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宋史
列傳第二百四十七 外國四 交阯 大理
交趾
交阯は、本来漢の初めの南越の地である。漢の武帝が南越を平定し、その地を分けて儋耳・珠崖・南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南の九郡とし、交阯刺史を置いてこれを統轄させた。後漢は交州を置き、晋・宋・齊・梁・陳はこれに因り、また交阯郡となった。隋が陳を平定し、郡を廃して州を置いた。煬帝の初め、州を廃して郡を置いた。唐の武徳年間、交州総管府と改め、至徳年間、安南都護府と改めた。梁の貞明年間、土豪の曲承美が専らその地を有し、末帝に誠意を示したので、これにより承美に節鉞を授けた。時に劉陟が嶺表で専断し、将の李知順を遣わして承美を討伐し、これを捕らえ、ついにその地を併せ有した。後に楊廷藝・紹洪があり、皆広南の任命を受け、引き続き交阯節度使となった。紹洪が卒すると、州将の呉昌岌が遂にその位に居た。昌岌が死ぬと、その弟の昌文が襲った。
乾徳初年、昌文が死ぬと、その参謀の呉処玶・峯州刺史の矯知護・武寧州刺史の楊暉・牙将の杜景碩らが立つことを争い、管内十二州は大乱した。部民は嘯聚し、起こって寇盗となり、交州を攻めた。先に、楊廷藝は牙将の丁公著をして驩州刺史兼禦蕃都督を摂行させた。部領は即ちその子である。公著が死ぬと、部領がこれを継いだ。この時、部領はその子の璉とともに兵を率いて処玶らを撃破し、賊党は潰散し、境内は安堵した。交州の民はこれを徳とし、乃ち部領を推して交州の帥とし、号して大勝王と曰い、その子の璉を節度使に任じた。凡そ三年にして、璉に位を譲った。璉は立って七年、嶺表が平定されたと聞き、遂に使いを遣わして方物を貢ぎ、表を上して内附した。制を以て、権交州節度使丁璉を以て検校太師とし、静海軍節度使・安南都護を充てた。また詔して、進奉使の鄭琇・王紹祚を並びに検校左散騎常侍兼御史大夫とした。開宝八年、使いを遣わして犀・象・香薬を貢いだ。朝廷は部領を崇寵することを議し、制を降して曰く、「率土来王、方に恩信を推すべく、挙宗奉国、宜しく封崇に洽うべし。拱極の外臣を眷み、顕親の茂典を挙ぐ。爾部領は世々右族たり、よく遐方を保ち、夙に華風を慕い、内附を忘れず。九州混一に属し、五嶺廓清し、溟濤に限りなく、琛賮を輸するを楽しましむ。乃が令子を嘉し、吾が列藩と称す。特ち鴻私を被せ、以て義訓を旌す。爾が眉寿に介し、この寵章を服せよ。開府儀同三司・検校太師を授け、交阯郡王に封ずべし」。
太宗が即位すると、璉はまた使いを遣わして方物をもって来賀した。部領及び璉が既に死ぬと、璉の弟の璿は尚幼く、嗣立し、節度行軍司馬権領軍府事と称した。大将の黎桓が権を擅にし党を樹て、次第に制し難くなり、璿を別第に劫遷し、挙族を禁錮して、代わってその衆を総べた。太宗これを聞き、怒り、乃ち挙兵を議した。太平興国五年秋、詔して蘭州団練使孫全興・八作使張璿・左監門衛将軍崔亮を陸路兵馬部署とし、邕州路より入らしめ、寧州刺史劉澄・軍器庫副使賈湜・供奉官閤門祗候王僎を水路兵馬部署とし、広州路より入らしめた。この冬、黎桓は牙校の江巨湟を遣わし方物を齎して来貢し、なお丁璿の為に表を上して曰く、「臣が族は本より蛮酋たり、海裔に辟処し、宰旅に職貢を修め、方隅に節制を仮す。臣が父兄は、代々閫寄を承け、謹んで封略を保ち、敢えて怠遑せず。爰に淪亡に及び、将に堂構を墜さんとす。将吏耆耋、乃ち臣に属し、軍旅の事を権めしめ、以て夷落の衆を安んぜしむ。土俗獷悍にして、懇請愈々堅く、拒みて従わざれば、その生変を慮る。臣は已に節度行軍司馬権領軍府事を摂す。願わくは真秩を賜い、列藩に備えしめよ。宸扆を干冒し、伏して震越を増す」。上はその王師を緩めんとする意を察し、寝して報いず。王師は進討し、賊万余衆を破り、二千余級を斬首した。六年春、また白藤江口にて賊を破り、千余級を斬首し、戦艦二百艘を獲、甲冑万計を得た。転運使侯仁宝は前軍を率いて先に進み、全興らは花歩に兵を頓して七十日、澄を待った。仁宝は累ねてこれを促したが、進まなかった。澄が至ると、軍を併せて水路より多羅村に至ったが、賊に遇わず、また擅に花歩に戻った。桓は詐降して仁宝を誘い、遂にその害に遭わしめた。転運使許仲宣は馳せてその事を奏し、遂に班師した。上は使いを遣わして澄・湜・僎を劾させ、澄は尋ち病没し、湜らを邕州市で戮した。全興は闕に至り、また吏に下して誅し、余は罪に抵るに差等あり。仁宝は工部侍郎を贈られた。
七年春、桓は朝廷が終に行って討滅することを懼れ、また丁璿の名を以て、使いを遣わし方物を貢ぎ、表を上して謝罪した。八年、桓は自ら権交州三使留後と称し、使いを遣わし方物を貢ぎ、並びに璿の表を来上した。帝は桓に詔を賜って曰く、「丁氏は三世伝襲し、一方を保拠す。卿は既にその倚毗を受け、その心膂たり、よく邦人の請に徇い、丁氏の心に負うことなし。朕は且く璿をして統帥の名と為し、卿をして副貳の任に居らしめ、剸裁制置、悉く卿に繫からしめんと欲す。丁璿既冠し、成立する所有らば、卿が輔翼、令徳弥光く、忠勳を崇奬するに、朕亦何ぞ吝しまんや。若し丁璿、将材取る無く、童心故の如く然らば、然れどもその奕世紹襲、星紀に載綿し、一旦節鉞を捨て去り、士伍に降り同うは、理既に便ならず、居も亦安からん。詔到るや、卿は宜しく丁璿母子及びその親属を遣わし、尽く室を来帰せしむべし。その入朝を俟ち、便当に日を揆い制を降し、卿に節旄を授けん。凡そこの両途、卿は宜しくその一を審処すべし。丁璿京に到らば、必ず優礼を加えん。今供奉官張宗権を遣わし詔を齎して旨を諭す、当に朕が懐を悉くすべし」。また璿に詔書を賜うこと旨の如し。時に黎桓は既に専らその土を拠し、命を聴かず。この歳五月上言す、占城国が水陸象馬数万をもって来寇したので、率いる所の兵を以てこれを撃走し、俘斬千計を得たと。
雍熙二年、牙校の張紹馮・阮伯簪らを遣わして方物を貢ぎ、続いて上表して節鎮を正領することを求む。三年秋、また使を遣わして方物を貢ぐ。儋州言う、占城国の人蒲羅遏がその族百余の衆を率いて内附す、交州に逼迫せられたる故なりと。是歳十月、制して曰く、「王者皇極を懋建し、列藩を寵綏す。京師に邸を設くるは、会同の礼を盛んにする所以なり。方面に土を胙くるは、節制の雄を表する所以なり。況んや茲の跕鳶の隅、克く設羽の貢を修め、式に帥を易うべく、爰に侯を建つるに利あり。請命の恭を忘れず、用て醻労の典を挙ぐ。権知交州三使留後黎桓、義勇を兼ね資り、忠純を特稟し、能く邦人の心を得、弥謹みて藩臣の礼を守る。往者、丁璿方に童幼に在りて、撫綏に昧けり。桓は乃ち肺腑の親にして、専ら軍旅の事を掌り、号令自ら出で、威愛並びに行わる。璿尽く三使の権を解き、以て衆人の欲に狥う。遠く誠款を輸し、節旄を領せんことを求む。士燮彊明にして、越俗を化して咸く乂え、尉佗恭順にして、漢詔を稟して違うこと無し。宜しく元戎の称を正し、以て通侯の貴に列し、夷落を控撫し、天休に対揚すべし。検校太保・使持節・都督交州諸軍事・安南都護に充て、静海軍節度・交州管内観察処置等使を兼ね、京兆郡侯に封じ、食邑三千戸を賜い、仍ち推誠順化功臣の号を賜う」と。左補闕李若拙・国子博士李覚を遣わして使と為し、以て之を賜う。
端拱元年、桓に検校太尉を加え、邑千戸を進め、実封五百戸を賜う。戸部郎中魏庠・虞部員外郎直史館李度を遣わして往き使わしむ。淳化元年夏、桓に特進を加え、邑千戸を進め、実封四百戸を賜う。左正言直史館宋鎬・右正言直史館王世則を遣わして又使わしむ。明年六月、闕に帰る。上、山川の形勢及び黎桓の事跡を条列して聞かしむることを令す。鎬等具に奏して曰く、
去歳秋末、交州の境に抵る。桓、牙内都指揮使丁承正等を遣わし、船九艘・卒三百人を以て太平軍に至り来迎せしむ。海口より大海に入り、風濤に冒し渉り、頗る危険を歴る。半月を経て白藤に至り、径ち海汊に入り、潮に乗じて行く。凡そ宿泊する所には皆茅舎三間有り、営葺尚新しく、目して館駅と為す。長州に至り漸く本国に近づく。桓、虚誕を張皇し、務めて誇詫を為し、尽く舟師戦櫂を出だし、之を耀軍と謂う。
是より宵征して海岸に抵り、交州に至ること僅か十五里、茅亭五間有り、題して茅径駅と曰う。城に至ること百里、部民の畜産を駆り、妄りに官牛と称し、数は千に満たず、十萬と揚言す。又広く其の民を率いて軍旅に混じ、雑色の衣を以て衣せしめ、船に乗り鼓譟す。城に近き山に虚しく白旗を張り、以て陳兵の象と為す。俄にして桓を擁従して至り、郊迎の礼を展ぶ。桓、馬を斂めて側身し、皇帝の起居を問い畢り、轡を按じて偕に行く。時に檳榔を以て相遺い、馬上にて之を食す。此れ風俗の賓を待つ厚意なり。城中に居民無く、止だ茅竹の屋数十百区有り、以て軍営と為す。而して府署は湫隘にして、其の門に題して明徳門と曰う。
桓、質陋くして目眇く、自ら言う、近歳蛮寇と接戦し、馬より墜ち足を傷つけ、詔を受けて拝せずと。信宿の後、乃ち筵を張り飲宴す。又臨海の汊に出で、以て賓を娯しむの遊と為す。桓、跣足にて竿を持ち、水に入り魚を標す。毎に一魚に中るるごとく、左右皆叫譟歓躍す。凡そ宴会有れば、預坐の人悉く帯を解かしめ、帽子を以て冠せしむ。桓、多く花纈及び紅色の衣を衣し、帽は真珠を以て飾りと為し、或は自ら歌いて酒を勧め、其の詞を能く暁る者莫し。嘗て数十人を令し大蛇長さ数丈を扛がしめ、使館に饋り、且つ曰く、「若し能く此を食わば、当に之を治めて饌と為し以て献らん」と。又二虎を羈送し、以て縱観に備う。皆之を却けて受けず。士卒殆ど三千人、其の額に悉く「天子軍」と黥す。糧は禾穂を以て日給し、自ら舂きて食と為さしむ。兵器は止だ弓弩・木牌・梭槍・竹槍有り、弱くして用ふるに足らず。
桓、軽侻残忍にして、小人に昵比し、腹心の閹竪五七輩其の側に錯立す。狎飲を好み、手令を以て楽と為す。凡そ官属其の事に善き者は、親近の左右に擢ぎ居らしめ、小過有れば亦之を殺し、或は其の背を鞭ち一百より二百に至る。賓佐小しく意に如かざれば、亦之を捶ち三十より五十に至り、閽吏に黜く。怒息みて、乃ち召して其の位に復す。木塔有り、其の制樸陋なり。桓一日請う、同登して遊覧せんと。地に寒気無く、十一月に猶夾衣を衣し扇を揮うと云う。
四年、桓を進めて交阯郡王に封ず。五年、牙校費崇徳等を遣わして来たり職貢を修む。然れども桓、性元より凶狠にして、山海に負阻し、屡く寇害を為し、漸く藩臣の礼を失う。至道元年春、広南西路転運使張観・欽州如洪鎮兵馬監押衞昭美皆上言す、交州の戦船百余艘有りて如洪鎮を寇し、居民を略し、廩実を劫びて去ると。其の夏、桓の管する蘇茂州、又郷兵五千を以て邕州の管する緑州を寇し、都巡検楊文傑之を撃ち走らす。太宗、志荒服を撫寧するに在り、問罪せんと欲せず。観又言う、風聞に黎桓は丁氏に斥逐せられ、余衆を擁して山海の間に在り、其の拠る所を失い、故に寇鈔を以て自ら給すと、今則ち桓已に死せりと。観仍ち表を上りて賀を称す。詔して太常丞陳士隆・高品武元吉をして嶺南に奉使せしめ、因りて其の事を偵わしむ。士隆等復命し、言う所観と同じ。其の実桓尚存すれども、伝聞する者の誤りにして、観等能く審覈せず。未だ幾ばくもあらざるに、大賈交阯より回り、具に桓帥と為ること故の如しと言う。詔して観等を劾せしむ。会すに観病み卒す。昭美・士隆・元吉罪に抵る。
先に、欽州の如洪・咄歩・如昔の三鎮はいずれも海に臨んでおり、交州潮陽の民卜文勇らが人を殺し、家族を連れて如昔鎮に亡命した。鎮将黄令徳らはこれを匿った。黎桓は潮陽鎮将黄成雅に移牒を送って捕らえさせようとしたが、令徳は固く遣わさず、これにより海賊が連年剽掠を働いた。二年、工部員外郎・直史館陳堯叟を転運使とし、これに因み桓に詔書を賜った。堯叟が到着すると、雷州海康県尉を代行する李建中に詔を齎らせて桓を労問させた。堯叟はまた如昔に至り、文勇を匿った理由を詰問して得、その男女老少百三十口をことごとく捕らえ、潮陽鎮の役人を召してこれを引き渡し、かつ酷法を加えないよう戒めた。成雅はその者を得て、状を以て堯叟に謝した。桓は遂に上章して恩を感謝し、併せて海賊二十五人を捕らえて堯叟に送り、且つ谿洞の首領を約束し統制して騒動させないと述べた。七月、太宗は主客郎中・直昭文館李若拙を遣わし詔書を齎らせ、国信使として美玉の帯を賜った。若拙が到着すると、桓は郊外に出迎えたが、その言葉の調子はなお悖慢で、若拙に言うには、「かつて如洪鎮を劫掠したのは外境の蛮賊である。皇帝はこれが交州の兵ではないとご存知か。もし交州が本当に命に叛くならば、まず番禺を攻め、次に閩・越を撃つであろう。どうして如洪鎮だけに止まろうか」と。若拙は従容として桓に言うには、「上は初め如洪鎮が寇されたと聞き、その出所は知らなかったが、足下が交州の牙校から抜擢され節度使に任じられた以上、忠を尽くして報いるべきであり、他に慮ることはないと考えられた。そして海賊を捕らえて送ってきたのを見て、事は果たして明白となった。しかし大臣たちは皆議して、朝廷が節帥を建てて海表を寧んじたのに、今蛮賊が寇害を為すのは、交州の力が独りで制しきれないからであると言い、勁卒数万を発して交州兵と会し、これを剪滅し、交・広に後患なからしめるよう請うた。上は言われた、『軽々しく挙兵すべきではない。交州が朝旨を測りかね、あるいは驚駭を致すことを慮る。黎桓に討撃を委ねるに如かず、これも漸く清謐に至るであろう』と。今はもはや兵を会することはない」と。桓は愕然として席を避け、言うには、「海賊が辺境を犯すは、守臣の罪である。聖君が容赦し、恩は父母を過ぎ、誅責を加えられない。今より謹んで職約を守り、漲海に永く清きを保つ」と。因みに北を望んで頓首して謝した。
真宗が即位すると、桓を進めて南平王とし侍中を兼ねさせた。桓は先に都知兵馬使阮紹恭・副使趙懐徳を遣わし、金銀七宝で飾った交椅一つ・銀盆十・犀角象牙五十枚・絹紬布一万疋を齎らせて来貢した。詔して万歳殿の太宗の神御前に陳列し、紹恭らに拝奠を許した。帰還の際、桓に帯甲の馬を賜い、詔書で慰労奨励した。咸平四年、また行軍司馬黎紹・副使何慶常を遣わし、馴犀一・象二・象[犭+朋]二・七宝装の金瓶一を齎らせて来貢した。その年欽州が言上するには、交州効誠場の民及び頭首八州使黄慶集ら数百人が来投した。詔して慰撫し、本道に還遣した。広南西路が言上するには、黎桓の官告を迎え受ける使節黄成雅が附奏して、今後国朝が恩を加える時は、使節を本道に遣わし、海裔を寵することを願うと。先に、使節が交州に至ると、桓は直ちに供奉を口実に賦斂を行っていた。上はこれを聞き、ただ辺境の官吏に召し授命させるのみとし、専使を遣わさなくなった。景德元年、またその子で驩州刺史を代行する明提を遣わして来貢し、恩を加える使節を本道に遣わし遐裔を慰撫することを懇願した。これを許し、明提を驩州刺史とした。二年の上元節、明提に銭を賜い、占城・大食の使節と共に灯りを見て宴飲させ、これに因み工部員外郎邵曄を国信使とした。
三年、桓が卒し、中子の龍鉞が立った。龍鉞の兄龍全が庫の財を奪って逃げ、その弟龍廷が龍鉞を殺して自立した。龍廷の兄明護が扶闌砦の兵を率いて攻戦した。明提は国乱のため還れず、特に詔して広州に優しく資給を加えさせた。広州知事凌策らが言上するには、「桓の諸子が争って立ち、衆心離叛し、頭首黄慶集・黄秀蛮ら千余人は従わず、親族まで殺され、廉州に来投した。本道の兵二千人を発してこれを平定し、慶集らは先鋒を願う」と。上は桓が平素忠順で、屡々職貢を修めたことを考え、今幸いに乱に乗じて喪を伐つは不可とした。国信使邵曄を改めて縁海安撫使とし、これを諭し説かせた。慶集らにはなお人口に応じて田粮を賜った。曄は交州に書を送り、朝廷の威徳を諭し、もし自ら魚肉の争いを為し、久しく定位なくば、偏師を以て罪を問えば黎氏は尽く滅びると説いた。明護は懼れ、直ちに龍廷を奉じて軍事を主らせた。龍廷は自ら節度・開明王と称し、遂に貢を修めようとした。曄がこれを上聞すると、上は言われた、「遐荒異俗、事体を曉らざるは、何ぞ怪しむに足らん」と。偽官を削去するよう命じた。曄はまた言上するには、頭首黄慶集は先に乱を避けて帰化したが、その種族は尚多く、もし再び還遣すれば屠戮に遭うことを慮ると。詔して慶集を三班に隷属させ、郴州で事務を執らせ、遂に入貢を許した。
四年、龍廷は権安南静海軍留後を称し、弟の峯州刺史明昶・副使安南掌書記殿中丞黄成雅らを遣わして来貢した。含光殿の大宴に会し、上は成雅の座が遠いのを以て、稍々位次を上げようと思い、宰相王旦に訪ねた。旦は言う、「昔、子産が周に朝し、周王は上卿の礼を以て饗したが、子産は固く辞し、下卿の礼を受けて還った。国家が遠方を恵み安んじ、客使を優待するには、固より嫌うところはない」と。乃ち成雅を尚書省五品の次に昇らせた。詔して龍廷を拝して特進・検校太尉、静海軍節度観察処置等使・安南都護を充て、御史大夫・上柱国を兼ね、仍って交阯郡王に封じ、食邑三千戸、食実封一千戸とし、推誠順化功臣を賜い、仍って名を至忠と賜い、旌節を与えた。また桓を追贈して中書令・南越王とした。進奉使黎明昶らは皆進秩した。大中祥符元年、天書が降り、翊戴功臣を加え、食邑七百戸、実封三百戸を加えた。東封が畢り、至忠に同平章事を加え、食邑一千戸、実封四百戸を加えた。二年、広南西路が言上するには、欽州の蛮人が海口の蜑戸を劫略し、如洪砦主李文著が軽兵を以て襲い逐ったが、流れ矢に中って死んだ。詔して安南に賊を捕らえるよう督した。明年、狄獠十三人を捕らえて献じた。至忠はまた推官阮守疆を遣わし、犀角・象歯・金銀・紋縭等を齎らせて来貢し、併せて馴犀一を献じた。上は犀が土性に違い飼育できないとして受け取らず、また至忠の意に逆らうのを慮り、使者が去った後に、海辺に放たせた。三年、使節を遣わして来朝し、表を奉って甲冑具装を求め、詔してその請いに従った。また邕州での互市を求めた。本道転運使が上聞すると、上は言われた、「海に臨む民は、数々交州の侵寇に患えており、従前はただ廉州及び如洪砦での互市を許したのは、辺隅の扼する所であったからである。今もし直ちに内地に赴くは、事頗る便ならず」と。詔して本道に旧制を以てこれを諭させた。
至忠はわずか二十六歳にして、苛酷で法に従わず、国人はこれに従わなかった。大校の李公蘊は特に至忠に親任され、かつて黎を姓とするよう命じられた。その年、ついに至忠を謀り、これを追放し、明提・明昶らを殺し、自ら留後を称し、使者を派遣して貢物を奉った。上(皇帝)は言った、「黎桓は不義にして得たところ、公蘊はさらにこれをまねる、甚だ憎むべきである」と。しかしその蛮俗は責めるに足らず、遂に桓の故事を用い、制を下して特進・検校太傅を授け、静海軍節度観察処置等使・安南都護を充て、兼ねて御史大夫・上柱国とし、交阯郡王に封じ、食邑三千戸、実封一千戸を賜い、推誠順化功臣を賜った。公蘊はまた表を奉って太宗の御書を求め、詔して百軸を賜った。四年、汾陰后土を祀り、公蘊は節度判官梁任文・観察巡官黎再厳を派遣して方物を貢いだ。礼が成ると、公蘊に同平章事を加え、食邑一千戸、実封四百戸を加え、任文らはともに優遇して官位を進めた。五年夏、進奉使李仁美を誠州刺史とし、陶慶文を太常丞とし、その従属で道中病死者があった者は、賜ったものを付けてその家に還した。この冬、聖祖が降臨し、公蘊に開府儀同三司を加え、食邑七百戸、実封三百戸を加え、翊戴功臣を賜った。七年春、また保節守正功臣を加え、食邑一千戸、実封四百戸を加えた。詔して交阯諸国の使者で入貢する者は、所在の館で饗応供給し、必ず豊かに備えさせるようにした。その年、知唐州刺史陶碩らを派遣して来貢した。詔して碩を順州刺史とし、安南静海軍行軍司馬を充て、副使呉懐嗣を澄州刺史とし、節度副使を充てた。先に、交州の狄獠張婆看が罪を避けて来奔し、知欽州穆重穎がこれを召したが、中路でまた拒んだので、都巡検臧嗣は命じて如洪砦で牛酒をもてなした。交州はこの事を探知し、これにより狄獠を捕らえ、故に如洪砦を襲い、人畜を多く略奪した。詔して転運司に公蘊に追索を督めさせ、また辺境の官吏に命じて今後蛮獠を誘い召して事を生ぜしめぬようした。公蘊は隔年あるいは連年で方物を入貢した。天禧元年、公蘊を南平王に進封し、食邑一千戸、実封四百戸を加えた。三年、検校太尉を加え、食邑一千戸、実封四百戸を加えた。恩を加えるごとに皆使者を派遣して命をその境上に伝えさせ、なお器幣・襲衣・金帯・鞍馬を賜った。仁宗が即位すると、公蘊に検校太師を加えた。長州刺史李寛泰・都護副使阮守疆を派遣して来貢した。天聖六年、驩州刺史李公顕を派遣して来貢し、叙州刺史に任じた。やがてその子弟とその婿申承貴に命じて衆を率いて内寇させたので、詔して広南西路転運司に発して溪峒の丁壮を討捕させた。間もなく卒し、年四十四。
その子徳政は自ら権知留後事を称し、哀を告げて来た。公蘊を侍中・南越王に贈り、本路転運使王惟正を祭奠使とし、また賜官告使とした。徳政を検校太尉・静海軍節度使・安南都護・交阯郡王に任じた。天聖九年、知峯州刺史李偓佺・知愛州刺史帥日新らを派遣して来謝し、偓佺を驩州刺史、日新を珍州刺史とした。明道元年、恭謝し、同中書門下平章事を加えた。景祐年中、郡人陳公永ら六百余人が内附したので、徳政は兵千余を派遣して境上でこれを捕逐した。詔してこれを還し、なお徳政に戒めてみだりに誅殺せぬようした。まもなく静海軍節度判官陳応機・掌書記王惟慶を派遣して来貢し、応機を太子中允、惟慶を大理寺丞とし、徳政に検校太師を加えた。三年、その甲峒及び諒州・門州・蘇茂州・広源州・大発峒・丹波県の蛮が邕州の思陵州・西平州・石西州及び諸峒を寇し、居人の馬牛を略奪し、室廬を焼いて去った。詔を下してこれを責問し、かつ酋首を捕らえてその罪を正して奏聞するよう命じた。宝元元年、南平王に進封した。康定元年、知峯州刺史帥用和・節度副使杜猶興らを派遣して来貢した。慶暦三年、また節度副使杜慶安・三班奉職梁材を派遣して来貢し、慶安を順州刺史、材を太子左監門率府率とした。六年、また兵部員外郎蘇仁祚・東頭供奉官陶惟[巾+雇]を派遣して来貢し、仁祚を工部郎中、惟[巾+雇]を内殿崇班とした。明年、また秘書丞杜文府・左侍禁文昌を派遣して来貢し、文府を屯田員外郎、昌を内殿崇班とした。
初め、徳政は兵を発して占城を取ったので、朝廷はその内に奸謀を蓄えているのではないかと疑い、そこで唐以来通じた道路凡そ十六箇所を訪ね、転運使杜杞に命じてその要害を測量してこれを戍守させたが、その後もまた辺境を寇することはなかった。前後累次にわたって馴象を貢いだ。皇祐二年、邕州がその蘇茂州の韋紹嗣・紹欽ら三千余人を誘い省地に入居させたので、徳政は表を奉って誘われた者を求めた。詔してこれを尽く還し、なお徳政に命じて辺戸を約束し、互いに侵犯せぬようさせた。その後、広源州の蛮儂智高が反し、徳政は兵二万を率いて水路より入り王師を助けようとしたが、朝廷はその賜を優遇してその兵を退けた。至和二年、卒した。
その子日尊は人を遣わして喪を告げさせたので、広南西路転運使・尚書屯田員外郎蘇安世を弔贈使に任じ、徳政に侍中・南越王を追贈し、賻賚は甚だ厚かった。まもなく日尊を特進・検校太尉・静海軍節度使・安南都護に除し、交阯郡王に封じた。嘉祐三年、異獣二頭を貢いだ。四年、欽州思稟管を寇掠した。五年、甲峒の賊とともに邕州を寇掠したので、詔して桂州知事蕭固に部兵を発し、転運使宋咸・提点刑獄李師中とともに協議して掩撃させた。また詔して安撫使余靖らに兵を発して捕討させた。靖は間諜を遣わして占城を誘い、広南西路の兵甲とともに交阯に向かわせたので、日尊は惶怖し、上表して罪を待った。詔して兵を挙げることを得ず、日尊の貢奉が京師に至ることを聴した。八年、文思使梅景先・副使大理評事李継先を遣わして馴象九頭を貢いだ。四月戊寅、大行皇帝の詔及び遺留物を以て日尊に賜い、同中書門下平章事を加えた。この日、交阯の使者が辞するに当たり、内侍省押班李継和に命じて申紹泰の入寇について諭させた。本路はしばしば討伐を乞うたが、朝廷は紹泰が一夫として狂を肆うに過ぎず、また本道がすでに使を遣わして謝罪したので、未だ兵を興そうとはしなかった。治平初め、桂州知事陸詵が言うには、交州が儂宗旦の男日新を求め、また温悶洞などの地を取らんと欲していると。帝が交阯が何年に割拠したかを問うと、輔臣が答えて言うには、「唐の至徳年中に安南都護府と改め、梁の貞明年中に土豪曲承美が専らこの地を有しました」と。韓琦が言うには、「かつて黎桓が命に叛したとき、太宗は将を遣わして討伐したが、服さず、後に使を遣わして招誘し、初めて順を効しました。交州の山路は険僻で、潦霧瘴毒の気多く、その地を得たとしても、恐らく守ることはできません」と。神宗即位すると、日尊を進めて南平王に封じた。熙寧元年、開府儀同三司を加えた。二年、表を奉って言うには、「占城国は久しく貢を欠いておりますので、臣が親しく兵を率いてこれを討ち、その王を虜にしました」と。詔してその使郭士安を六宅副使とし、陶宗元を内殿崇班とした。日尊は自らその国に帝を称し、僭って法天応運崇仁至道慶成龍祥英武睿文尊徳聖神皇帝と称し、公蘊を太祖神武皇帝と尊び、国号を大越とし、元号を宝象と改め、また神武と改めた。
五年三月、日尊卒す。広西転運使康衞を弔贈使に任じた。子乾徳が立つ。遣使を以て慰問し、広源州・思琅州・門州・蘇茂州・桄榔県の地を賜う。詔して交阯郡王に封じ、加えて同中書門下平章事とした。八年、福建に蛮船が漂着したので、詔して人を遣わして送還させた。乾徳は遣使を以て方物を謝し、神宗はその父の既に賜った広源州などを賜うことを求める上表を見て、さらに順州を賜うと約した。王安石は力説して言うには、「これらは辺境の利に過ぎず、朝廷に益はありません。交阯が近ごろ方物を奉じ、その誠を表しているので、荒遠の地をこれに与えて慰撫すべきです」と。神宗はこれに従った。九年、交阯は欽州を寇掠した。十年、永安州を侵し、欽州・廉州を寇掠した。神宗は怒り、郭逵を安南行営経略招討使とし、趙卨を副使とし、兵を総べて討たせた。十二月、逵は長沙に至り、先に将を遣わして交阯を攻撃させた。敗れて、副将楊万富・魯拱が戦死した。遂に兵を率いて富良江に進み、偽太子洪真を斬り、乾徳を降伏させた。乾徳は恐懼し、使者を遣わして降伏を請い、朝貢を約し、奪った州県を返還すると言った。詔してこれに報じて言うには、「卿は南交を撫有し、世に王爵を受けてきたが、しかるに徳に背き命を奸し、ひそかに辺城を暴かせた。祖考の忠順の図を棄て、朝廷の討伐の挙を煩わせた。師行深入し、勢い蹙って初めて帰順した。その罪尤を跡づければ、絀削すべきところにある。今、使を遣わして貢を修め、上章して恭を致し、その詞情を詳らかに観れば、灼然に悛悔を見る。朕は万国を撫綏するに、邇も遐も異にしない。ただ邕・欽の民が、炎陬に遷劫され、久しく郷井を失っているので、これを尽く送還して省界に至らしめ次第、すなわち広源などを以て交州に賜わん」と。乾徳は初め三州の官吏千人を返還すると約したが、久しくして、ようやく民二百二十一口を送った。男子で年十五以上の者は皆、額に「天子兵」と刺し、二十以上の者は「投南朝」と刺し、婦人は左手に「官客」と刺した。舟に載せてその戸牖を泥で塗り、中に燈燭を設け、日行一二十里で止まり、偽って更鼓を作って報せ、凡そ数ヶ月にしてようやく至った。蓋し海道の遠きことを示して欺くためである。順州は南に深く落ち、戍を置いて鎮守したが、瘴霧に罹り多く病没し、陶弼もまた官に終わった。朝廷はその無用なるを知り、乃ち悉く四州一県を以てこれを還した。然れども広源は旧く邕管の羈縻に隷し、本来交阯の所有に非ざるなり。
元豊五年、馴象二頭・犀角象歯百を献じた。六年、儂智会を追捕することを口実として、帰化州を侵犯した。またその臣黎文盛を遣わして広西に来て順安・帰化の境界を弁理させた。経略使熊本は左江巡検成卓を遣わしてこれと議させた。文盛は陪臣を称し、敢えて争わなかった。詔して文盛が乾徳の恭順の意に遵う能きを以て、これに袍帯及び絹五百匹を賜う。なお八隘の外の保楽六県・宿桑二峒を乾徳に与えた。哲宗立つと、同中書門下平章事を加えた。元祐年中、また数度上表して勿悪・勿陽峒の地を求め、詔して許さず。二年、使を遣わして入貢し、進めて南平王に封じた。徽宗の時、累次加えて開府儀同三司・検校太師とした。大観初め、貢使が京に至り書籍の市を乞うた。有司が法は許さないと言うと、詔してその義を慕うことを嘉し、禁書・卜筮・陰陽・暦算・術数・兵書・勅令・時務・辺機・地理を除き、余りの書は買うことを許した。政和末、また詔して交人が熙寧以来、全く事を生ぜざるを以て、特に関市の禁を寛めた。宣和元年、乾徳に守司空を加えた。建炎元年、詔して広西経略安撫司に辺民が安南の逋逃を受くる毋からしむ。その主乾徳の請いに従うためなり。四年、安南入貢す。詔してその方物の華靡なるものを却け、勅書を賜い、その報を厚くして以てこれを懐柔す。
紹興二年、乾徳卒す。侍中を贈り、南越王を追封す。子陽煥嗣ぐ。静海軍節度使・特進・検校太尉を授け、交阯郡王に封じ、推誠順化功臣を賜う。八年、陽煥卒す。転運副使朱芾を以て弔祭使とし、陽煥に開府儀同三司を贈り、南平王を追封す。子天祚嗣ぐ。官を授くることその父の初封の制の如し。九年、詔して広西帥司に趙智之の入貢を受くる毋からしむ。初め、乾徳に側室の子あり、大理に奔り、姓名を変えて趙智之と為し、自ら平王と称す。陽煥の死を聞き、大理これを帰遣し、天祚と立つを争い、入貢を求め、兵を仮りてこれを納れんと欲す。帝許さず。十七年、詔して文思院に鞍韉を製させて天祚に賜う。二十一年、累次天祚に崇義懐忠保信郷徳安遠承和功臣を加う。二十五年、詔して安南の使者を懐遠駅に館し、宴を賜い、以て異数を彰わす。天祚を進めて南平王に封じ、襲衣・金帯・鞍馬を賜う。二十六年、右司郎中汪応辰に命じて安南の使者を玉津園に宴せしむ。八月、天祚は李国らを遣わして金珠・沈水香・翠羽・良馬・馴象を以て来貢す。詔して天祚に検校太師を加え、食邑を増す。隆興二年、天祚は尹子思・鄧碩儼らを遣わして金銀・象歯・香物を貢ぐ。乾道六年、累次天祚に帰仁協恭継美遵度履正彰善功臣を加う。帝即位以来、屡々安南の貢使を却く。九年、天祚また尹子思・李邦正を遣わして入貢を求めしむ。帝その誠を嘉し、これを許し、詔して懐遠駅に館す。広南西路経略安撫使范成大言う、「本司は諸蛮を経略し、安南は撫綏の内に在り、その陪臣豈に中国の王官と亢礼すべけんや。政和間、貢使が入境すれば、皆庭参し、復た報謁せず。旧制に遵うべく、礼に於いて得たり」と。朝廷その請いに従う。淳熙元年二月、天祚を進めて安南国王に封じ、守謙功臣の号を加う。二年、安南国印を賜う。三年、安南国暦日を賜う。天祚卒す。
翌年、子の龍𣉙が位を嗣ぎ、静海軍節度使観察処置等使・特進・検校太尉兼御史大夫・上柱国を授けられ、特に安南国王に封ぜられ、食邑を加増された。また推誠順化功臣を賜り、制書に曰く、「楽国に即いて封を肇むるは、既に世襲に従う。真王を極めて命を錫うは、何ぞ次升を待たん」と。殊礼を示したのである。五年、方物を貢ぎ、表を奉って謝した。九年、詔して安南の貢ぐ象を却け、その無用にして民を煩わすを以てし、他の物も亦什一のみを受けるに止めた。十六年、累次加えて龍𣉙を守義奉国履常懐徳功臣とした。光宗即位に際し、表を奉って入貢し賀を称えた。寧宗の朝、衣帯・器幣を賜い、累次加えて謹度思忠済美勤礼保節帰仁崇謙協恭功臣及び食邑とした。
嘉定五年、龍𣉙卒す。詔して広西運判陳孔碩を以て弔祭使と為し、特に侍中を贈った。前の安南国王の制に依り、その子昊旵にその爵位を襲封せしめ、給賜は龍𣉙の始封の制の如くし、仍って推誠順化功臣を賜った。その後謝表至らず、遂に加恩を廃した。
昊旵卒し、子無く、女の昭聖を以て国事を主せしめたが、遂にその婿陳日煚の所有となった。李氏の国あること、公蘊より昊旵に至るまで、凡そ八伝、二百二十余年にして国亡ぶ。淳祐二年、詔して安南国王陳日煚に、元賜の効忠順化保節功臣に「守義」の二字を増す。宝祐六年、詔して安南の情状は測り難しとし、辺備を厳しくするよう命じた。景定二年、象二頭を貢ぐ。三年、表して世襲を乞う。詔して日煚に検校太師・安南国大王を授け、食邑を加増す。男威晃に、静海軍節度使・観察処置使・検校太尉兼御史大夫・上柱国・安南国王・効忠順化功臣を授け、金帯・器幣・鞍馬を賜う。咸淳五年、詔して安南国王の父日煚・国王威晃に食邑を加増す。八年、明堂の礼成り、日煚・威晃各々食邑を加増され、鞍馬等の物を賜う。
大理
大理国は、即ち唐の南詔である。熙寧九年、使いを遣わして金装碧玕山・氈罽・刀剣・犀皮甲鞍轡を貢いだ。その後常に来ず、亦鴻臚に領せられず。
政和五年、広州観察使黄璘奏す、南詔大理国は義を慕い徠を懐き、臣妾たらんことを願い、その入貢を聴かんと欲すと。詔して璘に賓州に局を置かしめ、凡そ奏請あるは、皆進止を俟たしむ。六年、進奉使天駟爽彦賁李紫琮・副使坦綽李伯祥を遣わして来たり、詔して璘と広東転運副使徐惕をして闕に詣らしめ、その経行する所は、監司一人にこれを主たしむ。道は荊湖南に出で、当に邵州新化県より鼎州に至るべし。而るに璘の家は潭の湘郷にあり、転運判官喬方、璘に媚びんと欲し、乃ち邵より潭に至り、潭より鼎に至る一路を排比す。御史、その農事の際に当たりて、観望して民を労するを劾し、詔して方を罷む。紫琮等鼎を過ぎ、学校文物の盛んなるを聞き、押伴に請い、学に詣り宣聖像を瞻拝せんことを求む。邵守張察これを許し、遂に往き、遍く諸生に謁見す。又御書閣を観んことを乞い、笏を挙げて首を扣く。
七年二月、京師に至り、馬三百八十匹及び麝香・牛黄・細氈・碧玕山等の諸物を貢ぐ。制してその王段和誉を以て金紫光禄大夫・検校司空・雲南節度使・上柱国・大理国王と為す。朝廷は璘の功と為し、その子暉・昨と皆官を遷し、少子𣆳を閤門宣賛舎人と為す。已にして桂州を知る周穜、璘の詐冒を劾し、璘罪を得る。ここより大理復た中国と通ぜず、間一たび黎州に至り互市す。
紹興三年十月、広西奏す、大理国入貢及び馬を售らんことを求むと。詔してこれを却け、虚名を以て民を労せしむるを欲せざるなり。朱勝非奏して曰く、「昔年大理入貢するや、言者深くその妄を指し、黄璘ここより罪を得たり」と。帝曰く、「遐方異域、何ぞ由って実を得ん。但だその馬価に讎い当てば、則ち馬方に至り、騎兵に用い益あり、補い無きに非ざるなり」と。六年七月、広西経略安撫司奏す、大理復た使いを遣わし表を奉り象・馬を貢ぐと。詔して経略司に行在に護送せしめ、優礼を以てこれに答う。九月、翰林学士朱震上言し、広西帥臣に諭し、凡そ馬を市うは謹厚なる者を択んでこれを任じ、好功喜事の人を遣わして辺釁を啓かしむること無からんことを乞う。異時南北路通ずれば、則ち漸く広西市馬の数を減じ、未然に患を消さんことを庶幾うと。詔してこれに従う。
淳熙二年十一月、静江府を知る張栻、保伍の禁を厳しく申し、又邕管の戍兵千人に満たず、左・右江の峒丁十余万、毎にこれに恃りて藩蔽と為すを以てし、その邕州提挙・巡検官は宜しくその選を精にし、以て峒丁を撫すべし。大理を制せんと欲すれば、当に邕管より始むべしと云う。