宋史

列傳第二百三十七 世家一 南唐李氏李景(子:煜 從善 從誧 從弟:季操 孫:仲寓 附:舒元 韓熙載 馮謐 潘佑 皇甫繼勳 周惟簡)

列傳第二百三十七 世家一 南唐李氏李景(子:煜 從善 從誧 從弟:季操 孫:仲寓 附:舒元 韓熙載 馮謐 潘佑 皇甫繼勳 周惟簡)

唐は安史の乱より、藩鎮が専制し、百有余年、漸く割拠を成す。及び黄巣賊の蹂躙に至り、郡邑は丘墟と化す。降りて五季に至り、豪傑蜂起し、各々智力を挟み、封疆を擅にし、自ら位号を制し、以て長雄を争う。天は禍乱を厭い、宋に大柄を授く。太祖、将を命じ師を出し、十余年の間、南は荊・楚を平げ、西は巴・蜀しょくを取り、劉鋹既に俘虜となり、李氏は款を納む。太宗に至り、呉越は吏を請い、漳・泉は来帰し、太原を薄伐し、遂に北漢を顛覆せしめて、海内一たり!王偁の『東都事略』は東漢の隗囂・公孫述の例を用い、孟昶・劉鋹等を列傳に置く。旧史これに因る。今、欧陽修の『五代史記しき』に倣い、之を世家に列す。凡そ諸国の治乱の源、天下離合の勢、鑑とすべき足るもの有れば、悉く篇に著す。其の子孫諸臣の事業に考うべきもの有るは、各々本国の下に疏す。『列國世家』を作る。

原文唐自安、史之亂,藩鎮專制,百有餘年,浸成割據。及巢賊蹂躪,郡邑丘墟。降臻五季,豪傑蠭午,各挾智力,擅為封疆,自制位號,以爭長雄。天厭禍亂,授宋大柄。太祖命將出師,十餘年間,南平荊、楚,西取巴、蜀,劉鋹既俘,李氏納款。至於太宗,吳越請吏,漳、泉來歸,薄伐太原,遂僨北漢,而海內一矣!王偁《東都事略》用東漢隗囂、公孫述例,置孟昶、劉鋹等於列傳,舊史因之。今仿歐陽修《五代史記》,列之世家。凡諸國治亂之原,天下離合之勢,有足鑒者,悉著於篇。其子孫諸臣事業有可考者,各疏本國之下。作《列國世家》。

南唐李氏

原文南唐李氏

李景

原文李景

南唐の李景は、本名は景通、後に改めて璟と為す。周の廟諱を避け、復た景と改む。父は昪、呉の楊行密の将徐温の養子、徐氏を冒姓し、名は知誥、『五代史』に傳有り。景十余歳の時、父の任により駕部郎中・諸衛将軍と為る。後唐天成二年、温卒し、遂に呉の政を専らにす。将に出鎮せんとし、国事を景に付せんと欲し、兵部尚書・参知政事を拝す。金陵に出鎮し、景を司徒しと・平章事・知内外左右諸軍事に遷す。間もなく、亦た金陵に赴き、中外諸軍副都統と為り、呉の禅を受け、国号を大斉とし、元号を昇元と改め、帝号を僭称し、金陵に居す。自ら唐の宗室建王恪の後裔と云い、令を下し復た李氏に姓し、国号を唐とす。景を呉王・諸道元帥・録尚書事に封じ、改めて斉王に封ず。

原文南唐李景,本名景通,後改為璟。避周廟諱,復改為景。父昪,吳楊行密將徐溫養子,冒姓徐氏,名知誥,《五代史》有傳。景十餘歲,以父任駕部郎中、諸衛將軍。後唐天成二年,溫卒,遂專吳政。將出鎮,欲以國事付景,拜兵部尚書、參知政事。出鎮金陵,遷景司徒、平章事、知內外左右諸軍事。頃之,亦赴金陵,為中外諸軍副都統,受吳禪,國號大齊,改元昪元,僭帝號,居金陵。自云唐宗室建王恪之後,下令復姓李氏,國號唐。封景吳王、諸道元帥、錄尚書事,改封齊王。

昪立つこと七年にして卒す。景位を襲ぎ、元号を保大と改め、母宋氏を皇太后と尊び、妻鍾氏を立て皇后と為す。宋斉丘・周宗を用いて宰相と為し、天地を郊祀す。天福末、其の将祖思全・何洙を遣わし福・建・漳・泉の地を侵す。漢乾祐初、李守貞河中に叛し、潜かに舒元・楊訥を遣わし間道より景に援を求む。景其の将李金全・郭全義を命じ師を出して之に応ぜしむ。金全は声勢相接せず、初め行くを願わず、景固く之を遣わす。沭陽に至り、守貞敗れたるを聞き、乃ち還る。周広順初、景又た其の将辺鎬を遣わし湖湘を平らげ、尋いで復た之を失う。

原文昪立七年卒,景襲位,改元保大,尊母宋氏為皇太后,立妻鍾氏為皇后。用宋齊丘、周宗為宰相,郊祀天地。天福末,遣其將祖思全、何洙侵福、建、漳、泉之地。漢乾祐初,李守貞以河中叛,潛遣舒元、楊訥間道求援於景。景命其將李金全、郭全義出師應之。金全以聲勢不接,初不願行,景固遣之。至沭陽,聞守貞敗,乃還。周廣順初,景又遣其將邊鎬平湖湘,尋復失之。

顕徳二年、周世宗淮南を征し、正陽に於いて景の衆を破り、遂に進み寿州を囲む。太祖時に禁兵を総べ、渦口に於いて景の将何延錫を破り、又た滁州に於いて皇甫暉を擒う。景大いに懼れ、其の臣鍾謨・李徳明を遣わし表を奉りて附庸たらんことを願う。未だ幾ばくもせず、又た其の臣孫晟・王崇質を遣わし表を奉り濠・寿・泗・楚・光・海の六州の地を献じ、兵を罷めんことを願う。世宗未だ之を許さず。

原文顯德二年,周世宗征淮南,破景眾於正陽,遂進圍壽州。太祖時總禁兵,破景將何延錫於渦口,又擒皇甫暉於滁州。景大懼,遣其臣鍾謨、李德明奉表願為附庸。未幾,又遣其臣孫晟、王崇質奉表獻濠、壽、泗、楚、光、海六州之地,願罷兵,世宗未之許。

四年春、世宗紫金山に於いて景の軍を大破し、其の将朱元を降し、寿州を克つ。冬、又た濠・泗二州を克つ。五年春、元号を中興と改む。未だ幾ばくもせず、又た元号を交泰と改む。是の春、周師楚州を克ち、又た進み揚州を克つ。将に江を渡らんと議す。景大いに懼れ、江北の地を尽く割き、江を画して界と為し、中朝に臣と称し、歳に土物数十万を貢せんことを請う。世宗之を許す。始めて周の正朔を稟じ、表を上りて唐国主と称す。世宗の答書は唐が回鶻可汗に報うるの制を用い、「皇帝恭しく江南国主に問う」と云う。汴水の傍に臨み懐信駅を置き其の使を待つ。景又た世宗に上言し、世子冀に位を伝えんことを請う。世宗書を賜い勉めて諭す、乃ち止む。景既に淮南の地を失い、頗る躁憤し、其の大臣宋斉丘・陳覚・李徴吉を悪み、皆之を殺す。六年十月、冀卒す。御厨使張延範を命じ使を充てて吊祭せしむ。

原文四年春,世宗大破景軍於紫金山,降其將朱元,克壽州。冬,又克濠、泗二州。五年春,改元中興。未幾,又改元交泰。是春,周師克楚州,又進克揚州。將議濟江,景大懼,請盡割江北之地,畫江為界,稱臣於中朝,歲貢土物數十萬,世宗許之。始稟周之正朔,上表稱唐國主。世宗答書用唐報回鶻可汗之制,云「皇帝恭問江南國主」,臨汴水置懷信驛以待其使。景又上言世宗,請傳位於世子冀,世宗賜書勉諭之乃止。景既失淮南之地,頗躁憤,惡其大臣宋齊丘、陳覺、李徵吉,皆殺之。六年十月,冀卒,命御廚使張延範充使吊祭。

建隆元年、太祖命を受け、即ち使を遣わし書を以て景に諭す。初め、顕徳中、江南の将校相継ぎ来降し、周成等三十四人皆京師に在り、是に至り帰遣す。三月、景使を遣わし絹二万匹・銀一万両を貢ぎ、登極を賀す。及び沢・潞平らぎ、景又た銀五千両を貢ぎ賀と為す。七月還京、又た金器五百両・銀器三千両・羅紈千匹・絹五千匹を貢ぎ、又た其の礼部郎中龔慎儀を遣わし乗輿服御物を貢ぐ。毎歳冬正・端午・長春節には皆土産珍異・金銀器用・繒帛・片茶を以て貢と為す。毎に景及び銭俶親属を遣わし入貢するに、皆前殿に曲宴を御し以て之を寵す。景の生日には、使を遣わし金幣を以て賜い、及び羊一万口・馬三百匹・橐駝三十頭を賜い、以て常制と為す。是年、親征して李重進を征し、広陵に駐蹕し、其の左僕射厳続を遣わし来たり師を犒う。俄かに其の子蒋国公従鎰を遣わし行在所に朝せしめ、又た其の戸部尚書馮延魯を遣わし金を貢ぎ宴を買い、並びに伶官五十人を以て楽を作し寿を上ぐ。又た金銀器・金玉鞍勒・銀装兵器及び銭銀・綾絹を貢ぎ、皆常数を加う。太祖亦た厚く之を賜う。

原文建隆元年,太祖受命,即遣使以書諭景。初,顯德中,江南將校相繼來降,周成等三十四人皆在京師,至是遣歸。三月,景遣使貢絹二萬匹、銀萬兩,賀登極。及澤、潞平,景又貢銀五千兩為賀,七月還京,又貢金器五百兩、銀器三千兩、羅紈千匹、絹五千匹,又遣其禮部郎中龔慎儀貢乘輿服御物。每歲冬正、端午、長春節皆以土產珍異、金銀器用、繒帛、片茶為貢。每景及錢俶遣親屬入貢,皆御前殿曲宴以寵之。景生日,遣使賜以金幣及賜羊萬口、馬三百疋、橐駝三十,以為常制。是年,親征李重進,駐蹕廣陵,遣其左僕射嚴續來犒師。俄遣其子蔣國公從鎰朝行在所,又遣其戶部尚書馮延魯貢金買宴,並伶官五十人作樂上壽,又貢金銀器、金玉鞍勒、銀裝兵器及錢銀、綾絹,皆有加常數,太祖亦厚賜之。

初め、景の父の位を襲ぎし時、中原多事に属し、盧文進・李金全・皇甫暉の徒皆景に奔る。江・淮三十余州に跨り据え、魚塩の利を擅にし、即ち山に就き銭を鋳、物力富盛なり。嘗て士に貢せしむるに『高祖こうそ入関詩』を試み、頗る中土を窺覦するの意有り。世宗淮甸を平ぐるより、漸く衰弱に赴く。及び太祖揚州を平ぐるに及び、日々馬舩戦艦を京城の南池に習わしむ。景甚だ懼る。其の小臣杜著頗る辞弁有り、偽り商人と作り、建安より渡り来帰す。又た彭沢令薛良事に坐し責められ池州文学を授けらる、亦た身を挺して来奔し、『平南策』を献ず。景之を聞き益々懼る。太祖命じて著を下蜀市に斬り、良を廬州衙校に配隷す。景乃ち安んず。終に国境蹙弱を以て、寧居に遑あらず、遂に豫よ章に遷る。上通事舎人王守正を遣わし詔を奉じ之を撫す。

原文初,景之襲父位也,屬中原多故,盧文進、李金全、皇甫暉之徒皆奔於景。跨據江、淮三十餘州,擅魚鹽之利,即山鑄錢,物力富盛。嘗試貢士《高祖入關詩》,頗有窺覦中土之意。自世宗平淮甸,浸以衰弱。及太祖平揚州,日習馬舫戰艦於京城之南池,景懼甚。其小臣杜著頗有辭辨,偽作商人,由建安渡來歸;又彭澤令薛良坐事責授池州文學,亦挺身來奔,獻《平南策》,景聞之益懼。太祖命斬著於下蜀市,良配隸廬州衙校,景乃安。終以國境蹙弱,不遑寧居,遂遷於豫章。上遣通事舍人王守正持詔撫之。

俄かに景卒す。其の臣桂陽郡公徐邈遺表を奉じ来たり上る。太祖朝を廃すること五日、鞍轡庫使梁義を遣わし吊祭し、賻として絹三千匹を贈る。子煜又た其の臣馮謐を遣わし表を奉じ、帝号を追尊せんことを願う。之を許す。煜乃ち景を諡して明道崇徳文宣孝皇帝と為し、廟号を元宗とし、陵号を順陵とす。

原文俄而景卒,其臣桂陽郡公徐邈奉遺表來上,太祖廢朝五日,遣鞍轡庫使梁義吊祭,贈賻絹三千匹。子煜又遣其臣馮謐奉表,願追尊帝號,許之。煜乃諡景為明道崇德文宣孝皇帝,廟號元宗,陵號順陵。

子 煜

原文子 煜

煜は、字は重光、景の第六子なり。本名は従嘉。少しく聡悟にして、書を読み文を属するを喜び、書画に工み、音律を知る。初め安定郡公に封ぜられ、累遷して諸衛大将軍・副元帥に至り、鄭王に封ぜらる。

原文煜,字重光,景第六子也,本名從嘉。少聰悟,喜讀書屬文,工書畫,知音律。初封安定郡公,累遷諸衛大將軍、副元帥,封鄭王。

景始めて位を嗣ぎし時、弟斉王景遂を以て元帥と為し、東宮に居らしめ、燕王景達を副元帥と為し、昪の柩の前に就き盟約し、兄弟相継ぎ、中外の庶政並びに景遂に委ね参決せしむ。景の長子冀は東都留守と為り、後又た景遂を立て太弟と為し、景達を斉王・元帥と為し、冀を燕王・副元帥と為す。冀京口を鎮む。周師淮を征し、呉越常州を囲む。冀の部将之を敗る。景達濠州に屯す。兵衄き、遁れて還る。及び地を割きし後、景遂を出して洪州元帥と為し、晋王に封ず。景達撫州元帥と為す。冀を立て太子と為す。景遂尋いで卒す。数月にして冀亦た卒す。乃ち従嘉を立て呉王と為す。

原文景始嗣位,以弟齊王景遂為元帥,居東宮,燕王景達為副元帥,就昪柩前盟約,兄弟相繼,中外庶政,並委景遂參決。景長子冀為東都留守,後又立景遂為太弟,景達為齊王、元帥,冀為燕王、副元帥。冀鎮京口,周師征淮,吳越圍常州,冀部將敗之。景達屯濠州,兵衄,遁還。及割地後,出景遂為洪州元帥,封晉王。景達撫州元帥,立冀為太子。景遂尋卒,數月冀亦卒,乃立從嘉為吳王。

建隆二年、景は洪州に移り、太子として立てられて監国となり、この秋に位を襲い、建康に居し、名を煜と改めた。母鍾氏を聖尊后と立て、鍾氏の父の名が泰章であったためであり、妻周氏を国后とした。戸部尚書馮謐を遣わして金器二千両、銀器二万両、紗羅繒彩三万匹を貢ぎ奉った。かつ表を奉り、継承襲位の意を陳べることには、

原文建隆二年,景遷洪州,立為太子監國,是秋襲位,居建康,改名煜。立母鍾氏為聖尊后,以鍾氏父名泰章故也,妻周氏為國后。遣戶部尚書馮謐來貢金器二千兩、銀器二萬兩、紗羅繒彩三萬匹。且奉表陳紹襲之意曰:

「臣は本来諸子のうちにあり、実に才なきを愧じ、膠庠を出でしより、利禄に心疎し。父兄の蔭育に被り、日月を楽みて優遊し、巢・許の余塵を追い思ひ、夷・齊の高義を遠く慕ふ。継いで懇悃を傾け、先君に上告し、固より虚詞に非ず、人の知る者多し。徒らに伯仲継いで没し、次第に推遷し、先世臣を謂ひて義方に克く習ひ、既に長く且つ嫡なりとし、国事を司らしめ、忽ちに年華を易へしむ。及び暫く豫章に赴き、建業に留まり居するに及び、正に儲副の位にあり、監撫の権を分つも、克く堪へんことを懼れ、常に深く自ら励ます。掩ひて艱罰に丁ること謂はざるに、遂に纘承を玷し、因りて肯堂を顧み、敢へて性を滅さず。然れども先世江表に君臨すること垂二十年、中間務めて倦勤に在り、将に負を釋せんと思ふ。臣が亡兄文獻太子從冀将に内禅に従はんとし、既に宿心を決す。而るに世宗敦勸既に深く、議言因りて息む。及び陛下帝籙を顯かに膺け、彌篤く睿情を篤くし、方に子孫に誓ひ、臨照に仰ぎ酬いんとす。則ち臣の向ふ所脱屣に於けるも、亦名を邀ふるに匪ず、既に宗枋を嗣ぎ、敢へて負荷を忘れんや。唯だ臣節を堅くし、上って天朝に奉ず。若し稍く初心を易へ、輒く異志を萌さばと曰はば、豈に独り祖禰に遵はざるのみならん、実に神明に譴を受くべし。方に一国の生霊を主とし、遐かに九天の覆燾を頼む。況んや陛下懷柔の義廣く、煦嫗の仁深く、必ず清光を假り、更に曩日を踰えん。遠く帝力を憑み、下って旧邦を撫し、克く宴安を獲、康泰に従ひ得ん。然れども慮ふ所の者は、吳越國弊土に鄰り、深仇に近似し、猶ほ恐らくは輒く封疆に向ひ、或ひは紛擾を生ぜんことを。臣は即ち自ら部曲を厳にし、終に先づ侵漁有らざらん、釁嫌を結ぶを免れ、旒扆を撓げ干さんことを。仍ひ慮ふ巧みに簧の舌を肆ひ、仰ぎて投杼の疑ひを成し、曲く異端を構へ、潜かに詭道を行はんことを。願くは鑒燭を廻らし、顯かに是非を諭し、庶くは遠臣をして安んじて危懇を得しめん。」

原文「臣本於諸子,實愧非才,自出膠庠,心疏利祿。被父兄之蔭育,樂日月以優遊,思追巢、許之餘塵,遠慕夷、齊之高義。繼傾懇悃,上告先君,固匪虛詞,人多知者。徒以伯仲繼沒,次第推遷,先世謂臣克習義方,既長且嫡,俾司國事,遽易年華。及乎暫赴豫章,留居建業,正儲副之位,分監撫之權,懼弗克堪,常深自勵。不謂掩丁艱罰,遂玷纘承,因顧肯堂,不敢滅性。然念先世君臨江表垂二十年,中間務在倦勤,將思釋負。臣亡兄文獻太子從冀將從內禪,已決宿心,而世宗敦勸既深,議言因息。及陛下顯膺帝籙,彌篤睿情,方誓子孫,仰酬臨照。則臣向於脫屣,亦匪邀名,既嗣宗枋,敢忘負荷。唯堅臣節,上奉天朝。若曰稍易初心,輒萌異志,豈獨不遵於祖禰,實當受譴於神明。方主一國之生靈,遐賴九天之覆燾。況陛下懷柔義廣,煦嫗仁深,必假清光,更逾曩日。遠憑帝力,下撫舊邦,克獲宴安,得從康泰。然所慮者,吳越國鄰於弊土,近似深仇,猶恐輒向封疆,或生紛擾。臣即自嚴部曲,終不先有侵漁,免結釁嫌,撓干旒扆。仍慮巧肆如簧之舌,仰成投杼之疑,曲構異端,潛行詭道。願廻鑒燭,顯諭是非,庶使遠臣得安危懇。」

太祖詔を下して答へしむ。景が江を畫して内附してより、周世宗景に書を貽りしより、是に至り、煜の立つに因り、始めて詔を下して名を呼ばず。

原文太祖詔答焉。自景畫江內附,周世宗貽書於景,至是,因煜之立,始下詔而不名。

會て昭憲太后葬らる。煜戸部侍郎韓熙載・太府卿田霖を遣わして来貢す。三年、詔して煜に應じ、朝廷の横海・飛江・水鬥・懷順諸軍の親属にして江表に在る者あらば、悉く令して渡江せしむ。煜每に朝廷の師を出して克捷し及び嘉慶の事を聞けば、必ず使を遣わして師を犒ひ貢を修む。其の大慶には、即ち更に買宴を以て名と為し、別に珍玩を奉りて献ず。吉凶の大禮は、皆別に貢助を修む。煜母妻の喪有りしも、亦使を遣わして往き吊す。乾德元年、煜表を上して名を呼ばんことを乞ふ。詔して許さず。二年、又詔して江北に、諸州の民及び諸監の鹽亭戶に許し、江に縁りて采捕し及び江を過ぎて貿易せしむ。先づ是れ、江北に榷場を置き、商人の江を渡る及び百姓の江に縁りて樵采するを禁ず。是歳、江南饑を薦むるを以て、特に関禁を弛む。三年、銀二万両、金銀龍鳳茶酒器数百事を献ず。開寶四年、又占城・闍婆・大食國の送る所の禮物を以て来上し、又弟從謙を遣わし珍寶器用金帛を奉りて貢と為し、且つ買宴す。其の数皆前に倍す。是の冬、将に郊祀せんとす。又弟從善を遣わして来貢す。

原文會昭憲太后葬,煜遣戶部侍郎韓熙載、太府卿田霖來貢。三年,詔煜應朝廷橫海、飛江、水鬥、懷順諸軍親屬有在江表者,悉遣令渡江。煜每聞朝廷出師克捷及嘉慶之事,必遣使犒師修貢。其大慶,即更以買宴為名,別奉珍玩為獻。吉凶大禮,皆別修貢助。煜有母妻之喪,亦遣使往吊。乾德元年,煜上表乞呼名,詔不許。二年,又詔江北,許諸州民及諸監鹽亭戶緣江采捕及過江貿易。先是,江北置榷場,禁商人渡江及百姓緣江樵采。是歲,以江南薦饑,特弛其禁。三年,獻銀二萬兩、金銀龍鳳茶酒器數百事。開寶四年,又以占城、闍婆、大食國所送禮物來上,又遣弟從謙奉珍寶器用金帛為貢,且買宴,其數皆倍於前。是冬,以將郊祀,又遣弟從善來貢。

會て嶺南平ぐ。煜懼れ、表を上し、遂に唐國主を江南國主と改め、唐國印を江南國印とす。又表を上して賜はる所の詔に名を呼ばんことを請ふ。之を許す。煜又制度を貶損し、下書して教と稱す。中書門下省を左右内史府と改め、尚書省を司會府とし、御史臺を司憲府とし、翰林を文館とし、樞密院を光政院とす。諸王を降封して國公と為し、官號多く改易する所有り。五年、長春節、別に錢三十万を貢ぎ、遂に以て常と為す。太祖從善を以て泰寧軍節度と為し、第を賜ひ京師に留む。是歳、煜又米麥二十万石を貢ぐ。外は畏服を示し、藩臣の禮を修むるも、而して内は實に甲を繕ひ兵を募ひ、潜かに戰備を為す。太祖其の制し難きを慮り、從善をして旨を煜に諭さしめ、来朝せしむ。煜但だ方物を奉りて貢と為す。六年、米麥十万斛を賜ひ、其の饑民を振ふ。

原文會嶺南平,煜懼,上表,遂改唐國主為江南國主,唐國印為江南國印。又上表請所賜詔呼名,許之。煜又貶損制度,下書稱教;改中書門下省為左右內史府,尚書省為司會府,御史臺為司憲府,翰林為文館,樞密院為光政院;降封諸王為國公,官號多所改易。五年,長春節,別貢錢三十萬,遂以為常。太祖以從善為泰寧軍節度,賜第留京師。是歲,煜又貢米麥二十萬石。雖外示畏服,修藩臣之禮,而內實繕甲募兵,潛為戰備。太祖慮其難制,令從善諭旨於煜,使來朝,煜但奉方物為貢。六年,賜米麥十萬斛,振其饑民。

七年秋、遂に詔して煜を闕に赴かしむ。煜疾有りと稱して詔を奉ぜず。冬、乃ち師を興して致討し、宣徽南院使・義成軍節度曹彬を以て升州西南面行營都部署と為し、山南東道節度潘美を都監と為す。煜初め大兵将に挙らんとするを聞き、甚だ惶懼し、其の弟從鎰及び潘慎修を遣わして来り買宴し、絹二十万匹、茶二十万斤及び金銀器用・乘輿服物等を貢ぐ。及び至るに及び、遂に別館に留む。王師池州を克し、又其の衆二万を采石磯に破り、其の龍驤都虞候楊收等を擒へ、馬三百匹を獲る。江表に戰馬無く、朝廷歳に之を賜ふ。是に及びて獲る所、其の印文を觀るに、皆歳賜の馬なり。初め、将に江表に事有らんとす。江南進士樊若水闕に詣り策を献じ、浮梁を造りて以て師を濟すことを請ふ。太祖高品石全振を遣わし荊湖に往きて黄黑龍船数千艘を造らしめ、又以て大艦に巨竹縆を載せ、荊渚より下らしむ。及び曹彬等に命じて師を出さしむるに及び、乃ち八作使郝守濬等を遣わし丁匠を率ひて之を營ましむ。議者古より未だ浮梁を作りて大江を渡る者有らざるを以て、恐らくは就く能はざらんとす。乃ち先づ石牌口に試み、采石に移し置く。三日にして成り、江を渡ること平地を履むが若し。煜初め朝廷浮梁を作るを聞き、其の臣張洎に語る。洎對へて曰く、「載籍已來、長江梁を為すの事無し。」煜曰く、「吾も亦た兒戲と為すのみ。」

原文七年秋,遂詔煜赴闕,煜稱疾不奉詔。冬,乃興師致討,以宣徽南院使、義成軍節度曹彬為升州西南面行營都部署,山南東道節度潘美為都監。煜初聞大兵將舉,甚惶懼,遣其弟從鎰及潘慎修來買宴,貢絹二十萬匹、茶二十萬斤及金銀器用、乘輿服物等。及至,遂留於別館。王師克池州,又破其眾二萬於采石磯,擒其龍驤都虞候楊收等,獲馬三百匹。江表無戰馬,朝廷歲賜之。及是所獲,觀其印文,皆歲賜之馬也。初,將有事江表,江南進士樊若水詣闕獻策,請造浮梁以濟師。太祖遣高品石全振往荊湖造黃黑龍船數千艘,又以大艦載巨竹縆,自荊渚而下。及命曹彬等出師,乃遣八作使郝守濬等率丁匠營之。議者以為古未有作浮梁渡大江者,恐不能就。乃先試於石牌口,移置采石,三日而成,渡江若履平地。煜初聞朝廷作浮梁,語其臣張洎,洎對曰:「載籍已來,長江無為梁之事。」煜曰:「吾亦以為兒戲耳。」

王師江を渡る。煜兵柄を皇甫繼勳に委ね、機事を陳喬・張洎に委ね、又以て徐溫諸孫の元楀等を傳詔と為す。每に軍書告急するも、多く時を俟たずして通ぜず。八年春、王師城下に傅ふ。煜猶ほ知らず。一日城に登り、外に列柵し、旌旗野に遍きるを見て、始めて大いに懼れ、近習の蔽ふ所なるを知り、遂に繼勳を殺す。朱令贇を上江より召し、巨筏を連ねて甲士数万人を載せ順流して下り、将に浮梁を断たんとす。未だ至らざるに、劉遇の破る所と為る。又勇士五千余人を募り謀りて官軍を襲はんとす。皆素より戰に習はず。暮夜を以て人炬を一秉し来り襲ひ北砦を攻む。宋師其の至るを縱ち、之を撃ちて殲す。其の将帥を獲る。悉く印符を佩く。

原文王師渡江,煜委兵柄於皇甫繼勳,委機事於陳喬、張洎,又以徐溫諸孫元楀等為傳詔,每軍書告急,多不時通。八年春,王師傅城下,煜猶不知。一日登城,見列柵於外,旌旗遍野,始大懼,知為近習所蔽,遂殺繼勳。召朱令贇於上江,令連巨筏載甲士數萬人順流而下,將斷浮梁,未至,為劉遇所破。又募勇士五千餘人謀襲官軍,皆素不習戰,以暮夜人秉一炬來攻襲北砦。宋師縱其至,擊之,殲焉。獲其將帥,悉佩印符。

初め、彬の南征するや、太祖親く之に諭して曰く、「卿彼に至りて慎んで暴略すること勿れ。兵威を以て示し、自ら歸順せしむべし。急に攻むるに必ずしも及ばず。」及び彬軍城を圍むに及び、又左拾遺・知制誥李穆を命じ從鎰を送りて本國に還らしめ、手詔を以て諭し、其の降るを促す。會て潤州平ぐ。煜危迫甚だし。其の臣徐鉉・周惟簡を遣わし方物を奉りて来貢し、手書を奏して以来自り、哀懇して兵を罷めんことを求む。太祖許さず。俄に復た鉉等を遣わし入貢し、仍ひ師を緩めんことを乞ふ。又答へず。但だ厚く賜ひて之を遣す。初め、從鎰の還るに、詔して諸将に攻城を罷めしむ。而して煜終に左右の言に惑ひ、猶豫決せず。遂に詔して兵を進む。

原文初,彬之南征也,太祖親諭之曰:「卿至彼慎勿暴略,可示以兵威,俾自歸順,不必急攻。」及彬軍圍城,又命左拾遺、知制誥李穆送從鎰還本國,諭以手詔,促其降。會潤州平,煜危迫甚,遣其臣徐鉉、周惟簡奉方物來貢,手書奏自以來,哀懇求罷兵,太祖不許。俄復遣鉉等入貢,仍乞緩師,又不答,但厚賜遣之。初,從鎰之還,詔諸將罷攻城,而煜終惑左右之言,猶豫不決,遂詔進兵。

八年の冬、城は陥落し、曹彬らは宮門に兵を駐め、煜はその近臣を率いて門で迎え拝礼した。彬らは露布を上奏し、煜およびその宰相湯悅ら四十五人を献上した。太祖は明徳楼に臨み、煜がかつて正朔を奉じていたことをもって、有司に露布を宣べさせず、ただ煜らに白衣紗帽を着せて楼の下で罪を待たしめた。詔してともにこれを釈放し、冠帯・器幣・鞍馬を差等を設けて賜うた。詔を下して曰く、

原文八年冬,城陷,曹彬等駐兵於宮門,煜率其近臣迎拜於門。彬等上露布,以煜並其宰相湯悅等四十五人上獻。太祖御明德樓,以煜嘗奉正朔,詔有司勿宣露布,止令煜等白衣紗帽至樓下待罪。詔並釋之,賜冠帶、器幣、鞍馬有差。下詔曰:

「上天の徳はもとより好生にあり、君たるの心は含垢を貴ぶ。乱離の瘼やまいよりして、跨拠の相承を致し、文告を諭して賓せず、吊伐を申すことここに在り。この混一を慶び、寵綏を加う。

原文「上天之德本於好生,為君之心貴乎含垢。自亂離之云瘼,致跨據之相承,諭文告而弗賓,申吊伐而斯在。慶茲混一,加以寵綏。

江南の偽主李煜は、奕世の遺基を承け、偏方に拠りて窃かに号す。惟れ乃が先父は早く朝恩に荷い、爾が襲位の初め、未だ嘗て命を稟せず。朕は方に寛大を示し、毎に含容す。内附の言を陳ぶるも、駿奔の礼を効わず、兵を聚め壘を峻くし、包蓄日く彰はる。朕は彼が始終を全うし、その疑間を去らんと欲し、召節を頒つも、また来朝を冀う。玉帛の儀を成さんこと庶くし、豈に干戈の役を願わんや。蹇然として顧みず、潜かに陰謀を蓄う。鋭旅を労して徂征せしめ、孤城に傅りて罪を問う。危迫を聞くに及び、累ねて招携を示すも、何ぞ迷復の悛わざる、果たして覆亡の自掇するや。

原文江南偽主李煜,承奕世之遺基,據偏方而竊號。惟乃先父早荷朝恩,當爾襲位之初,未嘗稟命。朕方示以寬大,每為含容。雖陳內附之言,罔效駿奔之禮,聚兵峻壘,包蓄日彰。朕欲全彼始終,去其疑間,雖頒召節,亦冀來朝,庶成玉帛之儀,豈願干戈之役。蹇然弗顧,潛蓄陰謀。勞銳旅以徂征,傅孤城而問罪。洎聞危迫,累示招攜,何迷復之不悛,果覆亡之自掇。

昔し唐堯光宅すれども、丹浦の師無きに非ず。夏禹は辜を泣くも、防風の罪を赦さず。諸古典に稽えれば、諒かに明刑有り。朕は道は包荒に在り、恩は悪殺を推す。昔し騾車蜀を出で、青蓋呉を辞す。彼らは皆閏位の降君にして、中朝の正朔に預からず。爵命を頒つに及び、方に公侯を列す。爾は実に外臣たり、我が恩徳に戾る。禅と皓に比すれば、またその倫に非ず。特ち拱極の班を昇め、列侯の号を賜い、待遇を優にし、尤違を尽く捨つ。光禄大夫・検校太傅・右千牛衛上将軍と為し、仍く違命侯に封ずべし。」

原文昔者唐堯光宅,非無丹浦之師;夏禹泣辜,不赦防風之罪。稽諸古典,諒有明刑。朕以道在包荒,恩推惡殺。在昔騾車出蜀,青蓋辭吳,彼皆閏位之降君,不預中朝之正朔,及頒爵命,方列公侯。爾實為外臣,戾我恩德,比禪與皓,又非其倫。特升拱極之班,賜以列侯之號,式優待遇,盡捨尤違。可光祿大夫、檢校太傅、右千牛衛上將軍,仍封違命侯。」

召して殿に昇らせて撫問す。妻周氏を鄭国夫人に封じ、またその子神武右廂都指揮使仲寓を左千牛衛大将軍と為し、弟宣州節度使従鎰を左領軍衛大将軍と為し、江州節度使従謙を右領軍衛大将軍と為し、神武統軍従度を左監門衛大将軍と為し、神武左廂都指揮使従信を右監門衛大将軍と為し、甥戸部尚書仲遠を右驍ぎょう衛将軍と為し、刑部尚書仲興を右武衛将軍と為し、礼部尚書仲偉を右屯衛将軍と為し、宗正卿季操を左武衛将軍と為し、殿中監仲康を右領衛将軍と為し、殿中少監仲宣を監門衛将軍と為す。仍くその弟・甥に宅を各一区賜う。

原文召升殿撫問。妻周氏封鄭國夫人,又以其子神武右廂都指揮使仲寓為左千牛衛大將軍,弟宣州節度使從鎰為左領軍衛大將軍,江州節度使從謙為右領軍衛大將軍,神武統軍從度為左監門衛大將軍,神武左廂都指揮使從信為右監門衛大將軍,侄戶部尚書仲遠為右驍衛將軍,刑部尚書仲興為右武衛將軍,禮部尚書仲偉為右屯衛將軍,宗正卿季操為左武衛將軍,殿中監仲康為右領衛將軍,殿中少監仲宣為監門衛將軍。仍賜其弟侄宅各一區。

太宗即位し、初めて違命侯を去り、特進を加え、隴西郡公に封ず。太平興国二年、煜自らその貧しきを言う。詔して月俸の給を増し、仍く銭三百万を賜う。太宗嘗て崇文院に幸して書を観、煜及び劉鋹を召し、縦観せしめ、煜に謂いて曰く、「卿の江南に在りて好んで書を読むと聞く。この簡策多く卿が旧物なり。帰朝来頗る書を読むや。」煜頓首して謝す。三年七月、卒す。年四十二。朝を三日廃し、太師を贈り、呉王を追封す。

原文太宗即位,始去違命侯,加特進,封隴西郡公。太平興國二年,煜自言其貧,詔增給月奉,仍賜錢三百萬。太宗嘗幸崇文院觀書,召煜及劉鋹,令縱觀,謂煜曰:「聞卿在江南好讀書,此簡策多卿之舊物,歸朝來頗讀書否?」煜頓首謝。三年七月,卒,年四十二。廢朝三日,贈太師,追封吳王。

先んずるに、江南は後漢以来、民間に服玩侈靡なる者有り。人これを詢うれば、必ず対えて曰く、「この物は趙宝子に属す。」と。また煜の妓妾嘗て碧を染む。経夕収めず、会うに露下り、その色愈いよ鮮明なり。煜これを愛す。ここより宮中競いて露水を収め、碧を染めて以てこれに衣せしめ、「天水碧」と謂う。江南滅ぶるに及び、方に悟る。「趙」は国姓なり、「宝」は年号なり、「天水」は趙の望なり、と。

原文先是,江南自後漢以來,民間有服玩侈靡者,人詢之,必對曰:「此物屬趙寶子。」又煜之妓妾嘗染碧,經夕未收,會露下,其色愈鮮明,煜愛之。自是宮中競收露水,染碧以衣之,謂之「天水碧」。及江南滅,方悟「趙」,國姓也;「寶」,年號也;「天水」,趙之望也。

子 従善

原文子 從善

従善、字は子師、偽りに鄭王に封ぜられ、累遷して太尉・中書令となり、後降封して南楚国公となる。開宝四年春、方物を奉じて来貢し、泰寧軍節度・兗海沂等州観察等使を授けられ、京師に留められる。時に太祖劉鋹を平らげ、将に煜を召して入朝せんとす。故に従善に節制を授け、仍く汴陽坊の甲第一区を賜う。煜手疏して従善を遣わして帰国せしめんことを求め、優詔して許さず。七年、恩を将佐に推し、掌書記江直木を司門員外郎・同判兗州と為し、衙内都指揮使兼左都押衙崔光習を右千牛衛将軍と為し、衙内都虞候兼右都押衙子再興を右千牛衛中郎将と為し、並びに同正とす。また従善の母淩氏を呉国太夫人に封ず。江南平らぎ、右神武大将軍に改む。雍熙初、再遷して右千牛衛上将軍となり、出でて通許監軍と為る。四年、卒す。年四十八。

原文從善,字子師,偽封鄭王,累遷太尉、中書令,後降封南楚國公。開寶四年春,奉方物來貢,授泰寧軍節度、兗海沂等州觀察等使,留京師。時太祖平劉鋹,將召煜入朝,故授從善節制,仍賜汴陽坊甲第一區。煜手疏求遣從善歸國,優詔不許。七年,推恩將佐,以掌書記江直木為司門員外郎、同判兗州,衙內都指揮使兼左都押衙崔光習為右千牛衛將軍,衙內都虞候兼右都押衙子再興為右千牛衛中郎將,並同正。又封從善母淩氏吳國太夫人。江南平,改右神武大將軍。雍熙初,再遷右千牛衛上將軍,出為通許監軍。四年,卒,年四十八。

子仲翊、大中祥符初、同進士出身を賜う。二年、復た召して試み、楚州推官を除き、累遷して殿中丞となり、事に坐して免ぜられる。次子仲猷、景德中、特ちに録して三班借職と為す。

原文子仲翊,大中祥符初,賜同進士出身。二年,復召試,除楚州推官,累遷殿中丞,坐事免。次子仲猷,景德中,特錄為三班借職。

子 従誧

原文子 從誧

従誧、本名は従謙、偽りに吉王に封ぜられ、後降封して諤国公となる。煜に随い帰朝し、右領軍衛大将軍と為り、遷って右龍武大将軍となり、歴て随・復・成の三州を知る。上表して改名す。淳化五年、上言して貧しく自給できずとし、外任を求む。本官を以て武勝軍行軍司馬を充て、月に奉銭三万を給す。

原文從誧,本名從謙,偽封吉王,後降封諤國公。隨煜歸朝,為右領軍衛大將軍,遷右龍武大將軍,歷知隨、復、成三州。上表改名。淳化五年,上言貧不能自給,求外任。以本官充武勝軍行軍司馬,月給奉錢三萬。

子仲偃、大中祥符八年、進士に挙げらる。

原文子仲偃,大中祥符八年,舉進士。

従父弟 季操

原文從父弟 季操

季操は、昪の従父弟たる偽江王逷の子なり。煜に従い入朝し、後右神武将軍と為り、累遷して左衛大将軍となり、康州刺史を領し、出でて単州都監と為る。歴て淮陽・漣水の二軍、蔡・舒の二州を知る。大中祥符四年、卒す。

原文季操,昪從父弟偽江王逷之子也。從煜入朝,後為右神武將軍,累遷左衛大將軍,領康州刺史,出為單州都監。歷知淮陽、漣水二軍、蔡、舒二州。大中祥符四年,卒。

孫仲寓

原文孫 仲寓

仲寓は字を叔章といい、幼少より聡明で文を綴ることができ、多才多芸であった。偽の清源郡公に封ぜられ、帰朝して千牛衛大将軍となった。煜が卒すると、太宗は仲寓に積珍坊第一区と白金五千両を賜った。仲寓の宗族は百余口であったが、なお貧しく自活できず、上書して自ら訴えた。太宗はこれを憐れみ、郢州刺史に任じた。郡に在ること十年、政は寛簡で、管内はよく治まった。淳化五年に卒し、年三十七。

原文仲寓,字叔章,少聰慧,能屬文,多才藝。偽封清源郡公,歸朝為千牛衛大將軍。煜卒,太宗賜仲寓積珍坊第一區、白金五千兩。仲寓宗族百餘口,猶貧不能給,上書自陳。太宗憐之,授郢州刺史。在郡迨十年,為政寬簡,部內甚治。淳化五年,卒,年三十七。

子の正言は、景德三年に特旨をもって供奉官に補せられた。早世して嗣子なく、ただ一女が孤幼であったので、真宗はこれを哀れみ、絹百匹・銭二百万を賜い、聘財を備えさせ、なお内臣を遣わしてその事を主管させた。

原文子正言,景德三年,特補供奉官。早卒無嗣,唯一女孤幼,真宗愍之,賜絹百匹、錢二百萬,以備聘財,仍遣內臣主其事。

煜が常州に所有する田地は、官がこれを検校していた。上(皇帝)はその宗属が甚だ貧しいと聞き、その半ばを売却させ、資産を置いてこれを養わせた。

原文煜有土田在常州,官為檢校。上聞其宗屬貧甚,命鬻其半,置資產以贍之。

舒元 附

原文舒元 附

舒元は潁州沈丘の人である。少にして倜儻として学を好み、道士の楊訥と嵩陽で講習し、『左氏』及び『公羊』『穀梁』の二伝に通じた。訥とともに河中に赴き李守貞に謁し、語ってこれを奇とし、ともに門下に館した。守貞が謀叛を企て、元と訥を遣わし間道より江南に師を乞わしめた。江南は大将軍皇甫暉らを遣わし数万の兵を率いて沭陽に駐屯させ、これに声援とした。会に守貞が敗れ、元と訥は江南に留まった。元は姓を朱と改め、楊訥は姓名を李平と改めた。

原文舒元,潁州沈丘人。少倜儻好學,與道士楊訥講習於嵩陽,通《左氏》及《公》、《穀》二傳。與訥同詣河中謁李守貞,與語奇之,俱館於門下。守貞謀叛,遣元與訥間道乞師江南。江南遣大將軍皇甫暉等率眾數萬次沭陽,為之聲援。會守貞敗,元與訥留江南。元易姓朱,楊訥更姓名為李平。

元は李景に仕え、江寧令・駕部員外郎・文理院待詔を歴任し、嘗て事に坐して左遷された。世宗が淮南を征するに及び、諸郡多く下る中、元は兵事を言わんと求見し、景は大いに悦び、兵を率いて舒州を攻めこれを回復させ、即ちこれをもって団練使とした。また歴陽を平定し、景は元を淮南北面招討使とした。周師が寿春を囲むと、景はその弟の斉王景達を元帥とし、兵を率いて来援せしめ、陳覚を監軍として軍政を総せしめた。元は素より覚と隙あり、覚は密かに表して景に元を讒し、景はこれを信じ、直ちに大将楊守忠を遣わして元に代えさせた。元は憤怒し、自ら戦功高く、また景に背くに忍びず、自殺せんとした。門下の客宋洎が諫めて曰く、「大丈夫何くに往かざるも富貴を取らずや、豈に必ずしも妻子の為に死せんや」と。元はこれを聴き、その衆を率いて世宗に帰順した。景はその妻子をことごとく誅した。世宗は素より元の驍果なるを知り、これを得て甚だ喜び、検校太保・蔡州防禦使とした。淮南平定後、濠州防禦使に改めた。

原文元事李景,歷江寧令、駕部員外郎、文理院待詔,嘗坐事左遷。世宗征淮南,諸郡多下,元求見言兵事,景大悅,遣率兵攻舒州,復之,即以為團練使。又平歷陽,景以元為淮南北面招討使。周師圍壽春,景以其弟齊王景達為元帥,率兵來救,以陳覺為監軍,總軍政。元素與覺有隙,覺密表譖元於景,信之,立遣大將楊守忠代元。元憤怒,自以戰功高,又不忍負景,欲自殺。門下客宋洎諫曰:「大丈夫何往不取富貴,豈必為妻子死哉!」元聽之,將其眾歸世宗,景盡誅其妻子。世宗素知元驍果,得之甚喜,以為檢校太保、蔡州防禦使。淮南平,改濠州防禦使。

宋初、李重進平定に従い、沂州防禦使に改めた。滑州巡検使となり、節帥と協わず、同産の妹婿宋玘の為に請託したと誣奏された。事は釈明を得た。詔して元に舒氏を復姓させた。開宝五年、白波兵馬都監となる。太平興国二年に卒し、年五十五、特旨をもって武泰軍節度を贈られた。

原文宋初,從平李重進,改沂州防禦使。為滑州巡檢使,與節帥不協,誣奏元為同產妹婿宋玘請求。事得釋。詔元復姓舒氏。開寶五年,為白波兵馬都監。太平興國二年,卒,年五十五,特贈武泰軍節度。

元は弁捷で記憶力強く、郡を治める日、或いはその獄訟に親しまず、事多く冤滞すと奏された。太祖が面詰してこれを問うと、詰問する所のものは、元は必ず款占を具に誦し、曲直を指述したので、太祖は甚だこれを嘉歎した。子に知白・知雄・知崇あり。

原文元辯捷強記,治郡日,或奏其不親獄訟,事多冤滯。太祖面詰問之,凡所詰,元必具誦款占,指述曲直,太祖甚嘉歎之。子知白、知雄、知崇。

知白は作坊使に至った。知雄は初め殿直に補せられ、雷有終の推薦により供奉官・鄜延路駐泊都監に授けられたが、後に疾を辞して嵩山に居した。知白が嘗て太宗に奏事する際、そのことを語ると、即ち召し出され、西京作坊副使・泉福都巡検使に任じられた。真宗の初め、懇請して入道し、嵩陽の旧隠に帰った。また王嗣宗・李元則に推薦され、供備庫使に授けられ、棣州知州・麟府鄜延鈐轄を歴任し、また虔州知州となった。再び入道を求め、面して紫冠服を賜り、号して崇玄大師といった。嘗て『字母図』を献じ、詔して褒賞された。乾興元年に卒し、年八十一。知崇は累ねて内職を歴任し、供備庫使に至った。嘗て広州鈐轄・河北安撫副使となり、卒した。

原文知白至作坊使。知雄初補殿直,雷有終薦授供奉官、鄜延路駐泊都監,後辭疾居嵩山。知白嘗奏事太宗,語及之,即召出,授西京作坊副使、泉福都巡檢使。真宗初,懇請入道,歸嵩陽舊隱。復為王嗣宗、李元則所薦,授供備庫使,歷知棣州、麟府鄜延鈐轄,又知虔州。復求入道,面賜紫冠服,號崇玄大師。嘗獻《字母圖》,有詔褒獎。乾興元年,卒,年八十一。知崇累歷內職,至供備庫使。嘗為廣州鈐轄、河北安撫副使,卒。

知白の子昭遠は、大中祥符五年に大理評事に任ぜられ、対面の際自ら陳述したことにより、大理寺丞に改められ、進士第を賜り、太常博士に至った。

原文知白子昭遠,大中祥符五年,任大理評事,因對自陳,改大理寺丞,賜進士第,至太常博士。

韓熙載 附

原文韓熙載 附

韓熙載は字を叔言といい、濰州北海の人である。後唐の同光年中、進士に挙げられ、名は京・洛に聞こえた。父の光嗣は平盧軍節度副使であった。同光の末、青州で軍乱が起こり、その帥符習を逐い、光嗣を推して留後とした。明宗が即位し、光嗣を誅したので、熙載は江南に奔り、偽の呉の滁・和・常の三州の従事を歴任した。

原文韓熙載,字叔言,濰州北海人。後唐同光中,舉進士,名聞京、洛。父光嗣,為平盧軍節度副使。同光末,青州軍亂,逐其帥符習,推光嗣為留後。明宗即位,誅光嗣,熙載奔江南,歷偽吳滁、和、常三州從事。

李昪が僭号すると、秘書郎となり、その子の景に東宮で事えしめよと命じられた。景が位を嗣ぐと、虞部員外郎・史館修撰に遷った。熙載は自ら言うには、「知遇を受けながら顕位を得ず、これをもって我が属する嗣君に仕える所以なり」と。遂に上章し、事を言うこと切直で、景はこれを嘉納した。また吉凶儀礼で式に合わぬもの十数事を改め、大いに宋斉丘・馮延己に忌まれた。

原文李昪僭號,為秘書郎,令事其子景於東宮。景嗣位,遷虞部員外郎、史館修撰。熙載自言:「受知遇,不得顯位,是以我屬嗣君也。」遂上章,言事切直,景嘉納之。又改吉凶儀禮不如式者十數事,大為宋齊丘、馮延己所忌。

昪の葬儀に際し、熙載が礼を知るとして、兼ねて太常博士とせよと命じられた。当時江左は草創期で、典礼多く欠けており、議者は唐の昭宗の後を継ぐとして、廟号は宗と称すべきとしていた。熙載は建議し、古より帝王が己れ失いしものを、己れ得るを反正といい、我れ失うに非ざるものを、我れよりこれを復するを中興といい、中興の君の廟号は祖と称すとし、既に墜ちた業を興すとして、「烈祖」と号することを請うた。景はこれにより益々恩礼を加え、知制誥に抜擢した。熙載は性懶慢で、朝直多く欠け、間もなく罷免された。

原文昪將葬,以熙載知禮,令兼太常博士。時江左草創,典禮多闕,議者以繼唐昭宗之後,廟號合稱宗。熙載建議,以為古者帝王己失之,己得之,謂之反正;非我失之,自我復之,謂之中興,中興之君廟號稱祖。以為興既墜之業,請號「烈祖」。景由是益加恩禮,擢知制誥。熙載性懶慢,朝直多闕,未幾罷去。

晉の開運の末、中原は多事にして、江南方に盛んに、その臣陳覚・馮延魯が福州討伐を建言し、軍敗れて還り、景は罪を問わずに釈放した。熙載は徐鉉と共に上疏し、法に置くことを請うた。覚・延魯は宋齊丘の党である。熙載は齊丘に排せられ、和州司馬に貶せられ、語は『徐鉉傳』にある。久しくして、召されて虞部郎中・史館修撰となり、中書舍人を拝した。世宗が淮甸を平定し、景は国用の不足を患い、熙載は鉄銭を鋳造することを請うた。及び煜が位を襲ぐに及び、遂にその議を行い、熙載を兵部尚書とし、鋳銭使を充てた。銭貨益々軽くなり、その弊に堪えず、熙載も頗る自ら悔いた。

原文晉開運末,中原多事,江南方盛,其臣陳覺、馮延魯建討福州,師敗而還,景釋不問罪。熙載與徐鉉同上疏,請置於法。覺、延魯,宋齊丘之黨也。熙載為齊丘所排,貶和州司馬,語在《徐鉉傳》。久之,召為虞部郎中、史館修撰,拜中書舍人。世宗平淮甸,景患國用不足,熙載請鑄鐵錢。及煜襲位,卒行其議,以熙載為兵部尚書,充鑄錢使。錢貨益輕,不勝其弊,熙載頗亦自悔。

熙載は文を善くし、江東の士人・道釈が金帛を載せて銘誌碑記を求める者が絶えず、又累ねて賞賜を獲た。これにより妓妾四十余人を畜え、多くは音楽を善くし、防閑を加えず、その出入りを外斎に恣にし、賓客生徒と雑処した。煜はその忠を尽くして事を言うを以て、将に相とせんと垂れたが、終に帷薄修まらざるを以て、右庶子を責授し、洪州に分司せしめた。熙載は諸妓を尽く斥け、単車にて路に即かんとす。煜はこれを留め、秘書監に改め、俄にして復位した。向に斥けた妓は稍稍として集まり、頃にして故の如し。煜は歎じて曰く、「吾もまた之を如何ともすること無し」と。中書侍郎・光政殿学士承旨に遷す。開宝三年、卒す。年六十。煜は痛惜し、左僕射・平章事を贈り、諡して「文靖」とし、梅嶺岡の謝安の墓の側に葬り、徐鍇に命じてその遺文を集めしむ。

原文熙載善為文,江東士人、道釋載金帛以求銘誌碑記者不絕,又累獲賞賜。由是畜妓妾四十餘人,多善音樂,不加防閑,恣其出入外齋,與賓客生徒雜處。煜以其盡忠言事,垂欲相之,終以帷薄不修,責授右庶子,分司洪州。熙載盡斥諸妓,單車即路,煜留之,改秘書監,俄而復位。向所斥之妓稍稍而集,頃之如故。煜歎曰:「吾亦無如之何!」遷中書侍郎、光政殿學士承旨。開寶三年,卒,年六十。煜痛惜之,贈左僕射、平章事,諡「文靖」,葬於梅嶺岡謝安墓側,命徐鍇集其遺文。

熙載は才気俊逸、機用周敏、性高簡にして、卑屈する所無く、未だ嘗て人を拝せず。遣逐せらるるも、終に節を改めず、江左に号して「韓夫子」とす。顕徳中、熙載朝廷に来たり、帰りて景が中国の大臣を問うに、時に太祖方に禁兵を典し、熙載対えて曰く、「趙点検は顧視常ならず、測るべからず」と。及び太祖登極す、景益々之を重んず。頗る文章を以て自ら負い、大言を好む。初め、乾徳丁卯年、五星奎に連珠す。奎は文章を主り、又魯の分に在り。時に太宗兗・海を鎮め、中国太平の符なり。是の歳、熙載『格言』五巻を著し、自らその事を序して云く、「魯に其の応無く、韓子『格言』之を成す」と。人多く之を笑う。

原文熙載才氣俊逸,機用周敏,性高簡,無所卑屈,未嘗拜人。雖被遣逐,終不改節,江左號為「韓夫子」。顯德中,熙載來朝廷,歸,景問中國大臣,時太祖方典禁兵,熙載對曰:「趙點檢顧視不常,不可測也。」及太祖登極,景益重之。頗以文章自負,好大言。初,乾德丁卯年,五星連珠於奎,奎主文章,又在魯分,時太宗鎮兗、海,中國太平之符也。是歲,熙載著《格言》五卷,自序其事云:「魯無其應,韓子《格言》成之。」人多笑之。

馮謐 附

原文馮謐 附

馮謐、本名は延魯、字は叔文、其の先は彭城の人、唐末南渡し、新安に家す。李僭号し、子景を立てて太子と為す。謐は兄延己と俱に文学を以て幸を得る。景位を嗣ぐに及び、累遷して中書舍人に至る。

原文馮謐,本名延魯,字叔文,其先彭城人,唐末南渡,家於新安。李僭號,立子景為太子,謐與兄延己俱以文學得幸。及景嗣位,累遷至中書舍人。

晉の開運の末、閩越大いに乱る。景は謐と諫議大夫陳覚を遣わし、伝に乗って安撫せしむ。謐遂に詔を矯って数郡の兵を発し福州を攻む。敗るるに及び、佩刀を引きて自ら刺さんとす。親吏之を制し、死せず。長流して舒州にす。赦に会い叙用され、復た中書舍人と為り、工部侍郎に改む。江南は揚州を以て東都と為し、謐を命じて副留守と為す。周の世宗揚州を下す。謐は髪を髠して僧と為り、仏寺に匿るるも、官軍に獲らる。世宗之を釈し、太常卿を授け、賜与甚だ厚し。数年して、刑部侍郎を拝し、放還せられ、戸部尚書と為る。建隆三年、煜遣わして来貢し、因りて表して舒州の田宅を求めしむ。詔して之を賜う。後に常州観察使に改めて卒す。

原文晉開運末,閩越大亂,景遣謐與諫議大夫陳覺乘傳安撫,謐遂矯詔發數郡兵攻福州。及敗,引佩刀自刺,親吏制之,不死,長流舒州。會赦敘用,復為中書舍人,改工部侍郎。江南以揚州為東都,命謐副留守。周世宗下揚州,謐髡發為僧,匿於佛寺,為官軍所獲。世宗釋之,授太常卿,賜與甚厚。數年,拜刑部侍郎,放還,為戶部尚書。建隆三年,煜遣來貢,因表求舒州田宅,詔賜之。後改常州觀察使而卒。

子伉は中朝に帰り、兄儀・価と並び進士第に登る。伉は文辞清麗、嘗て『平晉頌』を著し、時人これを称す。累遷して殿中侍御史となり、歴て藩郡を典し、皆治跡有り。咸平三年、福州を知り、卒す。特に銭十万を賜い、其の子玄応を録して同学究出身と為す。

原文子伉歸中朝,與兄儀、價並登進士第。伉文辭清麗,嘗著《平晉頌》,時人稱之。累遷殿中侍御史,歷典藩郡,皆有治跡。咸平三年,知福州,卒。特賜錢十萬,錄其子玄應同學究出身。

潘佑 李平 附

原文潘佑 李平 附

潘佑は、南唐の散騎常侍さんきじょうじ処常の子なり。少くして介僻、門を杜して書を読み、人事に交わらず。長じて善く文を属し、尤も論議に長ず。陳喬・韓熙載・徐鉉等共に景に薦め、秘書省正字・直崇文館と為る。煜位を襲ぎ、虞部員外郎・史館修撰に遷る。未だ幾ばくもせず、制誥を知り、内史舍人と為る。

原文潘佑,南唐散騎常侍處常之子。少介僻,杜門讀書,不交人事。及長,善屬文,尤長於論議。陳喬、韓熙載、徐鉉等共薦於景,為秘書省正字、直崇文館。煜襲位,遷虞部員外郎、史館修撰。未幾,知制誥,為內史舍人。

李平と云う者有り。本は嵩山の道士楊訥、河中の帥李守貞に依る。漢の乾祐中、守貞反し、訥と舒元を遣わして江南に師を乞う。守貞敗れ、訥遂に姓名を易え、江南以て員外郎と為し、衛尉少卿・蘄州刺史・戸部侍郎に遷る。平は神仙修養の事を好み、動作妖妄、自ら常に神と接すと言う。佑も亦神仙を好み、遂に相善しむ。二家皆浄室を置き、神像を図り、常に髪を被り裸袒して室中に処り、家人も亦至ることを得ず。又嘗て井田を復するを建議し、及び『周礼』に依り牛籍を置き、平を薦めて司農寺を判せしめて之を督めしむ。事行わるるや、百姓大いに撓み、未だ幾ばくもせずして罷む。佑は自ら衆に排せらるると為し、因りて憤怒し、歴て大臣と兵を握る者と両つながら朋比するを詆り、将に反叛を謀らんとす。又言う、国将に亡びんとし、己を相とせざれば救うべからずと。江南の政事は多く尚書省に在り。因りて平を薦めて省事を知らしめ、又星官楊熙澄を薦めて枢密使と為し、小校侯英に禁兵を典せしめんとす。煜納れず。佑益々忿り、疏を抗して宰相湯悦等数十人を誅することを請う。煜手書して之を教戒す。佑復た朝謁せず、乃ち家に於いて上書して曰く、「臣聞く『三軍も帥を奪うべく、匹夫も志を奪うべからず』と。近く連ねて表章を上し姦悪を指陳す。何の面目を以て士人に見えんや」と。遂に自縊して死す。

原文有李平者,本嵩山道士楊訥,依河中帥李守貞。漢乾祐中,守貞反,遣訥與舒元乞師江南。守貞敗,訥遂易姓名,江南以為員外郎,遷衛尉少卿、蘄州刺史、戶部侍郎。平好神仙修養之事,動作妖妄,自言常與神接。佑亦好神仙,遂相善。二家皆置淨室,圖神像,常被髮裸袒處室中,家人亦不得至。又嘗建議復井田,及依《周禮》置牛籍,薦平判司農寺以督之。事行,百姓大撓,未幾而罷。佑自以為眾所排,因憤怒,歷詆大臣與握兵者兩為朋比,將謀反叛;又言國將亡,非己為相不可救。江南政事多在尚書省,因薦平知省事,又薦星官楊熙澄為樞密使,小校侯英典禁兵,煜不納。佑益忿,抗疏請誅宰相湯悅等數十人,煜手書教戒之。佑不復朝謁,乃於家上書曰:「臣聞『三軍可奪帥也,匹夫不可奪志也』。近者連上表章指陳姦惡,何面目以見士人乎?」遂自縊死。

皇甫継勳 附

原文皇甫繼勳 附

皇甫継勳は、江州節度使暉の子なり。幼くして父蔭を以て軍校と為り、父は滁州に於いて難に死す。累遷して将軍、池・饒二州刺史となり、吏事に勤む。入りて諸軍都虞候と為り、神衛統軍都指揮使に遷る。諸老将相次いで皆死し、而して継勳尚ほ少く、遂に大将と為る。資産優贍、第舎・車服を営み、妓楽を畜え、飲食を潔くし、遊宴の好を極む。

原文皇甫繼勳,江州節度使暉之子。幼以父蔭為軍校,父死難於滁州,累遷將軍,池、饒二州刺史,勤於吏事。入為諸軍都虞候,遷神衛統軍都指揮使。諸老將相次皆死,而繼勳尚少,遂為大將。貲產優贍,營第舍、車服,畜妓樂,潔飲食,極遊宴之好。

宋師の至るに及び、諸軍多く敗衄す。継勳は煜の速やかに降らんことを欲し、毎に衆中に流言し、頗る国中の蹙弱を道う。甥の紹傑も亦継勳の故を以て、巡検と為る。常に紹傑を令して入りて煜に見えしめ、帰命の計を陳べしむ。会うに風雹有り、継勳又密かに滅亡の兆を陳ぶ。偏裨或いは勇士を募りて夜出で営し宋師を邀えんと欲する者有れば、輒ち鞭打ちて之を拘う。又因りて請うて煜の親兵千余を出だし闕城を守らしむるも、宋師に掩わる。一日、煜躬から城を巡り、宋師城外に柵を列ね、旌旗野に遍くするを見て、始めて驚懼し、左右に蔽わるるを知る。城を巡り還るに及び、継勳従いて宮に至る。煜乃ち其の流言衆を惑わし及び命を用いざるの状を責め、収めて大理に付す。始めて出づるや、軍士悉く集まり、其の肉を臠割し、頃刻にして都く尽くす。紹傑も亦誅せらる。煜皆其の妻子を赦す。

原文及宋師至,諸軍多敗衄,繼勳欲煜之速降,每眾中流言,頗道國中蹙弱。侄紹傑亦以繼勳故,為巡檢。常令紹傑入見煜,陳歸命之計。會有風雹,繼勳又密陳滅亡之兆。偏裨或有募勇士欲夜出營邀宋師者,輒鞭而拘之。又因請出煜親兵千餘守闕城,為宋師所掩。一日,煜躬自巡城,見宋師列柵城外,旌旗遍野,始驚懼,知為左右所蔽。及巡城還,繼勳從至宮。煜乃責其流言惑眾及不用命之狀,收付大理。始出,軍士悉集,臠割其肉,頃刻都盡。紹傑亦被誅。煜皆赦其妻子。

周惟簡 附

原文周惟簡 附

周惟簡は饒州鄱陽の人なり。隠居して学問を好み、『易』の義に明るし。煜(李煜)召して国子博士・集賢侍講と為す。間もなく、虞部郎中を以て致仕す。宋師金陵を囲むや、煜、兵を交えるに使える者を求めしに、張洎、惟簡に遠略有りと薦め、談笑の間にこれを和解すべしとす。召して給事中と為し、徐鉉と共に使を奉じて京師に至る。太祖召見して詰責す、惟簡惶恐し、反って言うに、「臣、本より山野に居り、仕進の意無く、李煜強いて遣わし来たるのみ。臣、素より終南山に多く霊薬有ると聞く、事寧みし後、棲隠を得んことを願う」と。太祖これを許す。江南平らぎ、惟簡を以て国子『周易』博士・判監事と為す。開宝九年、上書して前志を述べ、官を解くを求む、蓋し已むを得ざるなり、其の心に非ざるなり。虞部郎中に改め、致仕す。其の子繕を以て京兆府鄠県主簿と為し、就養せしむ。

原文周惟簡,饒州鄱陽人。隱居,好學問,明《易》義。煜召為國子博士、集賢侍講。頃之,以虞部郎中致仕。宋師圍金陵,煜求能使交兵者,張洎薦惟簡有遠略,可以談笑和解之。召為給事中,與徐鉉奉使至京師。太祖召見詰責,惟簡惶恐,反言曰:「臣本居山野,無仕進之意,李煜強遣來耳。臣素聞終南山多靈藥,事寧後,願得棲隱。」太祖許之。江南平,以惟簡為國子《周易》博士、判監事。開寶九年,上書述前志,求解官,蓋不得已,非其心也。改虞部郎中,致仕。以其子繕為京兆府鄠縣主簿,俾就養。

太平興国初、惟簡、終南より闕下に至り、入見を求む。有司、致仕官は詔召有るもと無くして求対の制無しとし、乃ち還る。歳余りして、復た表を上して自ら用いられんことを求め、太常博士を除かれ、水部員外郎に遷り、卒す。繕後進士に挙げられ、都官員外郎に至る。

原文太平興國初,惟簡自終南至闕下,求入見。有司以致仕官非有詔召無求對之制,乃還。歲餘,復上表自求用,除太常博士,遷水部員外郎,卒。繕後舉進士,至都官員外郎。