宋史

列傳第二百四十一 世家五 北漢劉氏劉繼元(父:鈞 兄:繼恩 附:えい融 趙文度 李惲 馬峯 郭無爲)

◎世家五○北漢劉氏

祖 崇

北漢の劉繼元は、へい州太原の人である。祖父の崇は、漢祖(後漢高祖こうそ劉知遠)の弟であり、漢の初年に太原尹・北京留守となった。隱帝が位を継ぐと、周祖(郭威)が樞密使となり、崇は判官の鄭珙に言った、「我と郭樞密とは平素から折り合いが悪い。朝廷が幼弱であり、郭が志を得れば、我は生き残れぬであろう」と。涙を流した。鄭珙はそこで甲兵を繕い、亡命者を招集して、自らを保全する計略を勧めた。隱帝が害されたと聞くと、崇は兵を率いて南進しようとしたが、ちょうど漢の太后が馮道を徐州に遣わして崇の子の贇を迎え、漢の後嗣とすべしとの令を下したので、崇はこれを信じ、賓佐に言った、「我が子が帝となった。また何を憂えようか」と。少尹の李驤が言った、「機を知るは神なり、時を失うべからず。郭公の心を推し量れば、必ずや天下を人に与えぬであろう。精騎を率いて疾く太行を越え、孟津を押さえてその変を観るがよろしい。徐州の位が定まった後に、晋陽に帰れば、郭公も動くことはできぬでしょう」と。崇は大いに怒り、罵って言った、「腐儒が我が父子を離間しようとするとは!」急いで左右に命じて引き出して斬らせた。李驤は言った、「僕は王佐の才を負いながら、今日愚人のために策を画し、死ぬのはもとより甘んじる。しかし家に病妻あり、願わくは共に市で戮せられたい」と。崇は彼らを共に殺し、その事を太后に上表して、他に志のないことを明らかにした。やがて周祖が衆に推戴され、贇は湘陰公に降封された。崇は使者を遣わして周祖に書を奉り、贇を帰藩させるよう乞うた。使者が帰還し、贇が既に死んだことを知ると、崇は慟哭し、李驤のために祠を立てた。

そこで皇帝の位に即き、国号はなお漢と称し、年号もなお乾祐と称し、名を旻と改めた。子の鈞を太原尹とし、判官の趙華・鄭珙を宰相とし、陳光裕を宣徽使とした。重幣を携えて契丹と結び、自ら周と隙ありと称し、かつての晋祖(石敬瑭)の故事の如く、父子の約を結ぶことを願った。契丹主はこれを許し、政事令の燕王耶律述軋・上樞使の高勳を遣わし、崇を大漢神武皇帝に策した。これよりしばしば晋・絳を侵した。高平の敗戦で、崇は単騎で遁走して帰り、これより気力を喪い、再び出師することを敢えてしなかった。顯德元年、崇は卒し、鈞が位を襲った。

父 鈞

鈞は旧名を承鈞といい、後にただ鈞と名乗った。元号を天會と改め、衛融を相とし、段常を樞密使とし、蔚進に親軍を掌らせ、子の繼恩を太原尹とした。初めて漢祖の旧第に七廟を建て、顯聖宮と号した。ひそかに江南・西川と結んで外援とした。六年の冬、鈞は契丹と結んで周を侵した。明年の正月、周の恭帝は太祖(趙匡胤)に北征を命じ、陳橋驛に至ると、衆は太祖を推戴して即位させた。鈞と契丹兵は皆遁走した。

この夏、李筠が上黨で叛き、判官に命じて監軍の周光遜らを囚えて鈞のもとに送り、臣を称して援けを求めた。鈞は自ら太平驛に至って李筠と会し、その宣徽使の盧讚に騎兵数千を率いさせて李筠に従って侵入させ、またその河陽節度の範守図を遣わしてこれを援けさせた。太祖が親征すると、前軍の石守信・高懷德が李筠の衆を澤州で破り、守図を捕らえ、鈞の兵数千を殺した。鈞の沙穀砦はまた折德扆に破られ、五百級を斬首した。九月、昭義の李繼勳が師を率いて鈞の平遙に入り、虜獲すること甚だ多かった。建隆二年の冬、繼勳はまた鈞の兵を破り、百余級を斬首し、その遼州刺史傅廷彥の弟の勳を捕らえて献じた。

三年二月、鈞は晋・潞の二州を侵したが、守将がこれを撃退した。三月、太祖は詔して河東の降人の家を邢・洺に移し、口数に応じて粟を与えた。四月、太原の民四百七十人が降った。七月、鈞の捉生指揮使の路貴ら十一人が降り、皆内殿直に補された。四年八月、邢州の王全贇が師を率いて楽平を攻めると、鈞の拱衛指揮使の王超・散指揮使の元威・侯榮が率いる所部の千八百人が王全贇に降った。間もなく、鈞の侍衛都指揮使の蔚進・馬軍都指揮使の郝貴超が契丹と共に兵を尽くして楽平を救いに来たが、三戦して皆これを敗った。そこでその城を陥とし、詔して平晋軍を建て、降兵を效順軍とし、銭帛を賜い、静陽の十八砦は遂に相率いて来降した。九月、鈞はまた契丹を引きいて平晋軍を攻めたが、太祖は洺州防禦使の郭進・濮州防禦使の張彥進・客省使の曹彬・趙州刺史の陳萬通に歩騎万余を率いさせてこれを救わせた。未だ到らぬうちに鈞は遁走した。

乾徳二年二月、李繼勳が兵馬鈐轄の康延沼・馬歩軍都軍頭の尹訓と共に兵を率いて遼州を攻めると、鈞は郝貴超を遣わして来援したが、城下で戦って大敗した。刺史の杜延韜は危険に迫り、拱衛都指揮使の冀進・兵馬都監の侯美と共に部兵三千を籍して繼勳に降り、延韜らに襲衣・銀帯・器幣・鞍勒馬を賜い、その降兵には效順・懷恩の名を与えた。この月、府州が鈞の衛州刺史の楊璘を捕らえて献じた。また鈞の耀州團練使の周審玉ら四人が降り、審玉に襲衣・金帯・絹千匹・銀五百両・鞍勒馬を賜い、なお名を承晋と賜い、左千牛衛大将軍・汾州團練使を領せしめた。四月、太祖は馬軍都校の劉光に兵を率いさせて潞に戍らせ、鈞の侵入に備えた。五年三月、鈞の招收指揮使の閻章が石盆砦を以て鎮州に降った。四月、招收指揮使の樊暉が監軍の成昭を殺し、鴻唐砦を以て鎮州に降った。六年正月、偏成砦の招收指揮使の任恩ら百五十人が晋州に降った。三月、鎮州の守将が鈞の馬鞍山砦を攻め破った。七月、鈞の烏玉砦主の胡遇ら百三十九人が鎮州に降った。

初め、鈞は李筠の敗北後、狼狽して帰り、朝夕宋師の来ることを懼れた。趙文度を相とし、抱腹山人の郭無為を召して中書事に参議させ、五台山の僧の繼顒を鴻臚卿として国事に参議させた。事に因って段常を誅すると、契丹主は使者を遣わして鈞を責めて言った、「爾は我が命を稟さず、その罪三つあり。年号を擅に改むるは一なり。李筠を助けて覬覦する所あるは二なり。段常を殺すは三なり」と。鈞は恐れおののいて言った、「父は子のために隠す。願わくは罪を赦されたし」と。契丹は返答しなかった。これより契丹に使する者は留め置かれて帰されなかった。終に勢力窘弱のため、憂憤して疾を成し、この月に卒した。年四十三。繼恩が位を嗣いだ。

初め、太祖は嘗て境上の諜者を介して鈞に謂って言った、「君の家は周氏と世仇であるから、屈せぬのも宜しい。今我と爾とは何の間隙もない。何ゆえにこの一方の人を困らせるのか。もし中国に志あらば、宜しく太行を下って勝負を決すべし」と。鈞は諜者を遣わして復命して言った、「河東の土地甲兵は以て中国に当たるに足らず。然れども鈞の家世は叛者にあらず。区区としてこれを守るは、漢氏の血食せざるを懼れるがためなり」と。太祖はその言を哀れみ、笑って諜者に謂って言った、「我に代わって鈞に語れ、爾に一生の路を開かんと」と。故にその世の間は兵を加えなかった。

兄 繼恩

繼恩は本姓は薛である。父の釗は、崇の女を娶り、晋の初年に護聖営の卒であった。漢祖が禁兵を典すると、釗が崇の婿であるため、その籍を除き、門下に館した。漢祖が後に方鎮を領し、爵位通顕となると、釗は稀にしか妻に会えず、常に居て怏怏としていた。ある日酔いに乗じて求見し、直ちに佩刀を引いて妻を刺した。妻は奮って衣を脱して逃れ、釗は自ら剄した。繼恩はこの時なお幼く、漢祖は鈞に命じて養子とさせ、遂に劉姓を冒した。

八月、太祖は詔を下して劉継恩を討伐せしむ。内客省使盧懷忠ら二十二人に禁兵を率いて潞州に赴かせ、昭義節度使李継勳を行営前軍都部署とし、侍衛歩軍都指揮使党進をその副とし、宣徽南院使曹彬を都監とする。棣州防禦使何継筠を前鋒部署とし、懷州防禦使康延沼を都監とする。建雄軍節度使趙讚を汾州路部署とし、絳州防禦使司超をその副とし、隰州刺史李謙溥を都監とする。九月、李継勳は洞渦河において劉継恩の軍を破り、その左勝軍使李瓊が来降す。襲衣・金帯・鞍勒馬を賜う。

初めに、劉鈞は郭無為に謂いて曰く、「継恩は凡庸で懦弱なり、どうして後事を託せんや」と。無為もまた然りと為す。ここに至り、継恩は独り一室に処して喪に服し、左右の親信は皆太原に在りて、従う者を得ず。或いは召すを勧むるも、継恩は猶予して決せず。侯霸榮という者有り、邢州龍岡の人なり。力多く射を善くし、走ること奔馬に及ぶ。嘗て盗を為し並州・汾州の間に在り、劉鈞用いて散指揮使と為し、楽平を戍る。建隆年中、率いる所の部を率いて来帰し、内殿直に補せらる。未だ幾ばくもせず、復た太原に奔る。劉鈞は供奉官に署す。ここに至り、継恩の首級を持ちて太祖に献ぜんと謀り、遂に継恩の無備に乗じ、白昼に刃を挺てて入り、反って其の門を扃ぎ、継恩は屏風を繞りて環走す。霸榮は刃を以て胸を揕って之をしいす。年三十四、時に立つこと六十日にしてなり。無為は卒を遣わし梯を登りて入り、霸栄を殺し、其の弟継元を立てしむ。

劉継元

継元は本姓は何なり。初め、薛釗死し、劉崇は女を再び何氏に妻せしめ、継元を生む。何氏死し、劉鈞もまた継元を養いて子と為す。継元既に位を襲ぎ、元号を廣運と改め、復た契丹と結びて援と為す。開寶二年春、太祖は詔して李継勳・趙讚・郭進・司超等に兵を将いて先ず太原に赴かしめ、太祖遂に親征す。劉継元の太谷県令梁文陟を太子洗馬と為し、祁県令張続を右賛善大夫と為す。太祖将に至らんとす、李継勳は城下において劉継元の兵を破り、其の憲州推官史昭文は州を以て来降し、本州刺史に昇す。乃ち汾水を壅ぎて其の城を灌ぎ、又た海州刺史孫方進を遣わし汾州を囲ます。継元方に契丹を恃みて援と為し、守陴の者は揚言して旦夕に契丹至らんとす。四月、何継筠は陽曲の北において契丹を破る。太祖は命じて獲たる所の首級・鎧甲を城下に示さしむ。城中是より喪気し、嵐州知州趙文度遂に来降す。閏五月、南城は汾水の為に陥ち、水は城中に注ぐ。太祖は長堤に幸して之を観る。望楼に登る者は劉継元が其の相郭無為を殺すを見、城中紛擾す。俄かに城兵西長連城より出で、将に攻戦の具を焚かんとす。反って攻兵に撃ち走らされ、首級万余を斬る。夜半、壁外に伝呼して劉継元降るとす。太祖は衛士に甲を擐かしめ、将に壁門を開かんとす。八作使趙遂曰く、「降を受くるは敵を受くるが如し、豈に中夜軽々しく出づべきや」と。太祖は之を伺わしむ。果たして諜者なり。

太常博士李光讚上言して曰く、「陛下は天に応じ人に順い、元を体して極を御し、戦いて勝たざる無く、謀りて臧からざる無し。四方険を恃むの邦、帝王の号を僭窃する者は、昔日は中国と隣たりしも、今日は陛下と臣と為る。蕞爾たる晋陽、豈に親しく討つを須いんや。飛免を重ねて労し、師徒を久しく駐まらしむ。且つ太原は之を得ても未だ必ずしも多きと為さず、之を失うも未だ足らざるを辱めず。今時は炎蒸に属し、候は暑雨に当たる。倘や河津泛溢し、道路阻艱せば、輦運稽留し、宸慮を労すを恐る」と。太祖奏を覧て甚だ喜び、宰相趙普に命じて諸将を撫諭し師を班せんと欲す。禁軍校趙翰等は叩頭して城に乗じて急撃し、以て死力を尽くさんことを願う。太祖曰く、「汝曹は我が訓練する所、一も百に当たらざる無く、以て肘腋を備え、休戚を同じくするなり。我は寧ろ太原を取らざるも、豈に汝曹を駆りて鋒鏑を冒し必死の地に蹈ましめんや」と。士皆感泣し、遂に師を班す。

九年八月、太祖は又た党進・潘美・楊光美・牛思進・米文義を遣わして之を討たしむ。時に劉継元の諜者趙訓は晋州に捕らえられ、械を以て朝に送る。太祖は命じて之を釈し、服装を与えて帰らしむ。又た郭進を遣わし忻代路に入らしめ、郝崇信・王政忠を汾州路に入らしめ、閻彦進・齊超を沁州路に入らしめ、孫晏宣・安守忠を遼州路に入らしめ、齊延琛・穆彦璋を石州路に入らしむ。九月、党進は劉継元の兵数千を破り、馬千余を獲る。郭進は山北の民三万七千余を得る。十月、遼州監押馬継恩は并州の境に入り、四十余の砦を燔き、牛羊数千を獲る。郭進は又た寿陽を破り、民九千を得る。穆彦璋は并州の境に入り、民二千を得る。党進は又た城下において劉継元の兵千余を破る。是の月、太宗即位し、諸将を召して還らしむ。

太平興国二年、劉継元の胡桃砦指揮使史温等は其の民を以て内附す。太宗は齊王廷美に謂いて曰く、「太原は、我必ず之を取らん」と。四年、始めて討伐を議す。曹彬は以て可と為す。太宗の意遂に決し、語は『曹彬伝』に在り。宰相薛居正曰く、「昔周世宗兵を挙ぐるに、太原は契丹の援に倚り、堅壁して戦わず、以て師老いて帰るに至る。及び太祖契丹を雁門関の南に破り、其の民を尽く駆りて河・洛の間に分布せしむ。雖も巣穴尚存すれども、危困已に甚だし。之を得ても以て土を辟くに足らず、之を捨つも以て患いと為すに足らず。願わくは陛下熟慮せよ」と。太宗曰く、「今者は事同じくして勢異なり。彼は弱くして我は強し。昔先皇契丹を破り、其の人を徙して其の地を空くするは、正に今日の事の為なり。朕が計は決せり。卿復た言う勿れ」と。遂に宣徽南院使潘美等を遣わし諸将を率い分兵して汾・沁・嵐諸州を囲ましめ、車駕遂に親征す。ぎょう将郭進を以て石嶺関を扼せしめ、契丹の援路を断つ。契丹果たして至る。郭進撃ちて之を敗る。

初め、劉継元は子の劉続を遣わし契丹に質とす。契丹は郭進に敗る。継元は又た健歩を遣わし間道より蠟丸帛書を齎して救いを求めしむ。郭進又た之を得て、城下に徇す。継元は外援至らず、餉道又た絶つ。潘美等の兵数十万、長囲四合し、春より夏に徂り、矢石雨の如く、昼夜息まず。城中大いに懼る。会に太宗奄に至り、親しく衛士を督して急攻す。人百に其の勇を為し、城に完き堞無し。太宗は城陥つれば則ち殺傷する者衆きを慮り、手詔を以て劉継元に降るを諭す。詔城下に至るも、守陴の者は納れず、継元は知る能わず。太宗躬く甲冑を擐い、夜に長連城に至り諸将を督して之を攻む。控弦の士数万、陣を前に列ね、甲を蹲えて交射す。矢は城上に集まりて蝟毛の如し。毎に矢を給するに必ず数百万、頃之にして咸く尽きぬ。捕え得たる城中の人云く、継元は十銭を以て一矢を購い、凡そ百余万を聚むと。太宗笑いて曰く、「此れ我が為に畜うるなり」と。

五月庚辰、継元の宣徽使范超が来降す。攻城の者は超が出戦するものと為し、これを禽えて戮す。継元は遂に超の妻子を斬り、その首を城外に投ず。壬午、馬軍都指揮使郭萬超が城を踰えて降る。継元の帳下の親信、これに因り漸く亡去し、城中危急なり。太宗また自ら詔を草してこれを諭して曰く、「越王・呉主は地を献げて朝に帰し、或いは大藩を授けられ、或いは上将に列せられ、臣僚・子弟皆官封を享く。継元但だ速やかに降らば、必ず終始の富貴を保たん。安危両途、爾宜しく自ら択ぶべし」と。ここに至り詔入る。諸将鋭く攻めて遏ぐべからず。太宗これに臨み、城の民を害するを恐れ、衆を麾いて少しく退かしむ。この夕、継元はその客省使李勳を遣わして表を奉り降を請う。太宗は勳に襲衣・金帯・銀器・錦彩・銀鞍勒馬を賜い、また通事舎人薛文宝を遣わして詔を齎らしめてこれに答う。夜漏未だ尽きず、太宗城北に幸す。楽を張り従臣を城台に宴す。継元降る。遅明、継元官属を率い縞衣紗帽を着して台下に待罪す。詔してこれを釈し、襲衣・玉帯・金銀鞍勒馬三匹・金器五百両・銀器五千両・錦彩二千段を賜う。文武官各々衣・金銀帯・器幣・鞍勒馬を賜うこと差あり。召して台に升らしむ。継元叩頭して言う、「臣、車駕の親征を聞き、即ち身を束ねて罪に帰せんと願えり。亡命の者、死を懼れ、臣を逼って降るを得ざらしむるなり」と。太宗は軍中より継元に投ぜし者数百人を籍し、その巨室なる者を選び以て軍法に従わしめ、余は服及び銭帛を賜い、諸将に分隷す。詔して継元に特進・検校太師・右衛上将軍を授け、彭城郡公に封じ、行在所に館し、給賜甚だ厚し。その相李惲等は官を授くること差あり。中使康仁宝を命じてこれを監せしむ。継元はその宮妓百余を献ず。悉く分ちて功を立てし将校に賜う。また仁宝をして継元の親属百余を護り京に赴かしむ。過ぐる所食を継ぎ、京城に甲第一区を賜い、歳時優に頒賚を加う。六年、開府儀同三司を加う。雍熙三年、房州を建てて保康軍と為し、継元を以て節度と為す。

淳化二年、継元疾あり。中使を遣わして医を護り診視せしむ。及び卒す。遺奏してその子三猪を以て托と為す。太宗惻然としてこれを哀しみ、中書令を贈り、彭城郡王を追封し、賵賻を加等し、葬事は官に給す。時に三猪六歳、名を守節と賜い、西京作坊副使を授け、家居して祿を賜う。

初め、太宗継元を征し、行きて澶淵に次ぐ。太僕寺丞宋捷なる者あり、出納行在の軍儲を掌る。太宗その姓名を見て喜び、師必ず捷の兆有りと為す。及び将に太原に至らんとし、太宗攻城の諸将に語を遣わして曰く、「我端午の日に当たりて太原城中に酒を置き高会せん」と。癸未に至り、継元降る。乃ち五月五日なり。劉崇周の広順元年より帝を称し、四主を歴て二十九年にして亡ぶ。

継元性残忍なり。太原に在り、凡そ臣下意に忤う者有れば、必ずその家を族す。太祖の親征より及び将を遣わし攻伐するに因り、これが為に殺傷勝げて紀すべからず。及び窮蹙して始めて降る。太宗の待遇終にこれを保全す。嘗て近臣に謂いて曰く、「晋の司馬昭、劉禅のしょくを思うの対に因り、これを戲れて云う『何ぞ乃ち卻正の言に似たる』と。これ不仁甚だしきなり。亡国の君は皆暗懦に由る。苟くも遠識あらば、豈に滅亡に至らんや。これ湣傷すべし。何ぞ反って戲侮せんや。劉継元朕の虜とする所なり。これを賓客の若く待つ。猶その意を慰めざらんことを恐るるのみ」と。

守節後崇儀使と為り、右屯衛将軍に改む。天禧四年、特右武衛将軍に遷し、右驍衛将軍に改む。

附 衛融

衛融字は明遠、青州博興の人。晋の天福初め進士に挙げられ、南楽主簿に調じ、斉・澶二州の從事・忠武軍掌書記を歴任す。漢の初め、太原観察支使と為り、劉崇帝を称し、中書侍郎・平章事を授く。

太祖立ち、李筠上党に拠り、使を遣わして劉鈞に降る。鈞自ら兵を将いて太平駅に至り筠と会し、宣徽使盧讚を遣わして潞州に入り筠の軍を監せしむ。讚と筠協わず、鈞は融を遣わしてこれを和解せしむ。会に筠敗れ、融擒えらる。太祖これを責めて曰く、「汝何ぞ故に劉鈞を勧めて兵を挙げ李筠を助けしめて反せしむるや」と。融曰く、「犬其の主に非ざれば吠ゆ。臣四十口劉氏の豊衣美食を受け、忍びずしてこれを負う。陛下縱え臣を殺さずとも、臣もまた陛下の為に用いられず、終に当に間道を走りて河東に赴かん」と。太祖怒り、左右をして鉄撾を以てその首を撃たしめ、曳き出して将にこれを戮せんとす。融大呼して曰く、「大丈夫の死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し。今の死正にその所を得たり」と。太祖これを聞きて曰く、「これ忠臣なり」と。遽に命じてこれを釈し、召して御前に坐せしめ、良薬を以てその創に傅え、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜う。既にして融を放ち帰らしめんと欲し、融に先ず書を作らしめて鈞を諭し、周光遜等の朝に帰するを俟ちて、即ち融を遣わして去らしむ、と。鈞書を得て久しく報い無し。乃ち融に太府卿を授け、第を京城に賜う。乾徳初め、郊祀し、融『郊禋大體賦』を献ず。司農卿に改め、陳・舒・黄三州を知るに出づ。開宝六年、卒す。年六十九。

子偁・儔、孫斉、並びに進士及第。

附 趙文度

趙文度、薊州漁陽の人。父玉嘗て滄州に客し、節度判官呂兗に依る。劉守光滄州を破り、兗の親属を収めて尽くこれを戮す。兗の子琦年十四、玉これを負いて以て逃る。太原に至り、姓名を変え、衣食を丐いて以て琦を給す。琦後唐の同光初め藩郡の從事と為る。当の是の時、燕・趙の士、玉の能く呂氏の孤を存するを以て、翕然としてこれを称す。明宗の朝、琦職方員外郎知雑に至る。清泰中、琦給事中・端明殿学士と為る。玉已に卒せり。

文度洛に入り進士を挙ぐ。琦主司馬裔孫に薦め、甲科に擢でられ、徐・兗・陳・許四鎮の從事を歴任す。漢の初め、河東掌書記と為る。文度捷給にして善く戲謔す。劉崇雅にこれを愛し、及び帝を称し、累官して翰林承旨・兵部尚書に至る。天会四年、中書侍郎・平章事を授けられ、門下侍郎兼枢密使に転じ、司徒しとを加う。久しくして、郭無為と協わず、出でて汾州を知り、嵐州に徙す。

太祖開宝二年親しく晋陽を征し、偏師を遣わして嵐を囲む。文度危蹙して降を請い、行宮に待罪す。太祖命じてこれを釈し、襲衣・玉帯・金鞍勒馬・器幣を賜うこと甚だ厚く、その官属物を賜うこと差あり。文度本名は弘、宣祖の廟諱を犯すを以て、今の名を賜う。師還り、検校太傅・安国軍節度を授く。歳余りして華州に徙す。制を宣せずして告敕宣製の例に同じ。また耀州に徙す。凡そ三鎮を歴る。七年、卒す。年六十一。

文度善く詩を為す。人多く諷誦し、『観光集』有り。文度の降るや、その母太原に在り。世以て能く死節せざるを以てこれを罪す。子昌図、内殿崇班・閣門祗候に至る。

附 李惲

李惲は字を孟深といい、開封陽武の人である。後漢の乾祐年間に進士に挙げられ、嵐州に客遊した。時に劉崇が自立すると、州の従事に任じられ、知制誥・翰林學士に抜擢され、累進して司空しくう・平章事に至った。当時、母は郷里におり、李惲はその存否を知らず、常日頃から憂い顔で、ただ囲碁と深酒にふけることを務めとし、政事は多く廃れた。劉継元がたびたびこれを諫めたが、李惲は意に介さなかった。後にちょうど僧と囲碁を打っていると、劉継元は近侍に命じて李惲の前まで直行させ、碁盤を取り上げて焼かせた。李惲は平然として、ゆっくりと劉継元のもとに赴いて謝罪した。劉継元はそこで厳しく彼を責めたが、翌日、李惲は別に新しい碁盤を作らせ、相変わらず囲碁を打った。太宗が太原を平定すると、殿中監となり、初めて母の死を知り、上表して母の喪に服することを追って求めさせたが、許されなかった。出向して広州知事となり、司農卿に転じ、続けて許州・孟州の二州の知事を歴任した。足の病を理由に職務の解除を求め、忠武軍行軍司馬を授けられた。端拱元年、卒去。七十三歳。

李惲の性質はおおらかで、名理を談ずることを得意とした。若い頃は滑稽を好んだが、宰相となってからは、かなり重厚な振る舞いをした。初め王溥・李昉と同年に登第し、太原平定後、旧交を温め合い、友情はますます固くなり、世論はこれを称えた。子の存誠は駕部員外郎、存信は左侍禁・閣門祗候となった。

付記 馬峰

馬峰は、并州太原の人である。劉継元に仕えて枢密使・左僕射となり、致仕した。太原平定後、太宗は彼を将作監とし、太府卿に転じ、西京に分司させた。馬峰は服餌養生を得意とし、体は強健で病気がなく、性質は卑吝で、議論を好むことが多かった。雍熙元年、卒去。八十余歳。

付記 郭無為

郭無為は、青州千乗の人である。若くして博学で弁舌に優れ、道士となり、武当山に隠棲した。後漢の乾祐年間、周の太祖が河中を征討した時、郭無為は杖を執って軍門に謁見し、周の太祖は一目見て大いに彼を異才と認め、門下に留め置こうとした。側近たちが「郭無為は縦横家の流れです。今、公は重兵を握っておられます。彼を親しくすべきではありません」と言ったので、郭無為は衣を払って立ち去り、太原の抱腹山に隠れた。

時に劉鈞が兵を率いて李筠を救援しようとし、太原を出発しようとした時、その大臣の趙華が諫めて言った。「李筠の挙動は軽率です。今、兵を起こして彼に応じるのは、妥当とは思えません」。劉鈞は怒って顧みず、遂に出発した。李筠が敗れると、劉鈞は狼狽して帰還し、これにより文学の士を重んじるようになった。かつ朝夕、宋の軍が来ることを恐れ、智謀のある者を求めて彼らと事を計ることをしきりに行った。段常が郭無為を劉鈞に推薦し、劉鈞は諫議大夫として彼を召し出した。到着すると、語り合って大いに喜び、まもなく吏部侍郎・参議中書事に昇進させた。趙文度とともに政務を執ったが、意気投合せず、劉鈞は趙文度を出して汾州知事とした。やがて段常を誅殺し、遂に郭無為を左僕射・平章事兼枢密使とし、機密事務をすべて彼に委ねた。劉鈞がかつて病に臥せた時、郭無為と後事について語り、その子の継恩は才能がないと言い、郭無為もその通りだと言った。劉継恩が即位すると、このことを知り、郭無為を誅殺しようとしたが、臆病で決断できなかった。一月余り後、侯霸栄が劉継恩を弑逆しいぎゃくすると、郭無為は人を遣わして侯霸栄を殺させた。并州の人々は、郭無為が初め侯霸栄に示唆を与え、後に口封じのために彼を殺したのではないかと疑った。

劉継元が立つと、太祖は李継勲らを派遣して討伐させ、なお詔を下して劉継元には青州節度使を、郭無為には邢州節度使を与えることを約束した。郭無為は詔を得て顔色を変えた。ある日、劉継元が群臣を宴する席で、契丹の使者も同席していたが、郭無為は庭で慟哭して言った。「今日、空城をもって大軍に抗するとは、いかなる計略を出すというのか」。佩刀を引き抜いて自害しようとしたので、劉継元は急いで階段を降りてその手を押さえ、郭無為を引き上げて座らせた。これは郭無為が人心を動かそうとしたのであろう。太祖が親征し、包囲網が完成すると、郭無為は自ら兵を率いて夜に出撃し包囲を破り、脱出して帰順しようと請うたが、天候が暗く曇ったために止まった。宦官の衛徳貴がこのことを告発した。時に太祖が汾水をせき止めて城に浸水させると、城中の人心は大いに恐れ、劉継元は郭無為を殺して見せしめとした。