宋史

列傳第二百三十八 世家二 西しょく孟氏孟昶(子:玄喆 玄珏 弟:仁贄 仁裕 仁操 附:伊審徵 韓保正 王昭遠 趙崇韜 高彦儔 趙彦韜 龍景昭 幸寅遜 李廷珪 李昊 毋守素 歐陽迥)

西蜀孟氏

孟昶

西蜀の孟昶は、初め名を仁贊といい、僭位して後に改めた。その先祖は邢州龍岡の人である。父の知祥は後唐の武皇に仕え、武皇は弟の娘を娶らせた。これが瓊華長公主である。同光の初め、知祥は太原尹・知留守事となった。三年、蜀を平定した。四年、知祥を劍南西川節度副大使・知節度事とした。明宗が即位すると、知祥に命じて東川を討平させ、知祥は自ら両川節度を領し、明宗は即座にこれを授けた。長興四年、蜀王に封じ、墨制を行うことを許された。五年、閔帝が立つと、ついに蜀において帝を称し、元を明德と改めた。時に清泰元年である。事は『五代史』に詳しい。昶の母李氏は、もと莊宗の嬪御であり、知祥に賜わったもので、天祐十六年己卯十一月、太原において昶を生んだ。初め、知祥が西川を鎮めた時、一族を連れて行くことができなかった。天成元年、衙校を派遣して太原の家族を迎えることを奏上し、明宗はこれにより長公主及び昶と生母を蜀まで護送させた。公主は長興三年に卒した。

知祥は初め昶を西川節度行軍司馬に任じ、僭号すると、昶を檢校太保・同平章事・崇聖宮使・東川節度とした。知祥が病み、皇太子に立て、軍国を監する権限を与えた。明德元年七月、知祥が卒すると、昶が位を襲い、年は十六歳に始まり、ただ明德の年号を称し、政事を趙季良・張知業・李仁罕らに委ねた。二年、その母李氏を皇太后と尊んだ。四年、元を廣政と改めた。後に事があって仁罕・知業を誅し、ここに親政した。十三年、号を「睿文英武仁聖明孝皇帝」と加えた。

晉の末、秦州節度使何建・鳳州防禦使石奉頵がともに城を以て昶に降った。時に契丹が華を乱し、漢祖が幷門より起ち、中土は蝗害と旱魃が連年したので、昶はますます自ら大なりとし、貢部を開き、郊祀の礼を行い、ここより君臣は奢侈に耽り放縦となった。周の世宗が秦・鳳を克つに及んで、昶は初めて懼れ、先に捕らえた濮州刺史胡立を放還し、世宗に書を致して、大蜀皇帝と称し、かつ家世は邢臺にあり、郷里の分を厚くせんことを願うと述べた。世宗はその無礼を怒り、答えなかった。昶はますます安からず、ここに劍門・夔・峽に多く芻粟を積み、師旅を増置した。用度が足りず、ついに鉄銭を鋳造した。境内の鉄を禁じ、すべて器用で鉄を以て作るべきものは、場を置いてこれを売り、その利を専らにした。

その子玄喆を太子に立て、王昭遠・伊審徵・韓保正・趙崇韜らを用いて機要を分掌させ、内外の兵権を総べさせた。母の李氏が昶に謂って曰く、「私はかつて莊宗が河を跨いで梁軍と戦うのを見、また爾の父がへい州において契丹を防ぎ、蜀に入って両川を定めるのを見た。当時、兵を主る者は功なき者には授けず、故に士卒は畏服した。昭遠のような者は、微賤より出で、ただ爾が就学の年より、左右に給事したに過ぎない。また保正らは皆、世祿の子であり、素より兵を知らず、一旦辺疆に警急あれば、此輩に何の智略があって敵を禦がん。高彥儔は爾の父の故人であり、心を秉ね忠実にして、多く経練を経ておる。此れは委任すべし。」と。昶はその言を用いることができなかった。

太祖が荊・楚を下すに及んで、昶は使を遣わして朝貢せんとしたが、昭遠らが固くこれを止めた。太祖は詔して、蜀の邸吏・将卒で先に江陵にいた者をことごとく放還し、なお銭帛を給賜して遣わした。乾徳二年、昶は孫遇・楊蠲・趙彥韜を諜として京師に遣わした。彥韜は密かに昶が并州の劉鈞に与えた蠟丸の帛書を取って告げた。その書に云く、「早歳曾て尺書を奉り、遠く睿聴に達せしむ。丹素は翰墨に備陳し、歓盟は已に金蘭に保たる。洎て吊伐の嘉音を伝うるに及び、実に輔車の喜色を動かす。尋いで褒・漢に、師徒を添駐し、只だ霊旗の河を済するを待ち、便ちに前鋒を遣わして境を出ださん。」と。先に、太祖はすでに西伐の意ありながら発せず、書を覧るに及んで、喜んで曰く、「我が師を用いるに名有り。」と。即ち忠武軍節度王全斌を命じて鳳州路行營前軍兵馬都部署と充て、武信軍節度・侍衛歩軍都指揮使崔彥進を副都部署と充て、枢密副使王仁贍を都監と充て、龍捷右廂都指揮使史延徳を馬軍都指揮使と充て、虎捷右廂都指揮使張萬友を歩軍都指揮使と充て、隴州防禦使張凝を先鋒都指揮使と充て、左神武大将軍王継濤を濠砦使と充て、内染院使康延澤を馬軍都監と充て、翰林副使張煦を歩軍都監と充て、供奉官田仁朗を濠砦都監と充て、殿直鄭粲を先鋒都監と充て、歩軍都軍頭向韜を先鋒都軍頭と充て、寧江軍節度・侍衛馬歩軍都指揮使劉廷譲を帰州路行營前軍兵馬副都部署と充て、内客省使・枢密承旨曹彬を都監と充て、客省使武懷節を戦棹部署と充て、龍捷左廂都指揮使李進卿を歩軍都指揮使と充て、前階州刺史高彥暉を先鋒都指揮使と充て、右衛将軍白廷誨を濠砦使と充て、御厨副使朱光緒を馬軍都監と充て、儀鸞副使折彥贇を歩軍都監と充て、八作副使王令嵒を先鋒都監と充て、供奉官郝守濬を濠砦都監と充て、馬歩軍都軍頭楊光美を戦棹左右廂都指揮使と充て、供奉官薬守節を戦棹左廂都監と充て、殿直劉漢卿を戦棹右廂都監と充て、禁兵三万人・諸州兵二万人を率いて分路してこれを討たしめた。詔して孫遇らに命じ、江山曲折の状及び兵砦戍守の処の道里遠近を指画させ、画工にこれを図らせて、全斌らに授けた。因って謂って曰く、「西川は取るべしや否や。」と。全斌ら対えて曰く、「臣等、天威に仗り、廟算に遵い、日を刻して定むべし。」と。龍捷右廂都校史延徳が前に進み出て奏して曰く、「西川一方、仮令天上に在りて、人能く到らざれば、固より如何ともすべからず。若し地上に在らば、今の兵力を以てすれば、到りて即ち平げん。」と。上はその言を壮とし、これに謂って曰く、「汝等果敢なること此の如くならば、我何をか憂えん。」と。また全斌らに謂って曰く、「凡そ城砦を克つには、ただその器甲芻糧を籍没するに止め、悉く銭帛を以て戦士に分給せよ。」と。

兵の至るに及んで、昶は王昭遠・趙崇韜・韓保正・李進らを遣わして来たり拒戦させた。昭遠らは相次いで擒らえられ、昶は大いに懼れ、金帛を出して兵を募り、その子玄喆にこれを統率させ、李廷珪・張惠安をその副とし、以て劍門を守らせた。玄喆は素より武を習わず、廷珪・惠安は皆、庸懦にして識無し。玄喆は成都を離れ、ただ姫妾・楽器及び伶人数十輩を携え、晨夜嬉戯し、軍政を恤れみなかった。綿州に至り、宋師が已に劍門を破ったと聞き、遂に遁れて東川に帰り、過ぐる所の廬舎倉稟を焚いて去った。昶はますます惶駭し、左右に計を問うた。老将の石斌有り、これに対えて宋師遠来、勢い久しからずとし、兵を聚めて固守し以てこれを老いさせんことを請うた。昶曰く、「我が父子は豊衣美食を以て士を養うこと四十年、敵に遇うに及んで、我が為に東向して一矢を発する能わず。今若し壘を固くせば、何人か我が為に命を効せん。」と。

三年正月、昶はその通奏使伊審徵を遣わして表を全斌のもとに齎し降伏を請い、且つ言うには、「中外の骨肉二百余人あり、親年幾七十に及ぶ者あり、願わくは甘旨の養いを終えさせ、睽離の責めを免じ賜わらば、則ち祖宗の血食は少しく延びるを得ん」と。末に劉禅・陳叔宝の故事を引き、封号を請う。全斌らは既にその降を受け、馬軍都監康延澤を遣わし先ず百騎を以て城に入り昶に会い、恩信を諭し、三日留まり、府庫を尽く封じて還る。

昶はまたその弟仁贄を遣わし闕に詣でて上表し言う。

「先臣は唐室に命を受け、牙を蜀川に建つ。時に事の変遷に因り、人心の擁迫に為す。先臣即世し、臣方に丱年、猥りに童昏を以て、謬りに余緒を承く。小事大の礼に乖き、藩を称え国に奉ずるの誠を闕く。習いを染めて安きを偸み、因循して歳を積む。以て上宸算を煩わし、遠く王師を発する所以なり。勢は甚だ疾雷の如く、功は破竹の如し。顧みて惟うに懦卒、焉んぞ敢えて鋒に当たらんや。尋いで手を束ねて以て帰すと云い、ただ心を傾けて以て命を俟つ。

今月七日、已に私署の通奏使・宣徽南院使伊審徵に命じて表を奉じ帰降せしむ。路に寇攘有るを以て、前進するを得ず。臣尋いで更に兵士を令し援送せしむ。十一日に至り、尚お前表未だ達せざるを恐れ、続いて供奉官王茂隆を遣わし再び前表を齎す。十二日以後、相次いで方に軍前に到る。必ずや血誠、上達し睿聴に達すべし。臣今月十九日、已に親男諸弟を率い、降礼を軍門に納む。老母諸孫に至りては、余喘を私第に延ぶ。

陛下は至仁広く覆い、大徳は生を好む。臣が数年を仮息するを顧み、此の日に全躯するを望む所なり。今元戎の慰恤を受け、監護撫安せらる。若し天地の慈を垂れずんば、豈に軍民の賜を受くるを見んや。臣も亦た自ら過咎を量り、尚お切に憂疑す。謹みて親弟を遣わし闕に詣で表を奉じ、罪を待ちて以て聞こえしむ。」

太祖詔して曰く。

「朕は上穹に命を受け、中土を臨み制す。姑く民を保ちて徳を崇ぐるを務め、豈に武を右にして兵を佳しとせんと思わんや。戎に臨むに至りては、蓋し已むを得ざるなり。況んや益部は、僻く一隅に処り、僭窃の愆を思わず、輒ち窺覦の志を肆にし、潜かに幷寇と結び、自ら釁端を啓く。爰に偏師を命じ、往きて吊伐を申す。霊旗の指す所、逆壘自ら平ぐ。

朕嘗て中宵憮然たり、兆民何の罪ぞ。屡馹騎を馳せ、兵鋒を厳かに戒め、務めて拯溺の懐を宣べ、以て招携の礼を尽くさんとす。而して卿果たしく能く官属を率いて命を請い、表疏を拝して恩を祈り、慈親に託し、其の宗祀を保ち、庫府を悉く封じて、王師を待つ。咎を追い図を改め、将に自ら多福を求めんとす。瑕を匿し垢を含み、当に尽く前非を滌うべし。朕は言を食わず、爾は他慮無かれ。」

昶は乃ち挙族と官属を率いて峡江より下り、江陵に至る。上は皇城使竇思儼を遣わし迎え労う。四月初め、昶と母は襄漢に至り、復た使者を遣わし詔を齎して茶薬を賜う。賜う所の詔は名を称せず、仍って昶の母を国母と呼ぶ。昶将に至らんとす、太宗を命じて近郊にて労う。昶は子弟を率いて素服し罪を待ち闕下にあり、太祖は崇元殿に御し、礼を備えて之に見え、昶に襲衣・玉帯・黄金の鞍勒馬・金器千両・銀器万両・錦綺千段・絹万匹を賜う。又た昶の母に金器三百両・銀器三千両・錦綺千匹・絹千匹を賜う。子弟及び其の官属等には襲衣・金玉帯・鞍勒馬・車乗・器幣差等あり。又た使者を分遣し江陵・鳳翔に詣で其の家属に銭帛を賜い、疾病ある者は医薬を給す。即日大明殿に宴す。先に、有司に詔し右掖門外、汴水に臨み大第五百間を起ちて昶を待たしむ。供帳悉く備わり、此に至りて之を賜う。又た其の官属の為に各々居第を営む。

翌日、詔して曰く。

「伯禹川を導き、黒水は本より梁州の域なり。《河図》象を括み、岷山は直に井絡の墟なり。是れ坤維と曰い、素より王土と為す。中原多故に属し、四海群飛す。遂に山河に於いて剖裂し、競いて位号に於いて僭窃す。朕は㝢県を削平し、載せて皇綱を整え、周・漢の旧疆を復し、群后を寵綏す。唐・虞の大訓を采り、万邦を協和す。六年茲に於いて、百揆時に叙す。礼楽征伐の柄は、尽く朝廷より出ず。蛮夷山海の君は、咸く職貢を修む。一昨長庚に順いて律を授け、時雨に法りて師を興す。先ず誕告の文を申し、以て徯来の衆を慰む。

咨うるに爾偽蜀主孟昶、克く余緒を承け、一隅を保拠し、正朔を擅にして以て自ら尊び、歳時を歴て而して滋く久し。王師の致討するに属し、天道の盈を悪むを察し、此の綏懐を体し、効順を思いて、尽く群吏を率い、軍門に降る。手疏を抗して以て誠を陳べ、天閽に伏して以て命を請う。是を用いて大信を昭示し、疵瑕を尽く滌い、彝章を度越し、崇秩に升す。紫微の近署に冠し、以て内朝に奉ぜしめ、鶉首の奥区を剪ち、之を封邑と為す。異数に率従し、式に殊私を洽う。爾宜しく欽承し、往きて厥の位を践むべし。開府儀同三司・検校太師兼中書令・秦国公に可とし、上鎮節度使の奉禄を給す。余の官は除拝差等あり。」

昶数日にして卒す。年四十七。太祖は朝を廃すること五日、素服して哀を発し大明殿に於いてす。尚書令しょうしょれいを賜い、楚王を追封し、諡して「恭孝」と曰う。賻に布帛千匹を賜い、葬事は官に給す。後数日、其の母李氏も亦た卒す。初め、李氏は昶に随い京師に至る。太祖は数たび肩輿を命じて宮に入り、之に謂いて曰く、「母善く自ら愛せよ、戚戚として郷土を懐うること無かれ、異日当に母を送り帰さん」と。李氏曰く、「妾をして安く往かしめん」と。太祖曰く、「蜀に帰らしめん」と。李氏曰く、「妾の家は本より太原なり。倘くは幷土に帰り老いんことを得ば、妾の願いなり」と。時に晋陽未だ平らかならず、太祖其の言を聞きて大いに喜び、曰く、「劉鈞を平ぐるを俟ちて、即ち母の願う所の如くせん」と。因りて厚く賜賚を加う。昶の卒するに及び、哭せず、酒を以て地に酹いて曰く、「汝は社稷に死する能わず、生を貪りて以て今日に至る。吾が死を忍ぶ所以の者は、汝在るを以てなり。今汝既に死す、吾何を以てか生かん」と。因りて食わず、数日にして卒す。太祖聞きて之を傷み、賻贈を加等す。鴻臚卿范禹偁を令して喪事を護らしめ、昶と俱に洛陽らくように葬る。詔して奉義甲士千人を発して護送せしむ。

七月、正衙に礼を備えて昶を冊命す。其の文に曰く。

「維れ乾徳三年、歳次乙丑、七月己巳朔、二十四日戊子、皇帝若しく曰く、「咨うるに爾故検校太師兼中書令・秦国公孟昶、冊贈の典は、以て世祚を彰かにし勲伐を紀す所以なり。継絶の義は、以て異域を旌し来庭を表す所以なり。苟も全功に匪ずんば、寧くか二者を兼ねん。国家は乾に乗り運を撫し、地を括み図を開く。至徳を勲・華に稽え、深仁を湯・禹に体す。既に壷関の乱を定め、復た淮夷の凶を剪り、荊に及び衡に至り、逋穢を洗蕩す。以て君人の道は、先ず徳にして後に刑なり。王者の師は、征有りて戦無しと為す。兵威震疊し、寰宇来同す。以て両川を薄伐し、三峡に徂征するに至る。

ただ汝の昶は乃の堂構を襲い、巴庸を拠有しつつも、よく皇霊を祇畏し、宗緒を保全し、機を知り変を識り、委順して全きを図る。子牟の魏闕の心を馳せ、伯禹の塗山の会を奉ず。朕自ら献款を聞き、まことに虚懐を切にす。舟車は至止の初めを欣び、邸第には非常の制を錫う。封崇の異数、永年の祈保。景命融けず、奄然として殂謝す。

ああ、爾には親に及ぶの孝あり、特に常倫に異なり、爾には上に達するの情あり、終養を期すところなり。何ぞ高穹の祐せずして、幽壤と同帰せんや。これ朕の当宁に興悲し、県を徹して永歎する所以なり。史氏に詢い、礼官に申命す。今、使を遣わし、起復雲麾将軍・検校太傅・右神武統軍・兼御史大夫・上柱国・平昌県開国伯食邑七百戸の孟仁贄に節を持たせ、冊を以て爾を尚書令に贈り、仍って楚王を追封す。ああ、式に哀栄を備え、載せて簡牒を光らす。南宮の峻秩、全楚の大邦、併せて追崇を示し、敻かに彝制を超ゆ。始終の分、朕愧ずること無し。

なお昶に墳荘一区を贈り、守墳の人に米千石、銭五万を給す。

初め、昶は蜀に在りて専ら奢靡を務め、七宝の溺器を作り、他の物もこれに称せり。毎歳除に、学士に命じて詞を作らせ、桃符に題し、寝門の左右に置く。末年、学士幸寅遜が詞を撰す。昶はその工ならざるを以て、自ら筆を命じて題して云く、「新年に余慶を納れ、喜節は長春と号す」と。その年の正月十一日に降り、太祖は呂余慶をして成都府を知らしむ。而して「長春」は聖節の名なり。また昶が位を襲いし後、民質銭して息を取る者、将に居を徙んとすれば、必ずその門に署して曰く、「主を召して贖い収めよ」と。周の世宗、淮甸を平らげ、関南を克つや、即ち蜀を討たんと議すれども未だ果たさず、太祖に至りて乃ちこれを平らぐ。

昶に三子あり、玄喆・玄珏・玄宝。玄宝は先に卒し、僭って遂王を贈る。昶の弟、仁贄・仁裕・仁操。

昶既に降り、寧江軍節度・同平章事伊審徴、検校太尉兼侍中韓保正、山南西道節度・同平章事王昭遠、工部侍郎幸寅遜、武信軍節度・保寧軍都巡検使李廷珪、闕下に来る。審徴は静難軍節度を授けられ、昭遠は左領軍衛大将軍を授けられ、寅遜は右庶子を授けられ、廷珪は右千牛衛上将軍を授かる。韓保正は未だ官を授からずして卒す。保正・昭遠・廷珪は、川中各々田宅あり、詔して各々銭三百万を賜う。また成都の人王処瓊、少くして孤なり、有司その金宝を籍む。昶降り、輦にて闕下に送る。太祖これを聞き、その直を計りて還すことを令す。

子、玄喆。

玄喆、字は遵聖、幼くして聡悟、隷書を善くす。年十四、僭って秦王・検校太尉・同平章事・六軍諸衛事を判ずと封ぜらる。嘗て自ら姚崇の『口箴』を書し、諸石に刻む。昶は銀器・錦彩を以て賜う。広政二十一年、武徳軍節度を領す。二十四年、兼侍中を加う。二十五年、皇太子と立つ。宋師将に至らんとす。玄喆を以て元帥と為し、精卒万余、旌旗に文繡を用い、錦を以てその杠を綢う。この日微雨、玄喆は沾湿を慮り、解き去ることを令す。俄かに雨止み、復たこれを旆す。旌幟数千皆倒れて杠上に繫がる。識者これを異とす。剣門陥つと聞くに及び、遂に東川に奔る。数日、軍を棄てて遯れ帰る。

朝に入り、昶と同日に制を宣べられ検校太尉・泰寧軍節度と為る。昶卒し、玄喆に羊五百口・酒五百壺を賜う。玄喆は馬二百匹・白玉水晶の鞍勒を副えて献ず。鎮を貝州に移す。鎮に在ること十余年、亦た治跡あり。太平興国初、鎮を定州に移す。三年、開府儀同三司を加う。四年、太原平定に従い、就いて鎮州駐泊兵馬鈐轄と為すことを命ぜらる。又た幽州征伐に従い、率いる所の部を以て城の西面を攻む。班師に会し、軍器庫使薬可瓊・深州刺史念金鏁・左龍武将軍趙延進・殿前都虞候崔翰・四方館使梁迥・翰林使杜彦圭とともに兵を帥いて帰り定州に屯すことを遣わさる。俄かに契丹寇す。玄喆は諸将校とともにこれを徐河に破る。功を以て滕国公に封ぜられ、入りて左龍武軍統軍と為り、右金吾衛仗を判ず。未だ幾ばくもあらず、滑州を知る。淳化初、病み、瀕淮の一小郡に換えて疾を養わんことを求む。滁州知州に移り、卒す。年五十五。侍中を贈らる。

初め、玄喆貝州に在りしとき、凡そ民税を輸する者皆な商算を出さしめ、その余羨を規り、留使の用に備う。人頗るこれを苦しむ。景德中、都官員外郎孔揆河北に使いし、表を上りてその事を論ず。詔してこれを除く。子十五人あり、隆記・隆詁・隆説・隆詮、並びに進士及第す。

子、玄珏。

玄珏初め王に封ぜられ、玄喆と並び日に封拝せられ、仍って検校太保と為る。少くして端敏なり。常に昶の射に侍し、双箭連ねて的に中つ。昶これを奇とし、銭三十万を賜う。時に玄珏方に学に就く。起居舎人陳鄂を選び教授と為す。ここに至り、自ら陳べて願わくは銭を以て鄂に賜わんとす。昶嘉びて許す。鄂嘗て唐の李瀚の『蒙求』・高測の『韻対』に倣い『四庫韻対』四十巻を為して献ず。玄珏益々これを賞す。広政二十三年、玄珏閬州保寧軍節度を領す。久しくして、検校太傅を加う。朝に帰り、千牛衛上将軍と為る。乾徳五年、右神武統軍に遷り、玄喆に代わり金吾衛仗を判ず。太平興国九年、出でて宋・曹・兗・鄆都巡検と為り、又た右屯衛上将軍に改む。淳化元年四月、復た右神武統軍と為る。六月、出でて滑州を知る。三年、卒す。

弟、仁贄。

仁贄、字は忠美、初め左威衛将軍同正と為る。広政十三年、雅王・検校太尉に封ぜらる。二十年、閬州保寧軍節度を領す。二十四年、検校太尉を加う。昶の降るに及び、仁贄を遣わし表を奉じて闕に詣らしむ。太祖広徳殿に召見し、襲衣・玉帯・鞍勒馬を賜う。俄かに右神武統軍を授く。母憂に丁し、起復し、大同軍節度・西京都巡検使を領す。開宝四年、卒す。年四十四。太子太師を贈らる。

弟、仁裕。

仁裕、字は鳴謙、初め左威衛将軍同正となり、仁贄と同日に彭王・検校太傅に封ぜられる。広政二十年、黔州武泰軍節度を領す。二十四年、検校太尉を加えられる。帰朝し、検校太傅・右監門衛上将軍を授かり、右羽林軍に遷る。開宝三年、卒す。年四十四。太子太傅を贈られる。

弟に仁操あり。

仁操、初め右領軍衛将軍同正となり、仁贄と同日に嘉王・検校太傅に封ぜられる。広政二十一年、果州永寧軍節度を領す。嘗て昶に侍して梔子園にて射をなすに、仁操連続して的を射る者三たびあり。二十四年、検校太尉を加えられる。特に釈氏を奉じ、その理を深く究む。帰朝し、右監門衛上将軍を授かり、累遷して右龍武統軍となる。雍熙三年、卒す。

伊審徵 附

伊審徵、字は申図、并州の人。父は延瓌、知祥に従い蜀に入る。知祥が僭位す、女を延瓌に妻せしめ、僭称して崇華公主と封ず。延瓌は陵・嘉・眉の三州刺史を歴任す。審徵は幼くして孝を以て聞こえ、母病むに、股の肉を割きてこれを啖らしむ。父の任により、蜀州刺史・雲安榷塩使を歴任す。広政十四年、高延昭が機務の解任を求めしに、急ぎ召して通奏使・知枢密院事となす。久しくして、蜀州刺史を領す。秦・鳳にて師を興すや、城砦を検校するを命ぜられ、俄かに武泰軍節度を領す。その子崇度を選び公主に尚ばしむ。又た寧江軍節度・同平章事に改め、王昭遠と俱に機務を掌る。昶、事の大小となく、一にこれを諮る。常に自ら康済の経略を以て己が任と為す。宋師の境に入るに属し、審徵首めて降表を奉じて軍前に詣る。昭遠は時に軍を統べ、敗走す。時に人これを笑う。

審徵帰朝し、静難軍節度を授かる。乾徳六年、鎮を延安に移す。開宝末に入朝し、右屯衛上将軍に改む。太平興国二年、右金吾衛仗を判ず。雍熙五年、卒す。年七十五。

韓保正 附

韓保正、字は永吉、潞州長子の人。父は昭運、知祥に従い蜀に入る。知祥の僭号するに及び、珍州刺史に署す。保正は初め知祥に事えて押衙となり、僭位するに及び、豊徳庫使兼広義庫使・眉州刺史・枢密副使と為す。復た漢州を刺し、宣徽北院使を拝す。会に鳳翔の侯益が帰款す、保正を以て北路行営都監と為し、以て岐陽を図らしむ。時に晋昌の趙贊も亦た蜀に帰せんと謀るも、王景崇に逼せられ、城を棄て東奔す。偽将李廷珪は先に師を退け、保正は陳倉に次ぐ。大将張虔釗・龐福誠と謀議叶わず、益も亦た中変し、遂に成都に還る。俄かに雄武節度と為り、兵を率いて新関を出で、隴州に至る。漢兵固く守るに、保正功無くして還る。復た雄武に屯す。広政十四年、成都に赴く。その親吏楊虔範、保正の不法を訟う。昶、虔範を斬らしめ、保正を釈して問わず。俄かに夔州寧江軍節度に改む。李昊、度支を譲るに、保正を以てこれに代えしむ。未だ幾ばくもせず、宣徽南院使・山南節度・左衛聖歩軍節度指揮使を加えられ、奉鸞粛衛馬歩軍都指揮使に遷り、又たその子崇遂を選び公主に尚ばしむ。

宋初、荊南の高継沖が土を納む。昶これを聞き、保正を以て峡路都指揮制置使と為し、夔州に屯し、以て辺事を経画せしむ。検校太尉兼侍中に遷る。太祖将に兵を加えんとすと聞き、保正を以て山南節度・興元武定縁辺諸砦屯駐都指揮使と為す。王全斌の至るに及び、保正は興元を棄て、西県を保つ。王師進みてこれを囲む。保正懦懼して出でず、人を遣わし山に依り城を背にし陣を結ばしめて自ら固めしむ。史延徳に破られ、保正は麾下を以て遁る。延徳追いこれを擒にし、全斌に送る。全斌は駅伝にて闕下に置く。太祖召して殿に昇らしめ労問し、袍笏・金帯・茵褥・鞍勒馬を賜い、仍って甲第を賜う。未だ官を命ぜざるに卒す。右千牛衛上将軍を贈られる。

王昭遠 附

王昭遠、益州成都の人。幼くして孤貧。年十三、東郭の僧智諲に依り童子と為る。知祥蜀を鎮むるに、一日僧に飯を府署にてす。昭遠は巾履を持ち智諲に従い、入るを得。時に昶方に学に就く。知祥、昭遠の聡慧なるを見、留めて昶の左右に給事せしむ。昶位を嗣ぎ、昭遠を巻簾使・茶酒庫使と為す。会に枢密使王処回、梓州に出で知る。昶、枢密の事権太重なるを以て、乃ち昭遠及び普豊庫使高延昭を通奏使・知枢密院事と為し、機務一にこれを委ね、府庫の財帛恣にこれを取るも問わず。眉州刺史を領するを加えられ、永平軍節度として出づ。数ヶ月ならず、会に昭武の李継勳、目疾を以て視事能わず、閑地を以てこれを処せんと議す。昭遠遽かに永平を以て継勳に譲る。歳余、夔州寧江軍節度と為る。昶の母常に昭遠を用うべからずと言うも、昶従わず。未だ幾ばくもせず、兼ねて山南西道節度・同平章事を領す。入謝するに及び、通奏の職を解くを求め、遂に左街使張仁貴を副使・知枢密と為してこれに代えしむ。

昭遠は兵書を読むを好み、頗る方略を以て自ら許す。宋師境に入る。昶、昭遠を遣わし趙崇韜と兵を率いて拒戦せしむ。始めて成都を発す。昶、その宰相李昊等を遣わし郊外に餞る。昭遠酒酣えて、臂を攘ぎて曰く、「是の行は、敵を克つのみに止まらず、当に此の二三万の雕面の悪少児を領し、中原を取ること反掌の如くすべし」と。行くに及び、鉄如意を執り軍事を指揮し、自ら諸葛亮に方ぶ。将に漢源に至らんとするに、剣門已に破られたると聞き、昭遠股慄し、発言次第を失う。崇韜陣を布き将に戦わんとす。昭遠は胡床に据わり、皇恐して起つ能わず。俄かに崇韜敗る。乃ち冑を免ぎ甲を棄て東川に走り投じ、倉舎の下に匿れ、悲嗟流涕し、目尽く腫る。惟だ羅隠の詩を誦して云く、「運去れば英雄自由ならず」と。俄かに追騎に執せられ、闕下に送られる。太祖これを釈し、左領軍衛大将軍を授く。広南平ぐ、交阯に奉使す。開宝八年、卒す。

趙崇韜 附

趙崇韜、并州太原の人。父は廷隠、知祥に従い蜀に入る。廷隠は拳勇にして智略あり、知祥の麾下に及ぶ者無し。東川の董璋、成都を襲うに、廷隙大いにこれを破る。璋奔り帰り、部下に殺され、知祥遂に其の地を有つ。僭号するに及び、廷隠を以て親軍を総べ、衛聖諸軍馬歩軍指揮使と為し、累遷して太師・中書令・宋王に至る。卒し、諡して「忠武」と曰う。

崇韜はぎょう果にして父の風有り。昶自ら殿直四番を置き、将家及び死事の孤子を取ってこれと為し、始めて李仁罕の子継宏・趙季良の子元振・張知業の子継昭・侯洪実の子令欽及び崇韜を命じ、分かれて都知としてこれを領せしむ。後累遷して客省使に至る。周の世宗、秦・鳳を克ち、将に蜀境に入らんとす。崇韜の為に拒退せらる。左右衛聖歩軍都指揮使を歴任す。その子文亮を選び公主に尚ばしむ。洋州・武定軍節度・山南武定縁辺諸砦都指揮副使を領するを加えらる。漢源の戦い、独り策馬して先登し、蜀軍敗るるに及び、猶手を下して十数人を撃殺し、宋師に擒にせらる。

高彥儔(附載)

高彥儔は并州太原の人である。父の暉は宣威軍使であった。彥儔は孟知祥に従って蜀に入り、累進して軍校を歴任し、昭武軍監押となった。孟昶が位を嗣ぐと、邛州刺史に遷り、馬步軍使に改めた。時に漢兵が大散関に入り、安都砦を陥落させたので、彥儔は配下の兵を率いて先鋒として進んだ。漢人は砦を焼き楼閣を破壊して遁走したので、彥儔は精鋭を尽くしてこれを追撃し、その砦を回復して帰還した。間もなく、彥儔は趙州刺史を領した。ほどなく奉鑾肅衛都指揮副使となり、右驍銳馬軍都指揮使に改め、光聖馬軍都指揮使を加えられ、真に源州武定軍節度使に拝された。

周の顕徳初年、向訓が鳳州を攻撃すると、孟昶は彥儔に出兵して包囲を解かせようとした。到着しないうちに、唐倉で敗軍したと聞き、潰走して帰還した。判官の趙玭が関門を閉ざして受け入れず、城を以て朝廷に帰順した。彥儔は遁走して成都に帰ったが、孟昶は彼を罪せず、右奉鑾肅衛都指揮使とし、功德使に改めた。

広政二十二年、夔州寧江軍都巡検制置招討使として出向し、宣徽北院事・利州昭武軍節度使を加えられた。宋の軍が到着すると、彥儔は副使の趙崇済・監軍の武守謙に言った、「北軍は遠く跋渉して来たのだから、速戦を利とする。堅く壁を守って彼らを待つに如くはない」。守謙は従わず、独り麾下を率いて出撃した。時に大将の劉廷譲は白帝廟の西に兵を駐屯させ、騎将の張廷翰らに兵を遣わして守謙と猪頭鋪で戦わせたところ、守謙は敗走した。廷翰らは勝に乗じてその城に登り、廷譲は大軍を率いて続いて到着した。彥儔は配下の将を率いて出て防戦しようとしたが、宋軍は既に城に乗じて入っていた。彥儔は慌てふためいて順序を失い、どうすべきか分からなかった。判官の羅済が単騎で成都に帰るよう勧めたが、彥儔は言った、「私はかつて天水を失い、今また夔州を守れない。たとえ我を殺すに忍びなくとも、何の面目あって蜀人に会えようか」。済がまた降伏を勧めると、彥儔は言った、「老幼百口が成都にいる。もし一身が苟くも生き延びれば、一族はどうなるのか。我が今日にあるは死のみである」。即ち符印を解いて済に授け、衣冠を整えて西北に向かって再拝し、楼に登って火を放ち自ら焼死した。数日後、廷譲がその骨を灰燼かいじんの中から得て、礼を以て収め葬った。初め、孟昶の母は昶に「彦儔のみが任に堪える」と語っていたが、この時、果たして難に死することができた。

趙彥韜(附載)

趙彥韜は興州順政の人で、本州の義軍裨校であった。乾徳年中、孟昶は彼を興国軍討撃使の孫遇および楊蠲と共に諜者として都に遣わしたが、彥韜は密かに孟昶が并州に宛てた蠟丸の帛書を取って報告し、蜀を討つ情勢を述べた。太祖は遇と蠲をともに赦し、西討の軍を出し、二人を郷導とした。興州を平定すると、本州馬歩軍都指揮使とした。蜀が平定されると、本州刺史に遷し、澧州に移した。性質は凶暴で軽率であり、行いは法に背き、部民が盗賊に財物を奪われたと訴えたが、審問して事実でないと分かると、彥韜は自らこれを殺し、その心肝を探り取った。民家が朝廷に訴えて冤罪を訴えたので、太祖は怒り、杖刑に処して蔡州に配流するよう命じた。

龍景昭(附載)

龍景昭は夔州奉節の人である。若い頃から武勇があり、蜀に仕えて義軍裨校となり、功により戦棹都将に遷った。久しくして、施州刺史に抜擢された。乾徳年中、諸将が蜀を討伐し、兵を分けて峽路から入り、その国境に迫ろうとした。景昭は官吏を率いて牛酒を以て宋軍を犒労し、迎え入れて城に入れた。太祖はこれを聞き、大いに喜んだ。蜀が平定されると、即座に永州刺史を授けられた。任期が満ちて入朝し、右千牛衛将軍に改めた。開宝三年、卒去した。孟昶が入朝する際、左羽林将軍であった景昭の弟の処瑭ら四人が随行し、道中で卒去した。太祖はこれを哀れみ、その男子を補って供奉官殿直とした。

幸寅遜(附載)

幸寅遜は蜀の人である。初め孟昶に仕えて茂州録事参軍となった。孟昶は毬を打つのを好み、盛夏でもやめなかった。寅遜は上章して極諫し、深く賞賛されて受け入れられた。新都令に遷り、司門郎中・知制誥・中書舎人に拝された。武信軍府の知事として出向し、史館修撰を加えられ、給事中に改め、『前蜀書』の編纂に参与し、翰林学士に拝され、工部侍郎を加えられ、吏部三銓事を判じ、簡州刺史を領した。

孟昶に随って帰朝し、右庶子を授けられた。嘗て上疏して狩猟を諫め、太祖はこれを嘉し、召見して帛を賜った。開宝五年、鎮国軍行軍司馬となった。職を罷められたが、九十余歳になっても尚仕進の志があり、装いを整えて朝廷へ赴こうとしたが、途に就かぬうちに卒去した。

李廷珪(附載)

李廷珪は并州太原の人である。七歳で孟知祥の帳下に属し、後に従って蜀に入った。孟知祥が僭号すると、軍職を補され、累進して奉鑾肅衛都虞候となった。階州攻略の功を賞され、眉州刺史を領した。時に鳳翔を取ろうと図り、廷珪に兵二万を率いて子午谷から出て援軍に赴かせた。谷を出始めたところで、趙賛が王景崇に逼迫されていると聞き、遂に退軍した。廷珪を以て興元の権知とし、ほどなく召還して捧聖控鶴都指揮使を授け、蜀州刺史を領し、雅州永平軍節度使に拝され、右光聖都指揮使に改め、山南節度使を領し、閬州保寧節度使・護聖控鶴都指揮使に改めた。

周の軍が秦州を攻撃すると、廷珪を北路行営都統とした。秦・成・階の三州は結局周に奪取され、廷珪は上章して罪を待ったが、孟昶はこれを許し、左右衛聖諸軍馬歩軍都指揮使とした。衛聖・光聖の歩騎を分けて左右十軍とし、武定節度使の呂彦珂をその使とし、ともに廷珪に隷属させて総領させた。当時の論評では、廷珪が階州を救援できなかったので、再び兵権を総べるのは不相当であるとし、廷珪もまた自ら解任を願い出て、許された。ほどなく侍中を兼ね、蜀成都巡検使に改め、遂州武信軍節度使となり、本鎮及び保寧軍都巡検使を領した。

王全斌が剣関を下した時、孟昶は廷珪とその太子の玄喆に兵を将いて来て宋軍を防がせたが、綿州・漢州で全斌と遭遇し、狼狽して帰還した。玄喆は廷珪と謀り、経過する州県の蓄積をことごとく焼き払った。全斌らが成都に入ると、行営都監の王仁贍が簿籍に照らして軍需物資の所在を詰問したので、廷珪は恐れ、馬軍都監の康延沢に告げた。延沢は言った、「王公は声色を志している。もしその欲する所を得させれば、置いて問わないだろう」。廷珪は元来倹約で、妓楽を養わなかったので、姻戚の家に求め、女妓四人を得、さらに金帛を借りて数百万の価値に相当するものを仁贍に贈った。これによって罪を免れた。朝廷に帰ると、右千牛衛上将軍となった。乾徳五年、卒去した。

先に、廷珪及び王昭遠、韓保正は川中にそれぞれ田宅を有しており、昶降伏後に表を奉って献上したので、詔して各々銭三百万を賜い、その価値を償わせた。

李昊 附

李昊、字は穹佐、自ら唐の宰相李紳の後裔と称す。祖父は乾祐、建州刺史。父は羔、容管従事。昊は関中に生まれ、幼くして唐末の乱に遭い、父に従って奉天に避地す。時に昭宗が洛陽に遷都し、岐軍が奉天を攻め破り、父及び弟妹は皆乱兵に殺された。この時年十三、独り免れ、遂に新平に流寓すること十数年。時に劉知俊が岐軍を率いて州城を囲み、昊は城を踰えて出で、候騎に捕らえられた。知俊は彼と語り、大いに器として、門下に置き、その女を妻とせしむ。

知俊が蜀に帰順すると、偽って遂州武信軍節度使に任じ、昊を従事とした。王建が知俊に出師させ、昊に留務を主どらしむ。時に建が知俊を殺すと、昊もまた罷職す。王衍が偽位を襲ぐと、彭州導江県令を授け、中書舎人、翰林学士を歴任す。岐軍の難に際し、昊の母のみ無恙であった。ここに至る十九年、昊の仕官は独り顕達し、乃ち腹心の張金、王彦を遣わし間道を経てその母を迎えさせた。昊は境上に赴き奉迎することを請う、衍は金勒名馬を賜う。昊は青泥嶺に至り母に会い、母は昊の首を撫でて慟哭し、その哀しみは行路の人をも感動させた。

蜀滅亡後洛陽に入り、明宗は昊に検校兵部郎中を授く。詔して西川孟知祥、三川制置使趙季良に、榷塩、度支、戸部院の間に於て昊に一職を授けしむ。昊は蜀に至るも、久しく授かる所なし。時に知祥が季良を西川節度副使に奏す、昊は辞して洛陽に帰らんとす。知祥は初めて観風推官に辟し、掌書記に遷す。知祥が帝を称すと、礼部侍郎、翰林学士に擢でる。

昶立つと、漢州刺史を領し、兵部侍郎に遷り、武徳軍府を出で知り、承旨を加う。昶嘗て昊の二子に官を命ぜんと欲す、昊固く譲り、且つ言う「遂州判官石欽若、蘇涯は、前蜀の時、共に劉知俊の幕下にありしが、願わくは回して欽若等の子に授けよ」と。昶嘉賞歎息し、これを許し、仍って昊の二子に官を授く。俄かに尚書左丞を加え、門下侍郎兼戸部尚書、同平章事、監修国史を拝す。因りて史官を置くことを請う、乃ち給事中郭廷鈞、職方員外郎趙元拱を以て修撰と為し、双流県令崔崇構、成都主簿王中孚を以て直館と為す。

俄かに昊に左僕射を加う。昶、知祥の真容院に就き文武三品以上を東西廊に図らしむ。昊に参佐の功有るを以て、特に殿内に画かしむ。知祥が蜀を領するより以来、凡そ章奏書檄は皆昊の手に出ず。ここに至り集めて百巻と為し、『経緯略』と曰い、献上す。昶、珍器、錦彩を以てこれに報ゆ。俄かに度支戸部を判ぜしむ。

広政十四年、昶の『実録』四十巻を修成す。昶、取って観んと欲す、昊曰く「帝王は史を閲せず、敢えて詔を奉ぜず」と。丁母憂、裁ち百日、起復す。俄かに『前蜀書』を修し、昊と趙元拱、王中孚及び左諫議大夫喬諷、給事中馮侃、知制誥賈玄珪、幸寅遜、太府少卿郭微、右司郎中黄彬に命じ同撰せしめ、四十巻を成して上る。判使として事を辦め集めたるを以て、趙国公に封ず。俄かに司空しくうを加え、遂州武信軍節度使を領し、塩鉄を出で判じ、弘文館大学士を加え、太廟礼儀使を修奉す。

昶嘗て四孫を召し、悉く太子司儀郎舎人を授け、並びに緋を賜う。昊は又度支使を改めて判ず。その子孝連は昶の女鳳儀公主を尚び、累遷して太常少卿、資州刺史に至る。長子孝逢は給事中。

蜀平らぎ、昶に随い入朝す。太祖優待し、昊に工部尚書を拝せしめ、邸宅を賜う。孝逢を以て膳部郎中と為し、孝連を以て将作少監と為す。親属舟に乗り峡を下り、夷陵に至り、妻死す。昊聞き、悲愴して疾を成し卒す。年七十三。右僕射を贈る。

昊は前後蜀に仕えること五十年。昶の世、位は将相を兼ね、利権を秉り、資貨の歳入は巨万、奢侈ことの外甚だしく、後堂の妓妾羅綺を曳く者数百人。昶は江南の李景と通好し、その臣趙季札を江南に遣わし、李紳の武宗朝に入相した制書を購い得、還って昊に遺す。昊は彩楼を結び其中に置き、尽く成都の声妓を召し、昊は朝服を着て前に迎え私第に帰し、大いに賓客を会し宴飲す。費やす所算無し。帛二千匹を以て季札に謝す。

初め、王衍が荘宗に降るに当たり、昊その表を草す。昶の降るや、その表も亦昊の為す所なり。蜀人は潜かにその門に「世修降表李家」と署し、見る者これを哂う。集二十巻有り、目して『枢機応用集』と為す。孝連は後に至り司農少卿に至る。昊の孫徳鏻は国子博士に至り、徳錞は進士及第す。

毋守素 附

毋守素、字は表淳、河中竜門の人。父は昭裔、偽蜀の宰相、太子太師致仕。守素は弱冠に起家し、偽って秘書郎を授けられ、累遷して戸部員外郎、知制誥となり、真に拝して中書舎人、工部侍郎となり、出でて雲安榷塩使と為る。その二子克温、克恭を召見し、並びに緋を賜う。次子克恭が昶の女を尚ぐを以て、検校水部員外郎を授く。

広政二十年、工部尚書を拝す。時に昭裔は塩鉄を判じ、衰老して職に親しむ能わず、その務を判官李光遠に委ね、事多く留滞す。昶これを患い、守素に代わって判使務を命ず。父子相代わる、時に頗るこれを栄しむ。俄かに度支を改めて判じ、彭州刺史を領し、又塩鉄を判ず。

守素は親に仕えること頗る勤勉にして至り、盛夏の暑き日も暮れに帰りても、必ず朝服を着て手簡を執り、昏定の礼を申し述べた。蜀が滅びて朝廷に入り、工部侍郎に任ぜられ、蜀中の荘園・茶園を籍没して献上すると、詔して銭三百万を賜いその価に充て、なお京師に邸宅を賜う。一年余りして、兄の子たる岳州司法正己が、父の喪中に妾を娶りしことを訟えて免官せられ、正己もまた官を一つ奪わる坐に連座す。開宝初年、起用されて国子祭酒となる。

太祖が河東を征するに当たり、権知趙州を命ぜられる。嶺表平定の後、容州知州に移り、兼ねて本管諸州水陸転運使を領す。先に、管内の民に租税を滞納する者あり、あるいは県吏が代わって納め、あるいは兼併の家から借り受くるも、皆その妻女を納めて質とす。守素はこの事を上表し、即日に詔を降して禁止す。六年、卒す。年五十三。

昭裔は性、書を蔵するを好み、成都において門人勾中正・孫逢吉に『文選』『初学記』『白氏六帖』を書写せしめて板を彫らせ、守素がこれを中原に持ち至りて世に行わる。大中祥符九年、子の克勤がその板を献上し、三班奉職に補せらる。次子の克恭は、昶の女鑾国公主を尚し、光禄少卿に仕え、宋に帰順して左監門衛将軍に至る。

歐陽迥 附

歐陽迥は、益州華陽の人なり。父の珏は、通泉県令たり。迥は若くして王衍に仕え、中書舎人となる。後唐同光年中、蜀平らぎ、衍に従って洛陽に至り、秦州従事に補せらる。知祥が成都を鎮むると、迥は再び蜀に入る。知祥が帝号を僭称す、中書舎人と為す。広政十二年、翰林学士を拝す。明年、貢挙を掌り、太常寺を判す。礼部侍郎に遷り、陵州刺史を領し、吏部侍郎に転じ、承旨を加う。二十四年、門下侍郎兼戸部尚書・平章事・監修国史を拝す。嘗て白居易の諷諫詩五十篇を擬して献ず、昶は手詔して嘉美し、銀器・錦綵を以て賞賜す。

昶に従って朝廷に帰順し、右散騎常侍さんきじょうじと為り、俄かに翰林学士を充て、就いて左散騎常侍に転ず。嶺南平定に当たり、議して迥を遣わし南海を祭らしめんとす。迥これを聞き、病と称して出でず。太祖怒り、その職を罷め、本官を以て西京に分司せしむ。開宝四年、卒す。年七十六。工部尚書を贈らる。

迥は性坦率にして、操りを検するなく、雅に長笛を善くす。太祖常に偏殿に召し、数曲を奏せしむ。御史中丞劉温叟これを聞き、殿門を叩きて求見し、諫めて曰く「禁署の職は、誥命を司どる。伶人の事を作すべからず」と。上曰く「朕嘗て聞く、孟昶君臣声楽に溺る。迥、宰司に至りて尚ほ此の技を習う、故に我が為に擒えらる。迥を召す所以は、言う者の誣ならざるを験せんと欲するなり」と。温叟謝して曰く「臣愚にして陛下の鑒戒の微旨を識らず」と。これより後復た召さず。迥は歌詩を作するを好むも、多けれども工ならず、誥命を掌るも亦た長とする所に非ず。但し蜀に在りし日、卿相奢靡を以て相尚うも、迥は猶儉素を守る能ひき、此れ其れ称す可きなり。