宋史

列傳第二百四十六 外國三 高麗

高麗は、本来は高句と称した。禹が九州を分けたとき、冀州の地に属し、周代は箕子の国であり、漢代の玄菟郡である。遼東に在り、蓋し扶餘の別種にして、平壤城を国邑とす。漢・魏以来、常に職貢を通じ、またしばしば辺境の寇となる。隋の煬帝は再び兵を挙げ、唐の太宗はみずから駕を親しくしてこれを伐つも、皆克たず。高宗は李勣に命じてこれを征し、遂にその城を抜き、その地を分かちて郡県となす。唐末、中原に事多く、遂に自立して君長を立てる。後唐の同光・天成の中、その主高氏累ねて職貢を奉ず。長興の中、権知国事王建、高氏の位を承け、使を遣わして朝貢し、建を以て玄菟州都督ととくとし、大義軍使を充て、高麗国王に封ず。晋の天福の中、復た来たりて朝貢す。開運二年、建死し、子の武位を襲う。漢の乾祐の末、武死し、子の昭権知国事たり。周の広順元年、使を遣わして朝貢し、昭を以て特進・検校太保・使持節・玄菟州都督・大義軍使・高麗国王とす。顕徳二年、また使を遣わして来貢し、開府儀同三司・検校太尉を加え、また太師を加う。

建隆三年十月、昭はその広評侍郎李興祐・副使李勵希・判官李彬等を遣わして来朝貢せしむ。

四年春、制を降して曰く、「古の先哲の后、中区に奄宅す、曽てか万方に文軌を同じくし、四海に声教を覃んぜざらんや。顧みるに予が涼徳、猥りに鴻名を被る、爰に賓王を致す、宜しく錫命を優にすべし。開府儀同三司・検校太師・玄菟州都督・充大義軍使・高麗国王昭は、日辺に鍾粹し、遼左に推雄たり、箕子の余風を習い、朱蒙の旧俗を撫す。而して能く雲を占い海を候い、贄を奉じて庭に充つ、言念えば傾輸、実に深く嘉尚す。是を用いて之に懿号を賜い、公田を以て醻い、遠きを柔らぐるの恩を推し載せ、辰を拱するの志を式ち奬す。於戲!万里を来朝し、愛戴の孚有るを美とす。四封を柔撫し、混へいの外無きを庶幾う。永く東裔を保ち、聿て天休を承けよ。食邑七千戸を加うべく、仍ち推誠順化保義功臣を賜う。」と。その年九月、使時賛等を遣わして来貢す。海に渉り、大風に値い、船破れ、溺死者七十余人、賛は僅かに免る。詔して労恤を加う。

開宝五年、使を遣わして方物を以て来献す。制して食邑を加え、推誠順化守節保義功臣を賜う。進奉使内議侍郎徐熙に検校兵部尚書を加え、副使内奉卿崔鄴に検校司農卿を加え並びに御史大夫を兼ね、判官広評侍郎康礼に少府少監を試み、録事広評員外郎劉隠に検校尚書・金部郎中を加え、皆厚礼を以てこれを遣わす。

昭卒す。その子の伷、権に国事を領す。

九年、伷は使趙遵礼を遣わして土貢を奉じ、父の没し当に承襲すべきを以て、来たりて朝旨を聴く。伷に検校太保・玄菟州都督・大義軍使を授け、高麗国王に封ず。

太宗即位し、検校太傅を加え、大義軍を改めて大順軍と為し、左司禦副率于延超・司農寺丞徐昭文を遣わしてその国に使せしむ。伷は国人金行成を遣わして入り国子監に就学せしむ。

太平興国二年、その子の元輔を遣わして良馬・方物・兵器を以て来貢せしむ。その年、行成進士第に擢でる。

三年、また使を遣わして方物・兵器を貢し、伷に検校太師を加う。太子中允直舎人院張洎・著作郎直史館句中正を以て使と為す。

四年、復た供奉官・閤門祗候王僎を遣わしてその国に使せしむ。

五年六月、再び使を遣わして方物を貢す。六年、また使を遣わして来貢す。

七年、伷卒す。その弟の治国事を知り、使金全を遣わして金銀線罽錦袍褥・金銀飾刀剣弓矢・名馬・香薬を奉じて来貢し、且つ襲位を求む。治に検校太保・玄菟州都督を授け、充大順軍使とし、高麗国王に封ず。監察御史李巨源・礼記博士孔維を以て奉使せしむ。

雍熙元年、使韓遂齢を遣わして方物を以て来貢せしむ。

二年、治に検校太傅を加え、翰林侍書王著・侍読呂文仲を使者として派遣した。

三年、師を出して北伐し、その国が契丹の境に接し、常に侵掠されることを以て、監察御史韓國華に詔を齎してこれを諭して曰く、「朕は大業を誕受し、萬方を覆う。華夏・蠻貊、率いて従わざるはなし。蠢く此の北裔、王略を侵敗す。幽薊の地は中朝の土疆なり。晉・漢多虞、縁を夤りて盗み拠る。今国家の照臨する所及び、書軌大同す。豈に齊民をして獷俗に陷らしめんや。今已に師旅を董斉し、妖氛を殄滅せんとす。惟うに王は久しく華風を慕い、素より明略を懐き、忠純の節を効し、礼義の邦を撫す。而して彼の辺疆に接し、蠆毒に罹る。積憤を舒泄するは、其れ茲に在るか。師徒を申戒し、迭相に掎角し、隣国と協比し、力を同じくして盪平すべし。其の一鼓の雄を奮い、此の垂亡の寇を戡てよ。良時再びせず、王其れこれを図れ。応に俘獲の生口・牛羊・財物・器械は、並びに本国の将士に給賜し、以て賞勧を申せ」と。

先に、契丹が女真国を伐ち、路は高麗の界を由る。女真は高麗が導き禍を構えると意え、馬を貢して来朝し訴え、且つ高麗が契丹と好を結び、勢援に倚り、其の民を剽略し、復た還さずと言う。高麗使韓遂齡の入貢に及び、太宗は女真の上告する急木契を出して遂齢に示し、仍って帰り本国に白し、其の俘えたる民を還すべしと令す。治これを聞き憂懼し、国華の至るに及び、人をして国華に言わしめて曰く、

前歳の冬末、女真が木契を馳せ来告し、契丹が兵を興して其の封境に入り、当道未だ知らざるを恐れ、宜しく備えを為すべしと称す。当道は女真と隣国と雖も、而して路途遐遠、彼の情偽は素よりこれを知る。貪にして詐多く、未だこれを信ぜず。其の後又人を遣わし告げて曰く、契丹の兵騎已に梅河を済えりと。当道猶ほ実ならざるを疑い、未だ営救に暇あらず。俄にして契丹雲集し、大いに女真を撃ち、殺獲甚だ衆し。余族敗散逃遁し、而して契丹は背を圧して追捕し、当道西北の徳昌・徳成・威化・光化の境に及び、俘擒して去る。時に契丹の一騎徳米河の北に至り、大いに關城の戍卒を呼び告げて曰く、「我は契丹の騎なり。女真我が辺鄙を寇す、率いて以て常と為す。今則ち復仇已に畢り、兵を整えて回る」と。当道は師退くを聞くも、猶ほ不測を憂い、乃ち女真の兵を避けて来奔する二千余衆を以て、資給してこれを帰す。

女真又当道に勧めて梅河の津要を控え、城壘を築治し、以て防遏の備えと為さんとす。亦た然りと以為う。方に行視して功を興さんと令す。意わざらんや、女真潜師奄至し、吏民を殺略し、丁壮を驅掠し、没して奴隷と為し、他方に転徙す。其の歳貢中朝するを以て、敢えて兵を発して怨に報ぜず。豈に期せんや、反って相誣構し、以て聖聴を惑わさんとは。当道は世に正朔を稟し、職貢を践修す。敢えて二心有りて、外国に交通せんや。況んや契丹は遼海の外に介居し、復た大梅・小梅二河の阻有り。女真・渤海は本より定居無し。何の径路よりか、以て往復を通ぜん。横に讒謗に罹り、憤気膺に填う。日月至明、諒や昭鑒を垂れん。

間者、女真逃難の衆は、存恤せざるは無く、亦た官秩を授くる有り、尚ほ当国に在り。其の職位高き者は勿屈尼于・郍元・尹能達・郍老正・えい迦耶夫等十数人、京闕に召赴せんことを欲望し、当道の入貢の使と庭に其事を弁せしめば、則ち丹石の誠、庶幾く昭雪せんと。

国華これを諾し、乃ち兵を発して西会せしむるを命ず。治は遷延して未だ即ち詔を奉ぜず。国華屡これを督す。報を得て兵を発して還り、具に女真の事を録して以て奏す。十月、使を遣わし朝貢し、又本国学生崔罕・王彬を遣わし国子監に詣りて肄業せしむ。

端拱元年、治に検校太尉を加え、考功員外郎兼侍御史知雑呂端・起居舍人呂祐之を使いと為す。

二年、使を遣わし来貢す。詔して其の使選官侍郎韓藺卿・副使兵官郎中魏德柔に並びに金紫光禄大夫を授け、判官少府丞李光に検校水部員外郎を授く。先に、治は僧如可を遣わし表を齎して来覲し、大蔵経を請う。是に至りてこれを賜い、仍って如可に紫衣を賜い、同しく本国に帰らしむ。

淳化元年三月、詔して治に食邑千戸を加え、戸部郎中柴成務・兵部員外郎直史館趙化成を遣わし往使せしむ。其の国俗は陰陽鬼神の事を信じ、頗る拘忌多し。毎に朝廷の使至れば、必ず良月吉辰を択び、方に礼を具えて詔を受く。成務は館に踰月し、乃ち書を治に遺して曰く、「王は奕葉藩輔たり、王室を尊奬す。凡そ大慶を行えば、首に徽章を被る。今国家は特ち信使を馳せ、以て殊寵を申す。止むに川塗の綿邈を歴するのみに非ず、亦た溟海の艱危に蹈む。皇朝の睠遇、斯亦た隆し。而るに乃ち禁忌に牽かれ、卜数に泥み、日者の浮説に眩惑し、天子の命書を稽緩す。惟うに典冊の垂文は、卜祝の能く曉くに非ざるなり。是を以て書は上日を称し、六甲の元辰を推さず。礼は仲冬を載せ、但だ一陽の嘉会を取る。粲然たる古訓、以て明稽に足る。宜しく図を改め、速やかに君賜を拝すべし。儻や鳳綍滞り無く、極を拱するの誠を克く彰さば、則ち龍節輝き有り、命を辱するの責を免れん。謹んで誠を以て告ぐ。王其れこれを聴け」と。治は書を覧て慚懼し、人を遣わして謝を致す。会して霖雨止まず、仍って霽を俟つを以て請う。成務復た書を遺して以てこれを責む。治は翌日乃ち出でて命を拝す。

二年、使韓彦恭を遣わし来貢す。彦恭は表して治の意を述べ、印仏経を求む。詔して蔵経並びに御製秘蔵詮・逍遥詠・蓮華心輪を以てこれを賜う。

四年正月、治は使白思柔を遣わし方物を貢し、並びに経及び御製を賜わるを謝す。二月、秘書丞直史館陳靖・秘書丞劉式を使いと為し、治に検校太師を加え、仍って詔を降して軍吏耆老を存問す。靖等は東牟より八角海口に趣き、思柔の乗る海船及び高麗の水工を得、即ち舟に登り芝岡島より順風に大海を泛び、再宿して甕津口に抵り上陸し、行くこと百六十里高麗の境に抵りて海州と曰い、又百里にして閻州に至り、又四十里にして白州に至り、又四十里にして其の国に至る。治は使を郊に迎え、藩臣の礼を尽くし、靖等を延留すること七十余日にして還り、襲衣・金帯・金銀器数百両・布三万余端を遺し、附表して謝を称す。

先に、三年、上(皇帝)は諸道の貢挙人を親試し、詔して高麗の賓貢進士王彬・崔罕らに及第を賜い、既に官を授けて本国に還遣した。ここに至り、靖らが使節として帰還すると、治は上表して謝して曰く、「学生王彬・崔罕らが入朝して学業を習い、恩を蒙り並びに及第を賜い、将仕郎・守秘書省校書郎を授けられ、なお本国に帰還を許されました。窃かに考えるに、当道(高麗)は貢奉を繰り返し修めて、多年を経ておりますが、上国は天の如く高く、遐荒は海を隔てており、自ら金闕に趨き、玉階を面叩することが叶わず、ただ深く拱極の誠を抱くのみで、来庭の礼を展べることができませんでした。彬・罕らは幼少よりひさごの如く繋がれ、嵎夷(東方の地)に混跡するを嘆き、よもぎただようを憚らず、早く天邑(都)に賓王しました。縕袍短褐、玉粒桂薪、食貧を憂うるに堪え、如何にして歳を卒えましょうか。皇帝陛下は天慈をもって照育し、海量をもって優容し、その館穀の資を豊かにし、芸文の業をはげまされました。去歳は高く軒鑑(鏡)を懸け、大いに魯儒を選び、彬・罕は沢宮(学舎)に接武し、敢えて中鵠(的を射る)の心を萌さず、英域に濫巾し、空しく羨魚(魚を羨む)の志あるのみでした。陛下はその万里家を辞し、十年国を観るを以て、桂籍に名を登らしめ、なお芸台に秩を命じ、その懐土の心を憫れみ、倚門の望みを慰め、別に宸旨を垂れて故郷に帰らしめられました。玄造(天の造化)は曲成し、鴻恩は報いる莫く、臣は天を感じ聖を戴するの至りに勝えません」。

また張仁銓という者あり、進奉使白思柔の孔目吏なり、上書して便宜を献ず。思柔はその国の陰事を持ち出して告げたるかと疑い、仁銓は懼れて帰ることを敢えず。上は靖らに命じてこれを率いて還国せしめ、なお詔して治に仁銓の罪を釈せしむ。治また上表して謝して曰く、「官告国信使陳靖・劉式至り、聖旨を奉伝し、当道の進奉使の従行孔目官張仁銓が闕下に至り、すなわち便宜を進め、かえって憂懼を懐き、今使臣に附して本国に帯び帰らしむる者と。仁銓は嵎宅の細民、海門の賤吏、上国に趨くことを獲、敢えて愚誠を貢す、狂瞽の尤をかえりみず、輒ち権宜の事を奏し、みだりに旒冕(天子)を塵し、かみ朝廷をけがす。今、綸言を仰ぎ奉り、その罪罟(網)を釈す。小人は利に趨く、豈に僭越の求をはからんや、聖主は寛恩、遠く哀矜の命を降す。その張仁銓なる者は已に詔旨に依り罪を放ち、事を掌するを故の如くせしむ」。また上言して板本の九経書を賜わんことを願い、以て儒教をあつくせんとす、これを許す。

先に、式らが復命すると、治は使者元証衍を遣わしてこれを送らしむ。証衍は安香浦口に至り、風に遭い船を損じ、もたらしたる物を溺れしむ。詔して登州に証衍の文据を与えて遣還せしめ、なお治に衣段二百疋・銀器二百両・羊五十口を賜う。

五年六月、使者元郁を遣わして来たり師を乞い、契丹が境を寇すをうったう。朝廷は北鄙(北方の辺境)はじめて寧んずるを以て、軽々しく干戈を動かし、国のために事を生ずべからずとし、ただ詔を賜い慰撫し、その使を厚く礼して遣還す。ここより契丹に制せられ、朝貢中絶す。

治卒す、弟の誦立つ。嘗て兵校徐遠を遣わして来たり朝廷の徳音を候わしむ、遠久しく至らず。

咸平三年、その臣吏部侍郎趙之遴、牙将朱仁紹を命じて登州に至らしめこれをさぐらしむ。州将これを聞き、上特に仁紹を召見す。因りて自ら陳うに国人皇化を思慕し、契丹に羈制せらるるの状を、乃ち誦に鈿函の詔一道を賜い、仁紹をして賷して還らしむ。

六年、誦は使者戸部郎中李宣古を遣わして来朝し謝恩し、且つ言う、「晋は燕薊を割きて以て契丹に属せしむるより、遂に路玄菟におもむき、しばしば来たり攻伐し、求取已まず、王師の境上に屯しこれが牽制を為さんことを乞う」。詔書を以て優しくこれに答う。

誦卒す、弟の詢、国事を権知す。先に、契丹は既に高麗を襲い、遂に六城を境上に築く、曰く興州・曰く鉄州・曰く通州・曰く龍州・曰く亀州・曰く郭州。契丹は以て己にそむくとなし、使者を遣わして来たり六城を求め、詢許さず。遂に兵を挙げ、たちまち城下に至り、宮室を焚蕩し、居人を剽劫す。詢は昇羅州に徙居して以てこれを避く。兵退き、乃ち使者を遣わして和を請う。契丹は堅く六城を以て言と為し、ここより兵を調えて六城を守る。

大中祥符三年、大挙して来たり伐つ。詢は女真と奇を設けて邀撃し、契丹を殆んど尽く殺す。詢また鴨緑江の東に城を築き、来遠城と相望み、江にまたがりて橋を為し、潜かに兵をして以て新城を固めしむ。

七年、まさに告奏使御事工部侍郎尹証古を遣わし、金線織成の龍鳳鞍并びに繍龍鳳鞍幞各二幅・細馬二疋・散馬二十疋を以て来貢す。証古還る、詢に詔書七通并びに衣帯・銀綵・鞍勒馬等を賜う。

八年、詔して登州に館を海次に置き以て使者を待たしむ。その年、また御事民官侍郎郭元を遣わして来貢す。元自ら言う、「本国は城に垣牆無く、府を開城と曰い、六県を管し、民三五千に下らず。州軍百余あり、十路転運司を置きてこれを統ぶ。毎州県五六を管し、小なるも亦三四、毎県戸三四百。国境南北千五百里、東西二千里。軍民雑処し、軍に隷する者はげい面せず。方午(正午)に市を為し、銭を用いず、ただに布米を以て貿易す。地は秔稻に宜しく、風俗頗る中国に類す。羊・兎・橐駝・水牛・驢無し。気候少寒く、暑差多し。僧あり、道士無し。民家の器皿、悉く銅を以てこれを為す。楽に二品あり、曰く唐楽、曰く郷楽。三歳に一たび挙人を試み、進士・諸科・算学あり、毎試百余り、登第する者は一二十を過ぎず。毎正月一日・五月五日に祖禰廟を祭る。又正月七日、家ごとに王母の像を為しこれを戴く。二月の望、僧俗燈を燃やすこと中国の上元節の如し。上巳日、青艾を以て餅を染め盤羞の冠と為す。端午に鞦韆の戯あり。士女の服尚素。地産は龍鬚席・藤席・白硾紙・鼠狼尾筆」。元の辞貌恭恪、毎に宴賜を受くるに、必ず自ら謝表を為し、ほぼ文采あり、朝廷これを持するも亦厚し。九年、辞して還る、詢に詔書七函・襲衣・金帯・器幣・鞍馬及び経史・暦日・聖恵方等を賜う。元また国朝の登科記及び賜わったる所の御詩を録して以て帰らんことを請う、これに従う。

天禧元年、御事刑官侍郎徐訥を遣わし表を奉り方物を崇政殿に献じ、又封建寿春郡王を賀す。

三年九月、登州言う、高麗進奉使礼賓卿崔元信、秦王水口に至り、風に遭い舟覆り、貢物を漂失すと。詔して内臣を遣わしこれを撫す。十一月、元信ら入見し、罽錦衣褥・烏漆甲・金飾長刀匕首・罽錦鞍馬・紵布・藥物等を貢し、又中布二千端を進め、仏経一蔵を求む。詔して経を賜い布を還し、元信の覆溺して匱乏するを以て、別に衣服・繒綵を賜う。明州・登州屡しばしば言う、高麗の海船風に漂いて境上に至る者有りと。詔して存問せしめ、度海の粮を与えて遣還し、なおこれを例と為す。

五年、詢は告奏使御事礼部侍郎韓祚ら一百七十九人を遣わし来たり謝恩し、且つ契丹と好を修むるを言い、又表して陰陽地理書・聖恵方を乞う、並びにこれを賜う。

金行成は、累官して殿中丞に至り、上表して放還を乞うた。行成は自ら朝廷に仕官して以来、本国に帰ることを願わず、また父母が年老いて海外にあり、朝夕に思い慕い、禄が及ばぬことを恨み、工人に命じてその像を描かせて正寝に置き、妻の史氏とともに傍室に住み、朝夕に定省して食事を供え、少しも怠ることがなかった。淳化初年、安州の通判となった。病にかかり、知州の李範と僚佐数人が見舞うと、行成の病はすでに重く、涙を流して言うには、「行成は外国人であり、朝官となり、郡政を補佐したが、病みて死に至り、主恩に報いることがなく、たとえ目を瞑っても遺恨がある。二子の宗敏・宗訥は皆幼く、家はもとより貧しく、他の親族も頼るに足らず、朝夕に溝壑に委ねられよう」と。まもなく行成は死に、その妻は二子を養い、嫁がぬと誓い、草鞋を織って生計を立てた。範はその事を上表し、詔して宗敏を太廟齋郎に補し、安州に命じて毎月その家に銭三緡・米五斛を給し、長吏は歳時に存問せしめた。

また高麗の信州永寧の人康戩、字は休祐、父の允は、三代にわたり兵部侍郎であった。戩は少より学を好み、時に紇升が契丹と交戦し、戩は允に従って木葉山の下で戦い、連続して二矢に中たるも、神色変らず。後に契丹に陥り、墨斗嶺に遁れて住み、また黄龍府に至り、間道を得て高麗に帰ったが、時に允はなお在った。開宝年中、允は戩を遣わして賓貢に随い国子監に学ばせた。太平興国五年、進士第に登り、解褐して大理評事、湘郷県知事となり、再び著作佐郎に遷り、江陰軍・江州の知事となった。歴官において清廉で才幹あることを以て聞こえ、太常博士に改めた。蘇易簡が翰林に在り、その吏才を称え、命じて広南西路転運副使とし、緋魚袋を賜い、就いて正使に遷し、再び度支員外郎・戸部判官に転じた。出でて峡州・越州の二州の知事となり、連続して詔を被りその善政を褒められた。また京西転運使となり、加工部郎中、金紫を賜う。戩の至る所よく事を行い、上章して多く建議を建て、誠を尽くすことを自ら任じた。景德三年、卒し、真宗は特にその子希齢を太常寺奉礼郎とし、俸給を終喪まで給した。

乾興元年二月、祚ら辞して帰国し、詢に賜うこと故事の如く。時に真宗晏駕し、また遺物を齎して詢に賜う。

天聖八年、詢また御事民官侍郎元穎ら二百九十三人を遣わし、表を奉じて長春殿に入見し、金器・銀罽刀剣・鞍勒馬・香油・人参・細布・銅器・磂黄・青鼠皮等の物を貢した。明年二月辞して帰り、賜与差等あり、使者を遣わして登州まで護送せしむ。その後中国と通ぜずこと四十三年。

詢の孫徽嗣立す、これ文王なり。

熙寧二年、その国の礼賓省が福建転運使羅拯に牒を移して云う、「本朝の商人黄真・洪萬来たりて称す、運使が密旨を奉じ、通好を招致せしめ給うと。国王の旨意を奉じ、部述に形す。当国は僻居して暘谷に在り、天朝を邈かに恋慕す。頃より祖禰以来、素より梯航相継ぐことを願う。蕞爾たる平壤、大遼に邇く、これに附すれば則ち睦鄰と為り、疏くすれば則ち勍敵と為る。辺騒の息まざるを慮り、陸讋を蓄えて遑あらず、久しく羈縻に困しみ、携貳を図り難く、故に述職に違ひ、積年を致す。屡々雲祥を卜すと雖も、聖辰を中国に美とすれども、空しく日遠きを知るのみ、長安ちょうあんの旧路を迷うが如し。運垂鴻に属し、礼展慶を稽す。大朝の化無外に覃き、度包荒に豁たり、山は纖埃を謝せず、海は支派を辞せず。謹んで当に通道を尋ね遵ひ、槀街に遄赴すべし。但だ茲に千里の伝聞を以てす、恐らくは重霄の紆眷に匪んずるを。今公状を以て真・萬に附し西還せしめ、報音を得俟ちて、即ち礼を備へて朝貢す」と。徽また自ら嘗て中華に至る夢を見しと云ひ、詩を作りてその事を紀す。三年、拯以て聞こえしむ。朝廷の議者もまた契丹を謀るに結ぶべしと謂ひ、神宗之を許し、拯に命じて供擬腆厚の意を諭さしむ。徽遂に民官侍郎金悌ら百十人を遣わし来たり、詔してこれを夏国使の如く待つ。

往時高麗人の往反は皆登州よりす。七年、その臣金良鑑を遣わし来たり言す、契丹を遠ざけんと欲し、塗を改め明州より闕に詣ることを乞うと。之に従う。郡県の供頓に旧準無く、頗る民を擾す。詔して式を立てて頒下し、費用は悉く官給す。又その華言に邇かざるを以て、利を規る者の私に交関するを恐れ、至る所に禁止せしむ。徽二府に問遺甚だ厚く、詔して市易務に付し縑帛を售りてこれに答う。又表して医薬・画塑の工を求め以て国人を教えんとす。詔して羅拯に願行者を募らしむ。

九年、また崔思訓を遣わし来たり、中貴人に命じて都亭西驛の例に倣い館を治め、これを待つこと寖に厚く、その使来る者も亦益々多し。嘗て伶官十余輩を献じ、曰く「夷楽観るに足らず、止だ国史を潤色せんと欲するのみ」と。帝その国の文を尚ぶを以て、毎に書詔を賜うに、必ず詞臣を選び著撰せしめてその善き者を択ぶ。

元豊元年、始めて安燾に左諫議大夫を仮し、陳睦に起居舎人を仮して往聘せしむ。明州に両艦を造り、一は凌虚致遠安濟と曰ひ、次は霊飛順濟と曰ひ、皆神舟と名づく。定海より洋を絶ちて東す。既に至れば、国人歓呼して出で迎ふ。徽袍笏玉帯を具へて詔を拝受し、燾・睦に礼尤だ厚く、別宮に館す。標して順天館と曰ふ、中国を尊順すること天の如しと云ふ。徽已に病み、僅かに命を拝する能く、且つ医薬を乞ふ。

二年、王舜封を遣わし医を挟み往き診治せしむ。徽また柳洪を遣わし来たり謝し、海中に風に遇ひ、貢物を失ふ。洪上章して自ら劾す。勅書を以て安慰す。尋いで日本の造る所の車を献じ、曰く「諸侯は車服を貢せず、故に土貢と同く進むを敢へず」と。此前より貢物至れば、輒ち有司に下し直を估し、万縑を以て償ふ。是に至り命じて復た估せず、万縑を以て定数と為す。

六年、徽卒す。在位三十八年、治仁恕を尚び、東夷の良主と為る。然れども猶ほその俗に循ひ、王女は臣庶に下嫁せず、必ず兄弟に帰し、宗族貴臣も亦然り。次子の運諫めて以為く、既に上国に通ずれば、宜しく礼を以て故習を革すべしと。徽怒り、之を外に斥く。訃聞こゆ。天子之を閔み、詔して明州に浮屠を修め一月供せしめ、楊景略・王舜封を遣わし祭奠し、銭勰・宋球を遣わし弔慰せしむ。景略李之儀を辟きて書状と為す。帝之儀の文称著はざるを以て、宜しく学問博洽・器宇整秀なる者を得て中書に召し赴かしめ、文を試みて乃ち遣わすべしと。又遠服を以てその備へを責めず、使者に諭して相見の所の殿名・鴟吻、皆避けざるを聴す。

徽の子順王勳嗣立す、百日にして卒す。弟の宣王運嗣立す。運仁賢にして文を好み、内行飭備し、毎に賈客の書を市する至れば、則ち潔服して香を焚きてこれに対す。

八年、その弟の僧統を遣わし来朝し、佛法を問ひ并せて経像を献ず。

哲宗立つ。使者金上琦を遣わし奉慰し、林暨を遣わし致賀し、刑法の書・太平御覧・開宝通礼・文苑英華を市するを請ふ。詔して惟だ文苑英華一書を賜ひ、名馬・錦綺・金帛を以てその礼に報ず。

運立つこと四年にして卒す。子の懷王堯嗣立す。歳を閲へずして、病を以て国を為す能はず。国人その叔父鷄林公熙に請ひて政を摂せしむ。未幾にして堯卒す。熙乃ち立つ。凡そ数歳使至らず。

元祐四年、その王子の義天が僧の壽介を杭州に遣わして亡僧を祭らせ、国母が二つの金塔を持たせて両宮の寿としたと言うが、知州の蘇軾がこれを退けるよう上奏し、その言葉は軾伝にある。熙は後に遼主の諱を避けて、名を顒と改む。顒は性貪吝にして、商賈の利を奪うを好み、富室が法を犯せば、輒ち久しく縻して贖いを責め、微罪と雖も亦銀数斤を輸せしむ。

五年、復た使を通じ、銀器五千両を賜う。

七年、黄宗慤を遣わして来たり黄帝鍼経を献じ、書を市うこと甚だ衆し。礼部尚書蘇軾言う、「高麗の入貢は、絲髮の利無くして五害有り、今諸書を請い金箔を収買するは、皆な宜しく許すべからず」と。詔して金箔の買いを許すも、然れども卒に冊府元亀を市いて以て帰る。

元符中、士を遣わして賓貢す。

徽宗立つ、任懿・王嘏を遣わして来たり弔賀す。

崇寧二年、詔して戸部侍郎劉逵・給事中吳拭をして往きて使せしむ。

顒卒し、子の俁嗣ぎ、貢使接踵し、且つ士子の金瑞等五人をして太学に入らしめ、朝廷其が為に博士を置く。

政和中、其の使を升めて国信と為し、礼は夏国の上に在り、遼人と皆な樞密院に隷す。引伴・押伴官を改めて接送館伴と為す。大晟燕楽・籩豆・簠簋・尊罍等の器を賜い、至って使者を睿謨殿中に宴す。

宣和四年、俁卒す。初め、高麗の俗は兄終わりて弟及ぶ、是に至り諸弟争いて立ち、其の相の李資深、俁の子の楷を立てる。来たりて哀を告ぐ、詔して給事中路允迪・中書舍人傅墨卿をして奠慰せしむ。俁の在位するや、医を朝に求め、詔して二医をして往かしめ、二年を留めて帰る。楷之に語りて曰く、「朝廷将に兵を用いて遼を伐たんとすと聞く。遼は兄弟の国、之を存すれば足ら以て辺の扞たり。女真は狼虎の如し、交うべからず。業已に然り、願わくは二医帰りて天子に報ぜよ、宜しく早く備えを為すべし」と。帰りて其の言を奏す、已に及ぶ無し。

欽宗立つ、賀使明州に至る。御史胡舜陟言う、「高麗は国家を靡敝すること五十年、政和以来、人使歳至り、淮・浙の間之を苦しむ。彼は昔契丹に臣事し、今必ず金国に事えん、安んぞ我が虚実を窺いて以て報ぜざるを知らんや、宜しく止めて来らしむるなかれ」と。乃ち詔して館を明に留めて其の贄幣を納む。明年始めて国に帰る。

王徽以降、使を通ずること絶えざれども、然れども契丹の封冊を受け、其の正朔を奉じ、朝廷及び他の文書に上るに、甲子を称するもの有り。歳に契丹に貢すること六に至り、而して誅求已まず。常に云う、「高麗は乃ち我が奴耳、南朝何を以て厚く之を待つや」と。使其の国に至れば、尤も倨暴にして、館伴及び公卿小しく意を失えば、輒ち捽箠を行い、我が使の至るを聞けば、必ず他事を仮りて来たりて覘い、賜物を分ち取る。嘗て其の西に向かって修貢する事を詰む、高麗表して謝し、其の略に曰く、「中国は、三甲子にして方に一朝を得、大邦は、一周天にして毎に六貢を修む」と。契丹悟り、乃ち免るるを得たり。

高宗即位し、金人の高麗に通ずるを慮り、迪功郎胡蠡に命じ、宗正少卿を仮りて高麗国使と為し以て之を間わしむ。蠡の回るや、史書するを失う。

二年、浙東路馬歩軍都総管楊応誠上言す、「高麗より女真に至る路甚だ径し、請う身をして三韓に使し、鷄林を結び以て二聖を迎えんことを図らん」と。乃ち応誠を以て刑部尚書を仮りて高麗国信使を充てしむ。浙東帥臣翟汝文奏言す、「応誠は欺罔し、身の謀り為す耳。若し高麗金人も亦た津を問いて以て呉・越を窺わんとすと辞せば、其れ将に何の辞を以てか対えん。万一命を辱しめ、遠夷の笑いを取らば、願わくは遣わすなかれ」と。応誠之を聞き、遂に副使韓衍・書状官孟健と由りて杭州より海を浮かび以て行く。六月、高麗に抵り、其の王楷に所欲為る所を諭す。楷曰く、「大朝自ら山東路有り、何ぞ登州より往かざるや」と。応誠曰く、「貴国の路を径るを以て耳」と。楷難色有り、已にして其の門下侍郎傅佾を命じて館中に至らしむ。果たして翟汝文の言の如くに対す。応誠曰く、「女真は水戦に善からず」と。佾曰く、「彼は常に海道に於いて往来し、況んや女真は旧く本国に臣す、今反って之に臣事す、其の強弱見るべし」と。数日を居て、復た其中書侍郎崔洪宰・知枢密院金富軾を遣わし、前議を持して変えず、二聖今燕雲に在り、大朝尽く土を納むと雖も、必ずしも得べからず、何ぞ兵を練りて与に戦わざるやと謂う。終に詔を奉ぜず。応誠両月余りを留まり、已むを得ず楷に寿昌門に於いて見え、其の拜表を受けて還る。十月、闕に至り、入り対して状を言う。上楷の国恩に負うを以て、怒り甚だし。尚書右丞朱勝非曰く、「彼は金人に隣り、中国と海を隔て、利害甚だ明らかなり。曩時に之を待つこと過厚、今安んぞ其の報いを責めんや」と。右僕射黄潜善曰く、「巨艦を以て精兵数万を載せ、径ちに其の国を擣けば、彼寧ろ懼れざらんや」と。勝非曰く、「海を越えて師を興すは、燕山の事近き鑑と為すべし」と。上怒り解く。十一月、楷其の臣尹彦頤を遣わし表を奉じて謝罪す。詔して二聖未だ帰らず、燕設楽を用うるに宜しからずと。乃ち幕殿を門外に設け、客省官呉得興を命じて伴い賜い酒食し、中書舎人張澂を命じて押伴し、礼の如く遣わして還す。

三年八月、上輔臣に謂いて曰く、「上皇内臣・宮女各二人を遣わし、高麗の貢使に随いて来たりと聞く、朕之を聞き悲喜交集す」と。呂頤浩曰く、「此れ必ず金人の意、然らずんば高麗必ず敢えてせず、安んぞ我が虚実を窺いて以て報ぜざるを知らんや」と。是に於いて詔して之を止め、略に曰く、「王基図を緬守し、夙に文軌を同じくす。乃ち乗桴の信に附き、嗣いで貢篚の恭を修む。惟だ忠順の他無きに、神明に質して愧るること靡し。聞聽に属し、良く歎嘉を用う。言念す晚年、実に多故と為り、中原の生聚を挙げ、強敵の震驚に遭う。既に境を渉りて冞深く、猶兵を称して未だ已まず。茲に仗衞を移し、暫く江湖に駐す。如し行使の果たして来たらば、恐らくは有司の戒めざる有らん。辺警を俟い休み、当に聘期を問わん。晋館を壊して以て車を納るれば、庶幾くは後悔無からん。漢関を閉じて以て質を謝すは、前規を用うるに非ず。彼の素懐を想い、吾が誠意を知れ」と。

紹興元年十月、高麗将に入貢せんとす。礼部侍郎柳約言う、「四明は残破の余り、荒蕪単弱、恐らくは戎心を起こさん、宜しく重兵を屯し以て其の至るを俟うべし」と。十一月、詔して柳約をして高麗に奉使せしむも、果たして行かず。

二年閏四月、楷はその礼部員外郎崔惟清・閤門祗候沈起を遣わして入貢せしめ、金百両・銀千両・綾羅二百疋・人参五百斤を献じ、惟清の献ずる所も亦その三分の一なり。上は後殿に御して引見し、惟清・起に金帯二を賜い、温詔を以て答えて遣還せしむ。是の月、定海県言う、民高麗に亡入する者約八十人、表を奉じて還国せんと願うと。詔して到着の日を待ち、高麗綱首卓栄等に量りて推恩を与えしむ。十二月、高麗知枢密院事洪彝叙等六十五人を遣わして来貢せんとするを聞き、議して臨安府学を以て其の使を館せんとす。言者謂う、兵間と雖も学無きべからず、窺われるを恐るるなりと。詔して法恵寺を以て同文館となし、以て之を待たしむ。既にしてついに至らず。

六年、高麗持牒官金稚圭明州に至る。銀帛を賜いて之を遣わす。其の金の間諜たるを懼るるなり。

三十二年三月、高麗綱首徐徳栄明州に詣りて言う、本国賀使を遣わさんと欲すと。守臣韓仲通以て聞く。殿中侍御史呉芾奏して曰く、「高麗は金人と接壌す。昔稚圭の来るや、朝廷其の間諜たるを懼れ、亟に還遣せり。今両国兵を交う。徳栄の請う所、疑うべきこと無からんや。其の果たして来らしむるも、猶不測を恐る。万一至らざれば、遠方に笑いを貽す」と。詔して之を止む。

隆興二年四月、明州高麗の入貢するを言う。史に引見の日を書かず。彝叙の詐りに同じきを恐るるなり。其の後使命遂に絶つ。

慶元の間、詔して商人の銅錢を高麗に持入するを禁ず。蓋し之を絶つなり。

初め、高麗入使す。明・越は供給に困し、朝廷館遇・燕賚・錫予の費、鉅万を以て計う。其の主者に饋るは是に在らず。我が使の行く、毎に二神舟に乗じ、費亦貲えざる無し。三節官吏爵を縻し廩を捐つ、皆県官に仰ぐ。昔蘇軾先朝に言いて、高麗の入貢に五害有りと謂う、此を以てなり。惟是国は呉会に於いて、事東都に異なり。昔高麗の使を入るるや、率ね登・萊より由る。山河の限り甚だ遠し。今直ちに四明に趨く。四明行都より限る所一浙水のみ。

海道を由りて高麗に奉使する、瀰漫汪洋、洲嶼険阻、黒風に遇えば、舟嶕に触れて輒ち敗る。急水門を出て群山島に至り、始めて平達と謂う。数十日に非ざれば至らず。舟南北に行く、順風に遇えば則ち険を歴て夷の如し、数日に至らざる無し。其の国東西二千里、南北五百里、西北契丹に接し、鴨緑江を恃みて以て固しと為す。江広さ三百歩。其の東臨む所、海水清澈、下視すること十丈、東南明州を望めば、水皆碧なり。

王は開州しょく莫郡に居す、開成府と曰う。大山に依りて宮室を置き城壁を立て、其の山を名づけて神嵩と曰う。民居皆茅茨、大なるも止む所両椽、瓦を以て覆う者は纔かに十二なり。新羅を以て東州楽浪府と為し、東京と号す。百済を金州金馬郡と為し、南京と号す。平壌を鎮州と為し、西京と号す。西京最も盛なり。総じて凡そ三京・四府・八牧・郡百十八・県鎮三百九十・洲島三千七百。郡邑の小なる者は、或いは只百家のみ。男女二百十万口、兵・民・僧各其の一に居る。地寒く山多く、土は松柏に宜しく、秔・黍・麻・麦有りて秫無く、秔を以て酒と為す。絲蠶少なく、匹縑直銀十両、麻紵を衣とすること多し。

王出ずるに、車に乗り牛を駕し、山険を歴て乃ち騎す。紫衣行きて前にし、護国仁王経を捧げて以て導く。令を出すを教と曰い、宣と曰う。臣民之を呼んで聖上と曰い、私に謂いて厳公と曰い、后妃を宮主と曰う。百官の名称・階・勲・功臣・検校、頗る中朝と相類す。御史台を過ぐれば則ち馬を下り、違う者有れば劾す。士人は族望を以て相高くし、柳・崔・金・李四姓を貴種と為す。宦者無く、世族の子を以て内侍六衛と為す。歳十二月朔、王紫門小殿に坐して官を注し、外官は則ち国相に付す。国子監・四門学有り、学者六千人。貢士三等、王城を土貢と曰い、郡邑を郷貢と曰い、他国の人を賓貢と曰う。間歳其の所属に試み、再び学に試み、取る所三四十人を過ぎず、然る後王親しく詩・賦・論の三題を以て試み、之を簾前重試と謂う。亦制科宏詞の目有り、然れども特たる文具のみ。士は声律を尚び、経に通ずる者少なし。

王城に華人数百有り、多くは閩人の賈舶に因りて至る者なり。密かに其の能う所を試み、祿仕を以て誘い、或いは強いて之を留めて終身せしむ。朝廷使至る、牒を陳べて来り訴うる者有れば、則ち取りて以て帰らしむ。

百官は米を以て奉と為し、皆田を与え、祿を納めて半ば給し、死して乃ち之を拘す。国に私田無く、民は口を計りて業を受く。十六以上は則ち軍に充て、六軍三衛は常に官府に留め、三歳を以て選びて西北に戍し、半歳にして更む。警有れば則ち兵を執り、事に任ずれば則ち労に服し、事已みて復た農畝に帰る。王も亦分地を有して以て私用に供え、王母・妃主・世子皆湯沐田を受く。

上下賈販利入を以て事と為す。日中を虚と為し、米布を以て貿易す。地銅を産すも、銭を鑄するを知らず。中国の予うる所の銭は、之を府庫に蔵し、時に出して傳翫するのみ。崇寧の後、始めて鼓鑄を学び、「海東通寶」・「重寶」・「三韓通寶」三種の銭有り、然れども其の俗便ぜず。兵器疏簡、強弩大刀無し。

釈教を崇尚し、王子弟と雖も常に一人僧と為る。鬼を信じ、陰陽に拘り、病みて相視ず、斂して棺を撫でず。貧しき者死すれば、則ち中野に露置す。歳建子の月を以て天を祭る。国東に穴有り、禭神と号す。常に十月望日を以て迎祭し、之を八関斎と謂う。礼儀甚だ盛ん、王と妃嬪楼に登り、大いに楽を張り宴飲す。賈人羅を曳きて幕と為し、百疋に至るまで相聯ねて以て富を示す。三歳大祭祠し、遍く其の封内にし、是に因りて民財を斂め、而して王と諸臣之を分取りす。祖廟は国門の外に在り、大祭すれば則ち車服冕圭を具え親しく祠る。王城に仏寺七十区有りて道観無く、大観中、朝廷道士を遣わして往かしむ。乃ち福源院を立て、羽流十余輩を置く。俗医を知らず、王俁来りて医を請うより、後に始めて其の術に通ずる者有り。

人首に枕骨無く、背扁側なり。男子巾幘は唐装の如く、婦人は鬌髻右肩に垂れ、余髮下に被い、絳羅を以て約し、之を簪に貫く。旋裙重畳、多きを以て勝と為す。男女自ら夫婦と為る者は禁ぜず、夏月同川にして浴す。婦人・僧・尼皆男子の拝す。楽声甚だ下り、金石の音無し。既に楽を賜わるや、乃ち分かれて左・右の二部と為す。左を唐楽と曰い、中国の音なり。右を郷楽と曰い、其の故習なり。堂上席を設け、升るには必ず屨を脱ぎ、尊者を見れば則ち膝行し、必ず跪き、応うるには必ず唯す。其の拝に答えざる無く、子拝せば、父猶半ば其の礼に答う。性仁柔にして殺を悪み、屠殺せず、羊豕を食わんと欲すれば則ち蒿を以て包みて之を燔く。

刑に惨酷の科無く、唯悪逆及び父母を罵る者のみ斬り、余は皆杖肋す。外郡の刑殺は悉く王城に送り、歳八月を以て囚の死罪を減じ、流に貸して諸島にし、赦を累ね、軽重を視て之を原う。

明州定海より順風に遇い、三日にして洋に入り、また五日にして墨山に至り、その境に入る。墨山より島嶼を過ぎ、詰曲たる嶕石の間を、舟行甚だ駛くこと、七日にして禮成江に至る。江は両山の間に居り、石峽を以て束ねられ、湍激して下る、所謂急水門、最も険悪なり。また三日にして岸に至り、館有りて碧瀾亭と曰い、人をして此より陸に登らしめ、崎嶇たる山谷四十余里、乃ち其の国都なりと云う。