宋史

列傳第二百四十八 外國五 占城 眞臘 蒲甘 邈黎 三佛齊 闍婆南毗 勃泥 注輦 丹眉流

占城

占城国は中国の西南に在り、東は海に至り、西は雲南に至り、南は真臘国に至り、北は驩州の界に至る。海を渡って南へ三仏斉まで五日行程。陸路で賓陀羅国まで一月行程、その国は占城に隷属す。東へ麻逸国まで二日行程、蒲端国まで七日行程。北は広州まで、順風なら半月行程。東北は両浙まで一月行程。西北は交州まで二日行程、陸路なら半月行程。その地は東西七百里、南北三千里。南を施備州と曰い、西を上源州と曰い、北を烏里州と曰う。統べる所の大小三十八州、三万家に満たず。その国には城郭なく、百余りの村あり、村落の戸数は三五百、或いは七百に至り、また県鎮の名も有り。

土地の産物は、箋沉香・檳榔・烏樠木・蘇木・白藤・黄蠟・吉貝花布・絲絞布・白𣯉布・藤簟・貝多葉簟・金銀鉄錠等の物。五穀に麦は無く、秔米・粟・豆・麻子有り。官は種一斛を給し、租百斛を計る。果実には蓮・甘蔗・蕉子・椰子有り。鳥獣は孔雀・犀牛多し。畜産は黄牛・水牛多くして驢は無し。また山牛も有り、耕作に用いず、ただ殺して鬼を祭る。殺さんとする時、巫祝に令して「阿羅和及拔」と曰わしむ。訳して云う「早く彼をして託生せしめよ」と。民が犀・象を獲れば皆王に輸す。国人は多く象に乗るか、或いは軟布の兜に乗り、或いは交州で馬を市い、山羊・水兕の肉を頗る食す。

その風俗衣服は大食国に類似す。蚕絲無く、白㲲布を以てその胸を纏い、足に垂れ、衣衫は袖が狭し。髪を撮って髻と為し、余りの髪を後に散らして垂らす。互市に緡銭無く、ただ金銀を用いて錙銢を較量し、或いは吉貝錦を以て博易の価値を定む。楽器に胡琴・笛・鼓・大鼓有り、楽部もまた舞人を列ねる。その王は脳後に髽髻し、吉貝の衣を散らし披き、金花の冠を戴き、七宝を装した瓔珞を飾りと為し、脛股は皆露わにし、革履を履き、襪無し。婦人もまた脳後に髻を撮り、笄梳無く、その服及び拝揖は男子と同じ。王は毎日午に禅椅に坐す。官属が謁見する時は膜拝一つで止め、事を白し畢えてまた膜拝一つして退く。或いは出遊し、象を見、采猟し、漁を観ること、皆数日を経て方に還る。近き時は軟布の兜に乗り、遠き時は象に乗り、或いは一本の杠に乗り、四人でこれを舁ぐ。先ず一人に令して檳榔の盤を持たせて前導せしめ、従者は十余輩、各々弓箭・刀槍・手牌等を執る。その民はこれを見て膜拝一つで止む。日に或いは一再出づ。毎年稲が熟すと、王自ら一把を刈り、従者及び群の婦女が競ってこれを割る。

その王は或いは兄を副王と為し、或いは弟を次王と為す。高官を設けること凡そ八員、東西南北各々二員、分かってその事を治め、俸禄無く、その管する所の土俗に令してこれを資給せしむ。別に文吏五十余員を置き、郎中・員外・秀才の称有り、資儲・宝貨等の事を分掌し、これも資俸無く、ただ亀魚を給して食と充て、及び調役を免ずるのみ。また帑廩を司る者十二員、軍卒を主る者二百余員有り、皆月俸無し。勝兵一万余人、月に秔米二斛を給し、冬夏の衣布は各々三匹より五匹。毎夕、ただ王のみ床に昇りて臥し、諸臣は皆地の蓐に寝る。親近の臣は王を見れば即ち胡跪して礼を作し、稍々疏遠なる者はただ拱手するのみ。

その風俗、正月一日に象を牽きて居所の地を周行し、然る後に郭外に駆逐し、これを逐邪と謂う。四月に遊船の戯れ有り。十一月十五日を冬至と定め、人皆相賀し、州県は土産の物帛を以てその王に献ず。毎年十二月十五日、城外に木を縛って塔と為し、王及び人民は衣物・香薬を塔上に置き焚きて以て天を祭る。人に疾病有れば、旋って生薬を采り服食す。地は茶を産せず、また醞釀の法を知らず、ただ椰子酒を飲み、兼ねて檳榔を食す。

刑禁にも枷鎖を設け、小過は四人を以て地に拽き伏せ、藤杖を以てこれを鞭ち、二人左右より更互に捶扑し、その罪を量りて或いは五六十より一百。当に死すべき者は縄を以て樹に繫ぎ、梭槍を以て喉を舂きてその首を殊る。もし故殺・劫殺は、象を令してこれを踏ませ、或いは鼻を以て地に巻き扑たしむ。象は皆平素より習熟し、人を将に刑せんとする時は、即ち豢養の人に令して数をもってこれを諭し、悉く能く曉る。姦を犯す者は、男女共に牛に入りて以て罪を贖う。国王の物を負う者は、縄を以て荒塘に拘し、物が充つて後にこれを出す。

その国は前代、稀に中国と通ず。周の顕徳年中、その王釈利因徳漫、その臣莆訶散を遣わして方物を貢し、雲龍形の通犀帯・菩薩石有り。また薔薇水有り、衣に灑げば歳を経て香歇まず、猛火油は水を得れば愈々熾なり、皆瑠璃瓶に貯う。

建隆二年、その王釈利因陁盤、使莆訶散を遣わして来朝す。表章は貝多葉に書き、香木の函を以てこれを盛る。犀角・象牙・龍脳・香薬・孔雀四・大食瓶二十を貢す。使い回り、錫賚差等有り、器幣を以てその王に優賜す。三年、また象牙二十二株・乳香千斤を貢す。

乾徳四年、その王悉利因陁盤、使因陁玢李帝婆羅を遣わして馴象・牯犀・象牙・白㲲・哥縵・越諾を貢し、王の妻波良僕瑁・男占謀律秀瓊等各々香薬を貢す。五年、また使李𠰢・李被瑳を遣わし相継ぎ来りて貢献す。

開宝三年、使いを遣わし方物雌象一を貢す。四年、悉利多盤・副国王李耨・王の妻郭氏・子蒲路鷄波羅等並びに使いを遣わし来貢す。五年、その王波美税褐印茶、使莆訶散を遣わし来貢す。六年、また貢す。七年、また孔雀傘二・西天烽鉄四十斤を貢す。九年、使朱陀利・陳陀野等を遣わし来貢す。

太平興国二年、その王波美税陽布印茶、使李牌を遣わし来貢す。三年、その王及び男達智、使いを遣わし来貢す。四年、使李木吒哆を遣わし来貢す。六年、交州の黎桓上言し、占城の俘九十三人を以て京師に献ぜんと欲す。太宗、広州に令してその俘を止め、これを存撫し、衣服資粮を給し、占城に遣還せしめ、その王を詔諭す。七年、使いを遣わし象に乗って入貢す。詔して象を広州に留め畜養せしむ。八年、馴象を献ず。能く拝伏す。詔して京畿寧陵県に畜う。

雍熙二年、その王施利陀盤呉日歓、婆羅門金歌麻を遣わして方物を献じ、且つ交州に侵さるると訴う。詔して答えしめ、国を保ち隣と睦ましむ。三年、その王劉継宗、使李朝仙を遣わし来貢す。儋州上言す、占城人蒲羅遏、交州に逼せられ、その族百口を率いて来附す。四年秋、広州上言す、雷州・恩州関より占城夷人斯当李娘並びにその族一百五十人を送り来帰す。南海・清遠県に分隷す。端拱元年、広州また言う、占城夷人忽宣等の族三百一人来附す。

淳化元年、新たに王となった楊陁排は自ら新坐佛逝國と称した。楊陁排は使者李臻を遣わして馴犀と地方の産物を貢ぎ、表を奉って交州に攻められ、国中の人民と財宝がことごとく略奪されたと訴えた。帝は黎桓に詔を賜い、それぞれ境を守るよう命じた。三年、使者李良莆を遣わして地方の産物を貢いだ。その王に白馬二頭と兵器などを賜った。本国の僧浄戒が龍脳・金鈴・銅香炉・如意などを献上したので、それぞれ手厚く賜った。

至道元年正月、その王は使者を遣わして来朝し、表を奉って言うには、

前進奉使李良莆が帰還した際、伏して聖慈により臣に細馬二疋・旗五面・銀装の剣五口・銀纏の槍五条・弓弩各五張および矢などを賜り、恩を戴き感懼し、稽首稽首いたします。

臣は外国に生長し、天都からはるかに遠く隔たっております。ひそかに皇帝の聖明で威徳の広大なることを承り、臣は海の辺境に介在することを憚らず、使者を遣わして入朝させました。皇帝は蛮夷の山国を棄てず、曲げて優れた賜物を下さいました。しかし臣は土着の長として、声勢はなお卑しく、常時外国からしばしば侵撓を受け、まして以前は民衆が芥のごとく、風に随って星散し、流離してそれぞれ自らを保つことができませんでした。近ごろ皇帝より臣に内閑の駿馬および旗幟・兵器などを賜わり、隣国がこれを聞き、臣が大国の寵を荷っていることを知って、それぞれ天威を懼れ、謀害を敢えてしません。今や臣の一国は安寧となり、流民も帰還してきました。もし皇帝の天徳による加護がなければ、どうしてこのようになりましょうか。臣の一国は仁聖を仰ぎ望み、天のごとく覆い、地のごとく載せていただいております。臣自ら思うに、鴻恩は浅からぬものがあります。かつ天子の都から臣の居る国に至るまで、海を渡り綿邈として、数万里に止まらず、しかるに賜わった馬および器械などはともに安全に至りました。これらはすべて聖徳の及ぶところであります。

以前より本国の進奉には、いまだかつて旌旗・弓矢の賜りはありませんでした。臣は今、何たる幸せか、ひとり異恩を受けました。これは天威が広く覆い、臣の土疆を壮ならしめるものであります。臣はたとえ身を殞としても、もって上報することはできません。また臣の貢使の往復には、資給が備わっており、恩は山岳より重く、ことごとく陳べることはできません。今特に専使李波珠・副使訶散・判官李磨勿らを遣わし、犀角十株・象牙三十株・玳瑁十斤・龍脳二斤・沉香百斤・夾箋黄熟香九十斤・檀香百六十斤・山得雞二万四千三百双・胡椒二百斤・簟席五を進奉いたします。前記の物は固より珍奇ではなく、ただ誠懇を表すのみです。

臣は異域に生まれ住み、幸いに明時に遇いました。殊珍を貴ばず、ただ良馬を重んじます。もし皇帝が外国を念じ、懇求を罪とされないなら、使者が南帰する際、願わくば頒賜を垂れ給わんことを。これ臣の幸いです。また臣の本国にはもと流民三百人がおり、南海に散居していましたが、かつて聖旨を蒙り放還を許されました。今なお広州にいる者があります。本国には旧来進奉の夷人羅常占がおり、広州に駐在しています。詔を乞い本州に尽く数え集めさせ、籍を具えて常占に付し、舶船を造らせ、順風に乗じて部領して帰国させ、安んじて生聚を得、以て旧疆を実らせたいと存じます。万里の恩に感じ、一心に上に事えること、これ臣の志であります。

帝は表を覧て、使者を広州に遣わし問い合わせ、帰還を願う者をすべて波珠に付した。使者が還ると、また白馬二頭を賜い、これより常制とした。

咸平二年、その王楊普俱毗茶逸施離は使者朱陳堯・副使蒲薩陀婆・判官黎姑倫を遣わし、犀象・玳瑁・香薬を貢いだ。堯らに冠帯・衣褥を差等をつけて賜った。景德元年、また使者を遣わして来貢した。詔して良馬・介冑・戎器などを賜った。四年、使者布祿爹地加らを遣わし表を奉って来朝した。表函は文錦で包み、詞に曰く、

占城国国王楊普俱毗茶室離頓首して言う。臣聞く、二帝の封疆は南に止まりて湘・楚に届き、三王の境界は北に及ばず幽・燕に及ばずと。仰ぎて昌時を矚すれば、実に往跡を邁れり。伏して惟うに、皇帝陛下は乾坤より気を授かり、日月より英を儲け、震に出でて尊に居り、基を承けて極を御す。慈悲は天下に敷き、声教は域中に被る。業は前王に茂り、功は徂后に芳し。蒼生を是れ念い、黄屋を心とせず。方無きは是れ生霊ならず、土有るは並びに臣妾と為る。真風は遍く布き、霈沢は周く行く。凡そ照臨を沐する者は、共に聳抃を増す。

臣は辺鄙に生まれ、幸いに華風を襲う。蟻垤蜂房、聊かに性を遂げんとす。龍楼鳳閣、尚お観光を阻まる。再び念うに、天威を仮りてより、封部を全うし獲たり。隣に侵奪無く、俗に舒蘇有り。毎歳下臣を拝遣し、上国に寧きを問う。陛下の恩の行葦に霑い、福の豚魚に及ぶを蒙り、特に関人に因りて、戎器を頒賜す。臣の本土はただ闕に望みて香を焚き、歓呼して拝受す。心に多幸を知り、何ぞ以て洪恩に答えん。聖君既に賓王を念うあれば、誠懇肯んで述職を忘れんや。今専信の臣布祿爹地加・副使の臣除逋麻瑕珈耶・判官の臣皮抵一行人力等を遣わし、土毛を部署し、遠く歳貢に充つ。楚茅の礼を表すと雖も、実に魯酒の憂いを懐く。睿明を虔かに望み、甫く譴戮を寛めたまわんことを。

専信の臣等が帰還の日、軍容器仗耀武の物、伏して願わくば重ねて賜賚を加えたまわんことを。蓋し臣子として忝くすを念い、君親に告げ合うべく、服飾車輿・威儀斧鉞は、敢えて私制せず、惟だ恩頒を望むのみ。冕旒を干冒し、死罪に任えず。

布祿爹地加は言う、本国は旧く交州に隷し、後に佛遊に奔り、北に旧所を去ること七百里であると。使者が還ると、賜物は甚だ厚かった。

大中祥符三年、国主施離霞離鼻麻底は使者朱浡礼を遣わして来貢した。四年、使者を遣わして師子を貢ぎ、詔して苑中に畜わせた。使者は二蛮人を留めて豢養に給させたが、帝はその郷土を懐かしむを憐れみ、厚く資粮を給して遣還させた。八年、使者波輪訶羅帝を遣わして来貢した。訶羅帝は因りて上言して、弟の陶珠がかつて交州より馴象を押して赴闕したが、今幸いに得て見、携えて還りたいと。これを許し、なお陶珠に衣幣・装錢を賜った。

天禧二年、その王尸嘿排摩惵は使者羅皮帝加を遣わし、象牙七十二株・犀角八十六株・玳瑁千片・乳香五十斤・丁香花八十斤・荳蔻六十五斤・沉香百斤・箋香二百斤・別箋一剤六十八斤・茴香百斤・檳榔千五百斤を貢いだ。羅皮帝加は言う、国人が広州に詣でる際、あるいは風に船が漂って石塘に至れば、すなわち累年しても達しないと。三年、使者が還ると、詔して尸嘿排摩惵に銀四千七百両および戎器・鞍馬を賜った。

海上にはまた蒲端国・三麻蘭国・勿巡国・蒲婆衆国があり、大中祥符四年の汾陰祭祀の際、ともに使者を遣わして来貢した。先に、咸平・景德年中、蒲端国主其陵は数度使者を遣わして方物を貢ぎ、紅鸚鵡を献じた。その後、国主悉離琶大遐至もまた金版に表を鐫って来上し、その使已絮漢は上言して、「伏して詔旨を見るに、占城使に鞍勒馬・大神旗各二を給賜す。恩例の如く賜わらんことを乞う」と。有司は蒲端が占城より下位であることを以て、雑綵の小旗五を賜うことを請い、これに従った。

天聖八年(1030年)十月、占城王陽補孤施離皮蘭德加拔麻疊が使者李蒲薩麻瑕陘琶を遣わして、木香・玳瑁・乳香・犀角・象牙を貢いだ。

慶暦元年(1041年)九月、広東の商人邵保が軍賊の鄂鄰ら百余りが占城にいるのを見た。転運司は使臣二人を選び、詔書と器幣を賜うため占城に赴かせ、鄂鄰を購って闕下に致すよう命じ、残党はその場で誅戮させた。翌年十一月、その王刑卜施離値星霞弗が使者を遣わして馴象三頭を献上した。皇祐二年(1050年)正月、また使者俱舎唎波微収羅婆麻提楊卜を遣わして象牙二百一・犀角七十九を貢いだ。表文二通、一つは自国の文字で、一つは中国の文字で書かれていた。五年四月、その使節蒲思馬応が来朝して方物を貢いだ。

嘉祐元年(1056年)閏三月、その使節蒲息陁琶が方物を貢ぎ、帰途太平州に至った時、江岸が崩れ、行嚢を沈没して失った。翌年正月、詔を下して広州にて銀千両を賜う。六年九月、また馴象を献上した。七年正月、広西安撫経略司が言うには、「占臘(真臘)は元来兵事に習わず、交阯と隣接し、常にその侵軛に苦しんでいる。しかるに占城は近ごろ武備を修め、交阯に対抗しようとしており、広東路より京師に入貢しようとしている。恩信をもって撫でることを望む。」五月、その使節頓琶尼が来朝して方物を貢いだ。六月、その王施里律茶盤麻常楊溥に白馬一頭を賜う。これは彼らの求めに従ったものである。

熙寧元年(1068年)、その王楊卜尸利律陀般摩提婆が使者を遣わして方物を貢ぎ、駅馬の購入を請うた。詔して白馬一頭を賜い、広州において騾を買って帰ることを許した。五年、瑠璃珊瑚の酒器・龍脳・乳香・丁香・蓽澄茄・紫鉱を貢いだ。七年、交州の李乾德が言うには、その王が兵三千人と妻子を率いて来降し、正月に本道に至ったという。

九年、また使者を遣わして来朝し言うには、その国は海路で真臘に至るまで一月の行程、西北で交州に至るまで四十日、いずれも山路である。治める所の聚落は百五、大略州県の如し。王は三十六歳、大食錦あるいは川法錦の大衫を着、七条の金瓔珞を掛け、七宝で飾った金冠を戴き、紅皮の履を履く。出る時は従者五百人、十人の婦人が金の盤に檳榔を入れ、音楽を先導とする。

王師が交阯を討つに当たり、占城が元来仇敵であることを以て、詔して機に乗じて協力して掃討するよう命じた。行営戦棹都監楊従先が小校の樊寔を遣わして旨を諭させた。樊寔が帰還し、その国が兵七千を選んで賊の要路を扼し、その王が木の葉に書いた返牒を、詔使に上ったと報告した。しかしながら成功することはできなかった。後に両国が共に入貢し、占城の使者は交人を避けることを請うた。詔して、朔日には文徳殿で朝参し、東西に分かれて立つこと。望日には交人が垂拱殿に入り、占城は紫宸殿に赴くこと。大宴では東西に座することとした。

元祐七年(1092年)、また表を奉り、もし天朝が交阯を討つならば、兵を率いて掩襲することを願うと述べた。朝廷は、交阯がたびたび入貢し、臣節を絶やさないことを以て、兵を興し難いとし、勅書を答えてこれを報じ、その使節良保故倫軋丹・副使傍水知突を保順郎将に任じた。政和年中、その王楊卜麻疊に金紫光禄大夫を授け、廉州・白州刺史を領させた。楊卜麻疊は、身は化外にありながら禄食に浴していないと述べ、薄く奉給を授けられ、小国の威容を壮んにしたいと願ったので、これを許した。

宣和元年(1119年)、検校司空しくう兼御史大夫・懐遠軍節度使・琳州管内観察処置使に進め、占城国王に封じた。これより後、恩典に遇うごとに制を降して封邑を加えることが常となった。

建炎三年(1129年)、楊卜麻疊が使者を遣わして入貢し、郊祀の恩典に遇い、制により検校太傅を授けられ、食邑を加増された。紹興二十五年(1155年)、その子鄒時闌巴が嗣立し、使者を遣わして方物を進め、封爵を求めた。懐遠駅で錫宴を賜い、その父の初封の爵位を授け、報賜は甚だ厚かった。

乾道三年(1167年)、子の鄒亜娜が嗣立し、大食国の方物を掠奪して人を遣わし貢ぎ、封爵を求めたが、その国の人に訴えられた。詔してこれを退け、遂にその封を議さなかった。七年、閩人が海を渡って吉陽軍に至ろうとした者が、風に流されてその舟が占城に漂着した。その国は丁度真臘と戦っており、皆象に乗って戦い、勝負が決しなかった。閩人が王に騎射を習ってこれに勝つべきだと教えると、王は大いに喜び、舟を整えて彼を吉陽に送り、馬数十匹を買い求めて帰り、戦いに大勝した。翌年また来朝したが、瓊州がこれを拒んだので、憤怒して大いに掠奪して帰った。淳熙二年(1175年)、馬の禁令を厳しくし、外蕃に売ることを禁じた。三年、占城が掠奪した生口八十三人を返還し、通商を求めたが、詔して許さなかった。四年、占城が舟師をもって真臘を襲い、その国都に迫った。

慶元(1195-1200年)以来、真臘が大挙して占城を伐ち、復讐し、殺戮すること殆んど尽くし、その主を俘虜して帰り、国は遂に亡び、その地は悉く真臘に帰した。

真臘

真臘国はまた占臘とも名づく。その国は占城の南に在り、東は海に際し、西は蒲甘に接し、南は加羅希に至る。その県鎮の風俗は占城と同じく、地方七千余里。銅台があり、銅塔二十四・銅象八を列ねてその上を鎮め、象は各々四千斤の重さがある。その国には戦象およそ二十万、馬は多くて小さい。

政和六年(1116年)十二月、進奏使奉化郎将鳩摩僧哥・副使安化郎将摩君明稽田[田+思]ら十四人を遣わして来貢し、朝服を賜った。僧哥は言う、「万里の遠国、聖化を仰ぎ慕い投ずるに、なお卉服に拘り、区区の嚮慕の誠に称えず。賜わった服を着ることを許されたい。」詔してこれに従い、なおその事を史館に付し、策に書かせた。翌年三月、辞去した。宣和二年(1120年)、また郎将摩臘・摩禿防を遣わして来朝し、朝廷はその王に官封を授け、占城と同等とした。建炎三年、郊祀の恩典を以てその王金裒賓深に検校司徒しとを授け、食邑を加増し、遂に常制と定めた。

その属邑に真里富があり、西南の隅に在り、東南は波斯蘭に接し、西南は登流眉と隣る。管轄する所に六十余りの聚落がある。慶元六年(1200年)、その国主が立って二十年、使者を遣わして表を奉り方物及び馴象二頭を貢いだ。詔してその報賜を優遇し、海路遠く跋渉することを以て、以後再び入貢しないよう命じた。

蒲甘

蒲甘国は、崇寧五年に使者を遣わして入貢し、詔により礼秩は注輦に準ずることとなった。尚書省が言うには、「注輦は三仏斉に隷属しているため、熙寧年間の勅書は大背紙を用い、匣襆で封緘した。今、蒲甘は大国の王であり、附庸の小国を下に見ることはできない。大食・交阯諸国の礼のように、凡そ制詔は全て白背金花綾紙に書き、間金鍍管籥に収め、錦絹の夾襆で封緘して送ることを望む。」と。これに従った。

邈黎

邈黎国は、元祐四年に、般次の冷移・四抹粟迷等が于闐国の黒汗王及び本国の王の表章を携えて来朝した。有司はその国が未だ入貢したことがないとして、于闐の条式に準ずるよう請うた。これに従った。

三仏斉

三仏斉国は、蓋し南蛮の別種にして、占城と隣り合い、真臘・闍婆の間に居し、管轄する所十五州。土産は紅藤・紫鉱・箋沈香・檳榔・椰子。緡銭無く、土俗は金銀をもって諸物と貿易す。四時の気候は、熱多く寒少なく、冬に霜雪無し。人は香油を用いて身を塗る。その地に麦無く、米及び青白豆有り、鶏魚鵝鴨は中土に頗る類す。花酒・椰子酒・檳榔酒・蜜酒有り、皆麹糵で醸したものではなく、飲めば亦酔う。楽に小琴・小鼓有り、崑崙奴が曲を踏んで楽しむ。国中の文字は梵書を用い、その王の指環を印と為し、亦中国の文字有り、上章表する時は即ちこれを用いる。甓を累ねて城と為し、周囲数十里、椰葉を用いて屋を覆う。人民は城外に散居し、租賦を輸さず、征伐有る時は、時に随って調発し、酋長を立てて率い、皆自ら兵器粮糗を備える。海を汎び風に使って二十日で広州に至る。その王の号は詹卑、その国の居人は多く蒲姓。唐の天祐元年に物を貢ぎ、その使都蕃長蒲訶栗に寧遠將軍を授けた。

建隆元年九月、その王悉利胡大霞里檀が使者李遮帝を遣わして来朝貢した。二年夏、又使者蒲蔑を遣わして方物を貢いだ。是の冬、その王室利烏耶が使者茶野伽・副使嘉末吒を遣わして朝貢した。その国号生留、王李犀林男迷日来も亦使者を遣わして同しく至り方物を貢いだ。三年春、室利烏耶が又使者李麗林・副使李鵶末・判官吒吒璧等を遣わして来貢し、帰還に際し、白犛牛尾・白磁器・銀器・錦線の鞍轡二副を賜った。開宝四年、使者李何末を遣わして水晶・火油を以て来貢した。五年、又来貢した。七年、又象牙・乳香・薔薇水・万歳棗・褊桃・白沙糖・水晶指環・瑠璃瓶・珊瑚樹を貢いだ。八年、又使者蒲陁漢等を遣わして方物を貢ぎ、冠帯・器幣を賜った。

太平興国五年、その王夏池が使者茶龍眉を遣わして来た。是年、潮州が言うには、三仏斉国の蕃商李甫誨が舶船に乗り香薬・犀角・象牙を載せて海口に至り、風勢の便ならざるに会い、船が六十日飄流して潮州に至り、その香薬は悉く広州に送られた。八年、その王遐至が使者蒲押陁羅を遣わして来貢し、水晶仏・錦布・犀牙・香薬を献じた。雍熙二年、舶主金花茶が方物を以て来献した。端拱元年、使者蒲押陀黎を遣わして方物を貢いだ。淳化三年冬、広州が上言した、「蒲押陀黎は前年京より帰還し、本国が闍婆に侵されたと聞き、南海に住すること凡そ一年、今春舶に乗って占城に至るも、偶々風信利あらず、復た還る。詔を降して本国を諭することを乞う。」と。これに従った。

咸平六年、その王思離咮囉無尼佛麻調華が使者李加排・副使無陀李南悲を遣わして来貢し、且つ本国に仏寺を建てて聖寿を祝い、名及び鐘の賜わることを願うと言った。上その意を嘉し、詔して「承天万寿」を寺額と為し、併せて鐘を鋳て賜い、加排に帰徳将軍を、無陀李南悲に懐化将軍を授けた。大中祥符元年、その王思離麻囉皮が使者李眉地・副使蒲婆藍・判官麻河勿を遣わして来貢し、泰山に赴き朝覲壇に陪位することを許し、遣わして賜うこと甚だ厚かった。天禧元年、その王霞遅蘇勿吒蒲迷が使者蒲謀西等を遣わして金字表を奉じ、真珠・象牙・梵夾経・崑崙奴を貢ぎ、詔して会霊観に謁し、太清寺・金明池を遊覧することを許した。及び還るに及び、その国に詔書・礼物を賜って慰奨した。

天聖六年八月、その王室離疊華が使者蒲押陀羅歇及び副使・判官亜加盧等を遣わして方物を来貢した。旧制、遠国の使人が貢ぐには、間金塗銀帯を賜うが、時に特ちに渾金帯を以てこれを賜った。

熙寧十年、大首領地華伽囉が使いとして来朝し、保順慕化大将軍に任じ、詔を賜ってこれを寵した。曰く、「吾れ声教を以て方域を覆露す、遠近を限らず、苟も忠義を知りて来る者は、華爵を錫けず、美名を以て耀かさずして、その国を寵異せしむること無し。爾れ皇化を悦慕し、海を浮かび琛を貢ぐ、吾れ汝が嘉とする所を用い、併せて等秩を超え、以て忠義の勧めを昭らかにす。」と。元豊年中、使いの至る者再び、率ね白金・真珠・婆律薫陸香を以て方物を備えた。広州は表を受け入れて言上し、返報を待ち、乃ち護衛して闕下に至らしめた。天子その道里の遙遠を思い、毎に優しく賜って帰遣した。二年、銭六万四千緡・銀一万五百両を賜い、その使群陀畢羅を寧遠将軍に、官陀旁亜里を保順郎将に任じた。畢羅は金帯・白金器物の買い求め、及び僧の紫衣・師号・牒を乞うたが、皆請う所の如くこれを給した。五年、広州の南蕃綱首がその主管国事の国王の娘の唐字の書を以て、龍脳及び布を提挙市舶孫迥に寄せたが、迥は敢えて受けず、朝廷に言上した。詔して直ちに估して官に輸させ、悉く帛を市って報いしめた。

五年、使者皮襪・副使胡仙・判官地華加羅を遣わして来朝し、入見し、金蓮花に真珠・龍脳を貯めて殿に撒いた。皮襪を懐遠将軍に、胡仙加羅を郎将に任じた。加羅は還るに雍丘に至り病没し、絹五十匹を以て賻した。六年、又その使薩打華満を将軍に、副使羅悉沙文・判官悉理沙文を郎将に任じた。紹聖年中、再び入貢した。

紹興二十六年、その王悉利麻霞囉陀が使者を遣わして入貢した。帝曰く、「遠人の向化するは、その誠を嘉するのみ、方物を利とするに非ず。」と。その王が復た珠を宰臣秦檜に献じたが、時に檜は既に死しており、詔してその直を償ってこれを収めた。淳熙五年、復た使者を遣わして方物を貢ぎ、詔して闕下に赴くことを免じ、泉州に館した。

闍婆

闍婆国は南海の中に在り。その国は東は海に至ること一月、海を汎び半月至る崑崙国;西は海に至ること四十五日、南は海に至ること三日、海を汎び五日至る大食国;北は海に至ること四日、西北は海を汎び十五日至る勃泥国、又十五日至る三仏斉国、又七日至る古邏国、又七日至る柴歴亭、交阯に抵り、広州に達す。

その地は平坦にして、種植に適し、稻・麻・粟・豆を産し、麥はなし。民は十一の租を輸し、海を煮て鹽となす。魚・鱉・鷄・鴨・山羊多く、兼ねて牛を椎きて食す。果實には木瓜・椰子・蕉子・蔗・芋あり。金銀・犀牙・箋沈檀香・茴香・胡椒・檳榔・硫黄・紅花・蘇木を出す。亦た蠶織を務め、薄絹・絲絞・吉貝布あり。銀葉を剪りて錢と為し博易し、官は粟一斛二斗を以て金一錢を博す。室宇は壯麗にして、金碧を以て飾る。中國の賈人の至る者は、賓館を以て待ち、飲食は豐潔なり。地は茶を産せず。其の酒は椰子及び蝦蝚丹樹より出づ、蝦蝚丹樹は華人未だ嘗て見ず;或は桄榔・檳榔を以て釀成し、亦た甚だ香美なり。刑禁を設けず、雜犯罪の者は輕重に隨ひ黄金を出して以て贖ひ、惟だ寇盜の者は之を殺す。

其の王は椎髻し、金鈴を戴き、錦袍を衣て、革履を躡き、方牀に坐し、官吏日々に謁し、三拜して退く。出入には象に乘じ或は腰輿し、壯士五七百人兵器を執して從ふ。國人王を見る皆坐し、其の過ぐるを俟ちて乃ち起つ。王子三人を以て副王と為す。官に落佶連四人あり、共に國事を治め、中國の宰相の如く、月奉無く、時に隨ひ土産諸物を量りて給す。次に文吏三百餘員あり、目して秀才と為し、文簿を掌り、財貨を總計す。又た卑官殆ど千員あり、分ちて城池・帑廩及び軍卒を主る。其の兵を領する者は每半歲に金十兩を給し、勝兵三萬、每半歲亦た金を給すること差あり。

土俗婚聘に媒妁無く、但だ黄金を女家に納めて以て之を娶る。五月に船を遊び、十月に山を遊ぶ。山馬あり乘跨す可く、或は軟兜に乘ず。樂に横笛・鼓板あり、亦た舞ふ能ふ。土人は髮を被き、其の衣裝は胸より以下膝に至るまで纒ふ。疾病には藥を服せず、但だ神に禱り佛を求む。其の俗は名有りて姓無し。方言に眞珠を「沒爹蝦羅」と謂ひ、牙を「家囉」と謂ひ、香を「崐燉盧林」と謂ひ、犀を「低密」と謂ふ。

先づ是れ、宋の元嘉十二年、使を遣はして朝貢し、後絕つ。淳化三年十二月、其の王穆羅茶、使陀湛・副使蒲亞里・判官李陁那假澄等を遣はして來朝貢す。陁湛云く、中國に眞主有り、本國乃ち朝貢の禮を脩むと。國王は象牙・眞珠・綉花銷金及び綉絲絞・雜色絲絞・吉貝織雜色絞布・檀香・玳瑁檳榔盤・犀裝劍・金銀裝劍・藤織花簟・白鸚鵡・七寶飾檀香亭子を貢し、其の使は別に玳瑁・龍腦・丁香・藤織花簟を貢す。

先づ是れ、朝貢使は舶船に汎び六十日にして明州定海縣に至る。市舶を掌る監察御史張肅、先づ驛にて其の使の飾服の狀、嘗て來りて入貢せる波斯に類するを奏す。譯者の言ふ云く、今主舶の大商毛旭なる者は、建溪の人、數へ往來して本國し、因りて其の鄉導を假りて來朝貢すと。又た言ふ、其の國王一號を夏至馬囉夜と曰ひ、王妃を落肩娑婆利と曰ふ、本國亦た僚屬を署置すと。又た其の方言に舶主を目して「葧荷」と為し、主妻を「葧荷比尼贖」と曰ふ。其の船中の婦人、名を眉珠とし、椎髻し、首飾無く、蠻布を以て身を纒ひ、顏色青黑く、言語曉れず、拜すること亦た男子の膜拜の如し;一子、項に金連鎖子を戴き、手に金鈎有り、帛帶を以て之を縈ひ、名を阿嚕とす。其の國は三佛齊と讎怨有り、互ひに攻戰す。本國は山に猴多く、人を畏れず、霄霄の聲を以て呼べば即ち出づ、或は果實を投ぐれば、則ち其の大猴二先づ至り、土人は之を猴王・猴夫人と謂ひ、食畢れば、羣猴其の餘を食ふ。使既に至り、上令して有司に優待せしむ;久しくして使還り、金幣を賜ふこと甚だ厚く、仍ち良馬戎具を賜ひ、以て其の請に從ふ。其の使云く、隣國名を婆羅門とし、善法有りて人情を察し、人相ひ危害せんと欲する者は皆先知すと。

大觀三年六月、使を遣はして入貢し、詔して之を交阯の如く禮す。

又た摩逸國有り、太平興國七年、寶貨を載せて廣州海岸に至る。

建炎三年、南郊の恩制を以て闍婆國主に懷遠軍節度・琳州管內觀察處置等使・金紫光祿大夫・檢校司空・使持節琳州諸軍事・琳州刺使・兼御史大夫・上柱國・闍婆國王・食邑二千四百戶・實封一千戶を授く;悉里地茶蘭固野を可とし檢校司徒を特授し、食邑實封を加ふ。紹興二年、復た食邑五百戶、實封二百戶を加ふ。

南毗國は大海の西南に在り、三佛齊より風颿月餘を以て至る可し。其の國王每に巡行するに、先づ期して兵百餘人を遣はし水を以て地上に灑ぎ、以て颶風の沙塵を揚ぐるを防ぐ;鼎百を列ねて以て食を進め、日々に之を易へ、翰林官を置きて王の飲食を供す。俗は戰闘を喜び、刀矟を習ひ、射を善くす。雜白銀を鑿ちて錢と為す。眞珠・番布を産す。其の國最も遠く、番舶到る罕なり。時羅巴智力干父子、其の種類なり、泉の城南に居す、是より舶舟多く其の國に至る。

勃泥

勃泥國は西南大海中に在り、闍婆を去ること四十五日程、三佛齊を去ること四十日程、占城と摩逸を去ること各三十日程、皆順風を計りて則と為す。

其の國は版を以て城と為し、城中に居する者萬餘人、統ぶる所十四州。其の王の居る屋は貝多葉を以て覆ひ、民舍は草を以て覆ふ。王の左右に在る者を大人と為す。王は繩床に坐し、若し出づれば、即ち大布單を其の上に坐し、眾之を舁ぎ、名づけて阮囊と曰ふ。戰闘する者は則ち刀を持ち甲を被り、甲は銅を以て鑄し、狀大筒の若く、之を身に穿ち、其の腹背を護る。

其の地に麥無く、麻稻有り、又た羊及び鷄魚有り、蠶絲無く、吉貝花を用ひて布を織成す。椰子酒を飲む。昏聘の資は、先づ椰子酒を以てし、檳榔之に次ぎ、指環又た之に次ぎ、然る後に吉貝布を以てし、或は金銀を量り出して其の禮を成す。喪葬にも亦た棺斂有り、竹を以て轝と為し、載せて山中に棄つ、二月耕を始むれば則ち之を祀り、凡そ七年なれば則ち復た祀らず。十二月七日を以て歲節と為す。地熱く、風雨多し。國人宴會するに、鼓を鳴らし、笛を吹き、鈸を撃ち、歌舞を以て樂と為す。器皿無く、竹を編み貝多葉を以て器と為し食を盛り、食訖れば之を棄つ。其の國は底門國に鄰し、藥樹有り、其の根を取り膏と為して煎じ、之を服し及び其の體に塗れば、兵刃の傷つく所皆死せず。前代未だ嘗て朝貢せず、故に史籍に載せず。

太平興國二年(九七七年)、その王向打は使者施弩・副使蒲亞里・判官哥心らを遣わし、表文を捧げて大片龍脳一家底・第二等八家底・第三等十一家底・米龍脳二十家底・蒼龍脳二十家底を貢いだ。凡そ一家底は皆二十両である。龍脳版五・玳瑁殻一百・檀香三橛・象牙六珠。表文に云う、「皇帝の千万歳の寿を為し、小国の微薄の礼を責められざるを望む」と。その表文は数重の小嚢で緘封されており、中国の紙ではなく、木の皮に類して薄く、瑩かで滑らか、色は微かに緑、長さ数尺、幅一寸余り、横に巻くと僅かに握りに満つるほどである。その字は細小で、横に読み、華言に訳すと、云う、「勃泥国王向打稽首拝し、皇帝万歳万歳万々歳、願わくは皇帝万歳の寿あらんことを。今、使者を遣わして進貢す。向打、朝廷有るを聞くも、路無くして到るを得ず。昨、商人蒲盧歇の船が水口に泊し、人を差して州に迎え到り、中朝より来たりしと言い、比来闍婆国に詣で、猛風に遇い其の船を破り、去るを得ず。此時、中国より来たりしと聞き、国人皆大いに喜び、即ち舶船を造り、蒲盧歇に令して導き達せしめて朝貢に入らしむ。遣わす所の使人は只だ平善に皇帝を見んことを願う。毎年人をして朝貢に入らしめ、毎年貢を修めんとす。風に吹かれて占城の界に至るを慮り、皇帝に詔して占城に令せしめ、向打の船到る有らば、留めざるを望む。臣が本国は別に異物無し、乞うらくは皇帝怪しまざれ」と。その表文はかくの如し。詔して其の使を礼賓院に館し、優に賜を与えて之を遣わす。

元豊五年(一〇八二年)二月、その王錫理麻喏は復た使者を遣わして方物を貢ぎ、其の使は泉州より海舶に乗じて帰国するを乞う。之に従う。

注輦

注輦国は東は海に距ること五里、西は天竺に至ること千五百里、南は羅蘭に至ること二千五百里、北は頓田に至ること三千里、古より中国に通ぜず、水行して広州に至るには約四十一万一千四百里。

其の国には城七重有り、高さ七尺、南北十二里、東西七里。毎城相去ること百歩、凡そ四城は塼を用い、二城は土を用い、最も中の城は木を以て之を為し、皆花果雑木を植う。其の第一より第三までは皆民居、小河を以て環らす。第四城は四侍郎之に居す。第五城は主の四子之に居す。第六城は仏寺と為し、百僧之に居す。第七城は即ち主の居する所、室四百余区。

統ぶる所に三十一部落有り。其の西十二は、曰く只都尼・施亞盧尼・羅琶離鱉琶移・布林琶布尼・古檀布林蒲登・故里・娑輪岑・本蹄揭蹄・閻黎池離・郍部尼・遮古林・亞里者林。其の南八は、曰く無雅加黎麻藍・眉古黎苦低・舍里尼・密多羅摩・伽藍蒲登・蒙伽林伽藍・琶里琶離遊・亞林池蒙伽藍。其の北十二は、曰く撥囉耶・無没離江・注林・加里蒙伽藍・漆結麻藍・楃折蒙伽藍・皮林伽藍・浦稜和藍・堡琶來・田注禼・盧婆囉・迷蒙伽藍。

今の国主は相伝えて三世なり。民罪有れば、即ち侍郎一員を命じて之を処治せしむ。軽き者は木格に縶し、笞五十より一百。重き者は即ち斬るか、或いは象を以て践み殺す。其の宴は、則ち国主と四侍郎と階にて膜拜し、遂に共に坐して楽を作し歌舞す。酒を飲まずして、肉を食う。俗は布を衣とす。亦た餅餌有り。饌を掌り事を執るには婦人を用う。其の嫁娶は、先ず金銀の指環を用い、媒婦をして女家に至らしめ、後二日、男家の親族を会し、土田・生畜・檳榔酒等を以て約し、其の有無を称して礼と為す。女家は復た金銀の指環・越諾布及び女の服する錦衣を婿に遺す。若し男、女を離れんと欲すれば則ち聘財を取らず、女、男を却くれば則ち之を倍償す。

其の兵陣は、象を用いて前と為し、小牌之に次ぎ、梭槍之に次ぎ、長刀又之に次ぎ、弓矢は後とす。四侍郎其の衆を分領す。国の東南約二千五百里に悉蘭池国有り、或いは相侵伐す。

地は真珠・象牙・珊瑚・頗黎・檳榔・豆蔻・吉貝布を産す。獣には山羊・黄牛有り。禽には山鷄・鸚鵡有り。果には余甘・藤羅・千年棗・椰子・甘羅・崐崘梅・婆羅密等有り。花には白末利・散絲・蛇臍・仏桑・麗秋・青黄碧娑羅・瑤蓮・蟬紫・水蕉の類有り。五穀には緑豆・黒豆・麦・稻有り。地は竹に宜し。

昔より未だ嘗て朝貢せず。大中祥符八年(一〇一五年)九月、其の国主羅茶羅乍は進奉使侍郎娑里三文・副使蒲恕・判官翁勿・防援官亞勒加等を遣わし、表を奉じて来貢す。三文等は盤を以て真珠・碧玻璃を奉じ、殿に升り、御坐の前に布き、殿を降りて再拝す。訳者其の言を導きて曰く、「願わくは以て遠人の化を慕うの誠を表さん」と。其の国主の表に曰く、

臣羅茶羅乍言す、昨、𦨴舶船の商人の本国に到りて告げて称するに、鉅宋の天下を有するや、二帝基を開き、聖人統を継ぎ、太岳に登封し、汾陰を礼祀し、至徳升聞し、上穹眷命すと。臣、昌期に斯く遇い、吉語幸いに聞き、輒ち就日の誠を傾け、仰いで朝天の款を露はす。

臣伏して聞く、人君の統を御するや、遠からざるは臻らざる無く、臣子の誠を推すや、道有れば則ち服すと。伏して惟うに、皇帝陛下は功は邃古を超え、道は大中を建つ。衣裳垂れて徳は乾坤に合し、剣戟鑄して区宇を範囲す。神武殺さず、人文化成す。廓々たる明明の徳を以て下民に臨御し、翼翼たる心を懐いて上帝に昭事す。至仁は行葦を傷つけず、大信は爰に淵魚に及ぶ。故に天鑒孔彰にし、帝文赫有り、今古未聞の事を顕し、家邦大定の基を保つ。

窃に臣が微類は醯鷄の如く、賤きは芻狗の如く、世は夷落に居し、地は華風に遠く、虚しく燭幽を荷い、曾て贄を執ること無きを念う。今者窃かに歌頌を聴き、遐陬に普及す。恨むらくは年は桑榆に属し、躬を玉帛に陳するを阻む。況んや滄溟の曠絶、跋渉に在りて以て稍々艱し。是を敢えて赤心を傾倒し、遥かに丹闕を瞻る。土に任せて貢を作し、螻蟻の膻を慕うに同じく、質を委ねて君に事え、葵藿の日に向うに比す。謹んで専使等五十二人を遣わし、土物を奉じて来貢す。凡そ真珠の衫・帽各一、真珠二万一千一百両、象牙六十株、乳香六十斤。

三文等は又た珠六千六百両、香薬三千三百斤を献ず。

初めに、羅茶羅乍は商船の言うところを聞き、かつ曰く、十年間海に風濤なく、古老の伝えるところに云う、かくの如きは則ち中国に聖人あり、故に三文等を遣わして入貢せしむ、と。三文は本国を離れ、舟行すること七十七昼夜、郍勿丹山・娑里西蘭山を歴て占賓国に至る。また六十一昼夜行き、伊麻羅里山を歴て古羅国に至る。国に古羅山あり、因りて名づく。また七十一昼夜行き、加八山・占不牢山・舟寶龍山を歴て三佛齐国に至る。また十八昼夜行き、蛮山水口を渡り、天竺山を歴て、賓頭狼山に至り、東西王母塚を望む、舟の停泊する所より百里を距つ。また二十昼夜行き、羊山・九星山を渡りて広州の琵琶洲に至る。本国を離れて凡そ千百五十日にして広州に到着す。詔して閤門祗候史祐之をして館伴たらしめ、凡そ宴賜の恩例は亀茲使と同じからしむ。その年の承天節に、三文等は啓聖禅院に於いて僧を会して聖寿を祝わんことを請う。明年、使節帰還するに当たり、詔を羅茶羅乍に降し、賜物甚だ厚し。

天禧四年、また使節琶攔得麻烈呧を遣わして方物を奉じて入貢す、広州に至りて病死す。守臣その表を以て聞かしむ。詔して広州に於いて従者を宴犒し、厚く賜い以てこれを遣わす。

明道二年十月、その王尸離囉茶印⿰亻㐌囉注囉、使蒲押陁離等を遣わし、泥金表を以て真珠の衫帽及び真珠百五両・象牙百株を進む。西染院副使・閤門通事舍人符惟忠、鴻臚少卿を仮し押伴す。蒲押陁離自ら言う、数たび朝貢すれども海風船を破りて達せず、願わくは上等の珠を将いて龍牀の脚に就き殿に撒き、頂戴瞻礼して以て嚮慕の心を申さん、と。乃ち銀盤を奉じて殿に昇り、跪いて珠を御榻の下に撒きて退く。景祐元年二月、蒲押陁離を以て金紫光禄大夫・懐化将軍と為し、本国に還らしむ。

熙寧十年、国王地華加羅、使奇囉囉・副使南卑琶打・判官麻圖華羅等二十七人を遣わして来たり、踠豆珠・麻珠・瑠璃大洗盤・白梅花脳・錦花・犀牙・乳香・瓶香・薔薇水・金蓮花・木香・阿魏・鵬砂・丁香を献ず。使副は真珠・龍脳を以て陛に登り、跪いてこれを散らす、これを撒殿と謂う。既に降りて、詔して御薬を遣わしてこれを宣労し、懐化将軍・保順郎将と為し、各々衣服器幣を賜うこと差あり。その王に答賜するに銭八万一千八百緡・銀五万二千両を以てす。

丹眉流

丹眉流国、東は占臘に至るまで五十程、南は羅越に至るまで水路十五程、西は西天に至るまで三十五程、北は程良に至るまで六十程、東北は羅斛に至るまで二十五程、東南は闍婆に至るまで四十五程、西南は程若に至るまで十五程、西北は洛華に至るまで二十五程、東北は広州に至るまで百三十五程。

その俗は版を以て屋と為す。跣足、布を衣、紳帯なく、白紵を以てその首を纏う。貿易は金銀を以てす。その主の居る所、広袤五里、城郭なし。出ずれば則ち象車に乗り、また小駟あり。地は犀・象・鍮石・紫草・蘇木諸薬を出す。四時炎熱、雪霜なし。未だ嘗て中国に至らず。

咸平四年、国主多須機、使打吉馬・副使打臘・判官皮泥等九人を遣わして来貢し、木香千斤・鍮鑞各百斤・胡黄連三十五斤・紫草百斤・紅氊一合・花布四段・蘇木万斤・象牙六十一株を貢ぐ。崇徳殿に召見し、冠帯服物を賜う。還るに及び、また多須機に詔書を賜いて以てこれを敦奬す。