宋史

列傳第二百四十三 周三臣 韓通 李筠 李重進

列傳第二百四十三 周三臣 韓通 李筠 李重進

◎周三臣○韓通 李筠 李重進

原文◎周三臣○韓通李筠李重進

【序】

原文【序】

『五代史記しき』に『唐六臣傳』あり、譏りを示すなり。『宋史』が周三臣を傳ふるは、その名はこれに似たり、その義は異なり、同じき所以を求めれば、則ち正名義・扶綱常に帰するのみ。韓通は宋太祖と比肩して周に事へ、而して宋の未だ禪を受けざるの頃に死す、然れども宋に傳へざれば、則ち忠義の志何れの所に托して存せんや。李筠・李重進は旧史に叛と書く、叛とするか否か言ひ易からず、洛邑の所謂る頑民は、殷の忠臣に非ずや。孔子『書』を定むるに、その旧称を改めざりき。或いは曰く、三人者は嘗て唐・晉・漢に臣とせりと。曰く、智氏の豫よ讓に非ずや。『周三臣傳』を作す。

原文《五代史記》有《唐六臣傳》,示譏也。《宋史》傳周三臣,其名似之,其義異焉,求所以同,則歸於正名義、扶綱常而已。韓通與宋太祖比肩事周,而死於宋未受禪之頃,然不傳於宋,則忠義之誌何所托而存乎?李筠、李重進舊史書叛,叛與否未易言也,洛邑所謂頑民,非殷之忠臣乎?孔子定《書》,不改其舊稱焉。或曰:三人者嚐臣唐、晉、漢矣。曰:智氏之豫讓非歟!作《周三臣傳》。

韓通

原文韓通

韓通は、并へい州太原の人なり。弱冠にして應募し、勇力を以て聞こえ、騎軍隊長を補せらる。晉の開運の末、漢祖太原に義を建つるに、通を帳下に置く。尋いで漢祖に從ひて東京に至り、累遷して軍校と為る。漢祖衛兵を典す、通を以て衙隊副指揮使と為し、杜重威を討つに從ひ、銀青の階を得、檢校國子祭酒。漢祖國を開き、檢校左僕射を加ふ。隱帝即位し、奉國指揮使に遷る。

原文韓通,并州太原人。弱冠應募,以勇力聞,補騎軍隊長。晉開運末,漢祖建義於太原,置通帳下。尋從漢祖至東京,累遷為軍校。漢祖典衛兵,以通為衙隊副指揮使,從討杜重威,得銀青階,檢校國子祭酒。漢祖開國,加檢校左仆射。隱帝即位,遷奉國指揮使。

乾祐の初め、周祖樞密使と為り、兵を統べて河中を伐つ。通の謹厚なるを知り、之をして自ら從はしめ、先登し、身に六創を被り、功を以て本軍都虞候に遷る。周祖大名に鎮す、通を天雄軍馬步軍都校と為すを奏し、心腹を以て委ね、汴に入るに及び、通甚だ力有り。奉國左第六軍都校を授け、雷州刺史を領す。

原文乾祐初,周祖為樞密使,統兵伐河中。知通謹厚,命之自隨,先登,身被六創,以功遷本軍都虞候。周祖鎮大名,奏通為天雄軍馬步軍都校,委以心腹,及入汴,通甚有力焉。授奉國左第六軍都校,領雷州刺史。

廣順の初め、虎捷右廂都校と為り、左廂に遷り、孟州巡檢を充て、繼いで永・睦二州防禦使を領す。周祖親征して兗州を征す、通を以て在京右廂都巡檢と為す。時に河溢れ、河陰城に灌ぐ、通をして廣銳の卒千二百を率ひて汴口を浚はしめ、又部して河陰城を築かしめ、營壁を創めしむ。未だ幾ばくもあらず、保義軍節度觀察留後を拝し、周祖親郊し、正しく節度を授く。并州の劉崇南侵す、通をして河中の王彥超に副ひて晉州道より之を撃たしむ、高平に敗る。通を以て太原北面行營部署と為し、地道を為して其の城を攻む。俄に師を班し、曹州に移鎮し、檢校太保。

原文廣順初,為虎捷右廂都校,遷左廂,充孟州巡檢,繼領永、睦二州防禦使。周祖親征兗州,以通為在京右廂都巡檢。時河溢,灌河陰城,命通率廣銳卒千二百浚汴口,又部築河陰城,創營壁。未幾,拜保義軍節度觀察留後,周祖親郊,正授節度。并州劉崇南侵,命通副河中王彥超出晉州道擊之,敗於高平。以通為太原北面行營部署,為地道攻其城。俄班師,移鎮曹州,檢校太保。

世宗即位し、深・冀の間に胡蘆河有り、東西に横亙すること數百里、堤堨峻しからず、契丹の奔突を扼す能はず。顯德二年、通と王彥超をして之を浚治せしむ、功未だ就かず、契丹至る、通兵を出して迎撃し之を退け、遂に李晏口に城して靜安軍と為し、四旬にして完る。又束鹿及び鼓城に城し、並びに祁州を葺ふ。時に大兵の後、遺骸野に布く、通悉く収めて瘞し萬人塚と為す。又博野・安平に城し、深・定の間を往來し、夜は古寺に宿し、晝は荊棘を披く。安平に在りて百餘騎を領して役を督む、會ふ契丹の騎數百奄に至る、通麾下を率ひて與に戰ひ、日暮れて大風雨、契丹解けて去り、十餘騎を擒ふ。又百八橋鎮及び武強縣に城し、皆旬日にして畢る。歸朝し、會ひて秦・鳳を攻む、通を以て西南面行營馬步軍都虞候と為し、大散關に入り、鳳州を圍み、兵を分かちて固鎮に城し、以て蜀しょくの餉道を斷つ。未だ幾ばくもあらず、鳳州を拔き、功を以て侍衛馬步軍都虞候を授く。

原文世宗即位,以深、冀之間有胡蘆河,東西橫亙數百里,堤堨非峻,不能扼契丹奔突。顯德二年,命通與王彥超浚治之,功未就,契丹至,通出兵迎擊退之,遂城李晏口為靜安軍,四旬而完。又城束鹿及鼓城,並葺祁州。時大兵之後,遺骸布野,通悉收瘞為萬人塚。又城博野、安平,往來深、定間,夜宿古寺,晝披荊棘。在安平領百餘騎督役,會契丹騎數百奄至,通率麾下與戰,日暮大風雨,契丹解去,擒十餘騎。又城百八橋鎮及武強縣,皆旬日畢。歸朝,會攻秦、鳳,以通為西南面行營馬步軍都虞候,入大散關,圍鳳州,分兵城固鎮,以斷蜀餉道。未幾,拔鳳州,以功授侍衛馬步軍都虞候。

世宗淮南を征す、通をして京城都巡檢と為さしむ。世宗都城の狹小なるを以て、畿甸の民を役して新城を築かしめ、又舊城の街道を廣む。左龍武統軍薛可信・右衛上將軍史佺・右監門衛上將軍蓋萬・右羽林將軍康彥環をして分かちて四面を督めしめ、通總領して其の役を掌る。功未だ就かず、世宗淮上に幸す、通を留めて在京內外都巡檢・權點檢侍衛司と為す。是の役なり、期すること三年、纔かに半歳にして就る。三年、秦・鳳の功を追敘し、改めて忠武軍節度・檢校太傅を領せしめ、又侍衛馬步軍都虞候を改む。世宗壽春に幸す、京城內外都巡檢と為る。淮南平ぐ、歸德軍節度と為る。

原文世宗征淮南,命通為京城都巡檢。世宗以都城狹小,役畿甸民築新城,又廣舊城街道。命左龍武統軍薛可信、右衛上將軍史佺、右監門衛上將軍蓋萬、右羽林將軍康彥環分督四面,通總領其役。功未就,世宗幸淮上,留通為在京內外都巡檢、權點檢侍衛司。是役也,期以三年,才半歲而就。三年,追敘秦、鳳功,改領忠武軍節度、檢校太傅,又改侍衛馬步軍都虞候。世宗幸壽春,為京城內外都巡檢。淮南平,為歸德軍節度。

六年春、詔して通を河北に遣はし河堤を行ひ按ぜしめ、因りて徐・宿・宋・單等州の民を發して汴渠數百里を浚はしむ。世宗將に北征せんとす、通と高懷德・張鐸をして先づ滄州に赴かしめ、襲衣・金帶・鞍馬・器帛を賜ふ。即ち兵を領して契丹境の乾寧軍の南に入る。俄に陸路都部署と為り、殿前都虞候石守信之に副ふ。又通をして北邊を巡らしめ、浮陽より淤口浦に至るまで壞坊三十六を通じ、遂に瀛・莫を通ず。初め益津關を克ち、以て霸は州と為し、濱・棣の民數千を役して之に城し、通をして其の役を董めしむ。師還り、以て檢校太尉・同平章事と為し、侍衛親軍馬步軍副都指揮使を充てる。恭帝即位し、鄆州に移領す。

原文六年春,詔通河北按行河堤,因發徐、宿、宋、單等州民浚汴渠數百里。世宗將北征,命通與高懷德、張鐸先赴滄州,賜襲衣、金帶、鞍馬、器帛。即領兵入契丹境乾寧軍之南。俄為陸路都部署,殿前都虞候石守信副焉。又命通巡北邊,自浮陽至淤口浦壞坊三十六,遂通瀛、莫。初克益津關,以為霸州,役濱、棣民數千城之,命通董其役。師還,以為檢校太尉、同平章事,充侍衛親軍馬步軍副都指揮使。恭帝即位,移領鄆州。

太祖詔を奉じて北征し、陳橋に至りて諸軍の推戴を受く。通殿閣に在り、變有るを聞き、惶遽して歸る。軍校王彥升路に於て通に遇ひ、馬を策して之を逐ふ、通其の第に馳入る、未だ門を闔ふに及ばず、彥升の害する所と為り、妻子皆死す。太祖通の死を聞き、彥升の專殺を怒り、開國の初めなるを以て、隱忍して罪に及ばず。即ち詔を下して曰く、「易姓受命は、王者の期に應ずる所以なり。難に臨みて苟もせざるは、人臣の節を全うする所以なり。故に周の天平軍節度・檢校太尉・同中書門下平章事・侍衛親軍馬步軍副指揮使韓通は、跡を戎伍に振ひ、質を前朝に委ね、茂功を彰灼し、勇爵を踐更す。夙に交を霸府に定め、遂に武を和門に接ぎ、艱險を共に嚐め、情好尤も篤し。朕三靈の眷佑を以てし、百姓の推すを樂しみ、元勳を言念し、將に殊寵を加へんとす、蒼黃として害に遇ひ、良く用て憮然たり。中書令を贈る可く、禮を以て收葬せしむ。高品梁令珍を遣はして喪事を護らしむ」と。

原文太祖奉詔北征,至陳橋為諸軍推戴。通在殿閣,聞有變,惶遽而歸。軍校王彥升遇通於路,策馬逐之,通馳入其第,未及闔門,為彥升所害,妻子皆死。太祖聞通死,怒彥升專殺,以開國初,隱忍不及罪。即下詔曰:“易姓受命,王者所以應期;臨難不苟,人臣所以全節。故周天平軍節度、檢校太尉、同中書門下平章事、侍衛親軍馬步軍副指揮使韓通,振跡戎伍,委質前朝,彰灼茂功,踐更勇爵。夙定交於霸府,遂接武於和門,艱險共嚐,情好尤篤。朕以三靈眷佑,百姓樂推,言念元勳,將加殊寵,蒼黃遇害,良用憮然。可贈中書令,以禮收葬。遣高品梁令珍護喪事。”

通性剛にして謀寡く、言多く物に忤ひ、威虐を肆ひ、眾之を「韓瞠眼」と謂ふ。其の子頗る智略有り、幼くして傴を病み、人目して「橐駝兒」と為す。太祖人望有るを見て、常に通に勸めて早く之が所為有らしめんとす、通聽かず。後太祖開寶寺に幸す、通及び其の子の畫像の壁に在るを見て、遽に命じて之を去らしむ。

原文通性剛而寡謀,言多忤物,肆威虐,眾謂之“韓瞠眼”。其子頗有智略,幼病傴,人目為“橐駝兒”。見太祖有人望,常勸通早為之所,通不聽。後太祖幸開寶寺,見通及其子畫像於壁,遽命去之。

李筠

原文李筠

李筠は并州太原の人である。騎射に長じていた。後唐の秦王従栄が六軍諸衛を統轄した時、勇士を募って爪牙としようとし、李筠は弓矢を携えて求見した。弓力は百斤に及び、府中でこれを引ける者はいなかった。従栄が李筠に射させると、弓を引き絞ってなお余力があり、二度射てば皆命中したので、麾下に隷属させた。従栄の難が起こると、李筠は騎馬で従って天津橋に至り、十数人を射殺したが、事の成就せぬを知り、馬を棄てて遁走した。清泰初年、応募して内殿直となり、控鶴指揮使に遷った。

原文李筠,并州太原人。善騎射。後唐秦王從榮判六軍諸衛,募勇士為爪牙,筠操弓矢求見。弓力及百斤,府中無能挽者,從榮令筠射,引滿有餘力,再發皆中,因以隸麾下。從榮難作,筠騎從至天津橋,射殺十數人,知事不濟,棄馬遁去。清泰初,應募為內殿直,遷控鶴指揮使。

晋の開運末年、契丹が汴京を侵犯した時、その将趙延寿は李筠の驍ぎょう勇を聞き、召し出して帳下に置いた。契丹主が北帰し欒城で死ぬと、延寿は常山に至り、永康王に捕らえられた。契丹の兵数万は常山を占拠したが、後に北去した。耶律解裏を留め置き、兵はわずか二千騎、また別に部首領楊袞に千騎を与えて邢州・洺州を掠めさせた。当時中朝の士大夫多くは城中にあり、契丹と漢人が雑居し、解裏は性貪婪で身勝手に振る舞い、漢軍の日々の食糧を削ったので、兵士は皆顔色が青ざめていた。李筠はその怨みに乗じ、密かに王蕘・石公霸・何福進らと謀り、閏七月二十九日、契丹の門番が朝食をとるのを待ち、寺の鐘を撞くのを合図に、相率いて兵庫を占拠し、次いで牙門を焼き、市人に大声で呼びかけ、力を合わせてこれを撃った。契丹の兵は大いに驚き、北門から出て行き、解裏は急いで家族と車馬を野に並べた。翌日、兵を集めて郭内に入り力戦したが、晋の士卒が分かれて掠奪に走ったため、ただ控鶴一軍のみが市民と共に防禦し、死傷相継いだ。午後、郭外の民千余人が契丹の敗走を知り、武器を持ってその家族と車馬に迫り、これを奪おうとした。守備兵が郭内に馳せ込んで告げると、解裏はこれを聞き、遂に家族を連れて去った。初め、李筠が謀を立てて諸将に同力を約した時、控鶴左廂都校の白再栄はまず室に隠れて応じようとせず、李筠は佩刀を抜いて幕を破り、その腕を引いて迫ったので、再栄は已むなく従い、諸将も次第にこれに赴いた。契丹が去った後、百姓の死者は二千余人に及んだ。諸将は互いにその功を誇り、李筠は故相の馮道のもとに赴き、節度事を暫く領するよう請うた。馮道は言った、「そなたは主として奏事を行うだけでよい。留後の事は功臣を議してこれに任ずべきである」と。馮道は諸将が功を争って再び乱れることを恐れ、再栄の前職が貴いことを以て諸将に加え、暫く留後に推挙したので、人心は遂に定まった。この戦いで、李筠の功が最も多かった。即座に漢祖に帰順の意を伝え、その子を朝廷に赴かせると、漢祖は深くこれを賞した。控鶴一軍が力戦したことを以て、優に賜与を加え、再栄を留後に任じ、李筠を博州刺史とした。李筠は賞が薄いことを喜ばなかった。

原文晉開運末,契丹犯汴京,其將趙延壽聞筠驍勇,召置帳下。及契丹主北歸,死欒城,延壽至常山,為永康王所縶。契丹眾數萬,據常山,後北去。留耶律解裏,眾才二千騎,又分別部首領楊袞以千騎掠邢、洺。來還中朝士大夫多在城中,契丹與漢相雜,解裏性貪恣自奉,削漢軍日食,眾皆菜色。筠乘其怨,密與王蕘、石公霸、何福進等謀,以閏七月二十九日伺契丹守閽者旦食,撞寺鍾為期,相率入據兵庫,次焚牙門,大呼市人,並力擊焉。契丹眾大驚,由北門而出,解裏趣族乘列之於野。明日集眾入郛力戰,屬晉士卒分掠,唯控鶴一軍與市民禦之,死傷相繼。午後,郛外民千餘知契丹奔敗者,持兵趣其族乘,將劫之,守者入郛馳告,解裏聞之,遂挈族而去。初,筠建謀約諸將同力,控鶴左廂都校白再榮首匿於室不敢應,筠拔佩刀破幕引臂迫之,再榮不得已而行,諸將次第赴之。及契丹去,百姓死者二千餘人。諸將互伐其功,筠詣故相馮道請權領節度事,道曰:“子主奏事而已,留後事當議功臣為之。”道恐諸將爭功復亂,乃以再榮前職貴加諸將,權推為留後,人心遂定。是戰,筠功居多,即送款漢祖,以其子赴朝,漢祖深賞之。以控鶴一軍力戰,優加賜與,授再榮留後,筠博州刺史。筠以賞薄不悅。

周祖が大名に鎮した時、先鋒指揮使に上表して任じ、また北面縁辺巡検とした。周祖が兵を起こして汴に入ると、李筠は郭崇に従い、慕容彦超と留子陂で戦い、彦超は東に奔った。広順初年、滑州を権知し、間もなく正式に義成軍節度使に任じられた。数か月後、彰徳軍節度使に改めた。時に并人が晋州を侵すと、王峻が師を率いて往き防ぎ、李筠も西征を請うたので、詔でこれを褒めた。また黄沢関の商税免除を乞い、奏可された。周祖が兗州を征し、帰途濮に駐まった時、李筠は朝見し、馬を献上し、襲衣・金帯を賜った。澶州まで従い、宴が終わると遣わされて還った。潞州の常思が召されて入朝すると、李筠に軍府を権知させ、常思は宋州・亳州に改められ、李筠は昭義軍節度使となった。三年、検校太傅を加えられた。時に王峻が節度を兼ね、李筠及び王殷・何福進は皆創業の功臣であるため、並びに恩を加えたのである。顕徳初年、周祖が親しく郊祀を行うと、同平章事を加えられた。

原文周祖鎮大名,表為先鋒指揮使,又為北面緣邊巡檢。周祖起兵入汴,筠同郭崇從,與慕容彥超戰於留子陂,彥超東奔。廣順初,權知滑州,俄真拜義成軍節度。數月,改彰德軍節度。會並人侵晉州,王峻率師往拒,筠亦請西征,詔褒之。又乞免黃澤關商稅,奏可。周祖征兗,還次濮,筠因朝,獻馬,賜襲衣、金帶。從至澶,宴訖遣還。及召潞州常思入朝,命筠權知軍府,思改宋、亳,以筠為昭義軍節度。三年,加檢校太傅。時王峻兼節製,以筠及王殷、何福進皆創業功臣,故並加恩焉。顯德初,周祖親郊,加同平章事。

世宗が即位すると、并人が侵入し、その将張暉が先鋒を率いて団柏谷から入り、梁侯驛に営し、堡柵を攻撃掠奪し、至る所で焼き払い尽くした。李筠は護軍の穆令均に歩騎二千を率いてこれを防がせた。令均は太平驛に営した。驛の東南は潞州から八十里で、偵察巡邏を怠ったため、暉が夜明け前に急に至ると、潞兵は甲を着け馬に鎧を着けていた。暉はこれを見て偽って退き、潞兵がこれを追うと、并の伏兵が遂に発した。令均は戦いながら退き、歩卒で并に降った者は数百人、騎兵で帰還しなかった者は百人、残りの兵は潞州に還って守った。世宗は親征して沁州を降し、李筠に沁州の行営兵を率いて太原に赴かせ、符彦卿に忻口を戍らせ、契丹の援兵を防がせた。彦卿が増兵を請うと、詔で李筠と張永徳に三千騎を増援させた。既に到着すると、偏師を以て契丹の背後を回り、奮撃してこれを走らせた。師が還ると、兼侍中を加えられた。

原文世宗即位,並人入侵,其將張暉率先鋒自團柏穀入營梁侯驛,攻劫堡柵,所至焚略蕩盡,筠遣護軍穆令均率步騎二千拒之。令均營於太平驛,驛東南距潞八十里,失於偵邏,暉淩晨奄至,潞兵被甲介馬,暉見之佯退,潞兵追之,並伏遂發。令均且鬥且卻,步卒降並者數百人,騎不復者百人,餘眾還保潞。世宗親征沁州,降之,命筠率沁之行營兵赴太原,符彥卿戍忻口,拒契丹援兵。彥卿請益師,詔筠與張永德以三千騎益之,既至,以偏師繞契丹後,奮擊走之。師還,加兼侍中。

二年、李筠は榆社で并軍を破り、その将安濬・康超ら七十余人を捕らえた。三年、李筠は行軍司馬の範守図に兵を率いて遼州界に入らせ、并の兵卒三百余人を殺し、小校数人を捕らえて献上させた。四年、また守図を河東界に入らせ、二つの砦を降した。五年、李筠は自ら将兵して石会関に入り、并人の六つの砦を破った。この冬、また遼州の長清砦を破り、その磁州刺史李戴興を生け捕りにして献上した。間もなくまた境で并人を破り、三百余級を斬った。六年、遼州を平定し、刺史張丕旦ら二百四十五人を捕らえて献上した。李筠は鎮所で征賦を擅用し、多く亡命の徒を集め、嘗て私憤によって監軍使を囚禁したので、世宗は心に堪えられなかったが、ただ詔で責めるのみであった。恭帝が即位すると、検校太尉を加えられた。この秋、裨将の劉継忠に兵を率いて吐渾と共に并の境内に入らせ、賈家砦を平定し、百余級を斬り、牛羊を獲て還った。

原文二年,筠破並軍於榆社,獲其將安濬、康超等七十餘人。三年,筠遣行軍司馬範守圖率兵入遼州界,殺並卒三百餘,獲小校數人以獻。四年,又遣守圖入河東界,降二砦。五年,筠自將入石會關,破並人六砦。是冬,又破遼州長清砦,擒其磁州刺史李戴興以獻。俄又敗並人於境,斬三百餘級。六年,平遼州,獲刺史張丕旦等二百四十五人以獻。筠在鎮擅用征賦,頗集亡命,嚐以私忿囚監軍使,世宗心不能堪,但詔責而已。恭帝即位,加檢校太尉。是秋,令裨將劉繼忠將兵與吐渾入並境,平賈家砦,斬百餘級,獲牛羊而還。

太祖の建隆初年、兼中書令を加えられ、周の禅譲を受けたことを告げる使者が遣わされた。李筠は即座に拒絶しようとしたが、左右が歴数を説いて、ようやく無理に下拝したが、容貌はなお恭しくなかった。使者を階上に延いて酒宴を設け音楽を奏すると、急に周祖の画像を求め壁に掛け、涕泣して止まなかった。賓佐は惶駭し、使臣に告げて言った、「令公は酒に酔って常性を失われました。訝しまれませんよう」と。太原の劉鈞が蠟書をもって李筠と結び共に挙兵しようとすると、李筠は書を封じて太祖に上ったが、心には既に異謀を抱いていた。太祖は手詔を以て慰撫した。この時、李筠の子守節は皇城使で、嘗て泣いて諫めたが、李筠は聞き入れなかった。太祖はまた守節を遣わして旨を諭させた、「そなたが父を諫め、父が聞き入れぬと聞く。今そなたを殺すのはどうか。帰って父に語れ、朕が天子でない時は、勝手にせよと。既に天子となれば、朕に臣下として仕えられぬというのか」と。守節が李筠に告げると、李筠の謀は愈々甚だしくなり、遂に兵を起こし、幕府に檄文を作らせたが、その文辞は多く不遜であった。従事の閭丘仲卿が李筠に献策して言った、「公は孤軍をもって挙事するは、その勢い甚だ危うし。河東の援けに倚るといえども、またその力を得られぬ恐れあり。大梁の兵甲は精鋭にして、争鋒し難し。太行を西下し、直ちに懐・孟に抵り、虎牢を塞ぎ、洛邑を拠り、東向かって天下を争うは、計の上なるものなり」と。李筠は言った、「我は周朝の宿将にして、世宗とは義兄弟の如し。禁衛は皆旧人なり、我の来るを聞けば、必ず倒戈して我に帰せん。況んや儋珪の槍、撥汗の馬あらんや、天下を憂うるに足らじ」と。儋珪は李筠の愛将で勇力あり、槍を用いるに長じ、撥汗は李筠の駿馬で、日に七百里を馳せる。故に李筠はこれを誇ったのである。監軍の亳州防禦使周光遜・閑廄使李廷玉を捕らえ、判官の孫孚・衙校の劉継忠を遣わして劉鈞のもとに送り、援軍を求めた。また人を遣わして沢州刺史の張福を殺し、その城を占拠しようとした。

原文太祖建隆初,加兼中書令,遣使諭以受周禪。筠即欲拒命,左右為陳曆數,方僶俛下拜,貌猶不恭。及延使者升階,置酒張樂,遽索周祖畫像懸壁,涕泣不已。賓佐惶駭,告使臣曰:“令公被酒失其常性,幸勿為訝。”及太原劉鈞以蠟書結筠共舉兵,筠雖緘書上太祖,心已畜異謀,太祖手詔慰撫之。是時,筠子守節為皇城使,嚐泣諫,筠不聽。太祖又遣守節諭旨曰:“吾聞汝諫汝父,汝父不聽,吾今殺汝,何如汝歸語汝父,我未為天子時,任自為之,既為天子,獨不能臣我耶?”守節白筠,筠謀愈甚,遂起兵,令幕府為檄書,辭多不遜。從事閭丘仲卿獻策於筠曰:“公以孤軍舉事,其勢甚危,雖倚河東之援,亦恐不得其力。大梁兵甲精銳,難與爭鋒。不如西下太行,直抵懷、孟,塞虎牢,據洛邑,東向而爭天下,計之上也。”筠曰:“吾周朝宿將,與世宗義同昆弟,禁衛皆舊人,聞吾之來,必倒戈歸我,況有儋珪槍、撥汗馬,何憂天下哉。”儋珪,筠愛將,有勇力,善用槍;撥汗,筠駿馬,日馳七百里,故筠誇焉。執監軍亳州防禦使周光遜、閑廄使李廷玉,遣判官孫孚、衙校劉繼忠送於劉鈞求濟師。又遣人殺澤州刺史張福,往據其城。

劉鈞は遂に兵と契丹の数千の兵を率いて来援し、太平驛に至った。李筠は臣礼をもって迎謁したが、劉鈞の兵衛が寡弱なのを見て、甚だこれを悔いたが、業既に然るべくしてしまっていた。劉鈞は李筠を西平王に封じ、馬三百匹を賜い、召して語らうと、李筠は自ら周祖の大恩を受けたと述べ、敢えて死を愛して悟らぬと言った。劉鈞は周祖と世仇があったので、劉鈞は黙然とし、遂に李筠を疑った。宣徽使の盧讚をして李筠の軍を監させると、李筠は心に平らかでなく、頗る盧讚と協調せず、劉鈞はまた平章事の衛融に和解させた。

原文劉鈞遂率兵與契丹數千眾來援,至太平驛,筠以臣禮迎謁,見鈞兵衛寡弱,甚悔之,而業已然矣。鈞封筠西平王,賜馬三百匹,召與之語,筠自言受周祖大恩,敢愛死不寤。鈞與周祖有世仇,鈞默然,遂疑之。命其宣徽使盧讚監筠軍,筠心不能平,頗與讚不協,鈞復命平章事衛融和解之。

李筠は馬三千匹を有し、鞠場を開いて閲習し、日夜謀畫して寇を為さんとす。その子守節を留めて上黨を守らせ、衆を率いて南に向かう。太祖は石守信・高懷徳を遣わして兵を将いてこれを討たしむ。勅して曰く、「筠をして太行を下らしむることなかれ、急ぎ師を進めてその隘を扼せば、これを破ること必ずせん」と。また慕容延釗・王全斌を遣わして東路より守信と会せしめ、監軍李崇矩とともに筠の衆を長平に破り、首三千級を斬る。また大会砦を攻め、これを下す。

原文筠有馬三千匹,辟鞠場閱習,日夜謀畫為寇。留其子守節守上黨,引眾南向。太祖遣石守信、高懷德將兵討之。敕曰:“勿縱筠下太行,急進師扼其隘,破之必矣。”又遣慕容延釗、王全斌由東路會守信,與監軍李崇矩破筠眾於長平,斬首三千級。又攻大會砦,下之。

太祖遂に親征す。山路険峻にして石多く行うべからず、太祖先ず馬上に数石を負い、群臣六軍皆これを負う、即日に平らかにして大道と為す。守信・懷徳と会し、筠の衆三万を沢南に破り、降る者三千余、筠の監軍使盧讚を殺し、筠の河陽節度範守図を擒え、筠は走り還り沢を保つ。太祖至り、柵を列ねてこれを囲む、筠の龍捷使王廷魯・吐渾留後汾州團練使王全徳、率いる所の部を自ら昭義より来降す、筠益々援を失う。太祖親しく戦を督し、その城を抜く、筠は水に赴きて死す、鈞の相衛融を獲、鈞は懼れて遁れ帰る。太祖進みて上黨を伐ち、守節は城を以て降り、その罪を釈し、襲衣・金帯・銀鞍勒馬を賜う。この日従官を宴し、守節これに預かる、単州團練使と為す。昭義軍節度副使趙処願を以て郢州刺史と為し、節度判官孫孚を屯田郎中と為し、観察判官史文通を水部郎中と為し、前遼州衙内指揮使馬廷禹を右監門衛将軍と為し、壁州刺史を領せしむ。

原文太祖遂親征。山路險峻多石不可行,太祖先於馬上負數石,群臣六軍皆負之,即日平為大道。與守信、懷德會,破筠眾三萬於澤南,降者三千餘,殺筠監軍使盧讚,擒筠河陽節度範守圖,筠走還保澤。太祖至,列柵圍之,筠龍捷使王廷魯、吐渾留後汾州團練使王全德率所部自昭義來降,筠益失援。太祖親督戰,拔其城,筠赴水死,獲鈞相衛融,鈞懼而遁歸。太祖進伐上黨,守節以城降,釋其罪,賜襲衣、金帶、銀鞍勒馬。是日宴從官,守節預焉,以為單州團練使;以昭義軍節度副使趙處願為郢州刺史;節度判官孫孚為屯田郎中;觀察判官史文通為水部郎中;前遼州衙內指揮使馬廷禹為右監門衛將軍,領壁州刺史。

筠の性暴なりと雖も、母に事うること甚だ孝なり、毎に怒りて人を殺さんとすれば、母は屏風の後にて筠を呼び、筠は趨り至れば、母曰く、「人を殺さんとすと聞く、免れしむること可きか。吾曹の福を増さんが為めなり」と。筠遽かにこれを釈す。筠稍々書を知り、頗る調謔を好む。初め栄と名づく、周世宗の諱を避け、これを改めんとす、或る者「筠」と名づけしむ、筠曰く、「李筠、李筠、玉帛雲乎哉」と。聞く者皆笑う。

原文筠性雖暴,事母甚孝,每怒將殺人,母屏風後呼筠,筠趨至,母曰:“聞將殺人,可免乎?為吾曹增福爾。”筠遽釋之。筠稍知書,頗好調謔。初名榮,避周世宗諱,將改之,或令名“筠”,筠曰:“李筠,李筠,玉帛雲乎哉。”聞者皆笑。

筠に愛妾劉氏あり、筠に随いて沢に至る、時に城を攻められ危うきに被り、劉は筠に謂いて曰く、「城中の健馬幾何ぞ」と。筠曰く、「爾安ぞ此を問う」と。劉曰く、「孤城危蹙し、破れること俄頃に在り、今誠に馬数百を得て、腹心とともに囲を潰し、出でて昭義を保ち、河東に援を求めば、猶お坐して死を待つに愈れり」と。筠然りとす。左右を召して馬を計るに尚ほ千匹に減ぜず、この夕を以て出でんとす、或る者筠に謂いて曰く、「今帳前の計議、皆云う一心なりと、県門既に発すれば、保つべからざるなり、もし公を劫して降らば、悔ゆること其れ及ぶべけんや」と。筠は猶豫して決せず。明日城陥ち、筠は火に赴かんとす、劉は俱に死せんと欲す、筠はその娠あるを以て、麾して去らしむ。守節既にこれを購い得て、果たして子を生めり。

原文筠有愛妾劉氏,隨筠至澤,時被攻城危,劉謂筠曰:“城中健馬幾何?”筠曰:“爾安問此?”劉曰:“孤城危蹙,破在俄頃,今誠得馬數百,與腹心潰圍,出保昭義,求援河東,猶愈於坐待死也。”筠然之。召左右計馬尚不減千匹,以是夕將出,或謂筠曰:“今帳前計議,皆云一心,縣門既發,不可保矣,倘劫公而降,悔其可及。”筠猶豫不決。明日城陷,筠將赴火,劉欲俱死,筠以其有娠,麾令去。守節既購得之,果生子焉。

守節は字は得臣、初め東頭供奉官に補せらる。広順中、嘗て心疾に乗じて醉い、供禦の白鶻を撃ち殺す、筠は上章して罪を待つ、詔してこれを釈す。四遷して皇城使に至り、単・済二州團練使を歴任す。乾徳六年、出でて遼州を知る。開宝三年、和州團練使に改む。四年、卒す、年三十三。後無く、劉氏の生める弟を以て嗣と為す。

原文字節字得臣,初補東頭供奉官。廣順中,嚐以心疾乘醉擊殺供禦白鶻,筠上章待罪,詔釋之。四遷至皇城使,曆單、濟二州團練使。乾德六年,出知遼州。開寶三年,改和州團練使。四年,卒,年三十三。無後,以劉氏所生之弟為嗣。

李重進

原文李重進

李重進、その先は滄州の人なり。周太祖の甥、福慶長公主の子なり、太原に生まる。晉天福中、仕えて殿直と為る。漢の初め、周祖に従い河中を征す。広順初め、内殿直都知に遷り、泗州刺史を領し、小底都指揮使に改む。二年、大内都点検・権侍衛馬歩軍都軍頭に改め、恩州團練使を領し、殿前都指揮使に遷る。三年、泗州防禦使を領するを加う。顕徳初め、武信軍節度を領す。

原文李重進,其先滄州人。周太祖之甥,福慶長公主之子也,生於太原。晉天福中,仕為殿直。漢初,從周祖征河中。廣順初,遷內殿直都知,領泗州刺史,改小底都指揮使。二年,改大內都點檢、權侍衛馬步軍都軍頭,領恩州團練使,遷殿前都指揮使。三年,加領泗州防禦使。顯德初,領武信軍節度。

重進は年世宗より長ず、及び周祖寝疾す、重進を召して顧命を受けしめ、世宗に拝せしめ、以て君臣の分を定む。世宗位を嗣ぎ、侍衛親軍馬歩軍都虞候と為る。世宗に従い劉崇を征し、高平に戦い、利あらず、大将樊愛能・何徽その衆を以て遁る、唯だ重進と白重讚兵を勒して動かず。既にして太祖先ず麾下を以て敵を犯し、重讚継いで領する所の部を以て力戦し、世宗躬く衛兵を率いて勢を合わす、周の師復た振い、崇遂に大敗す。功を以て忠武軍節度を領す。及び進みて太原を討ち、また行営馬歩軍都虞候と為る。師還り、同中書門下平章事を加えられ、帰徳軍節度兼侍衛馬歩軍都指揮使に改む。

原文重進年長於世宗,及周祖寢疾,召重進受顧命,令拜世宗,以定君臣之分。世宗嗣位,為侍衛親軍馬步軍都虞候。從世宗征劉崇,戰於高平,不利,大將樊愛能、何徽以其眾遁,唯重進與白重讚勒兵不動。既而太祖先以麾下犯敵,重讚繼領所部力戰,世宗躬率衛兵合勢,周師復振,崇遂大敗。以功領忠武軍節度。及進討太原,又為行營馬步軍都虞候。師還,加同中書門下平章事,改歸德軍節度兼侍衛馬步軍都指揮使。

世宗親しく淮南を征し、重進に命じて兵を将い先ず正陽に赴かしむ。俄かに李穀の寿春を攻めて克たず、退きて正陽を保つと聞き、重進の兵を促してこれを助けしむ。呉人は穀の退くを懼れ、乃ち兵三万餘を発し、旌旗輜重数百里に亙り、また戦棹二百艘を発して断橋の勢を張り、陣を列ね鼓噪して北し、拒馬を横布すること万数、皆利刃を貫き、鉄索を以て維ぎ、また木を刻みて戦形と為し、陣前に立て、「揵馬牌」と号し、皮囊に鉄蒺莉を貯えて以て戦地に布く。時に周の師未だ朝食せず、呉の師奄かに至る、周の師その陣を望み皆これを笑う。宣祖前軍を領し重進・韓令坤と勢を合わしてこれを撃ち、一鼓にして敗ち、首万餘級を斬り、奔るを二十餘里に追い、大将劉彦貞を殺し、裨将盛師朗数十人を擒え、三千人を降し、戈甲三十万を獲る。世宗大いに悦び、詔書を以て褒諭し、即ち重進を以て穀に代えて行営招討使と為し、襲衣・金帯・玉鞍・名馬を賜う。

原文世宗親征淮南,命重進將兵先赴正陽。俄聞李穀攻壽春不克,退保正陽,促重進兵助之。吳人以穀退為懼,乃發兵三萬餘,旌旗輜重亙數百里;又發戰棹二百艘以張斷橋之勢,列陣鼓噪而北,橫布拒馬以萬數,皆貫以利刃,維以鐵索;又刻木為戰形,立陣前,號“揵馬牌”,皮囊貯鐵蒺莉以布戰地。時周師未朝食,吳師奄至,周師望其陣皆笑之。宣祖領前軍與重進、韓令坤合勢擊之,一鼓而敗,斬首萬餘級,追奔二十餘里,殺大將劉彥貞,擒裨將盛師朗數十人,降三千人,獲戈甲三十萬。世宗大悅,詔書褒諭,即以重進代穀為行營招討使,賜襲衣、金帶、玉鞍、名馬。

三年、重進を以て廬・寿等州招討使と為す。時に李継勳寿春を主り、重進は軍を城北に駐め、城南の洞屋が淮人の為に焚かるると聞き、将に軍を退かんと議す。会に太祖六合より帰り、道寿州に出ず、因りて師を旬餘駐め、重進これに倚りて以て援と為し、兵威復た振う。呉人大いに懼れ、重進の色黔きを以て、「黒大王」と号す。

原文三年,以重進為廬、壽等州招討使。時李繼勳主壽春,重進駐軍城北,聞城南洞屋為淮人所焚,將議退軍。會太祖自六合歸,道出壽州,因駐師旬餘,重進倚以為援,兵威復振。吳人大懼,以重進色黔,號“黑大王”。

張永徳は下蔡に屯し、重進と協わず。永徳毎に将吏を宴すれば、多く重進の短を暴にし、後醉いに乗じて重進に奸謀有りと謂い、将吏驚駭せざる無し。永徳密かに親信を遣わし駅乗にて上言せしむ、世宗これを信ぜず、また意に介せず。二将俱に重兵を握る、人情益々憂恐す。重進遂に寿陽より単騎直ちに永徳の帳中に詣り、命じて酒を飲ましめ、親しく酌みて永徳に謂いて曰く、「吾と公は皆国家の肺腑、相与に戮力し、同じく王室を奨く、公何ぞ我を疑うことの深きや」と。永徳意解け、二軍皆安んず。李景これを知り、密かに人をして蠟書を齎し重進を誘わしめ、厚利を以て啖わす、重進その事を表す。時に行濠州刺史斉蔵珍もまた重進を説く、世宗これを知り、他事を仮りて蔵珍を誅す。

原文張永德屯下蔡,與重進不協。永德每宴將吏,多暴重進短,後乘醉謂重進有奸謀,將吏無不驚駭。永德密遣親信乘驛上言,世宗不之信,亦不介意。二將俱握重兵,人情益憂恐。重進遂自壽陽單騎直詣永德帳中,命酒飲,親酌謂永德曰:“吾與公皆國家肺腑,相與戮力,同獎王室,公何疑我之深也。”永德意解,二軍皆安。李景知之,密令人齎蠟書誘重進,啖以厚利,重進表其事。時行濠州刺史齊藏珍亦說重進,世宗知之,假他事誅藏珍。

詔して重進に淮を夾みて正陽・下蔡に城せしめ、既に成り、その図を上る。俄にまた淮兵二千餘を塌山の北に敗る。時に寿を囲むこと経年下らず、呉は将許文緽・辺鎬を遣わし舟師数万、淮を溯り来援す。文緽は舟を淮南に維ぎ、紫金山に拠る、山は寿より数里を距り、十余砦を設け、連亙相望み、城中と烽火相応じ、また南に夾道を築き、将に寿に抵りて饋路と為さんとす。重進その城北に砦を展ぐるを伺い、兵を出してこれを撃ち、五千餘衆を敗り、二砦を奪い、器甲甚だ衆を獲る。世宗寿に幸し、従官を宴し、重進を召して戎服・玉帯・金銀器・繒彩・鞍勒馬を賜う。及び寿を克ち、功を録して検校太傅兼侍中を加え、また天平軍節度に改め、仍って招討使と為す。

原文詔重進夾淮城正陽、下蔡,既成,上其圖。俄又敗淮兵二千餘於塌山北。時圍壽經年未下,吳遣將許文緽、邊鎬舟師數萬,溯淮來援。文緽維舟淮南,據紫金山,山距壽數里,設十餘砦,連亙相望,與城中烽火相應;又南築夾道,將抵壽為饋路。重進伺其城北展砦,出兵擊之,敗五千餘眾,奪二砦,獲器甲甚眾。世宗幸壽,宴從官,召重進賜戎服、玉帶、金銀器、繒彩、鞍勒馬。及克壽,錄功加檢校太傅兼侍中,又改天平軍節度,仍為招討使。

四年、濠州南関城を攻め取り、その団練使郭廷謂が兵一万余を率いて降伏し、糧数万斛を獲た。楚州平定に従い、先に揚州に還ることを命ぜられる。五年、世宗が迎鑾に在り、重進を遣わして兵を率い廬州に赴かしむ。時に李景が江を画して界と為すことを請うたので、世宗は遂に還り、重進を留めて戍守せしめ、李景は人を遣わして牛酒を以て犒労せしむるも、俄かに還って鎮す。六年、世宗北征し、博州に次る。重進来朝し、行宮に宴を賜い、即ち兵を将いて先に北面に趣かしむ。世宗が瓦橋関に駐るに及び、重進は諸将と共に師を率いて至る。時に関南は既に平定し、幽州を進取するを議す。会に世宗の不豫に遭い而して止む。即ち命じて率いる所の部をして河東に赴かしめ、百井路に次り、並人五千余を破り、二千余級を斬る。恭帝嗣位し、検校太尉を加え、淮南道節度に改む。

原文四年,攻取濠州南關城,其團練使郭廷謂以兵萬餘降,獲糧數萬斛。從平楚州,命先還揚州。五年,世宗在迎鑾,遣重進將兵赴廬州。會李景請畫江為界,世宗遂還,留重進戍守,景遣人以牛酒來犒,俄乃還鎮。六年,世宗北征,次博州,重進來朝,賜宴行宮,即命將兵先趣北面,及世宗駐瓦橋關,重進與諸將率師而至。時關南已平,議進取幽州,會世宗不豫而止。即命率所部赴河東,次百井路,敗並人五千餘,斬二千餘級。恭帝嗣位,加檢校太尉,改淮南道節度。

太祖即位し、韓令坤を以て代わりに侍衛都指揮使と為し、重進に中書令を加う。既にして鎮を青州に移し、開府階を加う。重進は太祖と共に周室に事え、兵柄を分掌し、常に心に太祖を憚る。太祖立つや、愈々自ら安からず、及び移鎮を聞き、陰に異志を懐く。太祖之を知り、六宅使陳思誨を遣わし鉄券を齎し賜いて、以て其の心を安んず。重進は装を治めて思誨に随い入朝せんと欲すも、左右に惑わされ、猶豫決せず。又自ら周室の近親を以て、全うを得ざるを恐れ、遂に思誨を拘え、城隍を治め、兵甲を繕い、人を遣わして李景に援を求む。李景懼れて納れず、之を太祖に聞かしむ。監軍安友規は常に重進に忌まれる所と為る。是に至り、友規は親信数人と謀りて関を斬り出でんとすも、衆に拒まれて、城を踰えて脱するを得たり。重進は軍校にして附かざる者数十人を捕え、尽く之を殺す。

原文太祖即位,以韓令坤代為侍衛都指揮使,加重進中書令。既而移鎮青州,加開府階。重進與太祖俱事周室,分掌兵柄,常心憚太祖。太祖立,愈不自安,及聞移鎮,陰懷異志。太祖知之,遣六宅使陳思誨齎賜鐵券,以安其心。重進欲治裝隨思誨入朝,為左右所惑,猶豫不決。又自以周室近親,恐不得全,遂拘思誨,治城隍,繕兵甲,遣人求援李景,景懼而不納,聞之太祖。監軍安友規常為重進所忌,至是友規謀與親信數人斬關出,為眾所拒,逾城得脫。重進捕軍校不附者數十人,盡殺之。

太祖は石守信・王審琦・李處耘・宋偓の四将を遣わし、禁兵を率いて重進を討たしむ。会に友規至る。襲衣・金帯・器幣・鞍馬を賜い、以て滁州刺史と為し、前軍を監せしむ。太祖左右に謂いて曰く、「朕周室の旧臣に於て猜間する所無し。重進朕が心を体せず、自ら反側を懐く。今六師野に在り、暫く往きて之を慰撫すべし」と。遂に親征し、大儀鎮に次る。石守信は使を馳せて奏し、揚州の破は旦夕に在り、願わくは車駕臨視せんことを。太祖径に城下に至り、即日之を抜く。初め、城将に陥らんとするに、重進の左右思誨を殺すを勧む。重進曰く、「吾今挙族将に火に赴きて死せんとす。此れを殺す何の益かあらん」と。即ち火を放ちて自焚し、思誨も亦其の党に害せらる。太祖入りて城西南に駐り、逆党数百人を閲し、尽く之を戮す。重進の兄深州刺史重興、其の叛くを聞き、自殺す。弟解州刺史重讚・子尚食使延福は並びに市にて戮せらる。

原文太祖遣石守信、王審琦、李處耘、宋偓四將率禁兵討重進。會友規至,賜襲衣、金帶、器幣、鞍馬,以為滁州刺史,監前軍。太祖謂左右曰:“朕於周室舊臣無所猜間,重進不體朕心,自懷反側,今六師在野,當暫往慰撫之爾。”遂親征,次大儀鎮。石守信遣使馳奏,揚州破在旦夕,願車駕臨視。太祖徑至城下,即日拔之。初,城將陷,重進左右勸殺思誨,重進曰:“吾今舉族將赴火死,殺此何益。”即縱火自焚,思誨亦為其黨所害。太祖入駐城西南,閱逆黨數百人,盡戮之。重進兄深州刺史重興,聞其叛,自殺。弟解州刺史重讚、子尚食使延福並戮於市。

初め、重進兵を挙げんと謀り、親吏翟守珣を遣わして潞に往き、陰に李筠と結ぶ。守珣は素より太祖を知り、京師に往還し、潜かに枢密承旨李處耘に詣りて求見す。太祖問いて曰く、「我重進に鉄券を賜わんと欲す。彼我を信ずるや」と。守珣曰く、「重進終に帰順の志無し」と。

原文初,重進謀舉兵,遣親吏翟守珣往潞,陰結李筠。守珣素識太祖,往還京師,潛詣樞密承旨李處耘求見,太祖問曰:“我欲賜重進鐵券,彼信我乎?”守珣曰:“重進終無歸順之誌。”

太祖は厚く守珣に賜い、爵位を以て許し、且つ重進を説きて其の謀を緩めしめ、二凶を並作せしめず、以て兵勢を分からしむ。守珣帰り、重進に威を養い持重するを勧め、軽く発すべからずと。重進甚だ之を信ず。及び李筠誅せられ、重進の反書聞こゆるに及び、並びに太祖の策の如く、其の鉄券を信ぜざるも、亦守珣の云う所の如し。揚州既に平ぎ、守珣を購い得て、殿直に補し、俄かに供奉官と為る。

原文太祖厚賜守珣,許以爵位,且令說重進緩其謀,無令二凶並作,以分兵勢。守珣歸,勸重進養威持重,未可輕發,重進甚信之。及李筠誅,重進反書聞,並如太祖之策,其不信鐵券,亦如守珣所雲。揚州既平,購得守珣,補殿直,俄為供奉官。

又張崇詁有り。周の広順初め、枢密承旨と為る。二年、出でて解州刺史・両池権塩使と為り、多く塩池の利害を規画す。顕徳三年、德州に改め、又泗州・沢州に改む。崇詁は本名崇訓、恭帝嗣位し、諱を避けて改む。重進淮南に赴く時、道泗上しじょうに出づ。崇詁は兵を畜え城を完うするの計を以て説く。重進敗れ、事露る。詔して之を捕え、市に棄つ。其の家を籍す。

原文又有張崇詁者,周廣順初,為樞密承旨。二年,出為解州刺史、兩池權鹽使,多規畫鹽池利害。顯德三年,改德州,又改泗州、澤州。崇詁本名崇訓,恭帝嗣位,避諱改焉。重進赴淮南時,道出泗上,崇詁說以畜兵完城之計。重進敗,事露,詔捕之,棄市,籍其家。