後漢書

巻一百十一・郡國三 兗州 徐州

巻一百十一・郡國三 兗州 徐州

 

 

兗州

原文兗州

 

陳留郡

原文陳留郡

 

武帝が設置した。洛陽の東五百三十里にある。十七城、戸十七万七千五百二十九、口八十六万九千四百三十三。

原文武帝置。雒陽東五百三十里。十七城,戸十七萬七千五百二十九,口八十六萬九千四百三十三。

 

陳留には鳴雁亭がある。(左伝成公十六年に衛が鄭を鳴雁で伐ったとあり、杜預によれば雍丘県の西北にある。陳留志には「桐陵亭があり、古くは桐丘と呼ばれた」とある。)

原文〖陳留〗有鳴鴈亭。(左傳成十六年衞伐鄭鳴鴈,杜預曰在〔雍丘〕縣西北。陳留志曰:「有桐陵亭,古桐丘。」)

 

浚儀は本来大梁である。(帝王世記には「禹が商均を避けて浚儀にいた」とある。晉地道記には「儀封人はこの県である」とある。通俗文には「渠は浚儀にあり、莨蕩と呼ばれる」とある。)

原文〖浚儀〗本大梁。(帝王世記曰:「禹避商均浚儀。」晉地道記:「儀封人,此縣也。」通俗文曰「渠在浚儀,曰莨蕩」也。)

 

尉氏(陳留志には「陵樹郷があり、北に沢があり、その沢の中に天子の苑囿があり、秦の楽廄があり、漢の諸帝が猛獣を馴養した」とある。)

原文〖尉氏〗(陳留志曰:「有陵樹鄕,北有澤,澤有天子菀囿,有秦樂廄,漢諸帝以馴養猛獸。」)

 

雍丘は本来杞国である。(陳留志には「城内に神井があり、霧や雹を起こすことができる」とある。案:徐齊民北征記には「呂祿臺があり、高さ七丈である。酈生祠がある」とある。曹植の禹廟讚には「禹祠があり、植がその城に移した。城は本来杞城と呼ばれた」とある。)

原文〖雍丘〗本[_]國。(陳留志曰:「城内有神井,能興霧雹。」案:徐齊民北征記曰:「有呂祿臺,髙七丈。有酈生祠。」曹植禹廟讚曰:「有禹祠,植移於其城,城本名杞城。」)

 

襄邑には滑亭がある。(左伝荘公三年に滑に駐屯したとあり、杜預によれば県の西北にある。)承匡城がある。(地道記によれば県の西にある。左伝文公十一年に晉の郤缺と承匡で会合した。桐門亭があり、黄門亭がある。襄公元年に鄫で会合したとあり、杜預によれば県の東南に鄫城がある。)

原文〖襄邑〗有滑亭。(左傳莊三年次於滑,杜預曰在縣西北。)有承匡城。(地道記曰在縣西。左傳文十一年會晉郤缺於承匡。有桐門亭,有黃門亭。襄元年會鄫,杜預曰縣東南有鄫城。)

 

外黄(左伝「恵公の末年、黄で宋の軍を破った」とあり、杜預によれば宋の邑で、県の東に黄城がある。)葵丘聚があり、斉の桓公がここで会合した。城中に曲棘里がある。(左伝昭公二十五年「宋公佐が曲棘で卒した」。)繁陽城がある。

原文〖外黃〗(左傳「惠公季年,敗宋師於黃」,杜預曰宋邑,縣東有黃城。)〗有葵丘聚,齊桓公會此,城中有曲棘里。(左傳昭二十五年「宋公佐卒曲棘」。)有繁陽城。

 

小黄(漢舊儀には「高祖の母は兵を起こした時に県の北で死に、小黄に陵廟を作った」とある。)

原文〖小黃〗(漢舊儀曰:「髙祖母起兵時死縣北,爲作陵廟於小黃。」)

 

東昬(陳留志には「かつての戸牖郷に陳平の祠がある」とある。)

原文〖東昬〗(陳留志曰:「故戸牖鄕有陳平祠。」)

 

済陽(武父郷がある。左伝桓公十二年「武父で盟を結んだ」とあり、杜預によれば県の東北に武父城がある。県の東南に戎城がある。県の都郷に行宮があり、光武帝が生まれた。)

原文〖濟陽〗(有武父鄕。左傳桓十二年「盟於武父」,杜預曰縣東北有武父城。縣東南有戎城。縣都鄕有行宮,光武生。)

 

平丘には臨済亭があり、田儋がここで死んだ。匡がある。(匡人の亭で、曹公が袁術を破った場所。)黄池亭がある。(陳留志には「黄亭は封丘にある」とある。左伝哀公十三年に黄池で盟を結んだとあり、杜預によれば封丘県の南にある。伝に「呉が子服景伯を囚えて帰還し、戸牖に至った」とあるが、それならば黄池は戸牖の西にあることになる。ある者は外黄県の東溝であるとするが、それは誤りである。)

原文〖平丘〗有臨濟亭,田儋死此。有匡。(匡人之亭,曹公破袁術處。)有黃池亭。(陳留志云:「黃亭在封丘。」左傳哀十三年盟黃池,杜預曰在〔封邱〕縣南。傳曰「呉囚子服景伯以還,及戸牖」,然卽黃池在戸牖西。或以爲外黃縣東溝,非也。)

 

封丘(博物記に狄溝があり、長丘で狄を破った場所であるという。)桐牢亭があり、あるいは古くは虫牢と呼ばれた。(左伝成公五年に諸侯が虫牢で会合した。陳留志:「鞠亭があり、古くは鞠居と呼ばれた。」)

原文〖封丘(博物記有狄溝,卽敗狄於長丘是也。)〗有桐牢亭,或曰古蟲牢。(左傳成五年諸侯會蟲牢。陳留志:「有鞠亭,古鞠居。」)

 

酸棗県(左伝に鄭の太叔が廩延に至ったとあり、杜預の注によれば県の北に延津がある。襄公五年に城棣で会合したとあり、杜預の注によれば県の西南に棣城がある。東に地烏巣があり、曹操が袁紹を破った場所である。陳留志には「城内に韓王の故宮闕がある」とある。)

原文〖酸棗〗(左傳鄭太叔至於廩延,杜預曰縣北有延津。襄五年會城棣,杜預曰縣西南有棣城。東有地烏巣,曹公破袁紹處。陳留志曰:「城内有韓王故宮闕。」)

 

長垣県(侯国)。匡城がある。(陳留志には「孔子がここに囲まれた」とある。北征記によれば城の周囲は三里。左伝僖公十五年に牡丘で会合し、匡に駐留したとあり、杜預の注によれば匡は県の西南にある。昭公十三年に平丘で会合したとあり、杜預の注によれば県の西南に平丘城がある。)蒲城がある。(左伝成公九年に蒲で会合したとあり、杜預の注によれば県の西南にある。史記に孔子が匡から蒲を経由したとある。陳留志には「子路の祠がある」とある。)祭城がある。(杜預の注によれば鄭の祭封人仲の邑。陳留志には「蘧伯玉の墓と祠がある」とある。また西南に宛亭がある。左伝僖公二十八年に衛人が宛濮で盟を結んだとあり、杜預の注によれば濮水に近い。)

原文〖長垣〗侯國。有匡城。(陳留志曰:「孔子(囚)〔圍〕此。」北征記城周三里。左傳僖十五年會牡丘,次於匡,杜預曰匡在縣西南。昭十三年會平丘,杜預曰縣西南有平丘城。)有蒲城。(左傳成九年會於蒲,杜預曰在縣西南。史記曰孔子自匡過蒲。陳留志云「有子路祠。」)有祭城。(杜預曰鄭祭封人仲邑。陳留志曰:「有蘧伯玉墓及祠。」又西南有宛亭。左傳僖二十八年衞人盟宛濮,杜預曰近濮水。)

 

己吾県(大棘郷がある。(左伝宣公二年に鄭が宋の軍を大棘で破ったとあり、杜預の注によれば襄邑県の南にある。)首郷がある。(左伝(桓八年)〔僖五年〕に斉侯が首止で(軍を)〔会合した〕とあり、杜預の注によれば襄邑の東南にあり、首(止城)〔郷〕がある。)

原文〖己吾〗有大棘鄕。(左傳宣二年鄭破宋師大棘,杜預曰在襄邑縣南。)有首鄕。(左傳(桓八)〔僖五〕年齊侯(師)〔會〕於首止,杜預曰在襄邑東南,有首(止城)〔鄕〕。)

 

考城県(もとは菑。(陳留志には「古い戴国の地名である」とある。杜預の注によれば「戴は外黄の東南にある」。爾雅には「木が立ったまま死ぬことを菑という」とある。呂氏春秋には「草が鬱蒼と茂ることを菑という」とある。)章帝の時に改名された。もとは梁に属した。(陳留志には「箕子の祠がある。穀亭がある。古い句瀆の丘である」とある。案ずるに本伝には蒲亭がある。)

原文〖考城〗故菑,(陳留志曰:「古戴國地名。」杜預曰:「戴在外黃東南。」爾雅曰:「木立死曰菑。」呂氏春秋:「草鬱卽爲菑。」)章帝更名。故屬梁。(陳留志曰:「有箕子祠。有穀亭。古句瀆之丘。」案本傳有蒲亭。)

 

圉県(もとは淮陽に属した。高陽亭がある。(陳留志には「万民の集まる所があり、王邑が翟義を破って屍を積んだ場所である」とある。前漢書に「今の高陽」とある。文穎の注によれば「高陽は聚邑の名で、県の西にある」。)

原文〖圉〗故屬淮陽。有髙陽亭。(陳留志曰:「有萬人聚,王邑破翟義積屍處。」前書「今髙陽」。文穎曰:「髙陽,聚邑名,在縣西。」)

 

扶溝県(もとは淮陽に属した。)

原文〖扶溝〗故屬淮陽。

 

東郡

原文東郡

 

秦の時代に設置された。洛陽から八百余里。十五城、戸数十三万六千八十八、人口六十万三千三百九十三。

原文秦置。去雒陽八百餘里。十五城,戸十三萬六千八十八,口六十萬三千三百九十三。

 

濮陽県(古くは昆吾国。(杜預の注によれば古い衛である。帝王世記には「顓頊が窮桑から商丘に遷った」とある。左伝に「衛は顓頊の墟である」とあり、杜預の注によれば帝丘で、昆吾氏がこれに因ったので昆吾の墟といい、県城内に顓頊の冢がある。皇覧には「冢は城門外の広陽里の中にある」とある。博物記には「桑中がその中にある」とある。)春秋の時は濮といった。咸城があり、あるいは古い咸国という。(左伝僖公十三年に咸で会同した。)清丘がある。(左伝に宣公十二年に清丘で盟を結んだとあり、杜預の注によれば県の東南にある。)鉏城がある。)

原文〖濮陽〗古昆吾國,(杜預曰古衞也。帝王世記曰:「顓頊自窮桑徙商丘。」左傳曰「衞,顓頊之墟」,杜預曰帝丘,昆吾氏因之,故曰昆吾之墟,縣城内有顓頊冢。皇覽曰:「冢在城門外廣陽里中。」博物記曰:「桑中在其中。」)春秋時曰濮。有咸城,或曰古咸國。(左傳僖十三年同會於鹹。)有淸丘。(左傳曰宣十二年盟淸丘,杜預曰縣東南。)有鉏城。

 

燕県(もとは南燕国。雍郷がある。(謝沈の書によれば、赤眉が雍郷を攻めた。)胙城があり、古い胙国である。平陽亭がある。(左伝哀公十六年「衛侯が孔悝に平陽で酒を飲ませた」。)瓦亭がある。(左伝に定公八年に瓦で会合したとあり、杜預の注によれば県の東北にある。)桃城がある。(史記に春申君が秦を説いて「王はまた甲兵を挙げて桃を抜き、邢に入った」とあるのがこれである。)

原文〖燕〗本南燕國。有雍鄕。(謝沈書曰,赤眉攻雍鄕。)有胙城,占胙國。有平陽亭。(左傳哀十六年「衞侯飲孔悝酒於平陽」。)有瓦亭。(左傳曰定八年會於瓦,杜預曰縣東北。)有桃城。(史記曰春申君説秦曰「王又舉甲拔桃入邢」是也。)

 

白馬県(韋郷がある。(杜預の注によれば「県の東南に韋城がある。古い豕韋氏の国である」。)

原文〖白馬〗有韋鄕。(杜預曰:「縣東南有韋城。古豕韋氏之國」。)

 

頓丘県(((白虎通)〔皇覧〕に「帝嚳の冢は城〔南〕の台陰の野〔中〕にある」とあるのがこれである。)

原文〖頓丘〗((白虎通)〔皇覽〕曰「帝嚳冢在城〔南〕臺陰野〔中〕」是也。)

 

東阿県(左伝桓公十年に桃丘で会合したとあり、杜預の注によれば県の東南に桃城がある。襄公十四年に孫林父が阿沢で衛侯を破ったとあり、杜預の注によれば県の西南に大沢がある。魏志に渠丘山がある。)清亭がある。(左伝隠公四年「清で出会った」のがこれである。)

原文〖東阿(左傳桓十年會於桃丘,杜預曰縣東南有桃城。襄十四年孫林父敗衞侯於阿澤,杜預曰縣西南大澤。魏志有渠丘山。)〗有淸亭。(左傳隱四年「遇於淸」是也。)

 

東武陽県(濕水が出る。)

原文〖東武陽〗濕水出。

 

范県(秦亭がある。(左伝荘公三十一年「秦に台を築いた」。地道記によれば県の西北にある。)

原文〖范〗有秦亭。(左傳莊三十一年「築臺於秦」。地道記在縣西北。)

 

臨邑県にはB925の廟がある。

原文〖臨邑〗有[B925]廟。

 

博平県

原文〖博平〗

 

聊城県には夷儀の聚がある。(左伝僖元年「邢遷於夷儀」。)聶城がある。(左伝曰「聊攝以東」。)

原文〖聊城〗有夷儀聚。(左傳僖元年「邢遷於夷儀」。)有聶城。(左傳曰「聊攝以東」。)

 

発干県

原文〖-{發干}-〗

 

楽平県は侯国。旧称は清で、章帝が改名した。

原文〖樂平〗侯國。故淸,章帝更名。

 

陽平県は侯国。莘亭がある。(杜預が伝に注して言うには、衛が新臺を造ったのは県の北である。衛が公子伋を殺した地なので、「待諸莘」と言う。)岡成城がある。(秦が蔡澤を岡成君に封じたが、詳細は不明。)

原文〖陽平〗侯國。有莘亭。(杜預注傳曰衞作新臺在縣北。衞殺公子伋之地,故曰「待諸莘」。)有岡成城。(秦封蔡澤爲岡成君,未詳。)

 

衛県は公国。本来は観という故国で、姚姓、光武帝が改名した。河牧城がある。(左伝文元年に戚で会合し、鄭が晋の中行氏を救い、晋が鄭を鉄で破った。杜預曰く、戚城の南に鉄丘がある。)竿城がある。(前書では故発干城。)

原文〖衞〗公國。本觀故國,姚姓,光武更名。有河牧城。(左傳文元年會於戚,鄭救晉中行氏,晉敗鄭鐵,杜預曰戚城南有鐵丘。)有竿城。(前書故-{發干}-(縣)〔城〕。)

 

穀城県は春秋時代の小穀である。(左伝莊三十二年「城小穀」。杜預曰く、城中に管仲の井戸がある。また伝に曰く、長狄の榮如の首を周首の北門に埋めた。杜預曰く、県の東北に周首亭がある。)巂下聚がある。(左伝僖二十六年に齊師を追って酅に至った。杜預曰く、県の西に酅下という地名がある。皇覽曰く:「県の東十五里に項羽の冢がある。」)

原文〖穀城〗春秋時小穀。(左傳莊三十二年「城小穀」,杜預曰城中有管仲井。又傳曰埋長狄榮如首於周首之北門,杜預曰縣東北有周首亭。)有巂下聚。(左傳僖二十六年追齊師至酅,杜預曰縣西有地名酅下。皇覽曰:「縣東十五里有項羽冢。」)

 

東平国

原文東平國

 

旧称は梁で、景帝が分けて濟東国とし、宣帝が改めた。洛陽の東九百七十五里。七城、戸七万九千十二、口四十四万八千二百七十。

原文故梁,景帝分爲濟東國,宣帝改。雒陽東九百七十五里。七城,戸七萬九千一十二,口四十四萬八千二百七十。

 

無塩県は本来の宿国で、任姓。(左伝昭二十五年に臧會が郈に奔った。杜預曰く、県の東南に郈鄕亭がある。)章城がある。(古い国。左伝莊三十年、齊が鄣を取った。)

原文〖無鹽〗本宿國,任姓。(左傳昭二十五年臧會奔郈,杜預曰縣東南有郈鄕亭。)有章城。(古國。左傳莊三十年,齊取鄣。)

 

東平陸県は六国時代に平陸と言った。闞亭がある。(左伝桓十一年に闞で会合した。杜預曰く、須昌県の東南にある。闞城があり、博物記によればこの亭がそれである。)堂陽亭がある。(旧県、後に廃止。)

原文〖東平陸〗六國時曰平陸。有闞亭。(左傳桓十一年會於闞,杜預曰在須昌縣東南。有闞城,博物記云卽此亭是。)有堂陽亭。(故縣,後省。)

 

富成県

原文〖富成〗

 

章県

原文〖章〗

 

壽張県は春秋時代に良と言い、漢代は壽良と言い、光武帝が壽張と改めた。堂聚があり、旧聚は東郡に属した。(地道記曰く:「蚩尤祠と狗城がある。」皇覽曰く:「蚩尤冢は縣の闞鄕城中にあり、高さ七丈である。」)

原文〖壽張〗春秋曰良,漢曰壽良,光武改曰壽張。有堂聚,故聚屬東郡。(地道記曰:「有蚩尤祠,狗城。」皇覽曰:「蚩尤冢在縣闞〔鄕〕城中,髙七丈。」)

 

須昌はもと東郡に属した。(杜預が言うには、「須句は古い国で、西北にある」という。)致密城があり、古い中都である。陽穀城がある。(左伝僖公三年に陽穀で会合した。杜預は県の北にあると言う。)

原文〖須昌〗故屬東郡。(杜預曰:「須句,古國,在西北。」)有致密城,古中都。有陽穀城。(左傳僖三年會陽穀,杜預曰在縣北。)

 

寧陽はもと泰山郡に属した。

原文〖寧陽〗故屬泰山。

 

任城国

原文任城國

 

章帝の元和元年、東平国を分けて任城国とした。洛陽の東千一百里。三つの城、戸三万六千四百四十二、口十九万四千百五十六。

原文章帝元和元年,分東平爲任城。雒陽東千一百里。三城,戸三萬六千四百四十二,口十九萬四千一百五十六。

 

任城はもと任国である。桃聚がある。(光武帝が桃郷で龐萌を破った。)

原文〖任城〗本任國。有桃聚。(光武破龐萌於桃鄕。)

 

亢父(左伝襄公十三年「邿を取る」。杜預は県に邿亭があると言う。哀公六年「邾瑕に城を築く」。杜預は県の北に邾瑕城があると言う。)

原文〖亢父〗(左傳襄十三年「取邿」,杜預曰縣有邿亭。哀六年「城邾瑕」,杜預曰縣北有邾瑕城。)

 

樊

原文〖樊〗

 

泰山郡

原文泰山郡

 

高帝が設置した。洛陽の東千四百里。十二の城、戸八千九百二十九、口四十三万七千三百十七。

原文髙帝置。雒陽東千四百里。十二城,戸八千九百二十九,口四十三萬七千三百一十七。

 

奉高には明堂があり、武帝が造営した。(前漢書では県の西南四里にあると言う。左伝昭公八年「紅で大規模な狩猟を行い、商・衛に至った」。紅亭は県の西北にあり、杜預は宋・衛と接すると言う。)

原文〖奉髙〗有明堂,武帝造。(前書曰在縣西南四里。左傳昭八年「大蒐於紅,至於商、衞」。紅亭在縣西北,杜預曰接宋、衞也。)

 

博には泰山廟がある。岱山は西北にある。亀山がある。(左伝定公十年、斉が亀陰の田を返還した。杜預は田は山の北にあると言う。琴操に孔子が亀山の操を作ったとある。)龍郷城がある。(左伝成公二年、斉が龍を包囲した。杜預は県の西南にあると言う。史記では「隆」と作る。また、楚に蜀の役があった。杜預は県の西北に蜀亭があると言う。)

原文〖博〗有泰山廟。岱山在西北。有龜山。(左傳定十年齊歸龜陰之田,杜預曰田在山北。琴操孔子作龜山之操。)有龍鄕城。(左傳成二年齊圍龍,杜預曰在縣西南。史記作「隆」。又楚有蜀之役,杜預曰縣西北有蜀亭。)

 

梁甫は侯国である。菟裘聚がある。(左伝隠公「菟裘を営ませよ、我はそこで老いよう」杜預は県の南に菟裘城があると言う。)

原文〖梁甫〗侯國。有菟裘聚。(左傳隱公「使營菟裘,吾將老焉」,杜預曰縣南有菟裘城。)

 

鉅平は侯国である。亭禅山がある。(これは古くに禅譲が行われた亭亭という場所である。)陽関亭がある。(左伝襄公十七年「師が陽関から出た」。桓公六年に成で会合した。杜預は県の東南にあると言う。成城は孟孫の邑である。)

原文〖鉅平〗侯國。有亭禪山。(卽古所禪亭亭者也。)有陽關亭。(左傳襄十七年「師自陽關」。桓六年會於成,杜預曰縣東南。成城卽孟孫之邑。)

 

嬴には鉄がある。

原文〖嬴〗有鐵。

 

山茌は侯国である。

原文〖山茌〗侯國。

 

萊蕪県には原山があり、潘水がここから流出する。(杜預の注によれば、汶水が出るという。)

原文〖萊蕪〗有原山,潘水出。(杜預曰汶水出。)

 

蓋県には沂水が流出する。(左伝に会於防とあり、杜預の注によれば県の東南にあり、防城があるという。)

原文〖蓋〗沂水出。(左傳會於防,杜預曰在縣東南,有防城。)

 

南武陽県は侯國である。顓臾城がある。

原文〖南武陽〗侯國。有顓臾城。

 

南城県はかつて東海郡に属していた。東陽城がある。(呂氏春秋に夏の孔甲が東陽萯山で狩りをしたとある。左伝哀公八年に「東陽を克つ」とある。襄公十九年に武城を築城し、杜預の注によれば南城県であるという。哀公十四年に司馬〔牛〕が丘輿に葬られ、杜預の注によれば県の西北に輿城があるという。)

原文〖南城〗故屬東海。有東陽城。(呂氏春秋夏孔甲遊田於東陽萯山。左傳哀八年「克東陽」。襄十九年城武城,杜預曰南城縣。哀十四年司馬〔牛〕葬丘輿,杜預曰縣西北有輿城。)

 

費県は侯國である。(曹勝が封じられた費は酇県の費亭であり、この國ではない。)かつて東海郡に属していた。[BD25]亭がある。(左伝隱公八年に鄭が祊を帰したとあり、杜預の注によれば県の東南にあるという。閔公二年に莒人が共仲及び密を帰したとあり、杜預の注によれば県に密如亭があるという。)臺亭がある。(左伝襄公十二年に莒が臺を囲んだとあり、杜預の注によれば県の南に臺亭があるという。)

原文〖費〗侯國,(曹勝封費是酇縣費亭,非此國。)故屬東海。有[BD25]亭。(左傳隱八年鄭歸祊,杜預曰在縣東南。閔二年莒人歸共仲及密,杜預曰縣有密如亭。)有臺亭。(左傳襄十二年莒圍臺,杜預曰縣南有臺亭。)

 

牟県はかつての國である。

原文〖牟〗故國。

 

濟北國

原文濟北國

 

和帝の永元二年、泰山郡を分割して設置された。(臣昭の案:濟北は前漢の舊國であり、これは泰山郡に併合された後、再び分割されたものである。)洛陽から東へ一千一百五十里。五つの城、戸四萬五千六百八十九、口二十三萬五千八百九十七。

原文和帝永元二年,分泰山置。(臣昭案:濟北,前漢之舊國,此是經幷泰山復分。)雒陽東千一百五十里。五城,戸四萬五千六百八十九,口二十三萬五千八百九十七。

 

盧県(左伝隱公三年に齊と鄭が盧で盟を結んだとあり、杜預の注によれば今の縣の故城であるという。邾山があり、縣の北にある。成公二年に鋭司徒の女を石窌に封じたとあり、杜預の注によれば縣の東に石窌という地名があるという。)平陰城がある。防門がある。(左伝襄公十八年に齊が晉を平陰で防ぎ、防門に塹壕を築いたとあり、杜預の注によれば縣の北にあるという。また齊が巫山に登って晉の軍勢を望んだとあり、杜預の注によれば縣の東北にあるという。)光里がある。景茲山がある。(杜預の注によれば縣の東南にあるという。)敖山がある。(左伝に「先君の獻公、武公が二つの山を廃した」とあり、即ち敖山と具山である。)淸亭がある。(左伝哀公十一年に、齊が魯を伐って淸に至ったというのがこれである。)長城が東海まで続いている。(史記蘇代が燕王に説いて曰く「齊には長城、巨防がある」と。巨防とは即ち防門である。)

原文〖盧(左傳隱三年齊鄭尋盧之盟,杜預曰今縣故城。有邾山,在縣北。成二年封鋭司徒女石窌,杜預曰縣東有地名石窌。)〗有平陰城。有防門。(左傳襄十八年齊禦晉平陰,塹防門,杜預曰在縣北。又齊登巫山以望晉師,杜預曰在縣東北。)有光里。有景茲山。(杜預曰在縣東南。)有敖山。(左傳曰「先君獻、武廢二山」,卽敖山、具山。)有淸亭。(左傳哀十〔一〕年,齊伐魯及淸是也。)有長城至東海。(史記蘇代説燕王曰「齊有長城、巨防」。巨防卽防門。)

 

蛇丘県には遂鄕がある。(古い遂國で、左伝莊公十三年に齊人が遂を滅ぼした。)下[F446]亭がある。(左伝桓公三年に姜氏を讙まで送った。)鑄鄕城がある。(周の武王は車から降りる間もなく、堯の後裔を鑄に封じた。左伝に棘地があり、成公三年に叔孫僑如がこれを囲んだ。杜預の注によれば汶水の北の地に棘鄕があるという。東觀書に芳陘山がある。)

原文〖蛇丘〗有遂鄕。(古遂國,左傳莊十三年齊人滅遂。)有下[F446]亭。(左傳桓三年送姜氏於讙。)有鑄鄕城。(周武王未及下車,封堯後於鑄。左傳有棘地,成公三年叔孫僑如所圍。杜預曰汶水北地有棘鄕。東觀書有芳陘山。)

 

成県はもと國である。(左伝に「衞の師が郕に入る」とあり、杜預の注によれば東平國剛父縣の西南に郕鄕があるという。)

原文〖成〗本國。(左傳「衞師入郕」,杜預曰東平剛父縣西南有郕鄕。)

 

茌平県はもと東郡に属していた。

原文〖茌平〗本屬東郡。

 

剛県(左伝哀公八年に齊が闡を取ったとあり、杜預の注によれば縣の北にあり、闡鄕があるという。)

原文〖剛〗(左傳哀八年齊取闡,杜預曰在縣北,有闡鄕。)

 

山陽郡

原文山陽郡

 

もと梁國であり、景帝の時に分割して設置された。洛陽から東へ八百一十里。十の城、戸十万九千八百九十八、口六十万六千九十一。

原文故梁,景帝分置。雒陽東八百一十里。十城,戸十萬九千八百九十八,口六十萬六千九十一。

 

昌邑県は刺史の治所である。梁丘城がある。(左伝荘公三十二年に梁丘で出会ったとあり、杜預の注によれば梁丘郷は県の西南にある。)甲父亭がある。(杜預によれば甲父は古い国名で、県の東南にある。左伝隠公十年に「防を取る」とあり、杜預は県の西に防城があるという。)

原文〖昌邑〗刺史治。有梁丘城。(左傳莊三十二年遇於梁丘,杜預曰梁丘鄕在縣西南。)有甲父亭。(杜預曰甲父,古國名,在縣東南。左傳隱十年「取防」,杜預曰縣西有防城。)

 

東緡県は春秋の時は緡といった。(左伝僖公二十三年に斉が緡を包囲した。)

原文〖東緡〗春秋時曰緡。(左傳僖二十三年齊圍緡。)

 

鉅野県(左伝桓公七年に「咸丘を焼く」とあり、杜預の注によれば県の西に咸亭がある。)大野沢がある。(春秋に西狩して麟を獲た場所である。爾雅の十藪に、魯に大野があるとある。杜預の注によれば県の西南に郥亭がある。定公十三年に斉が晋を討った場所。)

原文〖鉅野(左傳桓七年「焚咸丘」,杜預曰縣西有咸亭。)〗有大野澤。(春秋西狩獲麟之所。爾雅十藪,魯有大野。杜預曰縣西南有(〈具阝〉)〔郥〕亭。定十三年齊伐晉之所。)

 

高平県は侯国である。もとは橐県で、章帝の時に名を改めた。(前漢書地理志では王莽が高平と改め、章帝がこの王莽の呼称を復活させた。左伝隠公元年に費伯が郎を城したとあり、杜預の注によれば県の東南に鬱郎亭がある。)茅郷城がある。(杜預の注によれば茅郷は昌邑県の西南にある。)

原文〖髙平〗侯國。故橐,章帝更名。(前漢志莽改曰髙平,章帝復莽此號。左傳隱(九)〔元〕年費伯城郎,杜預曰縣東南有鬱郎亭。)有茅鄕城。(杜預曰茅鄕在昌邑西南。)

 

湖陸県はもとは湖陵県で、章帝の時に名を改めた。(前漢書地理志では王莽が湖陸と改め、章帝がその呼称を復活させた。博物記に苟水が出るとある。地道記によれば県の西に費亭城があり、魏武帝曹操が最初に封じられた所である。)

原文〖湖陸〗故湖陵,章帝更名。(前漢志在王莽改曰湖陸,章帝復其號。博物記曰苟水出。地道記縣西有費亭城,魏武帝初所封。)

 

南平陽県は侯国である。漆亭がある。(左伝に漆を城したとある。)閭丘亭がある。(左伝襄公二十一年に「邾の庶其が漆・閭丘をもって来奔した」とあり、杜預の注によれば県の東北に漆郷、西北に顕閭亭がある。哀公七年に邾子を負瑕に囚えたとあり、杜預の注によれば県の西北に瑕丘城がある。)

原文〖南平陽〗侯國。有漆亭。(左傳城漆。)有閭丘亭。(左傳襄二十一年「邾庶其以漆、閭丘來奔」,杜預曰縣東北有漆鄕,西北有顯閭亭。哀七年囚邾子負瑕,杜預曰縣西北有瑕丘城。)

 

方與県には武唐亭がある。(左伝桓公二年に唐で盟したとあり、杜預の注によれば県の西南にある。)魯侯の観魚台がある。(春秋経隠公五年に棠で魚を矢った。)泥母亭があり、あるいは古い甯母という。(左伝僖公七年に甯母で盟したとあり、杜預の注によれば県の東にある。三十一年に臧文仲が重館に宿ったとあり、杜預の注によれば県の西北に重郷城がある。)

原文〖方與〗有武唐亭,(左傳桓二年盟於唐,杜預曰在西南。)魯侯觀魚臺。(春秋經隱五年矢魚於棠。)有泥母亭,或曰古甯母。(左傳僖七年盟甯母,杜預曰在縣東。三十一年臧文仲宿重館,杜預曰縣西北有重鄕城。)

 

瑕丘県

原文〖瑕丘〗

 

金郷県(晉の地道記に「県には山が多く、治所の名は金山という。山の北に石を穿って作った冢があり、深さ十余丈、隧道の長さ三十丈、傍らに入って三方に堂をなしている。白兎を得て葬らず、さらに南山に葬ろうとして穿ったところ金を得たので、金山という。古い冢は今も存在する。あるいは漢の昌邑王が作ったといい、あるいは秦の時という。」とある。)

原文〖金鄕〗(晉地道記曰:「縣多山,所治名金山。山北有鑿石爲冢,深十餘丈,隧長三十丈,傍卻入爲堂三方,雲得白兔不葬,更葬南山,鑿而得金,故曰金山。故冢今在。或云漢昌邑所作,或云秦時。」)

 

防東県

原文〖防東〗

 

済陰郡

原文濟陰郡

 

もとは梁国で、景帝の時に分けて設置した。洛陽の東八百里にある。十一城、戸十三万三千七百十五、口六十五万七千五百五十四。

原文故梁,景帝分置。雒陽東八百里。十一城,戸十三萬三千七百一十五,口六十五萬七千五百五十四。

 

定陶県はもと曹国である。(郭璞によれば「城中に陶丘がある。」皇覧によれば「伯楽の冢は県の東南一里ばかりにあり、高さ四五丈。」)古い陶で、堯が住んだ所。(帝王世記によれば「舜が河濱で陶器を作ったのは、県の西南の陶丘亭である。」)三鬷亭がある。(湯が三鬷を伐った。孔安国によれば今の定陶である。)

原文〖定陶〗本曹國,(郭璞曰:「城中有陶丘。」皇覽曰:「伯樂冢縣東南一里所,髙四五丈。」)古陶,堯所居。(帝王世記曰:「舜陶河濱,縣西南陶丘亭是。」)有三[_]亭。(湯伐三鬷,孔安國曰今定陶。)

 

冤句県には煮棗城がある。(史記蘇秦伝で蘇秦が魏の襄王に説いて「大王の地は、東に淮・潁・煮棗がある。」といった。)

原文〖冤句〗有煮棗城。(史記蘇秦説魏襄王曰:「大王之地,東有淮、潁、煮棗。」)

 

成陽県には堯の冢・霊台があり、雷沢がある。(禹貢に「雷夏はすでに沢となった。」とある。帝王世記によれば「舜は歴山で耕し、雷沢で漁をした。済陰に歴山がある。」)

原文〖成陽〗有堯冢、靈臺,有雷澤。(禹貢曰:「雷夏旣澤。」帝王世記曰:「舜耕歴山,漁雷澤,濟陰有歴山。」)

 

乗氏は侯国である。(『博物記』によると、古くは乗丘と呼ばれた。)泗水がある。鹿城郷がある。

原文〖乘氏〗侯國。(博物記曰古乘丘。)有泗水。有鹿城鄕。

 

句陽には垂亭がある。(『左伝』隠公八年に垂で会った。『史記』に無忌が魏の安僖王に説いて「文台は崩れ落ち、垂都は焼かれた」とある。徐広は「県に垂亭がある」と言う。)

原文〖句陽〗有垂亭。(左傳隱八年遇於垂。史記無忌説魏安僖王曰:「文臺墮,垂都焚。」徐廣曰:「縣有垂亭。」)

 

鄄城

原文〖鄄城〗

 

離狐はかつて東郡に属していた。

原文〖離狐〗故屬東郡。

 

廩丘はかつて東郡に属していた。高魚城がある。運城がある。(『左伝』襄公二十六年「斉の烏余が廩丘をもって晋に奔った」、杜預は今の県の故城であると言う。また「衛の羊角を襲ってこれを取った」、杜預は今の県が治める城であると言う。また我が高魚を襲った、杜預は県の東北にあると言う。)

原文〖廩丘〗故屬東郡。有髙魚城。有運城。(左傳襄二十六年「齊烏餘以廩丘奔晉」,杜預曰今縣故城是。又「襲衞羊角取之」,杜預曰今縣所治城。又襲我髙魚,杜預曰在縣東北。)

 

単父は侯国で、かつて山陽に属していた。

原文〖單父〗侯國,故屬山陽。

 

成武はかつて山陽に属していた。(『左伝』隠公七年「戎が凡伯を楚丘で捕らえた」、杜預は県の西南にあると言う。)郜城がある。(『左伝』隠公十年「郜を取る」、杜預は県の東南に郜城があると言う。『地道記』には秺城がある。)

原文〖成武〗故屬山陽。(左傳隱七年「戎執凡伯於楚丘」,杜預曰在縣西南。)有郜城。(左傳隱十年「取郜」,杜預曰縣東南有郜城。地道記有秺城。)

 

己氏はかつて梁に属していた。(『皇覧』によると、平和郷があり、郷に伊尹の冢がある。)

原文〖己氏〗故屬梁。(皇覽曰有平和鄕,鄕有伊尹冢。)

 

以上が兗州刺史部で、郡・国は八、県・邑・公・侯国は八十。

原文右兗州刺史部,郡、國八,縣、邑、公、侯國八十。

 

徐州

原文徐州

 

東海郡

原文東海郡

 

高帝が設置した。洛陽の東千五百里。十三城、戸十四万八千七百八十四、口七十万六千四百一十六。

原文髙帝置,雒陽東千五百里。十三城,戸十四萬八千七百八十四,口七十萬六千四百一十六。

 

郯は本国で、刺史が治める。(『博物記』によると:「勇士亭があり、すなわち勇士菑丘欣である。」)

原文〖郯〗本國,刺史治。(博物記曰:「有勇(王)〔士〕亭,卽勇士(萬)〔菑〕丘欣。」)

 

蘭陵には次室亭がある。(『地道記』によると:「かつての魯の次室邑である。」『列女伝』に漆室の女があり、あるいは「次室」と作る。)

原文〖蘭陵〗有次室亭。(地道記曰:「故魯次室邑。」列女傳有漆室之女,或作「次室」。)

 

戚

原文〖戚〗

 

朐(山海経に言う、「都州は海中にあり、一に郁州という」と。郭璞が言う、「県の境界にある。世俗はこの山が蒼梧から移って来たと伝え、上には皆南方の樹木がある」と。博物記に、「県の東北海辺に植えられた石は、秦が立てた東門である」と)には鉄がある。伊盧郷がある。(史記に言う、鍾離昧の家が伊盧にあると。)

原文〖朐(山海經曰:「都州在海中,一曰郁州。」郭璞曰:「在縣界。世俗傳此山在蒼梧徙來,上皆有南方樹木。」博物記:「縣東北海邊植石,秦所立之東門。」)〗有鐵。有伊盧鄕。(史記曰,鍾離昧(冢)〔家〕在伊盧。)

 

襄賁

原文〖襄賁〗

 

昌慮には藍郷がある。(左伝昭公三十一年に邾の黒肱が濫をもって来奔した。杜預が言う、県の治所で、城の東北に郳城がある。郳は小邾国であると。)

原文〖昌慮〗有藍鄕。(左傳昭三十一年邾黑肱以濫來奔,杜預曰縣所治,城東北有郳城。郳,小邾國也。)

 

承

原文〖承〗

 

陰平

原文〖陰平〗

 

利城

原文〖利城〗

 

合郷(漷水はここから南へ湖陸に至る。)

原文〖合鄕〗(漷水自此南至湖陸。)

 

祝其には羽山がある。(鯀を誅した山。杜預が言う、県の西南にあると。博物記に言う、「東北に独居山があり、西南に淵水がある。これが羽泉で、俗にこの山を懲父山という」と。)春秋の時は祝其といい、夾谷の地である。(左伝定公十年に斉侯と夾谷で会い、孔子が相となった。)

原文〖祝其〗有羽山。(殛鯀之山。杜預曰在縣西南。博物記曰:「東北獨居山,西南有淵水,卽羽泉也,俗謂此山爲懲父山。」)春秋時曰祝其,夾谷地。(左傳定十年會齊侯夾谷,孔子相。)

 

厚丘(左伝成公九年「中城を築く」。杜預が言う、県の西南にあり、中郷城があると。)

原文〖厚丘〗(左傳成九年「城中城」,杜預曰在縣西南,有中鄕城。)

 

贛楡は本来琅邪に属したが、建初五年に復した。(左伝「斉が莒を伐ち、莒子が紀鄣に奔る」。杜預が言う、県の東北に紀城があると。地道記に言う、「海中、岸から百五十歩のところに、秦始皇の碑がある。長さ一丈いちじょう八尺、幅五尺、厚さ八尺三寸。一行十二字あざな。潮水が来るとその上三丈に達し、去ると三尺現れる」と。)

原文〖贛楡〗本屬琅邪,建初五年復。(左傳「齊伐莒,莒子奔紀鄣」,杜預曰縣東北有紀城。地道記曰:「海中去岸百五十歩,有秦始皇碑,長一丈八尺,廣五尺,厚八尺三寸;一行十二字。潮水至加其上三丈,去則三尺見也。」)

 

琅邪国

原文琅邪國

 

秦が設置した。建武年間に城陽国を廃し、その県をここに属させた。(本紀によれば、永寿元年に設置し、都尉が治めた。)洛陽の東一千五百里。十三城、戸二万八百四、口五十七万九百六十七。

原文秦置。建武中省城陽國,以其縣屬。(案本紀,永壽元年置,都尉治。)雒陽東一千五百里。十三城,戸二萬八百四,口五十七萬九百六十七。

 

開陽(杜預が言う、古い鄅であると。左伝哀公三年に啓陽を城す。杜預が言う、開陽であると。)は以前東海に属したが、建初五年にここに属した。

原文〖開陽(杜預曰古鄅。左傳哀三年城啓陽,杜預曰開陽。)〗故屬東海,建初五年屬。

 

東武

原文〖東武〗

 

琅邪(山海経に言う、琅邪臺があり、勃海の間にあり、琅邪の東にあると。郭璞が言う、「琅邪は海辺に臨み、山が嶕嶢として特起し、高台のようである。これが琅邪臺である」と。斉の景公が言う、「我、海に沿って南し、琅邪に放つ」と。越絶に言う、「句踐が琅邪に遷り、観臺を築き、臺は周囲七里で、東海を望んだ」と。史記に言う、秦始皇が黔首三万家を琅邪臺の下に移したと。伝に労山がある。)

原文〖琅邪〗(山海經雲有琅邪臺,在勃海閒,琅邪之東。郭璞曰:「琅邪臨海邊,有山嶕嶢特起,狀如髙臺。此卽琅邪臺。」齊景公曰:「吾循海而南,放乎琅邪。」越絶曰:「句踐徙琅邪,起觀臺,臺周七里,以望東海。」史記曰秦始皇徙黔首三萬戸琅邪臺下。傳有勞山。)

 

東莞県には鄆亭がある。(左伝に「公が鄆に居た」とある。)邳郷がある。公来山がある。あるいは古くは浮来と呼ばれた。(左伝の隠公八年に浮来で盟約を結んだとあり、杜預は邳来山の間を邳来と号したという。荘公九年に鮑叔が管仲を受け入れ、堂阜に至って彼の縄を解いた。杜預は「東莞郡蒙陰県の西北に夷吾亭があり、あるいは鮑叔がここで夷吾(管仲)の縄を解いたため、この名がついたという。」これが古の堂阜であり、東莞は後に郡となった。)

原文〖東莞〗有鄆亭。(左傳曰「公處鄆」。)有邳鄕。有公來山。或曰古浮來。(左傳隱八年盟浮來,杜預曰邳來山之閒,號曰邳來。莊九年鮑叔受管仲,及堂阜而脱之。杜預曰:「東莞蒙陰縣西北有夷吾亭,或曰鮑叔解夷吾縛於此,因以爲名。」卽古堂阜也,東莞後爲(名)〔郡〕。)

 

西海県(東観書には勝山があるという。博物記には「太公呂望が出た所で、今に東呂郷がある。また棘津で釣りをし、その浦は今も残っている。」とある。)

原文〖西海〗(東觀書曰有勝山。博物記:「太公呂望所出,今有東呂鄕。又釣於棘津,其浦今存。」)

 

諸県(左伝荘公二十九年に「諸を城す」とあり、杜預は諸県は城陽郡にあるという。また隠公四年に「莒が杞を伐ち、牟婁を取る」とあり、杜預は県の東北に婁郷があるという。)

原文〖諸〗(左傳莊二十九年「城諸」,杜預曰諸縣在城陽郡。又隱四年「莒人伐杞,取牟婁」,杜預曰縣東北有婁鄕。)

 

莒県は本来は国で、かつて城陽郡に属した。(左伝成公八年に申公巫臣が渠丘公と会ったとあり、杜預は県に蘧丘里があるという。)鉄がある。崢嶸谷がある。

原文〖莒〗本國,故屬城陽。(左傳成八年申公巫臣會渠丘公,杜預曰縣有蘧丘里。)有鐵。有崢嶸谷。

 

東安県はかつて城陽郡に属した。

原文〖東安〗故屬城陽。

 

陽都県はかつて城陽郡に属した。牟臺がある。(左伝宣公元年に平州で会合したとあり、杜預は県の西にあるという。)

原文〖陽都〗故屬城陽。有牟臺。(左傳宣元年會於平州,杜預曰在縣西。)

 

臨沂県はかつて東海郡に属した。叢亭がある。(左伝隠公六年に艾で盟約を結んだとあり、杜預は県の東南に艾山があるという。七年に「中丘を城す」とあり、杜預は県の東北に中丘亭があるという。博物記には「県の東の境界、次睢に大叢社があり、民はこれを食人社と呼び、すなわち次睢の社である。」とある。)

原文〖臨沂〗故屬東海。有叢亭。(左傳隱六年盟於艾,杜預曰縣東南有艾山。七年「城中丘」,杜預曰縣東北有中丘亭。博物記曰:「縣東界次睢有大叢社,民謂之食人社,卽次睢之社。」)

 

即丘県は侯国で、かつて東海郡に属し、春秋では祝丘と呼ばれた。

原文〖卽丘〗侯國,故屬東海,春秋曰祝丘。

 

繒県は侯国で、かつて東海郡に属した。槪亭がある。(左伝荘公九年に蔇で盟約を結んだとあり、杜預は県の北にあるという。)

原文〖繒〗侯國,故屬東海。有槪亭。(左傳莊九年盟於蔇,杜預曰在縣北。)

 

姑幕県(左伝昭公五年に「莒の牟夷が牟婁及び防茲を以て来奔す」とあり、杜預は県の東北に茲亭があるという。博物記には淮水が流入するとある。城の東南五里に公冶長の墓がある。)

原文〖姑幕〗(左傳昭五年「莒牟夷以牟婁及防茲來奔」,杜預曰縣東北有茲亭。博物記曰淮水入。城東南五里有公冶長墓。)

 

彭城国

原文彭城國

 

高祖が楚として設置し、章帝が改めた。洛陽の東千二百二十里。八城、戸八万六千百七十、口四十九万三千二十七。

原文髙祖置爲楚,章帝改。雒陽東千二百二十里。八城,戸八萬六千一百七十,口四十九萬三千二十七。

 

彭城県(古の大彭邑。北征記によると城の西二十里に山があり、山に楚元王の墓がある。伏滔の北征記によると「城の北六里に山があり、泗水に臨み、宋の桓魋の石槨があり、皆青石で、亀・龍・鱗・鳳の模様が浮き彫りになっている。」)鉄がある。

原文〖彭城(古大彭邑。北征記城西二十里有山,山有楚元王墓。伏滔北征記曰:「城北六里有山,臨泗,有宋桓魋石槨,皆靑石,隱起龜龍鱗鳳之象。」)〗有鐵。

 

武原県

原文〖武原〗

 

傅陽県には[_]水がある。(左伝襄公十年に偪陽を滅ぼしたとあり、杜預はこれがこの県であるという。)

原文〖傅陽〗有[_]水。(左傳襄十年滅偪陽,杜預曰卽此縣也。)

 

呂

原文〖呂〗

 

留(西征記によると、城の中に張良廟がある。)

原文〖留〗(西征記曰城中有張良廟。)

 

梧

原文〖梧〗

 

菑丘

原文〖菑丘〗

 

広戚(以前は沛に属していた。)

原文〖廣戚〗故屬沛。

 

広陵郡

原文廣陵郡

 

景帝の時に江都として設置され、武帝の時に改名された。建武年間に泗水国を廃止し、その県をここに属させた。洛陽の東一千六百四十里。十一城、戸八万三千九百七、口四十一万百九十。

原文景帝置爲江都,武帝更名。建武中省泗水國,以其縣屬。雒陽東一千六百四十里。十一城,戸八萬三千九百七,口四十一萬百九十。

 

広陵(呉王劉濞の都があった。城の周囲は十四里半。)東陵亭がある。(博物記によると:「女子の杜姜は、左道で神と通じ、県は妖術とみなして獄に閉じ込め桎梏をはめたが、ついに姿を変え、どこへ行ったか分からなくなった。状況を上奏したため、その場所を廟祠とし、東陵聖母と号した。」)

原文〖廣陵(呉王濞所都,城周十四里半。)〗有東陵亭。(博物記曰:「女子杜姜,左道通神,縣以爲妖,閉獄桎梏,卒變形莫知所極。以狀上,因以其處爲廟祠,號曰東陵聖母。」)

 

江都(江水祠がある。)

原文〖江都〗有江水祠。

 

高郵

原文〖髙郵〗

 

平安

原文〖平安〗

 

淩(以前は泗水に属していた。)

原文〖淩〗故屬泗水。

 

東陽(以前は臨淮に属していた。)長洲沢があり、呉王劉濞の太倉がここにある。(県には麋が多い。博物記によると:「千頭単位で群れをなし、草の根を掘り食い、その場所が泥になり、麋畯と呼ばれる。民はこの畯に従って稲を植え、耕さずに収穫し、その収穫は百倍になる。」また、扶海洲には蒒という名の草があり、その実は大麦のように食べられる。七月から実りが熟し、民は収穫を集めて冬までに終える。自然穀、あるいは禹餘糧と呼ばれる。)

原文〖東陽〗故屬臨淮。有長洲澤,呉王濞太倉在此。(縣多麋。博物記曰:「千千爲群,掘食草根,其處成泥,名曰麋畯。民人隨此畯種稻,不耕而穫,其收百倍。」又扶海洲上有草名蒒,其實食之如大麥,從七月稔熟,民斂穫至冬乃訖,名曰自然穀,或曰禹餘糧。)

 

射陽(以前は臨淮に属していた。)(梁湖がある。地道記によると博支湖がある。)

原文〖射陽〗故屬臨淮。(有梁湖。地道記曰有博支湖。)

 

塩瀆(以前は臨淮に属していた。)

原文〖鹽瀆〗故屬臨淮

 

輿侯国、もとは臨淮郡に属した。

原文〖輿〗侯國,故屬臨淮。

 

堂邑、もとは臨淮郡に属した。鉄がある。春秋時代は堂と呼ばれた。

原文〖堂邑〗故屬臨淮。有鐵。春秋時曰堂。

 

海西、もとは東海郡に属した。

原文〖海西〗故屬東海。

 

下邳国

原文下邳國

 

武帝が臨淮郡として設置し、永平15年に下邳国に改められた。洛陽の東1400里にある。17城、戸数136,389、人口611,083。

原文武帝置爲臨淮郡,永平十五年更爲下邳國。雒陽東千四百里。十七城,戸十三萬六千三百八十九,口六十一萬一千八十三。

 

下邳、もとは東海郡に属した。(戴延之の『西征記』に「沂水があり、城西から西南へ流れて泗水に注ぎ、別の流れは南に回って城の南で泗水に注ぐ。かつて橋があった場所で、張良と黄石公がこの橋で会った」とある。)葛嶧山がある。もとは嶧陽山である。(山は名桐を産出する。伏滔の『北征記』に今も盤根がしばしば残っているとある。)鉄がある。

原文〖下邳〗本屬東海。(戴延之西徴記曰:「有沂水,自城西西南注泗,別下迴城南,亦注泗。舊有橋處,張良與黃石公會此橋。」)有葛嶧山,本嶧陽山。(山出名桐,伏滔北征記曰今槃根往往而存。)有鐵。

 

徐、もとは国であった。楼亭がある。あるいは古い蔞林であるという。(杜預は僮県の東南にあると言う。伏滔の『北征記』に「県の北に大きな塚、徐君の墓があり、延陵季札が剣を解いた場所である」とある。)

原文〖徐〗本國。有樓亭,或曰古蔞林。(杜預曰在僮縣東南。伏滔北征記曰:「縣北有大冢,徐君墓,延陵解劍之處。」)

 

僮侯国。

原文〖僮〗侯國。

 

睢陵

原文〖睢陵〗

 

下相

原文〖下相〗

 

淮陰(下鄕に南昌亭があり、韓信が寄食した場所である。)

原文〖淮陰〗(下鄕有南昌亭,韓信寄食處。)

 

淮浦

原文〖淮浦〗

 

盱臺

原文〖盱臺〗

 

髙山

原文〖髙山〗

 

潘旌

原文〖潘旌〗

 

淮陵

原文〖淮陵〗

 

取慮には蒲姑陂がある。(左伝昭公十六年に斉の軍が蒲隧に至った。杜預は県の東に蒲姑陂があると言う。)

原文〖取慮〗有蒲姑陂。(左傳昭十六年齊師至蒲隧,杜預曰縣東有蒲姑陂。)

 

東成

原文〖東成〗

 

曲陽は侯国で、もとは東海郡に属した。

原文〖曲陽〗侯國,故屬東海。

 

司吾は侯国で、もとは東海郡に属した。

原文〖司吾〗侯國,故屬東海。

 

良成はもとは東海郡に属した。春秋の時は良と言った。(左伝昭公十三年に晋が呉と良で会合した。)

原文〖良成〗故屬東海。春秋時曰良。(左傳昭十三年晉會呉於良。)

 

夏丘はもとは沛郡に属した。

原文〖夏丘〗故屬沛。

 

右は徐州刺史部で、郡と国が五つ、県と邑と侯国が六十二ある。(魏氏春秋に言う。「初平三年、琅邪と東海を分けて城陽、利城、昌慮の郡とした。建安十一年、昌慮を廃して東海に併合した。」)

原文右徐州刺史部,郡、國五,縣、邑、侯國六十二。(魏氏春秋曰:「初平三年,分琅邪、東海爲城陽、(新)〔利〕城、昌慮郡。建安十一年,省昌慮幷東海。」)