後漢書

志第十八

五行六 日蝕、日抱、日赤無光、日黃珥、日中黑、虹貫日、月蝕非其月

 

日蝕

光武帝(古今注に曰く、「建武元年正月庚午朔、日蝕あり」と。即ち更始三年のことである。)

建武二年

正月甲子朔、日蝕があった。危宿八度の位置である。(杜預が言うには、「暦家の説では、日光が望の時に遙かに月光を奪うため、月蝕が起こる。日月が同じ会合点にあり、月が日を覆うため、日蝕が起こる。蝕に上下があるのは、運行に高低があるからである。日光の輪が残って中央が食されるのは、互いに密に覆い隠すため、日光が溢れ出るからである。皆既となるのは、正しく相対して互いに覆い隠す間に隙間ができるからである。しかし聖人は月が日を食むとは言わず、自ら蝕むという文を用いるのは、見えないところについては欠くからである。」春秋潜潭巴に云う、「甲子に蝕むときは、兵あり敵強し。」臣の昭が案ずるに、春秋緯の六旬の蝕は、それぞれ甲子を以て説くが、これは一隅を偏挙したものであり、通証とはなっておらず、故に事実の験証と完全には符合しない。今は日例の注に依り、その候を広めるのみである。京房の占いには、「北夷が侵し、忠臣に謀あり、後に大水が東方にある。」とある。)

日蝕説に曰く、「日は太陽の精であり、人君の象である。君道に虧けるところがあると、陰に乗じられるため、蝕が起こる。蝕とは、陽が克たないことである。」その候に関する雑説は、

漢書

五行志に必ず著されている。(春秋緯に曰く、「日が蝕まんとするときは、則ち斗宿の第二星が変色し、微かに赤く明らかでなくなり、七日にして蝕む。」)

儒者の説では、諸侯が権力を専断すれば、その応は多くが日が宿る国の方に現れる。(春秋漢含孳に曰く、「臣子が謀をなせば、日は乃ち蝕む。」孝経鉤命決に曰く、「義を失い徳なくば、白虎は出でて禁ぜず、或いは逆の枉矢が射、山崩れ日蝕す。」管子に曰く、「日は陽を掌り、月は陰を掌り、星は和を掌る。陽は徳と為し、陰は刑と為し、和は事と為す。是の故に日蝕すれば、則ち徳を失える国はこれを悪む。月蝕すれば、則ち刑を失える国はこれを悪む。彗星すいせい見れば、則ち和を失える国はこれを悪む。是の故に聖王は日蝕すれば則ち徳を修め、月蝕すれば則ち刑を修め、彗星見れば則ち和を修む。」)

諸々の象が附従すれば、則ち多くは王者の事となる。人君がその徳を改め修めれば、則ち咎害は除かれる。(孝経鉤命決に曰く、「日蝕すれば孝を修め、山崩れば惑をおさむ。」)

この時、世祖(光武帝)が初めて興り、天下の賊の乱はまだ平定されていなかった。虚宿と危宿は斉の地を司る。賊の張歩が兵を擁して斉を占拠し、上(光武帝)は伏隆を派遣して張歩を諭し、降伏を許した。しかしすぐにまた反逆して王を称し、建武五年になってようやく撃破された。三年五月乙卯晦(月末)、日食があった。

柳宿十四度にあった。柳宿は河南を司る。この時、世祖は洛陽におり、赤眉の降賊樊崇が乱を謀ったが、その七月に発覚し、皆誅殺された。

六年九月丙寅晦、日食があった。

史官は見えず、郡が報告した。

尾宿八度にあった。

七年三月癸亥晦、日食があった。

畢宿五度にあった。畢宿は辺境の兵事を司る。秋、隗囂が反乱し、安定を侵した。冬、盧芳が置いた朔方太守と雲中太守がそれぞれ郡を挙げて降伏した。

十六年三月辛丑晦、日食があった。

昴宿七度にあった。昴宿は獄事を司る。この時、諸郡の太守が田地の測量(度田)が不実であった罪に問われ、世祖は怒り、十余人を殺したが、その後深く後悔した。十七年二月乙未晦、日食があった。

胃宿九度にあった。胃宿は穀物倉庫を司る。この時、諸郡は新たに租税に関する罪に問われた後であり、天下は憂い恐れ、穀物のことを話題にしていたので、天が象を示したのである。あるいは言う、胃宿は供養の官である。その十月、郭皇后を廃し、詔に「供養を奉ずるに足りない」とあった。

二十二年五月乙未晦、日食があり、柳宿七度にあった。これは京都の星宿である。柳宿は上倉(主要な穀倉)を司り、祭祀の穀物であり、輿鬼宿に近い。輿鬼宿は宗廟を司る。十九年、有司が近い帝(先代の皇帝)四廟を立てて祭祀を行うよう奏請したが、詔に「廟を建てる場所が定まっていないので、しばらく高廟で合祭せよ」とあった。これから三年経っても、遂に廟は立てられなかった。簡略で怠った心があり、祖宗を奉ずる道に欠けがあったので、天が象を示したのである。二十五年三月戊申晦、日食があった。

畢宿十五度にあった。畢宿は辺境の兵事を司る。その冬十月、武谿の蛮夷が寇害をなしたため、伏波将軍馬援が兵を率いてこれを討った。

二十九年二月丁巳朔(朔日)、日食があった。

東壁宿五度にあった。東壁宿は文章を司り、一名を娵訾の口という。先に皇子や諸王がそれぞれ文章談説の士を招き寄せていたが、昨年中、ある者が上奏した。「諸王が招待している者の中には、真偽が混じり、刑罰を受けた者の子孫もいます。区別すべきです。」そこで上(光武帝)は怒り、諸王の賓客を捕らえるよう詔を下し、皆厳しい法を適用され、死者が非常に多かった。世祖が早く明らかに刑禁を設けず、一時的に過度に厳しく処罰したので、天が象を示したのである。世祖はそこで改めて悔い、使者を遣わして侵害され冤罪を被った者を全て取り調べさせた。

三十一年五月癸酉晦、日食があった。

柳宿五度にあり、京都の宿である。二十一年に象を示してからここに至るまで十年、その後二年で、宮車(天子の車)が晏駕(天子の崩御)した。

中元元年十一月甲子の晦、日蝕があった。斗宿二十度にあった。斗は廟であり、爵禄を司る。儒者の説では十一月甲子は時王の日であり、また星紀であり、爵禄を司るので、その占いは重い。

明帝

永平三年

八月壬申の晦、日蝕があった。〈潛潭巴に曰く:「壬申の蝕は、水〔盛〕り、陽潰え陰翔ばんと欲す。」〉

氐宿二度にあった。氐は宿宮である。この時、明帝が北宮を造営した。〈古今注に曰く:「四年八月丙寅、時に未を加え、日蝕があった。五年二月乙未の朔、日蝕があったが、京師の候者は気づかず、河南尹と郡国三十一が上奏した。六年六月庚辰の晦、日蝕があったが、その時洛陽の候者は見えなかった。」〉

八年十月〈古今注では十二月。〉

壬寅の晦、日蝕があり、既(皆既)であった。〈潛潭巴に曰く:「壬寅の蝕は、天下兵に苦しみ、大臣驕横す。」〉

斗宿十一度にあった。斗は呉である。広陵は天文では呉に属する。後二年、広陵王劉荊が謀反の罪で自殺した。

十三年十月〈古今注では閏八月。〉

甲辰の晦、日蝕があった。〈潛潭巴に曰く:「甲辰の蝕は、四騎が大水を脅かす。」〉

尾宿十七度にあった。〈京房占に曰く:「主后の寿命絶え、後に大水あり。」〉

十六年五月戊午の晦、日蝕があった。〈潛潭巴に曰く:「戊午の蝕は、久旱れども穀物傷つかず。」〉

柳宿十五度にあった。儒者の説では五月戊午は、十一月甲子と同じであり、また宿が京都にあるので、その占いは重い。後二歳、宮車が晏駕した。十八年十一月甲辰の晦、日蝕があった。斗宿二十一度にあった。この時、明帝が既に崩御し、馬太后が爵禄を制していたので、陽が勝たなかった。

章帝

建初五年

二月庚辰朔,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「庚辰蝕,彗星東至,有寇兵。」〉

在东壁八度。例在前建武二十九年。是时,群臣争经,多相非毁者。〈又別占云:「庚辰蝕,大旱。」〉

六年六月辛未晦,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「辛未蝕,大水。」〉

在翼六度。翼主远客。冬,东平王苍等来朝,明年正月,苍薨。〈古今注曰:「元和元年九月乙未,日有蝕之。」〉

章和元年

八月乙未晦,日有蚀之。史官不见,佗官以闻。日在氐四度。〈星占曰:「天下災,期三年。」〉

和帝

永元二年

二月壬午,日有蚀之。〈潛潭巴曰:「壬午蝕,久雨,旬望。」〉

史官不见,涿郡以闻。日在奎八度。〈京房占曰:「三公與諸侯相賊,弱其君王,天應而日蝕。三公失國,後旱且水。」臣昭以為三公宰輔之位,即竇憲。〉

四年六月戊戌朔,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「戊戌蝕,有土殃,主后死,天下諒陰。」京房占曰:「〈女昬〉嫁家欲戮。」〉

在七星二度,主衣裳。又曰行近轩辕,在左角,为太后族。是月十九日,〈案本紀:庚申幸北宮,詔捕憲等。庚申是二十三日。〉

上免太后兄弟窦宪等官,遣就国,选严能相,于国蹙迫自杀。七年四月辛亥朔,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「辛亥蝕,子為雄。」〉

在嘴觿,为葆旅,主收敛。儒说葆旅宫中之象,收敛贪妒之象。是岁邓贵人始人。明年三月,阴皇后立,邓贵人有宠,阴后妒忌之,后遂坐废。一曰是将入参,参、伐为斩刈。明年七月,越骑校尉冯柱捕斩匈奴温禺犊王乌居战。

十二年秋七月辛亥朔,日有蚀之,在翼八度,荆州宿也。明年冬,南郡蛮夷反,为寇。十五年四月甲子晦,日有蚀之,在东井二十二度。东井,主酒食之宿也。妇人之职,无非无仪,酒食是议。去年冬,邓皇后立,有丈夫之性,与知外事,故天示象。是年水,雨伤稼。

安帝

永初元年

三月二日癸酉,日有蚀之,在胃二度。胃主禀仓。是时,邓太后专政,去年大水伤稼,仓禀为虚。〈古今注曰:「三年三月,日有蝕之。」〉

五年正月庚辰朔,日有蚀之,在虚八度。正月,王者统事之正日也。虚,空名也。是时邓太后摄政,安帝不得行事,俱不得其正,若王者位虚,故于正月阳不克,示象也。于是阴预乘阳,故夷狄并为寇害,西边诸郡皆至虚空。七年四月丙申晦,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「丙申蝕,諸侯相攻。」京房占曰:「君臣暴虐,臣下橫恣,上下相賊,後有地動。」〉

在东井一度。

元初元年

十月戊子朔,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「戊子蝕,宮室內婬,雌必成雄。」京房占曰:「妻欲害夫,九族夷滅,後有大水。」〉

在尾十度。尾为后宫。继嗣之宫也。是时上甚幸阎贵人,将立,故示不善,将为继嗣祸也。明年四月,遂立为后。后遂与江京、耿宝等共谗太子,废之。二年九月壬午晦,日有蚀之,在心四度。心为王者,明久失位也。三年三月二日辛亥,日有蚀之,在娄五度。史官不见,辽东以闻。四年二月乙已朔,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「乙亥蝕,東國(發)兵。」京房占曰:「諸侯上侵以自益,近臣盜竊以為積,天子未知,日為之蝕。」〉

在奎九度。史官不见,七郡以闻。奎主武库兵。其月十八日壬戌,武库火,烧兵器也。五年八月丙申朔,日有蚀之,在翼十八度。史官不见,张掖以闻。〈潛潭巴曰:「丙申蝕,夷狄內攘。」石氏占曰:「王者失禮,宗廟不親,其歲旱。」〉

六年十二月戊午朔,日有食之,几尽,地如昏状。〈古今注曰:「星盡見。」春秋緯曰:「日蝕既,君行無常,公輔不修德,夷狄強侵,萬事錯。」〉

在须女十一度,女主恶之。后二岁三月,邓太后崩。〈李氏家書,司空李郃上書曰:「陛下祗畏天威,懼天變,克己責躬,博訪群下。咎皆在臣,力小任重,招致咎徵。去〔年〕二月,京師地震,今月戊午日蝕。夫至尊莫過乎天,天之變莫大乎日蝕,地之戒莫重乎震動。今一歲之中,大異兩見,日蝕之變,既為尤深,地動之戒,搖宮最醜。日者陽精,君之象也。戊者土主,任在中宮。午者火德,漢之所承。地道安靜,法當〔由〕陽,今乃專恣,搖動宮闕。禍在蕭牆之內,臣恐宮中必有陰謀其陽,下圖其上,造為逆也。災變終不虛生,推原二異,日辰行度,甚為較明,譬猶指掌。宜察宮闕之內,如有所疑,急摧破其謀,無令得成。修政恐懼,以荅天意。十月辛卯,日有蝕之,周家所忌,乃為亡徵,是時妃后用事,七子朝令。戊午之災,近相似類。宜貶退諸后兄弟群從內外之寵,求賢良,徵逸士,下德令,施恩惠,澤及山海。」時度遼將軍遵多興師重賦出塞妄攻之事,上深納其言。建光元年,鄧〔太〕后崩。上收考中人趙任等,辭言地震日蝕,任〔在〕中〔宮〕,竟有廢〔立〕之謀,郃乃自知其言驗也。〉

永寧元年

七月乙酉朔,日有蚀之,〈潛潭巴曰:「乙酉蝕,仁義不明,賢人消。」京房占曰:「君弱臣強,司馬將兵,反征其王。」〉

在张十五度。史官不见,酒泉以闻。〈石氏占曰:「日蝕張,王者失禮。」〉

延光三年

九月庚申晦、日食があった。〈京房の占いによると、「骨肉が互いに害し合い、後に水害がある」という。〉

十五度の氐にあった。氐は宿宮である。宮は中宮である。当時、皇帝は中常侍の江京、樊豊、および乳母の王聖らの讒言を聞き入れ、皇太子を廃した。四年三月戊午朔、日食があった。十二度の胃にあった。隴西、酒泉、朔方がそれぞれ状況を上奏したが、史官は気づかなかった。〈〉

順帝

永建二年

七月甲戌朔、日食があった。〈潛潭巴によると、「甲戌の日食は、草木が育たず、王命が行われない」。京房の占いによると、「近臣が誅殺されようとし、身に誅殺や辱めがあり、後に小旱がある」。〉

九度の翼にあった。

陽嘉四年

閏月丁亥朔、日食があった。〈潛潭巴によると、「丁亥の日食は、玉堂に謀略が満ちる」。京房の占いによると、「君臣に区別がない」。〉

五度の角にあった。史官は見ず、零陵が報告した。〈張衡が太史令であった時、上表して言った。「今年三月、朔方で日食が観測され、この郡は兵禍を恐れている。愚臣は、北辺の要塞郡県に命じて、烽火を明らかにし、斥候を遠くにやり、深く隠れ固く閉ざし、穀物や家畜を外に露出させないようにすべきだと思う」。何年の三月かは詳らかでない。〉

永和三年

十二月戊戌朔、日食があった。十一度の須女にあった。史官は見ず、会稽が報告した。翌年、中常侍の張逵らが皇后の父梁商が乱を起こそうとしていると謀って讒言し、推問調査した結果、張逵らは誅殺された。五年五月己丑晦、日食があった。〈潛潭巴によると、「己丑の日食は、天下が歌う」。〉

三十三度の東井にあった。東井は三輔の宿である。また輿鬼に近く、輿鬼は宗廟である。その秋、西羌が寇賊となり、三輔の陵園にまで至った。六年九月辛亥晦、日食があった。十一度の尾にあった。尾は後宮を主り、継嗣の宮である。継嗣が興らない兆しとされた。

桓帝

建和元年

正月辛亥の朔日、日食があった。宿は営室の三度。史官は見えず、郡国が報告した。この時、梁太后が摂政していた。三年四月丁卯の晦日、日食があった。

宿は東井の二十三度。例は永元十五年にある。東井は法を主る。梁太后はまた兄の冀が公卿を枉げて殺すのを聞き入れ、天の法を犯した。翌年、太后が崩御した。

元嘉二年

七月二日庚辰、日食があった。宿は翼の四度。史官は見えず、広陵が報告した。

翼は倡楽を主る。時に上は音楽を好み過ぎた。

永興二年

九月丁卯の朔日、日食があった。宿は角の五度。角は鄭の宿である。十一月、泰山の盗賊が群れをなして起こり、長吏を劫略し殺害した。泰山は天文では鄭に属する。

永寿三年

閏月庚辰の晦日、日食があった。宿は七星の二度。史官は見えず、郡国が報告した。例は

永元四年

にある。その後二年して、梁皇后が崩御し、冀の兄弟が誅殺された。

延熹元年

五月甲戌の晦日、日食があった。宿は柳の七度、京都の宿である。

八年正月丙甲の晦日、日食があった。宿は営室の十三度。営室の中は、女主の象である。その二月癸亥、鄧皇后が酗の罪に坐し、上は暴室に送り、自殺を命じ、家属は誅殺された。呂太后が崩御した時も同様であった。九年正月辛卯の朔日、日食があった。

宿は営室の三度。史官は見えず、郡国が報告した。谷永は三朝の尊者がこれを憎むと考えた。その翌年、宮車が晏駕した。

永康元年

五月壬子晦,日有蚀之,在舆鬼一度。儒说壬子淳水日,而阳不克,将有水害。其八月,六州大水,勃海海溢。

霊帝

建寧元年

五月丁未朔,日有蚀之。〈潜潭巴曰:「丁未蝕,王者崩。」〉

冬十月甲辰晦,日有蚀之。二年十月戊戌晦,日有蚀之。右扶风以闻。三年三月丙寅晦,日有蚀之。梁相以闻。四年三月辛酉朔,日有蚀之。〈潜潭巴曰:「辛酉蝕,女謀主。」谷永上書:「飲酒無節,君臣不別,姦邪欲起。」傳曰:「酒無節,茲謂荒,厥異日蝕,厥咎亡。」霊帝好為商估,飲於宮人之肆也。〉

熹平二年

十二月癸酉晦,日有蚀之,在虚二度。是时中常侍曹节、王甫等专权。〈蔡邕上書曰:「四年正月朔,日體微傷,群臣服赤さく,赴宮門之中,無救,乃各罷歸。天有大異,隱而不宣求御過,是已事之甚者。」〉

六年十月癸丑朔,日有蚀之。赵相以闻。〈谷永上書:「賦斂滋重,不顧黎民,百姓虛竭,則日蝕,將有潰叛之變。」〉

光和元年

二月辛亥朔,日有蚀之。十月丙子晦,日有蚀之,在箕四度。箕为后宫口舌。是月,上听谗废宋皇后。〈案:本傳盧植上書,丙子蝕自巳過午,既蝕之後,雲霧晻曖,陳八事以諫。蔡邕對問曰:「詔問踐阼以來,災眚屢見,頻歲日蝕、地動,風雨不時,疫癘流行,勁風折樹,河、雒盛溢。臣聞陽微則日蝕,陰盛則地震,思亂則風,貌失則雨,視闇則疾,簡宗廟,〔水〕不潤下,川流滿溢。明君臣,正上下,抑陰尊陽,修五事於聖躬,致精慮於共御,其救之也。」〉

二年四月甲戌朔,日有蚀之。四年九月庚寅朔,日有蚀之,〈潜潭巴曰:「庚寅蝕,將相誅,大水,多死傷。」〉

在角六度。

中平三年

五月壬辰晦,日有蚀之。〈潜潭巴曰:「壬辰蝕,河決海〔溢〕,久霧連陰。」〉

六年四月丙午朔(六年初めの月の丙午の朔日)、日食があった。その月の十二日、天子が崩御した。

献帝

初平四年

正月甲寅朔(正月甲寅の朔日)、日食があり、営室四度にあった。〈潜潭巴に言う:「甲寅の蝕は、雷電が撃ち殺し、骨肉が互いに攻め合う。」〉

この時、李傕と郭汜が専権を握っていた。〈袁宏の紀に言う:「蝕の八刻前、太史令王立が奏上して言った:『日影は限度を過ぎており、変異はありません。』そこで朝臣は皆祝賀した。帝は密かに尚書に命じて観測させたところ、未の刻の一刻前に蝕が起こった。尚書賈詡が奏上して言った:『王立は観測が不明で、上下を疑わせ誤らせた。太尉周忠は職掌としてこれを管轄していた。共に罪を治めることを請う。』詔して言った:『天道は遠く、事の験証は難しく明らかでない。また災異は政治に応じて到来するもので、たとえ道を探り機を知っても、どうして過失が無いことがあろうか。史官に罪を帰そうとするのは、朕の不徳をますます重くするだけである。』従わなかった。そこで正殿を避け、兵を休め、政務を聴かずに五日を過ごした。」〉

興平元年

六月乙巳晦(六月乙巳の晦日)、日食があった。

建安五年

九月庚午朔(九月庚午の朔日)、日食があった。〈潜潭巴に言う:「庚午の蝕は、後に火が官兵を焼く。」〉

六年二月丁卯朔(六年二月丁卯の朔日)、日食があった。

十三年十月癸未朔(十三年十月癸未の朔日)、日食があった。〈潜潭巴に言う:「癸未の蝕は、仁義が明らかでない。」〉

尾宿十二度にあった。十五年二月乙巳朔(十五年二月乙巳の朔日)、日食があった。十七年六月庚寅晦(十七年六月庚寅の晦日)、日食があった。

二十一年五月己亥朔(二十一年五月己亥の朔日)、日食があった。〈潜潭巴に言う:「己亥の蝕は、小人が事を用い、君子が拘束される。」〉

二十四年二月壬子晦(二十四年二月壬子の晦日)、日食があった。

後漢の中興以来十二代、百九十六年の間に、日食は七十二回あった。朔日が三十二回、晦日が三十七回、月の二日が三回である。

日抱など

光武帝

建武七年

四月丙寅、太陽に暈と抱が現れ、白虹が暈を貫き、畢宿八度にあった。

畢は辺境の兵を表す。秋、隗囂が反乱を起こし、安定を侵した。

霊帝の時、太陽がしばしば東方に現れ、血のように真っ赤で光がなく、高さ二丈余りになってようやく影ができた。また西方に沈む時も、地面から二丈の高さで同様の現象が見られた。

その占いは、天を祀ることを疎かにすると、日月が赤くなると言う。この時、月が出たり入ったりする際、地面から二三丈の高さで、血のように赤くなる現象が数回あった。

光和四年

二月己巳、黄い気が太陽を抱き、その外側に黄白色の珥があった。

中平四年

三月丙申、瓜ほどの大きさの黒い気が太陽の中にあった。

五年正月、太陽の色が赤黄色で、中に飛ぶ鵲のような黒い気があり、数か月後に消えた。

六年二月乙未、白虹が太陽を貫いた。

献帝

初平元年

二月壬辰の日、白虹が太陽を貫いた。

桓帝

永寿三年

十二月壬戌の日、月食が本来の月ではない月に起こった。

延熹八年

正月辛巳の日、月食が本来の月ではない月に起こった。

【贊】

賛にいう。皇極はただ建てられ、五事はよく端を正す。罰と咎が沴に入り、逆乱が浸潤して干犯する。火は下り水は騰がり、木は弱く金は酸い。妖はどうして妄りであろうか、気の炎をもって観るのである。

校勘記

三三五七頁 四行 危宿八度にある 按:校補が引用する錢大昭の説によると、後漢紀は「十度」と作る。

三三五七頁 七行 虚宿と危宿は斉である 按:集解が引用する惠棟の説によると、「也」は一つの本では「地」と作る。

三三五七頁一二行 兵があり敵が強い 按:集解が引用する錢大昕の説によると、開元占経の引用は「有兵狄強起」と作る。

三三五八頁 三行 あるいは逆の枉矢が射る 按:「矢」は原本では「失」と誤っている。直接に改正した。

三三五八頁 四行 陰は刑である 按:「刑」は原本では「則」と誤っている。直接に改正した。

三三五八頁 九行 雷が行かず雪が草を殺さず長くならず姦人が宮に入る 按:集解が引用する錢大昕の説によると、占経は「雷不行,霜不殺草,長人入宮」と作る。

三三五八頁一〇行 四年五月乙卯晦、日蝕があった。 按:当時使用されていた暦(以下、時暦と略称)によれば、建武四年五月は庚戌晦であり、乙卯ではない。現在推算すると、この年の六月の合朔は庚戌の朝夜であり、日蝕は見られない。古今注は誤りである。

三三五八頁一二行 丙寅の日蝕は、長い旱魃があり、多くの徴候があった。 按:集解が引用する銭大昕の説によれば、占経には「丙寅日蝕、蟲、久旱、多水徵」とある。

三三五八頁一三行 本紀に都尉詡がこれを聞いたとある。 按:校補は、この本紀は続漢書の本紀であろうという。

三三五九頁 一行 天人崩。 按:集解が引用する銭大昕の説によれば、占経の引用では「大人崩、王者憂之」とある。

三三五九頁 一行 〔皆月〕の運行が速いためである。 集解が引用する恵棟の説に基づいて補う。

三三五九頁 二行 九年七月丁酉、十一年六月癸丑、十二月辛亥、いずれも日蝕があった。 按:時暦によれば、建武九年七月は辛亥朔であり、丁酉はない。現在推算すると、この年の八月の合朔は己卯、すなわち時暦の七月晦であり、日蝕は見られる。十一年六月は己亥朔であり、癸丑は朔日ではない。現在推算すると、この年の七月の合朔は戊辰、すなわち時暦の六月晦の朝夜であり、日蝕は見られない。また、この年の十二月は丁酉朔であり、辛亥も朔日ではない。現在推算すると、この月の合朔は丙申、時暦の十一月晦であり、日蝕は見られる。ここは古今注がすべて誤っている。

三三五九頁 五行 主が臣を疑う。 按:「主疑王」は言葉として成り立たない。集解が引用する銭大昕の説によれば、占経の引用では「主疑臣、三公有免黜者」とある。これに基づいて改める。

三三五九頁一五行 地が動揺し、兵が強く侵す。 按:集解が引用する銭大昕の説によれば、占経の引用では「地動搖、宮室摧、侵兵強」とある。

三三五九頁一五行 主の兵は弱く、諸侯は強い。 汲本、殿本に基づいて改める。

三三六〇頁 一行 二十六年二月戊子、日蝕があった。 按:時暦によれば、建武二十六年二月は甲辰朔であり、戊子はない。現在推算すると、この年の二、三月ともに日蝕はなく、古今注は誤りである。

三三六〇頁 六行 下に敗兵あり。 按:集解が引用する銭大昕の説によれば、占経の引用では「敗」を「聚」としている。

三三六〇頁 九行 淫雨、山を毀ち、兵あり。 按:集解が引用する銭大昕の説によれば、占経では「毀山」を「數出」としている。また、校補は、占経では「兵」の下に「起」のあざながあるという。

三三六〇頁一一行 その占いは重い。 按:集解が引用する恵棟の説によれば、この下には欠文があるはずである。下の永平十六年の条に、日蝕があり、儒者がその占いは重いと言い、後二歳、宮車晏駕とある。この条の下には「明年、宮車晏駕」とあるべきであろうか。あるいは三十一年の占いに蒙り、重複して出さなかったのか?

三三六〇頁一三行 水が盛んになり、陽が潰え、陰が翔らんと欲する。 集解が引用する銭大昕の説によれば、占経では「滅」を「盛」としており、これが正しい。これに基づいて改める。

三三六〇頁一五行 六年六月庚辰晦、日蝕があった。 按:時暦によれば、永平六年は丁巳朔、丙戌晦であり、庚辰は二十四日である。現在推算すると、この年の七月の合朔は丙戌、すなわち時暦の六月晦の朝夜であり、日蝕は見られない。古今注は誤りである。

古今注によると十二月とある。按ずるに、志の本文は「八年十月壬寅晦」とし、明帝紀も同じ。今推すに永平八年十月壬寅晦に日蝕があり、志・紀と合致する。古今注は誤りである。

天下は兵に苦しみ、大臣は驕り横暴となる。按ずるに、集解が引く錢大昕の説によると、占経では「天下苦兵大起」と作る。

十三年十月甲辰晦に日蝕があった。明帝紀は「十月壬辰晦」とし、注が引く古今注は「閏八月」とする。按ずるに、当時の暦に依れば、この年は閏七月であり、十月甲辰は朔であって晦ではない。また壬辰もない。今推すに、この年八月の合朔は甲辰であり、すなわち当時の暦の閏七月晦にあたり、日蝕が見える。紀・志と古今注は皆誤りである。

四騎が大水を脅かす。按ずるに、集解が引く錢大昕の説によると、占経には「大水」の二字がなく、「脅」は「爵」と作る。

主后の寿命が絶える。按ずるに、「主」は原字が「王」に誤っているので、直接に改正した。

日蝕があった。「蝕」の原字は「食」であったが、前後が皆「蝕」と作っているので、今一律に改めた。

彗星が東に出ると、寇兵あり。按ずるに、集解が引く錢大昕の説によると、占経では「彗星東出,有寇兵,旱」と作る。

辛未の蝕は大水あり。按ずるに、集解が引く錢大昕の説によると、占経では「大水」の下に「湯湯」の二字がある。

(元)〔章〕和元年八月乙未晦に日蝕があった。校補が引く錢大昭の説によると、「元和」は「章和」と作るべきであり、閩本も正していない。按ずるに、章和元年八月乙未晦の日蝕を推すと、章帝紀も章和元年に記している。錢説は正しいので、今これに拠って改める。

土の災いあり。按ずるに、集解が引く錢大昕の説によると、占経が引くものには「土」の字がない。

子が雄となる。按ずるに、王先謙は占経が引くものには「雄」の下に「近臣憂」の三字があるという。

無非無儀。殿本は「儀」を「議」と作る。按ずるに、これは毛詩と合致する。校補が引く柳從辰の説によると、列女傳が引く詩は正に「議」と作っており、おそらく魯詩に本づくものである。

三年三月に日蝕があった。按ずるに、今推すにこの年三月の合朔は辛卯であり、日蝕はない。古今注は誤りである。

丙申の蝕は諸侯相攻む。集解が引く錢大昕の説によると、占経が引くものは「丙申日蝕,諸侯相攻,夷狄內侵,旱」と作る。案ずるに、本書の注の例では、日名が同じものは改めて注さない。しかるにここに「諸侯相攻」の句を引き、後の元初五年八月丙申朔の下に「夷狄內攘」の句を引いている。同日で占いが異なり、理解しがたい。今按ずるに、校補は錢氏が後の注に引く「夷狄內攘」の句を即ち「夷狄內侵」の異文であるとするが、その説も誤りである。蓋し注が引く潛潭巴の丙申の占いの験は、本来「夷狄內侵旱」の五字が欠けており、説は別に後で詳述する。

元初元年十月戊子朔に日蝕があった。集解が引く惠棟の説によると、本紀は三月癸酉朔に日蝕があったとする。今按ずるに、元初元年三月の合朔は壬戌であり、日蝕はない。紀は誤りである。

三三六四頁四行、雌が必ず雄になる。按:集解に引用された銭大昕の説によると、占経の引用では「必ず雄になり、憂いあり」とある。

三三六四頁七行、四年二月乙(亥)〔巳〕朔。集解に引用された洪亮吉の説によると、安帝紀では「乙巳」とあり、下に乙卯、壬戌とあるので、日辰は本紀によるのが正しいという。また周寿昌の説を引用すると、下に「その月十八日壬戌、武庫火」とあり、紀と同じである。乙巳朔から壬戌まで数えるとちょうど十八日であり、もし乙亥朔ならば、下に壬戌があるはずがないので、本紀に従うべきである。今按:この年の二月の合朔は乙巳であり、日蝕が見えるので、洪、周の説は正しく、今これに従って改める。また按:劉注に引用された春秋いみな潜潭巴の「乙亥」云々は、見た本がもともと「乙亥」であったことを十分に証明している。

三三六四頁八行、その〔月〕十(月)八日。集解に引用された周寿昌の説に従って改め、安帝紀と合致する。説は上に詳しい。

三三六四頁九行、乙亥の蝕は東国(発)兵。集解に引用された銭大昕の説によると、占経の引用では「乙亥日蝕、陽明らかならず、冬水なく、東国兵」とある。按:張森楷の校勘記によると、「東国」の下に「発」字がないのが正しく、もし「発」字があれば乙巳占と同じになり、誤りであるという。今、張の説に従って「発」字を削除する。

三三六四頁十一行、潜潭巴に曰く丙申蝕は夷狄内攘す。按:校補によると、占経では「庚申日蝕、夷狄内攘す」とあり、これは「丙申蝕」が「庚申蝕」の誤りであるという。そしてここに引用された「潜潭巴曰」十一字は、後の「延光三年九月庚申晦日有蝕之」の下にあるべきもので、「庚申」が「庚寅」と誤ったため、注文も誤ってここに移されたのである。銭大昕氏はたまたま「夷狄内攘」の四字がもともと庚申蝕の占験であったことを忘れたため、前の注に引用された潜潭巴の丙申蝕の占験が誤っていることを知りながら、やはり誤った説を免れなかったのである。

三三六四頁十五行、去〔年〕二月京師地震。汲本、殿本に従って補う。

三三六五頁三行、法は当に(坤)〔由〕陽すべし。汲本、殿本に従って改める。按:「法当坤陽」は解釈できない。由には従うの意味があり、誤りではないはずなので、今これに従って改める。

三三六五頁七行、建光元年鄧〔太〕后崩。汲本に従って補う。按:「元年」は汲本、殿本ともに「二年」と誤っている。

三三六五頁七行、辞に地震日蝕は任〔在〕中(官)〔宮〕にありと曰う。汲本、殿本では「辞言地震日蝕在中宮」とある。按:上に「戊は土主たり、任は中宮に在り」とあるので、原本では「任」の下に「在」字が脱落し、「宮」が「官」と誤り、汲本、殿本では「在」の上に「任」字が一つ脱落していることを十分に証明している。今これに従って正しく改める。

三三六五頁八行、竟に有りて〔立〕を廃すの謀。汲本、殿本に従って補う。

三三六五頁九行、永寧元年七月乙酉朔日有蝕之。安帝紀と同じ。按:今この年の七月の合朔を推すと乙酉であり、日蝕はない。

三三六五頁十行、賢人消す。按:集解に引用された銭大昕の説によると、占経の引用では「消」の上に「退」字がある。

三三六五頁十二行、延光三年九月庚(寅)〔申〕晦。集解に引用された洪亮吉の説によると、安帝紀では「庚申」とあり、上に丁酉、乙巳とあるので、日辰は本紀によるのが正しいという。今これに従って改める。

三三六五頁十六行、馬融の集を案ずるに、この時融は許令たり。按:「馬」はもともと「焉」と誤り、「時」はもともと「蝕」と誤っていたので、直ちに正しく改める。

三三六六頁三行、(陥)〔昭〕は前志に在り。張森楷の校勘記に従って改める。

三三六六頁三行、臣が以前に敦朴の人物を徴用した(『人』は『徴』の誤りで、校補によれば『人』は『徴』とすべきとある。今これに拠って改める。注:融は順帝の陽嘉二年に敦樸として徴用された)。

三三六六頁四行、おそらく西戎と北狄を指す(『北』は原本では『此』と誤っている。直接に改正する)。

三三六六頁五行、その効果はほぼ明らかである(汲本・殿本に拠り『矣』を補う)。

三三六六頁五行、重ねて戒め、厳しく譴責する(汲本・殿本に拠り『諱』を『譴』に改める)。

三三六六頁六行、将吏が功績を記録する名目(『勳』は原本では『動』と誤っている。汲本・殿本に拠り直接に改正する)。

三三六六頁六行、皆、一時の権勢を伸ばすことを大まかに図っただけである(校補の説に拠り『身』を『伸』に改める)。

三三六六頁七行、すると互いに自分の欠点を美化し合う(校補の説に拠り『不大』を『美其』に改める)。

三三六六頁一二行、孤児や弱者に施しを与える(『孤』は原本では『不』と誤っている。汲本・殿本に拠り直接に改正する)。

三三六六頁一四行、狐疑して決断がつかない(『狐』は原本では『孤』と誤っている。汲本・殿本に拠り直接に改正する)。

三三六七頁二行、王命が行われない(集解が引く銭大昕の説によれば、占経では『王命』を『主命』としている)。

三三六七頁一一行、日蝕が己丑の日に起こり、天下がこれを唱える(銭大昕の考異によれば、占経の引用では『己丑日蝕、臣伐其主、天下皆亡』とある。また、『日蝕己丑』は汲本では『己丑蝕』とある)。

三三六八頁三行、旱魃と兵乱がある(集解が引く銭大昕の説によれば、占経では『旱』の上に『有』の字がない)。

三三六八頁四行、元嘉二年七月二日庚辰に日蝕があった(桓帝紀も同じ)。注:現在推算するとこの年の七月の合朔は己卯であり、日蝕はない。

三三六八頁七行、悲しみ痛んで心を傷つける(『悽』は原本では『連』と誤っている。直接に改正する)。

三三六八頁一四行、太史の陳援(集解が引く恵棟の説によれば、梁冀伝では『援』を『授』としている)。

三三六九頁 三行 九年正月辛卯朔 注:集解が洪亮吉の説を引用し、桓帝紀では「辛亥」としているが、下に己酉とあるので、日辰は続志が正しいと論じている。

三三六九頁 五行 臣がその主に代わる 注:殿本では「代」を「伐」としており、占経と合致する。校補は、桓帝が崩御し、霊帝が外藩から入って継いでその位に代わったのだから、「代」としても通じると論じている。

三三六九頁 七行 勃海(盜賊)〔海溢〕 注:集解が惠棟の説を引用し、「盜賊」は誤りで、紀に「勃海海溢」とあると論じている。今これに拠って改める。

三三六九頁 八行 壬子蝕妃后專恣女謀主 注:集解が錢大昕の説を引用し、占経……

賛に曰く、皇極はただ建てられ、五事はよく端を正す。罰と咎は沴に入り、逆乱は浸して干す。火は下り水は騰がり、木は弱く金は酸し。妖は豈に或いは妄ならんや、気炎をもって観る。

校勘記

三三五七頁 四行 危宿八度に在る 按ずるに、校補は錢大昭の説を引き、後漢紀は「十度」と作すと謂う。

三三五七頁 七行 虚宿と危宿は斉なり 按ずるに、集解は惠棟の説を引き、「也」は一に「地」と作すと謂う。

三三五七頁一二行 兵有り敵強し 按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、開元占経の引用は「兵有り狄強く起つ」と作すと謂う。

三三五八頁 三行 或いは逆の枉矢射つ 按ずるに、「矢」は原訛りて「失」と作す、逕に改正す。

三三五八頁 四行 陰は刑と為す 按ずるに、「刑」は原訛りて「則」と作す、逕に改正す。

三三五八頁 九行 雷行わず雪草を殺さず長からず姦人宮に入る 按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、占経は「雷行わず、霜草を殺さず、長人宮に入る」と作すと謂う。

三三五八頁一0行 四年五月乙卯晦日に蝕有り之を蝕む 按ずるに、当時行用の暦に依れば、後略して時暦と称す。建武四年五月庚戌晦にして、乙卯に非ず。今推すに是の年の六月合朔は庚戌の晨夜に在り、日蝕見る能わず。古今注誤る。

三三五八頁一二行 丙寅蝕久しく旱多く徴有り 按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、占経は「丙寅日蝕、蟲、久しく旱し、多く水の徴」と作すと謂う。

三三五八頁一三行 本紀都尉詡以て聞く 按ずるに、校補は此の本紀は当に続漢書の本紀なるべしと謂う。

三三五九頁 一行 天人崩ず 按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、占経の引用は「大人崩ず、王者之を憂う」と作すと謂う。

三三五九頁 一行 〔皆月〕疾く行く也 集解の引く惠棟の説に拠り補う。

三三五九頁 二行 九年七月丁酉十一年六月癸丑十二月辛亥並びに日に蝕有り之を蝕む 按ずるに、時暦に依れば、建武九年七月辛亥朔にして、丁酉無し。今推すに是の年の八月合朔は己卯、即ち時暦七月の晦、日蝕見ゆべし。十一年六月己亥朔にして、癸丑は朔日に非ず。今推すに是の年の七月合朔は戊辰、即ち時暦六月の晦晨夜、日蝕見る能わず。又是の年の十二月丁酉朔にして、辛亥亦た朔日に非ず。今推すに是の月合朔は丙申、時暦十一月の晦、日蝕見ゆべし。此の処古今注皆誤る。

三三五九頁 五行 主疑う(王)〔臣〕を 按ずるに、「主疑王」は詞ならず、集解は錢大昕の説を引き、占経の引用は「主臣を疑い、三公に免黜する者有り」と作すと謂う。今に拠り改む。

三三五九頁一五行 地動搖ぎ兵強く侵す 按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、占経の引用は「地動搖ぎ、宮室摧け、兵強く侵す」と作すと謂う。

三三五九頁一五行 主兵弱く諸侯(爭)〔強〕し 汲本・殿本に拠り改む。

三三六0頁 一行 二十六年二月戊子日に蝕有り之を蝕む 按ずるに、時暦に依れば、建武二十六年二月甲辰朔にして、戊子無し。今推すに是の年の二、三月共に日蝕無し、古今注誤る。

三三六0頁 六行 下に敗兵有り 按ずるに、集解は錢大昕の説を引き、占経の引用は「敗」を「聚」と作すと謂う。

三三六〇頁九行 淫雨毀山有兵 按:集解に引用された銭大昕の説によれば、占経では「毀山」を「数出」と作る。また按:校補は占経では「兵」の下に「起」の字があると述べている。

三三六〇頁十一行 其占重 按:集解に引用された恵棟の説によれば、この下には闕文があるはずである。下の永平十六年、日蝕があり、儒者がその占いは重いと説き、後二歳、宮車晏駕した。この条の下には「明年、宮車晏駕」とあるべきである。あるいは三十一年の占いに蒙り、重ねて出さなかったのか。

三三六〇頁十三行 水(滅)〔盛〕陽潰陰欲翔 集解に引用された銭大昕の説によれば、占経では「滅」を「盛」と作っており、これが正しい。今これに拠って改める。

三三六〇頁十五行 六年六月庚辰晦日有蝕之 按:時暦に依れば、永平六年は丁巳朔、丙戌晦であり、庚辰は二十四日である。今これを推すと、この年の七月合朔は丙戌、すなわち時暦の六月晦の晨夜であり、日蝕は見ることができず、古今注は誤っている。

三三六一頁 三行 古今注曰十二月 按:志文は「八年十月壬寅晦」と作し、明帝紀も同じである。今永平八年十月壬寅晦の日蝕を推すと、志、紀と合致し、古今注は誤っている。

三三六一頁 四行 天下苦兵大臣驕横 按:集解に引用された銭大昕の説によれば、占経では「天下苦兵大起」と作る。

三三六一頁 五行 十三年十月甲辰晦日有蝕之 明帝紀は「十月壬辰晦」と作し、注に引用された古今注は「閏八月」と作る。按:時暦に依れば、この年は閏七月であり、十月甲辰は朔であって晦ではなく、また壬辰もない。今これを推すと、この年の八月合朔は甲辰、すなわち時暦の閏七月晦であり、日蝕は見ることができる。紀、志と古今注は皆誤っている。

三三六一頁 七行 四騎脅大水 按:集解に引用された銭大昕の説によれば、占経には「大水」の二字がなく、「脅」を「爵」と作る。

三三六一頁 八行 主后壽命絕 按:「主」は原訛で「王」と作っていたが、逕に改正する。

三三六一頁 九行 日有蝕之 「蝕」は原作「食」であったが、前後は皆「蝕」と作っているので、今一律に改める。

三三六二頁 一行 彗星東至有寇兵 按:集解に引用された銭大昕の説によれば、占経では「彗星東出,有寇兵,旱」と作る。

三三六二頁 五行 辛未蝕大水 按:集解に引用された銭大昕の説によれば、占経の「大水」の下に「湯湯」の二字がある。

三三六二頁 七行 (元)〔章〕和元年八月乙未晦日有蝕之 校補に引用された銭大昭の説によれば、「元和」は「章和」と作るべきであり、閩本も正しくない。按:章和元年八月乙未晦の日蝕を推すと、章帝紀も章和元年にこれを記しており、銭説は正しい。今これに拠って改める。

三三六二頁十四行 有土殃 按:集解に引用された銭大昕の説によれば、占経の引用には「土」の字がない。

三三六三頁 三行 子為雄 按:王先謙は占経の引用では「雄」の下に「近臣憂」の三字があると述べている。

三三六三頁 五行 無非無儀 殿本は「儀」を「議」と作る。按:これは毛詩と合致する。校補に引用された柳従辰の説によれば、列女伝の詩の引用は正しく「議」と作っており、おそらく魯詩に拠るものである。

三三六三頁十行 三年三月日有蝕之 按:今この年の三月合朔を推すと辛卯であり、日蝕はなく、古今注は誤っている。

三三六三頁十五行 丙申蝕諸侯相攻 集解に引用された銭大昕の説によれば、占経の引用では「丙申日蝕,諸侯相攻,夷狄内侵,旱」と作る。案ずるに本書の注例では、日名が同じものは更に注さないが、ここに引用された「諸侯相攻」の句、後の元初五年八月丙申朔の下に引用された「夷狄内攘」の句は、同日で占いが異なり、理解しがたい。今按ずるに、校補は銭氏が後の注に引用された「夷狄内攘」の句を「夷狄内侵」の異文であるとしているが、その説も誤っている。おそらく注に引用された潜潭巴の丙申の占験は、本来「夷狄内侵旱」の五字が欠けており、説は別に後で詳述する。

三三六四頁 一行 元初元年十月戊子朔日有蝕之 集解に引用された恵棟の説によれば、本紀は三月癸酉朔の日蝕としている。今按ずるに、元初元年三月合朔は壬戌であり、日蝕はなく、紀は誤っている。

三三六四頁 四行 雌必成雄 按:集解に引用された銭大昕の説によれば、占経の引用では「必成雄,有憂」と作る。

三三六四頁七行、四年二月乙(亥)〔巳〕朔。集解は洪亮吉の説を引き、安帝紀が「乙巳」と作っていると論じ、下に乙卯、壬戌とあることから、日辰は本紀を正とするべきだと述べる。また周壽昌の説を引き、下に「その月十八日壬戌、武庫火」とあり、紀と同じであると述べる。乙巳朔から壬戌まで数えるとちょうど十八日であり、もし乙亥朔ならば、下に壬戌があるはずがなく、本紀に従うのがよいと論じる。今按ずるに、この年の二月の合朔を推すと乙巳であり、日蝕が見えることから、洪、周の説が正しく、今これに拠って改める。また按ずるに、劉注が春秋諱潜潭巴の「乙亥」云々を引いていることは、見た本がもと「乙亥」と作っていたことを十分に証明する。

三三六四頁八行、その〔月〕十(月)八日。集解が引く周壽昌の説に拠って改め、安帝紀と合致する。説は上に詳しい。

三三六四頁九行、乙亥蝕東國(發)兵。集解は錢大昕の説を引き、占経が「乙亥日蝕、陽不明、冬無水、東國兵」と引くと述べる。按ずるに、張森楷の校勘記は「東國」の下に「發」字がないのが正しく、もし「發」字があれば乙巳の占いと同じになり、誤りであると論じる。今、張説に拠って「發」字を削る。

三三六四頁十一行、潜潭巴に曰く丙申蝕夷狄内攘。按ずるに、校補は占経が「庚申日蝕、夷狄内攘」と作っていると論じ、これは「丙申蝕」が「庚申蝕」の誤りであるとする。そしてこの「潜潭巴曰」十一字は、後の「延光三年九月庚申晦日有蝕之」の下にあるべきであり、「庚申」が「庚寅」と誤ったために、注文も誤ってここに移されたと論じる。錢大昕氏はたまたま「夷狄内攘」の四字がもともと庚申蝕の占験であったことを忘れたため、前注が引く潜潭巴の丙申蝕占験に誤りがあることを知りながら、なお誤った説を免れなかったのである。

三三六四頁十五行、去〔年〕二月京師地震。汲本、殿本に拠って補う。

三三六五頁三行、法當(坤)〔由〕陽。汲本、殿本に拠って改める。按ずるに、「法當坤陽」は解しがたく、「由」には従うの義があり、誤りでないと思われるので、今これに拠って改める。

三三六五頁七行、建光元年鄧〔太〕后崩。汲本に拠って補う。按ずるに、「元年」は汲本、殿本ともに「二年」と訛っている。

三三六五頁七行、辭言地震日蝕任〔在〕中(官)〔宮〕。汲本、殿本は「辭言地震日蝕在中宮」と作る。按ずるに、上文に「戊者土主、任在中宮」とあることは、原本が「任」の下に「在」字を脱し、「宮」を「官」と誤り、汲本、殿本は「在」の上に「任」字を脱していることを十分に証明する。今これに拠って正しく改める。

三三六五頁八行、竟有廢〔立〕之謀。汲本、殿本に拠って補う。

三三六五頁九行、永寧元年七月乙酉朔日有蝕之。安帝紀と同じ。按ずるに、今この年の七月の合朔を推すと乙酉であり、日蝕はない。

三三六五頁十行、賢人消。按ずるに、集解が引く錢大昕の説は、占経が「消」の上に「退」字を引くと述べる。

三三六五頁十二行、延光三年九月庚(寅)〔申〕晦。集解は洪亮吉の説を引き、安帝紀が「庚申」と作っていると論じ、上に丁酉、乙巳とあることから、日辰は本紀を正とするべきだと述べる。今これに拠って改める。

三三六五頁十六行、案ずるに馬融集、この時融は許令であった。按ずるに、「馬」はもと「焉」と訛り、「時」はもと「蝕」と訛っていたので、直ちに正しく改める。

三三六六頁三行、(陷)〔昭〕在前志。張森楷校勘記に拠って改める。

三三六六頁三行、臣前得敦朴之(人)〔徵〕。校補は「人」は「徵」と作るべきだと論じる。今これに拠って改める。按ずるに、融は順帝の陽嘉二年に敦樸をもって徴された。

三三六六頁四行、殆ど西戎北狄を謂うか。按ずるに、「北」はもと「此」と訛っていたので、直ちに正しく改める。

三三六六頁五行、驗略效〔矣〕。汲本、殿本に拠って補う。

三三六六頁五行、申誡重(諱)〔譴〕。汲本、殿本に拠って改める。

三三六六頁六行、將吏策勳之名。按ずるに、「勳」はもと「動」と訛っていたので、直ちに汲本、殿本に拠って正しく改める。

三三六六頁六行、皆粗圖(身)〔伸〕一時之權。校補の説に拠って改める。

三三六六頁七行 則各相(不大)〔美其〕疢病 據校補說改。

三三六六頁一二行 施與孤弱 按:「孤」原訛「不」,逕據汲本、殿本改正。

三三六六頁一四行 狐疑無斷 按:「狐」原訛「孤」,逕據汲本、殿本改正。

三三六七頁 二行 王命不行 按:集解引錢大昕說,謂占經「王命」作「主命」。

三三六七頁一一行 日蝕己丑天下唱之 按:錢大昕考異謂占經引作「己丑日蝕,臣伐其主,天下皆亡」。又按:「日蝕己丑」汲本作「己丑蝕」。

三三六八頁 三行 有旱有兵 按:集解引錢大昕說,謂占經「旱」上無「有」字。

三三六八頁 四行 元嘉二年七月二日庚辰日有蝕之 桓帝紀同。按今推是年七月合朔己卯,無日蝕。

三三六八頁 七行 悽愴傷心 按:「悽」原訛「連」,逕改正。

三三六八頁一四行 太史陳援 按:集解引惠棟說,謂梁冀傳「援」作「授」。

三三六九頁 三行 九年正月辛卯朔 按:集解引洪亮吉說,謂案桓紀作「辛亥」,下云己酉,則日辰當以續志為是。

三三六九頁 五行 臣代其主 按:殿本「代」作「伐」,與占經合。校補謂桓帝崩,靈帝由外藩入繼而代其位,則作「代」亦自可通。

三三六九頁 七行 勃海(盜賊)〔海溢〕 按:集解引惠棟說,謂「盜賊」誤,案紀云「勃海海溢」也。今據改。

三三六九頁 八行 壬子蝕妃后專恣女謀主 按:集解引錢大昕說,謂占經……