後漢書
『志』第二十
郡国二 豫州、冀州
豫州
潁川郡
潁川郡は秦により設置された。洛陽の東南五百里にある。十七城、戸二十六万三千四百四十、口百四十三万六千五百一十三。
陽翟は、禹が都とした所である。〈汲冢書には「禹は陽城に都した」とある。古史考には「鄭の厲公が櫟に入った」とあり、これがその地である。晉地道記には洛陽から二百八十六里で、河南に属するとある。〉
鈞臺がある。〈左伝に「夏の啓に鈞臺の享があった」とあり、杜預は鈞臺陂があるという。帝王世記には県の西にあると云う。〉
高氏亭がある。〈左伝成公十七年に衛が鄭を侵し、高氏に至った。杜預は県の西南にあるという。〉
雍氏城がある。〈左伝襄公十八年に楚が鄭を伐ち、雍梁を侵した。杜預は県の東北にあるという。史記斉湣王十二年、魏を攻め、楚が雍氏を囲んだ。〉
襄には、養陰里がある。
襄城。〈左伝定公四年に「皋鼬で盟を結んだ」とあり、杜預は県の東南に城皋亭があるという。〉
西不羹がある。
汜城がある。
汾丘がある。
魚歯山がある。
昆陽には湛水がある。
定陵には東不羹がある。
舞陽は邑である。
郾、
臨潁、
潁陽、
潁陰、
狐宗郷があり、あるいは古い狐人亭であるという。岸亭がある。
許、
新汲、
焉陵は、春秋の時は𨻳といった。
長社県には、長葛城がある。〈左伝の隠公五年に宋が鄭を伐ち、長葛を囲んだ。県の本来の名は長葛である。地道記に「社中の樹が急に伸びたので、漢が改名した」とある。〉
向郷がある。〈左伝の襄公十一年に諸侯が向に軍を置いた。杜預が県の東北にあると言う。〉
蜀城があり、蜀津がある。〈史記に魏の恵王元年に韓と趙が合軍して魏の蜀沢を伐ったとある。〉
陽城県、〈帝王世記に「陽城には啓母の冢がある」とある。〉
嵩高山がある。〈山海経では太室の山と呼んでいる。禹貢には外方山があり、鄭玄の毛詩譜に外方の山は嵩山であると云う。孟子に「益が禹の子を避けて箕山の陰にいた」とあり、注に嵩高の北とある。〉
洧水と潁水がここから出る。〈晉地道記に「潁水は陽乾山から出る」とある。〉
鉄がある。負黍聚がある。〈史記に周の敬王十九年に鄭が負黍を伐ったとある。馮敬通の賦に「許由に負黍(山)で遇う」とある。〉
父城県には、応郷がある。〈杜預が応国は西南にあると言う。史記に客が周最に言い、応を秦王太后の養地としたとある。〉
輪氏県、
建初四年に
設置された。
汝南郡
汝南郡は、高帝が設置した。洛陽の東南六百五十里にある。三十七城、戸四十万四千四百四十八、口二百十万七百八十八。
平輿県には、沈亭があり、かつての国で、姫姓である。〈〔{執羊}〕亭がある。説文に見える。〉
新陽県は、侯国である。
西平県には鉄がある。柏亭があり、かつての柏国である。
上蔡県は本来の蔡国である。
南頓県は本来の頓国である。
汝陰県は本来の胡国である。〈杜預によると、県の西北に胡城がある。地道記には陶丘郷がある。詩経にいう「汝墳」である。〉
汝陽県
新息県は侯国である。
北宜春県
㶏強県は侯国である。
灌陽県
期思県には蔣郷があり、かつての蔣国である。
陽安県には道亭があり、かつての国である。〈杜預によると県の南にある。袁山松書には朔山がある。魏氏春秋によると、「初平三年、二県を分けて陽安都尉を置いた」。〉
項県〈かつての国で、左傳僖公十七年に魯が滅ぼした。地道記によると公路城があり、袁術が築いた。〉
西華県
細陽県
安城県は侯国である。武城亭がある。
呉房県には棠谿亭がある。
鮦陽県は侯国である。
愼陽県。
愼県。
新蔡県には大呂亭がある。
安陽県は侯国である。江亭があり、かつての国で、嬴姓であった。
富波県は侯国で、永元年間に復活した。
宜祿県は永元年間に復活した。
郎陵県は侯国である。
弋陽県は侯国である。黄亭があり、かつての黄国で、嬴姓であった。
召陵県。
陘亭がある。
安陵郷がある。
征羌県は侯国である。安陵亭がある。
思善県は侯国である。
宋は公国であり、周代には名を[C745]丘といい、漢代に新[C745]と改められ、章帝の建初四年に宋公がここに移された。繁陽亭がある。
建初四年
宋公をここに移した。繁陽亭がある。
襃信は侯国である。頼亭があり、これは古い国である。
原鹿は侯国である。
定潁は侯国である。
固始は侯国である。もとは寢といい、光武帝の中興の際に改名された。寢丘がある。
山桑は侯国であり、もとは沛に属していた。下城父聚がある。垂惠聚がある。
城父はもとは沛に属し、春秋のときは夷といった。
章華臺がある。
梁国
梁国は、秦の碭郡であり、高祖が改めた。そのうち三県は、
元和元年
に属した。洛陽の東南八百五十里にある。九つの城、戸数八万三千三百、人口四十三万一千二百八十三。
下邑がある。
睢陽。〈北征記にいう、「城の周囲は三十七里、南は濊水に臨み、合わせて二十四の門がある」。地道記にいう、「梁孝王が十二里の城を築き、小鼓を打ち節を唱え杵を下ろしてそれに合わせ、睢陽曲と称した」。〉
本来は宋国の閼伯の墟である。盧門亭がある。〈左伝桓公十四年に宋が鄭を伐ち、「太宮の椽を取り、盧門の椽とした」。昭公二十一年に鴻口で呉を破った。杜預はいう、県の東南に鴻口亭がある。地道記にいう、「昭公二十一年『諸を横に禦ぐ』、横亭は県の南にある」。〉
魚門がある。〈左伝僖公二十二年に邾人が公の冑を魚門に懸けた。〉
陽梁聚がある。〈左伝僖公十二年に楚が宋を伐ち、楊梁に師を出した。杜預はいう、梁亭がある。僖公二十八年に楚の子玉が夢で河神が己に謂っていう、「我は汝に孟諸の麋を与える」。杜預はいう、県の東北にある。爾雅の十藪に、宋に孟諸がある。〉
虞には、空桐の地があり、桐の地があり、桐亭がある。〈左伝哀公二十六年に、宋の景公が空桐で死んだ。〉
綸城があり、少康の邑である。
碭山は、文石を産出する。〈史記にいう、高祖が芒・碭の山沢の巌石の間に隠れた。陳勝の墓がある。〉
蒙。〈帝王世記にいう、北亳があり、すなわち景亳で、湯が盟を結んだ所である。〉
蒙沢がある。〈左伝で宋の万が宋の閔公を蒙沢で殺した。僖公二年に斉侯が貫で盟を結んだ。杜預はいう、県の西北に貰城がある。貰の字は貫の字と相似ている。〉
穀熟には、新城がある。〈左伝にいう、文公十四年に諸侯が新城で会合した。帝王世記に南亳がある。〉
邳亭がある。〈古い邳国である。〉
焉は、もと陳留に属した。
寧陵は、もと陳留に属した。〈左伝成公十六年に沙随で会合した。杜預はいう、県の北に沙随亭がある。〉
葛郷があり、もと葛伯の国である。〈杜預はいう、県の東北にある。〉
薄は、もと山陽に属し、湯の都であった。〈杜預はいう、蒙県の西北に薄城がある。中に湯の冢がある。左伝で宋の公子御説が亳に奔った。その西にはまた微子の冢がある。〉
沛国
沛国は、秦の泗水郡であり、高祖が改称した。洛陽の東南千二百里にある。二十一城、戸二十万四百九十五、口二十五万一千三百九十三。
相県。〈左伝桓公十五年に袲で会合した。杜預の注によれば、県の西南にある。一名を犖という。〉
蕭県。もと蕭国。〈北征記に「城の周囲は十四里、南は汚水に臨む」とある。〉
沛県。泗水亭がある。〈亭には高祖の碑があり、班固が文を撰した。班固の文集に見える。地道記には許城がある。左伝定公八年に、鄭が許を伐った。〉
豊県。〈地道記に「国都から二百六十里、州治から六百里、洛陽から千二十五里」とある。〉
西に大沢があり、高祖がここで白蛇を斬った。枌楡亭にある。〈案:前漢書地理志の注に「枌榆社は県の東北十五里にある」とある。あるいは郷の名で、高祖の里の社である。戴延之の西征記に「県の西北に漢祖廟があり、亭長の居た所である」とある。〉
酇県。〈左伝昭公四年に呉が楚を伐って棘に入った。杜預の注によれば、県の東北に棘亭がある。襄公元年に鄭が宋を侵して犬丘を取った。杜預の注によれば、県の東北に犬丘城がある。帝王世記に「曹騰が費亭侯に封ぜられた。県に費亭があるのがこれである」とある。〉
[D279]聚がある。〈左伝に「冀が道ならず、鄍の三門を伐った」とある。服虔の注によれば、鄍は晋の別都である。杜預の注によれば、これは虞の邑であり、地の所在は不明で、この鄍ではない。博物記に「諸侯が鄍亭で会合した」とある。〉
谷陽県。
譙県。〈平陽邑。左伝僖公二十三年に楚が取った所。乾谿が南にある。〉
刺史の治所。〈漢官によれば、洛陽から千二十里。〉
洨県。垓下聚がある。〈高祖が項羽を破った所。〉
蘄県。大沢郷があり、陳勝がここで挙兵した。〈史記に高祖が会甀で黥布を撃ったとある。徐広の注によれば、県の西にある。〉
銍県。
鄲県
建平県
臨睢県、かつての芒県。光武帝が改名した。
竹邑県、侯国、かつての竹県。
公丘県、本来は滕国。〈杜預によれば県の東南にある。〉
龍亢県、〈地道記によれば、左伝の隠公二年に「向城に入る」とあるのは、県の東南にある。〉
向県、本来は国。
符離県
虹県、〈地道記によれば、左伝の昭公八年に「紅で大規模な狩猟を行った」とある。〉
太丘県
杼秋県、かつては梁国に属した。澶淵聚がある。〈左伝の襄公二十年に「澶淵で盟を結んだ」とある。〉
陳国
陳国、高帝が設置し、淮陽とした。
章和二年
改称された。洛陽の東南七百里。九つの城、戸数十一万二千六百五十三、人口百五十四万七千五百七十二。
陳(帝王世記によると、「庖犧氏の都であり、舜の子孫が封じられた地である」という。左伝僖元年に檉で会合したとあり、杜預は県の西北に檉城があると注している。爾雅には、「丘の上に丘があるものを宛丘という」とある。陳には株邑があり、おそらく朱襄の地であろう。博物記には、「邛の地は県の北にあり、防亭がそこにある。詩に『邛に旨苕あり、防に鵲の巣あり』とある」と記されている)。
陽夏には、固陵聚がある(史記高祖五年に項籍を固陵まで追ったとあり、晉灼の漢書注では汝南の固始県としている)。
寧平
苦は、春秋の時は相と呼ばれた。頼郷がある(伏滔の北征記には、「老子廟があり、廟の中に九つの井戸があって水が通じ合っている」とある。古史考には、「曲仁里があり、老子の里である」とある。地道記には、「城南三十里に平城がある」とある)。
柘
新平
扶楽
武平(左伝成十六年に、諸侯が陳の鳴鹿を侵したとあり、杜預は県の西南に鹿邑があると注している)。
長平は、かつて汝南に属していた(左伝に宋の華氏が鬼閻で戦ったとあり、杜預は県の西北に閻亭があると注している)。
辰亭がある(左伝宣十一年に辰陵で盟を結んだとあり、杜預は県の東南に辰亭があると注している)。
赭丘城がある。
魯国
魯国は、秦の薛郡であり、高后の時に改称された。本来は徐州に属していたが、光武帝が豫州に改属させた。六つの城、戸数七万八千四百四十七、人口四十一万一千五百九十。
魯国は、古くは奄国である(帝王世記によると、「黄帝は寿丘に生まれ、それは魯の東門の北にある。少昊は窮桑から帝位に登り、窮桑は魯の北にあり、後に曲阜に遷った」という。応劭は、「曲阜は魯の城中にあり、曲がりくねって長さ七八里ある」としている。左伝には伯禽が少昊の墟に封じられたとある。僖二十九年に介葛盧が昌衍に宿泊したとあり、杜預は県の東南に昌平城があると注している。皇覧には、「奄里の伯公の冢は城内の祥舎の中にあり、民の伝承では魯の五徳の奄里伯公がその宅に葬られたという」とある)。
大庭氏の庫がある(杜預は、「大庭氏は古い国名で、城内にあり、魯がその場所に庫を造った」と注している)。
鉄がある。闕里があり、孔子が住んだ所である。
牛首亭がある。
五父衢がある。
騶は、もともと邾国である。
蕃には、南梁水がある。
薛は、もともと国である。
六国の時代には徐州と呼ばれた。
卞には、盗泉がある。郚郷城がある。
汶陽。
以上が豫州刺史部で、郡と国は六、県と邑と公国と侯国は九十九である。
冀州。
魏郡。
魏郡は高帝が設置した。洛陽の東北七百里にある。
十五城、戸十二万九千三百十、口六十九万五千六百六。
鄴。
かつて大河があった。滏水がある。
汚水があり、汚城がある。
平陽城がある。
武城がある。九侯城がある。
繁陽県
内黄県
清河水が流れ出る。羛陽聚がある。
黄沢がある。
魏県
元城県
五鹿墟、かつての沙鹿
沙亭がある。
黎陽県
陰安県、邑
館陶県
清淵県
平恩県
沙県、侯国。〈魏都賦の注に龍山があるとある。〉
斥丘県、葛がある。〈杜預によると乾侯がある。魯の昭公が居た所。〉
武安県、鉄がある。〈すなわち、臺孝威が県の山に隠棲した所。〉
曲梁県、侯国、〈左伝宣公十五年、曲梁で赤狄を破った。〉
もと広平国に属した。雞沢がある。〈左伝襄公三年、諸侯が雞沢で会合した。杜預によると県の西南にある。〉
梁期県
鉅鹿郡
鉅鹿郡、秦が設置した。
建武十三年
広平国を廃止し、その県を当郡に属させた。洛陽の北千一百里。十五城、戸十万九千五百十七、口六十万二千九十六。
陶県、薄落亭がある。
鉅鹿県、もと大鹿県、大陸沢がある。〈広阿沢がある。呂氏春秋九藪に趙の鉅鹿とあり、高誘の注に広阿沢であるとある。山海経に大陸の水とある。史記に紂が鉅橋の粟を満たしたとある。許慎は「鉅鹿の大橋である」という。鉅鹿の南に棘原があり、章邯が軍を駐めた所。前漢書に沙丘台は県の東北七十里にあるとある。〉
楊氏県
鄡、
下曲陽県には鼓聚があり、かつての翟鼓子の国である。〈杜預によると、県の西南に肥累城がある。古代の肥国で、白狄の別種である。〉
昔陽亭がある。〈左伝昭公十二年、晋の荀呉が昔陽に入った。杜預によると、沾県の東に昔陽城がある。肥の旧都である。〉
任、
南和、
広平、
斥章、
広宗、
曲周、
列人、
広年、
平郷、
南〈糸言糸〉、
常山国
常山国は、高帝が設置した。
建武十三年
真定国を廃止し、その県を当郡に属させた。十三城、戸数九万七千五百、人口六十三万一千百八十四。
元氏県。〈晋の地道記に石塞、三公塞がある。〉
高邑県。もとは鄗県。光武帝が改名した。刺史の治所。〈漢官によれば、洛陽から一千里。〉
千秋亭、五成陌がある。〈県の南七里。〉
光武帝はここで即位した。
都郷県。侯国。鉄がある。
南行唐県。石臼谷がある。
房子県。賛皇山がある。〈県の西南六十里。〉
済水がここから出る。〈晋の地道記に礫塞、中谷塞がある。〉
平棘県。塞がある。
欒城県。〈〔平棘〕県の西北四十里。〉
九門県。〈史記に趙の武霊王が九門から出て、野台の如き所で斉・中山の国境を望んだとある。碣石山は、戦国策に県界にあると云う。〉
霊寿県。衛水が出る。
蒲吾県。〈史記に番吾君とある。杜預は晋の蒲邑であるという。古今注に「永平十年、常山の呼沱河に蒲吾渠を作り、漕運の船を通した」とある。〉
井陘県
真定県
上艾県、かつては太原郡に属した。
中山国
中山国は高祖が設置した。洛陽の北一千四百里にある。十三の城、戸数九万七千四百十二、人口六十五万八千百九十五。
盧奴県
北平県、鉄がある。
毋極県
新市県、鮮虞亭がある。かつての国で、子姓である。
望都県
唐県、中人亭がある。
左人郷がある。
安国県
安憙県、本来は安険県で、章帝が改名した。
漢昌県、本来は苦陘県で、章帝が改名した。
蠡吾は侯国であり、もとは涿郡に属していた。
上曲陽はもと常山郡に属していた。恒山が西北にある。〈泉の水があり、干吉が神書を得た。晋の地道記には「県の北を四百二十五里行くと、恒に多くの山坂があり、飛狐口という名である」とある。〉
蒲陰は本来は曲逆であり、章帝が改名した。陽城がある。〈晋の地道記に「陽安関がある。陽城。蒲陽山があり、蒲水がここから出る」とある。〉
広昌はもと代郡に属していた。
安平国
安平国はもと信都であり、高帝が設置した。明帝は楽成と名づけたが、
延光元年に
改めた。洛陽の北二千里。十三の城、戸九万一千四百四十、口六十五万五千百十八。
信都には絳水、呼沱河がある。
阜城はもと昌城である。
南宮、
扶柳、
下博、
武邑、
観津、〈もとは清河郡の下県。決録注に「孝文帝の竇皇后の父は身を隠して漁釣し、淵に落ちて死んだ。景帝が即位し、后が太后となると、使者を遣わして父の落ちた淵を埋めなおして葬り、県城南に大きな墳墓を築いた。民はこれを竇氏青山と号した」とある。〉
西には漳水が流れ、渡し場の名を薄落津という。〈史記に言う、趙の武霊王が言った:「我が国は東に河、薄落の水がある。」〉
堂陽は、かつては鉅鹿に属した。
武遂は、かつては河間に属した。
饒陽は、かつては饒と呼ばれ、涿に属した。無蔞亭がある。〈馮異が光武帝に豆粥を進めた。案:志に解犢侯があり、霊帝が封じた。〉
安平は、かつては涿に属した。
南深沢は、かつては涿に属した。
河間国
河間国は、文帝が設置し、世祖(光武帝)が信都に属させて廃止したが、和帝の
永元二年
に元に戻された。洛陽の北二千五百里にある。十一城、戸九万三千七百五十四、口六十三万四千四百二十一。
楽成
弓高
易は、かつては涿に属した。
武垣は、かつては涿に属した。
中水は、かつては涿に属した。
鄚は、かつては涿郡に属していた。
高陽は、かつては涿郡に属していた。葛城がある。
文安は、かつては勃海郡に属していた。
束州は、かつては勃海郡に属していた。
成平は、かつては勃海郡に属していた。
東平舒は、かつては勃海郡に属していた。
清河国
清河国は、高帝(前漢の高祖)によって設置された。桓帝の
建和二年
に甘陵と改称された。洛陽の北千二百八十里にある。七つの城、戸数十二万三千九百六十四、人口七十六万四百一十八。
甘陵は、かつての厝県であり、安帝の時に改名された。
貝丘、
東武城、
鄃、
霊県、和帝の
永元九年
夏。(地道記に曰く、鳴犢河有りと。)
繹幕、
広川、もと信都に属す。棘津城有り。(太公呂尚、棘津城に困す。琅邪海曲は、この城に非ず。案ずるに、永初元年、鄧太后、広川王国を分置す。後に王薨じ、国除かれる。太后崩じ、還って清河に益す。)
趙国
趙国、秦の邯鄲郡、高帝改めて名づく。洛陽の北千一百里。五城、戸三万二千七百十九、口十八万八千三百八十一。
邯鄲、(張華曰く、「趙奢の冢は邯鄲の西山上に在り、これを馬服山と謂う。」)
叢台有り。(洪波台有り。)
易陽、(魏都賦に曰く、「温泉、毖涌して自ら浪す。」注に曰く、「温泉は易陽に在り、世、以て疾を治し、百病を洗う。」)
襄国、本は邢国、秦は信都と為し、項羽更めて名づく。檀台有り。(史記に曰く、趙成侯、魏、栄椽を献ず。因って以て檀台と為す。)
蘇人亭有り。
柏人、
中丘、(晉地道記に曰く、石門塞、焼梁関有りと。)
勃海郡
勃海郡、高帝置く。洛陽の北千六百里。八城、戸十三万二千三百八十九、口百十万六千五百
南皮県。
高城県、侯国。
重合県、侯国。
浮陽県、侯国。
東光県(胡蘇亭がある。胡蘇河の名は『爾雅』に見える)。
章武県。
陽信県。
延光元年に
復活した。
脩県、もとは信都に属した。
以上が冀州刺史部で、郡と国は九つ、県・邑・侯国は百