宋史

列傳第二百三十九 世家三 呉越錢氏錢俶(子:惟濬 惟治 惟濟 弟:儼 姪:昱 附:孫承祐 沈承禮)

列傳第二百三十九 世家三 呉越錢氏錢俶(子:惟濬 惟治 惟濟 弟:儼 姪:昱 附:孫承祐 沈承禮)

呉越銭氏

原文吳越錢氏

銭俶

原文錢俶

呉越の銭俶は、字を文徳といい、杭州臨安の人である。本名は弘俶であったが、宣祖の偏諱を犯すため、これを除いた。祖父の鏐は、黄巣の乱に乗じて呉越を占拠し、昭宗より杭・越両藩の節度使に任じられ、彭城郡王に封ぜられた。梁・後唐を経て、呉越国王を加えられ、卒去し、子の元瓘が嗣いだ。元瓘が卒去すると、子の佐が嗣いだ。佐が卒去すると、弟の倧が嗣いだが、その大将胡進思によって廃され、そこで俶を迎えて立てた。事は『五代史』に詳しい。俶はすなわち元瓘の第九子であり、母は呉越国恭懿夫人の呉氏である。

原文吳越錢俶,字文德,杭州臨安人。本名弘俶,以犯宣祖偏諱,去之。祖鏐,因黃巢之亂,據有吳越,昭宗授以杭、越兩藩節制,封彭城郡王。歷梁、後唐,加吳越國王,卒,子元瓘嗣。元瓘卒,子佐嗣。佐卒,弟倧嗣,為其大將胡進思所廢,遂迎立俶,事具《五代史》。俶即元瓘之第九子也,母吳越國恭懿夫人吳氏。

晋の開運年間、台州刺史となった。数ヶ月後、僧の徳詔が俶に言った。「この地は君が治める所にあらず、速やかに帰国すべし、さもなくば不利ならん。」俶はその言葉に従い、ただちに帰国を請うた。間もなく、進思の変事があった。

原文晉開運中,為台州刺史。數月,有僧德詔語俶曰:「此地非君為治之所,當速歸,不然不利。」俶從其言,即求歸國,未幾,有進思之變。

漢の乾祐初年、東南面兵馬都元帥・鎮海鎮東軍節度使・開府儀同三司・検校太師兼中書令・杭越等州大都督ととく・呉越国王に任じられ、翊聖広運同徳保定功臣の号を賜り、金印・玉冊を賜った。三年、江南(南唐)がその将の査文徽を派遣して福州を攻めると、俶は兵を発して文徽を捕らえ、戦勝を献上し、尚書令しょうしょれいを加えられた。

原文漢乾祐初,授東南面兵馬都元帥、鎮海鎮東軍節度使、開府儀同三司、檢校太師兼中書令、杭越等州大都督、吳越國王,賜號翊聖廣運同德保定功臣,賜以金印、玉冊。三年,江南遣其將查文徽攻福州,俶發兵擒文徽,獻捷,加尚書令。

周の広順初年、諸道兵馬元帥に任じられた。二年、天下兵馬元帥に任じられ、推誠保徳安邦致治忠正功臣に改めて賜った。六月、母の喪に服したが、起復した。世宗が即位すると、天下兵馬都元帥に任じられた。顕徳三年、世宗が淮南を征討するに当たり、俶にその配下を率いて分路進討するよう命じた。俶は偏将の呉程を派遣して毘陵を包囲させ、関城を陥落させ、刺史の趙仁沢を捕らえた。路彦銖は宣城を包囲した。まもなく俶の軍は戦いに敗れ、再び常州を失った。ちょうど李景(南唐主)が上表して土地を割譲し内属を求めたため、詔により俶は軍を引き上げた。五年夏四月、杭州に災害があり、官舎がすべて灰燼かいじんに帰し、倉庫に延焼しようとした。俶は酒を捧げて祈って言った。「食は民の天なり、もしこれらをすべて焼き尽くすならば、民の命は何を仰ぐというのか。」火はそこで止んだ。世宗はこれを聞き、内侍を遣わして詔を齎し、慰問させた。この年、淮南が内属し、翰林学士の陶穀・司天監の趙修己を俶のもとに派遣し、羊・馬・駱駝を賜った。以後、これを常例とした。七月、また閤門使の曹彬を派遣して俶に兵甲・旗幟を賜った。六年、恭帝が位を嗣ぐと、崇仁昭徳宣忠保慶扶天翊亮功臣を賜った。

原文周廣順初,授諸道兵馬元帥。二年,授天下兵馬元帥,改賜推誠保德安邦致治忠正功臣。六月,丁母憂,起復。世宗即位,授天下兵馬都元帥。顯德三年,世宗征淮南,令俶以所部分路進討。俶遣偏將吳程圍毗陵,陷關城,擒刺史趙仁澤;路彥銖圍宣城。俄俶軍戰敗,復失常州。會李景上表求割地內附,詔俶班師。五年夏四月,杭州災,府舍悉為煨燼,將延及倉庾,俶命酒祝曰:「食為民天,若盡焚之,民命安仰!」火遂止。世宗聞之,遣內侍齎詔恤問。是歲,淮南內屬,遣翰林學士陶穀、司天監趙修己使俶,賜羊馬橐駝,自是以為常。七月,又遣閤門使曹彬賜俶兵甲、旗幟。六年,恭帝嗣位,賜崇仁昭德宣忠保慶扶天翊亮功臣。

建隆元年、天下兵馬大元帥に任じられた。俶の舅である寧国軍節度使の呉延福に異心があった。側近は俶に誅殺を勧めたが、俶は言った。「先夫人(母)の兄弟である。どうして忍んで法に置くことができようか。」言い終えると嗚咽して涙を流し、ただ延福を外に追放するのみで、母方の一族を終始全うさせた。太祖が天命を受けて以来、俶の貢ぎ物は常例の数を上回った。二年、使者を遣わして俶に戦馬二百頭・羊五千頭・駱駝三十頭を賜った。乾徳元年、俶は白金一万両・犀角と象牙各十本・香薬十五万斤・金銀真珠玳瑁の器物数百点を貢ぎ物として献上し、承家保国宣徳守道忠正恭順功臣に改めて賜った。この冬、郊祀が行われ、その子の惟濬を入貢させた。

原文建隆元年,授天下兵馬大元帥。俶舅寧國軍節度吳延福有異圖,左右勸俶誅之,俶曰:「先夫人同氣,安忍置於法?」言訖鳴咽流涕,但黜延福於外,終全母族。自太祖受命,俶貢奉有加常數。二年,遣使賜俶戰馬二百、羊五千、橐駝三十。乾德元年,以白金萬兩、犀牙各十株、香藥一十五萬斤、金銀真珠玳瑁器數百事來貢,改賜承家保國宣德守道忠正恭順功臣。是冬,郊祀,遣其子惟濬入貢。

開宝五年、開呉鎮越崇文耀武宣徳守道功臣に改めて賜り、その妻の孫氏を賢徳順穆夫人に封じた。まもなく、幕吏の黄夷簡を入貢させた。上(太祖)は彼に言った。「汝は帰って元帥に伝えよ。常に兵甲を訓練せよ。江南(南唐)は強情で朝貢せず、我は師を発してこれを討たんとしている。元帥は我を助けるべきであり、『皮が存在しなければ、毛はどこに付着しようか』という人々の言葉に惑わされるな。」特に役人に命じて薫風門の外に大邸宅を造営させ、数坊に連なり、棟宇は宏大で麗しく、備蓄や什器はすべて完備させた。そこで進奉使の銭文贄を召し出し、彼に言った。「朕は数年前に学士承旨の陶穀に詔を起草させた。近ごろ城南に離宮を建て、『礼賢宅』と名付けて賜ることにした。李煜と汝の主君を待つためである。先に来朝した者にこれを賜る。」詔の草稿を文贄に見せ、そこで文贄を派遣して俶に戦馬と羊を賜り、俶に旨を伝えさせた。

原文開寶五年,改賜開吳鎮越崇文耀武宣德守道功臣,封其妻孫氏為賢德順穆夫人。未幾,遣幕吏黃夷簡入貢,上謂之曰:「汝歸語元帥,常訓練兵甲,江南強倔不朝,我將發師討之,元帥當助我,無惑人言云『皮之不存,毛將安傅』」。特命有司造大第於薰風門外,連亘數坊,棟宇宏麗,儲偫什物無不悉具。因召進奉使錢文贄,謂之曰:「朕數年前令學士承旨陶穀草詔,比來城南建離宮,令賜名『禮賢宅』,以待李煜及汝主,先來朝者以賜之。」詔以草示文贄,遂遣文贄賜俶戰馬及羊,諭旨於俶。

七年五月、俶に襲衣・玉帯・玉鞍勒馬・金器二百両・銀器三千両・錦綺千段を賜った。この冬、江南を討伐した。内客省使の丁徳裕に詔を持たせて派遣し、俶を昇州東面招撫制置使とし、戦馬二百頭・旌旗剣甲を賜った。徳裕に禁兵の歩騎千人を率いて俶の前鋒とさせ、その軍全体を監督させた。李煜は俶に書を送り、その大意は「今日我なくして、明日どうして君あらんや。一旦、明天子が地を変えて勲功に報いれば、王もまた大梁の一布衣に過ぎぬ。」というものであった。俶は答えず、その書を上奏した。

原文七年五月,賜俶襲衣、玉帶、玉鞍勒馬、金器二百兩、銀器三千兩、錦綺千段。是冬,討江南。遣內客省使丁德裕齎詔,以俶為昇州東面招撫制置使,賜戰馬二百匹、旌旗劍甲;令德裕以禁兵步騎千人為俶前鋒,盡護其軍。李煜貽書於俶,其略曰:「今日無我,明日豈有君?一旦明天子易地酬勳,王亦大梁一布衣耳。」俶不答,以書來上。

八年、俶は兵を率いて常州を陥落させ、守太師を加えられ、詔により帰国した。俶は大将の沈承礼らを派遣し、兵を率いて水陸より王師に随い潤州を平定させ、ついで金陵を進討させた。上はかつて進奏使の任知果を召し出し、俶に旨を伝えさせて言った。「元帥は毘陵を攻略して大功あり。江南が平定されたならば、暫く朕と会見するがよい。長らく思いを寄せていた気持ちを慰めるためである。すぐに帰還させるであろう。長く留め置くことはしない。朕は三度圭幣を執って上帝に謁見した者である。どうして約束を破ることがあろうか。」江南が平定されると、功績を論じて俶の大将の沈承礼・孫承祐をともに節度使とし、防禦使一人・刺史六人とした。

原文八年,俶率兵拔常州,加守太師,詔俶歸國。俶遣大將沈承禮等率兵水陸隨王師平潤州,遂進討金陵。上嘗召進奏使任知果,令諭旨於俶曰:「元帥克毗陵有大功,俟平江南,可暫來與朕相見,以慰延想之意。即當遣還,不久留也。朕三執圭幣以見上帝,豈食言乎?」江南平,論功以俶大將沈承禮、孫承祐並為節度使,為防禦使者一人、刺史六人。

九年二月、俶はその妻の孫氏・子の惟濬・平江軍節度使の孫承祐とともに来朝した。上は皇子の興元尹徳昭を睢陽に派遣して出迎え慰労させた。俶が到着する前に、車駕はまず礼賢宅に行幸し、供帳の具を点検された。到着すると、詔により俶をそこに住まわせた。崇徳殿で応対し、白金四万両・絹五万匹を貢ぎ、襲衣・玉帯・金器千両・白金器三千両・羅綺三千段・玉勒馬を賜った。即日、長春殿で宴を開き、俶はまた白金二万両・絹三万匹・乳香二万斤を貢いだ。江左平定を賀し、白金五万両・銭十万貫・綿百八十万両・茶八万五千斤・犀角象牙二百本・香薬三百斤を貢いだ。車駕がその邸宅に行幸されると、また白金十万両・絹五万匹・乳香五万斤を貢ぎ、郊祭を助けた。

原文九年二月,俶與其妻孫氏、子惟濬、平江軍節度使孫承祐來朝,上遣皇子興元尹德昭至睢陽迎勞。俶將至,車駕先幸禮賢宅,按視供帳之具。及至,詔俶居之。對於崇德殿,貢白金四萬兩、絹五萬匹,賜襲衣、玉帶、金器千兩、白金器三千兩、羅綺三千段、玉勒馬。即日宴長春殿,俶又貢白金二萬兩、絹三萬匹、乳香二萬斤。賀平江左,貢白金五萬兩、錢十萬貫、綿百八十萬兩、茶八萬五千斤、犀角象牙二百株、香藥三百斤。車駕幸其第,又貢白金十萬兩、絹五萬匹、乳香五萬斤,以助郊祭。

三月庚午、詔して言った。「古より宗工大臣は特に厚い恩寵を受け、あるいは剣履上殿を許され、あるいは詔書に名を記さず、いずれも大功によるもので、殊礼をもって遇された。今、我はその命数を兼ねて、勲賢を奨励し、古今に輝き、まことに優異たるものとする。なんじ呉越国王銭俶よ、その徳は宏大で盛ん、器識は深遠、呉会の奥地を治め、宗廟の器に大功を刻む。先ごろ江表が朝廷に従わず、王師が討伐に及んだとき、方面の兵権を委ね、常・潤の地を平定し、帝室を輔翼し、皇霊を震動せしめた。しかるに圭を執って来朝し、紳を垂れて朝列に就き、君に仕える誠実を尽くし、諸侯の表率となった。ここに徽章を高くして、元老を顕彰する。特に剣履上殿、書詔不名を賜うことを許す。」俶の妻の賢徳順穆夫人孫氏を呉越国王妃とし、惟濬に詔を持たせてこれを賜わせた。宰相は、異姓の諸侯王の妻を妃に封ずる典拠はないと言ったが、太祖は言った。「我が朝より行うのである。特別な恩寵を示すためだ。」俶は謝礼として白金六万両・絹六万匹を献上した。

原文三月庚午,詔曰:「古者宗工大臣特被隆眷,或劍履上殿,或書詔不名,率由豐功,待以殊禮。今我兼其命數,用獎勳賢,輝映古今,允為優異。咨爾吳越國王錢俶,德隆宏茂,器識深遠,撫奧區於吳會,勒洪伐於宗彝。昨以江表不庭,王師致討,委方面之兵柄,克常、潤之土宇,輔翼帝室,震疊皇靈。而乃執圭來庭,垂紳就列,罄事君之誠愨,為群后之表儀。爰峻徽章,以旌元老。可特賜劍履上殿,書詔不名。」以俶妻賢德順穆夫人孫氏為吳越國王妃,令惟濬齎詔賜之。宰相以為異姓諸侯王妻無封妃之典,太祖曰:「行自我朝,表異恩也。」俶獻白金六萬兩、絹六萬匹為謝。

太祖はたびたび詔して俶とその子惟濬を苑中に宴射させ、諸王のみを陪席させた。毎回俶に宣諭するとき、俶が拝謝すると、多く内侍に命じて扶け起こさせ、俶は感激して涙を流した。またある日宴を召し、太宗と秦王のみを侍坐させ、酒が酣になったとき、太祖は俶に太宗・秦王と兄弟の礼を交わすよう命じたが、俶は地に伏して叩頭し、涙を流して固辞したので、やめさせた。ちょうど四月に西京に行幸し、みずから雩祀を行うことになり、俶は懇願して扈従を請うたが、許されず、惟濬を留めて祭祀に侍らせ、俶を帰国させた。太祖は講武殿で宴を開いて餞別し、窄衣・玉束帯・玉鞍勒馬・玳瑁鞭・金銀錦綵二十余万・銀装の兵具八百点を賜り、俶に言った、「南北の風土は異なり、次第に暑さが厳しくなる。卿は早く出発せよ。」俶は涙を流して三年に一度の朝覲を願うと、太祖は言った、「山川の道は遠く迂曲している。詔旨を待て。その時すぐに来朝せよ。」俶が京師を出発するとき、特に導従儀衛の器物を賜り、すべて鮮麗なもので、礼賢宅から迎春苑まで陳列させた。俶が来朝してから帰国するまでに、太祖が賜った金器一万両・白金器また数万両・白金十余万両・錦綺綾羅紬絹四十余万匹・馬数百匹、その他の物は数えきれないほどであった。俶は帰国した後、功臣堂で政務を執っていたが、ある日東の側に座るよう命じ、左右に言った、「西北には神京がある。天威は顔のすぐそばにあり、俶どうして安んじて居られようか。」

原文太祖數詔俶與其子惟濬宴射苑中,惟諸王預坐。每宣諭俶,俶拜謝,多令內侍掖起,俶感泣。又嘗一日召宴,獨太宗、秦王侍坐,酒酣,太祖令俶與太宗、秦王敘昆仲之禮,俶伏地叩頭,涕泣固讓,乃止。會將以四月幸西京,親雩祀,俶懇請扈從,不許,留惟濬侍祠,令俶歸國。太祖宴餞於講武殿,賜窄衣、玉束帶、玉鞍勒馬、玳瑁鞭、金銀錦綵二十餘萬、銀裝兵八百事,謂俶曰:「南北風土異宜,漸及炎暑,卿可早發。」俶涕泣言願三歲一朝,太祖曰:「川陸迂遠,當俟詔旨,即來覲也。」俶將發京師,特賜導從儀衛之物,率皆鮮麗,令自禮賢宅陳列至迎春苑。自俶之至,逮於歸國,太祖所賜金器萬兩、白金器又數萬兩、白金十餘萬兩、錦綺綾羅紬絹四十餘萬匹、馬數百匹,他物不可勝計。俶既歸國,嘗視事功臣堂,一日命坐於東偏,謂左右曰:「西北者神京在焉,天威不違顏咫尺,俶豈敢寧居乎?」

太宗が即位すると、食邑五千戸を加増された。俶は御衣・通天犀帯・絹一万匹・金器・玳瑁器百余点・金銀釦器五百点・塗金銀香台・龍脳檀香床・銀仮果・水晶花など数千点、価値は巨万に上るものを貢いだ。また犀角象牙三十株・香薬一万斤・乾薑五万斤・茶五万斤を貢いだ。俶はさらに毎年の常貢を増やすよう請うたが、詔して許さなかった。太平興国二年正月、孫氏が卒去したので、給事中程羽を遣わして弔祭させた。九月、上奏して賜った詔書で名を呼ぶことを請うたが、許されなかった。

原文太宗即位,加食邑五千戶。俶貢御衣,通天犀帶,絹萬匹,金器、玳瑁器百餘事,金銀釦器五百事,塗金銀香臺、龍腦檀香床、銀假果、水晶花凡數千計,價直鉅萬;又貢犀角象牙三十株、香藥萬斤、乾薑五萬斤、茶五萬斤。俶又請歲增常貢,詔不許。太平興國二年正月,孫氏卒,遣給事中程羽吊祭。九月,上言乞所賜詔書呼名,不許。

三年三月、来朝した。判四方館事梁迥を泗州に遣わして迎え慰労させた。惟濬は先に闕下におり、上は彼を睢陽に遣わして俶を待たせた。俶は先に孫承祐を遣わして奏事させ、上はすぐに承祐を遣わして諸司に供帳を整えさせ、郊外で俶を慰労させ、また斉王廷美に命じて迎春苑で俶を宴させた。俶が到着し、崇徳殿で対面すると、襲衣・玉帯・金銀器・玉鞍勒馬・錦彩一万匹・銭千万を賜った。賓佐の崔仁冀らには金銀帯・器幣・鞍馬を差等を付けて賜った。その日、長春殿で俶を宴し、劉鋹・李煜を陪席させた。俶は白金五万両・銭一億・絹十万匹・綾二万匹・綿十万屯・茶十万斤・建茶一万斤・乾薑一万斤・越器五万点・錦縁席一千枚・金銀画舫三隻・銀飾龍舟四隻・金飾烏樠木御食案・御床各一点・金樽罍盞斝各一点・金飾玳瑁器三十点・金釦藤盤二点・金釦彫象俎十点・銀仮果樹十点・翠毛真珠花三叢・七宝飾食案十点・銀樽罍十点・盞斝が副う・金釦越器百五十点・彫銀俎五十点・密仮果・剪羅花各二十樹・銀釦大盤十点・銀装鼓二点・七宝飾胡琴五絃箏各四点・銀飾箜篌方響羯鼓各四点・紅牙楽器二十二点・乳香一万斤・犀角象牙各一百株・香薬一万斤・蘇木一万斤を貢いだ。上はまた俶とその子惟濬を後苑に召して宴し、池に舟を浮かべ、みずから酒を酌んで俶に賜り、俶は跪いてこれを飲んだ。その恩遇はこのようであった。

原文三年三月,來朝,遣判四方館事梁迥至泗州迎勞;惟濬先在闕下,上遣至睢陽候俶。俶先遣孫承祐入奏事,上即遣承祐護諸司供帳勞俶於郊,又命齊王廷美宴俶於迎春苑。俶至,對於崇德殿,賜襲衣、玉帶、金銀器、玉鞍勒馬、錦彩萬匹、錢千萬;賓佐崔仁冀等賜金銀帶、器幣、鞍馬有差。即日宴俶長春殿,令劉鋹、李煜預坐。俶貢白金五萬兩、錢萬萬,絹十萬匹、綾二萬匹、綿十萬,屯茶十萬斤、建茶萬斤、乾薑萬斤,越器五萬事,錦緣席千,金銀畫舫三、銀飾龍舟四,金飾烏樠木御食案、御床各一,金樽罍盞斝各一、金飾玳瑁器三十事、金釦藤盤二、金釦雕象俎十,銀假果樹十事、翠毛真珠花三叢,七寶飾食案十、銀樽罍十、盞斝副焉,金釦越器百五十事、雕銀俎五十,密假果、剪羅花各二十樹,銀釦大盤十,銀裝鼓二、七寶飾胡琴五弦箏各四、銀飾箜篌方響羯鼓各四、紅牙樂器二十二事,乳香萬斤、犀角象牙各一百株,香藥萬斤、蘇木萬斤。上又嘗召俶及其子惟濬宴後苑,泛舟池中,上手酌酒以賜俶,俶跪飲之。其恩待如此。

四月、ちょうど陳洪進が土を納めたので、俶は上言して言った、「臣には肺腑に蓄えた懇誠があり、幸いに入覲の機会を得たので、あえて上聞に及ぶ。神道が満ちるものを害することを憂え、天慈が欲に従うことを必ず願う。臣は近ごろ朝廷より剣履上殿・詔書不名を賜り、また本道をもって募卒を率い、かつて戈甲を営み、特に国王の号を建て、師律の厳しさを増すことを許された。これらはすべてその寵名を仮り、隣敵に託するためである。今や幅員は外に開け、名数は明らかに分かれている。どうして居座り、自ら公議に陥ることができようか。省罷に従い、等威を正すべきである。本道の軍士・器甲はすでに奏上して納めたほか、封じられた呉越国王および天下兵馬大元帥の職名は、すべて解罷を許されることを望む。すべての詔命を頒布するとき、願わくば再び名を呼ばれ、聖朝に虚授の恩なく、微臣に疾顛の禍を免れさせたい。」優詔をもって許さなかった。

原文四月,會陳洪進納土,俶上言曰:「臣伏有懇誠,貯於肺腑,幸因入覲,輒敢上聞。蓋虞神道之害盈,必冀天慈之從欲。臣近蒙朝廷賜以劍履上殿,詔書不名,仍以本道領募卒徒,嘗營戈甲,特建國王之號,俾增師律之嚴,皆所以假其寵名,託於鄰敵。方今幅員開外,名數洞分,豈可冒居,自罹公議?合從省罷,以正等威。除本道軍士、器甲臣已曾奏納外,其所封吳越國王及天下兵馬大元帥職名,望皆許解罷。凡頒詔命,願復名呼,庶聖朝無虛授之恩,微臣免疾顛之禍。」優詔不許。

五月乙酉、俶は再び上表した、「臣は承平の運に遇い、遠く朝覲の儀を修め、宸眷はますます厚く、寵章はことごとく極まった。斗筲の量は実に満盈を覚え、丹赤の誠をここに披露する。臣が思うに、祖宗以来、みずから義旅を率い、中京を尊戴し、両浙の土田を略し、一方の僭逆を討平した。このときは朝天の路を隔て、吏を請う心に諧わなかった。しかしながら闕庭より号令を稟り、辺徼に封疆を保ち、家世承襲すでに百年に及ぶ。今、幸いに皇帝陛下が丕基を嗣守し、諸夏を削平され、率濱の内にあるすべては、悉く輿地の図に帰した。ただ臣が一邦のみ僻遠の江表に介在し、職貢は外府に陳ずるも、版籍は未だ有司に帰せず、なお山越の民をして、陶唐の化を隔てしめている。太陽が照らしても蔀家に及ばず、春雷が発声してもなお聾俗であるならば、それは臣が実にこれを然らしめたのであり、罪これより大なるはない。大願に耐えず、管轄する十三州を闕下の執事に献じたい。その間の地里名数は別に条析して奏聞する。伏して陛下が奕世の忠勤を念い、乃心の傾向を察し、特に明詔を降し、この至誠を允したまわんことを望む。」

原文五月乙酉,俶再上表:「臣慶遇承平之運,遠修肆覲之儀,宸眷彌隆,寵章皆極。斗筲之量實覺滿盈,丹赤之誠輒茲披露。臣伏念祖宗以來,親提義旅,尊戴中京,略有兩浙之土田,討平一方之僭逆。此際蓋隔朝天之路,莫諧請吏之心。然而稟號令於闕庭,保封疆於邊徼,家世承襲,已及百年。今者幸遇皇帝陛下嗣守丕基,削平諸夏,凡在率濱之內,悉歸輿地之圖。獨臣一邦僻介江表,職貢雖陳於外府,版籍未歸於有司,尚令山越之民,猶隔陶唐之化。太陽委照,不及蔀家,春雷發聲,兀為聾俗,則臣實使之然也,罪莫大焉。不勝大願,願以所管十三州獻於闕下執事,其間地里名數別具條析以聞。伏望陛下念奕世之忠勤,察乃心之傾向,特降明詔,允茲至誠。」

詔して答えた、「卿は世々忠純を継ぎ、志は憲度に遵い、百年の堂構を承け、千里の江山を有つ。朕が臨御してより、覲礼を修め、文物の全盛を睹、書軌の混同を喜び、日月の光に親しまんと願い、急に江海の志を忘れた。甲兵楼櫓はすでに悉く有司に上り、山川土田はまた尽く天府に献じ、挙宗して順を効すことは前代にないことであり、簡編に書き記して永く忠烈を彰す。請うところはよろしく依るべし。」

原文詔答曰:「卿世濟忠純,志遵憲度,承百年之堂構,有千里之江山。自朕纂臨,聿修覲禮,睹文物之全盛,喜書軌之混同,願親日月之光,遽忘江海之志。甲兵樓櫓既悉上於有司,山川土田又盡獻於天府,舉宗效順,前代所無,書之簡編,永彰忠烈。所請宜依。」

丁亥(の日)、詔して曰く、「漢は功臣を寵し、帯河の誓いを著わし、周は元老を尊び、遂に表海の邦を分つ。その勾呉に奄宅し、早く星紀を綿ぐ者有り、包茅を入貢して累朝に絶えず、羽檄兵を起こして百戦に備嘗す。適まさに輯瑞を輯めて来勤し、爰に提封を以て上献す。宜しく内地に遷し、別に爰田を錫い、啓土の栄を弥く昭かにし、俾く書社の数を増さしむべし。呉越国王銭俶は天資純懿、世に忠貞を済し、霊源に徳を積む兆有り、策府に大勲を書す。近くは沖人の践祚を慶し、国珍を奉じて来朝し、歯革羽毛既にその常貢を修め、土田版籍又た有司に献じ、宿衛を京師に願い、乃心を王室に表す。この誠節を眷み、宜しく寵光を茂くすべし。是を用いて西楚の名区を列し、長淮の奥壤を析ち、茲に大国を建て、旧封に遠からず、千里の疆を載疏し、更に四征の寄を重くす。その爵邑を疇い、子孫に施し、永く皇家に夾輔し、用いて休命に対揚せしめ、厥れ百世を垂れ、その偉ならずや。淮南節度管内を以て俶を封じて淮海国王と為し、仍く改めて賜うに寧淮鎮海崇文耀武宣徳守道功臣とし、即ち礼賢宅を以て之を賜う。」惟濬を節度使兼侍中と為し、惟治を節度使と為し、惟演を団練使と為し、惟願及び甥の郁・昱並びに刺史と為し、弟の儀・信並びに観察使と為し、将校の孫承祐・沈承礼並びに節度使と為す。体貌隆盛、一時に冠絶す。

原文丁亥,詔曰:「漢寵功臣,聿著帶河之誓;周尊元老,遂分表海之邦。其有奄宅勾吳,早綿星紀,包茅入貢,不絕於累朝,羽檄起兵,備嘗於百戰。適當輯瑞而來勤,爰以提封而上獻。宜遷內地,別錫爰田,彌昭啟土之榮,俾增書社之數。吳越國王錢俶天資純懿,世濟忠貞,兆積德於靈源,書大勳於策府。近者慶沖人之踐阼,奉國珍而來朝,齒革羽毛既修其常貢,土田版籍又獻於有司,願宿衛於京師,表乃心於王室。眷茲誠節,宜茂寵光。是用列西楚之名區,析長淮之奧壤,建茲大國,不遠舊封,載疏千里之疆,更重四征之寄。疇其爵邑,施及子孫,永夾輔於皇家,用對揚於休命,垂厥百世,不其偉歟!其以淮南節度管內封俶為淮海國王,仍改賜寧淮鎮海崇文耀武宣德守道功臣,即以禮賢宅賜之。」惟濬為節度使兼侍中,惟治為節度使,惟演為團練使,惟願暨侄郁、昱並為刺史,弟儀、信並為觀察使,將校孫承祐、沈承禮並為節度使。體貌隆盛,冠絕一時。

是の歳七月中元、京城灯を張り、有司に令して俶の宅前に灯山を設け、声楽を陳べて以て之を寵す。八月、両浙に令して俶の緦麻以上の親及び管内の官吏悉く帰朝せしめ、凡そ舟一千四十四艘、過ぐる所兵を以て護送す。杭州俶の楽人を貢ぐこと凡そ八十有一人、詔して三十六人を以て杭州に還し、四十五人を俶に賜う。俶表を上りて謝し、上親ら画して「中書に付して史館に送る」とす。

原文是歲七月中元,京城張燈,令有司於俶宅前設燈山、陳聲樂以寵之。八月,令兩浙發俶緦麻以上親及管內官吏悉歸朝,凡舟一千四十四艘,所過以兵護送。杭州貢俶樂人凡八十有一人,詔以三十六人還杭州,四十五人賜俶。俶上表謝,上親畫「付中書送史館」。

四年二月苑中に宴し、俶病に被り拝して起つ能わず、上命して銀装の肩輿を以て送帰せしめ、因りて以て之を賜う。四月、太原に従征し、羊三百・酒十斛を賜う。俶小心謹恪、毎朝行闕に趨くに、人の未だ至らざる者有れば、必ず先ず至り、仮寐して旦を待つ。上之を知り、俶に謂いて曰く、「卿已に中年、宜しく風冷を避くべし、今より入謁は須らく太早からずとも可なり」と。特ちに御前の二大燭を輟めて以て之を賜い、先ず前頓に赴かしむ。上嘗て従臣に食を中路頓に賜い、並びに衛士に羊臂臑・卮酒を賜い、その飲啖を観る。上その雄壮なるを見、因りて俶を顧み、俶進みて曰く、「所謂『虎の如く貔の如く、熊の如く羆の如き』者なり」と。会に劉継元降る、上連城台に御して軍中先に亡命して太原に至る者を誅し、顧みて俶に謂いて曰く、「卿一方を保全して我に帰し、血刃を致さず、深く嘉す可し」と。俶頓首して謝す。俶中途足疾に被る、車駕親ら臨み問い、太医に令して艾を然して以て灸せしめ、疾尋いで愈ゆ。京に還り勲を策し、宰相進み擬えて食邑万戸・実封千戸を加う。上即ち白麻を改め、倍して食邑二万戸・実封二千戸を加う。

原文四年二月宴苑中,俶被病拜不能起,上命以銀裝肩輿送歸,因以賜之。四月,從征太原,賜羊三百、酒十斛。俶小心謹恪,每晨趨行闕,人未有至者,必先至,假寐以待旦。上知之,謂俶曰:「卿已中年,宜避風冷,自今入謁不須太早也。」特輟御前二大燭以賜之,令先赴前頓。上嘗賜從臣食於中路頓,並賜衛士羊臂臑、卮酒,觀其飲啖。上見其雄壯,因顧俶,俶進曰:「所謂『如虎如貔、如熊如羆』者也。」會劉繼元降,上御連城臺誅軍中先亡命太原者,顧謂俶曰:「卿能保全一方以歸於我,不致血刃,深可嘉也。」俶頓首謝。俶中途被足疾,車駕親臨問,令太醫然艾以灸,疾尋愈。還京策勳,宰相進擬加食邑萬戶、實封千戶。上即改白麻,倍加食邑二萬戶、實封二千戶。

五年八月、俶病に被る、上臨み問い、白金万両・銭千万・絹万匹・金器千両を賜い、その子惟濬・惟治に白金各万両を賜う。是の冬、車駕大名府に幸す、詔して俶に肩輿に乗じて即路せしむ。六年、又た病に被り、告を賜うこと久しく、上中使を遣わして俶に文楸棋局・水精棋子を賜い、乃ち旨を諭して曰く、「朕機務の余、頗る留意す、卿仮に在るを以て、此を用いて日を遣るべし」と。

原文五年八月,俶被病,上臨問,賜白金萬兩、錢千萬、絹萬匹、金器千兩,賜其子惟濬、惟治白金各萬兩。是冬,車駕幸大名府,詔俶乘肩輿即路。六年,又被病,賜告久之,上遣中使賜俶文楸棋局、水精棋子,乃諭旨曰:「朕機務之餘,頗曾留意,以卿在假,可用此遣日。」

八年十二月、上言して曰く、「臣蕞爾の躯を以て恩寵を蒙被し、禄百万を賦し、職数四を兼ぬ。元帥の任実に兵権に本づき、国王の号蓋し帝室を屏ぐ、尚書は百揆の重を総べ、中書は八柄の繁を掌る、維師は上台に冠し、開府は極品に当たる、臣の孱瑣、克く負荷せず。邦国の制式に等威を著わし、名器の間固より涯分有り、徒らに罪戾を速にし、以て顛隮を取らん。伏して望む、聖旨特ちに省罷に従わんことを」と。許さず。表三たび上る、詔を下して曰く、「茅を分ち土を胙くは、世及の栄を彰わす所以なり。大輅繁纓は、名器の重を表す所以なり。至りて勲徳を褒寵するは、典常を度越し、旧章に咨り、爰に異数を推す。乃ち体に謙を好むの徳有り、固く譲の辞を形し、諭を敦くすること再三、確乎として抜けず、用い曲げて至公の論を以てし、式に止まるを知るの風を光らす。淮海国王銭俶は方岳に霊を炳し、風雲に感を通じ、奄に勾呉の地を有ち、象魏の心を忘れず。境を掃いて来朝し、宗を挙げて宿衛し、その土宇を籍して朝廷に入り、職員を式に昭かにし、淮海に胙く。天子二老の任に居り、真王万戸の封を啓き、並びに寵章を加え、用いて忠順に答う。而るに乃ち屡表疏を形し、官栄を避けんことを願い、深衷より発し、誠に奪う可からず。若し霊台偃伯し、武庫兵を橐き、天下一家書軌の外無く、五侯九伯征伐の行わざるを以てす。願わくは元帥の名を寝め、衷よりの請に勉いて徇わん。その乃ち世に明徳を祚し、帯礪の盟に存す。帝良弼を齎し、台輔の任を以て寵す。極く馭貴の爵を極め、衍食の封を増し、庸に酬うるに足らず、適た徳を昭かにすに以てす。勉めて渥沢に膺り、眷懐に克く副えよ。天下兵馬大元帥を罷むることを可とす、余は故の如し」と。

原文八年十二月,上言曰:「臣以蕞爾之軀,蒙被恩寵,賦祿百萬,兼職數四。元帥之任實本於兵權,國王之號蓋屏於帝室,尚書總百揆之重,中書掌八柄之繁,維師冠於上台,開府當於極品,臣之孱瑣,罔克負荷。邦國之制式著等威,名器之間固有涯分,徒速罪戾,以取顛隮。伏望聖旨特從省罷。」不許。表三上,下詔曰:「 分茅胙土,所以彰世及之榮;大輅繁纓,所以表名器之重。至若褒寵勳德,度越典常,咨於舊章,爰推異數。乃有體好謙之德,形固讓之辭,敦諭再三,確乎不拔,用曲至公之論,式光知止之風。淮海國王錢俶方岳炳靈,風雲通感,奄有勾吳之地,不忘象魏之心。掃境來朝,舉宗宿衛,籍其土宇,入於朝廷,式昭職員,胙之淮海,居天子二老之任,啟真王萬戶之封,並加寵章,用答忠順。而乃屢形表疏,願避官榮,發於深衷,誠不可奪。若以靈臺偃伯,武庫橐兵,天下一家書軌之無外,五侯九伯征伐之不行。願寢元帥之名,勉徇由衷之請。其乃世祚明德,存於帶礪之盟;帝齎良弼,寵以台輔之任。極馭貴之爵,增衍食之封,非足酬庸,適以昭德,勉膺渥澤,克副眷懷。可罷天下兵馬大元帥,餘如故。」

雍熙元年、漢南国王に改封す。四年春、出でて武勝軍節度と為り、南陽国王に改封す。俶久しく病に被り、詔して入辞を免ず。将に発たんとし、玉束帯・金唾壺・碗盎等を賜う。俶四たび表を上りて国王を譲り、許王に改封さる。端拱元年春、徙めて鄧王に封ず。会に朝廷使者を遣わして生辰の器幣を賜う、使者と宴飲して幕に至り、大流星有りて正寝前に墮ち、光一庭を燭す、是の夕暴卒す、年六十。

原文雍熙元年,改封漢南國王。四年春,出為武勝軍節度,改封南陽國王。俶久被病,詔免入辭。將發,賜玉束帶、金唾壺、碗盎等。俶四上表讓國王,改封許王。端拱元年春,徙封鄧王。會朝廷遣使賜生辰器幣,與使者宴飲至幕,有大流星墮正寢前,光燭一庭,是夕暴卒,年六十。

俶は天成四年八月二十四日に生まれ、是に至り八月二十四日に卒す、復た父元瓘の卒日と同く、人皆之を異とす。上為に朝を廃すること七日、追封して秦国王とし、諡して「忠懿」とす、仍く正衙に備礼して冊を発し曰く、

原文俶以天成四年八月二十四日生,至是八月二十四日卒,復與父元瓘卒日同,人皆異之。上為廢朝七日,追封秦國王,諡「忠懿」,仍正衙備禮發冊曰:

皇帝若しく曰く、昊穹眷祐し、賢哲挺生し、象緯の純精を稟け、経綸の盛業を負い、民の父母と作り、国の翰垣と為る。その存するや中台に冠して諸侯を長じ、その没するや徽章を峻くして礼命を崇む。咨る爾故安時鎮国崇文耀武宣徳守道功臣・武勝軍節度・鄧州管内観察処置等使・開府儀同三司・守太師・尚書令兼中書令・使持節鄧州諸軍事・行鄧州刺史・上柱国・鄧王・食邑九万七千戸・食実封一万六千九百戸・剣履上殿を賜い・詔書名せず銭俶は、祖考の令徳を嗣ぎ、東南の奥区を奠め、国を開き家を承け、本仁し義を祖とす。忠孝を以て社稷を保ち、廉譲を以て人民を化す。累朝に翊戴を勤め、一境に克く恵綏す。世に威略を伝え、志に声明を慕う。

原文皇帝若曰:昊穹眷祐,賢哲挺生,稟象緯之純精,負經綸之盛業,作民父母,為國翰垣。其存也冠中臺而長諸侯,其沒也峻徽章而崇禮命。咨爾故安時鎮國崇文耀武宣德守道功臣、武勝軍節度、鄧州管內觀察處置等使、開府儀同三司、守太師、尚書令兼中書令、使持節鄧州諸軍事、行鄧州刺史、上柱國、鄧王、食邑九萬七千戶、食實封一萬六千九百戶、賜劍履上殿、詔書不名錢俶,嗣祖考之令德,奠東南之奧區,開國承家,本仁祖義;以忠孝而保社稷,以廉讓而化人民;勤翊戴於累朝,克惠綏於一境,世傳威略,志慕聲明。

武庫に兵器を収め、詩書の府を深く閲し、秣陵に問罪の師を起こすや、犄角の師を雄張す。区宇を同文に致すは、忠良の協力に頼る。纂紹に逮び、益々崇高を享け、明哲を蘊みて身を保ち、傾輸を務めて節を竭くし、尽く土壤を献じて闕庭に帰す。予乃が功を嘉し、殊寵を薦錫す。而して道は簡退に隆く、志は謙沖を尚び、屡に郤縠の権を辞し、范宣の譲を奪い難し。朕深く勲旧を惟い、養頤に就かしめんとし、爰に大邦に出殿せしめ、庶幾眉寿に聿臻せんとす。式に元老を繄ぎ、永く眇躬を輔けしむ。

原文當武庫戢兵,洞閱詩書之府;洎秣陵問罪,雄張犄角之師。致區宇之同文,賴忠良之協力。逮於纂紹,益享崇高,蘊明哲而保身,務傾輸而竭節,盡獻土壤,來歸闕庭,予嘉乃功,薦錫殊寵。而道隆簡退,志尚謙沖,屢辭郤縠之權,難奪范宣之讓。朕深惟勳舊,俾就養頤,爰出殿於大邦,庶聿臻於眉壽,式繄元老,永輔眇躬。

何ぞ天道の諶し難きや、而して梁木の斯く壞るは!長沙既に往き、甲令の勲空しく存す;征虜云え亡くす、但だ雲臺の像を見るのみ。賵賻は異等に従い、嗟悼は臨朝に廢す;寧ぞ柱石の勲を酬いん、未だ君臣の分を極めず。庸く典則を加え、以て始終を厚くす。

原文何天道之難諶,而梁木之斯壞!長沙既往,空存甲令之勳;征虜云亡,但見雲臺之像。賵賻從於異等,嗟悼廢於臨朝;寧酬柱石之勳,未極君臣之分。庸加典則,以厚始終。

今、使太中大夫・尚書工部侍郎・上柱國・汾陽郡開國侯・食邑一千戶・賜紫金魚袋郭贄を遣わし、節を持ちて冊を贈り、爾を秦國王と為す。嗚呼!徳に報いざる無く、予敢えて格言を忘れんや;魂にして知有らば、爾尚お天命を欽せよ。嗚呼哀哉!

原文今遣使太中大夫、尚書工部侍郎、上柱國、汾陽郡開國侯、食邑一千戶、賜紫金魚袋郭贄持節冊贈爾為秦國王。嗚呼!德無不報,予敢忘於格言;魂而有知,爾尚欽於天命。嗚呼哀哉!

中使を命じて其の喪を護り、洛陽らくように帰葬せしむ。鏐より俶に至るまで、世に呉越の地を有すること僅か百年、管内諸州は皆子弟、将校は授任して後に朝に請命し、使相に至る者有り。俶は太師・尚書令兼中書令を任ずること四十年、元帥たりしこと三十五年。及んで朝に帰り卒す。子惟演・惟濟皆童年、召見して慰労し、並びに諸衛将軍より起家す。善く始め令終に窮まり、富貴を極め、福履の盛んなるは、近代比ぶる無し。

原文命中使護其喪歸葬洛陽。自鏐至俶世有吳越之地僅百年,管內諸州皆子弟,將校授任而後請命於朝,有至使相者。俶任太師、尚書令兼中書令四十年,為元帥三十五年。及歸朝卒,子惟演、惟濟皆童年,召見慰勞,並起家諸衛將軍。善始令終,窮極富貴,福履之盛,近代無比。

然れども甚だ儉素にし、自奉は尤だ薄く、常に大帛の衣を服し、幃帳茵褥は皆紫絁を用い、食は味を重ねず。頗る書を知り、雅に吟詠を好む。呉越に在りし日、自ら其の詩数百首を編みて『正本集』と為し、陶穀の奉使して杭州に至るに因り、序を為すを求む。性謙和にして、未だ物に忤わず。藩に在りし日、朝廷の使至る毎に、接遇勤厚なり。上る所の乗輿・服物・器玩は、製作精妙なり。使を遣わし修貢する毎に、必ず庭に羅列し、香を焚き再拝す。其の恭謹此の如し。釈氏を崇信し、前後寺を造ること数百、帰朝して又以て愛子を僧と為す。草書を善くす。上一日使を遣わし謂いて曰く、「卿の草聖を善くするを聞く、一二紙を写し進めよ」と。俶即ち旧に書する所の絹図を以て之を上る。詔書褒美し、因りて玉硯金匣一、紅緑象牙管筆・龍鳳墨・蜀しょく箋・盈丈紙皆百数を賜う。

原文然甚儉素,自奉尤薄,常服大帛之衣,幃帳茵褥皆用紫絁,食不重味。頗知書,雅好吟詠。在吳越日,自編其詩數百首為《正本集》,因陶穀奉使至杭州,求為之序。性謙和,未嘗忤物。在藩日,每朝廷使至,接遇勤厚。所上乘輿、服物、器玩,製作精妙,每遣使修貢,必羅列於庭,焚香再拜,其恭謹如此。崇信釋氏,前後造寺數百,歸朝又以愛子為僧。善草書,上一日遣使謂曰:「聞卿善草聖,可寫一二紙進來。」俶即以舊所書絹圖上之,詔書褒美,因賜玉硯金匣一,紅綠象牙管筆、龍鳳墨、蜀箋、盈丈紙皆百數。

久病に属して家居す。黄門趙海酒に被り其の第に造り求見す。因りて薬数丸を出し、俶に謂いて曰く、「此れ頗る目疾を療す。願わくは王即ち之を餌らんことを」と。俶即ち之を餌る。既に去りて、家人皆惶駭して測る可からず。俶曰く、「此れ但だ酔えるのみ。又何ぞ疑わんや」と。後数日、上聞きて大驚し、海を捕え獄に繫ぎ、杖を決して海島に流す。

原文屬久病家居,有黃門趙海被酒造其第求見,因出藥數丸謂俶曰:「此頗療目疾,願王即餌之。」俶即餌焉。既去,家人皆惶駭不測,俶曰:「此但醉耳,又何疑哉?」後數日,上聞大驚,捕海繫獄,決杖流海島。

初め、俶は胡進思に立てられ、其の兄倧を廃し、越州に徙す。資給豊厚なり。進思屡に之を除かんことを請う。後患を恐るるなり。俶泣いて曰く、「若し吾が兄を殺さば、吾終に忍びず。汝其の志を行わんと欲せば、吾当に賢路を退避せん」と。進思慚じて退く。俶進思の倧を害せんことを慮り、親将薛温を遣わして倧を守衛せしめ、之を戒めて曰く、「汝に廢王の保全を委ぬ。苟も非常有らば、汝当に死を以て之を捍がん」と。温越に至ること旬余、二卒有り夜に刃を持ちて垣を踰え入る。倧戸を闔て之を拒ぎ、声を呼ぶこと外に達す。温徒を領して入り、二卒を庭中に斃す。乃ち進思の遣わす所なり。進思因りて憂懼し、疽背に発して卒す。従左右屡に倧を以て言う者有りと雖も、俶終に之を拒む。倧越州に居ること二十余年にして卒す。

原文初,俶為胡進思所立,廢其兄倧,徙越州,資給豐厚。進思屢請除之,恐為後患,俶泣曰:「若殺吾兄,吾終不忍,汝欲行其志,吾當退避賢路。」進思慚而退。俶慮進思害倧,遣親將薛溫為倧守衛,戒之曰:「委汝以保全廢王,苟有非常,汝當以死捍之。」溫至越旬餘,有二卒夜持刃逾垣入,倧闔戶拒之,呼聲達於外,溫領徒而入,斃二卒於庭中,乃進思之所遣也。進思因憂懼,疽發背,卒。從左右屢有以倧為言,俶終拒之。倧居越州二十餘年卒。

俶建隆已来貢奉絶えず、及び江左に用兵するや、貢する所の数十倍す。先ず是に鏐は戦士多くに己が姓を賜う。後俶朝に帰り、皆同宗と称す。淳化三年、詔して本姓に復せしむ。又浙中の劉氏は鏐の諱を避け、金氏に改む。亦た故に還すを令す。景德中、有司礼賢宅を以て司天監と為さんことを請う。真宗先朝の賜う所を以て、許さず。大中祥符八年、子惟演等復た表を上ぐ。詔して銭五万貫を賜い、仍お各第一区を賜う。

原文俶自建隆已來貢奉不絕,及用兵江左,所貢數十倍。先是鏐與戰士多賜己姓,後俶歸朝,皆稱同宗。淳化三年,詔令復本姓。又浙中劉氏避鏐諱,改為金氏,亦令還故。景德中,有司請以禮賢宅為司天監,真宗以先朝所賜,不許。大中祥符八年,子惟演等復表上之,詔賜錢五萬貫,仍各賜第一區。

子に惟濬・惟治・惟渲・惟演・惟灝・惟溍・惟濟有り。惟渲は韶州団練使に至り、惟灝は賀州団練使に至り、惟溍は左龍武将軍・奨州刺史に至る。惟演は自ら伝有り。

原文子惟濬、惟治、惟渲、惟演、惟灝、惟溍、惟濟。惟渲至韶州團練使,惟灝賀州團練使,惟溍至左龍武將軍、獎州刺史。惟演自有傳。

子 惟濬

原文子 惟濬

惟濬、字は禹川、俶の嫡子なり。裁す数歳、俶表して鎮海鎮東両軍節度副大使・検校太保・鈐轄両浙管内土客諸軍事を授く。建隆元年、検校太傅を加う。三年、建武軍節度を領す。乾徳初、検校太尉を加う。是の年冬、来朝し、因りて南郊の祠に侍す。六年、復た来朝し、郊祀に侍し、兵部員外郎・知制誥盧多遜をして之を迎労せしむ。開宝二年、鎮東等軍節度・浙江東西道観察処置・両浙制置営田発運等使を授く。未だ幾ばくもせず、来朝す。太祖苑中に召し宴し、黄門に令して『簫韶』の楽を奏せしめ、諸王と同席に坐せしむ。白玉帯・珠綴衣・水精鞍勒御馬を賜い、賜賚鉅万計す。月余にして帰遣す。辞する日、又襲衣・玉帯・金鞍勒馬を賜う。四年、又来朝し、因りて南郊の祠に侍し、寵待殊等なり。及び大兵金陵を征するに、惟濬父に従いて毗陵を下し、功を以て平章事を加う。九年、俶に随いて入朝す。俶先に帰り、惟濬を留めて郊祀西洛に扈従せしむ。

原文惟濬,字禹川,俶嫡子也。裁數歲,俶表授鎮海鎮東兩軍節度副大使、檢校太保、鈐轄兩浙管內土客諸軍事。建隆元年,加檢校太傅。三年,領建武軍節度。乾德初,加檢校太尉。是年冬,來朝,因侍祠南郊。六年,復來朝,侍郊祀,命兵部員外郎、知制誥盧多遜迎勞之。開寶二年,授鎮東等軍節度、浙江東西道觀察處置、兩浙制置營田發運等使。未幾,來朝,太祖召宴苑中,令黃門奏《簫韶》樂,與諸王同席而坐。賜白玉帶、珠綴衣、水精鞍勒御馬,賜賚鉅萬計。月餘遣歸,辭日,又賜襲衣、玉帶、金鞍勒馬。四年,又來朝,因侍祠南郊,寵待殊等。及大兵征金陵,惟濬從父下毗陵,以功加平章事。九年,隨俶入朝,俶先歸,留惟濬扈從郊祀西洛。

太宗即位し、兼侍中を加う。太平興国二年、母妃孫氏の憂に丁し、起復し、鎮東大将軍・右金吾衛大将軍、員外置同正を加う。俶将に入朝せんとす。惟濬先に方物を奉じて来貢す。詔して戸部郎中侯涉をして泗州に至り之を迎労せしめ、賜賚算る無く、並びに其の食邑を増す。三年、俶に随いて来朝す。俶尽く浙右の地を献じ、淮海國王に改封し、惟濬を徙めて淮南節度と為す。是の冬、郊祀の恩に、検校太師を加う。太原を平げるに従い、及び幽薊を征するに従い、又大名に幸するに従う。雍熙元年、郊祀し、山南東道節度に改む。四年、安州に徙鎮す。惟濬再び鎮を移すと雖も、常に京師に留まる。端拱初、籍田し、蕭国公に封ず。俄に俶薨ず。起復し、兼中書令を加う。

原文太宗即位,加兼侍中。太平興國二年,丁母妃孫氏憂,起復,加鎮東大將軍、右金吾衛大將軍,員外置同正。俶將入朝,惟濬先奉方物來貢,詔戶部郎中侯涉至泗州迎勞之,賜賚無算,並增其食邑。三年,隨俶來朝,俶盡獻浙右之地,改封淮海國王,徙惟濬淮南節度。是冬,郊祀恩,加檢校太師。從平太原及從征幽薊,又從幸大名。雍熙元年,郊祀,改山南東道節度。四年,徙鎮安州。惟濬雖再移鎮,常留京師。端拱初,籍田,封蕭國公。俄俶薨,起復,加兼中書令。

惟濬は俶の諸子と共に銭金・綾羅・犀玉帯笏・犀角・象牙・丁香・金玉馬脳鞍勒・金玉珠翠首飾・楽器・博具・器皿什物・馬橐駝牛驢車凡そ数十万計を進む。俶の妻俞氏又金銀十余万・犀二十株・通犀赬犀玉帯二十二条・水晶仏像十二事を進む。惟濬又女楽十人を進む。上納れず、各錦綵三十段を賜い之を遣還す。淳化初、杭州銭氏家廟の蔵する所の唐・梁以来累朝の賜う所の玉冊竹冊各三副・鉄券一を以て来上す。上悉く之を以て惟濬に賜う。明年春、疾を得て暴卒す。年三十七。朝を廢すること二日、邠王を追封し、諡して「安僖」と曰う。中使喪事を典む。

原文惟濬與俶諸子共進錢金、綾羅、犀玉帶笏、犀角、象牙、丁香、金玉馬腦鞍勒、金玉珠翠首飾、樂器、博具、器皿什物、馬橐駝牛驢車凡數十萬計。俶妻俞氏又進金銀十餘萬、犀二十株、通犀赬犀玉帶二十二條、水晶佛像十二事。惟濬又進女樂十人,上不納,各賜錦綵三十段遣還之。淳化初,杭州以錢氏家廟所藏唐、梁以來累朝所賜玉冊竹冊各三副、鐵券一來上,上悉以賜惟濬。明年春,得疾暴卒,年三十七。廢朝二日,追封邠王,諡「安僖」,中使典喪事。

子に守吉・守讓有り。守吉は西京作坊使に至る。

原文子守吉、守讓。守吉至西京作坊使。

守譲は字を希仲といい、蔭官により累進して供備庫使となり、天禧四年、諸国の後裔を登用した際に栄州刺史を加領し、東染院使に改め、卒した。守譲は学問に勤勉で文章をよくし、退居して多くは門を閉ざして書を読み、しばしば歌頌を献上し、真宗は優詔をもって褒賞した。文集二十巻あり。子の恕は、曹王元偁の女長安ちょうあん県主を娶る。

原文守讓,字希仲,以蔭累遷供備庫使,天禧四年,錄諸國之後,加領榮州刺史,改東染院使,卒。守讓頗勤學為文章,退居多閉關讀書,屢獻歌頌,真宗優詔褒獎。有集二十卷。子恕,娶曹王元偁女長安縣主。

子に惟治あり。

原文子 惟治

惟治は字を和世といい、廃王倧の長子である。倧が越に遷された初めに惟治は生まれ、俶はこれを愛し、己が子として養育した。幼くして書を読むことを好んだ。八歳で両浙牙内諸軍指揮使を授かり、軍糧営田事を判じ、また徳化軍使に改め、検校太保・台州団練使に遷った。乾徳四年四月、制により寧遠軍節度・検校太傅を授けられ、なお衙職を兼ね、惟濬の節旄と同日に至り、国人はこれを栄誉とした。

原文惟治,字和世,廢王倧之長子。倧初遷於越而惟治生,俶愛之,養為己子。幼好讀書。八歲授兩浙牙內諸軍指揮使,判軍糧營田事,又改德化軍使,遷檢校太保、台州團練使。乾德四年四月,制授寧遠軍節度、檢校太傅,仍兼衙職,與惟濬節旄同日而至,國人榮之。

王師が江南を討つに及び、惟治は俶に従って兵を率いて常州を下し、勲功により奉国軍節度に改めた。俶が入朝するに当たり、惟治に軍国事を権発遣することを命じた。俶が帰還すると、幣を奉じて入貢させ、撫諭の命と賜物は甚だ厚かった。惟治はまた塗金銀の香師子・香鹿鳳鶴孔雀・宝装の髹合・釦金の瓷器万事、呉の繚綾千匹を献上した。辞去の日、襲衣玉帯・塗金の鞍勒馬・金銀器・繒綵一万を超えるものを賜った。

原文王師討江南,惟治從俶率兵下常州,策勳改奉國軍節度。俶入朝,命惟治權發遣軍國事。俶還,令奉幣入貢,撫諭命賜甚厚。惟治又獻塗金銀香師子、香鹿鳳鶴孔雀、寶裝髹合、釦金瓷器萬事,吳繚綾千匹。辭日,賜襲衣玉帶、塗金鞍勒馬、金銀器、繒綵踰萬計。

太宗が嗣位すると、検校太尉に進んだ。太平興国三年、俶が再び入覲した際、また国事を権管した。ある夜厩舎で火災が起こると、惟治は兵を率いて高所に臨んで見下ろし、親信十数人に剣を執らせて命令を伝え、敢えて後ろを顧みる者は斬ると申し渡し、間もなく火は消えた。妻の一族で帳下に属する者が親族を恃んで法を犯したので、惟治は府門で杖背の刑に処すことを命じた。俶が既に土を納れた後、朝廷は考功郎中范旻を杭州知事とし、惟治は兵民の図籍・帑廩の管籥を旻に授け、その弟惟渲・惟灝と共に帰朝した。近郊に至ると、内侍を遣わして諸司に供帳を設けさせ迎労し、京師に至ると即日長春殿で召対し、衣服・金帯・鞍勒馬・器幣を賜い、鎮国軍節度を領するよう改めた。五年八月、車駕が俶の邸に幸し、惟治を召見し、白金一万両を賜った。

原文太宗嗣位,進檢校太尉。太平興國三年,俶再入覲,又權國事。一夕廄中火,惟治率兵臨高下視,令親信十數輩仗劍申令,敢後顧者斬,頃之火息。妻族有隸帳下者恃親犯法,惟治命杖背於府門。俶既納土,朝廷命考功郎中范旻知杭州,惟治奉兵民圖籍、帑廩管籥授旻,與其弟惟渲、惟灝歸朝。次近郊,遣內侍護諸司供帳迎勞至京師,即日召對長春殿,賜衣服、金帶、鞍勒馬、器幣,改領鎮國軍節度。五年八月,車駕幸俶第,召見惟治,賜白金萬兩。

惟治は草隸をよくし、特に二王の書を好み、嘗て言うには、「心が手を御し、手が筆を御すれば、則ち法はその中にある」と。家に蔵する書帖図書は甚だ多く、太宗はこれを知り、嘗て近臣に謂って曰く、「銭俶の児姪は多く草書をよくする」と。そこで翰林書学の賀丕顯をその邸に詣らせ、遍く取ってこれを見させ、曰く、「諸銭は皆浙僧の亜栖の跡を倣う故に、筆力軟弱なり、惟だ惟治のみがよくするなり」と。惟治は嘗て鍾繇・王羲之・唐玄宗の墨跡凡そ七軸を献上し、優詔をもって褒答された。

原文惟治善草隸,尤好二王書,嘗曰:「心能御手,手能御筆,則法在其中矣。」家藏書帖圖書甚眾,太宗知之,嘗謂近臣曰:「錢俶兒侄多工草書。」因命翰林書學賀丕顯詣其第,遍取視之,曰:「諸錢皆效浙僧亞栖之跡,故筆力軟弱,獨惟治為工耳。」惟治嘗以鍾繇、王羲之、唐玄宗墨跡凡七軸為獻,優詔褒答。

雍熙三年、大いに師を出して幽州を征するに当たり、惟治に真定軍府知事兼兵馬都部署を命じた。前日、内殿で曲宴を開き、惟治が詩を献じ、帝はこれを見て喜び、酒宴半ばにして、小黄門を遣わして密かに北面の任を諭した。任地に至ると兵を訓練し士を饗し、頗る政務に勤め、城門に厨饌を設けて使伝を待った。

原文雍熙三年,大出師征幽州,命惟治知真定軍府兼兵馬都部署。前一日曲宴內殿,惟治獻詩,帝覽之悅,酒半,遣小黃門密諭北面之寄。至則訓兵享士,頗勤政務,設廚饌於城門以待使傳。

初め、惟濬は俶の嫡嗣であったが、然し俶はその放蕩無検を以て、故に惟治を器とし、再び国務を権管させた。嘗て一夜、俶が急病に倒れると、孫妃は悉く符籥を収めて惟治に付し、後に惟濬がこれを知り、甚だ恚恨した。入朝に及んで、惟濬はただ奉朝請に止まり、而して惟治に藩任を委ねたのである。俶が薨じ召還されると、起復して検校太師となった。病を移して邸に就き百日、有司が俸給停止を請うたが、特詔により継続して給与された。累上表して節鎮の罷免を請うたが、優詔により許されなかった。

原文初,惟濬雖俶嫡嗣,然俶以其放蕩無檢,故器惟治,再俾權國務。嘗一夕俶暴疾,孫妃悉斂符籥付惟治,後惟濬知之,甚恚恨。洎入朝,惟濬止奉朝請,而委惟治藩任焉。俶薨召還,起復檢校太師。移疾就第百日,有司請罷奉,特詔續給。累上表請罷節鎮,優詔不許。

惟治は病に罹ると、心恍惚として、家事は整わなかった。咸平初年、僮奴が姦私により庭で人を殺し、事が閨閫に連なる。真宗はその按鞫を停め、ただ右監門衛上將軍を授けるに止め、その子の駕部員外郎丕は責授されて郢州団練副使となった。晚年は頗る貧窮した。景德年中、その弟惟演が文を献上すると、上は宰相に対しその公王の後裔として、能く苦心して翰墨に励むと称え、その名を記すよう命じ、因って曰く、「銭氏は世を継いで忠順、子孫は顧みるべきなり、聞くところによれば惟治は頗る貧乏なり、特に軫惻すべきなり」と。特旨により右武衛上將軍に転じ、月俸十万を給した。累進して左驍ぎょう衛上將軍・左神武統軍となった。大中祥符七年七月、卒す。年六十六。太師を贈られた。初め、有司は統軍陳承昭・孟玨の例に倣い、東宮保傅を贈るべきと援けた。上は俶が土を奉じて帰国したことを以て、その贈典を優遇した。また群臣の家で貧乏な者は官に喪事を給されることを欲しないと聞き、詔葬を罷めた。その四子に官を録し、及び外弟・子婿・親校を並びに甄擢した。

原文惟治既病,心恍惚,家事不肅。咸平初,僮奴以姦私殺人於庭,事連閨閫。真宗為停按鞫,止授右監門衛上將軍,其子駕部員外郎丕責授郢州團練副使。晚年頗貧匱。景德中,其弟惟演獻文,上對宰相稱其公王之後,能苦心翰墨,令記其名,因曰:「錢氏繼世忠順,子孫可念,如聞惟治頗貧乏,尤可軫惻。」特轉右武衛上將軍,月給奉十萬。累加左驍衛上將軍、左神武統軍。大中祥符七年七月,卒,年六十六,贈太師。初,有司援統軍陳承昭、孟玨例,當贈東宮保傅。上以俶奉土歸國,優其贈典。又聞群臣家貧乏者不欲官給喪事,為罷詔葬。錄其四子官,及外弟、子婿、親校並甄擢之。

惟治は学を好み、図書万余巻を聚め、多くは異本であった。皮日休・陸亀蒙の詩を慕い、文集十巻あり。書跡は多く人の蔵秘するところとなり、晚年病廢すと雖も、なお或いは筆を揮った。真宗は嘗て惟演に語って曰く、「朕は惟治が書をよくするを知る、然し疾を以て使を遣わして取りに行かせたくはない、卿が数幅求めて進めよ」と。翌日、聖製の詩数十章を写して献上し、白金千両を賜った。

原文惟治好學,聚圖書萬餘卷,多異本。慕皮、陸為詩,有集十卷。書跡多為人藏秘,晚年雖病廢,猶或揮翰。真宗嘗語惟演曰:「朕知惟治工書,然以疾不欲遣使往取,卿為求數輻進來。」翌日,寫聖製詩數十章以獻,賜白金千兩。

初め四明を鎮めた時、嘗て神人が甲を披き、自ら「西嶽神」と称し、惟治に謂って「公の面に缺文あり」と言い、即ち土を捧げてこれを培う夢を見た。後に華州の節鉞を領すること二十年に及んだ。

原文初鎮四明,嘗夢神人披甲,自稱「西嶽神」,謂惟治曰:「公面有缺文」,即捧土培之。後領華州節鉞二十年。

子の丕は字を簡之といい、幼くして学を好んだ。雍熙年中、俶が上言して挙進士を求めたいとし、太宗はその世家の子として、特に内署で試し、秘書丞を授け、金紫を賜い、累遷して駕部郎中となった。嘗て新淦県知事を務め、また衡州知事となった。惟治が卒すると、将作少監として起復し、俄かに三司戸部判官となり、光禄少卿の任に卒した。

原文子丕,字簡之,幼好學。雍熙中,俶上言欲求舉進士,太宗以其世家子,特召試內署,授秘書丞,賜金紫,累遷駕部郎中。嘗知新淦縣,又知衡州。惟治卒,以將作少監起復,俄為三司戶部判官,卒於光祿少卿。

子に惟済あり。

原文子 惟濟

惟済は字を巖夫という。七歳で生まれ、俶が漢南国王に封ぜられた時、本府元従指揮使に奏補され、諸衛将軍を歴任し、恩州刺史を領し、東染院使に改め、真に封州刺史に拝された。真宗が汾陰を祀り還り、苑中で近臣を燕するに当たり、惟済に射を命じると、一発して的を中てた。故事により刺史は射て矢を解かず、帝はこれを解くことを賜い、且つ襲衣・金帯を賜った。

原文惟濟,字巖夫。生七歲,俶封漢南國王,奏補本府元從指揮使,歷諸衛將軍,領恩州刺史,改東染院使,真拜封州刺史。真宗祀汾陰還,燕近臣苑中,命惟濟射,一發中的。故事,刺史射不解箭,帝賜解之,且賜襲衣、金帶。

その後郡を試みることを請い、命ぜられて絳州知事となった。民に桑を条する者がおり、盗人が桑を奪えず、乃ち自らその臂を創り、桑の主が人を殺さんとしたと誣告し、久しく拘束されても判別できなかった。惟済は盗人を取ってこれに食を与え、これを見ると、盗人は左手で匕箸を挙げた。惟済曰く、「右手で人を創る者は上重下軽なり、今汝の創は特に下重なり、正に左手を用いて右臂を傷つけたるなり、爾自ら之を為したるに非ずや」と。供述は遂に服した。帝はこれを聞き、宰相の向敏中に謂って曰く、「惟済が郡を試守して輒ち明辨す、後必ず能吏とならん」と。

原文其後請試郡,命知絳州。民有條桑者,盜奪桑不能得,乃自創其臂,誣桑主欲殺人,久繫不能辨。惟濟取盜與之食,視之,盜以左手舉匕箸,惟濟曰:「以右手創人者上重下輕,今汝創特下重,正用左手傷右臂,非爾自為之邪?」辭遂服。帝聞之,謂宰相向敏中曰:「惟濟試守郡輒明辨,後必為能吏矣!」

潞州に移る。民が外寇ありと驚き相伝え、城に奔って倒れる者が枕を並べるように重なり、惟済は悠々と巡視し、従騎も極めて少なく、民はようやく安堵した。永州団練使に遷り、成徳軍知軍に改める。仁宗即位の際、検校司空しくうを加えられる。民に白金を偽造して質に取り緡銭を得る者がおり、その家が訴え出たので、惟済は「ただ盗難に遭ったと声を張り上げ、高額な懸賞を示せば、質を取った者が残りの代価を請求に来るであろう、そうすれば捕えられる」と言った。果たしてその通りとなり、杖刑を加えて配流した。吉州防禦使として留任を命じられ、虔州観察使に遷り、定州知州となる。前妻の子を虐待する婦人がおり、銅銭を焼いて腕を灼くに至ったので、惟済は婦人の実子を雪中に置き、婦人を枷で拘束してその子が死ぬのを見せしめた。その残酷な行為は多くこの類であった。武昌軍節度観察留後に遷り、保静軍留後に改める。

原文徙潞州。民相驚有外寇,奔城而仆者相枕藉,惟濟從容行視,從騎甚省,民乃安。遷永州團練使,改知成德軍。仁宗即位,加檢校司空。民有偽作白金質取緡錢者,其家來告,惟濟曰:「第聲言被盜,示以重購,質者當來責餘直,即得之矣。」已而果然,乃杖配之。以吉州防禦使留再任,遷虔州觀察使,知定州。有婦人待前妻子不仁,至燒銅錢灼臂,惟濟取婦人所生兒置雪中,械婦人往視兒死。其慘毒多此類。遷武昌軍節度觀察留後,改保靜軍留後。

惟済は賓客を喜び、宴饗の犒賞を豊かにし、家に余財は無く、帝は白金二千両を賜い、公使銭七百余万を負っていた。卒去し、平江節度使を追贈され、諡は「宣恵」。使者を遣わして葬事を護らせ、賻銭二百万・絹千匹を賜う。『玉季集』二十巻がある。惟済は吏事の才幹があり、部下を統制できたが、性格は残酷で、任地ごとに蔓草のように獄舎を満たした。重囚を棄市に処し、あるいは手足を断ち、肝膽を探り出して、衆を威圧するのに用いた。見る者は顔色を変えたが、惟済は平然としていた。

原文惟濟喜賓客,豐宴犒,家無餘貲,帝賜白金二千兩,所負公使錢七百餘萬。卒,贈平江節度使,諡「宣惠」。遣使護葬事,賜賻錢二百萬、絹千匹。有《玉季集》二十卷。惟濟有吏幹,能戢下而性苛忍,所至牽蔓滿獄。重囚棄市,或斷手足,探肝膽,用以威眾。觀者色動,而惟濟自若也。

弟に儼がいる。

原文弟 儼

儼は字を誠允といい、俶の異母弟である。本名は信、淳化初年に改めた。幼くして沙門となり、成長すると、頗る謹厳で学問を好んだ。俶が国封を襲ぐと、鎮東軍安撫副使に任じた。周の顕徳四年、衢州刺史に奏任される。太祖が揚州を平定すると、俶は儼を遣わして入賀させ、閤門副使武懷節に詔を齎して迎労させ、賜与は甚だ厚かった。帰国する際、また玉帯・名馬・錦綵・器皿を賜う。開宝三年、兄の偡に代わって湖州知州となり、宣徳軍安撫使を充てる。俶が詔を奉じて毗陵を攻めるに当たり、儼に漕運を監督させた。太平興国二年、俶の請いに従い、新・媯・儒等州観察使を授け、依然として湖州知州とし、儼の兄の儀は慎・瑞・師等州観察使とした。入朝すると、儼を随州観察使とし、儀を金州観察使とした。郊宮で祭祀に侍従し、特に儼を召してその班位を節度使の次に昇らせた。儀が卒去すると、儼は金州に換任された。常に従駕して天駟監に幸し、従官に馬を賜う際、太宗は有司に勅して「銭儼は儒者である、温順な馬を選んで与えよ」と言った。間もなく、和州判官として出向し、在職十七年。咸平六年、卒去、六十七歳、昭化軍節度使を追贈される。

原文儼,字誠允,俶之異母弟也。本名信,淳化初改焉。幼為沙門,及長,頗謹慎好學。俶襲國封,命為鎮東軍安撫副使。周顯德四年,奏署衢州刺史。太祖平揚州,俶遣儼入賀,命閤門副使武懷節齎詔迎勞,賜賚甚厚。及歸,又賜玉帶、名馬、錦綵、器皿。開寶三年,代兄偡知湖州,充宣德軍安撫使。俶奉詔攻毗陵,命儼督漕運。太平興國二年,從俶之請,授新、媯、儒等州觀察使,仍知湖州,儼兄儀為慎、瑞、師等州觀察使。入朝,以儼為隨州觀察使,儀為金州觀察使。侍祠郊宮,特召升儼班於節度使之次。儀卒,儼換金州。常從幸天駟監,會賜從官馬,太宗敕有司曰:「錢儼儒者,宜擇馴馬給之。」未幾,出判和州,在職十七年。咸平六年,卒,年六十七,贈昭化軍節度。

儼は学問を嗜み、経史に広く渉猟した。若い時、人が大硯を贈る夢を見て、以来文辞を楽しみ、頗る敏捷で豊富であり、当時国中の詞翰は多くその手に成った。京師に帰り、朝廷の文士と交遊し、歌詠は絶えなかった。淳化初年、嘗て『皇猷録』を献じ、咸平年間にはまた『光聖録』を献じ、共に詔を以て嘉答された。著書に前集五十巻・後集二十四巻・『呉越備史』十五巻・『備史遺事』五巻・『忠懿王勲業志』三巻があり、また『貴渓叟自叙伝』一巻を作った。

原文儼嗜學,博涉經史。少夢人遺以大硯,自是樂為文辭,頗敏速富贍,當時國中詞翰多出其手。歸京師,與朝廷文士遊,歌詠不絕。淳化初,嘗獻《皇猷錄》,咸平又獻《光聖錄》,並有詔嘉答。所著有前集五十卷、後集二十四卷、《吳越備史》十五卷、《備史遺事》五卷、《忠懿王勳業志》三卷,又作《貴溪叟自敘傳》一卷。

酒を善く飲み、百卮でも酔わず、外郡に居た時、敵手無きことを患い、ある者が一軍校がほぼ匹敵できると述べたので、儼がその様子を問うと、「飲めば飲むほど、手つきは益々恭しくなる」と言った。儼は「これも常態を変じたもので、善飲とは言えない」と言った。

原文善飲酒,百卮不醉,居外郡嘗患無敵,或言一軍校差可倫擬,儼問其狀,曰:「飲益多,手益恭。」儼曰:「此亦變常,非善飲也。」

従子に昱がいる。

原文從子 昱

昱は字を就之といい、忠献王佐の長子である。佐が薨じると、昱は尚幼く、国人は倧を立て、ここに昱を咸寧・大安二宮使とした。俶が国を嗣ぐと、承制により秀州刺史を授けた。太祖が禅を受けると、俶は昱を遣わして入貢させ、江南の使者と共に後苑で宴射に侍った。江南の使者が先に的を射当てたので、昱にこれを解かせると、昱は弦に応じて射当て、玉帯を賜う。蜀が平定されると、また来賀した。帰国し、台州刺史となる。俶が福州を得ると、昱に守らせた。王師が江南を討つに当たり、東面水陸行営応援使となる。俶に従って入朝し、白州刺史を授かる。

原文昱,字就之,忠獻王佐之長子。佐薨,昱尚幼,國人立倧,遂以昱為咸寧、大安二宮使。俶嗣國,承制授秀州刺史。太祖受禪,俶遣昱入貢,與江南使同侍宴射於後苑。江南使先中的,令昱解之,昱應弦而中,賜以玉帶。及平蜀,復來賀。歸國,為台州刺史。俶得福州,命昱守之。王師討江南,為東面水陸行營應援使。從俶入朝,授白州刺史。

昱は学問を好み、多くの書を集め、吟詠を喜び、多く中朝の卿大夫と唱酬した。嘗て沙門の賛寧と竹の事を談じ、互いに記録を出し合い、昱は百余条を得て、ここに集めて『竹譜』三巻とした。間もなく『太平興国録』を献じた。台省官への換任を求め、学士院に召して制誥三篇を試させ、秘書監に改め、尚書都省を判った。当時新たに省署を修繕し、昱が記を撰して奏上し、また嘗て鍾繇・王羲之の墨跡八巻を献じ、詔を以て褒美された。

原文昱好學,多聚書,喜吟詠,多與中朝卿大夫唱酬。嘗與沙門贊寧談竹事,迭錄所記,昱得百餘條,因集為《竹譜》三卷。俄獻《太平興國錄》。求換臺省官,令學士院召試制誥三篇,改秘書監,判尚書都省。時新葺省署,昱撰記奏御,又嘗以鍾、王墨跡八卷為獻,有詔褒美。

宋州知州として出向し、工部侍郎に改め、寿・泗・宿の三州を歴任したが、概ね善政は無かった。至道年間、郊祀に当たり、進秩すべきところ、太宗は「昱は貴家の子で行いに節度が無く、丞郎に任ずるに宜しくない」と言い、郢州団練使とした。咸平二年、上表して入朝したが、病のため陛見に及ばず、卒去、五十七歳。

原文出知宋州,改工部侍郎,歷典壽、泗、宿三州,率無善政。至道中,郊祀,當進秩,太宗曰:「昱貴家子無檢操,不宜任丞郎。」以為郢州團練使。咸平二年,表入朝,以病不及陛見,卒,年五十七。

昱は筆札を善くし、尺牘に巧みで、太祖は嘗て取って観賞し、御書の金花扇及び『急就章』を賜った。昱は聡明で覆棋ができ、琴画に巧み、酒を斗余り飲んでも乱れなかった。諧謔を善くし、生涯の旧交と終日談宴しても、一度も相手の家諱を犯さなかった。文集二十巻がある。しかし貪婪で放績、称すべき名節は無かった。子を百人ほど生んだ。涉は雍熙年間に進士及第。絳は内殿承制・閤門祗候に至り、累ねて郡を治め、頗る幹力を称された。

原文昱善筆劄,工尺牘,太祖嘗取觀賞之,賜以御書金花扇及《急就章》。昱聰敏能覆棋,工琴畫,飲酒至斗餘不亂。善諧謔,生平交舊終日談宴,未曾犯一人家諱。有集二十卷。然貪猥縱肆,無名節可稱。生子百數。涉,雍熙中進士及第。絳,至內殿承制、閤門祗候,累典郡,頗以幹力稱。

俶の群従にはまた、台州刺史仰の子の昭序があり、字は著明、学問を好み書を集めることを喜び、書は多く自ら書写した。通利軍知軍となり、勤勉で有能と聞こえ、如京副使に至った。衢州刺史偓の子の昭度があり、字は九齢、供奉官に至った。俊敏で詩を作ることに巧み、多くの警句があり、文集十巻があり、蘇易簡が序を為して世に行われた。

原文俶之群從又有台州刺史仰之子昭序,字著明,好學喜聚書,書多親寫。知通利軍,以勤幹聞,至如京副使。衢州刺史偓之子昭度,字九齡,至供奉官。俊敏工為詩,多警句,有集十卷,蘇易簡為序行於世。

孫承祐(附載)

原文孫承祐 附

孫承祐は、杭州銭塘の人である。俶がその姉を妃に納れたため、要職に抜擢され、累遷して浙江東道塩鉄副使・鎮海鎮東両軍節度副使・静海軍節度事知事となる。

原文孫承祐,杭州錢塘人。俶納其姊為妃,因擢處要職,累遷浙江東道鹽鐵副使、鎮海鎮東兩軍節度副使、知靜海軍節度事。

開宝初年、俶の子惟濬に従って入貢し、詔により光禄大夫・検校太保・鎮東鎮海等軍行軍司馬を授かる。俶はまた私に中呉軍節度使に署任した。七年、俶は再び承祐を遣わして入貢させ、襲衣・玉帯・鞍勒馬・黄金器五百両・銀器三千両・雑綵五千匹を賜い、且つ俶に旨を諭させ、江表に事を行わんとす。王師が江を渡ると、内客省使丁徳裕に歩騎一千を率いさせ、詔して俶に所部を以て徳裕と会し常・潤を攻撃させた。承祐は俶に従って毗陵を攻克し、功績が多く、詔して中呉軍を平江軍と改め、承祐に真に節鉞を授けた。太平興国年間、俶が来朝し、その地を尽く献上すると、承祐を泰寧軍節度使に移す。五年、従駕して大名に幸し、留まって知府事となる。雍熙二年、滑州知州に改め、数月で卒去、太子太師を追贈し、中使を遣わして葬事を護らせた。

原文開寶初,隨俶子惟濬入貢,詔授光祿大夫、檢校太保、鎮東鎮海等軍行軍司馬。俶又私署中吳軍節度。七年,俶復遣承祐入貢,賜襲衣、玉帶、鞍勒馬、黃金器五百兩、銀器三千兩、雜綵五千匹,且令諭旨於俶,將有事於江表。及王師渡江,命內客省使丁德裕率步騎一千,詔俶以所部與德裕會攻常、潤。承祐從俶克毗陵,功居多,詔改中吳軍為平江軍,真授承祐節。太平興國中,俶來朝,盡獻其地,徙承祐泰寧軍節度使。五年,從幸大名,留知府事。雍熙二年,改知滑州,數月卒,贈太子太師,中使護葬。

承祐が浙右に在った頃、親寵を恃み、恣に奢侈を極め、一たび飲宴を設くれば、凡そ物命を殺すこと千数に及び、常膳とて亦数十品にして始めて箸を下す。居る室中には、龍脳を焚くこと日に数両を下らず。車駕に従い北征するに、橐駝に大斛を負わせて水を貯え魚を養い、自ら随う。幽州南の村落間に至り、日既に晩く、西京留守石守信と其の子駙馬都尉保吉及び近臣十数人未だ朝食せざるに、適ひ承祐に遇い、即ち止まる所の幕舎に延じ、魚を膾にして食を具へ、水陸の珍を窮め、人皆之を異とす。

原文承祐在浙右日,憑藉親寵,恣為奢侈,每一飲宴,凡殺物命千數,常膳亦數十品方下箸。所居室中,爇龍腦日不下數兩。從車駕北征,以橐駝負大斛貯水養魚自隨。至幽州南村落間,日已旰,西京留守石守信與其子駙馬都尉保吉及近臣十數人尚未朝食,適遇承祐,即延所止幕舍中,膾魚具食,窮極水陸,人皆異之。

承祐少き時、嘗て人の蓍草一本を以て、其の一を増して之を授くるを夢みたり。既に寤り、親しき者に語りて曰く、「『大衍の数五十、其の用ふる所四十有九』、今其の一を増す、我が寿此に止まるか」と。果たして五十にして卒す。

原文承祐少時,嘗夢人以蓍草一本,增其一而授之。既寤,以語所親曰:「『大衍之數五十,其用四十有九』,今增其一,我壽止於此乎。」果五十而卒。

子の誘は、駕部郎中に至り、出でて淮南節度行軍司馬となる。

原文子誘,至駕部郎中,出為淮南節度行軍司馬。

沈承禮 附

原文沈承禮 附

沈承禮は、湖州烏程の人なり。錢鏐幕府に辟置し、処州刺史に署す。鏐の子元瓘、女を以て之に妻せしめ、府中右職に署し、出でて台州刺史となる。元瓘卒し、子の佐嗣ぎ、承礼に親兵を掌らしむ。俶位を襲ぎ、威武軍節度事を知り、両浙都鈐轄使を充てしむ。

原文沈承禮,湖州烏程人。錢鏐辟置幕府,署處州刺史。鏐子元瓘以女妻之,署為府中右職,出為台州刺史。元瓘卒,子佐嗣,以承禮掌親兵。俶襲位,命知威武軍節度事,充兩浙都鈐轄使。

王師江南を征するに、俶承礼を遣わし水陸数万を率ひて毗陵を平げるを助け、因りて潤州を攻む。城中の兵夜に出でて外柵を焚く、諸将皆馳せ救はんと欲す、承礼曰く、「古人言ふ、東南を撃ちて西北に備ふる者は、此れ之を謂ふなり」と。士に皆甲を擐き蓐食せしめ、堅壁して動かず。他の壘に備へを設けざる者は悉く驚擾す、独り承礼の所部は敵人の窺ふを敢へず。丹陽平ぎ、遂に兵を率ひて建業に抵る。李煜朝に帰し、其の功を録し、真に福州節制を授く。太平興国初、俶浙右の地を尽く献じ、承礼を徙めて密州に鎮せしむ。八年、卒す、年六十七。朝を廃すること二日、太子太師を贈り、中使葬を護る。

原文王師征江南,俶遣承禮率水陸數萬人助平毗陵,因攻潤州。城中兵夜出焚外柵,諸將皆欲馳救,承禮曰:「古人有言,擊東南而備西北者,此之謂也。」命士皆擐甲蓐食,堅壁不動。他壘不設備者悉驚擾,獨承禮所部敵人不敢窺。丹陽平,遂率兵抵建業。李煜歸朝,錄其功,真授福州節制。太平興國初,俶盡獻浙右地,徙承禮鎮密州。八年,卒,年六十七。廢朝二日,贈太子太師,中使護葬。

初め、秦王廷美の敗るるや、有司按験す、俶・惟濬・孫承祐及び陳洪進皆嘗て贈遺有り、独り承礼には之無かりき。

原文初,秦王廷美之敗也,有司按驗,俶、惟濬、孫承祐及陳洪進皆嘗有贈遺,獨承禮無焉。