流求國
流求國は泉州の東にあり、彭湖という海島があり、煙火相望む。その国は柵を三重にめぐらし、流水を環とし、棘を植えて藩籬とし、刀・矟・弓矢・剣・鈹を兵器とし、月の盈虧を視て時を紀す。他に奇貨なく、商賈通ぜず、その土は沃壌にして、賦斂なく、事あれば則ち均しく税す。
旁らに毗舍邪國あり、言語通ぜず、袒裸盱睢にして、殆ど人類に非ざるが如し。淳熙年間、国の酋豪嘗て数百輩を率いて猝然として泉の水澳・圍頭等の村に至り、恣に殺掠を行ふ。鉄器及び匙筯を喜び、人戸を閉ざせば則ち免れ、但だ其の門圈を刓りて去る。匙筯を以て擲げば則ち頫りて之を拾ひ、鉄騎を見れば則ち争ひて其の甲を刓り、駢首して戮に就きて悔ゆるを知らず。敵に臨みて標鎗を用ひ、繩を繫ぐこと十餘丈、操縦と為す。蓋し其の鉄を惜しみて棄つるに忍びざるなり。舟楫を駕さず、惟だ竹を縛りて筏と為し、急なれば則ち群れて之を舁ぎて水を泅ぎて遁る。
定安國
六年冬、女真の遣使来貢するに会ひ、路本國に由る。乃ち其の使に托して表を附し来り上りて云く、「定安國王臣烏玄明言す。伏して聖主の天地の恩を洽へ、夷貊の俗を撫するに遇ふ。臣玄明誠に喜び誠に抃す。頓首頓首す。臣本より高麗の舊壤、渤海の遺黎を以てし、方隅に保據し、星紀を涉歷し、覆露鴻鈞の德を仰ぎ、浸漬無外の澤に被り、各々其の所を得て、以て本性を遂ぐ。而るに頃歳契丹其の強暴を恃み、境土に入寇し、城砦を攻破し、人民を俘略す。臣の祖考節を守りて降らず、衆と地を避け、僅かに生聚を存し、以て今に迄る。而して又た扶餘府昨契丹に背き、並びに本國に歸す。災禍将に至らんとす。此より大なるは無し。天朝の密畫を受け、勝兵を率ひて助討すべく、必ず敵に報ぜんと欲し、命に違ふ敢へず。臣玄明誠に墾に誠に願ふ。頓首頓首す。」其の末に題して云く、「元興六年十月日、定安國王臣玄明表を上る聖皇帝の前。」
上詔書を以て答へて曰く、「勅す定安國王烏玄明に。女真の使至り、上る所の表を得、朕嘗て手詔を賜ひ諭旨し、且つ感激を陳ず。卿遠国の豪帥、名王の茂緒、奄に馬韓の地を有し、鯨海の表に介し、彊敵吞併し、其の故土を失ひ、沈冤未だ報ぜず、積憤何にか伸べん。況んや彼の獯戎、尚ほ蠆毒を摇るがし、師を出して以て薄伐し、夫れ天災の流行に乗ずるに、敗衂相尋ひ、滅亡待つ可し。今國家已に邊郡に於て廣く重兵を屯し、只だ嚴冬を俟て、即ち天討を申さんとす。卿若し累世の耻を追念し、挙國の師を宿戒せば、予が罪を伐つ秋に當り、爾が復讐の志を展べよ。朔漠底定し、爵賞加ふること有らん。宜しく永圖を思ひ、良便を失ふこと無かれ。而るに況んや渤海は朝化に歸せんことを願ひ、扶餘は已に賊庭に背けり。乃が宿心を勵まし、其の協力を糾ひ、期を克くして同舉し、必ず大勲を集むべし。尚ほ重溟に阻まれ、未だ遣使に遑あらず。倚注の切なること、鑒寐寧く忘れんや。」と。詔を以て女真の使に付し、令して齎して以て之を賜はしむ。
渤海國
渤海は本高麗の別種なり。唐の高宗高麗を平げ、其の人を徙して中國に居らしむ。則天萬歲通天中、契丹營府を攻陷し、高麗別種大祚榮走りて遼東に保つ。睿宗忽汗州都督と為し、渤海郡王に封ず。因りて自ら渤海國と称し、併せて扶餘・肅慎等十餘國を有し、唐・梁・後唐を歴て、朝貢絶えず。
後唐天成初、契丹阿保機の為に扶餘城を攻め之を下し、扶餘を改めて東丹府と為し、其の子突欲を命じて兵を留め之を鎮守せしむ。阿保機死し、渤海王復た扶餘を攻むるも、克つ能はず。長興・清泰を歴て、使を遣はし朝貢す。周の顯德初、其の酋豪崔烏斯等三十人来歸す。其の後隔絶し中國に通ずる能はず。
太平興國四年、太宗晉陽を平げ、兵を移して幽州に至る。其の酋帥大鸞河小校李勲等十六人を率ひ、部族三百騎来降す。鸞河を以て渤海都指揮使と為す。六年、烏舍城浮渝府渤海琰府王に詔を賜ひて曰く、「朕丕構を纂紹し、奄に四海を有す。普天の下、率俾せざるは無し。況んや太原の封域は、國の保障、頃に竊據に因り、遂に相承襲し、遼を倚りて援と為し、歷世逋誅す。朕前歳親しく銳旅を提げ、諸将を盡く護し、并門の孤壘を拔き、匈奴の右臂を斷つ。言を眷みて弔伐し、以て黔黎を蘇はす。蠢く此の北戎、理に非ずして怨を搆へ、輒ち肆に食を荐め、我が封略を犯す。一昨師を出して逆撃し、斬獲甚だ衆し。今鼓行して深入し、席捲長驅し、其の龍庭を焚き、大いに醜類を殲滅せんと欲す。素より爾國の寇讎に密邇し、吞併に迫られ、力を制すること能はず、因りて服屬し、率割に困るを聞く。靈旗敵を破るの際に當り、是れ鄰邦憤を雪ぐの日、宜しく盡く族帳を出だし、予が兵鋒を佐くべし。其の翦減を俟て、沛然として封賞し、幽・薊の土宇は復た中原に歸し、朔漠の外は悉く以て相與へん。乃が協力を勗めよ。朕食言せず。」時に将に大いに挙りて契丹を征せんとす。故に是の詔を降し諭旨す。
九年春、大明殿に宴し、因りて大鸞河を召して久しく慰撫す。上殿前都校劉延翰に謂ひて曰く、「鸞河は渤海の豪帥、身を束ねて我に歸す。其の忠順を嘉す。夫れ夷落の俗は、馳騁を以て樂しみと為す。高秋戒候を候ふに、當に駿馬数十匹を與へ、令して郊に出で遊獵せしめ、以て其の性を遂げしむべし。」と。因りて緡錢十萬并びに酒を以て之を賜ふ。
日本國
自らその國が日の出に近き所より出づるを以て、故に日本と名づく。或いは云ふ、その舊名を惡みて改むるなりと。
その地は東西南北數千里、西南は海に至り、東北隅は大山を以て隔て、山外は即ち毛人國なり。
後漢より始めて朝貢し、魏・晉・宋・隋を歴て皆來貢す。
土宜は五穀にして麥少なし。
交易には銅錢を用ひ、文に「乾文大寶」と曰ふ。
畜には水牛・驢・羊あり。犀・象多し。
絲蠶を産し、絹を織ること多く、薄くして緻密、愛すべし。
樂には中國(國中)・高麗の二部あり。
四時の寒暑は、大いに中國に類す。
國の東境は海島に接し、夷人の居る所、身面皆毛あり。東の奧州は黃金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦と爲す。
國王は王を以て姓と爲し、傳襲して今の王に至るまで六十四世、文武の僚吏皆世官なり。」
その『年代紀』の記す所に云ふ、「初めの主は號して天御中主と曰ひ、
次に天村雲尊と曰ひ、その後皆『尊』を以て號と爲す。
次に天八重雲尊、次に天彌聞尊、次に天忍勝尊、次に瞻波尊、次に萬魂尊、
次に利利魂尊、次に國狹槌尊、次に角龔魂尊、次に汲津丹尊、次に面垂見尊、
次に國常立尊、次に天鑑尊、次に天萬尊、次に沫名杵尊、次に伊奘諾尊、
次に素戔烏尊、次に天照大神尊、次に正哉吾勝速日天押穗耳尊、次に天彥尊、次に炎尊、次に彥瀲尊、
凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
次に綏靖天皇、次に安寧天皇、次に懿德天皇、次に孝昭天皇、次に孝天皇、次に孝靈天皇、
次に孝元天皇、次に開化天皇、次に崇神天皇、次に垂仁天皇、次に景行天皇、次に成務天皇。
次に仲哀天皇、國人言ふ、今鎮國香椎大神と爲すと。
次に神功天皇、開化天皇の曾孫女、又之を息長足姬天皇と謂ふ、國人言ふ、今太奈良姬大神と爲すと。
次に應神天皇、甲辰の歲、始めて百濟に於て中國の文字を得、今號して八蕃菩薩と曰ふ、大臣有り號して紀武內と曰ひ、年三百七歲。
次に仁德天皇、次に履中天皇、次に反正天皇、次に允恭天皇、次に安康天皇、次に雄略天皇、
次に清寧天皇、次に顯宗天皇、次に仁賢天皇、次に武烈天皇、次に繼體天皇、次に安開天皇、次に宣化天皇。
次に敏達天皇。
次に用明天皇、子曰く聖德太子有り。
年三歲、十人の語を聞き、同時に之を解す。
七歳にして菩提寺にて佛法を悟り、『聖鬘經』を講じたところ、天より曼陀羅華が降った。
この地の隋の開皇年間に当たる。使を遣わし海を渡って中国に至り、『法華經』を求めた。
次は崇峻天皇、次は推古天皇、これは欽明天皇の女なり。
次は舒明天皇、次は皇極天皇。
次は孝德天皇、白雉四年、律師道照が求法して中国に至り、三藏僧玄奘に従い經・律・論を受けしは、この地の唐の永徽四年に当たる。
次は阿閉天皇、次は皈依天皇。
次は天炊天皇。
次は高野姬天皇、これは聖武天皇の女なり。
次は白璧天皇、二十四年、二僧霊仙・行賀を遣わし唐に入り、五臺山を禮して佛法を學ばしむ。
次は諾樂天皇、次は嵯峨天皇、次は淳和天皇。
次は仁明天皇。
開成・会昌の年中に当たり、僧を唐に遣わし、五台山を礼拝す。
次に文徳天皇、大中年間に当たり、次に清和天皇、次に陽成天皇。
次に仁和天皇、この地梁の龍徳年中に当たり、僧寛建等を遣わして朝貢せしむ。
次に醍醐天皇、次に天慶天皇。
次に封上天皇、この地周の広順年に当たる。
次に冷泉天皇、今は太上天皇と為す。
次に守平天皇、即ち今の王なり。
凡そ六十四世。
畿内に山城・大和・河内・和泉・摂津の凡そ五州あり、合わせて五十三郡を統ぶ。
また壱岐・対馬・多褹の凡そ三島あり、各二郡を統ぶ。
これを五畿・七道・三島と謂い、凡そ三千七百七十二都、四百十四駅、八十八万三千三百二十九課丁。
課丁の外は、詳らかに見るべからず、皆奝然の記す所なり。
按ずるに隋の開皇二十年、倭王姓は阿毎、名は自多利思比孤、使いを遣わして書を致す。
此れと其の記す所と皆同じ。
上(帝)はその国(日本)の国王が一姓で伝承継承し、臣下も皆世襲の官職であると聞き、ため息をついて宰相に謂いて曰く、「これは島夷(日本の蔑称)であるが、世祚(王位)が遥かに長く、その臣も継承襲封が絶えない。これは古の道である。
中国は唐末の乱より、天下分裂し、梁・周の五代は享歷(在位期間)特に短く、大臣の世冑(家柄)も、嗣続するものは稀である。
朕は往聖(先の聖王)に比べて徳は及ばないが、常に夙夜(朝早くから夜遅くまで)寅畏(畏敬)し、治本(政治の根本)を講求し、暇逸(安逸)を敢えてせず。
無窮の業を建て、久しきに垂るべき範(模範)を立て、また子孫の計と為し、大臣の後世が禄位を世襲することを、これ朕の心とする。」
後数年、仁徳還る。奝然、その弟子喜(嘉)因を遣わし、表を奉じて来謝し、曰く、
「日本国東大寺大朝法済大師、賜紫、沙門奝然啓す。
傷鱗(傷ついた龍)夢に入り、漢主(漢の皇帝)の恩を忘れず、枯骨(白骨)合歓し、猶魏氏(魏の曹操)の敵を亢す。
羊僧(愚かな僧侶)の拙と云うと雖も、誰か鴻霈(広大な恩沢)の誠を忍びん。奝然誠惶誠恐、頓首頓首、死罪。
妄りに下根(劣った根性)の卑しきを以て、適中華の盛に詣る。ここにおいて宣旨頻りに降り、恣に荒外(遠方異域)の跋渉を許し、宿心(宿願)克く協い、粗宇内の瓌奇(珍奇)を観る。
況んや金闕(宮殿)暁後、九禁(宮中)の中に堯雲(聖天子の雲)を望み、巖扃(岩戸)晴前、五台(五台山)の上に聖燈を拝す。三蔵(経・律・論)に就いて稟学し、数寺を巡りて優游す。
遂に蓮華(蓮華経)の廻文(回文)、神筆(天子の筆)北闕の北より出で、貝葉(貝多羅樹の葉)の印字(印刷された文字)、仏詔(仏教の詔)東海の東に伝わることを得しむ。重ねて宣恩を蒙り、忽ち来跡(来朝の跡)に趁う。
季夏(六月)台州の纜を解き、孟秋(七月)本国の郊に達す。爰に明春に逮び、初めて旧邑に到る。緇素(僧俗)欣びて待ち、侯伯(諸侯)慕い迎う。
伏して惟うに、陛下の恵は四溟(四海)に溢れ、恩は五嶽より高く、世は黄(黄帝)・軒(軒轅)の古を超え、人は金輪(転輪聖王)の新に直る。
筆を染めて涙を拭い、紙を広げて魂を揺さぶり、慕恩の至りに堪えぬ。
謹んで上足の弟子傳燈大法師位嘉因、及び大朝にて剃頭受戒の僧祚乾等を差し、表を拝して以て聞かしむ。」
また別に啓し、仏経を貢ぎ、青木の函に納む。
また一合、参議正四位上藤佐理の手書二巻、及び進奉物数一巻、表状一巻を納む。
また金銀蒔絵の硯一筥一合、金硯一、鹿毛筆、松烟墨、金銅水瓶、鉄刀を納む。
また金銀蒔絵の扇筥一合、檜扇二十枚、蝙蝠扇二枚を納む。
その風俗を尋ねるに、云う、婦人は皆髪を被き、一衣に二三縑を用いると。また記す所の州名年号を陳ぶ。
上、滕木吉にその所持する木弓矢を以て挽射せしむ。矢遠く至らず。その故を詰むれば、国中戦闘を習わざるなり。木吉に時装の銭を賜い、遣わし還す。
凡そ問答並びに筆札を以てす。詔して号して圓通大師とし、紫方袍を賜う。
その後もまた朝貢を通ぜず、南賈時にその物貨の中国に至るを伝うる者有り。
是の後、連ねて方物を貢ぎ、而して来る者は皆僧なり。
仲回等を遣わし、絁二百匹、水銀五千両を貢がしむ。孫忠は海商なるを以て、貢礼諸国と異なるにより、自ら牒を移して報い、その物直に答え、仲回に付して東帰せしめんことを請う。之に従う。
詔して人ごとに日に銭五十文、米二升を給し、その国の舟の至る日を俟って遣わし帰らしむ。
党項
党項は、古の析支の地にして、漢代の西羌の別種なり。後周の世に初めて強盛となり、細風氏・費聽氏・往利氏・頗超氏・野亂氏・房當氏・來禽氏・拓拔氏あり、最も強族たり。唐の貞観より上元の間に内附し、西北辺に散居す。元和以後、頗る相率いて盗を為す。会昌初め、武宗三使を置きてこれを統ぶ。邠・寧・延にある者を一使とし、塩・夏・長澤にある者を一使とし、霊武・麟・勝にある者を一使とす。五代も亦た嘗て入貢す。今、霊・夏・綏・麟・府・環・慶・豊州、鎮戎・天徳・振武軍は並びに其の族帳なり。
雍熙初め、諸族の渠帥李継遷に附きて寇を為す。詔して判四方館事田仁朗及び閤門使王侁等に相継ぎ兵を領して討撃せしめ、並びに麟・府・銀・夏・豊州及び日利・月利族に勅書を賜いて之を招諭す。
侁等又た言う、麟州及び三族砦の羌人二千余戸皆降り、酋長折御乜等六十四人馬を献げて首罪し、改図して自ら効力を為し、国の為に賊を討たんことを願う。遂に部下の兵と濁輪川に入り、賊首五十級・酋豪二十人を斬る。李継遷及び三族砦監押折御乜皆遁去す。旋って内客省使郭守文を三交より駅を乗りて亟に往かしめ、王侁等と同しく辺事を領せしむ。五月、王侁・李継隆等又た銀州杏子平東北の山谷内の没邵・浪悉訛等族及び濁輪川東・兎頭川西の諸族を破り、七十八人を生擒し、五十九人を梟し、二百三十六口を俘え、牛羊驢馬千二百六十を獲り、千四百五十二戸を招降す。
六月、夏州の尹憲等、兵を引き塩城に至る。呉移・越移等の四族来たりて降る。憲等之を撫す。岌伽羅膩十四族命に拒む。憲等兵を縦して首級千余を斬り、百人を俘擒し、千余帳を焚き、馬牛羊七千計を獲る。又た銀麟夏等州・三族砦の諸部一百二十五族を降し、合せて一万六千一百八十九戸。酋豪折御乜窮蹙して来帰す。守文之を部下に置く。又た夏州咩嵬族の魔病人乜崖、南山族に在りて党を結びて寇を為す。招懐も至らず、之を擒斬し、首を梟して衆に徇し、並びに其の族を滅す。又た府州女乜族の首領来母崖の男社正等内附す。因りて茗乜族の中に遷居す。
七月、宥州界の咩兀十族の首領・都指揮使遇乜布等九人に勅書を賜い、以て之を安撫す。十一月、勒浪族十六府の大首領屈遇・名波族十二府の大首領浪買は豊州路に当たり最も忠順なること、及び兀泥三族の首領佶移等・女女四族の首領殺越都等の帰化するを以て、並びに勅書を賜いて之を撫す。
四年三月、直蕩族の大首領啜尾・子河汊の大首領馬一並びに来貢す。詔して啜尾の叔の羅買を以て本族の都監と為し、又た啜尾の下の首領十人・馬一の下の首領十二人に皆錦袍・銀帯・器幣を賜う。是年、鄭文宝議を献じて青塩を禁ず。羌族四十四の首領、楊家族に盟し、兵騎一万三千余人を引きて環州の石昌鎮に入寇す。知環州の程徳玄等之を撃走す。因りて詔して屯田員外郎・知制誥の銭若水に駅を馳せて辺に詣り、其の塩禁を弛めしむ。是より部族寧息す。十二月、塩州羌人の酋長の巣延渭を以て本州刺史と為す。是年、蔵才西族の大首領羅妹来貢す。
五年正月、綏州の羌酋蘇移・山海㖡・母馱香の三人を並びに懐化将軍と為し、野利・嵬名乜屈・啜泥の三人を並びに帰徳郎将と為す。四月、府州の折御卿言上す、銀・夏州管勾生戸八千帳族悉く来たりて帰附し、其の馬牛羊万計を録す。邈二族の大首領崖羅・蔵才東族の首領歳囉啜克各其の子弟を遣わして朝貢す。六月、継遷の駆脅せし内属戎人橐駝路熟蔵族の首領乜遇、部族を率いて反攻し継遷を撃ち、其の弟力戦して死す。既に継遷の衆を敗り、復た来たりて帰附す。遇を以て検校司空と為し、会州刺史を領せしむ。是の年、兀泥族の首黄羅内附し、以て懐化将軍と為し、昭州刺史を領せしむ。
七月、李継隆出でて継遷を討つ。麟府州兀泥巾族の大首領突厥羅・女女殺族の大首領越都・女女夢勒族の大首領越移・女女忙族の大首領越置・女女籰兒族の大首領党移・没兒族の大首領莫末移・路乜族の大首領越移・細乜族の大首領慶元・路才族の大首領羅保・細母族の大首領羅保保乜、凡そ十族に勅書を賜いて招懐す。閏七月、懐安鎮の羌諸族を誘いて慶州を寇す。監軍趙継昇師を率いて之を撃ち敗り、首三百級を斬り、羊馬千計を獲る。
五年、咩逋族の開道使・費州刺史泥埋、子城逋を遣わして入貢す。上泥埋の数え継遷と戦闘し労有るを嘉し、錦州団練使を授け、其の族弟屈子を懐化将軍と為して本族指揮使に充て、城逋を帰徳将軍と為して本族都巡検使に充て、余の首領軍主以下名識する者署する凡そ十数人。又黒山北の庄郎族の龍移を安遠大将軍と為し、昧克を懐化将軍と為す。八月、河西教練使李栄等化に帰向す。其の年、羌寇し金明県を抄す。李継周之を撃ち走らす。
十月、河西の戎人帰投する者に詔し、内地に遷し閑田を給す。時に勒厥麻等三族千五百帳、濁輪の失守を以て、河を越えて内属し、辺境に分処す。辺臣屡く勒厥麻賊中に往来し、恐らくは復た叛き去らんとすと言う。乃ち憲州楼煩県に徙置し、使を遣わし金帛を賜いて撫慰す。十二月、咩逋族使を遣わして来貢す。上聞く、賀蘭山に小凉・大凉族甚だ盛んなり、常に継遷と合勢して患いを為さんことを恐る。近く互いに疑隙有り、輒ち相攻掠するを知る。朝廷遂に之を撫せんと欲し、乃ち咩逋の使者を召し問い、其の還るに因り特詔を賜いて以て其の立効を激す。
上又た枢密使王継英等に謂いて曰く、「辺臣言う、遷賊兵を挙ぐるに、屡く龍移・昧克に敗れらる。此の族黄河の北に在り数万帳、或いは号して庄郎昧克とす。常に馬を以て蔵才に附し入貢し、頗る外禦に勤む」と。六年、遂に詔を降して之を奬慰す。二月、葉市族の囉埋等、継遷の偽りに署する牒を持ち百余帳を率いて来帰す。囉埋を以て本族指揮使と為し、囉胡を軍使と為す。邠寧の部署言う、牛羊・蘇家等の族、継遷の族帳を殺すこと功有りと。上曰く、「此の族遠と険とに恃み、久しく賊の援と為り、屡く辺吏を遣わし招諭す。近く志有りて内附せんと聞くも、尚其の詐を疑う。果たして能く格闘して立効す」と。詔して首領等に厚く茶綵を賜いて以て之を奬激す。涇原の部署言う、者龍移卑陵山の首領廝敦琶、使を遣わし称す、已に本族の騎兵を集め、願わくは軍に随いて賊を討たんと。
三月、咩逋族の首領泥埋を以て鄯州防禦使に任じ、霊州河外五鎮都巡検使を充てしむ。時に潘羅支は既に河西節制を授けられしも、上は泥埋が実に羅支と掎角して賊を捍ぐを以て、故に恩寵を加えしむ。是の月、綏州の羌部軍使拽臼等百九十五口内属す。原州の熟戸裴天下等、族兵を率いて遷党の移湖等の帳を掩撃せんことを請い、来たりて策応を求めしも、部署司報いず。上は戎人の力を宣べて賊を禦ぐは、沮すべからざるを以て、即ち諸路に詔諭して精甲を以て策応せしむ。環州の酋長蘇尚娘、賊を撃ちて労有り、及び屡に賊中の機事を告げしにより、臨州刺史と為し、錦袍銀帯を賜う。環慶部署張凝言う、「内属の戎人と賊界錯居し、屡脅誘せらる。臣兵を領し木波鎮を離れ、直ちに八州原下砦に湊し、岑移等三十二族を招降し、又分水嶺に至り麻謀等二十一族を降し、柔遠鎮にて巣迷等二十族を降し、遂に業楽に抵り、𡗀樹羅家等一百族を降す。合せて四千八十戸、第に袍帯物綵を給し、慰めて還帳せしむ」と。
四月、継遷洪徳砦を寇す。酋長慶香と癿𡗀慶族、勢を合して之を撃ち、砦兵を以て策援し、継遷を大いに敗り、四十九人を擒え、崖に墜ちて死する者甚だ衆く、馬七十余匹を獲、旗鼓鎧甲数百計を獲たり。上陣図を考へて入奏使に問う。使者言う、砦兵賊を拒ぐこと千余歩、慶香等親しく部族を率いて賊と接戦すと。上曰く、「慶香等王師を仮りて援と為すも、交鋒俘獲は乃ち其の功なり」と。悉く獲たる所の物を与へ、銀綵を加賜し、慶香を以て順州刺史を領せしめ、癿𡗀慶を以て羅州刺史を領せしむ。河西内属の折勒厥麻等三族、精兵千人・馬三百を以て征討に備へんことを請う。嵐州に詔して撫諭せしむ。環州の白馬族、継遷と戦闘し、帳を屡徙して食乏しく、廩粟を賜う。又洪徳砦の帰附戎人に詔し、内地の土田を給し、口粮を資す。
五月、唐龍鎮上言す、鎮に府州に貿易する者有り、州人の邀殺に為り、資畜を尽く奪はるると。乃ち府州に詔し、自今互市を許令し、切に存撫を加へしむ。六月、瓦窑・没剤・如羅・昧克等の族、河を済て継遷の党を撃ち破る。優詔を以て撫問す。七月、野狸族の首領の子阿宜を補して懐安将軍と為す。八月、原・渭等州言う、本界の戎人来附する者八部二十五族、今吏に詣で質を納つと。環州の蘇尚娘の子孽娘を以て臨州刺史と為す。府州八族都校明義等言う、屡に麟州屈野川に於て継遷を撃ち、及び縁辺六七柵を防遏し、皆克獲有りと。詔して之を奬賚し、仍て府州に令し常に勁兵を以て援助し、機便を失うこと勿からしむ。
四年、唐龍鎮の羌族来美、其の叔璘と叶わず、契丹を召して之を破り、来たりて府州に依る。璘・美は大族に非ず、嘗て両端を持し、頃も亦近界を寇鈔し、兵を発して之に趣けば、則ち河の東に走りて東壥と曰い、契丹兵を加うれば、則ち河の西に入りて西壥と曰う。地極めて険阻、介卒騎兵の及ぶ能はざる所なり。是に至り、上亦其の窮して款塞するを憫み、特に之を優容す。会に契丹の使至る。即ち令して其の事を諭し、仍て掠めたる所の璘・美の人畜を還す。其の族人懐正又璘と互いに讐劫し、側近の帳族寧からず。詔して使を遣わし召して之に盟せしめ、本俗の法に依りて和断せしむ。
六年、北界の尅山軍主、衆を率いて大里河を過ぎ熟戸を侵す。羅勒族の都囉之を撃ち走らす。詔して都囉を以て本族指揮使と為し、且つ辺臣に諭して族帳を約飭し、謹みて疆界を守り、境を出でて追襲すること勿からしむ。九月、夏州に略去せられたる熟戸旺家族の首領都子等来帰す。随ひて至る者又三族。使を遣わし之を存労す。
七年、涇原鈐轄曹瑋請う、熟戸百帳以上の大首領を署して本族軍主と為し、次を指揮使と為し、又次を副指揮使と為し、百帳以下を本族指揮使と為さんことを。之に従う。五月、瑋言う、葉市族の大首領艶奴帰順すと。七月、瑋又言う、北界の万子族鈔略を謀り、兵を発して之を逆ふ。天麻川に大いに敗れ、又魏埋等の族の掩撃に為り、其の酋帥を殺し、首千余級を斬る。八年、北界の酋長・指揮使浪梅娘等来投す。辺臣に諭し、熟戸の亡びて北界に入る者を追取せしめ、即ち梅娘を遣還せしむ。
九年、羌兵が小力族を寇し、巡検の李文貞が兵を率いて奮撃し、追撃して籍遇太保の首級を斬り、文貞に錦袍銀帯を賜う。五月、北界の毛尸族軍主浪埋・骨咩族酋長癿唱・巢迷族酋長馮移埋がその属する者千一百九十口・牛馬雑畜千八百を率いて帰附し、詔を降してこれを撫す。