宋史

列傳第二百三十四 叛臣上 張邦昌 劉 苗傅劉正彦 杜充 呉曦

宋はその政を失い、金人がこれに乗じ、その人民を俘虜とし、その宝器を移し、遼の故事に倣い、その臣を立てて君とし、冠履の位を易え、この時より甚だしきはなかった。高宗が南渡し、国勢振わず、悍僕狂奴、主の衰敗を欺き、悪に動き易し。兵は凶器なりといえども、特に残忍を忌み、将に忍人を用いれば、先ず仁心無く、君親を背くことを反掌の如しと視るのみ。世将の子に重兵を握らせ、これを阨塞の地に居らしむるは、豈に乱を召すの道にあらざらんや。大義昭明にして、踵を旋らせば殄滅す、蓋し天道なり。綱常を扶け、乱略を遏ぎ、『叛臣伝』を作す。

張邦昌

張邦昌、字は子能、永静軍東光の人なり。進士に挙げられ、累官して大司成となり、訓導の職を失い、提挙崇福宮に貶せられ、光・汝二州を知る。政和末、洪州知州より礼部侍郎に改む。まず崇寧・大観以来の瑞応特に殊なるものを取り、旗物を増製することを請い、これに従う。宣和元年、尚書右丞を除かれ、左丞に転じ、中書侍郎に遷る。欽宗即位し、少宰に拝す。

金人が京師を犯すや、朝廷は三鎮を割譲することを議し、康王及び邦昌をして金に質と為し、和を求めしむ。姚平仲が夜に金人の営を斫るに会い、斡離不怒りて邦昌を責む。邦昌は朝廷の意に出ずと対す。俄かに太宰兼門下侍郎に進む。既にして康王還り、金人は復た肅王を質として行き、仍って邦昌を河北路割地使と命ず。

初め、邦昌は和議を力主す、自ら質となるは意にせざる所なり。及び行かんとし、乃ち欽宗に御批を署し割地の議を変えざることを要す、許さず。又た璽書を河北に付するを請う、亦た許さず。時に粘罕の兵又た来侵し、上書する者邦昌を攻めて私敵、社稷の賊と為す。遂に邦昌を観文殿大学士・中太一宮使に黜し、割地の議を罷む。その冬、金人京師を陥とし、帝再び郊に出で、青城に留まる。

明年春、吳𠦅・莫儔金営より文書を持ち来たり、異姓にして人主に堪うる者を推し、軍前に従い礼を備え冊命せしむ。留守孫傅等命に従わず、表を奉り趙氏の立つを請う。金人怒り、復た𠦅・儔を遣わしてこれを促し、傅等を劫いて百官を召し雑議せしむ。衆声を出すを敢えず、相視ること久しく、計出す所無し。乃ち曰く「今日は当に勉強して命に応じ、軍前に在る者一人を挙ぐべし」と。適た尚書員外郎宋齊愈外より至る。衆金人の意の主とする所を問う。齊愈「張邦昌」の三字を書してこれを示す。遂に議を定め、邦昌を以て国事を治めしむ。孫傅・張叔夜は状に署せず、金人これを執り軍中に置く。

王時雍時に留守たり、再び百官を集めて秘書省に詣らしむ。至れば即ち省門を閉じ、兵を以てこれを環らし、范瓊をして衆に邦昌を立つるを諭さしむ。衆意唯唯たり。太学生ありてこれを難ず。瓊衆の沮ぐるを恐れ、厲声これを折り、学舎に帰し遣わす。時雍先ず状に署し、以て百官を率う。御史中丞秦檜書せず、抗言して趙氏宗室の立つを請い、且つ言う邦昌上皇の時、専ら宴遊に事え、権姦に党附し、国を蠹し政を乱し、社稷の傾危実に邦昌に由ると。金人怒り、檜を執る。𠦅・儔状を持ち軍前に赴く。

邦昌尚書省に入り居る。金人趣いて進を勧む。邦昌始め引決せんと欲す。或る人曰く「相公前に城外に死せず、今一城を塗炭せんと欲するか」と。適た金人冊宝を奉じて至る。邦昌北向き拝舞し冊を受け、即ち偽位に即き、大楚と僭号し、金陵に都せんと擬す。遂に文德殿に升り、位を御床の西に設け賀を受け、閤門に令を伝え拝せしめず。時雍百官を率いて遽かに拝す。邦昌但だ東面し拱立す。

外統制官・宣賛舍人吳革は節を屈し異姓に事うるを恥じ、首めて内親事官数百人を率い、皆先ずその妻子を殺し、居る所を焚き、義を挙げんと金水門外に謀る。范瓊詐りて謀に合い、悉く兵仗を棄てしむるを令し、乃ち後より襲い百余人を殺し、革並びにその子を捕え皆殺し、又た十余人を擒斬す。

この日、風霾あり、日暈光無し。百官惨沮し、邦昌も亦た色を変ず。唯だ時雍・𠦅・儔・瓊等欣然鼓舞し、若し佐命の功有りと為すが如し。即ち時雍を以て権知枢密院事とし尚書省を領せしめ、𠦅を権同知枢密院事とし、儔を権簽書枢密院事とし、呂好問を権領門下省とし、徐秉哲を権領中書省とす。令を下して曰く「比来朝廷多故に縁り、百官有司皆その職を失えり。今より各法度に遵い、御史台覚察して以て聞かしむ」と。百官に見えて「予」と称し、手詔を「手書」と曰う。独り時雍毎に事を邦昌の前に言うに、輒ち「臣啓す陛下」と称す。邦昌これを斥く。邦昌をして紫宸・垂拱殿に坐せしむるを勧む。呂好問これを争い、乃ち止む。邦昌嗣位の初め、宜しく四方に恩を推すべしとし、道阻むを以て、先ず京城を赦し、郎官を選び四方密諭使と為す。

金人将に師を退かんとす。邦昌金営に詣り祖別す。柘袍を服し、紅蓋を張り、過ぐる所香案を設け、起居悉く常儀の如し。時雍・秉哲・𠦅・儔皆従行す。士庶観る者感愴せざる無し。二帝北遷し、邦昌百官を率いて遥かに南薰門に辞す。衆慟哭し仆れ絶ゆる者有り。

金師既に還る。邦昌手書を降し天下を赦す。呂好問邦昌に謂いて曰く「人情公に帰する者は、金人の威に劫かれたるのみ。金人既に去れば、能く復た今日有らんや。康王外に居ること久しく、衆の帰心する所なり。何ぞ推戴せざる」と。又た謂いて曰く「今の計を為す者は、当に元祐皇后を迎え、康王に早く大位を正さしむるを請い、庶幾くば保全を獲ん」と。監察御史馬伸も亦た康王を奉迎するを請う。邦昌これに従う。王時雍曰く「夫れ虎に騎る者は勢い下るを得ず。宜しく熟慮すべし。他日臍をぜいみ、悔ゆるも及ばざらん」と。徐秉哲旁よりこれを賛す。邦昌聴かず。乃ち元祐皇后を冊して「宋太后」と曰い、延福宮に入り御せしむ。蔣師愈を遣わし書を康王に齎し自ら陳す「勉いて金人の推戴に循う所以の者は、一時を権宜し以て国難を紡がんと欲するのみ。敢えて他かあらんや」と。王師愈等に詢ね、具に由る所を知り、乃ち邦昌に報書す。邦昌尋ちに謝克家を遣わし大宋受命宝を献じ、復た手書を降し元祐皇后の垂簾聴政を請い、以て復辟を俟つ。書既に下るや、中外大いに説ぶ。太后始めて内東門小殿に御し、垂簾聴政す。邦昌太宰として退き内東門資善堂に処る。尋ちに使を遣わし乗輿服御物を奉じて南京に至らしむ。既にして邦昌も亦た至り、地に伏し慟哭して死を請う。王これを撫慰す。

王即ち皇帝位に即き、李綱を相とす。邦昌を太保・奉国軍節度使に徙め、同安郡王に封ず。綱上書極論す「邦昌久しく機政を典し、宰司の冠に擢げらる。国破れてこれを資とし以て利と為し、君辱しめられてこれを攘い以て栄と為す。異姓に邦を建つること四十余日、金人の既に退くに逮い、方に赦を降し以て恩を収む。是れ宜しく諸を市朝に肆し、以て乱臣賊子の戒めと為すべし」と。時に黄潜善猶おこれを左右す。綱又た力言す「邦昌既に僭逆す。豈にこれを朝廷に留め、道路をして故天子と目せしむべけんや」と。高宗乃ち御批を降して曰く「邦昌僭逆、理に誅夷に合う。その初心を原れば、迫脅より出づ。特に免貸を与え、責めて昭化軍節度副使・潭州安置を授くべし」と。

初め、邦昌が内庭に僭居していた時、華国靖恭夫人の李氏がしばしば果実を邦昌に奉り、邦昌もまた厚くこれに答えた。ある夜、邦昌が酒に酔ったところ、李氏がこれを抱きしめて曰く、「大家、事ここに至った以上、なお何を言わん」と。因って赭色の半臂を邦昌の身に加え、掖き入れて福寧殿に入り、夜に養女の陳氏を飾り立てて進めた。及び、邦昌が東府に還った時、李氏は密かにこれを送り、言葉に乗輿を斥けた。帝これを聞き、李氏を獄に下し、言葉に服した。詔して邦昌の罪を数え、潭州にて死を賜い、李氏は杖脊して車営務に配した。時雍・秉哲・𠦅・儔らは先にすでに遠く竄せられていたが、ここに至り、並びに時雍を誅した。

劉豫

劉豫、字は彦游、景州阜城の人である。代々農を業とし、豫に至って初めて進士に挙げられ、元符年間に第に登った。豫は少時に品行がなく、嘗て同舎生の白金盂・紗衣を盗んだ。政和二年、召されて殿中侍御史に拝され、言者に撃たれたが、帝はその宿醜を発するを欲せず、詔して問わざるを命じた。未だ幾ばくもなく、豫は累章して礼制局の事を言上し、帝曰く、「劉豫は河北の種田叟なり、安んぞ礼制を識らんや」と。豫を両浙察訪に貶した。宣和六年、国子監を判じ、河北提刑に除した。

金人が南侵すると、豫は官を棄てて儀真に避乱した。豫は中書侍郎の張愨と善くし、建炎二年正月、愨の推薦を用いて済南府知事に除した。時に盗賊が山東に起こり、豫は行くを願わず、東南の一郡に易えるを請うたが、執政はこれを憎み、許さず、豫は忿然として去った。この冬、金人が済南を攻めると、豫は子の麟を遣わして出戦させたが、敵は兵を縦ってこれを数重に囲み、郡倅の張柬が兵を益して来援したため、金人は乃ち解いて去った。因って人を遣わして利を以て豫を啖い、豫は前の忿りを懲り、遂に反謀を蓄え、その将の関勝を殺し、百姓を率いて金に降ろうとしたが、百姓は従わず、豫は城を縋って款を納めた。三年三月、兀朮が高宗の江を渡るを聞き、乃ち豫を徙めて東平府知事とし、京東西・淮南等路安撫使を充て、大名開徳府・濮濱博棣徳滄等州を節制させ、麟を以て済南府知事とし、旧河以南を界として、豫にこれを統べさせた。

四年七月丁卯、金人は大同尹の高慶裔・知制誥の韓昉を遣わして豫を冊立して皇帝とし、国号を大斉とし、大名府に都した。先に、北京順豫門に瑞禾が生じ、済南の漁者が鳣を得たので、豫はこれを己の受命の符と為し、麟を遣わして重宝を持たせて金の左監軍撻辣に賂し、僭号を求めた。撻辣はこれを許し、使者を遣わして豫の所部に即き、軍民の立つべき所を諮った。衆未だ及ばず対せざるに、豫の郷人張浹が次を越えて豫を立てるを請い、議遂に決し、乃ち慶裔・昉に命じて璽綬宝冊を備えて以てこれを立てしめた。九月戊申、豫は偽位に即き、境内を赦し、金の正朔を奉じて、天会八年と称した。張孝純を丞相と為し、李孝揚を左丞と為し、張柬を右丞と為し、李儔を監察御史と為し、鄭億年を工部侍郎と為し、王瓊を汴京留守と為し、子の麟を太中大夫・提領諸路兵馬兼知済南府と為した。孝純は初め太原を堅守し、頗る忠義を懐いていたが、高宗は王衣が雅く孝純に厚きを以て、衣をしてこれを招かしめようとしたが、会に粘罕が人を遣わして雲中より送り帰して豫に附せしめたため、遂に賊に節を失った。

豫は東平に還り、これを東京に昇めた。東京を汴京と改め、南京を帰徳府に降した。弟の益を北京留守と為し、尋いで汴京留守に改めた。また淮寧・潁昌・順昌・興仁府を降して悉く州と為した。自ら景州に生まれ、済南を守り、東平を節制し、大名に僭位したことを以て、乃ち四郡の丁壮数千人を起こし、「雲従子弟」と号した。偽詔を下して直言を求めた。十月、その母の翟氏を冊立して皇太后と為し、妾の銭氏を皇后と為した。銭氏は宣和の内人であり、宮掖の事に習熟していたので、豫は取るべき則を有せんと欲し、故にこれを立てた。十一月、明年の元を阜昌と改めた。

豫が未だ僭号せざる時、数度人を遣わして東京副留守の上官悟を説き、及び悟の左右の喬思恭に賂して共に悟を説きて金に降らしめようとしたが、悟は並びにこれを斬った。また楚州知事の趙立を招いたが、立は書を発せず、その使者を斬った。また立の友人劉偲を遣わして榜旗を以てこれを誘い、且つ曰く、「吾が君の故人なり」と。立曰く、「我は君父あるを知り、故人あるを知らず」と。偲を焼き殺した。博州判官の劉長孺が書を以て豫を勧めて反正せしめようとしたが、豫はこれを十旬囚い、屈せず;官を授けんと欲したが、受けず。豫は大いに宋の宗室を索し、承務郎の閻琦がこれを匿ったので、豫は琦を杖死せしめた。迪功郎の王寵を召したが、至らなかった。文林郎の李喆・尉氏令の姚邦基は皆官を棄てて去った。朝奉郎の趙俊は甲子を書き僭年を書かず、豫もまたこれを如何ともする能わなかった。洪皓は久しく金に陥ち、粘罕が皓を勧めて豫に仕えしめようとしたが、従わず、皓を冷山に竄した。処士の尹惇は豫の召すを聞き、山谷の間に逃れ、しょく中に走った。国信副使の宋汝為が呂頤浩の書を以て豫を勉めて忠義ならしめようとしたが、豫曰く、「独り張邦昌を見ざるか?業すでに然り、尚何をか言わんや」と。滄州の進士邢希載が豫に上書して宋朝に通ぜんことを乞うたので、豫は希載を殺した。

是の月、豫は陳東・欧陽澈の廟を帰徳に立て、唐の張巡・許遠の双廟の制の如くした。

紹興元年五月、張俊が李成を討ち、これを敗り、成は逃れて豫に帰した。雄州の大儈王友直は嘗て豫に書を抵して李成を招き、劉光世・呂頤浩は中興の将相の才に非ずと謂ったが、後人の訴うる所となり、詔してこれを鞫いて刑した。六月、豫は麟を兵馬大総管・尚書左丞相と為した。招受司を宿州に置き、宋の逋逃を誘った。金人は既に豫を立て、旧河を以て界と為したが、両河の民の陷没する者の逃れ帰るを恐れ、大索を下令し、或いは諸国に転鬻し、或いは雲中に繫送し、実は豫を防いだのである。十月、豫は入寇し、その将の王世沖を遣わして蕃・漢の兵を以て廬州を攻めさせたが、守臣の王亨が誘い斬って世沖を斬り、その衆を大いに敗った。十一月、帥臣の葉夢得が豫の将の王才を招降した。偽秦鳳帥の郭振が入寇したが、王彦・関師古がこれを敗った。偽知海州の薛安靖及び通判の李匯が州を以て来帰した。

二年二月、商州知事の董先が商・虢二州を以て叛き豫に附した。襄陽鎮撫使の桑仲が上疏して豫の罪を正すを請うた。朝廷は尋いで仲に命じて兼ねて応援京城軍馬を節制せしめ、事勢を量度して、豫の陷せしむる所の郡を復せしめた。仍って河南の翟興・荊南の解潜・金房の王彦・徳安の陳規・蘄黄の孔彦舟・廬寿の王亨に相為に応援せしめ、事機を失うことなからしめた。三月、仲はその将の霍明に殺され、高宗これを聞き、仲の二子に将仕郎を授けた。河南鎮撫使の翟興は伊陽山に屯したが、豫はこれを患い、人を遣わして興を招き、王爵を以て許した。興は偽詔を焚き並びにその使者を戮した。豫は乃ち陰に興の麾下の楊偉と結んでこれを図った。偉は興を殺し、興の首を持って豫に降った。

四月丙寅、豫は都を汴に遷した。因って祖考を宋の太廟に奉り、その祖を尊んで徽祖毅文皇帝と曰い、父を衍祖睿仁皇帝と為した。親しく郊社を巡った。この日、暴風が旗を巻き、屋瓦皆震い、士民大いに恐れた。豫は曲赦して汴人に与え、民と約して曰く、「今より赦を肆わず、宦官を用いず、僧道を度せず。文武雑用し、資格を限らず」と。時に河・淮・陝西・山東には皆北軍が駐し、麟は郷兵十余万を籍して皇子府十三軍と為した。河南・汴京に淘沙官を分置し、両京の塚墓は発掘殆んど尽きた。賦斂煩苛にして、民聊生する能わず。

五月、劉豫は桑仲の死を聞き、人を遣わして随州の李道・鄧州の李横を招いたが、いずれも受け入れず、その使者を捕らえて朝廷に報告した。六月、蘄黄鎮撫使孔彦舟が叛いて劉豫に降り、その将陳彦明が千余りの兵を率いて帰順した。直徽猷閣の淩唐佐・尚書郎の李亘・国信副使の宋汝爲は偽朝に留まり、久しく劉豫の虚実を探り蠟書をもって報告することを謀ったが、事が洩れ、劉豫は唐佐を殺し、亘もまた害された。劉豫は東平府知事の李鄴を尚書右丞とし、河南鎮撫司都統制の董先を大総管府先鋒将とした。十二月、襄陽鎮撫使の李横が揚石において劉豫の兵を破り、勝ちに乗じて汝州に進み、偽守の彭玘は城を以て降った。劉豫は劉夔を遣わし、金の将帥撒離曷とともに蜀を侵した。進士の薛筇を捕らえて劉豫のもとに送ると、筇は劉豫を励まして言った、「早く反正を図れば、あるいは宗族を全うできよう、いずれがよいか、他日に妻子とともに東市で磔にされるよりは」。劉豫は怒り、兵を用いて殺そうとしたが、張孝純に頼って免れた。

三年正月庚申、李横が潁順軍を破り、偽守の蘭和が降った。壬戌、長葛において劉豫の兵を破った。甲子、横は兵を率いて潁昌府に至り、偽安撫の趙弼が固守したが、急攻してこれを落とし、弼は逃げ、潁昌を回復した。二月、河南鎮撫司統制官の李吉が伊陽臺において劉豫の将梁進を破り、これを殪した。三月、劉豫は李横が潁昌に入ったと聞き、金人に援軍を求めた。粘罕は兀朮を派遣してこれに赴かせ、劉豫もまた将の李成に命じて二万の兵を率い、京城西北の牟駝岡において逆襲させた。李横は敗北し、潁昌は再び陥落した。横の軍はもともと群盗であり、勇を恃んで規律がなく、勝てば子女金帛を争って奪うので、敗北に及んだのである。四月、虢州が陥落した。鎮撫司統制官の謝皐は腹を指して賊に示し、「これが我が赤心である」と言い、自ら心臓を剖いて死んだ。皐は開封の人である。この月、明州の守将徐文は配下の海舟六十艘・官軍四千余人を率いて海を渡り塩城に至り、劉豫に帰順を申し出た。徐文は沿海に備えがなく、二浙を襲撃して奪取できると述べた。劉豫は大いに喜び、徐文を萊州知事とし、さらに海艦二十隻を増やし、通州・泰州の間を寇掠させた。

五月、朝廷は韓肖胄・胡松年を偽斉に派遣した。劉豫は臣下の礼で会おうとしたが、肖胄は応じる言葉がなく、松年は「ともに宋の臣である」と言い、遂に長揖して拝礼せず、劉豫は屈服させることができなかった。そこで主上(皇帝)はどうかと問うと、松年は「聖主は万寿であられる」と答えた。さらに帝の意向を問うと、松年は「必ずや故疆を回復せんと欲しておられる」と答えた。劉豫は慚愧の色を見せた。

当時、劉豫は梁・衛の地をことごとく有していたが、翟琮が伊陽の鳳牛山に屯しており、孤立できず、包囲を突破して襄陽に奔った。九月、楊政は川陝の将官呉勝を派遣し、蓮花城において劉豫の兵を破った。十月己亥、賊将李成が鄧州を陥落させ、斉安をもってこれを守らせた。癸卯、襄陽を陥落させ、李横は荊南に奔り、随州知事の李道は城を棄てて逃げた。李成は襄陽を占拠し、王嵩を随州知事とした。甲辰、郢州を陥落させ、守臣の李簡は逃げ、劉豫は荊超を州事知事とした。賊将の王彦先は亳より兵を率いて寿春に至り、江南を窺おうとした。劉光世は建康に駐軍し、馬家渡を扼し、酈瓊に命じて配下の兵を率いて無為軍に駐屯させ、濠州・寿州の声援とし、賊は遂に引き返した。

十二月、金人は李永寿・王翊を派遣して返礼に来た。永寿らは驕慢で横柄であり、劉豫の捕虜および西北の士民で流寓している者を返還するよう求め、さらに江を境として劉豫の領土を増やすよう要求した。広州塩税監の呉伸が上書して劉豫を討つよう請い、「金人は強しといえども、実は慮るに足らず、賊の劉豫は微なりといえども、実に憂うべきである。今、敵の使者が朝廷にいる。陽は許し陰にはこれを図り、その不意を乗ずれば、一戦にして捕らえることができる」と述べた。

四年正月、翰林学士の綦崇礼が言うには、「劉豫父子は金人を恃み、かつ永寿らは劉豫のもとから来たのであり、江を境とする要求は必ずや劉豫から出たものである。その姦謀を観るに、我が境土を窺っている。使者を通じた後は、人情必ず弛緩するであろうから、将帥に戒めてますます守備を厳重にすべきである。たとえ和議が成っても、備えを弛めてはならない」。まもなく朝廷は章誼を金に派遣し、雲中に至った。粘罕は返書で淮南に駐軍しないよう約束したが、誼は屈せず、帰途に汴を通りかかると、劉豫は留めようとしたが、計略によって免れた。熙河路馬歩軍総管の関師古が左要嶺において劉豫の兵と戦い、敗北し、遂に賊に降った。洮州・岷州の地はことごとく劉豫のものとなった。

二月、劉豫は進士の試験を行った。五月、寿春府知事の羅興が叛いて劉豫に降った。舒州・蘄州等州制置使の岳飛が襄陽を回復し、李成は逃げ、まもなく唐州を回復した。六月、随州を回復し、偽守の王嵩を襄陽市で磔にした。七月、鄧州を回復した。詳細は『岳飛伝』にある。劉豫は岳飛が襄陽・鄧州を取ったと聞き、遂に金人に援軍を請うた。偽奉議郎の羅誘が南征策を上奏し、劉豫は大いに喜んだ。民の舟五百隻を奪って戦具を載せ、徐文を前軍とし、定海を攻めると声言した。九月、劉豫は偽詔を下し、「六合を混一す」との言葉があり、子の麟を派遣して侵入させ、また金人の宗輔・撻辣・兀朮を誘って分道して南侵させ、歩兵は楚州・承州より進み、騎兵は泗州より滁州に向かわせた。さらに偽知枢密院の盧緯を派遣して金主に援軍を請うた。金主は諸将を集めて議し、粘罕・希尹は難色を示したが、宗輔のみが可と認めた。そこで宗輔を権左副元帥、撻辣を権右副元帥とし、渤海漢軍五万を調発して劉豫に応じさせた。兀朮はかつて江を渡ったことがあり、険易に習熟しているので、前軍を率いさせた。劉豫は麟に東南道行台尚書令しょうしょれいを領させた。朝廷は震恐した。ある者が帝に他の地に避難するよう勧めたが、趙鼎は「戦って勝たなければ、去っても遅くはない」と言い、張俊は「避けてどこに行くというのか」と言った。遂に親征を決意した。壬申、劉豫の兵と金人は分道して淮を渡り、楚州守臣の樊序は城を棄てて逃げ、淮東宣撫使の韓世忠は承州より退いて鎮江を守った。

十月丙子朔、詔して張俊に世忠を援けさせ、劉光世に軍を移して建康に駐屯させた。世忠は再び揚州に戻った。張浚を起用して侍読とした。戊子、韓世忠が大儀において戦い、己丑、解元が承州において戦い、いずれも勝利した。丙申、劉豫が榜を掲げて江を窺うとの言葉があった。戊戌、帝は臨安を発った。十一月壬子、劉豫討伐の詔を下し、初めて劉豫の罪悪を暴露したので、士気大いに振るい、江を渡って決戦しようとした。趙鼎は「退くのは固より不可であるが、江を渡るのも策ではない。劉豫すら親しく来ないのに、至尊がどうして逆賊の雛と勝負を決することができようか」と言った。淮西の将の王師晟・張琦が合兵して南寿春府を回復し、偽知州の王靖を捕らえた。十二月壬辰、岳飛が将の牛臯・徐慶を派遣し、廬州において金人を破った。庚子、金人は退師し、使者を遣わして麟に告げると、麟は輜重を棄てて夜遁した。詳細は『韓世忠伝』にある。

五年正月、淮西の将の酈瓊が光州を回復し、偽守の許約が降った。閏二月、劉豫の将の商元が信陽軍を攻め、軍事知事の舒継明がこれに死した。七月、劉豫は明堂を廃して講武殿とし、暴風が連日吹いた。八月、光州が陥落した。十月、劉豫は民に子を売ることを命じ、商税法に依って貫陌を許し、その算(税)を収めた。劉豫は『海道図』および戦船の木様を金主の亶に献上した。

六年正月、劉豫は淮陽に兵を集結させた。韓世忠は兵を率いて急ぎこれを包囲した。賊の守将は連続して六つの烽火を上げ、兀朮と劉猊が合兵して来援したが、いずれも世忠に敗れた。六月、劉龍城を築いて淮西を窺おうとしたが、王師晟がこれを破り、華知剛を捕らえ、その兵衆を捕虜として帰還した。九月、劉豫は沿海の互市を廃止した。張孝純が劉豫に言うには、「南人が久しく舟を整備していると聞く。一旦風に乗じて北に渡れば、我がために不利となろう」と。劉豫は恐れ、故にこれを廃止したのである。

劉豫は帝の親征を聞き知り、金主の完顔亶に急を告げると、領三省事の宗磐は言った、「先帝が劉豫を立てたのは、劉豫に疆土を開拓し国境を守らせ、我らが兵を収めて民を休ませるためであった。今や劉豫は進んでは取れず、退いては守れず、兵禍が続き、休息の期はない。これに従えば劉豫がその利を得るだけで、我らは実害を受ける。どうしてこれを許せようか」。金主は劉豫に自ら行うよう報じ、暫く兀朮に兵を率いさせて黎陽に駐屯させ、隙を窺わせた。

劉豫はここにおいて劉麟に東南道行臺尚書令を兼ねさせ、李鄴を行臺右丞、馮長寧を行臺戸部、許清臣を兵馬大総管とし、李成、孔彦舟、関師古を将とし、民兵三十万を徴発し、三道に分かれて侵入させた。劉麟は中路の兵を総べ、寿春より廬州を犯さんとし;劉猊は東路の兵を率い、紫荊山を取って渦口より出て定遠を犯さんとし;西路の兵は光州に向かい、六安を寇し、孔彦舟がこれを統率した。十月、劉猊の兵は韓世忠に阻まれて進めず、順昌に引き返した。劉麟の兵は淮西に沿って三つの浮橋を繋いで渡河し、賊衆十万は濠州・寿州の間に駐屯した。江東安撫使の張俊が防戦し、詔して淮西も併せて張俊に属させ、殿帥の楊沂中を泗州に至らせて張俊と合流させたが、濠州に到着する頃には劉光世は既に合肥を放棄していた。張浚は人を采石に急行させて劉光世に諭して言った、「敢えて渡河する者は斬る」。劉光世は已むなく廬州に戻り、楊沂中と呼応した。統制の王徳、酈瓊は安豊より出撃し、賊の三将軍に遭遇して皆これを破った。劉猊の衆数万は定遠を過ぎ、宣化に向かい建康を犯さんとした。楊沂中は越家坊で劉猊の兵に遭遇し、これを破り;また藕塘で遭遇し、これを大破した。劉猊は逃げ、劉麟はこれを聞いてもまた砦を抜いて逃走し、劉麟の兵には自ら郷里と姓名を書き記して縊死する者があり、劉豫はこれにより人心を失った。金人は劉麟らの敗北を聞き、劉豫の罪状を詰問し、初めて劉豫を廃する意向を持った。

七年の春、劉豫は進士の試験を行った。間者を遣わして淮甸に放火させ、劉光世の倉庫を焼いた。二月、また鎮江を焼いた。劉豫は劉麟の敗北以来、意気沮喪していた。中原の遺民は、日に日に王師を望んだ。三月、帝は建康に進駐した。八月、統制の酈瓊が呂祉を捕らえ、兵三万を率いて叛き劉豫に降り、間もなく呂祉を殺した。劉豫は酈瓊の降伏を聞いて大いに喜び、文徳殿に出御してこれに会い、酈瓊を静難軍節度使・知拱州に任じた。酈瓊は劉豫に侵入を勧め、劉豫はまた金人に援軍を乞い、かつ酈瓊が自ら功を立てたいと申し出た。金人は劉豫の兵衆が制し難いことを恐れ、計略をもってこれを除かんとし、そこで偽って酈瓊の降伏は詐りであろうと言い、その兵を解散するよう命じた。

金人は既に劉豫を廃することを決めていたが、劉豫は日に日に援軍を請うたので、ここに女真の万戸束抜を元帥府左都監として太原に駐屯させ、渤海の万戸大撻不也を右都監として河間に駐屯させた。ここにおいて尚書省が上奏して、劉豫が国を治めるに道なく、廃すべきであるとした。十一月丙午、劉豫を廃して蜀王とした。

初め、金主は先に撻辣、兀朮に命じて偽りに南征と称して汴京に至らせ、劉麟を騙し出して武城に至らせ、騎兵を指揮して翼からこれを捕らえ、因って馳せて城中に入った。劉豫がちょうど講武殿で射をしていた時、兀朮が三騎を従えて東華門に突入し、馬を下りてその手を執り、共に宣徳門に至り、痩せた馬に強いて乗せ、刃を露わにしてこれを挟み、金明池に囚禁した。翌日、百官を集めて詔を宣し劉豫を責め、鉄騎数千で宮門を囲み、小校を遣わして里巷を巡らせ、声を揚げて言わせた、「今後は汝らを軍に徴発せず、汝らの免行銭を取らず、汝らのために貌事人を打ち殺し、汝らの旧主少帝をここに請い来たらせよう」。これにより人心はやや安んじた。行臺尚書省を汴京に置き、張孝純を行臺左丞相の権とし、偽りの丞相張昂を孟州知事、李鄴を代州知事、李成、孔彦舟、酈瓊、関師古をそれぞれ一郡に任じた。女真の胡沙虎を汴京留守とし、李儔をその副とした。諸軍は悉く帰農を命じ、宮人の出嫁を許した。金一百二十余万両、銀一千六百余万両、米九十余万斛、絹二百七十万匹、銭九千八百七十余万緡を得た。

劉豫が哀れみを乞うと、撻辣は言った、「昔、趙氏の少帝が京を出た時、百姓は頂を焼き臂を煉り、号泣の声は遠近に聞こえた。今、汝が廃されても一人として汝を憐れむ者がない。どうして自らを責めないのか」。劉豫は言葉に詰まり、行くことを迫られ、相州の韓琦の邸宅に住むことを願い、これを許された。後にその子の劉麟と共に臨潢に移され、劉豫を曹王に封じ、田を与えて住まわせた。紹興十三年六月に卒去した。この年は金の皇統三年である。劉豫が僭号したのは凡そ八年、廃された時は六十五歳であった。先に、斉の地に幾度も怪異が現れ、梟が後苑で鳴き、龍が宣徳門を揺さぶって「宣徳」の二字を消し、星が平原鎮に隕落した。識者は禍が百日を出ないと言い、劉豫は怒ってこれを殺した。間もなく果たして廃された。

初め、偽りの麟府路経略使の折可求が用事で雲中に至った時、左監軍の撒離曷が密かに折可求に劉豫に代わるよう諭した。後に撻辣に疆土を帰還させる議論があり、折可求が失望することを恐れ、毒を飲ませてこれを殺した。

劉豫の僭逆に際し、馬定国は『君臣名分論』を進め、祝簡は『遷都』『国馬賦』を献じ、言葉多く指弾した;また許清臣が景霊宮を破壊し、孟邦雄が永安陵を発掘したのは、盗跖の犬が尭に吠えるようなもので、責むるに足りない。

苗傅

劉正彥 附

苗傅は上党の人である。祖父は苗授、父は苗履。苗授は元豊年間に殿前都指揮使であった。康王が元帥府を建てると、信徳守臣の梁揚祖が兵一万を率いて至り、苗傅は張俊、楊沂中、田師中と共にその麾下に属した。隆祐太后が南渡する時、苗傅は統制官となり、配下の八千人を率いて護衛し、杭州に駐屯した。

劉正彥という者がいた。何許の人か知れない。父の劉法は、政和年間に熙河路経略使となり、王事に殉じた。劉正彥は閤門祗候より文資に転じ朝奉大夫に至ったが、後に事により責められ降格された。折しも劉法の旧部の王淵が御営都統制となったので、劉正彥はこれに帰属した。王淵は劉法の縁故により、劉正彥を朝廷に推薦し、再び武徳大夫・知濠州とされ、御営右軍副都統制に抜擢され、王淵は精兵三千を分けてこれに与えた。丁進を平定した功により、武功大夫・威州刺史に進んだ。初め、劉正彥が丁進を討つ時、劉晏の同行を請うた。劉晏は元々厳陵の人で、遼に陥って科挙に及第し、宣和年間に衆を率いて帰順した。劉正彥は劉晏の計を用い、旗幟を変えて疑兵とし、遂に丁進を降伏させた。劉晏は通直郎より朝請郎に昇進し、劉正彥は己の賞が薄く劉晏が峻遷を得たことを恥じ、これにより失望し、賜わった金帛を将士に分け与え、間もなく命を受けて六宮・皇子に従い杭州に至った。

建炎三年二月壬戌、高宗は王淵の議に従い、鎮江より杭州に行幸した。当時、諸大将の劉光世、張俊、楊沂中、韓世忠らは要害を分守しており、護衛する者は苗傅のみであった。

先に、王淵が大船十数艘を装備し、維揚より杭州に来た時、杭州の人々は互いに言った、「船に積んでいるものは、皆、王淵が陳通を平定した時に富民の家財を殺奪したものだ」。内侍省押班の康履が頗る権勢を振るい、威福を己の思いのままにし;その徒党は民家を奪い、暴横をほしいままにした。苗傅らはこれを恨み、言った、「天子がこのように転徙しているのに、なお敢えてこのようなことをするのか」。その党の張逵がまた諸軍を激怒させて言った、「王淵と内侍を殺せば、人は皆富むことができ、朝廷がどうして悉く罪に問えようか」。

三月辛巳、王淵を同簽書樞密院事に拝す。初め、淵は杭州に幸する議を建て、内侍実に左右之。淵が枢筦に躐躋するに及び、衆は内侍に由る薦と謂う。傅は宿将を自負し、淵の驟貴を疾む。正彦は淵に由り進むと雖も、淵が檄を以て与えし兵を取るを、亦之を怨む。ここに於て傅積もりて能く平らかならず、王世脩・張逵・王鈞甫・馬柔吉等と謀りて乱を作す。鈞甫等皆燕人、将うる所の号「赤心軍」。傅の部分既に定まり、乃ち淵を紿して臨安県に盗有りとし、意は淵をして其の兵を外に出さしめんと欲す。

康履、黄巻の小文書を得、両統制の作る所に「田」「金」の字巻末に署す有り、田は乃ち苗、金は乃ち劉なり。ここに於て頗る賊の謀を泄らし、以て淵に告ぐ、淵は兵を天竺に伏す。明日、賊党亦兵を城北橋下に伏し、淵の朝を退くを俟ち、宦官と結び謀反すと誣い、正彦手ずから淵を殺し、兵を以て履の第を囲み、分ち内官を捕え、凡そ須無き者は尽く之を殺し、淵の首を掲げ、兵を引いて闕を犯す。中軍統制呉湛宮門を守り、潜かに傅と通じ、其の党を導き入れて奏して曰く、「苗傅は国に負かず、止だ天下の害を除く為のみ」。

知杭州康允之変を聞き、従官を率いて閽を叩き、帝の楼に御するを請い、百官皆従う。殿帥王元大いに呼びて聖駕来たるとす、傅黄屋を見て、猶山呼して拝す。帝闌に憑り二賊を呼びて故を問う、傅厲声に曰く、「陛下中官を信任し、軍士功有る者は賞せず、内侍に私する者は即ち美官を得。黄潜善・汪伯彦国を誤るも、猶未だ遠く竄ぜず。王淵敵に遇いて戦わず、友康履に因りて枢密を得。臣功を立て多く、止だ遙郡団練を作すのみ。已に淵の首を斬る、更に康履・藍珪・曾択を斬りて三軍に謝するを乞う」。帝諭して以て当に海島に流すべく、軍士と帰営すべしとし、且つ曰く、「已に傅を承宣使・御営都統制に除し、正彦を観察使・御営副都統制に除す」。

賊退かず。帝百官に問う計安くに出づるかと、浙西安撫司主管機宜文字時希孟曰く、「禍は中官に由る、悉く之を除かずんば、禍未だ已まざるなり」。帝曰く、「朕が左右に給使無くんば可ならずや」。軍器監葉宗諤曰く、「陛下何ぞ康履を惜しまん」。ここに於て呉湛に命じ履を捕えしむ、清漏閣の承塵中に得たり。傅即ち楼下にて腰斬して履を斬る。

傅猶悪言を肆にし、「帝当に大位に即くべからず、淵聖帰来せば、何を以て処せん」と謂う。帝朱勝非をして楼を縋り下りて曲く之を諭さしむ。傅は隆祐太后の同く政を聴き及び金と議和する使を遣わすを請う。帝諾し、即ち詔を下して太后の簾を垂るるを請う。賊詔を聞き拝せず、曰く、「自ら皇太子有りて立つべし」。張逵曰く、「今日の事、当に百姓社稷の為に計るべし」。時希孟曰く、「宜しく百官を率いて社稷に死すべく、然らずんば三軍の請に従うべし」。通判杭州事章誼之を叱して曰く、「何ぞ三軍に従うべけんや」。帝徐に勝非に謂いて曰く、「朕当に退避すべく、須らく太后の命を待つべし」。勝非謂う不可と。顔岐曰く、「太后の親く之を諭するを得ば、則ち詞無からん」。

時に寒きこと甚だしく、門に簾幃無く、帝一の竹椅に坐す。既に太后を請うや、即ち起ち立って楹の側に在り。太后肩輿に御して出で楼前に立ち、二賊拝して曰く、「今日百姓辜無く、肝脳地に塗れり、太后の主張を望む」。太后曰く、「道君皇帝蔡京・王黼を任じ、祖宗の法を更え、童貫辺釁を起こし、以て金人の禍を致す所以なり。今皇帝聖孝にして、失徳無く、止だ黄潜善・汪伯彦に誤らるるのみ、已に竄逐を加う、統制独知らざるか」。傅曰く、「臣等議を定む、必ず皇子を立てんと欲す」。后曰く、「今強敵外に在り、吾が一婦人をして簾前に三歳児を抱かしめ、何を以て天下を令せん」。正彦等号泣して固く請い、因りて其の衆を呼びて曰く、「太后既に允さずんば、吾当に戮を受けん」。遂に衣を解く状を作す、后諭して之を止む。傅曰く、「事久しく決せずんば、恐らくは三軍変を生ぜん」。顧みて勝非に謂いて曰く、「相公何ぞ一言無き」。勝非答うる能わず。適顔岐帝前より至り、奏して曰く、「皇帝臣に令して奏知せしむ、已に決意して傅の請に従うと、乞うらくは太后宣諭せよ」。后猶許さず、傅等の語益不遜なり。

太后還り門に入る、帝人を遣わして禅位を奏す、勝非泣いて曰く、「臣義当に死すべく、乞うらくは二凶を詰下せよ」。帝左右を屏して語して曰く、「当に後図を為すべく、事成らずんば、死するも未だ晩しからず」。勝非曰く、「王鈞甫、賊の腹心なり、適臣に語して曰く、『二将忠余り有り、学足らず』と。此れ後図と為すべし」。

是の日、帝顕忠寺に幸す。甲申、太后簾を垂れ、赦を降し、号して帝を睿聖仁孝皇帝と為し、顕忠寺を以て睿聖宮と為し、内侍十五人を留め、余は悉く編置す。

丙戌、赦平江府に至る、張浚変有るを知り、拝せず。丁亥、江寧に至り、制置呂頤浩浚に書を遺し、痛く事変を述ぶ。浚乃ち兵を挙ぐ。戊子、御営前軍統制張俊平江に至る、浚以て起兵するを諭す、俊泣いて命を奉ず。

初め、勝非奏す、簾を垂るるは当に二臣同に対すべし、今時艱に属す、乞うらくは独対を許せと。賊の疑わんことを恐れ、乃ち日々其の徒一人を引きて俱にせしむ。傅入対す、后之を労勉す。賊喜び、疑う所無く、故に臣僚入対し、復辟を謀るを得。

勝非深く王世修と結び、将に従官に処して以て二凶を通ぜんとす。

傅は改元せんと欲し、正彦は都を建康に遷さんと欲す、太后勝非に謂いて曰く、「二事如し俱に允さずんば、恐らくは賊他変有らん」。己丑、元を改めて明受とす。張浚二凶に書を遺し、其の忠義を奨めて以て之を慰安す。庚寅、百官睿聖宮に朝す。傅を武当軍節度使と為す。

辛卯、張浚進士馮轓を行在に赴かしめ、帝の親しく要務を総べるを請う。復た書を馬柔吉・王鈞甫に抵し、宜しく早く反正して以て天下の惑を解くべしとす。

浚既に轓を遣わし、即ち諸路に檄し、呂頤浩・劉光世の平江に会するを約す。傅は堂帖を以て張浚を趣して秦州に赴かしめ、趙哲に俊の軍を領せしむ、哲従わず。命を改めて陳思恭とす、思恭亦従わず。

壬辰、諫議大夫鄭瑴を以て御史中丞と為す。賊は武功大夫王彦を以て御営司統制と為さんとす、瑴面して二凶を折し、彦狂を佯い、即日致仕す。

癸巳(の日)、韓世忠が兵を率いて常熟に至る。辛道宗が張浚に言うには、「賊が万一、御駕を邀えて海に入らば、何を以て計と為さん!」と。浚は乃ち声言して海寇を防遏すとし、道宗を節制司参議官と為すことを奏し、海船を措置して賊を避けしむ。

甲午(の日)、曾擇・藍珪を嶺南に貶す。傅は追って擇を斬る。賊は以てその部を以て禁衛に代わりて睿聖宮を守らしめんと欲し、又帝を徽・越に幸せしめんと邀えんと欲す。張澄・勝非、曲く諭して之を止む。

馮轓、二凶を説きて反正せしむ。傅は剣を按じ目を瞋して轓を視る。正彥之を解きて曰く、「張侍郎の来るを須つべし、乃ち可なり」と。即ち帰朝官趙休を遣わし、轓と共に浚を招かしむ。

乙未(の日)、呂頤浩の勤王兵、丹陽に至る。劉光世、その部を引きて来会す。丙申(の日)、韓世忠の兵、平江に至る。即ち兵を進めんと欲す。浚曰く、「已に馮轓を遣わし甘言を以て賊を誘えり。鼠に投ずるは器を忌む、太だ亟なるべからず」と。

賊、張彦・王徳を遣わし、声言して淮を防ぐ。徳、彦の酔うを伺い、その軍を併せ、自ら采石より江を済て劉光世に帰す。彦、尋いで人の為に殺さる。戊戌(の日)、浚、世忠の兵少なきを以て、張俊の兵二千を分かちて之を益し、平江より発つ。

馮轓、平江に至る。浚、復た遣わし入りて賊を責むるに大義を以てし、禍福を諭し、期すに死すと雖も悔い無からんことを。傅等、初め浚の兵を集むるを聞き、未だ之を信ぜず、浚の書を得るに及び、始めて討たるるを悟る。奏して浚を誅し以て天下に令せんことを請う。詔して浚を責めて黄州団練副使、郴州安置と為す。鄭瑴、上疏して浚を責むるは当たらずと謂う。密かにその親謝嚮を遣わし姓名を変えて浚に告げ、宜しく持重して緩進すべく、賊自ずから遁るべしと。浚之を然りとす。

是の日、賊、苗瑀・馬柔吉を遣わし、赤心隊及び王淵の旧部曲を将いて臨平に駐め、以て勤王の師を拒がしむ。馮轓、臨平に至り、馬柔吉を見、共に縋りて城に入る。詰朝、傅等と議す。傅曰く、「爾尚ほ敢えて来るか」と。轓を拘えんと欲す。浚、逆に之を知り、謬りて書を為し轓に遺わす。言う、客杭より来り、二公の朝廷に初め異心無きを知り、殊に前書の輕易に失するを悔うと。賊、浚の轓に遺わす書を得て、大いに喜び、乃ち轓を釈す。

壬寅(の日)、浚、謫命を得る。将士の解体するを恐れ、紿いて曰く、「趣召の命なり」と。是の日、呂頤浩、平江に至り、浚と対泣して曰く、「事諧わずとも、赤族に過ぎず」と。乃ち幕客李承造に命じ檄を草して四方に告げ賊を討たしむ。賊、勤王の兵大いに集まるを聞き、即ち馮轓・勝非を呼び復辟を議す。癸卯(の日)、張俊、平江より発つ。劉光世之に継ぐ。賊も亦た兵三千を遣わし湖州小林に屯す。丙午(の日)、頤浩・浚、大兵を以て平江より発つ。詔して浚を以て知樞密院事と為す。

丁未(の日)、勝非、二凶を召し都堂に至らしめ復辟を議し、百官を率いて三たび表を上り以て請う。夏四月戊申朔、帝宮に還る。都人大いに説ぶ。帝前殿に御し、詔して太后を尊びて隆祐皇太后と曰い、嗣君を立てて皇太子と為す。辛酉(の日)、傅を徙めて淮西制置使と為し、正彥之に副わしむ。庚戌(の日)、詔して建炎の号を復す。

是の日、頤浩・浚の軍、臨平に次ぐ。苗翊・馬柔吉、兵を以て河を阻む。韓世忠、先鋒を率いて力戦し、俊・光世之に乗ず。翊敗走す。勤王兵、北関に進む。二凶、都堂に詣り、賜わる所の鉄券を得るを趣り、精兵二千を引き、夜湧金門を開き遁る。辛亥(の日)、頤浩・浚、勤王兵を引きて城に入る。世忠、手ずから王世修を執り以て吏に属す。

苗傅、富陽を犯す。統制官喬仲福之を追撃す。癸丑(の日)、桐廬を犯す。甲寅(の日)、呉湛を斬る。時希孟、吉陽軍に編管す。丙辰(の日)、傅等、白沙渡に至り、過ぐる所橋を燔き以て官軍を阻む。丁巳(の日)、寿昌県を犯し、民をげいして軍に充つ。庚申(の日)、衢州を犯し、守臣胡唐老拒みて之を却く。丙寅(の日)、常山を犯す。世忠、賊を討つことを請う。丁卯(の日)、世忠を以て江浙制置使と為し、衢・信より自ら賊を追撃せしむ。戊辰(の日)、賊、玉山県を犯す。辛未(の日)、賊、沙渓鎮に屯す。統制巨師古、江東より賊を討ち還り、喬仲福・王徳と信州に会す。賊之を聞き、還りて衢・信の間に屯す。

五月戊寅朔、世忠、杭州より発つ。庚辰(の日)、賊党張翼、鈞甫及び柔吉父子の首を斬りて降る。江浙制置使周望之を受け以て聞かしむ。賊、浦城県を寇し、渓を夾みて屯し、険に拠り伏を設け、以て官軍を邀う。統制官馬彦溥之に死す。賊勝に乗じて中軍を犯す。世忠、目を瞋し大呼し、兵を揮って直前に進む。正彦馬より堕ち、生擒にす。賊将江池、孟皋を殺し、苗翊を擒えて降る。衆悉く甲を解く。張逵、余兵を収めて崇安に入る。喬仲福追い之を殺す。

傅、軍を棄て姓名を変え夜遁して建陽に至る。土豪詹標之を覚り、執り送って世忠に致す。檻車を行在に赴かしむ。壬寅(の日)、詔して師を班す。

秋七月辛巳(の日)、世忠の軍還る。傅・正彦を俘え以て献ず。建康市にて磔く。張逵・苗瑀及び傅の二子、倶に已に前に死す。詔して余党を釈す。

杜充

杜充、字は公美、相の人なり。功名を喜び、性残忍にして殺戮を好み、而して謀略に短し。紹聖年間、進士第に登り、累遷して考功郎・光禄少卿となり、出でて滄州を知る。靖康初、集英殿修撰を加えられ、復た滄州を知る。時に金人南侵し、郡中の僑寓は皆燕人の来帰する者なり、充は敵の内応となるを慮り、之を殺して噍類無し。

建炎元年、天章閣待制・北京留守に進み、枢密直学士に遷る。提刑郭永嘗て三策を画きて以て充に献ず、充は省みず。永之を誚りて曰く、「人志有りて才無く、名を好みて実無く、驕蹇自用にして声譽を得、此を以て大任に当たれば、鮮くも終わり有る有らん」と。二年、宗澤卒し、充代わりて留守兼開封尹と為る。三年、戸部尚書兼侍読を以て召さる、未だ至らざるに、資政殿学士に改められ、淮南・京東西路を節制し、前の如く京城留守に依り、尋いで宣武軍節度使を知る。

七月、同知枢密院を以て召還さる、至るや、即ち尚書右僕射・同平章事・御営使に拝す。初め、宗澤は豪傑を要結し、二帝を迎えんと図る。澤卒して後、充は撫御に短く、人心疑阻し、両河の忠義の士往々にして皆引き去り、留守判官宗穎嘗て其の失を疏す。朝廷は充に威望有りと謂い、大事に属すべしとし、呂頤浩・張浚も亦之を薦む、故に是の命有り。時に諸路各々重兵を擁し、率ね驕蹇にして命を用いず。張俊方に事を白さんとし、謁して未だ入らざるに、俊遽かに前に進む、充怒りて其の使を戮し、諸将稍々慴服す。

高宗将に浙西に幸せんとし、韓世忠に太平に屯せしめ、王𤫉に常州に屯せしむ。充を以て江淮宣撫使と為し、建康に留め、諸将を尽く護らしむ。光世・世忠は充の厳急を憚り、充に属するを楽しまず。詔して光世を江州に移し、世忠を常州に移す。時に江・浙は充を重しと倚り、而して充は日々誅殺を事とし、敵を制するの方無く、識者寒心す。

金人江を窺う、充は裨将王民・張超を遣わし諸渡を分守せしめ、高きに乗り岸に拠り、神臂弓を以て之を射て却く。金人復た石冏砂に逼る、時に軽舟を以て南岸に薄し、官軍奮撃し、或いは其の舟を沈む。一日昼に当たり、金人江に対し陣を列ねて佯り退く、衆之を信じ、守り益々懈る。敵備無きを知り、夜乃ち数十舟を乗じて江を横切り直ちに済い、衆御する能わず、敵遂に岸に登る。充亟に統制官陳淬に命じ、岳飛諸裨校を尽く領せしめて二万人を合し馬家渡に邀撃せしめ、王𤫉と俱に進むを約す。敵気甚だ鋭し、淬戦沒し、𤫉兵を引いて遁れ、充軍潰ゆ。

金人建康を陷し、充は江を渡り真州を保つ。充嘗て諸将を痛く縄す、諸将之を銜み、其の敗を伺い、衆将甘心せんとす。充敢えて帰らず、乃ち北に泗州劉位・徐州趙立と約し、兵を合して敵の帰路を邀えんと欲す。詔して内侍任源を遣わし親札を賜い激厲し、後図を為さしむ。源常州に至るも、道阻みて未だ進むを得ず、健士を募り先ず上意を達せしむ、充詭詞を以て自ら飭い以て源に報ず。

充真州長蘆寺に居す、守臣向子忞充を勧めて通・泰より浙に入らんとし、与に偕に行かんと欲す、充異志を畜え、聴かず。初め、京畿提刑淩唐佐南京に在り、守臣孟庾朝に帰し、府事を之に委ぬ、唐佐遂に金に降りて用いらる。唐佐雅く充に善くし、書を以て之を招く。完顔宗弼復た人を遣わし充に説きて曰く、「若し降らば、当に中原を以て封じ、張邦昌の故事の如くすべし」と。充遂に叛きて金に降る。事聞こえ、高宗輔臣に謂ひて曰く、「朕充を待つこと薄からず、何ぞ乃ち是に至らんや」と。制を下し充の爵を削ぎ、其の子嵩・巖・崑・婿韓汝惟を広州に徙す。

是の冬、充雲中に至る、粘罕之を薄くし、久しくして相州を知るを命ず。充猜阻し威を肆い、同列多く協せず。紹興二年、其の孫徙所より間きて走り帰り充に至る、其の副胡景山充が陰に朝廷に通ずるを誣う。粘罕充を吏に下し、炮掠備至るも、服せず、之を釈し、因りて充に問ひて曰く、「汝復た南朝に帰らんと欲するか」と。充曰く、「元帥敢えて帰らば、充は敢えず也」と。粘罕之を哂う。七年、充を命じて燕京三司使と為す。八年、同簽書燕京行台尚書省事。九年、行台右丞相に遷る。十一年、和議成りて而して充死す。

呉曦

呉曦、信王璘の孫、節度挺の中子なり。祖任に以て右承奉郎を補す。淳熙五年、武徳郎に換え、中郎将を除かれ、後省其の太だ驟なるを言ひ、武翼郎に改む。累遷して高州刺史。紹熙四年、挺卒し、起復して濠州団練使。慶元元年冬、建康軍馬都統制より除かれて興州を知り兼ね利西路安撫使と為る。四年、憲聖園陵成り、労を以て武寧軍承宣使に遷る。六年、光宗攢陵成り、太尉に遷る。

会に韓侂冑辺を開かんと謀り、曦潜かに異志を畜へ、因りて侂冑に附し蜀に還らんことを求む。枢密何澹其の意を覚り、力を沮む。陳自強曦の厚賂を納れ、陰に侂冑を賛し、遂に曦を命じて興州駐紮御前諸軍都統制と為し、兼ねて興州・利州西路安撫使を知らしむ。従政郎朱不棄侂冑に上書し、曦をして西師を主とすべからざるを謂ふ、侂冑報えず。曦鎮に至り、副都統制王大節を譖し、之を罷め、更に副帥を除かず、而して兵権悉く曦に帰す。開禧二年、朝廷師を出さんと議し、詔して曦を四川宣撫副使と為し、仍興州を知り、便宜行事を聴す。紹興末より、王人出でて蜀賦を総べ、牒を宣司に移し、勢均しく礼敵す。而るに侂冑総計を以て宣司に隷し、副使按劾を節制するを得しめ、而して財賦の権又曦に帰す。未だ幾もせず、兼ねて陝西・河東招撫使と為す。

曦従弟晛及び徐景望・趙富・米修之・董鎮と共に反謀を為し、陰に客姚淮源を遣わし関外の階・成・和・鳳の四州を金に献じ、封ぜられて蜀王と為らんことを求む。侂冑日夜曦の進兵を望む、曦陽かに持重を為し、兵を河池に按じて進まず、潜かに金人の地を為して以て王師を困しめんとす、侂冑之を覚らざりき。会に正使程松至る、曦庭参せず、松敢えて詰めず;曦復た多く松の衛兵を摘取す、松も亦悟らざりき。

金人西和を犯す、王喜・魯翼之を拒ぐ。戦方に急なるに、曦令を伝へて退き黒谷を保たしむ、軍遂に潰ゆ。乃ち河池を焚き、退きて青野原に壁す。曦時に已に腹心を金に布けり、将士未だ之を知らず、猶力戦す、敵人窃に之を笑ふ。曦退きて魚関に壁し、忠義を招集し、厚く賜ひて以て衆心を収む。興元都統制毋思重兵を以て大散関を守る、曦因りて驀関の戍を撤し、敵版閘谷より繞りて出で思の後に出づ、思遁る。金遂に大散関を陷し、曦退きて罝口に屯す。挙人陳国飾匭に投じ書を上り、曦必ず叛かんことを言ふ、侂冑省みず。

十二月、興州にて二つの日が互いに摩するのを見る。金は呉端を遣わし詔書と金印を持たせて罝口に至り、曦を蜀王に封ず。曦は密かにこれを受く。李好義、七方関にて金人を破るも、曦はその捷報を上奏せず、興州に還る。是の夜、天赤くして血の如く、光地を燭して晝の如し。翌日、曦は幕属を召して意を諭し、東南の地失守し、車駕四明に幸す、今は宜しく権に従い事を済すべしと謂う。衆、色を失う。王翼・楊騤之抗言して曰く、「かくの如くせば、則ち相公八十年の忠孝門戸、一朝にして地に掃う」と。曦曰く、「吾が意は已に決す」と。即ち甲仗庫に詣で、兵将官を集めて故を語る。祿禧・褚青・王喜・王大中ら皆賀して命を聴く。曦、北向して印を受く。徐景望を遣わして四川都転運使と為し、褚青を左右軍統制と為し、益昌に趨かせ、総領所の倉庫を奪わしむ。程松、変を聞き、興元を棄てて去る。

三年正月、曦は将利吉を遣わし金兵を引き入れ鳳州に入らしめ、四郡を以てこれに付す。表して鉄山を界と為す。曦、黄屋左纛に乗じ、僭りて王位に即くこと興州に於いて、即ち治所を行宮と為し、是の月を元年と称す。人をして其の伯母趙氏に告げしむ。趙、怒りて之を絶つ。叔母劉、晝夜号泣し、罵ること絶えず、曦これを扶け出だす。族子僎は興元統制たり、偽檄を見て、色甚だ平らかならず。

曦既に位を僭するや、削髪左衽の令を行わんことを議す。董鎮を遣わして成都に至り宮殿を治め、将に徙り居らんとす。曦の統ぶる所の軍七万並びに程松の軍三万、分ちて十統帥に隷す。祿祁・房大勲を遣わして万州を戍らしめ、舟を泛して嘉陵江を下り、声言して金人と約し襄陽を夾攻せんとす。祁、尋で夔に至り、兵を遣わして巫山の得勝・羅護等の砦を扼せしめ、以て王師を遏んとす。侂冑、曦の反するを聞き、為す所を知らず。或いは勧めて曰く、因りてこれを封ずるに如かずと。侂冑、其の説を納る。呉晛、曦のために謀り、宜しく蜀の名士を収用して以て民心を係ぐべしと。ここにおいて陳咸自ら其の髪を髡し、史次秦其の目を塗り、楊震仲薬を飲みて卒し、王翊・家拱辰皆偽命を受けず、楊修年・詹久中・家大酉・李道傳・鄧性善・楊泰之悉く官を棄てて去る。薛九齢、義兵を挙げんと謀る。

興州合江倉官楊巨源、義を倡えて逆を討たんとし、発する所なきにより、遂に随軍転運安丙と共に曦を誅せんことを謀る。会に李好義と兄好古・李貴等皆謀有り、交相結納す。二月甲戌の夜、漏尽きて、巨源・好義首として勇敢七十人を率い斧を以て門を入る。李貴即ち曦の室にて其の首を斬り、其の屍を裂く。丙、将士を分遣して其の二子及び叔父柄・弟晫・従弟晛・賊党の姚淮源・李珪・郭仲・米修之・郭澄等を収め皆誅す。時に呉端猶ほ後閣に臥す、亦た誅に伏す。徐景望・趙富・呉曉・董鎮・郭榮・祿禧等は皆外に在り、人を遣わして就きて之を誅す。曦の首を函にし朝に献ず。

詔して曦の妻子を処死し、親昆弟を除名勒停とし、呉璘の子孫は並びに出蜀して徙し、呉玠の子孫は連坐を免れ、通じて璘の祀を主らしむ。曦の敗るる時、年四十六。