後漢書

志第十七 五行五 射妖 龍蛇孽 馬禍 人痾 人化 死復生 疫 投蜺

 

「五行傳」に言う。「皇が極まらざる、これを不建と謂う。

(「尚書大伝」では「皇」を「王」と作る。鄭玄が言う。「王とは君である。本体を名指さずに王と言うのは、五事が五行に象るように、王極は天に象るからである。天は変化して陰となり陽となり、五行を覆い成す。経に言う。『日月星辰の運行を観測し、民に時を敬って授ける。』「論語」に言う。『徳を以て政を為すは、譬えば北辰の如し。』これがすなわち天の道が人の政に及ぶことである。孔子が「春秋

(書経の)『洪範』に言う。『政は王より出ずるにあらざれば、政と為すを得ず』。すなわち、王が政令を発する号令である。極とは、中である。建とは、立てるである。王は天を象り、その情性をもって五事を覆い成し、中和の政を行うのである。王の政が中和でなければ、それは事を立てることができないということである。」古文尚書には「皇極、皇其の有る極を建つ」とある。孔安国は「大中なる道、大いに其の有る中を立てるとは、九疇の義を行うことを謂う」と注釈した。馬融の対策には「大中なる道は、天にあっては北辰、地にあっては人君である」とある。>

その咎は目がかすむことである。

〈『尚書『大傳』では「瞀」と作る。鄭玄は言う。「瞀は思心の咎と同じである。だから伝に眊と言う。眊とは乱れることである。君臣が確立しなければ、上下が乱れる。」あざな林には言う。「目に精気が少ないことを眊という。」〉

その罰は常に陰である。

〈鄭玄は言う。「王極は天を象る。天は陰気で万物を養う。陰気が失われると、常に陰となる。」〉

その極みは弱である。

〈鄭玄は言う。「天は剛健な徳を有するが、剛気が失われると、人間においては弱さとして現れる。易の亢龍の行いについての説に、『尊貴でありながら位がなく、高くあっても民がおらず、賢人が下位にいて補佐を得られない』とある。これが弱さを指すのである。あるいはおくびょうとも言い、敬虔さを欠くことを意味する。」〉

その時には射妖がある。

〈鄭玄は言う。「射とは、王の極みの法度である。射手が矢を放とうとする時、必ずまずこの儀式を行い、放てばあちらに的中する。君主が政令を出す時も、まず朝廷でこれを計り、出せば民心に応じる。射はその象徴である。」〉

その時には龍蛇の孽がある。

〈鄭玄は言う。「龍は、淵に生まれる虫であり、形なくして行き、天を遊ぶもので、天に属する。蛇は龍の類である。あるいは、角のない龍を蛇という。」〉

その時には馬禍がある。

〈鄭玄は言う。「天の運行は健やかである。馬は家畜の中で速く走るもので、王の極みに属する。」〉

その時には下の者が上の者を伐つ病がある。

〈鄭玄は言う。「夏侯勝は『伐』は『代』とすべきであると説き、書物によっては『代』と書かれていることもある。陰陽の神を精気といい、情性の神を魂魄という。君主が常道によらず行動し、欺瞞と放縦に限度がないならば、それは魂魄が傷つけられたのであり、王の極みである気が失われた病である。天は中正でない者に対して、常にその欲望を肥大させ、その毒を厚くし、病として増大させ、賢者に代わらせるための契機としようとするのである。春秋伝にいう『伯有の魄を奪う』というのがこれである。病と名づけないのは、病が身体に顕著に現れないからである。」〉

その時には、日月が乱れて運行し、星辰が逆行する。」

〈鄭玄は言う。「乱とは、薄食や鬬(星の衝突)が並んで現れることをいい、逆とは、盈縮(運行の遅速)や反明(光の異常)、経天(天球を横切る)や守舍(特定の星宿に留まる)などの類である。」太公の《六韜》に言う。「人主が武事や兵革を好めば、日月は薄蝕し、太白(金星)は失行する。」〉

皇とは君のことである。極とは中のことである。眊とは明らかでないことである。説に云う:これは天を沴(害)するものである。沴天と言わないのは、至尊(天子)に対する言葉だからである。春秋に「王師敗績」とあるのは、自ら敗れたことを記した文である。

恒陰(常に陰ること)については、中興以来、記録されたものはない。

〈臣の昭が案ずるに、本伝によれば、

陽嘉二年

に、郎顗が上書して言った。「正月以来、陰闇が連日続いている。久しく陰って雨が降らないのは、乱れた気である。賢者を得て用いないのは、久しく陰って雨が降らないのと同じである。」〉

霊帝の光和年間、洛陽の男子・夜龍が弓矢で北闕を射た。役人が捕らえて尋問すると、供述に「貧しく負債があり、生きる楽しみがなかったため、弓矢を買って射た」とあった。これは近い射妖である。

〈《風俗通〉

その後、車騎将軍の何苗が、兄の大将軍・何進の配下の兵と互いに猜疑し合い、相対して攻撃し合い、闕下で戦った。何苗は死に、兵は敗れ、数千人が殺され、洛陽の宮室は内部の人々が焼き尽くされた。

〈応劭が言うには、「龍は陽の類であり、君主の象徴である。夜は、明らかでないことの応である。これがその象徴である。」〉

安帝

延光三年

済南が歴城で黄龍が現れたと報告し、琅邪が諸で黄龍が現れたと報告した。この時、安帝は讒言を聞き入れ、太尉の楊震を免官し、楊震は自殺した。また、帝にはただ一人の子がいたが、それを太子としたものの、讒言を信じて廃した。これは皇たるものが中正でないためであり、故に龍の孽があったのである。この時は佞媚の者を多く用いたため、瑞応とされた。翌年の正月、東郡がまた濮陽で黄龍が二度現れたと報告した。

桓帝

延熹七年

六月壬子、

(干宝の『搜神記』に「桓帝が即位すると、大蛇が徳陽殿の上に現れた。洛陽の市令である淳于翼は言った。『蛇には鱗があり、それは甲兵(武具)の象徴である。省中(宮中)に現れたのは、やがて椒房(皇后の居所)の大臣が甲兵による誅罰を受けることになる前兆だ。』そこで官を棄てて遁走した。延熹二年になると、大将軍梁冀を誅殺し、その宗族を捕らえて取り調べ、京師で兵を動かした」とある。)

河内の野王山の上に龍が死んでおり、長さは数十丈ほどであった。

(袁山松の『書』に「長さは百余丈ほどであった」とある。)

襄楷は、龍というものは帝王の瑞きざしであり、易経では大人(君主)に喩えられると考えた。天鳳年間に、黄山宮に死んだ龍が現れ、漢の兵が王莽を誅し、世祖(光武帝)が復興した。これは易姓革命の兆しであった。そして

建安二十五年

に、魏の文帝が漢に代わった。

(臣の昭が言う。屈伸し躍り現れ、変化に一定の法則がなく、明らかに死んだ体でもなく、横暴な獣でもない。易経が大聖に喩え、実際に君主の道に類する。野王の異変は、まさに桓帝が崩御する前兆ではなかったのか?妖祥の占いはそれぞれ異なり、その例は多い。もし天鳳の例に無理に合わせようとするなら、帝は三主を経て、年は五十を超える。これは迂遠で、恐らく前兆ではあるまい。)

永康元年

八月、巴郡が黄龍が現れたと報告した。当時、役人の傅堅は郡が上奏しようとしているのを知り、内部で報告して、これは走卒の戯れ言であり、採用すべきでないと述べた。太守は聞き入れなかった。かつて傅堅の言葉によると、「当時、民衆は暑さのため池で水浴びをしようとし、池の水が濁っているのを見て、戯れに『ここに黄龍がいる』と脅し合い、その言葉が民間に広まった。郡がこれを祥瑞としようとしていると聞き、あえて報告した》という。当時の史官はこれを皇帝紀に記録した。桓帝の時代は政治が衰え欠陥があり、各地で多く瑞応が報告されたが、皆この類いであった。また先儒は言う:瑞祥が時を外れて起こるのは、妖孽である。民衆の龍が現れたという虚言は、皆龍の妖孽である。

熹平元年

四月甲午、青い蛇が御座の上に現れた。この時、霊帝は宦官を任用し、王室は微弱であった。

(楊賜が諫言して言った。「皇極が建てられないと、龍や蛇の妖孽が起こる。詩経に言う:『これまむしかこれ蛇か、女子の祥なり』と。皇甫らの権力を抑え、艶妻(寵愛する后妃)への愛を断ち切るべきである。そうすれば蛇の変異は消えるであろう。》張奐伝を調べると、

建寧二年

夏、青い蛇が御座の前の軒に現れた。張奐が上疏した。「陳蕃、竇氏(一族)がまだ明らかに赦されていない。妖しい災いの到来は、皆このためである。》《敦煌実録》に言う:「蛇の長さは六尺で、夜、御前の軒先に現れた。」)

更始二年

二月、洛陽を出発し、長安に入ろうとした時、司直の李松が先導を奉じていたが、車が疾走し、北宮の鉄柱門に衝突し、三頭の馬が皆死んだ。これは馬の禍である。当時、更始帝は道を失い、滅亡しようとしていた。

桓帝

延熹五年

四月、驚いた馬と逃げ出した象が宮殿に突入した。これは馬の禍に近い。この時、桓帝の政治は衰え欠陥があった。

霊帝

光和元年

,司徒長史馮巡の馬が人間を生んだ。

〈《風俗通》に言う、「馮巡の馬がひげを生やした。養馬の胡人の蒼頭に尋ねると、この馬が子を産むのが好きだったという。」〉

《京房易伝》に言う、「上に天子がなく、諸侯が互いに討伐すれば、その妖は馬が人間を生む。」後に馮巡は甘陵の相に昇進したが、黄巾が初めて起こった時、そのために殺害され、国家もまた四面から敵を受けた。その後、関東の州郡がそれぞれ義兵を挙げ、ついに互いに攻伐し、天子は西に移り、王政は隔絶した。その占いは京房と同じである。

光和中、雒陽の水西橋の民の馬が逸走し、ついに人を噛み殺した。この時、公卿大臣及び左右の者がしばしば誅殺されることがあった。

安帝

永初元年

十一月戊子、民が互いに驚き走り、什物を捨て、廬舎を離れた。

霊帝

建寧三年

春、河内の婦が夫を食い、河南の夫が婦を食った。

〈〉

熹平二年

六月、洛陽の民衆に、虎賁寺の東の壁の中に黄色い人がいるとの噂が流れた。その姿形、ひげや眉毛がまさにそうであるとされ、見物する者は数万人に及び、省の役人も皆出てきて、道路は遮断された。

〈応劭は当時郎であった。《風俗通》に言う。「劭はかつてそれを見に行ったが、どこに人がいるというのか!水漏れで汚れた場所、脂ぎった赤土が流れ出て、壁には他の剥がれが数寸、曲がりくねっているだけである。劭はさらにこれを解釈して言った。季夏の土は黄色であり、中行が事を行う。また壁の中にある。壁もまた土である。虎賁寺に現れたのは、虎賁は国の秘めたる兵であり、難を払い侮りを防ぐ。必ず東を示す。東は動くことであり、まさに師を出して将を行い、天下が揺れ動くことを言うのである。天が類をもって人に告げることは、影や響きよりも甚だしい。」〉

至って

中平元年

二月、張角兄弟が冀州で兵を起こし、自ら黄天と号し、三十六方、四方から呼応し、将帥は星のように広がり、官吏や兵士が外から属した。その疲弊と飢えに乗じて、引き寄せてこれを打ち破った。

〈《物理論》に言う。「黄巾は純黄の衣服を身にまとい、尺の兵も持たず、肩まで長い衣を着て、翔るように行き、ゆったりと歩み、至る郡県で従わないところはなかった。この日、天は大いに黄色であった。」〉

光和元年

五月壬午、何者か白衣を着て徳陽門に入ろうとし、「我は梁伯夏、我を殿上に上らせて天子とならしめよ」と言った。中黄門の桓賢らが門吏の僕射を呼び、何者かを捕らえ縛ろうとしたが、吏が到着する前に、しばらくして走り去り、探し求めたが見つからず、姓名は分からなかった。当時、蔡邕は成帝の時に男子の王襃が絳衣こういを着て宮中に入り、前殿の非常室に上り、「天帝が私にここに住まわせよと命じた」と言い、後に王莽が帝位を簒奪したことを引き合いに出した。今この事件は成帝の時と似ているが異なっており、衣服が違い、また雲龍門に入る前に気づかれ、梁伯夏と称した点で、いずれも言葉が軽率である。過去を以て今を推し量れば、狂った狡猾な者が現れ、王氏の謀略を企てようとするが、その事は成就しないだろう。その後、張角が黄天を称して乱を起こし、ついに国を破壊した。

〈《風俗通》に言う:

光和四年

四月、南宮の中黄門寺に一人の男子あり、身長九尺、白衣を着ていた。中黄門の解歩が叱って問うた:『お前は何者だ?白衣で妄りに宮中に入るとは。』彼は言った:『我は梁伯夏の後裔、天使が我を天子とならしめる。』解歩が前に進んで捕らえようとしたが、たちまち見えなくなった。応劭が言う:

尚書

春秋左傳

によれば、伯益は禹を助けて水を治め、梁に封ぜられた。飂叔安に裔子あり、董父と曰い、実に龍を甚だ好み、龍多くこれに帰したので、帝舜はこれを嘉し、姓を董氏と賜った。董氏の祖は、梁と同じである。

光熹元年

に至り、董卓が外から入り、隙に乗じて機会を捉え、帝を廃し后を殺し、百官は己に総べられ、号令は自由に行い、殺戮は前に決し、威勢は主上よりも重かった。梁は本来安定であり、卓は隴西の人で、ともに涼州である。天の戒めは言うようである、卓は専制して奪い矯めるべきではなく、白衣が無闇に宮中に入るべきでないように、と。白衣が黄門寺に見え、および卓の末期、中黄門が誅滅される時、事柄はこのように類似しており、無いと言えようか?」袁山松は言う:「張角の一時的な狡猾な乱は、このような大いなる妖異を招くには足りず、これは曹氏が漢を滅ぼす徴候である。」応劭の述べるところを検討すると、志とあるいは異なり、年月が食い違うので、ともに記載した。臣昭が注す:前の通説を検討すると、それぞれ未だ正しくないところがある。梁は即ち魏の地の名であり、伯夏は中夏に明らかであり、天下の称ではない。内臣の孫は未だ王と称するを得ず、徴験は応じ、符契の如きものがある。また「伯夏が我を教えて天子とならしめる」と言い、後に曹公が「もし天命我に在りば、我は周の文王とならん」と言った。これは魏の文帝が我が成策を受けて帝位に登ったことである。《風俗通》に「中黄門寺曹騰の家に見ゆ」と言うのは、特にその証拠を見るものである。〉

二年、洛陽の上西門の外で、女子が子供を産んだ。頭が二つで、肩が異なり胸を共有し、ともに前方を向いていた。不吉なことと考え、地面に落ちたまま捨てられた。これ以降、朝廷は混乱し、政治は私門にあり、上下の区別がなくなり、二頭の象徴となった。後に董卓が太后を殺害し、不孝の名を着せ、天子を廃位させ、後にまた害した。漢の元号以来、この禍を超えるものはなかった。

四年、魏郡の男子張博が鉄の炉を太官に届けた。張博は上書して宮殿の山居屋の後宮の禁地に入り、屋根から落ちて大声で叫んだ。上は彼を捕らえて尋問したところ、供述は「突然、自分でも気づかなかった」というものだった。

〈臣の昭が言う。魏の者が宮中に入り、すでに漢の徴を奪い、後宮に至って大声で叫び、ついには母后を禍害して廃位させた。〉

中平元年

六月壬申、洛陽の男子劉倉が上西門の外に住んでいた。妻が男児を産んだが、頭が二つで体は一つであった。

霊帝の時、江夏の黄氏の母が、浴していて黿に化し、深淵に入った。その後、時々現れた。初めに浴する時に一本の銀の簪を挿していたが、現れた時も、まだその頭にあった。

〈臣の昭が言う。黄は、漢に代わる色である。女人は、臣妾の体である。黿に化するとは、黿は元である。深淵に入るとは、水は実に火を制する。君主の徳は陽を尊び、九五の利を見る。天に飛翔して、はじめて光盛を備える。黿や亀に等しく俯するのは、潜躍に恥じる。首に簪を戴くのは、卑弱がまだ尽きていない。後の帝たる者は王となり、権極を専有せず、天徳はすでに衰えたが、蜀はなお傍らに纘いだ。この異変を推し求めるに、女が明らかに表れている。〉

献帝の初平年間、長沙に桓という姓の者がいた。死んで、棺に納めてから一か月余り後、その母が棺の中から声を聞き、開けてみると、生き返っていた。占いでは「至陰が陽となり、下の者が上の者となる」と言った。その後、曹公が庶士から起こった。

建安四年

二月、武陵郡充県の女子李娥、年六十余り、物故した。その家の杉の木の棺に納め、城外数里の上に埋葬してから、すでに十四日が経っていた。通りかかった者がその塚の中から声を聞き、すぐにその家に告げた。家の者が見に行って声を聞き、すぐに掘り出したところ、生き返った。

〈干宝の『捜神記』に言う。「武陵郡充県の女子李娥は、六十余歳で病死し、城外に埋葬されてから十四日が経っていた。李娥の隣家に蔡仲という者がおり、李娥が裕福だと聞き、埋葬品に金銀財宝があるだろうと思い、墓を盗掘して棺を開けた。斧を数回打ち下ろすと、李娥が棺の中で言った。『蔡仲、私の頭を守ってくれ。』蔡仲は驚き慌てて、すぐに逃げ出した。ちょうど役人に見つかり、捕らえられて取り調べを受け、法律に照らせば市中での斬首刑に当たった。李娥の息子がこれを聞き、迎えに来て李娥を連れ去った。武陵太守は李娥が死から蘇ったと聞き、呼び出して事情を尋ねた。李娥は答えて言った。『誤って司命に召されたと聞き、行ってから帰ることを許され、西門を通り過ぎた時、ちょうど従兄の劉伯文に会い、互いに労い尋ね合い、涙を流して悲しんだ。私は言った。「伯文、ある日誤って召され、今帰ることを許されたが、道も分からず、一人で行くこともできない。私のために一人の同行者を得られないか?また、私はここに召されてから、もう十余日になる。体はもう埋葬されているはずで、帰ってもどうやって自ら出られるだろう?」伯文は言った。「私が聞いてみよう。」すぐに門番を遣わして戸曹に問い合わせさせた。「司命がある日誤って武陵の娘李娥を召したが、今帰還を許された。李娥はここに数日滞在し、遺体はもう埋葬されているはずで、どうやって出られるのか?また、女で弱く一人旅では、同行者がいるべきではないか?これは私の従妹である。幸いにも便宜を図って安らかにしてほしい。」答えて言った。「今、武陵西の男の民李黒も帰還を許された。すぐに同行者とすることができる。」すぐに李黒を行かせ、李娥の隣家の蔡仲に命じて、李娥を出してやらせた。こうして李娥は出ることができ、伯文と別れた。伯文は言った。「手紙一通を息子の佗に渡してくれ。」李娥は李黒と共に帰り、事情はこのようであった。』太守は慨然として嘆いて言った。『天下の事は本当に知り得ないものだ!』そこで上表して『蔡仲は墓を発掘したが、鬼神に使われたものであり、発掘したくなくても、勢いやむを得なかった。寛大な処置を加えるべきである。』と述べた。詔書が下り、許可された。太守は話の真偽を確かめようと、すぐに馬吏を西の境界に遣わして李黒を尋ねさせ、見つけた。李黒の話は一致し、そこで伯文の手紙を佗に届けた。佗はその紙を識別し、それは父が亡くなった時に送られた箱の中の文書であった。表の文字はまだ残っていたが、手紙の内容は理解できなかった。そこで費長房に読んでもらうと、言った。『佗に告ぐ。府君に従って外出し巡行する時、八月八日の正午に、武陵城南の溝の水辺に立ち寄る。お前はその時必ず行け。』期日になると、家族全員を連れて城南で待った。しばらくして果たして来たが、ただ人馬のぼんやりとした声が聞こえ、溝の水辺に着くと、すぐに呼ぶ声が聞こえた。『佗よ、来たか!私が託した李娥の手紙を受け取ったか?』答えて言った。『すぐに受け取りました。だからここに来たのです。』伯文は順番に家中の者を呼んで尋ね、悲しみのあまり声が途絶えた。そして言った。『死と生は別の道で、お前たちの消息をたびたび得ることはできない。私が亡くなった後、子孫がこんなに大勢になったのか!』しばらくして佗に言った。『来春、大きな疫病が流行る。この丸薬一つを、戸口に塗れば、来年の妖しい災いを避けられる。』言い終わると忽然と去り、ついにその姿を見ることはできなかった。その前の春、武陵では果たして大きな疫病が流行り、昼間でも鬼が見えたが、ただ伯文の家だけは、鬼が近づこうとしなかった。費長房が薬を見て言った。『これは方相の霊験である。』」

博物記」に言う。「漢末に関中が大乱となった時、前漢の宮人の墓を発掘した者がいたが、宮人はまだ生きていた。出てから後、平癒して以前のようになった。魏の郭后が彼女を慈しみ思い、宮中に置き、常に側に侍らせた。漢の時代の宮中の事を尋ねると、明瞭に話し、すべて順序立てていた。郭后が崩御すると、悲しみ泣きすぎて、ついに死んだ。漢末、范明友の奴隷の墓を発掘したが、奴隷はまだ生きていた。明友は霍光の娘婿である。霍光の家の事、廃立の際のことを話すと、多くが漢書と符合した。この奴隷は常に住民の間を歩き回り、定住する所がなく、ついに所在が分からなくなった。」〉

七年、越巂郡で男が女子に変わった。この時、周羣が上言した。哀帝の時にもこのような異変があり、王朝が交代する事が起こるだろうと。二十五年に至り、献帝は山陽公に封じられた。

建安年間、女子が男児を産んだが、二つの頭が一つの体を共有していた。

安帝

元初六年

夏四月、会稽郡で大きな疫病が流行った。

〈『公羊伝』に言う。「大災とは何か?大いなる病である。大いなる病とは何か?疫病である。」何休は注して言う。「民が疫病にかかることで、邪悪で乱れた気から生じる。」古今注に言う。「光武

建武十三年

揚州と徐州の地域で大きな疫病が流行し、会稽と江左は特にひどかった。」伝記を調べると、鍾離意が督郵であった時、

建武十四年

会稽で大きな疫病が流行した。この記録によれば、連年にわたって発生したことになる。古今注には、「二十六年、七つの郡国で大きな疫病が発生した」とある。〉

延光四年

冬、京都で大きな疫病が流行した。

〈張衡は翌年に封事を上奏した。「臣はひそかに見るに、京師で害が及ぶ範囲が広く、民衆の多くが病死し、一家全滅する死に方もある。人々は皆恐れおののき、朝廷は心を焦がし、これが最大の憂いとなっている。臣の職務は災異を考察し災いを祓うことにあり、防ぎ救う方法を考えているが、その原因がわからず、日夜心を痛めている。臣は聞く、国の大事は祭祀にあり、祭祀で最も重要なのは天を郊で祀り祖を奉ることである。今、巷では流言が飛び交い、皆が言うには、『孝安皇帝は南巡の途中で崩御されたが、お供をした左右の邪悪な臣下たちが諸国の王子を召し出そうとしたため、喪を発せず、衣車で宮中に戻り、偽って大臣を派遣し、ともに祈り命を請うた』と。臣は外官にいるため、その詳細は知らないが、尊い御霊が欺かれたなら、怨みがないはずがあろうか!また、およそ大きな祭祀に少しでも不浄があれば、すでに譴責を受けるのに、ましてや大きな穢れをもって、礼をもって郊廟を祀ることができようか。孔子は言われた、『泰山は林放にも及ばないと言うのか!』と。天地は明らかに見ておられ、禍を降し災いを示されるのは、その道理である。また、最近、役人が冬至の後、恭陵の神道を開くことを奏上した。陛下は至孝であられ、拒み逆らうことを忍びず、あるいは墳墓を発き尸を移されたかもしれない。月令には、『仲冬には土に関する仕事をしてはならず、慎んで蓋を開けてはならず、また大衆を起こしてはならず、固く閉ざすべきである。地気が上に漏れ出るのは、天地の房を開くということであり、冬ごもりの虫は死に、民は必ず疫病にかかり、さらにそれに従って喪に服することになる』とある。疫病の気がまだ収まらないのは、おそらくこの二つの事柄によるのではないかと恐れる。過ちを知り改悔させるためである。五行伝には、『六つの災いが現れたなら、時に応じて共に防ぎ、帝がそれに誤りがなければ、神は怒らず、五福が降り、下民に明らかになる』とある。臣の愚見では、公卿に議論させ、災いを述べ改過する方法を考えさせ、神祇の心を喜ばせ、自ら多くの福を求めるべきであると考える。」〉

桓帝

元嘉元年

正月、京都で大きな疫病が流行した。二月、九江と廬江でもまた疫病が発生した。

延熹四年

正月、大きな疫病が流行した。

〈太公《六韜》に曰く、「人主が重い賦役を好み、大きな宮室を建て、多くの台遊を設ければ、民は多く温病にかかる」〉

霊帝

建寧四年

三月、大疫が発生した。

熹平二年

正月、大疫が発生した。

光和二年

春、大疫が発生した。

五年二月、大疫が発生した。

中平二年

正月、大疫が発生した。

献帝

建安二十二年

大疫が発生した。

〈魏の文帝が呉質に与えた書簡に「往年、疫病が流行し、親族や旧知の多くがその災いに遭った」とある。魏の陳思王曹植は疫気について述べて「どの家にも死者を悼む悲しみがあり、どの部屋にも号泣する哀しみがある。あるいは一家全員が死に絶え、あるいは一族全体が失われる者もいる」と言った。〉

霊帝

光和元年

六月丁丑の日、黒い気が北宮の温明殿の東庭に降りた。黒く車蓋のようで、立ち上がって奮迅し、体は五色で、頭があり、体長は十余丈、形状は龍に似ていた。帝が蔡邕に尋ねると、答えて言った。「いわゆる天が蜺を投げたものです。足と尾が見えないので、龍とは称せられません。《易伝》に『蜺が比するのは無徳であり、色によって親しむものである』とあります。潜潭巴に『虹が出ると、后妃が陰で王者を脅かす』とあります。また『五色が次々と至り、宮殿を照らす時は、兵革の事がある』とあります。演孔図に『天子が外で兵に苦しみ、威権が内で奪われ、臣に忠がなければ、天は蜺を投げる』とあります。

〈蔡邕の文集によると「演孔図に『蜺は、斗の精である。度を失って蜺が現れ態を示すのは、主が毀誉に惑わされるためである』とある。合誠図に『天子が外で兵に苦しむ者である』とある」と言っている。〉

異変は空しく生じず、占いは空しく言うものではない。」

〈蔡邕の答申にさらに言う。「思うに陛下の枢機の内、衽席の上において、ただ色によって進められ、尊厳を陵ぎ制度を越える者がいて、変象を明らかにしているのでしょう。もし群臣に毀誉する者がいて、聖意が低徊し、誰が是か非か分からない。兵戎が止まず、威権が次第に移り、忠言が聞こえなければ、虹蜺の生ずる所となります。内寵を抑え、中正を任用し、毀誉を決し、直邪を分かち、それぞれその所を得させ、守衛を整え、武備を整え、威権の機を人に仮さなければ、それは救いとなります。」

(前文の続き)

先に何氏を皇后に立てたが、皇后が毎回斎戒して祖廟を拝謁しようとするたびに、必ず変異が起こり拝謁できなかった。

中平元年、

黄巾賊の張角らは三十六方(組織)を立て、兵を起こして郡国を焼き、山東の七州は至る所で張角に呼応した。(朝廷は)外に向かっては張角らを討伐する兵を派遣し、内では皇后の二人の兄を大将軍として兵を統率させた。その年、霊帝が崩御し、皇后が摂政となり、二人の兄が権力を握った。(何皇后は)霊帝の母である永楽太后を責めて自殺させた。密かに并州牧の董卓を呼び寄せ、共に宦官を誅殺しようとしたが、宦官が先手を打って大将軍の何進を殺害し、兵士同士が攻め合い、都城内では戦闘が道路を塞いだ。皇太后と少帝の母子はついに太尉の董卓らによって廃位され、皆死んだ。天下が乱れたのは、兵乱がまず宮中で起こり、それが外へと海内に広がり、二、三十年続いたが、その災禍は何氏から始まったのである。

(以上)

袁山松の『後漢書』に言う。「この年七月、虹が昼間に玉堂後殿の前庭に現れ、その色は青と赤であった」。