宋史

列傳第二百三十五 叛臣中 李全上

◎叛臣中 ○李全上

李全は、濰州北海の農家の子であり、同母兄弟三人であった。全は頭が尖り目が蜂の如く、権謀に長け人にへりくだることを善くし、弓馬に敏捷で、鉄槍を操ることができたため、当時「李鉄槍」と号された。

初め、大元の兵が中都を破り、金主が汴に逃れると、賦斂はますます横暴となり、遺民は険阻な地に拠って乱を思った。ここにおいて劉二祖が泰安に起こり、淄・沂を掠めた。二祖が死ぬと、霍儀がこれを継いだ。彭義斌・石珪・夏全・時青・裴淵・葛平・楊德廣・王顯忠らがこれに附いた。楊安児が起こり、莒・密を掠め、展徽・王敏が謀主となり、母の兄劉全が帥となり、汲君立・王琳・閻通・董友・張正忠・孫武正らがこれに附き、その他の賊寇も蜂起した。大元の兵が山東に至り、全の母とその兄はそこで死んだ。全は次兄の福とともに数千の衆を聚め、劉慶福・國安用・鄭衍德・田四・于洋・洋の弟潭らが皆これに附いた。

大元の兵が退くと、金はすなわち完顏霆を山東行省とし、黄摑を経歴官と遣わし、花帽軍三千を率いてこれを討ち、安児を闌頭滴水で破り、その南路を断った。安児は軽舸で即墨に逃れ、金人はその首に千金を懸け、舟人が斬って献じた。安児に子がなく、甥の友が偽って「九大王」と称したが、軍務に通じていなかった。安児の妹四娘子は狡猾で悍ましく騎射に長け、劉全が潰卒を収めて奉じて統べ、「姑姑」と称し、衆はなお万余り、食を掠めて磨旗山に至り、全はその衆を率いて附き、楊氏はこれと通じ、遂にこれに嫁いだ。全は軍を合わせて霆と戦い、また敗れた。霆のぎょう将張惠が全を見ると、馬を躍らせて赴き、槍が全に及ぼうとした時、まるでその馬の足を縛り止める者がいるかのようであった。全は余衆を収めて東海を保つことができ、劉全は軍を分けて固上に駐めた。霍儀が沂州を攻めて下さず、霆が清河から出て徐州に至り、儀を斬り、その衆を潰した。彭義斌は李全に帰した。黄摑とは、すなわち阿魯達である。霆はすなわち李二措で、完顏の姓を賜った。惠は「賽張飛」と号し、燕の侠士である。この数人は、島や固に出没し、宝貨は山のように積もっても食を得られず、相率いて人を食った。

沈鐸という者あり、鎮江武鋒の卒で、亡命して山陽で盗販し、米商を誘致し、斗米はすなわち数十倍で売り、楚州知事応純之が玉貨で償うことを知り、北から来る者があればすなわちこれを宿泊させた。また純之を説いて銅銭を帰すことを名目とし、淮を渡る禁令を緩め、来る者を阻止できなかった。安児の未だ敗れざる時、宋に帰順する意思があり、宋人を招き礼遇した。定遠の民季先という者は、かつて大侠劉佑の家で厮養となり、佑に従って綱客として山陽に赴き、安児はこれを見て喜び、軍職に処した。安児が死ぬと、先は山陽に至り、鐸を縁故として純之に謁見し、豪傑が附くことを願う意を述べた。時に江・淮制置使李玨・淮東安撫使崔與之は皆純之に沿江の戍を増やすよう命じたが、防禦できないことを恐れ、すなわち先を機察と命じ、群豪に意を諭させた。鐸を武鋒軍副将に叙復し、楚州都監に辟し、高忠皎とともに各々忠義民兵を集め、二道に分かれて金を攻めさせた。先はすなわち李全の五千人を忠皎に附け、合兵して海州を攻め落としたが、糧食の補給が続かず、退いて東海に屯した。全は兵を分けて莒州を襲い破り、金の守将蒲察李家を擒にし、別将于洋は密州を克ち、兄の福は青州を克った。ここにおいて初めて全を武翼大夫・京東副総管に授けた。純之は北軍が屡々捷するを見て、密かに朝廷に聞こえ、中原を回復し得ると言った。時に連年小作が豊かで、朝野に事なく、丞相史弥遠は開禧の事を鑑み、明らかに招納せず、密かに玨及び純之に慰撫接応するよう勅し、「忠義軍」と号し、そのまま節制に従わせた。ここにおいて旨があり、武定軍生券の例に依り、一万五千人分の銭糧を支給し、「忠義糧」と名付けた。ここにおいて東海の馬良・高林・宋德珍ら万人が漣水に輻湊し、鐸はこれを受け入れた。全と劉全はともに羨望の心を起こした。

嘉定十一年五月己丑、全軍は漣水に至り、先を邀えて楚城で事を白せしめ、器甲金穀を取り、再び海州を攻めることを議した。純之は全に厚く労い、金玉の器用をその部下に差等をつけて与えた。六月、全は海城を囲み、金の経略使阿不罕・納不刺らが固守して下らなかった。七月、鄆・単・邳・徐の兵を合わせて来援し、全はこれと高橋で戦い、勝たず、退いて石秋を守り、兵を分けて密州を襲い、黄摑を擒にし、械にかけて楚城に至らせた。この冬、淮陰の亀山に移って屯した。

十二年、山東から来帰する者が止まず、権楚州梁丙は養う術がなかった。先は丙に懇願して二月分を前借りし、その後自らが率いる五千の衆と良らの万人を率いて密州に往き食を求めようとしたが、許されなかった。全を速やかに遣わして代わりにその衆を領させようと請うたが、また許されなかった。丙は石珪に軍務を権摂させたが、珪はすなわち糧食を運ぶ舟を奪い、二月庚辰、二万の軍を率いて淮を渡り大いに掠めた。丙は王顯臣・高友・趙邦永を調べて兵でこれを迎え撃たせたが、南度門に至り、顯臣は敗れ、友・邦永は珪に遇うと、下馬して山東の言葉で語り、皆再び戦わなかった。丙は窮し、すなわち全を遣わしてこれを諭させた。時に金人が淮西を急に囲み、馬司都統李慶宗が濠を戍り、出戦して騎三千を喪い、珪及び張春も皆亡失があった。帥司は全と先・珪の軍を調べて盱眙を援けさせた。全もまた自ら試みたいと思い、親しく東海に往き軍を点検してこれに赴いた。癸亥、嘉山で金人に遇い、戦って小勝した。三月、先の軍は進んで天長に駐し、全は進んで盱眙に駐し、鼎立して金人を待った。乙酉、全は渦口に至り、金の将乞石烈牙吾答で「盧鼓槌」と名乗る者が渡河しようとしているのに値い、全はその将鹿仙とともにこれを掩撃し、金兵で淮に溺れた者は数千、俘獲は甚だ多かった。壬辰、阿海と化陂湖で戦い、大勝し、金の数将を殺し、その金牌を得て、曹家莊まで追って還った。三つの包囲は皆解け、全の喪失もまた多かった。阿海とは、金でいうところの四駙馬である。全は達州刺史に進み、妻楊氏は令人に封ぜられた。

六月、金の元帥張林が青・莒・密・登・萊・濰・淄・濱・棣・寧海・済南の十二州を以て来帰した。初め、林は心に宋を存し、摑が敗れると、決意したが達することができなかった。会に全が濰州に還り墓参りするに及び、林の意を推し量り、すなわち兵を青州城下に薄め、国家の威徳を陳説し、林に早く附くよう勧めた。林は全が己を誘うことを恐れ、躊躇して受け入れなかった。全は身を挺して城に入ることを約し、唯数人を従えるのみとし、林はすなわち門を開いてこれを納れ、相見えて甚だ歓び、托すべき所を得たと言い、酒を設けて兄弟の契りを結んだ。全は既に林の要領を得ると、別に表を奉じて十二州の版籍を以て帰順した。表の文辞に「諸七十城の全斉を挙げて、我が三百年の旧主に帰す」とある。表は、馮垍の作である。秋、林を武翼大夫・京東安撫兼総管に授け、その他も官を授けるに差等があった。全を広州観察使・京東総管に進め、劉慶福・彭義斌は皆統制とし、二万人分の銭糧の支給を増やし、楚州に移って屯させた。先に、制置使賈涉が朝命を以て督戦し、金の太子を殺す者には節度使を賞し、親王を殺せば承宣使を、駙馬を殺せば観察使を賞すと約した。全は得た金牌を涉に致し、四駙馬を殺して得たものであると言った。涉は朝廷に上り、約の如くこれを賞するよう請うた。故に全はこの任を受けたのであるが、四駙馬は実は死んでいなかった。

十一月、大雨雪が降り、淮水の氷が結んだ。李全は制置使府に請うて曰く、「常に泗州が水に阻まれることを恨んでいたが、今は平地の如し。東西の城を取って自ら功を立てんことを請う」と。制府は盱眙の劉琸に就いて議わせ、劉琸は諸将を集めて李全を饗応した。時青・夏全ともに長槍兵三千人を率いて従うことを願った。夜半に淮を渡り、密かに泗州の東城に向かい、濠の氷を踏み城下に迫り、金人の不意を襲わんとした。俄かに城上に荻の炬火数百が一斉に挙がり、遥かに謂うて曰く、「賊李三(李全)!汝は城を盗もうとするのか?」と。天が暗いので、火をもって照らしたのである。李全は備え有るを知り、引き去った。

十三年、趙拱が朝命を奉じて京東を諭し、青崖崮を過ぎると、厳実が内附を求めた。趙拱は約を定め、厳実の帰順の款状を奉じて山陽に至り、魏・博・恩・徳・懐・衛・開・相の九州を挙げて来帰させた。賈涉は再び趙拱を遣わして諭させ、兵二千を配した。李全もまた行くことを請うたので、賈涉は止めることができず、楚州及び盱眙の忠義軍一万余を率いて行かせた。趙拱は李全を説いて曰く、「将軍が兵を提げて河を渡り、用いられずして帰るは、武を示さざるなり。今勢いに乗じて東平を取るは、可ならんや」と。ここにおいて李全は季先の軍を合わせて数万を得、東平の城南を襲った。金の参知政事蒙古剛が衆を帥いて東平を守り、李全は三千人に金銀の甲・赤幟を着けさせ、濠を繞り馬を躍らせて戦いを求めた。時に大暑であり、李全は城が水に阻まれ、矢石が及ばぬを見て、乃ち季先と汶水を挟んで砦を築き、中に浮橋を通じて往来した。一夜、汶水が溢れ、大木を漂わせ、浮橋を断った。李全は首尾幾ばくか絶えんとした。蓋し金人が汶水を堰き止めてこれを決したのである。詰朝、金の騎兵三百が奄然として至った。李全は欣然として馬に上り、帳前に在るすべての騎兵を帥いてこれに赴き、数人を殺し、その馬を奪い、敗走を追って山谷に至った。上に龍虎上将軍と称する者、銀甲を貫き、長槊を揮い、盛んな兵を率いて出で、傍らに繍旗の女将が槍を馳せて突き闘った。諸将が至るに会い、李全を抜き出して、乃ち退いて長清県を保った。精鋭は大半を喪失し、統制陳孝忠ここに死す。季先の兵は青州に還った。李全の携えた鎮江軍五百人は多く怨憤し、李全は乃ち分けて趙拱に隷属させ、先に帰らせ、余衆を以て滄州を経由し、塩の利を仮りて以てこれを慰め贍った。龍虎上将軍とは、東平の副帥幹不搭なり。女将とは、劉節度使の女なり。

李全は楚州に至り、ちょうど季先が行在に赴くよう召された時であった。李全は渦口の勝利以来、諸将を軽んずる心があり、ただ季先のみ嘗て戦勲を策し、威望が己に下らざるを患えた。乃ち密かに制置使帥府の任ずる吏莫凱と結び、季先を讒言させた。季先が卒すると、李全は喜び、心益々そむく。賈涉は季先の死に乗じ、その軍を収めんと欲し、統制陳選をめて漣水に往かせ、これを総べさせた。季先の与党裴淵・宋徳珍・孫武正及び王義深・張山・張友は拒んで受けず、密かに盱眙の石珪を迎え、統帥として奉じた。石珪が楚州城を経由したが、賈涉は知覚せず、陳選が還ると、賈涉はこれを恥じ、乃ち石珪の軍を六分することを謀り、朝廷に請うて、修武郎・京東路鈐轄の印告を各六つ授け、淵らに与えて分統させ、その徒党を散ぜしめ得ると謂った。裴淵らは表向きこれを受命し、賈涉は即ち朝廷に聞こえ、六人既に順従し、石珪は為す能わずと謂う。その後、教令有るも皆納れず、然る後に淵らがなお石珪を主としていることを知り、賈涉は甚だ恐れた。李全は府吏と結び伺い知り、乃ち賈涉に謁し、石珪を討つことを請うたが、賈涉は処置無し。議者は李全の軍を南度門に布き、淮陰の戦艦を淮岸に移して陳べ、石珪に備え有るを示し、然る後に一将を命じて石珪の軍を招き、来る者には銭糧を増し、至らざる者は支給を罷め、衆心一たび散じれば、石珪の党自ずから離れると請うた。賈涉はその策を用い、石珪の術果たして窮す。石珪は平素より大元に通好し、ここに至り裴淵を殺し、孫武正・宋徳珍とその謀主孟導を挟んで大元に帰した。漣水軍は未だ属する所無く、李全は併せてこれを将たらんことを求めた。客に淮将に附せしむるを請う者ありて曰く、「南将に北軍を主たらしめば、則ち淮・楚一つとなる」と。賈涉は然りとし、且つ曰く、「季先の時に三千の虚籍有り。今当に明亮を遣わして実を核せしめ、因って費を省くべし」と。李全これを聞くや即ち計を献じて曰く、「李全若し朝にこの軍を将たらば、夕に虚籍を核除せん」と。因りて卑辞を以て珍具を献じ、自ら結ばんとす。賈涉は却けること能わず、遂にこれを李全に付す。翌日、復命して曰く、「初め虚額有りと謂えども、昨夕細かに点ずるに、一万五千人の外尚お十数名溢る」と。賈涉は始めて李全に欺かれたるを悟り、他日、更に幕属を遣わして点検せしむるを議す。吏急ぎ李全に報ず。李全忽ち状を以て賈涉に白す、「昨夕三鼓、漣水より警報あり、云う金人万余邳州に在りと。李全、漣水邳州に咫尺なるを思い、既に険阻無く、城壁また弊え、一たび攻劫せられば、則ち直ちに淮面に臨まん。罪は李全に在り。深夜、制使を驚かす敢えず、已に七千人を調べて敵を迎えたり」と。賈涉は李全の詐りを知り、因りて軍を点ずるの議を寝かす。李全また制府に白し、朝廷に請うて、劉全を総管とし揚州に駐ましめ、数千の兵を分けてこれに従わせ、而してその衆を将とす。十一月丁未、李全は金山に遊び、仏事を行い、以て国殤を薦む。知鎮江府喬行簡、方舟を以てこれを迎え、大いに楽を合わせて以てこれを饗す。総領程覃、たがいに主礼を為し、務めて北人に繁盛を誇る。李全は親しむ娼を請うたが、程覃は与えず。李全帰り、その徒に語りて曰く、「江南の佳麗比ぶる無し。須らく汝らと一たび到らん」と。始めて舭達舟を造り、舟楫の利を争わんことを謀る。

十四年正月、金人が将に南来せんとす。李全は賈涉に請い、劉琸と共に泗州を図り、以てその謀を伐たんと欲す。賈涉これを許す。李全の兵は盱眙に至り淮を渡り、泗州の西城を攻め落とし、城に入り守りを布く。劉琸は盱眙の芻粟を移して以てこれを充実し、防城の具をことごとく撤して往き、必守の計と為す。未だ幾ばくもせず、盧鼓槌(ルグチュイ)が西城を取りに来る。李全は盛兵を出して戦うも、大いに敗れ、統制頼興死す。李全は城を閉じて自ら守る。明日また戦うも勝たず、李全は遁れて帰る。資糧器械悉く以て敵に委ぬ。金人は既に蘄州を陥とし、扈再興・趙範及びその弟趙葵が天長に於いて邀撃す。李全は行に随い金人の後を襲い、謁して賀して曰く、「二監軍既に大功を立てたり。余寇を李全に付してこれを追わしめんことを乞う」と。然れども李全はこれを追うこと甚だ力めず、亦これに以て承宣使に進む。

十五年二月、劉琸が再び西城を取る。盧鼓槌が城を背にして力戦し、王恵に必ず李全を獲よと戒め、獲ざれば斬ると。王恵は数たび山東に於いて李全を敗りしも、而して獲ること能わず、毎に歎じて曰く、「天この賊を仮す、事未だ量るべからず」と。盧鼓槌の言を聞くに及び、自ら度るに進めば必ずしも獲ず、退けば復た戮せられんと、即ち陣を躍馬して李全の壁に奔り、執る所の兵を棄てて降ることを請う。李全はこれを掖き起こし、相与いに歓び甚だし。数日を経ず、王恵の麾下数千人皆潜かに至る。李全は王恵と帰り、制置司に請うてこれを官とし、自ら一軍を総べしむ。

膠西は登州・寧海の要衝に当たり、百貨が輻湊する地である。李全はその兄の福をしてこれを守らせ、窟宅の計と為した。時に互市始めて通じ、北人は殊に南貨を重んじ、価十倍に増す。全は商人を誘いて山陽に至らしめ、舟を以てその貨を浮かべて中分し、自ら淮より海に転じ、膠西に達す。福また車輦を具えてこれを運び、その半を税し、然る後に諸郡に往きて貿易するを聴かしむ。車・夫は皆林に督弁せしむるも、林堪えず。林の財計は六塩場に仰ぐ。福はその弟が林に大造有るを恃み、またその半を分かたんと欲す。林は福に恣に塩を取らすことを許すも、場を分かたず。福怒りて曰く、「若は恩に背くか。都統と兵を提げて若の頭を取るを待て」と。林懼れ、制置司に訴う。許涉密かに林の戯下を召してこれを問う。福は途に伏兵してこれを伺うも、林覚えて追わず。ここにおいて李馬児、林を説きて大元に帰せしむ。福狼狽して楚州に走る。冬、全に招信軍節度を加う。林なお遺書を以て全を詆し、己が叛に非ざるを明らかにす。涉は以て全を咎む。全は朝廷の為にこれを取らんことを請う。乃ち師を提げて海州に駐し、以て林を迫る。涉は間道を遣わしてげい胥の王翊・閻瓊をして林を労わしむ。林泣涕してその故を道う。翊帰る。全は人をして塗においてこれを殺さしむ。全、林を攻めて急なり。林走る。全遂に青州に入る。

十六年二月、許涉は農を勧めて郊に出で、暮れて帰り門に入らんとするに、忠義軍道を遮る。涉は人をして楊氏に語らしむ。楊氏馳せて門を出で、忠義に佯怒してこれを揮い、道開く。涉乃ち城に入る。ここより疾を以て去らんことを求めて甚だ力む。五月召される。卒す。秋、全新たに忠義軍の籍を置く。初め、許涉は鎮江副司の八千人を城中に屯せしめ、翟朝宗これを統ぶ。帳前忠義一万人を分かち、五千を城西に屯せしめ、趙邦永・高友これを統ぶ。五千を淮陰に屯せしめ、王暉及び於潭これを統ぶ。以て北軍を制する所以なり。全は鎮江の兵を軽んじ、且つ利を以てその統制の陳選及び趙興を啖い、以て己が患いと為さしめず。ただ帳前忠義を忌むのみ。乃ち数たび高友等の勇を称し、軍を出すに遇うれば必ず以て自らに随わんことを請うも、涉許さず。全は毎に戯下を燕するに、並びに涉の帳前の将校を召す。帳前もまたこれに隷せんことを願うも、然れども合する能わず。丘寿邁が帥事を摂るに及んで、全忽ち請うて曰く、「忠義烏合の衆にして、尺籍鹵莽なり。別に新籍を置くに若かず。一は諸朝に納め、一は制閫に申し、一は全の所に留む。庶くは功過考有り、請給弊無からん」と。寿邁これを善しとして諾す。全乃ち帳前忠義を合して悉くこれに籍し、その軍を尽く統ぶ。時に人悟る莫し。

十一月、許国は武階より朝議大夫・淮東安撫制置使に換えらる。命下る。聞く者驚異す。先に、国は祠を奉じて家食し、数たび全必ず反すと言い、涉を傾けてこれに代わらんと欲す。会に国を召して事を奏せしむ。国は全の奸謀甚だ深く、反状已に著るを疏し、豪傑非ざれば消弭す能わずと。蓋し自ら鬻ぐなり。ここに至り、喬行簡が吏部侍郎と為り、上疏して国の望軽きを論じ、淮を帥とすべからずとす。報いず。山陽の参幕徐晞稷は雅意閫を開かんとし、国の用いらるるを聞くに及んで、晞稷闕望す。乃ち国の奏を誉めて注釈し、以て全に寄す。全報を得て、楽しからず。この冬、金の将李二措及び邳州守、書を海州に致し、宋に附せんと欲す。全の戯下の周岊これを得て、即ち以て全に報ず。全喜び、王喜児を遣わして兵二千を以て応接せしめ、而して己はこれに継ぐ。二措は喜児を納れてこれを囚う。全の兵邳を攻めんと欲すも、四面水に阻まる。二措勁弩を積みてこれを備う。全進むを得ず、兵を合して戦を索う。全敗れ、楚州に還らんと欲す。会に濱・棣に乱有り。乃ち兵を引いて山東に趨る。

十七年正月、国の鎮むに、楊氏郊に迓う。国辞して見ず。楊氏慚じて帰る。国既に事を視るや、痛く北軍を抑え、南軍と競う者有れば、曲直無く偏にこれを坐し、犒賚十に裁ちて七八。全は山陽より国に書を致す。国は衆に誇りて曰く、「全は我が養育を仰ぐ。我少し威を示せば、即ち奔走して暇あらざらん」と。全は固く青州に留まる。国これを致す能わず。四月、全は小吏を遣わして再び書を致す。国喜び、曲く労接を加え、即日真に承信郎を補し、その心を結ばんと冀う。小吏曰く、「小吏書を奉じて遽に命を得る。諸将校何と謂わん」と。受けず。帰りてその徒に語り、以て笑いと為す。国、全の来朝せざるを見て、数たび厚饋を致し、全を邀えて事を議す。会に劉慶福もまた人をして国の意向を覘わしむ。国の左右これを知り、覘者に語りて曰く、「制置は汝等を害する意無し」と。慶福以て全に報ず。全将校を集めて曰く、「我制閫に参ぜざれば、則ち曲我に在り。今は生死を計わず必ず往きて見ん」と。八月、全上謁す。賓讚全に戒めて曰く、「節使は当に庭趨すべし。制使は必ず礼を免ずべし」と。庭趨するに及んで、国端坐して全の拝を納れ、止めず。全退きて怒りて曰く、「庭参も亦た常礼なり。全本朝に帰りしより、人に拝すること多し。ただ汝が文臣に非ざるを恨む。本より我等と等し。汝向に淮西都統として賈制帥に謁せしときも、亦た汝の拝を免ぜり。汝に何の勲業か有らん。一旦位我が上に在りて、便ち相假借せざるや。全は赤心を以て朝廷に報い、反せず」と。国継いて盛会を設けて全を宴し、遺労厚く加うるも、全終に楽しからず。国の客章夢先は幕議を主る。慶福謁見す。夢先は客将を責め、簾を隔てて貌喏せしむ。慶福堪えず。国は名馬十余噭を以て全に遺すも、受けず。国固く遣わす。全はその階庭に充斥するを俟ち、伺候移時して、而して復たこれを却く。是の如きこと半月、卒に受けず。

全は青州に往かんと欲すも、国の苛留を懼れ、自ら計らいて曰く、「彼の争う所は拝なり。拝して志を得ば、吾何ぞ愛せん」と。更に節を折りて礼を為す。会に因り、席間劄を出して事を白す。国その細故なるを見て、判してこれに従う。全即席に再拝して謝す。ここより動息必ず請い、請いを得れば必ず拝す。国大いに喜び、家人に語りて曰く、「吾この虜を折伏せり」と。彭義斌は趙邦永を来らしめて山東に在らんことを求む。全この為にこれを白す。国諾す。邦永は間に乗じて国に告げて曰く、「邦永若し去らば、制使誰とか処わん」と。国曰く、「我自ら能く兵す。爾過慮する毋れ」と。邦永泣いてこれを辞す。全遂に青州に往く。十一月、国は両淮の馬歩軍十三万を集め、大いに楚城の外に閲し、以て北人の心を挫かんとす。楊氏及び軍校の留まる者はその己を図るを恐れ、内自ら備えを為す。

寶慶元年、湖州の者潘甫がその従弟の丙・壬と兵を起こし、密かに全の党に山陽で通報したが、全の党は成敗を坐して致さんと欲し、その謀り事を然としつつも力を助けず。甫は帰り、ひそかに部曲を率い、また塩の盗賊を集めて千余に至り、北軍の如く装備を整え、衆を率いて山陽より来たりて済王を擁立すと揚言し、事は『竑傳』に見ゆ。時に全が国を図るの意は既に決し、慶福を楚城に還し、乱を為さしむ。或いは楊氏に教えて一の妄男子を養わしめ、間を置いて人に指して曰く「此れ宗室なり」と謂わしむ。遂に郡の官僚に語りて曰く「会に汝をして朝士たらしめん」と。ひそかに盱眙の四軍と相応ずるを約す。忠義統領の王文信は八百の衆を有し、涉は強いて揚州の強勇軍に移す。国が兵を聚めて大いに閲す、文信も其の中に在り、慶福と謀り、帰って揚州を襲わしめ、別に将を遣わして宝応を劫かしめ、事済みて即ち衆を揮って江を渡らしむ。盱眙の四将は従わず、ここに於いて慶福等は謀り事を中絶せんとし、只だ許国に快意を逞しむるを欲するのみ。計議官の苟夢玉之を知り、以て国に告ぐ、国曰く「但だ反せしめよ、反すれば即ち殺す、我豈に文儒にして兵を知らざらんや」と。夢玉は禍の己に及ぶを懼れ、檄を求めて盱眙に往き、復た慶福に告げて曰く「制帥汝を図らんと欲す」と。両方に自ら結ぶの計を為す。乙卯、国は晨に起きて事に蒞る、忽ち露刃庭に充ち、客は駭きて走る、国は厲声して曰く「礼無きを得るなかれ」と。矢已に頬に及び、流血面を蔽い、国は走る。乱兵悉く其の家を害し、大いに火を放ち、官寺を焚き、両司の積蓄尽く賊に入る。親兵数十人国を翼して城楼に登らしめ、城を縋りて走り、道堂の中に伏して宿す。時に四明の人姚翀は青州を通判し、全は予め山陽に還らしむるを令し、漣水に至りて復た之を止む。是に至り、翀を擁して城に入り、通判の宋恭と共に南北の軍を喝して犒い、帰営せしむ。是の日、慶福は首として夢先を殺し、以て貌喏の辱を報い、諸軍に戒めて苟夢玉の家を害せしめず、五十の兵を以て護る。初め、国は揚州強勇軍統制の彭興及び淮西親兵将の趙社・朱虎等を腹心と為して倚りしが、是に至り首として賊に降り、且つ乱を助く。惟だ丁勝・張世雄・沈興・杜靖毗・富道のみ屈せず、或いは賊と巷戦し、興は手ずから賊将の馬良を殺す。賊党志を得て、更に相賀す、独り張正忠歎じて曰く「若曹は事体を識らず、朝廷豈に汝を置かんや」と。王文信復た慶福に計を献じて曰く「我偽りに重傷を為し、本部の軍を提げて揚州に帰らば、揚の守必ず疑わず、我生けながら守を縛し、其の城を以て献ぜん」と。慶福喜び、夜に飲みて之を遣わす。丙辰、許国は途に於いて縊死す。

丁巳、文信将に揚州に至らんとす、其の徒に亡びて城に入り変を告ぐる者有り。時に揚の兵は皆楚に在り、知州兼提点刑獄の汪統は官を会同して議す、鈐轄の趙拱曰く「若し納めざれば、則ち文信必ず曰く『我帰営す、何の故にか拒まれる』と、将に是を借りて城外の民を魚肉せんとす。拱素より文信に善し、請う其の兵を説きて止め、而して単騎を以て入り、入城するを俟って之を殺し、然る後に其の兵を撫し、領して盱眙に往き、張・范の戲下に分ち隷せしめん」と。統喜び、之を遣わす。十里頭に於いて文信に遇い、酒を置き相労苦す、文信偽りに創を裹くる状を為す。拱曰く「忠義楚州に反し、揚州の人忠義の暮れに帰るを見れば、豈に相疑わざらんや?暫く兵を城外に駐め、然る後に同しく提刑に見えんに若かず、提刑楚州の事を知らんと急に欲す」と。文信疑わず、騎を聯ねて城に入り、客次に坐す。拱先に入り、統を勧めて収めて之を戮せしむ、統躊躇して敢えて発せず。劉全其の謀を知り、甲士を帥いて郡堂に突入し、厲声して曰く「王統領は好人なり、提刑疑うこと無かるべし、請う出でて参を受けたまえ」と。統已むを得ず、出でて之を犒う。劉全兵を以て之を翼して出で、其の家に館す。詰旦、統未だ処有らず。拱又た請う文信を引き出で城し、回って楚州に屯せんことを議わんと。文信事の泄るるを知り、拱就に出でんとす、劉全も亦た従わんことを請う。平山堂に至り、文信は拱が己を売るを責め、之を殺さんと欲す、拱曰く「爾の謀り事此の如し、三城の人命何の辜ぞ!我已に三城の人を存し、身死すとも憾み無し。然れども我死せば、汝が八百家の老幼城に在り、豈に生くを得んや」と。文信及び其の衆色を動かし、文信・劉全遂に楚州に還る。

時に盱眙総管の夏全は山陽の志を得たるを聞き、亦た異図を懐く、劉卓厚く之に賂し、乃ち止む。文信の乱に及び、卓は夏全の復た動くを懼れ、乃ち卞整に兵三千を将いしめて之を視させ、敢えて動かざらしむ。整は文信を邀うるを辞と為し、兵を引いて揚州に還り、因りて偽りに盱眙の守を失い、卞整乱を為すと言う、ここに於いて揚州復た震え、城門昼も閉ず。

彌遠は他変を激するを懼れ、姑く事を涵忍して後に之を図らんと欲す。帥を謀るに可とする者莫く、徐晞稷嘗て楚州を倅し、海州を守り、全の歓心を得たるを以て、晞稷も亦た勇往なり、乃ち淮東制置使を授け、出でて屈して全を撫せしむ。時に慶福は事済みたるを以て全に報い、全又た義斌等に牒して曰く「許国謀反し、已に誅に伏せり、爾が軍並びに我が節制を聴け」と。義斌牒を得て大いに罵りて曰く「逆賊国恩の厚きに背き、擅に制使を殺す。此の事皆我より起こる、我必ず此の仇を報ぜん」と。趙邦永を呼びて曰く「趙二、汝は南人なり、正に爾の此の事を明らかにするを須いん」と。乃ち牒を齎す人を斬り、南に向かって天に告げ衆に誓い、見る者憤激す。全は青州より楚城に至り、佯りて慶福が弾圧能わず、忠義の哄くを致すを責め、数人を斬り、罪に待たんことを請う、朝廷未だ之を詰めず。趙範時に揚州を知り兼ねて提点刑獄と為り、制置の印を潰卒の中に得て、以て晞稷に授く。全は騎を遣わして晞稷を迎う。己卯、晞稷は楚城に入る。劉全は馬を躍らせて郡庁に登り、晞稷之を迎う、全門に及びて馬を下り、庭下に拝す、晞稷は等を降して之を止め、賊衆乃ち悦ぶ。

四月、潘壬は姓名を変えて楚州に至り、将に淮を渡って北に赴かんとす、小校の明亮之を獲て、械を以て行在に送り伏誅せらる。

甲午、時青は人を使わし偽りに金兵と為し、邳州を道とし、漣水に出で、全の田租を奪い、而して騎八百を伏す。翌旦、全は二百騎を引いて淮を渡りて之と闘う。伏発ち、全敗れ、之を囲む、慶福は兵を以て往きて全を抜き出す。全と慶福俱に重傷を負い、楚州に帰る。丁勝・張世雄は全の敗に乗じて兵を挙げ北軍を追わんと欲す、晞稷之を止む。全後に其の謀を知り、晞稷に対して之を詰む、二人之に屈せず。然れども禍の己に及ぶを懼れ、晞稷乃ち潜かに世雄に雄勝軍統制を授け、逃れしめて陽に之を索めしむ。北軍は世雄を追い、世雄は戦いながら走り、揚州に達するを得。晞稷初め楚に至りし時、緩急相済み、趙社を囚え、朱虎を逐うが如きは、賊尚お畏るるを知れり。屢たび全に令して戦馬・軍器を制司に還す、全唯唯す。退きて姚翀及び将校を招きて飲み、酒酣に及び、全曰く「制司我が戦馬・軍器を追う、若何」と。忽ち将校有りて曰く「当時忠義は只だ百十人、他の軍は皆南軍の勢いに乗じて将帯す、若し潰えんには何を以て還さん」と。一人曰く「制司必ず之を追わんと欲せば、官有る者は官を棄て、官無き者は山東に帰りて百姓と為る有らんよりは若かず」と。一人は掌を抵って憤然とし、全をして反せしむ、全は陽に之を罵る。翀以て晞稷に告ぐ。翌日、全は晞稷に見えて官を納めんことを求め、晞稷之を撫して去る。此れより後は復た誰か何とかせず、其の後至っては「恩府」を以て全と称し、「恩堂」を以て楊氏と称し、而して手足倒置す。軍器庫に止まりて余るは槍幹数千のみ、全復た之を取り去る。全は戦艦を欲す、晞稷二艘を択ばしむ。全は之を移し出だして淮河に置き、軍をして之に習わしむ。

初め、楚城の乱れんとするや、吏ありて許国の書篋二つを窃みて慶福に献ず、皆機密の事なり。慶福は篋を盗める者に五百千を賞す、未だ之を閲せず。全始めて緘を発し、家僮をして之を読ましむ、廟堂の国に遺せる書に全を図るを令する者有り、全大いに怒る。又苟夢玉の書有り、即ち慶福の謀を以て国に告ぐる者、全始めて夢玉の反覆を悪む。夢玉之を知り、時に已に堂召を被り、亟に全に辞して京に如く。己卯、全夢玉に饋餞すること平時の如く、潜かに諸を十里の郊に殪し、復榜を出して夢玉を害する者を捕う。全青州に往く。

五月丁卯、全東平を取るも、克たず。戊寅、劉全券を以て制司の銭を易ふるも、欲の如くならず、復乱を謀る。楊氏二千緡を出して之を解き、乃ち止む。全兵を引いて恩州を攻む。明日、義斌兵を出して全と闘ひ、全敗る。義斌千五百騎を以て之を追ひ、馬二千匹を獲る、皆揚州強勇軍の馬なり。慶福往きて救ふも、又敗る。全退きて山崮を保ち、山陽忠義を抽して北す。楊氏及び劉全皆親しく之に赴かんと欲す、会に全人を遣はして晞稷の書を求め義斌と連和せしむ、乃ち止む。義斌全の降兵を納れ、兵勢大いに振ひ、真定を進攻し、金の将武仙を降し、衆数十万に至り、沿江制置使趙善湘に致書して曰く、「逆全を誅せずんば、恢復成らず。但だ兵を遣はして淮を扼し、進みて漣・海を拠りて之を蹙め、其の南路を断たば、此の賊の如きは、或ひは生禽し、或ひは斬首す、惟だ朝廷の命に任す。賊平したる後、一京三府を収復し、然る後に義斌河北に戦ひ、盱眙諸将・襄陽騎士河南に戦はば、神州復す可し」と。時に四総管も亦各計議官を遣はして書を致し、賊を討つを助けんことを乞ふ。範も亦以て言ふも、報ぜず。全制置司に書を貽し、義斌の叛を誣ふ。晞稷之を繳達す。時に朝廷義斌の功を知るも、全を憚り、未だ賞を行はんと欲せず。未だ幾もなく、義斌命を俟つも至らず、地を拓きて北し、大元兵と内黄の五馬山に戦ふ。大元兵之を説きて降らしむ。義斌声を厲して曰く、「我大宋の臣、且つ河北・山東皆宋の民、義豈に他臣属たらんや」と。遂に之に死す。戲下の王義深等復た全に帰す。

全人をして時青を説きて己に附かしめ、金五百両を饋る。青義斌の死を見て、乃ち全に附き、自ら屯を移して淮陰にす。全青を招きて城に入り飲ましめ、折俎銅券二千を饋り、他の饋り是に称し、恩麾下に遍く、人人喜悦す。晞稷青を宴し、全前の如く折俎を饋る。全将に山東に往かんとし、南軍九百を以て従ひ、官は鉄銭券人に五千を犒ひ、全は銅銭三倍を犒ひ、南貨を携へて税を免ぜしむるを許す。是に於て請ひて行かんとする者已まず、千人を得て俱にす。晞稷又千八百人を以て之に継ぐ。

二年春、趙範祠を奉ず。林珙揚州を知り、権提点刑獄をす。全北は山東を剽し、南は宋を仮りて大元を疑はしめ、且つ食を仰ぐ。会に金大元と大名を争ふ、全往来して經理するを得。三月丙辰朔、大元兵青州を攻む。全大小百戦すれども、終に利あらず、城を嬰りて自ら守る。大元長囲を築き、夜狗砦を布き、糧援の路絶ゆ。全小校周興祖をして城を縋り、樵采者に雑りて楚州に走り援兵を発せしむも、終に支ふる能はず。全福と謀る。福曰く、「二人俱に死するは益無し。汝の身は南北の軽重に係る。我当に孤城を死守し、汝間道より南に帰り、兵を提げて赴援せば、生路を尋ぬ可し」と。全曰く、「数十万の敵は、未だ易く支ふ可からず。全朝に出づれば則ち城夕に陥つ。兄の帰るに如かず」と。是に於て全止まりて福行く。

朝廷初め力未だ討つ能はざるを以て、故に晞稷を用ひて調護せしむ。及び全の囲まるるを伝ふるに及び、稍く賊を図らんと欲す。晞稷畏懦し、全未だ帰らざるを幸ひて以て歳月を苟む。朝廷方に帥を易へんと謀る。劉卓久しく盱眙に在り、雅意閫を建てんとす。又賊勢の稍く孤なるを見て、功名の立つ可きを意ひ、鎮江副都統彭𢖲をして京師に誉を延ばしめ、自ら謂ふ、「素より鎮江を撫す、三万人用るに足り、且つ四総管の歓心を得、賊を討つに余力有り」と。朝廷之を信ず。𢖲も亦卓に代はらんと垂涎し、従臾尤力なり。九月、卓を以て楚州を知り兼ねて淮東制置使と為し、

𢖲代はりて盱眙を知る。晞稷知らず。己亥、晞稷戸部侍郎を以て召され、未だ幾もなく、出でて袁州を知る。

十一月壬子朔、卓楚州に至る。心に四総管を制馭する能はざるを知り、惟だ鎮江兵を以て自ら随ふ。時に青淮陰に在り、卓其の屯を移し己に叛くを怨み、召さず。夏全従はんことを請ふ。卓素より全の狡を畏る、亦盱眙に留まらしむ。𢖲自ら資望の卓より更に浅きを揣りて曰く、「卓の夏全を止むるは、是れ患を盱眙に遺さんと欲するなり。卓猶ほ夏全を憚る、我何ぞ能く用ゐん」と。乃ち夏全を激して曰く、「楚城の賊党三千に満たず、健将又山東に在り。劉制使之を図れば、功を収むる旦夕に在り。太尉何ぞ往きて事会に赴かず、何ぞ端坐するを為す」と。夏全欣然兵を領して径に楚城に入る。青も亦淮陰より復た屯を移して城内にす。卓且に駭き且に恐れ、勢却くるを容れず、復た二人に就きて謀る。時に全已に死せりと伝ふ。福兵を分かちて赴援せんと欲すも、兵少なく、卒に往かず。甲子、卓夏全を令して盛んに兵を楚城に陳しめ、賊党震恐す。楊氏人を遣はして夏全に賂り師を緩めんことを求め、乃ち止む。