四年春、制を降して曰く、「古の先哲の后、中区に奄宅す、曽てか万方に文軌を同じくし、四海に声教を覃んぜざらんや。顧みるに予が涼徳、猥りに鴻名を被る、爰に賓王を致す、宜しく錫命を優にすべし。開府儀同三司・検校太師・玄菟州都督・充大義軍使・高麗国王昭は、日辺に鍾粹し、遼左に推雄たり、箕子の余風を習い、朱蒙の旧俗を撫す。而して能く雲を占い海を候い、贄を奉じて庭に充つ、言念えば傾輸、実に深く嘉尚す。是を用いて之に懿号を賜い、公田を以て醻い、遠きを柔らぐるの恩を推し載せ、辰を拱するの志を式ち奬す。於戲!万里を来朝し、愛戴の孚有るを美とす。四封を柔撫し、混并の外無きを庶幾う。永く東裔を保ち、聿て天休を承けよ。食邑七千戸を加うべく、仍ち推誠順化保義功臣を賜う。」と。その年九月、使時賛等を遣わして来貢す。海に渉り、大風に値い、船破れ、溺死者七十余人、賛は僅かに免る。詔して労恤を加う。
開宝五年、使を遣わして方物を以て来献す。制して食邑を加え、推誠順化守節保義功臣を賜う。進奉使内議侍郎徐熙に検校兵部尚書を加え、副使内奉卿崔鄴に検校司農卿を加え並びに御史大夫を兼ね、判官広評侍郎康礼に少府少監を試み、録事広評員外郎劉隠に検校尚書・金部郎中を加え、皆厚礼を以てこれを遣わす。
昭卒す。その子の伷、権に国事を領す。
九年、伷は使趙遵礼を遣わして土貢を奉じ、父の没し当に承襲すべきを以て、来たりて朝旨を聴く。伷に検校太保・玄菟州都督・大義軍使を授け、高麗国王に封ず。
太宗即位し、検校太傅を加え、大義軍を改めて大順軍と為し、左司禦副率于延超・司農寺丞徐昭文を遣わしてその国に使せしむ。伷は国人金行成を遣わして入り国子監に就学せしむ。
四年、復た供奉官・閤門祗候王僎を遣わしてその国に使せしむ。
五年六月、再び使を遣わして方物を貢す。六年、また使を遣わして来貢す。
七年、伷卒す。その弟の治国事を知り、使金全を遣わして金銀線罽錦袍褥・金銀飾刀剣弓矢・名馬・香薬を奉じて来貢し、且つ襲位を求む。治に検校太保・玄菟州都督を授け、充大順軍使とし、高麗国王に封ず。監察御史李巨源・礼記博士孔維を以て奉使せしむ。
先に、契丹が女真国を伐ち、路は高麗の界を由る。女真は高麗が導き禍を構えると意え、馬を貢して来朝し訴え、且つ高麗が契丹と好を結び、勢援に倚り、其の民を剽略し、復た還さずと言う。高麗使韓遂齡の入貢に及び、太宗は女真の上告する急木契を出して遂齢に示し、仍って帰り本国に白し、其の俘えたる民を還すべしと令す。治これを聞き憂懼し、国華の至るに及び、人をして国華に言わしめて曰く、
前歳の冬末、女真が木契を馳せ来告し、契丹が兵を興して其の封境に入り、当道未だ知らざるを恐れ、宜しく備えを為すべしと称す。当道は女真と隣国と雖も、而して路途遐遠、彼の情偽は素よりこれを知る。貪にして詐多く、未だこれを信ぜず。其の後又人を遣わし告げて曰く、契丹の兵騎已に梅河を済えりと。当道猶ほ実ならざるを疑い、未だ営救に暇あらず。俄にして契丹雲集し、大いに女真を撃ち、殺獲甚だ衆し。余族敗散逃遁し、而して契丹は背を圧して追捕し、当道西北の徳昌・徳成・威化・光化の境に及び、俘擒して去る。時に契丹の一騎徳米河の北に至り、大いに關城の戍卒を呼び告げて曰く、「我は契丹の騎なり。女真我が辺鄙を寇す、率いて以て常と為す。今則ち復仇已に畢り、兵を整えて回る」と。当道は師退くを聞くも、猶ほ不測を憂い、乃ち女真の兵を避けて来奔する二千余衆を以て、資給してこれを帰す。
女真又当道に勧めて梅河の津要を控え、城壘を築治し、以て防遏の備えと為さんとす。亦た然りと以為う。方に行視して功を興さんと令す。意わざらんや、女真潜師奄至し、吏民を殺略し、丁壮を驅掠し、没して奴隷と為し、他方に転徙す。其の歳貢中朝するを以て、敢えて兵を発して怨に報ぜず。豈に期せんや、反って相誣構し、以て聖聴を惑わさんとは。当道は世に正朔を稟し、職貢を践修す。敢えて二心有りて、外国に交通せんや。況んや契丹は遼海の外に介居し、復た大梅・小梅二河の阻有り。女真・渤海は本より定居無し。何の径路よりか、以て往復を通ぜん。横に讒謗に罹り、憤気膺に填う。日月至明、諒や昭鑒を垂れん。
間者、女真逃難の衆は、存恤せざるは無く、亦た官秩を授くる有り、尚ほ当国に在り。其の職位高き者は勿屈尼于・郍元・尹能達・郍老正・衞迦耶夫等十数人、京闕に召赴せんことを欲望し、当道の入貢の使と庭に其事を弁せしめば、則ち丹石の誠、庶幾く昭雪せんと。
国華これを諾し、乃ち兵を発して西会せしむるを命ず。治は遷延して未だ即ち詔を奉ぜず。国華屡これを督す。報を得て兵を発して還り、具に女真の事を録して以て奏す。十月、使を遣わし朝貢し、又本国学生崔罕・王彬を遣わし国子監に詣りて肄業せしむ。
四年正月、治は使白思柔を遣わし方物を貢し、並びに経及び御製を賜わるを謝す。二月、秘書丞直史館陳靖・秘書丞劉式を使いと為し、治に検校太師を加え、仍って詔を降して軍吏耆老を存問す。靖等は東牟より八角海口に趣き、思柔の乗る海船及び高麗の水工を得、即ち舟に登り芝岡島より順風に大海を泛び、再宿して甕津口に抵り上陸し、行くこと百六十里高麗の境に抵りて海州と曰い、又百里にして閻州に至り、又四十里にして白州に至り、又四十里にして其の国に至る。治は使を郊に迎え、藩臣の礼を尽くし、靖等を延留すること七十余日にして還り、襲衣・金帯・金銀器数百両・布三万余端を遺し、附表して謝を称す。
また張仁銓という者あり、進奉使白思柔の孔目吏なり、上書して便宜を献ず。思柔はその国の陰事を持ち出して告げたるかと疑い、仁銓は懼れて帰ることを敢えず。上は靖らに命じてこれを率いて還国せしめ、なお詔して治に仁銓の罪を釈せしむ。治また上表して謝して曰く、「官告国信使陳靖・劉式至り、聖旨を奉伝し、当道の進奉使の従行孔目官張仁銓が闕下に至り、輒ち便宜を進め、翻って憂懼を懐き、今使臣に附して本国に帯び帰らしむる者と。仁銓は嵎宅の細民、海門の賤吏、上国に趨くことを獲、敢えて愚誠を貢す、狂瞽の尤を罔みず、輒ち権宜の事を奏し、妄りに旒冕(天子)を塵し、上朝廷を黷す。今、綸言を仰ぎ奉り、その罪罟(網)を釈す。小人は利に趨く、豈に僭越の求を虞らんや、聖主は寛恩、遠く哀矜の命を降す。その張仁銓なる者は已に詔旨に依り罪を放ち、事を掌するを故の如くせしむ」。また上言して板本の九経書を賜わんことを願い、以て儒教を敦くせんとす、これを許す。
先に、式らが復命すると、治は使者元証衍を遣わしてこれを送らしむ。証衍は安香浦口に至り、風に遭い船を損じ、賷したる物を溺れしむ。詔して登州に証衍の文据を与えて遣還せしめ、なお治に衣段二百疋・銀器二百両・羊五十口を賜う。
五年六月、使者元郁を遣わして来たり師を乞い、契丹が境を寇すを愬う。朝廷は北鄙(北方の辺境)甫めて寧んずるを以て、軽々しく干戈を動かし、国のために事を生ずべからずとし、ただ詔を賜い慰撫し、その使を厚く礼して遣還す。ここより契丹に制せられ、朝貢中絶す。
治卒す、弟の誦立つ。嘗て兵校徐遠を遣わして来たり朝廷の徳音を候わしむ、遠久しく至らず。
六年、誦は使者戸部郎中李宣古を遣わして来朝し謝恩し、且つ言う、「晋は燕薊を割きて以て契丹に属せしむるより、遂に路玄菟に趣き、屡来たり攻伐し、求取已まず、王師の境上に屯しこれが牽制を為さんことを乞う」。詔書を以て優しくこれに答う。
誦卒す、弟の詢、国事を権知す。先に、契丹は既に高麗を襲い、遂に六城を境上に築く、曰く興州・曰く鉄州・曰く通州・曰く龍州・曰く亀州・曰く郭州。契丹は以て己に貳くとなし、使者を遣わして来たり六城を求め、詢許さず。遂に兵を挙げ、奄ち城下に至り、宮室を焚蕩し、居人を剽劫す。詢は昇羅州に徙居して以てこれを避く。兵退き、乃ち使者を遣わして和を請う。契丹は堅く六城を以て言と為し、ここより兵を調えて六城を守る。
七年、方に告奏使御事工部侍郎尹証古を遣わし、金線織成の龍鳳鞍并びに繍龍鳳鞍幞各二幅・細馬二疋・散馬二十疋を以て来貢す。証古還る、詢に詔書七通并びに衣帯・銀綵・鞍勒馬等を賜う。
八年、詔して登州に館を海次に置き以て使者を待たしむ。その年、また御事民官侍郎郭元を遣わして来貢す。元自ら言う、「本国は城に垣牆無く、府を開城と曰い、六県を管し、民三五千に下らず。州軍百余あり、十路転運司を置きてこれを統ぶ。毎州県五六を管し、小なるも亦三四、毎県戸三四百。国境南北千五百里、東西二千里。軍民雑処し、軍に隷する者は黥面せず。方午(正午)に市を為し、銭を用いず、第に布米を以て貿易す。地は秔稻に宜しく、風俗頗る中国に類す。羊・兎・橐駝・水牛・驢無し。気候少寒く、暑差多し。僧あり、道士無し。民家の器皿、悉く銅を以てこれを為す。楽に二品あり、曰く唐楽、曰く郷楽。三歳に一たび挙人を試み、進士・諸科・算学あり、毎試百余り、登第する者は一二十を過ぎず。毎正月一日・五月五日に祖禰廟を祭る。又正月七日、家ごとに王母の像を為しこれを戴く。二月の望、僧俗燈を燃やすこと中国の上元節の如し。上巳日、青艾を以て餅を染め盤羞の冠と為す。端午に鞦韆の戯あり。士女の服尚素。地産は龍鬚席・藤席・白硾紙・鼠狼尾筆」。元の辞貌恭恪、毎に宴賜を受くるに、必ず自ら謝表を為し、粗文采あり、朝廷これを持するも亦厚し。九年、辞して還る、詢に詔書七函・襲衣・金帯・器幣・鞍馬及び経史・暦日・聖恵方等を賜う。元また国朝の登科記及び賜わったる所の御詩を録して以て帰らんことを請う、これに従う。
五年、詢は告奏使御事礼部侍郎韓祚ら一百七十九人を遣わし来たり謝恩し、且つ契丹と好を修むるを言い、又表して陰陽地理書・聖恵方を乞う、並びにこれを賜う。
金行成は、累官して殿中丞に至り、上表して放還を乞うた。行成は自ら朝廷に仕官して以来、本国に帰ることを願わず、また父母が年老いて海外にあり、朝夕に思い慕い、禄が及ばぬことを恨み、工人に命じてその像を描かせて正寝に置き、妻の史氏とともに傍室に住み、朝夕に定省して食事を供え、少しも怠ることがなかった。淳化初年、安州の通判となった。病にかかり、知州の李範と僚佐数人が見舞うと、行成の病はすでに重く、涙を流して言うには、「行成は外国人であり、朝官となり、郡政を補佐したが、病みて死に至り、主恩に報いることがなく、たとえ目を瞑っても遺恨がある。二子の宗敏・宗訥は皆幼く、家はもとより貧しく、他の親族も頼るに足らず、朝夕に溝壑に委ねられよう」と。まもなく行成は死に、その妻は二子を養い、嫁がぬと誓い、草鞋を織って生計を立てた。範はその事を上表し、詔して宗敏を太廟齋郎に補し、安州に命じて毎月その家に銭三緡・米五斛を給し、長吏は歳時に存問せしめた。
詢の孫徽嗣立す、これ文王なり。
往時高麗人の往反は皆登州よりす。七年、その臣金良鑑を遣わし来たり言す、契丹を遠ざけんと欲し、塗を改め明州より闕に詣ることを乞うと。之に従う。郡県の供頓に旧準無く、頗る民を擾す。詔して式を立てて頒下し、費用は悉く官給す。又その華言に邇かざるを以て、利を規る者の私に交関するを恐れ、至る所に禁止せしむ。徽二府に問遺甚だ厚く、詔して市易務に付し縑帛を售りてこれに答う。又表して医薬・画塑の工を求め以て国人を教えんとす。詔して羅拯に願行者を募らしむ。
九年、また崔思訓を遣わし来たり、中貴人に命じて都亭西驛の例に倣い館を治め、これを待つこと寖に厚く、その使来る者も亦益々多し。嘗て伶官十余輩を献じ、曰く「夷楽観るに足らず、止だ国史を潤色せんと欲するのみ」と。帝その国の文を尚ぶを以て、毎に書詔を賜うに、必ず詞臣を選び著撰せしめてその善き者を択ぶ。
六年、徽卒す。在位三十八年、治仁恕を尚び、東夷の良主と為る。然れども猶ほその俗に循ひ、王女は臣庶に下嫁せず、必ず兄弟に帰し、宗族貴臣も亦然り。次子の運諫めて以為く、既に上国に通ずれば、宜しく礼を以て故習を革すべしと。徽怒り、之を外に斥く。訃聞こゆ。天子之を閔み、詔して明州に浮屠を修め一月供せしめ、楊景略・王舜封を遣わし祭奠し、銭勰・宋球を遣わし弔慰せしむ。景略李之儀を辟きて書状と為す。帝之儀の文称著はざるを以て、宜しく学問博洽・器宇整秀なる者を得て中書に召し赴かしめ、文を試みて乃ち遣わすべしと。又遠服を以てその備へを責めず、使者に諭して相見の所の殿名・鴟吻、皆避けざるを聴す。
徽の子順王勳嗣立す、百日にして卒す。弟の宣王運嗣立す。運仁賢にして文を好み、内行飭備し、毎に賈客の書を市する至れば、則ち潔服して香を焚きてこれに対す。
八年、その弟の僧統を遣わし来朝し、佛法を問ひ并せて経像を献ず。
哲宗立つ。使者金上琦を遣わし奉慰し、林暨を遣わし致賀し、刑法の書・太平御覧・開宝通礼・文苑英華を市するを請ふ。詔して惟だ文苑英華一書を賜ひ、名馬・錦綺・金帛を以てその礼に報ず。
運立つこと四年にして卒す。子の懷王堯嗣立す。歳を閲へずして、病を以て国を為す能はず。国人その叔父鷄林公熙に請ひて政を摂せしむ。未幾にして堯卒す。熙乃ち立つ。凡そ数歳使至らず。
元祐四年、その王子の義天が僧の壽介を杭州に遣わして亡僧を祭らせ、国母が二つの金塔を持たせて両宮の寿としたと言うが、知州の蘇軾がこれを退けるよう上奏し、その言葉は軾伝にある。熙は後に遼主の諱を避けて、名を顒と改む。顒は性貪吝にして、商賈の利を奪うを好み、富室が法を犯せば、輒ち久しく縻して贖いを責め、微罪と雖も亦銀数斤を輸せしむ。
五年、復た使を通じ、銀器五千両を賜う。
七年、黄宗慤を遣わして来たり黄帝鍼経を献じ、書を市うこと甚だ衆し。礼部尚書蘇軾言う、「高麗の入貢は、絲髮の利無くして五害有り、今諸書を請い金箔を収買するは、皆な宜しく許すべからず」と。詔して金箔の買いを許すも、然れども卒に冊府元亀を市いて以て帰る。
元符中、士を遣わして賓貢す。
徽宗立つ、任懿・王嘏を遣わして来たり弔賀す。
顒卒し、子の俁嗣ぎ、貢使接踵し、且つ士子の金瑞等五人をして太学に入らしめ、朝廷其が為に博士を置く。
政和中、其の使を升めて国信と為し、礼は夏国の上に在り、遼人と皆な樞密院に隷す。引伴・押伴官を改めて接送館伴と為す。大晟燕楽・籩豆・簠簋・尊罍等の器を賜い、至って使者を睿謨殿中に宴す。
欽宗立つ、賀使明州に至る。御史胡舜陟言う、「高麗は国家を靡敝すること五十年、政和以来、人使歳至り、淮・浙の間之を苦しむ。彼は昔契丹に臣事し、今必ず金国に事えん、安んぞ我が虚実を窺いて以て報ぜざるを知らんや、宜しく止めて来らしむるなかれ」と。乃ち詔して館を明に留めて其の贄幣を納む。明年始めて国に帰る。
王徽以降、使を通ずること絶えざれども、然れども契丹の封冊を受け、其の正朔を奉じ、朝廷及び他の文書に上るに、甲子を称するもの有り。歳に契丹に貢すること六に至り、而して誅求已まず。常に云う、「高麗は乃ち我が奴耳、南朝何を以て厚く之を待つや」と。使其の国に至れば、尤も倨暴にして、館伴及び公卿小しく意を失えば、輒ち捽箠を行い、我が使の至るを聞けば、必ず他事を仮りて来たりて覘い、賜物を分ち取る。嘗て其の西に向かって修貢する事を詰む、高麗表して謝し、其の略に曰く、「中国は、三甲子にして方に一朝を得、大邦は、一周天にして毎に六貢を修む」と。契丹悟り、乃ち免るるを得たり。
高宗即位し、金人の高麗に通ずるを慮り、迪功郎胡蠡に命じ、宗正少卿を仮りて高麗国使と為し以て之を間わしむ。蠡の回るや、史書するを失う。
六年、高麗持牒官金稚圭明州に至る。銀帛を賜いて之を遣わす。其の金の間諜たるを懼るるなり。
慶元の間、詔して商人の銅錢を高麗に持入するを禁ず。蓋し之を絶つなり。
初め、高麗入使す。明・越は供給に困し、朝廷館遇・燕賚・錫予の費、鉅万を以て計う。其の主者に饋るは是に在らず。我が使の行く、毎に二神舟に乗じ、費亦貲えざる無し。三節官吏爵を縻し廩を捐つ、皆県官に仰ぐ。昔蘇軾先朝に言いて、高麗の入貢に五害有りと謂う、此を以てなり。惟是国は呉会に於いて、事東都に異なり。昔高麗の使を入るるや、率ね登・萊より由る。山河の限り甚だ遠し。今直ちに四明に趨く。四明行都より限る所一浙水のみ。
海道を由りて高麗に奉使する、瀰漫汪洋、洲嶼険阻、黒風に遇えば、舟嶕に触れて輒ち敗る。急水門を出て群山島に至り、始めて平達と謂う。数十日に非ざれば至らず。舟南北に行く、順風に遇えば則ち険を歴て夷の如し、数日に至らざる無し。其の国東西二千里、南北五百里、西北契丹に接し、鴨緑江を恃みて以て固しと為す。江広さ三百歩。其の東臨む所、海水清澈、下視すること十丈、東南明州を望めば、水皆碧なり。
王は開州蜀莫郡に居す、開成府と曰う。大山に依りて宮室を置き城壁を立て、其の山を名づけて神嵩と曰う。民居皆茅茨、大なるも止む所両椽、瓦を以て覆う者は纔かに十二なり。新羅を以て東州楽浪府と為し、東京と号す。百済を金州金馬郡と為し、南京と号す。平壌を鎮州と為し、西京と号す。西京最も盛なり。総じて凡そ三京・四府・八牧・郡百十八・県鎮三百九十・洲島三千七百。郡邑の小なる者は、或いは只百家のみ。男女二百十万口、兵・民・僧各其の一に居る。地寒く山多く、土は松柏に宜しく、秔・黍・麻・麦有りて秫無く、秔を以て酒と為す。絲蠶少なく、匹縑直銀十両、麻紵を衣とすること多し。
王出ずるに、車に乗り牛を駕し、山険を歴て乃ち騎す。紫衣行きて前にし、護国仁王経を捧げて以て導く。令を出すを教と曰い、宣と曰う。臣民之を呼んで聖上と曰い、私に謂いて厳公と曰い、后妃を宮主と曰う。百官の名称・階・勲・功臣・検校、頗る中朝と相類す。御史台を過ぐれば則ち馬を下り、違う者有れば劾す。士人は族望を以て相高くし、柳・崔・金・李四姓を貴種と為す。宦者無く、世族の子を以て内侍六衛と為す。歳十二月朔、王紫門小殿に坐して官を注し、外官は則ち国相に付す。国子監・四門学有り、学者六千人。貢士三等、王城を土貢と曰い、郡邑を郷貢と曰い、他国の人を賓貢と曰う。間歳其の所属に試み、再び学に試み、取る所三四十人を過ぎず、然る後王親しく詩・賦・論の三題を以て試み、之を簾前重試と謂う。亦制科宏詞の目有り、然れども特たる文具のみ。士は声律を尚び、経に通ずる者少なし。
王城に華人数百有り、多くは閩人の賈舶に因りて至る者なり。密かに其の能う所を試み、祿仕を以て誘い、或いは強いて之を留めて終身せしむ。朝廷使至る、牒を陳べて来り訴うる者有れば、則ち取りて以て帰らしむ。
百官は米を以て奉と為し、皆田を与え、祿を納めて半ば給し、死して乃ち之を拘す。国に私田無く、民は口を計りて業を受く。十六以上は則ち軍に充て、六軍三衛は常に官府に留め、三歳を以て選びて西北に戍し、半歳にして更む。警有れば則ち兵を執り、事に任ずれば則ち労に服し、事已みて復た農畝に帰る。王も亦分地を有して以て私用に供え、王母・妃主・世子皆湯沐田を受く。
上下賈販利入を以て事と為す。日中を虚と為し、米布を以て貿易す。地銅を産すも、銭を鑄するを知らず。中国の予うる所の銭は、之を府庫に蔵し、時に出して傳翫するのみ。崇寧の後、始めて鼓鑄を学び、「海東通寶」・「重寶」・「三韓通寶」三種の銭有り、然れども其の俗便ぜず。兵器疏簡、強弩大刀無し。
釈教を崇尚し、王子弟と雖も常に一人僧と為る。鬼を信じ、陰陽に拘り、病みて相視ず、斂して棺を撫でず。貧しき者死すれば、則ち中野に露置す。歳建子の月を以て天を祭る。国東に穴有り、禭神と号す。常に十月望日を以て迎祭し、之を八関斎と謂う。礼儀甚だ盛ん、王と妃嬪楼に登り、大いに楽を張り宴飲す。賈人羅を曳きて幕と為し、百疋に至るまで相聯ねて以て富を示す。三歳大祭祠し、遍く其の封内にし、是に因りて民財を斂め、而して王と諸臣之を分取りす。祖廟は国門の外に在り、大祭すれば則ち車服冕圭を具え親しく祠る。王城に仏寺七十区有りて道観無く、大観中、朝廷道士を遣わして往かしむ。乃ち福源院を立て、羽流十余輩を置く。俗医を知らず、王俁来りて医を請うより、後に始めて其の術に通ずる者有り。
人首に枕骨無く、背扁側なり。男子巾幘は唐装の如く、婦人は鬌髻右肩に垂れ、余髮下に被い、絳羅を以て約し、之を簪に貫く。旋裙重畳、多きを以て勝と為す。男女自ら夫婦と為る者は禁ぜず、夏月同川にして浴す。婦人・僧・尼皆男子の拝す。楽声甚だ下り、金石の音無し。既に楽を賜わるや、乃ち分かれて左・右の二部と為す。左を唐楽と曰い、中国の音なり。右を郷楽と曰い、其の故習なり。堂上席を設け、升るには必ず屨を脱ぎ、尊者を見れば則ち膝行し、必ず跪き、応うるには必ず唯す。其の拝に答えざる無く、子拝せば、父猶半ば其の礼に答う。性仁柔にして殺を悪み、屠殺せず、羊豕を食わんと欲すれば則ち蒿を以て包みて之を燔く。
刑に惨酷の科無く、唯悪逆及び父母を罵る者のみ斬り、余は皆杖肋す。外郡の刑殺は悉く王城に送り、歳八月を以て囚の死罪を減じ、流に貸して諸島にし、赦を累ね、軽重を視て之を原う。
明州定海より順風に遇い、三日にして洋に入り、また五日にして墨山に至り、その境に入る。墨山より島嶼を過ぎ、詰曲たる嶕石の間を、舟行甚だ駛くこと、七日にして禮成江に至る。江は両山の間に居り、石峽を以て束ねられ、湍激して下る、所謂急水門、最も険悪なり。また三日にして岸に至り、館有りて碧瀾亭と曰い、人をして此より陸に登らしめ、崎嶇たる山谷四十余里、乃ち其の国都なりと云う。