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後漢書
巻一百・天文上 王莽三 光武十二
『易経』に言う。「天は象を垂れ、聖人はこれに則る。庖犧氏が天下を王たるや、仰いでは天に象を観、俯しては地に法を観る」と。天に象を観るとは、日月星辰を指す。地に法を観るとは、水土州分を指す。形は下に成り、象は上に見える。故に言う、天とは北辰星であり、元を合して耀きを垂れ帝形を建て、機を運び度を授けて百精を張る。三階九列、二十七大夫、八十一元士、斗・衡・太微・摂提の類。百二十の官、二十八宿はそれぞれ布列し、下は十二子に応ずる。天地に位を設け、星辰の象は備わる。(星経に言う。「歳星は泰山、徐州・青州・兗州を主る。熒惑は霍山、揚州・荊州・交州を主る。鎮星は嵩高山、豫州を主る。太白は華陰山、涼州・雍州・益州を主る。辰星は恒山、冀州・幽州・并州を主る。歳星は角・亢・氐・房・心・尾・箕を主る。熒惑は輿鬼・柳・七星・張・翼・軫を主る。鎮星は東井を主る。太白は奎・婁・胃・昴・畢・觜・参を主る。辰星は斗・牛・女・虚・危・室・壁を主る。琁・璣とは、北極星を指す。玉衡とは、北斗九星を指す。玉衡第一星は徐州を主り、常に五子の日に候う。甲子は東海、丙子は琅邪、戊子は彭城、庚子は下邳、壬子は広陵、合わせて五郡。第二星は益州を主り、常に五亥の日に候う。乙亥は漢中、丁亥は永昌、己亥は巴郡・蜀郡・牂牁、辛亥は広漢、癸亥は犍為、合わせて七郡。第三星は冀州を主り、常に五戌の日に候う。甲戌は魏郡・勃海、丙戌は安平、戊戌は鉅鹿・河間、庚戌は清河・趙国、壬戌は恒山、合わせて八郡。第四星は荊州を主り、常に五卯の日に候う。乙卯は南陽、己卯は零陵、辛卯は桂陽、癸卯は長沙、丁卯は武陵、合わせて五郡。第五星は兗州を主り、常に五辰の日に候う。甲辰は東郡・陳留、丙辰は済北、戊辰は山陽・泰山、庚辰は済陰、壬辰は東平・任城、合わせて八郡。第六星は揚州を主り、常に五巳の日に候う。乙巳は豫章、辛巳は丹陽、己巳は廬江、丁巳は呉郡・会稽、癸巳は九江、合わせて六郡。第七星は豫州を主り、常に五午の日に候う。甲午は潁川、壬午は梁国、丙午は汝南、戊午は沛国、庚午は魯国、合わせて五郡。第八星は幽州を主り、常に五寅の日に候う。甲寅は玄菟、丙寅は遼東・遼西・漁陽、庚寅は上谷・代郡、壬寅は広陽、戊寅は涿郡、合わせて八郡。第九星は并州を主り、常に五申の日に候う。甲申は五原・雁門、丙申は朔方・雲中、戊申は西河、庚申は太原・定襄、壬申は上党、合わせて八郡。琁・璣・玉衡の色を占うに、春は青黄、夏は赤黄、秋は白黄、冬は黒黄。これが常に明るい状態である。このようでない場合、向かう国に兵災が起こる。合わせて六十郡あり、九州が統轄するものは、それぞれ分かれて名がある。」)
三皇は教化を進め、神と協調して純朴であり、五星が連珠の如く、日月が合璧の如しと言われた。化は自然に由り、民は悪を犯さなかった。書契の興りに至り、五帝がこれを作した。軒轅(黄帝)は初めて『河図斗苞授』を受け、日月星辰の象を規し、故に星官の書は黄帝より始まる。高陽氏(顓頊)に至り、南正の重に天を司らせ、北正の黎に地を司らせた。唐・虞の時には、羲仲・和仲(『尚書』に曰く「帝は琁璣玉衡に在り、以て七政を斉う」と。孔安国が曰く「在は察なり。琁は美玉なり。璣衡は王者が天文を正す器にして、運転し得るものなり。七政は日月五星各々政を異にす。舜は天文を察し、七政を斉うなり」と)がおり、夏には昆吾、湯には巫咸、周には史佚・萇弘、宋には子韦、楚には唐蔑、魯には梓慎、鄭には裨竈、魏には石中夫(或いは石申父とも云う)、齐国には甘公がおり、皆天文を掌る官であった。仰いで占い、俯して視て、以て時政を佐け;歩変し微を擿て、密至に通洞し;禍福の原を採り、成敗の勢を覩た。秦は『詩』『書』を焚き、以て百姓を愚かにし、六経の典籍は灰炭と化して残ったが、星官の書は完全で毀されなかった。故に『秦史』は始皇の時に、彗孛が大角に現れ、大角は以て亡び、大星と小星が宮中で闘うことを書き、これがその廃亡の徴であった。漢が興り、景帝・武帝の際に至り、司馬談、談の子の遷は、世々黎氏の後として、太史令となり、遷は『史記』を著し、『天官書』を作った。成帝の時、中垒校尉の劉向は、『洪範』の災条を広めて五紀皇極の論を作り、以て往行の事に参した。孝明帝は班固に命じて『漢書』を叙せしめ、馬続に『天文志』を述べさせた。(謝沈の書に曰く「蔡邕は建武以後の星験著明なるものを撰び、以て前志に継ぎ、譙周はその下に接続す」と。)今『漢書』を継いで『天文志』を作る。王莽の居摄元年より起こり、孝献帝の建安二十五年に至る、二百一十五年間である。その時の星辰の変、表象の応を言い、以て天戒を顕わし、王事を明らかにする。(臣昭は按ずるに、張衡の天文の妙は一代を冠絶す。著すところの霊憲・渾儀は、略々辰燿の本を具えたり。今これを写載して以てその理を備う。霊憲に曰く「昔、先王、将に天路を歩まんとし、用て霊軌を定め、緒本元を尋ぬ。先ず渾体に準う、是れ正儀を立て度を為し、而して皇極に逌りて建つ有り、枢運に逌りて稽る有り。乃ち建ち乃ち稽り、斯れ天常を経る。聖人は心無く、茲に因りて以て心を生ず、故に霊憲作興す。曰く、太素の前は、幽清玄静、寂漠冥默、象と為すべからず、厥の中は惟だ虚、厥の外は惟だ無。是の如き者永久なり、斯れを溟涬と謂い、蓋れ乃ち道の根なり。道根既に建てられ、自ずから無より有を生ず。太素始めて萌し、萌して未だ兆さず、気を併せ色を同じくし、渾沌として分かたず。故に道志の言に云う『物有り渾成し、天地に先だちて生ず』と。其の気体固より未だ形を得べからず、其の遅速固より未だ紀すべからず。是の如き者又永久なり、斯れを庬鴻と為し、蓋れ乃ち道の幹なり。道幹既に育ち、物有りて体を成す。ここにおいて元気剖判し、剛柔始めて分かれ、清濁位を異にす。天は外に成り、地は内に定まる。天は陽に体し、故に円くして以て動く;地は陰に体し、故に平らかにして以て静かなり。動きて以て施を行い、静かにして以て化を合わし、堙鬱して精を構え、時に庶類を育す、斯れを太元と謂い、蓋れ乃ち道の実なり。天に在りて象を成し、地に在りて形を成す。天に九位有り、地に九域有り;天に三辰有り、地に三形有り;象有りて効すべく、形有りて度るべし。情性万殊、旁通感薄し、自然相生し、之を能く紀するもの莫し。ここにおいて人の精なる者聖を作す。実に始めて紀綱して之を経緯す。八極の維は、径二億三万二千三百里、南北は則ち短く千里を減じ、東西は則ち広く千里を増す。地より天に至るは、八極の半ばに於いて、則ち地の深さも亦之の如し。通じて之を度れば、則ち是れ渾已り。将に其の数を覆わんとし、重鉤股を用い、天を懸ける景、地に薄れる義、皆千里を移して一寸の差を得る。此を過ぎて往く者は、未だ或いは知らざるなり。未だ或いは知らざる者は、宇宙の謂いなり。宇の表は極無く、宙の端は窮み無し。天に両儀有り、以て道中に儛う。其れ睹るべきは、枢星是れなり、之を北極と謂う。南に在る者は著わさず、故に聖人は之に名せず。其の世の遂ぐるや、九分して二を減ず。陽道は左に迴る、故に天運は左に行く。物に験有れば、則ち人の気は左に羸え、形は左に繚るなり。天は陽を以て迴り、地は陰を以て淳む。是の故に天は其の動を致し、気を稟き光を舒く;地は其の静を致し、施を承け明を候う。天は順動を以てし、其の中を失わざれば、則ち四序順至し、寒暑減せず、生を致すに節有り、故に品物用て生ず。地は霊静を以てし、作合して天を承け、清化して養を致し、四時にして後に育つ、故に品物用て成る。凡そ大なること天の如くは莫く、厚きこと地の如くは莫し。(地)至質なる者は地のみと曰う。多きこと水の如くは莫く、水の精は漢と為り、漢は天に用いて而して列せず、思うに質に次ぐなり。地に山獄有り、以て其の気を宣べ、精種は星と為る。星とは、体は地に生まれ、精は天に成り、列居錯跱し、各々逌る所属有り。紫宮は皇極の居、太微は五帝の廷。明堂の房、大角に席有り、天巿に坐有り。蒼龍は左に連蜷し、白虎は右に猛く据わり、朱雀は前に奮翼し、霊龜は後に圈首し、黄神軒轅は中に在り。六擾既に畜われ、而して狼蚖魚鱉罔く具わらざるは無し。野に在りては物に象り、朝に在りては官に象り、人に在りては事に象り、ここにおいて備わる。懸象著明なること、日月より大なるは莫し。其の径は天周の七百三十六分の一に当たり、地広の二百四十二分の一に当たる。日は、陽精の宗。積もりて鳥と成り、烏に象りて三趾有り。陽の類、其の数奇なり。月は、陰精の宗。積もりて獣と成り、兔に象る。陰の類、其の数耦なり。其の後に馮む者有り。羿、西王母に無死の薬を請う、姮娥之を窃いて以て月に奔る。将に往かんとし、枚筮を有黄に之す、有黄之を占いて曰く『吉なり。翩翩たる帰妹、独り将に西行せんとす、天の晦芒に逢うも、驚く毋かれ恐るる毋かれ、後に其れ大いに昌えん』と。姮娥遂に身を月に託す、是れ蟾蠩と為る。夫れ日は譬えば猶ほ火の如く、月は譬えば猶ほ水の如し、火は則ち外光し、水は則ち景を含む。故に月光は日の照らす所に生じ、魄は日の蔽う所に生ず。日に当たれば則ち光盈ち、日に就けば則ち光尽きるなり。衆星燿を被り、水に因りて光を転ず。日の衝に当たり、光常に合わざるは、地に蔽わるるなり。是れを闇虚と謂う。星に在りては星微なり、月過ぐれば則ち食う。日の地に薄るや、其の明なり。暗より明を視れば、明は屈する所無く、是を以て之を望めば火の若し。中天に方りては、天地同じく明し。明より暗を瞻れば、暗還って自ら奪わる、故に之を望めば水の若し。火は夜に当たりて光を揚げ、昼に在りては則ち明らかならず。月の夜に於けるは、日と同じくして微かに差う。星は則ち然らず、強弱の差なり。衆星列布し、其れ神を以て著わるる有り、五列有り、是れ三十五名と為す。一は中央に居り、之を北斗と謂う。動変挺占し、寔に王命を司る。四は方に布き、二十八宿と為す。日月運行し、歴りて吉凶を示し、五緯経次し、用て禍福を告ぐ、則ち天心是れに於いて見る。中外の官、常に明らかなる者百二十有四、名づく可き者三百二十、星二千五百と為し、而して海人の占は未だ存せず。微星の数、蓋し一万一千五百二十。庶物蠢蠢、咸く命を繫ぐことを得たり。然らずんば、何を以てか総べて之を理せん!夫れ三光同じき形、珠玉に似たり、神守り精存すれば、其の職に麗いて其の明を宣ぶ;其の衰うるに及び、神歇ぎ精斁れば、ここにおいて隕星有り。然らば則ち奔星の墜つる所、地に至れば則ち石なり。文曜天に麗えば、其の動く者七、日・月・五星是れなり。周旋右回す。天道なる者は、順を貴ぶなり。天に近ければ則ち遅く、天に遠ければ則ち速し、行けば則ち屈し、屈すれば則ち留回し、留回すれば則ち逆し、逆すれば則ち遅し、天に迫るなり。行遅き者は東に覿え、東に覿うるは陽に属し、行速き者は西に覿え、西に覿うるは陰に属す、日と月此れ配合す。摂提・熒惑・地候は晨に見え、日に附す。太白・辰星は昏に見え、月に附す。二陰三陽、天に参じ地に両す、故に男女之を取る。方星巡鎮するは、必ず常度に因る、苟も或いは盈縮有るとも、次を逾えず。故に列司作使有り、老子四星、周伯・王逢・芮各一と曰い、五緯の間に錯り、其の見る期無く、其の行く度無く、寔に妖経星の所なり、然る後に吉凶宣周し、其の祥尽くす可し」と。)蔡邕の表志に曰く「天體を言う者三家有り:一に曰く周髀、二に曰く宣夜、三に曰く渾天。宣夜の学は師法絶えて無し。周髀の数術は具に存すれども、天状を考験すれば、違失多し、故に史官用いず。唯だ渾天者は近く其の情を得たり、今史官の用うる所の候臺の銅儀は、則ち其の法なり。八尺の円体の度を立て、而して天地の象を具え、以て黄道を正し、以て発斂を察し、以て日月を行わしめ、以て五緯を歩ます。精微深妙、万世易えざるの道なり。官に其の器有りて本書無く、前志も亦闕けて論ぜず。臣其の旧文を求め、連年得ず。東観に在りて、律を治むる未だ竟わず、未だ書を成すに及ばず、案略して求索す。窃に自ら量らず、卒に儀の下に寝伏せんと欲し、精意を思惟し、度に案じて数を作り、文義を以て扶け、道術を以て潤し、篇章を著さん。罪悪状無く、有北に投じ、灰滅雨絶し、世路由る無し。宜しく博く群臣に問い、下は巖穴に及び、渾天の意を知る者をして、其の義を述べしめ、以て天文志を裨うべし。建武以来の星変彗孛占験著明なるものを撰びて其の後に継がしむ」と。
王莽三
王莽の地皇三年十一月、星が張宿に現れ、東南へ五日間進んで見えなくなった。孛星は悪気が生じたもので、乱兵を表す(星占いでは「その国内で内外に兵を用いる」という)。それが徳を乱すのである。徳を乱すとは、乱の象徴であり、不明の表れである。また参然として現れるのは兵の類であり、だから名を孛という。孛という言葉は、なお害を及ぼし、妨げ蔽うものがあるという意味である。あるいはこれを彗星といい、穢れを除き新しきを布くものである。(宋均が注釈した鉤命決に「彗は五彗である。蒼色なら王侯が破れ、天子は兵に苦しむ。赤色なら賊が起こり、強国がほしいままになる。黄色なら女が色を害し、権が后妃に奪われる。白色なら将軍が逆らい、二年で兵が大いに起こる。黒色なら水の精が賦し、江河が決壊し、賊が至る所で起こる」とある。韓揚の占いでは「その形は竹彗や樹木の枝のようで、長短一定しない。長大で長く現れるほど災いは深く、短小で短く現れるほど災いは狭い」という。晏子春秋には「斉の景公が彗星を見て、伯常騫にそれを祓わせようとした。晏子が言うには『いけない。これは天の教えである。日月の気が乱れ、風雨が時にあわず、彗星が出るのは、天が民の乱のためにこれを見せるのだ』」とある。また別の説では「景公が彗星が出て泣いたので、晏子が尋ねた。公は言う『寡人は聞く、彗星が出ると、その向かう国の君主がそれに当たるという。今彗星が出てわが国に向かっている。それゆえ悲しいのだ』。晏子は言う『君の行いと義(は邪曲で)、国に徳はない。池を掘れば深く広くしたいと思い、台榭を作れば高く大きくしたいと思う。賦斂は奪い取るようであり、誅戮は仇敵に対するようだ。これを見るに、孛星がまた出るだろう。彗星が出ることを、どうして恐れる必要があろうか』」とある。案ずるに、晏子の言葉によれば、孛と彗は同じではないようだ。)張は周の地である。星が張宿に現れ、東南へ行くのは翼宿・軫宿の分野である。翼・軫は楚である。これにより周・楚の地に兵乱が起こるであろう。その一年後の正月、光武帝が春陵で兵を起こし、下江・新市の賊である張昂・王常および更始帝の兵も到着し、ともに南陽を攻め落とし、王莽の前隊大夫甄阜・属正梁丘賜らを斬り、その兵士数万人を殺した。更始帝が天子となり、洛陽に都し、西進して長安に入ったが、敗れて死んだ。光武帝は河北で興り、再び洛陽に都し、周の地に居た。これは穢れを除き新しきを布く象徴である。
四年六月、漢兵が南陽で起こり、昆陽に至った。王莽は司徒王尋・司空王邑に諸郡の兵を率いさせ、百万と号し、すでに到着した者は四十二万人。兵法に通じる者六十三家をすべて将帥とし、その図書や器械を持たせた。軍は関東を出て、群象や虎狼猛獣を引き連れ、道路に放ち、富強を示し、山東を怖れさせようとした。昆陽山に至り、百余りの営を築き、城を数重に包囲し、あるいは衝車で城を撞き、あるいは雲車を十丈の高さにして城中を見下ろし、弩の矢が雨のように集まり、城中では戸を背負って水を汲んだ。降伏を求めても聞き入れず、出て行くことを請うても許されなかった。二公(王尋・王邑)の兵は必ず勝つと自負し、軍事を顧みず、計略を合わせなかった。王莽に覆敗の変が現れたのである。昼に雲気が山の崩れたようで、軍の上に堕ち、軍人は皆圧倒された。いわゆる営頭の星である。占いでは「営頭の堕ちるところ、その下で軍は覆り、三千里に血が流れる」という。(袁山松の書には「怪星が昼に行くのを営頭といい、行って大誅を振るう」とある。)この時、光武帝が兵数千を率いて昆陽の救援に赴き、二公の兵に奔撃し、力を合わせて激しく発し、号呼の声は天地を動かし、虎豹も驚き怖れて敗れ震えた。ちょうど天が大風を起こし、屋根瓦が飛び、雨が注ぐように降った。二公の兵は乱れて敗れ、自ら賊し合い、その場で死んだ者は数万人に及んだ。競って滍水に赴き、死者が積み重なり、滍水は流れを止めた。司徒王尋を殺した。軍は皆散り散りになって本郡に帰った。王邑は長安に帰還したが、王莽が敗れ、ともに誅殺された。営頭の変は、軍が覆り血が流れる応報である。
四年秋、太白星が太微中にあり、地を月光のように照らした。太白は兵を表し、太微は天廷である。太白が盛んになって北から太微に入るのは、大兵が天子の廷に入ろうとしていることである。この時、王莽が二公の兵を昆陽に派遣したが、すでに光武帝に破られていた。王莽はまた九人を将軍に任じ、皆虎を号とした。九虎将軍が華陰に至ると、すべて漢の将軍鄧曄・李松に破られた。京師に進攻し、倉将軍韓臣が長門に至った。十月戊申、漢兵が宣平城門から入った。二日後の己酉、城中の少年朱弟・張魚ら数千人が兵を起こして王莽を攻め、作室門を焼き、敬法闥を斧で破った。商人の杜呉が漸台の上で王莽を殺し、校尉公賓就が王莽の首を斬った。大兵が宮廷の中を踏みにじった。その後、更始帝が長安に入り、赤眉賊が劉盆子を立てて天子とした。いずれも大兵が宮廷に入ったことで、これがその応報である。
光武十二
光武帝(古今注に「建武六年九月丙戌、月が太微の西藩を犯す。十一月辛亥、月が軒轅を犯す。七年九月庚子、土星が鬼宿の中に入る」とある。漢史には「鎮星が逆行して輿鬼に入る。女主や貴親に憂いあり」とある。巫咸は「土功の事あり」という。この年、太白星が太微を通る。八年四月辛未、月が房宿の第二星を犯し、光芒が見えず。九年正月乙卯、金星が婁宿の南星を犯す。甲子、月が軒轅の第二星を犯す。壬寅、心宿の大星を犯す。七月戊辰、月が昴宿を並行して犯す。黄帝星占には「土星が鬼宿を犯せば、皇后に憂いあり、その勢いを失う」とある。河図には「月が房宿を犯せば、天子に憂いあり、四足の虫多く死す」とある。漢史には「その国に憂いあり、将軍死す」とある。また厳光伝を案ずるに、光が帝と臥し、足を帝の腹の上に載せた。太史が客星が帝座を犯すこと甚だ急なりと奏上した。)建武九年七月乙丑、金星が軒轅の大星を犯す。十一月乙丑、金星がまた軒轅を犯す。(孟康は「犯とは、七寸以内で光芒が及ぶこと」という。韋昭は「下から上へ触れることを犯という」という。)軒轅は後宮の官であり、大星は皇后である。金星がこれを犯すのは失勢を意味する。この時、郭后はすでに失勢して疎んじられ、後に廃されて中山太后となり、陰貴人が皇后に立てられた。
十年三月癸卯、流星が月のようで、太微垣から出て北斗七星の魏の第六星に入り、色は白かった。傍らに小星が射るものが十余個あり、消える時に声が雷のようで、一食ほどの間で止んだ。(孟康が言うには、「流星は光の跡が連なっているもので、跡を絶って去るのが飛星である」)流星は貴い使者であり、星が大きければ使者も大きく、星が小さければ使者も小さい。太微垣は天子の朝廷、北斗の魁は殺戮を司る。星が太微垣から出て北斗の魁に至るのは、天子の大使が将として出て、討伐殺戮を行うことである。(古今注に言う、「正月壬戌、月が心宿の後星を犯す。閏月庚辰、火星が輿鬼に入り、軫宿の北を過ぎる。庚申、月が斗宿にあり、赤く丹のようである」)十二月己亥、大流星が缶のようで、柳宿から出て西南に行き、軫宿に入った。かつ消える時に、十余に分かれ、残り火のようであった。しばらくして声があり、低く響いて雷のようであった。柳宿は周を表し、軫宿は秦・蜀を表す。大流星が柳宿から出て軫宿に入るのは、大使が周から蜀に入ることである。この時、光武帝は大司馬の呉漢に命じて南陽の兵卒三万人を発し、船に乗って江を遡上させ、蜀の白帝公孫述を撃たせた。(臣の昭が言う:述は白をもって黄を承けたが、ここで遂に白帝と号したのは、文が繁長で、書例に通じていない)また将軍の馬武・劉尚・郭覇・岑彭・馮駿に命じて武都・巴郡を平定させた。十二年十月、呉漢は兵を進めて述の従弟の衛尉公孫永を撃ち、遂に広都に至り、述の女婿の史興を殺した。威虜将軍の馮駿は江州を抜き、述の将の田戎を斬った。呉漢はまた述の大司馬の謝豊を撃ち、五千余級を斬首した。臧宮は涪を破り、述の弟の大司空の公孫恢を殺した。十一月丁丑、呉漢の護軍将軍の高午が述を刺して胸を貫き、その夜に死んだ。翌日、呉漢が入って蜀城を屠り、述の大将の公孫晃・延岑らを誅し、殺した者は数万人、述の妻の宗族一万余人以上を滅ぼした。これが大将が出て伐殺する応である。その小星が射るもの、および残り火のように十余に分かれたものは、皆小将が随従する象である。声が雷のように低く響くのは、兵将が怒る徴候である。
十二年正月(古今注に言う、「丁丑、月が軒轅の大星に乗る」)己未、小星が百個以上流れ、あるいは西北へ、あるいは真北へ、あるいは東北へ、二晩で止んだ。(古今注に言う、「二月辛亥、月が氐宿に入り、暈と珥が角宿・亢宿・房宿を囲む」)六月戊戌の辰の刻、小流星が百個以上、四方へ行った。小星は庶民の類である。流行するのは移徙の象である。あるいは西北へ、あるいは東北へ、あるいは四方へ行くのは、皆小民が流れ移る徴候である。この時、西北では公孫述を討ち、北では盧芳を征した。匈奴が芳を助けて辺境を侵し、漢は将軍の馬武・騎都尉の劉納・閻興に命じて軍を下曲陽・臨平・呼沱に駐屯させ、胡に備えさせた。匈奴が河東に入り、中国は未だ安らかでなく、米穀が凶作で高価になり、民はあるいは流散した。三年後、呉漢・馬武はまた雁門・代郡・上谷・関西の県の吏民六万余口を移し、常山関・居庸関以東に置き、胡寇を避けさせた。これが小民が流れ移る応である。(古今注に言う、「その年七月丁丑、月が昴宿の頭の二星を犯す。八月辛酉、水星が東方の翼宿の分野に現れる。九月甲午、火星が輿鬼を犯す。十月丁卯、大星が流れ、光があり、東井から発して西へ行き、声は隆隆。十三年二月乙卯、火星が輿鬼の西北を犯す」黄帝占に言う、「熒惑が輿鬼を守れば、大人憂う」一説に貴人がこれに当たる。巫咸が言う、「水星が翼宿に現れれば、火災多い」石氏が言う、「旱魃となる」郗萌占に言う、「流星が東井から出れば、その行く国は大水」)
十五年正月丁未、彗星が昴宿に現れた。(炎の長さ三丈。韓揚占に言う、「昴宿にあれば、大国が兵を起こす」)次第に西北へ行き、営室に入り、離宮を犯した。(韓揚占に言う、「彗星が営室・東壁の間に出れば、兵が起こる」)三月乙未、東壁に至って消え、四十九日間現れた。彗星は兵が入って穢れを除くもので、昴宿は辺境の兵を表し、彗星が出るのは兵が至ることである。十一月、定襄都尉の陰承が反逆し、太守が随いてこれを誅した。盧芳が匈奴に従って高柳に入り居住し、十六年十月に降伏し、璽綬を奉った。一説に、昴星は獄事を表す。この時、大司徒の欧陽歙が事によって獄に繋がれ、一年を過ぎて死んだ。営室は天子の常宮、離宮は妃后の居るところである。彗星が営室に入り離宮を犯すのは、宮室を除くことである。この時、郭皇后は既に疎遠され、十七年十月に遂に廃されて中山太后とされ、陰貴人が皇后に立てられた。宮を除く象である。(古今注に言う、「十六年四月、土星が逆行。十七年三月乙未、火星が逆行し、東門から太微に入り、執法星の東に到り、己酉、南から端門を出る。十八年十二月壬戌、月が木星を犯す。十九年閏月戊申、火星が逆行し、氐宿から亢宿へ。二十一年七月辛酉、月が畢宿に入る。二十三年三月癸未、月が火星を食む」郗萌が言う、「熒惑が氐宿を逆行すれば失火となる」)
三十年閏月甲午、水星が東井二十度にあり、白気を生じ、東南を指し、炎の長さ五尺、彗星となり、東北へ行き、紫宮の西の藩に至って止まり、五月甲子に見えなくなり、凡そ三十一日間現れた。水星は常に夏至に東井に現れるが、閏月は四月であり、未だ現れるべき時にあらずして現れたのは、盈ちて進むためである。東井は水衡を表し、水星が出れば大水となる。この年五月及び明年、郡国に大水があり、城郭を壊し、禾稼を傷め、人民を殺した。白気は喪を表し、炎があって彗星となる。彗星は穢れを除くものである。紫宮は天子の宮、彗星がその藩に加わるのは、宮を除く象である。(荊州星経に言う、「彗星が東井にあれば、国の大人死す。七十日は主がこれに当たり、五十日は相がこれに当たり、三十日は兵将がこれに当たる」)三年後、光武帝が崩御した。
三十一年七月(古今注にいう、「戊申、月が心後星を犯す」)戊午、火星が輿鬼一度にあり、鬼中に入り、尸星の南半度より出で、十月己亥、軒轅大星を犯す。また七星の間に客星あり、炎二尺ばかり、西南に行き、明年二月二十二日に至り、輿鬼の東北六尺ばかりにて滅ぶ、凡そ百一十三日見ゆ。(輿鬼五星は、天府なり。黄帝占にいう、「輿鬼は天目なり、朱雀の頭なり、中央の星は粉絮の如く、鬼は変害を為す、故に言う。一名天尸、斧鉞、或は病亡を以てし、或は誅斬を以てす。火は金を剋し、天は法を制す。その西南の一星は、布帛を積むを主り;西北の一星は、金玉を積むを主り;東北の一星は、馬を積むを主り;東南の一星は、兵を積むを主り、一に曰く珠銭を領するを主ると。」郗萌がいう、「輿鬼は、参の尸なり、弧が狼を射て、誤って参の左肩に中り、尸を挙げて東井に治め、尸を輿鬼に留む、故に天尸と曰う。鬼の言うところは帰なり。」また占う、「月・五星が輿鬼に入る有らば、大臣誅せられ、干鉞質に乗ずる者有らば、君貴人憂え、金玉用いられ、民人多く疾あり、南より入るは男子を為し、北より入るは女を為し、西より入るは老人を為し、東より入るは丁壮を為す。棺木の価倍す。」)熒惑は凶衰を為し、輿鬼尸星は死亡を主り、熒惑これに入れば大喪を為す。軒轅は後宮なり。七星は周の地なり。客星これに居れば死喪を為す。その後二年、光武崩ず。
中元(古今注にいう、「元年三月甲寅、月が心後星を犯す」)二年八月丁巳、火星が太微西南角星を犯し、相去ること二寸。十月戊子、大流星西南より東北に行き、声雷の如し。火星が太微西南角星を犯すは、将相の為なり。後に太尉趙憙、司徒李䜣事に坐して免官せらる。大流星は使を為す。中郎将竇固、揚虚侯馬武、揚郷侯王賞兵を将いて西を征す。
校勘記
三二一三頁 七行 下應十二子 按ずるに:校補は「子」は「野」の訛りかと謂う。
三二一四頁一一行 軒轅始めて河圖鬥苞を受けて規を授け日月星辰の象 按ずるに:集解は惠棟の説を引き、闓苞受は河圖の篇名なり、李善の文選注に見ゆと謂う。「鬥」は「闓」と作るべく、「授」は「受」と作るべく、「規」の字は下に属して読むべし。羅泌は「鬥苞」を黄帝の臣の名と為す、非なり。
三二一五頁一0行 用(之)〔定〕靈軌 汲本に据りて改む。按ずるに:校補は張衡伝注は「定」と作すと謂い、「之」の字誤り。
三二一五頁一一行 厥中惟虛 按ずるに:汲本、殿本「虛」は「靈」と作す。
三二一六頁 三行 用重鉞股 按ずるに:嚴可均輯全後漢文「重」の下に「差」の字有り、此れ脱す。
三二一六頁 五行 地は陰淳を以てす 按ずるに:開元占経「淳」は「浮」と作す、是なり。嚴輯全後漢文同じ。
三二一六頁 六行 承施候明 嚴輯全後漢文は「承候施明」と作す。按ずるに:上に「稟気舒光」と言う、承候と稟気は相対して文を成す、作す「承候施明」と為すに似たり。
三二一六頁 六行 寒暑減ぜず 按ずるに:開元占経「減」は「忒」と作す、是なり。嚴輯全後漢文同じ。
三二一六頁 七行 (地)至質なる者は地のみと曰う 開元占経及び嚴輯全後漢文に据りて刪す。
三二一六頁 八行 漢は天に用いて列せず 按ずるに:開元占経「用」は「周」と作す、是なり。嚴輯全後漢文同じ。
三二一六頁一0行 白虎猛かに右に据わる 按ずるに:「白」原訛「召」、逕に汲本、殿本に据りて改正す。
三二一六頁一三行 姮娥窃これを以て月に奔る 按ずるに:「姮」原訛「恒」、逕に改正す。
三二一六頁十六行 (他)〔地〕に蔽わる也 汲本に拠りて改む。
三二一六頁十七行 日の地に薄きは其の明なり 按ずるに、隋書天文志、開元占経及び厳輯全後漢文「其」の上に並びに「暗」の字有り。
三二一六頁十七行 是を以て之を望めば火の若し 按ずるに、隋書天文志及び厳輯全後漢文「火」並びに「大」と作す。
三二一六頁十七行 故に之を望めば水の若し 按ずるに、隋書天文志及び厳輯全後漢文「水」並びに「小」と作す。
三二一七頁 三行 五緯の経次 按ずるに、盧校、晋志及び史記正義「経次」皆「躔次」と作すと謂う。
三二一七頁 五行 〔地〕に至れば則ち石〔矣〕 開元占経及び厳輯全後漢文に拠りて補う。
三二一七頁 七行 逆れば則ち遅し 按ずるに、「則」原訛「時」、逕に汲本、殿本に拠りて改正す。
三二一七頁 七行 日と月此れ配合する也 按ずるに、開元占経「此」を「以」と作し、厳輯全後漢文は「共」と作す。
三二一七頁 八行 地候晨に見ゆ 按ずるに、「候」原訛「侯」、逕に改正す。
三二一七頁十五行 灰滅し雨絶え世路由無し 按ずるに、殿本「雨」を「両」と作す。盧校、宋志「世」を「勢」と作すと謂う。
三二一八頁 五行 張卬 「卬」原訛「卯」、逕に改正す。按ずるに、恵棟補注本「張卬」の二字を出だし、劉玄伝注の引く続漢書「卬」を「印」と作すと謂う。張森楷校刊記、案ずるに光武紀は「張卬」と作し、袁紀、通鑑も亦「卬」の字なり、疑わくは卬の字是なりと謂う。然れども劉玄伝注の引く続漢書「卬」を「印」と作すは、則ち范書自ら「卬」と作し、本志自ら「印」と作す也。
三二一八頁十一行 伯常騫をして之を攘わしむ 汲本「攘」を「禳」と作し、殿本は「穣」と作す。按ずるに、攘は禳に通ず可く、穣は則ち訛字也。
三二一八頁十三行 君の行義(固応)〔回邪〕す 按ずるに、盧校「固応」訛ると云い、本書に拠り「回邪」と改む。今に拠りて改む。
三二一八頁十三行 (開)〔陂〕池を穿つ 汲本、殿本に拠りて改む。
三二一八頁十四行 庸何ぞ(巨)〔懼〕るる乎 汲本、殿本に拠りて改む。
三二一九頁二行「或為衝車以撞城」の注:『撞』は原本では誤って『橦』とあるが、直接に訂正した。
三二一九頁一三行「燒作室〔門〕」の注:校補は、前書の王莽伝に「燒作室門」とあることから、ここでは『門』の字が脱落していると述べている。今これに基づいて補う。
三二一九頁一四行「校尉公賓就斬莽首」の注:校補が柳従辰の説を引いて、袁宏の『後漢紀』及び荀悦の『漢紀』はいずれも「公孫賓就斬莽首」としており、班固・范曄の書および本志と異なるとしている。
三二二〇頁四行「建武六年九月丙戌」の注:この年の九月は丁酉が朔日であり、丙戌の日はない。誤りがあるはずである。
三二二〇頁六行「壬寅犯心大星」の注:盧校は、上に甲子があることから、これは「丙寅」であるべきだとしている。
三二二〇頁一〇行「十年三月癸卯」の注:建武十年三月は丁未が朔日であり、癸卯の日はない。志の本文に誤りがある。
三二二〇頁一三行「出柳西南行入軫」の注:『軫』は『井』とすべきである。詳細は次の条を参照。
三二二〇頁一三行「軫為秦蜀」の注:集解が惠棟の説を引いて、李殿學が言うには、軫がどうして秦や蜀の分野となるのか、これは『井』の字であろう、呉越の音が訛って誤って書かれたのである、上文の「西南行」を見ればわかるとしている。
三二二一頁二行「威虜將軍馮駿拔江州」の注:殿本の考証で齊召南は、公孫述伝では「破虜將軍」とあり、光武帝紀ではまた「威虜將軍馮峻」とあると述べている。
三二二一頁四行「公孫晃」の注:集解が惠棟の説を引いて、『晃』は一説に『光』とし、公孫述の弟であるとしている。
三二二一頁五行「夷滅述妻宗族萬餘人以上」の注:『妻』の下に『子』の字が脱落している疑いがある。
三二二一頁八行「閏月庚辰火入輿鬼過軫北庚申月在斗」の注:この注は建武十年三月の後に付されているが、建武十年に閏月はなく、十一年に閏三月があり、辛未が朔日で、庚辰・庚寅はあるが庚申はない。注に誤りがある。
三二二一頁一〇行「十二年正月己未」の注:建武十二年正月は丙寅が朔日であり、己未の日はない。志の本文に誤りがある。
三二二一頁一二行「是時西北討公孫述」の注:集解が張永祚の説を引いて、公孫述は西南にいるので、『北』の字は誤りである疑いがあるとしている。
三二二一頁一四行「置常〔山〕關居庸關以東」の注:盧校に基づいて補う。
三二二二頁三行、九月甲午に火が輿鬼を犯し、十月丁卯に大星が流れた。按ずるに、建武十二年九月壬戌朔で、甲午はなく、十月壬辰朔で、丁卯はない。注に誤りがある。
三二二二頁一〇行、これは宮室を除くことである。按ずるに、「除」は原訛で「際」となっており、直接に改正した。
三二二二頁一四行、十七年三月乙未。按ずるに、建武十七年二月丙申朔で、乙未は二月の晦である。注に誤りがある。
三二二三頁六行、七十日で主がこれに当たる。按ずるに、殿本では「主」を「王」としている。
三二二三頁八行、また七つの星の間に客星がある。盧校に拠って改む。按ずるに、盧は「日」は誤りと言い、李殿学は下文に拠って改めた。
三二二三頁一三行、火が金を剋する。按ずるに、「剋」は原字が「刻」であり、汲本、殿本に拠って直接に改正した。
三二二三頁一五行、干鉞が質に乗る者がある。汲本、殿本に拠って改む。
三二二四頁一行、十月戊子。按ずるに、建武中元二年十月庚寅朔で、戊子はない。志に誤りがある。
三二二四頁三行、兵を将いて西を征することである。按ずるに、盧は通考で「征西」を「西征」としていると言う。