漢書かんじょごかんじょ

巻一百一・天文中 明十二 章五 和三十三 殤一 安四十六 順二十三 質三

(明帝十二件、章帝五件、和帝三十三件、殤帝一件、安帝四十六件、順帝二十三件、質帝三件)

明帝十二件

孝明帝永平元年四月丁酉日,流星大如斗,從天市樓出現,向西南行進,光芒照亮地面。流星象徵外來的兵事,向西南行進象徵西南夷。此時,益州發兵攻打姑復的蠻夷大牟替滅陵,斬首後將首級傳送到洛陽らくよう。(《古今注》記載:「閏九月辛未日,火星位於太微垣左執法星所在處,光芒相接。十一月辛未日,土星逆行,凌犯東井宿北方的軒轅第二星。二年十二月戊辰日,月食火星。」《黃帝星經》說:「出入井宿,關乎人主。一說是賜予爵祿之事。」)

三年六月丁卯日,彗星出現在天船星北面,長約二尺,逐漸向北移動到亢宿南面。一百三十五日後消失。天船星主水,彗星出現於此象徵大水。這一年伊水、洛水泛濫,水勢到達津城門,沖毀伊橋;有七個郡、三十二個縣遭受大水災。

四年八月辛酉日,客星出現在梗河星西北方,指向貫索星,七十日後消失。梗河星象徵胡人的兵事。到五年十一月,北匈奴七千騎兵侵入五原塞,十二月又侵入雲中郡,到達原陽。貫索星,是貴人的牢獄。這年十二月,陵鄉侯梁松因心懷怨恨,懸掛匿名文書誹謗朝廷,獲罪下獄處死,妻子家屬流放到九真郡。

七年正月戊子日,流星大如杯,從織女星向西行進,光芒照亮地面。織女星是天帝的仙女,流星從此出現,預示女主有憂患。當月癸卯日,光烈皇后駕崩。(《古今注》記載:「三月庚戌日,客星的光氣長約二尺,位於太微垣左執法星南面的端門外,總共出現七十五日。」)

八年六月壬午日,長星出現在柳宿、張宿之間三十七度處,侵犯軒轅星,刺穿天船星,凌犯太微垣,氣勢到達上階星,總共出現五十六日後消失。柳宿對應周地。這一年,雨水很多,十四個郡的莊稼受損。(《古今注》記載:「十二月戊子日,客星出現在東方。」)

九年正月戊申日,客星出現在牽牛星,長八尺,經過建星到房宿南面消失,(《古今注》記載:「經過斗宿、建星、箕宿、房宿,越過角宿、亢宿到達翼宿,光芒指向東方。」)出現共五十日。(郗萌的占辭說:「客星停留於房宿,左右群臣中有服毒自殺者。」又占辭說「有喪失領土之事」。)牽牛星主吳、越之地,房宿、心宿為宋地。後來廣陵王劉荊與沈涼、楚王劉英與顏忠各自謀劃叛逆,事情被發覺,都自殺了。廣陵屬吳地,彭城是古宋國之地(《古今注》記載:「十年七月甲寅日,月亮侵犯歲星。十一年六月壬辰日,火星侵犯土星。」)。

十三年閏月丁亥日,火星侵犯輿鬼星,預示大喪,質星預示大臣被誅殺。(晉灼說:「鬼宿有五顆星,其中白色的是質星。」)這年十二月,楚王劉英與顏忠等人偽造妖書謀反,事情被發覺,劉英自殺,顏忠等人都被處死。(《古今注》記載:「十一月,客星出現在軒轅星四十八日。十二月戊午日,月亮侵犯木星。」)

十四年正月戊子日,客星出現在昴宿,六十日,在軒轅星右角附近逐漸消失。昴宿主邊境兵事。後一年,漢朝派遣奉車都尉顯親侯竇固、駙馬都尉耿秉、騎都尉耿忠、開陽城門候秦彭、太僕祭肜,率兵攻打匈奴。一說,軒轅星右角象徵貴相,昴宿主刑獄之事,客星守於此預示大獄。此時,審查楚王劉英的案件尚未結束,司徒しと虞延與楚王劉英的黨羽黃初、公孫弘等人勾結,都自殺了。有的下獄被處死。

十五年十一月乙丑日,太白星進入月亮之中,預示大將被殺,君主死亡,不出三年。後三年,孝明帝駕崩。

十六年正月丁丑日,歲星侵犯房宿右驂星,北邊第一顆星不見了,辛巳日才出現(《石氏星經》說:「歲星守於房宿,良馬出廄。」《古今注》記載:「正月丁未日,月亮侵犯房宿。」)。房宿右驂星象徵貴臣,歲星侵犯它預示被誅殺。此後司徒邢穆,因與阜陵王劉延勾結、知曉叛逆陰謀而獲罪,自殺。

四月癸未日,太白星侵犯畢宿。畢宿主邊境兵事。後來北匈奴侵犯邊境,侵入雲中郡,到達漁陽郡。使者高弘調發三郡兵馬追擊討伐,沒有收穫。太僕祭肜因不進兵獲罪下獄。

十八年六月己未日,彗星出現在張宿,長三尺,轉移到郎將星,向南進入太微垣,都屬於張宿分野。張宿對應周地,是東都洛陽。太微垣是天子的朝廷。彗星侵犯它預示兵事和喪事。這年八月壬子日,孝明帝駕崩。

章帝五件

孝章帝の建初元年、正月丁巳、太白星が昴宿の西一尺の位置にあった。八月庚寅、彗星が天市垣から出現し、長さ約二尺、次第に運行して牽牛宿三度に入り、四十日間続いて次第に消滅した。太白星が昴宿にあるのは辺境の兵事、彗星が天市垣から出るのは外国の軍勢、牽牛宿は呉・越の地を表す。この時、蛮夷の陳縦らおよび哀牢王の類牢が反乱を起こし、巂唐城を攻撃した。永昌太守の王尋は楪榆に逃げ奔り、安夷長の宋延は羌族に殺害された。武威太守の傅育を護羌校尉こういに任命し、馬防を行車騎將軍として西羌を征討させた。また、阜陵王の劉延が子の劉魴と謀反を企て、大逆無道の罪を犯したが、誅殺を免れ、侯に降格された。

二年九月(古今注に「甲申、金星が斗魁に入った」とある)甲寅、流星が紫微宮を通過し、長さ数丈、三つに散って消滅した。十二月戊寅、彗星が婁宿三度から出現し、長さ八九尺、次第に紫微宮に入り、百六日間で次第に消滅した。流星が通過して紫微宮に入るのは、いずれも大人(高位者)の忌み事である。その四年後の六月癸丑、明徳皇后が崩御した。(古今注に「五年二月戊辰、木星と火星がともに参宿にあった。五月戊寅、木星と水星が東井宿にあった。六年七月丁酉、夜に流星が軒轅から起こり、拳ほど大きく、文昌を経て、残った気が正白色で曲がりくねり、西の文昌の方へ行き、長い間かかってようやく消滅した」とある。黄帝星経に「木星が東井宿を守ると、土木工事の事がある。一説に大水」とある。郗萌に「歳星(木星)が参宿を守ると、后(皇后)がそれに当たる。熒惑(火星)が守ると、大人がそれに当たる」とある。)

元和二年四月丁巳、客星が明け方に東方から出現し、胃宿八度にあり、長さ三尺、閣道を経て紫微宮に入り、四十日間留まって消滅した。閣道・紫微宮は天子の宮殿である。客星が侵犯して入り長く留まるのは大喪の兆しである。その四年後、孝章帝が崩御した。

和帝の三十三年

孝和帝の永元元年正月辛卯、流星が参宿から起こり、長さ四丈(古今注に「拳ほど大きく、参宿の東南から起こった」とある)、光があり、色は黄白であった。(古今注に「癸亥、鎮星(土星)が参宿にあった。また流星が桃ほど大きく、色は赤く、太微垣の東蕃から起こった」とある。石氏に「鎮星が参宿を守ると、土木工事の事がある」とある。)二月、流星が天棓から起こり、東北へ三丈ほど行って消滅し、色は青白であった。壬申の夜、流星が太微垣の東蕃から起こり、長さ三丈。三月(古今注に「戊子、土星が参宿にあった」とある)丙辰、流星が天津から起こった。(古今注に「星が桃ほど大きく、天津から起こり、東へ斗宿まで行き、黄白色で頻りに光があった」とある。)壬戌、流星が天将軍から起こり、東北へ行った。(古今注に「色は黄で、光がなかった」とある。)参宿は辺境の兵事、天棓は兵事、太微垣は天廷、天津は水害、天将軍は兵事を表し、流星がそこから起こるのはいずれも兵事の兆しである。その年の六月、漢は車騎将軍の竇憲・執金吾の耿秉と度遼将軍の鄧鴻を派遣して朔方から出撃させ、ともに進軍して私渠北鞮海に臨み、虜の首級一万余を斬り、捕虜・牛・馬・羊百万頭を獲得した。日逐王ら八十一部が降伏し、総計三十余万人であった。単于を西海まで追撃した。この年の七月、また雨水が人民を押し流し、これがその応である。(古今注に「十一月壬申、鎮星が東井宿にあった」とある。石氏に「天下に水害があり、その大いに出でて人を流し殺す」とある。)

二年正月乙卯、金星と木星がともに奎宿にあった。丙寅、水星もまた奎宿にあった。(巫咸に「辰星(水星)が奎宿を守ると、水火の災が多い。また旱魃にもなる」とある。古今注に「土星が東井宿にあった」とある。)奎宿は武庫の兵を主り、三つの星が会するのもまた兵事と喪の兆しである。辛未、水星・金星・木星が婁宿にあり、これも兵事の兆しであり、また陰謀の兆しでもある。(郗萌に「辰星が婁宿を守ると、兵があれば兵は罷む。〔兵がなければ〕兵が起こる」とある。巫咸・石氏は「火災が多い」と云う。古今注に「丙寅、水星は奎宿に、土星は東井宿に、金星は婁宿に、木星と火星は昴宿にあった」とある。)二月丁酉、流星が桃ほど大きく、紫微宮の東蕃から起こり、西北へ五丈ほど行って次第に消滅した。(古今注に「三月甲子、火星が亢宿の南、端門第一星の南にあった。乙亥、金星が東井宿にあった」とある。)四月丙辰、流星が瓜ほど大きく、文昌の東北から起こり、西南へ行って少微の西で消滅した。しばらくして、音が雷声のようであり、やがて金星が軒轅大星の東北二尺ほどの所にあった。(古今注に「丁丑、火星が氐宿の東南星の東南にあった」とある。)八月丁未、流星が鶏卵ほどで、太微垣の西から起こり、東南へ四丈ほど行って消滅した。十月癸未、流星が桃ほど大きく、天津から起こり、西へ六丈ほど行って消えた。十一月辛酉、流星が拳ほど大きく、紫微宮から起こり、西へ行って胃宿で消えた。

三年九月丁卯、流星が鶏卵ほどで、紫微宮から起こり、西南へ北斗の柄の間まで行って消えた。(星紫宮占に「流星が紫微宮から出るのは、天子の使者である。色が赤ければ兵事を言い、色が白ければ喪を言い、色が黄ければ吉事を言い、色が青ければ憂いを言い、色が黒ければ水害を言う。出る皆その行く野によって東・西・南・北を命ずる」とある。)紫微宮は天子の宮殿、文昌・少微は貴臣、天津は水害、北斗は殺戮を主る。流星が起こり、紫微宮・文昌・少微・天津を経る。文昌は天子の使者であり、出るには兵誅がある。竇憲が大将軍となり、憲の弟の竇篤・竇景らは皆卿・校尉となり、憲の妹婿の郭挙が侍中・射声校尉となり、衛尉の鄧叠の母の元とともに宮中に出入りし、不軌を謀った。四年六月丙辰に発覚し、和帝は北宮に行幸し、詔して執金吾・五校に命じて兵を率い南宮・北宮に駐屯させ、城門を閉ざし、郭挙を捕らえた。挙の父の長楽少府の郭璜および鄧叠、叠の弟の歩兵校尉の鄧磊・母の元は、皆獄に下されて誅殺された。憲の弟の篤・景らは皆自殺した。金星が軒轅を犯すのは、女主が勢いを失うことである。竇氏が誅殺され、太后が勢いを失った。

五年(古今注に曰く、「正月甲戌、月が歳星に乗る」)。四月癸巳、太白、熒惑、辰星がともに東井に在る。(巫咸曰く、「太白が井を守れば、五穀成らず」。黄帝経に曰く、「五星及び客星が井を守れば、皆な水となる」。石氏曰く、「旱となる」。又曰く、「太白が東井に入り、一日以上留まって占う、大臣これに当たる、期は三月、若しくは一年、遠くは五年」。古今注に曰く、「木は輿鬼に在る」。)七月壬午、歳星が軒轅大星を犯す。九月、金が南斗魁中に在る。(水となる。石氏曰く、「旱となる」。)火が房北第一星を犯す。東井は秦の地、法を為す。三星合すれば、内外に兵あり、又法令及び水を為す。金が斗口中に入れば、大将の将死す。火が房北第一星を犯せば、将相を為す。その六年正月、司徒丁鴻薨ず。(古今注に曰く、「六年六月丁亥、金が東井に在る。閏月己丑、流星桃の如く大、参の北より起こり、西に参肩の南に至り、稍光あり」。)七月水、大いに漂い人民を殺し、五穀を傷つく。許侯馬光罪あり自殺す。九月、行車騎将軍事鄧鴻、越騎校尉馮柱、左右羽林、北軍五校士及び八郡の迹射、烏桓、鮮卑を発し、四万騎を合せ、度遼将軍朱徴、護烏桓校尉任尚、中郎将杜崇とともに叛胡を征す。十二月、車騎将軍鴻は虜を追撃して利あらずと坐し、獄に下り死す。度遼将軍徴、中郎将崇は皆な罪に抵る。

七年正月丁未、流星天津より起こり、紫宮中に入りて滅ぶ。色青黄、光あり。二月癸酉、金、火ともに参に在る。(巫咸占に曰く、「熒惑参を守れば、火災多し」。海中占に曰く、「旱となる。太白参を守れば、国に反臣あり」。郗萌曰く「攻戦伐国あり」なり。)戊寅、金、火ともに東井に在る。(郗萌曰く、「熒惑井を守れば、百川皆な満つ。太白又従って舎すれば、蓋し二十日国を流す」。又曰く、「雑糴貴し。又将相死す」。)八月甲寅、水、土、金ともに軫に在る。(春秋緯に曰く、「五星軫に入る者有れば、皆な兵大いに起こる」。巫咸占に曰く、「五星軫に入る者は、その出づる日を司りてこれを数う、期二十日皆な兵発す。始めて入る処の率を司り、一日期し、十日軍罷む」。石氏星経に曰く、「辰星軫を守れば、歳水」。郗萌曰く、「鎮星出入して軫に留舎し六十日下らざれば、必ず大喪あり」。春秋緯に曰く、「太白軫に入れば、兵大いに起こる」。郗萌曰く、「太白軫を守れば、必ず死王あり」。)十一月甲戌、金、火ともに心に在る。(雒書に曰く、「太白心を守れば、後九年大飢」。)十二月己卯、流星文昌より起こり、紫宮に入り消ゆ。丙辰、火、金、水ともに斗に在る。流星紫宮に入り、金、火心に在るは、皆な大喪を為す。三星軫に合すれば、白衣の会を為し、金、火ともに参、東井に在るは、皆な外兵を為し、死将あり。三星ともに斗に在れば、戮将あり、若しくは死相あり。八年四月楽成王黨、七月楽成王宗皆な薨ず。将兵長史呉棽事に坐し征され獄に下り誅さる。(古今注に曰く、「八年九月辛丑、夜流星あり、拳の如く大、婁より起こる」。)十月、北海王威自殺す。十二月、陳王羨薨ず。その九年閏月、皇太后竇氏崩ず。遼東鮮卑反し、太守祭参虜を追わず、征され獄に下り誅さる。九月、司徒劉方事に坐し官を免ぜられ、自殺す。隴西羌反し、執金吾劉尚を行征西将軍事とし、越騎校尉節郷侯趙世に北軍五校、黎陽、雍営及び辺胡の兵三万騎を発せしめ、西羌を征す。

十一年五月丙午、流星瓜の如く大、氐より起こり、西南に行き、稍光あり、白色。(古今注に曰く、「六月庚辰、月畢中に入る」。)占いに曰く、「流星白きは、使客有るを為し、大なるは大使を為し、小なるも亦た小使を為す。疾きは期疾く、遅きも亦た遅し。瓜の如く大なるは近く、小行き稍光有るは遅し。又た正王の日、辺方に王命を受くる者有り」。明年二月、しょく郡旄牛徼外の夷、白狼楼薄種の王唐縢等、種人の口十七万を率いて帰義し内属す。金印紫綬銭帛を賜う。

十二年十一月癸酉夜、蒼白の気有り、長さ三丈、天園より起こり、東北軍市を指し、積みて十日見ゆ。占いに曰く、「兵起こる、十日期して歳す」。明年十一月、遼東鮮卑二千余騎右北平を寇す。

十三年(古今注に曰く、「正月辛未、水輿鬼に乗ず。十二月癸巳、軒轅大星を犯す」。)十一月乙丑、軒轅第四星の間に小客星有り、色青黄。軒轅は後宮を為し、星これに出づれば、失勢を為す。その十四年六月辛卯、陰皇后廃さる。(古今注に曰く、「十四年正月乙卯、月軒轅を犯し、太微中に在る。二月十日丁酉、水太微西門に入る。十一月丁丑、流星有り拳の如く大、北斗魁中より起こり、北に閣道に至り、稍光あり、色赤黄、須臾西北に雷声有り」。)

十六年四月丁未、紫宮中に白気生ず、粉絮の如し。戊午、客星紫宮より出で西行して昴に至り、五月壬申滅ぶ。七月庚午、水輿鬼中に在る。(黄帝占に曰く、「辰星鬼を犯せば、大臣誅さる、国に憂い有り」。郗萌曰く、「蝗虫多し」。)十月辛亥、流星鉤陳より起こり、北行三丈、光あり、色黄。白気紫宮中に生ずれば喪を為す。客星紫宮より西行して昴に至れば趙を為す。輿鬼は死喪を為す。鉤陳は皇后を為し、流星これより出づれば中使を為す。後一年、元興元年十二月、和帝崩ず、殤帝即位して一年にして又崩ず、嗣無し。鄧太后使者を遣わして清河孝王の子を迎え即位せしむ、是を孝安皇帝と為す、是れその応なり。清河は趙の地なり。

元興元年二月庚辰、流星角、亢より起こる五丈所。四月辛亥、流星斗より起こり、東北行して須女に到る。七月己巳、流星天市より起こる五丈所、光色赤。閏月辛亥、水、金ともに氐に在る。(巫咸曰く、「辰星氐を守れば、水災多し」。海中占に曰く、「天下大旱し、所在収穫せず」。荊州星占に曰く、「太白氐を守れば、国君大哭す」。)流星斗より起こり、東北行して須女に至る。須女は燕の地。天市は外軍を為す。水、金会すれば兵誅を為す。その年、遼東貊人反し、六県を抄略す。上谷、漁陽、右北平、遯西烏桓を発してこれを討つ。

殤一

孝殤帝延平元年正月丁酉、金、火婁に在る。金、火合すれば烁を為し、大人の憂いを為す。(古今注に曰く、「七月甲申、月南斗中に在る」。)是の歳八月辛亥、孝殤帝崩ず。

安四十六

孝安帝永初元年五月戊寅の日、熒惑星が逆行し、心宿の前星を守った。(韓楊の占いによると、「火災が多い。あるいは地震。」その年を調べると十八郡で地震があり、翌年には漢陽で火災があった。)八月戊申の日、客星が東井宿と弧星の西南に現れた。心宿は天子の明堂であり、熒惑星が逆行してこれを守るのは、反逆する臣下がいることを示す。(雒書に言う、「熒惑が心宿を守れば、逆臣が起こる。」黄帝占に言う、「逆行して心宿を守ること二十日、大臣に乱れあり。」)客星が東井宿にあるのは、大水の兆しである。(荊州経に言う、「客星が東井宿を干犯すれば、大臣が誅殺される。」)この時、安帝はまだ臨朝しておらず、鄧太后が摂政し、鄧騭が車騎将軍となり、弟の弘、悝、閶はいずれも校尉として侯に封ぜられ、国政の実権を握っていた。司空しくうの周章は心中穏やかでなく、王尊、叔元茂らと謀り、宮門を閉ざし、将軍兄弟を捕らえ、常侍の鄭衆、蔡倫を誅殺し、尚書を脅迫し、皇太后を廃し、皇帝を遠国王に封じようとした。事が発覚し、周章は自殺した。東井宿、弧星はいずれも秦の地である。この時、羌が反乱し、隴道を断った。漢は鄧騭に左右羽林、北軍五校および諸郡の兵を率いて征討させた。この年、四十一の郡国、三百十五の県で雨水があり、四瀆が溢れ、秋の作物を損ない、城郭を壊し、人民を殺した。これがその応である。

二年正月戊子の日、太白星が昼間に現れた。(古今注に言う、「四月乙亥、月が南斗の魁中に入る。八月己亥、熒惑が太微の端門を出入する。」)

三年正月庚戌の日、月が心宿の後星を犯した。(河図に言う、「乱臣が傍らにいる。」)己亥の日、太白星が斗宿の中に入った。(古今注に言う、「三月壬寅、熒惑が輿鬼の中に入る。五月丙寅、太白が畢宿の中に入る。」石氏経に言う、「太白が畢宿を守れば、国は刑罰を多用する。」)十二月、彗星が天菀の南から起こり、東北を指し、長さ六七尺、色は蒼白であった。太白星が昼間に現れるのは、強力な臣下がいることを示す。(前志に言う、「太白が昼間に見えれば、強国は弱まり、小国は強くなり、女主が盛んになる。」)この時、鄧氏がまさに盛んであり、月が心宿の後星を犯すのは、子に不利である。心宿は宋に対応する。五月丁酉、はい王の劉正が薨去した。太白星が斗宿の中に入るのは、貴い宰相に凶事があることである。(臣の昭が案ずるに、楊厚が答えて言うには「諸王子が多く京師におり、非常の事態があるかもしれない。急いで本国に帰還させるべきである」とし、太后はこれに従い、星はまもなく消えて見えなくなった。これによって言えば、太白が入った災いは貴い宰相にある。)天菀は外軍を表し、彗星がその南から出るのは外兵の兆しである。この後、羌、氐を使って賊の李貴を討伐させ、また烏桓を使って鮮卑を撃たせ、また中郎将の任尚、護羌校尉の馬賢を使って羌を撃たせ、いずれも降伏させた。

四年(古今注に言う、「二月丙寅、月が軒轅の大星を犯す。」)六月甲子の日、客星が李の実ほどの大きさで、蒼白く、芒気が長さ二尺あり、西南の上階星を指した。癸酉の日、太白星が輿鬼宿に入った。上階星を指すのは、三公に関わる。後に太尉の張禹、司空の張敏はいずれも官を免ぜられた。太白星が輿鬼宿に入るのは、将軍に凶事があることである。後に中郎将の任尚が贓千万の罪に坐し、檻車で召還され、市で斬られた。(韓揚の占いに言う、「太白が輿鬼に入れば、乱臣が内にいる。」臣の昭は、この占いが明堂を指すものと考え、任尚ごときが感応させられるものではない。)

五年六月辛丑の日、太白星が昼間に現れ、天を経た。(春秋漢含孳に言う、「陽弱く、辰逆らい、太白天を経る。」注に云う、「陽弱いとは、君主が柔弱で堪えられないこと。」鉤命決に言う、「天が仁を失えば、太白天を経る。」)

元初元年三月癸酉の日、熒惑星が輿鬼宿に入った。

二年九月辛酉の日、熒惑星が輿鬼宿の中に入った。

三年三月、熒惑星が輿鬼宿の中に入った。五月丙寅の日、太白星が畢宿の口に入った。(黄帝占に言う、「火による攻め、近い期日は十五日、遠い期日は四十日。」また言う、「大臣がこれに当たれば、国が乱れ主が易わる。」)七月甲寅の日、歳星が輿鬼宿に入った。閏月己未の日、太白星が太微左执法を犯した。十一月甲午の日、客星が西方に現れ、己亥の日に虚宿、危宿にあり、南は胃宿、昴宿に至った。(郗萌に言う、「客星が虚宿に入れば、大人がこれに当たる。」また言う、「客星が危宿を守れば、強臣が国命を執り、后族にある。また大風があり、危うく敗れる。」黄帝星経に言う、「客星が危宿に入り守るか出れば、大飢饉、民の食糧が高騰する。」)

四年正月丙戌の日、歳星が輿鬼宿の中に留まった。(石氏経に言う、「歳星が輿鬼に入り留まること五十日下りなければ、民に大喪あり。百日下りなければ、民の半数が死ぬ。」黄帝経に言う、「鬼を守ること十日、金銭が諸侯に散ず。」郗萌に言う、「五穀多く傷み、飢えで死ぬ民数知れず。」)乙未の日、太白星が昼間に丙の上に現れた。四月壬戌の日、太白星が輿鬼宿の中に入った。(石氏の占い、「太白が鬼に入れば、一つには女主の病、一つには将軍が戮死する。」)己巳の日、辰星が輿鬼宿の中に入った。(郗萌に言う、「罪をもって大臣を誅す。一つには后の疾。一つには大人の憂い。」)五月己卯の日、辰星が歳星を犯した。六月丙申の日、熒惑星が輿鬼宿の中に入り、戊戌の日、輿鬼の大星を犯した。九月辛巳の日、太白星が南斗の口中に入った。(黄帝経に言う、「大人がこれに当たり、国政が変わる。」)

五年三月丙申の日、鎮星が東井宿の鉞星を犯した。五月庚午の日、辰星が輿鬼宿の質星を犯した。丙戌の日、太白星が鉞星を犯した。

六年四月癸丑の日、太白星が輿鬼宿に入った。(郗萌に言う、「太白が輿鬼を守れば、女主に疾あり。」)六月丙戌の日、熒惑星が輿鬼宿の中にあった。(黄帝経に言う、「熒惑が鬼を犯し守れば、国に大喪あり、女の喪あり、大将に死者あり。」荊州星占に言う、「熒惑が鬼を犯せば、忠臣が戮死し、一年を出でず。」)丁卯の日、鎮星が輿鬼宿の中にあった。(黄帝経に言う、「鎮が鬼の中に入れば、大臣誅さる。」海中、石氏に言う、「大人憂いあり。」)辛巳の日、太白星が左执法を犯した。永初五年から永寧までの十年の間に、太白星は一度昼間に天を経て現れ、二度輿鬼宿に入り、一度畢宿を守り、二度左执法を犯し、南斗に入り、鉞星を犯した。熒惑星は五度輿鬼宿に入った。鎮星は一度東井宿の鉞星を犯し、一度輿鬼宿に入った。歳星、辰星は二度輿鬼宿に入った。およそ五星が輿鬼宿の中に入るのは、いずれも死喪の兆しである。熒惑、太白が甚だしく鉞星、質星を犯すのは誅戮の兆しである。斗宿は貴い将軍を表す。执法は近臣を表す。客星が虚宿、危宿にあるのは喪の兆し、哭泣の兆しである。(星占に言う、「一年以内、遠くても二年以内。」)昴宿、畢宿は辺境の兵、また獄事を表す。建光元年三月癸巳に至り、鄧太后が崩御し、五月庚辰、太后の兄の車騎将軍鄧騭ら七侯はいずれも官を免ぜられ、自殺した。これがその応である。

延光二年(古今注に言う:「元年四月丙午、太白が昼間に現れた。」)八月己亥、熒惑が太微の端門から出た。三年二月辛未、太白が昴を犯した。(石氏星占:「太白が昴を守れば、兵が門闕から入り、主人は走る。」郗萌が言う:「亡国がなければ、必ず謀主あり。」また言う:「昴に入れば、大赦あり。」)五月癸丑、太白が畢に入った。(郗萌が言う:「太白が畢口に入れば、馬は馳せ人走る。」また言う:「中喪あり。」)九月壬寅、鎮星が左执法を犯した。四年、太白が輿鬼の中に入った。(古今注に言う:「四月甲辰に入る。」)六月壬辰、太白が太微から出た。九月甲子、太白が斗口の中に入った。十一月、客星が天市に現れた。熒惑が太微から出たのは、乱臣のためである。太白が昴・畢を犯したのは、辺境の兵事のためであり、一説には大人がこれに当たる。鎮星が左执法を犯したのは、誅殺される臣あり。太白が輿鬼の中に入ったのは、大喪のためである。太白が太微から出たのは、中宮に兵事あり;斗口に入ったのは、貴い将相に誅殺される者あり。客星が天市中に現れたのは、貴人の喪のためである。この時、大将軍耿宝、中常侍江京、樊丰、小黄門劉安と阿母王聖、聖の子女永らが共に太子保を誣告し、また太子の乳母男、厨監邴吉を憎んだ。三年九月丁酉、太子を廃して濟陰王とし、北郷侯懿を代わりに立てた。男・吉を殺し、その父母妻子を日南に流した。四年三月丁卯、安帝が巡狩し、南陽から帰還する途中で病に臥し、葉に至り、崩御した。閻后と兄の衛尉顕、中常侍江京らが共に隠匿し、群臣に上(皇帝)の崩御を知らせず、司徒劉喜らを遣わして郊廟に分かれて詣でさせ、天に告げて命を請い、北宮に載せ入れた。庚午の夕方に発喪し、閻氏を尊んで太后とした。北郷侯懿が病没し、京らはまた保を立てることを望まず、太后に白上し、さらに諸王子を徴して立てる者を選ばせた。中黄門孫程、王国、王康ら十九人が共に謀を合わせて顕・京らを誅殺し、保を立てて天子とし、これが孝順皇帝である。皆、奸人強臣が王室を狂乱させ、その死亡誅戮、兵が宮中に起こることは、これがその応である。(古今注に言う:「永建元年二月甲午、客星が太微に入る。五月甲子、月が斗に入る。」李氏家書に言う:「時に天に変気あり、李郃が上書して諫めて言う:『臣は聞く、天は言わず、象を懸けて吉凶を示し、災変異を挺えて譴誡と為す。昔、斉桓公は虹が牛・斗を貫く変に遭い、管仲の謀を納れ、斉に婦を去らせ、妃宮に近づかせざらしむ。桓公が聴用し、斉は以て大いに安んず。趙に尹史あり、月が歯を生じ、畢の大星を齕するを見、兵変ありと占う。趙君曰く、「天下は畢を一つに共にす、何の国の為なるかを知らんや?」史を獄に下す。その後、公子牙が君をしいせんと謀り、血書して端門に至る、史の言う如し。乃ち月十三日、客星気象彗孛あり、天巿・梗河・招搖・槍・棓を歴、十六日紫宮に入り、北辰に迫り、十七日また文昌・泰陵を過ぎ、天船・積水の間に至り、稍々微にして見えず。客星の一占に曰く、「魯星天巿を歴る者は穀貴、梗河の三星は非常に備え、泰陵の八星は凶喪、紫宮・北辰は至尊。」占の如く、恐らくは宮廬の内に兵喪の変あり、千里の外に非常の暴逆の憂いあり。魯星は尊宿を過ぎ歴るを得ず、行度疾しきに従う、応ずるは一端に非ず、恐らくはまた王阿母母子賤妾の帝の傍に居らんと欲して政事を耗乱する者の如き有らん。誠に之を有らしむるも、宜しく抑遠すべし、財を饒かにして以て足らしむ。王者の権柄及び爵禄は、人天の重んずる所、慎むべき誠に阿妾の干預すべきに非ず、天故に変を挺げ、明らかに以て人に示す。慎みを承けざれば、禍至りて変を成し、悔ゆるも及ばざるなり。」』」)

順帝の二十三番目の天文志

孝順皇帝永建二年二月癸未、太白が昼間に三十九日間現れた。(古今注に言う:「丁巳、月が心を犯す、七月丁酉、昴を犯す。」)閏月乙酉、太白が昼間に東南維で四十一日間現れた。八月乙巳、熒惑が輿鬼に入った。太白が昼間に現れたのは、強臣のためである。熒惑は凶事、輿鬼は死喪。質星は誅戮。この時、中常侍高梵・張防、将作大匠翟酺、尚書令しょうしょれい高堂芝、仆射張敦、尚書尹就、郎姜述・楊鳳ら、及び兗州刺史鮑就、使匈奴中郎将張国、金城太守張篤、敦煌太守張郎が互いに交通し、漏洩した。就・述は棄市に処され、梵・防・酺・芝・敦・鳳・就・国は皆罪に抵った。また定遠侯班始が陰城公主堅得を娶ったが、争闘して堅得を殺し、腰斬して馬市に坐し、同産(兄弟姉妹)は皆棄市に処された。(古今注に言う:「その年九月戊寅、白気あり、広さ三尺、長さ十余丈、北落師門から南に斗に至る。三年二月癸未、月が心後星を犯す。六月甲子、太白が昼間に現れる。四年二月癸丑、月が心後星を犯す。五年閏月庚子、太白が昼間に現れる。六年、彗星が斗・牽牛から出て、虚・危で滅ぶ。虚・危は斉、牽牛は呉・越、故に海賊が会稽に浮かび、山賊が済南に捷つ。五年夏、熒惑が氐を守り、諸侯に斬られる者あり、是の冬班始が腰斬されて馬巿に至る。」)

六年四月、熒惑が太微中に入り、左・右执法の西北方六寸所を犯した。十月乙卯、太白が昼間に現れた。十二月壬申、客星の芒気が長さ二尺余、西南を指し、色は蒼白、牽牛六度にある。客星の芒気が白いのは兵事のため。牽牛は呉・越。一年後、会稽の海賊曾於ら千余人が句章を焼き、長吏を殺し、また鄞・鄮の長を殺し、官兵を奪い、吏民を拘束殺害し、東部都尉を攻めた;揚州六郡の逆賊章何等が将軍を称し、四十九県を犯し、大いに吏民を攻略した。

陽嘉元年閏月戊子、(臣昭が案ずる:郎顗の表に「十七日己丑」と云う。)客星の気が白く、広さ二尺、長さ五丈、天菀の西南から起こる。馬牛を主り、外軍のため、色白は兵事のため。この時、敦煌太守徐白が疏勒王盤らに兵二万人を遣わして于窴の境界に入らせ、虜掠し斬首三百余級。烏桓校尉耿曄が烏桓親漢都尉戎末瘣らを遣わして塞を出させ、鮮卑を抄略し、斬首し、生口・財物を獲る;鮮卑は怨恨し、遼東・代郡を抄略し、吏民を殺傷した。この後、西戎・北狄が寇害を為し、馬・牛を以て兵を起こし、馬・牛もまた兵中で死傷し、十余年に至ってやっと止んだ。(臣昭が案ずる:郎顗伝、陽嘉元年、太白と歳星が房・心で合する。二年、熒惑が度を失い、盈縮往来し、輿鬼を渉歴し、軒轅を環繞す。古今注に言う:「二年四月壬寅、太白が昼間に現れる、五月癸巳、また昼間に現れる、十一月辛未、また昼間に現れる。十二月壬寅、月が太白を犯す。三年十二月辛未、太白が昼間に現れる。四月乙卯、太白・熒惑が輿鬼に入る。永和元年正月丁卯、太白が牽牛大星を犯す。」)

永和二年五月戊申の日、太白星が昼間に現れた。八月庚子の日、熒惑星が南斗を犯した。斗は呉を表す。(黄帝経に言う、「一年を待たずして、国に乱れあり、憂いあり」と。海中占では、「多くの火災があることを示す。一説には旱魃」と。古今注に言う、「九月壬午の日、月が畢口の中に入った」と。)翌年五月、呉郡太守が行丞事を務める羊珍が、越兵の弟である叶や、吏民の呉銅ら二百余人と共に兵を起こして反乱し、吏民を殺害し、官亭や民家を焼き、太守府を攻撃した。太守の王衡が防戦し、吏兵が羊珍らを討ち取った。また、九江の賊である蔡伯流ら数百人が広陵と九江を攻撃し、城郭を焼き、江都長を殺害した。

三年二月辛巳の日、太白星が昼間に現れた。戊子の日、太白星が熒惑星の西南にあり、光芒が互いに犯し合った。辛丑の日、斗ほどの大きさの流星が西北から東へ流れ、長さは八九尺、色は赤黄色で、雷のような轟音がした。三月壬子の日、太白星が昼間に現れた。六月丙午の日、太白星が昼間に現れた。八月(古今注に言う、「己酉の日、熒惑星が太微に入った」と。)乙卯の日、太白星が昼間に現れた。閏月甲寅の日、辰星が輿鬼に入った。己酉の日、熒惑星が太微に入った。乙卯の日、太白星が昼間に現れた。(古今注に言う、「十二月丁卯の日、月が軒轅大星を犯した」と。)太白星は、将軍の星であり、また西州を表す。昼間に現れるのは陰気が盛んで、君主と明るさを争うことを示す。熒惑星と太白星が互いに犯すのは、兵乱と喪を意味する。流星は使者であり、轟音は怒りの象徴である。辰星が輿鬼に入るのは、大臣に死者が出ることを示す。熒惑星が太微に入るのは、乱臣が朝廷内にいることを示す。この時、大将軍の梁商父子が権勢を握っていたため、太白星が常に昼間に現れたのである。その四年正月、南郊で祭祀が行われ、夕牲の儀式の際、中常侍の張逵、蘧政、楊定、内者令の石光、尚方令の傅福らが中常侍の曹騰、孟賁と権力を争い、皇帝に曹騰と孟賁が梁商と謀反を企てていると訴えた。彼らは詔を偽って曹騰と孟賁を逮捕しようとしたが、孟賁が自ら弁明し、順帝は悟って曹騰と孟賁の縄を解いた。張逵らは事がうまくいかないと知り、それぞれ逃走し、ある者は自ら刺し、貂蝉を解いて草むらに投げ捨てて逃亡し、皆捕らえられずに済んだ。その六年、征西将軍の馬賢が北地の射姑山の下で西羌を攻撃したが、父子共に羌に殺害された。これがその応である。

四年七月壬午の日、熒惑星が南斗に入り第三星を犯した。五年四月戊午の日、太白星が昼間に現れた。八月己酉の日、熒惑星が太微に入った。斗は貴相を表し、揚州を表す。熒惑星がこれを犯し入るのは兵乱と喪を意味する。その六年、大将軍の梁商が薨去した。九江と丹陽の賊である周生、馬勉らが兵を起こして郡県を攻め落とした。梁氏がまた朝廷内で権力を独占した。

六年二月丁巳の日、彗星が東方に現れ、長さは六七尺、色は青白で、西南の方角を指し、営室と墳墓里を指した。(郗萌の占いでは、「彗星が出て営室の中を通れば、天下は乱れ、政権が変わる。五色によって吉凶を占う」という。)丁丑の日、彗星が奎宿一度の位置にあり、長さは六尺であった。癸未の日、日没後に現れた。(河図に言う、「彗星が出て奎宿を貫けば、武器庫の兵器が全て出て、禍いは強力な諸侯と外夷にあり、胡が応じて首謀者となる」と。)西北から昴宿、畢宿を経て、甲申の日、東井宿にあり、さらに輿鬼宿、柳宿、七星宿、張宿を経て、その光炎が三台に及び、軒轅の中まで行って消滅した。(古今注に言う、「五月庚寅の日、太白星が昼間に現れた。十一月甲午の日、太白星が昼間に現れた」と。)営室は、天子の常の宮殿である。墳墓は死を司る。彗星が起こって営室と墳墓にあるのは、五年を出ずして天下に大喪があることを示す。その後四年、孝順帝が崩御した。昴宿は辺境の兵を表し、また趙を表す。羌の周馬父子は後に寇となる。また、劉文が清河の相である射暠を脅迫し、王蒜を天子に立てようとしたが、射暠が聞き入れず、劉文は射暠を殺害した。王蒜は門を閉ざして劉文を防ぎ、官兵が劉文を捕らえて誅殺した。王蒜は悪人に脅迫されたことを理由に、尉氏侯に降格され、さらに犍陽都郷侯に移され、薨去して封国は絶えた。東井宿、輿鬼宿を経るのは秦を表し、いずれも羌に攻撃略奪された。光炎が三台に及ぶのは三公を表す。この時、太尉の杜喬と前太尉の李固が梁冀によって陥れられ、文書の罪で死んだ。さらに注宿、張宿は周を表し、軒轅の中で消滅したのは後宮を表す。その後、懿献后が憂いで死に、梁氏が誅殺された。これがその応である。

漢安二年(古今注に言う、「元年二月壬午の日、歳星が太微の中にあった。八月癸丑の日、月が南斗を犯し、魁の中に入った」と。)正月己亥の日、太白星が昼間に現れた。五月丁亥の日、辰星が輿鬼を犯した。(古今注に言う、「丙辰の日、月が斗の中に入った」と。)六月乙丑の日、熒惑星の光芒が鎮星を犯した。七月甲申の日、太白星が昼間に現れた。辰星が輿鬼を犯すのは大喪を意味する。熒惑星が鎮星を犯すのは大人(高位者)の忌みを意味する。翌年八月、孝順帝が崩御し、孝冲帝(古今注に言う、「建康元年九月己亥の日、太白星が昼間に現れた」と。韓揚の占いでは、「天下に喪あり。一説には白衣の会(喪の集い)あり」という。)翌年正月にまた崩御した。

質帝の三番目の年。

孝質帝の本初元年(古今注に言う、「二月丁丑の日、月が南斗に入った」と。)三月癸丑の日、熒惑星が輿鬼に入った。四月辛巳の日、太白星が輿鬼に入った。いずれも大喪を意味する。五月庚戌の日、太白星が熒惑星を犯した。これは逆謀を意味する。閏月一日、孝質帝が梁冀によって毒殺され、崩御した。

校勘記

三二二九頁 六行 閏九月辛未 按ずるに、この注は永平元年の下に繫がれているが、永平元年に閏月はなく、この年の九月は乙卯が朔で、辛未がある。「閏」の字は衍字であろう。

三二二九頁 七行 (陽)〔賜〕爵祿事 盧校は「陽」は「賜」の字の誤りであろうと言う。按ずるに、現在の輯本である開元占経は「賜」と作る。今これに拠って改める。

三二二九頁 八行 (百)〔見〕三十五日去 按ずるに、校補は錢大昭の説を引き、本紀の章懐注が引く伏侯古今注は「彗長三尺許、見三十五日乃去」と作るとする。この「百」の字は「見」と作るべきであろう。今これに拠って改める。

三二三0頁一三行 其十二月楚王英與顏忠等造作妖〔書〕謀反 盧校に拠って補う。按ずるに、集解は洪亮吉の説を引き、「十二月」は「十一月」と作るべきだという。

三二三一頁 九行 後北匈奴寇〔邊〕入雲中至(咸)〔漁〕陽 盧校に拠って補い改める。按ずるに、盧は「寇」の下に「邊」の字があるべきだと言う。「咸」は「漁」と作るべきで、何焯が南匈奴伝によって校改した。

三二三二頁 一行 是時蠻夷陳縱等及哀牢王類〔牢〕反 按ずるに、南蠻伝では「陳縱」を「陳從」と作る。また按ずるに、西南夷伝では「類」の下に「牢」の字がある。今これに拠って補う。

三二三二頁 二行 攻(蕉)〔嶲〕唐城 殿本考證の齊召南は文に按ずると「嶲唐城」と作るべきだと言い、嶲唐は永昌郡に属する県である。また集解は惠棟の説を引き、「焦」は西南夷伝では「嶲」と作るので、伝に従うべきだという。今これに拠って改める。

三二三二頁二行、安夷長宋延。按:西南夷伝では「宋延」を「宗延」と作る。

三二三二頁五行、二(月)〔年〕九(日)〔月〕。殿本考證の李良裘は、書の日例は甲子のみを言うと謂い、ここで兼ねて「九日」と言うのは誤りである。上に「八月庚寅彗星出天巿」と書いており、ここで更に二月の事を記すべきではない。且つ上に「元年正月丁巳」と書いてあるならば、二月九日がどうして甲寅であろうか。下に「十二月戊寅彗星出」と云い、章帝紀を考うるに建初二年にあるので、この「二月九日」は

「二年九月」の誤りである。また集解が引く洪亮吉の説も略同。今これに拠り改む。

三二三二頁八行、甲申金入斗魁。按:建初二年九月乙未朔、甲申無し、注に誤りあり。

三二三二頁九行、五年二月戊辰。按:建初五年二月庚辰朔、戊辰無し、注に誤りあり。

三二三二頁九行、五月戊寅。按:汲本、殿本は「五月」を「三月」と作る。

三二三二頁一二行、元和(元)〔二〕年四月丁巳。盧校に拠り改む。按:章帝は章和二年に崩御、下に「後四年章帝崩」と云う。元和二年より章和二年まで、丁度四年の距離である。

三二三三頁二行、壬戌有流星起天將軍。按:永平元年三月丁亥朔、壬戌無し、志文に誤りあり。

三二三三頁四行、並進兵臨私渠北鞮海。按:「北」は范書竇憲伝に依り「比」と作るべきである。

三二三三頁七行、癸亥鎮在參。按:注は永元元年正月の後に繫ぐ。是年の正月戊子朔を查するに、癸亥無し、注に誤りあり。

三二三三頁一四行、四月丙辰。按:永元二年四月辛巳朔、丙辰無し、志文に誤りあり。

三二三四頁四行、有兵兵罷〔無兵〕兵起。盧校は「兵起」の上に「無兵」の二字が脱けていると謂い、通考にある。今これに拠り補う。

三二三四頁七行、丁丑火在氐東南星東南。按:注は永元二年四月の後に繫ぐ。是年の四月辛巳朔を查するに、丁丑無し、注に誤りあり。

三二三四頁一0行、憲女弟婿郭舉為侍中射聲校尉。按:竇憲伝は「憲女婿」と作り、通鑑同じ。ここに「憲女弟婿」と云う、未だ詳らかにせず孰れか是なるかを。

三二三四頁一一行、至四年六月丙(寅)〔辰〕發覺。集解が引く洪亮吉の説に、案ずるに和帝紀に庚申に北宮に幸し、詔して憲の党を収捕すと云う。則ち此の志の「丙寅」は「丙辰」と作るべきが是なりと謂う。又案ずるに下の五行志に、丙辰地震、後五日詔して憲を収む、丙辰より庚申まで正に五日。今これに拠り改む。

三二三四頁一四行 色白言(義)〔喪〕 汲本、殿本に拠って改める。

三二三五頁 三行 七月、水が大いに漂い人民を殺し五穀を傷つける。許侯馬光、罪有りて自殺す。 按:校補は言う、本書和帝紀を案ずるに、永元六年七月は旱有りて水無し、五行志もまた是の年の七月の水を載せず。また馬光の自殺は、紀では二月に属し、また七月に在らず。

三二三五頁 四行 度遼将軍朱徵と。 按:集解は錢大昕の説を引き、和帝紀、匈奴伝はともに「朱徽」と作すと謂う。

三二三五頁一三行 十一月甲戌。 按:永元七年十一月戊寅朔、甲戌無し、志文に訛り有り。

三二三五頁一四行 十二月己卯。 按:永元七年十二月戊申朔、己卯無し。下に丙辰と云う、則ち「己卯」は「乙卯」の訛なり。

三二三六頁 一行 楽成王宗。 按:校補は錢大昭の説を引き、「宗」は伝では「崇」と作すと謂う。

三二三六頁 二行 遼東鮮卑〔反〕す。太守祭参、虜を追わず、徴されて獄に下り誅さる。 集解は錢大昕の説を引き、鮮卑伝を参考にすべき、当に「鮮卑肥如を寇し、遼東太守祭参、虜を追わず、徴されて獄に下り誅さる」と作すべしと謂う。按:校補は謂う、此の「卑」の下に「反」の字を脱すと。遼東鮮卑とは、鮮卑の種別なり。本書鮮卑伝に参の沮敗の事を載す、亦た原は「遼東鮮卑」と作す。上に既に遼東と言えば、則ち「太守」の上には自ら更に「遼東」の字を出す必要無し、史例然りなり。今校補に依って「反」の字を補う。

三二三六頁 七行 其の出づる日を司りて之を数う。 按:校補は謂う、司は伺と読む。又按:汲本「日」は「入」と作す。

三二三六頁一四行 白狼楼薄種王。 按:集解は惠棟の説を引き、「楼」は和帝紀では「貗」と作すと謂う。

三二三七頁 六行 二月十日丁酉。 按:「十日」の二字は衍すべし。既に丁酉と書けば、更に某日と書くべからず、且つ永元十四年二月壬申朔、丁酉は二十六日なり、十日に非ず。

三二三七頁 六行 十一月丁丑。 按:永元十四年十一月戊戌朔、丁丑無し、注に訛り有り。

三二三七頁一一行 元興元年十〔二〕月(二日)和帝崩ず。 集解が引く錢大昕、洪亮吉の説に拠って改む。

三二三七頁一四行 元興元年二月庚辰。 按:是の月乙酉朔、庚辰無し、志文に訛り有り。

三二三七頁一五行 閏月辛亥。 按:元興元年閏九月辛巳朔、辛亥無し、志文に訛り有り。

三二三八頁 九行 王尊叔元茂等と謀る。 按:汲本「王尊」は「王遵」と作す。

三二三八頁一〇行「刦刺尚書」について。按:『刺』は『敕』の誤りかと疑われる。

三二三九頁五行「四月乙亥」について。按:注は永初二年の下に繫げているが、永初二年四月は丙申朔であり、乙亥の日はない。注に誤りがある。

三二三九頁五行「八月己亥」について。按:この年の八月は甲子朔であり、己亥の日はない。注に誤りがある。

三二三九頁八行「沛王(牙)〔正〕薨」。集解が惠棟の説を引いて、「牙」は「正」とすべきであり、伝写の誤りであるという。これに拠って改める。按:沛王正は、沛獻王輔の孫で、謚は節。

三二三九頁一一行「五月丙寅」について。按:注は永初三年の下に繫げているが、永初三年五月は庚寅朔であり、丙寅の日はない。注に誤りがある。

三二三九頁一一行「國多任刑也」。按:汲本と殿本では「任」を「淫」と作る。

三二三九頁一五行「四年六月甲子」。按:汲本と殿本では「丙子」と作る。

三二三九頁一六行「後太尉〔張禹司空〕張敏〔皆〕免官」。盧校に依拠し、御覧八七五により補う。

三二四〇頁三行「臣昭以占為明〔堂〕豈任尚所能感也」。盧校により補う。按:殿本には「堂」の字があるが、「豈」の字が脱落している。

三二四〇頁八行「六月丙申至戊戌」。按:元初四年六月は癸卯朔であり、丙申、戊戌の日はない。志の本文に誤りがある。

三二四〇頁一一行「自永初五年到永寧十年之中」。按:「十」は原字で「七」と誤っている。そのまま改正する。

三二四一頁三行「黃帝占曰火攻」。按:盧校は、「火攻」は通考では「大敗」と作ると言う。

三二四二頁一行「太白犯昴畢為(近)〔邊〕兵」。盧校により改める。

三二四二頁七行「遣司徒劉喜等」。按:集解が惠棟の説を引いて、「喜」は范書では「熹」と作ると言う。

三二四二頁一一行「元年四月丙午」。按:延光元年四月は乙亥朔であり、丙午の日はない。注に誤りがある。

三二四三頁九行 閏月乙酉 按:永建二年は閏六月乙巳朔であり、乙酉はない。志の文に誤りがある。

三二四三頁一二行 使匈奴中郎将張國 盧校により補う。

三二四三頁一五行 丁巳月犯心 按:注は永建二年二月の下に繫げているが、永元二年二月は丁丑朔であり、丁巳はない。注に誤りがある。

三二四四頁一行 三年二月癸未 按:永建三年二月は辛丑朔であり、癸未はない。注に誤りがある。

三二四四頁九行 敦煌太守徐白 按:集解が引く惠棟の説によれば、西域傳では「白」を「由」と作る。

三二四四頁一0行 使烏桓親漢都尉戎末瘣等出塞 按:集解が引く惠棟の説によれば、鮮卑傳では「末」を「朱」と作る。

三二四四頁一五行 二年四月壬寅 按:陽嘉二年四月は辛未朔であり、壬寅はない。注に誤りがある。

三二四四頁一五行 五月癸巳 按:陽嘉二年五月は庚子朔であり、癸巳はない。注に誤りがある。

三二四四頁一五行 十一月辛未 按:陽嘉二年十一月は戊戌朔であり、辛未はない。注に誤りがある。

三二四四頁一五行 十二月壬寅 按:陽嘉二年十二月は丁卯朔であり、壬寅はない。注に誤りがある。

三二四五頁一行 四月乙卯 按:「四月乙卯」は「十二月辛未」の後に置くべきではない。あるいは「四月」の上に「四年」の二字が脱落しているのかもしれない。しかし陽嘉三年四月は乙丑朔、四年四月は庚申朔であり、いずれも乙卯はない。注に明らかに誤りがある。

三二四五頁一行 永和元年正月丁卯 按:汲本、殿本では「正月」を「五月」と作る。

三二四五頁二行 吳郡太守行丞事羊珍與越兵弟葉吏民吳銅等 按:順帝紀では「吳郡丞羊珍」と作る。「太守」の字は衍字であろう。

三二四五頁四行 又九江賊蔡伯流等數百人攻廣陵九江 集解が引く錢大昕の説によれば、順帝紀では「九江賊」と作る。ここは「九」の字が脱落している。今これに拠り補う。按:盧文弨が云うには、文法が順でない。紀では「攻郡界及廣陵」と云い、これが正しい。

三二四五頁四行 殺江都長 集解が引く錢大昕の説に拠り補う。按:順帝紀に「江」の字がある。

三二四五頁六行 九月壬午 注:注が永和二年の下に繫がっているが、永和二年九月は丙午朔であり、壬午はない。注に誤りがある。

三二四五頁一二行 (陽)〔楊〕定 集解に引く銭大昕の説に拠って改める。

三二四五頁一五行 北地(謝)〔射〕姑山下で西羌を撃つ 順帝紀及び西羌伝に拠って改める。

三二四六頁一二行 廃されて尉氏侯となり、また徙められて犍陽都郷侯となり薨ず 注:清河王蒜は坐して尉氏侯に貶せられたのであり、廃されたとは言えない。文に誤りがある。集解に引く洪頤烜の説によれば、桓帝紀、清河孝王伝ともに蒜が坐して尉氏侯に貶せられ、桂陽に徙められ、自殺したとある。

三二四七頁六行 元年二月壬午 注:漢安元年二月は庚戌朔であり、壬午はない。注に誤りがある。

三二四七頁七行 丙辰月入斗中 注:注が漢安二年五月の後に繫がっているが、漢安二年五月は癸酉朔であり、丙辰はない。注に誤りがある。

三二四七頁一一行 (三)〔二〕月丁丑 盧校が通鑑目録に依って改めたものに拠る。注:この年二月は丁巳朔であり、丁丑がある。三月は丙戌朔であり、丁丑はない。