秉常は、毅宗の長子であり、母は恭肅章憲皇后梁氏という。治平四年の冬に即位し、時に七歳、梁太后が摂政した。
四年正月、种諤は横山を奪取しようと謀り、兵を率いて先に囉兀に城を築き、永楽川・賞逋嶺の二砦を進んで築き、都監の趙璞・燕達を分遣して撫寧故城を築かせ、および荒堆三泉・吐渾川・開光嶺・葭蘆川の四砦を分けて河東路に修築させた。各々四十余里の間隔を置いた。二月、夏人が順寧砦を攻撃し、さらに撫寧を包囲した。折継世・高永能らは兵を擁して細浮図に駐屯し、撫寧から咫尺の距離にあり、囉兀の兵勢はまだ完備していた。种諤は綏徳で諸軍を節制していたが、夏人が来たと聞き、茫然自失し、燕達を召喚する書状を作ろうとしたが、戦慄して筆を下ろせず、転運判官の李南公を顧みて涕泗を止めなかった。ここにおいて新たに築いた諸堡は悉く陥落し、将兵千余人が皆没した。初め、朝廷の議論では、种諤が新たに築いた囉兀城は綏徳から百余里離れ、偏梁は険狭で糧秣の補給が困難であり、かつ城中に井泉がないため、李評・張景憲を遣わして視察させた。彼らが到着する前に撫寧が陥落し、遂に詔して囉兀城を放棄させた。五月、燕達は戍卒と輜重を率いて囉兀から帰還する途中、夏人の邀撃を受け、燕達は多くの損失を出した。九月、夏は使者を遣わして入貢し、かつ二砦をもって綏州と交換し、旧約の通りにすることを請うたが、詔してこれを許さなかった。
五年正月、夏の鈐轄結勝が麟州歩将の王文郁と戦い降伏し、供奉官に任じられた。久しくして、逃げ帰ろうと謀ったが、事が発覚し、詔してその去就に任せた。六月、夏人は荔原堡から逃亡した熟戸の嵬通ら七十八人を返還した。閏七月、部将の景思立・王存に涇原の兵を率いて南路より出撃させ、王韶は東谷より直ちに武勝に向かった。十余里手前で夏人と遭遇して戦い、遂にその城に至ると、瞎薬は城を棄てて夜遁し、大首領の曲撒四王阿南珂は出奔した。そこで武勝に城を築いた。十二月、使者を遣わして馬を進上し、大蔵経を贖おうとした。詔してこれを賜い、その馬は返還した。
四年四月、李將軍の李清という者あり、もと秦の人、秉常に説きて河南の地を宋に帰せしめんとす、国母これを知り、遂に清を誅し秉常の政を奪う。鄜延総管の种諤は乃ち疏を上し、秉常の弑せられしを以て、国内乱れ、師を興して罪を問うべし、これ千載一時の会なりとす。帝これを然りとし、遂に王中正を遣わして鄜延・環慶に往かしめ、詔を称して禁兵を募り、従う者これを将う。熙河の李憲等に詔し、秉常の囚われしを見て、大いに挙兵して夏を征せよとす。及び夏国の嵬名諸部首領に詔諭して、身を抜きて自ら帰る及び相率いて共に国讎を誅する能くする者は、その爵賞を崇くすべく、敢えて違拒する者有らば九族を誅すべしと。八月、中正及び諤、涇原・環慶の兵を会して霊州を取り、また興州を討ち、麟府・鄜延は先に夏州に会し、懐州を取って渡り興州に会すべしと言う。憲は七軍及び董氊の兵三万を総べ、新市城に至り、夏人に遇い、戦いてこれを破る。王中正は麟州より出で、禡辞に自ら言いて皇帝に代わり親征すとし、兵六万を提げ、僅かに数里を行くのみにて、即ち奏して已に夏境に入れりとし、白草平に屯すること九日進まず。環慶経略使の高遵裕は歩騎八万七千を将い、涇原総管の劉昌祚は卒五万を将いて慶州より出づ。諤は鄜延及び畿内の兵九万三千を将いて綏徳城より出づ。九月、諤は米脂を囲み、夏人来りて救い、無定川に戦い、大いにこれを破り、首五千級を斬る。十月、遂に米脂を克ち、守将の令分訛遇を降し、石州を攻む。中正は河東軍を以て無定河を渡り、水に循いて北行す、地皆沙湿にして、士馬多く陷没し、遂に諤に継ぎて夏州に趨るも、民皆潰え、軍得る所無し。遵裕は清遠軍に至り、霊州を攻む、夏人は黄河を決して営を灌ぎ、また餉道を抄絶し、士卒凍溺して死し、余兵僅かに一万三千人、遂に帰る。夏人追撃して戦い、将官の俞平これに死す。中正は宥州の奈王井に至り、糧尽き、士卒死亡する者已に二万、乃ち軍を引いて還る。諤の兵食無く、会大雪にて死し、遂に潰え、塞に入る者は僅かに三万人。昌祚は磨臍隘にて夏人に遇う、夏の拒ぐ者二三万人、昌祚は乃ち兵を分かちて葫蘆河を渡り、その隘を奪い、統軍国母の弟梁大王と戦い、遂に大いにこれを破る。憲は天都山下に営し、夏の南牟内殿并びにその館庫を焚き、その統軍仁多㖫丁を追襲し、これを敗り、百人を擒え、遂に班師す。涇原総兵侍禁の魯福・彭孫、餽餉を護りて鳴沙川に至り、夏人と三たび戦い、敗績す。初め、夏人は宋の大挙するを聞き、梁太后、廷に策を問う、諸将の少き者は尽く戦を請う、一老将独り曰く「これを拒ぐに須いず、但だ堅壁清野し、その深入を縦し、勁兵を霊・夏に聚め、軽騎を遣わしてその餽運を抄絶せば、大兵食無くして、戦わずして困すべし」と。梁后これに従う、宋師遂に功無し。
五年正月、遼使い涿州より書を遣わし云く「夏国来たりて称す、宋兵起ること名無く、事端を測るべからず」と。神宗、これに報じて「夏国主は宋の封爵を受け、昨辺臣言う、秉常今母党の為に囚辱せられしを見て、比に事端を移問せしむるも、その同悪報ぜず。継いでまた兵数万を引きて我が辺界を侵犯す、義当に征有るべし。今彼屡に敗衄を遭うを以て、故に使いを遣わし詭情を陳露す、意は間貳に在り、想うに彼必ず以て悉察すべし」と。夏人これを聞き、遂に至らず。五月、沈括、古烏延城に城して横山を包み、夏人をして沙漠を絶つことを得ざらしめんことを請う。遂に給事中の徐禧・内侍押班の李舜挙を遣わして往き議わしむ。禧また銀・夏・宥の界に永楽城を築かんことを請う。永楽は山に依りて水泉無く、独り种諤極言して不可とす、禧は諸将を率いて竟にこれを城し、名を銀川砦と賜う。禧等米脂に還り、兵一万を以て曲珍に属してこれを守らしむ。永楽は宥州に接し、横山に附き、夏人の必ず争う所の地なり。禧等城して去ること既に九日、夏人来りて攻む、珍使いをして禧に報ぜしむ、乃ち李舜挙を挟み来りて援く、而して夏兵至る者号三十万、禧城に登り西を望めば、その際を見ず、宋軍始めて懼る。翌日、夏兵漸く逼る、禧は乃ち七万を以て城下に陣し、譙門に坐し、黄旗を執りて衆に令して曰く「吾が旗を視て進止せよ」と。夏人は鉄騎を縦して河を渡らしむ、或る人曰く「これ号して『鉄鷂子』と曰う、その半ば済るに当たりてこれを撃てば、乃ち逞うべく、地を得ればその鋒当たるべからず」と。禧聴かず。鉄騎既に済り、震盪衝突し、大兵これに従う、禧の師敗績し、将校の寇偉・李思古・高世才・夏儼・程博古及び使臣十余輩・士卒八百余人尽く没す。詔して李憲・張世矩をして往き援けしめ、及び括に人を遣わして与に約し軍を退けば、当に永楽の地を還すべしと令す。夏人進みて侵し、県門に及び、潰れて城に帰る者、水砦を決して道と為し以て登る、夏人これに因り、奔りて城に帰する者三万人皆没す。夏兵これを囲む者厚さ数里、遊騎米脂を掠む。将士昼夜血戦し、城中水乏すること已に数日、井を鑿つも泉を得ず、渇して死する者大半、括等の援兵及び餽運皆夏の大兵に隔てらる。夏人は珍を呼びて和を講ぜんとす、呂整・景思義相継ぎて行く、夏人は思義を髠しこれを囚う、而して城を囲む者已に浹旬なり。夜半、夏兵城を環して急攻し、城遂に陷る、高永能戦没し、禧・舜挙・運使の李稷皆乱兵に死す、惟だ曲珍・王湛・李浦・呂整裸跣して走り免る、蕃部指揮の馬貴独り誓死して刀を持ち数十人を殺して没す。この役に、死する者将校数百人、士卒・役夫二十余万、夏人は乃ち兵を耀かし米脂城下にして還る。宋、熙寧より兵を用うる以来、凡そ葭蘆・呉保・義合・米脂・浮図・塞門の六堡を得るも、而して霊州・永楽の役、官軍・熟羌・義保の死者六十万人、錢・粟・銀・絹万数を以てするもの勝て計うべからず。帝臨朝して痛悼し、而して夏人も亦困弊す。夏の西南都統・昴星の嵬名濟は迺ち書を劉昌祚に移して曰く。
中国は、礼楽の存する所、恩信の出づる所、動止猷為、必ず正に適すべし。若し誣を聴き間を受け、詐を肆にして兵を窮め、人の土疆を侵し、人の黎庶を残すは、是れ中国の体に乖き、外邦の羞と為る。昨者朝廷暴かに甲兵を興し、大いに侵討を窮む、蓋し天子と辺臣の議、夏国の方に先誓を守るを為し、宜しく不虞に出づべしとし、五路兵を進め、一挙に定むべしとす、故に去年霊州の役有り、今秋永楽の戦有り、然れどもその勝負を較べ、前日の議と、何如なるかを。
朝廷の夏国に於ける、これを経営せざるに非ず、五路進討の策、諸辺肆撓の謀、皆嘗てこれを用う。徼幸の成る無きを知り、故に終に楽天事小の道に於てす。況んや夏国は提封一万里、甲を帯ぶる者数十万、南には于闐有りて我が歓隣と作り、北には大燕有りて我が強援と為る、若し間を乗じ便を伺い、角力を競い鬬わば、十年と雖も豈に休むを得んや!即ち天民の辜無きを念い、この塗炭の苦を受くるを、国主自ら伐たれたるの後、夙夜思念し、祖宗の世よりより、中国に事うるの礼虧くる無く、貢聘怠る敢えず、而るに辺吏功を幸い、上聰惑いを致し、祖宗の盟既に阻まれ、君臣の分交わらず、存亡の機、発して踵を旋めず、朝廷豈に恤わざらんや。
魯国の憂いが顓臾に在らず、隋室の変が楊感より生ずるに至っては、これらは皆明公が胸中に得るところにして、言を待たずして後ちに諭するに足らん。今、天下倒懸の望みは、正に英才に在り、何ぞ讜言を進め、邪議を闢きて、朝廷をして夏国と歓好を初めの如くならしめ、生民をして重ねて太平を見せしめざるや。豈に独り夏国の幸のみならんや、乃ち天下の幸なり。
昌祚、其の書を上す。帝、答を諭す。
六年二月、夏人大いに挙りて蘭州を囲み、既に西関門を奪う。鈐轄王文郁、死士七百を集め、夜城を縋り下り、短兵を以て営を突き、遂に去らしむ。五月、復た来たり、九日を囲み、大戦し、侍禁韋禁之に死す。乃ち解きて去る。閏六月、使謨箇・咩迷乞遇を遣わし来り貢す。表して曰く、「夏国累ねて西蕃木征王子の書を得たり。南朝と夏国と交戦歳久しく、生霊荼毒すと称し、通和を擬せんと欲すと。縁るに夏国先に曾て侵す所の疆土を請うも、従わず。此を以て未だ便ち軽く許さず。西蕃再び使散八昌郡・丹星等を遣わし国に到り、南朝の言語を計会すと称す。但だ使を遣わし表を齎し、自ら令して引いて南朝に赴かしむべしと。切に臣の自ら歴世以来、朝廷に貢奉し、虧怠する所無く、近歳に至りては尤も甚だ歓和す。意わざらんに憸人の誣間する有りて、朝廷特ちに大兵を起こし、疆土城砦を侵奪し、此に因りて怨を構え、歳に交兵を致す。今、朝廷に大義を示し、特ちに侵す所を還さんことを乞う。倘し開納を垂れんか、別に忠勤を効さん」と。乃ち詔を賜いて曰く、「頃に権強を以て、敢えて廃辱を行い、朕用て震驚し、辺臣を令して往き問わしむも、匿して報ぜず。王師徂征す。蓋し有罪を討つなり。今、使を遣わし庭に造り、辞礼恭順なり。仍て聞く、国政悉く故常に復すと。益用て嘉納す。已に辺吏を戒し、輒ち兵を出す毋からしむ。爾も亦た其れ先盟を守れ」と。遂に陝西・河東経略司に詔し、其の新たに復する城砦は、徼循して三二里を出でざらしむ。夏の歳賜は旧の如し。
七年正月、蘭州を囲む。李憲戦いて之を却く。六月、徳順軍を攻む。巡検王友戦死す。九月、定西城を囲み、龕谷の族帳を焼く。遂に十月を以て静辺に至る。鈐轄彭孫之を敗り、其の首領仁多㖫丁を殺す。十二月、清遠を攻む。隊将白玉・李貴之に死す。
八年三月、神宗崩ず。遺留物を以て賜う。夏人葭蘆を攻む。供奉王英戦死す。七月、使丁拏嵬名謨鐸・副使呂則陳聿精等を遣わし来り奠慰す。十月、芭良・嵬名済・頼昇聶・張聿正を遣わし進め山陵の礼物を助く。夏国主母梁氏薨ず。訃至る。朝散郎・刑部郎中杜紘を以て祭奠使と充て、東頭供奉官・閤門祗候王有言を以て弔慰使と充つ。夏、主母の遺留物を以て来り進む。
四年二月、始めて使を遣わし封冊を謝す。六月、稍々永楽の獲る所の人を帰し、遂に葭蘆・米脂・浮図・安疆の四砦を以て之に与え、而して界を画する未だ定まらず。崇儀使董正叟・如京使李玩を遣わし押し賜い夏国の生日礼物及び冬服す。七月坤成節・十二月興龍節皆な使を遣わし来り賀す。
五年六月、夏人来り言う、疆界を画する者、綏州の内十里に堡鋪を築き耕牧を供し、外十里に封堠を立て空地を作るの例に依らず、以て両国の界を弁ぜんと。詔して曰く、「已に辺臣に諭して約の如くす。夏の封界も当に亦た此を体すべし」と。冬、蘭州の質孤・勝如堡を攻む。既にして使を遣わし来り正旦を賀す。
六年七月、使を遣わし来り坤成節を賀す。九月、麟・府を三日囲み、殺掠算うるに計わず。鄜延都監李儀等尽く没す。
七年、屡りて綏徳城を攻め、重兵を以て涇原の境を圧し、五旬を留まり、大いに掠め、壘を没烟峡口に築きて以て自ら固む。游師雄、蘭州李諾平より東に通遠定西・通渭の間に抵り、汝遮・納迷・結珠龍の三砦を建て及び護耕七堡を置き、以て藩籬を固むるを請う。穆衍、質孤・勝如の二堡の間に於いて、李諾平に城し以て要害を控うるを請う。議未だ決せず。秦鳳都監康謂以爲く、「夏の未だ臣附せずして屡りて兵を肆う所以の者は、我が勢堤備に分れ、兵未だ練らずして賞罰当を失うに在るのみ。若し鋭を択び伍を結び、彼の動きを伺い、聚れば則ち先ず撃ち、散れば則ち復た襲わば、則ち彼は分れて我は聚まり、衆を以て寡を撃てば、志を得べし」と。詔して謂を闕に詣らしめ、而して其の事を諸道に下す。
八年四月、復た使を遣わし蘭州一境を以て塞門二砦に易えんとす。詔して其の順違常ならざるを数えて其の請を却く。
四年正月、涇原都鈐轄王文振諸将を率いて没煙峡新砦を破り、斬獲三千余級。二月、夏復た七万の衆を以て綏徳を攻め、鄜延将兵戦いて之を退く。
政和四年冬、環州定遠大首領夏人李訛𠼪書を以て其の国統軍梁哆㖫に遺して曰く「我漢に居ること二十年、毎に見るに春廩既に虚しく、秋庾未だ積まず、糧草転輸、例として空券を給す。方に春未だ秋ならざるに、士饑色有り。若し甲を捲きて趨き、径ち定遠を擣かば、唾手にして取り得べし。定遠既に得れば、則ち旁の十余城攻めずして下らん。我穀を儲くること累歳、地を闕きて之を蔵す。所在是の如し。大兵の来る、斗糧齎す無く、坐して飽くべし」と。哆㖫遂に万人を以て来たり迎う。転運使任諒先ず其の謀を知り、民を募りて尽く窖穀を発す。哆㖫定辺を囲み、蔵する所を失う。七日を越え、訛𠼪遂に其の部万余を以て夏に帰す。乾順臧底河城を築く。遂に詔して河東節度使童貫を陝西経略と為して以て之を討たしむ。
六年春、劉法・劉仲武熙・秦の師十万を合して夏の仁多泉城を攻め、三日克たず。援後期にして至らず。城中降を請う。法其の降を受けて之を屠り、首三千級を獲る。种師道十万の衆を以て復た臧底河城を攻め、之を克つ。十一月、夏人大いに挙りて涇原靖夏城を攻む。時に久しく雪無く、夏先ず数万騎をして城を繞らしめ、塵を践みて天に漲り、兵対して覩えず。乃ち潜かに壕を穿ちて地道と為し城中に入る。城遂に陥ち、復た之を屠りて去る。
翌年、謝亮は行在に帰還した。二月、金の帥婁宿が相次いで長安・鳳翔を陥落させ、隴右は大いに震動した。夏人は関陝に備えがないことを探知し、遂に延安府に檄を飛ばして言った、「大金は鄜延を割いて本国に隷属させた。理をもってこれを索むべきであり、敢えて拒む者は、兵を発して誅討する。」帥臣王庶は檄で答えて言った、「金人が初めて本朝を犯した時、かつて金粛・河清を爾らに与えた。今、誰がこれを守るのか。国家は奸臣の貪欲により、隣国の友好を顧みず、遂にこのような事態に至った。利を貪る臣は、いずこに国なくや。まさか夏国が自ら覆轍を踏むとは。近頃聞くところによれば、金人が涇原から興州・霊州を直撃しようとしていると。我々はまさに寒心に堪えぬところであるのに、まさか尚、人の危急に乗じようとは。幕府の士卒は寡少ではあるが、皆節制のとれた軍であり、左右に支えあって、尚よく一戦に堪えよう。果たしてこれを為し得るなら、何を多く言わん。」そこで間諜を遣わしてその用事の臣李遇を離間させた。夏人は結局出兵しなかった。この年、開封尹宗澤が上疏して北伐を請い、かつ弁士を西に遣わして夏国を説き、東に遣わして高麗を説き、兵を出して援助させるよう求めた。
四年正月、張浚は謝亮を派遣したが、結局要点を得ずして帰還した。十月、環慶路統制の慕洧が叛き、夏国に降った。
四年十二月、呉玠が上奏して、夏国がたびたび書を通じ、本朝を忘れない意向があると報告した。
五年、乾順は元号を大徳と改めた。
七年正月、呉璘が上奏して、西蕃三十八族の首領趙継忠が来帰し、これを用いて西夏の右腕を扼することができると述べた。十月、偽斉の知同州李世輔が金の帥撒里曷を捕らえて宋に帰そうと謀ったが、成功せず、遂に夏に奔った。李世輔の父母親族で延安にいた者は、金人によって皆殺しにされた。
九年、夏人は府州を陥落させた。霊芝が後堂の高守忠の家に生じ、乾順は霊芝の歌を作り、中書相の王仁宗に和させた。乾順は李世輔を静難軍承宣使・鄜延岐雍等路経略安撫使とした。李世輔は兵を請い、延安の戦いの報復をしようとした。夏主はまず別種の酋長で「青面夜叉」と号する者を討つよう命じ、李世輔はこれを捕らえて報告した。乾順はそこで出兵し、文臣の王枢、武臣の𠼪訛らをこれに随行させた。李世輔の軍が延安に至ると、撒里曷は耀州に逃げた。李世輔は父母を害した者を懸賞で捕らえ、東城でこれを殺した。金人が赦を下し、河南の地を宋に帰すと聞き、そこで王枢らを説いて宋に降らせた。𠼪訛は従わず、李世輔は刀を抜いてこれを斬ろうとしたが、当たらなかった。そこで王枢を縛り、王晞韓に行在まで護送させた。五月丙午、李世輔はその配下三千人を率いて宋に帰順し、護国承宣使・枢密行府前軍都統制に任じられ、名を顕忠と賜った。
仁孝は、崇宗の長子なり、紹興九年六月、崇宗崩ず、即位す、時に年十六。十月、詔して王枢及び夏国の俘虜百九十人を還す。十一月、仁孝その母曹氏を尊びて国母と為す。十二月、后罔氏を納る。
十年、夏改元して大慶とす。三月、詔して胡世将に夏人と入貢を議わしむ、夏人報えず。
十一年六月、夏の枢密使慕洧の弟慕濬謀反し、誅せらる。仁孝上尊号して制義去邪と曰う。十一年九月、夏国饑饉す。
十四年、彗星坤宮に見ゆ、五十余日にして滅ぶ、その分は夏国に在りと占う。
十五年八月、夏重ねて大漢太学を建て、親しく釈奠し、弟子員に賜与すること差あり。
十六年、孔子を尊んで文宣帝と為す。
十七年、改元して天盛とす。挙人を策し、始めて唱名法を立てる。
十八年、内学を復建し、名儒を選びてこれを主とす。律を増修して成り、名を賜いて鼎新と曰う。
二十八年、始めて通済監を立てて銭を鋳る。
二十九年、宋の官李宗閔上書して言う、「夏国の副使屈移は、嘗て両度南朝に使いし、以て衣冠礼楽は他国に比すべからずと為す。金人の盟に叛き、その与うる所の地を奪うを怨む。これその情の見るべし。壬子の歳、粘罕嘗て兵を雲中に聚めて蜀を窺う、夏人は以て将に己を図らんとすと謂い、国を挙げて境上に屯してその至るを待つ。今誠に弁士を遣わしてこれを説かしめば、夏国必ずや兵を出すに難からず、庶幾くは吾が声援と為るべく、以て恢復を図らん」と。書奏す、報えず。
三十年、夏その相任得敬を封じて楚王と為す。
三十一年、翰林学士院を立て、焦景顔・王僉等を以て学士と為し、実録を修めしむ。金主亮四川を犯す、宣撫使呉璘西夏に檄し、兵を合わせてこれを討たしむ。
紹熙四年九月二十日、仁孝崩ず。年七十。在位五十五年、元を改むるに大慶四年、人慶五年、天盛二十一年、乾祐二十四年。謚して聖徳皇帝と曰い、廟号を仁宗と為し、陵号を寿陵と為す。子純佑嗣ぐ。
純佑は、仁宗の長子なり。母は章献欽慈皇后羅氏と曰う。仁宗崩じ、即位す。時に年十七。明年、元を改めて天慶と為す。
七年夏、左枢密使万慶義勇、二僧を遣わし蠟書を齎して西辺に来たり、共に金人を図り、侵地を復せんと欲す。制置使黄誼、報ぜず。
十四年正月、丙、利州に回る。
十六年、遵頊、自ら上皇と号し、位を其の子徳旺に伝う。
丙戌(1226年)七月、徳旺崩ず、年四十六。乾定四年と改元す。廟号を献宗とす。
夏の境土は、方二万余里、その官制を設くること、多く宋と同し。朝賀の儀は、唐・宋を雑用し、而して楽の器と曲とは則ち唐なり。
河の内外、州郡凡そ二十有二。河南の州九:曰く霊、曰く洪、曰く宥、曰く銀、曰く夏、曰く石、曰く塩、曰く南威、曰く会。河西の州九:曰く興、曰く定、曰く懷、曰く永、曰く涼、曰く甘、曰く肅、曰く瓜、曰く沙。熙・秦河外の州四:曰く西寧、曰く楽、曰く廓、曰く積石。その地は五穀に富み、特に稲麦に宜し。甘・涼の間は、則ち諸河を以て溉と為し、興・霊には則ち古渠有り、唐来と曰い、漢源と曰う、皆黄河を支引す。故に灌溉の利有りて、歳に旱澇の憂い無し。
その民一家を号して一帳と為し、男子年十五に登れば丁と為し、率ね二丁に正軍一人を取る。毎に負贍一人を負うて一抄と為す。負贍とは、軍に随う雑役なり。四丁を以て両抄と為し、余を号して空丁とす。正軍に隷せんことを願う者は、他丁を射て負贍と為すことを得、無ければ則ち正軍の疲弱者を射て之と為すことを許す。故に壮なる者は皆戦鬬を習い、而して正軍を得ること多し。凡そ正軍には長生の馬・駱駝各一を給す。団練使以上は、帳一、弓一、箭五百、馬一、橐駝五、旗・鼓・槍・剣・棍棒・粆袋・披氈・渾脱・背索・鍬钁・斤斧・箭牌・鉄爪籬各一。刺史以下は、帳無く旗鼓無く、人各橐駝一、箭三百、幕梁一。兵三人同一幕梁。幕梁とは、毛を織りて幕と為し、而して木を以て架す。砲手二百人有り、号して「潑喜」と曰い、橐駝の鞍に旋風砲を𨺗立し、石を拳の如くに縦つ。漢人の勇者を得て前軍と為し、号して「撞令郎」と曰う。若し脆怯にして他伎無き者は、河外に遷して耕作せしめ、或いは以て肅州を守らしむ。
左右廂十二監軍司有り:曰く左廂神勇、曰く石州祥祐、曰く宥州嘉寧、曰く韋州静塞、曰く西寿保泰、曰く卓囉和南、曰く右廂朝順、曰く甘州甘肅、曰く瓜州西平、曰く黒水鎮燕、曰く白馬強鎮、曰く黒山威福。諸軍兵総計五十余万。別に擒生十万有り。興・霊の兵、精練する者又二万五千。別に兵七万を副えて資贍と為し、号して御囲内六班と曰い、三番に分けて以て宿衞す。毎に事有ること西に於いては、則ち東より点集して西に至り、東に於いては、則ち西より点集して東に至り、中路に於いては則ち東西皆集す。用兵に多く虚砦を立て、伏兵を設けて敵を包み、鉄騎を以て前軍と為し、善馬に乗じ、重甲を着し、刺斫も入らず、鈎索を以て絞聯し、死すと雖も馬上に墜ちず。戦に遇えば則ち先ず鉄騎を出して陣を突き、陣乱るれば則ち之を衝撃し、歩兵は騎を挟んで以て進む。戦うときは則ち大將後ろに居り、或いは高險に拠る。その人は寒暑飢渴に能し。出戦は率ね隻日を用い、晦日を避け、糧を齎すこと一句を過ぎず。弓は皮弦、矢は沙柳の簳。雨雪を悪む。昼は煙を挙げ塵を揚げ、夜は篝火を以て候と為す。奔遁を恥とせず、敗れて三日、輒ち復た其の処に至り、人馬を捉えて之を射ち、号して「殺鬼招魂」と曰い、或いは草人を縛りて地に埋め、衆射して還る。
機鬼を篤く信じ、詛祝を尚び、毎に出兵すれば則ち先ず卜す。卜に四有り:一、艾を以て羊の脾骨を灼きて以て兆を求む、名づけて「炙勃焦」と曰う。二、竹を地に擗ち、蓍を揲つが如くして以て数を求む、之を「擗算」と謂う。三、夜に羊を以て香を焚きて之を祝し、又穀火を焚き布を静処にし、晨に羊を屠り、其の腸胃の通ずるを見れば則ち兵阻むること無く、心に血有れば則ち利せず。四、矢を以て弓弦を撃ち、其の声を審らかにし、敵至るの期と兵交うるの勝負、及び六畜の災祥・五穀の凶稔を知る。俗は皆土屋、惟だ命有る者のみ瓦を以て之を覆うことを得。
論じて曰く、拓跋氏は諸前史を考うれば見ゆべし。赤辞の貞観に款を納れ、天宝に功を立て、思恭の宥州に咸通に節を著わすより、夏は未だ国と称せざると雖も、而して其の土を王ること久し。子孫五代に歴て王と為る。宋興り、太祖即ち西平王に彝興の太尉を加え、徳明の祥符の間已に其の父を国中に追帝し、元昊に逮りて始めて顕に帝と称し、厥れ後之に因り、金と同く亡ぶ。
其の歴世二百五十八年を概す、嘗て宋に封冊を受くると雖も、宋も亦た歳幣の賜・誓詔の答有りと称す、要は皆一時の言に出で、其の心未だ臣順の実有ること無し。元昊は結髪より兵を用い、凡そ二十年、其の強きを折る能う者無し。乾順は国学を建て、弟子員三百を設け、養賢務を立つ。仁孝は三千に増し、孔子を帝と尊び、科を設けて士を取り、又宮学を置き、自ら訓導と為す。其の経を陳ね紀を立つるを観るに、伝に曰く「君子有らざれば、其れ能く国たらんや」と。今史の載する所の追尊の諡号・廟号・陵名は、兼ねて夏国枢要等の書を採り、其の旧史と抵捂する所有れば、則ち疑いを闕きて以て知る者を俟つ。