◎世家四○南漢劉氏
鋹は即ち晟の長子である。初め名を継興と称し、衛王に封ぜられ、父の位を襲い、今の名に改め、元号を大寶と改めた。性は昏懦であり、政を宦官の龔澄樞及び才人の盧瓊仙に委ね、毎に詳らかに可否を覧るも、皆瓊仙が指図した。鋹は日々宮人・波斯女等と遊戯した。内官の陳延壽が女巫の樊胡を引き入れて宮中に入らせ、玉皇が樊胡を遣わして鋹を太子皇帝に命じたと言い、乃ち宮中に帷幄を施し、珍玩を羅列し、玉皇の座を設けた。樊胡は遠遊冠・紫衣・紫霞裙を着け、坐して禍福を宣べ、鋹に再拝して命を聴かせた。嘗て瓊仙・澄樞・延壽は皆玉皇が遣わして太子皇帝を輔ける者であり、過ちがあっても治めてはならないと言った。また梁山師・馬媼・何擬の徒が宮掖に出入りした。宮中の婦人は皆冠帯を具え、外事を領した。
初め、〓(龔)は中官を寵任したが、その数は僅か三百余りで、位は掖庭諸局の令丞を過ぎなかった。晟の時に至って千余人となり、内常侍・諸謁者の称が稍々増えた。鋹の時に至って漸く七千余りに及び、三師・三公となる者もあったが、ただその上に「内」の字を加え、諸使の名は二百に止まらず、女官にも師傅・令仆の号があった。百官を「門外人」と目し、群臣の小過や士人・釈・道で才略があり問いに備えられる者は、皆蠶室に下し、宮闈に出入りすることを得させた。焼煮剝剔・刀山剣樹の刑を作り、或いは罪人に虎と闘わせ象に当たらせた。また賦斂は煩重で、邕州の民で城に入る者は一人一銭を輸納し、瓊州では米一斗に税四五銭を課した。媚川都を置き、その課を定め、海に入ること五百尺で珠を採らせた。居る宮殿は珠・玳瑁で飾った。陳延壽は諸々の淫巧を作り、日費数万金を費やした。宮城の左右に離宮数十があり、鋹の遊幸は常に月余り或いは旬日に及んだ。豪民を課戸として、宴犒の費を供えさせた。
乾徳年中、太祖が師を命じて郴州を克たせ、その内品十余りを獲た。余延業という者がおり、人質は麼麽であった。太祖が問うて曰く、「爾は嶺南で何の官であったか」と。対えて曰く、「扈駕弓箭手官でございました」と。弓矢を授けることを命じると、延業は極力弓弦を控えても開かなかった。太祖は因って笑って鋹の為政の跡を問うと、延業はその奢酷を備えて言い、太祖は驚駭して曰く、「吾は当に此の一方の民を救わん」と。
先に、晟は湖南の馬氏の乱に因り、桂・郴・賀等の州を襲い取った。開寶初年、鋹は又兵を挙げて道州を侵し、刺史の王継勳が上言した。鋹が為政昏暴で、民はその毒に被り、討つことを請うた。太祖はその事を難しく思い、江南の李煜に使いを遣わして書を以て鋹を諭し、臣を称して湖南の旧地を帰還させるよう命じた。鋹は従わなかった。煜は又その給事中龔慎儀を遣わして書を遺わし曰く、
煜と足下は累世の睦みに叨り、祖考の盟を継ぎ、情は弟兄の若く、義は交契を敦くし、憂戚の患い、何ぞ嘗て同じからざらん。毎に会面して此の懐を論じ、抵掌して此の事を談じ、交えて其の短を議し、各々其の長を陳べ、中心を釈然とさせ、利害を惑わずせんことを思う。然るに相去ること万里、此の願い伸びず。凡そ事機に於いて款会を得ず、屡々誠素を達し、此の心を明らかにせんことを冀う。而るに足下之を視て、書檄一時の儀、近国梗概の事と謂い、外貌して之を待ち、氾濫して之を観、忠告確論を水石に投ずるが如くせしむ。若し此くの如くんば、則ち又何必ぞ虚詞を事として往復を労せんや。殊に宿心の望む所に非ざるなり。
今則ち復た人使を遣わし鄙懐を罄し申さんとす。又慮うらくは行人辞を失い、深素を尽くさざるを。是を以て再び翰墨を寄せ、重ねて腹心を布き、以て会面の談と抵掌の議とに代えんとす。足下誠に其の言を聴くこと交友諫爭の言の如くし、其の心を視ること親戚急難の心の如くせば、然る後に其の言を三復し、其の心を三思せば、則ち忠なるか忠ならざるか、斯に見るべく、従うか従わざるか、斯に決すべし。
昨、大朝の南伐に以り、楚疆を復さんと図り、交兵已来、遂に釁隙を成す。事勢を詳観し、深切に憂懐し、大朝の兵を息め、親仁の願いに契わんことを冀い、領を南に望むこと、今に累年なり。臨みて昨、使臣をして大朝に入貢せしむるに、大朝皇帝果たして此の事を以て宣示して曰く、「彼若し事大の礼を以て我に事うれば、則ち何の苦しみか有って之を伐たん。若し戎を興して我と爭わんと欲すれば、則ち必取を以て度とせん」と。見る今、大衆を点閲し、仍って上秋を期とし、弊邑をして書を以て前意を復叙せしむ。是を用いて人使を奔走せしめ、遽かに直言を貢す。深く料るに大朝の心は唯利の貪り有るに非ず、蓋し人の賓たらざるを怒るのみ。足下は已むを得ざるの事と易え難き謀い有るに非ず、殆ど一時の忿りのみ。
夫れ古の武を用うる者を観るに、小大強弱の殊を顧みずして必ず戦う者に四有り。父母宗廟の仇、此れ必戦なり。彼此烏合し、民定心無く、存亡の機戦を以て命と為す、此れ必戦なり。敵人有って進み、必ず我を捨てず、和を求め得ず、退き守るに路無く、戦えば亦亡び、戦わざれば亦亡び、奮いて命を顧みず、此れ必戦なり。彼に天亡の兆有り、我に進取の機を懐く、此れ必戦なり。今足下と大朝とは父母宗廟の仇有るに非ず、烏合存亡の際と同じからず、既に進退捨てず奮いて命を顧みざるに殊なり、又機に乗じて進取するの時に異なり。故無くして坐して天下の兵を受け、将に一旦の命を決せんとす。既に大朝は通好を許すと雖も、又拒みて従わず。国家を有し、社稷を利する者は当に此くの如くならんや。
帝と称し王と称し、傑出して角立するは、古今の常事なり。地を割きて通好し、玉帛を以て人に事うるも、また古今の常事なり。盈虚消息・取与翕張、屈伸万端、我に在るのみ、何ぞ必ずしも柱に膠して壮を用い、禍を軽んじて雄を争わんや。且つ足下は英明の姿を以て、百越の衆を撫で、北は五嶺を距け、南は重溟を負い、累世の基を藉り、民に及ぶの沢有り、衆数十万、山川を表裏す、これ足下が慨然として自ら負う所以なり。然れども天に違うは祥ならず、戦を好むは危き事、天方に楚を相う、未だ争うべからず。恭しく大朝の師武臣力を以て、実に天の賛する所と謂う。太行に登りて上党を伐つに、士に難色無く、剣閣を絶ちて庸蜀を挙ぐるに、役時を淹めず。是れ大朝の力測り難きを知り、万里の境保ち難きを知るなり。十戦して九勝すとも、一敗も憂うべく、六奇して五中すとも、一失何をか補わん。
況んや人は自ら我が国の険を以てし、家は自ら我が兵の強きを以てす、蓋し此れを揣りて彼れを揣らず、其の成を経て未だ其の敗を経ざるなり。何となれば、国は剣閣より険なる莫く、而るに庸蜀は已に亡び、兵は上党より強き莫く、而るに太行は守らず。人の情、端坐して之を思うに、滄海も渉るべしと意えども、風濤驟に興り、舟の奔るに馭を失うに及びては、夫の坐思の時と蓋し殊なる有り。是を以て智者は未萌に慮り、機者は其の先見を重んず。難きを其の易きに図り、存に居りて亡を忘れず、故に禍を計るは及ばず、福を慮るは之を過ぐと曰う。良に福は人の楽しむ所、心之を楽む、故に其の望や過ぎ、禍は人の悪む所、心之を悪む、故に其の思や忽なり。是を以て福は或いは慊望に修まり、禍は多く不期に出づ。
又た或いは功を矜り名を好むの臣有りて、主を尊び国を強くするの議を献ずる者を慮るに、必ず曰く、「慎んで和する無かれ。五嶺の険、山高く水深く、輜重並行せず、士卒列を成さず。高く壘り野を清めて其の糧を運ぶを絶ち、山に依り水に阻みて強弩を以て射れば、進むに所得無く、退くに帰る所無からしめん」と。これ其の一なり。又た或いは曰く、「彼の長とする所は、平地に利有り。今其の長きを捨て、其の短きに就くは、百万の衆有ると雖も、我を如何ともする無からん」と。これ其の二なり。其の次に或いは曰く、「戦いて勝てば、則ち覇業成る可く、戦いて勝たざれば、則ち巨舟に泛び滄海に浮かび、終に人の下と為らじ」と。此れ大約皆説士の孟浪の談、謀臣の捭闔の策、坐して之を論ずるは則ち易く、行いて意の如くするは則ち難し。
何となれば、今荊湘以南・庸蜀の地は、皆山水に便なり、険阻を習うの民、中国の兵を動かさずして、精卒已に十万を踰えたり。況んや足下と大朝とは封疆接畛し、水陸途を同じくし、殆ど鶏犬の相聞く、豈に馬牛の及ばざらんや。一旦辺縁に縁りて悉く挙げ、諸道進攻せば、豈に俱に其の糧を運ぶを絶ち、尽く其の城壁を保つべけんや。若し諸険悉く固ければ、誠に善きこと加うる莫し。苟くも尺水横流せば、則ち長堤虚設なり。其の次に曰く、或いは大朝、呉越の衆を用い、泉州より海を泛ぎて国都に趣かば、則ち数日を経ずして城下に至らん。其の人心疑惑し、兵勢動揺する時に当たりては、岸上の舟中皆敵国と為り、忠臣義士復た幾人か能くあらん。進退を懐う者は步步に心を生じ、妻子を顧みる者は滔滔として是れのみ。変故測り難く、須臾万端、暫く始図に乖るのみに非ず、実に壮誌を誤るを恐る。又た巨舟の及ぶ可く、滄海の遊ぶ可きに非ず。然れども此等は皆戦伐の常事、兵家の預謀、勝負未だ知らずと雖も、成敗相半ばす。苟くも已むを得ずして為すは、固より断ずるに不疑に在り。若し大故無くして之を思わば、又た深く痛惜す可し。
且つ小の大に事うるは、理固然なり。遠古の例は備えて談ずべからず、本朝当に楊氏の呉を建つる時、亦た荘宗に入貢せり。恭しく自ら烈祖基を開き、中原多故、事大の礼、因循未だ遑あらず、以て兵を交うるに至り、幾ば危殆を成さんとす。大江の険に憑り、衆多の力を恃まんと欲せざるに非ず、尋いで難きを知れば則ち退くを悟り、遂に出境の盟を修む。一介の使纔に行けば、万里の兵頓に息み、民を恵み衆を和し、今に之に頼る。足下の祖徳の基を開くより、亦た中国に通好し、以て覇図を闡く。願わくは祖宗の謀を修め、以て中国の好を尋ね、益無き忿を蕩し、急がざる争を棄て、存を知り亡を知り、能く強く能く弱く、己を屈して億兆を済い、談笑して国家を定め、至徳大業虧くる無く、宗廟社稷損する無からしめん。玉帛朝聘の礼纔に境を出でて、而して天下の兵已に息まん、豈に反掌の如く易く、太山の如く固からざらんや。何ぞ必ずしも腕を扼み衡を盱み、腸を履み血を蹀して、然る後に勇と為らん。故に曰く、「徳は毛の如し、民鮮く能く之を挙ぐ、我儀図る」と。又た曰く、「止まるを知れば殆うからず、以て長久たるべし」と。又た曰く、「沈潜剛克、高明柔克」と。これ聖賢の事業、何ぞ恥じて為さざらん。
況んや大朝皇帝は命世の英を以て、中夏に光宅し、五運を承けて乃ち正統に当たり、四方を度れば則ち咸く下風に偃す。獫狁・太原固より薄伐に労せず、南轅返旆更に何人の属するに在らん。又た方に且つ天下の兵鋒を遏え、貴国の嘉問を俟つ。則ち大国の義斯に亦た以て善く、足下の忿も亦た以て息む可し。若し介然として移らざれば、宗廟社稷に利有れば可なり、黎元に利有れば可なり、天下に利有れば可なり、身に利有れば可なり。凡そ是の四者に一の利も無ければ、何を用いて徳を棄て怨を修め、自ら仇敵を生じ、赫赫たる南国をして将に禍機と成らしめ、炎炎たる奈何、其れ邇くに向かうべけんや。幸にして小勝すとも、其の後を保つ莫く、不幸にして心に違わば、則ち大事去らん。
復た念うに頃者淮・泗兵を交え、疆陲多壘、呉越は累世の好を以て、遂に首として厲階と為る。惟だ貴国の情分親を踰え、歓盟愈篤く、先朝に在りて義に感じ、情実慨然たり。下走基を承け、理徳に負くる難く、已む能わず、又た此の緘を馳す。近く大朝の諭旨を奉ずるに、足下に通好の心無くば、必ず上秋の役を挙げんと為し、即ち弊邑に命じて速やかに連盟を絶たしむとす。善隣の心は、永保を期すと雖も、事大の節は、焉んぞ敢えて固く違わん。煜の足下に事うるを得ざらんことを恐る。是を以て惻惻の意雲う能わざる所、区々の誠是れに在り。又た臣子の情を念うに、尚三諫を踰えず、煜の極言、此れに於いて三たり。是れ臣と為る者は逃る可く、子と為る者は泣く可く、交友と為る者も亦た惆悵として遂に絶つ。
鋹書を得て、遂に慎儀を囚え、駅書を以て煜に答え、言甚だ遜らず。煜其の書を上す。
鋹の賀州刺史陳守忠、鋹に急を告ぐ。時に旧将多く讒構を以て誅死し、宗室翦滅殆んど尽き、兵を掌る者は唯宦官数輩のみ。晟より以来、遊宴に耽り、城壁壕隥多く宮館池沼と為し飾り、楼艦皆毀ち、兵器又腐り、内外震恐す。乃ち龔澄枢を賀州に遣わし、郭崇嶽を桂州に遣わし、李托を韶州に遣わし、守禦の策を画かしむ。
九月、潘美と尹崇珂は賀州を包囲し、龔澄樞は遁走して帰還した。劉鋹は大将伍彦柔に兵を率いて賀州へ赴かせたが、潘美らは奇兵を南郷の岸に伏せた。伍彦柔が夜間に到着し、舟を岸辺に繋ぎ、夜明け前に弾弓を携えて上陸し、胡床に座って指揮をした。伏兵が突然発起し、伍彦柔の軍は大いに乱れ、死者は千人に及んだ。伍彦柔を生け捕りにして斬り、その首を城中に示した。翌日、城は陥落した。潘美らは戦艦を指揮し、流れに沿って広州へ向かうと声言し、劉鋹は都統潘崇徹に兵五万を率いて賀江に駐屯させた。十月、潘美らは昭州に至り、開建砦を破り、兵卒数百を殺し、砦将靳暉を生け捕りにし、昭州刺史田行稠は遁走し、城は遂に陥落した。桂州刺史李承進も城を棄てて逃走した。十一月、連州が陥落し、招討使盧収は兵を率いて清遠に退き守った。十二月、潘美らは韶州を攻め、都統李承渥は兵数万を蓮華山下に陣取った。初め、劉鋹は象を陣法に訓練し、各象に十数人を乗せ、皆が兵器を持ち、戦う時は必ず陣の前に置いて軍威を壮んにした。この時潘美と遭遇し、潘美は軍中の強弩を尽くして前に並べて射かけ、象は奔り蹴り、象に乗っていた者は皆墜落し、かえって李承渥の軍を踏みつけ、遂に大敗し、李承渥は僅かに身一つで免れた。韶州は陥落し、刺史辛延渥と諫議大夫卿文遠を生け捕りにした。劉鋹は初めて広州の東の壕を掘らせ、郭崇嶽に兵六万を統率させて馬逕に駐屯させ、柵を並べてこれを防がせた。
四年正月、潘美らは英州と雄州を破り、都統潘崇徹が来降した。翌日、瀧頭に至ると、劉鋹は使者を遣わして和を請い、且つ軍の進撃を緩めるよう求めた。瀧頭の山水は険悪であり、潘美らは伏兵があるかと疑い、劉鋹の使者を挟んで速やかに諸々の険阻を通過させた。二月、馬逕を過ぎ、広州城から十里の地点で、双女山の下に砦を築いた。劉鋹はこれを聞き、船舶十余艘を取って、金宝と妃嬪を載せて海へ入ろうとした。未だ発するに及ばず、宦官楽範と衛兵千余人が船舶を盗んで逃走した。潘美らが城に至らんとする時、劉鋹は恐れ、その右僕射蕭漼に表文を奉じて軍門に詣で降伏を乞わせた。潘美は太祖の意を諭したが、その言葉は『潘美伝』にある。使者は部を送って京師に赴くことを乞い、軍は遂に城外に頓した。劉鋹はまたその弟劉保興に百官を率いて奉迎させたが、郭崇嶽に阻まれた。郭崇嶽には謀略も勇気もなく、ただ鬼神に祈り、再び防禦の備えをした。潘美らはそこで進攻し、劉保興が迎え撃ったが、大いに敗北し、潘美は風に乗じて火を放ち、煙埃が湧き立ち、郭崇嶽は乱兵の中で死んだ。城が既に破られると、劉鋹はその府庫を全て焼いた。潘美は劉鋹及び龔澄樞、李托、薛崇譽と宗室・文武九十七人を生け捕りにし、共に龍徳宮に繋いだ。劉保興は民家に逃れたが、これも捕らえ、悉く部を送って京師に至らせた。宦官の職工五百余人を斬った。凡そ州六十、県二百十四、戸十七万を得た。劉鋹が江陵に至ると、邸吏の龐師進が迎え謁し、学士黄徳昭が劉鋹に侍った。劉鋹が龐師進は何者かと問うと、黄徳昭は言った、「本国の人です」。劉鋹が言った、「何故ここにいるのか」。答えて言った、「先主が毎年大朝に貢ぎ、輜重が荊州に至る度に、龐師進を邸に至らせ、ここで車を造り、糧秣輸送に供したのです」。劉鋹は嘆息して言った、「私は位に十四年在ったが、未だかってこの言葉を聞いたことがなかった。今日初めて祖宗の山河及び大朝の境土を知った」。因って久しく泣き涙ぐんだ。
京師に至り、玉津園に宿泊した。太祖は参知政事呂余慶を遣わして劉鋹の翻覆及び府庫焼却の罪を問わせた。劉鋹は罪を龔澄樞、李托、薛崇譽に帰した。翌日、役人が帛で劉鋹とその官属を縛り、太廟と太社に献じた。太祖は明徳門に御し、摂刑部尚書盧多遜に詔を宣して劉鋹を責めさせた。劉鋹は答えて言った、「臣は十六歳で僭偽の位に就き、龔澄樞らは皆先臣の旧人であり、何事も臣は専断できず、国に在った時は臣は臣下であり、龔澄樞が国主でした」。遂に地に伏して罪を待った。太祖は摂大理卿高継申に命じて龔澄樞、李托、薛崇譽を千秋門外に引き出して斬らせた。劉鋹の罪を赦し、襲衣、冠帯、器幣、鞍勒馬を賜い、金紫光禄大夫、検校太保、右千牛衛大将軍、員外置同正員を授け、恩赦侯に封じ、朝会の班は上将軍の下とした。その弟劉保興を右監門率府率とし、左僕射蕭漼を太子中允とし、中書舎人卓惟休を太僕寺丞とし、その余は皆諸州の上佐、県令、主簿に任じた。
初め、劉龑の時に司天監周傑を召して占わせたところ、『復』の卦から『豊』の卦に遇った。劉龑が問うて言った、「享年は幾何か」。周傑は言った、「凡そ二卦は皆土が応じ、土の数は五、二五は十、上下各五で、五百五十五となるでしょう」。そして劉鋹が敗れた時、果たして五十五年であり、周傑が成数を挙げて一時の害を避けたのであろう。また広州の童謡に言う、「羊頭二四、白天雨至」。識者は羊は未の神であり、この年は辛未に在り、二月四日に劉鋹を擒えた。天雨とは、王師が時雨の如き意味である。また前年の九月八日の夕、衆星が皆北に流れ、星を知る者が言うには、劉氏が朝廷に帰する兆しであると。
四年、詔して劉鋹の月給を銭五万、米麦五十斛増やした。八年、李煜が平定されると、左監門衛上将軍に遷り、進んで彭城郡公に封ぜられた。太平興国初年、また進んで衛国公となった。五年、卒去、三十九歳。三日間朝を廃し、太師を贈り、追封して南越王とした。
劉鋹は体質が豊かで肥え、眉目共に聳え立っていた。弁舌に優れ、性来極めて巧妙で、嘗て珠を連ねて鞍勒を結び、戯れる龍の形状とし、その精妙を極め、太祖に献上した。太祖は詔して諸々の宮官に示させたが、皆驚き畏服し、遂に銭百五十万をその価値として与え、左右の臣に謂って言った、「劉鋹は工巧を好み、習い以て性と成した。もし習巧の勤めを治国に移すことができたならば、豈に滅亡に至らんや」。
太祖は嘗て肩輿に乗り十数騎を従えて講武池に幸し、従官が未だ集まらぬうちに、劉鋹が先に至ったので、劉鋹に卮酒を賜った。劉鋹は毒であるかと疑い、泣いて言った、「臣は祖父の基業を承け、朝廷に違拒し、王師を労して討伐を致させ、罪は固より死に当たります。陛下は臣を殺さず、今太平を見、大梁の布衣たるに足ります。願わくは旦夕の命を延ばし、以て陛下の生成の恩を全うせんことを。臣は未だこの酒を飲むことを敢えません」。太祖は笑って言った、「朕は心を人腹に推す、安んぞ此の事あらんや」。劉鋹の酒を取って自ら飲むよう命じ、別に酌んで賜うと、劉鋹は大いに慚じて頓首して謝した。
太宗が将に晋陽を討たんとし、近臣を召して宴し、劉鋹もこれに預かった。劉鋹は自ら言った、「朝廷の威霊は遠くに及び、四方の僭窃の主は、今日尽く座中に在り、旦夕に太原を平らげれば、劉継元もまた至りましょう。臣は率先して来朝し、願わくは梃を執って諸国の降王の長とならんことを」。太宗は大笑いし、賞賜は甚だ厚かった。その詼諧はこの類である。
劉鋹の子、劉守節、劉守正は皆崇儀副使に至った。劉守正が卒去すると、帝はその家が貧しいと聞き、詔して月に万銭を給した。劉守素は咸平年間に侍禁となり、これも貧しく、真宗は白金百両を賜い、宰相に語って言った、「諸偽主の子孫は率多く窘迫している。僭侈の後に稼穡の艱難を知らざるに致る所である」。後に内殿崇班に至り、天禧年間、また録して閣門祗候とした。劉守通は供奉官である。劉守正の子、劉克昌は三班奉職となり、劉国昌は借職となった。
龔澄樞は広州南海の人なり。性質廉直謹厳にして、妄りに交遊せず。幼くして〓(劉龑)に事へて内供奉官となり、累遷して内給事に至る。劉晟が位を襲ぐや、宦官林延遇を甘泉宮使に任じ、頗る政事に預からしむ。延遇病みて将に死せんとし、晟に言ふ、「臣死すとも、惟だ龔澄樞を用ふべし」と。即日擢て承宣院を知り兼ねて内侍省に任じ、徳陵使兼龍徳宮使に改む。劉鋹位を嗣ぐや、特進・開府儀同三司・万華宮使・驃騎大将軍を加へられ、上将軍・左龍虎軍観軍容使・内太師に改めらる。軍国の務め皆澄樞に決す。澄樞は李托・薛崇譽と酷法の具を設け、民甚だ之を苦しむ。
初め、劉岩(龑)名を龔と改む。術者の言ふ有り、「不利なり。名を龔とすれば、当に国事を敗らん」と。遂に名を〓(龑)と改む。後に劉鋹澄樞を用ふるに、其の姓を以て卒に其の国を亡ぼす。澄樞亦誅せらる。
李托は封州封川の人なり。少くして騎射を習ひ、謹願を以て〓(劉龑)に事へて内府局令となる。劉晟位を襲ぐや、遷りて内侍省内侍となり、宮闈諸衛押番を充て兼ねて秀華宮使と為る。劉鋹立つや、玩華宮使・内侍監兼列聖・景陽二宮使に改む。托二女を劉鋹に納る。鋹其の長を貴妃と為し、次を美人と為す。政事皆托に訪ひて後に行ふ。特進・開府儀同三司・甘泉宮使兼六軍観軍容使・行内中尉を加へられ、遷りて驃騎上将軍・内太師と為る。
太祖師を命じて劉鋹を伐つ。既に韶州を克つ。統軍使李承渥戦死し、節度副使辛延渥間道より人を遣はし劉鋹を勧めて降らしむ。托堅く其の議を沮ぐ。及て擒へられて許田に至る。太祖使者を遣はして托等に問ふ、「昨已に降を約し、復た衆を率ひ来たりて拒戦し、軍敗るるに及び又火を放ち府庫を焚く。誰か之が謀を為す者ぞ」と。托俯首して対ふる能はず。劉鋹の諫議大夫王珪托に謂ひて曰く、「昔広州に在りし時、機務並びに爾輩の専らにするところ、火又内より起る。今天子使者を遣はして案問す。爾復た過ちを何人に推さんと欲するか」と。遂に唾して其の頬を批つ。托乃ち伏罪を引く。後に京師に至りて之を斬る。
薛崇譽は韶州曲江の人なり。『孫子五曹算』に善し。劉晟之を署して内門使兼太倉使と為す。劉鋹位を嗣ぐや、遷りて内中尉・特進・開府儀同三司・簽書点検司事と為る。太祖師を命じて広州を克つ。崇譽火を放ち倉廩を焚く。擒へられて京師に至り、李托と同く戮せらる。
潘崇徹は広州南海の人なり。〓(劉龑)に事へて内侍省局丞と為る。頗る兵書を読み、戦功を立てる。劉晟嘗て大将吳懷恩を遣はし桂州を伐たしめて之を平らぐ。懷恩部下に殺さる。命じて崇徹をして之に代はらしむ。劉鋹位を襲ぐや、西北面都統を加ふ。歳余りて、劉鋹頗る崇徹を疑ひ、薛宗譽を遣はして其の軍に使はしめ以て之を察せしむ。崇譽還りて、遂に崇徹が日に伶人百余に錦繡を衣せしめ、玉笛を吹かしめ、長夜の飲を為し、軍政を恤みざるを白す。劉鋹怒り、召し帰し、其の兵柄を奪ふ。是より居常怏怏たり。太祖師を命じて嶺を度らしむ。劉鋹復た崇徹に命じ兵五万を領して賀江を戍らしむ。崇徹効命せず。劉鋹敗れ、京師に至る。太祖其の事を知り、特に之を赦し、汝州別駕を授く。卒す。