後漢書
志第十
天文上 王莽の三番目の年、光武帝の十二番目の年
《易》に曰く、「天は象を垂れ、聖人はこれを則る。庖犧氏が天下に王たるや、仰いでは天に象を観、俯しては地に法を観る」と。天に象を観るとは、日月星辰をいう。地に法を観るとは、水土州分をいう。形は下に成り、象は上に見る。故に天とは北辰星であり、元気を合わせ耀きを垂れて帝形を建て、機を運び度を授けて百精を張る。三階九列、二十七大夫、八十一元士、斗・衡・太微・摂提の類。百二十の官、二十八宿はそれぞれ布列し、下は十二支に応ず。天地に位を設け、星辰の象は備わる。
〈>
三皇は教化を進め、神と調和して純朴であり、五星が連珠の如く、日月が合璧の如しと言われた。教化は自然によるもので、民は悪を犯さなかった。書契が興り、五帝がこれを作るに至った。軒轅(黄帝)は初めて『河図斗苞授』を受け、日月星辰の象を規し、故に星官の書は黄帝より始まる。高陽氏(顓頊)に至っては、南正の重に天を司らせ、北正の黎に地を司らせた。唐・虞の時代には、羲仲と和仲がいた。
〈尚書には「帝は琁璣玉衡に在りて、以て七政を斉う」とある。孔安國は「『在』は察するなり。『琁』は美玉なり。『璣衡』は王者が天文を正す器にして、運転すべきものなり。『七政』は日月五星、各政を異にするなり。舜は天文を察し、七政を斉うなり」と注釈している。〉
夏には昆吾がおり、湯には巫咸がおり、周には史佚と萇弘がおり、宋には子韋がおり、楚には唐蔑がおり、魯には梓慎がおり、鄭には裨竈がおり、魏には石中夫がおり、
(あるいは石申父ともいう。)
斉国には甘公がおり、みな天文を掌る官であった。天を仰ぎ占い、下を観察して、時政を補佐し;変化を推歩し微細を摘示して、奥深く通じ極めて緻密であり;禍福の根源を探り、成敗の勢いを見た。秦は『詩経』『書経』を焼き、百姓を愚かにし、六経の典籍は灰燼に帰したが、星官の書は完全で毀されなかった。ゆえに『秦史』は始皇の時に、彗星が大角星を犯し、大角星が亡び、大きな星と小さな星が宮中で闘ったことを記し、これがその廃亡の兆しであった。漢が興り、景帝・武帝の時代になると、司馬談、談の子の遷は、世々黎氏の後裔として、太史令となり、遷は『史記』を著し、『天官書』を作った。成帝の時、中壘校尉の劉向は、『洪範』の災異条を広げて五紀皇極の論を作り、過去の行いを参照した。孝明帝は班固に命じて『漢書』を編纂させ、馬続に『天文志』を述べさせた。
史記
成帝の時、中壘校尉の劉向は、『洪範』の災異条を広げて五紀皇極の論を作り、過去の行いを参照した。孝明帝は班固に命じて『漢書』を編纂させ、馬続に『天文志』を述べさせた。
洪範
成帝の時、中壘校尉の劉向は、『洪範』の災異条を広げて五紀皇極の論を作り、過去の行いを参照した。孝明帝は班固に命じて『漢書』を編纂させ、馬続に『天文志』を述べさせた。
漢書
成帝の時、中壘校尉の劉向は、『洪範』の災異条を広げて五紀皇極の論を作り、過去の行いを参照した。孝明帝は班固に命じて『漢書』を編纂させ、馬続に『天文志』を述べさせた。
(謝沈の書に言う。「蔡邕は建武以後の、星の験証が著明なものを撰述し、前志を継ぎ、譙周がその後に接続した。」)
今、『漢書』を継いで『天文志』を作る。王莽が居摂元年に摂政となった時から始め、孝献帝に至るまでを記す。
建安二十五年
二百一十五年の間。その時の星辰の変異と、それに応じた表象を述べ、天の戒めを顕わし、王事を明らかにする。
〈〉
王莽三
王莽
地皇三年
十一月、星が張宿に彗星のように現れ、東南へ五日間進んで見えなくなった。孛星とは、悪気が生じたもので、乱兵の兆しである。
〈星占いでは言う。「その国は内外で兵を用いるであろう」と。〉
それは徳を乱すものである。徳を乱すとは、乱の象徴であり、明らかでないことの表れである。また、参然として彗星のように現れるのは、兵事の類いである。ゆえにこれを孛と名付ける。孛という言葉は、なお害を被り、妨げられ蔽われるところがあるという意味である。あるいはこれを彗星と呼び、穢れを除き新しきを布くものとする。
〈宋均が注釈した『鉤命決』に言う。「彗は五彗である。蒼色ならば王侯が破れ、天子は兵事に苦しむ。赤色ならば賊が起こり、強国がほしいままになる。黄色ならば女色の害があり、権力が后妃に奪われる。白色ならば将軍が逆らい、二年後に兵事が大いに起こる。黑色ならば水の精が賦役を課し、江河が決壊し、賊が至る所で起こる」と。韓揚の占いでは言う。「その形状は竹の彗や樹木の枝のようで、長短は一定しない。それが長大で長く見えるほど、災いは深い。短小で見える期間が短いほど、災いは狭い」と。『晏子春秋』に言う。「斉の景公が彗星を見て、伯常騫にそれを祓わせようとした。晏子が言った。『いけません。これは天の教えです。日月の気が乱れ、風雨が時を失い、彗星が出現するのは、天が民の乱のためにこれを見せるのです』」と。また別の説に言う。「景公は彗星が出て泣いた。晏子がその理由を尋ねた。公は言った。『寡人は聞いている。彗星が出ると、その向かう国の君主がそれに当たると。今彗星が出て我が国に向かっている。それゆえに悲しんでいるのだ』と。晏子は言った。『君の行いと義(は邪曲で)、国に対して徳がありません。(陂)池を穿つには深く広くしたいと思い、台榭を造るには高く大きくしたいと思い、賦斂は奪い取るようであり、誅戮は仇敵に対するようです。これを見るに、孛星がまた出るでしょう。彗星の出現を、どうして(恐)れる必要がありましょうか』」と。案ずるに、晏子の言葉によれば、孛と彗とは、同じではないようである。〉
張宿は周の地に対応する。彗星が張宿に現れ、東南方向へ進み翼宿・軫宿の区域に入った。翼宿・軫宿は楚に対応する。これは周・楚の地に兵乱が起こる兆しである。その一年後の正月、光武帝が春陵で兵を挙げ、下江・新市の賊である張卬・王常および更始帝の軍も到着し、共に南陽を攻め落とし、王莽の前隊大夫甄阜・属正梁丘賜らを斬り、その兵士数万人を殺した。更始帝が天子となり、洛陽に都を置き、西進して長安に入ったが、敗れて死んだ。光武帝は河北で興り、再び洛陽を都とし、周の地に居を構えた。これは穢れを除き新しきを布く象である。
四年(地皇四年、23年)六月、漢軍が南陽で挙兵し、昆陽に至った。王莽は司徒王尋・司空王邑に諸郡の兵を率いさせ、百万と号する軍勢で、既に到着した者は四十二万人であった。兵法に通じる者六十三家を全て将帥とし、その図書や器械を持たせた。軍は関東を出て、群象や虎狼猛獣を引き連れ、道路上に放ち、富強を示して山東を怖れさせようとした。昆陽山に至り、百余りの陣営を築き、城を数重に包囲し、あるいは衝車で城を撞き、あるいは十丈の高さの雲車を築いて城中を見下ろし、弩の矢が雨のように降り注ぎ、城中では戸板を背負って水を汲んだ。降伏を願い出ても聞き入れられず、出て行くことも許されなかった。二公(王尋・王邑)の軍は必ず勝つと自負し、軍務を顧みず、計略も練らなかった。王莽に覆敗の変事が現れたのである。昼間に山が崩れるような雲気が軍の上に堕ち、兵士は皆うなだれた。これがいわゆる営頭の星である。占いでは「営頭の堕ちる所、その下では軍が覆り、三千里に血が流れる」という。
(袁山松の『後漢書』に「怪星が昼間に現れ、名を営頭といい、行って大いなる誅罰を振るう」とある。)
この時、光武帝が兵数千を率いて昆陽救援に駆けつけ、二公の軍に奔撃し、力を合わせて疾風の如く奮い立ち、叫び声は天地を動かし、虎豹も驚き恐れて敗れ震えた。折しも大風が起こり、屋根瓦が飛び、雨が注ぐように降った。二公の軍は乱れて敗れ、互いに賊と化して殺し合い、その場で死んだ者は数万人に上った。競って滍水に赴き、死者が積み重なり、滍水は流れを止めた。司徒王尋を殺した。軍は皆散り散りになって各々の郡に帰った。王邑は長安に帰還したが、王莽が敗れ、共に誅殺された。営頭の変事が、軍の覆滅と流血の応報となったのである。
四年(地皇四年、23年)秋、太白星(金星)が太微垣の中にあり、月光のように地を照らした。太白は兵を、太微は天の朝廷を表す。太白が勢いを増して北から太微に入るのは、大軍が天子の朝廷に入ろうとする兆しである。この時、王莽が二公の軍を昆陽に派遣したが、既に光武帝に破られていた。王莽はさらに九人を将軍に任じ、皆虎を号とした。九虎将軍は華陰に至り、全て漢の将軍鄧曄・李松に破られた。進軍して京師を攻め、倉将軍韓臣は長門に至った。十月戊申の日、漢軍が宣平城門から入った。二日後の己酉の日、城中の少年朱弟・張魚ら数千人が兵を挙げて王莽を攻め、作室門を焼き、敬法闥を斧で破った。商人の杜呉が漸台の上で王莽を殺し、校尉公賓就が王莽の首を斬った。大軍が宮廷の中を踏みにじった。その後、更始帝が長安に入り、赤眉賊が劉盆子を立てて天子としたが、いずれも大軍が宮廷に入ったことで、これがその応報である。
光武帝紀十二
光武帝
(『古今注』に「建武六年(30年)九月丙戌、月が太微垣の西の藩(垣)を犯す。十一月辛亥、月が軒轅を犯す。七年(31年)九月庚子、土星が鬼宿の中に入る」とある。漢代の史書には「鎮星(土星)が逆行して輿鬼(鬼宿)に入る。女主や貴い親族に憂いあり」と。巫咸は「土木工事の事あり」という。この年、太白星が太微垣を通った。八年(32年)四月辛未、月が房宿の第二星を犯し、光芒が見えなくなった。九年(33年)正月乙卯、金星が婁宿の南星を犯す。甲子、月が軒轅の第二星を犯す。壬寅、心宿の大星を犯す。七月戊辰、月が昴宿を並行して犯す。黄帝の星占いには「土星が鬼宿を犯せば、皇后に憂いあり、その勢いを失う」と。『河図』には「月が房宿を犯せば、天子に憂いあり、四足の虫多く死す」と。漢代の史書には「その国に憂いあり、将軍死す」と。また『厳光伝』を案ずるに、光が帝と寝て、足を帝の腹の上に載せた時、太史が客星が帝座を犯すこと甚だ急なりと奏上した。)
建武九年(33年)
七月乙丑、金星が軒轅の大星を犯す。十一月乙丑、金星が再び軒轅を犯す。
(孟康は言う、「犯とは、七寸以内で光芒が互いに及ぶことである」。韋昭は言う、「下から上へ触れることを犯という」。〉
軒轅は後宮の官であり、大星は皇后を表す。金星がこれに犯すのは失勢を意味する。この時、郭后はすでに失勢し疎んじられ、後に廃されて中山太后となり、陰貴人が皇后に立てられた。
十年三月癸卯、流星が月のようであり、太微から出て北斗の魏第六星に入り、色は白かった。傍らに小星が射るものが十余枚あり、消える時に声が雷のようであり、食頃で止んだ。
〈孟康は言う、「流星とは、光の跡が連なっているものであり、跡を絶って去るのを飛という」。〉
流星は貴い使者である。星が大きければ使者も大きく、星が小さければ使者も小さい。太微は天子の廷であり、北斗の魁は殺を主る。星が太微から出て北斗の魁に至るのは、天子の大使が将に出て、何かを伐ち殺すことである。
〈古今注に言う、「正月壬戌、月が心の後星を犯す。閏月庚辰、火星が輿鬼に入り、軫の北を過ぎる。庚申、月が斗にあり、赤く丹のようである」。〉
十二月己亥、大流星が缶のようであり、柳から出て西南に行き、軫に入った。かつ消える時に、十余に分かれ、遺火のようであった。須臾にして声があり、隐隐として雷のようであった。柳は周を表し、軫は秦・蜀を表す。大流星が柳から出て軫に入るのは、大使が周から蜀に入ることである。この時、光武帝は大司馬呉漢に命じて南陽の卒三万人を発し、船に乗って江を遡上させ、蜀の白帝公孫述を撃たせた。
〈臣昭が言う、述は白をもって黄を承けたが、これによって遂に白帝と号した。文が繁長であり、書例としては通じていない。〉
また将軍の馬武、劉尚、郭霸、岑彭、馮駿に命じて武都と巴郡を平定させた。十二年十月、漢軍は進軍して公孫述の従弟である衛尉の公孫永を攻撃し、ついに広都に至り、公孫述の女婿である史興を殺した。威虜将軍の馮駿は江州を陥落させ、公孫述の将である田戎を斬った。呉漢はまた公孫述の大司馬である謝豊を攻撃し、五千余りの首級を斬った。臧宮は涪を破り、公孫述の弟で大司空の公孫恢を殺した。十一月丁丑の日、漢の護軍将軍である高午が公孫述を刺し、その胸を貫き、その夜に公孫述は死んだ。翌日、呉漢が蜀城に入り、屠殺し、公孫述の大将である公孫晃、延岑らを誅殺し、殺した者は数万人に及び、公孫述の妻子と宗族一万余人以上を滅ぼした。これは大将が出征して殺戮したことの応報である。その小さな星が射るもの、および遺火のように分かれて十余りになるものは、皆、小将が随従する象徴である。雷のように隠然と音がするのは、兵将が怒る徴候である。
十二年正月
(『古今注』にいう。「丁丑の日、月が軒轅の大星に乗った。」)
己未の日、小さな星が百個以上流れ、あるものは西北へ、あるものは真北へ、あるものは東北へと流れ、二晩で止んだ。
(『古今注』にいう。「二月辛亥の日、月が氐宿に入り、暈と珥が角宿、亢宿、房宿を囲んだ。」)
六月戊戌の日の辰の刻、小さな流星が百個以上、四方へ流れた。小さな星は、庶民の類である。流れ行くのは、移り住む象徴である。あるものは西北へ、あるものは東北へ、あるものは四方へ流れるのは、皆、小民が流亡移住する徴候である。この時、西北では公孫述を討伐し、北では盧芳を征討していた。匈奴が盧芳を助けて辺境を侵し、漢は将軍の馬武、騎都尉の劉納、閻興に命じて軍を下曲陽、臨平、呼沱に駐屯させ、胡族に備えさせた。匈奴が河東に入り、中国は未だ安定せず、米穀は凶作で高価になり、民はあるいは流散した。三年後、呉漢と馬武はまた雁門、代郡、上谷、関西の県の官吏と民六万余口を移住させ、常山関、居庸関より東に置き、胡寇を避けさせた。これは小民が流亡移住したことの応報である。
(『古今注』にいう。「その年の七月丁丑の日、月が昴宿の頭の二星を犯した。八月辛酉の日、水星が東方の翼宿の分野に現れた。九月甲午の日、火星が輿鬼宿を犯した。十月丁卯の日、大きな星が流れ、光を放ち、東井宿から西へ行き、声は隆隆と響いた。十三年二月乙卯の日、火星が輿鬼宿の西北を犯した。」『黄帝占』にいう。「熒惑(火星)が輿鬼宿を守ると、大人に憂いがある。」一説には貴人がこれに当たるという。巫咸はいう。「水星が翼宿に現れると、火災が多い。」石氏はいう。「旱魃となる。」郗萌の占いにはいう。「流星が東井宿から出ると、その行く先の国は大水に見舞われる。」)
十五年正月丁未の日、彗星が昴宿に現れた。
(炎の長さは三丈であった。韓揚は占って言った。「昴宿にあるのは、大国が兵を起こす兆しである」。〉
次第に西北へ進み、営室に入り、離宮を犯した。
〈韓揚は占って言った。「彗星が営室・東壁の間に出るのは、兵が起こる兆しである」。〉
三月乙未、東壁に至って消滅し、四十九日間出現した。彗星は兵事として除穢の役割を果たし、昴宿は辺境の兵事を表す。彗星が昴宿から出るのは兵が来る兆しである。十一月、定襄都尉の陰承が反乱を起こし、太守は彼を誅殺した。盧芳が匈奴に従って高柳に入り、十六年十月に降伏し、璽綬を奉った。一説によると、昴星は獄事を表す。この時、大司徒の欧陽歙が事件で獄に繋がれ、一年余りして死んだ。営室は天子の常宮であり、離宮は妃后の居所である。彗星が営室に入り離宮を犯すのは、宮室を除くことである。この時、郭皇后は既に疎遠になっており、十七年十月、遂に廃されて中山太后とされ、陰貴人が皇后に立てられた。これは宮室を除く象であった。
〈古今注に言う。「十六年四月、土星が逆行した。十七年三月乙未、火星が逆行し、東門から太微に入り、執法星の東に至り、己酉、南の端門から出た。十八年十二月壬戌、月が木星を犯した。十九年閏月戊申、火星が逆行し、氐宿から亢宿に至った。二十一年七月辛酉、月が畢宿に入った。二十三年三月癸未、月が火星を食った」。郗萌は言う。「熒惑が氐宿を逆行するのは失火の兆しである」。〉
三十年閏月甲午、水星が東井二十度にあり、白気が生じ、東南を指し、炎の長さ五尺、彗星となり、東北へ進み、紫宮の西の藩に至って止まった。五月甲子に見えなくなり、合わせて三十一日間出現した。水星は常に夏至の頃に東井に現れるが、閏月は四月であり、まだ現れるべき時でないのに現れたのは、盈ちて進んだためである。東井は水衡を表し、水星がそこから出るのは大水の兆しである。この年の五月及び翌年、郡国で大水が起こり、城郭を壊し、禾稼を傷つけ、人民を殺した。白気は喪を表し、炎が起こって彗星となる。彗星は穢れを除くものである。紫宮は天子の宮であり、彗星がその藩に加わるのは、宮を除く象である。
〈荊州星経に言う。「彗星が東井にあると、国の大人が死ぬ。七十日で主が当たり、五十日で相が当たり、三十日で兵将が当たる」。〉
その後三年、光武帝が崩御した。
三十一年七月
〈古今注にいう、「戊申の日、月が心宿の後星を犯した。」〉
戊午の日、火星は輿鬼一度にあり、鬼宿の中に入り、尸星の南半度から出た。十月己亥の日、軒轅大星を犯した。また七星の間に客星があり、炎の長さは二尺ほどで、西南に向かって進み、翌年の二月二十二日、輿鬼の東北六尺ほどのところで消滅した。出現していた期間は合わせて百十三日であった。
〈〉
火星は凶悪と衰退を表し、輿鬼の尸星は死亡を司り、火星がそこに入ると大喪が起こる。軒轅は後宮を表す。七星は周の地を表す。客星がそこに留まると死喪が起こる。その後二年して、光武帝が崩御した。
中元
〈古今注にいう、「元年三月甲寅、月が心の後星を犯す。」〉
二年(建武二年)八月丁巳の日、火星が太微垣の西南角の星を犯し、距離は二寸であった。十月戊子の日、大きな流星が西南から東北へ流れ、音は雷のようであった。火星が太微垣の西南角の星を犯すのは、将相に関する兆しである。その後、太尉の趙憙と司徒の李䜣が事に坐して免官された。大きな流星は使者の兆しである。中郎将の竇固、揚虚侯の馬武、揚郷侯の王賞が兵を率いて西方を征討した。
校勘記
三二一三頁 七行 下應十二子 按:校補謂「子」疑「野」之訛。
三二一四頁一一行 軒轅が初めて河圖闓苞を受けて、日月星辰の象を規として授けられた。 按:集解に引く惠棟の説によれば、闓苞受は河圖の篇名であり、李善の文選注に見える。「鬥」は「闓」とすべきであり、「授」は「受」とすべきであり、「規」の字は下に続けて読む。羅泌は「鬥苞」を黄帝の臣の名とするが、それは誤りである。
三二一五頁一0行 (之)〔定〕を用いて霊軌を定む 汲本に拠って改む。按:校補は張衡伝注が「定」と作すとし、「之」の字は誤りであるという。
三二一五頁一一行 その中はただ虚なり 按:汲本、殿本は「虚」を「霊」と作す。
三二一六頁 三行 重差鉤股を用いる 按:嚴可均輯全後漢文は「重」の下に「差」の字があり、ここは脱落している。
三二一六頁 五行 地は陰淳をもってす 按:開元占経は「淳」を「浮」と作し、これが正しい。嚴輯全後漢文も同じ。
三二一六頁 六行 承施候明 嚴輯全後漢文は「承候施明」と作す。按:上に「稟気舒光」と言い、承候と稟気が対句をなすので、「承候施明」と作すのが正しいようである。
三二一六頁 六行 寒暑減ぜず 按:開元占経は「減」を「忒」と作し、これが正しい。嚴輯全後漢文も同じ。
三二一六頁 七行 (地)至質なる者は地のみと曰う 開元占経及び嚴輯全後漢文に拠って削る。
三二一六頁 八行 漢は天に用いて列せず 按:開元占経は「用」を「周」と作し、これが正しい。嚴輯全後漢文も同じ。
三二一六頁一0行 白虎猛として右に拠る 按:「白」は原訛「召」、汲本、殿本に拠って直ちに改正する。
三二一六頁一三行 姮娥これを窃みて以て月に奔る 按:「姮」は原訛「恒」、直ちに改正する。
三二一六頁一六行 (他)〔地〕に蔽わるなり 汲本に拠って改む。
三二一六頁一七行 日の地に薄くするや、その明なり 按:隋書天文志、開元占経及び嚴輯全後漢文は「其」の上にいずれも「暗」の字がある。
三二一六頁一七行 ここを以てこれを望めば火の若し 按:隋書天文志及び嚴輯全後漢文は「火」をいずれも「大」と作す。
三二一六頁一七行 故にこれを望めば水の若し 按:隋書天文志及び嚴輯全後漢文は「水」をいずれも「小」と作す。
三二一七頁三行「五緯經次」について。按:盧校は、晋志及び史記正義では「經次」は皆「躔次」と作ると言う。
三二一七頁五行「至〔地〕則石〔矣〕」について。開元占経及び厳輯『全後漢文』により補う。
三二一七頁七行「逆則遲」について。按:「則」は原字が「時」と誤っている。汲本、殿本に基づき直接改正した。
三二一七頁七行「日與月此配合也」について。按;開元占経では「此」を「以」とし、厳輯『全後漢文』では「共」とする。
三二一七頁八行「地候見晨」について。按:「候」は原字が「侯」と誤っている。直接改正した。
三二一七頁一五行「灰滅雨絕世路無由」について。按:殿本では「雨」を「兩」とする。盧校は宋志では「世」を「勢」とすると言う。
三二一八頁五行「張卬」について。「卬」は原字が「卯」と誤っている。直接改正した。按:恵棟補注本に「張卬」の二字を出し、劉玄伝注が引く続漢書では「卬」を「印」と作ると言う。張森楷校刊記は、光武紀では「張卬」と作る、袁紀、通鑑も「卬」字であり、恐らく卬字が正しいと考える。しかし劉玄伝注が引く続漢書では「卬」を「印」と作るのであれば、范書は自ら「卬」とし、本志は自ら「印」と作るのであろうと言う。
三二一八頁一一行「使伯常騫攘之」について。汲本では「攘」を「禳」とし、殿本では「穰」とする。按:攘は禳に通じるが、穰は誤字である。
三二一八頁一三行「君之行義(固應)〔回邪〕」について。按:盧校は「固應」は誤りで、本書に基づき「回邪」と改めると言う。今これに拠って改める。
三二一八頁一三行「穿(開)〔陂〕池」について。汲本、殿本に基づき改める。
三二一八頁一四行「庸何(巨)〔懼〕乎」について。汲本、殿本に基づき改める。
三二一九頁二行「或為衝車以撞城」について。按:「撞」は原字が「橦」と誤っている。直接改正した。
三二一九頁一三行「燒作室〔門〕」について。校補は、前書王莽伝では「燒作室門」と作るので、ここは「門」字が脱落していると言う。今これに拠って補う。
三二一九頁一四行「校尉公賓就斬莽首」について。按:校補が引く柳従辰の説によれば、袁紀及び荀悦漢紀は皆「公孫賓就斬莽首」とし、班、范、本志とは異なると言う。
三二二0頁四行「建武六年九月丙戌」について。按:この年の九月は丁酉朔であり、丙戌はない。誤りがあるはずである。
三二二〇ページ六行目 壬寅、心大星を犯す。按ずるに、盧校は上に甲子があるから、これは「丙寅」であるべきだという。
三二二〇ページ一〇行目 十年三月癸卯。按ずるに、建武十年三月は丁未朔であり、癸卯はない。志の文に誤りがある。
三二二〇ページ一三行目 柳より出でて西南に行き軫に入る。按ずるに、「軫」は「井」であるべき。詳細は下条に記す。
三二二〇ページ一三行目 軫は秦・蜀に当たる。按ずるに、集解が引く恵棟の説によれば、李殿学が云うには、軫がどうして秦・蜀に当たるのか、これは「井」の字である。呉越の音が訛って誤って書かれたのであろう。上文の「西南行」を見ればわかる。
三二二一ページ二行目 威虜将軍馮駿が江州を陥落させた。按ずるに、殿本考証の斉召南は、公孫述伝では「破虜将軍」とし、光武紀ではまた「威虜将軍馮峻」としているという。
三二二一ページ四行目 公孫晃。按ずるに、集解が引く恵棟の説によれば、「晃」は一説に「光」とし、述の弟である。
三二二一ページ五行目 述の妻子と宗族一万余人以上を誅滅した。按ずるに、「妻」の下に「子」の字が脱落している疑いがある。
三二二一ページ八行目 閏月庚辰、火が輿鬼に入り、軫の北を過ぎる。庚申、月が斗にある。按ずるに、この注は建武十年三月の後に繫がれているが、建武十年に閏月はない。十一年閏三月、辛未朔であり、庚辰・庚寅はあるが庚申はない。注に誤りがある。
三二二一ページ一〇行目 十二年正月己未。按ずるに、建武十二年正月は丙寅朔であり、己未はない。志の文に誤りがある。
三二二一ページ一二行目 この時、西北で公孫述を討った。按ずるに、集解が引く張永祚の説によれば、公孫述は西南にいるので、「北」の字は誤りである疑いがある。
三二二一ページ一四行目 常山関・居庸関以東に置く。盧校に拠り補う。
三二二二ページ三行目 九月甲午、火が輿鬼を犯す。十月丁卯、大星が流れる。按ずるに、建武十二年九月は壬戌朔であり、甲午はない。十月は壬辰朔であり、丁卯はない。注に誤りがある。
三二二二ページ一〇行目 これは宮室を取り除くことである。按ずるに、「除」は原字が「際」と誤っているので、直接に訂正した。
三二二二ページ一四行目 十七年三月乙未。按ずるに、建武十七年二月は丙申朔であり、乙未は二月の晦日である。注に誤りがある。
三二二三ページ六行目 七十日、主がこれに当たる。按ずるに、殿本では「主」を「王」としている。
三二二三頁八行にまた七つの星の間に客星がある。盧校に基づいて改める。按:盧は「日」は誤りとし、李殿学は下文に基づいて改めた。
三二二三頁一三行に火が金を剋す。按:「剋」は原本では「刻」であったが、汲本・殿本に基づいて直接改正した。
三二二三頁一五行に干鉞が質を乗せる者がある。汲本・殿本に基づいて改める。
三二二四頁一行に十月戊子。按:建武中元二年十月は庚寅朔であり、戊子はない。志に誤りがある。
三二二四頁三行に兵を率いて西を征伐する。按:盧は通考では「征西」を「西征」と作ると言う。