◎世家五○北漢劉氏
祖 崇
北漢の劉繼元は、并州太原の人である。祖父の崇は、漢祖(後漢高祖劉知遠)の弟であり、漢の初年に太原尹・北京留守となった。隱帝が位を継ぐと、周祖(郭威)が樞密使となり、崇は判官の鄭珙に言った、「我と郭樞密とは平素から折り合いが悪い。朝廷が幼弱であり、郭が志を得れば、我は生き残れぬであろう」と。涙を流した。鄭珙はそこで甲兵を繕い、亡命者を招集して、自らを保全する計略を勧めた。隱帝が害されたと聞くと、崇は兵を率いて南進しようとしたが、ちょうど漢の太后が馮道を徐州に遣わして崇の子の贇を迎え、漢の後嗣とすべしとの令を下したので、崇はこれを信じ、賓佐に言った、「我が子が帝となった。また何を憂えようか」と。少尹の李驤が言った、「機を知るは神なり、時を失うべからず。郭公の心を推し量れば、必ずや天下を人に与えぬであろう。精騎を率いて疾く太行を越え、孟津を押さえてその変を観るがよろしい。徐州の位が定まった後に、晋陽に帰れば、郭公も動くことはできぬでしょう」と。崇は大いに怒り、罵って言った、「腐儒が我が父子を離間しようとするとは!」急いで左右に命じて引き出して斬らせた。李驤は言った、「僕は王佐の才を負いながら、今日愚人のために策を画し、死ぬのはもとより甘んじる。しかし家に病妻あり、願わくは共に市で戮せられたい」と。崇は彼らを共に殺し、その事を太后に上表して、他に志のないことを明らかにした。やがて周祖が衆に推戴され、贇は湘陰公に降封された。崇は使者を遣わして周祖に書を奉り、贇を帰藩させるよう乞うた。使者が帰還し、贇が既に死んだことを知ると、崇は慟哭し、李驤のために祠を立てた。
父 鈞
鈞は旧名を承鈞といい、後にただ鈞と名乗った。元号を天會と改め、衛融を相とし、段常を樞密使とし、蔚進に親軍を掌らせ、子の繼恩を太原尹とした。初めて漢祖の旧第に七廟を建て、顯聖宮と号した。ひそかに江南・西川と結んで外援とした。六年の冬、鈞は契丹と結んで周を侵した。明年の正月、周の恭帝は太祖(趙匡胤)に北征を命じ、陳橋驛に至ると、衆は太祖を推戴して即位させた。鈞と契丹兵は皆遁走した。
初め、鈞は李筠の敗北後、狼狽して帰り、朝夕宋師の来ることを懼れた。趙文度を相とし、抱腹山人の郭無為を召して中書事に参議させ、五台山の僧の繼顒を鴻臚卿として国事に参議させた。事に因って段常を誅すると、契丹主は使者を遣わして鈞を責めて言った、「爾は我が命を稟さず、その罪三つあり。年号を擅に改むるは一なり。李筠を助けて覬覦する所あるは二なり。段常を殺すは三なり」と。鈞は恐れおののいて言った、「父は子のために隠す。願わくは罪を赦されたし」と。契丹は返答しなかった。これより契丹に使する者は留め置かれて帰されなかった。終に勢力窘弱のため、憂憤して疾を成し、この月に卒した。年四十三。繼恩が位を嗣いだ。
初め、太祖は嘗て境上の諜者を介して鈞に謂って言った、「君の家は周氏と世仇であるから、屈せぬのも宜しい。今我と爾とは何の間隙もない。何ゆえにこの一方の人を困らせるのか。もし中国に志あらば、宜しく太行を下って勝負を決すべし」と。鈞は諜者を遣わして復命して言った、「河東の土地甲兵は以て中国に当たるに足らず。然れども鈞の家世は叛者にあらず。区区としてこれを守るは、漢氏の血食せざるを懼れるがためなり」と。太祖はその言を哀れみ、笑って諜者に謂って言った、「我に代わって鈞に語れ、爾に一生の路を開かんと」と。故にその世の間は兵を加えなかった。
兄 繼恩
繼恩は本姓は薛である。父の釗は、崇の女を娶り、晋の初年に護聖営の卒であった。漢祖が禁兵を典すると、釗が崇の婿であるため、その籍を除き、門下に館した。漢祖が後に方鎮を領し、爵位通顕となると、釗は稀にしか妻に会えず、常に居て怏怏としていた。ある日酔いに乗じて求見し、直ちに佩刀を引いて妻を刺した。妻は奮って衣を脱して逃れ、釗は自ら剄した。繼恩はこの時なお幼く、漢祖は鈞に命じて養子とさせ、遂に劉姓を冒した。
八月、太祖は詔を下して劉継恩を討伐せしむ。内客省使盧懷忠ら二十二人に禁兵を率いて潞州に赴かせ、昭義節度使李継勳を行営前軍都部署とし、侍衛歩軍都指揮使党進をその副とし、宣徽南院使曹彬を都監とする。棣州防禦使何継筠を前鋒部署とし、懷州防禦使康延沼を都監とする。建雄軍節度使趙讚を汾州路部署とし、絳州防禦使司超をその副とし、隰州刺史李謙溥を都監とする。九月、李継勳は洞渦河において劉継恩の軍を破り、その左勝軍使李瓊が来降す。襲衣・金帯・鞍勒馬を賜う。
初めに、劉鈞は郭無為に謂いて曰く、「継恩は凡庸で懦弱なり、どうして後事を託せんや」と。無為もまた然りと為す。ここに至り、継恩は独り一室に処して喪に服し、左右の親信は皆太原に在りて、従う者を得ず。或いは召すを勧むるも、継恩は猶予して決せず。侯霸榮という者有り、邢州龍岡の人なり。力多く射を善くし、走ること奔馬に及ぶ。嘗て盗を為し並州・汾州の間に在り、劉鈞用いて散指揮使と為し、楽平を戍る。建隆年中、率いる所の部を率いて来帰し、内殿直に補せらる。未だ幾ばくもせず、復た太原に奔る。劉鈞は供奉官に署す。ここに至り、継恩の首級を持ちて太祖に献ぜんと謀り、遂に継恩の無備に乗じ、白昼に刃を挺てて入り、反って其の門を扃ぎ、継恩は屏風を繞りて環走す。霸榮は刃を以て胸を揕って之を弑す。年三十四、時に立つこと六十日にしてなり。無為は卒を遣わし梯を登りて入り、霸栄を殺し、其の弟継元を立てしむ。
劉継元
太常博士李光讚上言して曰く、「陛下は天に応じ人に順い、元を体して極を御し、戦いて勝たざる無く、謀りて臧からざる無し。四方険を恃むの邦、帝王の号を僭窃する者は、昔日は中国と隣たりしも、今日は陛下と臣と為る。蕞爾たる晋陽、豈に親しく討つを須いんや。飛免を重ねて労し、師徒を久しく駐まらしむ。且つ太原は之を得ても未だ必ずしも多きと為さず、之を失うも未だ足らざるを辱めず。今時は炎蒸に属し、候は暑雨に当たる。倘や河津泛溢し、道路阻艱せば、輦運稽留し、宸慮を労すを恐る」と。太祖奏を覧て甚だ喜び、宰相趙普に命じて諸将を撫諭し師を班せんと欲す。禁軍校趙翰等は叩頭して城に乗じて急撃し、以て死力を尽くさんことを願う。太祖曰く、「汝曹は我が訓練する所、一も百に当たらざる無く、以て肘腋を備え、休戚を同じくするなり。我は寧ろ太原を取らざるも、豈に汝曹を駆りて鋒鏑を冒し必死の地に蹈ましめんや」と。士皆感泣し、遂に師を班す。
九年八月、太祖は又た党進・潘美・楊光美・牛思進・米文義を遣わして之を討たしむ。時に劉継元の諜者趙訓は晋州に捕らえられ、械を以て朝に送る。太祖は命じて之を釈し、服装を与えて帰らしむ。又た郭進を遣わし忻代路に入らしめ、郝崇信・王政忠を汾州路に入らしめ、閻彦進・齊超を沁州路に入らしめ、孫晏宣・安守忠を遼州路に入らしめ、齊延琛・穆彦璋を石州路に入らしむ。九月、党進は劉継元の兵数千を破り、馬千余を獲る。郭進は山北の民三万七千余を得る。十月、遼州監押馬継恩は并州の境に入り、四十余の砦を燔き、牛羊数千を獲る。郭進は又た寿陽を破り、民九千を得る。穆彦璋は并州の境に入り、民二千を得る。党進は又た城下において劉継元の兵千余を破る。是の月、太宗即位し、諸将を召して還らしむ。
初め、劉継元は子の劉続を遣わし契丹に質とす。契丹は郭進に敗る。継元は又た健歩を遣わし間道より蠟丸帛書を齎して救いを求めしむ。郭進又た之を得て、城下に徇す。継元は外援至らず、餉道又た絶つ。潘美等の兵数十万、長囲四合し、春より夏に徂り、矢石雨の如く、昼夜息まず。城中大いに懼る。会に太宗奄に至り、親しく衛士を督して急攻す。人百に其の勇を為し、城に完き堞無し。太宗は城陥つれば則ち殺傷する者衆きを慮り、手詔を以て劉継元に降るを諭す。詔城下に至るも、守陴の者は納れず、継元は知る能わず。太宗躬く甲冑を擐い、夜に長連城に至り諸将を督して之を攻む。控弦の士数万、陣を前に列ね、甲を蹲えて交射す。矢は城上に集まりて蝟毛の如し。毎に矢を給するに必ず数百万、頃之にして咸く尽きぬ。捕え得たる城中の人云く、継元は十銭を以て一矢を購い、凡そ百余万を聚むと。太宗笑いて曰く、「此れ我が為に畜うるなり」と。
継元性残忍なり。太原に在り、凡そ臣下意に忤う者有れば、必ずその家を族す。太祖の親征より及び将を遣わし攻伐するに因り、これが為に殺傷勝げて紀すべからず。及び窮蹙して始めて降る。太宗の待遇終にこれを保全す。嘗て近臣に謂いて曰く、「晋の司馬昭、劉禅の蜀を思うの対に因り、これを戲れて云う『何ぞ乃ち卻正の言に似たる』と。これ不仁甚だしきなり。亡国の君は皆暗懦に由る。苟くも遠識あらば、豈に滅亡に至らんや。これ湣傷すべし。何ぞ反って戲侮せんや。劉継元朕の虜とする所なり。これを賓客の若く待つ。猶その意を慰めざらんことを恐るるのみ」と。
守節後崇儀使と為り、右屯衛将軍に改む。天禧四年、特右武衛将軍に遷し、右驍衛将軍に改む。
附 衛融
衛融字は明遠、青州博興の人。晋の天福初め進士に挙げられ、南楽主簿に調じ、斉・澶二州の從事・忠武軍掌書記を歴任す。漢の初め、太原観察支使と為り、劉崇帝を称し、中書侍郎・平章事を授く。
太祖立ち、李筠上党に拠り、使を遣わして劉鈞に降る。鈞自ら兵を将いて太平駅に至り筠と会し、宣徽使盧讚を遣わして潞州に入り筠の軍を監せしむ。讚と筠協わず、鈞は融を遣わしてこれを和解せしむ。会に筠敗れ、融擒えらる。太祖これを責めて曰く、「汝何ぞ故に劉鈞を勧めて兵を挙げ李筠を助けしめて反せしむるや」と。融曰く、「犬其の主に非ざれば吠ゆ。臣四十口劉氏の豊衣美食を受け、忍びずしてこれを負う。陛下縱え臣を殺さずとも、臣もまた陛下の為に用いられず、終に当に間道を走りて河東に赴かん」と。太祖怒り、左右をして鉄撾を以てその首を撃たしめ、曳き出して将にこれを戮せんとす。融大呼して曰く、「大丈夫の死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し。今の死正にその所を得たり」と。太祖これを聞きて曰く、「これ忠臣なり」と。遽に命じてこれを釈し、召して御前に坐せしめ、良薬を以てその創に傅え、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜う。既にして融を放ち帰らしめんと欲し、融に先ず書を作らしめて鈞を諭し、周光遜等の朝に帰するを俟ちて、即ち融を遣わして去らしむ、と。鈞書を得て久しく報い無し。乃ち融に太府卿を授け、第を京城に賜う。乾徳初め、郊祀し、融『郊禋大體賦』を献ず。司農卿に改め、陳・舒・黄三州を知るに出づ。開宝六年、卒す。年六十九。
子偁・儔、孫斉、並びに進士及第。
附 趙文度
趙文度、薊州漁陽の人。父玉嘗て滄州に客し、節度判官呂兗に依る。劉守光滄州を破り、兗の親属を収めて尽くこれを戮す。兗の子琦年十四、玉これを負いて以て逃る。太原に至り、姓名を変え、衣食を丐いて以て琦を給す。琦後唐の同光初め藩郡の從事と為る。当の是の時、燕・趙の士、玉の能く呂氏の孤を存するを以て、翕然としてこれを称す。明宗の朝、琦職方員外郎知雑に至る。清泰中、琦給事中・端明殿学士と為る。玉已に卒せり。
文度洛に入り進士を挙ぐ。琦主司馬裔孫に薦め、甲科に擢でられ、徐・兗・陳・許四鎮の從事を歴任す。漢の初め、河東掌書記と為る。文度捷給にして善く戲謔す。劉崇雅にこれを愛し、及び帝を称し、累官して翰林承旨・兵部尚書に至る。天会四年、中書侍郎・平章事を授けられ、門下侍郎兼枢密使に転じ、司徒を加う。久しくして、郭無為と協わず、出でて汾州を知り、嵐州に徙す。
文度善く詩を為す。人多く諷誦し、『観光集』有り。文度の降るや、その母太原に在り。世以て能く死節せざるを以てこれを罪す。子昌図、内殿崇班・閣門祗候に至る。
附 李惲
李惲の性質はおおらかで、名理を談ずることを得意とした。若い頃は滑稽を好んだが、宰相となってからは、かなり重厚な振る舞いをした。初め王溥・李昉と同年に登第し、太原平定後、旧交を温め合い、友情はますます固くなり、世論はこれを称えた。子の存誠は駕部員外郎、存信は左侍禁・閣門祗候となった。
付記 馬峰
付記 郭無為
郭無為は、青州千乗の人である。若くして博学で弁舌に優れ、道士となり、武当山に隠棲した。後漢の乾祐年間、周の太祖が河中を征討した時、郭無為は杖を執って軍門に謁見し、周の太祖は一目見て大いに彼を異才と認め、門下に留め置こうとした。側近たちが「郭無為は縦横家の流れです。今、公は重兵を握っておられます。彼を親しくすべきではありません」と言ったので、郭無為は衣を払って立ち去り、太原の抱腹山に隠れた。
時に劉鈞が兵を率いて李筠を救援しようとし、太原を出発しようとした時、その大臣の趙華が諫めて言った。「李筠の挙動は軽率です。今、兵を起こして彼に応じるのは、妥当とは思えません」。劉鈞は怒って顧みず、遂に出発した。李筠が敗れると、劉鈞は狼狽して帰還し、これにより文学の士を重んじるようになった。かつ朝夕、宋の軍が来ることを恐れ、智謀のある者を求めて彼らと事を計ることをしきりに行った。段常が郭無為を劉鈞に推薦し、劉鈞は諫議大夫として彼を召し出した。到着すると、語り合って大いに喜び、まもなく吏部侍郎・参議中書事に昇進させた。趙文度とともに政務を執ったが、意気投合せず、劉鈞は趙文度を出して汾州知事とした。やがて段常を誅殺し、遂に郭無為を左僕射・平章事兼枢密使とし、機密事務をすべて彼に委ねた。劉鈞がかつて病に臥せた時、郭無為と後事について語り、その子の継恩は才能がないと言い、郭無為もその通りだと言った。劉継恩が即位すると、このことを知り、郭無為を誅殺しようとしたが、臆病で決断できなかった。一月余り後、侯霸栄が劉継恩を弑逆すると、郭無為は人を遣わして侯霸栄を殺させた。并州の人々は、郭無為が初め侯霸栄に示唆を与え、後に口封じのために彼を殺したのではないかと疑った。
劉継元が立つと、太祖は李継勲らを派遣して討伐させ、なお詔を下して劉継元には青州節度使を、郭無為には邢州節度使を与えることを約束した。郭無為は詔を得て顔色を変えた。ある日、劉継元が群臣を宴する席で、契丹の使者も同席していたが、郭無為は庭で慟哭して言った。「今日、空城をもって大軍に抗するとは、いかなる計略を出すというのか」。佩刀を引き抜いて自害しようとしたので、劉継元は急いで階段を降りてその手を押さえ、郭無為を引き上げて座らせた。これは郭無為が人心を動かそうとしたのであろう。太祖が親征し、包囲網が完成すると、郭無為は自ら兵を率いて夜に出撃し包囲を破り、脱出して帰順しようと請うたが、天候が暗く曇ったために止まった。宦官の衛徳貴がこのことを告発した。時に太祖が汾水をせき止めて城に浸水させると、城中の人心は大いに恐れ、劉継元は郭無為を殺して見せしめとした。