天文下 桓帝三十八件 霊帝二十件 献帝九件 隕石
桓帝三十八件
二月甲寅の日、梁太后が崩御し、梁冀はますます驕り乱れた。
三月丙申、鎮星が逆行して太微中に入り、七十四日後に左掖門を去った。七月己未、辰星が太微中に入り、八十日後に左掖門を去った。八月己巳、熒惑が太微に入り、二十一日後に端門から出た。太微は天子の廷である。鎮星は貴臣・妃后に相当し、逆行は謀略を隠すことを意味する。辰星が太微に入るのは大水の兆しで、一説には後宮に憂いがあるという。この年、洛水が溢れて津門に至り、南陽で大水が起こった。熒惑が留まって太微中に入るのは、また乱臣の兆しである。この時、梁氏が専権を握っていた。九月己酉、昼に流星が長さ約二尺、色は黄白のものが現れた。癸巳、熒惑が歳星を犯した。これは奸臣の謀略、大将の誅戮の兆しである。
延熹四年
三月甲寅、熒惑が輿鬼質星を犯した。五月辛酉、客星が営室にあり、やや順行し、芒を生じて長さ約五尺、心宿一度に至り、彗星に転じた。熒惑が輿鬼質星を犯すのは、大臣に誅戮される死者がある兆しである。五年十月、南郡太守李肅は蛮夷の賊が郡県を攻め盗み、財物一億以上を奪い、府に侵入して銅虎符を取った際、敵に背を向けて逃走し、城郭を救わなかった罪により、また臨黎陽の嗇夫燕喬は贓物罪により、重泉令彭良は無辜を殺害した罪により、いずれも棄市に処された。京兆虎牙都尉宋謙は贓物罪により、獄に下されて死んだ。客星が営室から心宿に至って彗星となるのは、大喪の兆しである。後四年、鄧后が憂いで死去した。
六年十一月丁亥、太白が昼間に現れた。この時、鄧后の家が貴盛であった。
八年五月癸酉、太白が輿鬼質星を犯した。壬午、熒惑が太微右執法に入った。閏月己未、太白が心前星を犯した。十月癸酉、歳星が左執法を犯した。十一月戊午、歳星が太微に入り、左執法を犯した。九年正月壬辰、歳星が太微中に入り、五十八日後に端門から出た。六月壬戌、太白が輿鬼の中を行った。七月乙未、熒惑が輿鬼の中を行き、質星を犯した。九月辛亥、熒惑が太微西門に入り、五十八日間留まった。
正月庚寅、熒惑が逆行して太微東門に入り、太微中に百一日間留まった後、端門から出た。七月丙戌、太白が昼間に現れ経天した。太白が心前星を犯すこと、太白が輿鬼質星を犯すことは誅戮される臣がある兆し。熒惑が太微に入ることは賊臣の兆し。太白が心前星を犯すことは兵事と喪の兆し。歳星が太微に入り左執法を犯すことは将相に誅される者がある兆し。歳星が太微を守って五十日間留まることは人主に関する兆し。太白、熒惑が輿鬼に入ることはいずれも死喪の兆し、また質星を犯すことは誅戮される臣の兆し。熒惑が太微中に百一日間留まることは人主に関する兆し。太白が昼間に現れ経天することは兵事の兆しで、憂いは大人にある。その九年十一月、太原太守劉[�質]、南陽太守成瑨はいずれも無辜を殺害した罪により、荊州刺史李隗は賊に拘束され、尚書郎孟珰は金を受け取って漏言した罪により、いずれも棄市に処された。
十二月丁丑、桓帝が崩御し、太傅陳蕃、大将軍竇武、尚書令尹勲、黄門令山冰らがいずれも冤罪で死んだ。これが太白が心星を犯し、熒惑が太微に留まって守った応である。
霊二十
孝霊帝
六月、太白星が西方に現れ、太微垣に入り、西蕃の南頭星を犯した。太微垣は天の朝廷である。太白星がその中を行くのは、宮門が閉ざされるべきで、大将が甲兵を着け、大臣が誅殺されることを示す。その八月、太傅の陳蕃と大将軍の竇武が諸宦官をことごとく誅殺しようと謀った。その九月辛亥の日、中常侍の曹節と長楽五官史の朱瑀がこれを察知し、詔を偽って陳蕃・竇武らを殺し、その家族は日南の比景に流された。
十月、熒惑星が南斗の中に入った。占いでは「熒惑の守る所は兵乱あり」という。斗は呉の地を配する。その十一月、会稽の賊の許昭が衆を集めて自ら大将軍と称し、昭の父の生が越王となり、郡県を攻め破った。
黄巾の賊が起こり、上は中郎将の皇甫嵩・朱俊らを派遣して征伐させ、十万余級を斬首した。彗星が天市を掃うのは、天帝が遷都し、帝が都を変えることの兆しである。
献帝が長安に遷都した。
五年四月、熒惑星が太微の中にあり、屏星を守った。七月、彗星が三台の下から出て、東へ行き太微に入り、太子星・幸臣星に至り、二十余日で消えた。十月、歳星・熒惑星・太白星の三つが虚宿で合し、互いに五六寸離れて連珠のようであった。占いでは「熒惑が太微にあるのは乱臣の兆し」という。この時、中常侍の趙忠・張譲・郭勝・孫璋らが皆、奸悪をなして乱を起こした。彗星が太微に入るのは天下の主が変わる兆しである。
中平六年
宮車(帝)が晏駕(崩御)した。歳星・熒惑星・太白星の三つが虚宿で合するのは喪の兆しである。虚宿は斉の地を配する。翌年、琅邪王の劉据が薨去した。
光和年間、国皇星が東南の角に現れ、地から一二丈離れ、炬火のような形状で、十余日後に見えなくなった。占いでは「国皇星は内乱、内外に兵喪あり」という。その後、黄巾の賊の張角が州郡を焼き、朝廷は将を派遣して討伐平定し、十余万級を斬首した。中平六年、宮車が晏駕し、大将軍の何進が司隷校尉の袁紹に命じて千余の兵を密かに私募させ、ひそかに雒陽城外に駐屯させ、ひそかに并州牧の董卓を呼んで兵を率いて京都に至らせ、共に中官(宦官)を誅殺しようとした。南宮・北宮の闕下で対戦し、死者数千人、宮室を焼き払い、西京(長安)に遷都した。司徒の王允と将軍の呂布が董卓を誅殺すると、董卓の部曲将の郭汜・李傕がすぐに兵を返して長安を攻め、公卿百官吏民で戦死した者はほぼ一万人に及んだ。天下の乱は、皆内から発したのである。
十月癸亥、客星が南門の中から現れ、大きさは筵の半分ほどで、五色に輝き、明るさが次第に小さくなり、翌年の六月に消えた。占いでは「兵乱の兆し」と言われた。六年に至り、司隷校尉袁紹が宦官を誅滅し、大将軍の部曲将である呉匡が車騎将軍何苗を攻め殺し、死者は数千人に及んだ。
五年二月、彗星が奎宿から現れ、逆行して紫宮に入り、その後三度現れ、六十余日で消えた。六月丁卯、客星が三升の碗の大きさで、貫索から現れ、西南に向かって天市に入り、尾宿に至って消えた。占いでは「彗星が紫宮を除くは、天下の主が変わる兆し。客星が天市に入るは、貴人の喪の兆し」と言われた。翌年四月、宮車(天子の乗り物)が晏駕(天子の崩御)した。中平年間の夏、流星が火のように赤く、長さ三丈で、河鼓から起こり、天市に入り、宦者星に抵触した。色は白く、長さ二三丈で、後尾が再び屈曲し、食頃して消えた。形状は枉矢に似ていた。占いでは「枉矢が流れ発するは、その宮を射る。いわゆる矢が直であるべきところを枉(曲が)る者は、矢を操る者が邪枉の人である」と言われた。
中平六年
大将軍何進が宦官を全て誅殺しようと謀ったが、宦官に察知され、省中で何進が殺された。双方共に破滅し、天下はこれによって大いに乱れ壊れた。
六年八月丙寅、太白が心宿の前星を犯し、戊辰に心宿の中の大星を犯した。その日、日が暮れる前の四刻、大将軍何進が省中で諸黄門によって殺された。己巳、車騎将軍何苗が何進の部曲将である呉匡によって殺された。
孝献帝
九月、蚩尤旗が現れ、長さ十余丈、色白で、角宿・亢宿の南から出た。占いでは「蚩尤旗が現れると、王が四方を征伐する」と言われた。その後、丞相曹公(曹操)が天下を征討することおよそ三十年に及んだ。
建安五年
十月辛亥、大梁(昴宿・畢宿の区域、冀州の分野)に星の孛(彗星)があった。時に袁紹は冀州にいた。その年十一月、紹軍は曹公に敗れた。七年夏、紹は死に、後に曹公は冀州を取った。
九年十一月、東井(井宿)と輿鬼(鬼宿)に星の孛があり、軒轅・太微に入った。十一年正月、北斗に星の孛があり、頭は斗中に、尾は紫宮を貫き、北辰に及んだ。占いでは「彗星が太微宮を掃うは、人主が易位する兆し」と言われた。その後、魏文帝が禅譲を受けた。
十七年十二月、星が五諸侯に彗星として現れた。周群は、西方で土地を専有している者たちは皆、領土を失うと見た。この時、益州牧の劉璋が益州を占拠し、漢中太守の張魯が別に漢中を占拠し、韓遂が涼州を占拠し、宗建が別に枹罕を占拠していた。翌年の冬、曹公が偏将を派遣して涼州を攻撃した。十九年、宗建を捕らえ、韓遂は羌の中に逃げ、病死した。その年の秋、劉璋は益州を失った。二十年の秋、曹公が漢中を攻め、張魯は降伏した。
十八年秋、歳星、鎮星、熒惑がともに太微に入り、逆行して帝坐に留まり守ること百余日であった。占いでは、「歳星が太微に入れば、君主が改まる」という。
隕石
殤帝
九月乙亥、隕石が陳留に四つ落ちた。《春秋》僖公十六年、隕石が宋に五つ落ちた。伝には隕星であるという。董仲舒は、高いところから反って下る象であると考えた。ある者は、庶人は星に従い、隕石は民が困窮する象であると考えた。
桓帝
延熹七年
三月癸亥、隕石が右扶風に一つ、鄠にまた隕石が二つ落ち、皆雷のような音がした。