後漢書

『志』第二十一

郡国三 兗州、徐州

 

志第二十一  郡国三

兗州

陳留郡

武帝が設置した。洛陽の東五百三十里にある。十七城、戸十七万七千五百二十九、口八十六万九千四百三十三。

陳留県には鳴雁亭がある。左伝成公十六年に衛が鄭を伐った鳴雁は、杜預によれば雍丘県の西北にある。陳留志には「桐陵亭があり、古くは桐丘と呼ばれた」とある。

浚儀県は本来大梁である。帝王世記には「禹が商均を避けたのが浚儀である」とある。晉地道記には「儀封人はこの県である」とある。通俗文には「渠は浚儀にあり、莨蕩と呼ばれる」とある。

尉氏県には陵樹郷があり、北に沢があり、その沢の中に天子の苑囿があり、秦の楽廄があり、漢の諸帝が猛獣を馴養した。

雍丘県は本来杞国である。陳留志には「城内に神井があり、霧や雹を起こすことができる」とある。徐齊民の北征記には「呂禄臺があり、高さ七丈である。酈生祠がある」とある。曹植の禹廟讚には「禹祠があり、植がその城に移した。城は本来杞城と呼ばれた」とある。

襄邑県には滑亭がある。左伝荘公三年に滑に駐屯したが、杜預によれば県の西北にある。

承匡城がある。〈地道記に「県の西にある」とある。左伝文公十一年に晋の郤缺と承匡で会った。桐門亭があり、黄門亭がある。襄公元年に鄫で会った。杜預は「県の東南に鄫城がある」という。〉

外黄県。〈左伝「恵公の末年、黄で宋の師を破った」。杜預は「宋の邑、県の東に黄城がある」という。〉

葵丘の聚があり、斉の桓公がここで会合した。城の中に曲棘里がある。〈左伝昭公二十五年「宋公佐が曲棘で卒した」。〉

繁陽城がある。

小黄県。〈漢旧儀に「高祖の母は兵を起こした時に県の北で死に、小黄に陵廟を作った」とある。〉

東昬県。〈陳留志に「故戸牖郷に陳平の祠がある」とある。〉

済陽県。〈武父郷がある。左伝桓公十二年「武父で盟を結んだ」。杜預は「県の東北に武父城がある」という。県の東南に戎城がある。県の都郷に行宮があり、光武帝が生まれた。〉

平丘県。臨済亭があり、田儋がここで死んだ。匡がある。〈匡人の亭で、曹操が袁術を破った場所。〉

黄池亭がある。〈陳留志に「黄亭は封丘にある」とある。左伝哀公十三年に黄池で盟を結んだ。杜預は「〔封丘〕県の南にある」という。伝に「呉が子服景伯を囚えて還り、戸牖に至った」とある。すると黄池は戸牖の西にあることになる。ある者は外黄県の東溝としているが、それは誤りである。〉

封丘県。〈博物記に狄溝があり、長丘で狄を破ったのがこれである。〉

桐牢亭があり、あるいは古い虫牢であるという。〈左伝成公五年に諸侯が虫牢で会合した。陳留志:「鞠亭があり、古い鞠居である。」〉

酸棗県。〈左伝で鄭の太叔が廩延に至った。杜預は「県の北に延津がある」という。襄公五年に城棣で会合した。杜預は「県の西南に棣城がある」という。東に地烏巣があり、曹操が袁紹を破った場所。陳留志に「城内に韓王の故宮闕がある」とある。〉

長垣県。侯国。匡城がある。〈陳留志に「孔子がここに〔囲まれた〕」とある。北征記に城の周囲は三里。左伝僖公十五年に牡丘で会合し、匡に駐屯した。杜預は「匡は県の西南にある」という。昭公十三年に平丘で会合した。杜預は「県の西南に平丘城がある」という。〉

蒲城がある。〈左伝成公九年に蒲で会合した。杜預は「県の西南にある」という。史記に孔子が匡から蒲を過ぎたとある。陳留志に「子路の祠がある」とある。〉

祭城がある。〈杜預は「鄭の祭封人仲の邑」という。陳留志に「蘧伯玉の墓と祠がある」とある。また西南に宛亭がある。左伝僖公二十八年に衛人が宛濮で盟を結んだ。杜預は「濮水に近い」という。〉

己吾県には大棘郷がある。

首郷がある。

考城県はもと菑と呼ばれ、

章帝の時に名を改めた。もとは梁国に属した。

圉県はもと淮陽国に属した。高陽亭がある。

扶溝県はもと淮陽国に属した。

東郡

秦により設置された。洛陽から八百余里。十五城、戸十三万六千八十八、口六十万三千三百九十三。

濮陽県は古くは昆吾国であり、

春秋の時は濮と呼ばれた。咸城があり、あるいは古い咸国であるともいう。

清丘がある。

鉏城がある。

燕県はもと南燕国である。雍郷がある。

胙城があり、古い胙国である。平陽亭がある。

瓦亭がある。

桃城がある。〈史記に「春申君が秦を説いて『王また甲を挙げて桃を抜き、邢に入る』と曰う」とあるのがこれである。〉

白馬県には韋郷がある。〈杜預が「県の東南に韋城あり。古の豕韋氏の国なり」と注している。〉

頓丘県。〈皇覧に「帝嚳の冢は城の南の台陰の野中にある」とあるのがこれである。〉

東阿県。〈左伝桓公十年に「桃丘で会す」とあり、杜預は「県の東南に桃城あり」と注す。襄公十四年に孫林父が阿沢で衛侯を破り、杜預は「県の西南に大沢あり」と注す。魏志に渠丘山あり。〉

清亭がある。〈左伝隠公四年「清で遇う」とあるのがこれである。〉

東武陽県。濕水がここから出る。

范県には秦亭がある。〈左伝荘公三十一年「秦に台を築く」とある。地道記には県の西北にあると記す。〉

臨邑県には[B925]廟がある。

博平県。

聊城県には夷儀聚がある。〈左伝僖公元年「邢、夷儀に遷る」とある。〉

聶城がある。〈左伝に「聊・摂以東」とある。〉

発干県。

楽平県。侯国。もとは清県であり、章帝が名を改めた。

陽平県。侯国。莘亭がある。〈杜預が伝に注して「衛が新臺を作るは県の北にあり」とし、衛が公子伋を殺した地であるため、「諸を莘に待つ」と言うのである。〉

岡成城がある。〈秦が蔡沢を岡成君に封じたが、詳細は不明である。〉

衛公國。本来は観の故国で、姚姓。光武帝が改名した。河牧城がある。

竿城がある。

穀城は春秋時代の小穀である。

巂下聚がある。

東平国

かつては梁であり、景帝が済東国に分け、宣帝が改めた。洛陽の東975里にある。7城、戸79,012、口448,270。

無塩は本来、宿国で、任姓である。

章城がある。

東平陸は六国の時代に平陸と呼ばれた。闞亭がある。

堂陽亭がある。

富成

寿張は春秋時代に良と呼ばれ、漢代には寿良と呼ばれたが、光武帝が寿張と改めた。堂聚があり、かつては東郡に属した聚である。

須昌はかつて東郡に属した。

致密城があり、古い中都である。陽穀城がある。

寧陽はもと泰山郡に属していた。

任城国

章帝

元和元年

、東平国を分割して任城国を置いた。洛陽の東一千一百里。三つの城、戸三万六千四百四十二、口十九万四千一百五十六。

任城はもと任国である。桃聚がある。(光武帝が桃郷で龐萌を破った。)

亢父(左伝襄公十三年に「邿を取る」とあり、杜預は県に邿亭があるという。哀公六年に「邾瑕に城す」とあり、杜預は県の北に邾瑕城があるという。)

泰山郡

高帝が設置した。洛陽の東一千四百里。十二の城、戸八千九百二十九、口四十三万七千三百一十七。

奉高には明堂があり、武帝が造営した。(前漢書によれば県の西南四里にある。左伝昭公八年に「紅で大規模な狩猟を行い、商・衛に至る」とある。紅亭は県の西北にあり、杜預は宋・衛と接すると言う。)

博には泰山廟がある。岱山は西北にある。亀山がある。(左伝定公十年に斉が亀陰の田を返還したとあり、杜預は田は山の北にあるという。琴操に孔子が亀山の操を作ったとある。)

龍郷城がある。(左伝成公二年に斉が龍を包囲したとあり、杜預は県の西南にあるという。史記は「隆」と作る。また楚に蜀の役があり、杜預は県の西北に蜀亭があるという。)

梁甫は侯国である。菟裘聚がある。(左伝隠公に「菟裘を営ませよ、我はそこで老いよう」とあり、杜預は県の南に菟裘城があるという。)

鉅平は侯国である。亭禅山がある。(これは古に禅を行った亭亭という場所である。)

陽関亭があった。(左伝襄公十七年に「師自陽関」とある。桓公六年に成で会合したが、杜預は県の東南にあるという。成城はすなわち孟孫の邑である。)

嬴には鉄があった。

山茌は侯国である。

萊蕪には原山があり、潘水がここから出る。(杜預は汶水が出るとする。)

蓋からは沂水が出る。(左伝に防で会合したとあり、杜預は県の東南にあり、防城があるという。)

南武陽は侯国である。顓臾城があった。

南城はもと東海郡に属した。東陽城があった。(呂氏春秋に夏の孔甲が東陽萯山で狩猟をした。左伝哀公八年に「克東陽」とある。襄公十九年に武城を築城したが、杜預は南城県という。哀公十四年に司馬〔牛〕が丘輿に葬られたが、杜預は県の西北に輿城があるという。)

費は侯国である。(曹勝が封じられた費は酇県の費亭であり、この国ではない。)

もと東海郡に属した。[BD25]亭があった。(左伝隠公八年に鄭が祊を帰したが、杜預は県の東南にあるという。閔公二年に莒人が共仲と密を帰したが、杜預は県に密如亭があるという。)

臺亭があった。(左伝襄公十二年に莒が臺を包囲したが、杜預は県の南に臺亭があるという。)

牟はもとの国である。

済北国

和帝

永元二年

、泰山郡を分けて設置した。(臣昭が案ずるに、済北は前漢の旧国であり、これは泰山郡を併合した後、再び分けたものである。)

洛陽から東へ千百五十里。五つの城があり、戸数四万五千六百八十九、人口二十三万五千八百九十七。

盧県(『左伝』隠公三年に斉・鄭が盧で盟を結んだとあり、杜預の注によれば、現在の県の故城である。邾山があり、県の北にある。成公二年に鋭司徒の娘に石窌が封じられたとあり、杜預の注によれば、県の東に石窌という地名がある。)

平陰城がある。防門がある。(『左伝』襄公十八年に斉が晋を平陰で防ぎ、防門に塹壕を築いたとあり、杜預の注によれば、県の北にある。また、斉が巫山に登って晋軍を望んだとあり、杜預の注によれば、県の東北にある。)

光里がある。景茲山がある。(杜預の注によれば、県の東南にある。)

敖山がある。(『左伝』に「先君の献公・武公が二山を廃した」とあり、それが敖山と具山である。)

清亭がある。(『左伝』哀公十一年に、斉が魯を伐って清に至ったのがこれである。)

長城が東海まで続いている。(『史記』蘇代が燕王に説いた言葉に「斉には長城と巨防がある」とある。巨防とは防門のことである。)

蛇丘県には遂郷がある。(古い遂国で、『左伝』荘公十三年に斉人が遂を滅ぼした。)

下讙亭がある。(『左伝』桓公三年に姜氏を讙まで送った。)

鑄郷城がある。(周の武王が車から降りる間もなく、堯の後裔を鑄に封じた。『左伝』に棘地があり、成公三年に叔孫僑如が包囲した。杜預の注によれば、汶水の北の地に棘郷がある。『東観漢書』に芳陘山がある。)

成県はもと国であった。(『左伝』に「衛の軍が郕に入った」とあり、杜預の注によれば、東平剛父県の西南に郕郷がある。)

茌平県はもと東郡に属していた。

剛県(『左伝』哀公八年に斉が闡を取ったとあり、杜預の注によれば、県の北に闡郷がある。)

山陽郡

もと梁国であり、景帝の時に分割して設置された。洛陽から東へ八百十里。十城、戸数十万九千八百九十八、人口六十万六千九十一。

昌邑県は刺史の治所である。梁丘城がある。〈左伝荘公三十二年に梁丘で出会った。杜預が言うには、梁丘郷は県の西南にある。〉

甲父亭がある。〈杜預が言うには、甲父は古い国名で、県の東南にある。左伝隠公十年に「防を取る」とあり、杜預が言うには県の西に防城がある。〉

東緡県は春秋の時は緡と呼ばれた。〈左伝僖公二十三年に斉が緡を包囲した。〉

鉅野県〈左伝桓公七年に「咸丘を焼く」とあり、杜預が言うには県の西に咸亭がある。〉

大野沢がある。〈春秋に西狩して麟を獲た場所である。爾雅の十藪に、魯には大野があるとある。杜預が言うには県の西南に郥亭がある。定公十三年に斉が晋を討った場所である。〉

高平県は侯国である。もとは橐県で、章帝の時に名を改めた。〈前漢書地理志では王莽が高平と改称し、章帝がこの王莽の称号を復活させた。左伝隠公元年に費伯が郎を城した。杜預が言うには県の東南に鬱郎亭がある。〉

茅郷城がある。〈杜預が言うには茅郷は昌邑県の西南にある。〉

湖陸県はもとは湖陵県で、章帝の時に名を改めた。〈前漢書地理志では王莽が湖陸と改称し、章帝がその称号を復活させた。博物記に苟水が出るとある。地道記に県の西に費亭城があり、魏武帝が最初に封じられた所だとある。〉

南平陽県は侯国である。漆亭がある。〈左伝に漆を城したとある。〉

閭丘亭がある。〈左伝襄公二十一年に「邾の庶其が漆と閭丘を持って来て奔った」とあり、杜預が言うには県の東北に漆郷があり、西北に顕閭亭がある。哀公七年に邾子を負瑕に囚えた。杜預が言うには県の西北に瑕丘城がある。〉

方与県には武唐亭がある。〈左伝桓公二年に唐で盟を結んだ。杜預が言うには西南にある。〉

魯侯の観魚台がある。〈春秋経隠公五年に棠で魚を矢で射た。〉

泥母亭があり、あるいは古い甯母であるという。〈左伝僖公七年に甯母で盟を結んだ。杜預が言うには県の東にある。三十一年に臧文仲が重館に宿った。杜預が言うには県の西北に重郷城がある。〉

瑕丘県

金郷県〈晋の地道記に言うには、「県には山が多く、治所の名は金山という。山の北に石を穿って作った冢があり、深さ十余丈、隧道の長さ三十丈、傍らに退いて入ると三方に堂があり、白兎を得て葬らず、さらに南山に葬ろうとして穿つと金を得たので、金山と言う。故冢は今も存在する。あるいは漢の昌邑王が作ったとも、あるいは秦の時ともいう。」〉

防東郡

済陰郡

かつて梁国であったが、景帝の時に分割して設置された。洛陽の東八百里。十一城、戸数十三万三千七百十五、人口六十五万七千五百五十四。

定陶県 本来は曹国であった。

古くは陶と呼ばれ、堯が居住した地である。

三鬷の亭がある。

冤句県 煮棗城がある。

成陽県 堯の墓と霊台があり、雷沢がある。

乗氏県 侯国。

泗水があり、鹿城郷がある。

句陽県 垂亭がある。

鄄城県

離狐県 かつては東郡に属していた。

廩丘県 かつては東郡に属していた。高魚城がある。運城がある。

単父県 侯国、かつては山陽郡に属していた。

成武県は、もとは山陽郡に属していた。〈左伝の隠公七年に「戎が凡伯を楚丘で捕らえた」とあり、杜預の注によれば、その地は県の西南にあるという。〉

郜城がある。〈左伝の隠公十年に「郜を取る」とあり、杜預の注によれば、県の東南に郜城があるという。地道記には秺城があると記されている。〉

己氏県は、もとは梁国に属していた。〈皇覧によれば、平和郷があり、その郷に伊尹の冢があるという。〉

以上が兗州刺史部で、郡と国は合わせて八、県・邑・公国・侯国は合わせて八十である。

徐州

東海郡

高祖の時代に設置された。洛陽の東一千五百里にある。十三の城があり、戸数十四万八千七百八十四、人口七十万六千四百一十六。

郯県は、もと郯国であり、刺史の治所である。〈博物記によれば、「勇士亭があり、それは勇士の菑丘欣である」という。〉

蘭陵県には次室亭がある。〈地道記によれば、「もとは魯の次室邑である」という。列女伝に漆室の女の話があり、ある本では「次室」と作る。〉

戚県

朐県〈山海経に「都州は海中にあり、一つを郁州という」とある。郭璞の注によれば、「県の境界内にある。俗説ではこの山は蒼梧から移ってきたもので、上には南方の樹木が生えている」という。博物記には「県の東北海辺に植えられた石があり、秦が立てた東門である」とある。〉

鉄がある。伊盧郷がある。〈史記によれば、鍾離昧の家が伊盧にあるという。〉

襄賁県

昌慮県には藍郷がある。〈左伝の昭公三十一年に邾の黒肱が濫をもって来奔したとあり、杜預の注によれば、県の治所であり、城の東北に郳城があるという。郳は小邾国である。〉

承県

陰平県

利城県

合郷県(漷水はここから南へ流れて湖陸に至る。)

祝其県。羽山がある。(鯀を誅した山。杜預によれば県の西南にある。博物記によると、「東北に獨居山があり、西南に淵水がある。これが羽泉であり、俗にこの山を懲父山という。」)

春秋時代は祝其といい、夾谷の地である。(左伝定公十年に斉侯と夾谷で会合し、孔子が相礼を務めた。)

厚丘県(左伝成公九年「城中城」。杜預によれば県の西南にあり、中郷城がある。)

贛楡県。本来は琅邪郡に属していたが、建初五年に復帰した。(左伝「斉が莒を伐ち、莒子が紀鄣に奔った」。杜預によれば県の東北に紀城がある。地道記によると、「海中、岸から百五十歩のところに秦始皇碑があり、長さ一丈いちじょう八尺、幅五尺、厚さ八尺三寸。一行に十二あざな。潮が満ちるとその上三丈まで水が来て、潮が引くと三尺現れる。」)

琅邪国

秦が設置した。建武年間に城陽国を廃止し、その県をここに属させた。(本紀によると、永寿元年に設置され、都尉が治めた。)

洛陽の東一千五百里。十三城、戸二万八百四、口五十七万九百六十七。

開陽県(杜預によれば古い鄅国。左伝哀公三年に啓陽を築城。杜預は開陽とする。)

かつては東海郡に属していたが、建初五年にここに属した。

東武県

琅邪県(山海経に琅邪臺が勃海の間にあり、琅邪の東にあるとある。郭璞は「琅邪は海辺に臨み、山がそびえ立って高台のようである。これが琅邪臺である」という。斉の景公は「我、海に沿って南へ行き、琅邪に至る」と言った。越絶書によると「句踐が琅邪に遷都し、観臺を築いた。台の周囲は七里で、東海を望んだ」という。史記によると、秦始皇が黔首三万家を琅邪臺の下に移した。伝えに労山がある。)

東莞県。鄆亭がある。(左伝に「公、鄆に処す」とある。)

邳郷がある。公来山がある。あるいは古くは浮来と呼ばれた。〈左伝の隠公八年に浮来で盟を結んだとあり、杜預は邳来山の間を邳来と号したという。荘公九年に鮑叔が管仲を受け入れ、堂阜に至ってその束縛を解いた。杜預は「東莞蒙陰県の西北に夷吾亭がある。あるいは鮑叔がここで夷吾の縄を解いたので、これによって名づけたという」と述べている。これが古の堂阜であり、東莞は後に郡となった。〉

〖西海〗〈東観書には勝山があると記されている。博物記には「太公呂望が出た所で、今に東呂郷がある。また棘津で釣りをし、その浦は今も残っている」とある。〉

〖諸〗〈左伝荘公二十九年に「諸を城す」とあり、杜預は諸県は城陽郡にあるという。また隠公四年に「莒が杞を伐ち、牟婁を取る」とあり、杜預は県の東北に婁郷があるという。〉

〖莒〗本来は国であり、かつて城陽に属した。〈左伝成公八年に申公巫臣が渠丘公と会ったとあり、杜預は県に蘧丘里があるという。〉

鉄がある。崢嶸谷がある。

〖東安〗かつて城陽に属した。

〖陽都〗かつて城陽に属した。牟臺がある。〈左伝宣公元年に平州で会合したとあり、杜預は県の西にあるという。〉

〖臨沂〗かつて東海に属した。叢亭がある。〈左伝隠公六年に艾で盟を結んだとあり、杜預は県の東南に艾山があるという。七年に「中丘を城す」とあり、杜預は県の東北に中丘亭があるという。博物記には「県の東界、次睢に大叢社があり、民はこれを食人社といい、すなわち次睢の社である」とある。〉

〖即丘〗侯国であり、かつて東海に属した。春秋では祝丘という。

〖繒〗侯国であり、かつて東海に属した。槪亭がある。〈左伝荘公九年に蔇で盟を結んだとあり、杜預は県の北にあるという。〉

〖姑幕〗〈左伝昭公五年に「莒の牟夷が牟婁及び防茲を以て来奔す」とあり、杜預は県の東北に茲亭があるという。博物記には淮水が流入するとある。城の東南五里に公冶長の墓がある。〉

彭城国

高祖が楚として設置し、章帝が改めた。洛陽の東千二百二十里。八城、戸八万六千百七十、口四十九万三千二十七。

〖彭城〈古の大彭邑。北征記に城の西二十里に山があり、山に楚元王の墓があるとある。伏滔の北征記に「城の北六里に山があり、泗に臨み、宋の桓魋の石槨がある。皆青石で、亀・龍・鱗・鳳の象が浮き彫りになっている」とある。〉

〗鉄がある。

武原

傅陽には水がある。〈左伝襄公十年に偪陽を滅ぼすとあり、杜預が言うにはこれがこの県である。〉

留〈西征記に言うには、城の中に張良廟がある。〉

菑丘

広戚はかつて沛に属した。

広陵郡

景帝の時に江都国として設置され、武帝の時に改名された。建武年間に泗水国を廃止し、その県をここに属させた。洛陽の東一千六百四十里。十一城、戸八万三千九百七、口四十一万百九十。

広陵〈呉王劉濞の都があったところで、城の周囲は十四里半。〉

東陵亭がある。〈博物記に言うには:「女子の杜姜は、左道で神と通じ、県はこれを妖とした。獄に閉じ込め桎梏をかけたが、ついに姿を変え、どこへ行ったか分からなくなった。状況を上奏したところ、その場所を廟祠とし、東陵聖母と号した。」〉

江都には江水祠がある。

高郵

平安

淩はかつて泗水に属した。

東陽県はかつて臨淮郡に属した。長洲沢があり、呉王劉濞の太倉がここにある。〈県内には多くの麋がいる。『博物記』によると、「千頭単位で群れをなし、草の根を掘り食い、その場所が泥となり、麋畯と呼ばれる。民衆はこの畯に沿って稲を植え、耕さずして収穫し、その収穫は百倍にもなる」という。また、扶海洲の上には蒒という名の草があり、その実を食べると大麦のようで、七月から実りが熟し、民衆は収穫を集めて冬までに終える。これを自然穀、あるいは禹餘糧という。〉

射陽県はかつて臨淮郡に属した。〈梁湖がある。『地道記』によると博支湖があるという。〉

鹽瀆県はかつて臨淮郡に属した。

輿県は侯国で、かつて臨淮郡に属した。

堂邑県はかつて臨淮郡に属した。鉄がある。春秋時代は堂と呼ばれた。

海西県はかつて東海郡に属した。

下邳国

武帝が設置し、臨淮郡とした。

永平十五年

下邳国に改められた。洛陽の東千四百里。十七城、戸十三万六千三百八十九、口六十一万一千八十三。

下邳県は本来東海郡に属した。〈戴延之の『西徴記』によると、「沂水があり、城西から西南へ流れて泗水に注ぎ、別れて南に流れ、城を回って南に流れ、やはり泗水に注ぐ。かつて橋があった場所で、張良と黄石公がこの橋で会った」という。〉

葛嶧山があり、本来は嶧陽山という。〈山は名高い桐を産出する。伏滔の『北征記』によると、今も盤根がしばしば残存しているという。〉

鉄がある。

徐県は本来は国であった。楼亭があり、あるいは古い蔞林であるという。〈杜預によると僮県の東南にある。伏滔の『北征記』によると、「県の北に大きな冢(塚)があり、徐君の墓で、延陵季札が剣を解いた場所である」という。〉

僮県は侯国である。

睢陵

下相

淮陰(下郷に南昌亭あり、韓信が寄食した所である)

淮浦

盱臺

髙山

潘旌

淮陵

取慮(蒲姑陂あり。左伝昭公十六年に斉の軍が蒲隧に至った。杜預が言うには、県の東に蒲姑陂がある)

東成

曲陽(侯国。もと東海郡に属す)

司吾(侯国。もと東海郡に属す)

良成(もと東海郡に属す。春秋の時は良と言った。左伝昭公十三年に晋が呉と良で会合した)

夏丘(もと沛郡に属す)

以上が徐州刺史部で、郡・国五、県・邑・侯国六十二。(魏氏春秋に言う:「初平三年、琅邪・東海を分けて城陽・利城・昌慮郡とした。建安十一年、昌慮を廃して東海に併合した」)