◎世家六○湖南周氏荊南高氏漳泉留氏陳氏
湖南周氏周行逢
顕徳年間、世宗が淮甸に用兵しようとし、詔して朗州の王進逵に出師して鄂州界に入らせた。進逵は裨将潘叔嗣に兵五千を率いさせて先鋒とした。鄂州界に至った時、叔嗣は戈を返して進逵を襲撃した。進逵はこれを聞き、倍道で先に武陵に入った。叔嗣がその城を攻めると、進逵は敗走し、叔嗣に殺され、行逢を迎えて節度使とした。行逢が到着すると、直ちに叔嗣を斬って示衆した。世宗はそこで行逢に朗州大都督・武平軍節度使・製置武安静江等州軍事兼侍中を授け、湖南の地をことごとく有させた。宋初年、兼中書令を加えた。
行逢は鎮に在り、心を尽くして治め、官属を辟召任命するには必ず廉潔で節操ある士を取った。女婿が吏の補任を求めたが、許さず、かえって耒耜を与え、これに告げて言うには、「吏は民を治めるものである。汝の才は職に任じられず、どうして私情で汝に禄を与えようか。しばらく帰って田を墾き自活せよ」と。その公正は多くこの類であった。条教は簡約で、民は皆これを喜んだ。しかし性猜忌が多く、側近で少しでも意に逆らう者は必ず法に置き、麾下の者は重ね足を重ね息を詰めた。何景山という者がおり、王進逵の記室となり、常に行逢を軽侮していた。行逢が帥となると、景山を益陽令に任命し、数ヶ月後、縛して江に投げ込んだ。また、館驛巡官鄧洵美は翰林学士李昉と同年の進士であった。李昉が行逢に使いした際、伝舎に召し出して終日話をした。行逢は己の陰事を漏らしたのではないかと疑い、易俗場官に左遷し、密かに遣わして殺させた。これにより士流は従わなかった。
馬氏の旧僚に天策府学士徐仲雅がおり、性滑稽で、やや才を恃んで傲慢であったが、行逢はこれを節度判官とした。行逢は多く溪洞の蛮酋を司空・太保に任命した。ある日、仲雅に言うには、「我は湖湘を奄有し、兵強く俗富み、四隣は我を恐れるであろうか」と。仲雅は言うには、「公の部内には司空が川に満ち、太保が地に遍く、誰が恐れないことがありましょうか」と。行逢は喜ばず、仲雅を排斥した。行逢の妻潘氏は容貌醜く、性剛狠であった。行逢が帥となっても、妻は屈せず、府署に入らず、自ら奴僕を率いて耕織し自給し、賦調は必ず期日より先に輸送した。行逢が止めても従わず、言うには、「税は官物である。もし主帥が自らの家を免ずるならば、どうして下を率いることができようか」と。
子 保權
子保權、年十一。初め武平軍節度副使となり、太祖より起復検校太尉・朗州大都督・武平軍節度使を授かった。初め、行逢は病み且つ重く、将校を召して保権を託し言うには、「我が部内の凶狠な者は誅し略尽くしたが、唯だ張文表のみがいる。我が死ねば、文表は必ず乱を起こす。諸公は善く我が児を輔け、土宇を失うことなかれ。已むを得ざる時は、当に挙族して朝廷に帰順し、虎口に陥らせることなかれ」と。行逢が卒すると、翌年春、文表は果たして衡州より兵を挙げて潭州を占拠し、朗陵を取らんとし、周氏をことごとく滅ぼそうとした。保権は朝廷に師を乞い、江陵の高継衝もまたその事を聞かせた。上は中使趙璲を遣わし詔を齎して文表を諭したが、保権の奏が続いて至った。そこで山南東道節度使慕容延釗を湖南道行営都部署とし、宣徽南院使李処耘を都監とし、淄州刺史尹崇珂・申州刺史聶章・郢州刺史趙重進・判四方館事武懐節・氈毯使張継勲・染院副使康延沢・内酒坊副使盧懐忠らを率いて歩騎を将いて平定に向かわせ、また安・復等十州の兵を発して襄陽に会させた。師が江陵に及び、趙璲が潭州に至った時、文表は既に保権の衆に殺されていた。
保権の牙校張従富らは、文表が既に平定されたのに王師が引き続き進軍して止まないので、襲撃されることを恐れ、共に拒んで守った。延釗は閣門使丁徳裕に先んじて路を安撫させた。城下に至ると、従富らは拒んで受け入れず、部内の橋梁をことごとく撤去し、船を沈め木を伐って路を塞いだ。徳裕は詔を奉じていないので敢えて戦わず、退軍して朝旨を待った。延釗はこれを上聞した。太祖は中使を遣わして保権及び将校に諭して言うには、「汝らは本来師を請い救援を求めたので、故に大軍を発して汝らの難を救おうとした。今、妖孽は既に殄滅され、汝らに大いなる恵みがあるのに、反って王師を拒むのは何故か。自ら塗炭を取って、生聚を重ねて擾すことなかれ」と。保権は軍を澧州の南に出したが、未だ交鋒に及ばず、風を望んで潰走した。再び朗州に戻り、廬舎や倉庫を焼き尽くし、居人を駆り立てて山谷に奔竄させ、城郭は一空となった。王師は長駆して南し、従富を西山の下で捕らえ、朗州市で梟首した。その大将汪端は保権と家族を劫し、城を棄てて山洞に亡匿した。王師が到着して数ヶ月後、保権を捕らえた。武懐節は兵を分けて岳州を攻克した。端は保権の衆を擁して寇略したが、間もなくもまた就擒し、市で磔にされ、湖湘は悉く平定された。
附 李觀象
李觀象は、桂州臨桂の人なり。行逢、之を署して掌書記と為す。行逢は性残忍にして、多く誅殺す。觀象は禍に及ぶを懼れ、清苦自ら励み、以て知遇を求め、帳幃・寝衣悉く紙を以て之を為す。行逢は頗る信任を加え、軍府の政一に皆其の取决に取る。
觀象は経史に渉り、文辞有り、才を忌み寵を怙り、湖南の士人多く其の排擯せらる。行逢は臨終に後事を托し、其の子保權に令して之を善待せしむ。張文表の難作るに及び、王師境に圧す。觀象、保權に謂ひて曰く、「我の恃む所は、北に荊渚有り、以て唇歯と為す。今高氏拱手して命を聴く。朗州の勢独り全からず。幅巾して朝に帰するに若かず。然らば則ち富貴を失はず」と。保權幼懦にして、其の言を用ふる能はず。湖湘平らぐに及び、太祖、觀象嘗て保權の為に謀を画せしを聞き、左補闕と為す。
附 張文表
張文表は、朗州武陵の人なり。王進逵・周行逢に従ひ兵を挙げて邊鎬を逐ふ。行逢、文表を署して衡州刺史と為し、頗る心に之を忌み、常に文表を誅せんと欲す。未だ以て発する所有らず。行逢卒するに及び、保權兵を遣はして永州の戍卒に代はらしむ。路衡陽に出づ。文表遂に之を駆りて以て潭州を襲ふ。時に行軍司馬廖簡、留後を知り、素より文表を軽んじ、之が為に備へ為さず。方に宴飲す。外より文表の兵至ると報ず。簡殊に之を介意せず、四坐に謂ひて曰く、「此れ黄口小児、至れば則ち擒に成る。何ぞ患ふるに足らんや」と。飲啖故の如し。俄にして文表率ひて衆をして径に府中に入らしむ。簡酔ひて弓弩を彀ふる能はず、但だ膝を按じて之を叱す。文表遂に簡及び坐客十余人を害す。保權其の将楊師璠を遣はし、衆を悉くして以て文表を禦がしむ。保權泣きて衆に謂ひて曰く、「先君人を知る可しと謂ふ。今墳土未だ乾かず、文表逆を構ふ。軍府の安危、此の一挙に在り。諸公之を勉めよ」と。衆皆感憤し、遂に其の衆を平津亭に破り、文表を擒へ臠にして之を食らふ。
初め、文表長沙を攻めんとし、猶豫未だ決せず。小校有りて文表の龍領下より出づるを夢み、明日以て告ぐ。文表喜びて曰く、「天命なり」と。敗るるに及び、朗陵市に梟首す。
荊南高氏 高保融
荊南高保融は字は徳長、其の先は陝州峽石の人なり。祖季興、唐末に荊南節度と為り、梁・後唐を歴て南平王に封ぜられ、卒す。子従誨嗣ぐ。太傅・中書令に至る。『五代史』に伝有り。
世宗淮南を征し、詔して保融に水軍数千人を出だして夏口に抵り犄角と為さしむ。淮甸平らぐ。璽書を以て褒美し、絹数万匹を以て其の軍を賞す。世宗将に蜀を伐らんと議す。保融上言し、舟師を率ひて三峡に趣かんことを請ふ。六年、恭帝即位し、守太保を加ふ。宋初、守太傅と為り、連ねて使を遣はし貢献す。恩顧甚だ厚し。是歳八月、卒す。年四十一。朝を廃すること三日、儀鸞使李継超を遣はして賻物を賜ひ、兵部尚書李濤・兵部郎中率汀をして節を持して冊贈太尉と為し、諡して正懿と曰ふ。
保融は性迂闊淹緩にして、兵を禦ぎ民を治むる、一時の術略政事、悉く母弟保勖に委ぬ。子継沖・継充、継充は帰州刺史に至る。
弟 保勖
初め、保勖が幼少の頃、従誨は特に寵愛し、或いは激怒する時も彼を見れば必ず和らいで笑ったので、荊人は「万事休」と称した。保勖が立つと、藩政は弛緩し、僅か数ヶ月で国を失い、これも予兆であった。
子に継沖あり。
丁度その年郊祀を行おうとした時、表を奉じて入覲を求め、これを許された。十月、闕下に至り、金銀器・錦帛・宝装の弓剣・繍の旗幟・象牙・玉の鞍勒等を献じ、賜賚は甚だ厚かった。郊禋が終わると、継沖を徐州大都督府長史・武寧軍節度使・徐宿観察使に授けた。継沖は彭門を鎮めること幾十年、政を僚佐に委ね、部内もまた治まった。開宝六年、卒し、年三十一。二日間朝を廃し、侍中を贈り、中使を遣わして喪を護り、葬事は官が給した。
高季興が荊南・帰峡の地を拠有してより、三世五帥を伝襲し、凡そ四十余年に及んだ。
弟に保寅あり。
保寅は字を齊巽という。晋の天福七年、蔭により太子舎人に授けられ、緋を賜い、累次加えて検校司空となった。兄の保融が封を襲ぐと、奏して節院使に署し、金紫を賜った。宋が興り、保勖が封を襲ぐと、保寅を遣わして入覲させた。太祖は便殿に召して対せしめ、掌書記を授けて還らせた。保寅は保勖に語って曰く、「真主世に出で、天将に区宇を混一せんとす。兄は宜しく率先して諸国を率い、土を奉じて朝に帰すべし、他人に富貴の資を取らしむるなかれ」と。保勖は聴かなかった。
初め、保寅が懐州に在った時、蘇易簡・王欽若は共に妙年にして学に趨き始めた。同州に在った時、銭若水が従事であった。光化軍に在った時、張士遜はその邑人である。保寅は一見して皆これを奨励抜擢し、遠大なることを許し、議者は多くその人を知ることを称えた。
子に輔政・輔之・輔堯・輔国あり、並びに進士及第した。輔政は秘書丞に至り、輔之は太常丞に至った。
附 孫光憲
孫光憲は字を孟文といい、陵州貴平の人である。世業は農畝であったが、惟だ光憲は少より学を好んだ。荊渚に遊び、高従誨これを見て重んじ、従事に署した。保融及び継沖の三世を歴て皆幕府に在り、累官して検校秘書監兼御史大夫に至り、金紫を賜った。慕容延釗等が朗州の乱を救うに当たり、荊南に仮道し、継沖が門を開いて延釗を迎え入れると、光憲は乃ち継沖を勧めて三州の地を献じさせた。太祖これを聞き甚だ悦び、光憲を黄州刺史に授け、賜賚を加等した。郡に在ってもまた治声があった。乾徳六年、卒した。時に宰相に光憲を学士に薦める者あり、未だ召さるるに及ばず、会って卒した。
光憲は経史に博通し、特に学に勤め、書数千巻を聚め、或いは自ら抄写し、孜孜として讎校し、老いても廃さなかった。著撰を好み、自ら葆光子と号し、著す所に『荊台集』三十巻、『鞏湖編玩』三巻、『筆傭集』三巻、『橘斎集』二巻、『北夢瑣言』三十巻、『蠶書』二巻あり。また『続通暦』を撰し、紀事頗る実を失う。太平興国初年、詔してこれを毀った。子の謂・讜、並びに進士及第した。
附 梁延嗣
梁延嗣は京兆長安の人である。若くして高季興に仕え、大いに信任を受けた。表を奉って検校司空・綿州刺史を授けられ、衙内馬歩軍都指揮使を充任した。四代の主君に仕え、人々はその忠誠を称えた。継沖が領土を献上した際にも、延嗣はこれを勧めたことがあった。また荊州の水軍を率いて慕容延釗に従い戦い、太祖はこれを賞して復州防禦使を授け、湖南前軍歩軍都指揮使兼排陣使を充任させた。郊祀の礼のため、復州から入朝した時、太祖は慰撫して言った、「高氏が富貴を失わなかったのは、そなたの力である」と。濠州防禦使に改められ、善政を施し、詔書で褒め称えられた。
延嗣は書物に通じ、士人を好んで交際した。かつて急病にかかり、城隍神に祈ったところ、その夜、夢に神人が九九の数を告げ、やがて病は癒えた。開宝九年に卒去、八十一歳であった。
漳泉の留氏 留従効
漳泉の留従効は、泉州永春の人である。幼くして孤となり、母と兄に仕えて孝悌で知られた。書物に通じ、兵法を好んだ。
唐末、王審知が福建の地を占拠し、その子延鈞は後唐の長興年間に帝を僭称し、国号を閩とし、福州に都したが、配下に殺され、審知の次子延羲が立てられた。晋の天福末年、部将の朱文進が延羲を殺してその地位を占め、その党の黄紹頗を泉州刺史に、程贇を漳州刺史に、許文稹を汀州刺史に任命した。当時、審知の子延政は建州刺史であり、やはり帝を僭称していた。
泉州の人々は王氏が国を失い、群賊が分拠するのを憂い、当時従効が泉州散指揮使であったが、その党の王忠順・董思安および親しい蘇光誨と共に図り議し、王氏の復興を謀った。従効は声をあげて言った、「我らは皆王氏の恩遇を受けた。今、王氏の子孫が位を回復せず、報いようとしないのは、忠義と言えようか。聞くところでは建州の士卒が力を尽くして福州を撃ち、王氏を復興しようと謀っている。もし一朝にして彼らが先に功を成し、王氏が復位すれば、我々はどのような顔で彼らに会えようか」と。そこで忠順・思安は従効の家で酒宴を設け、敢死の士を募り、陳洪進ら五十二人を得て、夜に白棒を持って城を乗り越え、武器庫を襲い、紹頗を捕らえて斬った。延政の従子継勲を刺史に立て、従効ら三人は自ら統帥と称し、洪進らは皆指揮使とした。継勲は紹頗の首を建州に送り届け、延政を主君として奉じるよう命じた。
延政はすなわち江南の李景に帰順の意を示した。文進は兵を率いて泉州を攻めたが、従効に敗れた。折しも李景が将を遣わして王氏の乱を討ち、福州を包囲し、両浙の銭氏が兵を発して救援に来た。李景の将は汀州・建州を平定しただけで帰還し、福州は銭氏の手に落ちた。従効は兵をもって継勲を脅迫し江南に送り、自ら漳・泉二州の留後を領し、李景はただちに泉州を清源軍とし、従効に節度使・泉漳等州観察使を授けた。閩中の五州はここに分かれた。李景は累次従効に同平章事兼侍中・中書令を授け、鄂国公・晋江王に封じた。
従効は寒微の身から出て、民の苦しみを知り、郡においては専ら勤倹をもって民を養うことを務めとし、常に布の質素な衣服を着て、公服を中門の傍らに置き、出仕する時だけそれを着た。常に「我は元来貧賤であった。本を忘れてはならない」と言った。民は彼を大いに愛し、管内は安寧に治まった。王氏に二人の娘がいて郡人の妻となっていたが、従効は彼女らを謹んで仕え、資給を豊かにした。毎年進士・明経を選抜し、これを「秋堂」と称した。
世宗が淮南を征した時、李景は兵十万をもって紫金山を守った。従効は累次李景に上表し、その兵が頓挫し師老い、形勢が利でないことを言った。やがて果たして敗れ、江北の地はことごとく中朝(後周)に帰した。従効は衙将の蔡仲贇らを商人に扮させ、帛書の表を革帯の中に隠し、鄂州の路から内附の意を伝えさせた。また別駕の黄禹錫に間道を通って奉表させ、獬豸の通犀帯・龍脳香数十斤を貢物とした。世宗は詔書を下してこれを嘉み受け入れた。従効はまた京師に邸を置くことを請うたが、世宗は彼が元来江南に附いていたことを考慮し、不便を慮って許さなかった。
宋の初め、従効は遂に上表して藩臣を称し、貢奉を絶やさなかった。折しも李景が洪州に遷都したため、従効は李景が己を討つことを疑い、大いに恐れ、その従子の紹錤に厚い財貨を持たせて李景に献上させ、また使者を遣わして呉越を経由して入貢させた。太祖は特に使者を命じて厚く賜りこれを慰撫させたが、使者が到着する前に、従効は背中に癰ができて卒去した。五十七歳であった。偽って太尉・霊州大都督を贈られた。
従効の再従弟の仁譓は、淳化年間に泗州長史となり、清廉な節操があり、官は散官で俸禄は薄く、藜藿さえも満足に食べられなかったが、妄りに人に請うことはなかった。太宗はこれを聞き、召し出して闕に赴かせ、特に揚州観察支使に遷任させた。大中祥符七年、従効の孫の丕式が闕に赴き、従効が受けた太祖朝の制書を上呈し、三班借職に任じられた。
漳泉の陳氏 陳洪進
陳洪進は、泉州仙遊の人である。幼くして壮節があり、書物を読み、兵法を学んだ。成長すると、才勇で知られた。兵籍に属し、汀州攻めに従軍し、先鋒として登城し、副兵馬使に補された。
従効が卒すると、少子の紹鎡が留務を執った。一月余りして、洪進は紹鎡が越人を召して叛こうとしていると誣告し、これを捕らえて江南に送った。副使の張漢思を推して留後とし、自らは副使となった。漢思は年老いて醇朴で謹直であり、軍務を治めることができず、事は皆洪進によって決せられた。漢思の諸子は皆衙将となり、洪進を甚だ不平に思い、害そうと図った。漢思もまたその専横を患った。翌年の夏四月、漢思は将吏を大いに饗応し、内に甲兵を伏せて、洪進を害そうとした。酒が数巡した時、地が忽ち大いに震い、棟宇が将に傾かんとし、坐立する者は自ら持することができなかった。同謀する者がこれを洪進に告げたので、洪進は急ぎ去り、衆は驚悸して散った。漢思は事が成らず、洪進が先に発することを慮り、常に厳兵をして備えさせた。洪進の子文顕・文顥は皆指揮使であり、配下の兵を率いて漢思を撃たんとしたが、洪進は許さなかった。ある日、洪進は袖に大鎖を置き、二子を従えて常服で安歩して府中に入り、直兵数百人を皆叱り去った。漢思が内斎に居た時、洪進は即ちその門を鎖し、人をして門を叩かせて漢思に謂って曰く、「郡中の軍吏が洪進に留務を知らせることを請い、衆情に違うことができず、印を以て見授すべし」と。漢思は惶懼して為すところを知らず、即ち自ら門の間より印を出してこれに与えた。洪進は遽かに将校吏士を召して告げて曰く、「漢思は昏耄にして政を為すこと能わず、吾に印を授け、吾に郡事を蒞ましむることを請う」と。将吏は皆賀した。即日、漢思を別墅に移し、兵を以て衛送した。使を遣わして李煜に命を請うた。煜は洪進を清源軍節度使・泉南等州観察使とした。
時に太祖は沢・潞を平らげ、揚州を下し、荊湖を取り、威は四海に振るった。洪進は大いに懼れ、衙将の魏仁済を遣わして間道より表を奉り、自ら清源軍節度副使・権知泉南等州軍府事と称し、且つ張漢思が老耄にして衆を禦ぐこと能わず、臣に州事を領せしめ、恭しく朝旨を聴かんことを請うと言上した。太祖は通事舎人の王班を遣わして詔を齎し撫諭させ、また李煜に詔して曰く、「泉州の陳洪進が使を遣わして表を奉り言う、衆に推されて、よって州事を総領し、誠を以て控告し、朝に命を聴く。その傾輸を観るに、尤も嘉尚すべきものあり。但だ聞く、泉州は昔嘗て附麗し、尤も撫綏を荷う。然れども変詐多く端あり、屡々主帥を移し、その地里遼遠なるを恐れ、制禦に未だ遑あらざるを慮る。朕は書軌の大同を以て、恩威遠く被わり、その款附を嘉し、已に詔書を降す。蓋しその遠俗の便安を矜れり、必ずしも彼此を以て意とすべからず、想うに惟だ明哲、当に朕が懐を体すべし」と。煜は上言して、「洪進は詐多く、首鼠両端にして、誠に聴くに足らず」と言った。太祖はまた詔してこれを諭したので、煜は乃ち命を聴いた。
洪進は毎歳朝廷に修貢するに当たり、多く民に厚く斂め、民の資産百万以上の者に差して入銭せしめ、以て試協律・奉礼郎とし、その丁役を蠲免した。江南が平らぎ、呉越王が来朝すると、洪進は自ら安んぜず、その子文顥を遣わして乳香一万斤・象牙三千斤・龍脳香五斤を入貢させた。太祖は因って詔を下してこれを召したので、遂に入覲した。南剣州に至り、太祖の崩御を聞き、帰鎮して哀を発した。
太宗が即位すると、検校太師を加えた。翌年四月、来朝した。朝廷は翰林使の程徳玄を遣わして宿州に至り迎労させた。既に至ると、銭千万・白金一万両・絹一万匹を賜い、礼遇は優渥であった。またその食邑を増し、その子文顥を団練使とし、文顗・文頊を並びに刺史とした。洪進は遂に上言して曰く、「臣聞く、峻極なる者は山なり、汚壌に在りて辞せず。無私なる者は日なり、覆盆と雖も必ず照らすと。顧みるに惟だ遐僻にして、尚お声明を隔てたり。益地の図を帰せんことを願い、輒く由衷の請いを露わす。臣の領する両郡は、一隅に僻在し、浙右未だ帰せず、金陵偏覇するより以来、臣は崎嶇千里の地を以て、疲散万余の兵を率い、雲を望み日に就くこと勤めと雖も、首を畏れ尾を畏れて暇あらず。遂に間道より、遠く赤誠を貢し、事大の心を傾けんことを願い、庶幾くは附庸の末に歯せん。太祖皇帝は軍額を賜い、節旄を授け、一方に専達せしめ、復た三世に賞を延ばす。祖父は漏泉の沢を荷い、子弟は列土の栄を享く。棨戟門に在り、亀緺室に盈ち、列藩の寵に冠と雖も、未だ肆覲の儀を修めず。江表底平に及び、先皇世を厭うに会い、犬馬の病に嬰り、尚お雲龍の庭を阻む。皇帝陛下は丕基を欽嗣し、景命を誕敷し給う。臣は遠く海嶠を辞し、天墀に入覲し、咫尺の顔を親しくすることを獲、便蕃の沢を疊び被る。六飛遊幸する毎に、属車の塵に奉じ、三殿宴嬉するに屡り、大樽の味を挹む。旬浃の内に、雨露駢臻し、童男に至るまで、亦た殊奨を荷う。恩栄此の若きは、報效何の階ぞ。志は益々君軒に恋い、心は遂に坎井を忘る。臣は大願に勝えず、願わくは管する所の漳・泉両郡を有司に献じ、区々たる負海の邦をして遂に内地たらしめ、蚩蚩たる生歯の類をして太平を見ることを得せしめん。伏して聖慈を望み、臣に近地別鎮を授け給わんことを。臣が男文顕等は早く朝奨を膺け、皆郡符を忝くす。牙校賓僚は久しく駆策を経、各々玄造を希い、稍々鴻私を霈せんことを」と。太宗は優詔を以てこれを嘉納した。洪進を武寧軍節度使・同平章事とし、京師に留めて朝請に奉ぜしめた。諸子には皆近郡を授け、白金一万両を賜い、各々宅を市わしめた。
洪進が泉州に在った時、日方昼、蒼鶴が内斎前に翔り集まり、吭を引いて洪進に向かった。洪進がこれを見ると、魚がその喉に鯁っており、即ち手を以て探り取ったところ、魚は猶生きており、鶴は斎中に馴れ擾い数日にして去った。人皆これを異とした。
弟 銛
洪進の弟銛は、初め泉州都指揮使であった。開宝四年、漳州刺史を授かり、入貢して宿州に至り、卒した。銛の子文璉は、供奉官・閣門祗候であった。
子 文顕
文顕は字を仲達という。洪進が漳・泉の節制を領すると、左神機指揮使に署し、泉州馬歩軍都軍使・右軍押衙に遷った。乾徳初め、朝命により平海軍節度副使となり、累加して検校太保となった。洪進が帰朝すると、文顕に通州団練使・知泉州を授けた。未だ幾ばくもせず代わって還った。時に太宗は太原を征し、行在に朝した。久しくして、出でて青斉廬寿・西京水南北・陝州四州都巡検使となった。
文顯は諸弟と睦まじからず、咸平の初め、御史中丞李惟清が疏を抗して曰く、「文顯らは並びに符竹を分け、方面に委ねられ、一門の栄盛、当世に儔い稀なり。先人の墳土未だ乾かず、私室の風規大いに壊る;弟兄列訟し、骨肉仇と為り、官奉を私蔵し、同居して異爨す、屡赦宥を経るも、久しく人言を積む。文顯は首めて訟湍を起こし、律文の尊長の坐に当たり、散秩に置き、以て浮俗を警めんことを乞う」と。詔して曰く、「文顯らは頗る名教を傷つけ、邦刑に合して置くべし、其の父に忠勳有るを以て、未だ捐棄を忍びず、宜しく誡諭を賜い、其の過ちを改むるを許すべし。倘し悛革無くんば、当に簡書を正し、御史台に告諭せしむべし」と。疾を以て通許鎮都監に改む。六年、卒す、年六十五。子宗憲、虞部員外郎を歴任し、西京作坊使と為る;宗元、殿中丞。
子 文顥
文顥、初め泉州右軍散兵馬使・衙内都指揮使と為る。俄に漳州を権知し、朝命にて漳州刺史と為り、凡そ七年、泉州に還るを求め、行軍司馬に署す。
大中祥符初、東封を議す。濮州は馳道の出づる所なるを以て、州事を知らしむ。頓置供擬頗る勤至にして、詔して之を褒む。駕至り、召見し労問す。礼畢りて、衡州刺史に改む。特ちに内地刺史の奉料を給し、未幾代わりて還る。老疾を以て累表して致仕を求め、詔して朝謁を免じ、歳に公費及び月廩を給すること並びに故の如し。六年、卒す、年七十二。
子 文顗
文顗、始め泉州衙内都指揮使・漳州知事と為る。洪進の朝に帰するに及び、滁州刺史を授け、仍って旧く州を知る。俄に召し帰し、朝請を奉ず。景德中、光州に換え、久次を以て、和州団練使を領す。海・濮・濰・沂・黄の五州及び信陽軍を知り歴任す。至る所能く称する無し。卒年七十一。其の子宗綬を録して大理評事と為し、孫永弼・永升を三班借職と為し、次子宗纘を太子中舎と為す。
子 文頊