天竺
天竺の法では、国王が死ぬと、太子が位を襲ぎ、余りの子は皆出家して僧となり、再び本国に住まない。曼殊室利という者がおり、これはその王子である。中国の僧に随ってここに至り、太祖は相国寺に館せしめた。律を善く持ち、都人の傾嚮するところとなり、財施は室に満ちた。衆僧はこれを頗る嫉み、その唐言(中国語)を解せざるを以て、即ち偽って奏して本国に還ることを求めしめ、これを許された。詔が既に下ると、曼殊室利は始めて大いに驚き恨んだ。衆僧は詔旨を以て諭し、已むを得ず数ヶ月遅留して後に去った。自ら言うには、南海に詣でて商人の船に附して帰ると、終にその行く所を知らなかった。
太平興国七年、益州の僧光遠が天竺より至り、その王没徙曩の表を奉じて上った。上は天竺僧施護に訳させて云わしめた。「近く聞く、支那国内に大明王あり、至聖至明にして威力自在なりと。常に薄幸を慙じ、朝謁する由なし。遥かに支那を望みて聖躬の起居万福を祝す。光遠来たり、金剛吉祥無畏坐釈迦聖像の袈裟一事を賜わるを蒙り、既に披掛供養す。伏して願わくは、支那皇帝の福慧円満、寿命延長し、常に一切有情を生死の海中に引導し、諸の沈溺を渡さんことを。今、釈迦の舎利を光遠に附して上進す。」またその国の僧統の表を訳すに、詞意もまた没徙曩と同じであった。
施護という者は、烏塤曩国の人である。その国は北インドに属し、西に十二日行いて乾陀羅国に至り、また西に二十日行いて曩誐囉賀囉国に至り、また西に十日行いて嵐婆国に至り、また西に十二日行いて誐惹曩国に至り、また西に行きて波斯国に至り、西海を得る。北インドより百二十日行いて中インドに至る。中インドより西に三程行いて阿囉尾国に至り、また西に十二日行いて未曩囉国に至り、また西に十二日行いて鉢頼野迦国に至り、また西に六十日行いて迦囉挐俱惹国に至り、また西に二十日行いて摩囉尾国に至り、また西に二十日行いて烏然泥国に至り、また西に二十五日行いて囉囉国に至り、また西に四十日行いて蘇囉茶国に至り、また西に十一日行いて西海に至る。中インドより六月程行いて南インドに至り、また西に九十日行いて供迦拏国に至り、また西に一月行いて海に至る。南インドより南に六月程行いて南海を得る。皆施護の述べたるところである。
八年、僧法遇が天竺より経を取り回り、三仏斉に至り、天竺僧弥摩羅失黎が語不多令と遇い、表を附して中国に至り経を訳さんことを願う。上は優詔を以てこれを召した。法遇は後に縁を募り龍宝蓋袈裟を製し、将にまた天竺に往かんとし、表して経由する諸国への勅書を給わることを乞う。ここに三仏斉国王遐至葛、古羅国主司馬佶芒、柯蘭国主讃怛羅、西天王子謨馱仙への書を賜ってこれを遣わした。
雍熙年中、衞州の僧辞澣が西域より還り、胡僧密坦羅とともに北インド王及び金剛坐王那爛陀の書を奉じて来た。また婆羅門僧永世が波斯の外道阿里烟とともに京師に至った。永世自ら云う、本国を利得と称し、国王の姓は牙羅五得、名は阿喏你縳、黄衣を着し金冠を戴き、七宝を以て飾りとす。出ずるには象に乗るか肩輿を用い、音楽螺鈸を前導とし、多く仏寺を遊び、貧乏に博く施す。その妃を摩訶你と称し、大紬縷金の紅衣を着す。歳に一度出で、多く振施す。人に冤抑あれば、王及び妃の出遊を待ち、即ち迎え随って訴えを伸ぶ。国相四人を署し、庶務並びに委ねて裁制せしむ。五穀・六畜・果実は中国と異ならず。市易には銅銭を用い、文漫あり円径は中国の制の如し。但しその中心を実にし、貫き通さざるのみ。その国より東に行くこと六月を経て大食国に至り、また二月で西州に至り、また三月で夏州に至る。阿里烟自ら云う、本国の王号は黑衣、姓は張、名は哩没、錦綵を以て衣と為す。遊猟する毎に、三二日で一たび国に還る。大臣九人を署して国事を治めしむ。銭貨なく、雑物を以て貿易す。その国より東に行くこと六月を経て婆羅門に至る。
于闐
于闐国は、漢より唐に至るまで、皆中国に入貢したが、安史の乱より、絶えて再び至らなくなった。晋の天福年中、その王李聖天自ら唐の宗属を称し、使者を遣わして来貢した。高祖は供奉官張匡鄴に命じ、節を持って聖天を冊し大寶于闐国王と為した。
初め、太平興国中に澶州の卒王貴なる者有り、昼忽ち使者の営に至るを見、急ぎ貴を召して偕に行かしむ。南へ河橋に至れば、駅馬已に具わり、即ち命じてこれに乗ぜしむ。俄に騰虚して去るを覚ゆ。頃之して馬を駐め、但だ屋室の宏麗なるを見る。使者貴を引き入る。その主者の容衛制度悉く王者の如きを見る。貴に謂いて曰く、「汝の年五十八を俟て、当に于闐国の北通聖山に往きて一の異宝を取り以て皇帝に奉るべし、宜しく深くこれを志すべし」と。遂にまた馬に乗り凌虚して旋る。軍中に貴を失うこと已に数日なり。乗る所を験すれば、即ち営卒の馬なり。知州宋煦貴を劾して以て聞かす。太宗これを釈す。天禧初め、貴自ら陳べて年已に五十八、願わくは前戒に遵い、西へ于闐に至らんとす。尋いでその行を許す。貴秦州に至り、道遠きを以て悔懼す。俄に市中にて一道士に遇い、貴を引き出城し、高原に登る。貴の欲する所を問う。具に実を以て対う。即ち貴に命じて目を閉じしむ。少頃して開かしむ。山川の頓に異なるを視る。道士曰く、「これ于闐国の北境通聖山なり」と。また貴を引きて一池を観せしむ。池中に仙童有り、一物を出してこれを授け、謂いて曰く、「これを持ちて皇帝に奉れ」と。また目を瞑らしむ。俄頃にしてまた秦州に至る。向の道士已に所在を失う。その物を発すれば乃ち玉印なり。文に曰く「国王趙萬永宝」と。州以て献ず。
嘉祐八年八月、使い羅撒温を遣わして方物を献ず。十一月、その国王を以て特進・帰忠保順𥒖鱗黒韓王と為す。羅撒温言う、その王この号を賜わんことを乞うと。于闐に金翅烏を「𥒖鱗」と謂い、「黒韓」は蓋し可汗の訛なり。羅撒温等献物を以て賜わる直少なきを不受し、及び献ずる所の独峯槖駝を請う。詔して遠人を以て特別に銭五千貫を賜い、槖駝を以てこれを還し、而してその已に賜わる所の直を与う。その後数たび方物を以て来献す。
熙寧以来、遠くは一二歳を踰えず、近ければ則ち歳再び至る。貢ぐ所は珠玉・珊瑚・翡翠・象牙・乳香・木香・琥珀・花蕊布・硇砂・龍塩・西錦・玉鞦轡馬・膃肭臍・金星石・水銀・安息鷄舌香、持つ所表章無く、毎に暈錦旋襴衣・金帯・器幣を以て賜い、宰相には則ち盤毬雲錦夾襴を賜う。
地産は乳香、来れば輒ち群を負い、私に商賈と牟利す。售げざれば、則ち諸の外府に帰して善価を得る。故にその来ること益々多し。元豊初め、始めて詔す、惟だ表及び方物馬驢を齎するもののみを聴きて以て闕に詣らしむ。乳香は用無くして貢を許さず。
四年、部領阿辛を遣わして上表し、「于闐国僂儸有福力量知文法黒汗王、書を東方日出づる処の大世界田地主漢家阿舅大官家に与う」と称す。大略に路遠くして心を傾けて相い向かう、前三たび使いを遣わし入貢して未だ回らず、数百言を重複すと云う。董氊使いをして熙州に導かしめ、その辞を訳して以て聞かす。詔して前三輩の使人皆已に朝見し、錫賚を賜い遣発し、敕書を賜いてこれを諭す。神宗嘗てその使に去国の歳月、経る所何の国及び鈔略有るや無きやを問う。対えて曰く、「国を去ること四年、道塗その半を居す。黄頭回紇・青唐を歴る。惟だ契丹の鈔略を懼るるのみ」と。因りて之をして諸国の漢境よりの遠近を図上せしめ、書を為して以て李憲に授く。八年九月、使いを遣わして入貢す。使者は神宗の為めに僧に飯し福を追う。銭百万を賜い、その貢ぐ所の師子を還す。
元祐中、その使の至る時無きを以て、熙河に令して間歳一たび闕に至るを聴かしむ。八年、夏国を討たんことを請う。許さず。
紹聖中、その王阿忽都董娥密竭篤また言う、緬薬家過ちを作す、別に報效無し、已に兵を遣わして甘・沙・肅の三州を攻むと。詔して厚くその意に答う。秦州を知る游師雄言う、「于闐・大食・拂菻等国の貢奉、般次踵いて至る。有司供賚に憚り、辺方に抑留し、二歳を限りて一たび進む。外夷義を慕い、万里より至る。此れ遠人を来らしむる所以に非ざるなり」と。これに従う。是より宣和に訖るまで、朝享絶えず。
高昌
高昌国は、漢の車師前王の地なり。高昌城有り、その地勢の高敞・人民の昌盛を取って以て名と為す。後魏の初め、沮渠無諱自ら高昌太守を署す。無諱死す。茹茹闞伯周を以て高昌王と為す。高昌に王有るは此より始まる。後魏より隋に至るまで皆来貢す。唐の貞観中、侯君集その国を平らげ、その地を以て西州と為す。安・史の乱、その地陷没し、乃ち復た国と為る。語訛れて亦た「高敞」と云う。然れどもその地頗る回鶻有り、故に亦たこれを回鶻と謂う。
高昌は即ち西州なり。其の地は南は于闐に距たり、西南は大食・波斯に距たり、西は西天歩路涉・雪山・葱嶺に距たり、皆数千里なり。地に雨雪なくして極めて熱く、盛暑の毎に、居人は皆地を穿ちて穴と為し以て処る。飛鳥群を河濱に萃め、或いは飛び起これば、即ち日気の為に爍かれて、墜ちて翼を傷つく。屋室は白堊を以て覆い、雨五寸に及べば、即ち廬舍多く壊る。水有り、源は金嶺に出で、之を導きて国城を周囲し、以て田園を溉ぐ。水磑を作る。地は五穀を産す、唯だ蕎麥無し。貴人は馬を食い、余は羊及び鳧鴈を食う。楽は多く琵琶・箜篌なり。貂鼠・白㲲・繡文花蕊布を出す。俗は騎射を好む。婦人は油帽を戴き、之を蘇幕遮と謂う。開元七年の暦を用い、三月九日を以て寒食と為し、余の二社・冬至も亦然り。銀或いは鍮石を以て筒と為し、水を貯えて激し相射ち、或いは水を以て交わって潑ぎて戯れと為し、之を圧陽気去病と謂う。游賞を好み、行者は必ず楽器を抱く。仏寺五十余区、皆唐朝の賜いし額、寺中に大蔵経・唐韻・玉篇・経音等有り、居民春月多く群を聚めて其の間に遨楽す。游者は馬上に弓矢を持ちて諸物を射、之を禳災と謂う。敕書楼有り、唐太宗・明皇の御札詔敕を蔵し、緘鎖甚だ謹し。復た摩尼寺有り、波斯僧各其の法を持す、仏経の所謂外道なり。統ぶる所に南突厥・北突厥・大衆熨・小衆熨・様磨・割祿・黠戞司・末蠻・格哆族・預龍族の名甚だ衆し。国中に貧民無く、食を絶つ者あれば共に之を賑う。人多く寿考にし、率ね百余歳、夭死絶えて無し。
時は四月、師子王は北廷に避暑す。其の舅阿多于越を以て国を守らしめ、先ず人を遣わして延德に意を致して曰く、「我は王の舅なり、使者我を拝すや」と。延德曰く、「朝命を持して来る、礼拝すべからず」と。復た問うて曰く、「王を見て拝すや」と。延德曰く、「礼亦た拝すべからず」と。阿多于越復た数日を経て始めて相見ゆ、然れども其の礼頗る恭し。師子王は延德を邀えて其の北廷に至らしむ。交河州を経て、凡そ六日にして金嶺口に至る。宝貨の出づる所なり。又二日にして漢家砦に至る。又五日にして金嶺に上る。嶺を過ぐれば即ち雨雪多く、嶺上に龍堂有り、石に刻みて記す云く、小雪山なりと。嶺上に積雪有り、行人は皆毛罽を服す。嶺を度ること一日にして北廷に至り、高臺寺に憩う。其の王は羊馬を烹りて以て膳を具え、尤だ豊潔なり。
地は馬多く、王及び王后・太子各馬を養い、平川中に放牧し、弥亘百余里、毛色を以て別ちて群と為し、其の数を知ること莫し。北廷川は長広数千里、鷹鷂鵰鶻の生ずる所、美草多く、花を生ぜず、砂鼠は𩆊の如く大なり、鷙禽之を捕えて食う。
其の王は人を遣わして来たり言わしむ、日を択びて以て使者を見ん、願わくは其の淹久を訝ること無かれと。七日にして、其の王及び王子侍者を見る。皆東に向かいて拝して賜を受く。旁に磬を持つ者ありて之を撃ちて以て拝を節す。王は磬声を聞きて乃ち拝す。既にして王の児女親属皆出で、羅列して拝して以て賜を受け、遂に楽を張りて飲宴し、優戯を為し、暮に至る。明日、池中に舟を汎す。池四面に鼓楽を作す。又明日、仏寺に游ぶ。曰く応運太寧の寺、貞観十四年に造る。
北廷の北山中より硇砂を出す。山中嘗て烟気の涌き起る有り、雲霧無く、夕に至れば光燄炬火の若く、禽鼠を照らして見れば皆赤し。采る者は木底鞵を著けて之を取る。皮なる者は即ち焦る。下に穴有りて青泥を生じ、穴外に出づれば即ち砂石に変ず。土人は之を取りて以て皮を治む。城中に楼臺卉木多し。人は白晳端正、性工巧にして、善く金銀銅鉄を治めて器と為し、及び玉を攻むるに巧みなり。善馬は直ちに絹一匹、其の駑馬は食に充つるに纔かに一丈の直有り。貧者は皆肉を食う。西は安西に抵る。即ち唐の西境なり。
七月、延德を令して先ず其の国に還らしむ。其の王は九月に至る。亦た契丹の使の来るを聞く。其の王に謂いて云く、「高敞は本漢土なり、漢使来たりて封域を覘視し、将に異図有らん、王まさに之を察すべし」と。延德其の語を偵知し、因りて王に謂いて曰く、「契丹は素より中国に順わず、今乃ち反間す。我之を殺さんと欲す」と。王固く勧めて乃ち止む。
回鶻
回鶻はもと匈奴の別裔にして、天徳の西北娑陵水上に在り。後魏の時は鐵勒と號し、唐初は特勒と號し、後に回紇と稱す。其の君長を可汗と曰ひ、貞觀以後より朝貢絶えず。至德の初め、兵を出して國を助け安・史の亂を討平す。故に累朝恩禮最も重し。然れども功を恃みて橫恣にし、朝廷其の邀求厭ふこと無きを患ふと雖も、頗る姑息して之を聽從す。元和の中、回鶻と改む。會昌の中、其の國衰亂し、其の相馺職なる者外甥將龐勒を擁して西に奔り安西に至る。既にして回鶻は幽州の張仲武に破られ、龐勒乃ち自ら可汗と稱し、甘・沙・西州に居り、復た昔時の盛んなる無し。
梁・後唐・晉・漢・周を歴て、皆使を遣はして朝貢す。後唐同光の中、其の國王仁美を冊して英義可汗とす。仁美卒し、其の弟仁裕立つ。冊して順化可汗とす。晉天福の中、又た奉化可汗と改む。仁裕卒し、子景瓊立つ。是に先だち、唐朝繼ぎて公主を下嫁せしむ。故に回鶻世に中朝を舅と稱し、中朝每に賜ふ答詔も亦た外甥と曰ふ。五代の後皆之に因る。
咸平四年、可汗王祿勝使曹萬通を遣はし玉勒名馬・獨峯無峯橐駝・賓鐵劍甲・琉璃器を以て來貢す。萬通自ら言ふ、本國の樞密使に任ず。本國は東は黃河に至り、西は雪山に至り、小郡數百有り、甲馬甚だ精習す。願くは朝廷使を命じ統領せしめ、継遷を縛りて以て獻ぜしめんと。因りて詔を降して祿勝に曰く、「賊遷凶悖、人神の棄つる所なり。卿世に忠烈を濟ひ、義舅甥に篤し、繼ぎて奏封を上け、方略を備陳し、且つ大に精甲を舉げ、就きて殘妖を覆し、土を西陲に拓き、俘を北闕に獻せんと欲す。可汗の功業、其れ勝言す可けんや!嘉歎深く、朕が意を忘れず。今更に使臣を遣はさず、一切卿に委ね統制せしむ」と。特ちに萬通を左神武軍大將軍に授け、祿勝に器服を優賜す。
六年、龜茲進奉使李延慶等三十六人長春殿に對し、名馬・弓箭・鞍勒・團玉・香藥等を獻じ、優詔を以て之に答ふ。
是に先だち、甘州數へて夏州と接戰し、夜落紇の貢奉多く夏州に鈔奪せらる。宗哥族朝廷の恩化に感悅するに及び、乃ち人を遣はし其の使を援送す。故に頻年京師に至るを得たり。既にして唃廝羅可汗の女を娶らんと欲して聘財無く、可汗許さず。因りて讎敵と為る。五年、秦州指揮使楊知進・譯者郭敏を遣はし進奉使を送りて甘州に至る。會す宗哥怨隙に阻まれ歸路を絶たれ、遂に知進等を留めて敢へて遣はさず。八年、敏方に得て還る。可汗王夜落隔表を上りて言ふ、寶物公主疾死し、西涼人蘇守信の劫亂に因り、時に奏聞せず。又た恩賜の寶鈿・銀匣・曆日及び安撫詔書を謝し、仍ほ宗哥を慰諭し、朝貢の路を開かしむることを乞ふ。九年、楊知進も亦た至る。遂に郭敏を遣はし宗哥に詔書并びに甘州可汗の器幣を賜ふ。其の年、使來朝貢し、夜落隔卒し、九宰相諸部落夜落隔歸化を奉じて可汗王と為し國事を領すと言ふ。
しかし回鶻の使者は常に来朝するわけではなく、宣和年間(1119-1125年)、時に貢使として入朝し散じて陝西諸州に至り、公然と貿易を行い、長く留まって帰らない者もいた。朝廷、彼らが辺境の事情に通じることを憂慮し、かつ往来は皆夏国を経由するため、伝播に都合が良くないとして、法を立ててこれを禁じた。
大食
大食国は本来波斯(ペルシャ)の別種である。隋の大業年間(605-618年)、波斯に桀黠な者が洞穴を探り文石を得て、瑞祥と為し、その衆を糾合し、資貨を掠奪し、徒党を集めて次第に盛んとなり、遂に自立して王と為り、波斯国の西境を占拠した。唐の永徽年間(650-655年)以後、たびたび朝貢に来た。その王盆泥末換以前を白衣大食と謂い、阿蒲羅拔以後を黑衣大食と謂う。
淳化四年(993年)、またその副酋長李亞勿を遣わし来貢す。その国の舶主蒲希密南海に至り、老病のため闕下に詣でられず、方物を李亞勿に託して献上せしむ。その表文に曰く。
大食舶主臣蒲希密上言す。衆星象を垂れ、北辰に回拱し、百谷源を疏け、東海に委輸す。有道の柔遠に属し、無外を罄きて以て心を宅す。伏して惟うに皇帝陛下は徳二儀に合し、明七政に斉しく、仁万国を宥し、光四夷に被る。賡歌は撃壤の民に洽く、重訳は奉珍の貢に走る。臣顧みるに殊俗を惟い、中区を景慕し、早く向日の心を傾け、頗る朝天の願を鬱す。
昨在本国、曾て広州蕃長の寄書招諭を得、京に入り貢奉するを令し、盛んに皇帝の聖徳を称え、寛大の沢を布き、詔を広南に下し、蕃商を寵綏し、遠物を阜通すと。臣遂に海舶に乗り、爰に土毛を率い、龍王の宮を渉歴し、天帝の境を瞻望し、庶幾くば玄化に遵い、以て宿心を慰めんとす。今則たとえ五羊の城に届くも、猶お双鳳の闕を賒し。自ら衰老を念い、病いて興ること能わず、金門を遐想し、心目俱に断つ。今李亞勿の来貢に遇い、謹んで蕃錦・藥物を備え附け以て上献す。臣希密凡そ象牙五十株、乳香千八百斤、賓鉄七百斤、紅絲吉貝一段、五色雑花蕃錦四段、白越諾二段、都爹一琉璃瓶、無名異一塊、薔薇水百瓶を進む。
詔して希密に勅書・錦袍・銀器・束帛等を賜い以てこれに答う。
熙寧年間(1068-1077年)、その使者辛押陁羅が蕃長司公事を統轄監督することを請うたが、詔して広州に裁量させた。また銭銀を進献して広州城修築を助けようとしたが、許されなかった。熙寧六年(1073年)、都蕃首保順郎将蒲陀婆離慈が上表して子の麻勿に貢物を奉持させ、自らの代わりとすることを請い、また将軍となることを求めた。詔してただ麻勿に郎将を授けるのみとした。その国の部属はそれぞれ異なる名称があり、故に勿巡、陁婆離、俞盧和地、麻囉跋等国があるが、いずれも大食を冠している。勿巡が貢献したものには、さらに龍脳、兜羅錦、毬錦襈、蕃花簟があり、陁婆には金飾寿帯、連環臂鈎、数珠の類があった。
政和年間(1111-1118年)、横州士曹蔡蒙休がその使者を伴って入都する際、沿道で故意に滞留し、その香薬を強引に買い取って代価を支払わなかった。事が聞こえ、詔して提点刑獄に命じて獄を設け追及審理させた。これにより詔して、今後蕃夷が入貢する際は、いずれも承務郎以上の清廉有能な官吏を選んで伴い、行程に従って進み、理由なく一日を超えて滞在してはならず、物品を乞い求め買い取る者は自盗の罪をもって論ずることとした。
その国は泉州の西北にあり、船で四十余日かけて藍里に至り、翌年風に帆を揚げ、さらに六十余日かかってようやくその国に到達する。地勢は雄壮で広大であり、民俗は贅沢で華麗、諸蕃の中で最も優れている。気候は多く寒い。その王は錦衣に玉帯、金履を履き、朔望(ついたちと十五日)には百宝純金の冠を戴く。その居所は瑪瑙を柱とし、緑甘(緑色の石材か)を壁とし、水晶を瓦とし、碌石を磚とし、活石(石灰か)を漆喰とし、帷幕には百花錦を用いる。官には丞相・太尉があり、それぞれ兵馬二万余りを統率する。馬の高さは七尺、士卒は驍勇である。民居の屋宇はおおよそ中国と同様である。市肆には多く金銀綾錦がある。工匠の技術は、いずれもその能を極めている。
層檀
層檀国は南海の傍らにあり、城は海から二十里の距離にある。熙寧四年(1071年)に初めて入貢した。海路順風なら百六十日航行し、勿巡、古林、三仏斉国を経て広州に至る。その王の名は亜美羅亜眉蘭、伝国五百年、十世である。人の語音は大食のようである。地は春冬暖かい。貴人は越布で頭を纏い、花錦や白㲲布を着用し、出入りには象・馬に乗る。俸禄がある。その法は軽罪は杖刑、重罪は死刑である。穀物には稻・粟・麦があり、食物には魚があり、家畜には綿羊・山羊・沙牛・水牛・橐駝・馬・犀・象があり、薬には木香・血竭・没薬・鵬砂・阿魏・薰陸がある。真珠・玻璃・密沙華三酒を産する。交易には銭を用い、官が自ら鋳造し、その配合を三分とし、金銅が半分ずつで銀が一分を占め、民の私鋳を禁じる。元豊六年(1083年)、使者保順郎将層伽尼が再び来朝し、神宗はその遠隔を思い、詔して故事の通りに頒賜し、さらに白金二千両を加賜した。
亀茲
亀茲は本来回鶻の別種である。その国主は自ら師子王と称し、黄衣を着て宝冠を戴き、宰相九人とともに国事を共同で治める。国都には市井があるが銭貨はなく、花蕊布をもって交易する。米麦瓜果がある。西は大食国まで六十日行程、東は夏州まで九十日行程である。あるいは西州回鶻と称し、あるいは西州亀茲と称し、また亀茲回鶻とも称する。
沙州
拂菻
拂菻国は東南は滅力沙まで、北は海まで、いずれも四十行程である。西は海まで三十行程である。東は西大食及び于闐・回紇・青唐から、中国に至る。歴代、朝貢したことはなかった。
元豊四年(1081年)十月、その王滅力伊霊改撒が初めて大首領の你廝都令廝孟判を遣わして、鞍馬・刀剣・真珠を献上し、その国の地は甚だ寒く、土屋に瓦を用いないと述べた。産物は金・銀・珠・西錦・牛・羊・馬・単峰駱駝・梨・杏・千年棗・バダム(扁桃)・粟・麦であり、葡萄で酒を醸す。楽器には箜篌・壺琴・小篳篥・偏鼓がある。王は紅黄の衣を着用し、金糸で織った絹布で頭を纏い、毎年三月に仏寺に赴き、紅い床に座り、人に担がせる。貴臣は王の服と同様か、あるいは青緑・緋白・粉紅・褐紫の衣を着て、同様に頭を纏い馬に跨る。都市と田野には、皆首領がこれを主宰し、毎年ただ夏と秋の二度に限って俸禄を与え、金・銭・錦・穀・帛を支給し、治める事柄の大小によって差等をつける。刑罰は罪の軽い者は数十回杖打ち、重い者は二百回に至り、大罪は毛の袋に詰めて海中に投げ込む。闘戦を尊ばず、隣国と小競り合いがあれば、ただ文書を以て往来し互いに詰問し、事が大きければ兵を出すこともある。金銀を鋳て銭と為し、穿孔はなく、表面に弥勒仏を彫り、裏面に王名を刻み、民の私造を禁ずる。
元祐六年(1091年)、その使者が二度来朝した。詔して別にその王に帛二百匹・白金瓶・襲衣・金束帯を賜う。