宋史

列傳第二百四十九 外國六 天竺 于闐 高昌 回鶻 大食 層檀 龜茲 沙州 拂菻

天竺

天竺国は旧名を身毒といい、また摩伽陀とも称し、また婆羅門ともいう。俗に浮図の道を宗とし、酒を飲まず肉を食わない。漢の武帝は使者十余輩を遣わし、西南より間道を出でて身毒を求めしめたが、昆明に阻まれて通ずることができなかった。漢の明帝が金人を夢に見た時に至り、ここに天竺に使者を遣わして仏道の法を問わしめた。これによりその教えが中国に伝わった。梁の武帝、後魏の宣武帝の時、いずれも来朝して貢献した。隋の煬帝は西域に通じることを志し、諸国多く至る者ありしも、ただ天竺のみは通じなかった。唐の貞観以後、朝貢は相継いだ。則天武后の天授年中、五天竺の王並びに来朝して献上した。乾元の末、河隴が陥没すると、ついに再び至らなくなった。周の広順三年、西天竺の僧薩満多ら十六族が名馬を貢ぎに来た。

乾徳三年、滄州の僧道圓が西域より帰還し、仏舎利一水晶器、貝葉の梵経四十夾を得て献上した。道圓は晋の天福年中に西域に赴き、途上十二年、五インドに留まること凡そ六年、五インドすなわち天竺である。帰途に于闐を経て、その使者とともに至った。太祖は召して問い、歴たる風俗山川道里について、一一記すことができた。四年、僧行勤ら百五十七人が闕に詣でて上言し、西域に至り仏書を求めんことを願い、これを許された。その歴たる甘州・沙州・伊州・粛州等の州、焉耆・亀茲・于闐・割禄等の国、また布路沙・加湿弥羅等の国について、並びにその国に詔諭して人をしてこれを導かしめた。開宝以後、天竺の僧が梵夾を持って来献するもの絶えなかった。八年冬、東インドの王子穰結説囉が来朝貢した。

天竺の法では、国王が死ぬと、太子が位を襲ぎ、余りの子は皆出家して僧となり、再び本国に住まない。曼殊室利という者がおり、これはその王子である。中国の僧に随ってここに至り、太祖は相国寺に館せしめた。律を善く持ち、都人の傾嚮するところとなり、財施は室に満ちた。衆僧はこれを頗る嫉み、その唐言(中国語)を解せざるを以て、即ち偽って奏して本国に還ることを求めしめ、これを許された。詔が既に下ると、曼殊室利は始めて大いに驚き恨んだ。衆僧は詔旨を以て諭し、已むを得ず数ヶ月遅留して後に去った。自ら言うには、南海に詣でて商人の船に附して帰ると、終にその行く所を知らなかった。

太平興国七年、益州の僧光遠が天竺より至り、その王没徙曩の表を奉じて上った。上は天竺僧施護に訳させて云わしめた。「近く聞く、支那国内に大明王あり、至聖至明にして威力自在なりと。常に薄幸を慙じ、朝謁する由なし。遥かに支那を望みて聖躬の起居万福を祝す。光遠来たり、金剛吉祥無畏坐釈迦聖像の袈裟一事を賜わるを蒙り、既に披掛供養す。伏して願わくは、支那皇帝の福慧円満、寿命延長し、常に一切有情を生死の海中に引導し、諸の沈溺を渡さんことを。今、釈迦の舎利を光遠に附して上進す。」またその国の僧統の表を訳すに、詞意もまた没徙曩と同じであった。

施護という者は、烏塤曩国の人である。その国は北インドに属し、西に十二日行いて乾陀羅国に至り、また西に二十日行いて曩誐囉賀囉国に至り、また西に十日行いて嵐婆国に至り、また西に十二日行いて誐惹曩国に至り、また西に行きて波斯国に至り、西海を得る。北インドより百二十日行いて中インドに至る。中インドより西に三程行いて阿囉尾国に至り、また西に十二日行いて未曩囉国に至り、また西に十二日行いて鉢頼野迦国に至り、また西に六十日行いて迦囉挐俱惹国に至り、また西に二十日行いて摩囉尾国に至り、また西に二十日行いて烏然泥国に至り、また西に二十五日行いて囉囉国に至り、また西に四十日行いて蘇囉茶国に至り、また西に十一日行いて西海に至る。中インドより六月程行いて南インドに至り、また西に九十日行いて供迦拏国に至り、また西に一月行いて海に至る。南インドより南に六月程行いて南海を得る。皆施護の述べたるところである。

八年、僧法遇が天竺より経を取り回り、三仏斉に至り、天竺僧弥摩羅失黎が語不多令と遇い、表を附して中国に至り経を訳さんことを願う。上は優詔を以てこれを召した。法遇は後に縁を募り龍宝蓋袈裟を製し、将にまた天竺に往かんとし、表して経由する諸国への勅書を給わることを乞う。ここに三仏斉国王遐至葛、古羅国主司馬佶芒、柯蘭国主讃怛羅、西天王子謨馱仙への書を賜ってこれを遣わした。

雍熙年中、えい州の僧辞澣が西域より還り、胡僧密坦羅とともに北インド王及び金剛坐王那爛陀の書を奉じて来た。また婆羅門僧永世が波斯の外道阿里烟とともに京師に至った。永世自ら云う、本国を利得と称し、国王の姓は牙羅五得、名は阿喏你縳、黄衣を着し金冠を戴き、七宝を以て飾りとす。出ずるには象に乗るか肩輿を用い、音楽螺鈸を前導とし、多く仏寺を遊び、貧乏に博く施す。その妃を摩訶你と称し、大紬縷金の紅衣を着す。歳に一度出で、多く振施す。人に冤抑あれば、王及び妃の出遊を待ち、即ち迎え随って訴えを伸ぶ。国相四人を署し、庶務並びに委ねて裁制せしむ。五穀・六畜・果実は中国と異ならず。市易には銅銭を用い、文漫あり円径は中国の制の如し。但しその中心を実にし、貫き通さざるのみ。その国より東に行くこと六月を経て大食国に至り、また二月で西州に至り、また三月で夏州に至る。阿里烟自ら云う、本国の王号は黑衣、姓は張、名は哩没、錦綵を以て衣と為す。遊猟する毎に、三二日で一たび国に還る。大臣九人を署して国事を治めしむ。銭貨なく、雑物を以て貿易す。その国より東に行くこと六月を経て婆羅門に至る。

至道二年八月、天竺僧が船に随って海岸に至り、帝鐘・鈴杵・銅鈴各一、仏像一躯、貝葉の梵書一夾を持ち、これと語るも、曉ることができなかった。

天聖二年九月、西インドの僧愛賢・智信護らが来たり梵経を献じ、各々紫方袍・束帛を賜う。五年二月、僧法吉祥ら五人、梵書を持って来献し、紫方袍を賜う。景祐三年正月、僧善称ら九人、梵経・仏骨及び銅牙菩薩像を貢ぎ、束帛を以て賜う。

于闐

于闐国は、漢より唐に至るまで、皆中国に入貢したが、安史の乱より、絶えて再び至らなくなった。晋の天福年中、その王李聖天自ら唐の宗属を称し、使者を遣わして来貢した。高祖こうそは供奉官張匡鄴に命じ、節を持って聖天を冊し大寶于闐国王と為した。

建隆二年十二月、聖天は使者を遣わし圭一(玉を以て柙と為す)、玉枕一を貢いだ。本国の摩尼師は琉璃瓶二、胡錦一段を貢いだ。その使の言うには、本国は京師を去ること九千九百里、西南は葱嶺に抵り婆羅門と接し、相去ること三千余里、南は吐蕃に接し、西北は疏勒に至ること二千余里。国城の東に白玉河あり、西に緑玉河あり、その西に烏玉河あり、源は崐岡山より出で、国城を去ること西千三百里。毎歳秋、国人は河に於いて玉を取り、これを撈玉と謂う。土は蒲萄に宜しく、人多く醸して酒と為し、甚だ美し。俗は妖神を事とす。

乾徳三年五月、于闐の僧善名・善法が来朝し、紫衣を賜う。その国の宰相は善名等の来朝に因り、書を樞密使李崇矩に致し、中国との通交を求む。太祖は崇矩に命じて書及び器幣を以てこれに報ぜしむ。是より冬に至り、沙門道圓西域より還り、于闐を経て、その朝貢使とともに至る。四年、またその子徳従を遣わして方物を貢ぐ。

開宝二年、使い直末山を遣わして来貢し、かつ本国に玉一塊あり、凡そ二百三十七斤、願わくは以て上進し、使いを遣わしてこれを取らんことを乞うと言う。善名また至り、阿魏子を貢ぎ、昭化大師の号を賜い、因りて還りて玉を取らしむ。また国王の男総嘗て玉𣠽刀を貢ぎ、また厚く賜い以てこれに報ず。四年、その国の僧吉祥その国王の書を以て来上し、自ら疏勒国を破りて舞象一を得、以て貢と為さんと欲すと言う。詔してこれを許す。

大中祥符二年、その国の黒韓王、回鶻の羅廝温等を遣わして方物を以て来貢す。廝温跪いて奏して曰く、「臣万里より来朝し、天日を見ることを得、願わくは聖人万歳、遠人と作主せんことを」と。上路に在る幾時、此を去ること幾里かを以て詢う。対えて曰く、「道を渉ること一年、昼行暮息し、里数を知らず。昔時道路嘗て剽掠有り、今瓜・沙より于闐に抵るまで、道路清謐、行旅流るるが如し。願わくは使いを遣わして遠俗を安撫せしめん」と。上曰く、「路遠くして使いを命ずれば、益々労費を爾国に加う。今詔書を降す、汝すなわち往きて齎せ、また使いを命ずるに異ならざるなり」と。

初め、太平興国中に澶州の卒王貴なる者有り、昼忽ち使者の営に至るを見、急ぎ貴を召して偕に行かしむ。南へ河橋に至れば、駅馬已に具わり、即ち命じてこれに乗ぜしむ。俄に騰虚して去るを覚ゆ。頃之して馬を駐め、但だ屋室の宏麗なるを見る。使者貴を引き入る。その主者の容衛制度悉く王者の如きを見る。貴に謂いて曰く、「汝の年五十八を俟て、当に于闐国の北通聖山に往きて一の異宝を取り以て皇帝に奉るべし、宜しく深くこれを志すべし」と。遂にまた馬に乗り凌虚して旋る。軍中に貴を失うこと已に数日なり。乗る所を験すれば、即ち営卒の馬なり。知州宋煦貴を劾して以て聞かす。太宗これを釈す。天禧初め、貴自ら陳べて年已に五十八、願わくは前戒に遵い、西へ于闐に至らんとす。尋いでその行を許す。貴秦州に至り、道遠きを以て悔懼す。俄に市中にて一道士に遇い、貴を引き出城し、高原に登る。貴の欲する所を問う。具に実を以て対う。即ち貴に命じて目を閉じしむ。少頃して開かしむ。山川の頓に異なるを視る。道士曰く、「これ于闐国の北境通聖山なり」と。また貴を引きて一池を観せしむ。池中に仙童有り、一物を出してこれを授け、謂いて曰く、「これを持ちて皇帝に奉れ」と。また目を瞑らしむ。俄頃にしてまた秦州に至る。向の道士已に所在を失う。その物を発すれば乃ち玉印なり。文に曰く「国王趙萬永宝」と。州以て献ず。

天聖三年十二月、使い羅面于多・副使金三・監使安多・都監趙多を遣わして来朝し、玉鞍轡・白玉帯・胡錦・独峯槖駝・乳香・硇砂を貢ぐ。詔してその直を給還し、都亭西驛に館す。別に襲衣・金帯・銀器百両・衣著二百を賜い、羅面于多には金帯を賜う。

嘉祐八年八月、使い羅撒温を遣わして方物を献ず。十一月、その国王を以て特進・帰忠保順𥒖鱗黒韓王と為す。羅撒温言う、その王この号を賜わんことを乞うと。于闐に金翅烏を「𥒖鱗」と謂い、「黒韓」は蓋し可汗の訛なり。羅撒温等献物を以て賜わる直少なきを不受し、及び献ずる所の独峯槖駝を請う。詔して遠人を以て特別に銭五千貫を賜い、槖駝を以てこれを還し、而してその已に賜わる所の直を与う。その後数たび方物を以て来献す。

熙寧以来、遠くは一二歳を踰えず、近ければ則ち歳再び至る。貢ぐ所は珠玉・珊瑚・翡翠・象牙・乳香・木香・琥珀・花蕊布・硇砂・龍塩・西錦・玉鞦轡馬・膃肭臍・金星石・水銀・安息鷄舌香、持つ所表章無く、毎に暈錦旋襴衣・金帯・器幣を以て賜い、宰相には則ち盤毬雲錦夾襴を賜う。

地産は乳香、来れば輒ち群を負い、私に商賈と牟利す。售げざれば、則ち諸の外府に帰して善価を得る。故にその来ること益々多し。元豊初め、始めて詔す、惟だ表及び方物馬驢を齎するもののみを聴きて以て闕に詣らしむ。乳香は用無くして貢を許さず。

四年、部領阿辛を遣わして上表し、「于闐国僂儸有福力量知文法黒汗王、書を東方日出づる処の大世界田地主漢家阿舅大官家に与う」と称す。大略に路遠くして心を傾けて相い向かう、前三たび使いを遣わし入貢して未だ回らず、数百言を重複すと云う。董氊使いをして熙州に導かしめ、その辞を訳して以て聞かす。詔して前三輩の使人皆已に朝見し、錫賚を賜い遣発し、敕書を賜いてこれを諭す。神宗嘗てその使に去国の歳月、経る所何の国及び鈔略有るや無きやを問う。対えて曰く、「国を去ること四年、道塗その半を居す。黄頭回紇・青唐を歴る。惟だ契丹の鈔略を懼るるのみ」と。因りて之をして諸国の漢境よりの遠近を図上せしめ、書を為して以て李憲に授く。八年九月、使いを遣わして入貢す。使者は神宗の為めに僧に飯し福を追う。銭百万を賜い、その貢ぐ所の師子を還す。

元祐中、その使の至る時無きを以て、熙河に令して間歳一たび闕に至るを聴かしむ。八年、夏国を討たんことを請う。許さず。

紹聖中、その王阿忽都董娥密竭篤また言う、緬薬家過ちを作す、別に報效無し、已に兵を遣わして甘・沙・肅の三州を攻むと。詔して厚くその意に答う。秦州を知る游師雄言う、「于闐・大食・拂菻等国の貢奉、般次踵いて至る。有司供賚に憚り、辺方に抑留し、二歳を限りて一たび進む。外夷義を慕い、万里より至る。此れ遠人を来らしむる所以に非ざるなり」と。これに従う。是より宣和に訖るまで、朝享絶えず。

高昌

高昌国は、漢の車師前王の地なり。高昌城有り、その地勢の高敞・人民の昌盛を取って以て名と為す。後魏の初め、沮渠無諱自ら高昌太守を署す。無諱死す。茹茹闞伯周を以て高昌王と為す。高昌に王有るは此より始まる。後魏より隋に至るまで皆来貢す。唐の貞観中、侯君集その国を平らげ、その地を以て西州と為す。安・史の乱、その地陷没し、乃ち復た国と為る。語訛れて亦た「高敞」と云う。然れどもその地頗る回鶻有り、故に亦たこれを回鶻と謂う。

建隆三年四月、西州回鶻の阿都督ととく等四十二人方物を以て来貢す。乾徳三年十一月、西州回鶻可汗僧法淵を遣わして仏牙・琉璃器・琥珀盞を献ず。太平興国六年、その王始めて「西州外生師子王阿廝蘭漢」と称し、都督麦索温を遣わして来献す。五月、太宗供奉官王延徳・殿前承旨白勳を遣わして高昌に使わす。八年、その使安鶻盧来貢す。

雍熙元年四月、王延徳等還り、その行程を叙して来献し、云う。

初めに夏州より玉亭鎮を経て、次に黄羊平に至る。その地は平らにして黄羊を産す。沙磧を渡るに、水なく、行人は皆水を載す。凡そ二日にして都囉囉族に至る。漢使の過ぐる者には、財貨を遺りて、これを「打當」と謂う。次に茅女喎子族を経る。族は黄河に臨み、羊皮を以て囊と為し、気を吹きて之を実し水に浮かべ、或いは橐駝を以て木栰を牽きて渡る。次に茅女王子開道族を経て、行くこと六窠沙に入る。沙は深さ三尺、馬行くこと能わず、行者は皆橐駝に乗ず。五穀を育せず、沙中に草を生ず、名けて登相と曰い、之を収めて食す。次に樓子山を経る。居人なく、沙磧の中を行くに、日を以て占と為し、旦には則ち日に背き、暮には則ち日に向かい、日中には則ち止む。夕に行きて月を望むも亦之の如し。次に臥梁劾特族の地を経る。都督山有り、唐の回鶻の地なり。次に大蟲太子族を経る。族は契丹の界に接し、人の衣は錦繡を尚び、器用は金銀を用い、馬乳を以て酒を醸し、之を飲むも亦酔う。次に屋地因族を経る。蓋し達于于越王子の子なり。次に達于于越王子族に至る。次に拽利王子族を経る。合羅川有り、唐の回鶻公主の居せし地なり。城基尚在り、湯泉池有り。次に阿墩族を経て、馬騣山望郷嶺を経る。嶺上の石龕に李陵の題字の処有り。次に格囉美源を経る。西方百川の会する所、極望無際にして、鷗鷺鳧鴈の類甚だ衆し。次に托邊城に至る。亦た名けて李僕射城と曰う。城中の首領は号して「通天王」とす。次に小石州を経る。次に伊州を経る。州将は陳氏、其の先は唐の開元二年より州を領し、凡そ数十世、唐時の詔敕尚在り。地に野蠶有りて苦参の上に生じ、綿帛と為すべし。羊有り、尾大にして走ること能わず、尾重き者は三斤、小なる者は一斤、肉は熊白の如くして甚だ美なり。又礪石有り、之を剖きて賓鉄を得、之を喫鉄石と謂う。又胡桐樹を生じ、雨に経れば即ち胡桐律を生ず。次に益都を経る。次に納職城を経る。城は大患鬼魅磧の東南に在り、玉門関を望むこと甚だ近し。地に水草なく、粮を載せて行く。凡そ三日にして、鬼谷口避風驛に至り、本国の法を用いて祭を設け、詔を出して神に風を禦わしむれば、風乃ち息む。凡そ八日にして、澤田寺に至る。高昌、使の至るを聞き、人を遣わして来迎す。次に地名宝庄を経て、又六種を経て、乃ち高昌に至る。

高昌は即ち西州なり。其の地は南は于闐に距たり、西南は大食・波斯に距たり、西は西天歩路涉・雪山・葱嶺に距たり、皆数千里なり。地に雨雪なくして極めて熱く、盛暑の毎に、居人は皆地を穿ちて穴と為し以て処る。飛鳥群を河濱に萃め、或いは飛び起これば、即ち日気の為に爍かれて、墜ちて翼を傷つく。屋室は白堊を以て覆い、雨五寸に及べば、即ち廬舍多く壊る。水有り、源は金嶺に出で、之を導きて国城を周囲し、以て田園を溉ぐ。水磑を作る。地は五穀を産す、唯だ蕎麥無し。貴人は馬を食い、余は羊及び鳧鴈を食う。楽は多く琵琶・箜篌なり。貂鼠・白㲲・繡文花蕊布を出す。俗は騎射を好む。婦人は油帽を戴き、之を蘇幕遮と謂う。開元七年の暦を用い、三月九日を以て寒食と為し、余の二社・冬至も亦然り。銀或いは鍮石を以て筒と為し、水を貯えて激し相射ち、或いは水を以て交わって潑ぎて戯れと為し、之を圧陽気去病と謂う。游賞を好み、行者は必ず楽器を抱く。仏寺五十余区、皆唐朝の賜いし額、寺中に大蔵経・唐韻・玉篇・経音等有り、居民春月多く群を聚めて其の間に遨楽す。游者は馬上に弓矢を持ちて諸物を射、之を禳災と謂う。敕書楼有り、唐太宗・明皇の御札詔敕を蔵し、緘鎖甚だ謹し。復た摩尼寺有り、波斯僧各其の法を持す、仏経の所謂外道なり。統ぶる所に南突厥・北突厥・大衆熨・小衆熨・様磨・割祿・黠戞司・末蠻・格哆族・預龍族の名甚だ衆し。国中に貧民無く、食を絶つ者あれば共に之を賑う。人多く寿考にし、率ね百余歳、夭死絶えて無し。

時は四月、師子王は北廷に避暑す。其の舅阿多于越を以て国を守らしめ、先ず人を遣わして延德に意を致して曰く、「我は王の舅なり、使者我を拝すや」と。延德曰く、「朝命を持して来る、礼拝すべからず」と。復た問うて曰く、「王を見て拝すや」と。延德曰く、「礼亦た拝すべからず」と。阿多于越復た数日を経て始めて相見ゆ、然れども其の礼頗る恭し。師子王は延德を邀えて其の北廷に至らしむ。交河州を経て、凡そ六日にして金嶺口に至る。宝貨の出づる所なり。又二日にして漢家砦に至る。又五日にして金嶺に上る。嶺を過ぐれば即ち雨雪多く、嶺上に龍堂有り、石に刻みて記す云く、小雪山なりと。嶺上に積雪有り、行人は皆毛罽を服す。嶺を度ること一日にして北廷に至り、高臺寺に憩う。其の王は羊馬を烹りて以て膳を具え、尤だ豊潔なり。

地は馬多く、王及び王后・太子各馬を養い、平川中に放牧し、弥亘百余里、毛色を以て別ちて群と為し、其の数を知ること莫し。北廷川は長広数千里、鷹鷂鵰鶻の生ずる所、美草多く、花を生ぜず、砂鼠は𩆊の如く大なり、鷙禽之を捕えて食う。

其の王は人を遣わして来たり言わしむ、日を択びて以て使者を見ん、願わくは其の淹久を訝ること無かれと。七日にして、其の王及び王子侍者を見る。皆東に向かいて拝して賜を受く。旁に磬を持つ者ありて之を撃ちて以て拝を節す。王は磬声を聞きて乃ち拝す。既にして王の児女親属皆出で、羅列して拝して以て賜を受け、遂に楽を張りて飲宴し、優戯を為し、暮に至る。明日、池中に舟を汎す。池四面に鼓楽を作す。又明日、仏寺に游ぶ。曰く応運太寧の寺、貞観十四年に造る。

北廷の北山中より硇砂を出す。山中嘗て烟気の涌き起る有り、雲霧無く、夕に至れば光燄炬火の若く、禽鼠を照らして見れば皆赤し。采る者は木底鞵を著けて之を取る。皮なる者は即ち焦る。下に穴有りて青泥を生じ、穴外に出づれば即ち砂石に変ず。土人は之を取りて以て皮を治む。城中に楼臺卉木多し。人は白晳端正、性工巧にして、善く金銀銅鉄を治めて器と為し、及び玉を攻むるに巧みなり。善馬は直ちに絹一匹、其の駑馬は食に充つるに纔かに一丈の直有り。貧者は皆肉を食う。西は安西に抵る。即ち唐の西境なり。

七月、延德を令して先ず其の国に還らしむ。其の王は九月に至る。亦た契丹の使の来るを聞く。其の王に謂いて云く、「高敞は本漢土なり、漢使来たりて封域を覘視し、将に異図有らん、王まさに之を察すべし」と。延德其の語を偵知し、因りて王に謂いて曰く、「契丹は素より中国に順わず、今乃ち反間す。我之を殺さんと欲す」と。王固く勧めて乃ち止む。

六年五月京師を離れ、七年四月高昌に至る。歴る所に詔を以て諸国の君長に襲衣・金帯・繒帛を賜う。八年春、其の謝恩使と凡そ百余りと復た旧路に循いて還り、雍熙元年四月京師に至る。

景德元年、又た使金延福を遣わして来貢す。

回鶻

回鶻はもと匈奴の別裔にして、天徳の西北娑陵水上に在り。後魏の時は鐵勒と號し、唐初は特勒と號し、後に回紇と稱す。其の君長を可汗と曰ひ、貞觀以後より朝貢絶えず。至德の初め、兵を出して國を助け安・史の亂を討平す。故に累朝恩禮最も重し。然れども功を恃みて橫恣にし、朝廷其の邀求厭ふこと無きを患ふと雖も、頗る姑息して之を聽從す。元和の中、回鶻と改む。會昌の中、其の國衰亂し、其の相馺職なる者外甥將龐勒を擁して西に奔り安西に至る。既にして回鶻は幽州の張仲武に破られ、龐勒乃ち自ら可汗と稱し、甘・沙・西州に居り、復た昔時の盛んなる無し。

梁・後唐・晉・漢・周を歴て、皆使を遣はして朝貢す。後唐同光の中、其の國王仁美を冊して英義可汗とす。仁美卒し、其の弟仁裕立つ。冊して順化可汗とす。晉天福の中、又た奉化可汗と改む。仁裕卒し、子景瓊立つ。是に先だち、唐朝繼ぎて公主を下嫁せしむ。故に回鶻世に中朝を舅と稱し、中朝每に賜ふ答詔も亦た外甥と曰ふ。五代の後皆之に因る。

建隆二年、景瓊使を遣はして朝獻す。三年、阿都督等四十二人方物を以て來貢す。乾德二年、使を遣はし玉百團・琥珀四十斤・犛牛尾・貂鼠等を貢す。三年、使趙黨誓等四十七人を遣はし團玉・琥珀・紅白犛牛尾を以て貢とす。開寶中累ねて使を遣はし方物を貢し、其の宰相鞠仙越も亦た馬を貢す。

太平興國二年冬、殿直張璨を遣はし詔を齎して甘・沙州回鶻可汗外甥を諭し、器幣を賜ひ、名馬美玉を招致し、以て車騎琮璜の用に備ふ。五年、甘・沙州回鶻可汗夜落紇密禮遏使裴溢的等四人を遣はし、橐駝・名馬・珊瑚・琥珀を以て來獻す。

雍熙元年四月、西州回鶻婆羅門僧永世・波斯外道阿里烟と同に入貢す。四年、合羅川回鶻第四族首領使を遣はし朝貢す。端拱二年九月、回鶻都督石仁政・麼囉王子・邈拏王子・越黜黃水州巡檢四族並びに賀蘭山下に居り、統屬する所無く、諸部の入貢多く其の地に由る。麼囉王子自ら云ふ、向は靈州の馮暉に阻絶せられ、是に由りて貢奉を通ぜず、今内附の意有りと。各錦袍銀帶を以て之を賜ふ。

咸平四年、可汗王祿勝使曹萬通を遣はし玉勒名馬・獨峯無峯橐駝・賓鐵劍甲・琉璃器を以て來貢す。萬通自ら言ふ、本國の樞密使に任ず。本國は東は黃河に至り、西は雪山に至り、小郡數百有り、甲馬甚だ精習す。願くは朝廷使を命じ統領せしめ、継遷を縛りて以て獻ぜしめんと。因りて詔を降して祿勝に曰く、「賊遷凶悖、人神の棄つる所なり。卿世に忠烈を濟ひ、義舅甥に篤し、繼ぎて奏封を上け、方略を備陳し、且つ大に精甲を舉げ、就きて殘妖を覆し、土を西陲に拓き、俘を北闕に獻せんと欲す。可汗の功業、其れ勝言す可けんや!嘉歎深く、朕が意を忘れず。今更に使臣を遣はさず、一切卿に委ね統制せしむ」と。特ちに萬通を左神武軍大將軍に授け、祿勝に器服を優賜す。

景德元年、夜落紇使を遣はして來貢す。四年、又た尼法仙等を遣はして來朝し、馬を獻ず。仍ほ法仙の五臺山を遊ぶを許す。又た僧翟を遣はし入奏し、來りて馬を獻じ、京城に於て佛寺を建て聖壽を祝し、名額を賜はらんことを求む。許さず。

大中祥符元年、夏州萬子等軍主族兵を領して回鶻に趨く。回鶻伏を要路に設け、弱きを示して闘はず、其の過ぐるを俟ち、奮起して之を撃ち、勦戮殆んど盡くす。其の生擒する者は、回鶻野に坐するを驅り、悉く獲たる所の資粮を以て之を示し、曰く「爾輩狐鼠、小利を規求す。我は然らず」と。遂に盡く焚きて之を殺し、唯だ萬子軍主身を挺して走る。鎮戎軍以て聞す。上曰く「回鶻嘗て継遷を殺し、世に讎敵と為る。甘州の使至るも、亦た德明の侵軼の狀を言ひ、意頗る之を輕視す。其の兵勢を量るに、德明未だ易く敵す可からず」と。其の年、夜落紇・寶物公主及び沒孤公主・娑溫宰相各使を遣はして來貢す。東封禮成り、可汗王進奉使姚進を以て寧遠將軍と為し、寶物公主進奉曹進を安化郎將と為し、袍笏を賜ふ。又た夜落紇に介冑を賜ふ。

三年、又た左溫宰相・何居錄越樞密使・翟符守榮等を遣はして來貢す。是の年、龜茲國王可汗使李延福・副使安福・監使翟進を遣はし來りて香藥・花蕊布・名馬・獨峯駝・大尾羊・玉鞍勒・琥珀・䃋石等を進む。四年、翟符守榮等三十人汾陰に從祀せんことを請ふ。其の年、夜落紇使を遣はし方物を貢し、秦州回鶻安密道左に玉帶を獻ず。禮成り、翟符守榮を左神武軍大將軍と為し、安殿民を保順郎將と為し、餘は皆冠帶器幣を賜ふ。其の年、夜落紇使を遣はし言ふ、趙德明を敗り功を立てし首領、恩賞を加へらんことを請ふと。詔して司戈・司階・郎將の告敕十道を給し、承制して補署するを得しむ。

六年、龜茲進奉使李延慶等三十六人長春殿に對し、名馬・弓箭・鞍勒・團玉・香藥等を獻じ、優詔を以て之に答ふ。

是に先だち、甘州數へて夏州と接戰し、夜落紇の貢奉多く夏州に鈔奪せらる。宗哥族朝廷の恩化に感悅するに及び、乃ち人を遣はし其の使を援送す。故に頻年京師に至るを得たり。既にして唃廝羅可汗の女を娶らんと欲して聘財無く、可汗許さず。因りて讎敵と為る。五年、秦州指揮使楊知進・譯者郭敏を遣はし進奉使を送りて甘州に至る。會す宗哥怨隙に阻まれ歸路を絶たれ、遂に知進等を留めて敢へて遣はさず。八年、敏方に得て還る。可汗王夜落隔表を上りて言ふ、寶物公主疾死し、西涼人蘇守信の劫亂に因り、時に奏聞せず。又た恩賜の寶鈿・銀匣・曆日及び安撫詔書を謝し、仍ほ宗哥を慰諭し、朝貢の路を開かしむることを乞ふ。九年、楊知進も亦た至る。遂に郭敏を遣はし宗哥に詔書へいびに甘州可汗の器幣を賜ふ。其の年、使來朝貢し、夜落隔卒し、九宰相諸部落夜落隔歸化を奉じて可汗王と為し國事を領すと言ふ。

天禧二年、夜落隔歸化都督安信等を遣はして來朝す。四年、又た使を遣はし龜茲國可汗王智海の使と同に來りて大尾羊を獻ず。初め、回鶻西奔し、族種散處す。故に甘州に可汗王有り、西州に克韓王有り、新復州に黑韓王有り、皆其の後なり。

天聖元年五月、甘州夜落隔通順使阿葛之・王文貴を遣はして來り方物を貢す。六月、詔して甘州回紇外甥可汗王夜落隔通順を特ちに歸忠保順可汗王に封ず。二年五月、使都督習信等十四人を遣はして來り馬及び黃湖綿・細白㲲を貢す。三年四月、可汗王・公主及び宰相撒溫訛馬・乳香を進む。銀器・金帶・衣著・暈錦旋襴を賜ふこと差有り。五年八月、使安萬東等一十四人を遣はして來り方物を貢す。六年二月、人を遣はして方物を貢す。

熙寧元年(1068年)に入貢し、金字大般若経の購入を求め、墨本を賜う。六年(1073年)再び来朝し、その首領五人を軍主に補任し、毎年綵絹二十匹を給す。神宗、その国の種族・人口の数を問うと、三十余万と答え、壮年で使える者はと問うと、二十万と答えた。翌年、李憲に命じて使者を選び阿里骨に聘問させ、回鶻に諭して兵を発し夏国境深く侵攻させるよう命ず。李憲、殿直皇甫旦に命ず。皇甫旦、往くも前進できず、虚偽の功績を奏上する。詔して皇甫旦を逮捕し御史台の獄に下し罪に当てる。

しかし回鶻の使者は常に来朝するわけではなく、宣和年間(1119-1125年)、時に貢使として入朝し散じて陝西諸州に至り、公然と貿易を行い、長く留まって帰らない者もいた。朝廷、彼らが辺境の事情に通じることを憂慮し、かつ往来は皆夏国を経由するため、伝播に都合が良くないとして、法を立ててこれを禁じた。

大食

大食国は本来波斯(ペルシャ)の別種である。隋の大業年間(605-618年)、波斯に桀黠な者が洞穴を探り文石を得て、瑞祥と為し、その衆を糾合し、資貨を掠奪し、徒党を集めて次第に盛んとなり、遂に自立して王と為り、波斯国の西境を占拠した。唐の永徽年間(650-655年)以後、たびたび朝貢に来た。その王盆泥末換以前を白衣大食と謂い、阿蒲羅拔以後を黑衣大食と謂う。

乾徳四年(966年)、僧行勤西域を遊歴し、その王に詔書を賜い懐柔す。開宝元年(968年)、使者を遣わし来朝貢献す。四年(971年)、また方物を貢ぎ、その使者李訶末を懐化将軍と為し、特に金花五色綾紙に官告を書き賜う。この年、本国及び占城・闍婆がまた李煜に礼物を贈る。李煜、敢えて受けず、使者を遣わし来朝して献上せしむ。詔して今後は献上せしめざるを命ず。六年(973年)、使者を遣わし方物を貢ぐ。七年(974年)、国王訶黎佛また使者不囉海を遣わし、九年(976年)、また使者蒲希密を遣わし、皆方物を携えて来貢す。

太平興国二年(977年)、使者蒲思那・副使摩訶末・判官蒲囉等を遣わし方物を貢ぐ。その従者は目が深く体が黒く、崐崘奴と謂う。詔してその使者に襲衣・器幣を賜い、従者には縑帛を差等有りて賜う。四年(979年)、また朝貢使至る。雍熙元年(984年)、国人花茶来たり花錦・越諾・揀香・白龍脳・白沙糖・薔薇水・琉璃器を献ず。

淳化四年(993年)、またその副酋長李亞勿を遣わし来貢す。その国の舶主蒲希密南海に至り、老病のため闕下に詣でられず、方物を李亞勿に託して献上せしむ。その表文に曰く。

大食舶主臣蒲希密上言す。衆星象を垂れ、北辰に回拱し、百谷源を疏け、東海に委輸す。有道の柔遠に属し、無外を罄きて以て心を宅す。伏して惟うに皇帝陛下は徳二儀に合し、明七政に斉しく、仁万国を宥し、光四夷に被る。賡歌は撃壤の民に洽く、重訳は奉珍の貢に走る。臣顧みるに殊俗を惟い、中区を景慕し、早く向日の心を傾け、頗る朝天の願を鬱す。

昨在本国、曾て広州蕃長の寄書招諭を得、京に入り貢奉するを令し、盛んに皇帝の聖徳を称え、寛大の沢を布き、詔を広南に下し、蕃商を寵綏し、遠物を阜通すと。臣遂に海舶に乗り、爰に土毛を率い、龍王の宮を渉歴し、天帝の境を瞻望し、庶幾くば玄化に遵い、以て宿心を慰めんとす。今則たとえ五羊の城に届くも、猶お双鳳の闕を賒し。自ら衰老を念い、病いて興ること能わず、金門を遐想し、心目俱に断つ。今李亞勿の来貢に遇い、謹んで蕃錦・藥物を備え附け以て上献す。臣希密凡そ象牙五十株、乳香千八百斤、賓鉄七百斤、紅絲吉貝一段、五色雑花蕃錦四段、白越諾二段、都爹一琉璃瓶、無名異一塊、薔薇水百瓶を進む。

詔して希密に勅書・錦袍・銀器・束帛等を賜い以てこれに答う。

至道元年(995年)、その国の舶主蒲押陁黎、蒲希密の表文を齎し来たり白龍脳一百両、膃肭臍五十対、龍塩一銀合、眼薬二十小琉璃瓶、白沙糖三琉璃甕、千年棗・舶上五味子各六琉璃瓶、舶上褊桃一琉璃瓶、薔薇水二十琉璃瓶、乳香山子一坐、蕃錦二段、駝毛褥面三段、白越諾三段を献ず。崇政殿に引対し、訳者が代わりて奏す云く、「父蒲希密は利を射んが因縁に、舶を泛して広州に至り、今に至るまで五年帰らず。母、臣に令して遠く来たり尋訪せしむ。広州に至りて之を見る始む。具に言う、前歳皇帝の聖恩を蒙り勅書を降し、法錦袍・紫綾纏頭・間塗金銀鳳瓶一対・綾絹二十匹を賜う。今臣に令して章を奉り来たり謝し、方物を致して貢がしむ」と。

太宗、因りてその国を問う。対えて云く、「大秦国と相隣り、その統属と為る。今本国の管する民は僅かに数千に及び、都城有りて山海の間に介す」と。またその山沢の産する所を問う。対えて云く、「惟だ犀・象・香薬のみ」と。犀・象を以て何の法を取り得るかを問う。対えて云く、「象は象媒を用いて誘い至らしめ、漸く大繩を以て之を羈縻するのみ。犀は則ち人をして大樹に昇らせ弓矢を操り、その至るを伺い射て殺す。その小なる者は弓矢を用いずして捕獲すべし」と。上、襲衣・冠帯・被褥等の物を賜い、閤門に令して宴犒せしめ畢え、就館せしめ、数ヶ月延留して遣わし回す。詔を降し蒲希密に黄金を答賜し、その貢ぐ所の価値に準ず。三年(997年)二月、また賓同隴国の使者と共に来朝す。

咸平二年(999年)、また判官文戊至る。三年(1000年)、舶主陁婆離、使者穆吉鼻を遣わし来貢す。吉鼻還るに、陁婆離に詔書並びに器服・鞍馬を賜う。六年(1003年)、また使者婆羅欽三摩尼等を遣わし方物を貢ぐ。摩尼等、崇政殿に対し、真珠を持ちて進み、自ら云く、国を離るる日誠に願わくは威顔を瞻んことを得て即ち此れを献ぜんと、回賜を給わざるを乞う。真宗、その意に違わんと欲せず、その還るを俟ち、優に恩賚を加う。

景德元年(1004年)、また使者来る。時に三仏斉・蒲端国の使者と並び京師に在り、上元の観燈に会し、皆賜銭してその宴飲を縦す。その秋、蕃客蒲加心至る。四年(1007年)、また使者を遣わし占城の使者と同来し、優に館餼の礼を加え、苑囿・寺観に徧く至り遊覧するを許す。

大中祥符元年(1008年)十月、車駕東封す。舶主陁婆離上言し、方物を執り泰山に赴かんことを願う。之に従う。また舶主李亞勿、使者麻勿を遣わし玉圭を献ず。並びに器幣・袍帯を優賜し、併せて国主に銀飾繩床・水罐・器械・旗幟・鞍勒馬等を賜う。四年(1011年)、汾陰を祀る。また帰徳将軍陁羅離を遣わし缻香・象牙・琥珀・無名異・繍絲・紅絲・碧黄綿・細越諾・紅駝毛・間金線璧衣・碧白琉璃酒器・薔薇水・千年棗等を進む。詔して陪位せしめ、礼成り、並びに冠帯・服物を賜う。五年(1012年)、広州言う、大食国人無西忽盧華、百三十歳、耳に重輪有り、貌甚だ偉異、自ら言う、遠く皇化を慕い、古邏国の舶船に附して来たりと。詔して就いて錦袍・銀帯を賜い、束帛を加う。

天禧三年(1019年)、使者蒲麻勿陁婆離と副使蒲加心らを派遣して来朝貢献した。これ以前、その入貢の道は沙州を経由し、夏国を渡り、秦州に至っていた。乾興初年(1022年)、趙徳明が自国を通ることを請うたが、許されなかった。天聖元年(1023年)に入貢した際、西方の者に掠奪されることを恐れ、詔して今後は海路を取り広州を経て京師に至るように命じた。至和(1054-1056年)・嘉祐(1056-1063年)の間、四度方物を貢献した。最後にその首領蒲沙乙を武寧司階に任じた。

熙寧年間(1068-1077年)、その使者辛押陁羅が蕃長司公事を統轄監督することを請うたが、詔して広州に裁量させた。また銭銀を進献して広州城修築を助けようとしたが、許されなかった。熙寧六年(1073年)、都蕃首保順郎将蒲陀婆離慈が上表して子の麻勿に貢物を奉持させ、自らの代わりとすることを請い、また将軍となることを求めた。詔してただ麻勿に郎将を授けるのみとした。その国の部属はそれぞれ異なる名称があり、故に勿巡、陁婆離、俞盧和地、麻囉跋等国があるが、いずれも大食を冠している。勿巡が貢献したものには、さらに龍脳、兜羅錦、毬錦襈、蕃花簟があり、陁婆には金飾寿帯、連環臂鈎、数珠の類があった。

政和年間(1111-1118年)、横州士曹蔡蒙休がその使者を伴って入都する際、沿道で故意に滞留し、その香薬を強引に買い取って代価を支払わなかった。事が聞こえ、詔して提点刑獄に命じて獄を設け追及審理させた。これにより詔して、今後蕃夷が入貢する際は、いずれも承務郎以上の清廉有能な官吏を選んで伴い、行程に従って進み、理由なく一日を超えて滞在してはならず、物品を乞い求め買い取る者は自盗の罪をもって論ずることとした。

その国は泉州の西北にあり、船で四十余日かけて藍里に至り、翌年風に帆を揚げ、さらに六十余日かかってようやくその国に到達する。地勢は雄壮で広大であり、民俗は贅沢で華麗、諸蕃の中で最も優れている。気候は多く寒い。その王は錦衣に玉帯、金履を履き、朔望(ついたちと十五日)には百宝純金の冠を戴く。その居所は瑪瑙を柱とし、緑甘(緑色の石材か)を壁とし、水晶を瓦とし、碌石を磚とし、活石(石灰か)を漆喰とし、帷幕には百花錦を用いる。官には丞相・太尉があり、それぞれ兵馬二万余りを統率する。馬の高さは七尺、士卒はぎょう勇である。民居の屋宇はおおよそ中国と同様である。市肆には多く金銀綾錦がある。工匠の技術は、いずれもその能を極めている。

建炎三年(1129年)、使者を派遣し宝玉珠貝を奉じて入貢した。帝(高宗)が侍臣に言うには、「大観・宣和年間(1107-1125年)、茶馬の政が廃れたため、武備が整わず、金人が華夏を乱すに至り、危亡が絶え間ない糸のようであった。今また数十万緡を費やして無用の珠玉と交換するよりは、財を惜しんで戦士を養う方がどうか」。詔して張浚にこれを退けさせ、厚く賜与して遠人の厚意に答えた。紹興元年(1131年)、再び使者を派遣して文犀・象歯を貢献し、朝廷も厚く賜与を加えたが、その利益を貪らなかったため、遠人はこれを懐き、貢賦は絶えなかった。

層檀

層檀国は南海の傍らにあり、城は海から二十里の距離にある。熙寧四年(1071年)に初めて入貢した。海路順風なら百六十日航行し、勿巡、古林、三仏斉国を経て広州に至る。その王の名は亜美羅亜眉蘭、伝国五百年、十世である。人の語音は大食のようである。地は春冬暖かい。貴人は越布で頭を纏い、花錦や白㲲布を着用し、出入りには象・馬に乗る。俸禄がある。その法は軽罪は杖刑、重罪は死刑である。穀物には稻・粟・麦があり、食物には魚があり、家畜には綿羊・山羊・沙牛・水牛・橐駝・馬・犀・象があり、薬には木香・血竭・没薬・鵬砂・阿魏・薰陸がある。真珠・玻璃・密沙華三酒を産する。交易には銭を用い、官が自ら鋳造し、その配合を三分とし、金銅が半分ずつで銀が一分を占め、民の私鋳を禁じる。元豊六年(1083年)、使者保順郎将層伽尼が再び来朝し、神宗はその遠隔を思い、詔して故事の通りに頒賜し、さらに白金二千両を加賜した。

亀茲

亀茲は本来回鶻の別種である。その国主は自ら師子王と称し、黄衣を着て宝冠を戴き、宰相九人とともに国事を共同で治める。国都には市井があるが銭貨はなく、花蕊布をもって交易する。米麦瓜果がある。西は大食国まで六十日行程、東は夏州まで九十日行程である。あるいは西州回鶻と称し、あるいは西州亀茲と称し、また亀茲回鶻とも称する。

天聖年間(1023-1032年)から景祐四年(1037年)まで、入貢すること五度、最後に仏経一蔵を賜った。熙寧四年(1071年)、使者李延慶・曹福が入貢した。熙寧五年(1072年)、また使者盧大明・篤都が入貢した。紹聖三年(1096年)、大首領阿連撒羅ら三人が表章及び玉仏を携えて洮西に至った。熙河経略使はその使者が稀であることを理由に、熙州・秦州で博買させ、かつ携えてきた物の価値を評価して答賜し送還するよう請うた。これに従った。

沙州

沙州は本来漢の燉煌の故地であり、唐の天宝末年(756年頃)に西戎に陥落した。大中五年(851年)、張義潮が州を以て帰順し、詔して沙州を帰義軍と建て、義潮を節度使とし、河沙甘粛伊西等州観察・営田処置使を領せしめた。義潮が入朝すると、従子の淮深に州事を領せしめた。朱梁の時代に至り、張氏の後が絶え、州人が長史曹義金を推して帥とした。義金が卒すると、子の元忠が嗣いだ。周の顕徳二年(955年)に来貢し、本軍節度・検校太尉・同中書門下平章事を授け、印を鋳造して賜った。

建隆三年(962年)、兼中書令を加え、子の延恭を瓜州防禦使とした。興国五年(太平興国五年、980年)、元忠が卒すると、子の延祿が人を遣わして来貢した。元忠に燉煌郡王を追贈し、延祿に本軍節度使を授け、弟の延晟を瓜州刺史とし、延瑞を衙内都虞候とした。咸平四年(1001年)、延祿を譙郡王に封じた。咸平五年(1002年)、延祿・延瑞が従子の宗寿に害され、宗寿が留後を権知し、その弟の宗允に瓜州を権知させた。旌節を求める上表があり、そこで宗寿に節度使を授け、宗允に検校尚書左僕射・知瓜州を授け、宗寿の子賢順を衙内都指揮使とした。大中祥符末年(1016年)、宗寿が卒すると、賢順に本軍節度使を授け、弟の延恵を検校刑部尚書・知瓜州とした。賢順は上表して金字蔵経及び茶薬金箔を乞い、詔してこれを賜った。天聖初年(1023年)に至り、使者を遣わして来謝し、乳香・硇砂・玉団を貢献した。景祐年間(1034-1038年)から皇祐年間(1049-1054年)まで、合わせて七度方物を貢献した。

拂菻

拂菻国は東南は滅力沙まで、北は海まで、いずれも四十行程である。西は海まで三十行程である。東は西大食及び于闐・回紇・青唐から、中国に至る。歴代、朝貢したことはなかった。

元豊四年(1081年)十月、その王滅力伊霊改撒が初めて大首領の你廝都令廝孟判を遣わして、鞍馬・刀剣・真珠を献上し、その国の地は甚だ寒く、土屋に瓦を用いないと述べた。産物は金・銀・珠・西錦・牛・羊・馬・単峰駱駝・梨・杏・千年棗・バダム(扁桃)・粟・麦であり、葡萄で酒を醸す。楽器には箜篌・壺琴・小篳篥・偏鼓がある。王は紅黄の衣を着用し、金糸で織った絹布で頭を纏い、毎年三月に仏寺に赴き、紅い床に座り、人に担がせる。貴臣は王の服と同様か、あるいは青緑・緋白・粉紅・褐紫の衣を着て、同様に頭を纏い馬に跨る。都市と田野には、皆首領がこれを主宰し、毎年ただ夏と秋の二度に限って俸禄を与え、金・銭・錦・穀・帛を支給し、治める事柄の大小によって差等をつける。刑罰は罪の軽い者は数十回杖打ち、重い者は二百回に至り、大罪は毛の袋に詰めて海中に投げ込む。闘戦を尊ばず、隣国と小競り合いがあれば、ただ文書を以て往来し互いに詰問し、事が大きければ兵を出すこともある。金銀を鋳て銭と為し、穿孔はなく、表面に弥勒仏を彫り、裏面に王名を刻み、民の私造を禁ずる。

元祐六年(1091年)、その使者が二度来朝した。詔して別にその王に帛二百匹・白金瓶・襲衣・金束帯を賜う。