昔し唐は隋の後を承け、隋は周・齊を承け、上って元魏に遡る。故に西北の疆域には、漢・晉の正朔の及ばざる所ありしも、然れども亦た使介の相通ずる、貢聘の時に至るに過ぎざりき。唐の德既に衰へ、荒服至らず、五季迭りに興り、綱紀自ら紊れ、遠人義を慕ふも、適從する所なし。宋祖命を受く、諸國削平し、海内清謐す。ここに於いて東は高麗・渤海の若きは、遼壤に阻隔せられながらも、航海遠く來り、跋涉を憚らず。西は天竺・于闐・回鶻・大食・高昌・龜茲・拂林等の國は、遼・夏の間に介在すれども、筐篚亦た至り、屢々館人を勤しむ。党項・吐蕃の唃廝囉・董氈・瞎征諸部は、夏國の兵力の必ず爭ふ所なるも、宋の威德亦た其の地に暨び、又た間には其の助けを獲ることありき。交阯・占城・真臘・蒲耳・大理の濱海諸蕃は、劉鋹・陳洪進の來歸するより、踵を接して貢を修む。宋の待遇も亦た其の道を得て、其の委積を厚くして其の貢輸を計らず、之に榮名を假して煩縟を責めず。來れば則ち拒まず、去れば則ち追はず。邊圉相接し、時に侵軾あるも、將を命じて討たしめ、服すれば則ち之を舍て、武を以て黷せず。先王の柔遠の制、豈に復た是に加はること有らんや。南渡以後、朔漠通ぜず、東南の陬および西鄙に至るまで、冠蓋猶ほ至る者有り。交人は遠く爵命を假し、宋の亡に訖りて後絕ゆ。
女直は宋初に屢々名馬を貢し、他日強大となり、遼に怨を修む。其の叛臣阿疏を索め、掠はれたる宋の詔を還すを責むるも、猶ほ宋に通ずるを以て重しと知る。及び海上の盟を渝え、尋いで大難を構ふるに及び、宋遂に其の爲に絀辱せらる。豈に自ら取るの過ちに非ずや。前宋の舊史に女直傳有り。今既に金史を作る。義當に之を削るべし。夏國は偭鄉不常なれども、金を視るに間有り。故に舊史の錄する所に仍りて存す。
李彝興は、夏州の人なり。本姓は拓跋氏。唐の貞觀初め、拓跋赤辭なる者有りて唐に歸す。太宗李姓を賜ひ、靜邊等州を置きて以て之を處す。其の後夏州に析居する者、平夏部と號す。唐末、拓跋思恭夏州を鎮め、銀・夏・綏・宥・靜の五州の地を統べ、黃巢を討つて功有り、復た李姓を賜ふ。思恭卒し、弟思諫代はりて定難軍節度使と爲る。思諫卒し、思恭の孫彝昌嗣ぐ。梁の開平中、彝昌害に遇ひ、將士其の族子の蕃部指揮仁福を立つ。仁福卒し、子彝超嗣ぐ。事は五代史に具はれり。
宋初、太尉を加ふ。北漢の劉鈞、代北の諸部を結び來たりて麟州を寇す。彝興部將李彝玉を遣はし諸鎮の兵を會して之を禦がしむ。鈞の衆遂に引き去る。建隆初め、馬三百匹を獻ず。太祖大いに喜び、親ら攻玉を視て帶と爲し、且つ使を召して問ひて曰く、「汝が帥の腹圍幾何ぞ。」使言ふ、「彝興の腰腹甚だ大なり。」太祖曰く、「汝が帥は眞に福人なり。」遂に使を遣はして以て帶を之に賜ふ。
乾德五年、卒す。太祖朝を廢すること三日、太師を贈り、夏王を追封す。子克睿立つ。
克睿は初め光睿と名づく。太宗の諱を避け「光」を「克」と改む。彝興の卒するや、自ら州事を權知し、檢校太保・定難軍節度使を授かる。
開寶九年、兵を率ひて北漢の吳堡砦を破り、首七百級を斬り、牛羊千計を獲、砦主侯遇を俘へて以て獻ず。累ねて檢校太尉を加ふ。
繼筠は、初め衙內都指揮使・檢校工部尚書と爲る。克睿卒し、自ら州事を權知し、檢校司徒・定難軍節度觀察留後を授かる。太宗北漢を征するに、繼筠銀州刺史李光遠・綏州刺史李光憲を遣はし蕃・漢の兵を率ひて陣を列ね河を渡り、太原の境を略して以て軍勢を張らしむ。
太平興國五年、卒す。弟繼捧立つ。
繼捧立つ。太平興國七年を以て族人を率ひて入朝す。上世以來、未だ嘗て親覲せざる所、繼捧至る。太宗甚だ之を嘉し、白金千兩・帛千匹・錢百萬を賜ふ。祖母獨孤氏も亦た玉盤一・金盤三を獻ず。皆厚く之を賚ふ。繼捧其の諸父・昆弟の多く相怨むを陳べ、京師に留まらんことを願ふ。乃ち使を夏州に遣はし緦麻已上の親を護りて闕に赴かしむ。繼捧に彰德軍節度使を授け、并せて其の昆弟夏州蕃落指揮使克信等十二人を官すこと差有り。遂に銀・夏管內を曲赦す。太宗嘗て群臣を苑中に宴し、繼捧に謂ひて曰く、「汝夏州に在りて何の道を以て諸部を制すや。」對へて曰く、「羌人は鷙悍なり。但だ羈縻するのみ。能く制するに非ず。」弟權知夏州克文來朝し、唐の僖宗の其の祖思恭に賜ひし鐵券及び朱書の御札を來りて上る。博州防禦使に改む。初め、繼捧の入朝するや、弟繼遷出奔す。是に及び、數たび來たりて邊患と爲る。繼遷朝廷の事を悉く知るは、蓋し繼捧の之を泄らすによる、と言ふ者有り。乃ち出して崇信軍節度使と爲し、克憲を道州防禦使と爲し、克文を博州に歸遣し、并せて常參官を選びて通判と爲し、以て郡政を專にせしむ。
端拱初め、感德軍節度使に改む。屢ひ兵を發して繼遷を討つも克たず。宰相趙普の計を用ひ、繼捧に邊事を委ねて、之を圖らしめんと欲す。因りて召して闕に赴かしめ、趙姓を賜ひ、名を更めて保忠とす。太宗親ら五色金花牋を書して以て之を賜ひ、夏州刺史を授け、定難軍節度使・夏銀綏宥靜等州觀察處置押蕃落等使を充て、金器千兩・銀器萬兩を賜ひ、并せて五州の錢帛・芻粟・田園を賜ふ。保忠辭する日、長春殿に宴し、襲衣・玉帶・銀鞍馬・錦綵三千匹・銀器三千兩を賜ひ、又た錦袍・銀帶五百・副馬百匹を賜ふ。鎮に至ること數月、上言して繼遷悔過して款に歸すと。乃ち繼遷に官を授く。然れども實に降るの心無し。
淳化の初め、安慶沢において継遷と戦い、継遷は流れ矢に当たり遁走した。保忠は継遷を防ぐための兵を請い、商州団練使翟守素に兵を率いてこれを援けさせた。保忠に茶百斤・上醸十石を賜う。そこで白鶻を献上し、名を海東青というが、久しく狩猟を廃していたので、詔して慰めてこれを返還させた。
五年、継遷が霊州を攻めると、侍衛馬軍都指揮使李継隆を遣わしてこれを討たせた。保忠は先にその母と妻子を連れて野外に壁を築き、そこで上言して継遷と怨みを解き、馬五十匹を献じて兵を罷めることを請うた。帝は奏を覧て、直ちに中使を遣わして継隆に進軍を督させた。兵が境に迫ると、保忠はかえって継遷に謀られ、その衆を併せようとされ、牙校趙光祚を縛り、その営帳を襲撃された。保忠がちょうど寝ているところ、難事の起こるを聞き、単騎で走り還って城に至り、大校趙光嗣に別室に閉じ込められ、朝になって門を開いて継隆を迎え、そこで保忠を捕らえて闕下に送り、崇政殿の庭で罪を待った。帝は数え四度詰責し、これを釈放し、冠帯・器幣を賜い、またその母に金銀器を賜って慰撫した。まもなく責めて右千牛衛上將軍に授け、宥罪侯に封じ、京師に邸宅を賜う。保忠は状貌雄毅にして、環列に居り、朝請に奉じ、常に怏怏として自得せず。
咸平の中、内艱に遭い、本官のまま起復し、右金吾衛上將軍に遷り、岳州を判し、復州に移る。
天禧四年、その孫従吉を録して三班奉職とする。
継遷は継捧の族弟である。高祖の思忠は、嘗て兄の思恭に従って黄巢を討ち、渭橋において賊を防ぎ、鎧に鉄鶴の飾りがあり、これを射ると矢の羽まで没し、賊はこれを恐れ、そこで士卒に先んじて戦没し、僖宗は宥州刺史を贈り、渭陽に祠った。曾祖の仁顔は唐に仕え、銀州防禦使となる。祖の彝景は晋に嗣ぐ。父の光儼は周に嗣ぐ。
建隆四年、継遷は銀州無定河に生まれ、生まれながらにして歯があった。
開宝七年、定難軍管内都知蕃落使を授かる。
継捧が宋に帰した時、年二十、銀州に留まり居たが、使者が至り、緦麻の親を召して闕に赴かせようとしたので、そこで乳母が死んだと偽って言い、郊外に葬りに出て、遂にその党数十人とともに地斤沢に奔り入った。沢は夏州の東北三百里にある。
太平興国八年、夏州知事の尹憲と都巡検の曹光実が偵知し、夜襲してこれを破り、五百級を斬首し、四百余りの帳を焼いた。継遷はその弟とともに遁れて免れ、その母と妻を獲られた。
四年、夏州知事の安守忠が三万の衆を以て王亭鎮において戦い、敗績し、継遷は城門まで追撃して返った。
淳化四年、転運副使鄭文寶は塩池を禁ずるを議し、以て継遷を困じんとす。数月、辺人四十二族万余騎、環州を寇し、小康堡を屠り、太宗は乃ち錢若水を遣わして其の禁を弛め、因りて之を撫慰す。
五年正月、継遷は綏州の民を平夏に徙す。部将高文岯等、衆の楽しまずして反するに因り、之を攻め敗る。継遷は復た堡砦を囲み、居民を掠め、積聚を焚き、遂に霊州を攻む。詔して李継隆等を遣わして進討せしむ。継遷は夜に保忠を襲い、之を走らせ、其の輜重を獲て以て帰る。七月、乃ち馬を献じて以て謝す。又弟の廷信を遣わして馬・橐駝を献じ、太宗は撫賚甚だ厚くし、内侍張崇貴を遣わし詔諭し、茶薬・器幣・衣物を賜う。
四年、麟府副部署曹璨熟戸兵を率い柳撥川にて継遷の輜重を邀え、殺獲甚だ衆し。九月、来たりて定州・懐遠県及び堡静・永州を攻め破り、清遠軍監軍段義叛き、城遂に陥つ。
五年三月、継遷大いに蕃部を集め、霊州を攻め陥れ、以て西平府と為す。
六年春、遂に霊州に都す。詔して張崇貴・王涉を遣わし和を議せしめ、河西の銀・夏等五州を割きて之に与う。六月、復た二万騎を以て麟州を囲む。詔して金明巡検李継周に之を撃たしむ。囲未だ解けず、麟州部署師を済わんことを請う。真宗地図を閲し曰く「麟州は険に依り、三面孤絶す。力を戮せば守るべし。但だ城中水に乏しきを憂うるのみ」と。乃ち兵を遣わし走りて援わしむ。継遷果たして水砦を拠り、城に薄まること已に五日、知州衞居寶奇兵を出だし突戦し、勇士を城下に縋らわし、城上鼓噪し、矢石注ぐが如く、殺傷万余人、継遷乃ち去るを抜く。遂に衆を率い西蕃を攻め、西涼府を取り、都首領潘羅支偽り降る。継遷之を受け疑わず。羅支遽かに六谷蕃部及び者龍族を集め合撃す。継遷大敗し、流矢に中る。八月、復た兵を浦洛河に聚め、声言して環州を攻むとす。詔して張凝等に分兵して以て之を待たしむ。
徳明は小字を阿移と曰い、母は順成懿孝皇后野利氏と曰う。柩前に即く。時に年二十三。辺臣徳明の初め立つを以て、詔を賜い撫するを乞う。因りて詔を賜い審らかに図り去就すべしと令す。又詔して蕃族の万山・万遇・龐羅逝安・万子都虞候・軍主の吳守正馬尾等、能く部下を率いて帰順する者は、団練使を授け、銀一万両・絹一万匹・銭五万緡・茶五千斤を与う。其の亡命叛き去る者有らば、罪を釈し甄録すべしと。既にして康奴𡗀移等属を率いて来降す。徳明は牙将王旻を遣わし表を奉じて帰順す。旻に錦袍・銀帯を賜い、侍禁夏居厚を遣わし詔を奉じて之に答え、因りて詔して河西羌族に各々疆埸を守らしむ。徳明は連歳表して帰順す。
四年、また馬五百匹、駱駝三百頭を献上し、俸給と食料の支給に謝し、襲衣・金帯・器物・幣帛を賜う。また使者を京師に派遣して必要な物資を購うことを請うたが、これを許した。五月、母の罔氏が薨じたため、起復を命じて鎮軍大将軍・右金吾衛上將軍とし、員外置同正員とし、その他の官職はもとのままとした。殿中丞趙稹を弔贈兼起復官告使とし、徳明は楽を奏して使者を柩前に迎え、翌日に喪服を脱ぎ、涙を流して使者に対し恩を感ずる旨を述べた。葬儀に際し、五台山の十寺に供養を修することを請うたので、閤門祗候袁瑀を致祭使とし、供物を山まで護送させた。さらに馬五百匹を献上し、章穆皇后の園陵修築を助けた。
翌年、回鶻を侵攻したが、恒星が昼間に現れたため、徳明は恐れて引き返した。
四年、汾陰で祭祀を行い、中書令に進んだ。
五年、聖祖が降臨し、守太保を加えた。
七年二月、太清宮に謁し、使者を派遣して方物を献上し、宣徳功臣を加えた。
八年、石州濁輪谷に堡を築き、榷場を設けようとしたが、詔して縁辺安撫司にこれを止めさせた。
九年、表を奉り辺臣が盟約に違背して逃亡者を招き入れていることを訴え、「景德年中に誓表を進上して以来、朝廷もまた詔書を下し、両地の逃亡民、縁辺の雑戸は留め置かず、すべて引き渡すよう命じられた。これより謹んで辺境を守り、秩序を保ってきた。向敏中が帰朝し、張崇貴が亡くなって以来、後任の辺臣は旧制を守らず、それぞれ功を邀えようとし、事を生ずることを慮らず、ついに綏・延などの境界、涇・原以来において、勝手に兵甲を挙げ、臣の境土に入り、また叛亡した部族が主君の財産を掠奪し、去る者は百人いて十人も戻らない。臣の辺吏もまた隠蔽に努め、ともに上奏論議を怠り、次第に盟約に背いている」と述べた。詔で答え、すでに鄜延・涇原・環慶・麟府等路に命じて辺境部族を統制し、互いに攻撃掠奪せず、逃亡者を隠蔽した場合は時を移さず調査して送還するよう命じた。本国もまた部下を戒め、隠匿することなく、それぞれ紀律を守り、封疆を守るべきであるとした。
五年、徳明は継遷を追尊して太祖応運法天神智仁聖至道広徳光孝皇帝とし、廟号を武宗とした。
七年、国内に甘露が降った。
四年、遼主自ら兵五十万を率い、狩猟と称して涼甸を攻撃してきたが、徳明は衆を率いて迎え撃ち、これを破った。
五年、遼はまた金吾衛上將軍蕭孝誠を派遣し、玉冊金印を齎して、尚書令・大夏国王に冊封した。
翌年、慶州柔遠砦を攻め、巡検楊承吉がこれと戦って利あらず、曹瑋を環・慶・秦州縁辺巡検安撫使に任じてこれを防備させた。徳明は懐遠鎮に城を築き興州として居城とした。
仁宗が即位すると、尚書令を加えられた。徳明は三姓を娶り、衞慕氏は元昊を生み、咩迷氏は成遇を生み、訛蔵屈懐氏は成嵬を生んだ。
天聖六年、徳明は子の元昊を遣わして甘州を攻め、これを陥落させた。
八年、瓜州王が千騎を率いて夏に降った。火星が南斗に入った。
九年十月、徳明が卒去した。時に五十一歳。光聖皇帝と追諡し、廟号を太宗、墓号を嘉陵とした。宋は太師・尚書令兼中書令を贈り、尚書度支員外郎朱昌符を祭奠使とし、六宅副使・内侍省内侍押班馮仁俊をその副使とし、絹七百匹・布三百匹を賻し、副えて上醞・羊・米・麺を賜った。葬送に際しては、相当する物品を賜い、皇太后の賜うところもまたこれに同じかった。帝と皇太后は苑中において喪服を着けた。子の曩霄が立った。
曩霄は本名を元昊といい、小字を嵬理という。国語(西夏語)で惜しむを「嵬」とし、富貴を「理」という。母は恵慈敦愛皇后衞慕氏という。性質雄毅にして大略多く、絵画を善くし、物事の始まりを創製することができた。円面にして鼻梁高く、身長五尺余り。若い頃は長袖の緋衣を着け、黒冠をかぶり、弓矢を佩き、衛兵の歩卒に青蓋を張らせて従った。出でては馬に乗り、二旗を以て引き、百余騎が自ら従った。浮屠学に通暁し、蕃漢の文字に通じ、机の上に法律を置き、常に野戦歌・太乙金鑑訣を携帯した。弱冠にして、独り兵を率いて回鶻の夜洛隔可汗王を襲撃し破り、甘州を奪い、遂に皇太子に立てられた。しばしば父に宋に臣とすべからざるを諫めたが、父は常にこれを戒めて言うには、「我は久しく兵を用いて疲れた。我が一族三十年、錦綺を衣てきたのは、これ宋の恩である。背くべからず」と。元昊は言うには、「皮毛を衣、畜牧に事うるは、蕃人の性に便である。英雄の生まるるは、王覇たるべきのみ、何ぞ錦綺を為さんや」と。徳明が卒去すると、即時に特進・検校太師兼侍中・定難軍節度使・夏銀綏宥静等州観察処置押蕃落使・西平王を授けられ、工部郎中楊告を旌節官告使とし、礼賓副使朱允中をその副使とした。
封を襲ぐや、号令を明らかにし、兵法を以て諸部を統率した。初めて白の窄衫を着、氈冠に紅裏をつけ、冠頂の後に紅結綬を垂れ、自ら嵬名吾祖と号した。凡そ六日・九日には官属に会見した。その官は文武の班に分かれ、中書・枢密・三司・御史台・開封府・翊衛司・官計司・受納司・農田司・群牧司・飛龍院・磨勘司・文思院・蕃学・漢学という。中書令・宰相・枢使・大夫・侍中・太尉以下は、皆分かちて蕃漢の人をこれに命じた。文資は幞頭・靴笏・紫衣・緋衣、武職は金帖起雲鏤冠・銀帖間金鏤冠・黒漆冠を冠り、紫の旋襴を衣、金塗銀の束帯を締め、蹀躞を垂れ、解結錐・短刀・弓矢韣を佩き、馬には鯢皮の鞍に乗り、紅纓を垂れ、跨鈸拂を打つ。便服は紫皁地に盤毬子花の旋襴を繍し、束帯する。民庶は青緑とし、以て貴賤を区別した。兵を挙げる毎に、必ず部長を率いて狩猟し、獲物があれば、下馬して環坐して飲み、生肉を割いて食し、各々見たところを問い、その長所を択び取った。初め、宋が元号を明道と改めた時、元昊は父の諱を避け、国内では顕道と称した。
元昊は夏・銀・綏・宥・静・霊・塩・会・勝・甘・涼・瓜・沙・粛の諸州をことごとく有するに及び、洪・定・威・龍は皆、堡鎮の号を州と為し、なお興州に居り、河を阻み賀蘭山に依って固めとした。始めて大いに官制を建て、嵬名守全・張陟・張絳・楊廓・徐敏宗・張文顕らに謀議を主とさせ、鍾鼎臣に文書を掌らせ、成逋・克成賞・都臥・𡗀如定・多多馬・竇惟吉に兵馬を主とさせ、野利仁栄に蕃学を主とさせた。十二の監軍司を置き、豪右に委ねてその衆を分統させた。河北から午臘蒻山まで七万人を以て契丹に備え、河南の洪州・白豹・安塩州・羅落・天都・惟精山など五万人を以て環・慶・鎮戎・原州に備え、左廂宥州路五万人を以て鄜・延・麟・府に備え、右廂甘州路三万人を以て西蕃・回紇に備え、賀蘭に駐兵五万・霊州五万人・興州興慶府七万人を鎮守とし、総計五十余万であった。而して苦戦は山訛に倚り、山訛とは横山の羌であり、平夏の兵は及ばない。善く弓馬に長じた豪族五千人を選び交替で直衛させ、六班直と号し、月に米二石を給した。鉄騎三千、十部に分かつ。兵を発するには銀牌を以て部長を召し、面して制約を授けた。興州に十六司を設け、以て諸般の事務を総べさせた。元昊は自ら蕃書を製し、野利仁栄に命じてこれを演繹させ、十二巻を成した。字形は方整にして八分に類し、画は頗る重複する。国人に紀事には蕃書を用いることを教え、孝経・爾雅・四言雑字を蕃語に訳させた。また元号を大慶と改めた。
翌年、使を遣わして上表して言うには、
臣が拝察するに、祖宗は本来帝王の裔より出で、東晉の末運に当たり、後魏の初基を創められた。遠祖思恭は、唐の季に兵を率いて難を救い、封を受けて姓を賜わった。祖継遷は、兵要を心に知り、乾符を手に握り、大いに義旗を挙げ、諸部を悉く降した。臨河の五郡は、踵を旋らさずして帰順し、沿辺の七州は、肩を差して悉く克った。父徳明は、世基を嗣ぎ奉り、朝命に勉めて従った。真王の号は、夙に頒宣に感じ、尺土の封は、顕に割裂に蒙った。臣は偶々狂斐を以て、小蕃の文字を制し、大漢の衣冠を改めた。衣冠既に成り、文字既に行われ、礼楽既に張り、器用既に備わり、吐蕃・塔塔・張掖・交河、従伏せざるは莫し。王と称すれば則ち喜ばず、帝に朝すれば則ち従う、輻湊は屡期し、山呼は斉しく挙がり、伏して願わくは一垓の土地を以て、万乗の邦家を建てんと。時に再譲する遑あらず、群集また迫り、事已むを得ず、顕に行う。遂に十月十一日に郊壇に礼を備え、世祖始文本武興法建礼仁孝皇帝と為し、国は大夏と称し、年号は天授礼法延祚とす。伏して望む、皇帝陛下、睿哲人に成り、寛慈物に及び、西郊の地を許し、南面の君に冊せられんことを。敢えて愚庸を竭くし、常に歓好を敦くせん。魚来り雁往き、隣国の音を伝うるに任せ、地久しく天長く、辺方の患を永く鎮めん。至誠を以て懇を瀝ぎ、仰いで帝の俞を俟つ。謹みて弩涉俄疾・你斯悶・臥普令済・嵬崖妳を遣わし、表を奉り以て聞かしむ。
詔して官爵・互市を削奪し、辺境に榜を掲げ、元昊を擒える者若しくは首を斬りて献ずる者あれば、即ち定難軍節度使と為すべしと募る。また賀永年を遣わし嫚書を齎し、旌節及び授けられたる敕告を神明匣に納め置き、帰孃族に留めて去る。
明年、六宅使伊州刺史賀従勖を遣わし文貴と倶に来らしむ、猶お「男邦泥定国兀卒、父大宋皇帝に上書す」と称し、名を曩霄と改めて臣と称せず。兀卒は即ち吾祖なり、可汗の号の如し。議者以為く、吾祖を改めて兀卒と為すは、特り朝廷を侮玩するに以てす、許すべからずと。詔して邵良佐・張士元・張子奭・王正倫を遣わし更に往き議わしめ、且つ封冊して夏国主と為すを許し、而して元昊もまた如定・聿捨・張延寿・楊守素を遣わし継ぎ来らしむ。
四年、初めて誓表を上奏して言う、「両国が和好を失い、すでに七年を経過し、誓いを立てて今より、願わくは盟府に蔵められん。その前日に掠め取った将校・民戸は、各々返還せず。これより辺境の者が逃亡しても、また襲撃追跡してはならない。臣は近ごろ本国の城砦を朝廷に進納したが、その栲栳・鎌刀・南安・承平の故地および他の辺境の蕃漢居住地については、中を画して境界とし、その内で城砦を築くことを聴許されたい。毎年の賜与である銀・綺・絹・茶二十五万五千は、従来の数通り賜わりたく、臣は他事をもって干渉しない。誓詔を頒布されたく、これは世々遵守し、永く以て友好と為さんがためである。もし君親の義が存せず、あるいは臣子の心が変じれば、宗廟の祭祀を永続させず、子孫に災いを蒙らしめん」。詔を下して答えて曰く、「朕は四海を統治し、万里の地を開拓す。西夏の土は、世々封土として与えたるものなり。今、忠誠を納れ過ちを悔い、信誓の表を奉る。日月に質し、鬼神に要し、子孫に及ぶまで、変ずることなからん。繰り返し懇切に至り、朕は甚だ嘉す。来たる誓表を閲し、全て約定の通りなり」。十二月、尚書祠部員外郎張子奭を冊礼使に充て、東頭供奉官・閤門祗候張士元をその副使とす。なお対衣・黄金帯・銀鞍勒馬・銀二万両・絹二万匹・茶三万斤を賜う。冊は漆書竹簡とし、天下楽錦で包む。金塗銀印、方二寸一分、文は「夏国主印」とし、錦綬、塗金銀牌。冊礼の法物は、全て銀装に金塗し、紫繡で覆う。約して臣と称し、正朔を奉じ、賜った勅書を詔と改めて名を称せず、自ら官属を置くことを許す。使者が京に至れば、駅舎において貿易を許し、宴は朵殿に設ける。使者がその国に至れば、相見えるには賓客の礼を用いる。保安軍及び高平砦に榷場を置くが、ただ青塩を通さず。然れども宋は使者を遣わす毎に、宥州に宿泊させ、終に興州・霊州には至らず、而して元昊は国中で皇帝として振る舞うこと自若なり。
この年、遼の夾山部落呆児族八百戸が元昊に帰順す。興宗は返還を責むるも、元昊は遣わさず。遂に自ら騎兵十万を将いて金粛城より出で、弟の天斉王馬歩軍大元帥は騎兵七千を将いて南路より出で、韓国王は兵六万を将いて北路より出で、三路河を渡り長駆す。興宗は夏境に四百里入るも、敵を見ず、得勝寺南壁を占拠して待つ。八月五日、韓国王は賀蘭の北より元昊と接戦し、数度これを勝ち、遼兵の来る者日増す。夏は乃ち和を請い、十里退く。韓国王は従わず。かくの如く退くこと三度、凡そ百余里に及ぶ。退く毎に必ずその地を焼き払い、遼の馬は食する所なく、因って和を許す。夏は乃ち遷延し、以てその師を老いさせ、而して遼の馬は益々病み、因って急攻し、遂に敗れ、更に南壁を攻め、興宗は大敗す。南枢王蕭孝友の砦に入り、その鶻突姑駙馬を擒え、興宗は数騎を従えて走り去る。元昊は彼を去らしむ。
諒祚は、景宗の長子なり。小字は寧令哥、国語に「歓嘉」を「寧令」と謂う。両岔は河の名なり。母は宣穆恵文皇后没蔵氏、元昊に従い出猟し、ここに至りて諒祚を生む。遂に名とす。慶暦七年丁亥二月六日に生まれ、八年戊子正月、満一歳にして即位す。四月、尚書刑部員外郎任顓を冊礼使に充て、供備庫副使宋守約を副使に充て、諒祚を冊立して夏国主とす。
諒祚は幼くして母族の訛龐に養われ、訛龐は因って国政を専らにす。初め、麟州西城の睥睨に枕するを紅楼と曰い、下に屈野河を瞰る。その外、夏境に距ること尚七十里あり、而して田は肥え利厚く、多く訛龐に入る。歳々東侵して已まず。耕穫の時に至れば、輒ち兵を河西に屯し、経略使龐籍は毎に辺将を戒めて屈野河を過ぎざらしむ。然れども屈野河に距ること猶二十里あり。管勾軍馬司賈逵が巡察し、侵された田を見て、稍々過ぎて辺吏を督む。麟州守の王亮懼れ、始めて事を上聞す。詔して殿直の張安世・賈恩を同巡検としこれを経制せしむ。訛龐は平然として改めず、迫れば格闘し、緩めば帰耕す。経略司は使者を遣わし侵した田を返還せしむるも、訛龐は専ら讕言を為し、帰還の意無し。
嘉祐六年、上書して自ら言う、中国の衣冠を慕い、明年はこれをもって使者を迎えんと。詔してこれを許す。
明年、また西寿監軍司を保泰軍と改め、石州監軍司を静塞軍と改め、韋州監軍司を祥祐軍と改め、左廂監軍司を神勇軍と改む。人を遣わし方物を献じ、宣徽南院使と称す。詔して諭す、陪臣の称すべきに非ずと。その僭擬を戒め、誓詔に遵わしむ。表して太宗の御製詩章の隷書石本を求め、且つ馬五十匹を進め、九経・唐史・冊府元亀及び宋の正至朝賀儀を求む。詔して九経を賜い、献じた馬を還す。
治平の初め、榷場の復活を求めたが、許されなかった。やがて呉宗らを派遣して英宗即位を賀し、詔して門で謁見せしめようとしたが、使者は従わず、順天門に至り、かつ魚袋及び儀物を佩びて自ら従おうとしたので、引伴の高宜がこれを禁じたが、聞き入れず、廄置に一晩留め置き、供饋を絶った。呉宗の言葉が不遜であったので、高宜がこれを折伏し、故事の如くせしめたところ、久しくしてようやく入ることを聴した。殿門で食を賜るに及んで、また押伴の張覲に訴えたので、詔して延州に還り赴き高宜と弁明せしめた。呉宗は理屈に屈することを思い、再び対決しようとしなかった。そこで詔して諒祚にこれを懲らしめ約束させた。秋、夏人は秦鳳・涇原に出兵し、熟戸を掠め、辺塞の弓箭手を擾乱し、人畜を殺掠すること万計に及んだ。程戡・王素・孫長卿は諸族の首領を諭して安んじ、誘惑脅迫による離散反逆を防がしめた。文思副使王無忌を遣わして詔を齎し問わせたところ、諒祚は遷延して受けず、後に賀正使の荔茂先に因って表を献じ、宋の辺吏に罪を帰した。