後漢書

志第十一

天文中 明帝十二件、章帝五件、和帝三十三件、殤帝一件、安帝四十六件、順帝二十三件、質帝三件

 

明帝十二件

孝明帝永平元年四月丁酉、流星が斗のように大きく、天市楼から起こり、西南へ行き、光が地を照らした。流星は外兵を表し、西南へ行くのは西南夷を表す。この時、益州が兵を発して姑復の蛮夷大牟替滅陵を撃ち、首を斬って雒陽に伝送した。

三年六月丁卯、彗星すいせいが天船の北から出て、長さ二尺ほどで、やや北へ行き亢宿の南に至った。百三十五日で去った。天船は水を表し、彗星が出るのは大水の兆しである。この年、伊水・洛水が溢れ、津城門に至り、伊橋を壊した。七郡、三十二県がみな大水に見舞われた。

四年八月辛酉、客星が梗河の西北から出て、貫索を指し、七十日で去った。梗河は胡兵を表す。五年十一月に至り、北匈奴の七千騎が五原塞に入り、十二月にはまた雲中に入り、原陽に至った。貫索は貴人の牢獄を表す。その十二月、陵郷侯梁松が怨望の罪に坐し、匿名の文書を飛ばして朝廷を誹謗したとして、獄に下され死に、妻子家族は九真に流された。

七年正月戊子、流星が杯のように大きく、織女から西へ行き、光が地を照らした。織女は天の真女であり、流星が出るのは女主の憂いを表す。その月癸卯、光烈皇后が崩御した。

八年六月壬午、長星が柳宿・張宿の三十七度から出て、軒轅を犯し、天船を刺し、太微を陵し、気が上階に至り、凡そ五十六日間現れて去った。柳宿は周の地を表す。この年、雨水が多く、十四郡が農作物に被害を受けた。

九年正月戊申、客星が牽牛から出て、長さ八尺で、建星を経て房宿の南で消滅した。

見え始めて五十日経った。〈郗萌の占いによると、「客星が房宿に留まると、左右の群臣の中に毒薬を飲んで死ぬ者がいる」という。また「土地を奪われる」と占う。〉

牽牛星は呉・越を主とし、房宿・心宿は宋を主とする。後に広陵王の劉荊と沈涼、楚王の劉英と顔忠がそれぞれ謀反を企て、事が発覚し、皆自殺した。広陵は呉に属し、彭城は古代の宋の地である。〈古今注に「十年七月甲寅、月が歳星を犯した。十一年六月壬辰、火星が土星を犯した」とある。〉

十三年閏月丁亥、火星が輿鬼を犯した。これは大喪を意味し、質星は大臣が誅殺されることを示す。〈晋灼が「鬼宿の五星のうち、白いものが質である」という。〉

その十二月、楚王の劉英と顔忠らが妖書を作って謀反を企て、事が発覚し、劉英は自殺し、顔忠らは皆誅殺された。〈古今注に「十一月、客星が軒轅を出て四十八日間現れた。十二月戊午、月が木星を犯した」とある。〉

十四年正月戊子、客星が昴宿から現れ、六十日間、軒轅の右角に留まり次第に消えた。昴宿は辺境の兵を主る。一年後、漢は奉車都尉・顕親侯の竇固、駙馬都尉の耿秉、騎都尉の耿忠、開陽城門候の秦彭、太僕の祭肜を派遣し、兵を率いて匈奴を撃った。一説に、軒轅の右角は貴相を表し、昴宿は獄事を表し、客星がこれを守ると大獄が起こる。この時、楚王の事件の取り調べが終わっておらず、うかが徒の虞延が楚王劉英の一味の黄初・公孫弘らと内通していたことが発覚し、皆自殺した。ある者は獄に下されて誅殺された。

十五年十一月乙丑、太白(金星)が月の中に入った。これは大将が誅殺され、君主が亡くなる兆しで、三年以内に起こる。三年後、孝明帝が崩御した。

十六年正月丁丑、歳星が房宿の右驂を犯し、北の第一星が見えなくなったが、辛巳になってようやく見えた。〈石氏星経に「歳星が房宿を守ると、良馬が厩から出る」とある。古今注に「正月丁未、月が房宿を犯した」とある。〉

。房宿の右驂は貴臣を表し、歳星がこれを犯すと誅殺される。その後、司徒の邢穆が、阜陵王の劉延と内通し謀反の計画を知りながら黙っていた罪で、自殺した。

四月癸未、太白が畢宿を犯した。畢宿は辺境の兵を表す。後に北匈奴が辺境を侵し、雲中に入り、漁陽に至った。使者の高弘が三郡の兵を発して追討したが、何も得られなかった。太僕の祭肜が進軍しなかった罪で獄に下された。

十八年六月己未、彗星が張宿から現れ、長さ三尺、転じて郎将の星域に至り、南に入って太微垣に入った。これらは皆張宿に属する。張宿は周の地で、東都を表す。太微垣は天子の朝廷である。彗星がこれを犯すと兵乱と喪が起こる。その八月壬子、孝明帝が崩御した。

第五章

孝章帝

建初元年

、正月丁巳、太白が昴宿の西一尺のところにある。八月庚寅、彗星が天市垣から現れ、長さ二尺ほどで、次第に運行して牽牛宿の三度に入り、四十日間たって次第に消えた。太白が昴宿にあるのは辺境の兵乱、彗星が天市垣から出るのは外国の軍、牽牛宿は呉・越を表す。この時、蛮夷の陳縦らおよび哀牢王の類牢が反乱し、巂唐城を攻めた。永昌太守の王尋は逃げて楪榆に奔り、安夷長の宋延は羌に殺された。武威太守の傅育を護羌校尉に任じ、馬防を行車騎将軍として西羌を征討させた。また、阜陵王の劉延が子の劉魴と謀反を企て、大逆無道の罪に当たったが、誅殺を免れ、侯に降格された。

二年九月(古今注に「甲申、金が斗魁に入る」とある)。

甲寅、流星が紫宮中を過ぎ、長さ数丈、三つに散じて消えた。十二月戊寅、彗星が婁宿三度に出て、長さ八九尺、次第に紫宮中に入り、百六日で次第に消えた。流星が過ぎて紫宮に入るのは、いずれも大人の忌み事である。四年後の六月癸丑、明徳皇后が崩御した。

元和二年

四月丁巳、客星が朝に東方に出て、胃宿八度にあり、長さ三尺、閣道を経て紫宮に入り、四十日留まって消えた。閣道・紫宮は天子の宮である。客星が犯入して長く留まるのは大喪の兆しである。四年後、孝章帝が崩御した。

和三十三

孝和

永元元年

正月辛卯、流星が参宿から起こり、長さ四丈、

光があり、色は黄白。

二月、流星が天棓から起こり、東北へ三丈ほど行って消え、色は青白。壬申の夜、流星が太微東蕃から起こり、長さ三丈。三月、

丙辰、流星が天津から起こる(古今注に「星は桃の如く大、天津から起こり、東へ斗宿に至り、黄白頻りに光あり」とある)。

壬戌、流星が天将軍から起こり、東北へ行く(古今注に「色黄、光なし」とある)。

参宿は辺境の兵事、天棓は兵事、太微は天廷、天津は水害、天将軍は兵事を司り、流星がそこから起こるのは皆兵事の兆しである。その六月、漢は車騎将軍竇憲・執金吾耿秉と度遼将軍鄧鴻を遣わし朔方から出撃し、共に進軍して私渠北鞮海に臨み、虜の首級一万余を斬り、生口・牛・馬・羊百万頭を獲た。日逐王ら八十一部が降伏し、凡そ三十余万人。単于を西海まで追撃した。この年七月、また雨水が人民を漂わせたのは、その応である(古今注に「十一月壬申、鎮星が東井にある」とある。石氏は「天下に水あり、その大いに出で、流れて人を殺す」という)。

二年正月乙卯、金星・木星が共に奎宿にある。丙寅、水星もまた奎宿にある(巫咸は「辰星が奎を守れば、水火の災多く、また旱魃となる」という。古今注に「土星が東井にある」とある)。

奎宿は武庫の兵を主り、三つの星が会するのもまた兵喪の兆しである。辛未、水星・金星・木星が婁宿にあるのも兵事の兆し、また陰謀の兆しである(郗萌は「辰星が婁を守れば、兵あれば兵罷み、兵なければ兵起こる」という。巫咸・石氏は「火災多し」という。古今注に「丙寅、水星は奎に、土星は東井に、金星は婁に、木星・火星は昴にある」とある)。

二月丁酉の日、桃ほどの大きさの流星が紫宮の東蕃から起こり、西北へ五丈ほど進んで次第に消えた。

四月丙辰の日、瓜ほどの大きさの流星が文昌の東北から起こり、西南へ少微の西まで進んで消えた。しばらくして、音が雷のようであった。その後、金星が軒轅大星の東北二尺ほどの所にあった。

八月丁未の日、鶏卵ほどの流星が太微の西から起こり、東南へ四丈ほど進んで消えた。十月癸未の日、桃ほどの大きさの流星が天津から起こり、西へ六丈ほど進んで消えた。十一月辛酉の日、拳ほどの大きさの流星が紫宮から起こり、西へ進んで胃宿で消えた。

三年九月丁卯の日、鶏卵ほどの大きさの流星が紫宮から起こり、西南へ北斗の柄の間まで進んで消えた。

紫宮は天子の宮、文昌と少微は貴臣、天津は水を司り、北斗は殺伐を司る。流星が起こり、紫宮、文昌、少微、天津を経た。文昌は天子の使者であり、出現すると誅伐の兵事がある。竇憲が大将軍となり、憲の弟の竇篤、竇景らは皆、卿や校尉となった。憲の妹婿の郭挙は侍中・射声校尉となり、衛尉の鄧叠の母の元と共に宮中に出入りし、不軌を謀った。四年六月丙辰の日に発覚し、和帝は北宮に行幸し、執金吾と五校に詔して兵を率いさせ南北宮に駐屯させ、城門を閉ざし、郭挙を捕らえた。挙の父の長楽少府の郭璜および鄧叠、叠の弟の歩兵校尉の鄧磊、母の元は皆、獄に下されて誅殺された。憲の弟の篤、景らは皆、自殺した。金星が軒轅を犯したのは、女主が勢力を失う兆しである。竇氏が誅殺され、太后が勢力を失った。

五年

四月癸巳の日、太白星、熒惑星、辰星が共に東井宿にあった。

七月壬午の日、歳星が軒轅大星を犯した。九月、金星が南斗の魁の中にあった。

火星が房宿の北の第一星を犯した。東井宿は秦の地であり、法を司る。三つの星が合することは、内外に兵事があり、また法令および水害があることを意味する。金星が斗の口の中に入ることは、大将が死ぬことを意味する。火星が房宿の北の第一星を犯すことは、将相に関することを意味する。その六年正月、司徒の丁鴻が薨去した。

七月に水害があり、大いに人民を溺死させ、五穀を損なった。許侯の馬光は罪があり自殺した。九月、行車騎将軍事の鄧鴻、越騎校尉の馮柱が左右羽林、北軍五校の兵士および八郡の跡射、烏桓、鮮卑を発し、合わせて四万騎とし、度遼将軍の朱徽、護烏桓校尉の任尚、中郎将の杜崇と共に叛いた胡を征討した。十二月、車騎将軍の鄧鴻は敵を追撃して失敗した罪により、獄に下されて死んだ。度遼将軍の朱徽、中郎将の杜崇は皆、罪に当たった。

七年正月丁未の日、流星が天津から起こり、紫宮の中に入って消えた。色は青黄で、光があった。二月癸酉の日、金星と火星が共に参宿にあった。

戊寅の日、金星と火星が共に東井宿にあった。

八月甲寅の日、水星、土星、金星が共に軫宿にあった。

十一月甲戌の日、金星と火星が共に心宿にあった。

十二月己卯の日、流星が文昌から起こり、紫宮に入って消えた。丙辰の日、火星、金星、水星が共に斗宿にあった。流星が紫宮に入り、金星と火星が心宿にあることは、皆、大喪を意味する。三つの星が軫宿で合することは、白衣の会(喪の集い)を意味する。金星と火星が共に参宿、東井宿にあることは、皆、外の兵事があり、将が死ぬことを意味する。三つの星が共に斗宿にあることは、将が誅殺されるか、あるいは宰相が死ぬことを意味する。八年四月に楽成王の劉黨が、七月に楽成王の劉宗が共に薨去した。将兵長史の呉棽は事に坐して征され、獄に下されて誅殺された。

十月、北海王の劉威が自殺した。十二月、陳王の劉羡が薨去した。その九年の閏月、皇太后の竇氏が崩御した。遼東の鮮卑が反乱を起こし、太守の祭参が敵を追撃せず、召還されて獄に下され誅殺された。九月、司徒の劉方が事に坐して官を免ぜられ、自殺した。隴西の羌が反乱を起こし、執金吾の劉尚を行征西将軍事として派遣し、越騎校尉・節郷侯の趙世に北軍五校、黎陽、雍営および辺境の胡兵三万騎を発動させ、西羌を征討させた。

十一年五月丙午、流星が瓜のようで大きく、氐宿から起こり、西南へ進み、やや光があり、白色であった。

占いによると、「流星が白いのは使者・賓客あり、大きいのは大使、小さいのも小使。速ければ時期が早く、遅ければ時期も遅い。瓜のようで大きいのは近いことであり、小さいものが進みやや光るのは遅いことである。また正王の日に、辺境に王命を受ける者あり」という。翌年二月、蜀郡の旄牛徼外の夷である白狼楼薄種の王唐縢らが種族の人口十七万を率いて帰義し内属し、金印紫綬・銭帛を賜った。

十二年十一月癸酉の夜、蒼白の気があり、長さ三丈、天園から起こり、東北へ軍市を指し、十日間現れた。占いによると、「兵が起こり、十日で一年の期となる」という。翌年十一月、遼東の鮮卑二千余騎が右北平を寇掠した。

十三年。

十一月乙丑、軒轅の第四星の間に小客星があり、色は青黄であった。軒轅は後宮を表し、星が出るのは失勢を意味する。その十四年六月辛卯、陰皇后が廃された。

十六年四月丁未、紫宮の中に白気が生じ、粉綿のようであった。戊午、客星が紫宮から出て西へ昴宿まで行き、五月壬申に消滅した。七月庚午、水星が輿鬼の中にある。

十月辛亥、流星が鈎陳から起こり、北へ三丈進み、光があり、色は黄であった。白気が紫宮の中に生じるのは喪を意味する。客星が紫宮から西へ昴宿まで行くのは趙を意味する。輿鬼は死喪を意味する。鈎陳は皇后を表し、流星が出るのは中使を意味する。一年後、元興元年十二月、和帝が崩御し、殤帝が即位して一年でまた崩御し、後嗣がなく、鄧太后が使者を遣わして清河孝王の子を迎えて即位させた。これが孝安皇帝であり、これがその応である。清河は趙の地である。

元興元年。

二月庚辰、流星が角宿・亢宿から五丈ほど起こった。四月辛亥、流星が斗宿から起こり、東北へ須女宿まで行った。七月己巳、流星が天市から五丈ほど起こり、光色は赤であった。閏月辛亥、水星と金星がともに氐宿にある。

流星が斗宿から起こり、東北へ須女宿まで行った。須女は燕の地である。天市は外軍を表す。水星と金星が会うのは兵誅を意味する。その年、遼東の貊人が反乱し、六県を掠奪し、上谷、漁陽、右北平、遼西の烏桓を発動してこれを討った。

殤帝紀第一。

孝殤帝。

延平元年。

正月丁酉、金星と火星が婁宿にある。金星と火星が合うのは烁(火災)を意味し、大人の憂いである。

この年の八月辛亥の日、孝殤帝が崩御した。

安帝四十六年

孝安帝

永初元年

五月戊寅の日、熒惑星が逆行し、心宿の前星を守った。〈韓楊の占いによれば、「火災が多い。あるいは地震が起こる」という。この年、十八の郡で地震が起こり、翌年には漢陽で火災があったことを検証する。〉

八月戊申の日、客星が東井宿と弧星の西南に現れた。心宿は天子の明堂であり、熒惑星が逆行してこれを守るのは、反逆する臣下の兆しである。〈雒書に「熒惑が心宿を守れば、逆臣が起こる」とある。黃帝占に「逆行して心宿を守ること二十日、大臣に乱れあり」とある。〉

客星が東井宿にあるのは、大水の兆しである。〈荊州經に「客星が東井宿を干犯すれば、大臣が誅殺される」とある。〉

この時、安帝はまだ臨朝しておらず、鄧太后が摂政し、鄧騭が車騎將軍となり、弟の弘、悝、閶はいずれも校尉として侯に封ぜられ、国勢を掌握していた。司空の周章は心中穏やかでなく、王尊、叔元茂らと謀り、宮門を閉ざし、將軍兄弟を捕らえ、常侍の鄭衆、蔡倫を誅殺し、尚書を脅迫し、皇太后を廃し、皇帝を遠国王に封じようとした。事が発覚し、章は自殺した。東井宿、弧星はいずれも秦の地である。この時、羌が反乱し、隴道を断った。漢は騭を遣わし、左右羽林、北軍五校および諸郡の兵を率いてこれを征討させた。この年、四十一の郡国、三百十五の県で雨水があり、四瀆が氾濫し、秋の作物を損ない、城郭を壊し、人民を殺害した。これがその応である。

二年正月戊子の日、太白星が昼間に現れた。〈古今注に「四月乙亥の日、月が南斗の魁中に入った。八月己亥の日、熒惑星が太微の端門を出入りした」とある。〉

三年正月庚戌の日、月が心宿の後星を犯した。〈河圖に「乱臣が傍らにいる」とある。〉

己亥の日、太白星が斗宿の中に入った。〈古今注に「三月壬寅の日、熒惑星が輿鬼宿の中に入った。五月丙寅の日、太白星が畢宿の中に入った」とある。石氏經に「太白星が畢宿を守れば、国は刑罰を多用する」とある。〉

十二月、彗星が天菀の南から起こり、東北を指し、長さ六七尺、色は蒼白であった。太白星が昼間に現れるのは、強力な臣下の兆しである。〈前志に「太白星が昼間に現れれば、強国は弱まり、小国は強くなり、女主が盛んになる」とある。〉

この時、鄧氏がまさに盛んであった。月が心宿の後星を犯すのは、子に不利である。心宿は宋に対応する。五月丁酉の日、沛王の劉正が薨去した。太白星が斗宿の中に入るのは、貴相に凶事がある兆しである。〈臣昭が案ずるに、楊厚が「諸王子の多くが京師におり、非常の事態が起こる可能性があるので、急いで本国に帰還させるべきである」と答えたところ、太后はこれに従い、星はまもなく消えて見えなくなった。これによって言えば、太白星が入った災いは、貴相にある。〉

天菀は外軍を表し、彗星がその南から出るのは外兵の兆しである。この後、羌、氐を遣わして賊の李貴を討伐させ、また烏桓を遣わして鮮卑を撃たせ、また中郎将の任尚、護羌校尉の馬賢を遣わして羌を撃たせ、いずれも降伏させた。

四年〈古今注に「二月丙寅の日、月が軒轅の大星を犯した」とある。〉

六月甲子の日、客星が李の実ほどの大きさで現れ、蒼白く、芒気の長さは二尺あり、西南の方角を指して上階星に向かった。癸酉の日、太白星が輿鬼に入った。上階星を指すのは三公の兆しである。後に太尉の張禹と司空の張敏はいずれも官を免ぜられた。太白星が輿鬼に入るのは将軍に凶事がある兆しである。後に中郎将の任尚が千万の贓物を収めた罪で檻車に乗せられて都に送られ、市で処刑された。

五年六月辛丑の日、太白星が昼間に現れ、天を経過した。

元初元年

三月癸酉の日、熒惑星が輿鬼に入った。

二年九月辛酉の日、熒惑星が輿鬼の中に入った。

三年三月、熒惑星が輿鬼の中に入った。五月丙寅の日、太白星が畢の口に入った。

七月甲寅の日、歳星が輿鬼に入った。閏月己未の日、太白星が太微左执法を犯した。十一月甲午の日、客星が西方に現れ、己亥の日には虚宿と危宿の間にあり、南は胃宿と昴宿に至った。

四年正月丙戌の日、歳星が輿鬼の中に留まった。

乙未の日、太白星が昼間に丙の上に現れた。四月壬戌の日、太白星が輿鬼の中に入った。

己巳の日、辰星が輿鬼の中に入った。

五月己卯の日、辰星が歳星を犯した。六月丙申の日、熒惑星が輿鬼の中に入り、戊戌の日、輿鬼の大星を犯した。九月辛巳の日、太白星が南斗の口の中に入った。

五年三月丙申の日、鎮星が東井の鉞星を犯した。五月庚午の日、辰星が輿鬼の質星を犯した。丙戌の日、太白星が鉞星を犯した。

六年四月癸丑の日、太白星が輿鬼に入った。

六月丙戌の日、熒惑星が輿鬼の中にあった。

丁卯の日、鎮星が輿鬼の中にあった。

辛巳の日、太白星が左執法を犯した。

永初五年から

永寧までの十年の間に、太白星は一度昼間に経天し、二度輿鬼に入り、一度畢を守り、二度左執法を犯し、南斗に入り、鉞星を犯した。熒惑星は五度輿鬼に入った。鎮星は一度東井の鉞星を犯し、一度輿鬼に入った。歳星と辰星は二度輿鬼に入った。五星がすべて輿鬼の中に入ることは、いずれも死喪の兆しである。熒惑星と太白星が特に鉞星や質星を犯すことは誅戮の兆しである。斗は貴将を表す。執法は近臣を表す。客星が虚と危にあるのは喪の兆し、哭泣の兆しである。〈星占いでは「一年以内、遠くても二年以内」という。〉

昴と畢は辺境の兵事を表し、また獄事も表す。

建光元年

三月癸巳に鄧太后が崩御し、五月庚辰に太后の兄である車騎将軍鄧騭ら七侯が皆免官され、自殺した。これがその応である。

延光二年〈古今注に「元年四月丙午、太白星が昼間に現れた」とある。〉

八月己亥に熒惑星が太微の端門から出た。三年二月辛未に太白星が昴を犯した。〈石氏の星占いでは「太白星が昴を守ると、兵が門闕から入り、主人が逃げる」という。郗萌は「亡国がなければ、必ず謀主がいる」と言い、また「昴に入ると大赦がある」とも言う。〉

五月癸丑に太白星が畢に入った。〈郗萌は「太白星が畢の口に入ると、馬が駆け、人が走る」と言い、また「中喪がある」とも言う。〉

九月壬寅に鎮星が左執法を犯した。四年に太白星が輿鬼の中に入った。〈古今注に「四月甲辰に入った」とある。〉

六月壬辰に太白星が太微から出た。九月甲子に太白星が斗の口の中に入った。十一月に客星が天市に現れた。熒惑星が太微から出るのは乱臣の兆しである。太白星が昴と畢を犯すのは辺境の兵事の兆し、あるいは大人がこれに当たる。鎮星が左執法を犯すのは誅される臣の兆しである。太白星が輿鬼の中に入るのは大喪の兆しである。太白星が太微から出るのは中宮に兵事がある兆し、斗の口に入るのは貴将相に誅される者がいる兆しである。客星が天市中に現れるのは貴喪の兆しである。この時、大将軍耿宝、中常侍江京、樊豊、小黄門劉安と阿母王聖、聖子の王永らが共に太子劉保を讒言し、また太子の乳母の男、厨監の邴吉を憎んだ。三年九月丁酉に太子を廃して済陰王とし、北郷侯劉懿を代わりに立てた。男と吉を殺し、その父母妻子を日南に流した。四年三月丁卯に安帝が巡狩し、南陽から帰還する途中で病気になり、葉に至って崩御した。閻后と兄の衛尉閻顕、中常侍江京らは共にこれを隠し、群臣に皇帝の崩御を知らせず、司徒劉喜らを派遣して郊廟に分詣し、天に命を請い、北宮に載せて入った。庚午の夕方に発喪し、閻氏を太后と尊んだ。北郷侯劉懿が病没すると、江京らはまた劉保を立てることを望まず、太后に白上し、さらに諸王子を徴して立つ者を選ばせた。中黄門孫程、王国、王康ら十九人が共に謀を合わせて閻顕、江京らを誅し、劉保を天子に立てた。これが孝順皇帝である。皆、奸人や強臣が王室を狂乱させ、その死亡誅戮、兵が宮中から起こることは、これがその応である。〈古今注に「永建元年二月甲午、客星が太微に入った。五月甲子、月が斗に入った」とある。李氏家書に「当時天に変気があり、李郃が上書して諫めて言った。『臣は聞く、天は言わず、象を懸けて吉凶を示し、災異を挺えて譴誡とする。昔、斉の桓公は虹が牛・斗を貫く変に遭い、管仲の謀を納れ、斉に婦を去らせ、妃宮に近づかせなかった。桓公が聴用したので、斉は大いに安んじた。趙に尹史がおり、月が歯を生じ、畢の大星を齕むのを見て、兵変があると占った。趙の君は「天下は畢を一つに共にする。どの国のことか知るか」と言い、史を獄に下した。その後、公子牙が君を弑そうと謀り、血書が端門にあった。史の言った通りであった。そして月の十三日、客星の気象が彗孛のようで、天市、梗河、招搖、槍、棓を歴て、十六日に紫宮に入り、北辰に迫り、十七日に再び文昌、泰陵を過ぎ、天船、積水の間まで至り、やや見えなくなった。客星の一つの占いでは「魯星が天市を歴るのは穀物が貴いこと、梗河の三星は非常を備えること、泰陵の八星は凶喪、紫宮と北辰は至尊」という。占いの通りなら、恐らく宮廬の内に兵喪の変があり、千里の外に非常な暴逆の憂いがある。魯星は尊宿を過ぎて歴ることはできず、行度が疾く、応は一端ではない。恐らくまた王阿母母子のような賤妾が帝の傍に居て政事を耗乱させようとする者がいるであろう。誠にこれがあるならば、宜しく抑えて遠ざけ、財をもって足らしめるべきである。王者の権柄と爵禄は、人天の重んじ慎むところであり、誠に阿妾の干渉すべきところではない。天が故に変を挺げ、明らかに人に示す。慎んで承けなければ、禍が至って変じ成り、悔いても及ばない。』」とある。〉

順帝の二十三番目の年。

孝順皇帝。

永建二年

二月癸未、太白星が三十九日間昼間に現れた。〈古今注に「丁巳、月が心を犯し、七月丁酉、昴を犯した」とある。〉

閏月乙酉の日、太白星が昼間に東南維の方向に四十一日間現れた。八月乙巳の日、熒惑星が輿鬼に入った。太白星が昼間に現れるのは強臣の兆しである。熒惑星は凶事を、輿鬼は死喪を、質星は誅戮を象徴する。この時、中常侍の高梵・張防、将作大匠の翟酺、尚書令の高堂芝、仆射の張敦、尚書の尹就、郎の姜述・楊鳳ら、および兗州刺史の鮑就、使匈奴中郎将の張国、金城太守の張篤、敦煌太守の張郎が互いに交際し、機密を漏洩した。鮑就と姜述は市で斬首に処せられ、高梵・張防・翟酺・高堂芝・張敦・楊鳳・鮑就・張国は皆、罪に当たる罰を受けた。また、定遠侯の班始は陰城公主の堅得を娶っていたが、争いの末に堅得を殺害し、腰斬の刑に処せられて馬市で斬られ、兄弟も皆、市で斬首に処せられた。

六年四月、熒惑星が太微の中に入り、左・右の执法の西北方約六寸のところを犯した。十月乙卯の日、太白星が昼間に現れた。十二月壬申の日、客星の芒気が長さ二尺余りで、西南を指し、色は蒼白で、牽牛宿の六度の位置にあった。客星の芒気が白いのは兵乱の兆しである。牽牛は呉・越の地を象徴する。その一年後、会稽の海賊である曾於ら千余人が句章を焼き、長吏を殺し、さらに鄞・鄮の長を殺し、官兵の武器を奪い、吏民を拘束・殺害し、東部都尉を攻撃した。揚州六郡の逆賊である章何らが将軍を称し、四十九県を侵犯し、大いに吏民を攻略した。

陽嘉元年

閏月戊子の日、

客星の気が白く、幅二尺、長さ五丈で、天菀の西南から起こった。これは馬・牛を司り、外軍を象徴し、色が白いのは兵乱の兆しである。この時、敦煌太守の徐白が疏勒王の盤らに兵二万人を率いさせて于窴の境界内に入らせ、略奪し、三百余級の首を斬った。烏桓校尉の耿曄が烏桓親漢都尉の戎末瘣らに命じて塞外に出て鮮卑を襲撃させ、首を斬り、生口や財物を獲得した。鮮卑は怨恨を抱き、遼東・代郡を襲撃し、吏民を殺傷した。この後、西戎・北狄が寇害となり、馬・牛を原因として兵乱が起こり、馬・牛もまた兵乱の中で死傷し、十余年後にようやく収まった。

永和二年

五月戊申の日、太白星が昼間に現れた。八月庚子の日、熒惑星が南斗を犯した。斗は呉を象徴する。

翌年五月、呉郡太守で丞の事務を代行していた羊珍が、越兵の弟である叶、吏民の呉銅ら二百余人と共に兵を起こして反乱し、吏民を殺し、官亭や民家を焼き、太守府を攻撃した。太守の王衡が防戦し、吏兵が羊珍らを討ち取った。また、九江の賊である蔡伯流ら数百人が広陵・九江を攻撃し、城郭を焼き、江都長を殺害した。

三年二月辛巳の日、太白星が昼間に現れた。戊子の日、太白星は熒惑星の西南にあり、光芒が互いに犯し合った。辛丑の日、斗ほど大きな流星が西北から東へ流れ、長さは八九尺、色は赤黄で、雷のように隆隆と音がした。三月壬子の日、太白星が昼間に現れた。六月丙午の日、太白星が昼間に現れた。八月

乙卯の日、太白星が昼間に現れた。閏月甲寅の日、辰星が輿鬼に入った。己酉の日、熒惑星が太微に入った。乙卯の日、太白星が昼間に現れた。

太白星は将軍の星であり、また西州を象徴する。昼間に現れるのは陰が盛んで、君主と明るさを争う兆しである。熒惑星と太白星が互いに犯すのは、兵乱と喪失の兆しである。流星は使者であり、隆隆という音は怒りの象徴である。辰星が輿鬼に入るのは、大臣に死者が出る兆しである。熒惑星が太微に入るのは、乱臣が朝廷の中にいる兆しである。この時、大将軍の梁商父子が権勢を握っていたため、太白星が常に昼間に現れたのである。その四年正月、南郊で祭祀が行われ、夕牲の儀式の際、中常侍の張逵・蘧政・楊定、内者令の石光、尚方令の傅福らが中常侍の曹騰・孟賁と権力を争い、皇帝に曹騰・孟賁が梁商と謀反を企てていると訴えた。彼らは詔を偽って曹騰・孟賁を逮捕するよう命じたが、孟賁が自ら弁明し、順帝は悟って曹騰・孟賁の縄を解いた。張逵らは事が思い通りに進まないと知り、それぞれ逃走し、ある者は自ら刺し、貂蝉を解いて草むらに投げ捨てて逃亡し、皆、捕らえられずに済んだ。その六年、征西将軍の馬賢が北地の射姑山の下で西羌を撃ったが、父子ともに羌に殺害され、これがその応報である。

四年七月壬午の日、熒惑星が南斗に入り第三星を犯した。五年四月戊午の日、太白星が昼間に現れた。八月己酉の日、熒惑星が太微に入った。斗は貴相を象徴し、揚州を司る。熒惑星がこれに入り犯すのは、兵乱と喪失の兆しである。その六年、大将軍の梁商が薨去した。九江・丹陽の賊である周生・馬勉らが兵を起こして郡県を攻め陥とした。梁氏がまた天廷の中で権力を独占した。

六年二月丁巳の日、彗星が東方に現れ、長さ六七尺、色は青白で、西南の方角を指し、営室と墳墓里を指した。

丁丑の日、彗星は奎宿一度の位置にあり、長さ六尺であった。癸未の日、日暮れ時に現れ、

西北の方角へ昴宿・畢宿を経て進んだ。甲申の日、東井宿にあり、さらに輿鬼・柳宿・七星・張宿を経て進み、その光炎は三台にまで及び、軒轅の中まで進んで消滅した。

営室は天子の常宮である。墳墓は死を主る。彗星が起こって営室・墳墓に現れると、五年を出ずして天下に大喪がある。その後四年、孝順帝が崩御した。昴は辺境の兵事を表し、また趙を表す。羌の周馬父子はその後ついに寇となった。また劉文が清河の相である射暠を脅迫し、王蒜を立てて天子としようとしたが、暠が聞き入れなかったため、暠を殺害した。王は門を閉ざして劉文を防ぎ、官兵が劉文を捕らえて誅殺した。蒜は悪人に脅迫されたことを理由に、尉氏侯に廃され、さらに犍陽都郷侯に移され、薨去して国は絶えた。東井・輿鬼を経るのは秦を表し、いずれも羌が攻撃・略奪した。炎が三台に及ぶのは三公を表す。この時、太尉杜喬および前太尉李固が梁冀によって陥れられ、文書の罪で死んだ。注・張に至るのは周を表し、軒轅の中で滅びるのは後宮を表す。その後、懿献后が憂いで死に、梁氏が誅殺されたのは、これがその応である。

漢安二年(古今注に言う:「元年二月壬午、歳星が太微中にある。八月癸丑、月が南斗を犯し、魁中に入る。」)

正月己亥、太白が昼間に現れる。五月丁亥、辰星が輿鬼を犯す。(古今注に言う:「丙辰、月が斗中に入る。」)

六月乙丑、熒惑の光芒が鎮星を犯す。七月甲申、太白が昼間に現れる。辰星が輿鬼を犯すのは大喪である。熒惑が鎮星を犯すのは大人の忌みである。翌年八月、孝順帝が崩御し、孝冲(古今注に言う:「建康元年九月己亥、太白が昼間に現れる。」韓揚占いが言う:「天下に喪あり。一つには白衣の会あり。」)

翌年正月また崩御する。

質三

孝質

本初元年(古今注に言う:「〔二〕月丁丑、月が南斗に入る。」)

三月癸丑、熒惑が輿鬼に入る。四月辛巳、太白が輿鬼に入る。いずれも大喪である。五月庚戌、太白が熒惑を犯す。これは逆謀である。閏月一日、孝質帝が梁冀によって毒殺され、崩御する。

校勘記

三二二九頁 六行 閏九月辛未 按ずるに:この注は永平元年の下に繫がれているが、永平元年に閏はなく、この年の九月は乙卯朔で、辛未がある。「閏」のあざなは衍字であろう。

三二二九頁 七行 (陽)〔賜〕爵祿事 盧校が「陽」は「賜」の字の誤りであろうと言う。按ずるに:今の輯本開元占経は「賜」と作る。今これに拠って改める。

三二二九頁 八行 (百)〔見〕三十五日去 按ずるに:校補が錢大昭の説を引き、本紀の章懐注が引く伏侯古今注は「彗長三尺許、見三十五日乃去」と作るとする。この「百」の字は「見」と作るべきであろう。今これに拠って改める。

三二三0頁一三行 其十二月楚王英與顏忠等造作妖〔書〕謀反 盧校に拠って補う。按ずるに:集解が洪亮吉の説を引き、「十二月」は「十一月」と作るべきであると言う。

三二三一頁 九行 後北匈奴寇〔邊〕入雲中至(咸)〔漁〕陽 盧校に拠って補い改む。按ずるに:盧が「寇」の下に「邊」の字があるべきと言う。「咸」は「漁」と作るべきで、何焯が南匈奴伝によって校改した。

この時、蛮夷の陳縦らおよび哀牢王の類牢が反乱を起こした。

嶲唐城を攻撃した。

安夷長の宋延が。

二年九月。

の誤りである。

甲申の日に金星が斗魁に入った。

五年二月戊辰。

五月戊寅。

元和二年四月丁巳。

壬戌の日に流星が天将軍から現れた。

ともに進軍して私渠比鞮海に迫った。

四月丙辰。

兵があれば兵は収まり、兵がなければ兵が起こる。

丁丑の日に火星が氐宿の東南星の東南にあった。

竇憲の妹の婿である郭挙が侍中・射声校尉であった。

三二三四頁十一行、四年六月丙(寅)〔辰〕に発覚した。集解が洪亮吉の説を引いて、和帝紀に庚申に北宮に行幸し、憲の党を収捕する詔を下したとあるから、この志の「丙寅」は「丙辰」とすべきであると述べている。また、下の五行志を見ると、丙辰に地震があり、その五日後に憲を収捕する詔が出ている。丙辰から庚申はちょうど五日である。今これに拠って改める。

三二三四頁十四行、色白は(義)〔喪〕を言う。汲本・殿本に拠って改める。

三二三五頁三行、七月、大水が起こり人民を漂溺死させ、五穀を損傷した。許侯の馬光は罪があり自殺した。按ずるに、校補は本書の和帝紀を引いて、永元六年七月には旱魃はあっても水害はなく、五行志もこの年の七月の水害を載せていないと述べている。また、馬光の自殺は紀では二月に属しており、七月にはない。

三二三五頁四行、度遼将軍の朱徵と。按ずるに、集解が銭大昕の説を引いて、和帝紀・匈奴伝はいずれも「朱徽」と作すと述べている。

三二三五頁十三行、十一月甲戌。按ずるに、永元七年十一月は戊寅朔であり、甲戌はない。志文に誤りがある。

三二三五頁十四行、十二月己卯。按ずるに、永元七年十二月は戊申朔であり、己卯はない。下に丙辰とあるので、「己卯」は「乙卯」の誤りであろう。

三二三六頁一行、楽成王の宗。按ずるに、校補が銭大昭の説を引いて、「宗」は伝では「崇」と作すと述べている。

三二三六頁七行、その出る日を司ってこれを数える。按ずるに、校補は司を伺と読むと述べている。また、汲本では「日」を「入」と作す。

三二三六頁十四行、白狼の楼薄種王。按ずるに、集解が恵棟の説を引いて、「楼」は和帝紀では「貗」と作すと述べている。

三二三七頁六行、二月十日丁酉。按ずるに、「十日」の二字は衍字であろう。既に丁酉と書いているのに、さらに某日と書くべきではなく、また永元十四年二月は壬申朔であり、丁酉は二十六日であって、十日ではない。

三二三七頁六行、十一月丁丑。按ずるに、永元十四年十一月は戊戌朔であり、丁丑はない。注に誤りがある。

三二三七頁十一行、元興元年十〔二〕月(二日)、和帝が崩御した。集解が引く銭大昕・洪亮吉の説に拠って改める。

三二三七頁十四行、元興元年二月庚辰。按ずるに、この月は乙酉朔であり、庚辰はない。志文に誤りがある。

三二三七頁十五行、閏月辛亥。按ずるに、元興元年閏九月は辛巳朔であり、辛亥はない。志文に誤りがある。

三二三八頁九行、王尊(字は叔元茂)らと謀る。按ずるに、汲本では「王尊」を「王遵」と作す。

三二三八頁一〇行「刦刺尚書」について。按ずるに、「刺」は「敕」の誤りであろう。

三二三九頁五行「四月乙亥」について。按ずるに、注は永初二年の下に繫げているが、永初二年四月は丙申朔であり、乙亥はない。注に誤りがある。

三二三九頁五行「八月己亥」について。按ずるに、この年の八月は甲子朔であり、己亥はない。注に誤りがある。

三二三九頁八行「沛王(牙)〔正〕薨」。集解が引く恵棟の説によれば、「牙」は「正」とすべきで、伝写の誤りであるという。これに拠って改める。按ずるに、沛王正は、沛献王輔の孫で、謚は節である。

三二三九頁一一行「五月丙寅」について。按ずるに、注は永初三年の下に繫げているが、永初三年五月は庚寅朔であり、丙寅はない。注に誤りがある。

三二三九頁一一行「国多任刑也」。按ずるに、汲本と殿本では「任」を「淫」としている。

三二三九頁一五行「四年六月甲子」。按ずるに、汲本と殿本では「丙子」としている。

三二三九頁一六行「後太尉〔張禹司空〕張敏〔皆〕免官」。盧校に依拠し、御覧八七五に従って補う。

三二四〇頁三行「臣昭以占為明〔堂〕豈任尚所能感也」。盧校に拠って補う。按ずるに、殿本には「堂」の字があるが、「豈」の字が脱落している。

三二四〇頁八行「六月丙申から戊戌まで」。按ずるに、元初四年六月は癸卯朔であり、丙申、戊戌はない。志の本文に誤りがある。

三二四〇頁一一行「永初五年から永寧までの十年の間」。按ずるに、「十」は原字では「七」と誤っているので、直接に改正する。

三二四一頁三行「黄帝占に曰く火攻」。按ずるに、盧校は「火攻」は通考では「大敗」となっているという。

三二四二頁一行「太白が昴畢を犯すは(近)〔辺〕兵」。盧校に拠って改める。

三二四二頁七行「司徒劉喜らを遣わす」。按ずるに、集解が引く恵棟の説によれば、「喜」は范書では「熹」としているという。

三二四二頁一一行「元年四月丙午」。按ずるに、延光元年四月は乙亥朔であり、丙午はない。注に誤りがある。

三二四三頁九行 閏月乙酉 按:永建二年は閏六月乙巳朔であり、乙酉はない。志の文に誤りがある。

三二四三頁一二行 使匈奴中郎〔將〕張國 盧校により補う。

三二四三頁一五行 丁巳月犯心 按:注は永建二年二月の下に繫げているが、永元二年二月は丁丑朔であり、丁巳はない。注に誤りがある。

三二四四頁 一行 三年二月癸未 按:永建三年二月は辛丑朔であり、癸未はない。注に誤りがある。

三二四四頁 九行 敦煌太守徐白 按:集解が惠棟の説を引くに、西域傳では「白」を「由」と作すという。

三二四四頁一0行 使烏桓親漢都尉戎末瘣等出塞 按:集解が惠棟の説を引くに、鮮卑傳では「末」を「朱」と作すという。

三二四四頁一五行 二年四月壬寅 按:陽嘉二年四月は辛未朔であり、壬寅はない。注に誤りがある。

三二四四頁一五行 五月癸巳 按:陽嘉二年五月は庚子朔であり、癸巳はない。注に誤りがある。

三二四四頁一五行 十一月辛未 按:陽嘉二年十一月は戊戌朔であり、辛未はない。注に誤りがある。

三二四四頁一五行 十二月壬寅 按:陽嘉二年十二月は丁卯朔であり、壬寅はない。注に誤りがある。

三二四五頁 一行 四月乙卯 按:「四月乙卯」は「十二月辛未」の後に置くべきではない。あるいは「四月」の上に「四年」の二字が脱けているのかもしれない。しかし陽嘉三年四月は乙丑朔、四年四月は庚申朔であり、いずれも乙卯はない。注に明らかに誤りがある。

三二四五頁 一行 永和元年正月丁卯 按:汲本、殿本では「正月」を「五月」と作す。

三二四五頁 二行 吳郡太守行丞事羊珍與越兵弟葉吏民吳銅等 按:順帝紀では「吳郡丞羊珍」と作す。「太守」の字は衍字であろう。

三二四五頁 四行 又〔九〕江賊蔡伯流等數百人攻廣陵九江 集解が錢大昕の説を引くに、順帝紀では「九江賊」と作すという。ここは「九」の字が脱けている。今これに拠り補う。按:盧文弨が文法が順でないと言う。紀では「攻郡界及廣陵」と作す。これが正しい。

三二四五頁 四行 殺〔江〕都長 集解が錢大昕の説を引くのに拠り補う。按:順帝紀に「江」の字がある。

三二四五頁六行 九月壬午 注:注が永和二年の下に繫がれているが、永和二年九月は丙午朔であり、壬午はない。注に誤りがある。

三二四五頁一二行 (陽)〔楊〕定 集解に引く銭大昕の説に拠って改める。

三二四五頁一五行 北地(謝)〔射〕姑山下で西羌を撃つ 順帝紀及び西羌伝に拠って改める。

三二四六頁一二行 廃されて尉氏侯となり、また徙められて犍陽都郷侯となり薨ず 注:清河王蒜は坐して尉氏侯に貶せられたのであり、廃されたとは言えない。文に誤りがある。集解に引く洪頤烜の説によれば、桓帝紀、清河孝王伝ともに蒜が坐して尉氏侯に貶せられ、桂陽に徙められ、自殺したとある。

三二四七頁六行 元年二月壬午 注:漢安元年二月は庚戌朔であり、壬午はない。注に誤りがある。

三二四七頁七行 丙辰月入斗中 注:注が漢安二年五月の後に繫がれているが、漢安二年五月は癸酉朔であり、丙辰はない。注に誤りがある。

三二四七頁一一行 (三)〔二〕月丁丑 盧校が通鑑目録に依って改めたものに拠る。注:この年二月は丁巳朔であり、丁丑がある。三月は丙戌朔であり、丁丑はない。