◎周三臣○韓通 李筠 李重進
【序】
『五代史記』に『唐六臣傳』あり、譏りを示すなり。『宋史』が周三臣を傳ふるは、その名はこれに似たり、その義は異なり、同じき所以を求めれば、則ち正名義・扶綱常に帰するのみ。韓通は宋太祖と比肩して周に事へ、而して宋の未だ禪を受けざるの頃に死す、然れども宋に傳へざれば、則ち忠義の志何れの所に托して存せんや。李筠・李重進は旧史に叛と書く、叛とするか否か言ひ易からず、洛邑の所謂る頑民は、殷の忠臣に非ずや。孔子『書』を定むるに、その旧称を改めざりき。或いは曰く、三人者は嘗て唐・晉・漢に臣とせりと。曰く、智氏の豫讓に非ずや。『周三臣傳』を作す。
韓通
韓通は、并州太原の人なり。弱冠にして應募し、勇力を以て聞こえ、騎軍隊長を補せらる。晉の開運の末、漢祖太原に義を建つるに、通を帳下に置く。尋いで漢祖に從ひて東京に至り、累遷して軍校と為る。漢祖衛兵を典す、通を以て衙隊副指揮使と為し、杜重威を討つに從ひ、銀青の階を得、檢校國子祭酒。漢祖國を開き、檢校左僕射を加ふ。隱帝即位し、奉國指揮使に遷る。
廣順の初め、虎捷右廂都校と為り、左廂に遷り、孟州巡檢を充て、繼いで永・睦二州防禦使を領す。周祖親征して兗州を征す、通を以て在京右廂都巡檢と為す。時に河溢れ、河陰城に灌ぐ、通をして廣銳の卒千二百を率ひて汴口を浚はしめ、又部して河陰城を築かしめ、營壁を創めしむ。未だ幾ばくもあらず、保義軍節度觀察留後を拝し、周祖親郊し、正しく節度を授く。并州の劉崇南侵す、通をして河中の王彥超に副ひて晉州道より之を撃たしむ、高平に敗る。通を以て太原北面行營部署と為し、地道を為して其の城を攻む。俄に師を班し、曹州に移鎮し、檢校太保。
六年春、詔して通を河北に遣はし河堤を行ひ按ぜしめ、因りて徐・宿・宋・單等州の民を發して汴渠數百里を浚はしむ。世宗將に北征せんとす、通と高懷德・張鐸をして先づ滄州に赴かしめ、襲衣・金帶・鞍馬・器帛を賜ふ。即ち兵を領して契丹境の乾寧軍の南に入る。俄に陸路都部署と為り、殿前都虞候石守信之に副ふ。又通をして北邊を巡らしめ、浮陽より淤口浦に至るまで壞坊三十六を通じ、遂に瀛・莫を通ず。初め益津關を克ち、以て霸州と為し、濱・棣の民數千を役して之に城し、通をして其の役を董めしむ。師還り、以て檢校太尉・同平章事と為し、侍衛親軍馬步軍副都指揮使を充てる。恭帝即位し、鄆州に移領す。
太祖詔を奉じて北征し、陳橋に至りて諸軍の推戴を受く。通殿閣に在り、變有るを聞き、惶遽して歸る。軍校王彥升路に於て通に遇ひ、馬を策して之を逐ふ、通其の第に馳入る、未だ門を闔ふに及ばず、彥升の害する所と為り、妻子皆死す。太祖通の死を聞き、彥升の專殺を怒り、開國の初めなるを以て、隱忍して罪に及ばず。即ち詔を下して曰く、「易姓受命は、王者の期に應ずる所以なり。難に臨みて苟もせざるは、人臣の節を全うする所以なり。故に周の天平軍節度・檢校太尉・同中書門下平章事・侍衛親軍馬步軍副指揮使韓通は、跡を戎伍に振ひ、質を前朝に委ね、茂功を彰灼し、勇爵を踐更す。夙に交を霸府に定め、遂に武を和門に接ぎ、艱險を共に嚐め、情好尤も篤し。朕三靈の眷佑を以てし、百姓の推すを樂しみ、元勳を言念し、將に殊寵を加へんとす、蒼黃として害に遇ひ、良く用て憮然たり。中書令を贈る可く、禮を以て收葬せしむ。高品梁令珍を遣はして喪事を護らしむ」と。
通性剛にして謀寡く、言多く物に忤ひ、威虐を肆ひ、眾之を「韓瞠眼」と謂ふ。其の子頗る智略有り、幼くして傴を病み、人目して「橐駝兒」と為す。太祖人望有るを見て、常に通に勸めて早く之が所為有らしめんとす、通聽かず。後太祖開寶寺に幸す、通及び其の子の畫像の壁に在るを見て、遽に命じて之を去らしむ。
李筠
李筠は并州太原の人である。騎射に長じていた。後唐の秦王従栄が六軍諸衛を統轄した時、勇士を募って爪牙としようとし、李筠は弓矢を携えて求見した。弓力は百斤に及び、府中でこれを引ける者はいなかった。従栄が李筠に射させると、弓を引き絞ってなお余力があり、二度射てば皆命中したので、麾下に隷属させた。従栄の難が起こると、李筠は騎馬で従って天津橋に至り、十数人を射殺したが、事の成就せぬを知り、馬を棄てて遁走した。清泰初年、応募して内殿直となり、控鶴指揮使に遷った。
晋の開運末年、契丹が汴京を侵犯した時、その将趙延寿は李筠の驍勇を聞き、召し出して帳下に置いた。契丹主が北帰し欒城で死ぬと、延寿は常山に至り、永康王に捕らえられた。契丹の兵数万は常山を占拠したが、後に北去した。耶律解裏を留め置き、兵はわずか二千騎、また別に部首領楊袞に千騎を与えて邢州・洺州を掠めさせた。当時中朝の士大夫多くは城中にあり、契丹と漢人が雑居し、解裏は性貪婪で身勝手に振る舞い、漢軍の日々の食糧を削ったので、兵士は皆顔色が青ざめていた。李筠はその怨みに乗じ、密かに王蕘・石公霸・何福進らと謀り、閏七月二十九日、契丹の門番が朝食をとるのを待ち、寺の鐘を撞くのを合図に、相率いて兵庫を占拠し、次いで牙門を焼き、市人に大声で呼びかけ、力を合わせてこれを撃った。契丹の兵は大いに驚き、北門から出て行き、解裏は急いで家族と車馬を野に並べた。翌日、兵を集めて郭内に入り力戦したが、晋の士卒が分かれて掠奪に走ったため、ただ控鶴一軍のみが市民と共に防禦し、死傷相継いだ。午後、郭外の民千余人が契丹の敗走を知り、武器を持ってその家族と車馬に迫り、これを奪おうとした。守備兵が郭内に馳せ込んで告げると、解裏はこれを聞き、遂に家族を連れて去った。初め、李筠が謀を立てて諸将に同力を約した時、控鶴左廂都校の白再栄はまず室に隠れて応じようとせず、李筠は佩刀を抜いて幕を破り、その腕を引いて迫ったので、再栄は已むなく従い、諸将も次第にこれに赴いた。契丹が去った後、百姓の死者は二千余人に及んだ。諸将は互いにその功を誇り、李筠は故相の馮道のもとに赴き、節度事を暫く領するよう請うた。馮道は言った、「そなたは主として奏事を行うだけでよい。留後の事は功臣を議してこれに任ずべきである」と。馮道は諸将が功を争って再び乱れることを恐れ、再栄の前職が貴いことを以て諸将に加え、暫く留後に推挙したので、人心は遂に定まった。この戦いで、李筠の功が最も多かった。即座に漢祖に帰順の意を伝え、その子を朝廷に赴かせると、漢祖は深くこれを賞した。控鶴一軍が力戦したことを以て、優に賜与を加え、再栄を留後に任じ、李筠を博州刺史とした。李筠は賞が薄いことを喜ばなかった。
世宗が即位すると、并人が侵入し、その将張暉が先鋒を率いて団柏谷から入り、梁侯驛に営し、堡柵を攻撃掠奪し、至る所で焼き払い尽くした。李筠は護軍の穆令均に歩騎二千を率いてこれを防がせた。令均は太平驛に営した。驛の東南は潞州から八十里で、偵察巡邏を怠ったため、暉が夜明け前に急に至ると、潞兵は甲を着け馬に鎧を着けていた。暉はこれを見て偽って退き、潞兵がこれを追うと、并の伏兵が遂に発した。令均は戦いながら退き、歩卒で并に降った者は数百人、騎兵で帰還しなかった者は百人、残りの兵は潞州に還って守った。世宗は親征して沁州を降し、李筠に沁州の行営兵を率いて太原に赴かせ、符彦卿に忻口を戍らせ、契丹の援兵を防がせた。彦卿が増兵を請うと、詔で李筠と張永徳に三千騎を増援させた。既に到着すると、偏師を以て契丹の背後を回り、奮撃してこれを走らせた。師が還ると、兼侍中を加えられた。
太祖の建隆初年、兼中書令を加えられ、周の禅譲を受けたことを告げる使者が遣わされた。李筠は即座に拒絶しようとしたが、左右が歴数を説いて、ようやく無理に下拝したが、容貌はなお恭しくなかった。使者を階上に延いて酒宴を設け音楽を奏すると、急に周祖の画像を求め壁に掛け、涕泣して止まなかった。賓佐は惶駭し、使臣に告げて言った、「令公は酒に酔って常性を失われました。訝しまれませんよう」と。太原の劉鈞が蠟書をもって李筠と結び共に挙兵しようとすると、李筠は書を封じて太祖に上ったが、心には既に異謀を抱いていた。太祖は手詔を以て慰撫した。この時、李筠の子守節は皇城使で、嘗て泣いて諫めたが、李筠は聞き入れなかった。太祖はまた守節を遣わして旨を諭させた、「そなたが父を諫め、父が聞き入れぬと聞く。今そなたを殺すのはどうか。帰って父に語れ、朕が天子でない時は、勝手にせよと。既に天子となれば、朕に臣下として仕えられぬというのか」と。守節が李筠に告げると、李筠の謀は愈々甚だしくなり、遂に兵を起こし、幕府に檄文を作らせたが、その文辞は多く不遜であった。従事の閭丘仲卿が李筠に献策して言った、「公は孤軍をもって挙事するは、その勢い甚だ危うし。河東の援けに倚るといえども、またその力を得られぬ恐れあり。大梁の兵甲は精鋭にして、争鋒し難し。太行を西下し、直ちに懐・孟に抵り、虎牢を塞ぎ、洛邑を拠り、東向かって天下を争うは、計の上なるものなり」と。李筠は言った、「我は周朝の宿将にして、世宗とは義兄弟の如し。禁衛は皆旧人なり、我の来るを聞けば、必ず倒戈して我に帰せん。況んや儋珪の槍、撥汗の馬あらんや、天下を憂うるに足らじ」と。儋珪は李筠の愛将で勇力あり、槍を用いるに長じ、撥汗は李筠の駿馬で、日に七百里を馳せる。故に李筠はこれを誇ったのである。監軍の亳州防禦使周光遜・閑廄使李廷玉を捕らえ、判官の孫孚・衙校の劉継忠を遣わして劉鈞のもとに送り、援軍を求めた。また人を遣わして沢州刺史の張福を殺し、その城を占拠しようとした。
劉鈞は遂に兵と契丹の数千の兵を率いて来援し、太平驛に至った。李筠は臣礼をもって迎謁したが、劉鈞の兵衛が寡弱なのを見て、甚だこれを悔いたが、業既に然るべくしてしまっていた。劉鈞は李筠を西平王に封じ、馬三百匹を賜い、召して語らうと、李筠は自ら周祖の大恩を受けたと述べ、敢えて死を愛して悟らぬと言った。劉鈞は周祖と世仇があったので、劉鈞は黙然とし、遂に李筠を疑った。宣徽使の盧讚をして李筠の軍を監させると、李筠は心に平らかでなく、頗る盧讚と協調せず、劉鈞はまた平章事の衛融に和解させた。
李筠は馬三千匹を有し、鞠場を開いて閲習し、日夜謀畫して寇を為さんとす。その子守節を留めて上黨を守らせ、衆を率いて南に向かう。太祖は石守信・高懷徳を遣わして兵を将いてこれを討たしむ。勅して曰く、「筠をして太行を下らしむることなかれ、急ぎ師を進めてその隘を扼せば、これを破ること必ずせん」と。また慕容延釗・王全斌を遣わして東路より守信と会せしめ、監軍李崇矩とともに筠の衆を長平に破り、首三千級を斬る。また大会砦を攻め、これを下す。
太祖遂に親征す。山路険峻にして石多く行うべからず、太祖先ず馬上に数石を負い、群臣六軍皆これを負う、即日に平らかにして大道と為す。守信・懷徳と会し、筠の衆三万を沢南に破り、降る者三千余、筠の監軍使盧讚を殺し、筠の河陽節度範守図を擒え、筠は走り還り沢を保つ。太祖至り、柵を列ねてこれを囲む、筠の龍捷使王廷魯・吐渾留後汾州團練使王全徳、率いる所の部を自ら昭義より来降す、筠益々援を失う。太祖親しく戦を督し、その城を抜く、筠は水に赴きて死す、鈞の相衛融を獲、鈞は懼れて遁れ帰る。太祖進みて上黨を伐ち、守節は城を以て降り、その罪を釈し、襲衣・金帯・銀鞍勒馬を賜う。この日従官を宴し、守節これに預かる、単州團練使と為す。昭義軍節度副使趙処願を以て郢州刺史と為し、節度判官孫孚を屯田郎中と為し、観察判官史文通を水部郎中と為し、前遼州衙内指揮使馬廷禹を右監門衛将軍と為し、壁州刺史を領せしむ。
筠の性暴なりと雖も、母に事うること甚だ孝なり、毎に怒りて人を殺さんとすれば、母は屏風の後にて筠を呼び、筠は趨り至れば、母曰く、「人を殺さんとすと聞く、免れしむること可きか。吾曹の福を増さんが為めなり」と。筠遽かにこれを釈す。筠稍々書を知り、頗る調謔を好む。初め栄と名づく、周世宗の諱を避け、これを改めんとす、或る者「筠」と名づけしむ、筠曰く、「李筠、李筠、玉帛雲乎哉」と。聞く者皆笑う。
筠に愛妾劉氏あり、筠に随いて沢に至る、時に城を攻められ危うきに被り、劉は筠に謂いて曰く、「城中の健馬幾何ぞ」と。筠曰く、「爾安ぞ此を問う」と。劉曰く、「孤城危蹙し、破れること俄頃に在り、今誠に馬数百を得て、腹心とともに囲を潰し、出でて昭義を保ち、河東に援を求めば、猶お坐して死を待つに愈れり」と。筠然りとす。左右を召して馬を計るに尚ほ千匹に減ぜず、この夕を以て出でんとす、或る者筠に謂いて曰く、「今帳前の計議、皆云う一心なりと、県門既に発すれば、保つべからざるなり、もし公を劫して降らば、悔ゆること其れ及ぶべけんや」と。筠は猶豫して決せず。明日城陥ち、筠は火に赴かんとす、劉は俱に死せんと欲す、筠はその娠あるを以て、麾して去らしむ。守節既にこれを購い得て、果たして子を生めり。
李重進
重進は年世宗より長ず、及び周祖寝疾す、重進を召して顧命を受けしめ、世宗に拝せしめ、以て君臣の分を定む。世宗位を嗣ぎ、侍衛親軍馬歩軍都虞候と為る。世宗に従い劉崇を征し、高平に戦い、利あらず、大将樊愛能・何徽その衆を以て遁る、唯だ重進と白重讚兵を勒して動かず。既にして太祖先ず麾下を以て敵を犯し、重讚継いで領する所の部を以て力戦し、世宗躬く衛兵を率いて勢を合わす、周の師復た振い、崇遂に大敗す。功を以て忠武軍節度を領す。及び進みて太原を討ち、また行営馬歩軍都虞候と為る。師還り、同中書門下平章事を加えられ、帰徳軍節度兼侍衛馬歩軍都指揮使に改む。
世宗親しく淮南を征し、重進に命じて兵を将い先ず正陽に赴かしむ。俄かに李穀の寿春を攻めて克たず、退きて正陽を保つと聞き、重進の兵を促してこれを助けしむ。呉人は穀の退くを懼れ、乃ち兵三万餘を発し、旌旗輜重数百里に亙り、また戦棹二百艘を発して断橋の勢を張り、陣を列ね鼓噪して北し、拒馬を横布すること万数、皆利刃を貫き、鉄索を以て維ぎ、また木を刻みて戦形と為し、陣前に立て、「揵馬牌」と号し、皮囊に鉄蒺莉を貯えて以て戦地に布く。時に周の師未だ朝食せず、呉の師奄かに至る、周の師その陣を望み皆これを笑う。宣祖前軍を領し重進・韓令坤と勢を合わしてこれを撃ち、一鼓にして敗ち、首万餘級を斬り、奔るを二十餘里に追い、大将劉彦貞を殺し、裨将盛師朗数十人を擒え、三千人を降し、戈甲三十万を獲る。世宗大いに悦び、詔書を以て褒諭し、即ち重進を以て穀に代えて行営招討使と為し、襲衣・金帯・玉鞍・名馬を賜う。
張永徳は下蔡に屯し、重進と協わず。永徳毎に将吏を宴すれば、多く重進の短を暴にし、後醉いに乗じて重進に奸謀有りと謂い、将吏驚駭せざる無し。永徳密かに親信を遣わし駅乗にて上言せしむ、世宗これを信ぜず、また意に介せず。二将俱に重兵を握る、人情益々憂恐す。重進遂に寿陽より単騎直ちに永徳の帳中に詣り、命じて酒を飲ましめ、親しく酌みて永徳に謂いて曰く、「吾と公は皆国家の肺腑、相与に戮力し、同じく王室を奨く、公何ぞ我を疑うことの深きや」と。永徳意解け、二軍皆安んず。李景これを知り、密かに人をして蠟書を齎し重進を誘わしめ、厚利を以て啖わす、重進その事を表す。時に行濠州刺史斉蔵珍もまた重進を説く、世宗これを知り、他事を仮りて蔵珍を誅す。
詔して重進に淮を夾みて正陽・下蔡に城せしめ、既に成り、その図を上る。俄にまた淮兵二千餘を塌山の北に敗る。時に寿を囲むこと経年下らず、呉は将許文緽・辺鎬を遣わし舟師数万、淮を溯り来援す。文緽は舟を淮南に維ぎ、紫金山に拠る、山は寿より数里を距り、十余砦を設け、連亙相望み、城中と烽火相応じ、また南に夾道を築き、将に寿に抵りて饋路と為さんとす。重進その城北に砦を展ぐるを伺い、兵を出してこれを撃ち、五千餘衆を敗り、二砦を奪い、器甲甚だ衆を獲る。世宗寿に幸し、従官を宴し、重進を召して戎服・玉帯・金銀器・繒彩・鞍勒馬を賜う。及び寿を克ち、功を録して検校太傅兼侍中を加え、また天平軍節度に改め、仍って招討使と為す。
四年、濠州南関城を攻め取り、その団練使郭廷謂が兵一万余を率いて降伏し、糧数万斛を獲た。楚州平定に従い、先に揚州に還ることを命ぜられる。五年、世宗が迎鑾に在り、重進を遣わして兵を率い廬州に赴かしむ。時に李景が江を画して界と為すことを請うたので、世宗は遂に還り、重進を留めて戍守せしめ、李景は人を遣わして牛酒を以て犒労せしむるも、俄かに還って鎮す。六年、世宗北征し、博州に次る。重進来朝し、行宮に宴を賜い、即ち兵を将いて先に北面に趣かしむ。世宗が瓦橋関に駐るに及び、重進は諸将と共に師を率いて至る。時に関南は既に平定し、幽州を進取するを議す。会に世宗の不豫に遭い而して止む。即ち命じて率いる所の部をして河東に赴かしめ、百井路に次り、並人五千余を破り、二千余級を斬る。恭帝嗣位し、検校太尉を加え、淮南道節度に改む。
太祖即位し、韓令坤を以て代わりに侍衛都指揮使と為し、重進に中書令を加う。既にして鎮を青州に移し、開府階を加う。重進は太祖と共に周室に事え、兵柄を分掌し、常に心に太祖を憚る。太祖立つや、愈々自ら安からず、及び移鎮を聞き、陰に異志を懐く。太祖之を知り、六宅使陳思誨を遣わし鉄券を齎し賜いて、以て其の心を安んず。重進は装を治めて思誨に随い入朝せんと欲すも、左右に惑わされ、猶豫決せず。又自ら周室の近親を以て、全うを得ざるを恐れ、遂に思誨を拘え、城隍を治め、兵甲を繕い、人を遣わして李景に援を求む。李景懼れて納れず、之を太祖に聞かしむ。監軍安友規は常に重進に忌まれる所と為る。是に至り、友規は親信数人と謀りて関を斬り出でんとすも、衆に拒まれて、城を踰えて脱するを得たり。重進は軍校にして附かざる者数十人を捕え、尽く之を殺す。
太祖は石守信・王審琦・李處耘・宋偓の四将を遣わし、禁兵を率いて重進を討たしむ。会に友規至る。襲衣・金帯・器幣・鞍馬を賜い、以て滁州刺史と為し、前軍を監せしむ。太祖左右に謂いて曰く、「朕周室の旧臣に於て猜間する所無し。重進朕が心を体せず、自ら反側を懐く。今六師野に在り、暫く往きて之を慰撫すべし」と。遂に親征し、大儀鎮に次る。石守信は使を馳せて奏し、揚州の破は旦夕に在り、願わくは車駕臨視せんことを。太祖径に城下に至り、即日之を抜く。初め、城将に陥らんとするに、重進の左右思誨を殺すを勧む。重進曰く、「吾今挙族将に火に赴きて死せんとす。此れを殺す何の益かあらん」と。即ち火を放ちて自焚し、思誨も亦其の党に害せらる。太祖入りて城西南に駐り、逆党数百人を閲し、尽く之を戮す。重進の兄深州刺史重興、其の叛くを聞き、自殺す。弟解州刺史重讚・子尚食使延福は並びに市にて戮せらる。
初め、重進兵を挙げんと謀り、親吏翟守珣を遣わして潞に往き、陰に李筠と結ぶ。守珣は素より太祖を知り、京師に往還し、潜かに枢密承旨李處耘に詣りて求見す。太祖問いて曰く、「我重進に鉄券を賜わんと欲す。彼我を信ずるや」と。守珣曰く、「重進終に帰順の志無し」と。
太祖は厚く守珣に賜い、爵位を以て許し、且つ重進を説きて其の謀を緩めしめ、二凶を並作せしめず、以て兵勢を分からしむ。守珣帰り、重進に威を養い持重するを勧め、軽く発すべからずと。重進甚だ之を信ず。及び李筠誅せられ、重進の反書聞こゆるに及び、並びに太祖の策の如く、其の鉄券を信ぜざるも、亦守珣の云う所の如し。揚州既に平ぎ、守珣を購い得て、殿直に補し、俄かに供奉官と為る。