宋史

列傳第二百四十  世家四 南漢劉氏劉鋹(龔澄樞 李托 薛崇譽 潘崇徹)

列傳第二百四十  世家四 南漢劉氏劉鋹(龔澄樞 李托 薛崇譽 潘崇徹)

◎世家四○南漢劉氏

原文◎世家四○南漢劉氏

南漢の劉鋹、その先祖は蔡州上蔡の人である。高祖こうその安仁は唐に仕えて潮州刺史となり、嶺表に家を定めた。安仁が謙を生み、謙は広州の牙校となり、累進して封州刺史・賀水鎮遏使となった。謙が隱を生み、謙が卒すると、隱がその任を代わって領した。唐の昭宗が薛王知柔をして南海を鎮めさせた時、隱を行軍司馬に辟召し、兵権を委ねた。宰相の徐彥若が知柔に代わると、節度副使とした。時に唐室は既に末世であり、彥若の威令は振るわず、事は皆隱によって決せられた。彥若が卒すると、遺表を以て隱を自らの後任に推薦したが、昭宗は従わず、崔遠を以て代えさせた。遠が江陵に至ると、遷延して進まず、乃ち隱を留後とし、間もなく節旄を授けた。梁の開平初年、静海軍節度使を兼ね、南海王に封ぜられた。隱が卒すると、弟の陟が位を襲いだ。貞明三年、帝号を僭称し、国号を大漢と称し、元号を乾亨と改め、郊祀の礼を行った。名を岩と改め、又龔と改め、終に〓と改めた。「〓」は「儼」と読み、字書には載っておらず、蓋しその妄作である。晋の天福七年、卒し、子の玢が嗣ぎ、弟の晟に殺された。晟は遂に自立し、性は特に酷暴であった。周の顕徳五年、卒し、事は『五代史』に詳しい。

原文南漢劉鋹,其先蔡州上蔡人,高祖安仁,仕唐為潮州刺史,因家嶺表。安仁生謙,為廣州牙校,累遷封州刺史、賀水鎮遏使。謙生隱,謙卒,隱代領其任。唐昭宗以薛王知柔鎮南海,辟為行軍司馬,委以兵柄。及宰相徐彥若代知柔,以為節度副使。時唐室已季,彥若威令不振,事皆決於隱。彥若卒,遺表薦隱自代,昭宗不從,以崔遠代之。遠至江陵,遷延不進,乃以隱為留後,未幾,授以節旄。梁開平初,兼靜海軍節度使,封南海王。隱卒,弟陟襲位。貞明三年,僭帝號,國稱大漢,改元乾亨,行郊祀禮。改名岩,又改龔,終改〓。「〓」讀為「儼」,字書不載,蓋其妄作也。晉天福七年,卒,子玢嗣,為弟晟所殺。晟遂自立,性尤酷暴,周顯德五年,卒,事具《五代史》。

鋹は即ち晟の長子である。初め名を継興と称し、衛王に封ぜられ、父の位を襲い、今の名に改め、元号を大寶と改めた。性は昏懦であり、政を宦官の龔澄樞及び才人の盧瓊仙に委ね、毎に詳らかに可否を覧るも、皆瓊仙が指図した。鋹は日々宮人・波斯女等と遊戯した。内官の陳延壽が女巫の樊胡を引き入れて宮中に入らせ、玉皇が樊胡を遣わして鋹を太子皇帝に命じたと言い、乃ち宮中に帷幄を施し、珍玩を羅列し、玉皇の座を設けた。樊胡は遠遊冠・紫衣・紫霞裙を着け、坐して禍福を宣べ、鋹に再拝して命を聴かせた。嘗て瓊仙・澄樞・延壽は皆玉皇が遣わして太子皇帝を輔ける者であり、過ちがあっても治めてはならないと言った。また梁山師・馬媼おう・何擬の徒が宮掖に出入りした。宮中の婦人は皆冠帯を具え、外事を領した。

原文鋹即晟長子也,初名繼興,封衛王,襲父位,改今名,改元大寶。性昏懦,委政宦官龔澄樞及才人盧瓊仙,每詳覽可否,皆瓊仙指之。鋹日與宮人、波斯女等遊戲。內官陳延壽引女巫樊胡入宮,言玉皇遣樊胡命鋹為太子皇帝,乃於宮中施帷幄,羅列珍玩,設玉皇坐。樊胡遠遊冠、紫衣、紫霞裙,坐宣禍福,令鋹再拜聽命;嘗雲瓊仙、澄樞、延壽皆玉皇遣輔太子皇帝,有過不得治。又有梁山師、馬媼、何擬之徒出入宮掖。宮中婦人皆具冠帶,領外事。

初め、〓(龔)は中官を寵任したが、その数は僅か三百余りで、位は掖庭諸局の令丞を過ぎなかった。晟の時に至って千余人となり、内常侍・諸謁者の称が稍々増えた。鋹の時に至って漸く七千余りに及び、三師・三公となる者もあったが、ただその上に「内」の字を加え、諸使の名は二百に止まらず、女官にも師傅・令仆の号があった。百官を「門外人」と目し、群臣の小過や士人・釈・道で才略があり問いに備えられる者は、皆蠶室に下し、宮闈に出入りすることを得させた。焼煮剝剔・刀山剣樹の刑を作り、或いは罪人に虎と闘わせ象に当たらせた。また賦斂は煩重で、邕州の民で城に入る者は一人一銭を輸納し、瓊州では米一斗に税四五銭を課した。媚川都を置き、その課を定め、海に入ること五百尺で珠を採らせた。居る宮殿は珠・玳瑁で飾った。陳延壽は諸々の淫巧を作り、日費数万金を費やした。宮城の左右に離宮数十があり、鋹の遊幸は常に月余り或いは旬日に及んだ。豪民を課戸として、宴犒の費を供えさせた。

原文初,〓雖寵任中官,其數裁三百餘,位不過掖庭諸局令丞。至晟時千餘人,稍增內常侍、諸謁者之稱。至鋹漸至七千餘,有為三師、三公,但其上加「內」字,諸使名不翅二百,女官亦有師傅、令仆之號。目百官為「門外人」,群臣小過及士人、釋、道有才略可備問者,皆下蠶室,令得出入宮闈。作燒煮剝剔、刀山劍樹之刑,或令罪人鬥虎抵象。又賦斂煩重,邕民入城者人輸一錢,瓊州米斗稅四五錢。置媚川都,定其課,令入海五百尺采珠。所居宮殿以珠、玳瑁飾之。陳延壽作諸淫巧,日費數萬金。宮城左右離宮數十,鋹遊幸常至月餘或旬日。以豪民為課戶,供宴犒之費。

乾徳年中、太祖が師を命じて郴州を克たせ、その内品十余りを獲た。余延業という者がおり、人質は麼麽であった。太祖が問うて曰く、「爾は嶺南で何の官であったか」と。対えて曰く、「扈駕弓箭手官でございました」と。弓矢を授けることを命じると、延業は極力弓弦を控えても開かなかった。太祖は因って笑って鋹の為政の跡を問うと、延業はその奢酷を備えて言い、太祖は驚駭して曰く、「吾は当に此の一方の民を救わん」と。

原文乾德中,太祖命師克郴州,獲其內品十餘人。有餘延業者,人質麼麽,太祖問曰:「爾在嶺南為何官?」對曰:「為扈駕弓箭手官。」命授之弓矢,延業極力控弦不開。太祖因笑問鋹為治之跡,延業備言其奢酷,太祖驚駭曰:「吾當救此一方之民。」

先に、晟は湖南の馬氏の乱に因り、桂・郴・賀等の州を襲い取った。開寶初年、鋹は又兵を挙げて道州を侵し、刺史の王継勳が上言した。鋹が為政昏暴で、民はその毒に被り、討つことを請うた。太祖はその事を難しく思い、江南の李煜に使いを遣わして書を以て鋹を諭し、臣を称して湖南の旧地を帰還させるよう命じた。鋹は従わなかった。煜は又その給事中龔慎儀を遣わして書を遺わし曰く、

原文先是,晟因湖南馬氏之亂,襲取桂、郴、賀等州。開寶初,鋹又舉兵侵道州,刺史王繼勳上言。鋹為政昏暴,民被其毒,請討之。太祖難其事,令江南李煜遣使以書諭鋹使稱臣,歸湖南舊地。鋹不從。煜又遣其給事中龔慎儀遺書曰:

煜と足下は累世の睦みに叨り、祖考の盟を継ぎ、情は弟兄の若く、義は交契を敦くし、憂戚の患い、何ぞ嘗て同じからざらん。毎に会面して此の懐を論じ、抵掌して此の事を談じ、交えて其の短を議し、各々其の長を陳べ、中心を釈然とさせ、利害を惑わずせんことを思う。然るに相去ること万里、此の願い伸びず。凡そ事機に於いて款会を得ず、屡々誠素を達し、此の心を明らかにせんことを冀う。而るに足下之を視て、書檄一時の儀、近国梗概の事と謂い、外貌して之を待ち、氾濫して之を観、忠告確論を水石に投ずるが如くせしむ。若し此くの如くんば、則ち又何必ぞ虚詞を事として往復を労せんや。殊に宿心の望む所に非ざるなり。

原文煜與足下叨累世之睦,繼祖考之盟,情若弟兄,義敦交契,憂戚之患,曷嘗不同。每思會麵而論此懷,抵掌而談此事,交議其所短,各陳其所長;使中心釋然,利害不惑,而相去萬里,斯願莫伸。凡於事機不得款會,屢達誠素,冀明此心;而足下視之,謂書檄一時之儀,近國梗概之事,外貌而待之,泛濫而觀之,使忠告確論如水投石,若此則又何必事虛詞而勞往復哉?殊非宿心之所望也。

今則ち復た人使を遣わし鄙懐を罄し申さんとす。又慮うらくは行人辞を失い、深素を尽くさざるを。是を以て再び翰墨を寄せ、重ねて腹心を布き、以て会面の談と抵掌の議とに代えんとす。足下誠に其の言を聴くこと交友諫爭の言の如くし、其の心を視ること親戚急難の心の如くせば、然る後に其の言を三復し、其の心を三思せば、則ち忠なるか忠ならざるか、斯に見るべく、従うか従わざるか、斯に決すべし。

原文今則復遣人使罄申鄙懷,又慮行人失辭,不盡深素,是以再寄翰墨,重布腹心,以代會麵之談與抵掌之議也。足下誠聽其言如交友諫爭之言,視其心如親戚急難之心,然後三復其言,三思其心,則忠乎不忠,斯可見矣,從乎不從,斯可決矣。

昨、大朝の南伐に以り、楚疆を復さんと図り、交兵已来、遂に釁隙を成す。事勢を詳観し、深切に憂懐し、大朝の兵を息め、親仁の願いに契わんことを冀い、領を南に望むこと、今に累年なり。臨みて昨、使臣をして大朝に入貢せしむるに、大朝皇帝果たして此の事を以て宣示して曰く、「彼若し事大の礼を以て我に事うれば、則ち何の苦しみか有って之を伐たん。若し戎を興して我と爭わんと欲すれば、則ち必取を以て度とせん」と。見る今、大衆を点閲し、仍って上秋を期とし、弊邑をして書を以て前意を復叙せしむ。是を用いて人使を奔走せしめ、遽かに直言を貢す。深く料るに大朝の心は唯利の貪り有るに非ず、蓋し人の賓たらざるを怒るのみ。足下は已むを得ざるの事と易え難き謀い有るに非ず、殆ど一時の忿りのみ。

原文昨以大朝南伐,圖復楚疆,交兵已來,遂成釁隙。詳觀事勢,深切憂懷,冀息大朝之兵,求契親仁之願,引領南望,於今累年。臨昨使臣入貢大朝,大朝皇帝果以此事宣示曰:「彼若以事大之禮而事我,則何苦而伐之;若欲興戎而爭我,則以必取為度矣。」見今點閱大眾,仍以上秋為期,令弊邑以書復敘前意,是用奔走人使,遽貢直言。深料大朝之心非有唯利之貪,蓋怒人之不賓而已;足下非有不得已之事與不可易之謀,殆一時之忿而已。

夫れ古の武を用うる者を観るに、小大強弱の殊を顧みずして必ず戦う者に四有り。父母宗廟の仇、此れ必戦なり。彼此烏合し、民定心無く、存亡の機戦を以て命と為す、此れ必戦なり。敵人有って進み、必ず我を捨てず、和を求め得ず、退き守るに路無く、戦えば亦亡び、戦わざれば亦亡び、奮いて命を顧みず、此れ必戦なり。彼に天亡の兆有り、我に進取の機を懐く、此れ必戦なり。今足下と大朝とは父母宗廟の仇有るに非ず、烏合存亡の際と同じからず、既に進退捨てず奮いて命を顧みざるに殊なり、又機に乗じて進取するの時に異なり。故無くして坐して天下の兵を受け、将に一旦の命を決せんとす。既に大朝は通好を許すと雖も、又拒みて従わず。国家を有し、社稷を利する者は当に此くの如くならんや。

原文觀夫古之用武者,不顧小大強弱之殊而必戰者有四;父母宗廟之仇,此必戰也;彼此烏合,民無定心,存亡之機以戰為命,此必戰也;敵人有進,必不舍我,求和不得,退守無路,戰亦亡,不戰亦亡,奮不顧命,此必戰也;彼有天亡之兆,我懷進取之機,此必戰也。今足下與大朝非有父母宗廟之仇也,非同烏合存亡之際也,既殊進退不舍、奮不顧命也,又異乘機進取之時也。無故而坐受天下之兵,將決一旦之命,既大朝許以通好,又拒而不從,有國家、利社稷者當若是乎?

帝と称し王と称し、傑出して角立するは、古今の常事なり。地を割きて通好し、玉帛を以て人に事うるも、また古今の常事なり。盈虚消息・取与翕張、屈伸万端、我に在るのみ、何ぞ必ずしも柱に膠して壮を用い、禍を軽んじて雄を争わんや。且つ足下は英明の姿を以て、百越の衆を撫で、北は五嶺を距け、南は重溟を負い、累世の基を藉り、民に及ぶの沢有り、衆数十万、山川を表裏す、これ足下が慨然として自ら負う所以なり。然れども天に違うは祥ならず、戦を好むは危き事、天方に楚を相う、未だ争うべからず。恭しく大朝の師武臣力を以て、実に天の賛する所と謂う。太行に登りて上党を伐つに、士に難色無く、剣閣を絶ちて庸蜀しょくを挙ぐるに、役時を淹めず。是れ大朝の力測り難きを知り、万里の境保ち難きを知るなり。十戦して九勝すとも、一敗も憂うべく、六奇して五中すとも、一失何をか補わん。

原文夫稱帝稱王,角立傑出,今古之常事也;割地以通好,玉帛以事人,亦古今之常事也。盈虛消息、取與翕張,屈伸萬端,在我而已,何必膠柱而用壯,輕禍而爭雄哉?且足下以英明之姿,撫百越之眾,北距五嶺,南負重溟,藉累世之基,有及民之澤,眾數十萬,表裏山川,此足下所以慨然而自負也。然違天不祥,好戰危事,天方相楚,尚未可爭。恭以大朝師武臣力,實謂天讚也。登太行而伐上黨,士無難色;絕劍閣而舉庸蜀,役不淹時。是知大朝之力難測也,萬里之境難保也。十戰而九勝,亦一敗可憂;六奇而五中,則一失何補!

況んや人は自ら我が国の険を以てし、家は自ら我が兵の強きを以てす、蓋し此れを揣りて彼れを揣らず、其の成を経て未だ其の敗を経ざるなり。何となれば、国は剣閣より険なる莫く、而るに庸蜀は已に亡び、兵は上党より強き莫く、而るに太行は守らず。人の情、端坐して之を思うに、滄海も渉るべしと意えども、風濤驟に興り、舟の奔るに馭を失うに及びては、夫の坐思の時と蓋し殊なる有り。是を以て智者は未萌に慮り、機者は其の先見を重んず。難きを其の易きに図り、存に居りて亡を忘れず、故に禍を計るは及ばず、福を慮るは之を過ぐと曰う。良に福は人の楽しむ所、心之を楽む、故に其の望や過ぎ、禍は人の悪む所、心之を悪む、故に其の思や忽なり。是を以て福は或いは慊望に修まり、禍は多く不期に出づ。

原文況人自以我國險,家自以我兵強,蓋揣於此而不揣於彼,經其成而末經其敗也。何則?國莫險於劍閣,而庸蜀已亡矣;兵莫強於上黨,而太行不守矣。人之情,端坐而思之,意滄海可涉也,及風濤驟興,奔舟失馭,與夫坐思之時蓋有殊矣。是以智者慮於未萌,機者重其先見;圖難於其易,居存不忘亡,故曰計禍不及,慮福過之。良以福者人之所樂,心樂之,故其望也過;禍者人之所惡,心惡之,故其思也忽。是以福或修於慊望,禍多出於不期。

又た或いは功を矜り名を好むの臣有りて、主を尊び国を強くするの議を献ずる者を慮るに、必ず曰く、「慎んで和する無かれ。五嶺の険、山高く水深く、輜重並行せず、士卒列を成さず。高く壘り野を清めて其の糧を運ぶを絶ち、山に依り水に阻みて強弩を以て射れば、進むに所得無く、退くに帰る所無からしめん」と。これ其の一なり。又た或いは曰く、「彼の長とする所は、平地に利有り。今其の長きを捨て、其の短きに就くは、百万の衆有ると雖も、我を如何ともする無からん」と。これ其の二なり。其の次に或いは曰く、「戦いて勝てば、則ち覇業成る可く、戦いて勝たざれば、則ち巨舟に泛び滄海に浮かび、終に人の下と為らじ」と。此れ大約皆説士の孟浪の談、謀臣の捭闔の策、坐して之を論ずるは則ち易く、行いて意の如くするは則ち難し。

原文又或慮有矜功好名之臣,獻尊主強國之議者,必曰:「慎無和也。五嶺之險,山高水深,輜重不並行,士卒不成列;高壘清野而絕其運糧,依山阻水而射以強弩,使進無所得,退無所歸。」此其一也。又或曰:「彼所長者,利在平地,今舍其所長,就其所短,雖有百萬之眾,無若我何。」此其二也。其次或曰:「戰而勝,則霸業可成,戰而不勝,則泛巨舟而浮滄海,終不為人下。」此大約皆說士孟浪之談,謀臣捭闔之策,坐而論之也則易,行之如意也則難。

何となれば、今荊湘以南・庸蜀の地は、皆山水に便なり、険阻を習うの民、中国の兵を動かさずして、精卒已に十万を踰えたり。況んや足下と大朝とは封疆接畛し、水陸途を同じくし、殆ど鶏犬の相聞く、豈に馬牛の及ばざらんや。一旦辺縁に縁りて悉く挙げ、諸道進攻せば、豈に俱に其の糧を運ぶを絶ち、尽く其の城壁を保つべけんや。若し諸険悉く固ければ、誠に善きこと加うる莫し。苟くも尺水横流せば、則ち長堤虚設なり。其の次に曰く、或いは大朝、呉越の衆を用い、泉州より海を泛ぎて国都に趣かば、則ち数日を経ずして城下に至らん。其の人心疑惑し、兵勢動揺する時に当たりては、岸上の舟中皆敵国と為り、忠臣義士復た幾人か能くあらん。進退を懐う者は步步に心を生じ、妻子を顧みる者は滔滔として是れのみ。変故測り難く、須臾万端、暫く始図に乖るのみに非ず、実に壮誌を誤るを恐る。又た巨舟の及ぶ可く、滄海の遊ぶ可きに非ず。然れども此等は皆戦伐の常事、兵家の預謀、勝負未だ知らずと雖も、成敗相半ばす。苟くも已むを得ずして為すは、固より断ずるに不疑に在り。若し大故無くして之を思わば、又た深く痛惜す可し。

原文何則?今荊湘以南、庸蜀之地,皆是便山水、習險阻之民,不動中國之兵,精卒已逾於十萬矣。況足下與大朝封疆接畛,水陸同途,殆雞犬之相聞,豈馬牛之不及?一旦緣邊悉舉,諸道進攻,豈可俱絕其運糧,盡保其城壁?若諸險悉固,誠善莫加焉;苟尺水橫流,則長堤虛設矣。其次曰,或大朝用吳越之眾,自泉州泛海以趣國都,則不數日至城下矣。當其人心疑惑,兵勢動搖,岸上舟中皆為敵國,忠臣義士能復幾人?懷進退者步步生心,顧妻子者滔滔皆是。變故難測,須臾萬端,非惟暫乖始圖,實恐有誤壯誌,又非巨舟之可及,滄海之可遊也。然此等皆戰伐之常事,兵家之預謀,雖勝負未知,成敗相半。苟不得已而為也,固斷在不疑;若無大故而思之,又深可痛惜。

且つ小の大に事うるは、理固然なり。遠古の例は備えて談ずべからず、本朝当に楊氏の呉を建つる時、亦た荘宗に入貢せり。恭しく自ら烈祖基を開き、中原多故、事大の礼、因循未だ遑あらず、以て兵を交うるに至り、幾ば危殆を成さんとす。大江の険に憑り、衆多の力を恃まんと欲せざるに非ず、尋いで難きを知れば則ち退くを悟り、遂に出境の盟を修む。一介の使纔に行けば、万里の兵頓に息み、民を恵み衆を和し、今に之に頼る。足下の祖徳の基を開くより、亦た中国に通好し、以て覇図を闡く。願わくは祖宗の謀を修め、以て中国の好を尋ね、益無き忿を蕩し、急がざる争を棄て、存を知り亡を知り、能く強く能く弱く、己を屈して億兆を済い、談笑して国家を定め、至徳大業虧くる無く、宗廟社稷損する無からしめん。玉帛朝聘の礼纔に境を出でて、而して天下の兵已に息まん、豈に反掌の如く易く、太山の如く固からざらんや。何ぞ必ずしも腕を扼み衡を盱み、腸を履み血を蹀して、然る後に勇と為らん。故に曰く、「徳は毛の如し、民鮮く能く之を挙ぐ、我儀図る」と。又た曰く、「止まるを知れば殆うからず、以て長久たるべし」と。又た曰く、「沈潜剛克、高明柔克」と。これ聖賢の事業、何ぞ恥じて為さざらん。

原文且小之事大,理固然也。遠古之例不能備談,本朝當楊氏之建吳也,亦入貢莊宗。恭自烈祖開基,中原多故,事大之禮,因循未遑,以至交兵,幾成危殆。非不欲憑大江之險,恃眾多之力,尋悟知難則退,遂修出境之盟;一介之使才行,萬里之兵頓息,惠民和眾,於今賴之。自足下祖德之開基,亦通好中國,以闡霸圖。願修祖宗之謀,以尋中國之好,蕩無益之忿,棄不急之爭;知存知亡,能強能弱,屈己以濟億兆,談笑而定國家,至德大業無虧也,宗廟社稷無損也。玉帛朝聘之禮才出於境,而天下之兵已息矣,豈不易如反掌,固如太山哉?何必扼腕盱衡,履腸蹀血,然後為勇也。故曰:「德如毛,民鮮克舉之,我儀圖之。 」又曰:「知止不殆,可以長久。」又曰:「沈潛剛克,高明柔克。」此聖賢之事業,何恥而不為哉?

況んや大朝皇帝は命世の英を以て、中夏に光宅し、五運を承けて乃ち正統に当たり、四方を度れば則ち咸く下風に偃す。獫狁・太原固より薄伐に労せず、南轅返旆更に何人の属するに在らん。又た方に且つ天下の兵鋒を遏え、貴国の嘉問を俟つ。則ち大国の義斯に亦た以て善く、足下の忿も亦た以て息む可し。若し介然として移らざれば、宗廟社稷に利有れば可なり、黎元に利有れば可なり、天下に利有れば可なり、身に利有れば可なり。凡そ是の四者に一の利も無ければ、何を用いて徳を棄て怨を修め、自ら仇敵を生じ、赫赫たる南国をして将に禍機と成らしめ、炎炎たる奈何、其れ邇くに向かうべけんや。幸にして小勝すとも、其の後を保つ莫く、不幸にして心に違わば、則ち大事去らん。

原文況大朝皇帝以命世之英,光宅中夏,承五運而乃當正統,度四方則咸偃下風;獫狁、太原固不勞於薄伐,南轅返旆更屬在於何人。又方且遏天下之兵鋒,俟貴國之嘉問,則大國之義斯亦以善矣,足下之忿亦可以息矣。若介然不移,有利於宗廟社稷可也,有利於黎元可也,有利於天下可也,有利於身可也。凡是四者無一利焉,何用棄德修怨,自生仇敵,使赫赫南國,將成禍機,炎炎奈何,其可向邇?幸而小勝也,莫保其後焉,不幸而違心,則大事去矣。

復た念うに頃者淮・泗兵を交え、疆陲多壘、呉越は累世の好を以て、遂に首として厲階と為る。惟だ貴国の情分親を踰え、歓盟愈篤く、先朝に在りて義に感じ、情実慨然たり。下走基を承け、理徳に負くる難く、已む能わず、又た此の緘を馳す。近く大朝の諭旨を奉ずるに、足下に通好の心無くば、必ず上秋の役を挙げんと為し、即ち弊邑に命じて速やかに連盟を絶たしむとす。善隣の心は、永保を期すと雖も、事大の節は、焉んぞ敢えて固く違わん。煜の足下に事うるを得ざらんことを恐る。是を以て惻惻の意雲う能わざる所、区々の誠是れに在り。又た臣子の情を念うに、尚三諫を踰えず、煜の極言、此れに於いて三たり。是れ臣と為る者は逃る可く、子と為る者は泣く可く、交友と為る者も亦た惆悵として遂に絶つ。

原文復念頃者淮、泗交兵,疆陲多壘,吳越以累世之好,遂首為厲階;惟有貴國情分逾親,歡盟愈篤,在先朝感義,情實慨然,下走承基,理難負德,不能自己,又馳此緘。近奉大朝諭旨,以為足下無通好之心,必舉上秋之役,即命弊邑速絕連盟。雖善鄰之心,期於永保;而事大之節,焉敢固違。恐煜之不得事足下也,是以惻惻之意所不能雲,區區之誠於是乎在。又念臣子之情,尚不逾於三諫,煜之極言,於此三矣,是為臣者可以逃,為子者可以泣,為交友者亦惆悵而遂絕矣。

鋹書を得て、遂に慎儀を囚え、駅書を以て煜に答え、言甚だ遜らず。煜其の書を上す。

原文鋹得書,遂囚慎儀,驛書答煜,言甚不遜,煜上其書。

開宝三年、太祖、潭州防禦使潘美・朗州団練使尹崇珂を命じて之を討たしむ。八月、師白霞に至る。

原文開寶三年,太祖命潭州防禦使潘美、朗州團練使尹崇珂討之。八月,師至白霞,

鋹の賀州刺史陳守忠、鋹に急を告ぐ。時に旧将多く讒構を以て誅死し、宗室翦滅殆んど尽き、兵を掌る者は唯宦官数輩のみ。晟より以来、遊宴に耽り、城壁壕隥多く宮館池沼と為し飾り、楼艦皆毀ち、兵器又腐り、内外震恐す。乃ち龔澄枢を賀州に遣わし、郭崇嶽を桂州に遣わし、李托を韶州に遣わし、守禦の策を画かしむ。

原文鋹賀州刺史陳守忠告急於鋹。時舊將多以讒構誅死,宗室翦滅殆盡,掌兵者唯宦人數輩。自晟以來,耽於遊宴,城壁壕隍多飾為宮館池沼,樓艦皆毀,兵器又腐,內外震恐。乃遣龔澄樞往賀州,郭崇嶽往桂州,李托往韶州,畫守禦之策。

九月、潘美と尹崇珂は賀州を包囲し、龔澄樞は遁走して帰還した。劉鋹は大将伍彦柔に兵を率いて賀州へ赴かせたが、潘美らは奇兵を南郷の岸に伏せた。伍彦柔が夜間に到着し、舟を岸辺に繋ぎ、夜明け前に弾弓を携えて上陸し、胡床に座って指揮をした。伏兵が突然発起し、伍彦柔の軍は大いに乱れ、死者は千人に及んだ。伍彦柔を生け捕りにして斬り、その首を城中に示した。翌日、城は陥落した。潘美らは戦艦を指揮し、流れに沿って広州へ向かうと声言し、劉鋹は都統潘崇徹に兵五万を率いて賀江に駐屯させた。十月、潘美らは昭州に至り、開建砦を破り、兵卒数百を殺し、砦将靳暉を生け捕りにし、昭州刺史田行稠は遁走し、城は遂に陥落した。桂州刺史李承進も城を棄てて逃走した。十一月、連州が陥落し、招討使盧収は兵を率いて清遠に退き守った。十二月、潘美らは韶州を攻め、都統李承渥は兵数万を蓮華山下に陣取った。初め、劉鋹は象を陣法に訓練し、各象に十数人を乗せ、皆が兵器を持ち、戦う時は必ず陣の前に置いて軍威を壮んにした。この時潘美と遭遇し、潘美は軍中の強弩を尽くして前に並べて射かけ、象は奔り蹴り、象に乗っていた者は皆墜落し、かえって李承渥の軍を踏みつけ、遂に大敗し、李承渥は僅かに身一つで免れた。韶州は陥落し、刺史辛延渥と諫議大夫卿文遠を生け捕りにした。劉鋹は初めて広州の東の壕を掘らせ、郭崇嶽に兵六万を統率させて馬逕に駐屯させ、柵を並べてこれを防がせた。

原文九月,美與崇珂圍賀州,澄樞遁歸。鋹遣大將伍彥柔領兵赴賀,美等以奇兵伏南鄉岸。彥柔夜至,艤舟岸側,遲明挾彈登岸,踞胡床指麾。伏兵卒發,彥柔眾大亂,死者千人。擒彥柔斬之,梟首以示城中。翌日,城陷。美等督戰艦,聲言順流趨廣州,鋹令都統潘崇徹將兵五萬屯賀江。十月,美等次昭州,破開建砦,殺卒數百,擒砦將靳暉,昭州刺史田行稠遁去,城遂陷。桂州刺史李承進棄城亦奔。十一月,連州陷,招討使盧收率眾退保清遠。十二月,美等攻韶州,都統李承渥以兵數萬陣蓮華山下。初,鋹教象為陣,每象載十數人,皆執兵仗,凡戰必置陣前,以壯軍威。至是與美遇,美盡索軍中勁弩布前以射之,象奔踶,乘象者皆墜,反踐承渥軍,遂大敗,承渥僅以身免。韶州陷,擒刺史辛延渥、諫議大夫卿文遠。鋹始令塹廣州東壕,遣郭崇嶽統兵六萬屯馬逕,列柵以拒之。

四年正月、潘美らは英州と雄州を破り、都統潘崇徹が来降した。翌日、瀧頭に至ると、劉鋹は使者を遣わして和を請い、且つ軍の進撃を緩めるよう求めた。瀧頭の山水は険悪であり、潘美らは伏兵があるかと疑い、劉鋹の使者を挟んで速やかに諸々の険阻を通過させた。二月、馬逕を過ぎ、広州城から十里の地点で、双女山の下に砦を築いた。劉鋹はこれを聞き、船舶十余艘を取って、金宝と妃嬪を載せて海へ入ろうとした。未だ発するに及ばず、宦官楽範と衛兵千余人が船舶を盗んで逃走した。潘美らが城に至らんとする時、劉鋹は恐れ、その右僕射蕭漼に表文を奉じて軍門に詣で降伏を乞わせた。潘美は太祖の意を諭したが、その言葉は『潘美伝』にある。使者は部を送って京師に赴くことを乞い、軍は遂に城外に頓した。劉鋹はまたその弟劉保興に百官を率いて奉迎させたが、郭崇嶽に阻まれた。郭崇嶽には謀略も勇気もなく、ただ鬼神に祈り、再び防禦の備えをした。潘美らはそこで進攻し、劉保興が迎え撃ったが、大いに敗北し、潘美は風に乗じて火を放ち、煙埃が湧き立ち、郭崇嶽は乱兵の中で死んだ。城が既に破られると、劉鋹はその府庫を全て焼いた。潘美は劉鋹及び龔澄樞、李托、薛崇譽と宗室・文武九十七人を生け捕りにし、共に龍徳宮に繋いだ。劉保興は民家に逃れたが、これも捕らえ、悉く部を送って京師に至らせた。宦官の職工五百余人を斬った。凡そ州六十、県二百十四、戸十七万を得た。劉鋹が江陵に至ると、邸吏の龐師進が迎え謁し、学士黄徳昭が劉鋹に侍った。劉鋹が龐師進は何者かと問うと、黄徳昭は言った、「本国の人です」。劉鋹が言った、「何故ここにいるのか」。答えて言った、「先主が毎年大朝に貢ぎ、輜重が荊州に至る度に、龐師進を邸に至らせ、ここで車を造り、糧秣輸送に供したのです」。劉鋹は嘆息して言った、「私は位に十四年在ったが、未だかってこの言葉を聞いたことがなかった。今日初めて祖宗の山河及び大朝の境土を知った」。因って久しく泣き涙ぐんだ。

原文四年正月,美等破英、雄二州,都統潘崇徹來降。翌日,次瀧頭,鋹遣使請和,且求緩師。瀧頭山水險惡,美等疑有伏兵,乃挾鋹使速度諸險。二月,過馬逕,去廣城十里,砦於雙女山下。鋹聞之,取舶船十餘艘,載金寶、妃嬪欲入海。未及發,宦官樂範與衛兵千餘盜舶船走。美等將至城,鋹懼,遣其右僕射蕭漼奉表詣軍門乞降。美諭太祖意,語在《美傳》。使者乞部送赴闕,師遂頓城外。鋹又遣其弟保興率百官奉迎,為郭崇嶽所遏。崇嶽無謀勇,但祈禱鬼神,復為拒捍之備。美等乃進攻,保興迎戰,大為所敗,美乘風縱火,煙埃坌起,崇嶽死於亂兵。城既破,鋹盡焚其府庫。美擒鋹及龔澄樞、李托、薛崇譽與宗室文武九十七人,同縻於龍德宮。保興逃於民家,亦獲之,悉部送闕下。斬閹工五百餘人。凡得州六十、縣二百十四、戶十七萬。鋹至江陵,邸吏龐師進迎謁,學士黃德昭侍鋹,鋹問師進何人,德昭曰:「本國人也。」鋹曰:「何為在此?」曰:「先主歲貢大朝,輜重比至荊州,乃令師進至邸,於此造車,以給饋運爾。」鋹歎曰:「我在位十四年,未嘗聞此言,今日始知祖宗山河及大朝境土也。」因泣涕久之。

京師に至り、玉津園に宿泊した。太祖は参知政事呂余慶を遣わして劉鋹の翻覆及び府庫焼却の罪を問わせた。劉鋹は罪を龔澄樞、李托、薛崇譽に帰した。翌日、役人が帛で劉鋹とその官属を縛り、太廟と太社に献じた。太祖は明徳門に御し、摂刑部尚書盧多遜に詔を宣して劉鋹を責めさせた。劉鋹は答えて言った、「臣は十六歳で僭偽の位に就き、龔澄樞らは皆先臣の旧人であり、何事も臣は専断できず、国に在った時は臣は臣下であり、龔澄樞が国主でした」。遂に地に伏して罪を待った。太祖は摂大理卿高継申に命じて龔澄樞、李托、薛崇譽を千秋門外に引き出して斬らせた。劉鋹の罪を赦し、襲衣、冠帯、器幣、鞍勒馬を賜い、金紫光禄大夫、検校太保、右千牛衛大将軍、員外置同正員を授け、恩赦侯に封じ、朝会の班は上将軍の下とした。その弟劉保興を右監門率府率とし、左僕射蕭漼を太子中允とし、中書舎人卓惟休を太僕寺丞とし、その余は皆諸州の上佐、県令、主簿に任じた。

原文至京,舍於玉津園,太祖遣參知政事呂餘慶問鋹翻覆及焚府庫之罪,鋹歸罪澄樞、托、崇譽。翌日,有司以帛係鋹及其官屬獻太廟、太社。太祖禦明德門,遣攝刑部尚書盧多遜宣詔責鋹,鋹對曰:「臣年十六僭偽位,澄樞等皆先臣舊人,每事臣不得專,在國時臣是臣下,澄樞是國主。」遂伏地待罪。太祖命攝大理卿高繼申引澄樞、托、崇譽斬於千秋門外。釋鋹罪,賜襲衣、冠帶、器幣、鞍勒馬,授金紫光祿大夫、檢校太保、右千牛衛大將軍、員外置同正員,封恩赦侯,朝會班上將軍之下。以其弟保興為右監門率府率,左僕射蕭漼為太子中允,中書舍人卓惟休為太僕寺丞,餘並署諸州上佐、縣令、主簿。

初め、劉龑の時に司天監周傑を召して占わせたところ、『復』の卦から『豊』の卦に遇った。劉龑が問うて言った、「享年は幾何か」。周傑は言った、「凡そ二卦は皆土が応じ、土の数は五、二五は十、上下各五で、五百五十五となるでしょう」。そして劉鋹が敗れた時、果たして五十五年であり、周傑が成数を挙げて一時の害を避けたのであろう。また広州の童謡に言う、「羊頭二四、白天雨至」。識者は羊は未の神であり、この年は辛未に在り、二月四日に劉鋹を擒えた。天雨とは、王師が時雨の如き意味である。また前年の九月八日の夕、衆星が皆北に流れ、星を知る者が言うには、劉氏が朝廷に帰する兆しであると。

原文初,〓時嘗召司天監周傑筮之,遇《復》之《豐》,〓問曰:「享年幾何?」傑曰:「凡二卦皆土為應,土之數五,二五,十也,上下各五,將五百五十五乎。」及鋹之敗,果五十五年,蓋傑舉成數以避一時之害爾。又廣州童謠曰:「羊頭二四,白天雨至。」識者以羊是未之神,是歲歲在辛未,以二月四日擒鋹。天雨者,王師如時雨之義。又前一年九月八日夕,眾星皆北流,有知星者言,劉氏歸朝之兆也。

四年、詔して劉鋹の月給を銭五万、米麦五十斛増やした。八年、李煜が平定されると、左監門衛上将軍に遷り、進んで彭城郡公に封ぜられた。太平興国初年、また進んで衛国公となった。五年、卒去、三十九歳。三日間朝を廃し、太師を贈り、追封して南越王とした。

原文四年,詔鋹月給增錢五萬、米麥五十斛。八年,李煜平,遷左監門衛上將軍,進封彭城郡公。太平興國初,又進衛國公。五年,卒,年三十九。廢朝三日,贈太師,追封南越王。

劉鋹は体質が豊かで肥え、眉目共に聳え立っていた。弁舌に優れ、性来極めて巧妙で、嘗て珠を連ねて鞍勒を結び、戯れる龍の形状とし、その精妙を極め、太祖に献上した。太祖は詔して諸々の宮官に示させたが、皆驚き畏服し、遂に銭百五十万をその価値として与え、左右の臣に謂って言った、「劉鋹は工巧を好み、習い以て性と成した。もし習巧の勤めを治国に移すことができたならば、豈に滅亡に至らんや」。

原文鋹體質豐碩,眉目俱竦。有口辯,性絕巧,嘗以珠結鞍勒為戲龍之狀,極其精妙,以獻太祖。太祖詔示諸宮官,皆駭伏,遂以錢百五十萬給其直,謂左右臣曰:「鋹好工巧,習以成性,儻能以習巧之勤移於治國,豈至滅亡哉!」

太祖は嘗て肩輿に乗り十数騎を従えて講武池に幸し、従官が未だ集まらぬうちに、劉鋹が先に至ったので、劉鋹に卮酒を賜った。劉鋹は毒であるかと疑い、泣いて言った、「臣は祖父の基業を承け、朝廷に違拒し、王師を労して討伐を致させ、罪は固より死に当たります。陛下は臣を殺さず、今太平を見、大梁の布衣たるに足ります。願わくは旦夕の命を延ばし、以て陛下の生成の恩を全うせんことを。臣は未だこの酒を飲むことを敢えません」。太祖は笑って言った、「朕は心を人腹に推す、安んぞ此の事あらんや」。劉鋹の酒を取って自ら飲むよう命じ、別に酌んで賜うと、劉鋹は大いに慚じて頓首して謝した。

原文太祖嘗乘肩輿從十數騎幸講武池,從官未集,鋹先至,賜鋹卮酒。鋹疑為冘,泣曰:「臣承祖父基業,違拒韓廷,勞王師致討,罪固當死,陛下不殺臣,今見太平,為大梁布衣足矣。願延旦夕之命,以全陛下生成之恩,臣未敢飲此酒。」太祖笑曰:「朕推心於人腹,安有此事!」命取鋹酒自飲之,別酌以賜,鋹大慚頓首謝。

太宗が将に晋陽を討たんとし、近臣を召して宴し、劉鋹もこれに預かった。劉鋹は自ら言った、「朝廷の威霊は遠くに及び、四方の僭窃の主は、今日尽く座中に在り、旦夕に太原を平らげれば、劉継元もまた至りましょう。臣は率先して来朝し、願わくは梃を執って諸国の降王の長とならんことを」。太宗は大笑いし、賞賜は甚だ厚かった。その詼諧はこの類である。

原文太宗將討晉陽,召近臣宴,鋹預之,自言:「朝廷威靈及遠,四方僭竊之主,今日盡在坐中,旦夕平太原,劉繼元又至,臣率先來朝,願得執梃為諸國降王長。」太宗大笑,賞賜甚厚。其詼諧此類也。

劉鋹の子、劉守節、劉守正は皆崇儀副使に至った。劉守正が卒去すると、帝はその家が貧しいと聞き、詔して月に万銭を給した。劉守素は咸平年間に侍禁となり、これも貧しく、真宗は白金百両を賜い、宰相に語って言った、「諸偽主の子孫は率多く窘迫している。僭侈の後に稼穡の艱難を知らざるに致る所である」。後に内殿崇班に至り、天禧年間、また録して閣門祗候とした。劉守通は供奉官である。劉守正の子、劉克昌は三班奉職となり、劉国昌は借職となった。

原文鋹子守節、守正,皆至崇儀副使。守正卒,帝聞其家貧,詔月給萬錢。守素,咸平中為侍禁,亦貧,真宗賜白金百兩,語宰相曰:「諸偽主子孫率多窘迫,蓋僭侈之後不知稼穡艱難所致也。」後至內殿崇班,天禧中,又錄為閣門祗候。守通,供奉官。守正子克昌,為三班奉職;國昌,為借職。

龔澄樞は広州南海の人なり。性質廉直謹厳にして、妄りに交遊せず。幼くして〓(劉龑)に事へて内供奉官となり、累遷して内給事に至る。劉晟が位を襲ぐや、宦官林延遇を甘泉宮使に任じ、頗る政事に預からしむ。延遇病みて将に死せんとし、晟に言ふ、「臣死すとも、惟だ龔澄樞を用ふべし」と。即日擢て承宣院を知り兼ねて内侍省に任じ、徳陵使兼龍徳宮使に改む。劉鋹位を嗣ぐや、特進・開府儀同三司・万華宮使・驃騎大将軍を加へられ、上将軍・左龍虎軍観軍容使・内太師に改めらる。軍国の務め皆澄樞に決す。澄樞は李托・薛崇譽と酷法の具を設け、民甚だ之を苦しむ。

原文龔澄樞,廣州南海人。性廉謹,不妄交遊。幼事〓為內供奉官,累遷內給事。晟襲位,任閹人林延遇為甘泉宮使,頗預政事。延遇病將死,言於晟曰:「臣死,惟龔澄樞可用。」即日擢知承宣院兼內侍省,改德陵使兼龍德宮使。鋹嗣位,加特進、開府儀同三司、萬華宮使、驃騎大將軍,改上將軍、左龍虎軍觀軍容使、內太師,軍國之務皆決於澄樞。澄樞與李托、薛崇譽置酷法之具,民甚苦之。

初め、劉岩(龑)名を龔と改む。術者の言ふ有り、「不利なり。名を龔とすれば、当に国事を敗らん」と。遂に名を〓(龑)と改む。後に劉鋹澄樞を用ふるに、其の姓を以て卒に其の国を亡ぼす。澄樞亦誅せらる。

原文初,岩改名龔,有術者言不利,名龔,當敗國事,遂改名〓。後鋹用澄樞,以其姓卒亡其國,澄樞亦被誅。

李托は封州封川の人なり。少くして騎射を習ひ、謹願を以て〓(劉龑)に事へて内府局令となる。劉晟位を襲ぐや、遷りて内侍省内侍となり、宮闈諸衛押番を充て兼ねて秀華宮使と為る。劉鋹立つや、玩華宮使・内侍監兼列聖・景陽二宮使に改む。托二女を劉鋹に納る。鋹其の長を貴妃と為し、次を美人と為す。政事皆托に訪ひて後に行ふ。特進・開府儀同三司・甘泉宮使兼六軍観軍容使・行内中尉を加へられ、遷りて驃騎上将軍・内太師と為る。

原文李托,封州封川人。少習騎射,以謹願事〓為內府局令。晟襲位,遷內侍省內侍,充宮闈諸衛押番兼秀華宮使。鋹立,改玩華宮使、內侍監兼列聖、景陽二宮使。托納二女於鋹,鋹以其長為貴妃,次為美人,政事皆訪托而後行。加特進、開府儀同三司、甘泉宮使兼六軍觀軍容使、行內中尉,遷驃騎上將軍、內太師。

太祖師を命じて劉鋹を伐つ。既に韶州を克つ。統軍使李承渥戦死し、節度副使辛延渥間道より人を遣はし劉鋹を勧めて降らしむ。托堅く其の議を沮ぐ。及て擒へられて許田に至る。太祖使者を遣はして托等に問ふ、「昨已に降を約し、復た衆を率ひ来たりて拒戦し、軍敗るるに及び又火を放ち府庫を焚く。誰か之が謀を為す者ぞ」と。托俯首して対ふる能はず。劉鋹の諫議大夫王珪托に謂ひて曰く、「昔広州に在りし時、機務並びに爾輩の専らにするところ、火又内より起る。今天子使者を遣はして案問す。爾復た過ちを何人に推さんと欲するか」と。遂に唾して其の頬を批つ。托乃ち伏罪を引く。後に京師に至りて之を斬る。

原文太祖命師伐鋹,既克韶州,統軍使李承渥戰死,節度副使辛延渥間道遣人勸鋹降,托堅沮其議。及就擒至許田,太祖遣使問托等:「昨已約降,復率眾來拒戰,及軍敗又縱火焚府庫,誰為之謀也?」托俯首不能對。鋹諫議大夫王珪謂托曰:「昔在廣州,機務並爾輩所專,火又自內起,今天子遣使案問,爾復欲推過何人?」遂唾而批其頰,托乃引伏,後至京斬之。

薛崇譽は韶州曲江の人なり。『孫子五曹算』に善し。劉晟之を署して内門使兼太倉使と為す。劉鋹位を嗣ぐや、遷りて内中尉・特進・開府儀同三司・簽書点検司事と為る。太祖師を命じて広州を克つ。崇譽火を放ち倉廩を焚く。擒へられて京師に至り、李托と同く戮せらる。

原文薛崇譽,韶州曲江人。善《孫子五曹算》。晟署為內門使兼太倉使。鋹嗣位,遷內中尉、特進、開府儀同三司、簽書點檢司事。太祖命師克廣州,崇譽縱火焚倉廩,擒至京,與李托同戮。

潘崇徹は広州南海の人なり。〓(劉龑)に事へて内侍省局丞と為る。頗る兵書を読み、戦功を立てる。劉晟嘗て大将吳懷恩を遣はし桂州を伐たしめて之を平らぐ。懷恩部下に殺さる。命じて崇徹をして之に代はらしむ。劉鋹位を襲ぐや、西北面都統を加ふ。歳余りて、劉鋹頗る崇徹を疑ひ、薛宗譽を遣はして其の軍に使はしめ以て之を察せしむ。崇譽還りて、遂に崇徹が日に伶人百余に錦繡を衣せしめ、玉笛を吹かしめ、長夜の飲を為し、軍政を恤みざるを白す。劉鋹怒り、召し帰し、其の兵柄を奪ふ。是より居常怏怏たり。太祖師を命じて嶺を度らしむ。劉鋹復た崇徹に命じ兵五万を領して賀江を戍らしむ。崇徹効命せず。劉鋹敗れ、京師に至る。太祖其の事を知り、特に之を赦し、汝州別駕を授く。卒す。

原文潘崇徹,廣州南海人。事〓為內侍省局丞。頗讀兵書,立戰功。晟嘗遣大將吳懷恩伐桂州平之,懷恩為部下所殺,命崇徹代之。鋹襲位,加西北面都統。歲餘,鋹頗疑崇徹,遣薛宗譽使其軍以察之。崇譽還,遂白崇徹日以伶人百餘衣錦繡、吹玉笛,為長夜之飲,不恤軍政。鋹怒,召歸,奪其兵柄,自是居常怏怏。太祖命師度嶺,鋹復命崇徹領兵五萬戍賀江,崇徹不為效命。鋹敗,至京,太祖知其事,特赦之,授汝州別駕,卒。