宋史

列傳第二百三十八 世家二 西蜀孟氏孟昶(子:玄喆 玄珏 弟:仁贄 仁裕 仁操 附:伊審徵 韓保正 王昭遠 趙崇韜 高彦儔 趙彦韜 龍景昭 幸寅遜 李廷珪 李昊 毋守素 歐陽迥)

列傳第二百三十八 世家二 西蜀孟氏孟昶(子:玄喆 玄珏 弟:仁贄 仁裕 仁操 附:伊審徵 韓保正 王昭遠 趙崇韜 高彦儔 趙彦韜 龍景昭 幸寅遜 李廷珪 李昊 毋守素 歐陽迥)

西蜀孟氏

原文西蜀孟氏

孟昶

原文孟昶

西蜀の孟昶は、初め名を仁贊といい、僭位して後に改めた。その先祖は邢州龍岡の人である。父の知祥は後唐の武皇に仕え、武皇は弟の娘を娶らせた。これが瓊華長公主である。同光の初め、知祥は太原尹・知留守事となった。三年、蜀を平定した。四年、知祥を劍南西川節度副大使・知節度事とした。明宗が即位すると、知祥に命じて東川を討平させ、知祥は自ら両川節度を領し、明宗は即座にこれを授けた。長興四年、蜀王に封じ、墨制を行うことを許された。五年、閔帝が立つと、ついに蜀において帝を称し、元を明德と改めた。時に清泰元年である。事は『五代史』に詳しい。昶の母李氏は、もと莊宗の嬪御であり、知祥に賜わったもので、天祐十六年己卯十一月、太原において昶を生んだ。初め、知祥が西川を鎮めた時、一族を連れて行くことができなかった。天成元年、衙校を派遣して太原の家族を迎えることを奏上し、明宗はこれにより長公主及び昶と生母を蜀まで護送させた。公主は長興三年に卒した。

原文西蜀孟昶,初名仁贊,及僭位改焉。其先邢州龍岡人。父知祥,事後唐武皇,武皇以弟之子妻之,是為瓊華長公主。同光初,知祥為太原尹、知留守事。三年,平蜀。四年,以知祥為劍南西川節度副大使、知節度事。明宗即位,命知祥討平東川,知祥自領兩川節度,明宗即以授之。長興四年,封蜀王,許行墨制。五年,閔帝立,乃稱帝於蜀,改元明德,時清泰元年也。事具《五代史》。昶母李氏,本莊宗嬪御,以賜知祥,天祐十六年己卯十一月,生昶於太原。初,知祥鎮西川,不及以族行。天成元年,奏遣衙校迎家太原,明宗因令部送長公主及昶與所生母至蜀。公主以長興三年卒。

知祥は初め昶を西川節度行軍司馬に任じ、僭号すると、昶を檢校太保・同平章事・崇聖宮使・東川節度とした。知祥が病み、皇太子に立て、軍国を監する権限を与えた。明德元年七月、知祥が卒すると、昶が位を襲い、年は十六歳に始まり、ただ明德の年号を称し、政事を趙季良・張知業・李仁罕らに委ねた。二年、その母李氏を皇太后と尊んだ。四年、元を廣政と改めた。後に事があって仁罕・知業を誅し、ここに親政した。十三年、号を「睿文英武仁聖明孝皇帝」と加えた。

原文知祥初署昶西川節度行軍司馬,僭號,以昶為檢校太保、同平章事、崇聖宮使、東川節度。知祥疾,立為皇太子,權監軍國。明德元年七月,知祥卒,昶襲位,年始十六,止稱明德年號,委政於趙季良、張知業、李仁罕等。二年,尊其母李氏為皇太后。四年,改元廣政。後以事誅仁罕、知業,乃親政事。十三年,加號「睿文英武仁聖明孝皇帝」。

晉の末、秦州節度使何建・鳳州防禦使石奉頵がともに城を以て昶に降った。時に契丹が華を乱し、漢祖が幷門より起ち、中土は蝗害と旱魃が連年したので、昶はますます自ら大なりとし、貢部を開き、郊祀の礼を行い、ここより君臣は奢侈に耽り放縦となった。周の世宗が秦・鳳を克つに及んで、昶は初めて懼れ、先に捕らえた濮州刺史胡立を放還し、世宗に書を致して、大蜀皇帝と称し、かつ家世は邢臺にあり、郷里の分を厚くせんことを願うと述べた。世宗はその無礼を怒り、答えなかった。昶はますます安からず、ここに劍門・夔・峽に多く芻粟を積み、師旅を増置した。用度が足りず、ついに鉄銭を鋳造した。境内の鉄を禁じ、すべて器用で鉄を以て作るべきものは、場を置いてこれを売り、その利を専らにした。

原文晉末,秦州節度使何建、鳳州防禦使石奉頵俱以城降昶。時契丹亂華,漢祖起幷門,中土蝗旱連歲,昶益自大,開貢部,行郊祀禮,自此君臣奢縱。及周世宗克秦、鳳,昶始懼,放還先所獲濮州刺史胡立,致書世宗,稱大蜀皇帝,且言家世邢臺,願敦鄉里之分。世宗怒其無禮,不答。昶愈不自安,乃於劍門、夔、峽多積芻粟,增置師旅。用度不足,遂鑄鐵錢。禁境內鐵,凡器用須鐵為之者,置場鬻之,以專其利。

その子玄喆を太子に立て、王昭遠・伊審徵・韓保正・趙崇韜らを用いて機要を分掌させ、内外の兵権を総べさせた。母の李氏が昶に謂って曰く、「私はかつて莊宗が河を跨いで梁軍と戦うのを見、また爾の父が并へい州において契丹を防ぎ、蜀に入って両川を定めるのを見た。当時、兵を主る者は功なき者には授けず、故に士卒は畏服した。昭遠のような者は、微賤より出で、ただ爾が就学の年より、左右に給事したに過ぎない。また保正らは皆、世祿の子であり、素より兵を知らず、一旦辺疆に警急あれば、此輩に何の智略があって敵を禦がん。高彥儔は爾の父の故人であり、心を秉ね忠実にして、多く経練を経ておる。此れは委任すべし。」と。昶はその言を用いることができなかった。

原文立其子玄喆為太子,用王昭遠、伊審徵、韓保正、趙崇韜等分掌機要,總內外兵柄。母李氏謂昶曰:「吾嘗見莊宗跨河與梁軍戰,又見爾父在并州捍契丹及入蜀定兩川,當時主兵者非有功不授,故士卒畏服。如昭遠者,出於微賤,但自爾就學之年,給事左右;又保正等皆世祿之子,素不知兵,一旦邊疆警急,此輩有何智略以禦敵?高彥儔是爾父故人,秉心忠實,多所經練,此可委任。」昶不能遵用其言。

太祖が荊・楚を下すに及んで、昶は使を遣わして朝貢せんとしたが、昭遠らが固くこれを止めた。太祖は詔して、蜀の邸吏・将卒で先に江陵にいた者をことごとく放還し、なお銭帛を給賜して遣わした。乾徳二年、昶は孫遇・楊蠲・趙彥韜を諜として京師に遣わした。彥韜は密かに昶が并州の劉鈞に与えた蠟丸の帛書を取って告げた。その書に云く、「早歳曾て尺書を奉り、遠く睿聴に達せしむ。丹素は翰墨に備陳し、歓盟は已に金蘭に保たる。洎て吊伐の嘉音を伝うるに及び、実に輔車の喜色を動かす。尋いで褒・漢に、師徒を添駐し、只だ霊旗の河を済するを待ち、便ちに前鋒を遣わして境を出ださん。」と。先に、太祖はすでに西伐の意ありながら発せず、書を覧るに及んで、喜んで曰く、「我が師を用いるに名有り。」と。即ち忠武軍節度王全斌を命じて鳳州路行營前軍兵馬都部署と充て、武信軍節度・侍衛歩軍都指揮使崔彥進を副都部署と充て、枢密副使王仁贍を都監と充て、龍捷右廂都指揮使史延徳を馬軍都指揮使と充て、虎捷右廂都指揮使張萬友を歩軍都指揮使と充て、隴州防禦使張凝を先鋒都指揮使と充て、左神武大将軍王継濤を濠砦使と充て、内染院使康延澤を馬軍都監と充て、翰林副使張煦を歩軍都監と充て、供奉官田仁朗を濠砦都監と充て、殿直鄭粲を先鋒都監と充て、歩軍都軍頭向韜を先鋒都軍頭と充て、寧江軍節度・侍衛馬歩軍都指揮使劉廷譲を帰州路行營前軍兵馬副都部署と充て、内客省使・枢密承旨曹彬を都監と充て、客省使武懷節を戦棹部署と充て、龍捷左廂都指揮使李進卿を歩軍都指揮使と充て、前階州刺史高彥暉を先鋒都指揮使と充て、右衛将軍白廷誨を濠砦使と充て、御厨副使朱光緒を馬軍都監と充て、儀鸞副使折彥贇を歩軍都監と充て、八作副使王令嵒を先鋒都監と充て、供奉官郝守濬を濠砦都監と充て、馬歩軍都軍頭楊光美を戦棹左右廂都指揮使と充て、供奉官薬守節を戦棹左廂都監と充て、殿直劉漢卿を戦棹右廂都監と充て、禁兵三万人・諸州兵二万人を率いて分路してこれを討たしめた。詔して孫遇らに命じ、江山曲折の状及び兵砦戍守の処の道里遠近を指画させ、画工にこれを図らせて、全斌らに授けた。因って謂って曰く、「西川は取るべしや否や。」と。全斌ら対えて曰く、「臣等、天威に仗り、廟算に遵い、日を刻して定むべし。」と。龍捷右廂都校史延徳が前に進み出て奏して曰く、「西川一方、仮令天上に在りて、人能く到らざれば、固より如何ともすべからず。若し地上に在らば、今の兵力を以てすれば、到りて即ち平げん。」と。上はその言を壮とし、これに謂って曰く、「汝等果敢なること此の如くならば、我何をか憂えん。」と。また全斌らに謂って曰く、「凡そ城砦を克つには、ただその器甲芻糧を籍没するに止め、悉く銭帛を以て戦士に分給せよ。」と。

原文及太祖下荊、楚,昶欲遣使朝貢,昭遠等固止之。太祖詔蜀之邸吏、將卒先在江陵者並放還,仍給賜錢帛以遣。乾德二年,昶遣孫遇、楊蠲、趙彥韜為諜至京師。彥韜潛取昶與并州劉鈞蠟丸帛書以告,其書云:「早歲曾奉尺書,遠達睿聽。丹素備陳於翰墨,歡盟已保於金蘭。洎傳吊伐之嘉音,實動輔車之喜色。尋於褒、漢,添駐師徒,只待靈旗之濟河,便遣前鋒而出境。」先是,太祖已有西伐意而未發,及覽書,喜曰:「吾用師有名矣。」即命忠武軍節度王全斌充鳳州路行營前軍兵馬都部署,武信軍節度、侍衛步軍都指揮使崔彥進充副都部署,樞密副使王仁贍充都監,龍捷右廂都指揮使史延德充馬軍都指揮使,虎捷右廂都指揮使張萬友充步軍都指揮使,隴州防禦使張凝充先鋒都指揮使,左神武大將軍王繼濤充濠砦使,內染院使康延澤充馬軍都監,翰林副使張煦充步軍都監,供奉官田仁朗充濠砦都監,殿直鄭粲充先鋒都監,步軍都軍頭向韜充先鋒都軍頭,寧江軍節度、侍衛馬步軍都指揮使劉廷讓充歸州路行營前軍兵馬副都部署,內客省使、樞密承旨曹彬充都監,客省使武懷節充戰棹部署,龍捷左廂都指揮使李進卿充步軍都指揮使,前階州刺史高彥暉充先鋒都指揮使,右衛將軍白廷誨充濠砦使,御廚副使朱光緒充馬軍都監,儀鸞副使折彥贇充步軍都監,八作副使王令嵒充先鋒都監,供奉官郝守濬充濠砦都監,馬步軍都軍頭楊光美充戰棹左右廂都指揮使,供奉官藥守節充戰棹左廂都監,殿直劉漢卿充戰棹右廂都監,率禁兵三萬人、諸州兵二萬人分路討之。詔令孫遇等指畫江山曲折之狀,及兵砦戍守之處道里遠近,俾畫工圖之,以授全斌等。因謂曰:「西川可取否?」全斌等對曰:「臣等仗天威,遵廟算,刻日可定。」龍捷右廂都校史延德前奏曰:「西川一方,倘在天上,人不能到,固無可奈何。若在地上,以今之兵力,到即平矣。」上壯其言,謂之曰:「汝等果敢如此,我何憂乎!」又謂全斌等曰:「凡克城砦,止籍其器甲芻糧,悉以錢帛分給戰士。」

兵の至るに及んで、昶は王昭遠・趙崇韜・韓保正・李進らを遣わして来たり拒戦させた。昭遠らは相次いで擒らえられ、昶は大いに懼れ、金帛を出して兵を募り、その子玄喆にこれを統率させ、李廷珪・張惠安をその副とし、以て劍門を守らせた。玄喆は素より武を習わず、廷珪・惠安は皆、庸懦にして識無し。玄喆は成都を離れ、ただ姫妾・楽器及び伶人数十輩を携え、晨夜嬉戯し、軍政を恤れみなかった。綿州に至り、宋師が已に劍門を破ったと聞き、遂に遁れて東川に帰り、過ぐる所の廬舎倉稟を焚いて去った。昶はますます惶駭し、左右に計を問うた。老将の石斌有り、これに対えて宋師遠来、勢い久しからずとし、兵を聚めて固守し以てこれを老いさせんことを請うた。昶曰く、「我が父子は豊衣美食を以て士を養うこと四十年、敵に遇うに及んで、我が為に東向して一矢を発する能わず。今若し壘を固くせば、何人か我が為に命を効せん。」と。

原文及兵至,昶遣王昭遠、趙崇韜、韓保正、李進等來拒戰。昭遠等相繼就擒,昶大懼,出金帛募兵,令其子玄喆統之,李廷珪、張惠安為其副,以守劍門。玄喆素不習武,廷珪、惠安皆庸懦無識。玄喆離成都,但攜姬妾、樂器及伶人數十輩,晨夜嬉戲,不恤軍政。至綿州,聞宋師已破劍門,遂遁歸東川,所過焚廬舍倉稟而去。昶益惶駭,問計於左右。有老將石斌,對以宋師遠來,勢不能久,請聚兵固守以老之。昶曰:「吾父子以豐衣美食養士四十年,及遇敵,不能為我東向發一矢。今若固壘,何人為我效命?」

三年正月、昶はその通奏使伊審徵を遣わして表を全斌のもとに齎し降伏を請い、且つ言うには、「中外の骨肉二百余人あり、親年幾七十に及ぶ者あり、願わくは甘旨の養いを終えさせ、睽離の責めを免じ賜わらば、則ち祖宗の血食は少しく延びるを得ん」と。末に劉禅・陳叔宝の故事を引き、封号を請う。全斌らは既にその降を受け、馬軍都監康延澤を遣わし先ず百騎を以て城に入り昶に会い、恩信を諭し、三日留まり、府庫を尽く封じて還る。

原文三年正月,昶遣其通奏伊審徵齎表詣全斌請降,且言:「中外骨肉二百餘人,有親年幾七十,願終甘旨之養,免賜睽離之責,則祖宗血食庶獲少延。」末援劉禪、陳叔寶故事以請封號。全斌等既受其降,遣馬軍都監康延澤先以百騎入城見昶,諭以恩信,留三日,盡封府庫而還。

昶はまたその弟仁贄を遣わし闕に詣でて上表し言う。

原文昶又遣其弟仁贄詣闕上表言:

「先臣は唐室に命を受け、牙を蜀川に建つ。時に事の変遷に因り、人心の擁迫に為す。先臣即世し、臣方に丱年、猥りに童昏を以て、謬りに余緒を承く。小事大の礼に乖き、藩を称え国に奉ずるの誠を闕く。習いを染めて安きを偸み、因循して歳を積む。以て上宸算を煩わし、遠く王師を発する所以なり。勢は甚だ疾雷の如く、功は破竹の如し。顧みて惟うに懦卒、焉んぞ敢えて鋒に当たらんや。尋いで手を束ねて以て帰すと云い、ただ心を傾けて以て命を俟つ。

原文「先臣受命唐室,建牙蜀川,因時事之變更,為人心之擁迫。先臣即世,臣方丱年,猥以童昏,繆承餘緒。乖以小事大之禮,闕稱藩奉國之誠,染習偷安,因循積歲。所以上煩宸算,遠發王師,勢甚疾雷,功如破竹。顧惟懦卒,焉敢當鋒?尋束手以云歸,止傾心而俟命。

今月七日、已に私署の通奏使・宣徽南院使伊審徵に命じて表を奉じ帰降せしむ。路に寇攘有るを以て、前進するを得ず。臣尋いで更に兵士を令し援送せしむ。十一日に至り、尚お前表未だ達せざるを恐れ、続いて供奉官王茂隆を遣わし再び前表を齎す。十二日以後、相次いで方に軍前に到る。必ずや血誠、上達し睿聴に達すべし。臣今月十九日、已に親男諸弟を率い、降礼を軍門に納む。老母諸孫に至りては、余喘を私第に延ぶ。

原文今月七日,已令私署通奏使、宣徽南院使伊審徵奉表歸降,以緣路寇攘,前進不得。臣尋更令兵士援送,至十一日,尚恐前表未達,續遣供奉官王茂隆再齎前表。至十二日以後,相次方到軍前,必料血誠,上達睿聽。臣今月十九日,已領親男諸弟,納降禮於軍門,至於老母諸孫,延餘喘於私第。

陛下は至仁広く覆い、大徳は生を好む。臣が数年を仮息するを顧み、此の日に全躯するを望む所なり。今元戎の慰恤を受け、監護撫安せらる。若し天地の慈を垂れずんば、豈に軍民の賜を受くるを見んや。臣も亦た自ら過咎を量り、尚お切に憂疑す。謹みて親弟を遣わし闕に詣で表を奉じ、罪を待ちて以て聞こえしむ。」

原文陛下至仁廣覆,大德好生,顧臣假息於數年,所望全軀於此日。今蒙元戎慰恤,監護撫安,若非天地之垂慈,豈見軍民之受賜!臣亦自量過咎,尚切憂疑,謹遣親弟詣闕奉表,待罪以聞。」

太祖詔して曰く。

原文太祖詔曰:

「朕は上穹に命を受け、中土を臨み制す。姑く民を保ちて徳を崇ぐるを務め、豈に武を右にして兵を佳しとせんと思わんや。戎に臨むに至りては、蓋し已むを得ざるなり。況んや益部は、僻く一隅に処り、僭窃の愆を思わず、輒ち窺覦の志を肆にし、潜かに幷寇と結び、自ら釁端を啓く。爰に偏師を命じ、往きて吊伐を申す。霊旗の指す所、逆壘自ら平ぐ。

原文「朕以受命上穹,臨制中土,姑務保民而崇德,豈思右武以佳兵?至於臨戎,蓋非獲已。矧惟益部,僻處一隅,靡思僭竊之愆,輒肆窺覦之志,潛結幷寇,自啟釁端。爰命偏師,往申吊伐,靈旗所指,逆壘自平。

朕嘗て中宵憮然たり、兆民何の罪ぞ。屡馹騎を馳せ、兵鋒を厳かに戒め、務めて拯溺の懐を宣べ、以て招携の礼を尽くさんとす。而して卿果たしく能く官属を率いて命を請い、表疏を拝して恩を祈り、慈親に託し、其の宗祀を保ち、庫府を悉く封じて、王師を待つ。咎を追い図を改め、将に自ら多福を求めんとす。瑕を匿し垢を含み、当に尽く前非を滌うべし。朕は言を食わず、爾は他慮無かれ。」

原文朕嘗中宵憮然,兆民何罪!屢馳馹騎,嚴戒兵鋒,務宣拯溺之懷,以盡招攜之禮。而卿果能率官屬而請命,拜表疏以祈恩,託以慈親,保其宗祀,悉封庫府,以待王師。追咎改圖,將自求於多福;匿瑕含垢,當盡滌於前非。朕不食言,爾無他慮。」

昶は乃ち挙族と官属を率いて峡江より下り、江陵に至る。上は皇城使竇思儼を遣わし迎え労う。四月初め、昶と母は襄漢に至り、復た使者を遣わし詔を齎して茶薬を賜う。賜う所の詔は名を称せず、仍って昶の母を国母と呼ぶ。昶将に至らんとす、太宗を命じて近郊にて労う。昶は子弟を率いて素服し罪を待ち闕下にあり、太祖は崇元殿に御し、礼を備えて之に見え、昶に襲衣・玉帯・黄金の鞍勒馬・金器千両・銀器万両・錦綺千段・絹万匹を賜う。又た昶の母に金器三百両・銀器三千両・錦綺千匹・絹千匹を賜う。子弟及び其の官属等には襲衣・金玉帯・鞍勒馬・車乗・器幣差等あり。又た使者を分遣し江陵・鳳翔に詣で其の家属に銭帛を賜い、疾病ある者は医薬を給す。即日大明殿に宴す。先に、有司に詔し右掖門外、汴水に臨み大第五百間を起ちて昶を待たしむ。供帳悉く備わり、此に至りて之を賜う。又た其の官属の為に各々居第を営む。

原文昶乃舉族與官屬由峽江而下,至江陵,上遣皇城使竇思儼迎勞之。四月初,昶與母至襄漢,復遣使齎詔賜茶藥。所賜詔不名,仍呼昶母為國母。昶將至,命太宗勞於近郊。昶率子弟素服待罪闕下,太祖御崇元殿,備禮見之,賜昶襲衣、玉帶、黃金鞍勒馬、金器千兩、銀器萬兩、錦綺千段、絹萬匹;又賜昶母金器三百兩、銀器三千兩、錦綺千匹、絹千匹;子弟及其官屬等襲衣、金玉帶、鞍勒馬、車乘、器幣有差;又遣使分詣江陵、鳳翔賜其家屬錢帛,疾病者給以醫藥。即日宴於大明殿。先是,詔有司於右掖門外,臨汴水起大第五百間以待昶,供帳悉備,至是賜之,又為其官屬各營居第。

翌日、詔して曰く。

原文翌日,詔曰:

「伯禹川を導き、黒水は本より梁州の域なり。《河図》象を括み、岷山は直に井絡の墟なり。是れ坤維と曰い、素より王土と為す。中原多故に属し、四海群飛す。遂に山河に於いて剖裂し、競いて位号に於いて僭窃す。朕は㝢県を削平し、載せて皇綱を整え、周・漢の旧疆を復し、群后を寵綏す。唐・虞の大訓を采り、万邦を協和す。六年茲に於いて、百揆時に叙す。礼楽征伐の柄は、尽く朝廷より出ず。蛮夷山海の君は、咸く職貢を修む。一昨長庚に順いて律を授け、時雨に法りて師を興す。先ず誕告の文を申し、以て徯来の衆を慰む。

原文「伯禹導川,黑水本梁州之域;《河圖》括象,岷山直井絡之墟。是曰坤維,素為王土。屬中原多故,四海群飛,遂剖裂於山河,競僭竊於位號。朕削平㝢縣,載整皇綱,復周、漢之舊疆,寵綏群后;采唐、虞之大訓,協和萬邦。六年於茲,百揆時敘。禮樂征伐之柄,盡出朝廷;蠻夷山海之君,咸修職貢。一昨順長庚而授律,法時雨以興師,先申誕告之文,以慰徯來之眾。

咨うるに爾偽蜀主孟昶、克く余緒を承け、一隅を保拠し、正朔を擅にして以て自ら尊び、歳時を歴て而して滋く久し。王師の致討するに属し、天道の盈を悪むを察し、此の綏懐を体し、効順を思いて、尽く群吏を率い、軍門に降る。手疏を抗して以て誠を陳べ、天閽に伏して以て命を請う。是を用いて大信を昭示し、疵瑕を尽く滌い、彝章を度越し、崇秩に升す。紫微の近署に冠し、以て内朝に奉ぜしめ、鶉首の奥区を剪ち、之を封邑と為す。異数に率従し、式に殊私を洽う。爾宜しく欽承し、往きて厥の位を践むべし。開府儀同三司・検校太師兼中書令・秦国公に可とし、上鎮節度使の奉禄を給す。余の官は除拝差等あり。」

原文咨爾偽蜀主孟昶,克承餘緒,保據一隅,擅正朔以自尊,歷歲時而滋久。屬王師致討,察天道之惡盈,體此綏懷,思於效順,盡率群吏,降於軍門。抗手疏以陳誠,伏天閽而請命。是用昭示大信,盡滌疵瑕,度越彝章,升於崇秩。冠紫微之近署,以奉內朝;剪鶉首之奧區,為之封邑。率從異數,式洽殊私。爾宜欽承,往踐厥位。可開府儀同三司、檢校太師兼中書令、秦國公,給上鎮節度使奉祿。餘官除拜有差。」

昶数日にして卒す。年四十七。太祖は朝を廃すること五日、素服して哀を発し大明殿に於いてす。尚書令しょうしょれいを賜い、楚王を追封し、諡して「恭孝」と曰う。賻に布帛千匹を賜い、葬事は官に給す。後数日、其の母李氏も亦た卒す。初め、李氏は昶に随い京師に至る。太祖は数たび肩輿を命じて宮に入り、之に謂いて曰く、「母善く自ら愛せよ、戚戚として郷土を懐うること無かれ、異日当に母を送り帰さん」と。李氏曰く、「妾をして安く往かしめん」と。太祖曰く、「蜀に帰らしめん」と。李氏曰く、「妾の家は本より太原なり。倘くは幷土に帰り老いんことを得ば、妾の願いなり」と。時に晋陽未だ平らかならず、太祖其の言を聞きて大いに喜び、曰く、「劉鈞を平ぐるを俟ちて、即ち母の願う所の如くせん」と。因りて厚く賜賚を加う。昶の卒するに及び、哭せず、酒を以て地に酹いて曰く、「汝は社稷に死する能わず、生を貪りて以て今日に至る。吾が死を忍ぶ所以の者は、汝在るを以てなり。今汝既に死す、吾何を以てか生かん」と。因りて食わず、数日にして卒す。太祖聞きて之を傷み、賻贈を加等す。鴻臚卿范禹偁を令して喪事を護らしめ、昶と俱に洛陽らくように葬る。詔して奉義甲士千人を発して護送せしむ。

原文昶數日卒,年四十七。太祖廢朝五日,素服發哀於大明殿。賜尚書令,追封楚王,諡「恭孝」,賻布帛千匹,葬事官給。後數日,其母李氏亦卒。初,李氏隨昶至京師,太祖數命肩輿入宮,謂之曰:「母善自愛,無戚戚懷鄉土,異日當送母歸。」李氏曰:「使妾安往?」太祖曰:「歸蜀爾。」李氏曰:「妾家本太原,倘得歸老幷土,妾之願也。」 時晉陽未平,太祖聞其言大喜,曰:「俟平劉鈞,即如母所願。」因厚加賜賚。及昶卒,不哭,以酒酹地曰:「汝不能死社稷,貪生以至今日。吾所以忍死者,以汝在爾。今汝既死,吾何生焉!」因不食,數日卒。太祖聞而傷之,賻贈加等。令鴻臚卿范禹偁護喪事,與昶俱葬洛陽,詔發奉義甲士千人護送。

七月、正衙に礼を備えて昶を冊命す。其の文に曰く。

原文七月,正衙備禮冊命昶,其文曰:

「維れ乾徳三年、歳次乙丑、七月己巳朔、二十四日戊子、皇帝若しく曰く、「咨うるに爾故検校太師兼中書令・秦国公孟昶、冊贈の典は、以て世祚を彰かにし勲伐を紀す所以なり。継絶の義は、以て異域を旌し来庭を表す所以なり。苟も全功に匪ずんば、寧くか二者を兼ねん。国家は乾に乗り運を撫し、地を括み図を開く。至徳を勲・華に稽え、深仁を湯・禹に体す。既に壷関の乱を定め、復た淮夷の凶を剪り、荊に及び衡に至り、逋穢を洗蕩す。以て君人の道は、先ず徳にして後に刑なり。王者の師は、征有りて戦無しと為す。兵威震疊し、寰宇来同す。以て両川を薄伐し、三峡に徂征するに至る。

原文「維乾德三年,歲次乙丑,七月己巳朔,二十四日戊子,皇帝若曰:「咨爾故檢校太師兼中書令、秦國公孟昶,冊贈之典,所以彰世祚而紀勳伐,繼絕之義,所以旌異域而表來庭。苟匪全功,寧兼二者。國家乘乾撫運,括地開圖。稽至德於勳、華,體深仁於湯、禹。既定壺關之亂,復剪淮夷之凶,暨荊及衡,洗蕩逋穢。以為君人之道,先德而後刑;王者之師,有征而無戰。兵威震疊,寰宇來同。以至薄伐兩川,徂征三峽。

ただ汝の昶は乃の堂構を襲い、巴庸を拠有しつつも、よく皇霊を祇畏し、宗緒を保全し、機を知り変を識り、委順して全きを図る。子牟の魏闕の心を馳せ、伯禹の塗山の会を奉ず。朕自ら献款を聞き、まことに虚懐を切にす。舟車は至止の初めを欣び、邸第には非常の制を錫う。封崇の異数、永年の祈保。景命融けず、奄然として殂謝す。

原文惟爾昶襲乃堂構,據有巴庸,而能祗畏皇靈,保全宗緒,知機識變,委順圖全。馳子牟魏闕之心,奉伯禹塗山之會。朕自聞獻款,良切虛懷。舟車欣至止之初,邸第錫非常之制。封崇異數,祈保永年。景命不融,奄然殂謝。

ああ、爾には親に及ぶの孝あり、特に常倫に異なり、爾には上に達するの情あり、終養を期すところなり。何ぞ高穹の祐せずして、幽壤と同帰せんや。これ朕の当宁に興悲し、県を徹して永歎する所以なり。史氏に詢い、礼官に申命す。今、使を遣わし、起復雲麾将軍・検校太傅・右神武統軍・兼御史大夫・上柱国・平昌県開国伯食邑七百戸の孟仁贄に節を持たせ、冊を以て爾を尚書令に贈り、仍って楚王を追封す。ああ、式に哀栄を備え、載せて簡牒を光らす。南宮の峻秩、全楚の大邦、併せて追崇を示し、敻かに彝制を超ゆ。始終の分、朕愧ずること無し。

原文於戲!爾有及親之孝,特異常倫;爾有達上之情,所期終養。何高穹之不祐,與幽壤之同歸!斯朕所以當宁興悲,徹縣永歎。詢于史氏,申命禮官,今遣使起復雲麾將軍、檢校太傅、右神武統軍、兼御史大夫、上柱國、平昌縣開國伯食邑七百戶孟仁贄持節,冊贈爾為尚書令,仍追封楚王。於戲!式備哀榮,載光簡牒。南宮峻秩,全楚大邦,併示追崇,敻超彝制。始終之分,朕無愧焉!」

なお昶に墳荘一区を贈り、守墳の人に米千石、銭五万を給す。

原文仍贈昶墳莊一區,給守墳人米千石,錢五萬。

初め、昶は蜀に在りて専ら奢靡を務め、七宝の溺器を作り、他の物もこれに称せり。毎歳除に、学士に命じて詞を作らせ、桃符に題し、寝門の左右に置く。末年、学士幸寅遜が詞を撰す。昶はその工ならざるを以て、自ら筆を命じて題して云く、「新年に余慶を納れ、喜節は長春と号す」と。その年の正月十一日に降り、太祖は呂余慶をして成都府を知らしむ。而して「長春」は聖節の名なり。また昶が位を襲いし後、民質銭して息を取る者、将に居を徙んとすれば、必ずその門に署して曰く、「主を召して贖い収めよ」と。周の世宗、淮甸を平らげ、関南を克つや、即ち蜀を討たんと議すれども未だ果たさず、太祖に至りて乃ちこれを平らぐ。

原文初,昶在蜀專務奢靡,為七寶溺器,他物稱是。每歲除,命學士為詞,題桃符,置寢門左右。末年,學士幸寅遜撰詞,昶以其非工,自命筆題云:「新年納餘慶,喜節號長春。」以其年正月十一日降,太祖命呂餘慶知成都府,而「長春」乃聖節名也。又昶襲位後,民質錢取息者,將徙居,必署其門曰:「召主收贖。」周世宗平淮甸,克關南,即議討蜀而未果,至太祖乃平之。

昶に三子あり、玄喆・玄珏・玄宝。玄宝は先に卒し、僭って遂王を贈る。昶の弟、仁贄・仁裕・仁操。

原文昶三子:玄喆、玄珏、玄寶。玄寶先卒,僭贈遂王。昶弟:仁贄、仁裕、仁操。

昶既に降り、寧江軍節度・同平章事伊審徴、検校太尉兼侍中韓保正、山南西道節度・同平章事王昭遠、工部侍郎幸寅遜、武信軍節度・保寧軍都巡検使李廷珪、闕下に来る。審徴は静難軍節度を授けられ、昭遠は左領軍衛大将軍を授けられ、寅遜は右庶子を授けられ、廷珪は右千牛衛上将軍を授かる。韓保正は未だ官を授からずして卒す。保正・昭遠・廷珪は、川中各々田宅あり、詔して各々銭三百万を賜う。また成都の人王処瓊、少くして孤なり、有司その金宝を籍む。昶降り、輦にて闕下に送る。太祖これを聞き、その直を計りて還すことを令す。

原文昶既降,寧江軍節度、同平章事伊審徵,檢校太尉兼侍中韓保正,山南西道節度、同平章事王昭遠,工部侍郎幸寅遜,武信軍節度、保寧軍都巡檢使李廷珪來闕下。審徵授靜難軍節度,昭遠授左領軍衛大將軍,寅遜授右庶子,廷珪授右千牛衛上將軍,韓保正未授官卒。保正、昭遠、廷珪,川中各有田宅,詔各賜錢三百萬。又成都人王處瓊,少孤,有司籍其金寶,昶降,輦送闕下。太祖聞之,令計其直還焉。

子、玄喆。

原文子 玄喆

玄喆、字は遵聖、幼くして聡悟、隷書を善くす。年十四、僭って秦王・検校太尉・同平章事・六軍諸衛事を判ずと封ぜらる。嘗て自ら姚崇の『口箴』を書し、諸石に刻む。昶は銀器・錦彩を以て賜う。広政二十一年、武徳軍節度を領す。二十四年、兼侍中を加う。二十五年、皇太子と立つ。宋師将に至らんとす。玄喆を以て元帥と為し、精卒万余、旌旗に文繡を用い、錦を以てその杠を綢う。この日微雨、玄喆は沾湿を慮り、解き去ることを令す。俄かに雨止み、復たこれを旆す。旌幟数千皆倒れて杠上に繫がる。識者これを異とす。剣門陥つと聞くに及び、遂に東川に奔る。数日、軍を棄てて遯れ帰る。

原文玄喆,字遵聖,幼聰悟,善隸書。年十四,僭封秦王、檢校太尉、同平章事、判六軍諸衛事。嘗自書姚崇《口箴》,刻諸石。昶賜以銀器、錦彩。廣政二十一年,領武德軍節度。二十四年,加兼侍中。二十五年,立為皇太子。宋師將至,以玄喆為元帥,精卒萬餘,旌旗用文繡,以錦綢其杠。是日微雨,玄喆慮沾濕,令解去。俄雨止,復旆之,旌幟數千皆倒繫杠上,識者異之。及聞劍門陷,遂奔東川。數日,棄軍遯歸。

朝に入り、昶と同日に制を宣べられ検校太尉・泰寧軍節度と為る。昶卒し、玄喆に羊五百口・酒五百壺を賜う。玄喆は馬二百匹・白玉水晶の鞍勒を副えて献ず。鎮を貝州に移す。鎮に在ること十余年、亦た治跡あり。太平興国初、鎮を定州に移す。三年、開府儀同三司を加う。四年、太原平定に従い、就いて鎮州駐泊兵馬鈐轄と為すことを命ぜらる。又た幽州征伐に従い、率いる所の部を以て城の西面を攻む。班師に会し、軍器庫使薬可瓊・深州刺史念金鏁・左龍武将軍趙延進・殿前都虞候崔翰・四方館使梁迥・翰林使杜彦圭とともに兵を帥いて帰り定州に屯すことを遣わさる。俄かに契丹寇す。玄喆は諸将校とともにこれを徐河に破る。功を以て滕国公に封ぜられ、入りて左龍武軍統軍と為り、右金吾衛仗を判ず。未だ幾ばくもあらず、滑州を知る。淳化初、病み、瀕淮の一小郡に換えて疾を養わんことを求む。滁州知州に移り、卒す。年五十五。侍中を贈らる。

原文入朝,與昶同日宣制檢校太尉、泰寧軍節度。昶卒,賜玄喆羊五百口、酒五百壺。玄喆獻馬二百匹、白玉水晶鞍勒副之。移鎮貝州,在鎮十餘年,亦有治跡。太平興國初,移鎮定州。三年,加開府儀同三司。四年,從平太原,就命為鎮州駐泊兵馬鈐轄。又從征幽州,率所部攻城之西面。會班師,遣與軍器庫使藥可瓊、深州刺史念金鏁、左龍武將軍趙延進、殿前都虞候崔翰、四方館使梁迥、翰林使杜彥圭帥兵歸屯定州。俄契丹入寇,玄喆與諸將校破之徐河。以功封滕國公,入為左龍武軍統軍,判右金吾衛仗。未幾,知滑州。淳化初,病,求換瀕淮一小郡養疾。移知滁州,卒,年五十五。贈侍中。

初め、玄喆貝州に在りしとき、凡そ民税を輸する者皆な商算を出さしめ、その余羨を規り、留使の用に備う。人頗るこれを苦しむ。景德中、都官員外郎孔揆河北に使いし、表を上りてその事を論ず。詔してこれを除く。子十五人あり、隆記・隆詁・隆説・隆詮、並びに進士及第す。

原文初,玄喆在貝州,凡民輸稅者皆令出商算,規其餘羨,以備留使之用,人頗苦之。景德中,都官員外郎孔揆使河北,表論其事,詔除之。有子十五人:隆記、隆詁、隆說、隆詮,並進士及第。

子、玄珏。

原文子 玄珏

玄珏初め王に封ぜられ、玄喆と並び日に封拝せられ、仍って検校太保と為る。少くして端敏なり。常に昶の射に侍し、双箭連ねて的に中つ。昶これを奇とし、銭三十万を賜う。時に玄珏方に学に就く。起居舎人陳鄂を選び教授と為す。ここに至り、自ら陳べて願わくは銭を以て鄂に賜わんとす。昶嘉びて許す。鄂嘗て唐の李瀚の『蒙求』・高測の『韻対』に倣い『四庫韻対』四十巻を為して献ず。玄珏益々これを賞す。広政二十三年、玄珏閬州保寧軍節度を領す。久しくして、検校太傅を加う。朝に帰り、千牛衛上将軍と為る。乾徳五年、右神武統軍に遷り、玄喆に代わり金吾衛仗を判ず。太平興国九年、出でて宋・曹・兗・鄆都巡検と為り、又た右屯衛上将軍に改む。淳化元年四月、復た右神武統軍と為る。六月、出でて滑州を知る。三年、卒す。

原文玄珏初封王,與玄喆並日封拜,仍檢校太保。少端敏。常侍昶射,雙箭連中的,昶奇之,賜錢三十萬。時玄珏方就學,為選起居舍人陳鄂為教授。至是,自陳願以錢賜鄂,昶嘉而許焉。鄂嘗仿唐李瀚《蒙求》、高測《韻對》為《四庫韻對》四十卷以獻,玄珏益賞之。廣政二十三年,玄珏領閬州保寧軍節度。久之,加檢校太傅。歸朝,為千牛衛上將軍。乾德五年,遷右神武統軍,代玄喆判金吾衛仗。太平興國九年,出為宋、曹、兗、鄆都巡檢,又改右屯衛上將軍。淳化元年四月,復為右神武統軍。六月,出知滑州。三年,卒。

弟、仁贄。

原文弟 仁贄

仁贄、字は忠美、初め左威衛将軍同正と為る。広政十三年、雅王・検校太尉に封ぜらる。二十年、閬州保寧軍節度を領す。二十四年、検校太尉を加う。昶の降るに及び、仁贄を遣わし表を奉じて闕に詣らしむ。太祖広徳殿に召見し、襲衣・玉帯・鞍勒馬を賜う。俄かに右神武統軍を授く。母憂に丁し、起復し、大同軍節度・西京都巡検使を領す。開宝四年、卒す。年四十四。太子太師を贈らる。

原文仁贄,字忠美,初為左威衛將軍同正。廣政十三年,封雅王、檢校太尉。二十年,領閬州保寧軍節度。二十四年,加檢校太尉。及昶降,遣仁贄奉表詣闕,太祖召見廣德殿,賜襲衣、玉帶、鞍勒馬。俄授右神武統軍。丁母憂,起復,領大同軍節度、西京都巡檢使。開寶四年,卒,年四十四,贈太子太師。

弟、仁裕。

原文弟 仁裕

仁裕、字は鳴謙、初め左威衛将軍同正となり、仁贄と同日に彭王・検校太傅に封ぜられる。広政二十年、黔州武泰軍節度を領す。二十四年、検校太尉を加えられる。帰朝し、検校太傅・右監門衛上将軍を授かり、右羽林軍に遷る。開宝三年、卒す。年四十四。太子太傅を贈られる。

原文仁裕,字鳴謙,初為左威衛將軍同正,與仁贄同日封彭王、檢校太傅。廣政二十年,領黔州武泰軍節度。二十四年,加檢校太尉。歸朝,授檢校太傅、右監門衛上將軍,遷右羽林軍。開寶三年,卒,年四十四,贈太子太傅。

弟に仁操あり。

原文弟 仁操

仁操、初め右領軍衛将軍同正となり、仁贄と同日に嘉王・検校太傅に封ぜられる。広政二十一年、果州永寧軍節度を領す。嘗て昶に侍して梔子園にて射をなすに、仁操連続して的を射る者三たびあり。二十四年、検校太尉を加えられる。特に釈氏を奉じ、その理を深く究む。帰朝し、右監門衛上将軍を授かり、累遷して右龍武統軍となる。雍熙三年、卒す。

原文仁操,初為右領軍衛將軍同正,與仁贄同日封嘉王、檢校太傅。廣政二十一年,領果州永寧軍節度。嘗侍昶射於梔子園,仁操連中的者三。二十四年,加檢校太尉。尤奉釋氏,深究其理。歸朝,授右監門衛上將軍,累遷右龍武統軍。雍熙三年,卒。

伊審徵 附

原文伊審徵 附

伊審徵、字は申図、并州の人。父は延瓌、知祥に従い蜀に入る。知祥が僭位す、女を延瓌に妻せしめ、僭称して崇華公主と封ず。延瓌は陵・嘉・眉の三州刺史を歴任す。審徵は幼くして孝を以て聞こえ、母病むに、股の肉を割きてこれを啖らしむ。父の任により、蜀州刺史・雲安榷塩使を歴任す。広政十四年、高延昭が機務の解任を求めしに、急ぎ召して通奏使・知枢密院事となす。久しくして、蜀州刺史を領す。秦・鳳にて師を興すや、城砦を検校するを命ぜられ、俄かに武泰軍節度を領す。その子崇度を選び公主に尚ばしむ。又た寧江軍節度・同平章事に改め、王昭遠と俱に機務を掌る。昶、事の大小となく、一にこれを諮る。常に自ら康済の経略を以て己が任と為す。宋師の境に入るに属し、審徵首めて降表を奉じて軍前に詣る。昭遠は時に軍を統べ、敗走す。時に人これを笑う。

原文伊審徵,字申圖,并州人。父延瓌,隨知祥入蜀。知祥僭位,以女妻延瓌,僭封崇華公主。延瓌歷陵、嘉、眉三州刺史。審徵幼以孝聞,母病,割股肉啖之。以父任,歷蜀州刺史、雲安榷鹽使。廣政十四年,高延昭求解機務,急召為通奏使、知樞密院事。久之,領蜀州刺史。秦、鳳興師,命檢校城砦,俄領武泰軍節度。選其子崇度尚公主。又改寧江軍節度、同平章事,與王昭遠俱掌機務。昶事無大小,一以咨之。常自以康濟經略為己任。屬宋師入境,審徵首奉降表詣軍前。昭遠時統軍,敗走。時人笑之。

審徵帰朝し、静難軍節度を授かる。乾徳六年、鎮を延安に移す。開宝末に入朝し、右屯衛上将軍に改む。太平興国二年、右金吾衛仗を判ず。雍熙五年、卒す。年七十五。

原文審徵歸朝,授靜難軍節度。乾德六年,移鎮延安。開寶末入朝,改右屯衛上將軍。太平興國二年,判右金吾衛仗。雍熙五年,卒,年七十五。

韓保正 附

原文韓保正 附

韓保正、字は永吉、潞州長子の人。父は昭運、知祥に従い蜀に入る。知祥の僭号するに及び、珍州刺史に署す。保正は初め知祥に事えて押衙となり、僭位するに及び、豊徳庫使兼広義庫使・眉州刺史・枢密副使と為す。復た漢州を刺し、宣徽北院使を拝す。会に鳳翔の侯益が帰款す、保正を以て北路行営都監と為し、以て岐陽を図らしむ。時に晋昌の趙贊も亦た蜀に帰せんと謀るも、王景崇に逼せられ、城を棄て東奔す。偽将李廷珪は先に師を退け、保正は陳倉に次ぐ。大将張虔釗・龐福誠と謀議叶わず、益も亦た中変し、遂に成都に還る。俄かに雄武節度と為り、兵を率いて新関を出で、隴州に至る。漢兵固く守るに、保正功無くして還る。復た雄武に屯す。広政十四年、成都に赴く。その親吏楊虔範、保正の不法を訟う。昶、虔範を斬らしめ、保正を釈して問わず。俄かに夔州寧江軍節度に改む。李昊、度支を譲るに、保正を以てこれに代えしむ。未だ幾ばくもせず、宣徽南院使・山南節度・左衛聖歩軍節度指揮使を加えられ、奉鸞粛衛馬歩軍都指揮使に遷り、又たその子崇遂を選び公主に尚ばしむ。

原文韓保正,字永吉,潞州長子人。父昭運,從知祥入蜀。及知祥僭號,署珍州刺史。保正初事知祥為押衙,及僭位,以為豐德庫使兼廣義庫使、眉州刺史、樞密副使。復刺漢州,拜宣徽北院使。會鳳翔侯益歸款,以保正為北路行營都監,以圖岐陽。時晉昌趙贊亦謀歸蜀,為王景崇所逼,棄城東奔。偽將李廷珪先退師,保正次陳倉,與大將張虔釗、龐福誠謀議不叶,益亦中變,遂還成都。俄為雄武節度,領兵出新關,至隴州,漢兵固守,保正無功而還。復屯雄武。廣政十四年,赴成都,其親吏楊虔範訟保正不法,昶令斬虔範,釋保正不問。俄改夔州寧江軍節度。李昊讓度支,以保正代之。未幾,加宣徽南院使、山南節度、左衛聖步軍節度指揮使,遷奉鸞肅衛馬步軍都指揮使,又選其子崇遂尚主。

宋初、荊南の高継沖が土を納む。昶これを聞き、保正を以て峡路都指揮制置使と為し、夔州に屯し、以て辺事を経画せしむ。検校太尉兼侍中に遷る。太祖将に兵を加えんとすと聞き、保正を以て山南節度・興元武定縁辺諸砦屯駐都指揮使と為す。王全斌の至るに及び、保正は興元を棄て、西県を保つ。王師進みてこれを囲む。保正懦懼して出でず、人を遣わし山に依り城を背にし陣を結ばしめて自ら固めしむ。史延徳に破られ、保正は麾下を以て遁る。延徳追いこれを擒にし、全斌に送る。全斌は駅伝にて闕下に置く。太祖召して殿に昇らしめ労問し、袍笏・金帯・茵褥・鞍勒馬を賜い、仍って甲第を賜う。未だ官を命ぜざるに卒す。右千牛衛上将軍を贈られる。

原文宋初,荊南高繼沖納土,昶聞之,以保正為峽路都指揮制置使,屯夔州,以經畫邊事。遷檢校太尉兼侍中。聞太祖將加兵,以保正為山南節度、興元武定緣邊諸砦屯駐都指揮使。及王全斌至,保正棄興元,保西縣。王師進圍之,保正懦懼不敢出,遣人依山背城結陣以自固,為史延德所破。保正以麾下遁,延德追擒之,送全斌。全斌驛置闕下,太祖召升殿勞問,賜袍笏、金帶、茵褥、鞍勒馬,仍賜甲第。未及命官而卒,贈右千牛衛上將軍。

王昭遠 附

原文王昭遠 附

王昭遠、益州成都の人。幼くして孤貧。年十三、東郭の僧智諲に依り童子と為る。知祥蜀を鎮むるに、一日僧に飯を府署にてす。昭遠は巾履を持ち智諲に従い、入るを得。時に昶方に学に就く。知祥、昭遠の聡慧なるを見、留めて昶の左右に給事せしむ。昶位を嗣ぎ、昭遠を巻簾使・茶酒庫使と為す。会に枢密使王処回、梓州に出で知る。昶、枢密の事権太重なるを以て、乃ち昭遠及び普豊庫使高延昭を通奏使・知枢密院事と為し、機務一にこれを委ね、府庫の財帛恣にこれを取るも問わず。眉州刺史を領するを加えられ、永平軍節度として出づ。数ヶ月ならず、会に昭武の李継勳、目疾を以て視事能わず、閑地を以てこれを処せんと議す。昭遠遽かに永平を以て継勳に譲る。歳余、夔州寧江軍節度と為る。昶の母常に昭遠を用うべからずと言うも、昶従わず。未だ幾ばくもせず、兼ねて山南西道節度・同平章事を領す。入謝するに及び、通奏の職を解くを求め、遂に左街使張仁貴を副使・知枢密と為してこれに代えしむ。

原文王昭遠,益州成都人。幼孤貧。年十三,依東郭僧智諲為童子。知祥鎮蜀,一日飯僧於府署,昭遠持巾履從智諲,得入。時昶方就學,知祥見昭遠聰慧,留給事昶左右。昶嗣位,以昭遠為卷簾使、茶酒庫使。會樞密使王處回出知梓州,昶以樞密事權太重,乃以昭遠及普豐庫使高延昭為通奏使、知樞密院事,機務一以委之,府庫財帛恣其取不問。加領眉州刺史,出為永平軍節度。不數月,會昭武李繼勳以目疾不能視事,議以閑地處之,昭遠遽以永平讓繼勳。歲餘,為夔州寧江軍節度。昶母常言昭遠不可用,昶不從。未幾,兼領山南西道節度、同平章事。及入謝,求解通奏職,遂以左街使張仁貴為副使、知樞密以代之。

昭遠は兵書を読むを好み、頗る方略を以て自ら許す。宋師境に入る。昶、昭遠を遣わし趙崇韜と兵を率いて拒戦せしむ。始めて成都を発す。昶、その宰相李昊等を遣わし郊外に餞る。昭遠酒酣えて、臂を攘ぎて曰く、「是の行は、敵を克つのみに止まらず、当に此の二三万の雕面の悪少児を領し、中原を取ること反掌の如くすべし」と。行くに及び、鉄如意を執り軍事を指揮し、自ら諸葛亮に方ぶ。将に漢源に至らんとするに、剣門已に破られたると聞き、昭遠股慄し、発言次第を失う。崇韜陣を布き将に戦わんとす。昭遠は胡床に据わり、皇恐して起つ能わず。俄かに崇韜敗る。乃ち冑を免ぎ甲を棄て東川に走り投じ、倉舎の下に匿れ、悲嗟流涕し、目尽く腫る。惟だ羅隠の詩を誦して云く、「運去れば英雄自由ならず」と。俄かに追騎に執せられ、闕下に送られる。太祖これを釈し、左領軍衛大将軍を授く。広南平ぐ、交阯に奉使す。開宝八年、卒す。

原文昭遠好讀兵書,頗以方略自許。宋師入境,昶遣昭遠與趙崇韜率兵拒戰。始發成都,昶遣其宰相李昊等餞郊外。昭遠酒酣,攘臂曰:「是行也,非止克敵,當領此二三萬雕面惡少兒,取中原如反掌耳。」及行,執鐵如意指麾軍事,自方諸葛亮。將至漢源,聞劍門已破,昭遠股慄,發言失次。崇韜布陣將戰,昭遠據胡床,皇恐不能起。俄崇韜敗,乃免胄棄甲走投東川,匿倉舍下,悲嗟流涕,目盡腫,惟誦羅隱詩云:「運去英雄不自由」,俄為追騎所執,送闕下,太祖釋之,授左領軍衛大將軍。廣南平,奉使交阯。開寶八年,卒。

趙崇韜 附

原文趙崇韜 附

趙崇韜、并州太原の人。父は廷隠、知祥に従い蜀に入る。廷隠は拳勇にして智略あり、知祥の麾下に及ぶ者無し。東川の董璋、成都を襲うに、廷隙大いにこれを破る。璋奔り帰り、部下に殺され、知祥遂に其の地を有つ。僭号するに及び、廷隠を以て親軍を総べ、衛聖諸軍馬歩軍指揮使と為し、累遷して太師・中書令・宋王に至る。卒し、諡して「忠武」と曰う。

原文趙崇韜,并州太原人。父廷隱,隨知祥入蜀。廷隱拳勇有智略,知祥麾下無及者。東川董璋襲成都,廷隱大破之。璋奔歸,為部下所殺,知祥遂有其地。及僭號,以廷隱總親軍,為衛聖諸軍馬步軍指揮使,累遷至太師、中書令、宋王。卒,諡「忠武」。

崇韜は驍ぎょう果にして父の風有り。昶自ら殿直四番を置き、将家及び死事の孤子を取ってこれと為し、始めて李仁罕の子継宏・趙季良の子元振・張知業の子継昭・侯洪実の子令欽及び崇韜を命じ、分かれて都知としてこれを領せしむ。後累遷して客省使に至る。周の世宗、秦・鳳を克ち、将に蜀境に入らんとす。崇韜の為に拒退せらる。左右衛聖歩軍都指揮使を歴任す。その子文亮を選び公主に尚ばしむ。洋州・武定軍節度・山南武定縁辺諸砦都指揮副使を領するを加えらる。漢源の戦い、独り策馬して先登し、蜀軍敗るるに及び、猶手を下して十数人を撃殺し、宋師に擒にせらる。

原文崇韜驍果有父風。昶自置殿直四番,取將家及死事孤子為之,始命李仁罕子繼宏、趙季良子元振、張知業子繼昭、侯洪實子令欽及崇韜,分為都知領之。後累遷至客省使。周世宗克秦、鳳,將入蜀境,為崇韜拒退。歷左右衛聖步軍都指揮使。選其子文亮尚公主。加領洋州、武定軍節度、山南武定緣邊諸砦都指揮副使。漢源之戰,獨策馬先登,及蜀軍敗,猶手擊殺十數人,為宋師所擒。

高彥儔(附載)

原文高彥儔 附

高彥儔は并州太原の人である。父の暉は宣威軍使であった。彥儔は孟知祥に従って蜀に入り、累進して軍校を歴任し、昭武軍監押となった。孟昶が位を嗣ぐと、邛州刺史に遷り、馬步軍使に改めた。時に漢兵が大散関に入り、安都砦を陥落させたので、彥儔は配下の兵を率いて先鋒として進んだ。漢人は砦を焼き楼閣を破壊して遁走したので、彥儔は精鋭を尽くしてこれを追撃し、その砦を回復して帰還した。間もなく、彥儔は趙州刺史を領した。ほどなく奉鑾肅衛都指揮副使となり、右驍銳馬軍都指揮使に改め、光聖馬軍都指揮使を加えられ、真に源州武定軍節度使に拝された。

原文高彥儔,并州太原人。父暉,宣威軍使。彥儔從知祥入蜀,累歷軍校,為昭武軍監押。昶嗣位,遷邛州刺史,改馬步軍使。會漢兵入大散關,克安都砦,彥儔以所部先進。漢人燒砦毀閣遁去,彥儔盡銳追之,復其砦而還。未幾,彥儔領趙州刺史。俄為奉鑾肅衛都指揮副使,改右驍銳馬軍都指揮使,加光聖馬軍都指揮使,真拜源州武定軍節度。

周の顕徳初年、向訓が鳳州を攻撃すると、孟昶は彥儔に出兵して包囲を解かせようとした。到着しないうちに、唐倉で敗軍したと聞き、潰走して帰還した。判官の趙玭が関門を閉ざして受け入れず、城を以て朝廷に帰順した。彥儔は遁走して成都に帰ったが、孟昶は彼を罪せず、右奉鑾肅衛都指揮使とし、功德使に改めた。

原文周顯德初,向訓攻鳳州,昶令彥儔出兵解圍。未至,聞敗軍於唐倉,因潰歸。判官趙玭閉關不納,以城歸朝廷。彥儔遁歸成都,昶不之罪,以為右奉鑾肅衛都指揮使,改功德使。

広政二十二年、夔州寧江軍都巡検制置招討使として出向し、宣徽北院事・利州昭武軍節度使を加えられた。宋の軍が到着すると、彥儔は副使の趙崇済・監軍の武守謙に言った、「北軍は遠く跋渉して来たのだから、速戦を利とする。堅く壁を守って彼らを待つに如くはない」。守謙は従わず、独り麾下を率いて出撃した。時に大将の劉廷譲は白帝廟の西に兵を駐屯させ、騎将の張廷翰らに兵を遣わして守謙と猪頭鋪で戦わせたところ、守謙は敗走した。廷翰らは勝に乗じてその城に登り、廷譲は大軍を率いて続いて到着した。彥儔は配下の将を率いて出て防戦しようとしたが、宋軍は既に城に乗じて入っていた。彥儔は慌てふためいて順序を失い、どうすべきか分からなかった。判官の羅済が単騎で成都に帰るよう勧めたが、彥儔は言った、「私はかつて天水を失い、今また夔州を守れない。たとえ我を殺すに忍びなくとも、何の面目あって蜀人に会えようか」。済がまた降伏を勧めると、彥儔は言った、「老幼百口が成都にいる。もし一身が苟くも生き延びれば、一族はどうなるのか。我が今日にあるは死のみである」。即ち符印を解いて済に授け、衣冠を整えて西北に向かって再拝し、楼に登って火を放ち自ら焼死した。数日後、廷譲がその骨を灰燼かいじんの中から得て、礼を以て収め葬った。初め、孟昶の母は昶に「彦儔のみが任に堪える」と語っていたが、この時、果たして難に死することができた。

原文廣政二十二年,出授夔州寧江軍都巡檢制置招討使,加宣徽北院事、利州昭武軍節度。及宋師至,彥儔謂副使趙崇濟、監軍武守謙曰:「北軍涉遠而來,利在速戰,不如堅壁以待之。」守謙不從,獨領麾下以出。時大將劉廷讓頓兵白帝廟西,遣騎將張廷翰等引兵與守謙戰豬頭鋪,守謙敗走。廷翰等乘勝登其城,廷讓率大軍繼至。彥儔以所部將出拒戰,宋師已乘城而入。彥儔惶駭失次,不知計所出。判官羅濟勸令單騎歸成都,彥儔曰:「我昔已失天水,今復不能守夔州,縱不忍殺我,亦何面目見蜀人哉!」濟又勸其降,彥儔曰:「老幼百口在成都,若一身偷生,舉族何負?吾今日止有死耳!」即解符印授濟,具衣冠望西北再拜,登樓縱火自焚。後數日,廷讓得其骨煨燼中,以禮收葬。初,昶母語昶「惟彥儔可任」,及是,果能死難。

趙彥韜(附載)

原文趙彥韜 附

趙彥韜は興州順政の人で、本州の義軍裨校であった。乾徳年中、孟昶は彼を興国軍討撃使の孫遇および楊蠲と共に諜者として都に遣わしたが、彥韜は密かに孟昶が并州に宛てた蠟丸の帛書を取って報告し、蜀を討つ情勢を述べた。太祖は遇と蠲をともに赦し、西討の軍を出し、二人を郷導とした。興州を平定すると、本州馬歩軍都指揮使とした。蜀が平定されると、本州刺史に遷し、澧州に移した。性質は凶暴で軽率であり、行いは法に背き、部民が盗賊に財物を奪われたと訴えたが、審問して事実でないと分かると、彥韜は自らこれを殺し、その心肝を探り取った。民家が朝廷に訴えて冤罪を訴えたので、太祖は怒り、杖刑に処して蔡州に配流するよう命じた。

原文趙彥韜,興州順政人,為本州義軍裨校。乾德中,昶遣與興國軍討擊使孫遇及楊蠲為諜至都下,彥韜潛取昶與并州蠟丸帛書以告,因言伐蜀之狀。太祖並赦遇、蠲,出師西討,並以為鄉導。克興州,以為本州馬步軍都指揮使。蜀平,遷本州刺史,移澧州。性凶率,所為不法,部民有訴被盜劫財物,鞫之不實,彥韜手殺之,探取其心肝。民家詣闕訴冤,太祖怒,令杖配蔡州。

龍景昭(附載)

原文龍景昭 附

龍景昭は夔州奉節の人である。若い頃から武勇があり、蜀に仕えて義軍裨校となり、功により戦棹都将に遷った。久しくして、施州刺史に抜擢された。乾徳年中、諸将が蜀を討伐し、兵を分けて峽路から入り、その国境に迫ろうとした。景昭は官吏を率いて牛酒を以て宋軍を犒労し、迎え入れて城に入れた。太祖はこれを聞き、大いに喜んだ。蜀が平定されると、即座に永州刺史を授けられた。任期が満ちて入朝し、右千牛衛将軍に改めた。開宝三年、卒去した。孟昶が入朝する際、左羽林将軍であった景昭の弟の処瑭ら四人が随行し、道中で卒去した。太祖はこれを哀れみ、その男子を補って供奉官殿直とした。

原文龍景昭,夔州奉節人。少有武勇,事蜀為義軍裨校,以功遷戰棹都將。久之,擢為施州刺史。乾德中,諸將伐蜀,分兵由峽路入,將壓其境。景昭率官吏以牛酒犒宋師,迎入城。太祖聞之,甚悅。蜀平,即授永州刺史。秩滿入朝,改右千牛衛將軍。開寶三年,卒。昶之入朝也,為左羽林將軍、景昭弟處瑭等四人隨行,卒於道。太祖憫之,以其男補供奉官殿直。

幸寅遜(附載)

原文幸寅遜 附

幸寅遜は蜀の人である。初め孟昶に仕えて茂州録事参軍となった。孟昶は毬を打つのを好み、盛夏でもやめなかった。寅遜は上章して極諫し、深く賞賛されて受け入れられた。新都令に遷り、司門郎中・知制誥・中書舎人に拝された。武信軍府の知事として出向し、史館修撰を加えられ、給事中に改め、『前蜀書』の編纂に参与し、翰林学士に拝され、工部侍郎を加えられ、吏部三銓事を判じ、簡州刺史を領した。

原文幸寅遜,蜀人。初仕昶為茂州錄事參軍。昶好擊毬,雖盛暑不已。寅遜上章極諫,深被賞納。遷新都令,拜司門郎中、知制誥、中書舍人。出知武信軍府,加史館修撰,改給事中,預修《前蜀書》,拜翰林學士,加工部侍郎,判吏部三銓事,領簡州刺史。

孟昶に随って帰朝し、右庶子を授けられた。嘗て上疏して狩猟を諫め、太祖はこれを嘉し、召見して帛を賜った。開宝五年、鎮国軍行軍司馬となった。職を罷められたが、九十余歳になっても尚仕進の志があり、装いを整えて朝廷へ赴こうとしたが、途に就かぬうちに卒去した。

原文隨昶歸朝,授右庶子。嘗上疏諫獵,太祖嘉之,召見賜帛。開寶五年,為鎮國軍行軍司馬。罷職,年九十餘,尚有仕進意,治裝赴闕,未登路而卒。

李廷珪(附載)

原文李廷珪 附

李廷珪は并州太原の人である。七歳で孟知祥の帳下に属し、後に従って蜀に入った。孟知祥が僭号すると、軍職を補され、累進して奉鑾肅衛都虞候となった。階州攻略の功を賞され、眉州刺史を領した。時に鳳翔を取ろうと図り、廷珪に兵二万を率いて子午谷から出て援軍に赴かせた。谷を出始めたところで、趙賛が王景崇に逼迫されていると聞き、遂に退軍した。廷珪を以て興元の権知とし、ほどなく召還して捧聖控鶴都指揮使を授け、蜀州刺史を領し、雅州永平軍節度使に拝され、右光聖都指揮使に改め、山南節度使を領し、閬州保寧節度使・護聖控鶴都指揮使に改めた。

原文李廷珪,并州太原人。七歲隸知祥帳下,後從入蜀。知祥僭號,補軍職,累遷奉鑾肅衛都虞候。賞拔階州之功,領眉州刺史。會圖取鳳翔,令廷珪領兵二萬出子午谷赴援。始出谷,聞趙贊為王景崇所逼,遂退軍。以廷珪權知興元。俄召歸,授捧聖控鶴都指揮使,領蜀州刺史,拜雅州永平軍節度,改右光聖都指揮使,領山南節度,改閬州保寧節度、護聖控鶴都指揮使。

周の軍が秦州を攻撃すると、廷珪を北路行営都統とした。秦・成・階の三州は結局周に奪取され、廷珪は上章して罪を待ったが、孟昶はこれを許し、左右衛聖諸軍馬歩軍都指揮使とした。衛聖・光聖の歩騎を分けて左右十軍とし、武定節度使の呂彦珂をその使とし、ともに廷珪に隷属させて総領させた。当時の論評では、廷珪が階州を救援できなかったので、再び兵権を総べるのは不相当であるとし、廷珪もまた自ら解任を願い出て、許された。ほどなく侍中を兼ね、蜀成都巡検使に改め、遂州武信軍節度使となり、本鎮及び保寧軍都巡検使を領した。

原文周師攻秦州,以廷珪為北路行營都統。秦、成、階三州竟為周所取,廷珪奉章待罪,昶釋之,以為左右衛聖諸軍馬步軍都指揮使。分衛聖、光聖步騎為左右十軍,以武定節度呂彥珂為之使,並隸廷珪總領之。時論以廷珪不能救援階州,不當復總兵柄,廷珪亦自陳求解,許之。俄加兼侍中、蜀成都巡檢使,改遂州武信軍節度,領本鎮及保寧軍都巡檢使。

王全斌が剣関を下した時、孟昶は廷珪とその太子の玄喆に兵を将いて来て宋軍を防がせたが、綿州・漢州で全斌と遭遇し、狼狽して帰還した。玄喆は廷珪と謀り、経過する州県の蓄積をことごとく焼き払った。全斌らが成都に入ると、行営都監の王仁贍が簿籍に照らして軍需物資の所在を詰問したので、廷珪は恐れ、馬軍都監の康延沢に告げた。延沢は言った、「王公は声色を志している。もしその欲する所を得させれば、置いて問わないだろう」。廷珪は元来倹約で、妓楽を養わなかったので、姻戚の家に求め、女妓四人を得、さらに金帛を借りて数百万の価値に相当するものを仁贍に贈った。これによって罪を免れた。朝廷に帰ると、右千牛衛上将軍となった。乾徳五年、卒去した。

原文王全斌之下劍關也,昶遣廷珪與其太子玄喆將兵來拒宋師,至綿、漢與全斌遇,狼狽而還。玄喆與廷珪謀,所經州縣盡焚其儲蓄。及全斌等入成都,行營都監王仁贍案籍詰所在軍須,廷珪懼,以告馬軍都監康延澤。延澤曰:「王公志在聲色,苟得其所欲,則置而不問矣。」廷珪素儉約,不畜妓樂,遂求於姻戚家,得女妓四人,復假貸金帛直數百萬以遺仁贍,繇是獲免。歸闕,為右千牛衛上將軍。乾德五年,卒。

先に、廷珪及び王昭遠、韓保正は川中にそれぞれ田宅を有しており、昶降伏後に表を奉って献上したので、詔して各々銭三百万を賜い、その価値を償わせた。

原文先是,廷珪及王昭遠、韓保正川中各自有田宅,昶降後奉表上獻,詔各賜錢三百萬以償其直。

李昊 附

原文李昊 附

李昊、字は穹佐、自ら唐の宰相李紳の後裔と称す。祖父は乾祐、建州刺史。父は羔、容管従事。昊は関中に生まれ、幼くして唐末の乱に遭い、父に従って奉天に避地す。時に昭宗が洛陽に遷都し、岐軍が奉天を攻め破り、父及び弟妹は皆乱兵に殺された。この時年十三、独り免れ、遂に新平に流寓すること十数年。時に劉知俊が岐軍を率いて州城を囲み、昊は城を踰えて出で、候騎に捕らえられた。知俊は彼と語り、大いに器として、門下に置き、その女を妻とせしむ。

原文李昊,字穹佐,自言唐相紳之後。祖乾祐,建州刺史。父羔,容管從事。昊生於關中,幼遇唐末之亂,隨父避地至奉天。值昭宗遷洛,岐軍攻破奉天,父及弟妹皆為亂兵所殺。是時年十三,獨得免,遂流寓新平十數年。會劉知俊領岐軍圍州城,昊踰城出,為候騎所得。知俊與語,甚器之,置於門下,以其女妻之。

知俊が蜀に帰順すると、偽って遂州武信軍節度使に任じ、昊を従事とした。王建が知俊に出師させ、昊に留務を主どらしむ。時に建が知俊を殺すと、昊もまた罷職す。王衍が偽位を襲ぐと、彭州導江県令を授け、中書舎人、翰林学士を歴任す。岐軍の難に際し、昊の母のみ無恙であった。ここに至る十九年、昊の仕官は独り顕達し、乃ち腹心の張金、王彦を遣わし間道を経てその母を迎えさせた。昊は境上に赴き奉迎することを請う、衍は金勒名馬を賜う。昊は青泥嶺に至り母に会い、母は昊の首を撫でて慟哭し、その哀しみは行路の人をも感動させた。

原文知俊歸蜀,偽署遂州武信軍節度,以昊為從事。王建使知俊出師,令昊主留務。會建殺知俊,昊亦罷職。王衍襲偽位,授彭州導江令,歷中書舍人、翰林學士。岐軍之難,昊母獨無恙。至是十九年,昊仕獨顯達,乃遣心膂張金、王彥間道迎其母。昊請告境上奉迎,衍賜以金勒名馬。昊至青泥嶺見母,母撫昊首號慟,哀感行路。

蜀滅亡後洛陽に入り、明宗は昊に検校兵部郎中を授く。詔して西川孟知祥、三川制置使趙季良に、榷塩、度支、戸部院の間に於て昊に一職を授けしむ。昊は蜀に至るも、久しく授かる所なし。時に知祥が季良を西川節度副使に奏す、昊は辞して洛陽に帰らんとす。知祥は初めて観風推官に辟し、掌書記に遷す。知祥が帝を称すと、礼部侍郎、翰林学士に擢でる。

原文蜀亡入洛,明宗授昊檢校兵部郎中。詔西川孟知祥、三川制置使趙季良同於榷鹽、度支、戶部院間授昊一職,昊至蜀,久無所授。會知祥奏季良為西川節度副使,昊辭歸洛,知祥始辟為觀風推官,遷掌書記。知祥稱帝,擢為禮部侍郎、翰林學士。

昶立つと、漢州刺史を領し、兵部侍郎に遷り、武徳軍府を出で知り、承旨を加う。昶嘗て昊の二子に官を命ぜんと欲す、昊固く譲り、且つ言う「遂州判官石欽若、蘇涯は、前蜀の時、共に劉知俊の幕下にありしが、願わくは回して欽若等の子に授けよ」と。昶嘉賞歎息し、これを許し、仍って昊の二子に官を授く。俄かに尚書左丞を加え、門下侍郎兼戸部尚書、同平章事、監修国史を拝す。因りて史官を置くことを請う、乃ち給事中郭廷鈞、職方員外郎趙元拱を以て修撰と為し、双流県令崔崇構、成都主簿王中孚を以て直館と為す。

原文昶立,領漢州刺史,遷兵部侍郎,出知武德軍府,加承旨。昶嘗欲命昊二子官,昊固讓,且言:「遂州判官石欽若、蘇涯,前蜀時,同在劉知俊幕下,願回授欽若等子。」昶嘉歎,許之,仍授昊二子官。俄加尚書左丞,拜門下侍郎兼戶部尚書、同平章事、監修國史。因請置史官,乃以給事中郭廷鈞、職方員外郎趙元拱為修撰,雙流令崔崇構、成都主簿王中孚為直館。

俄かに昊に左僕射を加う。昶、知祥の真容院に就き文武三品以上を東西廊に図らしむ。昊に参佐の功有るを以て、特に殿内に画かしむ。知祥が蜀を領するより以来、凡そ章奏書檄は皆昊の手に出ず。ここに至り集めて百巻と為し、『経緯略』と曰い、献上す。昶、珍器、錦彩を以てこれに報ゆ。俄かに度支戸部を判ぜしむ。

原文俄加昊左僕射。昶令就知祥真容院圖文武三品以上於東西廊,以昊有參佐功,特畫於殿內。自知祥領蜀,凡章奏書檄皆出昊手,至是集為百卷曰《經緯略》以獻,昶齎以珍器、錦彩。俄命判度支戶部。

広政十四年、昶の『実録』四十巻を修成す。昶、取って観んと欲す、昊曰く「帝王は史を閲せず、敢えて詔を奉ぜず」と。丁母憂、裁ち百日、起復す。俄かに『前蜀書』を修し、昊と趙元拱、王中孚及び左諫議大夫喬諷、給事中馮侃、知制誥賈玄珪、幸寅遜、太府少卿郭微、右司郎中黄彬に命じ同撰せしめ、四十巻を成して上る。判使として事を辦め集めたるを以て、趙国公に封ず。俄かに司空しくうを加え、遂州武信軍節度使を領し、塩鉄を出で判じ、弘文館大学士を加え、太廟礼儀使を修奉す。

原文廣政十四年,修成昶《實錄》四十卷。昶欲取觀,昊曰:「帝王不閱史,不敢奉詔。」丁母憂,裁百日,起復。俄修《前蜀書》,命昊與趙元拱、王中孚及左諫議大夫喬諷、給事中馮侃、知制誥賈玄珪、幸寅遜、太府少卿郭微、右司郎中黃彬同撰,成四十卷上之。以判使辦集,封趙國公。俄加司空,領遂州武信軍節度,出判鹽鐵,加弘文館大學士,修奉太廟禮儀使。

昶嘗て四孫を召し、悉く太子司儀郎舎人を授け、並びに緋を賜う。昊は又度支使を改めて判ず。その子孝連は昶の女鳳儀公主を尚び、累遷して太常少卿、資州刺史に至る。長子孝逢は給事中。

原文昶嘗召四孫,悉授太子司儀郎舍人,並賜緋。昊又改判度支使。其子孝連尚昶女鳳儀公主,累遷太常少卿、資州刺史。長子孝逢,給事中。

蜀平らぎ、昶に随い入朝す。太祖優待し、昊に工部尚書を拝せしめ、邸宅を賜う。孝逢を以て膳部郎中と為し、孝連を以て将作少監と為す。親属舟に乗り峡を下り、夷陵に至り、妻死す。昊聞き、悲愴して疾を成し卒す。年七十三。右僕射を贈る。

原文蜀平,隨昶入朝,太祖優待之,拜昊工部尚書,賜第。以孝逢為膳部郎中,孝連為將作少監。親屬乘舟自峽下,至夷陵,妻死,昊聞,悲愴成疾而卒,年七十三。贈右僕射。

昊は前後蜀に仕えること五十年。昶の世、位は将相を兼ね、利権を秉り、資貨の歳入は巨万、奢侈ことの外甚だしく、後堂の妓妾羅綺を曳く者数百人。昶は江南の李景と通好し、その臣趙季札を江南に遣わし、李紳の武宗朝に入相した制書を購い得、還って昊に遺す。昊は彩楼を結び其中に置き、尽く成都の声妓を召し、昊は朝服を着て前に迎え私第に帰し、大いに賓客を会し宴飲す。費やす所算無し。帛二千匹を以て季札に謝す。

原文昊前後仕蜀五十年。昶之世,位兼將相,秉利權,資貨歲入鉅萬,奢侈尤甚,後堂妓妾曳羅綺數百人。昶與江南李景通好,遣其臣趙季札至江南,購得李紳武宗朝入相制書,還以遺昊。昊結綵樓置其中,盡召成都聲妓,昊朝服前迎歸私第,大會賓客宴飲,所費無算。以帛二千匹謝季札。

初め、王衍が荘宗に降るに当たり、昊その表を草す。昶の降るや、その表も亦昊の為す所なり。蜀人は潜かにその門に「世修降表李家」と署し、見る者これを哂う。集二十巻有り、目して『枢機応用集』と為す。孝連は後に至り司農少卿に至る。昊の孫徳鏻は国子博士に至り、徳錞は進士及第す。

原文初,王衍降莊宗,昊草其表;昶之降也,其表亦昊所為。蜀人潛署其門曰「世修降表李家」,見者哂之。有集二十卷,目為《樞機應用集》。孝連後至司農少卿。昊孫德鏻至國子博士,德錞進士及第。

毋守素 附

原文毋守素 附

毋守素、字は表淳、河中竜門の人。父は昭裔、偽蜀の宰相、太子太師致仕。守素は弱冠に起家し、偽って秘書郎を授けられ、累遷して戸部員外郎、知制誥となり、真に拝して中書舎人、工部侍郎となり、出でて雲安榷塩使と為る。その二子克温、克恭を召見し、並びに緋を賜う。次子克恭が昶の女を尚ぐを以て、検校水部員外郎を授く。

原文毋守素,字表淳,河中龍門人。父昭裔,偽蜀宰相、太子太師致仕。守素弱冠起家,偽授秘書郎,累遷戶部員外郎、知制誥,真拜中書舍人、工部侍郎,出為雲安榷鹽使。召見其二子克溫、克恭,並賜緋;以次子克恭尚昶女,授檢校水部員外郎。

広政二十年、工部尚書を拝す。時に昭裔は塩鉄を判じ、衰老して職に親しむ能わず、その務を判官李光遠に委ね、事多く留滞す。昶これを患い、守素に代わって判使務を命ず。父子相代わる、時に頗るこれを栄しむ。俄かに度支を改めて判じ、彭州刺史を領し、又塩鉄を判ず。

原文廣政二十年,拜工部尚書。時昭裔判鹽鐵,衰老不能親職,委其務於判官李光遠,事多留滯。昶患之,命守素代判使務。父子相代,時頗榮之。俄改判度支,領彭州刺史,又判鹽鐵。

守素は親に仕えること頗る勤勉にして至り、盛夏の暑き日も暮れに帰りても、必ず朝服を着て手簡を執り、昏定の礼を申し述べた。蜀が滅びて朝廷に入り、工部侍郎に任ぜられ、蜀中の荘園・茶園を籍没して献上すると、詔して銭三百万を賜いその価に充て、なお京師に邸宅を賜う。一年余りして、兄の子たる岳州司法正己が、父の喪中に妾を娶りしことを訟えて免官せられ、正己もまた官を一つ奪わる坐に連座す。開宝初年、起用されて国子祭酒となる。

原文守素奉親頗勤至,雖隆暑暮歸,必朝服執簡以申昏定之禮。蜀亡入朝,授工部侍郎,籍其蜀中莊產茶園以獻,詔賜錢三百萬以充其直,仍賜第於京城。歲餘,為兄之子岳州司法正己訟其居父喪娶妾免,正己亦坐奪一官。開寶初,起為國子祭酒。

太祖が河東を征するに当たり、権知趙州を命ぜられる。嶺表平定の後、容州知州に移り、兼ねて本管諸州水陸転運使を領す。先に、管内の民に租税を滞納する者あり、あるいは県吏が代わって納め、あるいは兼併の家から借り受くるも、皆その妻女を納めて質とす。守素はこの事を上表し、即日に詔を降して禁止す。六年、卒す。年五十三。

原文太祖征河東,命權知趙州。及平嶺表,移知容州,兼本管諸州水陸轉運使。先是,部民有逋賦者,或縣吏代輸,或於兼並之家假貸,則皆納其妻女以為質。守素表其事,即日降詔禁止。六年,卒,年五十三。

昭裔は性、書を蔵するを好み、成都において門人勾中正・孫逢吉に『文選』『初学記』『白氏六帖』を書写せしめて板を彫らせ、守素がこれを中原に持ち至りて世に行わる。大中祥符九年、子の克勤がその板を献上し、三班奉職に補せらる。次子の克恭は、昶の女鑾国公主を尚し、光禄少卿に仕え、宋に帰順して左監門衛将軍に至る。

原文昭裔性好藏書,在成都令門人勾中正、孫逢吉書《文選》、《初學記》、《白氏六帖》鏤板,守素齎至中朝,行於世。大中祥符九年,子克勤上其板,補三班奉職。次子克恭,尚昶女鑾國公主,仕為光祿少卿,歸宋,至左監門衛將軍。

歐陽迥 附

原文歐陽迥 附

歐陽迥は、益州華陽の人なり。父の珏は、通泉県令たり。迥は若くして王衍に仕え、中書舎人となる。後唐同光年中、蜀平らぎ、衍に従って洛陽に至り、秦州従事に補せらる。知祥が成都を鎮むると、迥は再び蜀に入る。知祥が帝号を僭称す、中書舎人と為す。広政十二年、翰林学士を拝す。明年、貢挙を掌り、太常寺を判す。礼部侍郎に遷り、陵州刺史を領し、吏部侍郎に転じ、承旨を加う。二十四年、門下侍郎兼戸部尚書・平章事・監修国史を拝す。嘗て白居易の諷諫詩五十篇を擬して献ず、昶は手詔して嘉美し、銀器・錦綵を以て賞賜す。

原文歐陽迥,益州華陽人。父珏,通泉令。迥少事王衍,為中書舍人。後唐同光中,蜀平,隨衍至洛陽,補秦州從事。知祥鎮成都,迥復來入蜀。知祥僭號,以為中書舍人。廣政十二年,拜翰林學士。明年,知貢舉、判太常寺。遷禮部侍郎,領陵州刺史,轉吏部侍郎,加承旨。二十四年,拜門下侍郎兼戶部尚書、平章事、監修國史。嘗擬白居易諷諫詩五十篇以獻,昶手詔嘉美,賚以銀器、錦彩。

昶に従って朝廷に帰順し、右散騎常侍さんきじょうじと為り、俄かに翰林学士を充て、就いて左散騎常侍に転ず。嶺南平定に当たり、議して迥を遣わし南海を祭らしめんとす。迥これを聞き、病と称して出でず。太祖怒り、その職を罷め、本官を以て西京に分司せしむ。開宝四年、卒す。年七十六。工部尚書を贈らる。

原文從昶歸朝,為右散騎常侍,俄充翰林學士,就轉左散騎常侍。嶺南平,議遣迥祭南海,迥聞之稱病不出。太祖怒,罷其職,以本官分司西京。開寶四年,卒,年七十六。贈工部尚書。

迥は性坦率にして、操りを検するなく、雅に長笛を善くす。太祖常に偏殿に召し、数曲を奏せしむ。御史中丞劉温叟これを聞き、殿門を叩きて求見し、諫めて曰く「禁署の職は、誥命を司どる。伶人の事を作すべからず」と。上曰く「朕嘗て聞く、孟昶君臣声楽に溺る。迥、宰司に至りて尚ほ此の技を習う、故に我が為に擒えらる。迥を召す所以は、言う者の誣ならざるを験せんと欲するなり」と。温叟謝して曰く「臣愚にして陛下の鑒戒の微旨を識らず」と。これより後復た召さず。迥は歌詩を作するを好むも、多けれども工ならず、誥命を掌るも亦た長とする所に非ず。但し蜀に在りし日、卿相奢靡を以て相尚うも、迥は猶儉素を守る能ひき、此れ其れ称す可きなり。

原文迥性坦率,無檢操,雅善長笛。太祖常召於偏殿,令奏數曲。御史中丞劉溫叟聞之,叩殿門求見,諫曰:「禁署之職,典司誥命,不可作伶人之事。」上曰:「朕嘗聞孟昶君臣溺於聲樂,迥至宰司尚習此技,故為我所擒。所以召迥,欲驗言者之不誣也。」溫叟謝曰:「臣愚不識陛下鑒戒之微旨。」自是不復召。迥好為歌詩,雖多而不工,掌誥命亦非所長。但在蜀日,卿相以奢靡相尚,迥猶能守儉素,此其可稱也。