後漢書
『志』第十九
郡国一
司隷
『漢書地理志』は天下の郡県の本末、及び山川の奇異、風俗の由来を記して、極めて詳しい。今はただ中興以来の郡県の改易、及び春秋、三史に会同・征伐の地名として現れるもの、〈臣の昭が案ずるに、志にはなお遺漏・欠落があり、現在多くの書物に記載されているものを悉く記録することはできない。その春秋時代の土地で、博識の儒者が根拠としているがまだ備わっていないものは、皆先に列挙しておく。〉
をもって『郡国志』とする。
(原本の志では郡県名のみを大書し、その山川地名はすべて細注としていたが、今これを進めて大字とする。新たな注釈を証拠立てて発揮し、臣下の劉昭が採集する。)
およそ前の志に県名があり、今の志に記載されていないものは、すべて世祖(光武帝)によって併合・廃止されたものである。前に無く今にあるものは、後世に設置されたものである。およそ県名を先に記すものは、郡の治所である。
(元始二年、郡と国は百三、県と邑は千五百八十七、土地の東西は九千三百二里、南北は一万三千三百六十八里、確定した墾田は八百二十七万五百三十六頃、民戸は千三百二十三万三千六百十二、人口は五千九百十九万四千九百七十八人で、周の成王の時代より四千五百四十八万五十五人多く、漢の極盛期であった。そして王莽が位を簒奪し、続いて更始・赤眉の乱があり、光武帝の中興に至るまで、百姓は消耗し、十のうち二が残るのみであった。中元二年、民戸は四百二十七万千六百三十四、人口は二千百万七千八百二十人であった。永平・建初の時代、天下に事なく、務めは民を養うことにあり、孝和帝に至るまで、民戸は増殖した。そして孝安帝の永初・元初の間、兵乱と飢饉の苦しみにより、民人は再び損耗した。孝桓帝に至っては、以前よりかなり増加した。
永寿二年
、戸数は千六百七万九百六、人口は五千六万六千八百五十六人で、墾田も多く、単師(単一の師団)がしばしば征伐に出た。そして霊帝が黄巾の乱に遭い、献帝が即位すると董卓が乱を起こし、宮廟を大いに焼き払い、御輿を西遷させて劫略し、京師は寂れ、豪傑が争いを起こし、郭汜・李傕の類がさらに甚だしく残害した。このため興平・建安の時代、海内は凶荒に陥り、天子は奔流し、白骨が野に満ち、故に陝津の難では箕で指をすくい取り、安邑の東では皇后の裳衣が完全でなく、ついに寇戎が起こり、雄雌が定まらず、庶民を割剝すること三十余年に及んだ。そして魏の武皇帝が天下を平定し、文帝が禅譲を受けると、人衆の損耗は万に一が残るのみであった。
景元四年
、蜀と通算して民戸は九十四万三千四百二十三、人口は五百三十七万二千八百九十一人であった。また案ずるに、
正始五年
、揚威将軍朱照日が上奏した呉の領する兵戸は凡そ十三万二千であり、その民数を推し量ると、蜀よりも多くはならないであろう。昔、漢の
永和五年
、南陽の戸数は五十余万、汝南の戸数は四十余万であった。これを今と比べると、三帝が鼎足をなしても、二郡を超えず、食禄と復除の民を加え、凶年と飢疾の難を考慮すると、供役に供せられるのは、まるで一郡分に等しい。一郡の民をもって、三帝の用を供する、これもまた苦しいことである。禹の時代から今に至る二千余載、六代の損益が、ここに備わっている。」臣下の昭が案ずるに、皇甫謐の記録には春秋の時に千二百国あったとあるが、その出典は不明である。班固は周の初め、爵は五等で国土は三等、およそ千八百国あったという。互いに併呑し滅ぼし合い、数百年の間に列国は消耗し尽くし、春秋の時には、なお数十国が残っていた。〉
司隸
河南尹
秦の三川郡で、高祖が改名した。世祖が雒陽に都を置き、
建武十五年
河南尹と改称した。
〈應劭の『漢官』に言う:「尹とは正である。郡府の聴事の壁には諸尹の画賛があり、建武から始まり、陽嘉に至るまで、その清濁進退を注記し、過ちを隠さず、虚誉をせず、事を述べる実を得ている。後人がこれを見れば、勧め戒めるに足りる。春秋が毫毛の善を採り、纖釐の悪を罰し、王公をも避けなかったとしても、これを超えるものはなく、特に明らかである。」〉
二十一城。永和五年の戸数は二十万八千四百八十六、人口は百一万八百二十七。
〖雒阳
〈摯虞が言う:「古の周南は、今の雒陽である。」魏氏春秋に言う:「陰郷に委粟山があり、魏の時に円丘として営まれた。」皇覧に言う:「県の東北の山に萇弘の冢があり、県の北の芒山の道の西に呂不韋の冢がある。」〉
〗周の時は成周と号した。
〈公羊伝に言う。「成周とは何か。東周である。」何休が注釈する。「周の道が初めて成り、王が都としたところである。」帝王世記に言う。「城の東西は六里十一步、南北は九里一百歩である。」晋の元康地道記に言う。「城内の南北は九里七十歩、東西は六里十歩で、面積は三百頃十二畝三十六歩である。城の東北隅に周の威烈王の冢がある。」〉
狄泉があり、城中にある。
〈左伝僖公二十九年に「狄泉で盟を結んだ」とあり、杜預は城内の太倉の西南にある池水と注釈する。ある説では本来は城外にあり、定公元年に成周を築城した際にこれを取り囲んだという。考証すると、この水は晋の時代には東宮の西北にあった。帝王世記に言う。「狄泉は本来殷の墓地であり、成周の東北にあった。今、城中にある殷王の冢がこれである。また、太倉の中にある大冢は周の景王である。」〉
唐聚がある。
〈左伝昭公二十三年に「尹辛が唐で劉の軍を破った」とある。〉
上程聚がある。
〈古い程国である。史記によれば重黎の後裔、伯休甫の国である。関中にはさらに程という地がある。帝王世記に「文王が程に住み、その後豊に都を移した」とあるため、ここを上程と称するのである。〉
士郷聚という集落がある。
〈馮異が武勃を斬った地である。〉
褚氏聚という集落がある。
〈『左伝』昭公二十六年に「王が褚氏に宿泊した」とあり、杜預の注に「県の南に褚氏亭がある」とある。〉
栄錡澗という場所がある。
〈『左伝』に周の景王が「栄錡氏で崩御した」とあり、杜預の注に「鞏県の西である」とある。〉
前亭という場所がある。
〈杜預の注に「県の西南に泉亭がある。すなわち泉戎である」とある。〉
圉郷がある。
〈左伝・昭公二十二年に単氏が「東圉を伐つ」とあり、杜預は県の東南に圉郷があるという。また西南に戎城があり、伊雒の戎である。〉
大解城がある。
〈左伝・昭公二十三年に晋の軍が解に駐屯し、杜預は県の西南に大解・小解があるという。〉
河南
〈帝王世記に「城の西に郟鄏陌があり、太康が有雒の表で狩りをした。今の河の南である」とある。本伝に負犢山がある。〉
周公の時に築かれた雒邑であり、春秋の時には王城と呼ばれた。
〈鄭玄の『詩譜』に「周公が摂政五年の時、成王が雒邑に都を定め、邵公に先に地相を見させ、完成して王城と呼んだ」とある。『博物記』に「王城は一万七百二十丈、外郭は一十里四方、南は雒水を望み、北は陝山に至る」とある。『地道記』に雒城から四十里とある。『左伝』定公八年に「単子が穀城を伐つ」とあり、杜預は県の西にあるという。〉
東の城門の名は鼎門、
〈『帝王世記』に「東南の門は九鼎が入った所」とある。また「武王が雒陽の西南、雒水の北の鼎中観に鼎を定めた」とある。〉
北の城門の名は乾祭。
〈『左伝』昭公二十四年に「士伯が乾祭に立つ」。『皇覽』に「城の西南の柏亭西周山に周霊王の冢があり、民が祠り絶えない」とある。〉
また甘城があり、
〈杜預は県の西南に甘泉があるという。〉
蒯郷がある。
〈左伝の昭公二十三年に尹辛が蒯を攻撃した。晋地道記に「県の西南にあり、蒯亭がある」とある。〉
〖梁〗は昔の国で、伯翳の後裔である。
〈陽人聚がある。史記に「秦が東周を滅ぼしたが、その祭祀を絶やさず、陽人の地を〔周君に賜った〕」とある。〉
霍陽山がある。
〈左伝哀公四年に「楚は一晩の期限で、梁及び霍を襲撃した」とある。〉
注城がある。
〈史記に魏文侯(四)〔三〕十二年に秦を注で破ったとある。博物記に「梁伯は土木工事を好み、今の梁には城が多い」とある。〉
滎陽には鴻溝の水がある。
(注)
文穎が言うには、「滎陽の下で黄河を引き、東南に鴻溝とした。これが官渡水である。」)
広武城がある。
(注)
『西征記』に言う。「三皇山(あるいは三室山ともいう)がある。山上に二つの城があり、東のものを東広武、西のものを西広武という。それぞれ山の一端にあり、互いに二百余歩離れていて、その間は深い谷で隔てられている。ここは漢の高祖が項籍と語った場所である。」)
虢亭があり、虢叔の国である。隴城がある。
(注)
『左伝』文公二年に「垂隴で盟を結んだ」とある。)
薄亭がある。敖亭がある。
(注)
周の宣王が敖で狩りをした。『左伝』宣公十二年に「晋の軍は敖と鄗の間にいた」とある。秦はここに敖倉を設置した。
(前の文の続き)
蛍沢がある。
(注釈)
『左伝』宣公十二年に、楚の潘党が魏錡を追って蛍に至ったとあり、杜預の注に「県の東に蛍沢がある」とある。
(前の文の続き)
(巻の表記)
(注釈)
『左伝』成公十年に、晋と鄭が脩沢で盟を結んだとあり、杜預の注に「県の東に脩武亭がある」とある。
(前の文の続き)
長城があり、陽武から密に至る。
(注釈)
『史記』蘇秦伝に、蘇秦が襄王に説いて言うには、「大王の地は、西に長城の境がある」とある。
(前の文の続き)
垣雍城があり、あるいは古の衡雍であるという。
(注釈)
史記の無忌が魏王に言った、「王は鄭の地を得て、垣雍を得た」というものである。杜預はこれが衡雍であると言う。また、現在の県の治める城である。>
有扈城の亭。
〈『左伝』荘公二十三年に「扈で盟を結ぶ」とあり、杜預は県の西北にあると注している。〉
原武
陽武
中牟
〈『左伝』宣公元年に諸侯が鄭を救援し、北林で遭遇した。杜預は言う、県の西南に林亭があり、鄭の北にあると。〉
圃田沢があった。
〈左伝に原圃とある。爾雅の十藪に、鄭に圃田がある。〉
清口水がある。
〈左伝閔公二年に清で遇うとあり、杜預は県に清陽亭があるという。〉
管城がある。
〈杜預は管国であるといい、京県の東北にある。漢書音義に「故に管叔の邑」とある。〉
曲遇聚がある。
蔡亭がある。
開封
〈左伝哀公十四年に「逢沢に介麋あり」とあり、杜預は県の東北にあると注すが、遠く、疑わしい(非ず)。徐広は逢池であるという。〉
苑陵には棐林がある。
〈左伝宣公元年に諸侯が棐林で会合した。杜預は県の東南に林郷があると注す。徐斉民の北征記に「県の東南に大隧澗があり、鄭の荘公が掘ったものである。また大城は東は濮水に臨み、水の東で溱水が洧水に注ぐ。城の西は洧水に臨む」とある。〉
制沢がある。
〈左伝(宣公)〔成公〕十〔六〕年に諸侯が制田に移った。杜預は県の東に制(城)〔沢〕があると注す。〉
瑣侯亭がある。
〈左伝襄公十一年に諸侯の軍が瑣に駐屯した。杜預は県の東に瑣侯亭があると注す。〉
平陰
穀城から[E767]水が出る。
〈博物記に言う:「潛亭山から出る。」〉
函谷関がある。
〈西征記に言う:「函谷の左右は岸が十丈で絶え、中は車を通すだけである。」〉
緱氏
〈左傳に呂相が秦伯を絶つに「我が費、滑を殄滅す」とあり、杜預は滑国が費に都したと言い、今の緱氏県である。本紀によれば、県に百坏山がある。干寶の搜神記に言う:「県に延寿城がある。」〉
邬聚がある。
(左伝によれば、王が鄔と劉を取った。杜預は、鄔は県の西南にあるという。)
轘轅関がある。
(瓚は言う:「険しい道の名で、県の東南にある。」)
【鞏
(鞏は伯の国である。左伝に「商の湯が景亳で天命を受けた」とある。杜預は、県の西南に湯亭があるという。帝王世記に言う:「湯亭は偃師にある。」また言う:「夏の太康の五人の弟が、雒汭に滞在した。これは県の北東三十里にある。」)
】尋谷水がある。
(左伝の昭公二十三年に、王師と晉師が鄩中を包囲した。史記に張儀が言う「兵を三川に下し、什谷の口を塞ぐ」とある。徐廣は、県に尋口があるという。)
東訾聚があり、現在は訾城と呼ばれている。
〈『左伝』昭公二十三年に「単子が訾を取る」とあり、杜預は県の西南にあるという。『晋地道記』には県の東にあるという。〉
坎埳聚がある。
〈『左伝』に、周襄王が出奔したとき、国人が彼を坎埳に迎え入れたとあり、杜預は県の東にあるという。『地道記』には南にあるという。〉
黄亭がある。湟水がある。
〈『左伝』昭公二十二年に「王子猛が皇に居る」とあり、杜預は黄亭があり、県の西南にあるという。〉
明谿泉がある。
〈『左伝』昭公二十二年に「賈辛が谿泉に軍を置く」とある。
後漢書
成睾
〈『史記』に言う、成睾の北門は玉門という。『左伝』に「北制で燕の軍を破る」。杜預が「北制は、別名を虎牢という」と言い、これもまたこの県である。『穆天子伝』に言う:「七萃の士が、虎を生け捕りにして天子に献上し、命じて檻とし、東虢で飼育した。これが虎牢という。」『左伝』に鄭の子皮が索氏で晋の韓宣子を慰労したと言い、杜預が県の東に大索城があると言う。『尚書』禹貢に「大岯に至る」とあり、張揖は成睾県の山だと言う。また旋門阪があり、県の西南十里にあり、『東京賦』に見える。〉
旃然水という川がある。
〈『左伝』襄公十八年に、楚が鄭を討伐し、旃然に駐屯した。〉
瓶丘聚があった。漫水があった。汜水があった。
〈『左伝』によれば、周の襄王は鄭の地の汜に滞在した。〉
京兆尹
〈鄭共叔が居住した地であり、左伝に「これを京城の大叔という」とある。応劭は「索亭がある。楚漢が京・索で戦った」と述べている。北征記にはさらに索水があると記されている。〉
〖密
〈春秋時代には新城と呼ばれ、伝には新密とある。僖公六年に諸侯が新城を包囲したが、杜預は一名を密県というと注している。〉
〗大騩山がある。
〈山海経に「大騩の山、その北側には鉄が多く、美しい白土が多い。草があり、その形は蓍に似て毛があり、青い花と白い実をつける。その名を(尪)〔𦵧〕といい、これを服用する者は夭折しない」とある。〉
梅山がある。
〈左伝に襄公十八年に楚が鄭を伐ち、右に回って梅山に至ったとあり、これは県の西北にある。〉
陉山がある。
(『史記』魏襄王六年に楚を伐ち、これを陘山で破った。秦が魏の華陽を破った地もまた県にある。杜預の遺令に「山の上に冢があり、あるいは子産のものという。邪東北に向かって新鄭城に至り、本を忘れない」とある。)
【新城】
(『左伝』に文公十七年、周が戎を邥垂で破ったとある。杜預は「県の北に垂亭がある」という。『史記』に秦が西周公を{単心}狐に遷したとあり、徐広は「陽人聚に近く、雒陽の南百五十里、梁と新城の間にある」という。)
】高都城がある。
(『史記』に蘇代が韓の相国に高都を周に与えるよう説いたことがある。)
広成聚がある。
(広成苑がある。)
古代の鄤聚があり、古くは鄤氏と呼ばれ、現在は蛮中という名である。
〈左伝の昭公十六年に楚が鄤子を殺した。杜預は言う、県の東南に蛮城があると。また、祭遵が張満を捕らえたのもここである。〉
偃師
〈帝王世記に言う、「帝嚳が都とした所であり、殷の盤庚が南亳に復したが、これが西亳である」。皇覧に言う、「北に睾繇祠がある」。また言う、「湯亭があり、湯祠がある」。〉
尸郷がある。
〈帝王世記に言う、「尸郷は県の西二十里にある」。〉
春秋の時には尸氏と呼ばれた。
〈左伝の昭公二十六年に、劉人が子朝の軍を尸氏で破った。前漢書に田横が自殺した場所とある。
後漢書
新鄭は、『詩経』にいう鄭国であり、祝融の故地である。
〈皇甫謐は言う。「古くは有熊国があり、黄帝の都であった。」>
平帝
河内郡
高祖が設置した。洛陽の北百二十里にある。十八城、戸十五万九千七百七十、人口八十万一千五百五十八。
懐県には有[DAF4]城がある。
〈『左伝』に言う、王が鄭の隰城を取ったと。杜預が言う、県の西南にあると。『伝』はまた言う、卻至が周と鄇の田を争ったと。杜預が言う、県の西南に鄇人亭があると。>
河陽
〈『左伝』に曰く、王が鄭と盟を結んだとあり、杜預は県の南の孟津であると注している。
後漢書
湛城があった。
軹
〈『左伝』に言う、王が蘇忿生の田(領地)の向を鄭に与えたと。杜預が注釈して言う、県の西北にある地名が向上であると。〉
原郷があった。
〈左伝に言う、王が鄭に原を与えたと。杜預が言う、沁水の西北に原城があると。〉
梁の地に封じられた。
〈『左伝』に曰く、襄公十六年に諸侯が湨梁で会合した。〉
波には[D13D]城がある。
〈左伝に王が鄭に絺を与えたとある。杜預は野王県の西南にあるという。〉
沁水
〈山海経に沁水は井陘の東から出るとある。〉
野王には太行山がある。
〈山海経に「その上には金玉があり、下には碧がある。獣がおり、その姿は麋に似て四つの角があり、馬の尾で距があり、その名を驒還という」とある。酈食其が「太行の道を塞ぐ」と言った。韋昭は県の北にあるという。〉
射犬聚がある。
〈世祖が青犢を破ったところである。〉
有B534城。
〈史記によると、紂は文王、九侯、鄂侯を三公とした。徐廣は「鄂」は一説に「邘」と作ると言う。武王の子が県の西北に封じられた。〉
【温】蘇子の都。済水がここから出る。王莽の時に大旱魃があり、ついに枯れ絶えた。
〈皇覧によると、「県の城郭の東、済水の南に虢公の冢がある。」〉
【州】
【平睾】邢丘がある。かつての邢国で、周公の子が封じられた所。
〈臣瓚が言うには、「丘の名であって国ではない。襄国の西にある。」〉
李城がある。
〈史記によれば、邯鄲の李同が秦軍を撃退し、趙がその父を李侯に封じたという。徐広は、これがこの城であると述べている。〉
【山陽】邑。雍城がある。
〈杜預は、古い雍国が県の西にあったと述べている。〉
蔡城がある。
〈蔡叔がこの地に封じられた邑であろうか。鄭の管城などと同じ類か?〉
【武徳】
【獲嘉】侯国。
【脩武】旧称は南陽で、秦の始皇帝が改名した。南陽城がある。
〈左伝(僖公四年)に、晋の文公が南陽を包囲したとある。史記には、「白起が韓の南陽を攻め、太行の道を遮断した」とある。山海経には、「太行の山があり、清水がそこから流れ出る」とある。郭璞は、「脩武県の北にある黒山も清水を湧出する」と述べている。
(注釈開始)
陽樊と攢茅の田。
(注釈終了)
服虔が言うには、「樊は仲山の居住地であるため、陽樊と名付けられた」。杜預が言うには、県の西北に攢城がある。左伝に定公元年に魏の献子が大陸で狩りをしたとあり、杜預は西北の呉沢であるとしている。
(注釈開始)
小脩武の聚落がある。
(注釈終了)
春秋では寧と呼ばれる。史記に高祖が韓信の軍を小脩武で得たとあり、晋灼は城の東にあるとしている。
(注釈開始)
隤城がある。
(注釈終了)
左伝の隠公十一年に「隤を鄭に与える」とある。
(注釈開始)
(共)本国である。淇水がここから出る。
(注釈終了)
前志の注に曰く、水は北山より出づ。博物記に曰く、「奥水あり、淇水に流入し、緑竹草あり」と。>
有B02A亭があった。
〈伯邑はすべて。>
汲
〈『晉地道記』には銅関があると記されている。>
朝歌
〈鹿腹山がある。>
殷の紂王が都を置いた場所は、
(『帝王世記』に言う。紂の糟丘、酒池、肉林は城の西にある。『前書』の注に言う。鹿臺は城中にある。)
南には牧野がある。
(県から十七里。)
北には邶国があり、南には寧郷がある。
(『史記』で無忌が魏の安僖王に説いて言う「韓の上党を共・寧に通ず」。徐廣は言う。寧郷がある。『左伝』に言う。襄公二十三年「晋を救い、雍榆に次る」。杜預が言う。県の東に雍城があるというのがこれである。)
蕩陰県には羑里城がある。
(韋昭が言う。「羑は音は酉。文王が拘禁された所。」)
(前志によると、池は県の西南にある。魏都賦の注によると、猗氏から六十四里のところにある。楊佺期の雒陽記によると、「河東の塩池は長さ七十里、幅七里で、水気は紫色である。別御塩があり、四面に印の歯や文章のように刻まれており、その字の妙は言い表せない。」)
楊には高梁亭がある。
(左伝によると、僖公(九)〔二十四〕年に晋の懐公が高梁で死んだ。杜預によると、県の西南にある。地道記には梁城があり、県から五十里離れており、叔嚮の邑である。)
平陽は侯国である。
(左伝によると、成公七年に諸侯が馬陵で盟を結んだ。杜預によると衛の地であり、平陽の東南の地名が馬陵である。また、魏郡の元城にあるという説もある。)
鉄がある。堯がここに都を置いた。
(晉の地道記によると、堯城がある。)
臨汾
(博物記に曰く、賈郷有り、賈伯の邑なり。)
董亭有り。
(左伝に曰く、晉、蒐を董に改む。杜預曰く、縣に董亭有り。)
汾陰
(博物記に曰く、「古の綸は、少康の邑なり。」)
介山有り。
(縣の西北に狐谷亭有り。郭璞の爾雅注に曰く、「縣に水口有り、車輪の許の如く、濆沸涌出し、其の深さ無限、之を瀵と名づく。」>
蒲板には雷首山がある。
<
史記によると、趙盾が首山で狩りをし、桑の木の下で休んでいたとき、飢えた人祇彌明がいた。県の南二十里には歴山があり、舜が耕作した場所である。また伯夷と叔斉が首陽山に隠棲した。馬融は、蒲阪の華山の北、河曲の中にあると言う。>
沙丘亭がある。
<
左伝によると、文公十二年に秦と晋が河曲で戦った。杜預は、県の南にあると言う。湯が桀を討伐した。孔安国は、河曲の南にあると言う。>
大陽には呉山があり、その上に虞城がある。
<
杜預は、虞国であると言う。帝王世記によると、「舜は虞に嫁いだ。これが虞城である。」また呉城とも呼ばれる。史記によると、秦の昭王が魏を伐って呉城を取ったが、これがこの城である。皇覧によると、「盗跖の冢は河曲に臨んでいる。」博物記によると、傅巖は県の北にある。>
下陽城がある。
<
虢邑は、『左伝』僖公二年に虞と晋によって滅ぼされたとある。県の東北三十里にある。>
茅津がある。
〈『左伝』に「秦が晋を討ち、遂に茅津より渡る」とあり、杜預は県の西にあるという。南に茅亭があり、これが茅戎である。〉
顛軨坂という坂がある。
〈『左伝』に「顛軨より入る」とある。『博物記』には、県の塩池の東、呉城の北、現在の呉阪にあると記されている。杜預は県の東北にあると述べている。〉
解
〈『左伝』によれば、咎犯が秦と晋の大夫と郇で盟約を結んだとあり、杜預は県の西北に郇城があると注釈している。『博物記』には智邑があると記されている。〉
桑泉城があった。
〈左伝の僖公二十四年に、晋の文公が桑泉に入った。杜預は言う、県の西二十里にあると。〉
臼城がある。
〈左伝に言う、晋の文公が入って臼衰を取ったところである。杜預は言う、県の東南にあると。博物記は言う、「臼季の邑。県の西北に卑耳山。県の西南は斉の桓公が西征した時に登った所。」〉
解城がある。
〈左伝の僖公十五年、晋侯が秦に賄賂を贈り、内に及んで解梁城。〉
瑕城がある。
〈左伝の文公十二年、秦が晋を侵して瑕に及んだ。杜預は言う、猗氏県の東北に瑕城があると。〉
皮氏県には耿郷がある。
(注)
尚書によれば、祖乙が耿に遷都した。左伝の閔公元年には、晋が耿を滅ぼしたとあり、杜預は県の東南に耿郷があると注している。博物記には耿城があると記されている。)
鉄があり、冀亭がある。
(注)
左伝の僖公二年に、晋の荀息が「冀が道理に背いた」と言い、杜預は国で、県の東北にあると注している。史記の蘇代が燕王に説いた言葉に「南陽を下し、冀を封じる」とある。)
聞喜県は邑である。
(注)
博物記によれば、県治は涑水の川沿いにある。史記には、韓を伐って乾河に至ったとある。郭璞は「県の東北に乾河口があり、ただ古い溝の跡があるだけで、水はもう流れていない」と注している。左伝の僖公三十一年に「晋が清原で大規模な軍事演習を行った」とあり、杜預は県の北にあると注している。)
もとは曲沃であった。
(注)
曲沃は県の東北数里にあり、晋からは六七百里離れている。毛詩譜の注に見える。
(注釈開始)
董池陂があり、古くは董沢と呼ばれた。
(注釈終了)
『左伝』に「改めて董で狩りを行った」、「董沢の蒲」とある。
(注釈開始)
稷山亭がある。
(注釈終了)
県の西五十里にある。『左伝』宣公十五年に「晉侯が稷で兵を治めた」とある。
(注釈開始)
涑水がある。
(注釈終了)
『左伝』呂相の秦への絶縁状に、「我が涑川を伐つ」とある。
(注釈開始)
洮水がある。
絳邑である。
(県の西に絳邑城があり、杜預は言う、故絳であると。)
翼城がある。
(左伝の隠公五年に曲沃が翼を伐つとあり、杜預は言う、県の東八十里にあると。)
永安県はもとの[E5E9]県である。
(史記に言う、周の穆王が造父を趙城に封じたとあり、徐廣は言う、永安にあると。博物記に言う、呂郷があり、呂甥の邑であると。)
陽嘉二年に名を改めた。
(杜預は言う、県の東北に彘城があると。)
霍大山がある。
(『爾雅』に「西南の美なるものに、霍山の多き珠玉あり」とある。『左傳』に閔公元年、晋が霍を滅ぼしたとあり、杜預は「県の東北に霍大山あり」と注している。『史記』に原過が神人の書を受け、称して「余は霍大山山陽侯天吏なり」とある。また、蜚廉が山で石槨を得て、そのまま葬ったともある。)
【河北】『詩経』の魏国である。韓亭がある。
【猗氏】
(『地道記』に「『左傳』文公十三年『詹嘉、瑕に処る』とあるのは、県の東北にある」とある。)
【垣】王屋山があり、兗水がここから出る。
(『史記』に「魏の武侯二年、王垣に城を築いた」とある。『博物記』に「山は東にあり、その形は垣のようである」とある。)
壺丘亭がある。
(『春秋左氏伝』襄公元年、晋が宋の五大夫を討ち、彼らを瓠丘に置いた。杜預の注によれば、県の東南に壺丘亭があるという。〉
邵亭がある。
〈『博物記』に「県の東九十里に郫邵の隘がある。賈季が公子楽を陳から迎えようとしたが、趙孟が郫邵で彼を殺した」とある。〉
〖襄陵〗
〈『晋地道記』に晋の武公が曲沃からここに遷ったとある。〉
〖北屈
〈『春秋左氏伝』に「二屈」とあるが、杜預は「二」は「北」の誤りであるとする。伝に「屈産の乗」とあり、駿馬が産出する。〉
〗壺口山がある。
〈禹貢に曰く、「壺口、梁及び岐を治む。」〉
采桑津がある。
〈左傳僖公八年に晋が狄を采桑で破ったとあり、杜預は県の西南に采桑津があるという。〉
〖蒲子〗
〈左傳に晋の文公が蒲城に居たとあり、杜預は今の蒲子県であるという。〉
〖濩沢〗侯国。析城門がある。
〈前志に県の西南にあるという。〉
端氏県
(注)
史記によると、趙・韓・魏が晋を分割し、晋の端氏を封じた。)
弘農郡
武帝が設置した。そのうち二県は、
建武十五年
に属した。洛陽の西南四百五十里にある。九つの城、戸数四万六千八百一十五、人口十九万九千一百一十三。
弘農県はかつて秦の函谷関である。
(注)
左傳に「虢公が戎を桑田で破った」とあり、杜預は県の東北の桑田亭にあるという。)
燭水が出る。
(注)
前志には(衡)〔衙〕(山)嶺の下谷から出るとある。
(注記開始)
枯枞山がある。
(注記終了)
本伝によると、赤眉が鄭の北で盆子を立てたが、古今注はこの山の下にあったと記す。
(注記開始)
桃丘聚があり、かつての桃林である。
(注記終了)
左伝に「桃林の塞を守る」とあり、博物記には湖県の休與の山にあると記す。
(注記開始)
務郷がある。
(注記終了)
赤眉が李松を破った場所である。
(注記開始)
曹陽亭がある。
(注記終了)
史記によると、章邯が周章を曹陽で殺したとあり、晉灼は県の東十三里と注釈している。また献帝が東帰した際に敗れた場所であり、曹公が好陽と改称した。〉
〖陝
〈史記に「陝より西は邵公がこれを主とし、陝より東は周公がこれを主とした」とある。〉
〗本来は虢仲の国であった。
〈杜預によると、虢の都は上陽で、県の東南にあった。虢城がある。〉
焦城がある。
〈かつての焦国であり、史記によると武王が神農の後裔を焦に封じた。〉
陝陌がある。
〈博物記にいう、「二伯が分けたところ。」〉
〖黾池〗穀水が出る。
〈前志にいう、穀陽谷より出づ。〉
二崤がある。
〖新安〗涧水が出る。
〈博物記にいう、「西漢水は新安より出でて雒に入る。」また孝水があり、潘岳の西征賦に見える。〉
〖宜阳〗
〈金門山があり、山の竹が律管となる。>
陸渾県の西には虢略の地がある。
<
左伝・僖公十五年に、晋侯が秦に賄賂として、東は虢略までを尽くして与えたとある。杜預の注によれば、河曲から南へ行き、東へ向かって故虢の地を尽くしたという。〉
盧氏県には熊耳門がある。
<
山海経に「その上には漆の木が多く、その上には棕櫚が多い。浮豪の水がここから出て、西北に流れて洛水に注ぎ、その中には美玉が多く、人魚が多い」とある。〉
伊水と清水がここから出る。
<
晋地道記に「伊水は東北に流れて洛水に入る」とある。〉
湖県はもと京兆に属していた。
<
前の志書には鼎湖がある。〉
閺郷がある。
〈『皇覽』に「戾太子は南に出て、闅郷の南に葬られた」とある。秦はまた寧秦と改称した。〉
【華陰】以前は京兆に属した。
〈『史記』に魏の文侯三十六年に斉が陰晉を侵したとある。前の志書に高帝が華陰と改称したとある。『呂氏春秋』九藪に「秦の陽華」とあり、高誘の注に「あるいは華陰の西にある」とある。高誘はまた「桃林県の西の長城がこれである」ともいう。『晉地道記』に「潼関がこれである」とある。〉
太華山がある。
〈『左伝』に晋が秦に賂を贈り、南は華山に及んだとある。『山海経』に「太華の山は、削り成して四方にそびえ、その高さ五千仞、その広さ十里、鳥獣も住まない。蛇がいる。名を肥遺といい、六足四翼で、これが現れると天下は大旱魃となる」とある。武王は馬と牛を桃林の墟に放った。孔安国は華山の東にあるという。『晉地道記』に山は県の西南にあるとある。〉
京兆尹
秦の内史で、武帝が改称した。その四つの県は、
建武十五年
に所属した。洛陽の西九百五十里。
〈決録注に言う:「京は大きいことである。天子は兆民と言う。」〉
十の城、戸数五万三千二百九十九、人口二十八万五千五百七十四。
〖長安〗高祖が都とした。
〈漢旧儀に言う:「長安城は方六十三里、経緯各々十五里、十二の城門、九百七十三頃。城中は全て長安令に属する。」辛氏三秦記に言う:「長安の地は皆黒い土壌であるが、城中は今赤く火のようで、堅く石のようである。父老の伝えるところでは、龍首山を全て穿って城とした。」皇覧に言う:「衛思后は城の東南の桐柏園に葬られ、今の千人聚がこれである。」〉
鎬は、上林苑の中にある。
〈孟康が言う:「長安の西南に鎬池がある。秦始皇が江神が璧を返して言った:『我に代わって鎬池君に届けてくれ。』」古史考に言う:「武王が鎬に遷都した。長安の豊亭鎬池である。」皇覧に言う:「文王、周公の冢は皆、鎬聚の東杜の中にある。」〉
後漢書
霸陵には枳道亭があった。
〈前漢書によれば、秦の王子嬰は軹道の傍らで降伏した。地道記には、霸水の西とある。〉
長門亭があった。
〈前漢書によれば、文帝が長門を出たとき、道の北側に五人の人物がいるのを見て、五帝壇を建立した。〉
杜陵
〈杜預は言う、古の唐杜氏であると。〉
酆は西南にある。
〈杜預は言う、「鄠県の東にある」。決録注は言う、「鎬は酆水の東にあり、酆は鎬水の西にあり、互いに二十五里離れている」。〉
〖鄭〗
〈史記は商君を鄭の黽池で殺したとある。鄭の桓公はここに封じられた。黄図は言う、「下邽県は鄭と並び、桓帝が西巡した際にこれを復した」。〉
〖新豊〗驪山がある。
〈杜預は言う、「古の驪戎国である」。韋昭は言う、「戎がこの山に住み着いたので、驪戎と号した」。三秦記は言う、「始皇の墓は山の北にあり、始皇祠がある。斎戒せずに行くと、たちまち疾風暴雨となる。人が登ろうとすると、暗くて道を見失う。県の西に白鹿原があり、周の平王の時に白鹿が現れた」。関中図によると、県の南に新豊原があり、白鹿は霸陵にある。〉
東に鴻門亭がある。
〈前書に高帝が項羽に会った場所とあり、孟康は「県の東七十里、旧大道の北の下坂の口の名」と言う。関中記は始皇陵の北十余里に謝聚があると言う。〉
および戯亭がある。
(周の幽王が死んだ場所。蘇林は県の東南四十里と注している。)
C37D城がある。
藍田県は美しい玉を産出する。
(三秦記に「三十里四方の川があり、その水は北へ流れる。玉、銅、鉄、石を産出する」とある。地道記には虎候山がある。)
長陵県はもと馮翊に属していた。
(蔡邕が作った樊陵頌に「前漢の時は戸数五万、人口十七万あったが、王莽の後は十のうち一も残っていない。永初元年、羌戎が暴虐を働いた。光和年間に至って、管轄する戸数は四千に満たない。園陵の守衛や祭祀の供物など、あらゆる労役がここから出される。民の用は乏しく、その事に堪えられない」とある。)
商県はもと弘農に属していた。
(帝王世記に「契が封ぜられた所である」とある。左伝哀公四年に「少習を通じようとする」とあり、杜預は少習を県の東にある武関と注している。〉
上雒は侯国である。冢領山があり、雒水がここから出る。もとは弘農に属していた。
〈山海経によれば、雒水は讙挙の山から出る。史記によれば、雒水は熊耳から出る。山海経によれば、雒水は王城の南から出て、相谷の西に至り、東北に流れ、虎牢城の西四十里を去り、河口に注ぎ、これを雒汭という。〉
菟和山がある。
〈左伝哀公四年に、楚の司馬が菟和に軍を置いたとある。〉
蒼野聚がある。
〈左伝によれば、哀公四年に楚の右師が蒼野に軍を置いた。杜預は県の南にあるという。〉
陽陵はもとは馮翊に属していた。
左馮翊
秦の時代には内史に属し、武帝の時に分割され、名称が改められた。洛陽の西六百八十八里にある。
〈決録注に「馮は馮なり。翊は明なり」とある。〉
十三の城、戸三万七千九十、人口十四万五千百九十五。
〈潘岳の関中記に「三輔は旧く長安城中に治所を置き、長吏はそれぞれその県で民を治めた。光武帝が東都に遷った後、扶風は槐里に治所を移し、馮翊は高陵に治所を移した」とある。〉
高陵
池陽
〈爾雅の十藪に、周には焦穫がある。郭璞は県の瓠中がこれであるという。地道記に「嶻辥山が北にある。鬼谷があり、三所氏を生んだ」とある。案ずるに、史記では鬼谷は潁川郡陽城にあるとし、地記と異なる。〉
雲陽
〈荊山がある。帝王世記に「禹が荊山で鼎を鋳造した。馮翊郡の懐徳県の南にあり、今その下に荊渠がある」とある。〉
〖祋祤〗
永元九年
夏。[1111]
〖頻陽〗
〖万年〗
〈帝王世記に「秦の献公が櫟陽に都した」とあるのがこれである。〉
〖蓮勺〗
〖重泉〗
〖臨晋〗本来は大荔である。河水祠がある。芮郷がある。
〈古い芮国で、虞と譲り合った国である。〉
王城がある。
〈史記によると、秦の厲恭公が大荔を討伐し、その王城を取った。これがこの城である。左伝では、晋の陰飴甥が秦伯と王城で盟を結んだとあり、杜預は後に武郷と改められ、県の東にあると注している。〉
〖郃陽県〗
永平二年
夏。
〖夏陽県〗梁山がある。
〈詩経に「奕奕たる梁山」とある。県の西北にある。公羊伝では河上の山であるという。杜預は古の梁国であると注す。史記では本来は少梁であったという。爾雅では梁山は晋の望(祭祀対象の山)であるという。〉
龍門山。
〈書経(禹貢)に「河を積石より導き、龍門を歴る」とある。太史公(司馬遷)は「遷は龍門に生まる」と言い、韋昭は県の北にあると注す。博物記には「韓原があり、韓武子の采邑である」とある。〉
〖衙〗
〈『左伝』文公二年に、晋が秦を彭衙で破った。『皇覧』に「蒼頡の冢があり、利陽亭の南にあり、墳の高さは六丈である」とある。〉
〖粟邑〗
永元九年
夏。
右扶風
秦の時代は内史に属し、武帝の時に分離して改名した。
〈『決録』に「扶風は、化である」とある。〉
十五城、戸一万七千三百五十二、口九万三千九十一。
〖槐里〗周の時代は大丘と呼ばれた。
〈また廃丘とも呼ばれ、周の懿王や章邯が都とした。〉
高帝が改めた。
〖安陵〗
〈皇覧に「県の西北の畢陌に、秦の武王の冢がある」とある。〉
〖平陵〗
〖茂陵〗
〖鄠
〈古くは扈国であった。〉
〗豊水が出る。
(『左伝』に「康王は酆宮で朝見を行った」とあり、杜預の注によれば霊台があり、康王はそこで諸侯を朝見したという。)
甘亭がある。
(『帝王世記』によれば、県の南にある。夏の啓が扈を討伐し、甘で大戦を行った。また南山には王季の冢がある。)
【郿県】邰亭がある。
(『史記』によれば、棄を邰に封じたとあり、徐広の注によれば現在の斄郷である。また王忳伝を参照すると、郿県の斄亭は、冤罪の鬼が故亭長に報復して殺害した場所である。秦代は栄県であったが、後に廃止された。『帝王世記』によれば、「秦の出公が平陽に遷都した。」『新論』によれば、「邰は漆県にあり、その民には会日があり、互いに夜中に市を開く習慣があり、もし行わないと災いや咎がある。」)
【武功県】永平八年夏。太一山があり、もとは終南山である。垂山があり、もとは郭物山である。
(前漢書地理志によれば、県の東にある。)
斜谷がある。
〈西征賦の注に言う:「褒斜谷は、長安の西南にある。南口は褒、北口は斜、長さ百七十里。その水は南に流れる。」〉
陳倉
〈三秦記に言う:「秦の武公が雍に都し、これが陳倉城である。石鼓山がある。兵が起こると、この山は鳴る。」〉
汧
〈爾雅(に曰く)十藪、秦には楊紆がある。郭璞が言うには県の西にある。〉
】吳岳山がある。
〈郭璞が言う:「別名を吳山といい、周禮でいうところの嶽山である。」
本名は汧で、汧水が発する。回城があり、名を回中という。
来歙が道を開いた場所。
渝麋は侯国である。
雍
左伝に邵穆公の采邑とあり、史記に鴻冢がある。
鉄がある。
帝王世記に秦の徳公が都を移したとある。
栒邑には豳郷がある。
〈鄭玄の『詩譜』にいう。「豳とは、公劉が邰から出て、移り住んだ戎狄の地名である。」また劉邑がある。〉
〖美陽〗岐山がある。
〈『左伝』椒挙の言葉にいう。「成王は岐陽で狩りを行った。」『山海経』にいう。「その上には白金が多く、その下には鉄が多い。城水がここから出て、東南に流れて江に注ぐ。」〉
周城がある。
〈杜預はいう。城は県の西北にある。『帝王世記』にいう。「周の太王が移り住んだ所で、南に周原がある。」〉
〖漆〗漆水がある。
〈『山海経』にいう。「(〈革俞〉)〔羭〕次の山から、漆水が出る。」郭璞はいう。「漆水は岐山から出る。『詩経』に『土と沮・漆より』とある。」『地道記』にいう。水は県の西にある。『皇覧』にいう。「師曠の冢があり、師曠山という。」〉
鉄がある。
〈杜預は言う、豳国は東北にある。帝王世記は言う、豳亭がある。〉
〖杜陽〗
永和二年
夏。
〈詩譜に言う:「周原とは、岐山の南、地は杜陽に属し、地形は険阻であるが原田は肥美である。」〉
右は司隷校尉部、郡七、県・邑・侯国百六。
〈漢(書)旧儀に言う:「司隷の治所は、もと孝武廟である。」魏(志)略に言う:「曹公は関中を分けて漢興郡を置き、(国)〔用〕游楚を太守とした。」献帝起居注に言う:「中平六年、扶風都尉を省き漢安郡を置き、雍・渝麋・杜陽・陳倉・汧の五県を鎮めた。」〉