唐は安史の乱より、藩鎮が専制し、百有余年、漸く割拠を成す。及び黄巣賊の蹂躙に至り、郡邑は丘墟と化す。降りて五季に至り、豪傑蜂起し、各々智力を挟み、封疆を擅にし、自ら位号を制し、以て長雄を争う。天は禍乱を厭い、宋に大柄を授く。太祖、将を命じ師を出し、十余年の間、南は荊・楚を平げ、西は巴・蜀を取り、劉鋹既に俘虜となり、李氏は款を納む。太宗に至り、呉越は吏を請い、漳・泉は来帰し、太原を薄伐し、遂に北漢を顛覆せしめて、海内一たり!王偁の『東都事略』は東漢の隗囂・公孫述の例を用い、孟昶・劉鋹等を列傳に置く。旧史これに因る。今、欧陽修の『五代史記』に倣い、之を世家に列す。凡そ諸国の治乱の源、天下離合の勢、鑑とすべき足るもの有れば、悉く篇に著す。其の子孫諸臣の事業に考うべきもの有るは、各々本国の下に疏す。『列國世家』を作る。
南唐李氏
李景
昪立つこと七年にして卒す。景位を襲ぎ、元号を保大と改め、母宋氏を皇太后と尊び、妻鍾氏を立て皇后と為す。宋斉丘・周宗を用いて宰相と為し、天地を郊祀す。天福末、其の将祖思全・何洙を遣わし福・建・漳・泉の地を侵す。漢乾祐初、李守貞河中に叛し、潜かに舒元・楊訥を遣わし間道より景に援を求む。景其の将李金全・郭全義を命じ師を出して之に応ぜしむ。金全は声勢相接せず、初め行くを願わず、景固く之を遣わす。沭陽に至り、守貞敗れたるを聞き、乃ち還る。周広順初、景又た其の将辺鎬を遣わし湖湘を平らげ、尋いで復た之を失う。
四年春、世宗紫金山に於いて景の軍を大破し、其の将朱元を降し、寿州を克つ。冬、又た濠・泗二州を克つ。五年春、元号を中興と改む。未だ幾ばくもせず、又た元号を交泰と改む。是の春、周師楚州を克ち、又た進み揚州を克つ。将に江を渡らんと議す。景大いに懼れ、江北の地を尽く割き、江を画して界と為し、中朝に臣と称し、歳に土物数十万を貢せんことを請う。世宗之を許す。始めて周の正朔を稟じ、表を上りて唐国主と称す。世宗の答書は唐が回鶻可汗に報うるの制を用い、「皇帝恭しく江南国主に問う」と云う。汴水の傍に臨み懐信駅を置き其の使を待つ。景又た世宗に上言し、世子冀に位を伝えんことを請う。世宗書を賜い勉めて諭す、乃ち止む。景既に淮南の地を失い、頗る躁憤し、其の大臣宋斉丘・陳覚・李徴吉を悪み、皆之を殺す。六年十月、冀卒す。御厨使張延範を命じ使を充てて吊祭せしむ。
初め、景の父の位を襲ぎし時、中原多事に属し、盧文進・李金全・皇甫暉の徒皆景に奔る。江・淮三十余州に跨り据え、魚塩の利を擅にし、即ち山に就き銭を鋳、物力富盛なり。嘗て士に貢せしむるに『高祖入関詩』を試み、頗る中土を窺覦するの意有り。世宗淮甸を平ぐるより、漸く衰弱に赴く。及び太祖揚州を平ぐるに及び、日々馬舩戦艦を京城の南池に習わしむ。景甚だ懼る。其の小臣杜著頗る辞弁有り、偽り商人と作り、建安より渡り来帰す。又た彭沢令薛良事に坐し責められ池州文学を授けらる、亦た身を挺して来奔し、『平南策』を献ず。景之を聞き益々懼る。太祖命じて著を下蜀市に斬り、良を廬州衙校に配隷す。景乃ち安んず。終に国境蹙弱を以て、寧居に遑あらず、遂に豫章に遷る。上通事舎人王守正を遣わし詔を奉じ之を撫す。
俄かに景卒す。其の臣桂陽郡公徐邈遺表を奉じ来たり上る。太祖朝を廃すること五日、鞍轡庫使梁義を遣わし吊祭し、賻として絹三千匹を贈る。子煜又た其の臣馮謐を遣わし表を奉じ、帝号を追尊せんことを願う。之を許す。煜乃ち景を諡して明道崇徳文宣孝皇帝と為し、廟号を元宗とし、陵号を順陵とす。
子 煜
景始めて位を嗣ぎし時、弟斉王景遂を以て元帥と為し、東宮に居らしめ、燕王景達を副元帥と為し、昪の柩の前に就き盟約し、兄弟相継ぎ、中外の庶政並びに景遂に委ね参決せしむ。景の長子冀は東都留守と為り、後又た景遂を立て太弟と為し、景達を斉王・元帥と為し、冀を燕王・副元帥と為す。冀京口を鎮む。周師淮を征し、呉越常州を囲む。冀の部将之を敗る。景達濠州に屯す。兵衄き、遁れて還る。及び地を割きし後、景遂を出して洪州元帥と為し、晋王に封ず。景達撫州元帥と為す。冀を立て太子と為す。景遂尋いで卒す。数月にして冀亦た卒す。乃ち従嘉を立て呉王と為す。
「臣は本来諸子のうちにあり、実に才なきを愧じ、膠庠を出でしより、利禄に心疎し。父兄の蔭育に被り、日月を楽みて優遊し、巢・許の余塵を追い思ひ、夷・齊の高義を遠く慕ふ。継いで懇悃を傾け、先君に上告し、固より虚詞に非ず、人の知る者多し。徒らに伯仲継いで没し、次第に推遷し、先世臣を謂ひて義方に克く習ひ、既に長く且つ嫡なりとし、国事を司らしめ、忽ちに年華を易へしむ。及び暫く豫章に赴き、建業に留まり居するに及び、正に儲副の位にあり、監撫の権を分つも、克く堪へんことを懼れ、常に深く自ら励ます。掩ひて艱罰に丁ること謂はざるに、遂に纘承を玷し、因りて肯堂を顧み、敢へて性を滅さず。然れども先世江表に君臨すること垂二十年、中間務めて倦勤に在り、将に負を釋せんと思ふ。臣が亡兄文獻太子從冀将に内禅に従はんとし、既に宿心を決す。而るに世宗敦勸既に深く、議言因りて息む。及び陛下帝籙を顯かに膺け、彌篤く睿情を篤くし、方に子孫に誓ひ、臨照に仰ぎ酬いんとす。則ち臣の向ふ所脱屣に於けるも、亦名を邀ふるに匪ず、既に宗枋を嗣ぎ、敢へて負荷を忘れんや。唯だ臣節を堅くし、上って天朝に奉ず。若し稍く初心を易へ、輒く異志を萌さばと曰はば、豈に独り祖禰に遵はざるのみならん、実に神明に譴を受くべし。方に一国の生霊を主とし、遐かに九天の覆燾を頼む。況んや陛下懷柔の義廣く、煦嫗の仁深く、必ず清光を假り、更に曩日を踰えん。遠く帝力を憑み、下って旧邦を撫し、克く宴安を獲、康泰に従ひ得ん。然れども慮ふ所の者は、吳越國弊土に鄰り、深仇に近似し、猶ほ恐らくは輒く封疆に向ひ、或ひは紛擾を生ぜんことを。臣は即ち自ら部曲を厳にし、終に先づ侵漁有らざらん、釁嫌を結ぶを免れ、旒扆を撓げ干さんことを。仍ひ慮ふ巧みに簧の舌を肆ひ、仰ぎて投杼の疑ひを成し、曲く異端を構へ、潜かに詭道を行はんことを。願くは鑒燭を廻らし、顯かに是非を諭し、庶くは遠臣をして安んじて危懇を得しめん。」
太祖詔を下して答へしむ。景が江を畫して内附してより、周世宗景に書を貽りしより、是に至り、煜の立つに因り、始めて詔を下して名を呼ばず。
會て嶺南平ぐ。煜懼れ、表を上し、遂に唐國主を江南國主と改め、唐國印を江南國印とす。又表を上して賜はる所の詔に名を呼ばんことを請ふ。之を許す。煜又制度を貶損し、下書して教と稱す。中書門下省を左右内史府と改め、尚書省を司會府とし、御史臺を司憲府とし、翰林を文館とし、樞密院を光政院とす。諸王を降封して國公と為し、官號多く改易する所有り。五年、長春節、別に錢三十万を貢ぎ、遂に以て常と為す。太祖從善を以て泰寧軍節度と為し、第を賜ひ京師に留む。是歳、煜又米麥二十万石を貢ぐ。外は畏服を示し、藩臣の禮を修むるも、而して内は實に甲を繕ひ兵を募ひ、潜かに戰備を為す。太祖其の制し難きを慮り、從善をして旨を煜に諭さしめ、来朝せしむ。煜但だ方物を奉りて貢と為す。六年、米麥十万斛を賜ひ、其の饑民を振ふ。
七年秋、遂に詔して煜を闕に赴かしむ。煜疾有りと稱して詔を奉ぜず。冬、乃ち師を興して致討し、宣徽南院使・義成軍節度曹彬を以て升州西南面行營都部署と為し、山南東道節度潘美を都監と為す。煜初め大兵将に挙らんとするを聞き、甚だ惶懼し、其の弟從鎰及び潘慎修を遣わして来り買宴し、絹二十万匹、茶二十万斤及び金銀器用・乘輿服物等を貢ぐ。及び至るに及び、遂に別館に留む。王師池州を克し、又其の衆二万を采石磯に破り、其の龍驤都虞候楊收等を擒へ、馬三百匹を獲る。江表に戰馬無く、朝廷歳に之を賜ふ。是に及びて獲る所、其の印文を觀るに、皆歳賜の馬なり。初め、将に江表に事有らんとす。江南進士樊若水闕に詣り策を献じ、浮梁を造りて以て師を濟すことを請ふ。太祖高品石全振を遣わし荊湖に往きて黄黑龍船数千艘を造らしめ、又以て大艦に巨竹縆を載せ、荊渚より下らしむ。及び曹彬等に命じて師を出さしむるに及び、乃ち八作使郝守濬等を遣わし丁匠を率ひて之を營ましむ。議者古より未だ浮梁を作りて大江を渡る者有らざるを以て、恐らくは就く能はざらんとす。乃ち先づ石牌口に試み、采石に移し置く。三日にして成り、江を渡ること平地を履むが若し。煜初め朝廷浮梁を作るを聞き、其の臣張洎に語る。洎對へて曰く、「載籍已來、長江梁を為すの事無し。」煜曰く、「吾も亦た兒戲と為すのみ。」
王師江を渡る。煜兵柄を皇甫繼勳に委ね、機事を陳喬・張洎に委ね、又以て徐溫諸孫の元楀等を傳詔と為す。每に軍書告急するも、多く時を俟たずして通ぜず。八年春、王師城下に傅ふ。煜猶ほ知らず。一日城に登り、外に列柵し、旌旗野に遍きるを見て、始めて大いに懼れ、近習の蔽ふ所なるを知り、遂に繼勳を殺す。朱令贇を上江より召し、巨筏を連ねて甲士数万人を載せ順流して下り、将に浮梁を断たんとす。未だ至らざるに、劉遇の破る所と為る。又勇士五千余人を募り謀りて官軍を襲はんとす。皆素より戰に習はず。暮夜を以て人炬を一秉し来り襲ひ北砦を攻む。宋師其の至るを縱ち、之を撃ちて殲す。其の将帥を獲る。悉く印符を佩く。
初め、彬の南征するや、太祖親く之に諭して曰く、「卿彼に至りて慎んで暴略すること勿れ。兵威を以て示し、自ら歸順せしむべし。急に攻むるに必ずしも及ばず。」及び彬軍城を圍むに及び、又左拾遺・知制誥李穆を命じ從鎰を送りて本國に還らしめ、手詔を以て諭し、其の降るを促す。會て潤州平ぐ。煜危迫甚だし。其の臣徐鉉・周惟簡を遣わし方物を奉りて来貢し、手書を奏して以来自り、哀懇して兵を罷めんことを求む。太祖許さず。俄に復た鉉等を遣わし入貢し、仍ひ師を緩めんことを乞ふ。又答へず。但だ厚く賜ひて之を遣す。初め、從鎰の還るに、詔して諸将に攻城を罷めしむ。而して煜終に左右の言に惑ひ、猶豫決せず。遂に詔して兵を進む。
八年の冬、城は陥落し、曹彬らは宮門に兵を駐め、煜はその近臣を率いて門で迎え拝礼した。彬らは露布を上奏し、煜およびその宰相湯悅ら四十五人を献上した。太祖は明徳楼に臨み、煜がかつて正朔を奉じていたことをもって、有司に露布を宣べさせず、ただ煜らに白衣紗帽を着せて楼の下で罪を待たしめた。詔してともにこれを釈放し、冠帯・器幣・鞍馬を差等を設けて賜うた。詔を下して曰く、
「上天の徳はもとより好生にあり、君たるの心は含垢を貴ぶ。乱離の瘼よりして、跨拠の相承を致し、文告を諭して賓せず、吊伐を申すことここに在り。この混一を慶び、寵綏を加う。
江南の偽主李煜は、奕世の遺基を承け、偏方に拠りて窃かに号す。惟れ乃が先父は早く朝恩に荷い、爾が襲位の初め、未だ嘗て命を稟せず。朕は方に寛大を示し、毎に含容す。内附の言を陳ぶるも、駿奔の礼を効わず、兵を聚め壘を峻くし、包蓄日く彰はる。朕は彼が始終を全うし、その疑間を去らんと欲し、召節を頒つも、また来朝を冀う。玉帛の儀を成さんこと庶くし、豈に干戈の役を願わんや。蹇然として顧みず、潜かに陰謀を蓄う。鋭旅を労して徂征せしめ、孤城に傅りて罪を問う。危迫を聞くに及び、累ねて招携を示すも、何ぞ迷復の悛わざる、果たして覆亡の自掇するや。
昔し唐堯光宅すれども、丹浦の師無きに非ず。夏禹は辜を泣くも、防風の罪を赦さず。諸古典に稽えれば、諒かに明刑有り。朕は道は包荒に在り、恩は悪殺を推す。昔し騾車蜀を出で、青蓋呉を辞す。彼らは皆閏位の降君にして、中朝の正朔に預からず。爵命を頒つに及び、方に公侯を列す。爾は実に外臣たり、我が恩徳に戾る。禅と皓に比すれば、またその倫に非ず。特ち拱極の班を昇め、列侯の号を賜い、待遇を優にし、尤違を尽く捨つ。光禄大夫・検校太傅・右千牛衛上将軍と為し、仍く違命侯に封ずべし。」
召して殿に昇らせて撫問す。妻周氏を鄭国夫人に封じ、またその子神武右廂都指揮使仲寓を左千牛衛大将軍と為し、弟宣州節度使従鎰を左領軍衛大将軍と為し、江州節度使従謙を右領軍衛大将軍と為し、神武統軍従度を左監門衛大将軍と為し、神武左廂都指揮使従信を右監門衛大将軍と為し、甥戸部尚書仲遠を右驍衛将軍と為し、刑部尚書仲興を右武衛将軍と為し、礼部尚書仲偉を右屯衛将軍と為し、宗正卿季操を左武衛将軍と為し、殿中監仲康を右領衛将軍と為し、殿中少監仲宣を監門衛将軍と為す。仍くその弟・甥に宅を各一区賜う。
先んずるに、江南は後漢以来、民間に服玩侈靡なる者有り。人これを詢うれば、必ず対えて曰く、「この物は趙宝子に属す。」と。また煜の妓妾嘗て碧を染む。経夕収めず、会うに露下り、その色愈いよ鮮明なり。煜これを愛す。ここより宮中競いて露水を収め、碧を染めて以てこれに衣せしめ、「天水碧」と謂う。江南滅ぶるに及び、方に悟る。「趙」は国姓なり、「宝」は年号なり、「天水」は趙の望なり、と。
子 従善
子 従誧
従誧、本名は従謙、偽りに吉王に封ぜられ、後降封して諤国公となる。煜に随い帰朝し、右領軍衛大将軍と為り、遷って右龍武大将軍となり、歴て随・復・成の三州を知る。上表して改名す。淳化五年、上言して貧しく自給できずとし、外任を求む。本官を以て武勝軍行軍司馬を充て、月に奉銭三万を給す。
子仲偃、大中祥符八年、進士に挙げらる。
従父弟 季操
季操は、昪の従父弟たる偽江王逷の子なり。煜に従い入朝し、後右神武将軍と為り、累遷して左衛大将軍となり、康州刺史を領し、出でて単州都監と為る。歴て淮陽・漣水の二軍、蔡・舒の二州を知る。大中祥符四年、卒す。
孫仲寓
煜が常州に所有する田地は、官がこれを検校していた。上(皇帝)はその宗属が甚だ貧しいと聞き、その半ばを売却させ、資産を置いてこれを養わせた。
舒元 附
舒元は潁州沈丘の人である。少にして倜儻として学を好み、道士の楊訥と嵩陽で講習し、『左氏』及び『公羊』『穀梁』の二伝に通じた。訥とともに河中に赴き李守貞に謁し、語ってこれを奇とし、ともに門下に館した。守貞が謀叛を企て、元と訥を遣わし間道より江南に師を乞わしめた。江南は大将軍皇甫暉らを遣わし数万の兵を率いて沭陽に駐屯させ、これに声援とした。会に守貞が敗れ、元と訥は江南に留まった。元は姓を朱と改め、楊訥は姓名を李平と改めた。
元は李景に仕え、江寧令・駕部員外郎・文理院待詔を歴任し、嘗て事に坐して左遷された。世宗が淮南を征するに及び、諸郡多く下る中、元は兵事を言わんと求見し、景は大いに悦び、兵を率いて舒州を攻めこれを回復させ、即ちこれをもって団練使とした。また歴陽を平定し、景は元を淮南北面招討使とした。周師が寿春を囲むと、景はその弟の斉王景達を元帥とし、兵を率いて来援せしめ、陳覚を監軍として軍政を総せしめた。元は素より覚と隙あり、覚は密かに表して景に元を讒し、景はこれを信じ、直ちに大将楊守忠を遣わして元に代えさせた。元は憤怒し、自ら戦功高く、また景に背くに忍びず、自殺せんとした。門下の客宋洎が諫めて曰く、「大丈夫何くに往かざるも富貴を取らずや、豈に必ずしも妻子の為に死せんや」と。元はこれを聴き、その衆を率いて世宗に帰順した。景はその妻子をことごとく誅した。世宗は素より元の驍果なるを知り、これを得て甚だ喜び、検校太保・蔡州防禦使とした。淮南平定後、濠州防禦使に改めた。
元は弁捷で記憶力強く、郡を治める日、或いはその獄訟に親しまず、事多く冤滞すと奏された。太祖が面詰してこれを問うと、詰問する所のものは、元は必ず款占を具に誦し、曲直を指述したので、太祖は甚だこれを嘉歎した。子に知白・知雄・知崇あり。
知白の子昭遠は、大中祥符五年に大理評事に任ぜられ、対面の際自ら陳述したことにより、大理寺丞に改められ、進士第を賜り、太常博士に至った。
韓熙載 附
韓熙載は字を叔言といい、濰州北海の人である。後唐の同光年中、進士に挙げられ、名は京・洛に聞こえた。父の光嗣は平盧軍節度副使であった。同光の末、青州で軍乱が起こり、その帥符習を逐い、光嗣を推して留後とした。明宗が即位し、光嗣を誅したので、熙載は江南に奔り、偽の呉の滁・和・常の三州の従事を歴任した。
李昪が僭号すると、秘書郎となり、その子の景に東宮で事えしめよと命じられた。景が位を嗣ぐと、虞部員外郎・史館修撰に遷った。熙載は自ら言うには、「知遇を受けながら顕位を得ず、これをもって我が属する嗣君に仕える所以なり」と。遂に上章し、事を言うこと切直で、景はこれを嘉納した。また吉凶儀礼で式に合わぬもの十数事を改め、大いに宋斉丘・馮延己に忌まれた。
昪の葬儀に際し、熙載が礼を知るとして、兼ねて太常博士とせよと命じられた。当時江左は草創期で、典礼多く欠けており、議者は唐の昭宗の後を継ぐとして、廟号は宗と称すべきとしていた。熙載は建議し、古より帝王が己れ失いしものを、己れ得るを反正といい、我れ失うに非ざるものを、我れよりこれを復するを中興といい、中興の君の廟号は祖と称すとし、既に墜ちた業を興すとして、「烈祖」と号することを請うた。景はこれにより益々恩礼を加え、知制誥に抜擢した。熙載は性懶慢で、朝直多く欠け、間もなく罷免された。
晉の開運の末、中原は多事にして、江南方に盛んに、その臣陳覚・馮延魯が福州討伐を建言し、軍敗れて還り、景は罪を問わずに釈放した。熙載は徐鉉と共に上疏し、法に置くことを請うた。覚・延魯は宋齊丘の党である。熙載は齊丘に排せられ、和州司馬に貶せられ、語は『徐鉉傳』にある。久しくして、召されて虞部郎中・史館修撰となり、中書舍人を拝した。世宗が淮甸を平定し、景は国用の不足を患い、熙載は鉄銭を鋳造することを請うた。及び煜が位を襲ぐに及び、遂にその議を行い、熙載を兵部尚書とし、鋳銭使を充てた。銭貨益々軽くなり、その弊に堪えず、熙載も頗る自ら悔いた。
熙載は才気俊逸、機用周敏、性高簡にして、卑屈する所無く、未だ嘗て人を拝せず。遣逐せらるるも、終に節を改めず、江左に号して「韓夫子」とす。顕徳中、熙載朝廷に来たり、帰りて景が中国の大臣を問うに、時に太祖方に禁兵を典し、熙載対えて曰く、「趙点検は顧視常ならず、測るべからず」と。及び太祖登極す、景益々之を重んず。頗る文章を以て自ら負い、大言を好む。初め、乾徳丁卯年、五星奎に連珠す。奎は文章を主り、又魯の分に在り。時に太宗兗・海を鎮め、中国太平の符なり。是の歳、熙載『格言』五巻を著し、自らその事を序して云く、「魯に其の応無く、韓子『格言』之を成す」と。人多く之を笑う。
馮謐 附
馮謐、本名は延魯、字は叔文、其の先は彭城の人、唐末南渡し、新安に家す。李僭号し、子景を立てて太子と為す。謐は兄延己と俱に文学を以て幸を得る。景位を嗣ぐに及び、累遷して中書舍人に至る。
潘佑 李平 附
潘佑は、南唐の散騎常侍処常の子なり。少くして介僻、門を杜して書を読み、人事に交わらず。長じて善く文を属し、尤も論議に長ず。陳喬・韓熙載・徐鉉等共に景に薦め、秘書省正字・直崇文館と為る。煜位を襲ぎ、虞部員外郎・史館修撰に遷る。未だ幾ばくもせず、制誥を知り、内史舍人と為る。
李平と云う者有り。本は嵩山の道士楊訥、河中の帥李守貞に依る。漢の乾祐中、守貞反し、訥と舒元を遣わして江南に師を乞う。守貞敗れ、訥遂に姓名を易え、江南以て員外郎と為し、衛尉少卿・蘄州刺史・戸部侍郎に遷る。平は神仙修養の事を好み、動作妖妄、自ら常に神と接すと言う。佑も亦神仙を好み、遂に相善しむ。二家皆浄室を置き、神像を図り、常に髪を被り裸袒して室中に処り、家人も亦至ることを得ず。又嘗て井田を復するを建議し、及び『周礼』に依り牛籍を置き、平を薦めて司農寺を判せしめて之を督めしむ。事行わるるや、百姓大いに撓み、未だ幾ばくもせずして罷む。佑は自ら衆に排せらるると為し、因りて憤怒し、歴て大臣と兵を握る者と両つながら朋比するを詆り、将に反叛を謀らんとす。又言う、国将に亡びんとし、己を相とせざれば救うべからずと。江南の政事は多く尚書省に在り。因りて平を薦めて省事を知らしめ、又星官楊熙澄を薦めて枢密使と為し、小校侯英に禁兵を典せしめんとす。煜納れず。佑益々忿り、疏を抗して宰相湯悦等数十人を誅することを請う。煜手書して之を教戒す。佑復た朝謁せず、乃ち家に於いて上書して曰く、「臣聞く『三軍も帥を奪うべく、匹夫も志を奪うべからず』と。近く連ねて表章を上し姦悪を指陳す。何の面目を以て士人に見えんや」と。遂に自縊して死す。
皇甫継勳 附
皇甫継勳は、江州節度使暉の子なり。幼くして父蔭を以て軍校と為り、父は滁州に於いて難に死す。累遷して将軍、池・饒二州刺史となり、吏事に勤む。入りて諸軍都虞候と為り、神衛統軍都指揮使に遷る。諸老将相次いで皆死し、而して継勳尚ほ少く、遂に大将と為る。資産優贍、第舎・車服を営み、妓楽を畜え、飲食を潔くし、遊宴の好を極む。
宋師の至るに及び、諸軍多く敗衄す。継勳は煜の速やかに降らんことを欲し、毎に衆中に流言し、頗る国中の蹙弱を道う。甥の紹傑も亦継勳の故を以て、巡検と為る。常に紹傑を令して入りて煜に見えしめ、帰命の計を陳べしむ。会うに風雹有り、継勳又密かに滅亡の兆を陳ぶ。偏裨或いは勇士を募りて夜出で営し宋師を邀えんと欲する者有れば、輒ち鞭打ちて之を拘う。又因りて請うて煜の親兵千余を出だし闕城を守らしむるも、宋師に掩わる。一日、煜躬から城を巡り、宋師城外に柵を列ね、旌旗野に遍くするを見て、始めて驚懼し、左右に蔽わるるを知る。城を巡り還るに及び、継勳従いて宮に至る。煜乃ち其の流言衆を惑わし及び命を用いざるの状を責め、収めて大理に付す。始めて出づるや、軍士悉く集まり、其の肉を臠割し、頃刻にして都く尽くす。紹傑も亦誅せらる。煜皆其の妻子を赦す。
周惟簡 附
周惟簡は饒州鄱陽の人なり。隠居して学問を好み、『易』の義に明るし。煜(李煜)召して国子博士・集賢侍講と為す。間もなく、虞部郎中を以て致仕す。宋師金陵を囲むや、煜、兵を交えるに使える者を求めしに、張洎、惟簡に遠略有りと薦め、談笑の間にこれを和解すべしとす。召して給事中と為し、徐鉉と共に使を奉じて京師に至る。太祖召見して詰責す、惟簡惶恐し、反って言うに、「臣、本より山野に居り、仕進の意無く、李煜強いて遣わし来たるのみ。臣、素より終南山に多く霊薬有ると聞く、事寧みし後、棲隠を得んことを願う」と。太祖これを許す。江南平らぎ、惟簡を以て国子『周易』博士・判監事と為す。開宝九年、上書して前志を述べ、官を解くを求む、蓋し已むを得ざるなり、其の心に非ざるなり。虞部郎中に改め、致仕す。其の子繕を以て京兆府鄠県主簿と為し、就養せしむ。
太平興国初、惟簡、終南より闕下に至り、入見を求む。有司、致仕官は詔召有るもと無くして求対の制無しとし、乃ち還る。歳余りして、復た表を上して自ら用いられんことを求め、太常博士を除かれ、水部員外郎に遷り、卒す。繕後進士に挙げられ、都官員外郎に至る。