漢書かんじょごかんじょ

巻一百四・五行二 災火 草妖 羽蟲孽 羊禍

『五行伝』に言う。「法律を棄て、(鄭玄が尚書大伝に注して言う。『東井は法令を主る。』)功臣を逐い、(鄭玄が言う。『功臣は法律を制定する者である。或いは言う、喙は尚食を主り、七星は衣裳を主り、張は食厨を為し、翼は天倡を主る。経に曰く、『帝曰く、臣は朕の股肱耳目を作す。予は左右に民有ることを欲し、汝は翼とせよ。予は古人之象を観んことを欲す。日、月、星辰、山、龍、華蟲、繢宗彝を作し、藻、火、粉、米、黼、黻、絺繡、以て五采を五色に章施して服を作す、汝は明らかにせよ。予は六律、五声、八音を聞かんことを欲し、治忽に在りて、以て五言を出納せんことを欲す、汝は聴け。』これ即ち食と服楽は、臣の用いる所の大功たるものなり。七星の北に酒旗有り、南に天厨有り、翼の南に器府有り。』)太子を殺し、(鄭玄が言う。『五行は火が土を生ず。天文は参を以て東井に継ぐ。四時は秋を以て夏に代わる。太子を殺すの象なり。春秋伝に曰く、『夫れ千乗の主、正を廃して不正を立つるは、必ず正を殺すなり。』』)妾を以て妻と為せば、(鄭玄が言う。『軒轅は后妃と為り、南宮に属す。其の大星は女主の位なり。女御は前に在り、妾が妻と為るの象なり。』)則ち火は上に炎上せず。」(鄭玄が言う。『君此の四者を行えば、天の南宮の政に逆らう。南宮は地に於いて火と為り、火の性は上に炎上す。然るに行う人の用いて烹餁する所の者なり。故無くして因り見て熱を作し、燔熾して害を為す。是れ火が上に炎上せざるなり。其の他の変異は、皆沴に属す。』春秋考異郵に曰く。『火は陽の精なり。人は天気五行陰陽に合す。陰極まれば陽に反し、陽極まれば陰を生ず。故に行いに応じて災不祥を以てす。在る所に之を感ぜしめ、萌応転旋し、従逆心を殊にするなり。』)火が其の性を失って災いを為すことを謂う。又言う。「視ること明らかならざるは、是れ悊ならざると謂う。(鄭玄が言う。『視は瞭なり。君の視明らかならざれば、則ち是れ其の事を瞭らかにせざるなり。』洪範に曰く。『視を明と曰う。』)其の咎は舒なり、(讖に曰く。『君舒怠すれば、臣下倦み有り、白黒別たず、賢不肖並び立ち、民の急を憂うること能わず、気之が為に舒緩し、草揺がず。』鄭玄が言う。『君臣瞭らかならざれば則ち舒緩す。』)其の罰は常に燠なり、(鄭玄が言う。『視を火と曰う。火は夏を主る。夏気は長ず。長気失えば、故に常に燠し。』)其の極は疾なり、(鄭玄が言う。『長気失えば、故に人に於いて疾と為る。』)時に則ち草妖有り、(鄭玄が言う。『草は視の物見るべき者なり。草より衆しきは莫し。』)時に則ち蠃虫の孽有り、(鄭玄が言う。『蠶螟蟲の類なり。蟲の火に生じて秋に蔵する者なり。』)時に則ち羊禍有り、(鄭玄が言う。『羊は畜の遠視する者なり。視に属す。』)時に則ち赤眚、赤祥有り、惟だ水火を沴す。」蠃虫は、劉歆伝では羽虫と為す。

建武年間、漁陽太守の彭寵が徴召された。文書が到着した翌日、潞県で火災が起こり、災いは城中から起こり、城外へ飛び出し、千余家を焼き、人を殺した。京房の『易伝』に言う。「上倹ならず、下節せず、盛んなる火数起き、宮室を燔く。」儒者の説では、火は明を以て徳と為し礼を主るとする。当時、寵は幽州牧の朱浮と不和があり、浮が讒言して自分を陥れたのではないかと疑い、狐疑逡巡した。その妻が応召しないよう勧めたため、遂に反叛して浮を攻め、結局誅滅された。(古今注に言う。「建武六年十二月、洛陽らくよう市で火災。二十四年正月戊子、雷雨霹靂、火災が高廟の北門を焼く。明帝永平元年六月己亥、桂陽に火が飛来するのを見、城寺を焼く。章帝建初元年十二月、北宮の火が寿安殿を焼き、右掖門に延焼。元和三年六月丙午、雷雨、火が北宮の朱爵西闕を焼く。」)

和帝永元八年十二月丁巳、南宮の宣室殿が火災に遭った。この時、和帝は北宮に行幸しており、竇太后は南宮にいた。翌年、竇太后が崩御した。

十三年八月己亥、北宮の盛饌門閣が火災に遭った。この時、和帝は鄧貴人を寵愛し、陰后の寵愛は衰え怨恨を抱き、上(帝)には廃后の意向があった。翌年、陰后が偽りの道術を用いた事が発覚し、遂に廃されて桐宮に移され、憂いのうちに死去した。鄧貴人が皇后に立てられた。

十五年六月辛酉、漢中城固の南城門が災害に遭った。これは孝和皇帝の世が絶えようとする象徴である。その後二年して、宮車晏駕し、殤帝及び平原王はいずれも早くに夭折し、和帝の世系は絶えた。

安帝(古今注に言う。「永初元年十二月、河南郡県で火災、百五人を焼殺。二年、河南郡県でまた失火、五百八十四人を焼く。」)永初二年四月甲寅、漢陽阿陽城中で失火、三千五百七十人を焼き殺した。先に和帝が崩御し、皇子が二人いた。皇子の劉勝は年長であったが、鄧皇后は殤帝の年少を貪り、自ら養育して成長させて立てようとした。延平元年、殤帝が崩御した。勝には持病があったが重くはなく、群臣は皆彼を立てようとしたが、太后は以前既に勝を立てなかったので、遂に改めて清河王の子を立てた。これが安帝である。司空しくうの周章らは心服せず、鄧氏を誅殺し、太后と安帝を廃して、改めて勝を立てようと謀った。元年十一月、事が発覚し、章らは誅殺された。その後、涼州で羌が反叛し害を為すことが甚だしく、涼州諸郡は馮翊・扶風の境界内に仮の治所を置いた。太后が崩御すると、鄧氏は誅殺された。

四年三月戊子、杜陵園で火災が起こった。

元初四年二月壬戌、武庫が火災に遭った。(東観書に言う。「兵物百二十五種を焼き、価値千万以上に相当。」)この時、羌が反叛し、大いに寇害を為し、天下の兵を発して攻撃防禦したが、十余年を積もっても未だ止まず、天下は兵役に厭き苦しんだ。

延光元年八月戊子、陽陵園の寝殿が火災に遭った。凡そ災いが先陵から発するのは、これ太子が廃されようとする象徴である。若し言わば、太子を廃して自ら剪るべからざるに、則ち火は先陵の寝を害すべからざるなり。翌年、上(帝)は讒言によって皇太子を廃して済陰王とした。後二年して、宮車宴駕した。中黄門の孫程ら十九人が殿省で兵を起こし、賊臣を誅殺し、済陰王を立てた。

四年秋七月乙丑、漁陽の城門楼が災害に遭った。

順帝永建三年七月丁酉、茂陵園の寝殿が災害に遭った。(古今注に言う。「二年五月戊辰、守宮が失火し、宮殿に蔵された財物を焼き尽くす。四年、河南郡県で失火、人と六畜を焼く。」)

陽嘉元年、恭陵の廡が災害に遭い、及び東西の莫府が火災に遭った。(古今注に言う。「十二月、河南郡国で廬舎を焼き、人を殺す。」)太尉の李固は奢侈僭越によるものと考えた。陵の造営当初、禍いは枯骨に及び、規模を広く治めることを殊更に飾った。また上(帝)は更に宮室を造営し、台観を増やそうとしたので、火は莫府から起こり、材木を焼いた。

永和元年十月丁未、承福殿が火災に遭った。(臣の昭が案ずるに楊厚伝が是の災いを記す。)先に爵号を賜い、阿母の宋娥を山陽君とした。后の父の梁商は本来国侯であり、また多く商の封を増やした。商の長子の梁冀は商の爵を継ぐべきであったが、商が生存しているため、改めて冀を襄邑侯に封じた。后の母を追号して開封君とした。皆、過差で礼に非ざるものであった。(古今注に言う。「六年十二月、洛陽の酒市で失火、店舗を焼き、人を殺す。」)

漢の安帝元年(永初元年)三月甲午の日、洛陽の劉漢ら百九十七家が火災に遭い焼失した。(『東観漢記』によると、「そのうち九十家は自活できず、詔によって銭と穀物を賜った」という。『古今注』によると、「火は家屋や物の間から発生し、どこから起こったかわからず、数か月後にやんだ。十二月、洛陽で火災があった」という。)その後四年の間に、天子の車駕が三度も遅れて出発する事態が続き、建和元年になってようやく君主の地位が定まった。

桓帝の建和二年五月癸丑の日、北宮の掖庭にある徳陽殿が火災に遭い、左掖門にまで延焼した。この前、梁太后の兄の梁冀が奸悪を抱き不正を行い、以前の太尉李固と杜喬が正直であったため、自分の事を害されることを恐れ、人を使って二人を誣告して上奏させ、誅殺した。その後、梁太后が崩御し、梁氏は誅滅された。

延熹四年正月辛酉の日、南宮の嘉徳殿が火災に遭った。戊子の日、丙署が火災に遭った。二月壬辰の日、武庫が火災に遭った。五月丁卯の日、原陵の長寿門が火災に遭った。この前、亳后(桓帝の皇后)は身分の低い者であったが寵愛を受け、貴人と号し、皇后となった。皇帝は皇后の母の宣を長安ちょうあん君とし、その兄弟を封じ、寵愛と栄誉を厚くし、また多くの功のない者を封じた。前年の春、白馬県令の李云が直言諫言をした罪で死んだ。この時、彗星が心宿と尾宿を掃い、火災が連続して起こった。

五年正月壬午の日、南宮の丙署が火災に遭った。四月乙丑の日、恭北陵の東闕が火災に遭った。戊辰の日、虎賁掖門が火災に遭った。五月、康陵の園寝が火災に遭った。甲申の日、中蔵府の承禄署が火災に遭った。七月己未の日、南宮の承善闥内が火災に遭った。

六年四月辛亥の日、康陵の東署が火災に遭った。七月甲申の日、平陵の園寝が火災に遭った。

八年二月己酉の日、南宮の嘉徳署、黄龍殿、千秋万歳殿がすべて火災に遭った。四月甲寅の日、安陵の園寝が火災に遭った。閏月、南宮の長秋殿、和歓殿の後ろの鉤盾、掖庭の朔平署がそれぞれ火災に遭った。十一月壬子の日、徳陽前殿の西閣と黄門北寺が火災に遭い、死者が出た。(袁山松の『後漢書』によると、「この時、連月火災があり、諸宮寺では一日に二、三度発生することもあった。また夜にはデマが流れ、太鼓を打ち鳴らして騒ぎ驚いた。陳蕃、劉矩、劉茂が上疏して諫めて言った。『古代の火災は皆、君主が弱く臣下が強く、陰気が極まった変異である。前の春の始めに獄刑が残酷であったため、火は炎上しなかった。前に入春してから寒さが続き、樹木に氷がつき、暴風が樹木を折り、また八、九の州郡が一斉に霜が降りて豆を枯らしたと報告した。春秋時代、晋が季孫行父を捕らえた時、木に氷がついた。気が広大であれば景星が現れ、教化が乱れれば五星が開き、日月が蝕する。災いは既に起こった事柄であり、異変はこれから起こる事柄である。恐らく突然の変事が必ず三朝の間に起こるであろう。ただ善政のみがこれを止めることができる。どうか臣の以前の言葉を察し、愚かな忠誠を捨てず、そうすれば民衆は大いに幸いである。』上書したが、聞き入れられなかった。」)

九年三月癸巳の日、京都で夜に火の光が移動し、民衆は驚き騒いだ。(袁山松の『後漢書』によると、「この時、宦官が朝廷を専断し、鉤党の事件が起こり、皇帝には後継ぎがなく、陳蕃と竇武が曹節らに害され、天下にはもはや秩序がなくなった。」)

霊帝の熹平四年五月、延陵園に災害があった。

光和四年閏月辛酉の日、北宮の東掖庭永巷署に災害があった。(陳蕃が諫めて言った。「楚の国の女が悲しんで西宮に災害があった。宮女を寵愛しないことが、怨みを招いたのである。」)

五年五月庚申の日、徳陽前殿の西北入門内の永楽太后宮署が火災に遭った。

中平二年二月己酉の日、南宮の雲台に災害があった。庚戌の日、楽成門に災害があり、(南宮の中門である。)北闕にまで延焼し、渡り廊下の西側を焼いて嘉徳殿、和歓殿に燃え広がった。雲台の災害は上から始まり、数百の垂木の先端が同時に燃え上がり、まるで華やかな灯りを吊るしたかのようで、その日に焼き尽くされ、白虎門、威興門、尚書省、符節台、蘭台にまで延焼した。雲台とは、周の時代に造られたもので、図書、術数に関する書籍、珍しい玩物、宝物や怪しい物がすべて収蔵されていた。京房の『易伝』に言う。「君主が道を思わなければ、その妖は火災となって宮殿を焼く。」この時、黄巾の賊が悪事を働き、天の常道を乱し、七州二十八郡が同時に蜂起した。将軍を任命して軍を出したが、多少は捕虜を得たものの、宛、広宗、曲陽はまだ破壊されておらず、労役は海辺から起こり、機織りの道具は空しく掛けられたままで、百姓の死傷者は既に半数を超えていた。しかし霊帝は自らを律し礼に戻すことができず、虐政と奢侈はますます甚だしくなり、詔書が雨のように発布され、先導騎兵が電光のように駆け巡り、官職は適任者ではなく、政治は賄賂によって成り立ち、宮中では鴻都門学の者たちを寵愛し、ともに封爵を受けた。京都ではこのように言われた。「今年は諸侯の年だ。」天の戒めはこう言っている。賢者を放逐し淫乱な者を賞するなら、どうして古い典拠を守る必要があろうか。それ故にその台門と秘府を焼いたのである。その後三年、霊帝は急死し、続いて董卓の乱が起こり、火は三日間絶えず、京都は廃墟となった。(『魏志』によると、「魏の明帝の青龍二年、崇華殿が災害に遭った。詔によって太史令の高堂隆に問うた。『これは何の咎めか。礼において祈禳の意味はあるか?』答えて言った。『災害と変異の発生は、皆、教えと戒めを明らかにするためである。ただ礼に従い徳を修めることによってのみこれを克服できる。易伝に言う。「上に倹約がなければ、下に節制がなく、災いの火がその家を焼く。」また言う。「君主がその台を高くすれば、天火が災いとなる。」これは人君が宮室を飾るばかりで、百姓が空しく疲弊していることを知らないため、天がこれに応じて旱魃をもたらし、火が高い殿舎から起こるのである。上天が監視を下し、陛下に譴責を告げている。陛下は人道を増し崇めるべきで、天意に答えるべきである。昔、太戊の時に桑と穀が朝廷に生え、武丁の時に雉が鼎に登って鳴いたが、皆、災害を聞いて恐れ慎み、身を正して徳を修め、三年の後、遠方の夷狄が朝貢した。故に中宗、高宗と号した。これが前代の明らかな鑑である。今、旧来の占いを調べると、災害の火の発生は、皆、台榭宮室についての戒めである。しかし今、宮室が広く充実しているのは、実は宮人の数が多すぎるためである。淑やかで美しい者を選んで残し、周の制度のように、残りを廃止すべきである。これこそが祖己が高宗を訓戒した理由であり、高宗が遠くまで名声を享受した理由である。』詔によって隆に問うた。『私は漢の武帝の時に柏梁台が災害に遭い、宮殿を建ててこれを鎮めたと聞くが、その意味はどういうことか?』答えて言った。『臣は聞く。西京の柏梁台が災害に遭った後、越の巫女が方法を述べ、建章宮を営んで、火の祥を鎮めたと。これは夷狄の越の巫女の行いであり、聖賢の明らかな教訓ではない。五行志に言う。「柏梁台の災害の後、江充の巫蠱の事件と衛太子の事件があった。」志の言葉の通りならば、越の巫女の建章宮は何も鎮めていない。孔子は言う。「災いは、類を修め行いに応じ、精気と妖気が互いに感応して、人君を戒めるものである。」それ故、聖主は災害を見て自らを責め、退いて徳を修め、これを消し去り回復させる。今は民の労役をやめさせ、宮室の制度は倹約に努め、内側では風雨を防ぐのに十分で、外側では礼儀を講じるのに十分なものとし、災害のあった場所を清掃し、ここに何かを建てようとせず、萐莆や嘉禾が必ずこの地に生じ、陛下の虔敬な徳に報いるであろう。民の力を疲弊させ、民の財を尽くすことは、実は符瑞を招き遠人を懐柔する方法ではない。』」臣の昭が言う。高堂隆の災害についての言葉は、天の心を得ているであろうか! 本志に明らかにされていることとは異なるが、霊帝の時代にはそのようなことがあった。故にその言葉を載せ、災異について広く記す。)

献帝の初平元年八月、覇橋に災害があった。その後三年、董卓が殺害された。(臣の昭が案ずるに、『劉焉伝』によると、興平元年、天火がその城府と輜重を焼き、民家にまで延焼し、館邑は何も残らなかった。)

災異の兆しとしての恒常的な暖かさについて、『漢書』では冬の温暖さをもってそれに応じるとしている。後漢の中興以来にも、冬の温暖さがあったが、記録には載せられていないという。(『越絶書』に范蠡が言うには、「春が暖かいのに草木が生えないのは、王者の徳が完備していないからである。夏が寒いのに作物が成長しないのは、臣下が主君の命令を奉じないからである。秋が暑くて草木が再び繁るのは、百官の刑罰が決断されないからである。冬が温暖で気が漏れるのは、府庫を開いて功のない者に賞を与えるからである。この四つは、国家の禁じるところである。」『管子』に言う、「臣下が君主の威勢に乗じると、陰が陽を侵し、盛夏に雪が降り、冬に氷が張らなくなる。」)

安帝の元初三年、瓜が異なる根元から共生し、八つの瓜が同じへたにつき、当時はこれを嘉瓜(めでたい瓜)と見なした。ある者は、瓜は外に延び、本から離れて実るものであり、女子が外に属する象徴であると考えた。この時、閻皇后が初めて立后され、後に閻后は外戚の耿宝らと共に太子を讒言し、廃して済陰王とし、代わりに外から済北王の子の犢を迎えて立てた。これが草の妖である。(『古今注』に曰く、「和帝の永元七年三月、江夏県の民家の柱が二本に分かれて生え、その一本は長さ一尺五寸で八枝に分かれ、もう一本は長さ一尺六寸で五枝に分かれ、いずれも青かった。」)

桓帝の延熹九年、洛陽城の役所の竹や柏の葉に傷ついたものがあった。占いでは「天子に凶事あり」と言った。

霊帝の熹平三年、右校の別作(工房)の中に二本のおうちの木があり、いずれも高さ四尺ほどであったが、その一本が一夜のうちに急激に成長し、丈余(一丈余り)にもなり、太さ一囲(両手で囲むほど)になり、胡人の姿を呈し、頭・目・鬢・髭・髪が全て備わっていた。京房の『易伝』に曰く、「王の徳が衰え、下の者が起こらんとする時には、木が人の形をして生ずる。」(臣の昭は考えるに、木が人の形をして生じ、下の者が起こらんとするのは、京房の占いが証拠をもって検証されるとしても、その容貌が胡人に似ていることは、まだはっきりと弁えられていない。董卓の乱は、実際に胡兵を擁し、李傕・郭汜の時代には特に充満し、ついに宮中の嬪妃を窺い、百姓を掠め虐げた。鮮卑の徒は、畿内の地を踏みにじり、胡の害は深く、また甚だ毒々しかった。)

熹平五年十月壬午、皇帝の居られる殿の後ろの槐の木が、いずれも六七囲(両手で六七回囲む太さ)あり、自ら抜け出し、逆さまに立ち、根が上になった。(臣の昭が言うには、「槐は三公の象徴であり、貴いものである。霊帝が位を授けられるに当たり、徳によって進めたのではなく、貪欲で愚かな者が昇進し、清く賢い者は罷免された。槐が逆さまに植わったのは、まさにこのためではなかろうか?」)

中平元年の夏、東郡、陳留の済陽・長桓、済陰の冤句・離狐の県境(『風俗通』に曰く、「西は城皇・陽武の城郭の路傍にまで及んだ。」)に草が生え、その茎が重なり合って腫れ上がり、指のようであり、鳩・雀・龍・蛇・鳥・獣の形に似て、五色がそれぞれその形の通りであり、毛・羽・頭・目・足・翅が全て備わっていた。(『風俗通』に曰く、「また人の形も作り、兵弩を操り持っており、万々備わっており、ただ似ているだけでなく、まるで本当に熟練しているかのようであった。」)これは草の妖に近い。この年、黄巾賊が初めて起こった。皇后の兄の何進と、異父兄の朱苗は、ともに将軍となり、兵を率いた。後に朱苗は済陰侯に封ぜられ、何進と朱苗は遂に威権を握り、国柄を専らにし、漢は微弱となり、ここから始まったのである。(応劭が言うには、「関東の義兵は先ず宋・衛の郊外で起こり、東郡太守の橋瑁は衆を負って乱に依り、同盟を陵蔑し、同類を忿み嫉み、その命を落とした。陳留・済陰は迎えて助けたが、離徳であると言われ、友好を棄てて戦いに就き、吏民は殲滅された。草の妖の興りは、もしかすると信じられないことではあるまい!」)

中平年間、長安城の西北六七里の空の木の中に、人の顔に鬢が生えていた。(『魏志』に曰く、「建安二十五年正月、曹公(曹操)が洛陽におり、建始殿を建て、濯龍樹を伐ると血が出た。また梨の木を掘り起こして移すと、根を傷つけて血が出た。曹公はこれを嫌い、遂に病に臥し、この月に薨去した。」)

献帝の興平元年九月、桑の木が再び桑の実(椹)を生じ、食べることができた。(臣の昭が言う:桑が再び実を生じたのは、確かに木の異変であるが、必ずや民を救うものであり、どうして瑞祥でないと言えようか?当時は蒼生が死に敗れ、周・秦の地は殲滅し尽くされ、餓えた魂や鬼は数え切れず、この重なった実を食し、危うい命を大いに救ったのであり、たとえ連理や付枝であっても及ばない。もしこれを怪異と考えるなら、建武年間に野穀が旅生し、麻や菽が特に盛んになったのも、また草の妖であろうか?)

安帝の延光三年二月戊子、五色の大鳥が済南台に集まり、十月、また新豊に集まった。当時はこれを鳳凰と見なした。ある者は、鳳凰は陽明の応であるから、明主でなければ隠れて現れないと考えた。およそ五色の大鳥で鳳凰に似ているものは、多くが羽虫のわざわいである。この時、安帝は中常侍の樊豊・江京・乳母の王聖および外戚の耿宝らの讒言を信じ、太尉の楊震を免官し、太子を廃して済陰王とした。これは不徳の異変である。章帝の末年に、鳳凰が百四十九回出現したと号した。当時、直臣の何敞はこれを羽の孽、鳳凰に似たものと考え、殿屋を翱翔するのを詳しく調べなかった。(臣の昭が言う:これは既に何敞伝で論じた。)記録者はその後章帝が崩御したことを以て、そのしるしとしている。案ずるに、宣帝・明帝の時、五色の鳥が群れをなして殿屋を翔り、賈逵はこれを胡の降伏の兆しと考えた。帝は善政が多く、たとえ過ちがあっても衰え欠けるほどではなかった。末年には胡が二十万口降伏した。これがその験である。安帝の時は、羌胡が外で叛き、讒慝ざんとくが内で興り、羽の孽の時であった。『楽叶図征』は五鳳は皆五色であり、瑞祥となるものは一つ、孽となるものは四つであると説く。(『協図徴』に曰く、「鳳に似たものに四つあり、いずれも妖である:一つは鷫鸘しゅくそうで、鳩の嘴、丸い目、身は義を帯び信を戴き礼をけ仁をけて智を負う。至れば旱魃と労役の感応である;二つは発明で、烏の嘴、大きな首、大きな翼、大きな脛、身は仁を帯び智を戴き義を嬰け信を膺けて礼を負う。至れば喪の感応である;三つは焦明で、長い嘴、広い翼、丸い尾、身は義を帯び信を戴き仁を嬰け智を膺けて礼を負う。至れば水の感応である;四つは幽昌で、とがった目、小さな頭、大きな体、細い足、脛は鱗や葉のよう、身は智を帯び信を戴き礼を負って仁を膺ける。至れば旱魃の感応である。」『国語』に曰く、「周の興りし時、鸑鷟がくさくが岐山で鳴いた。」『説文』に曰く、「五方の神鳥:東方は発明、南方は焦明、西方は鷫鸘、北方は幽昌、中央は鳳皇。」)

桓帝の元嘉元年十一月、五色の大鳥が済陰の己氏で見られた。当時はこれを鳳凰と見なした。この時の政治は衰え欠け、梁冀が政権を握って不正を行い、上(皇帝)は毫后を寵愛した。これらは皆、羽の孽の時である。(臣の昭が案ずるに:魏朗の対策に、桓帝の時に雉が太常・宗正の府に入った。魏朗の説は本伝の注に見える。)

霊帝の光和四年秋、五色の大鳥が新城で見られ、多くの鳥がそれに従った。当時はこれを鳳凰と見なした。この時、霊帝は政事を顧みず、常侍・黄門が権力を専らにした。これが羽の孽の時である。多くの鳥の性質として、非常に斑駁まだらなものを見ると、好んで集まって観るものであり、小さな雀がめったに見ない梟でさえ、突然現れるとやはり集まるのである。

中平三年(186年)八月の中頃、懐陵の上に一万余りの雀がおり、まず非常に悲しげに鳴いた後、乱闘して互いに殺し合い、皆首を切られ、木の枝や枳や棘に懸けられた。六年(189年)に至り、霊帝が崩御し、大将軍何進は内寵と外嬖(寵愛する者)が長年にわたり悪を積んでいるとして、ことごとく糾弾し罷免し、更始の冗政を盛んにしようとしたが、太后が疑いを抱き、事は長く決断されなかった。何進は宮中から出て、省内で殺害された。これにより、役人が掃討し殺戮し、後に禄を受け尊く厚遇された者は一人も残らなかった。陵とは、高大な象徴である。天の戒めはこう言うようだ。爵禄を懐き尊く厚遇された者たちは、やがて互いに害し合って滅亡に至る、と。

桓帝の建和三年(149年)秋七月、北地で廉(廉は「かど」の意か、あるいは地名の一部か)に肉のような雨が降り、羊の肋骨に似ており、あるものは手の大きさほどであった。これは赤い祥(凶兆)に近いものである。この時、梁太后が摂政し、兄の梁冀が権力を専断し、無実の罪で漢の良臣である故太尉李固と杜喬を誅殺し、天下はこれを冤罪とした。その後、梁氏は誅滅された。

校勘記

三二九一頁 五行 厥咎舒 按:集解が引く恵棟の説によると、「舒」は一説に「荼」と作るとある。

三二九三頁一一行 漢陽(河)〔阿〕陽城中失火 集解が引く銭大昕の説に基づき改めた。

三二九三頁一三行 司空周章等心不(掩)〔厭〕服 汲本、殿本に基づき改めた。

三二九四頁 五行 燒兵物百(一)〔二〕十五種 汲本、殿本に基づき改め、聚珍版東観記と合致する。

三二九四頁一五行 永和元年十月丁未 按:校補は紀が「丁亥」と作ると言う。

三二九五頁一三行 先是亳后因賤人得幸 按:集解が引く銭大昕の説によると、桓帝の鄧皇后は初め梁氏を冒姓し、帝が梁氏を憎んだため、姓を薄に改めた。しかし李雲伝には「掖庭の民女亳氏を立てて皇后とする」と云い、この志も「亳后」と云う。古文では亳と薄は通じるからである。

三二九五頁一三行 愛寵隆崇 按:校補は文を案ずるに「愛」は「爵」であるべきだと言う。

三二九六頁 六行 諸(官)〔宮〕寺或一日再三發 汲本、殿本に基づき改めた。

三二九六頁 六行 陳蕃劉(智)〔矩劉〕茂上疏諫 按:当時、劉智茂という人物はいない。集解が引く恵棟の説によると、劉矩、劉茂であるべきだという。矩は司徒しと、茂は司空であり、陳蕃は当時太尉であった。これに基づき改めた。

三二九六頁一五行 永樂太后宮署火 按:校補は本書霊紀が「火」を「災」と作ると言い、章懐注が引く志も「災」と作るので、これが「火」と作るのは誤りかも知れないと言う。

三二九七頁 一行 中平二年二月己酉南宮雲臺災庚戌樂(城)〔成〕門災 按:本書霊紀は「二月己酉、南宮大災」と記す。章懐注が引く志は「時に霊臺殿、楽成殿を焼く」と云う。何焯はこの「雲臺」は「霊臺」であるべきだと考える。恵棟は御覧八百三十三巻が正に「霊臺」と作ると言う。校補は、霊臺は北郊にあり、南宮雲臺とは関係がなく、紀注が引く続志の文に誤りがあり、御覧の文字は転写の誤りが多く、さらに証拠とするに足りないと言う。ただ「楽城」の「城」は、章懐注に従い「成」と作るべきである。志注は既に南宮中門と明言しており、紀注は楽成殿としているのは、門が殿に付属するからで、殿と言うことで、これが宮中の門であり城門でないことが分かる。あるいは紀注の「殿」の下に元々「門」の字があり、転写で脱落したのであろう。これに基づき改めた。

三二九七頁 一行 延及北闕〔度〕道西燒嘉德和歡殿 集解が引く恵棟の説によると、「闕」の下に御覧は「度」の字がある。按:霊紀章懐注が引くものにも「度」の字がある。これに基づき補った。

三二九八頁十一行(一)〔八〕瓜同蔕 集解が惠棟の説を引用し、符瑞志に「東平陵に瓜が異なる場所で共生し、八つの瓜が同じ蔕についている」とあるという。〔「一」は「八」とすべきである〕。今これに拠って改める。

三二九九頁十一行 皇后の兄何進の異父兄朱苗はいずれも将軍となった 按:集解が錢大昕の説を引用し、霊帝紀及び何后紀はいずれも何苗と称し、苗が本来朱姓であったことは、ここにのみ見えるという。ここでは異父兄と称し、前の巻では同母弟と称しているのも、少し異なる。

三三00頁 二行 また梨を掘り起こして移植した 按:「徙」は原本「徒」と誤っているので、直接に改正する。

三三00頁十二行 (爾)〔是〕其の驗なり 汲本、殿本に拠って改める。

三三0一頁 二行 大翼 原本は「翼大」、汲本、殿本に拠って直接に乙正する。

三三0一頁十四行 後祿にして尊厚なる者は餘り無し 按:校補は下文に拠れば、「後」は「懷」とすべきであるという。