長吏の昇進・除授および軍吏を主管する。戸曹は民戸・祠祀・農桑を主管する。奏曹は奏議事を主管する。辞曹は訴訟事を主管する。法曹は郵駅の行程・期限に関する事を主管する。尉曹は兵卒・労役者の輸送・運搬事を主管する。賊曹は盗賊事を主管する。決曹は罪法事を主管する。兵曹は軍事を主管する。金曹は貨幣・塩・鉄事を主管する。倉曹は倉穀事を主管する。黄閤主簿は諸事の記録・省察を主管する。(応劭《漢官儀》に言う:「世祖(光武帝)は詔して言った、『今の選挙は、賢者と佞者が朱紫(正邪)混同して用いられている。丞相の故事によれば、四科によって士を取る。第一は德行が高妙で、志節が清白な者。第二は学問に通じ行いを修め、経書に通じて博士となるに足る者。第三は法令に明達し、疑いを決するに足り、章奏を審査して問い直すことができ、文中の御史となるに足る者。第四は剛毅で謀略に富み、事に遭っても惑わず、明察をもって決断し、その才が三輔の令に任じられる者。いずれも孝悌・廉潔・公正の行いを持つこと。今以後、四科による辟召、および刺史・二千石が茂才・尤異・孝廉の吏を察挙する際は、必ず実情を厳しく審査し、県邑において英俊・賢行・廉潔・平端な者を選択し、必ず職務を与えて試用すること。もしその人に非ざる者、上計の際に官署を訪れ、官事に習熟せず、文書が端正でなく、詔書の意に沿わない場合は、有司が罪名を奏上し、併せて推挙者を糾弾する。』また旧来の河堤謁者は、世祖が三府の掾属を以て謁者としこれを統率させ、御史中丞・刺史に昇進させ、あるいは小郡の太守とした。黎陽の監察謁者は、世祖が幽州・并州の兵騎をもって天下を平定したため、黎陽に営を立て、謁者をもってこれを監督させ、兵騎千人を置き、その免除は非常に重かった。謁者は任務が軽く、多くが勝手気ままな振る舞いをしたため、順帝は公府から解かれた掾で清名があり威厳の重い者を用いるように改め、牧守に昇進させた。」《漢官目録》に言う:「建武十二年八月乙未の詔書、三公は茂才を各一人、廉吏を各二人挙げよ。光禄は毎年茂才四行を各一人、廉吏を三人挙げよ。中二千石は毎年廉吏を各一人、廷尉・大司農は各二人挙げよ。将兵将軍は毎年廉吏を各二人挙げよ。監察御史・司隷・州牧は毎年茂才を各一人挙げよ。」)
令史および御属は二十三人。本注に言う:《漢旧注》によれば公の令史は百石であるが、中興以後は、注に石数を説かない。御属は公のために御することを主管する。(荀綽《晋百官表注》に言う:「御属は録事の如し。」)閤下令史は閤下の威儀事を主管する。記室令史は上章・表・報・書記を主管する。門令史は府門を主管する。その他の令史は、各々曹の文書を司る。(応劭《漢官儀》には官騎三十人がいるとある。)
公一人。(孔安国が言う:「徒衆を主管し、礼義を以て教える。」)本注に言う:人民の事を掌る。凡そ民に孝悌・遜順・謙儉、養生送死の事を教えるにあたり、その制度を議し、その法度を建てる。凡そ四方の民事の功課は、年末にその殿最を奏上し賞罰を行う。凡そ郊祀の事では、犠牲を省察し洗浄を見守り、大喪では梓宮を奉安することを掌る。凡そ国に大疑・大事がある時は、太尉と同様に関与する。世祖が即位すると、大司徒となった。(《漢官儀》に言う:「王莽の時、漢には司徒の官がないと議し、故に三公の号を大司馬・大司徒・大司空と定めた。世祖が即位し、これを改めずに踏襲した。」蔡質《漢儀》に言う:「司徒府は蒼龍闕と向かい合い、尊者を畏れて、敢えて府と号さない。」応劭が言う:「これはそうではない。丞相の旧位は長安にあった時、府には四つの出門があり、時宜に応じて政務を聴いた。明帝は本来これに倣おうとしたが、太尉・司空に迫られ、ただ東西の門だけとなった。国に大議がある毎に、天子の車駕が自らその殿に臨幸する。殿の西には王侯以下が更衣し併せて控える。毎年、州郡が長吏の善悪を聴取し採録し、民の疾苦を、条奏として還す。これが所謂挙謡言である。近頃挙謡言する際は、掾属令史が皆殿上に会し、主管者が大声で某州郡の行状はどうであるかと言い、善い者は同声でこれを称え、善くない者は各々枚を銜えて黙する。大体は皆無名無勢の者を取るが、その中には愛憎による微かな裁断や黜陟の闇昧なものもある。若し中山の祝恬の如きは、周・召の列に践み、枢軸に処して中に在りながら、謇諤の節を忘れ、首尾を憚る譏りを恐れ、嚢を懸けて掴み取るも、清澄にすることができず、申屠が須を責めて鄧通を糾弾し、王嘉が詔書を封じて返上したこととは、遥かに遠いものである!」周礼に外朝があり、干宝の注に言う:「礼によれば、司徒府中には百官朝会殿があり、天子と丞相が大事を決する。これは外朝の存するものである。」)建武二十七年、「大」の字を除いた。(《漢旧儀》に言う:「哀帝元寿二年、丞相を大司徒とした。郡国の守・長・史上計の事が終わると、公を遣わして庭に出し、上(皇帝)自ら百姓の疾苦を問う。記室掾史一人が大声で勅を読み終え、勅を遣わして言う、『詔書殿下、吏に苛暴を禁ず。丞史は帰って二千石に告げ、民の疾苦に順え。急ぎ残賊を去り、良吏を審択し、苛酷な者を任用するな。獄を治め訟を決するには、務めて中を得よ。明詔は百姓が衣食に困窮することを憂い、二千石は農桑を帥いて勧め、厚恩に称うよう思い、これを賑贍する方法を以てし、民の時を煩わしく撓奪するな。今日公卿以下は、務めて儉恪を飾り、奢侈が制度を過ぎて甚だしくなることを益すな。二千石は身を以て帥い、これを化する方法を以てせよ。民で冗食する者は謹んで法を以てし、疾病を養い視て、医薬を致して務めてこれを治めよ。詔書は厨養を飾るなと言うが、今に至るも変らず、また更に過度で、甚だ称わず。帰って二千石に告げ、務めて省約して法の如くせよ。且つ改めない者を案じ、長吏に聞かせよ。官寺・郷亭が漏れ敗れ、牆垣が陥壊して治めず、弁護する者なきは、任に勝えず、先ず自ら劾して法に応ぜざるを告げよ。帰って二千石に告げて聴かせよ。』十年、更めて相国と名付けた。」案ずるに《献帝起居注》では、董卓が自ら太尉より進んで相国となり、司徒は省かれなかった。建安の末に至り、曹公が丞相となり、郗慮が御史大夫となると、三公の官を廃止した。荀綽《晋百官表注》に言う:「漢の丞相府の門には蘭がなく、鈴を設けず、警鼓を設けず、その深大闊遠で節限なきを言う。」)
長史一人、千石。掾属三十一人。(《漢官目録》には三十人とある。)令史および御属三十六人。
(馬融の注釈によると、「城郭の営造を掌り、司空の職として土地を管理し、人民を居住させる」という。)本注によると、水土の事を掌る。すべて城を営み邑を起こし、溝や洫を浚い、堤防を修築する事があれば、その利益を議論し、その功績を立てる。四方の水土に関する功課は、年末にその殿最を上奏し、賞罰を行う。すべて郊祀の事があれば、掃除と楽器を掌り、大喪があれば将校を率いて土を盛り返す。国に大事な造営や重大な疑義があれば、諫争し、太尉と同じとする。(《韓詩外伝》によると、「三公が得るものは何か。司馬、司空、司徒である。司馬は天を主とし、司空は土を主とし、司徒は人を主とする。故に陰陽が和せず、四時が節を失い、星辰が度を失い、災変が常ならざる時は、司馬を責める。山陵が崩れ、川谷が通じず、五穀が植わらず、草木が茂らない時は、司空を責める。君臣が正しくなく、人道が和せず、国に盗賊が多く、民が上を怨む時は、司徒を責める。故に三公はその職を司り、その分を憂い、その弁を挙げ、その得る所を明らかにする。これを三公の事という。」)世祖が即位すると、大司空となった。(応劭の《漢官儀》によると、「綏和元年、御史大夫の官を廃し、周の制度に倣い、初めて司空を置いた。議者はまた県道の官の獄司空があるため、重ねて『大』を加え、大司空とし、大小の文を区別するためでもあった。」)建武二十七年、「大」を除いた。(《漢旧儀》によると、「御史大夫が上計の丞・長史に勅して言う、『詔書殿下が郡国に布告する。臣下が宣べ承けるに無状で、多く究めず、百姓が恩に蒙り化されない。守・長史が郡に到着したら、二千石と力を合わせて民のために利を興し害を除き、必ずこれを安んずる方策を講じ、詔書に称えよ。郡国に茂才で顕れない者がいれば上言せよ。民を害し貪汚煩擾する吏は、百姓の苦しむ所であり、必ず任用するな。方々を察して不適任な者は、刑罰は必ず中を得るようにし、悪を憎むのはその身に止めよ。選挙で民が奢侈過度ならば、必ずこれを化する方策を講じよ。今年の善悪は往年と比べてどうかと問えば、答上せよ。今年の盗賊は往年と比べてどうか、群輩の大賊はないかと問えば、答上せよ。』」臣昭が案ずるに、献帝建安十三年、また司空を廃し、御史大夫を置いた。御史大夫は郗慮であり、慮が免官された後、補任されなかった。荀綽の《晋百官表注》によると、「献帝が御史大夫を置き、職は司空の如く、侍御史を領さなかった。」)
属官として長史一人、千石。掾属二十九人。(《漢官目録》には二十四人とある。)令史および御属四十二人。
常置ではない。
初め、武帝は衛青が数度征伐して功績があったため、これを大將軍とし、尊寵しようとした。古代の尊官には三公しかなく、皆將軍であった。秦・晋に始まり、卿の号とした。故に大司馬の官号を置いてこれを冠した。その後、霍光・王鳳らも皆そうであった。成帝の綏和元年、大司馬に印綬を賜い、將軍の官を廃した。世祖の中興の時、呉漢が大將軍として大司馬となり、景丹が驃騎大將軍となり、位は公の下にあり、また前・後・左・右の雑号將軍が多く、皆征伐を主とし、事が終われば皆罷免された。(《魏略》によると、「曹公が都護軍中尉を置き、護軍將軍を置いたが、これも皆比二千石で、軍が帰還すると共に罷免された。」)明帝が初めて即位した時、弟の東平王蒼に賢才があるため、これを驃騎將軍とした。王であるため、位は公の上にあり、数年後に罷免された。章帝が即位した時、西羌が反乱したため、舅の馬防を行車騎將軍としてこれを征伐させ、帰還後に罷免した。和帝が即位した時、舅の竇憲を車騎將軍とし、匈奴を征伐させ、位は公の下にあった。帰還後また功績があり、大將軍に昇進し、位は公の上にあった。また西羌を征伐し、帰還後免官され、罷免された。安帝が即位した時、西羌が寇乱したため、また舅の鄧隲を車騎將軍としてこれを征伐させ、帰還後大將軍に昇進し、位は竇憲の如く、数年後にまた罷免された。安帝の時から政治が衰え欠けるようになり、初めて嫡舅の耿寶を大將軍とし、常に京都にいた。順帝が即位した時、また皇后の父・兄・弟が相継いで大將軍となり、三公の如くであった。(〈梁冀別伝〉によると、「元嘉二年、また冀に礼儀を加えた。大將軍が朝する時、端門もしくは龍門に到着すると、謁者が導く。掾属・舍人・令史・官騎・鼓吹をそれぞれ十人増やした。」)
長史・司馬はそれぞれ一人、千石。(《東観書》によると、「竇憲が大將軍となった時、長史・司馬の員吏官属を置き、位は太傅の次であった。」)
その軍を率いる者には皆部曲がある。大將軍の営は五部からなり、部には校尉一人、比二千石。軍司馬一人、比千石。部下には曲があり、曲には軍候一人、比六百石。曲の下には屯があり、屯長一人、比二百石。校尉を置かない部は、ただ軍司馬一人のみである。また軍仮司馬・仮候があり、皆副貳である。別の営を領属する者は別部司馬となり、その兵の多少はそれぞれ時宜による。門には門候がある。その他の將軍は、征伐のために置かれ、定員はなく、また部曲・司馬・軍候を置いて兵を率いる。その職吏部集は各一人、営の事を総べて知る。兵曹掾史は兵事と器械を主る。稟仮掾史は稟給と仮貸、禁制を司る。また外刺・刺姫を置き、罪法を主る。
明帝が初めて度遼將軍を置き、南単于の衆で新たに降伏し二心ある者を衛るためであった。後に数度不安があったため、遂に常守となった。(応劭の《漢官儀》によると、「度遼將軍は、孝武皇帝が初めて范明友を用いた。明帝の永平八年、行度遼將軍事とした。安帝の元初元年、真の官を置いた。銀印青綬、秩二千石。長史・司馬は六百石。」東観書には司馬二人とある。)