後漢書

『志』第二十二

郡国四 青州 荊州 揚州

 

青州

済南

済南国、もと斉、文帝が分割した。洛陽の東千八百里。十城、戸七万八千五百四十四、口四十五万三千三百八。

東平陵、鉄がある。譚城がある。(もとの譚国。)

天山がある。

著県

於陵、(杜預が言うには県の西北に于亭がある。陳桓子がここを斉の公子周に封じた。)

臺県

菅県、頼亭がある。(左伝哀公六年に公が頼へ行った。)

土鼓、

梁鄒、

鄒平、

東朝陽(杜預によると、県の西に崔城がある)。

歴城、鉄がある。巨裏聚がある(耿弇が費敢を破った場所。皇覧によると、「太甲の冢が歴山上にある」)。

平原郡

平原郡、高帝が設置した。洛陽の北一千三百里。九つの城、戸十五万五千五百八十八、口百万二千六百五十八。

平原(地道記によると、篤馬河がある)。

高唐、濕水が発する。

般、

鬲、侯国。夏の時代に鬲君がいて、浞を滅ぼし、少康を立てた(魏都賦注によると、県に蓋節淵がある。三斉記によると、「城南に蒲臺があり、高さ八十尺、秦始皇が滞在した場所である。台下で蒲を縛って馬をつないだが、今も蒲が縛られたままである」)。

祝阿、春秋時代は祝柯といった(左伝哀公十年「犁及び轅を取る」、杜預によると、県の西に轅城がある。故県、廃止)。

野井亭がある(左伝昭公二十五年「斉侯が野井で公を弔問した」、杜預によると、県の東にある)。

楽陵、

濕陰、

安德は侯国である。

厭次は本来富平であった。明帝の時に改名された。

楽安国

楽安国は、高帝が西平昌に設置し、千乗とした。

永元七年

改名された。洛陽の東千五百二十里。九つの城、戸七万四千四百、口四十二万四千七十五。

臨済は本来狄であり、安帝の時に改名された。

千乗

高菀

楽安

博昌には薄姑城がある。

貝中聚がある。

時水がある。

蓼城は侯国である。

利はかつて斉に属していた。

益は侯国である。もとは北海に属していた。

寿光はもと北海に属していた。灌亭がある。〈古い灌国である。〉

北海国

北海国は景帝の時に設置された。

建武十三年

菑川、高密、膠東の三国を廃止し、その県を北海国に属させた。十八城、戸十五万八千六百四十一、口八十五万三千六百四。

劇には紀亭があり、古い紀国である。

営陵

平寿には斟城がある。〈杜預によれば斟亭がある。古い斟国で、かつては県であったが、後に廃止された。〉

寒亭があり、古い寒国で、浞がここに封じられた。

都昌、〈左伝荘公元年に斉が紀の鄑城を移した。地道記によれば鄑城は県の西にある。〉

安丘には渠丘亭がある。〈地道記によれば渠丘城がある。〉

淳於

永元九年

夏。密郷がある。〈左伝隠公二年に紀と莒が密で盟を結んだ。かつての密郷で、県の東北にあり、後に廃止された。〉

平昌は侯国で、もとは琅邪郡に属していた。蔞郷がある。

朱虚は侯国で、もとは琅邪郡に属していた。

永初元年に

属した。

東安平は、もとは菑川国に属していた。戦国時代には安平と呼ばれた。[F043]亭がある。

高密は侯国である。

昌安は侯国で、安帝の時に再び設置された。

夷安は侯国で、安帝の時に再び設置された。

膠東は侯国である。

即墨は侯国である。棠郷がある。

壯武は、安帝の時に再び設置された。

下密は、安帝の時に再び設置された。

挺には、

観陽、

東萊郡

東萊郡は、高帝が設置した。洛陽の東三千百二十八里にある。十三の城があり、戸数は十万四千二百九十七、人口は四十八万四千三百九十三である。

黄県。〈地道記に言う。「県の東二百三十里で海中に至り、連なる峰に土道がある。秦の始皇帝がこの山に登り、二つの碑を立てた。東二百三十里に始皇帝と漢の武帝の二つの碑がある。」〉

牟平県。

惤県。侯国。〈地道記に言う。百枝萊君祠がある。三齊記に言う。「南に蹲犬山があり、山は犬が蹲むのに似ている。神がいる。劉寵が西都から出てこの山を通り過ぎると、山の犬が彼に向かって吠えた。寵は言った『山の神が私を人だと言っている』。」〉

曲成県。侯国。〈前書に万裏沙を祈ったとあり、この県にある。〉

掖県。侯国。過郷がある。〈かつての過国である。〉

当利県。侯国。

東牟県。侯国。

昌陽県。

盧郷県。

長広県。かつて琅邪郡に属した。

黔陬県。侯国。かつて琅邪郡に属した。介亭がある。〈左傳襄公二十四年「莒を伐ち、介根を侵す」。杜預が言うには県の東北の計基城である。号して介国という。〉

葛盧県。尤渉亭がある。

不其県。侯国。かつて琅邪郡に属した。〈三齊記に言う。「鄭玄が不其山で教授した。山下に生える草は䪥のように大きく、葉の長さは一尺余りで、異常に堅く鋭い。土地の人はこれを康成書帯と呼んだ。」〉

齊国。

斉国は秦代に設置された。洛陽の東千八百里に位置する。六つの城を管轄し、戸数六万四千四百十五、人口四十九万一千七百六十五である。

臨菑は、本来は斉の地であり、刺史の治所である。〈『爾雅』の十藪に、斉には海隅があるとあり、郭璞は海辺の広い塩鹹地と注釈している。『左伝』に斉が葵丘を守備したとあり、杜預は県の西にあると注釈している。『皇覧』には「呂尚の冢は県城の南にあり、県から十余里離れ、斉の桓公の冢の南にある。菑水の南、桓公の冢の西北に晏嬰の冢がある」とある。『孟子』の注に「南の小山を牛山という」とある。『博物記』には県の西に袁婁があると記されている。〉

西安には棘里亭があった。〈杜預は言う、県の東にあると。陳桓子が子山を封じた。〉

蘧丘里があり、古くは渠丘と呼ばれた。

昌国

臨朐県には三つの亭があり、古くは郱邑であった。〈左伝の荘公元年に斉が移したとあり、杜預は県の東南にあるという。応劭は伯氏の邑であるという。地道記には石高山があると記されている。〉

般陽は、もとは済南に属していた。

右青州刺史部には、郡と国が六つ、県が六十五ある。

荊州

南陽郡

南陽郡は秦の時代に設置された。洛陽の南七百里にある。三十七の城があり、戸数は五十二万八千五百五十一戸、人口は二百四十三万九千六百十八人である。

宛は、もともと申伯の国であった。〈荊州記に「郡城の周囲は三十六里」とある。博物記には申亭がある。南都賦の注に玉池、澤陂があるとある。〉

南就聚があった。瓜里津があった。〈『東観書』に鄧奉が光武帝を瓜里で拒んだとある。〉

夕陽聚という地名があった。〈袁山松の書には「賈復が鄧奉を追撃し、夕陽聚まで追い詰めた」とある。〉

東武亭がある。

冠軍は県である。

葉県には長山があり、方城と呼ばれる。

巻城がある。

新野県には東郷があり、かつての新都である。

黄郵聚がある。

章陵はかつての舂陵であり、世祖が改名した。

上唐郷がある。

西鄂県には精山があり、朱雋が孫夏を破った。

雉県には滍水が流れ出る。

魯陽には魯山がある。

牛蘭累亭がある。

犨県。

堵陽県。

博望県。

舞陰県、邑。

比陽県、

復陽県、侯国。杏聚がある。

平氏県、桐柏大復山があり、淮水がここから出る。〈前書には県の南にあるとある。荊州記には「桐柏で淮水の源が湧き出し、その中を三十里潜流し、東に大復山の南に出る。山の南に淮源廟がある」とある。博物記には「陽山があり、紫草を産する」とある。〉

宜秋聚がある。〈伯升が下江兵と会った所。〉

棘陽県、〈荊州記に東北百里に謝城があるとある。〉

藍郷がある。〈伯升が甄阜を襲撃した所。〉

黄淳聚がある。〈また伯升が梁丘賜を攻めた所。杜預は蓼国が東南にあるという。前志では蓼国は湖陽である。〉

湖陽県、邑。〈荊州記に「樊重の母は雷を恐れ、石室を造って避け、すべて文石で階段とした。今も残っている」とある。〉

随県、〈古の随国。〉

西に断蛇丘がある。〈即ち珠を銜えた蛇の故事の地。杜預は頼亭があるという。左伝僖公十五年斉が厲を伐ったのは県の北。帝王世記に「神農氏は列山から起こり、列山氏と称した。今の随の厲郷がこれである」とある。荊州記に「県の北界に重山があり、山に一つの穴がある。神農が生まれた所と云う。また周囲一頃二十畝の地があり、外に二重の堀、中に九つの井戸がある。神農が育つと、九つの井戸が自ら穿たれ、一つの井戸を汲めば他の井戸も動いたと伝わる。即ちこの地が神農の社で、毎年祭祀を行う」とある。〉

育陽県、邑。小長安がある。〈漢軍が甄阜に破られた所。〉

東陽聚がある。〈朱祐が張成を破った所。〉

涅陽県、

陰県、

酇県。

鄧県には有聚がある。〈左伝桓公九年に楚の師が鄾を囲んだ。〉

山都県は侯国。

酈県は侯国。〈荊州記に言う:「県の北八里に菊水があり、その源の傍らはすべて芳しい菊で、水は極めて甘く香り高い。またその中に三十戸あり、もはや井戸を掘らず、この水を仰いで飲み、上寿は百二十から三十、中寿は百余り、七十歳の者でもまだ夭折とされる。漢の司空王暢、太傅袁隗が南陽令であった時、県は月に三十余石を送り、飲食や沐浴にすべてこれを用いた。太尉胡広の父は風疾と衰弱を患っていたが、南陽で常にこの水を汲んで飲んだところ、病はついに癒えた。この菊は茎が短く花が大きく、食べると甘美で、他の菊とは異なる。胡広はまたその実を収め、京師に植えたところ、遂に至る所に伝わり植えられた。」〉

穰県。

朝陽県。〈南都賦に「陂沢に鉗盧有り」とあり、注に県にあると言う。〉

蔡陽県は侯国。〈襄陽耆舊伝に言う:「松子亭があり、その下に神陂がある。中に魚が多いが、人が捕らえることはできない。」南都賦に称えられた所である。〉

安衆県は侯国。〈博物記に言う:「土魯山があり、紫石英を産する。」〉

築陽県は侯国。涉都郷がある。〈杜預は穀国が県の北にあると言う。博物記は今の穀亭と言う。荊州記に言う:「県の北四里に開林山があり、西北に䪥山がある。」〉

武当県には和成聚がある。〈荊州記に言う:「県に女思山があり、南二百里に武当がある。」〉

順陽県は侯国。旧称は博山。須聚がある。

成都県。

襄郷県。

南郷県。

丹水県。旧来は弘農郡に属した。〈南郷、丹水の二県に商城があり、張儀が楚に商於の地を与えた所である。〉

有章密郷。三戸亭がある。

析は、もと弘農に属し、もと楚の白羽邑である。

武関があり、県の西にある。

豊郷城がある。

南郡

南郡は、秦が設置した。洛陽の南一千五百里。十七城、戸十六万二千五百七十、口七十四万七千六百四。

江陵

津郷がある。

巫の西に白帝城がある。

秭帰は、もとの国である。

中盧は、侯国である。

編に藍口聚がある。

当陽

華容は、侯国である。雲夢沢が南にある。

襄陽に阿頭山がある。

邔は侯国である。犂丘城がある。(朱祐が秦豊を蘇嶺山で捕らえた。)

宜城は侯国である。(杜預によると、県の西はかつての羅国であり、後に枝江に移った。)

鄀は侯国である。

永平元年

夏。(左伝によると、楚の文王が黄を討伐し、帰還して湫に至った。杜預によると、県の東南に湫城がある。)

臨沮は侯国である。荊山がある。(山海経によると、「その南面には鉄が多く、北面には赤金が多く、その中には牛が多い。」荊州記によると、「西北三十里に清谿があり、谿の北が即ち荊山で、その端を景山といい、卞和が璞を抱いた場所である。」南都賦の注によると、「漢水は荊山に至り、東に別れて流れ、滄浪の水となる。」)

枝江は侯国である。もとは羅国であった。丹陽聚がある。(史記によると、秦と斉が楚の屈匄を破り、遂に丹陽を取った。)

夷道。(荊州記によると、県の西北に宜陽山があり、東南に羊腸山がある。)

夷陵には荊門がある。(岑彭が田戎を破った場所。)

虎牙山がある。(荊州記によると、「荊門は江南にあり、虎牙は江北にある。虎牙には歯牙のような文様があり、荊門は上が合わさり下が開いている。」)

州陵。(史記によると、楚の考烈王が州を秦に納めた。)

很山は、もとは武陵郡に属していた。

江夏郡

江夏郡は、高帝が設置した。洛陽の南千五百里にある。十四城、戸五万八千四百三十四、口二十六万五千四百六十四。

西陵、

西陽県

軑県、侯国。(杜預によると、「古代の䢵国で、東南に䢵城がある」という。)

鄳県(史記に、無忌が魏の安僖王に説いて「秦は冥阨の塞を攻めることを敢えなかった」とある。徐広はこれがこの県であるという。)

竟陵県、侯国。鄖郷がある。(左伝桓公十一年に「鄖人が蒲騷に軍を置いた」とある。)

章山があり、もとは内方山と呼ばれた。(荊州記によると、「山の高さは三十丈、周囲は百余里である。」県の東に臼水がある。左伝に楚の公子比が王となり魚陂に駐屯したとあり、杜預は県の西北にあるという。)

雲杜県(杜預によると、県の東南に鄖城があり、古い国である。)

沙羨県

邾県(地道記によると、「楚が邾を滅ぼし、その君主をこの城に移した。」)

下雉県

蘄春県、侯国。

鄂県

平春県、侯国。

南新市県、侯国。(本伝によると、離郷聚と緑林がある。)

安陸県

零陵郡

零陵郡は、武帝が設置した。洛陽の南三千三百里にある。十三の城があり、戸数は二十一万二千二百八十四、人口は百万一千五百七十八人である。

泉陵県。

零陵県。陽朔山があり、湘水がここから流れ出る。

営道県。南に九疑山がある。

営浦県。

泠道県。

洮陽県。

都梁県。路山がある。

夫夷県。侯国。

始安県。侯国。

重安県。侯国。以前は鍾武県であったが、

永建三年に

改名された。

湘郷県。

昭陽県。侯国。

烝陽は侯国であり、もとは長沙に属していた。

桂陽郡

桂陽郡は高帝が設置した。山領山がある。洛陽の南三千九百里にある。十一城があり、戸数十三万五千二十九、人口五十万一千四百三。

郴には客嶺山がある。〈『湘中記』によると、「項籍が義帝を郴に移して害した。今に義陵祠がある。また県の南十数里に馬嶺山があり、山には仙人蘇耽の壇がある。」『荊州記』によると、「城南六里、県の西北に温泉があり、その下流に数十畝の田があり、常に十二月に種を下し、翌年三月に新穀が実り、一年に三度収穫する。」〉

便、

耒陽には鉄がある。

陰山、

南平、

臨武、

桂陽、

含洭、

湞陽には領山がある。〈『始興郡記』に呉山があると記されている。〉

曲江、〈『始興郡記』に県の北に臨沅山があると記されている。〉

漢寧、

永和元年

設置された。

武陵郡

武陵郡は、秦の昭王が設置した。名は黔中郡といい、高帝五年に改名した。洛陽の南二千一百里にある。〈先賢伝によると、「晋代の太守趙厥が主簿潘京に問うて言った、『貴郡はなぜ武陵と名づけたのか?』京は答えて言った、『弊郡はもともと義陵と名づけられ、辰陽県の境界にあり、夷族と接し、攻撃されて破られ、光武帝の時に東へ移転し、こうして全うすることができ、先見の明により号を改めた。伝に「戈を止めるを武と為し、高く平らなるを陵と曰う」とある。そこで改名したのである。』」臣の昭が案ずるに、前書(漢書)ではもともと武陵と名づけられており、この答えが何に基づいて出たのかわからない。荊州記によると、「郡の社中の木麃樹は、光武帝が植えたもので今に至っている。」〉

十二城、戸四万六千六百七十二、人口二十五万九百十三。

臨沅、〈荊州記によると、「県の南は沅水に臨み、水源は牂牁郡の且蘭県から出て、郡の境界に至って五谿に分かれる。故に五谿蛮という。」〉

漢寿、もと索県、

陽嘉三年、

改名し、刺史の治所となった。〈漢官儀によると、洛陽から三千里。〉

孱陵、〈魏氏春秋によると、「劉備が荊州にいて都としたところで、公安と改称した。」〉

零陽、

充、

沅陵、先に壺頭山がある。〈馬援の軍が渡ったところ。松梁山があり、山に石があり、開いたところが数十丈、その上を天門という。〉

辰陽、

酉陽、

遷陵、

鐔成県

沅南県

建武二十六年

設置された。

作唐県

長沙郡

長沙郡は秦により設置された。洛陽の南二千八百里。十三城、戸数二十五万五千八百五十四、人口百五万九千三百七十二。

臨湘県

攸県

荼陵県

安城県

酃県。〈荊州記に「酃湖があり、周囲三里。湖水を用いて酒を醸すと、酒は極めて甘美である」とある。湘東記に「県の西南に母山があり、周囲四百里」とある。〉

湘南県、侯国。衡山が東南にある。〈郭璞は「山の別名は岣嶁である」という。湘中記に「衡山には玉牒があり、禹はその文に基づいて治水を行った。遥かに衡山を望むと陣雲のようで、湘江に沿って千里、九度向きを変え九度背を向けると、遂に見えなくなる」とある。〉

連道県

昭陵県

益陽(荊州記によると、「県の南十里に平岡があり、岡には金井が数百あり、浅いものは四五尺、深いものは測り知れない。俗に伝えるところでは、金人が杖で地面を突くと、たちまち井戸になったという」)。

下雋。

羅(帝王世記によると、「黄陵亭がある」。(洞)〔湘〕中記もまた二妃の神であるとしている。劉表がこれのために碑を立てた)。

醴陵(荊州記によると、「県の東四十里に大山があり、山には三つの石室があり、室の中には石の床と石の臼がある。古老が伝えるところでは、昔道士がこの室で仙術を学び、金砂の臼を合わせたという」)。

容陵。

以上が荊州刺史部で、郡は七、県・邑・侯国は百十七(魏氏春秋によると、「建安二十四年、呉が巫・秭帰を分けて固陵郡とした。二十五年、南郡の巫・秭帰・夷陵・臨沮および房陵・上庸・西城の七県を分けて新城郡とした」)。

揚州。

九江郡。

九江郡は秦が設置した。洛陽の東一千五百里。十四城、戸八万九千四百三十六、口四十三万二千四百二十六。

陰陵。

寿春(漢官によると刺史の治所で、洛陽から千三百里、志とは異なる)。

浚遒(左伝哀公十二年に橐皋で呉と会したとあり、杜預は県の東南にあるという。宋均伝によると、県には唐后二山がある)。

成徳。

西曲陽。

合肥、侯国。

歴陽、侯国、刺史の治所。

当塗、馬丘聚がある。徐鳳がここで反乱を起こした。

全椒、

鍾離、侯国。

阜陵、

下蔡、もとは沛に属した。

平阿、もとは沛に属した。徐山がある。

義成、もとは沛に属した。

丹陽郡

丹陽郡、秦の鄣郡、武帝が改名した。洛陽の東二千一百六十里。

建安十三年、

孫権が新都郡を分置した。十六城、戸十三万六千五百十八、口六十三万五百四十五。

宛陵、

溧陽、

丹陽、

故鄣(秦の鄣郡の治所。『呉興記』に「中平二年、県の南を分けて安吉県を置く。光和の末、張角の乱があり、この郷は険要を守って国を助けた。漢はこれを嘉し、故に県を立てた。中平二年、また原郷県を分けて立てた」とある)。

於潜。

涇。

歙(『山海経』に三天子鄣山が閩の西、海の北にあるとあり、郭璞は県の東にあると注し、今は玉山という。『魏氏春秋』に安勒烏邪山がある)。

黝(『魏氏春秋』に林歴山がある)。

陵陽(陵陽子明がこの県の山で仙人となったため、この名とした)。

蕪湖、中江が西にある(『左伝』襄公三年に楚子が呉を伐ち、鳩茲を克つとあり、杜預は県の東にあると注す)。

秣陵(その地は本来金陵と称したが、秦の始皇帝が改めた。建安十六年、孫権が建業と改称。十七年、石頭に城を築く)。

南に牛渚がある。

湖熟、侯国。

句容。

江乗。

春穀。

石城。

廬江郡。

廬江郡は、文帝が淮南を分割して設置した。

建武十三年

六安国を廃止し、その県を所属させた。洛陽の東一千七百里。十四城、戸十万一千三百九十二、口四十二万四千六百八十三。

舒県には桐郷がある。

雩婁は侯国。

尋陽県

南に九江があり、東で合流して大江となる。

潜県

臨湖は侯国。

龍舒は侯国。

襄安県

皖県には鉄がある。

居巢は侯国。

六安は国。

蓼は侯国。

安豊県には、大別山がある。〈左伝昭公二十三年に呉が諸侯の軍を雞父で破った。杜預は県の南に雞備亭があると言う。〉

陽泉県は、侯国である。〈広志には陽泉湖があると言う。〉

安風県は、侯国である。

会稽郡

会稽郡は、秦が設置した。本来は呉に治所を置いたが、呉に郡を立てた後、山陰に移した。洛陽の東三千八百里。十四城、戸十二万三千九十、口四十八万一千百九十六。

山陰県、〈越絶書に「句踐の小城が山陰である。稷山は、句踐の齋戒台である」とある。呉越春秋に「句踐が城を築き終わると、怪山が自らやって来た。怪山とは、琅耶の海の中の山である。一晩で自ら来たので、怪山と名付けた」とある。〉

会稽山が南にあり、その上に禹の墓がある。〈山海経に「会稽の山は四方で、上には金玉が多く、下には玞石が多い」とある。郭璞は禹井があると言う。越絶書には重山があり、句踐が大夫の文種を葬ったとある。〉

浙江がある。〈郭璞が山海経に注して、この江は歙県の玉山から出ると言う。〉

鄮県、

烏傷県、〈越絶書に「常山があり、古代の聖人が薬を採った所で、高くて神聖である」とある。英雄交爭記に「初平三年、県の南郷を分けて長山県とした」とある。〉

諸暨県、〈越絶書に、興平二年に分けて呉寧県を立てたとある。〉

餘暨県、〈越絶書に西施の出身地であるとある。謝承の後漢書に涉屋山がある。魏都賦の注に蕭山があり、潘水がそこから出るとある。〉

太末県、〈左伝では姑蔑という。初平三年、分けて新安県を立てた。建安四年、孫氏が分けて豊安県を立てた。二十三年、遂昌県を立てた。東陽記に「県の龍丘山には九つの石があり、林の上に特に秀で、色は丹白で、遠くから見るとすべて蓮の花のようである。龍丘萇がここに隠居したので、これによって名付けた。その峰の際にはまた巌穴があり、外は窓のようで、中には石林がある。巌の前に一本の桃の木があり、その実はとても甘く、山中に自生するものではなく、誰が植えたのか分からない」とある。〉

上虞県、〈漢末に南郷を分けて始寧県を立てた。〉

剡県、

餘姚県

句章県。〈山海経に「餘句の山、草木無く、金玉多し」とある。郭璞は「山は餘姚の南、句章の北にあり、故に二県はこれに因りて名と為す」と言う。句踐は呉王を甬東に遷そうとした。韋昭は「県の東の洲」と言う。〉

鄞県

章安県。旧治。閩越の地。光武帝が改名した。〈晋太康記に「本は鄞県南の迴浦郷、章帝の章和元年に立つ」とある。未詳。〉

永寧県

永和三年

章安県の東甌郷を以て県と為す。

東部侯国

呉郡

呉郡は順帝が会稽を分けて置いた。洛陽の東三千二百里。十三城。戸十六万四千百六十四。口七十万七百八十二。

呉県。本国。〈越絶に「呉の大城は闔閭の造る所、周囲四十七里二百十歩二尺。又伍子胥城、居巣城有り。昌門外に闔閭の冢虎丘有り。穹隆は赤松子の赤石脂を取る所、県を去ること二十里。(鹿)〔麋〕湖、欐谿城有り。又石城、闔閭美人を置く山。虞山、巫咸山有り」とある。皇覧に「県の東門外に孫武の冢有り。又要離の冢、県の西南に有り」とある。〉

震沢は西にあり、後に具区沢と名付く。〈爾雅十藪に、呉越の間に具区有り。郭璞は「県南の太湖なり」と言う。中に包山有り、山下に洞庭有り、穴道は水底を潜行し、去る所に通ぜざる無く、地脈と号す。越絶書に「湖周囲三万六千頃」とある。又大雷山、小雷山有り。周処の風土記に舜が漁をした沢の所とある。臣昭案ずるに、これは成陽に僻在する是なり。又、呉が越を伐ち、夫椒でこれを破る。杜預は「太湖中の椒山是なり」と言う。〉

海塩県。〈案ずるに今の計偕簿によれば、県の故治は順帝の時に陥没して湖と為り、今は当湖と謂う。大旱の時湖が涸れると、城郭の跡を識別することができる。〉

烏程県。〈左伝襄公三年、楚が呉を伐ち衡山に至る。杜預は「県の南に在り」と言う。或いは丹陽県の横山と云い、鳩茲から遠からず、子重の至った所である。呉興記に「県西北の(其)〔卞〕山に項籍の祠有り。興平二年、太守許貢が奏して県を分けて永県と為す」とある。〉

餘杭県。〈顧夷は「秦の始皇が会稽に至るに此を経て、県を立てる」と言う。史記に、始皇が浙江に臨み、水波悪しく、乃ち西へ百二十里、狭中より渡る。徐廣は餘杭なりと言う。臣昭案ずるに、始皇の過ぎたる所は乃ち銭塘・富春に在り、豈に餘杭の界に近からんや?〉

毘陵は、季札が居住した地である。北江は北にある。〈越絶書に言う。「県の南城は、古い淹の地である。上湖の中にある塚は、季子の塚である。名を延陵墟という。」皇覧に言う、暨陽郷である。〉

丹徒、〈春秋に朱方とある。〉

曲阿、

由拳、〈左伝に言う、越が檇李で呉を破った。杜預が言う、県の南の酔李城である。干宝の捜神記に言う。「秦の始皇帝が東巡した時、望気者が『五百年後、江東に天子の気がある』と言った。始皇帝は到着し、囚徒十万人に命じてその地を掘り汚し、悪名を付けて表した。それ故に改めて由拳県と称した。」〉

安、〈越絶書に言う。「西岑塚がある。越王の孫開が立て、春申君に備えた。その子に守らせたが、子が死んだので遂に城中に葬った。」〉

富春、

陽羨、邑。〈郭璞が言う。「県に張公山があり、洞は密で二つの堂がある。」〉

無錫、侯国。〈史記に言う。「春申君が故呉の墟に城を築き、自らの都邑とした。」城は無錫にある。皇覧に言う。「呉王太伯の塚は、呉県北の梅里聚にあり、城から十里離れている。太伯が最初に居住した地名は句呉という。」臣昭が案ずるに、無錫県東の皇山に太伯の塚があり、民は代々敬いを修めている。墓から十里の所に旧宅と井戸がまだ残っている。臣昭は考えるに、その宅を以て廟を置いたのであり、皇覧の説く所とは異なる。越絶書に言う。「県西の龍尾陵道は、春申君が初めて呉に封ぜられた時に造ったものである。」臣昭が案ずるに、今現存するのは、もとより山の名であって、陵道を築いたのではない。〉

婁、

豫章郡

豫章郡は、高帝が設置した。洛陽の南二千七百里。二十一城、戸四十万六千四百九十六、口百六十六万八千九百六。〈豫章記に言う。「新呉、上蔡、永脩の県は、いずれも中平年間に立てられた。豫章県は、建安年間に立てられた。上蔡の民が分かれてこの地に移り、上蔡と名付けて立てた。」〉

南昌、〈豫章記に言う。「江、淮でこの県と呉、臨湘の三県だけが令である。」〉

建城、〈この地に上蔡と名付けて立てた者。豫章記に言う。「県に葛郷があり、石炭が二頃あり、炊事に燃やすことができる。」〉

新淦、

宜春、

廬陵(興平元年、孫策が廬陵郡を分立させた)。

贛には豫章水がある。

雩都。

南野には臺領山がある。

南城。

鄱陽には鄱水がある。黄金を採掘する(建安十五年、孫権が鄱陽郡を分立させ、県を治所とした)。

歷陵には傅易山がある。

餘汗。

鄡陽。

彭澤、彭蠡澤は西にある。

柴桑。

艾(左伝哀公二十年の呉の公子慶忌が居住した所)。

海昬、侯国(昌邑城にある。豫章記によると:「城の東十三里、県は江辺に列し、慨口と名付け、豫章の大江の出口である。昌邑王が流れに乗って東を望むたびに、憤慨して帰ったので、慨口と呼んだ」)。

平都、侯国、以前は安平。

石陽。

臨汝県、

永元八年に

設置された。

建昌県、

永元十六年に

海昬県を分割して設置された。

右揚州刺史部、六つの郡、九十二の県邑と侯国。