漢中、巴郡、広漢、蜀郡、犍為、牂牁、越巂、益州、永昌、広漢属国、蜀郡属国、犍為属国―益州
隴西、漢陽、武都、金城、安定、北地、武威、張掖、酒泉、敦煌、張掖属国、張掖居延属国―涼州
上党、太原、上郡、西河、五原、雲中、定襄、雁門、朔方―并州
涿郡、広陽、代郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、玄菟、楽浪、遼東属国―幽州
南海、蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、日南―交州
益州
◎ 漢中郡は秦により設置された。洛陽の西千九百九十里。九つの城、戸数五万七千三百四十四、人口二十六万七千四百二。
南鄭
成固 媯墟が西北にある。
西城
襃中
沔陽 鉄がある。
安陽
錫 錫があり、春秋の時は錫穴といった。
上庸は本来、庸国であった。
房陵
巴陵郡は秦により設置された。洛陽から西へ三千七百里。十四城を管轄し、戸数三十一万六百九十一、人口百八万六千四十九。
江州
宕渠には鉄がある。
朐忍
閬中
魚復には扞水があり、扞関がある。
臨江
枳
涪陵からは丹砂が産出する。
墊江
安漢
平都
宣漢県
◎ 広漢郡 高祖の時代に設置された。洛陽から西へ三千三百里。十一の城、戸数十三万九千八百六十五、人口五十万九千四百三十八。
雒県 刺史の治所。
新都県
綿竹県
什邡県
涪県
梓潼県
白水県
葭萌県
郪県
広漢県 沈水がある。
徳陽県
◎ 蜀郡 秦の時代に設置された。洛陽から西へ三千一百里。十一の城、戸数三十万四百五十二、人口百三十五万四百七十六。
成都
郫
江原
繁
広都
臨邛には鉄がある。
湔氐道。岷山は西の辺境の外にある。
汶江道
八陵
広柔
綿虒道
◎ 犍為郡は武帝が設置した。洛陽から西へ三千二百七十里。劉璋が江陽郡を分離して設置した。九つの城、戸数十三万七千七百十三、人口四十一万一千三百七十八。
武陽には彭亡聚がある。
資中
牛鞞
南安県には魚涪津がある。
僰道県
江陽県
符節県
南広県
漢安県
牂牁郡は武帝が設置した。洛陽から西へ五千七百里。十六城、戸三万一千五百二十三、人口二十六万七千二百五十三。
故且蘭県
平夷県
鄨県
毋斂県
談指県は丹を産出する。
夜郎県は雄黄、雌黄を産出する。
同并県
談稾県
漏江
毋単
宛温
鐔封
漏臥
句町
進乗
西随
越巂郡は武帝が設置した。洛陽から四千八百里。十四城、戸数十三万百二十、人口六十二万三千四百十八。
邛都。南山から銅が出る。
遂久
霊関道
台登。鉄が出る。
青蛉。禺同山があり、俗に金馬碧鶏があるという。
卑水
三縫県
会無県は鉄を産出する。
定莋県
闡県
蘇示県
大莋県
莋秦県
姑復県
◎ 益州郡は武帝が設置した。かつての滇王国である。洛陽の西五千六百里にある。諸葛亮の上表文に耽文山、澤山、司彌瘞山、婁山、辟龍山があるとされるが、これらはいずれも所在する県が未詳である。十七城、戸二万九千三十六。人口十一万八百二。
滇池県は鉄を産出する。池沢がある。北に黒水祠がある。
勝休県
兪元県は装山が銅を産出する。
律高県は石室山が錫を産出する。[B428]町山が銀と鉛を産出する。
賁古県は采山が銅と錫を産出する。羊山が銀と鉛を産出する。
毋棳県
建伶
穀昌
牧靡
味
昆沢
同瀬
同労
双柏(銀を産出)
連然
梇棟
秦臧
◎ 永昌郡(明帝の永平12年に益州を分割して設置。洛陽の西七千二百六十里。八城、戸二十三万一千八百九十七、口百八十九万七千三百四十四)
不韋(鉄を産出)
巂唐
比蘇
楪榆
邪龍
雲南
哀牢:永平年間に設置。もとは牢王国であった。
博南:永平年間に設置。南の境界から金が産出する。
広漢属国はもと北部都尉で、広漢郡に属していたが、安帝の時に属国都尉とし、別に三城を管轄した。戸数三万七千百十、人口二十万五千六百五十二。
陰平道
甸氐道
剛氐道
厳道:邛僰九折坂という場所があり、邛の郵便駅が置かれている。
徙
旄牛
朱提県には、銀と銅を産出する山がある。
漢陽県
以上が益州刺史部で、郡と国は合わせて十二、県と道は合わせて百十八ある。
涼州
◎ 隴西郡は秦の時代に設置された。洛陽から西へ二千二百二十里。十一の城、戸数五千六百二十八、人口二万九千六百三十七。
狄道県
安故県
氐道県。養水がここから出る。
首陽県。鳥鼠同穴山があり、渭水が出る。
大夏県
襄武県。五鶏聚がある。
臨洮県。西頃山がある。
枹罕県。もとは金城郡に属した。
白石県。もとは金城郡に属した。
鄣県
河関県はもと金城郡に属した。積石山が西南にあり、黄河の水がここから出る。
漢陽郡は武帝が設置し、天水郡としたが、永元十七年に改名された。洛陽の西二千里にある。十三の城、戸数二万七千四百二十三、人口十三万百三十八。
冀県には朱圄山がある。緹群山がある。雒門聚がある。
望恒県。
阿陽県。
略陽県には街泉亭がある。
勇士県。
成紀県。
隴県は刺史の治所である。大坂があり、名を隴坻という。豲坻聚があり、秦亭がある。
豲道県。
蘭干県。
平襄県。
顕親県。
上邽県はもと隴西郡に属した。
西県はもと隴西郡に属した。嶓冢山があり、西漢水がある。
武都郡は武帝が設置した。洛陽の西一千九百六十里にある。七つの城、戸数二万一百二戸、人口八万一千七百二十八人。
下辨
武都道
上禄
故道
河池
沮県。沔水は東狼谷より出る。
羌道
金城郡は昭帝が設置した。洛陽の西二千八百里にある。十の城、戸数三千八百五十八戸、人口一万八千九百四十七人。
允吾
浩亹
令居
枝阳
金城
榆中
臨羌県には崑崙山がある。
破羌県
安夷県
允街県
安定郡は武帝が設置した。洛陽から西へ千七百里。八つの城、戸数六千九十四、人口二万九千六十。
臨涇県
朝那県
烏枝県には瓦亭があり、薄落谷が出る。
三水県
陰盤県
彭陽県
鶉觚県はもと北地郡に属した。
北地郡は秦が設置した。洛陽から西へ千一百里。六つの城、戸数三千一百二十二、人口一万八千六百三十七。
富平県
泥陽県には五柞亭がある。
弋居県には鉄がある。
廉県
参[�]県はかつて安定郡に属していた。
霊州県
武威郡はもと匈奴の休屠王の地であり、武帝が設置した。洛陽から西へ三千五百里。十四城、戸一万四十二、口三万四千二百二十六。
姑臧県
張掖県
武威県
休屠県
揟次県
鸞鳥県
朴[B459]県
媪囲県
宣威県
倉松
鶡陰はもと安定郡に属していた。
租厲はもと安定郡に属していた。
顕美はもと張掖郡に属していた。
左騎は千人官である。
張掖郡はもと匈奴の昆邪王の地で、武帝が設置した。洛陽から西へ四千二百里。献帝が分けて西郡を設置した。八城、戸六千五百五十二、口二万六千四十。
觻得
昭武
删丹には弱水が発する。
氐池
屋蘭
日勒
番和
酒泉郡は武帝が設置した。洛陽から西へ四千七百里。九城、戸一万二千七百六。
福禄
表氏
乐涫
玉门
会水
沙头
安弥(旧称は绥弥)
乾齐
延寿
敦煌郡は武帝が設置した。洛陽から西へ五千里。六つの城、戸数七百四十八、人口二万九千百七十。
敦煌(古くは瓜州。良質な瓜を産する)
冥安
效穀
拼泉
广至
龍勒には玉門関がある。
張掖属国は武帝が設置した属国都尉で、蛮夷の降伏者を主管する。安帝の時、別に五城を管轄した。戸四千六百五十六、人口一万六千九百五十二。
候官
左騎
千人
司馬官
千人官
張掖居延属国はかつての郡都尉で、安帝が別に一城を管轄した。戸一千五百六十、人口四千七百三十三。
居延には居延沢があり、古の流沙である。
以上が涼州刺史部で、郡十二、県・道・候官合わせて九十八。
并州
上党郡は秦が設置した。洛陽の北千五百里。十三城、戸二万六千二百二十二、人口十二万七千四百三。
長子
屯留には絳水が発する。
銅鞮
沾
涅には閼与の聚がある。
襄垣
壺関には黎亭があり、かつての黎国である。
泫氏には長平亭がある。
高都
潞はもとの国である。
猗氏
陽阿は侯国である。
穀遠
太原郡は秦により設置された。十六の城、三万九百二戸、二十万百二十四口。
晋陽はもとの唐国である。龍山があり、晋水がここから出る。刺史の治所。
界休には界山があり、綿上の聚がある。千畝の聚がある。
榆次には鑿壺がある。
中都
于離
茲氏
狼孟
鄔
盂
平陶
京陵(春秋時代の九京)
陽曲
大陵(鉄がある)
祁
慮虒
陽邑(箕城がある)
◎ 上郡(秦が設置した。十城、戸五千百六十九、人口二万八千五百九十九)
膚施
白土
漆垣
奢延
雕阴
桢林
定阳
高奴
龟兹属国
候官
西河郡は武帝の時に設置された。洛陽の北千二百里にある。十三の城、五千六百九十八戸、二万八百三十八人。
离石
平定
美稷
乐街
中阳
皋狼
平周
平陸
益蘭
圜陰
藺
圜陽
広衍
◎ 五原郡は秦が設置し九原としたが、武帝が改名した。十城、戸四千六百六十七、口二万二千九百五十七。
九原
五原
臨沃
文国
河陰
武都
宜梁
曼柏
成宜
西安陽の北に陰山がある。
雲中郡は秦により設置された。十一城、戸数五千三百五十一、人口二万六千四百三十。
雲中
咸陽
箕陵
沙陵
沙南
北輿
武泉
原陽
定襄(もと定襄郡に属した。)
成楽(もと定襄郡に属した。)
武進(もと定襄郡に属した。)
定襄郡は高帝の時代に設置された。五つの城があり、戸数三千百五十三戸、人口一万三千五百七十一人。
善無県はかつて雁門郡に属していた。
桐過県
武成県
駱県
中陵県はかつて雁門郡に属していた。
雁門郡は秦の時代に設置された。洛陽の北千五百里にある。十四の城があり、戸数三万一千八百六十二戸、人口二十四万九千人。
陰館県
繁畤県
楼煩県
武州県
汪陶県
劇陽県
崞県
平城県
埒
馬邑
鹵城はもと代郡に属した。
広武はもと太原に属した。夏屋山がある。
原平はもと太原に属した。
彊陰
◎ 朔方郡は武帝が設置した。六つの城、戸千九百八十七、口七千八百四十三。
臨戎
三封
朔方
沃野
広牧
大城はもと西河に属した。
右は并州刺史部に属し、郡九、県・邑・侯国九十八。
幽州
◎ 涿郡は高帝が設置した。洛陽の北東千八百里。七つの城、戸数十万二千二百十八、人口六十三万三千七百五十四。
〖涿〗
〖逎〗侯国。
〖故安〗易水が発し、雹水が発する。
〖范阳〗侯国。
〖良乡〗
〖北新城〗汾水門がある。
〖方城〗以前は広陽に属した。臨郷がある。督亢亭がある。
◎ 広陽郡は高帝が設置し、燕国とした。昭帝の時に郡と改称した。世祖(光武帝)の時に上谷に併合されたが、永元八年に復活した。五つの城、戸数四万四千五百五十、人口二十八万六百。
〖蓟〗本来は燕国。刺史の治所。
〖広陽〗
〖昌平〗以前は上谷に属した。
〖軍都〗以前は上谷に属した。
〖安次〗以前は勃海に属した。
◎ 代郡は秦が設置した。洛陽の北東二千五百里。十一の城、戸数二万百二十三、人口十二万六千百八十八。
高柳
桑乾
道人
当城
馬城
班氏
狋氏
北平邑(永元八年に復置)
東安陽
平舒
代
◎ 上谷郡(秦代に設置。洛陽の東北三千二百里。八城、戸数一万三百五十二、人口五万一千二百四)
沮陽
潘(永元十一年に復置)
甯
広寧
居庸
雊瞀
涿鹿
下落
漁陽郡は秦により設置された。洛陽の東北二千里にある。九つの城、戸数六万八千四百五十六、人口四十三万五千七百四十。
漁陽 鉄がある。
狐奴
潞
雍奴
泉州 鉄がある。
平谷
安楽
傂奚
犷平
右北平郡は秦の時代に設置された。洛陽の東北二千三百里にある。四つの城があり、戸数九千百七十、人口五万三千四百七十五。
土垠
徐无
俊靡
无终
遼西郡は秦の時代に設置された。洛陽の東北三千三百里にある。五つの城があり、戸数一万四千百五十、人口八万一千七百十四。
陽楽
海陽
令支。孤竹城がある。
肥如
臨渝
遼東郡は秦の時代に設置された。洛陽の東北三千六百里にある。十一の城があり、戸数六万四千百五十八、人口八万一千七百十四。
襄平
新昌
無慮
望平
候城
安市
平郭 鉄がある。
西安平
汶
番汗
沓氏
玄菟郡は武帝が設置した。洛陽の東北四千里。六つの城、戸数一千五百九十四、人口四万三千一百六十三。
高句驪 遼山があり、遼水がここから出る。
西蓋馬
上殷台
高顯 もと遼東郡に属した。
候城 もと遼東郡に属した。
遼陽 もと遼東郡に属した。
◎ 楽浪郡は武帝が設置した。洛陽の東北五千里にある。十八城、戸数六万一千四百九十二、人口二十五万七千五十。
朝鮮
𧦦邯
浿水
含資
占蟬
遂城
増地
帯方
駟望
海冥
列口
長岑
屯有
昭明
鏤方
提奚
渾彌
楽都
◎ 遼東属国はもと邯郷であり、西部都尉が置かれた。安帝の時に属国都尉とし、別に六城を管轄した。洛陽の東北三千二百六十里。
昌遼(もと天遼、遼西に属す)
賓徒(もと遼西に属す)
徒河(もと遼西に属す)
無慮(医無慮山がある)
険瀆
房
以上、幽州刺史部。郡・国十一、県・邑・侯国九十。
交州
◎ 南海郡は武帝が設置した。洛陽の南七千一百里。七城、戸七万一千四百七十七、口二十五万二百八十二。
番禺
博罗
中宿
龙川
四会
揭阳
増城県には労領山がある。
蒼梧郡は武帝が設置した。洛陽の南六千四百一十里にある。十一の城、戸数十一万一千三百九十五、人口四十六万六千九百七十五。
広信
謝沐
高要
封陽
臨賀
端渓
馮乗
富川
荔浦
猛陵
鄣平
郁林郡は秦の桂林郡であり、武帝が改名した。洛陽の南六千五百里にある。十一城。
布山
安広
阿林
広郁
中溜
桂林
潭中
臨塵
定周
増食
領方
合浦郡は武帝が設置した。洛陽の南九千一百九十一里にある。五つの城があり、戸数二万三千一百二十一、人口八万六千六百一十七。
合浦
徐聞
高涼
臨元
朱崖
交趾郡は武帝が設置した。すなわち安陽王国である。洛陽の南一万一千里にある。十二の城がある。
龍編
羸𨻻
安定
苟漏
麋泠
曲陽
北帯
稽徐
西于
朱[B42B]
封谿(建武十九年に設置)
望海(建武十九年に設置)
九真郡(武帝が設置。洛陽の南一万一千五百八十里。五つの城。戸数四万六千五百十三、人口二十万九千八百九十四)
胥浦
居風
咸懽
無功
無編
日南郡(秦の象郡。武帝が改名。洛陽の南一万三千四百里。五つの城。戸数一万八千二百六十三、人口十万六百七十六)
西巻
朱吾
盧容
象林
比景
右は交州刺史部に属し、郡は七、県は五十六。
史論
賛に曰く、衆が安んじて後に載せ、政治は区間に融和す。侯は罷められ守は列し、民に常の君無し。称号は遷り隔たり、封割は糾紛す。略して減益を存し、多くは前聞を証す。
校勘記
三五〇六頁八行「錫」、按ずるに、前志は「鍚」と作す。応劭は音は陽と曰う。王先謙補注は応劭は後漢の人で、当時なおこの県あり、応劭の音は必ず誤らず、作すは「鍚」を以て正とすべしと謂う。三五一六頁七行同じ。
三五〇六頁一二行「有唐公(防)〔房〕祠」、集解は銭大昕の説を引き、「防」は「房」と作すべしと謂い、漢人の隷書は「房」或いは「〈户方〉」と作り、因って訛って旁となる。今これに拠り改む。
三五〇六頁一四行「至于錫穴」、按ずるに、左伝は「錫」を「鍚」と作す。
三五〇七頁二行「趙穎分巴為二郡」、三国志劉焉伝は「趙穎」を「趙韙」と作す。張森楷校勘記は案ずるに沈約の引く譙周巴記の原文及び通鑑並びに「韙」と作す、「穎」の字誤りかと謂う。
三五〇七頁二行「故郡以墊江為治安漢以下為永寧郡」、按ずるに、銭大昕考異は案ずるに華陽国志、趙穎は建議して墊江以上を以て巴郡とし、安漢に治め、江州より臨江までを永寧郡とすと謂う。是れ安漢・墊江同じく巴郡の内に在り、而して安漢は且つ郡治たり。穎は安漢の人なれば、故に巴郡の名を安漢に移さんと欲す。この文は誤りあるに似たりと謂う。
三五〇七頁三行「劉(綽)〔璋〕分巴」、殿本に拠り改む。按ずるに、殿本にも「綽」と作すもの有り、故に考証斉召南は「劉綽」は「劉璋」と作すべしと謂い、璋は巴東・巴西の二郡を分かつ、蜀志に考うべしと謂う。
三五〇七頁八行「則膏(暉)〔澤〕鮮芳」、汲本・殿本に拠り改む。
三五〇七頁一〇行「山有大小石城(勢者)」、集解の引く恵棟の説に拠り削る。
三五〇七頁一二行 左傳文公十六年の記事は、殿本の考証に基づいて補った。
三五〇七頁一五行 枳県の南から入り、丹水と涪水を遡る。本来は楚の商於の地と接していた。殿本では「水」の上に「陵」の字があり、「與」の上に「本」の字がない。考証によると、齊召南は、析と丹水はともに県名であり、涪陵と接しているので、注は「枳県の南から入り、析・丹水・涪陵を経て、商於の地と接する」とあるべきだと述べている。「析」が「折」と誤写され、「丹涪陵水」と字が逆になったため、理解できなくなったという。今考えるに、集解が引用する馬與龍の説によれば、析・丹水の二県は南陽郡に属し、商於の地と接しているが、涪陵とは南北に遠く隔たっており、枳県の南から入ることもできない。また、商於は楚に属したことはない。今、華陽國志を調べると、涪陵は巴の南郡であり、枳県の南から入り、舟で涪水を遡り、秦の司馬錯がこれによって黔中を取ったとある。これに基づけば、注の「折」は「泝」に、「丹」は「舟」に、「商於」は「黔中」に改めるべきで、地理的状況に合致する。
三五〇七頁一五行 漢代の赤甲軍。集解が引用する惠棟の説によれば、「赤田」は華陽國志に従って「赤甲」とすべきである。今これに従って改める。
三五〇八頁 七行 刺史の治所。殿本考證の齊召南は、各州刺史の治所の例には「州」の字はなく、この「州」の字は衍字であると述べている。今これに従って削除する。
三五〇八頁 七行 什邡。前漢書地理志では「汁方」とあり、功臣表では「汁防」とあり、晉書地理志ではまた「什方」としており、諸本で一致しない。
三五〇八頁 九行 水は巴に通じる。集解が引用する惠棟の説によれば、華陽國志に「水は巴に通ず」とあり、注の「漢」の字は衍字である。今これに従って削除する。
三五〇九頁 二行 汶江道。前漢書地理志には「道」の字がない。
三五〇九頁 二行 八陵。集解が引用する錢大昕の説によれば、前漢書地理志には蠶陵があり八陵はなく、晉書地理志も「蠶陵」としている。また惠棟の説を引用すると、霊帝が汶江・蠶陵・広柔の三県を以て汶山郡を置いたので、「八陵」は「蠶陵」とすべきである。
三五〇九頁 二行 綿虒道。前漢書地理志には「道」の字がない。
三五一〇頁 一行 魚涪津がある。集解が引用する錢大昭の説によれば、「泣」は「涪」とすべきである。呉漢伝では、呉漢が公孫述の将である魏黨・公孫永と魚涪津で戦ったとあり、注に南安県にあり、北は大江に臨むとある。蜀都賦の注では「魚符津」としており、符と涪は音が近い。今これに従って改める。
三五一〇頁 二行 符節。集解が引用する錢大昕の説によれば、前漢書地理志には符県があり荷節県はなく、「荷」は「符」の誤写で、「節」の字が一つ衍字となっているのではないかと疑う。今考えるに、符節長の王士は蜀志楊戯伝に見え、東漢で符節と改名し、三国蜀もこれに因ったのであり、「節」の字は衍字ではない。荷と符は字形が近くて誤ったのである。今「荷」の字を改め、「節」の字は削除しない。
三五一〇頁 五行 県の南に五屼山があり、一つの山に五里あり、越巂郡の境界にある。集解が引用する惠棟の説によれば、今の蜀都賦の注に「一つの山に五重があり、県の南にある」とある。
三五一〇頁 九行 蜀王の兵蘭がある。集解が引用する惠棟の説によれば、江水注に「県に蜀王の兵蘭あり」とあり、蘭と闌は古字で通用する。今、惠説に従って補い改める。華陽國志にも「棘道に故蜀王の兵蘭あり」とある。
三五一〇頁 九行 李冰が焼いた崖は五色あり、赤白が水に映え玄黄である。「焼」の上に「所」の字が脱落しているのではないか。今の華陽國志には「その崖は嶃峻で鑿つことができず、そこで薪を積んで焼いたので、その場所の懸崖には赤白の五色がある」とある。また「李冰の焼いた崖には五色あり、赤白が水に映え玄黄である」ともある。
三五一〇頁一一行 方山の蘭祀がある。集解が引用する惠棟の説によれば、諸本は「山」の字を脱落させている。今これに従って補う。
三五一一頁一行 進乗 按:前志は「進桑」と作り、水経葉榆水注もまた「進桑」と作る。
三五一一頁二行 (沈)〔沅〕水有り 王先謙の説に拠りて改む。按:水経注に「沅水は牂牁且蘭県より出づ」。
三五一一頁八行 文衆水有り 按:王先謙は班志・酈注ともに「文象水」と作すと謂う。
三五一一頁九行 東は麋泠に至る 按:殿本・集解本は「麋」を「麊」と作す。
三五一一頁一二行 臺登 按:補注は何焯の説を引き、前志の臺登は応劭云う今は臺高と曰うとし、則ち「登」は「高」と作すべきなりと謂う。
三五一一頁一三行 三縫 前志は「三絳」と作す。按:華陽国志は「三縫」と作す。
三五一一頁一四行 闡 按:前志は「闌」と作す。補注王先謙は「闌」は続志及び華陽国志は「闡」と作すと謂い、案ずるに宋志沈黎郡は蘭県を領し、漢旧県は「闌」と作す、然らば則ち「闌」と作す是なりと謂う。
三五一一頁一六行 又た温水穴有り 按:集解は惠棟の説を引き、「温水」は一に「温泉」と作すと謂う。
三五一二頁六行 瀘を度りて〔蜻〕蛉県を得 集解は惠棟の説を引き、今の華陽国志は蜻蛉県と云うと謂う。今これに拠りて補う。
三五一二頁九行 (元)〔天〕馬河有り 集解は惠棟の説を引き、「元馬河」は華陽国志及び水経注は皆「天馬河」と作すと謂う。隷書の天字は元に似たる者有り、無極山碑に見ゆ。今これに拠りて改む、下同じ。
三五一二頁一〇行 今(其)に(元)〔天〕馬逕有り 集解は惠棟の説を引き、「其」の字は衍文なりと謂う。今これに拠りて削る。按:華陽国志に「其」の字無し。
三五一二頁一〇行 河中に銅船有り 校補は柳従辰の説を引き、華陽国志廖寅本は「船」を「胎」と作し、蓋し水経注の「胎銅」と作すに拠りて校改すと謂う。惟だ交州記に「越人は銅を鑄して船と為し、江潮退く時に在りて見ゆ」と有り、此の「銅船」は誤らずと似たり、故に惠氏の正誤も亦「船」の字に及ばず。黄山は下文の「取る可し」と言うに就きて言えば、似たる又た「船」と作すべからずと謂う。
三五一二頁一〇行 今は祠に在りて羊を以てす 按:惠棟補注は一に「今は羊を以て之を祠る」と作すと謂い、案ずるに下文又た「河中に見存す」と云う、文は重出すべからず、舛誤有るべしと謂う。
三五一二頁一〇行 河中に見(子)〔存〕す 惠棟補注は「子」の字誤ると謂い、今の華陽国志は「存」と作すと謂う。今これに拠りて改む。
三五一二頁一〇行 土地は特産として好(群)〔犀〕牛有り 惠棟補注は今の華陽国志に「土地は特産として犀牛有り」と云うと謂う。按:犀と群は形近くして訛る、今これに拠りて改む。
三五一三頁一行 勝休 注:恵棟の補注によると、沈約は「騰休」と作し、晋志は「滕休」と作すという。
三五一三頁一行 裝山 注:集解が引く恵棟の説によると、前志は「懷山」と作すという。
三五一三頁三行 (母掇)〔毋棳〕 前志に基づいて改める。注:殿本は「毋」と作し、誤りではない。また注:集解が引く銭大昕の説によると、説文では棳は木偏であり、これは手偏であるのは誤りで、前志も「棳」と作すという。
三五一三頁三行 牧靡 注:集解が引く恵棟の説によると、前志は「收靡」と作し、華陽国志は「升麻」と作し、良い升麻が出ると言い、晋書は「牧麻」と作す。靡と麻は古字で通じ、山海経に「寿麻之国」があり、呂覧は「寿靡」と作すのがこれである。また注:漢書補注が引く段玉裁の説によると、収・升・牧の三字は同じ音紐であるという。
三五一三頁三行 同瀨 注:前志は「銅瀨」と作す。
三五一三頁三行 梇棟 注:前志は「弄棟」と作す。
三五一三頁六行 (淮)〔惟〕有蝟 集解が引く恵棟の説によると、華陽国志に「山に石無く、惟だ蝟有り」とあり、「淮」は「惟」と作すべきであるという。今これに拠って改める。注:御覧九百十二が引く「惟有」は「而多」と作す。
三五一三頁七行 水東至(母掇)〔毋棳〕 前志に基づいて改める。詳細は前の「毋棳」条の校記による。
三五一三頁一三行 銅虜山米水所出 注:集解が引く銭大昕の説によると、前志は「談虜山、迷水所出」と云う。銅と談は音が近く、米は即ち迷である。県はおそらく山によって名を得たのであろう。瀨と虜の音もまた近い。
三五一三頁一五行 戸二十三万一千八百九十七 口百八十九万七千三百四十四 注:張森楷の校勘記によると、永昌は僻遠の郡であるが、戸口がこのように繁庶であり、かつ除法で計算すると、十戸あたり八十余口を超え、恒常的な比率を超えている。口数に誤りがあるのではないかと疑う。
三五一四頁二行 楪榆 注:前志は「葉榆」と作す。
三五一四頁六行 有(同)〔周〕水從徼外來 前志及び華陽国志に基づいて改める。注:王先謙は同と周は字形が近くて誤ったと言い、銭坫は今の怒江であると考える。
三五一四頁一二行 越〔山〕得蘭滄水 華陽国志に基づいて補う。
三五一四頁一四行 廣漢屬國(都尉) 集解が引く銭大昕の説に基づいて削除する。
三五一四頁一四行 属していたのは(蜀)〔広漢〕郡である。殿本考証の斉召南は、注の「蜀郡」は「広漢郡」の誤りであろうと述べている。陰平、甸氐、剛氐の三道は以前は広漢に属しており、陰平道はすなわち広漢北部都尉の治所であった。前漢書で証明できる。今これに従って改める。
三五一五頁 五行 邛僰九折阪というものがある。邛(刻)〔郵〕置がある。集解は恵棟の説を引いて、司馬相如伝の「厳道邛郵」、徐広の「厳道には邛僰九折阪があり、また邛郵がある」という記述を挙げている。「刻」は「郵」とすべきである。また洪頤烜の説を引いて、前漢書淮南厲王伝の注に、張晏が「邛郵は置の名である」と述べていることを挙げている。「刻」は「郵」の誤りである。今これに従って改める。
三五一五頁 七行 洙水がある。按ずるに、集解は恵棟の説を引いて、「洙水」は華陽国志では「沫水」と作っており、音は妹、また末と読むとしている。
三五一五頁 七行 邛から来て岷江に出る。按ずるに、校補は柳従辰の説を引いて、華陽国志では「来」を「崍」と作っているとしている。
三五一六頁 二行 堂狼山がある。按ずるに、集解は恵棟の説を引いて、華陽国志では「堂蜋山」と作っているとしている。
三五一六頁 六行 県道〔一〕百十八。汲本、殿本に従って補う。
三五一七頁 三行 本伝(県)馬防が索西城を築いた。殿本考証に従って削除する。
三五一七頁 六行 秦州記に曰く。按ずるに、「州」の原字は「川」であったが、汲本、殿本に従って直ちに改める。
三五一七頁 六行 すでに漢陽上郡を分けて永陽とした。按ずるに、集解は馬與龍の説を引いて、上郡と漢陽は地理的に懸け離れており、一緒に分郡とすることはできないので、この注には誤りがあるとしている。疑うに「上郡」は「上邽」の誤りであり、「已」字は「郡」字の誤りであろう。おそらく「漢陽上邽を分けて永陽郡とした」とすべきである。注に郷亭を属県としたとあるのを見れば、必ず県を郡としたことは明らかである。
三五一七頁 八行 雒門聚がある。按ずるに、集解は恵棟の説を引いて、来歙伝では「雒門」はすべて「落門」と作っており、県に落門山があるので名付けられたとしている。
三五一七頁 八行 望恒。按ずるに、前漢書地理志では「望垣」と作っている。ここで「望恒」と作っているのは、おそらく恒と垣が字形が近いために誤ったのであろう。
三五一七頁 八行 略陽。按ずるに、前漢書地理志では「略陽道」と作っている。
三五一七頁 九行 隴(州)。集解は恵棟の説を引いて、「州」字は衍字であるとしている。今これに従って削除する。
三五一七頁一五行 街(水)〔泉〕故県は廃止された。殿本考証に従って改める。
三五一八頁 三行 山東の人が行役でここに登り振り返って顧みる者は。按ずるに、「役」の原字は「投」と誤っていたが、直ちに改正する。
三五一八頁八行目:西は隴西の西にある〔之〕西。集解に引く恵棟の説により補う。
三五一八頁八行目:今これを(人)〔八〕充山という。汲本・殿本により改める。按ずるに、集解に引く恵棟の説によれば、「八充山」は一に「兌山」と作し、裴駰の史記注に見え、北宋本は「人充山」と作すは誤りという。
三五一八頁一〇行目:下辨。前志(漢書地理志)では「辨」の下に「道」の字がある。按ずるに、集解に引く恵棟の説によれば、洪适が云うに李翕碑の題名に下辨道長任詩があるから、志は一つの「道」の字を欠いているという。また按ずるに、本書光武紀は「下辯」と作す。辨と辯は古字通ず。
三五一八頁一〇行目:武都道。前志には「道」の字がない。按ずるに、「下辨道」を「下辨」とし、「武都」を「武都道」とするのは、上下書き誤った疑いがある。
三五一八頁一〇行目:沔水は東狼谷より出づ。集解に引く恵棟の説によれば、前志は「沮水」と云い、華陽国志は「河池水」と云うという。今按ずるに、水経注は「沔水一名沮水」とし、華陽国志が「河池水」とするのは誤り。
三五一八頁一一行目:羌道。按ずるに、前志では隴西に属す。集解に引く銭大昕の説によれば、下に「故に隴西に属す」の四字を脱しているという。
三五一八頁一三行目:天池澤あり。汲本・殿本は「天」を「大」と作す。按ずるに、廖刻華陽国志の顧校は「天池」は原訛で「天地」と謂う。また按ずるに、前志は「天地大澤」と云い、王先謙は即ち仇池であるという。
三五一八頁一四行目:(奴)〔怒〕特祠あり。集解に引く恵棟の説によれば、注の「奴特」は史記注及び魏文帝の列異伝に皆「怒特」と作すという。今これに拠り改む。
三五一九頁六行目:烏枝。集解に引く銭大昕の説によれば、前志は「烏氏」と作し、師古は氏を枝と読み、梁統伝も「烏氏」と作すという。また恵棟の説を引けば、史記・漢書は「烏氏」と作し、音は枝で、本伝も「氏」と作し、「枝」と作すは非なりという。
三五一九頁六行目:瓦亭あり、薄落谷より出づ。殿本は「出」を「山」と作す。恵棟補注は「瓦亭山あり」の四字を出し、一に「出」と作すは誤りという。今按ずるに、瓦亭は山の名にあらず、注文が「瓦亭」の下にあることにより証せられる。恵の説は誤り。疑わくは「薄落谷より出づ」の四字は側注で、注文の「烏水出づ」の下にあるべきか。
三五一九頁七行目:陰盤。按ずるに、前志は「陰槃」と作す。
三五一九頁七行目:鶉觚。按ずるに、前志は「鶉孤」と作す。
三五一九頁一〇行目:涇水は県西の(丹)〔幵〕頭山より出づ。殿本考証の斉召南は「丹頭」は「幵頭」と作すべきで、各本ともに誤るという。集解に引く恵棟の説によれば、前志及び山海経に依れば、皆「幵頭」と作し、伝写の誤りで「丹」と作すという。今これに拠り改む。
三五一九頁一三行目:左谷あり。集解に引く恵棟の説によれば、盧芳伝注が続漢志を引いて曰く「三水に左右の谷あり」という。今按ずるに、この三字は疑わくは正文で、正文の「三水」の下に連ねるべきか。
三五二〇頁六行目:戸一万四十二。按ずるに、汲本・殿本は「四十二」を「四十三」と作す。
三五二〇頁九行「倉松」、殿本は「倉」を「蒼」と作る。按ずるに、前志もまた「蒼」と作る。
三五二〇頁九行「鸇陰」、按ずるに、前志は「鶉陰」と作る。
三五二〇頁九行「租厲」、按ずるに、集解は惠棟の説を引き、前書の武紀及び志はいずれも「祖厲」と作るとし、司農夫人碑を案ずるに、その字は「祖」と作る。今「租」は誤りであるという。
三五二〇頁九行「左騎千人官」、按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、これは別に一城に居り、姑臧などの十三県と併せて数えると十四となるという。張掖属国に至っては五城を領し、左騎、千人各々一城とする。これと互いに異なる。また王先謙は、李兆洛が云うには今その地は欠けているという。
三五二一頁一行、戸一万二千七百六。按ずるに、張森楷の校勘記は、この下には口数があるべきで、脱落しているという。
三五二一頁二行「福祿」、集解は錢大昕の説を引き、前志は「祿福」と作る。魏志の龐淯伝及び皇甫謐の列女伝に載せる龐娥の事に、「祿福趙君安之女」と云い、また「祿福長尹嘉」と云う。曹全碑もまた「酒泉祿福長に拝す」と云う。則ち「福祿」と作るのは誤りであると知る。また惠棟の説を引き、晉志もまた「福祿」と作るのは誤りであるという。今按ずるに、漢書補注は吳卓信の説を引き、漢魏の間はなお「祿福」と称し、これを「福祿」と改めたのは、晋の初めからであろうという。また按ずるに、本書の列女伝に「福祿長尹嘉」と云う。則ちその誤りは続志から始まったのではない。
三五二一頁二行「表氏」、按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、前志は「表是」と作る。「是」と「氏」は古く通用するという。
三五二一頁二行「沙頭」、按ずるに、前志は「池頭」と作る。
三五二一頁二行、故に(緩)〔綏〕彌と曰う。前志は「綏彌」と作る。王先謙は「緩」は「綏」の訛りであるという。今これに拠り改める。
三五二一頁六行、戸七百四十八、口二万九千百七十。按ずるに、張森楷の校勘記は、この戸数に訛誤があるか、さもなければ一戸に四十人ほどいることになり、あまりに情理に合わないという。
三五二一頁八行「拼泉」、按ずるに、前志は「淵泉」と作る。
三五二一頁九行、別に五城を領す。按ずるに、殿本考證の齊召南は、下に候官、左騎、千人、司馬官、千人官があるが、これらは皆官名であって城名ではないという。前志では張掖は十城を領し、後志では八城を領する。その居延は別に居延属国とし、顯美は武威郡に改属させた。張掖属国が領する五城が何という名かは分からない。また集解は錢大昕の説を引き、張掖属国は別に五城を領するが、志を考証すると、候官、左騎、千人、司馬官、千人官があるだけで、県を領しない。左騎、千人各々一城とし、また別に千人官一城があり、候官、司馬官と合わせて五城とする。武威郡の左騎千人官が一城であるのと互いに異なるという。
三五二一頁一二行、安帝は別に一(郡)〔城〕を領す。殿本考證は「郡」の字を何焯の校本は「城」に改めているという。今これに拠り改める。
三五二一頁一二行、口四千七百三十三。按ずるに、殿本は「三十三」を「三十二」と作る。
三五二一頁一四行、献帝の建安末年に西海郡として立てられる。按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、献帝起居注を案ずるに、建安十八年に禹貢の九州を復し、雍州部に既に西海郡がある。これは郡を立てたのが建安末ではないことを示すという。
三五二一頁一五行 郡(国)十二 汲本に基づいて削除。
三五二二頁 五行 猗氏 前志は「陭氏」と作る。按:集解に引く洪亮吉の説によれば、前志に作る「陭」の通りとすべきであり、河東に所属するものとは区別がある。また按:説文に「〈頧、中“頁改奇”〉、上黨〈頧、中“頁改奇”〉氏阪なり、邑に従い奇声」とあり、則ち「陭」を正とするべきである。
三五二二頁 六行 (章)〔漳〕水ここに出づ 惠棟補注に基づいて改む。
三五二二頁 七行 壺関三老 按:「三」原訛「二」、逕に改正す。
三五二三頁 一行 (路)〔潞〕県東に壺口関あり 汲本、殿本に基づいて改む。按:今左伝杜注も「路」と訛る。
三五二三頁 六行 秦置 按:下に洛陽北里数を脱す、下の上郡、五原郡、雲中郡、定襄郡、朔方郡同じ。
三五二三頁 八行 鑿壺あり 集解に引く惠棟の説によれば、史記、戦国策、水経汾水注は皆「鑿臺」と作る。今按:壺と臺は形近くして訛るかと疑う。
三五二三頁一五行 界山推焚死の山 按:殿本「界」を「介」と作る。
三五二四頁 一行 左伝は塗水と謂う 按:注に脱誤あり、当に「左伝に知徐吾塗水大夫と為り、杜預曰く榆次に塗水郷あり」と云うべし。
三五二四頁 三行 杜預曰く界休県南の中都城是なり 按:左伝杜注は「界休県東南」と作る。
三五二四頁 四行 韓信夏説を鄔〔東〕に於いて破る 集解に引く惠棟の説に基づいて改む。
三五二四頁 五行 晋大夫(孟)〔盂〕丙の邑 汲本に基づいて改む。按:前志も「孟丙」と作る。補注に引く段玉裁の説によれば、「孟」或いは「盂」と作る。広韻「左伝に晋に盂丙あり」とあり、則ち邑を以て氏と為す。王先謙は「盂」と作るを是とす。並びに顧炎武の説を引き、其れを盂大夫と為して之を盂丙と謂うは、猶魏大夫の魏寿餘と為るが如しとす。
三五二四頁一0行 雕陰 按:前志に「道」の字あり。
三五二四頁一三行 益蘭 按:前志は「益闌」と作る。
三五二四頁一六行 (父)〔文〕国 殿本に基づいて改む。按:前志は「文国」と作る。王先謙は続志後漢因と謂い、「文」或いは「父」と訛る。
三五二四頁十六行 河(除)〔陰〕 殿本に拠って改める。按ずるに、前志は「河陰」と作る。集解は錢大昕の説を引き、河陰と作すべきと謂う。
三五二五頁 四行 箕陵 集解は惠棟の説を引き、何焯が云うには前志に楨陵有り、箕陵無しと。今按ずるに、李兆洛は箕陵を以て前漢の楨陵県の地と為す。
三五二五頁 八行 武成 按ずるに、前志は「武城」と作る。
三五二五頁 九行 戸三万一千八百六十二 口二十四万九千 按ずるに、張森楷校勘記は謂う、大計を案ずるに、此れ十戸にして幾八十口か、疑わくは「三」は「五」の字たるべしと。
三五二五頁十行 汪陶 前志は「〈氵{山王}〉陶」と作る。按ずるに、「〈氵{山王}〉」は即ち「汪」の本字なり。
三五二五頁十一行 夏屋山有り 按ずるに、前志は「賈屋山」と作る。補注は錢坫の説を引き、夏屋は即ち賈屋なりと謂う、淮陽国陽夏県の如く、応劭・如淳が夏を賈と音するが是れなり。
三五二六頁 四行 (秦)〔泰〕戲の山 汲本・殿本に拠って改む。今の山海経に合う。
三五二六頁 四行 今呼沱河〔出〕ずるは県の武夫山に 集解は惠棟の説を引き、諸本「出」の字を脱すと謂う。今拠って補う。
三五二六頁 九行 大城 按ずるに、前志は「大成」と作る。殿本考證は何焯校本「城」の字の土偏を去ると謂う。
三五二六頁十一行 建武十一年十月 西河・上郡(魏)に属す 集解は錢大昕の説を引き、「魏」の字は訛りなりと謂う。按ずるに光武紀、建武十一年朔方牧を省き、并州に并す。此の西河・上郡は必ずや朔方刺史の部する所、此に至りて始めて并州に属するのみ。班史馮野王上郡太守と為り、朔方刺史蕭育封事を奏して之を薦む。是れ上郡朔方部に属するの證なり。注文は脱漏有るべく、又下に魏志を引くに因りて一「魏」の字を衍すのみ。今錢説に拠り、一「魏」の字を刪す。但し注文に脱漏有り、「西河上郡属」も亦句を成さず。
三五二六頁十五行 北新城 集解は錢大昕の説を引き、故に中山に属すと云うべしと謂う。今按ずるに、前志中山国北新成、王先謙謂う、志末十二国分域を論ずるに、北新成は涿郡に属すと。
三五二七頁 一行 督〔亢〕亭有り 按ずるに、集解王先謙謂う、水経巨馬水注の引くに拠れば、此の「督」の下「亢」の字を奪うと。今拠って補う。
三五二七頁 七行 永(平)〔元〕八年復す 錢大昕考異謂う、和帝紀に拠れば、永元八年九月復す。此の「永平」は「永元」の訛たるべし。殿本考證齊召南の説同じ。今拠って改む。
三五二七頁十五行 北平邑 前志に「北」の字無し。按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、章帝の女平邑公主、章懷注「平邑は伐郡に属す」と。
三五二八頁 五行 甯 前志は「寧」と作る。惠棟は、古書では寧と甯は通じると言う。また按ずるに、「甯」は原「甯」と作るが、これは甯の俗字である。下の「廣甯」も同じ。
三五二八頁 六行 下落 按ずるに、惠棟補注本は「下洛」と作る。王先謙の漢書補注は、水経の〈氵纍〉水注では「落」を「洛」と作ると言う。
三五二八頁 七行 在(鼓)〔彭〕城南 集解は惠棟の説を引き、前書刑法志は黄帝に涿鹿の戦いがあったと言い、鄭德は彭城の南にあると言い、小顔は彭城とは上谷に別に彭城があり、宋の彭城ではないと言う。「鼓」は「彭」と作るべきである。今これに拠って改める。
三五二八頁 七行 于瓚 按ずるに、惠棟補注本は「干瓚」と作る。漢書注に「臣瓚」があるが、姓氏を知らず、酈元はこれを薛瓚と言い、あるいは傅瓚と言い、劉孝標、姚察は皆干瓚と言う。どれが正しいか詳らかでない。
三五二八頁一0行 漁陽有鐵 按ずるに、前書は「有鐵官」と作る。
三五二八頁一0行 潞 按ずるに、前志は「路」と作る。
三五二八頁一0行 泉州有鐵 按ずるに、前志は「有鹽官」と作る。
三五二八頁一0行 傂奚 按ずるに、前志は「厗奚」と作る。補注は王念孫の説を引き、「厗」は「虒」と作るべきであると言う。
三五二八頁一三行 土垠 按ずるに、「土」は原「上」と誤る。直ちに殿本、集解本に拠って改正する。
三五二八頁一三行 俊靡 按ずるに、集解は惠棟の説を引き、説文に依れば「俊」は「浚」と作るべきであると言う。また校補は錢大昭の説を引き、耿弇傳は「浚靡」と作ると言う。
三五二八頁一五行 有孤竹城 按ずるに、集解は惠棟の説を引き、爾雅は「觚竹」と作り、四荒の一つであると言う。
三五二九頁 二行 (綱)〔繩〕水出焉 汲本、殿本は「編水」と作る。集解は惠棟の説を引き、「編」は一に「繩」と作ると言う。今これに拠って改め、山海經と合致させる。
三五二九頁 二行 右北平驪(城)〔成〕縣 集解本に拠って改める。按ずるに、前志は「驪成」と作る。
三五二九頁 四行 戸六萬四千一百五十八口八萬一千七百一十四 按ずるに、張森楷の校勘記は、この文によれば戸が二口に満たないことになり、情理に合わない。「八萬」の上に脱落があるのではないかと言う。
三五二九頁 七行 無慮 集解は錢大昕の説を引き、この下に「有醫無慮山」の五字があるべきであると言う。今按ずるに、後の遼東屬國の「無慮」の下にある「有醫巫慮山」の五字はここに移すべきである。
三五二九頁七行の候城について。按ずるに、集解が引用する銭大昕の説によれば、玄菟郡に候城があり、故に遼東に属するとあるので、この「候城」は衍文であろう。王先謙は銭説が正しいとしている。
三五二九頁八行の汶について。前志(漢書地理志)では「文」と作る。按ずるに、殿本考証では何焯の校本が氵を削ったとしている。
三五二九頁十行の戸一千五百九十四、口四万三千一百六十三について。按ずるに、張森楷の校勘記によれば、この文の通りだとすると、戸あたりほぼ四十人ほどとなり、これも情理に合わない。疑わしいのは「一千」の「千」の字が「万」の字であるべきであろう。
三五二九頁十一行の西蓋(鳥)〔馬〕について。殿本考証の斉召南の説に基づき改める。按ずるに、前志では「西蓋馬」と作る。県は蓋馬山に因んで名付けられており、「馬」を「鳥」と作るのは字形が近いために誤ったものである。
三五二九頁十二行の候城、故に遼東に属すについて。按ずるに、殿本考証の斉召南が引用する顧炎武の説によれば、候城は玄菟に改属されたのに、遼東にもまた候城が出てくる。無慮は遼東属国に改属されたのに、遼東にもまた無慮が出てくる。必ずどちらか一方を削るべきものであり、そうでなければ天下の郡国で城が二つ少なくなってしまう。
三五二九頁十三行の出塞外(銜)〔衛〕白平山について。按ずるに、汲本、殿本では「銜」を「御」と作る。殿本考証では「御」は「銜」とすべきとしている。ここは正に「銜」と作っており、考証の説と合致する。しかし王先謙は、考証の「銜」の字は「衛」とすべきであり、山海経、水経ともに「衛」と作るとしている。今これに拠って改める。また按ずるに、集解が引用する恵棟の説によれば、今の山海経には「遼水は衛皋の東より出づ」とある。衛皋は山の名であり、転写が長く続くうちに、「皋」を「白平」に分けてしまい、さらに「衛」を「銜」と誤ったため、この字の意味が付着する所がなくなってしまった。桑欽の水経も「白平」と作る。
三五三〇頁一行の占蟬について。按ずるに、前志では「黏蟬」と作る。
三五三〇頁一行の遂城について。按ずるに、前志では「遂成」と作る。
三五三〇頁四行の遼東属国について。按ずるに、殿本考証の杭世駿は、この郡だけ戸口の記載がないと述べている。
三五三〇頁五行の昌遼、故に天遼について。集解が引用する恵棟の説によれば、闞駰の十三州志には遼東属国都尉が昌黎道を治めるとあり、また前志の遼西郡交黎県について、応劭は今の昌黎であるとしている。そうすると「昌遼」は「昌黎」とすべきであり、「天遼」は「交黎」とすべきである。また通鑑注には昌黎は漢の交黎県で、遼西に属し、後漢では遼東属国都尉に属したとあり、胡氏(胡三省)の見た本はまだ誤りがなかったことがわかる。また銭大昕の説を引用すると、黎と遼は音が近いため、「昌黎」も「昌遼」と作ることがあり、それは「烏氏」を「烏枝」とし、「厗奚」を「傂奚」とするのと同じである。
三五三〇頁五行の賓徒について。按ずるに、前志では「徒」を「従」と作る。補注の王先謙は「従」と作るのは誤りであるとしている。
三五三〇頁五行の無慮について。按ずるに、無慮は既に前の遼東郡に見える。ここは「扶黎」とすべきであり、後人の伝写の誤りである。説は恵棟の補注に詳しい。
三五三〇頁五行の医無慮山ありについて。按ずるに、この五文字は前の遼東郡「無慮」の下に移すべきである。説は前に詳しい。
三五三〇頁十行の戸七万一千四百七十七、口二十五万二百八十二について。按ずるに、張森楷の校勘記によれば、「二十」の「二」は「三」とすべきであり、そうして初めて李心伝の東漢戸約五口の率に合致する。もしこの文の通りだとすると、戸あたり四口に満たず、情理に合わない。
三五三〇頁十一行の博羅について。按ずるに、集解が引用する恵棟の説によれば、沈約は「博羅」について、二漢(前漢・後漢)ともに皆「傅」の字を用い、晋の太康地志で「博」と作るとしている。これを考えると、班固、司馬遷の本書(漢書、史記)は皆「傅羅」と作っており、後人が誤って「博」としたのである。
三五三〇頁一二行 山海経(注) 按:以下に引用するのは山海経海内南経の本文であり、「注」の字は衍字であるため、今削除する。
三五三〇頁一三行 会稽から船で博(羅)山へ向かう 集解が惠棟の説を引く。何焯が「羅」の字は衍字であると言う。今これに従い削除する。
三五三〇頁一四行 雒陽の南六千四百一十里 按:張森楷の校勘記は、蒼梧が雒陽から南海より遠いことを述べ、上の南海は七千一百里とあるが、ここでは僅か六千余里であり、事実に合わず、かつ郡の首県は広信であり、広信が郡治である。広信の下の注に雒陽から九千里とあるので、六千余里ではない。「六」の字は誤りかと思われる。下の鬱林も同じ。
三五三一頁 七行 鬱林郡十一城 按:集解が馬與龍の説を引く。この郡と交趾及び幽州の遼東属国は、いずれも戸口の数が欠けているという。
三五三一頁 八行 中溜 按:前志(漢書地理志)では「中留」と作る。
三五三一頁一二行 臨元 前志では「臨允」と作る。按:漢書補注の王先謙は「元」は「允」の字の誤りであるという。
三五三一頁一二行 朱崖 按:前志では「朱盧」と作る。
三五三二頁 一行 羸𨻻 殿本考證は「羸」は「羸」と作るべきであり、前書(漢書)の孟康が羸は連と音すると言うので、「羸」の字は誤りであるという。今按ずるに、漢書補注の王先謙は地道記が「羸𨻻」と作ると言い、おそらく後人が孟康の音により「羸」の字を作り、広韻に載せたが、いずれも誤りである。
三五三二頁 一行 (定)安〔定〕 殿本により改める。按:前志では「安定」と作る。王先謙の補注は続志(後漢書郡国志)では後漢が因襲したが、あるいは「定安」と誤ったという。
三五三二頁 一行 麊泠 集解が惠棟の説を引く。「麊」は説文では「{米尼}」と作り、米に従い尼の声であるという。按ずるに、漢書補注が王鳴盛の説を引き、やはり「{米尼}」と作るのが正しいという。
三五三二頁 一行 曲陽 前志では「曲昜」と作る。按ずるに、昜と陽は古今字である。
三五三二頁 三行 注沆の二水がある 按:汲本、殿本では「沆」を「沅」と作る。
三五三二頁 六行 角が柔らかくなってまた出てくる 按:張森楷の校勘記は、上に岸に上がって共に闘うと言っており、すでに出ているので、再び出るとは言うべきでなく、疑わしくは「入」の字の誤りであろうという。
三五三二頁一一行 咸懽 前志では「咸驩」と作る。按ずるに、驩と懽は古今字である。
三五三二頁一一行 無功 按:前志では「無切」と作る。
三五三二頁一五行 西卷 按:前志作「西捲」。
三五三三頁一五行 郷三千六百八十二 按:汲本、殿本「八十二」作「八十一」。
三五三二頁一五行 亭一万二千四百四十二 汲本、殿本「四十二」作「四十三」。按:聚珍本東観漢記亦作「三」。
三五三四頁 八行 口四千八百六十九万七百八十九 按:張森楷校勘記謂案和帝之世,口五千三百餘万,戶祗九百二十餘万,此戶已九百六十餘万,而口祗四千餘万,反更少之,殊非情理,疑「四」是「五」之訛。下順帝口數同。