漢書かんじょごかんじょ

巻一百十一・郡國三 兗州 徐州

志第二十一 郡国三

兗州

陳留郡

武帝が設置した。洛陽らくようの東五百三十里にある。十七城、戸十七万七千五百二十九、口八十六万九千四百三十三。

陳留には鳴雁亭がある。(左伝成公十六年に衛が鄭を鳴雁で伐ったとあり、杜預によれば雍丘県の西北にある。陳留志には「桐陵亭があり、古くは桐丘と呼ばれた」とある。)

浚儀は本来大梁である。(帝王世記には「禹が商均を避けて浚儀にいた」とある。晉地道記には「儀封人はこの県である」とある。通俗文には「渠は浚儀にあり、莨蕩と呼ばれる」とある。)

尉氏(陳留志には「陵樹郷があり、北に沢があり、その沢の中に天子の苑囿があり、秦の楽廄があり、漢の諸帝が猛獣を馴養した」とある。)

雍丘は本来杞国である。(陳留志には「城内に神井があり、霧や雹を起こすことができる」とある。案:徐齊民北征記には「呂祿臺があり、高さ七丈である。酈生祠がある」とある。曹植の禹廟讚には「禹祠があり、植がその城に移した。城は本来杞城と呼ばれた」とある。)

襄邑には滑亭がある。(左伝荘公三年に滑に駐屯したとあり、杜預によれば県の西北にある。)承匡城がある。(地道記によれば県の西にある。左伝文公十一年に晉の郤缺と承匡で会合した。桐門亭があり、黄門亭がある。襄公元年に鄫で会合したとあり、杜預によれば県の東南に鄫城がある。)

外黄(左伝「恵公の末年、黄で宋の軍を破った」とあり、杜預によれば宋の邑で、県の東に黄城がある。)葵丘聚があり、斉の桓公がここで会合した。城中に曲棘里がある。(左伝昭公二十五年「宋公佐が曲棘で卒した」。)繁陽城がある。

小黄(漢舊儀には「高祖こうその母は兵を起こした時に県の北で死に、小黄に陵廟を作った」とある。)

東昬(陳留志には「かつての戸牖郷に陳平の祠がある」とある。)

済陽(武父郷がある。左伝桓公十二年「武父で盟を結んだ」とあり、杜預によれば県の東北に武父城がある。県の東南に戎城がある。県の都郷に行宮があり、光武帝が生まれた。)

平丘には臨済亭があり、田儋がここで死んだ。匡がある。(匡人の亭で、曹公が袁術を破った場所。)黄池亭がある。(陳留志には「黄亭は封丘にある」とある。左伝哀公十三年に黄池で盟を結んだとあり、杜預によれば封丘県の南にある。伝に「呉が子服景伯を囚えて帰還し、戸牖に至った」とあるが、それならば黄池は戸牖の西にあることになる。ある者は外黄県の東溝であるとするが、それは誤りである。)

封丘(博物記に狄溝があり、長丘で狄を破った場所であるという。)桐牢亭があり、あるいは古くは虫牢と呼ばれた。(左伝成公五年に諸侯が虫牢で会合した。陳留志:「鞠亭があり、古くは鞠居と呼ばれた。」)

酸棗県(左伝に鄭の太叔が廩延に至ったとあり、杜預の注によれば県の北に延津がある。襄公五年に城棣で会合したとあり、杜預の注によれば県の西南に棣城がある。東に地烏巣があり、曹操が袁紹を破った場所である。陳留志には「城内に韓王の故宮闕がある」とある。)

長垣県(侯国)。匡城がある。(陳留志には「孔子がここに囲まれた」とある。北征記によれば城の周囲は三里。左伝僖公十五年に牡丘で会合し、匡に駐留したとあり、杜預の注によれば匡は県の西南にある。昭公十三年に平丘で会合したとあり、杜預の注によれば県の西南に平丘城がある。)蒲城がある。(左伝成公九年に蒲で会合したとあり、杜預の注によれば県の西南にある。史記しきに孔子が匡から蒲を経由したとある。陳留志には「子路の祠がある」とある。)祭城がある。(杜預の注によれば鄭の祭封人仲の邑。陳留志には「蘧伯玉の墓と祠がある」とある。また西南に宛亭がある。左伝僖公二十八年に衛人が宛濮で盟を結んだとあり、杜預の注によれば濮水に近い。)

己吾県(大棘郷がある。(左伝宣公二年に鄭が宋の軍を大棘で破ったとあり、杜預の注によれば襄邑県の南にある。)首郷がある。(左伝(桓八年)〔僖五年〕に斉侯が首止で(軍を)〔会合した〕とあり、杜預の注によれば襄邑の東南にあり、首(止城)〔郷〕がある。)

考城県(もとは菑。(陳留志には「古い戴国の地名である」とある。杜預の注によれば「戴は外黄の東南にある」。爾雅には「木が立ったまま死ぬことを菑という」とある。呂氏春秋には「草が鬱蒼と茂ることを菑という」とある。)章帝の時に改名された。もとは梁に属した。(陳留志には「箕子の祠がある。穀亭がある。古い句瀆の丘である」とある。案ずるに本伝には蒲亭がある。)

圉県(もとは淮陽に属した。高陽亭がある。(陳留志には「万民の集まる所があり、王邑が翟義を破って屍を積んだ場所である」とある。前漢書に「今の高陽」とある。文穎の注によれば「高陽は聚邑の名で、県の西にある」。)

扶溝県(もとは淮陽に属した。)

東郡

秦の時代に設置された。洛陽から八百余里。十五城、戸数十三万六千八十八、人口六十万三千三百九十三。

濮陽県(古くは昆吾国。(杜預の注によれば古い衛である。帝王世記には「顓頊が窮桑から商丘に遷った」とある。左伝に「衛は顓頊の墟である」とあり、杜預の注によれば帝丘で、昆吾氏がこれに因ったので昆吾の墟といい、県城内に顓頊の冢がある。皇覧には「冢は城門外の広陽里の中にある」とある。博物記には「桑中がその中にある」とある。)春秋の時は濮といった。咸城があり、あるいは古い咸国という。(左伝僖公十三年に咸で会同した。)清丘がある。(左伝に宣公十二年に清丘で盟を結んだとあり、杜預の注によれば県の東南にある。)鉏城がある。)

燕県(もとは南燕国。雍郷がある。(謝沈の書によれば、赤眉が雍郷を攻めた。)胙城があり、古い胙国である。平陽亭がある。(左伝哀公十六年「衛侯が孔悝に平陽で酒を飲ませた」。)瓦亭がある。(左伝に定公八年に瓦で会合したとあり、杜預の注によれば県の東北にある。)桃城がある。(史記に春申君が秦を説いて「王はまた甲兵を挙げて桃を抜き、邢に入った」とあるのがこれである。)

白馬県(韋郷がある。(杜預の注によれば「県の東南に韋城がある。古い豕韋氏の国である」。)

頓丘県(((白虎通)〔皇覧〕に「帝嚳の冢は城〔南〕の台陰の野〔中〕にある」とあるのがこれである。)

東阿県(左伝桓公十年に桃丘で会合したとあり、杜預の注によれば県の東南に桃城がある。襄公十四年に孫林父が阿沢で衛侯を破ったとあり、杜預の注によれば県の西南に大沢がある。魏志に渠丘山がある。)清亭がある。(左伝隠公四年「清で出会った」のがこれである。)

東武陽県(濕水が出る。)

范県(秦亭がある。(左伝荘公三十一年「秦に台を築いた」。地道記によれば県の西北にある。)

臨邑県にはB925の廟がある。

博平県

聊城県には夷儀の聚がある。(左伝僖元年「邢遷於夷儀」。)聶城がある。(左伝曰「聊攝以東」。)

発干県

楽平県は侯国。旧称は清で、章帝が改名した。

陽平県は侯国。莘亭がある。(杜預が伝に注して言うには、衛が新臺を造ったのは県の北である。衛が公子伋を殺した地なので、「待諸莘」と言う。)岡成城がある。(秦が蔡澤を岡成君に封じたが、詳細は不明。)

衛県は公国。本来は観という故国で、姚姓、光武帝が改名した。河牧城がある。(左伝文元年に戚で会合し、鄭が晋の中行氏を救い、晋が鄭を鉄で破った。杜預曰く、戚城の南に鉄丘がある。)竿城がある。(前書では故発干城。)

穀城県は春秋時代の小穀である。(左伝莊三十二年「城小穀」。杜預曰く、城中に管仲の井戸がある。また伝に曰く、長狄の榮如の首を周首の北門に埋めた。杜預曰く、県の東北に周首亭がある。)巂下聚がある。(左伝僖二十六年に齊師を追って酅に至った。杜預曰く、県の西に酅下という地名がある。皇覽曰く:「県の東十五里に項羽こううの冢がある。」)

東平国

旧称は梁で、景帝が分けて濟東国とし、宣帝が改めた。洛陽の東九百七十五里。七城、戸七万九千十二、口四十四万八千二百七十。

無塩県は本来の宿国で、任姓。(左伝昭二十五年に臧會が郈に奔った。杜預曰く、県の東南に郈鄕亭がある。)章城がある。(古い国。左伝莊三十年、齊が鄣を取った。)

東平陸県は六国時代に平陸と言った。闞亭がある。(左伝桓十一年に闞で会合した。杜預曰く、須昌県の東南にある。闞城があり、博物記によればこの亭がそれである。)堂陽亭がある。(旧県、後に廃止。)

富成県

章県

壽張県は春秋時代に良と言い、漢代は壽良と言い、光武帝が壽張と改めた。堂聚があり、旧聚は東郡に属した。(地道記曰く:「蚩尤祠と狗城がある。」皇覽曰く:「蚩尤冢は縣の闞鄕城中にあり、高さ七丈である。」)

須昌はもと東郡に属した。(杜預が言うには、「須句は古い国で、西北にある」という。)致密城があり、古い中都である。陽穀城がある。(左伝僖公三年に陽穀で会合した。杜預は県の北にあると言う。)

寧陽はもと泰山郡に属した。

任城国

章帝の元和元年、東平国を分けて任城国とした。洛陽の東千一百里。三つの城、戸三万六千四百四十二、口十九万四千百五十六。

任城はもと任国である。桃聚がある。(光武帝が桃郷で龐萌を破った。)

亢父(左伝襄公十三年「邿を取る」。杜預は県に邿亭があると言う。哀公六年「邾瑕に城を築く」。杜預は県の北に邾瑕城があると言う。)

泰山郡

高帝が設置した。洛陽の東千四百里。十二の城、戸八千九百二十九、口四十三万七千三百十七。

奉高には明堂があり、武帝が造営した。(前漢書では県の西南四里にあると言う。左伝昭公八年「紅で大規模な狩猟を行い、商・衛に至った」。紅亭は県の西北にあり、杜預は宋・衛と接すると言う。)

博には泰山廟がある。岱山は西北にある。亀山がある。(左伝定公十年、斉が亀陰の田を返還した。杜預は田は山の北にあると言う。琴操に孔子が亀山の操を作ったとある。)龍郷城がある。(左伝成公二年、斉が龍を包囲した。杜預は県の西南にあると言う。史記では「隆」と作る。また、楚にしょくの役があった。杜預は県の西北に蜀亭があると言う。)

梁甫は侯国である。菟裘聚がある。(左伝隠公「菟裘を営ませよ、我はそこで老いよう」杜預は県の南に菟裘城があると言う。)

鉅平は侯国である。亭禅山がある。(これは古くに禅譲が行われた亭亭という場所である。)陽関亭がある。(左伝襄公十七年「師が陽関から出た」。桓公六年に成で会合した。杜預は県の東南にあると言う。成城は孟孫の邑である。)

嬴には鉄がある。

山茌は侯国である。

萊蕪県には原山があり、潘水がここから流出する。(杜預の注によれば、汶水が出るという。)

蓋県には沂水が流出する。(左伝に会於防とあり、杜預の注によれば県の東南にあり、防城があるという。)

南武陽県は侯國である。顓臾城がある。

南城県はかつて東海郡に属していた。東陽城がある。(呂氏春秋に夏の孔甲が東陽萯山で狩りをしたとある。左伝哀公八年に「東陽を克つ」とある。襄公十九年に武城を築城し、杜預の注によれば南城県であるという。哀公十四年に司馬〔牛〕が丘輿に葬られ、杜預の注によれば県の西北に輿城があるという。)

費県は侯國である。(曹勝が封じられた費は酇県の費亭であり、この國ではない。)かつて東海郡に属していた。[BD25]亭がある。(左伝隱公八年に鄭が祊を帰したとあり、杜預の注によれば県の東南にあるという。閔公二年に莒人が共仲及び密を帰したとあり、杜預の注によれば県に密如亭があるという。)臺亭がある。(左伝襄公十二年に莒が臺を囲んだとあり、杜預の注によれば県の南に臺亭があるという。)

牟県はかつての國である。

濟北國

和帝の永元二年、泰山郡を分割して設置された。(臣昭の案:濟北は前漢の舊國であり、これは泰山郡に併合された後、再び分割されたものである。)洛陽から東へ一千一百五十里。五つの城、戸四萬五千六百八十九、口二十三萬五千八百九十七。

盧県(左伝隱公三年に齊と鄭が盧で盟を結んだとあり、杜預の注によれば今の縣の故城であるという。邾山があり、縣の北にある。成公二年に鋭司徒しとの女を石窌に封じたとあり、杜預の注によれば縣の東に石窌という地名があるという。)平陰城がある。防門がある。(左伝襄公十八年に齊が晉を平陰で防ぎ、防門に塹壕を築いたとあり、杜預の注によれば縣の北にあるという。また齊が巫山に登って晉の軍勢を望んだとあり、杜預の注によれば縣の東北にあるという。)光里がある。景茲山がある。(杜預の注によれば縣の東南にあるという。)敖山がある。(左伝に「先君の獻公、武公が二つの山を廃した」とあり、即ち敖山と具山である。)淸亭がある。(左伝哀公十一年に、齊が魯を伐って淸に至ったというのがこれである。)長城が東海まで続いている。(史記蘇代が燕王に説いて曰く「齊には長城、巨防がある」と。巨防とは即ち防門である。)

蛇丘県には遂鄕がある。(古い遂國で、左伝莊公十三年に齊人が遂を滅ぼした。)下[F446]亭がある。(左伝桓公三年に姜氏を讙まで送った。)鑄鄕城がある。(周の武王は車から降りる間もなく、堯の後裔を鑄に封じた。左伝に棘地があり、成公三年に叔孫僑如がこれを囲んだ。杜預の注によれば汶水の北の地に棘鄕があるという。東觀書に芳陘山がある。)

成県はもと國である。(左伝に「えいの師が郕に入る」とあり、杜預の注によれば東平國剛父縣の西南に郕鄕があるという。)

茌平県はもと東郡に属していた。

剛県(左伝哀公八年に齊が闡を取ったとあり、杜預の注によれば縣の北にあり、闡鄕があるという。)

山陽郡

もと梁國であり、景帝の時に分割して設置された。洛陽から東へ八百一十里。十の城、戸十万九千八百九十八、口六十万六千九十一。

昌邑県は刺史の治所である。梁丘城がある。(左伝荘公三十二年に梁丘で出会ったとあり、杜預の注によれば梁丘郷は県の西南にある。)甲父亭がある。(杜預によれば甲父は古い国名で、県の東南にある。左伝隠公十年に「防を取る」とあり、杜預は県の西に防城があるという。)

東緡県は春秋の時は緡といった。(左伝僖公二十三年に斉が緡を包囲した。)

鉅野県(左伝桓公七年に「咸丘を焼く」とあり、杜預の注によれば県の西に咸亭がある。)大野沢がある。(春秋に西狩して麟を獲た場所である。爾雅の十藪に、魯に大野があるとある。杜預の注によれば県の西南に郥亭がある。定公十三年に斉が晋を討った場所。)

高平県は侯国である。もとは橐県で、章帝の時に名を改めた。(前漢書地理志では王莽が高平と改め、章帝がこの王莽の呼称を復活させた。左伝隠公元年に費伯が郎を城したとあり、杜預の注によれば県の東南に鬱郎亭がある。)茅郷城がある。(杜預の注によれば茅郷は昌邑県の西南にある。)

湖陸県はもとは湖陵県で、章帝の時に名を改めた。(前漢書地理志では王莽が湖陸と改め、章帝がその呼称を復活させた。博物記に苟水が出るとある。地道記によれば県の西に費亭城があり、魏武帝曹操が最初に封じられた所である。)

南平陽県は侯国である。漆亭がある。(左伝に漆を城したとある。)閭丘亭がある。(左伝襄公二十一年に「邾の庶其が漆・閭丘をもって来奔した」とあり、杜預の注によれば県の東北に漆郷、西北に顕閭亭がある。哀公七年に邾子を負瑕に囚えたとあり、杜預の注によれば県の西北に瑕丘城がある。)

方與県には武唐亭がある。(左伝桓公二年に唐で盟したとあり、杜預の注によれば県の西南にある。)魯侯の観魚台がある。(春秋経隠公五年に棠で魚を矢った。)泥母亭があり、あるいは古い甯母という。(左伝僖公七年に甯母で盟したとあり、杜預の注によれば県の東にある。三十一年に臧文仲が重館に宿ったとあり、杜預の注によれば県の西北に重郷城がある。)

瑕丘県

金郷県(晉の地道記に「県には山が多く、治所の名は金山という。山の北に石を穿って作った冢があり、深さ十余丈、隧道の長さ三十丈、傍らに入って三方に堂をなしている。白兎を得て葬らず、さらに南山に葬ろうとして穿ったところ金を得たので、金山という。古い冢は今も存在する。あるいは漢の昌邑王が作ったといい、あるいは秦の時という。」とある。)

防東県

済陰郡

もとは梁国で、景帝の時に分けて設置した。洛陽の東八百里にある。十一城、戸十三万三千七百十五、口六十五万七千五百五十四。

定陶県はもと曹国である。(郭璞によれば「城中に陶丘がある。」皇覧によれば「伯楽の冢は県の東南一里ばかりにあり、高さ四五丈。」)古い陶で、堯が住んだ所。(帝王世記によれば「舜が河濱で陶器を作ったのは、県の西南の陶丘亭である。」)三鬷亭がある。(湯が三鬷を伐った。孔安国によれば今の定陶である。)

冤句県には煮棗城がある。(史記蘇秦伝で蘇秦が魏の襄王に説いて「大王の地は、東に淮・潁・煮棗がある。」といった。)

成陽県には堯の冢・霊台があり、雷沢がある。(禹貢に「雷夏はすでに沢となった。」とある。帝王世記によれば「舜は歴山で耕し、雷沢で漁をした。済陰に歴山がある。」)

乗氏は侯国である。(『博物記』によると、古くは乗丘と呼ばれた。)泗水がある。鹿城郷がある。

句陽には垂亭がある。(『左伝』隠公八年に垂で会った。『史記』に無忌が魏の安僖王に説いて「文台は崩れ落ち、垂都は焼かれた」とある。徐広は「県に垂亭がある」と言う。)

鄄城

離狐はかつて東郡に属していた。

廩丘はかつて東郡に属していた。高魚城がある。運城がある。(『左伝』襄公二十六年「斉の烏余が廩丘をもって晋に奔った」、杜預は今の県の故城であると言う。また「衛の羊角を襲ってこれを取った」、杜預は今の県が治める城であると言う。また我が高魚を襲った、杜預は県の東北にあると言う。)

単父は侯国で、かつて山陽に属していた。

成武はかつて山陽に属していた。(『左伝』隠公七年「戎が凡伯を楚丘で捕らえた」、杜預は県の西南にあると言う。)郜城がある。(『左伝』隠公十年「郜を取る」、杜預は県の東南に郜城があると言う。『地道記』には秺城がある。)

己氏はかつて梁に属していた。(『皇覧』によると、平和郷があり、郷に伊尹の冢がある。)

以上が兗州刺史部で、郡・国は八、県・邑・公・侯国は八十。

徐州

東海郡

高帝が設置した。洛陽の東千五百里。十三城、戸十四万八千七百八十四、口七十万六千四百一十六。

郯は本国で、刺史が治める。(『博物記』によると:「勇士亭があり、すなわち勇士菑丘欣である。」)

蘭陵には次室亭がある。(『地道記』によると:「かつての魯の次室邑である。」『列女伝』に漆室の女があり、あるいは「次室」と作る。)

朐(山海経に言う、「都州は海中にあり、一に郁州という」と。郭璞が言う、「県の境界にある。世俗はこの山が蒼梧から移って来たと伝え、上には皆南方の樹木がある」と。博物記に、「県の東北海辺に植えられた石は、秦が立てた東門である」と)には鉄がある。伊盧郷がある。(史記に言う、鍾離昧の家が伊盧にあると。)

襄賁

昌慮には藍郷がある。(左伝昭公三十一年に邾の黒肱が濫をもって来奔した。杜預が言う、県の治所で、城の東北に郳城がある。郳は小邾国であると。)

陰平

利城

合郷(漷水はここから南へ湖陸に至る。)

祝其には羽山がある。(鯀を誅した山。杜預が言う、県の西南にあると。博物記に言う、「東北に独居山があり、西南に淵水がある。これが羽泉で、俗にこの山を懲父山という」と。)春秋の時は祝其といい、夾谷の地である。(左伝定公十年に斉侯と夾谷で会い、孔子が相となった。)

厚丘(左伝成公九年「中城を築く」。杜預が言う、県の西南にあり、中郷城があると。)

贛楡は本来琅邪に属したが、建初五年に復した。(左伝「斉が莒を伐ち、莒子が紀鄣に奔る」。杜預が言う、県の東北に紀城があると。地道記に言う、「海中、岸から百五十歩のところに、秦始皇の碑がある。長さ一丈八尺、幅五尺、厚さ八尺三寸。一行十二字。潮水が来るとその上三丈に達し、去ると三尺現れる」と。)

琅邪国

秦が設置した。建武年間に城陽国を廃し、その県をここに属させた。(本紀によれば、永寿元年に設置し、都尉が治めた。)洛陽の東一千五百里。十三城、戸二万八百四、口五十七万九百六十七。

開陽(杜預が言う、古い鄅であると。左伝哀公三年に啓陽を城す。杜預が言う、開陽であると。)は以前東海に属したが、建初五年にここに属した。

東武

琅邪(山海経に言う、琅邪臺があり、勃海の間にあり、琅邪の東にあると。郭璞が言う、「琅邪は海辺に臨み、山が嶕嶢として特起し、高台のようである。これが琅邪臺である」と。斉の景公が言う、「我、海に沿って南し、琅邪に放つ」と。越絶に言う、「句踐が琅邪に遷り、観臺を築き、臺は周囲七里で、東海を望んだ」と。史記に言う、秦始皇が黔首三万家を琅邪臺の下に移したと。伝に労山がある。)

東莞県には鄆亭がある。(左伝に「公が鄆に居た」とある。)邳郷がある。公来山がある。あるいは古くは浮来と呼ばれた。(左伝の隠公八年に浮来で盟約を結んだとあり、杜預は邳来山の間を邳来と号したという。荘公九年に鮑叔が管仲を受け入れ、堂阜に至って彼の縄を解いた。杜預は「東莞郡蒙陰県の西北に夷吾亭があり、あるいは鮑叔がここで夷吾(管仲)の縄を解いたため、この名がついたという。」これが古の堂阜であり、東莞は後に郡となった。)

西海県(東観書には勝山があるという。博物記には「太公たいこう呂望が出た所で、今に東呂郷がある。また棘津で釣りをし、その浦は今も残っている。」とある。)

諸県(左伝荘公二十九年に「諸を城す」とあり、杜預は諸県は城陽郡にあるという。また隠公四年に「莒が杞を伐ち、牟婁を取る」とあり、杜預は県の東北に婁郷があるという。)

莒県は本来は国で、かつて城陽郡に属した。(左伝成公八年に申公巫臣が渠丘公と会ったとあり、杜預は県に蘧丘里があるという。)鉄がある。崢嶸谷がある。

東安県はかつて城陽郡に属した。

陽都県はかつて城陽郡に属した。牟臺がある。(左伝宣公元年に平州で会合したとあり、杜預は県の西にあるという。)

臨沂県はかつて東海郡に属した。叢亭がある。(左伝隠公六年に艾で盟約を結んだとあり、杜預は県の東南に艾山があるという。七年に「中丘を城す」とあり、杜預は県の東北に中丘亭があるという。博物記には「県の東の境界、次睢に大叢社があり、民はこれを食人社と呼び、すなわち次睢の社である。」とある。)

即丘県は侯国で、かつて東海郡に属し、春秋では祝丘と呼ばれた。

繒県は侯国で、かつて東海郡に属した。槪亭がある。(左伝荘公九年に蔇で盟約を結んだとあり、杜預は県の北にあるという。)

姑幕県(左伝昭公五年に「莒の牟夷が牟婁及び防茲を以て来奔す」とあり、杜預は県の東北に茲亭があるという。博物記には淮水が流入するとある。城の東南五里に公冶長の墓がある。)

彭城国

高祖が楚として設置し、章帝が改めた。洛陽の東千二百二十里。八城、戸八万六千百七十、口四十九万三千二十七。

彭城県(古の大彭邑。北征記によると城の西二十里に山があり、山に楚元王の墓がある。伏滔の北征記によると「城の北六里に山があり、泗水に臨み、宋の桓魋の石槨があり、皆青石で、亀・龍・鱗・鳳の模様が浮き彫りになっている。」)鉄がある。

武原県

傅陽県には[_]水がある。(左伝襄公十年に偪陽を滅ぼしたとあり、杜預はこれがこの県であるという。)

留(西征記によると、城の中に張良ちょうりょう廟がある。)

菑丘

広戚(以前ははいに属していた。)

広陵郡

景帝の時に江都として設置され、武帝の時に改名された。建武年間に泗水国を廃止し、その県をここに属させた。洛陽の東一千六百四十里。十一城、戸八万三千九百七、口四十一万百九十。

広陵(呉王劉濞の都があった。城の周囲は十四里半。)東陵亭がある。(博物記によると:「女子の杜姜は、左道で神と通じ、県は妖術とみなして獄に閉じ込め桎梏をはめたが、ついに姿を変え、どこへ行ったか分からなくなった。状況を上奏したため、その場所を廟祠とし、東陵聖母と号した。」)

江都(江水祠がある。)

高郵

平安

淩(以前は泗水に属していた。)

東陽(以前は臨淮に属していた。)長洲沢があり、呉王劉濞の太倉がここにある。(県には麋が多い。博物記によると:「千頭単位で群れをなし、草の根を掘り食い、その場所が泥になり、麋畯と呼ばれる。民はこの畯に従って稲を植え、耕さずに収穫し、その収穫は百倍になる。」また、扶海洲には蒒という名の草があり、その実は大麦のように食べられる。七月から実りが熟し、民は収穫を集めて冬までに終える。自然穀、あるいは禹餘糧と呼ばれる。)

射陽(以前は臨淮に属していた。)(梁湖がある。地道記によると博支湖がある。)

塩瀆(以前は臨淮に属していた。)

輿侯国、もとは臨淮郡に属した。

堂邑、もとは臨淮郡に属した。鉄がある。春秋時代は堂と呼ばれた。

海西、もとは東海郡に属した。

下邳国

武帝が臨淮郡として設置し、永平15年に下邳国に改められた。洛陽の東1400里にある。17城、戸数136,389、人口611,083。

下邳、もとは東海郡に属した。(戴延之の『西征記』に「沂水があり、城西から西南へ流れて泗水に注ぎ、別の流れは南に回って城の南で泗水に注ぐ。かつて橋があった場所で、張良と黄石公がこの橋で会った」とある。)葛嶧山がある。もとは嶧陽山である。(山は名桐を産出する。伏滔の『北征記』に今も盤根がしばしば残っているとある。)鉄がある。

徐、もとは国であった。楼亭がある。あるいは古い蔞林であるという。(杜預は僮県の東南にあると言う。伏滔の『北征記』に「県の北に大きな塚、徐君の墓があり、延陵季札が剣を解いた場所である」とある。)

僮侯国。

睢陵

下相

淮陰(下鄕に南昌亭があり、韓信かんしんが寄食した場所である。)

淮浦

盱臺

髙山

潘旌

淮陵

取慮には蒲姑陂がある。(左伝昭公十六年に斉の軍が蒲隧に至った。杜預は県の東に蒲姑陂があると言う。)

東成

曲陽は侯国で、もとは東海郡に属した。

司吾は侯国で、もとは東海郡に属した。

良成はもとは東海郡に属した。春秋の時は良と言った。(左伝昭公十三年に晋が呉と良で会合した。)

夏丘はもとは沛郡に属した。

右は徐州刺史部で、郡と国が五つ、県と邑と侯国が六十二ある。(魏氏春秋に言う。「初平三年、琅邪と東海を分けて城陽、利城、昌慮の郡とした。建安十一年、昌慮を廃して東海に併合した。」)

校勘記

三四四八頁二行「有大棘鄕有首鄕」について。殿本考証の齊召南は、この二つの鄕の注はみな、上文の襄邑「有承匡城」の下にあるべきだと述べている。大棘と首鄕はみな襄邑の地であり、己吾の地ではない。どうしてここに脱落して入ったのかわからない。

三四四八頁五行「杜預曰在〔雍丘〕縣西北」について。左伝の杜注は「在陳留雍丘縣西北」と作る。晋の泰始元年に魏の廃帝を陳留王に封じ、治所を小黄とし、陳留県を廃してこれに併合した。晋には陳留県はない。この「雍丘」の二字は省くことができない。今これに基づいて補う。

三四四八頁一六行「縣東南有戎城」について。これも杜注であり、隠公二年に見える。

三四四九頁二行「在〔封邱〕縣南」について。集解が惠棟の説を引いて、杜注は封邱県の南にあるとしていると言い、注に「封邱」の二字が脱落している。今これに基づいて補う。

三四四九頁八行「孔子(囚)〔圍〕此」について。校補は「囚」は「圍」の誤りであるべきだと言う。今これに基づいて改める。

三四四九頁一四行「(桓八)〔僖五〕年齊侯(師)〔會〕於首止」について。殿本考証の齊召南の説に基づいて改める。

三四四九頁十四行 「有首(止城)〔鄕〕」 殿本考證の齊召南の説に基づき「鄕」に改める。

三四五〇頁 四行 「濕水出」 按:集解が惠棟の説を引くには、前志及び水經は皆「漯」と作るとする。説文は「濕」と作り、水に従い〈濕、去「氵」〉聲とする。

三四五〇頁 五行 「有(沛)〔泲〕廟」 按:前志は「泲」と作る。集解が惠棟の説を引くには、風俗通に「濟は常山房子贊皇山より出で、東して沮に入る。廟は東郡臨邑縣に在り」と云うと案じ、則ち是れ濟瀆の廟なりとする。尙書古文は「濟」を「泲」と作る、當に「泲」に従うべしとする。今これに拠り改む。

三四五〇頁 五行 「有聶(戚)〔城〕」 集解が惠棟の説を引くには、京相璠が「聊城縣東北三十里に故攝城有り」と云う、「聶城」と作るべきなりとする。今これに拠り改む。

三四五〇頁 七行 「有岡成城」 按:集解が惠棟の説を引くには、水經注が引くに「岡成亭」と作るとする。

三四五一頁 二行 「(白虎通)〔皇覽〕曰帝嚳冢在城〔南〕臺陰野〔中〕是也」 按:集解が惠棟の説を引くには、「在城」の下諸本「南」字を脱し、「野」の下「中」字を脱すとする。語は皇覧に見え、「白虎通」と云うは誤りなりとする。今これに拠り改む。

三四五一頁 九行 「杜預注傳曰衞作新臺在縣北」 按:「新臺」は「莘亭」の訛りかと疑う。左傳桓公十六年「公、齊に使せしめ、盜をして諸の莘に待たしめ、将に之を殺さんとす」。杜注「莘は衞の地なり。陽平縣西北に莘亭有り」。

三四五一頁十一行 「晉敗鄭鐵」 按:晉が鄭を鐵にて敗るは哀公二年の事なり。注が文公元年の下に繫ぐは、脱誤有りかと疑う。

三四五一頁十二行 「前書故發干(縣)〔城〕」 汲本に拠り改む。按:校補が謂うには、前志と曰わずして前書と曰うは、則ち固より前志の發干を指すに非ず。蓋し前志の發干の治むる所は已に故地に非ず。而して竿城は即ち前漢の故發干城なり。其の地は後漢に至り已に衞に併入せらる。もし即ち前志の發干城ならば、則ち既に「前」と言う、必ずしも改めて「故」と曰うに及ばず。前書衞靑傳、靑の子登を封じて發干侯と為す。或いは即ち此に在りか。是れ則ち故發干は侯國の城なり。一に「縣」と作るは、非なり。

三四五一頁十六行 「雒陽東九百七十五里」 按:汲本は「六百七十二里」と作る。

三四五二頁 一行 「有闞亭」 按:校補が謂うには、前志東平陸、應劭云う「古の厥國、今厥亭有り是なり」。此の有闞亭と曰う、即ち春秋「闞に会す」の闞に符せず。孰れか是なるか詳らかならず。

三四五二頁 二行 「富成」 按:前志は「富城」と作る。

三四五二頁 五行 「杜預曰縣東南有郈鄕亭」 按:今の杜注に「郈は東平無鹽縣の東南に在り」と云う。「郈鄕亭」とは言わず。

三四五二頁 八行 「故縣後省」 按:集解が洪頤烜の説を引くには、前志堂陽は鉅鹿郡に属し、東漢に省く。此れと絶遠なり。注誤證なりとする。

三四五二頁 九行 「狗城」 按:前志東郡壽良縣に朐城有り。此れ「狗城」と作る。「狗」と「朐」は形近くして誤れるかと疑う。當に前志に従うべし。

三四五二頁九行、蚩尤の冢は縣の闞〔鄕〕城中にある。集解が惠棟の説を引いて、注の「闞鄕城中」について、諸本は「鄕」の字を脱しているという。今これに拠って補う。

三四五二頁一六行、杜預が曰く、縣の北に邾瑕城がある。按ずるに、今の杜注は「邾婁城」と作る。

三四五三頁一行、十二城、戸八千九百二十九、口四十三萬七千三百一十七。按ずるに、張森楷の校勘記は、十二城でわずか八千余りの戸数では、一城あたり八百戸に満たず、少なすぎると言う。八千余りの戸で四十三万余りの口があるのは多すぎる。李心傳の東漢戸口率、十戸で五十二口を基準とすると、「八千」の「千」は「萬」とすべきで、各本ともに誤っている。また按ずるに、「口四十三萬七千三百一十七」の末尾の「七」の字は、汲本では「一」と作る。

三四五三頁四行、梁甫。按ずるに、前志は「梁父」と作る。

三四五三頁四行、亭禪山がある。按ずるに、前志では「禪」を「亭」と作る。前志に従うべきである。

三四五三頁四行、山茌。按ずるに、各本とも「山」の字は上に連ねて句としている。錢大昕は「山」の字は下の句に連ねるべきで、山茬は縣名であると言う。また王先謙は、前志は「茬」と作ると言い、通鑑胡注は後漢が山茌と改めたと言う。また按ずるに、集解が惠棟の説を引いて、これは濟北の茌平とともに、皆「茬」と作るべきであると言う。

三四五三頁四行、潘水が出る。按ずるに、集解が惠棟の説を引いて、潘水は考証がなく、あるいは淄水の誤りであろうと言い、前志は「甾」と作る。

三四五三頁五行、南城。按ずるに、前志は「南成」と作る。

三四五三頁一四行、杜預が曰く、縣の東南に防城がある。按ずるに、隱公九年の経文「公會齊侯於防」、杜注「防、魯地、在琅邪華縣東南」。

三四五三頁一五行、杜預が曰く、南城縣。今の杜注は「南城」を「南武城」と作る。按ずるに、南城は晉志で「南武城」と作る。

三四五三頁一五行、司馬〔牛〕が丘輿に葬られる。集解が惠棟の説を引いて、諸本は〔牛〕の字を脱しているという。今これに拠って補う。

三四五四頁七行、景茲山がある。按ずるに、左傳では「景」を「京」と作る。

三四五四頁八行、成。集解が錢大昕の説を引いて、前志の泰山郡には式縣があり、成縣はないと言う。按ずるに、前志補注が李賡芸の説を引いて、前志の泰山郡には式があり成はなく、後漢では濟北を分置し、成があり式は皆無いのは、東都で式を省いて成を置いたためであろうと言う。

三四五四頁一二行、杜預が曰く、縣の北にある。按ずるに、今の杜注は「平陰城在濟北盧縣東北,其城南有防,防有門」と作る。

三四五四頁一三行、杜預が曰く、縣の東南にある。按ずるに、今の杜注は「在平陰城東南」と作る。この「縣」の字はおそらく「城」とすべきであろう。

三四五五頁五行 東平剛父縣西南有郕鄕 按:集解で羅革の説を引用し、郡に剛縣があり、晉代には東平国の剛平となったが、剛父はないとしている。

三四五五頁一〇行 故橐 汲本、殿本は「橐」を「櫜」と作る。按:集解で惠棟の説を引用し、前志は「橐」と作るが、州郡志は「稿」と作るとし、東平王傳も「稿」と作ることを挙げている。

三四五六頁二行 縣西南有(〈具阝〉)〔郥〕亭 汲本、殿本に拠り改む。按:集解で惠棟の説を引用し、郥は古い閴の字であるという。

三四五六頁三行 左傳隱(九)〔元〕年費伯城郎 左傳に拠り改む。按:九年にも「城郎」と書かれているが、杜注はない。

三四五六頁五行 苟水出 按:張森楷の校勘記は、諸書に苟水はなく、前志が引く禹貢の「通於河」は、「河」は「菏」とすべきであるという。菏と苟は字形が近く、これも「菏水出」の誤りであろう。

三四五六頁七行 哀七年囚邾子負瑕 按:集解で惠棟の説を引用し、これは「瑕丘」の下に注すべきであるという。

三四五六頁九行 左傳桓二年盟於唐杜預曰在西南 按:隱二年の経に「公及戎盟於唐」とあり、杜注は「髙平方與縣北有武唐亭」とある。劉昭の注は経傳及び杜注を多く削節して引用しており、この注には脱誤がある。

三四五七頁一四行 戎執凡伯於楚丘 按:春秋経では「執」を「伐」と作る。傳にも「戎伐之於楚丘」とある。

三四五七頁一六行 有平和鄕 按:集解で惠棟の説を引用し、皇覽は「平利」と作るという。

三四五八頁四行 伊盧鄕 按:集解で惠棟の説を引用し、史記は「廬」と作り、韋昭は今の廬中縣であるという。

三四五八頁五行 利城 按:前志は「利成」と作る。

三四五八頁五行 合(城)〔鄕〕 集解で錢大昕の説を引用し、前志には合鄕があり合城はなく、晉書しんじょ地理志の東海にも合鄕縣しかないので、この「城」の字は必ず「鄕」の誤りであるという。また惠棟の説を引用し、前志及び水經泗水注はいずれも「合鄕」と作るとする。また馬與龍の説を引用し、泗水注に漷水は東海合鄕縣より出るとあり、漢の安帝永初七年に馬光子の朗を封じて侯國としたことも馬防傳に見えるという。今これに拠り改む。

三四五八頁八行 有勇(王)〔士〕亭卽勇士(萬)〔菑〕丘欣 殿本は「萬」を「菑」と作る。王先謙は「菑」と作るのが正しく、「王」は「士」の誤りであるという。今これに拠り改む。

三四五八頁一〇行 都州在海中 按:「州」の原字は「洲」であったが、汲本、殿本に拠り直ちに「州」と改め、現在の山海經と合致させる。

三四五八頁一二行 鍾離昧(冢)〔家〕在伊盧 殿本に拠り改む。史記淮陰侯列傳と合致する。

三四五八頁一三行 左傳昭三十一年 至 郳小邾國也 按:昭三十一年經文に「黑肱以濫來奔」とあり、杜預の注に「黑肱は邾の大夫;濫は東海昌慮県」とある。また、莊五年の経文に「郳犂來來朝」とあり、杜注に「東海昌慮県の東北に郳城あり;黎來は名」とある。釈文に「郳は五兮反、国名、後に小邾となる」とある。この注は杜注を節略して引用したもので錯乱しており、突然見るとほとんど理解できない。

三四五八頁一五行 卽羽泉也 按:校補は「羽泉」は「羽淵」とすべきだとし、左傳に見えるもので、これは回改が完全でなかったものだとしている。

三四五九頁 二行 在縣西南有中鄕城 按:現在の杜注には「東海廩丘県の西南にある」とあり、中鄕城があるとは言っていない。

三四五九頁 三行 海中去岸百五十歩 按:汲本と殿本では「五」を「九」としている。

三四五九頁 四行 一行十二字 按:汲本と殿本では「二」を「三」としている。

三四五九頁 四行 潮水至加其上三丈 按:何焯の校本では「丈」を「尺」に改めている。

三四五九頁 五行 琅邪國秦置 按:殿本の考證で齊召南は、この注は不明瞭であり、郡と国もやや区別があると述べている。秦が琅邪郡を設置し、前漢がこれを踏襲し、光武帝が国に改め、城陽国を省いてこれに属させた。これがその経緯である。「秦置」の下には「郡」の字があるべきだとしている。

三四五九頁 五行 十三城戸二萬八百四口五十七萬九百六十七 按:張森楷の校勘記によれば、もしこの文の通りだとすると、一城あたりわずか千余戸で少なすぎ、一戸あたり凡そ三十口で多すぎ、実情に合わない。「戸」の下に「十」の字が脱落しているのではないかと疑っている。

三四五九頁 九行 西海 按:集解は錢大昕の説を引いて、前志には西海はなく、「海曲」の誤りであろうとしている。劉盆子傳に「琅邪海曲に呂母あり」とあり、注に「海曲は県名、故城は密州莒県の東にある」とある。また、惠棟の説を引いて、何焯が「海曲」の誤りではないかと疑っているとしている。

三四五九頁一0行 有崢嶸谷 按:集解は惠棟の説を引いて、説文では「崝嶸」と作るとし、徐鍇が俗に「崢」と作るのは正しくないと述べているとしている。

三四五九頁一一行 繒 按:集解は惠棟の説を引いて、春秋傳僖十四年に、鄫子が来朝したとあり、杜預が「今の鄫県」とし、陵氏の雲本には或いは「繒」と作るとあるとしている。また、校補は穀梁伝では「鄫」は皆「繒」と作るとしている。

三四六0頁 二行 邳來山之閒號曰邳來 殿本の考證は、杜注の原文を見ると「邳鄕の西に公來山あり、號して邳來閒と曰う」とあるとしている。今案ずるに、杜注には「邳鄕」の上に「縣北有」の三字があり、劉注は錯謬しており、攷證の引用も完全ではない。

三四六0頁 三行 東莞後爲(名)〔郡〕 集解が引く惠棟の説に従って改めた。

三四六0頁 六行 縣有蘧丘里 按:現在の杜注には「莒縣に蘧里あり」とあり、「丘」の字はない。

三四六0頁 七行 杜預曰在縣西 按:現在の杜注には「泰山牟縣の西にある」とあり、陽都の西にあるとは言っていない。

三四六〇頁八行 県の東南に艾山がある 按:集解が惠棟の説を引いており、杜氏の注に「泰山牟県の東南に艾山がある」と云うが、臨沂にあるとは云わず、未詳である。

三四六〇頁八行 県の東北に中丘亭がある 按:今の杜注には「中丘は琅邪臨沂県の東北にある」と云い、亭とは言わない。

三四六〇頁一四行 柤水がある 按:集解が惠棟の説を引いており、「柤」は一作「祖」である。京相璠は県の西北に祖水溝があり、偪陽から八十里離れていると云う。

三四六〇頁一五行 故に沛(国)に属す 集解が惠棟の説を引いており、「国」の字は衍字で、前志では沛郡であると云う。今これに拠って削除する。

三四六一頁四行 建武年間に泗水国を省く 按:「省」は原訛で「有」であり、汲本、殿本に拠って直接改正する。

三四六一頁八行 堂邑 按:集解が惠棟の説を引いており、玉篇では「堂」を「〈堂阝〉」と作すと云う。

三四六二頁三行 盱臺 按:前志では「臺」を「眙」と作す。

三四六二頁四行 潘旌 按:前志では「潘」を「播」と作す。

三四六二頁一〇行 県の東に蒲姑陂がある 按:今の杜注では「姑」を「如」と作す。

三四六二頁一三行 初平三年、琅邪・東海を分けて城陽(新)〔利〕城・昌慮郡となす 集解が馬與龍の説を引いており、徐州に新城郡はなく、「新」は「利」とすべきで、形が近いために誤ったと云う。今これに拠って改める。按:錢大昕は魏志太祖紀に、建安三年に琅邪・東海・北海を分けて城陽・利城・昌慮郡としたとあり、臧伝を以てこれを考うると、蓋し呂布を擒えた後に置かれたものであり、魏氏春秋が初平三年に分けたとするのは誤りであると云う。