『五行伝』に言う。「宗廟を簡略にし、祠を祷らず、(鄭玄の注に言う。「虚宿と危宿は宗廟を司る。」)祭祀を廃し、(鄭玄に言う。「牽牛星は祭祀の犠牲を司る。」)天時に逆らい、(鄭玄に言う。「月が星紀(十二次)にある時、周はこれを正月とした。月が玄枵(十二次)にある時、殷はこれを正月とした。いずれも四時の正を得ず、天時に逆らう象である。春秋の定公十五年『夏五月辛(卯)〔亥〕に郊祀を行う』とあり、三正の運を卜して時を失うことを譏ったのは、この類である。」)すると水は下を潤さない」(鄭玄に言う。「君主がこの四つを行うことは、天の北宮の政に逆らうことである。北宮は地においては水に配当される。水性は浸潤して下流し、人が用いて灌漑するものである。故なくして源流が枯れ果て、川沢が干上がるのは、下を潤さないことである。その他の変異は全て沴(災いの気)に属する。」)これは、水がその本性を失って災いとなることを言う。(太公六韜に言う。「人主が名山を破壊し、大川を塞ぎ、名水を通じさせることを好むと、歳に大水が多く、五穀が実らない。」)また言う。「聴くことが聡明でない、これを不謀という。(鄭玄に言う。「君主の聴くことが聡明でないと、それは事を謀ることができないことである。」洪範に言う。「聡は謀を作す。」孔安国に言う。「謀うことは必ず成すべきである。」馬融に言う。「上が聡明であれば下はその謀を進める。」)その咎は急である。(鄭玄に言う。「君臣が謀らなければ急である。」易伝に言う。「誅罰が理を絶つのは、下を云わないことである。事を専断して知るのは、謀を云わないことである。」)その罰は常に寒い。(鄭玄に言う。「聴は水に配当され、水は冬を司る。冬気は蔵する。蔵気が失われると、故に常に寒い。」)その極みは貧である。(鄭玄に言う。「蔵気が失われると、故に人においては貧となる。」)時に鼓妖がある。(鄭玄に言う。「鼓は聴の応である。」)時に魚孼がある。(鄭玄に言う。「魚は水に生まれ水に遊ぶ虫である。」)時に豕禍がある。(鄭玄に言う。「豕は閑衛に居て聴く家畜であり、聴に属する。」)時に耳疴がある。(鄭玄に言う。「聴気が失われた病である。」)時に黒眚、黒祥があり、ただ火が水を沴す。」魚孼について、劉歆伝では介虫の孼とし、蝗の類であるという。(月令章句:「介とは甲である。亀蟹の類を言う。」)古今注に言う。「光武帝建武四年、東郡以北が水害を受けた。七年六月戊辰、雒水が大いに増水し、津城門まで溢れた。帝自ら水を見に行き、弘農都尉の治所が析県で水に流され殺され、民は溺れ、作物が傷み、家屋が壊れた。二十四年六月丙申、沛国の睢水が逆流し、一日一夜で止んだ。章帝建初八年六月癸巳、東昏城の下の池の水が血のように赤く変わった。」臣の昭が案ずるに、諸史によれば光武帝の時、郡国もまた水災があったが、志には載せていない。本紀に「八年秋大水」とあり、また「是歳大水」と云う。今、杜林の伝に拠り、これを孝和帝の前に列する。東観書に言う。「建武八年の間、郡国で相次いで大水があり、涌泉が溢れ出た。杜林は、倉卒の時に兵が権を擅にして威を作し、張歩らは皆降伏散逸したが、なおまだ遺脱があり、長吏が制御する術がなく、再び熾盛になることを許し、元元(民)が侵陵されたことによるものだと考えた。上疏して言った。『臣は聞く、先王に二道はなく、明聖が用いて治める。悪を見ることは農夫が草を取り除く務めのようで、芟夷して蘊崇し、その本根を絶ち、能く殖えることをさせない。その易きを畏れるのである。古今の通じる道は、その法を有根(根拠)に伝える。狼子野心、奔馬はよく驚く。成王はその終わりに至る患いを深く知り、故に殷氏の六族を分けて伯禽に与え、七族を分けて康叔に与え、懐姓九宗を分けて唐叔に与え、その姦宄を撿押し、またその余りを成周に遷し、旧地の雑俗を旦夕に拘録して、その強御の力を挫き、その驕恣の節を詘したのである。漢の初め興るとき、上は旧章を稽え、符を合わし規を重ね、斉の諸田、楚の昭・屈・景、燕・趙・韓・魏の後を徙して、次第に六国の強宗を弱めた。邑里に営利の家なく、野沢に兼并の民なく、万里を統べ、海内は安寧を頼んだ。後には輒ち衰麤の痛みに因り、送終の義をもって脅し、故に遂に相率いて園陵に陪し、反顧の心がなかった。往時の法を追観すれば、政は皆神道を設けて教え、幹を強くし枝を弱くし、本支百世の要であった。それ故に皆永く康寧の福を享け、怵惕の憂いがなく、継嗣が業を承け、恭己して治めたのは、蓋しこの助けによるものである。その災害を受けた民で軽薄で累重のない者は、両府が吏を遣わして護送し、穀物の豊かな郡に送る。あるいは死亡を恐れ、卒して傭賃となることも、その口数を消散させ救い、その性命を贍全する所以でもある。昔、魯の隠公は賢行があったが、国を桓公に致そうとして、留連して位に貪り、早く退くことができなかった。況や草創の兵長で、卒して徳能がなく、ただ擾乱し、時に乗じて権を擅にし、威を作し玉食し、〔狙〕猱の意、徼幸の念、曼延して足りず、張歩の計がこれである。小民が県官に負うても身死するに過ぎないが、兵家に負えば滅門殄世である。陛下は昭然として独り成敗の端を見られ、あるいは諸侯官府に属し、元元は少しも挙首仰視することができず、なお遺脱があり、二千石が制御の道を失い、再び昌熾して従横することを許している。比年大雨、水潦が暴長し、涌泉が盈溢し、災いが城郭官寺を壊し、吏民の廬舍を潰し、離散して住処を失い、潰れて坑坎となる。臣は聞く、水は陰類である。易卦に「地上に水あり比す」とあり、性は相害せず、故に楽と言う。しかるに猥りに相毀墊淪失し、常に百姓の安居を敗る。これは陰下相い為に蠹賊し、小大勝負が斉しからず、均しくその所を得ず、侵陵の象である。詩に云う。「天の威を畏れ、時にこれを保つ。」唯だ陛下に留神明察を願い、往来懼思し、天下幸甚である。』」謝承書に言う。「陳宣、字は子興、沛国蕭の人である。剛猛で性毅、博学、魯詩に明るい。王莽が位を簒した時、隠処して仕えなかった。光武帝が即位すると、諫議大夫に徴し拝された。建武十年、雒水が出て造津に至り、城門校尉が塞ぐことを奏上しようとした。宣は言った。『昔、周公が雒を卜して宗廟を安んじ、万世の基とし、水は城門に入るべきではない。もし災異であるならば、人主の過ちであり辞することはできず、塞いでも益はない。昔、東郡の金堤が大決し、水が郡を没しようとした時、令・吏・民は散走した。太守の王尊は身を亡くして敕し、住立して動かず、水は時に応じて自ら消えた。尊は人臣でありながら、尚お修正して災いを弭した。況や朝廷の中興の聖主、天が挺して授けた所であり、水は必ず入らない。』言い終わらぬうちに、水は去った。上はその言を善しとした。後、乗輿が出るとき、宣が列を引いて前に進んだが、行きが遅かった。乗輿が駆けようとすると、鉤で宣の車蓋を引いて疾行させようとし、御者が車下に堕ちた。宣は前に進み諫めて言った。『王者は天を承け地を統べ、動くには法度があり、車には和鸞があり、歩くには佩玉があり、動静は天に応じる。昔、孝文皇帝の時、辺方から千里馬を献じた者があったが、還して受け取らなかった。陛下は上は唐虞を稽え、下は文帝を法とすべきである。』上はその言を納れ、遂に徐行して轡を按じた。河堤謁者に遷り、病により免じられ、家で卒した。」
延熹八年(165年)四月、済北で黄河の水が澄んだ。九年(166年)四月、済陰・東郡・済北・平原で黄河の水が澄んだ。襄楷が上言して言った。「黄河は諸侯の象徴であり、澄むことは陽明の兆しである。ただ諸侯だけが京都を規制する計略を持っているのだろうか?」その翌年、宮車(天子の車)が晏駕し、解犢亭侯(劉宏)が漢の後継者として迎えられ、尊位に即き、これが孝霊皇帝である。
霊帝の建寧四年(171年)二月、黄河の水が澄んだ。(袁山松の書に「龍〈土累〉に祈った」とある。)五月、山の水が大いに出て、五百余家の家屋を漂流させ壊した。(袁山松の書ではこれは河東の水が暴れ出たものだという。)
光和六年の秋、金城で黄河が氾濫し、水が二十余里にわたって溢れ出た。
中平五年、六つの郡国で大規模な水害が発生した。(臣の昭が案ずるに、袁山松の書には「山陽、梁、沛、彭城、下邳、東海、琅邪」とあり、これは七郡である。)
多くの徴候のうちの恒常的な寒冷。
霊帝の光和六年の冬、大いに寒く、北海、東萊、琅邪の井戸の中の氷の厚さが一尺余りあった。(袁山松の書によると:「この時、群賊が起こり、天下が乱れ始めた。讖に曰く:『寒さとは、小人が暴虐で、権力を専断して地位に居り、道なき者が位にあり、適切な罰則がなく、また無罪の者を殺す。その寒さは必ず暴虐な殺戮を伴う。』」)
献帝の初平四年六月、寒風が冬のようであった。(袁山松の書によると:「この時、皇帝は流浪して政を失っていた。」養奮の対策に曰く:「温かくなるべき時に寒いのは、刑罰が残酷であるからだ。」)
元初四年六月戊辰、三つの郡国で雹が降り、大きさは杅杯や鶏卵のようで、六畜を殺した。(古今注によると:「楽安で雹が杅のようで、人を殺した。」京房の占いによると:「夏に雹が降れば、天下で兵乱が大いに起こる。」)
桓帝の延熹四年五月己卯、京都で雹が降り、大きさは鶏卵のようであった。この時、桓帝は誅殺が過度で、また小人を寵愛していた。七年五月己丑、京都で雹が降った。この時、皇后の鄧氏が僭越で奢侈にふけり、驕り高ぶって専ら寵愛を受けていた。翌年、廃され、憂いで死に、その一族は皆誅殺された。
光和四年六月、雹が降り、大きさは鶏卵のようであった。この時、常侍、黄門が権力を用いていた。
献帝の初平四年(193年)六月、右扶風で雹が斗のようであった。(袁山松の書によると、「雹が人を殺した。前後に雨雹があったが、これが最も大きく、当時天下は崩壊して乱れていた。」)
安帝の永初六年(112年)十月丙戌、六つの郡で冬に雷が鳴った。(京房の占いによると、「天が冬に雷を鳴らせば、地は必ず震動する。」また、「教令が乱れる。」また、「雷は十一月に黄鐘から起こり、二月に大声となり、八月に閉蔵する。これは春夏に無辜を殺し、冬の刑罰を用いて災いを招く必要がないためである。冬眠中の虫が外出すれば、これを救わなければ冬が温暖で風が吹き、その翌年に疾病が起こる。その救済策は、幼孤を憐れみ、不足を救済し、獄刑を議論し、罰を赦免することであり、そうすれば災いは消滅する。」古今注によると、「明帝の永平七年(64年)十月丙子、越巂で雷が鳴った。」)永初七年(113年)十月戊子、三つの郡国で冬に雷が鳴った。
延光四年(125年)、十九の郡国で冬に雷が鳴った。この時、太后が摂政し、上(皇帝)は関与することがなかった。太后が崩御した後、阿母の王聖および皇后の兄の閻顯兄弟がさらに威権を握り、上はついに万機を親らせず、ゆったりと寛仁に臣下に任せた。(古今注によると、「順帝の永和四年(139年)四月戊午、雷が震えて高廟、世祖廟の外の槐樹を撃った。」)
霊帝の熹平六年(177年)冬十月、東萊で冬に雷が鳴った。
中平四年(187年)十二月晦、雨が降り、大雷電があった。雹が降った。
順帝の永建五年(130年)、十二の郡国で蝗害が発生した。この時、鮮卑が朔方を侵し、軍勢を用いてこれを征討した。
霊帝の熹平六年(177年)夏、七州で蝗害が発生した。これ以前、鮮卑が前後三十余回にわたって塞を侵犯した。この年、護烏桓校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻が南単于以下を率い、三方向から同時に出撃して鮮卑を討伐した。大司農の経費が不足し、郡国から重税を徴収して軍糧を供給した。三将は功績なく、帰還した者は半数にも満たなかった。
校勘記
三三〇五頁一〇行 夏五月辛(卯)〔亥〕に郊祀を行う。汲本、殿本に拠り改む。
三三〇六頁一二行 東郡以北が水害に見舞われる。按ずるに、「東」は原本「来」と誤る。直接に改正す。
三三〇六頁一三行 弘農都尉の治所(折)〔析〕が水に流され殺害される。集解本に拠り改む。按ずるに、校補は前書地理志音義に拠り正すと謂う。また校補は錢大昭の説を引き、前志に弘農に析県あり、続志に析は南陽に属すとし、然るに前志に弘農に都尉無く、析の下にも都尉の治所と云わず、建武六年に既に諸郡都尉を省き、弘農のみが存するべき道理無し。且つ本紀にはただ「この夏連続して雨が降る」と云うのみで、車駕自ら水害の地に行く事も無し。疑うに古今注誤る。また按ずるに、「所」は原本「沂」と誤る。直接に改正す。
三三〇六頁一五行に、建武八年に郡国で大水が相次いだとある。按:汲本と殿本では「比」はすべて「七」と作る。
三三〇七頁一行に、その法を有根に伝えたとある。按:「根」は「漢」の誤りかと思われるが、各本はすべて「根」と作る。聚珍本の東観記も「根」と作る。ただ厳可均が輯した全後漢文では「漢」と作っており、おそらく厳氏が意図的に改めたものであろう。
三三〇七頁一行に、故に殷氏の六族を分けて伯禽に与えたとある。按:左伝では「氏」は「民」と作る。校補は「殷氏」が下の「懷姓」と対文をなすとしており、これは伝本の異同によるものである。
三三〇七頁四行に、邑里に営利の家なしとある。按:「営」は原字では「管」と誤っており、直接に改正した。
三三〇七頁五行に、往時の法を追観するとある。按:「観」は原字では「即」と誤っており、直接に改正した。
三三〇七頁五行に、これによって皆が永く康寧の福を享けたとある。按:「以皆」は原字では順序が逆になっており、直接に正しい順序に改めた。
三三〇七頁六行に、またその口救を消散させる所以でもあるとある。按:「救」は「数」の誤りかと思われる。
三三〇七頁八行に、(狃)〔狙〕猱の意とある。何焯の校訂に基づいて改める。
三三〇七頁八行に、曼延して足なしとある。按:校補は文意を案ずるに「足」は「定」であるべきだとしている。
三三〇七頁九行に、復た昌熾して従横するを得しむとある。按:「令」は原字では「合」と誤っており、直接に改正した。
三三〇七頁一〇行に、潰れて徙り離れて処るとある。按:「徙」は原字では「從」と誤っており、直接に改正した。
三三〇七頁一行に、性が相害しないと言うとある。按:「相」は原字では「用」と誤っており、直接に改正した。
三三〇七頁一六行に、尚、修正して災を弭すとある。殿本では「正」は「政」と作る。按:正と政は通じる。
三三〇八頁四行に、その水は(而)〔雨〕にして人を殺すとある。校補は前志で校勘すると、「而」は「雨」の誤りであり、各本はすべて正されていないとしている。今これに拠って改める。
三三〇九頁六行に、郡国三十七で大水とある。按:校補は紀では「大水」は「雨水」と作るとしている。
三三〇九頁一〇行 皇太子勝を立てず。按ずるに、張森楷の校勘記は、皇子勝は未だ太子となったことがなく、「太」の字は衍字であるとし、下巻の大風の条も同じく誤っていると述べている。
三三〇九頁一二行 賢者を妬み憎む。按ずるに、「妒」は原本では「治」と誤っており、汲古閣本、武英殿本に基づいて直接に改正した。
三三〇九頁一五行 京師および郡国四十(有)〔大〕水。校補は「有」は「大」の誤りであり、本紀によって証明できるとし、諸本は皆正しくないと述べている。今これに拠って改める。
三三〇九頁一五行 嘉、客死した骸骨を収めて葬る。集解は惠棟の説を引き、范曄『後漢書』周嘉伝によれば、これは周嘉の弟の暢であるとし、注が拠ったのは司馬彪の書であると述べている。按ずるに、校補は、この注を詳しく見ると、実は本書『独行列伝』の周嘉伝の文を要約したものであり、「収葬」の上の「嘉」の字は本来は「因」の字であったのが、後人が妄りに改めたもので、本伝を見ていなかっただけだと述べている。既に要約したものであるから、元々必ずしも収葬した者が誰であるかを詳しく述べる必要はない。惠氏の補注はこの一字の疑いによって、遂に注が拠ったのは司馬彪の書であると述べている。しかし、注は先に本紀を挙げており、それは范曄『後漢書』の本紀である。次に周嘉伝を挙げており、また別に言っていないから、これは本伝である。
三三一〇頁 九行 (臨)〔流〕水、血〔不流〕と化す。「臨」は汲古閣本、武英殿本では「流」と作る。今これに拠って改める。また、集解は惠棟の説を引き、「血」の下に「不流」の二字が脱落していると述べている。今これに拠って補う。
三三一〇頁一〇行 占いに曰く、泣血道路、蘇に於いて何を以てか処す。按ずるに、「占」は武英殿本では「名」と作る。「何」は汲古閣本では「河」と作る。校補は「蘇に於いて何を以てか処す」もまた誤った文であり、強いて通じさせることはできないと述べている。
三三一〇頁一三行 (十)〔千〕余人を殺す。汲古閣本、武英殿本に拠って改める。
三三一一頁 四行 数(千)〔十〕万戸を漂没させ害する。校補は錢大昭の説を引き、朱穆伝、桓帝紀ともに数十万戸としているので、「千」は「十」とすべきであると述べている。今これに拠って改める。
三三一一頁 四行 水沢を懐き容れる。按ずるに、「懐」は原本では「壞」と誤っており、直接に改正した。
三三一一頁 七行 太白、天を経る。按ずるに、「経」は原本では「絕」と誤っており、汲古閣本、武英殿本に基づいて直接に改正した。
三三一一頁 八行 盗賊、略して〔民を〕平らぐ。校補は、文意から見て「平」の下には「民」の字があるべきであり、あるいはまた唐人が避諱のためにこれを除いたのだろうと述べている。今これに拠って補う。
三三一一頁一三行 済北〔河〕水清し。集解は錢大昕の説を引き、「済北」の下に「河」の字が脱落していると述べている。また、校補は錢大昭の説を引き、本紀では「済陰、東郡、済北河水清」と作っているので、「済北」の上にも四字が脱落していると述べている。今按ずるに、紀と志の記述は、異なることがあり得る。「済北」の下には明らかに「河」の字が脱落しているので、今これを補う。
三三一二頁 七行 四年夏、郡国三、水。按ずるに、校補は、紀では「七大水」と作ると述べている。
三三一二頁 九行 中平五年、郡国六、水大いに出づ。按ずるに、集解は惠棟の説を引き、帝紀では「七大水」と作ると述べている。
三三一三頁 八行 和帝永元五年六月、郡国三、雨雹、大さ雞子の如し。按ずるに、聚珍本『東観漢記』では「郡国大雨雹、大さ雁子の如し」と作る。
三三一三頁一一行 房衽之內 注:「衽」の原文は「任」であったが、汲本・殿本に従って改めた。
三三一三頁一一行 施而不博 注:「博」は原文では誤って「傳」とされていたが、正しく改めた。
三三一三頁一一行 陰精凝而見(滅)〔成〕 汲本・殿本に基づいて改めた。
三三一三頁一二行 抑賢不揚 注:「揚」は原文では誤って「易」とされていたが、正しく改めた。
三三一四頁 五行 大如杅杯 注:集解が引用する惠棟の説によれば、「杅杯」は東觀記では「芋魁」と作る。
三三一四頁 八行 尹敏傳是歲河西大雨雹如斗安帝見孔季彥問其故 注:集解が引用する錢大昕の説によれば、季彥の事績は今は孔僖傳にあるが、あるいは司馬彪の書では季彥を尹敏傳に附載したのかもしれない。校補は、この注が季彥の事績を引いているのは明らかに范曄の後漢書孔僖傳の文であり、尹敏が同じく儒林傳に列せられていることから、誤って載せられたのであろうと述べている。
三三一四頁一一行 順帝永建五年郡國十二雨雹 注:汲本・殿本では「五」を「三」と作る。
三三一五頁 八行 光武建武七年遼東冬雷 注:汲本・殿本では「七」を「十」と作る。
三三一五頁一0行 石(以)〔與〕雷隕俱者 汲本・殿本に基づいて改めた。
三三一五頁一一行 於是為(長)〔常〕 汲本・殿本に基づいて改めた。
三三一五頁一四行 恤幼孤 注:「恤」は原文では誤って「率」とされていたが、汲本・殿本に基づいて正しく改めた。
三三一六頁一三行 東萊冬雷 注:汲本・殿本では「冬」を「大」と作る。
三三一七頁 四行 山(亡)〔土〕崩 汲本・殿本に基づいて改めた。
三三一八頁二行、二十八年三月、八十の郡国で蝗害が発生した。校補によると、光武帝の時代には郡国は九十三あったので、八十で蝗害が発生したとすれば、蝗害はほぼ全国に及んだことになる。桓帝・霊帝の末期にもこのような異常な災害はなく、ましてや中興の盛時に、このようなことがあってはならない。「八十」はおそらく「十八」の誤りで順序が逆になっているのだろう。
三三一九頁五行、この時、梁冀が政権を握っていたが、謀略も憲法もなかった。校補によると、「憲」はおそらく「慮」の誤りであろう。
三三一九頁一〇行、聡明でないことによる禍である。汲本と殿本では「禍」を「過」としている。
三三二〇頁三行、(居)〔屈〕省別藏。汲本と殿本に基づいて改める。