宋史

列傳第二百四十二 世家六 湖南周氏周行逢(子:保權 附:李觀象 張文表) 荆南高氏高保融(弟:保勗 子:繼沖 弟:保寅 附:孫光憲 梁延嗣 漳泉留氏留從效 陳氏陳洪進(子:文顯 文顥 文顗 文頊)

列傳第二百四十二 世家六 湖南周氏周行逢(子:保權 附:李觀象 張文表) 荆南高氏高保融(弟:保勗 子:繼沖 弟:保寅 附:孫光憲 梁延嗣 漳泉留氏留從效 陳氏陳洪進(子:文顯 文顥 文顗 文頊)

◎世家六○湖南周氏荊南高氏漳泉留氏陳氏

原文◎世家六○湖南周氏荊南高氏漳泉留氏陳氏

湖南周氏周行逢

原文湖南周氏周行逢

湖南の周氏、周行逢は、朗州武陵の人である。若い頃は無頼で、生業に就かなかった。かつて法を犯して鎮兵に配属されたが、驍ぎょう勇をもって累進して裨校となった。唐の乾寧二年より、馬氏が湖南二十州の地を専有し、朝廷の正朔こそ奉じたものの、その郡守や官属はみな自ら任命した。周の広順初年に至り、兄弟が国を争い、江南の李景に援軍を求めた。李景は大将辺鎬を遣わして兵を率いて赴かせ、これにより長沙を陥れ、馬氏の一族を建康に移し、希萼を楚王に封じて洪州に住まわせ、希崇を舒州に鎮守させて揚州に住まわせた。宋が興ると、希崇は兄弟十七人を率いて朝廷に帰順し、皆美官となった。李景は辺鎬を潭州の帥とした。時に朗州の衆が乱を起こし、衙将劉言を推して留後とし、劉言は行逢を都指揮使とした。行逢は衆情を李景に上表し、劉言に節鉞を授けるよう請うたが、李景は従わなかった。劉言を金陵に召し入れたので、劉言は恐れ、副使王進逵・行軍何景真を行逢とともに舟師を率いて潭州を襲撃し破り、辺鎬は逃げ去り、行逢らはその城を占拠した。劉言は使者を遣わして長沙で兵乱が起こり、公府が焼かれたと上言し、治所を朗州に移すことを請うた。周祖は直ちに劉言を朗州の帥とし、王進逵を潭州の帥とし、行逢を潭州行軍司馬・集州刺史とした。間もなく、進逵が朗州を侵し、劉言を害した。周祖は直ちに進逵を朗州節度使とし、行逢に鄂州節度使を領させ、潭州軍府事を知らせた。初め、朗州人は劉言を「劉咬牙」と呼んだ。馬氏が乱れようとした時、湘中の童謡に「馬去不用鞭、咬牙過今年」とあった。辺鎬が馬氏を捕らえ、辺鎬が劉言に追い払われ、劉言もまた害された時である。

原文湖南周行逢,朗州武陵人。少無賴,不事產業。嘗犯法配隸鎮兵,以驍勇累遷裨校。自唐乾寧二年,馬氏專有湖南二十州之地,雖稟朝廷正朔,其郡守官屬皆自署。至周廣順初,兄弟爭國,求援於江南李景,景遣大將邊鎬率兵赴之,因下長沙,遷馬氏之族於建康,封希萼為楚王,居洪州,希崇鎮舒,居揚州。宋興,希崇率兄弟十七人歸朝,皆為美官。景以鎬為潭帥。會朗州眾亂,推衙將劉言為留後,言以行逢為都指揮使。行逢以眾情表於景,請授言節鉞,景不從。召言入金陵,言懼,遣副使王進逵、行軍何景真與行逢帥舟師襲破潭州,鎬遁去,行逢等據其城。言遣使上言長沙兵亂,焚燒公府,請移治朗州。周祖即以言為朗帥,王進逵為潭帥,行逢為潭州行軍司馬、領集州刺史。未幾,進逵寇朗州,害劉言,周祖即以進逵為朗州節度,以行逢領鄂州節度、知潭州軍府事。初,朗州人謂劉言為「劉咬牙」,馬氏將亂,湘中童謠云:「馬去不用鞭咬牙過今年。」及邊鎬俘馬氏,鎬為劉言所逐,而言亦被害。

顕徳年間、世宗が淮甸に用兵しようとし、詔して朗州の王進逵に出師して鄂州界に入らせた。進逵は裨将潘叔嗣に兵五千を率いさせて先鋒とした。鄂州界に至った時、叔嗣は戈を返して進逵を襲撃した。進逵はこれを聞き、倍道で先に武陵に入った。叔嗣がその城を攻めると、進逵は敗走し、叔嗣に殺され、行逢を迎えて節度使とした。行逢が到着すると、直ちに叔嗣を斬って示衆した。世宗はそこで行逢に朗州大都督ととく・武平軍節度使・製置武安静江等州軍事兼侍中を授け、湖南の地をことごとく有させた。宋初年、兼中書令を加えた。

原文顯德中,世宗將用師淮甸,詔朗州王進逵出師入鄂州界,進逵遣裨將潘叔嗣領兵五千為先鋒。行及鄂州界,叔嗣乃回戈襲進逵,進逵聞之,倍道先入武陵。叔嗣攻其城,進逵敗走,為叔嗣所殺,迎行逢為節度。行逢至,即斬叔嗣以徇。世宗乃授行逢郎州大都督、武平軍節度、製置武安靜江等州軍事兼侍中,盡有湖南之地。宋初,加兼中書令。

行逢は鎮に在り、心を尽くして治め、官属を辟召任命するには必ず廉潔で節操ある士を取った。女婿が吏の補任を求めたが、許さず、かえって耒耜を与え、これに告げて言うには、「吏は民を治めるものである。汝の才は職に任じられず、どうして私情で汝に禄を与えようか。しばらく帰って田を墾き自活せよ」と。その公正は多くこの類であった。条教は簡約で、民は皆これを喜んだ。しかし性猜忌が多く、側近で少しでも意に逆らう者は必ず法に置き、麾下の者は重ね足を重ね息を詰めた。何景山という者がおり、王進逵の記室となり、常に行逢を軽侮していた。行逢が帥となると、景山を益陽令に任命し、数ヶ月後、縛して江に投げ込んだ。また、館驛巡官鄧洵美は翰林学士李昉と同年の進士であった。李昉が行逢に使いした際、伝舎に召し出して終日話をした。行逢は己の陰事を漏らしたのではないかと疑い、易俗場官に左遷し、密かに遣わして殺させた。これにより士流は従わなかった。

原文行逢在鎮,盡心為治,辟署官屬,必取廉介之士。有女婿求補吏,不許,返給以耒耜,語之曰:「吏所以治民也,汝才不能任職,豈敢私汝以祿邪?姑歸墾田以自活。」其公正多此類。條教簡約,民皆悅之。然性多猜忌,左右少有忤意者必置於法,麾下之人重足累息。有何景山者,為王進逵記室,常狎侮行逢。及行逢為帥,署景山益陽令,數月,縛投於江。又館驛巡官鄧洵美與翰林學士李昉同年進士,會昉使行逢,召至傳舍,與話終日。行逢疑其泄己陰事,黜為易俗場官,潛遣殺之。由是士流不附。

馬氏の旧僚に天策府学士徐仲雅がおり、性滑稽で、やや才を恃んで傲慢であったが、行逢はこれを節度判官とした。行逢は多く溪洞の蛮酋を司空しくう・太保に任命した。ある日、仲雅に言うには、「我は湖湘を奄有し、兵強く俗富み、四隣は我を恐れるであろうか」と。仲雅は言うには、「公の部内には司空が川に満ち、太保が地に遍く、誰が恐れないことがありましょうか」と。行逢は喜ばず、仲雅を排斥した。行逢の妻潘氏は容貌醜く、性剛狠であった。行逢が帥となっても、妻は屈せず、府署に入らず、自ら奴僕を率いて耕織し自給し、賦調は必ず期日より先に輸送した。行逢が止めても従わず、言うには、「税は官物である。もし主帥が自らの家を免ずるならば、どうして下を率いることができようか」と。

原文馬氏舊僚有天策府學士徐仲雅,性滑稽,頗恃才倨傲,行逢以為節度判官。行逢多署溪洞蠻酋為司空、太保,一日謂仲雅曰:「吾奄有湖湘,兵強俗阜,四鄰其懼我乎?」仲雅曰:「公部內司空滿川,太保遍地,孰敢不懼?」行逢不悅,擯斥仲雅。行逢妻潘氏貌醜,性剛狠。行逢為帥,妻不為屈,不入府署,躬率奴仆耕織以自給,賦調必先期輸送。行逢止之,不從,曰:「稅,官物也,若主帥自免其家,何以率下?」

建隆三年十月、行逢は卒し、汝南郡王を追封された。

原文建隆三年十月,行逢卒,追封汝南郡王。

子 保權

原文子 保權

子保權、年十一。初め武平軍節度副使となり、太祖より起復検校太尉・朗州大都督・武平軍節度使を授かった。初め、行逢は病み且つ重く、将校を召して保権を託し言うには、「我が部内の凶狠な者は誅し略尽くしたが、唯だ張文表のみがいる。我が死ねば、文表は必ず乱を起こす。諸公は善く我が児を輔け、土宇を失うことなかれ。已むを得ざる時は、当に挙族して朝廷に帰順し、虎口に陥らせることなかれ」と。行逢が卒すると、翌年春、文表は果たして衡州より兵を挙げて潭州を占拠し、朗陵を取らんとし、周氏をことごとく滅ぼそうとした。保権は朝廷に師を乞い、江陵の高継衝もまたその事を聞かせた。上は中使趙璲を遣わし詔を齎して文表を諭したが、保権の奏が続いて至った。そこで山南東道節度使慕容延釗を湖南道行営都部署とし、宣徽南院使李処耘を都監とし、淄州刺史尹崇珂・申州刺史聶章・郢州刺史趙重進・判四方館事武懐節・氈毯使張継勲・染院副使康延沢・内酒坊副使盧懐忠らを率いて歩騎を将いて平定に向かわせ、また安・復等十州の兵を発して襄陽に会させた。師が江陵に及び、趙璲が潭州に至った時、文表は既に保権の衆に殺されていた。

原文子保權,年十一。初為武平軍節度副使,太祖授以起復檢校太尉、朗州大都督、武平軍節度。初,行逢疾且亟,召將校托保權曰:「吾部內凶狠者誅之略盡,唯張文表在焉,吾死,文表必亂。諸公善佐吾兒,無失土宇,必不得已,當舉族歸朝,無令陷於虎口。」行逢卒,明年春,文表果自衡州舉兵據潭州,將取朗陵,盡滅周氏。保權乞師於朝廷,江陵高繼衝亦以其事聞。上遣中使趙遂齎詔諭文表,而保權之奏繼至。乃遣山南東道節度慕容延釗為湖南道行營都部署,宣徽南院使李處耘為都監,率淄州刺史尹崇珂、申州刺史聶章、郢州刺史趙重進、判四方館事武懷節、氈毯使張繼勳、染院副使康延澤、內酒坊副使盧懷忠等將步騎往平之,又發安、復等十州兵會於襄陽。師及江陵,趙遂至潭州,文表已為保權之眾所殺。

保権の牙校張従富らは、文表が既に平定されたのに王師が引き続き進軍して止まないので、襲撃されることを恐れ、共に拒んで守った。延釗は閣門使丁徳裕に先んじて路を安撫させた。城下に至ると、従富らは拒んで受け入れず、部内の橋梁をことごとく撤去し、船を沈め木を伐って路を塞いだ。徳裕は詔を奉じていないので敢えて戦わず、退軍して朝旨を待った。延釗はこれを上聞した。太祖は中使を遣わして保権及び将校に諭して言うには、「汝らは本来師を請い救援を求めたので、故に大軍を発して汝らの難を救おうとした。今、妖孽は既に殄滅され、汝らに大いなる恵みがあるのに、反って王師を拒むのは何故か。自ら塗炭を取って、生聚を重ねて擾すことなかれ」と。保権は軍を澧州の南に出したが、未だ交鋒に及ばず、風を望んで潰走した。再び朗州に戻り、廬舎や倉庫を焼き尽くし、居人を駆り立てて山谷に奔竄させ、城郭は一空となった。王師は長駆して南し、従富を西山の下で捕らえ、朗州市で梟首した。その大将汪端は保権と家族を劫し、城を棄てて山洞に亡匿した。王師が到着して数ヶ月後、保権を捕らえた。武懐節は兵を分けて岳州を攻克した。端は保権の衆を擁して寇略したが、間もなくもまた就擒し、市で磔にされ、湖湘は悉く平定された。

原文保權牙校張從富輩,以為文表已平而王師繼進不已,懼為襲取,相與拒守。延釗令閣門使丁德裕先路安撫。及至城下,從富輩拒而不納,盡撤部內橋梁,沉舫伐樹塞路。德裕以不奉詔不敢與戰,退軍以須朝旨。延釗以聞,太祖遣中使諭保權及將校曰:「爾本請師救援,故發大軍以拯爾難。今妖孽既殄,是有大造於爾輩,反拒王師何也?無自取塗炭,重擾生聚。」何權出軍於澧州南,未及交鋒,望風而潰。復還朗州,焚廬舍廩庫皆盡,驅略居人奔竄山谷,城郭為之一空。王師長驅而南,獲從富於西山下,梟首朗市。其大將汪端劫保權並家屬,棄城亡匿山洞,王師至數月,獲保權。武懷節分兵克岳州,端擁保權眾寇略,未幾亦就擒,礫於市,湖湘悉平。

保權至り、上章して罪を待つ。優詔を下して之を釈し、襲衣・金帯・鞍勒馬・茵褥・銀器千両・帛二千匹・銭千貫を賜い、右千牛衛上將軍に授け、京城の旧邸院を葺いて第と為し、焉に居らしむ。仍ち朗州に詔を下し、行逢の墓を増築せしむ。保權は乾徳五年に累遷して右羽林統軍となる。太平興国元年、并へい州を知り、銭三百万を賜う。雍熙二年、卒す。年三十四。

原文保權至,上章待罪,優詔釋之。賜。襲衣、金帶、鞍勒馬、茵褥、銀器千兩、帛二千匹、錢千貫,授右千牛衛上將軍,葺京城舊邸院為第,令居焉。仍下詔朗州,增築行逢之墓。保權乾德五年累遷右羽林統軍。太平興國元年,知并州,賜錢三百萬。雍熙二年,卒,年三十四。

附 李觀象

原文附 李觀象

李觀象は、桂州臨桂の人なり。行逢、之を署して掌書記と為す。行逢は性残忍にして、多く誅殺す。觀象は禍に及ぶを懼れ、清苦自ら励み、以て知遇を求め、帳幃・寝衣悉く紙を以て之を為す。行逢は頗る信任を加え、軍府の政一に皆其の取决に取る。

原文李觀象,桂州臨桂人。行逢署為掌書記。行逢性殘忍,多誅殺。觀象懼及禍,清苦自勵,以求知遇,帳幃、寢衣悉以紙為之。行逢頗加信任,軍府之政一皆取決。

觀象は経史に渉り、文辞有り、才を忌み寵を怙り、湖南の士人多く其の排擯せらる。行逢は臨終に後事を托し、其の子保權に令して之を善待せしむ。張文表の難作るに及び、王師境に圧す。觀象、保權に謂ひて曰く、「我の恃む所は、北に荊渚有り、以て唇歯と為す。今高氏拱手して命を聴く。朗州の勢独り全からず。幅巾して朝に帰するに若かず。然らば則ち富貴を失はず」と。保權幼懦にして、其の言を用ふる能はず。湖湘平らぐに及び、太祖、觀象嘗て保權の為に謀を画せしを聞き、左補闕と為す。

原文觀象涉經史,有文辭,忌才怙寵,湖南士人多為所排擯。行逢臨終托以後事,令其子保權善待之。及張文表難作,王師壓境,觀象謂保權曰:「我所恃者北有荊渚,以為唇齒,今高氏拱手聽命,朗州勢不獨全,莫若幅巾歸朝,則不失富貴。」保權幼懦,不能用其言。及湖湘平,太祖聞觀象嘗為保權畫謀,以為左補闕。

附 張文表

原文附 張文表

張文表は、朗州武陵の人なり。王進逵・周行逢に従ひ兵を挙げて邊鎬を逐ふ。行逢、文表を署して衡州刺史と為し、頗る心に之を忌み、常に文表を誅せんと欲す。未だ以て発する所有らず。行逢卒するに及び、保權兵を遣はして永州の戍卒に代はらしむ。路衡陽に出づ。文表遂に之を駆りて以て潭州を襲ふ。時に行軍司馬廖簡、留後を知り、素より文表を軽んじ、之が為に備へ為さず。方に宴飲す。外より文表の兵至ると報ず。簡殊に之を介意せず、四坐に謂ひて曰く、「此れ黄口小児、至れば則ち擒に成る。何ぞ患ふるに足らんや」と。飲啖故の如し。俄にして文表率ひて衆をして径に府中に入らしむ。簡酔ひて弓弩を彀ふる能はず、但だ膝を按じて之を叱す。文表遂に簡及び坐客十余人を害す。保權其の将楊師璠を遣はし、衆を悉くして以て文表を禦がしむ。保權泣きて衆に謂ひて曰く、「先君人を知る可しと謂ふ。今墳土未だ乾かず、文表逆を構ふ。軍府の安危、此の一挙に在り。諸公之を勉めよ」と。衆皆感憤し、遂に其の衆を平津亭に破り、文表を擒へ臠にして之を食らふ。

原文張文表,朗州武陵人。從王進逵、周行逢舉兵逐邊鎬,行逢署文表衡州刺史,頗心忌之,常欲誅文表,未有以發。及行逢卒,保權遣兵代永州戍卒,路出衡陽,文表遂驅之以襲潭州。時行軍司馬廖簡知留後,素輕文表,不為之備。方宴飲,外報文表兵至,簡殊不以介意,謂四坐曰:「此黃口小兒,至則成擒,何足患也?」飲啖如故。俄文表率眾徑入府中,簡醉不能彀弓弩,但按膝叱之,文表遂害簡及坐客十餘人。保權遣其將楊師璠悉眾以禦文表,保權泣謂眾曰:「先君可謂知人矣。今墳土未幹,文表構逆,軍府安危,在此一舉,諸公勉之!」眾皆感憤,遂破其眾於平津亭,擒文表臠而食之。

初め、文表長沙を攻めんとし、猶豫よ未だ決せず。小校有りて文表の龍領下より出づるを夢み、明日以て告ぐ。文表喜びて曰く、「天命なり」と。敗るるに及び、朗陵市に梟首す。

原文初,文表將攻長沙,猶豫未決,有小校夢文表龍出領下,明日以告,文表喜曰:「天命也。」及敗,梟首於朗陵市。

荊南高氏 高保融

原文荊南高氏高保融

荊南高保融は字は徳長、其の先は陝州峽石の人なり。祖季興、唐末に荊南節度と為り、梁・後唐を歴て南平王に封ぜられ、卒す。子従誨嗣ぐ。太傅・中書令に至る。『五代史』に伝有り。

原文荊南高保融字德長,其先陝州峽石人。祖季興,唐末為荊南節度,曆梁、後唐封南平王,卒。子從誨嗣,至太傅、中書令,《五代史》有傳。

従誨保融を生む。長興初を以て蔭補して太子舎人と為り、緋を賜ふ。晋天福中、制を以て検校司空・判内外諸軍を授け、俄に節度副使に遷る。開運末、峽州刺史を領し、累加して検校太傅に至る。漢初、従誨卒す。権に軍府事を知る。制を以て起復検校太尉・同平章事・江陵尹・荊南節度・荊帰峽観察使を授け、翰林使郭允明を遣はして衣幣を賜ふ。乾祐二年、検校太師兼侍中を加ふ。周広順初、兼中書令を加へ、勃海郡王に封ぜらる。正衙に命使礼部尚書王易・副使刑部郎中景範をして冊命を発せしめ、仍ち礼服冠剣を賜ふ。顕徳初、南平王に進封す。世宗即位し、守中書令を加ふ。

原文從誨生保融,以長興初蔭補太子舍人,賜緋。晉天福中,製授檢校司空、判內外諸軍,俄遷節度副使。開運末,領峽州刺史,累加至檢校太傅。漢初,從誨卒,權知軍府事,製授起復檢校太尉、同平章事、江陵尹、荊南節度、荊歸峽觀察使,遣翰林使郭允明賜衣幣。乾祐二年,加檢校太師兼侍中。周廣順初,加兼中書令,封勃海郡王,正衙命使禮部尚書王易、副使刑部郎中景範發冊命,仍賜禮服冠劍。顯德初,進封南平王。世宗即位,加守中書令。

世宗淮南を征し、詔して保融に水軍数千人を出だして夏口に抵り犄角と為さしむ。淮甸平らぐ。璽書を以て褒美し、絹数万匹を以て其の軍を賞す。世宗将に蜀しょくを伐らんと議す。保融上言し、舟師を率ひて三峡に趣かんことを請ふ。六年、恭帝即位し、守太保を加ふ。宋初、守太傅と為り、連ねて使を遣はし貢献す。恩顧甚だ厚し。是歳八月、卒す。年四十一。朝を廃すること三日、儀鸞使李継超を遣はして賻物を賜ひ、兵部尚書李濤・兵部郎中率汀をして節を持して冊贈太尉と為し、諡して正懿と曰ふ。

原文世宗征淮南,詔保融出水軍數千人抵夏口為犄角。淮甸平,璽書褒美,以絹數萬匹賞其軍。世宗將議伐蜀,保融上言請率舟師趣三峽。六年,恭帝即位,加守太保。宋初,守太傅,連遣使貢獻,恩顧甚厚。是歲八月,卒,年四十一。廢朝三日,遣儀鸞使李繼超賜賻物,兵部尚書李濤、兵部郎中率汀持節冊贈太尉,諡正懿。

保融は性迂闊淹緩にして、兵を禦ぎ民を治むる、一時の術略政事、悉く母弟保勖に委ぬ。子継沖・継充、継充は帰州刺史に至る。

原文保融性迂闊淹緩,禦兵治民,一時術略政事,悉委於母弟保勖焉。子繼沖、繼充,繼充至歸州刺史。

弟 保勖

原文弟 保勖

保勖は字は省躬、従誨第十子、保融の同母弟なり。晋天福初、起家して漢州刺史を領す。保融政を嗣ぎ、令して内外諸軍事を判せしむ。周広順元年、検校太傅を加へ、荊南節度副使を充す。顕徳初、保融の請に従ひ、検校太尉を加へ、行軍司馬を充し、寧江軍節度を領す。融卒す。保勖権に軍府を知り、章を奉じて以て聞す。太祖即ち節度使を以て授く。建隆二年、其の弟保寅を遣はして入貢せしむ。初め、保融紀南城の北に於て江水を決し之を瀦すこと七里余、之を北海と謂ひ、以て行者を閡ふ。是に至り太祖保寅の帰るに因り、旨を諭して令して決去せしめ、道路をして阻無からしむ。

原文保勖字省躬,從誨第十子,保融同母弟也。晉天福初,起家領漢州刺史。保融嗣政,令判內外諸軍事。周廣順元年,加檢校太傅,充荊南節度副使。顯德初,從保融之請,加檢校太尉,充行軍司馬,領寧江軍節度。融卒,保勖權知軍府,奉章以聞,太祖即授以節度使。建隆二年,遣其弟保寅入貢。初,保融於紀南城北決江水瀦之七里餘,謂之北海,以閡行者。至是太祖因保寅歸,諭旨令決去,使道路無阻。

保勖は幼より病多く、体貌臞瘠にして、淫泆度無し。日に娼妓を召し府署に集め、士卒壮健なる者を択びて令して恣に調謔せしめ、保勖は姬妾と簾を垂れて共に観て、以て娛樂と為す。又台榭を営造するを好み、土木の工を窮め極む。軍民咸く怨む。政事治まらず、従事孫光憲切に諫むも聴かず。三年十一月、卒す。年三十九。朝を廃すること二日、侍中を贈り、禦厨使李光睿を遣はして賻祭せしむ。

原文保勖幼多病,體貌臞瘠,淫泆無度。日召娼妓集府署,擇士卒壯健者令恣調謔,保勖與姬妾垂簾共觀,以為娛樂。又好營造台榭,窮極土木之工,軍民咸怨。政事不治,從事孫光憲切諫不聽。三年十一月,卒,年三十九。廢朝二日,贈侍中,遣禦廚使李光睿賻祭。

初め、保勖が幼少の頃、従誨は特に寵愛し、或いは激怒する時も彼を見れば必ず和らいで笑ったので、荊人は「万事休」と称した。保勖が立つと、藩政は弛緩し、僅か数ヶ月で国を失い、これも予兆であった。

原文初,保勖在保抱,從誨獨鍾愛,故或盛怒,見之必釋然而笑,荊人目為「萬事休」。及保勖之立,藩政離弱,卒裁數月遂失國,亦預兆也。

子に継沖あり。

原文子 繼沖

継沖は字を讚平といい、保融の長子である。周の顕徳六年、蔭により検校司空に任じられ、荊州節度副使となった。建隆三年、保勖が病臥し、継沖を節度副使とし、軍府の事を権知させた。保勖が卒すると、四年正月、制により継沖を検校太保・江陵尹・荊南節度に授けた。

原文繼沖字讚平,保融長子也。周顯德六年,以蔭檢校司空,為荊州節度副使。建隆三年,保勖寢疾,以繼沖為節度副使,權知軍府。保勖卒,四年正月,製授繼沖為檢校太保、江陵尹、荊南節度。

時に湖南の張文表が叛き、周保権が朝廷に救援を求め、詔して江陵に水軍三千人を発して潭州に赴かせると、継沖は直ちに親校の李景威を遣わしてこれを率いさせて行かせた。二月、慕容延釗・李処耘等が衆を率いて至ると、継沖は牛酒をもって師を犒い、門を開いて延釗等を迎え入れた。即ち客将の王昭済・蕭仁楷を遣わし、表を奉じて土を納めた。太祖は御厨使の郜嶽に詔を持たせて安撫させ、枢密承旨の王仁贍を荊南都巡検使とし、併せて衣服・玉帯・器幣・鞍勒馬を賜うよう継沖に持たせた。継沖を馬歩都指揮使に授け、梁延嗣を復州防禦使とし、節度判官の孫光憲を黄州刺史とし、右都押衙の孫仲文を武勝軍節度副使とし、知進奏の鄭景玫を右驍衛将軍とし、王昭済を左領軍衛将軍とし、蕭仁楷を供奉官とした。継沖は管内の芻糧銭帛の数を籍に記して献上し、また銭五万貫・絹五千匹・布五万匹を献じ、更に支使の王崇範を遣わして闕に詣り、金器五百両・銀器五千両・錦綺二百段・龍脳香十斤・錦繡帷幕二百事を貢いだ。三月、詔して鞍轡庫使の翟光裔に官告・旌節を持たせて継沖に賜い、併せて参佐官吏等を存問させた。また保融の兄弟・諸父である江陵少尹の保紳を衛尉卿とし、節院使の保寅を将作監・内作坊使充てとし、左衙都将の保緒を鴻臚少卿とし、右衙都将の保節を司農少卿とし、合州刺史の従翊を右衛将軍とし、衙将の保遜を左監門衛将軍とし、巴州刺史の保衡を帰州刺史とし、知峽州事の保膺を本州刺史とし、衙将の従詵を右衙率府率とし、従譲を左清道率府率とし、従謙を左司禦率府率とした。また王崇範を節度判官とし、高若拙を観察判官とし、梁守彬を江陵少尹とし、韋仲宣を掌書記とし、胡允修を節度推官とし、州県官は悉く旧に仍り、別に管内の符印を賜った。五月、保紳等が来朝し、各々京城に第一等の邸宅を賜った。六月、王仁贍に命じて軍府事を兼ねて知らせた。

原文時湖南張文表叛,周保權求救於朝廷,詔江陵發水軍三千人赴潭州,繼沖即遣親校李景威將之而往。二月,慕容延釗、李處耘等率眾至,繼沖以牛酒犒師,開門納延釗等。即遣客將王昭濟、蕭仁楷奉表納土。太祖令禦廚使郜嶽持詔安撫,樞密承旨王仁贍為荊南都巡檢使,仍令齎衣服、玉帶、器幣、鞍勒馬以賜繼沖。授繼沖馬步都指揮使,梁延嗣為復州防禦使,節度判官孫光憲為黃州刺史,右都押衙孫仲文為武勝軍節度副使,知進奏鄭景玫為右驍衛將軍,王昭濟左領軍衛將軍,蕭仁楷供奉官。繼沖籍管內芻糧錢帛之數來上,又獻錢五萬貫、絹五千匹、布五萬匹,復遣支使王崇範詣闕貢金器五百兩、銀器五千兩、錦綺二百段、龍腦香十斤、錦繡帷幕二百事。三月,詔鞍轡庫使翟光裔齎官告、旌節賜繼沖,並存問參佐官吏等;又以保融兄弟、諸父江陵少尹保紳為衛尉卿,節院使保寅為將作監、充內作坊使,左衙都將保緒為鴻臚少卿,右衙都將保節為司農少卿,合州刺史從翊為右衛將軍,衙將保遜為左監門衛將軍,巴州刺史保衡為歸州刺史,知峽州事保膺為本州刺史,衙將從詵為右衙率府率,從讓為左清道率府率,從謙為左司禦率府率;又以王崇範為節度判官,高若拙觀察判官,梁守彬江陵少尹,韋仲宣掌書記,胡允修節度推官,州縣官悉仍舊,別賜管內符印。五月,保紳等來朝,各賜京城第一區。六月,命王仁贍兼知軍府事。

丁度その年郊祀を行おうとした時、表を奉じて入覲を求め、これを許された。十月、闕下に至り、金銀器・錦帛・宝装の弓剣・繍の旗幟・象牙・玉の鞍勒等を献じ、賜賚は甚だ厚かった。郊禋が終わると、継沖を徐州大都督府長史・武寧軍節度使・徐宿観察使に授けた。継沖は彭門を鎮めること幾十年、政を僚佐に委ね、部内もまた治まった。開宝六年、卒し、年三十一。二日間朝を廃し、侍中を贈り、中使を遣わして喪を護り、葬事は官が給した。

原文會是歲將郊祀,表求入覲,可之。十月,至闕下,獻金銀器、錦帛、寶裝弓劍、繡旗幟、象牙、玉鞍勒等,賜賚甚厚。郊禋畢,授繼沖徐州大都督府長史、武寧軍節度使、徐宿觀察使。繼沖鎮彭門幾十年,委政僚佐,部內亦治。開寶六年,卒,年三十一。廢朝二日,贈侍中,遣中使護喪,葬事官給。

高季興が荊南・帰峡の地を拠有してより、三世五帥を伝襲し、凡そ四十余年に及んだ。

原文自高季興據有荊南、歸峽之地,傳襲三世五帥,凡四十餘年。

弟に保寅あり。

原文弟 保寅

保寅は字を齊巽という。晋の天福七年、蔭により太子舎人に授けられ、緋を賜い、累次加えて検校司空となった。兄の保融が封を襲ぐと、奏して節院使に署し、金紫を賜った。宋が興り、保勖が封を襲ぐと、保寅を遣わして入覲させた。太祖は便殿に召して対せしめ、掌書記を授けて還らせた。保寅は保勖に語って曰く、「真主世に出で、天将に区宇を混一せんとす。兄は宜しく率先して諸国を率い、土を奉じて朝に帰すべし、他人に富貴の資を取らしむるなかれ」と。保勖は聴かなかった。

原文保寅字齊巽。晉天福七年,以蔭授太子舍人,賜緋,累加檢校司空。兄保融襲封,奏署節院使,賜金紫。宋興,保勖既襲封,遣保寅入覲,太祖召對便殿,授掌書記遣還。保寅語保勖曰:「真主出世,天將混一區宇,兄宜首率諸國奉土歸朝,無為他人取富貴資。」保勖不聽。

王師が武陵を討つに当たり、道は荊渚より出で、保寅は牛酒を奉じて軍鋒を迎え犒った。太祖はこれを嘉し、駅伝にて闕に召し赴かせ、将作監・内作坊使充てを授け、第一等の邸宅を賜った。俄かに宿州を知った。乾徳四年、外艱に遭い、起復して少府監に転じた。開宝五年、懐州を知り、司農・衛尉の二卿を歴任した。この州は本来河陽に隷属していたが、時に趙普が帥であり、保寅と平素より隙があったため、事多く抑圧し、保寅は心に平らかでなく、手疏を奉じて支郡の制を罷むることを請うと、詔してこれに従った。また西川諸州都巡検使となり、光禄卿に改め、同州・汝州の二州を知り、光化軍に改めた。卒し、年六十八。朝を廃し、賻銭十万を賜った。

原文王師討武陵,道出荊渚,保寅奉牛酒迎犒軍鋒。太祖嘉之,驛召赴闕,授將作監,充內作坊使,賜第一區。俄知宿州。乾德四年,丁外艱,起復,轉少府監。開寶五年,知懷州,曆司農、衛尉二卿。是州本隸河陽,時趙普為帥,與保寅素有隙,事多抑製,保寅心不能平,手疏請罷支郡之制,詔從之。又為西川諸州都巡檢使,改光祿卿,曆知同、汝二州,改光化軍。卒,年六十八。廢朝,賻錢十萬。

初め、保寅が懐州に在った時、蘇易簡・王欽若は共に妙年にして学に趨き始めた。同州に在った時、銭若水が従事であった。光化軍に在った時、張士遜はその邑人である。保寅は一見して皆これを奨励抜擢し、遠大なることを許し、議者は多くその人を知ることを称えた。

原文初,保寅在懷州,蘇易簡、王欽若並妙年始趨學;在同州,錢若水為從事;在光化軍,張士遜其邑人也。保寅一見皆獎拔,許以遠大,議者多其知人。

子に輔政・輔之・輔堯・輔国あり、並びに進士及第した。輔政は秘書丞に至り、輔之は太常丞に至った。

原文子輔政、輔之、輔堯、輔國,並進士及第。輔政至秘書丞,輔之至太常丞。

附 孫光憲

原文附 孫光憲

孫光憲は字を孟文といい、陵州貴平の人である。世業は農畝であったが、惟だ光憲は少より学を好んだ。荊渚に遊び、高従誨これを見て重んじ、従事に署した。保融及び継沖の三世を歴て皆幕府に在り、累官して検校秘書監兼御史大夫に至り、金紫を賜った。慕容延釗等が朗州の乱を救うに当たり、荊南に仮道し、継沖が門を開いて延釗を迎え入れると、光憲は乃ち継沖を勧めて三州の地を献じさせた。太祖これを聞き甚だ悦び、光憲を黄州刺史に授け、賜賚を加等した。郡に在ってもまた治声があった。乾徳六年、卒した。時に宰相に光憲を学士に薦める者あり、未だ召さるるに及ばず、会って卒した。

原文孫光憲字孟文,陵州貴平人。世業農畝,惟光憲少好學。遊荊渚,高從誨見而重之,署為從事。曆保融及繼沖三世皆在幕府,累官至檢校秘書監兼御史大夫,賜金紫。慕容延釗等救朗州之亂,假道荊南,繼沖開門納延釗,光憲乃勸繼沖獻三州之地。太祖聞之甚悅,授光憲黃州刺史,賜賚加等。在郡亦有治聲。乾德六年,卒。時宰相有薦光憲為學士者,未及召,會卒。

光憲は経史に博通し、特に学に勤め、書数千巻を聚め、或いは自ら抄写し、孜孜として讎校し、老いても廃さなかった。著撰を好み、自ら葆光子と号し、著す所に『荊台集』三十巻、『鞏湖編玩』三巻、『筆傭集』三巻、『橘斎集』二巻、『北夢瑣言』三十巻、『蠶書』二巻あり。また『続通暦』を撰し、紀事頗る実を失う。太平興国初年、詔してこれを毀った。子の謂・讜、並びに進士及第した。

原文光憲博通經史,尤勤學,聚書數千卷,或自抄寫,孜孜讎校,老而不廢。好著撰,自號葆光子,所著《荊台集》三十卷,《鞏湖編玩》三卷,《筆傭集》三卷,《橘齋集》二卷,《北夢瑣言》三十卷,《蠶書》二卷。又撰《續通曆》,紀事頗失實,太平興國初,詔毀之。子謂、讜,並進士及第。

附 梁延嗣

原文附 梁延嗣

梁延嗣は京兆長安ちょうあんの人である。若くして高季興に仕え、大いに信任を受けた。表を奉って検校司空・綿州刺史を授けられ、衙内馬歩軍都指揮使を充任した。四代の主君に仕え、人々はその忠誠を称えた。継沖が領土を献上した際にも、延嗣はこれを勧めたことがあった。また荊州の水軍を率いて慕容延釗に従い戦い、太祖はこれを賞して復州防禦使を授け、湖南前軍歩軍都指揮使兼排陣使を充任させた。郊祀の礼のため、復州から入朝した時、太祖は慰撫して言った、「高氏が富貴を失わなかったのは、そなたの力である」と。濠州防禦使に改められ、善政を施し、詔書で褒め称えられた。

原文梁延嗣,京兆長安人。少事高季興,頗見委任。表授檢校司空、領綿州刺史,充衙內馬步軍都指揮使。曆事四帥,人稱其忠藎。繼沖之納士也,延嗣亦嘗勸之。復率荊之水軍從慕容延釗越戰,太祖嘉之,授復州防禦使,充湖南前軍步軍都指揮使兼排陣使。事因郊禮,自復州入朝,太祖慰撫之曰:「使高氏不失富貴,爾之力也。」改濠州防禦使,有善政,詔書褒美。

延嗣は書物に通じ、士人を好んで交際した。かつて急病にかかり、城隍神に祈ったところ、その夜、夢に神人が九九の数を告げ、やがて病は癒えた。開宝九年に卒去、八十一歳であった。

原文延嗣頗知書,好接士。嘗暴疾,禳於城隍神,是夕,夢神人告以九九之數,俄疾愈。開寶九年,卒,年八十一。

漳泉の留氏 留従効

原文漳泉留氏留從效

漳泉の留従効は、泉州永春の人である。幼くして孤となり、母と兄に仕えて孝悌で知られた。書物に通じ、兵法を好んだ。

原文漳泉留從效,泉州永春人。幼孤,事母兄以孝悌聞。頗知書,好兵法。

唐末、王審知が福建の地を占拠し、その子延鈞は後唐の長興年間に帝を僭称し、国号を閩とし、福州に都したが、配下に殺され、審知の次子延羲が立てられた。晋の天福末年、部将の朱文進が延羲を殺してその地位を占め、その党の黄紹頗を泉州刺史に、程贇を漳州刺史に、許文稹を汀州刺史に任命した。当時、審知の子延政は建州刺史であり、やはり帝を僭称していた。

原文唐末,王審知據有福建之地,子延鈞,後唐長興中僭稱帝,國號閩,都福州,為其下所殺,立審知次子延羲。晉天福末,部將朱文進殺延羲據其位,署其黨黃紹頗為泉州刺史,程贇為漳州刺史,許文稹為汀州刺史。時審知子延政為建州刺史,亦僭稱帝。

泉州の人々は王氏が国を失い、群賊が分拠するのを憂い、当時従効が泉州散指揮使であったが、その党の王忠順・董思安および親しい蘇光誨と共に図り議し、王氏の復興を謀った。従効は声をあげて言った、「我らは皆王氏の恩遇を受けた。今、王氏の子孫が位を回復せず、報いようとしないのは、忠義と言えようか。聞くところでは建州の士卒が力を尽くして福州を撃ち、王氏を復興しようと謀っている。もし一朝にして彼らが先に功を成し、王氏が復位すれば、我々はどのような顔で彼らに会えようか」と。そこで忠順・思安は従効の家で酒宴を設け、敢死の士を募り、陳洪進ら五十二人を得て、夜に白棒を持って城を乗り越え、武器庫を襲い、紹頗を捕らえて斬った。延政の従子継勲を刺史に立て、従効ら三人は自ら統帥と称し、洪進らは皆指揮使とした。継勲は紹頗の首を建州に送り届け、延政を主君として奉じるよう命じた。

原文泉人念王氏失國,群逆分據,時從效為泉州散指揮使,與其黨王忠順、董思安及所親蘇光誨相與圖議,興復王氏。從效倡言:「吾等皆受王氏恩遇,今王氏子孫未復位而不思報,可謂忠義乎?聞建州士卒謀盡力擊福州以復王氏,苟一旦功先成,王氏復位,我輩何麵見之邪?」於是忠順、思安置酒從效家,募敢死士,得陳洪進等五十二人,夜持白梃逾城而入,劫庫兵,擒紹頗斬之。立延政從子繼勳為刺史,從效等三人自署為統帥,洪進等皆為指揮使。繼勳令送紹頗首於建州,奉延政為主。

延政はすなわち江南の李景に帰順の意を示した。文進は兵を率いて泉州を攻めたが、従効に敗れた。折しも李景が将を遣わして王氏の乱を討ち、福州を包囲し、両浙の銭氏が兵を発して救援に来た。李景の将は汀州・建州を平定しただけで帰還し、福州は銭氏の手に落ちた。従効は兵をもって継勲を脅迫し江南に送り、自ら漳・泉二州の留後を領し、李景はただちに泉州を清源軍とし、従効に節度使・泉漳等州観察使を授けた。閩中の五州はここに分かれた。李景は累次従効に同平章事兼侍中・中書令を授け、鄂国公・晋江王に封じた。

原文延政遂送款於江南李景。文進率眾攻泉州,為從效所敗。會景遣將討王氏之亂,圍福州,兩浙錢氏發兵來援。景將但克汀、建而歸,福州入於錢氏。從效以兵劫繼勳送江南,自領漳、泉二州留後,李景即建泉州為清源軍,授從效節度、泉漳等州觀察使。閩中五州自此分矣。景累授從效同平章事兼侍中、中書令,封鄂國公、晉江王。

従効は寒微の身から出て、民の苦しみを知り、郡においては専ら勤倹をもって民を養うことを務めとし、常に布の質素な衣服を着て、公服を中門の傍らに置き、出仕する時だけそれを着た。常に「我は元来貧賤であった。本を忘れてはならない」と言った。民は彼を大いに愛し、管内は安寧に治まった。王氏に二人の娘がいて郡人の妻となっていたが、従効は彼女らを謹んで仕え、資給を豊かにした。毎年進士・明経を選抜し、これを「秋堂」と称した。

原文從效出自寒微,知人疾苦,在郡專以勤儉養民為務,常衣布素,置公服於中門之側,出則衣之。每言我素貧賤,不可忘本。民甚愛之,部內安治。王氏有二女嫁為郡人妻,從效奉之甚謹,資給豐厚。每歲取進士、明經,謂之「秋堂」。

世宗が淮南を征した時、李景は兵十万をもって紫金山を守った。従効は累次李景に上表し、その兵が頓挫し師老い、形勢が利でないことを言った。やがて果たして敗れ、江北の地はことごとく中朝(後周)に帰した。従効は衙将の蔡仲贇らを商人に扮させ、帛書の表を革帯の中に隠し、鄂州の路から内附の意を伝えさせた。また別駕の黄禹錫に間道を通って奉表させ、獬豸の通犀帯・龍脳香数十斤を貢物とした。世宗は詔書を下してこれを嘉み受け入れた。従効はまた京師に邸を置くことを請うたが、世宗は彼が元来江南に附いていたことを考慮し、不便を慮って許さなかった。

原文世宗征淮南,李景以兵十萬保紫金山。從效累表於景,言其頓兵老師,形勢非便。既而果敗,江北之地盡入於中朝。從效遣衙將蔡仲贇等為商人,以帛書表置革帶中,自鄂路送款內附。又遣別駕黃禹錫間道奉表,以獬豸通犀帶、龍腦香數十斤為貢。世宗錫詔書嘉納之。從效又乞置邸京師,世宗以其素附江南,慮其非便,不許。

宋の初め、従効は遂に上表して藩臣を称し、貢奉を絶やさなかった。折しも李景が洪州に遷都したため、従効は李景が己を討つことを疑い、大いに恐れ、その従子の紹錤に厚い財貨を持たせて李景に献上させ、また使者を遣わして呉越を経由して入貢させた。太祖は特に使者を命じて厚く賜りこれを慰撫させたが、使者が到着する前に、従効は背中に癰ができて卒去した。五十七歳であった。偽って太尉・霊州大都督を贈られた。

原文宋初,從效遂上表稱藩,貢奉不絕。會李景遷洪州,從效疑景討己,頗懼,遣其從子紹錤齎厚幣獻景,又遣使假道吳越入貢。太祖特命使厚賜以撫之,使未至,從效疽發背卒,年五十七。偽贈太尉、靈州大都督。

従効には嗣子がなく、兄の従願の子である紹錤・紹糸茲を養子とした。従効が病臥した時、従願は漳州を守り、紹錤は金陵におり、紹鎡はまだ幼かった。衙校の張漢思・陳洪進らが兵を率いて従効を脅迫し東亭に移し、漢思は自ら留後を称し、洪進を副使とした。時は建隆三年である。翌年、洪進はまた漢思を廃して自立した。

原文從效無嗣,以兄從願之子紹錤、紹糸茲為子。從效寢疾時,從願守漳州,紹錤在金陵,紹鎡尚幼。衙校張漢思、陳洪進等率兵劫從效遷東亭,漢思自稱留後,洪進為副使,時建隆三年也。明年,洪進又廢漢思而自立。

従効の再従弟の仁譓は、淳化年間に泗州長史となり、清廉な節操があり、官は散官で俸禄は薄く、藜藿さえも満足に食べられなかったが、妄りに人に請うことはなかった。太宗はこれを聞き、召し出して闕に赴かせ、特に揚州観察支使に遷任させた。大中祥符七年、従効の孫の丕式が闕に赴き、従効が受けた太祖朝の制書を上呈し、三班借職に任じられた。

原文從效再從弟仁譓,淳化中為泗州長史,有清節,官散奉薄,雖藜藿不充,未嘗妄幹人。太宗聞之,召赴闕,特遷揚州觀察支使。大中祥符七年,從效孫丕式詣闕上從效所受太祖朝制書,授三班借職。

漳泉の陳氏 陳洪進

原文漳泉陳氏陳洪進

陳洪進は、泉州仙遊の人である。幼くして壮節があり、書物を読み、兵法を学んだ。成長すると、才勇で知られた。兵籍に属し、汀州攻めに従軍し、先鋒として登城し、副兵馬使に補された。

原文陳洪進,泉州仙遊人。幼有壯節,頗讀書,習兵法。及長,以材勇聞。隸兵籍,從攻汀州,先登,補副兵馬使。

留従効に従って黄紹頗を殺し、紹頗の首を建州に送り、出兵を請いて援軍としようとしたが、配下らは道が険阻で賊が盛んであることを恐れ、その行を憚った。洪進は事が長引いて変が生じることを慮り、独り往くことを請うた。尤溪に至ると、賊数千人が道を遮って進めなかった。洪進は賊を欺いて言った、「福州・泉州は既に義師に襲われた。お前たちはまた誰のために守っているのか」と。即座に紹頗の首を持ち示して言った、「我はこれを建州に送り、嗣君を迎えて国に帰そうとしている。お前たちはどこに帰ろうというのか」と。賊は遂に潰走し、渠帥数人も皆命を聴いた。洪進が建州に至ると、延政は大いに喜び、本州馬歩軍都校に任じた。この年は、晋の開運元年である。ここにおいて漳州では程贇を殺し、延政の従子の継成を迎えて刺史とした。許文稹は汀州を挙げて降り、連重遇は朱文進を殺し、その首を建州に伝送し、福州の人々はまた重遇を殺した。延政は遂に洪進を帰して泉州に遣わした。三年、李景が建州を陥落させ、延政は江南に入った。翌年、泉州の留従効が王継勲を脅迫して江南に降り、李景は従効を清源軍節度使とし、洪進を統軍使とし、副使の張漢思と共に兵権を掌握させ、累次戦功を立てた。

原文從留從效殺黃紹頗,將以紹頗首送建州,請出兵為援,群下以道阻賊盛,憚其行。洪進慮事久生變,獨請往,至尤溪,賊數千人遮道不得前,洪進紿賊曰:「福州、泉州已為義師所襲,爾輩復為何人戍守?」即持紹頗首示之曰:「我送此於建州迎嗣君以歸國,爾輩將安歸乎?」賊遂潰,渠帥數人皆聽命。洪進至建州,延政大悅,以為本州馬步行軍都校。是歲,晉開運元年也。自是漳州殺程贇,迎延政從子繼成為刺史。許文稹以汀州降,連重遇殺朱文進,傳首建州,福人又殺重遇,延政遂遣洪進歸泉州。三年,李景陷建州,延政入江南。明年,泉州留從效劫王繼勳降江南,景以從效為清源軍節度,洪進為統軍使,與副使張漢思同領兵柄,累立戰功。

従効が卒すると、少子の紹鎡が留務を執った。一月余りして、洪進は紹鎡が越人を召して叛こうとしていると誣告し、これを捕らえて江南に送った。副使の張漢思を推して留後とし、自らは副使となった。漢思は年老いて醇朴で謹直であり、軍務を治めることができず、事は皆洪進によって決せられた。漢思の諸子は皆衙将となり、洪進を甚だ不平に思い、害そうと図った。漢思もまたその専横を患った。翌年の夏四月、漢思は将吏を大いに饗応し、内に甲兵を伏せて、洪進を害そうとした。酒が数巡した時、地が忽ち大いに震い、棟宇が将に傾かんとし、坐立する者は自ら持することができなかった。同謀する者がこれを洪進に告げたので、洪進は急ぎ去り、衆は驚悸して散った。漢思は事が成らず、洪進が先に発することを慮り、常に厳兵をして備えさせた。洪進の子文顕・文顥は皆指揮使であり、配下の兵を率いて漢思を撃たんとしたが、洪進は許さなかった。ある日、洪進は袖に大鎖を置き、二子を従えて常服で安歩して府中に入り、直兵数百人を皆叱り去った。漢思が内斎に居た時、洪進は即ちその門を鎖し、人をして門を叩かせて漢思に謂って曰く、「郡中の軍吏が洪進に留務を知らせることを請い、衆情に違うことができず、印を以て見授すべし」と。漢思は惶懼して為すところを知らず、即ち自ら門の間より印を出してこれに与えた。洪進は遽かに将校吏士を召して告げて曰く、「漢思は昏耄にして政を為すこと能わず、吾に印を授け、吾に郡事を蒞ましむることを請う」と。将吏は皆賀した。即日、漢思を別墅に移し、兵を以て衛送した。使を遣わして李煜に命を請うた。煜は洪進を清源軍節度使・泉南等州観察使とした。

原文從效卒,少子紹鎡典留務。月餘,洪進誣紹鎡將召越人以叛,執送江南。推副使張漢思為留後,自為副使。漢思年老醇謹,不能治軍務,事皆決於洪進。漢思諸子並為衙將,頗不平洪進,圖欲害之,漢思亦患其專。明年夏四月,漢思大享將吏,伏甲於內,將害洪進。酒數行,地忽大震,棟宇將傾,坐立者不自持。同謀者以告洪進,洪進亟去,眾驚悸而散。漢思事不成,慮洪進先發,常嚴兵為備。洪進子文顯、文顥皆為指揮使,勒所部欲擊漢思,洪進不許。一日,洪進袖置大鎖,從二子常服安步入府中,直兵數百人,皆叱去之。漢思方處內齋,洪進即鎖其門,使人叩門謂漢思曰:「郡中軍吏請洪進知留務,眾情不可違,當以印見授。」漢思惶懼不知所為,即自門間出印與之。洪進遽召將校吏士告之曰:「漢思昏耄不能為政,授吾印,請吾蒞郡事。」將吏皆賀。即日遷漢思別墅,以兵衛送。遣使請命於李煜,煜以洪進為清源軍節度、泉南等州觀察使。

時に太祖は沢・潞を平らげ、揚州を下し、荊湖を取り、威は四海に振るった。洪進は大いに懼れ、衙将の魏仁済を遣わして間道より表を奉り、自ら清源軍節度副使・権知泉南等州軍府事と称し、且つ張漢思が老耄にして衆を禦ぐこと能わず、臣に州事を領せしめ、恭しく朝旨を聴かんことを請うと言上した。太祖は通事舎人の王班を遣わして詔を齎し撫諭させ、また李煜に詔して曰く、「泉州の陳洪進が使を遣わして表を奉り言う、衆に推されて、よって州事を総領し、誠を以て控告し、朝に命を聴く。その傾輸を観るに、尤も嘉尚すべきものあり。但だ聞く、泉州は昔嘗て附麗し、尤も撫綏を荷う。然れども変詐多く端あり、屡々主帥を移し、その地里遼遠なるを恐れ、制禦に未だ遑あらざるを慮る。朕は書軌の大同を以て、恩威遠く被わり、その款附を嘉し、已に詔書を降す。蓋しその遠俗の便安を矜れり、必ずしも彼此を以て意とすべからず、想うに惟だ明哲、当に朕が懐を体すべし」と。煜は上言して、「洪進は詐多く、首鼠両端にして、誠に聴くに足らず」と言った。太祖はまた詔してこれを諭したので、煜は乃ち命を聴いた。

原文時太祖平澤、潞,下揚州,取荊湖,威振四海。洪進大懼,遣衙將魏仁濟間道奉表,自稱清源軍節度副使、權知泉南等州軍府事,且言張漢思老耄不能禦眾;請臣領州事,恭聽朝旨。太祖遣通事舍人王班齎詔撫諭,又與李煜詔曰:「泉州陳洪進遣使奉表言,為眾所推,因而總領州事,以誠控告,聽命於朝。觀其傾輸,尤足嘉尚。但聞泉州昔嘗附麗,尤荷撫綏。然變詐多端,屢移主帥,恐其地裏遼遠,制禦有所未遑。朕以書軌大同,恩威遠被,嘉其款附,己降詔書。蓋矜其遠俗便安,不必以彼此為意,想惟明哲,當體朕懷。」煜上言:「洪進多詐,首鼠兩端,誠不足聽。」 太祖又詔諭之,煜乃聽命。

建隆四年、使を遣わして朝貢した。この冬、また白金一万両、乳香茶薬一万斤を貢いだ。煜はまた上言して、洪進の恩命を寝かさんことを請うた。太祖はまた以て煜に諭した。乾徳二年、制して清源軍を改めて平海軍とし、洪進に節度使・泉漳等州観察使・検校太傅を授け、推誠順化功臣の号を賜い、印を鋳てこれを賜った。文顕を以て節度副使とし、文顥を以て漳州刺史とした。この年夏、家艱に遭い、起復した。

原文建隆四年,遣使朝貢。是冬,又貢白金萬兩,乳香茶藥萬斤。煜復上言,請寢洪進恩命。太祖又以諭煜。乾德二年,製改清源軍為平海軍,授洪進節度、泉漳等州觀察使、檢校太傅,賜號推誠順化功臣,鑄印賜之。以文顯為節度副使,文顥為漳州刺史。是年夏,丁家艱,起復。

洪進は毎歳朝廷に修貢するに当たり、多く民に厚く斂め、民の資産百万以上の者に差して入銭せしめ、以て試協律・奉礼郎とし、その丁役を蠲免した。江南が平らぎ、呉越王が来朝すると、洪進は自ら安んぜず、その子文顥を遣わして乳香一万斤・象牙三千斤・龍脳香五斤を入貢させた。太祖は因って詔を下してこれを召したので、遂に入覲した。南剣州に至り、太祖の崩御を聞き、帰鎮して哀を発した。

原文洪進每歲以修貢朝廷,多厚斂於民,第民貲百萬以上者令差入錢,以為試協律、奉禮郎,蠲其丁役。及江南平,吳越王來朝,洪進不自安。遣其子文顥入貢乳香萬斤、象牙三千斤、龍腦香五斤。太祖因下詔召之,遂入覲。至南劍州,聞太祖崩,歸鎮發哀。

太宗が即位すると、検校太師を加えた。翌年四月、来朝した。朝廷は翰林使の程徳玄を遣わして宿州に至り迎労させた。既に至ると、銭千万・白金一万両・絹一万匹を賜い、礼遇は優渥であった。またその食邑を増し、その子文顥を団練使とし、文顗・文頊を並びに刺史とした。洪進は遂に上言して曰く、「臣聞く、峻極なる者は山なり、汚壌に在りて辞せず。無私なる者は日なり、覆盆と雖も必ず照らすと。顧みるに惟だ遐僻にして、尚お声明を隔てたり。益地の図を帰せんことを願い、輒く由衷の請いを露わす。臣の領する両郡は、一隅に僻在し、浙右未だ帰せず、金陵偏覇するより以来、臣は崎嶇千里の地を以て、疲散万余の兵を率い、雲を望み日に就くこと勤めと雖も、首を畏れ尾を畏れて暇あらず。遂に間道より、遠く赤誠を貢し、事大の心を傾けんことを願い、庶幾くは附庸の末に歯せん。太祖皇帝は軍額を賜い、節旄を授け、一方に専達せしめ、復た三世に賞を延ばす。祖父は漏泉の沢を荷い、子弟は列土の栄を享く。棨戟門に在り、亀緺室に盈ち、列藩の寵に冠と雖も、未だ肆覲の儀を修めず。江表底平に及び、先皇世を厭うに会い、犬馬の病に嬰り、尚お雲龍の庭を阻む。皇帝陛下は丕基を欽嗣し、景命を誕敷し給う。臣は遠く海嶠を辞し、天墀に入覲し、咫尺の顔を親しくすることを獲、便蕃の沢を疊び被る。六飛遊幸する毎に、属車の塵に奉じ、三殿宴嬉するに屡り、大樽の味を挹む。旬浃の内に、雨露駢臻し、童男に至るまで、亦た殊奨を荷う。恩栄此の若きは、報效何の階ぞ。志は益々君軒に恋い、心は遂に坎井を忘る。臣は大願に勝えず、願わくは管する所の漳・泉両郡を有司に献じ、区々たる負海の邦をして遂に内地たらしめ、蚩蚩たる生歯の類をして太平を見ることを得せしめん。伏して聖慈を望み、臣に近地別鎮を授け給わんことを。臣が男文顕等は早く朝奨を膺け、皆郡符を忝くす。牙校賓僚は久しく駆策を経、各々玄造を希い、稍々鴻私を霈せんことを」と。太宗は優詔を以てこれを嘉納した。洪進を武寧軍節度使・同平章事とし、京師に留めて朝請に奉ぜしめた。諸子には皆近郡を授け、白金一万両を賜い、各々宅を市わしめた。

原文太宗即位,加檢校太師。明年四月,來朝,朝廷遣翰林使程德玄至宿州迎勞。既至,賜錢千萬、白金萬兩、絹萬匹,禮遇優渥。又增其食邑,以其子文顥為團練使,文顗、文頊並為刺史。洪進遂上言曰:「臣聞峻極者山也,在汙壤而不辭;無私者日也,雖覆盆而必照。顧惟遐僻,尚隔聲明,願歸益地之圖,輒露由衷之請。臣所領兩郡,僻在一隅,自浙右未歸,金陵偏霸,臣以崎嶇千里之地,疲散萬餘之兵,望雲就日以雖勤,畏首畏尾之不暇。遂從間道,遠貢赤誠,願傾事大之心,庶齒附庸之末。太祖皇帝賜之軍額,授以節旄,俾專達於一方,復延賞於三世。祖父荷漏泉之澤,子弟享列土之榮。棨戟在門,龜緺盈室,雖冠列藩之寵,未修肆覲之儀。暨江表底平,先皇厭世,會嬰犬馬之病,尚阻雲龍之庭。皇帝陛下欽嗣丕基,誕敷景命,臣遠辭海嶠,入覲天墀,獲親咫尺之顏,疊被便蕃之澤。六飛遊幸,每奉屬車之塵;三殿宴嬉,屢挹大樽之味。旬浹之內,雨露駢臻,至於童男,亦荷殊獎。恩榮若此,報效何階?誌益戀於君軒,心遂忘於坎井。臣不勝大願,願以所管漳、泉兩郡獻於有司,使區區負海之邦,遂為內地;蚩蚩生齒之類,得見太平。伏望聖慈,授臣近地別鎮。臣男文顯等早膺朝獎,皆忝郡符,牙校賓僚,久經驅策,各希玄造,稍霈鴻私。」太宗優詔嘉納之。以洪進為武寧軍節度、同平章事,留京師奉朝請。諸子皆授以近郡,賜白金萬兩,各令市宅。

翌年、太原平定に従った。六年、杞国公に封ぜられた。雍熙元年、岐国公に進封された。洪進は年老い、富貴且つ極まり、上言して致仕を求め、優詔を以てその朝請を免じた。二年、疾を以て卒した。年七十二。朝を廃すること二日、中書令を贈り、諡して忠順と曰う。中使をして喪を護らせ、葬事は官が給した。

原文明年,從平太原。六年,封杞國公。雍熙元年,進封岐國公。洪進年老,富貴且極,上言求致仕,優詔免其朝請。二年,以疾卒,年七十二。廢朝二日,贈中書令,諡曰忠順,中使護喪,葬事官給。

洪進が泉州に在った時、日方昼、蒼鶴が内斎前に翔り集まり、吭を引いて洪進に向かった。洪進がこれを見ると、魚がその喉に鯁っており、即ち手を以て探り取ったところ、魚は猶生きており、鶴は斎中に馴れ擾い数日にして去った。人皆これを異とした。

原文洪進在泉州,日方晝,有蒼鶴翔集內齋前,引吭向洪進。洪進視之,有魚鯁其喉,即以手探取之,魚猶活,鶴馴擾齋中數日而後去,人皆異之。

弟 銛

原文弟 銛

洪進の弟銛は、初め泉州都指揮使であった。開宝四年、漳州刺史を授かり、入貢して宿州に至り、卒した。銛の子文璉は、供奉官・閣門祗候であった。

原文洪進弟銛,初為泉州都指揮使。開寶四年,授漳州刺史,入貢至宿州,卒。銛子文璉,供奉官、閣門祗候。

子 文顕

原文子 文顯

文顕は字を仲達という。洪進が漳・泉の節制を領すると、左神機指揮使に署し、泉州馬歩軍都軍使・右軍押衙に遷った。乾徳初め、朝命により平海軍節度副使となり、累加して検校太保となった。洪進が帰朝すると、文顕に通州団練使・知泉州を授けた。未だ幾ばくもせず代わって還った。時に太宗は太原を征し、行在に朝した。久しくして、出でて青斉廬寿・西京水南北・陝州四州都巡検使となった。

原文文顯字仲達。洪進領漳、泉節制,署左神機指揮使,遷泉州馬步軍都軍使、右軍押衙。乾德初,朝命平海軍節度副使,累加檢校太保。洪進歸朝,授文顯通州團練使、知泉州。未幾代還。時太宗征太原,朝於行在。久之,出為青齊廬壽、西京水南北、陝州四州都巡檢使。

文顯は諸弟と睦まじからず、咸平の初め、御史中丞李惟清が疏を抗して曰く、「文顯らは並びに符竹を分け、方面に委ねられ、一門の栄盛、当世に儔い稀なり。先人の墳土未だ乾かず、私室の風規大いに壊る;弟兄列訟し、骨肉仇と為り、官奉を私蔵し、同居して異爨す、屡赦宥を経るも、久しく人言を積む。文顯は首めて訟湍を起こし、律文の尊長の坐に当たり、散秩に置き、以て浮俗を警めんことを乞う」と。詔して曰く、「文顯らは頗る名教を傷つけ、邦刑に合して置くべし、其の父に忠勳有るを以て、未だ捐棄を忍びず、宜しく誡諭を賜い、其の過ちを改むるを許すべし。倘し悛革無くんば、当に簡書を正し、御史台に告諭せしむべし」と。疾を以て通許鎮都監に改む。六年、卒す、年六十五。子宗憲、虞部員外郎を歴任し、西京作坊使と為る;宗元、殿中丞。

原文文顯與諸弟不睦,咸平初,御史中丞李惟清抗疏曰:「文顯等並分符竹,委以方面,一門榮盛,當世罕儔。先人之墳土未幹,私室之風規大壞;弟兄列訟,骨肉為仇,官奉私藏,同居異爨,屢經赦宥,而久積人言。文顯首起訟湍,當律文尊長之坐,乞置散秩,以警浮俗。」詔曰:「文顯等頗傷名教,合置邦刑,以其父有忠勳,未忍捐棄,宜賜誡諭,許其改過。倘無悛革,當正簡書,令御史臺告諭之。」以疾改通許鎮都監。六年,卒,年六十五。子宗憲,曆虞部員外郎,為西京作坊使;宗元,殿中丞。

子 文顥

原文子 文顥

文顥、初め泉州右軍散兵馬使・衙内都指揮使と為る。俄に漳州を権知し、朝命にて漳州刺史と為り、凡そ七年、泉州に還るを求め、行軍司馬に署す。

原文文顥,初為泉州右軍散兵馬使、衙內都指揮使。俄權知漳州,朝命漳州刺史,凡七年,求還泉州,署行軍司馬。

開宝末、江南平らぎ、洪進第三子文顗を遣わして入貢せしむ。文顗は行くを欲せず、乃ち文顥を遣わす。京師に至り、自ら陳して留まり以て父の入覲を俟たんことを願う。太祖之を嘉す。洪進の朝に帰するに及び、文顥を房州刺史に授く。会に房州を升めて節鎮と為すに、康州刺史に換う。端拱初、出でて同州を知り、錢若水が従事と為る。文顥深く之を礼し、郡政を委ぬ。咸平初、耀州を知り、又徐州に徙る。刑を用いて失入するに坐し、責めて左武衛大将軍・漣水軍知事を授く。上其の父の土を納れて順に效するを念い、復た以て康州刺史と為し、京師に留む。

原文開寶末,江南平,洪進遣第三子文顗入貢,文顗不欲行,乃遣文顥。至京師,自陳願留以俟父入覲,太祖嘉之。及洪進歸朝,授文顥房州刺史,會升房州為節鎮,換康州刺史。端拱初,出知同州,錢若水為從事,文顥深禮之,委以郡政。咸平初,知耀州,又徙徐州,坐用刑失入,責授左武衛大將軍、知漣水軍。上念其父納土效順,復以為康州刺史,留京師。

大中祥符初、東封を議す。濮州は馳道の出づる所なるを以て、州事を知らしむ。頓置供擬頗る勤至にして、詔して之を褒む。駕至り、召見し労問す。礼畢りて、衡州刺史に改む。特ちに内地刺史の奉料を給し、未幾代わりて還る。老疾を以て累表して致仕を求め、詔して朝謁を免じ、歳に公費及び月廩を給すること並びに故の如し。六年、卒す、年七十二。

原文大中祥符初,議東封,以濮州馳道所出,命知州事,頓置供擬頗勤至,詔褒之。駕至,召見勞問。禮畢,改衡州刺史,特給內地刺史奉料,未幾代還。以老疾累表求致仕,詔免朝謁,歲給公費及月廩並如故。六年,卒,年七十二。

子 文顗

原文子 文顗

文顗、始め泉州衙内都指揮使・漳州知事と為る。洪進の朝に帰するに及び、滁州刺史を授け、仍って旧く州を知る。俄に召し帰し、朝請を奉ず。景德中、光州に換え、久次を以て、和州団練使を領す。海・濮・濰・沂・黄の五州及び信陽軍を知り歴任す。至る所能く称する無し。卒年七十一。其の子宗綬を録して大理評事と為し、孫永弼・永升を三班借職と為し、次子宗纘を太子中舎と為す。

原文文顗,始為泉州衙內都指揮使、知漳州。洪進歸朝,授滁州刺史,仍舊知州。俄召歸,奉朝請。景德中,換光州,以久次,領和州團練使,曆知海濮濰沂黃五州、信陽軍,所至無能稱。卒年七十一。錄其子宗綬為大理評事,孫永弼、永升為三班借職,次子宗纘太子中舍。

子 文頊

原文子 文頊

文頊、本は文顯の子なり。初め、洪進泉州に在りし時、相者有りて言う、一門禄を受くること、万石に至るべしと。時に洪進と三子皆州郡を領す。而して文頊始めて生まる。乃ち文頊を以て子と為し、其の言に応ぜんと欲す。初め泉州衙内都校に補し、又衙内都監使と為り、朝命にて順州刺史を領す。朝に帰して登州刺史と為る。滄・棣に寇盗有り、巡検使と為すを命ず。会に禁軍大校趙延溥を以て登州団練使と為すに、文頊舒州刺史に改む。淳化三年、卒す、年三十五。文頊頗る書を知り、亦画を工とす。子宗絳、殿中丞と為る。

原文文頊,本文顯子。初,洪進在泉州,有相者言一門受祿,當至萬石。時洪進與三子皆領州郡,而文頊始生,乃以文頊為子,欲應其言。初補泉州衙內都校,又為衙內都監使,朝命領順州刺史,歸朝為登州刺史。滄、棣有寇盜,命為巡檢使。會以禁軍大校趙延溥為登州團練使,文頊改舒州刺史。淳化三年,卒,年三十五。文頊頗知書,亦工畫。子宗絳,為殿中丞。