宋史

列傳第二百三十三 姦臣四 万俟禼 韓侂胄 丁大全 賈似道

列傳第二百三十三 姦臣四 万俟禼 韓侂胄 丁大全 賈似道

万俟禼

原文万俟禼

万俟禼、字は元忠、開封陽武県の人なり。政和二年上舎に及第す。相州・潁昌府教授に調じ、太学録・枢密院編修官・尚書比部員外郎を歴任す。紹興初め、賊曹成荊湖の間を掠めしとき、禼時に沅・湘に乱を避け、帥臣程昌寓便宜を以て禼に檄し沅州事を権む。成奄に城下に至るも、禼土豪を召し、丁壮を集めて以て守り、成食尽きて乃ち退く。湖北転運判官を除し、提点湖北刑獄に改む。岳飛荊湖を宣撫し、禼に遇するに礼を以てせず、禼之を憾む。禼入覲し、湖南転運判官に調じ、陛辞に際し、秦檜の意に希い、朝に飛を譖す。留めて監察御史と為し、右正言に擢でる。

原文万俟禼,字元忠,開封陽武縣人。登政和二年上舍第。調相州、潁昌府教授,歷太學錄、樞密院編修官、尚書比部員外郎。紹興初,盜曹成掠荊湖間,禼時避亂沅、湘,帥臣程昌寓以便宜檄禼權沅州事。成奄至城下,禼召土豪、集丁壯以守,成食盡乃退。除湖北轉運判官,改提點湖北刑獄。岳飛宣撫荊湖,遇禼不以禮,禼憾之。禼入覲,調湖南轉運判官,陛辭,希秦檜意,譖飛於朝。留為監察御史,擢右正言。

時に檜諸将の兵権を収めんと謀り、禼力を以て之を助け、諸大将は行伍より起り、利を知りて義を知らず、死を畏れ法を畏れず、高官大職、子女玉帛、已に其の欲を極む、何ぞ逗遛の罰、敗亡の誅、不用命の戮を以て示し、懼るる所を知らしめざらんやと言う。

原文時檜謀收諸將兵權,禼力助之,言諸大將起行伍,知利不知義,畏死不畏法,高官大職,子女玉帛,已極其欲,盍示以逗遛之罰,敗亡之誅,不用命之戮,使知所懼。

張俊楚州より帰り、檜と合謀して飛を擠み、禼をして飛が将佐に対し山陽守るべからずと言えるを劾せしむ。中丞何鑄に命じ飛の獄を治めしむも、鑄其の無辜なるを明らかにす。檜怒り、禼を以て代わりて治めしめ、遂に飛と其の子雲が張憲に書を致し、虚に警報を申して以て朝廷を動かしめ、及び憲に措置して飛の軍を還らしむるを令せしと誣う。獄成らず、又淮西逗遛の事を以て誣う。飛父子と憲俱に死し、天下之を冤とす。大理卿薛仁輔・寺丞李若樸・何彦猷飛無罪を言うも、禼之を劾す。知宗正寺士㒟百口を以て飛を保せんことを請うも、禼又之を劾し、士㒟建州に竄死す。劉洪道飛と旧有り、禼其の足恭にして飛に媚ぶを劾し、飛宣撫を罷むるを聞き、掌を抵って涕を流すとす。ここに於いて洪道罪に抵り、終身復せず。参政范同檜に引かれたるも、或いは自ら奏事す、檜之を忌み、禼劾して罷め、再び同の罪を論じ、筠州に謫居す。又檜の為に李光の鼓倡、孫近の朋比を劾し、二人皆竄謫せらる。

原文張俊歸自楚州,與檜合謀擠飛,令禼劾飛對將佐言山陽不可守。命中丞何鑄治飛獄,鑄明其無辜。檜怒,以禼代治,遂誣飛與其子雲致書張憲,令虛申警報以動朝廷,及令憲措置使還飛軍;獄不成,又誣以淮西逗遛之事。飛父子與憲俱死,天下冤之。大理卿薛仁輔、寺丞李若樸、何彥猷言飛無罪,禼劾之;知宗正寺士㒟請以百口保飛,禼又劾之,士㒟竄死建州。劉洪道與飛有舊,禼劾其足恭媚飛,聞飛罷宣撫,抵掌流涕。於是洪道抵罪,終身不復。參政范同為檜所引,或自奏事,檜忌之,禼劾罷,再論同罪,謫居筠州。又為檜劾李光鼓倡,孫近朋比,二人皆被竄謫。

和議成り、禼詔を請うて戸部に会計せしめ、用兵の時と通和の後の費やす所各幾何なるかを計らしめ、若し前日に減ぜば、羨財を以て別に御前激賞庫に貯え、他用を許さず、蓄積稍く実ならば、緩急に備うべしと。梓宮還り、禼を以て攢宮按行使と為し、内侍省副都知宋唐卿之に副う。禼唐卿と同班上殿して奏事せんことを請う、其の無恥此の如し。張浚長沙に寓居す、禼妄りに浚の宅を卜するに制を踰ゆと劾し、至って五鳳楼に擬す。会うに呉秉信長沙より朝に還り、浚の宅は衆人に過ぎず、常産にて弁ずべしと奏す、浚乃ち免るるを得たり。

原文和議成,禼請詔戶部會計用兵之時與通和之後所費各幾何,若減於前日,乞以羨財別貯御前激賞庫,不許他用,蓄積稍實,可備緩急。梓宮還,以禼為攢宮按行使,內侍省副都知宋唐卿副之,禼請與唐卿同班上殿奏事,其無恥如此。張浚寓居長沙,禼妄劾浚卜宅踰制,至擬五鳳樓。會吳秉信自長沙還朝,奏浚宅不過眾人,常產可辦,浚乃得免。

参知政事を除し、金国報謝使を充つ。使より還り、檜金人の己を誉むる数千言を仮り、禼に嘱して以て聞かしめんとす、禼之を難ず。他日奏事退き、檜殿廬中に坐して上旨を批し、輒ち厚くする所の者の官を除し、吏紙尾に鈐して進む、禼曰く「聖語を聞かず」と。却って視ず。檜大いに怒り、ここより一語も交わさず。言官李文会・詹大方章を交えて禼を劾す、禼遂に去らんことを求む。帝守に出づるを命ず、檜愈々怒る。給事中楊愿詞頭を封還す、遂に罷めて去り、尋いで帰州に謫居す。赦に遇い、量りて沅州に移す。

原文除參知政事,充金國報謝使。使還,檜假金人譽己數千言,囑禼以聞,禼難之。他日奏事退,檜坐殿廬中批上旨,輒除所厚者官,吏鈐紙尾進,禼曰:「不聞聖語。」卻不視。檜大怒,自是不交一語。言官李文會、詹大方交章劾禼,禼遂求去。帝命出守,檜愈怒。給事中楊愿封還詞頭,遂罷去,尋謫居歸州。遇赦,量移沅州。

二十五年、召し還され、参知政事を除し、尋いで尚書右僕射・同中書門下平章事を拝す。太后の回鑾の事実を纂次し、之を上る。張浚禼と沈該が相位に居るを以て、天下の望みに厭わず、上書して其の専ら金に命を受けんと欲すとを言う。禼書を見て大怒し、金人未だ釁無く、而して浚の奏する所は乃ち禍歳月の間にあるが若しと為す、浚坐して竄謫せらる。禼提挙として《貢挙敕令格式》五十巻、《看詳法意》四百八十七巻を刊修し、書進み、金紫光禄大夫を授かり、致仕す。卒す、年七十五、諡して「忠靖」と曰う。

原文二十五年,召還,除參知政事,尋拜尚書右僕射、同中書門下平章事。纂次太后回鑾事實,上之。張浚以禼與沈該居相位,不厭天下望,上書言其專欲受命于金。禼見書大怒,以為金人未有釁,而浚所奏乃若禍在年歲間,浚坐竄謫。禼提舉刊修《貢舉敕令格式》五十卷、《看詳法意》四百八十七卷,書進,授金紫光祿大夫,致仕。卒,年七十五,諡「忠靖」。

禼始め檜に附き言官と為り、言う所多くは檜の意より出づ。政府に登りてより、鉗制を受くる能わず、遂に檜に忤いて去る。檜死し、帝親政し、将に檜の為す所を反せんとし、首に禼を召し還す。禼和を主として位を固め、檜に異なること無く、士論益々之を薄し。

原文禼始附檜為言官,所言多出檜意;及登政府,不能受鉗制,遂忤檜去。檜死,帝親政,將反檜所為,首召禼還。禼主和固位,無異於檜,士論益薄之。

韓侂胄

原文韓侂胄

韓侂胄、字は節夫、魏忠献王琦の曾孫なり。父誠、高宗憲聖慈烈皇后の女弟を娶り、宝寧軍承宣使に至る。侂胄父の任を以て官に入り、閤門祗候・宣賛舎人・帯御器械を歴任す。淳熙末、汝州防禦使を以て閤門事を知る。

原文韓侂胄,字節夫,魏忠獻王琦曾孫也。父誠,娶高宗憲聖慈烈皇后女弟,仕至寶寧軍承宣使。侂胄以父任入官,歷閤門祗候、宣贊舍人、帶御器械。淳熙末,以汝州防禦使知閤門事。

孝宗崩じ、光宗疾を以て喪を執る能わず、中外洶洶たり、趙汝愚策を定めて皇子嘉王を立てんと議す。時に憲聖太后慈福宮に居り、而して侂胄雅く慈福の内侍張宗尹に善し、汝愚乃ち侂胄をして宗尹に介せしめて其の議を以て密かに太后に啓せしむ。侂胄両たび宮門に至るも、命を得ず、彷徨として退かんと欲す、重華宮提挙関礼故を問うに遇い、入りて憲聖に白し、言甚だ懇切なり、憲聖其の議を可とす。礼以て侂胄に告ぐ、侂胄馳せて汝愚に白す。日已に夕に向かう、汝愚亟に殿帥郭杲に命じ、其の部する兵を以て夜分に南北内を衛せしむ。翌日、憲聖太后即ち喪次に垂簾し、宰臣旨を伝え、嘉王に命じて即皇帝位せしむ。

原文孝宗崩,光宗以疾不能執喪,中外洶洶,趙汝愚議定策立皇子嘉王。時憲聖太后居慈福宮,而侂胄雅善慈福內侍張宗尹,汝愚乃使侂胄介宗尹以其議密啟太后。侂胄兩至宮門,不獲命,彷徨欲退,遇重華宮提舉關禮問故,入白憲聖,言甚懇切,憲聖可其議。禮以告侂胄,侂胄馳白汝愚。日已向夕,汝愚亟命殿帥郭杲以所部兵夜分衛南北內。翌日,憲聖太后即喪次垂簾,宰臣傳旨,命嘉王即皇帝位。

寧宗既に立ち、侂胄定策の恩を推し定めんと欲す、汝愚曰く「吾は宗臣なり、汝は外戚なり、何を以て功を言うべけんや。惟だ爪牙の臣は、則ち賞を推すべし」と。乃ち郭杲に節鉞を加え、而して侂胄は但だ宜州観察使兼枢密都承旨に遷すのみ。侂胄始めて望みを觖き、然れども詔旨を伝導するを以て、浸く親幸を見、時時に乗間して威福を窃み弄ぶ。朱熹汝愚に白して厚賞を以て其の労に酬い而して之を疏遠すべしとすれども、汝愚意と為さず。右正言黄度侂胄を劾せんと欲すも、謀泄れ、斥け去らる。朱熹其の姦を奏す、侂胄怒り、優人をして峩冠闊袖大儒に象り、上前に戯れしめ、熹遂に去る。彭亀年熹を留め侂胄を逐わんことを請う。未だ幾ばくもあらず、亀年郡と為る。侂胄保寧軍承宣使に進み、佑神観を提挙す。ここより、侂胄益々事を用い、而して賞を抑えたる故を以て、汝愚を怨むこと日深し。

原文寧宗既立,侂胄欲推定策恩,汝愚曰:「吾宗臣也,汝外戚也,何可以言功?惟爪牙之臣,則當推賞。」乃加郭杲節鉞,而侂胄但遷宜州觀察使兼樞密都承旨。侂胄始觖望,然以傳導詔旨,浸見親幸,時時乘間竊弄威福。朱熹白汝愚當用厚賞酬其勞而疏遠之,汝愚不以為意。右正言黃度欲劾侂胄,謀泄,斥去。朱熹奏其姦,侂胄怒,使優人峩冠闊袖象大儒,戲于上前,熹遂去。彭龜年請留熹而逐侂胄。未幾,龜年與郡;侂胄進保寧軍承宣使,提舉佑神觀。自是,胄益用事,而以抑賞故,怨汝愚日深。

霅川の劉㢸なる者、曩に侂胄と同知閤門事たり、頗る書を知るを以て自ら負う。内禅を議する時方に、汝愚独り侂胄と計議し、㢸与聞するを得ず、内に不平を懐く、ここに至り、侂胄に謂いて曰く「趙相大功を専らにせんと欲す、君豈に惟だ節度を得ざるのみならんや、将に恐らくは嶺海の行を免れざらん」と。侂胄愕然たり、因りて計を問う、㢸曰く「惟だ台諫を用いるのみ」と。侂胄問う「如何にして可ならん」と、㢸曰く「御筆の批出する是れなり」と。侂胄悟り、即ち内批を以て知る所の劉徳秀を監察御史に除し、楊大法を殿中侍御史と為す。呉獵監察御史を罷め、而して劉三傑を以て之に代う。ここに於いて言路皆侂胄の党、汝愚の跡始めて危うし。

原文霅川劉㢸者,曩與侂胄同知閤門事,頗以知書自負。方議內禪時,汝愚獨與侂胄計議,㢸弗得與聞,內懷不平,至是,謂侂胄曰:「趙相欲專大功,君豈惟不得節度,將恐不免嶺海之行矣。」侂胄愕然,因問計,㢸曰:「惟有用臺諫爾。」侂胄問:「若何而可?」㢸曰:「御筆批出是也。」侂胄悟,即以內批除所知劉德秀為監察御史,楊大法為殿中侍御史;罷吳獵監察御史,而用劉三傑代之。於是言路皆侂胄之黨,汝愚之跡始危。

侂冑は汝愚を追放せんと欲したが、その名目に窮し、京鏜に謀る。鏜曰く、「彼は宗姓なり、社稷を謀りて危うくせんとすと誣うるも可なり」と。慶元元年、侂冑は李沐を引きいて右正言となす。沐は嘗て汝愚に求めしも得ざりしあり、即ち汝愚が同姓を以て相位に居り、将に社稷に利あらざらんとを奏す。汝愚罷相す。初め、侂冑の汝愚に見ゆるや、徐誼実にこれを薦む。汝愚既に斥けられ、遂に併せて誼を逐う。朱熹、彭亀年、黄度、李祥、楊簡、呂祖儉等、侂冑を攻めて罪を得、太学生楊宏中、張衟、徐範、蒋傅、林仲麟、周端朝等また上書して侂冑を論じ編置せられ、朝士に侂冑を言いて責め遭う者数十人。

原文侂胄欲逐汝愚而難其名,謀於京鏜,鏜曰:「彼宗姓,誣以謀危社稷可也。」慶元元年,侂胄引李沐為右正言。沐嘗有求於汝愚不獲,即奏汝愚以同姓居相位,將不利於社稷,汝愚罷相。始,侂胄之見汝愚,徐誼實薦之,汝愚既斥,遂併逐誼。朱熹、彭龜年、黃度、李祥、楊簡、呂祖儉等以攻侂胄得罪,太學生楊宏中、張衟、徐範、蔣傅、林仲麟、周端朝等又以上書論侂胄編置,朝士以言侂胄遭責者數十人。

既にして侂冑、保寧軍節度使・提挙佑神観を拝す。また偽学の目を設け、以て汝愚・朱熹門下の知名の士を網羅す。何澹・胡紘を用いて言官となす。澹、偽学は宜しく風厲を加うべしと言い、或いは汝愚を指して偽学の罪首と為す。紘、条奏して汝愚に十の不遜有りとし、且つ徐誼に及ぶ。汝愚は永州に謫せられ、誼は南安軍に謫せらる。他日汝愚の復用せられんことを慮り、密かに衡守銭鍪に諭してこれを図らしむ。汝愚衡に抵りて暴に薨ず。留正旧に都堂に在りて衆を以て侂冑を辱めしが、是に至り、劉徳秀、正が偽党を引用すと論ず。正坐して罷斥せらる。吏部尚書葉翥、侍郎倪思に要して疏を列ね偽学を論ぜしむ。思従わず。侂冑乃ち翥を擢て執政とし、思の官を免ず。侂冑、開府儀同三司を加う。時に台諫、侂冑の意に迎合し、偽学を攻むるを以て言と為す。然れども清議を憚り、顕に熹を斥けんと欲せず。侂冑意快からず。陳賈嘗て熹を攻めしを以て、賈を召して兵部侍郎を除す。未だ至らざるに、亟に沈継祖を台察に除す。継祖、熹に十罪有りと誣う。落職罷祠す。三年、劉三傑入対し、前日の偽党、今変じて逆党と為ると言う。侂冑大いに喜び、即日三傑を右正言に除し、偽学逆党を坐して罪を得る者五十有九人。王沇言を献じて省部に偽学の姓名を籍記せしむ。姚愈詔を降して偽学の禁を厳にせんことを請う。二人皆官を遷すを得。施康年、陳讜、鄧友龍、林采皆偽学を攻めて久しく言路に居り、張釜、張巌、程松率いこれに由りて政を秉る。

原文已而侂胄拜保寧軍節度使、提舉佑神觀。又設偽學之目,以網括汝愚、朱熹門下知名之士。用何澹、胡紘為言官。澹言偽學宜加風厲,或指汝愚為偽學罪首。紘條奏汝愚有十不遜,且及徐誼。汝愚謫永州,誼謫南安軍。慮他日汝愚復用,密諭衡守錢鍪圖之,汝愚抵衡暴薨。留正舊在都堂眾辱侂胄,至是,劉德秀論正引用偽黨,正坐罷斥。吏部尚書葉翥要侍郎倪思列疏論偽學,思不從,侂胄乃擢翥執政而免思官。侂胄加開府儀同三司。時臺諫迎合侂胄意,以攻偽學為言,然憚清議,不欲顯斥熹。侂胄意未快,以陳賈嘗攻熹,召除賈兵部侍郎。未至,亟除沈繼祖臺察。繼祖誣熹十罪,落職罷祠。三年,劉三傑入對,言前日偽黨,今變而為逆黨。侂胄大喜,即日除三傑為右正言,而坐偽學逆黨得罪者五十有九人。王沇獻言令省部籍記偽學姓名,姚愈請降詔嚴偽學之禁,二人皆得遷官。施康年、陳讜、鄧友龍、林采皆以攻偽學久居言路,而張釜、張巖、程松率由此秉政。

四年、侂冑少傅を拝し、豫よ国公に封ぜらる。蔡璉と云う者嘗て罪を得、汝愚これを執して黥げいす。五年、侂冑璉を使わしめて告げしむ、汝愚定策の時に異謀有りと。その賓客の言う所七十紙を具す。侂冑彭亀年、曾三聘、徐誼、沈有開を逮えて大理に下し鞫わんと欲す。張仲芸力争して乃ち止む。其の年少師に遷り、平原郡王に封ぜらる。六年、太傅に進む。婺州の布衣呂祖泰上書して道学禁ずべからずと言い、侂冑を誅し、周必大を以て相と為さんことを請う。侂冑大いに怒り、杖を決して欽州に流す。言者侂冑の意を希い、必大を劾して首めて偽党を植うとす。少保に降す。一時の善類悉く党禍に罹る。本と侂冑の意と雖も、謀は実に京鏜に始まる。鏜の死に逮び、侂冑亦稍々前事に厭い、張孝伯以爲う、党禁を弛めざれば、後恐らく報復の禍を免れざらんと。侂冑然りと以為い、汝愚・朱熹の職名を追復し、留正・周必大亦復秩して政に還り、徐誼等皆先後に復官す。偽党の禁浸く解く。

原文四年,侂胄拜少傅,封豫國公。有蔡璉者嘗得罪,汝愚執而黥之。五年,侂胄使璉告汝愚定策時有異謀,具其賓客所言七十紙。侂胄欲逮彭龜年、曾三聘、徐誼、沈有開下大理鞫之,張仲藝力爭乃止。其年遷少師,封平原郡王。六年,進太傅。婺州布衣呂祖泰上書言道學不可禁,請誅侂胄,以周必大為相。侂胄大怒,決杖流欽州。言者希侂胄意,劾必大首植偽黨。降為少保。一時善類悉罹黨禍,雖本侂胄意,而謀實始京鏜。逮鏜死,侂胄亦稍厭前事,張孝伯以為不弛黨禁,後恐不免報復之禍。侂胄以為然,追復汝愚、朱熹職名,留正、周必大亦復秩還政,徐誼等皆先後復官。偽黨之禁寖解。

三年、太師を拝す。監惠民局夏允中上書し、侂冑に国政を平章せんことを請う。侂冑繆りに辞謝を為し、其の仕を致さんことを乞う。詔して許さず。允中放罷せらる。時に侂冑、勢利を以て士大夫の心を蠱す。薛叔似、辛棄疾、陳謙皆廃より起ち顕用せられ、当時に固より久斥に困しみ、晚節を損じて以て栄進を規る者有り。若し陳自強は則ち侂冑の童子の師を以て、選人より数年ならずして位を宰相に致し、蘇師旦・周筠は又侂冑の廝役なり。亦皆国政に預聞し、顕仕を超取す。群小阿附し、勢焰熏灼す。侂冑凡そ為さんと欲する所、宰執惕息して敢えて異を為さず。自強に至りては空名の敕劄を印しこれを授け、惟だ用いんと欲する所に任す。三省預て知らず。言路厄塞し、每月二三の常事を挙論するのみ。これを月課と謂う。

原文三年,拜太師。監惠民局夏允中上書,請侂胄平章國政,侂胄繆為辭謝,乞致其仕,詔不許,允中放罷。時侂胄以勢利蠱士大夫之心,薛叔似、辛棄疾、陳謙皆起廢顯用,當時固有困於久斥,損晚節以規榮進者矣。若陳自強則以侂胄童子師,自選人不數年致位宰相,而蘇師旦、周筠又侂胄廝役也,亦皆預聞國政,超取顯仕。群小阿附,勢焰熏灼。侂胄凡所欲為,宰執惕息不敢為異,自強至印空名敕劄授之,惟所欲用,三省不預知也。言路厄塞,每月舉論二三常事而已,謂之月課。

或る者侂冑に勧めて蓋世の功名を立て以て自ら固くせんとす。ここに於いて恢復の議興る。殿前都指揮使呉曦を以て興州都統と為す。識者多く曦は不可なりと言い、西師を主れば必ず叛かんと。侂冑省みず。安豊守厲仲方、淮北の流民帰附を願うと言う。会す辛棄疾入見し、敵国必ず乱れ必ず亡ぶと言い、願わくは元老大臣に属して預め応変の計を為さしめんと。鄭挺・鄧友龍等又其の言に附和す。開禧と改元し、進士毛自知廷対し、機に乗じて以て中原を定むべしと言う。侂冑大いに悦ぶ。詔して中外の諸将に密かに行軍の計を為さしむ。先ず、楊輔・傅伯成兵動かすべからずと言い、罪に抵る。是に至り、武学生華岳閽を叩きて侂冑・蘇師旦・周筠を斬り以て天下に謝せんことを乞う。諫議大夫李大異亦開辺を止むるを論ず。岳は大理に下し罪を劾して編置せられ、大異は斥去せらる。

原文或勸侂胄立蓋世功名以自固者,於是恢復之議興。以殿前都指揮使吳曦為興州都統,識者多言曦不可,主西師必叛,侂胄不省。安豐守厲仲方言淮北流民願歸附,會辛棄疾入見,言敵國必亂必亡,願屬元老大臣預為應變計,鄭挺、鄧友龍等又附和其言。開禧改元,進士毛自知廷對,言當乘機以定中原,侂胄大悅。詔中外諸將密為行軍之計。先是,楊輔、傅伯成言兵不可動,抵罪。至是,武學生華岳叩閽乞斬侂胄、蘇師旦、周筠以謝天下,諫議大夫李大異亦論止開邊。岳下大理劾罪編置,大異斥去。

陳自強故事に援いて侂冑に兼ねて平章を領せしむるを命ぜんことを乞う。台諫鄧友龍等継いて以て請う。侂冑平章軍国事を除す。蕭逵・李壁時に太常に在り、典礼を論定す。三日に一朝し、因りて都堂に至り、班を丞相の上に序す。三省の印並びに其の第に納む。侂冑蘇師旦を昵して腹心と為し、師旦を安遠軍節度使に除す。自ら機速房を私第に置く。甚だしきは御筆を仮作し、将帥を陞黜す。事機要に関すれば、未だ嘗て奏稟せず。人敢えて言う者無し。

原文陳自強援故事乞命侂胄兼領平章,臺諫鄧友龍等繼以為請,侂胄除平章軍國事。蕭逵、李壁時在太常,論定典禮,三日一朝,因至都堂,序班丞相之上,三省印並納其第。侂胄昵蘇師旦為腹心,除師旦安遠軍節度使。自置機速房於私第,甚者假作御筆,陞黜將帥,事關機要,未嘗奏稟,人莫敢言。

二年、薛叔似を以て京湖宣諭使と為し、鄧友龍を以て両淮宣諭使と為し、程松を以て四川宣撫使と為し、呉曦之に副わす。徐邦憲処州より召見せられ、兵を弭むるを以て言と為し、侂冑の意に忤い、二秩を削る。ここに於いて左司諫易袚・大理少卿陳景俊・太学博士銭廷玉皆起ちて恢復の計を言う。詔して侂冑に一日一朝せしむ。友龍・叔似並びに宣撫使に升る。呉曦陝西・河東招撫使を兼ね、皇甫斌之に副わす。時に鎮江武鋒軍統制陳孝広泗州及び虹県を復し、江州統制許進新息県を復し、光州孫成褒信県を復す。捷書聞こゆ。侂冑乃ち詔を降して諸将に進兵を趣すを議す。

原文二年,以薛叔似為京湖宣諭使;鄧友龍為兩淮宣諭使;程松為四川宣撫使,吳曦副之。徐邦憲自處州召見,以弭兵為言,忤侂胄意,削二秩。於是左司諫易袚、大理少卿陳景俊、太學博士錢廷玉皆起而言恢復之計矣。詔侂胄日一朝。友龍、叔似並升宣撫使。吳曦兼陝西、河東招撫使,皇甫斌副之。時鎮江武鋒軍統制陳孝廣復泗州及虹縣,江州統制許進復新息縣,光州孫成復褒信縣。捷書聞,侂胄乃議降詔趣諸將進兵。

未だ幾ばくもあらざるに、皇甫斌兵唐州に敗れ、秦世輔城固に至りて軍潰え、郭倬・李汝翼宿州に敗る。敵追い囲み倬をす。倬統制田俊邁を執り以て敵に遺わす。乃ち免るるを得。事聞こゆ。鄧友龍罷めらる。丘崈を以て代わり宣撫使と為す。侂冑既に師を喪い、始めて師旦に誤らるるを覚ゆ。侂冑李壁を招きて酒を飲ます。酒酣に及び、師旦に語及びす。壁微かに其の過を摘まむ。侂冑然りと以為う。壁乃ち悉く其の罪を数え、侂冑を賛めて之を斥去せしむ。翌日、師旦韶州に謫せられ、郭倬を京口に斬り、李汝翼・王大節・李爽を嶺南に流す。

原文未幾,皇甫斌兵敗于唐州;秦世輔至城固軍潰;郭倬、李汝翼敗於宿州,敵追圍倬,倬執統制田俊邁以遺敵,乃獲免。事聞,鄧友龍罷,以丘崈代為宣撫使。侂胄既喪師,始覺為師旦所誤。侂胄招李壁飲酒,酒酣,語及師旦,壁微摘其過,侂胄以為然。壁乃悉數其罪,贊侂胄斥去之。翌日,師旦謫韶州,斬郭倬於京口,流李汝翼、王大節、李爽於嶺南。

既にして金人淮を渡り、廬・和・真・揚を攻め、安豊・濠を取り、又襄陽を攻め、棗陽に至る。乃ち丘崈を以て僉書枢密院事と為し、江・淮の軍馬を督視せしむ。侂冑家財二十万を輸して以て軍を助け、丘崈に諭して人を募り書幣を敵営に持赴かしむ。用兵は乃ち蘇師旦・鄧友龍・皇甫斌の為す所にして、朝廷の意に非ずと謂う。金人答書の辞甚だ倨り、且つ多く所要索す。「侂冑用兵の意無くんば、師旦等安んぞ専に得んや」と謂う。崈又書を遣わして淮北の流民及び今年の歳幣を還すを許す。金人乃ち許すの意有り。

原文已而金人渡淮,攻廬、和、真、揚,取安豐、濠,又攻襄陽,至棗陽,乃以丘崈僉書樞密院事,督視江、淮軍馬。侂胄輸家財二十萬以助軍,而諭丘崈募人持書幣赴敵營,謂用兵乃蘇師旦、鄧友龍、皇甫斌所為,非朝廷意。金人答書辭甚倨,且多所要索,謂「侂胄無意用兵,師旦等安得專?」崈又遣書許還淮北流民及今年歲幣,金人乃有許意。

時に招撫使郭倪が金人と戦い、六合にて敗れる。金人が蜀しょくを攻め、呉曦が叛き、金の命を受けて蜀王と称す。崈は敵営に書を移して前議を伸べることを請い、かつ金人は太師平章を首謀と指すゆえ、繫銜を免ずべきと謂う。侂冑忿り、崈は坐して罷免さる。曦の反状聞こえ、挙朝震駭す。侂冑急ぎ曦に書を遺し、茅土の封を許す。書未だ達せずして安丙・楊巨源已に義士を率いて曦を誅す。侂冑連ねて方信孺を遣わし北に使わして和を請わしめ、林拱辰を通謝使とす。金人は正隆以前の礼賂を責め、侵疆を以て界とし、かつ犒軍銀数千万を索め、首議用兵の臣を縛送せんとす。信孺帰り、事を朝堂に白すも、敢えて斥言せず。侂冑其の説を窮めしむるに、乃ち微かに之に及ぶ。侂冑大いに怒り、和議遂に輟む。辛棄疾を起用して枢密都承旨とす。時に棄疾死す。乃ち殿前副都指揮使趙淳を以て江淮制置使とし、復た鋭意兵を用いんとす。

原文會招撫使郭倪與金人戰,敗於六合;金人攻蜀,吳曦叛,受金命稱蜀王。崈乞移書敵營伸前議,且謂金人指太師平章為首謀,宜免繫銜。侂胄忿,崈坐罷。曦反狀聞,舉朝震駭。侂胄亟遺曦書,許以茅土之封,書未達而安丙、楊巨源已率義士誅曦矣。侂胄連遣方信孺使北請和,以林拱辰為通謝使。金人欲責正隆以前禮賂,以侵疆為界,且索犒軍銀凡數千萬,而縛送首議用兵之臣。信孺歸,白事朝堂,不敢斥言,侂胄窮其說,乃微及之。侂胄大怒,和議遂輟。起辛棄疾為樞密都承旨。會棄疾死,乃以殿前副都指揮使趙淳為江淮制置使,復銳意用兵。

兵興以来、蜀口・漢・淮の民兵戈に死する者勝計すべからず、公私の力大いに屈し、侂冑の意未だ已まず、中外憂懼す。礼部侍郎史弥遠、時に資善堂翊善を兼ね、侂冑を誅せんと謀り、議甚だ秘なり。皇子栄王入奏し、楊皇后も亦中より力請す。乃ち密旨を得る。弥遠以て参知政事銭象祖・李壁に告ぐ。御筆に云く、「韓侂冑久しく国柄を任じ、軽く兵端を啓き、南北の生霊をして枉しく凶害に罹らしむ。平章軍国事を罷め、在外宮観に与うべし。陳自強阿附して位を充し、国事を恤みず。右丞相を罷め、日下国門を出づべし。」仍って権主管殿前司公事夏震に兵三百を以て防護せしむ。象祖奏審せんと欲す。壁謂う、事留まらば泄るるを恐る、不可なりと。翌日、侂冑朝に入る。震途に於て呵止し、玉津園の側に擁して至り殛殺す。

原文自兵興以來,蜀口、漢、淮之民死於兵戈者,不可勝計,公私之力大屈,而侂胄意猶未已,中外憂懼。禮部侍郎史彌遠,時兼資善堂翊善,謀誅侂胄,議甚秘,皇子榮王入奏,楊皇后亦從中力請,乃得密旨。彌遠以告參知政事錢象祖、李壁。御筆云:「韓侂胄久任國柄,輕啟兵端,使南北生靈枉罹凶害,可罷平章軍國事,與在外宮觀。陳自強阿附充位,不恤國事,可罷右丞相。日下出國門。」仍令權主管殿前司公事夏震以兵三百防護。象祖欲奏審,壁謂事留恐泄,不可。翌日,侂胄入朝,震呵止於途,擁至玉津園側殛殺之。

先一日、周筠侂冑に謂う、事将に善からざらんと。侂冑自強と謀り林行可を用いて諫議大夫とし、謀りて侂冑を撃つ者を尽くさんとす。是の日、行可方に対を請う。自強待漏院に坐し、同列に語りて曰く、「今日大成上殿す」と。俄かに侂冑先駆至る。象祖色変ず。尋いで侂冑已に押し出されたると報ず。象祖乃ち入奏す。詔有りて蘇師旦を広東に於て斬る。嘉定元年、金人侂冑の首を函めんことを求む。乃ち臨安府に命じて侂冑の棺を斵ち、其の首を取って之に遺す。

原文先一日,周筠謂侂胄,事將不善,侂胄與自強謀用林行可為諫議大夫,盡擊謀侂胄者。是日,行可方請對,自強坐待漏院,語同列曰:「今日大成上殿。」俄侂胄先驅至,象祖色變。尋報侂胄已押出,象祖乃入奏。有詔斬蘇師旦於廣東。嘉定元年,金人求函侂胄首,乃命臨安府斵侂胄棺,取其首遺之。

侂冑事を用うること十四年、威は宮省に行わり、権は寓内を震わす。嘗て山を鑿ちて園と為し、下より宗廟を瞰る。宮闈に出入りして度無し。孝宗曩昔政を思うの所、偃然として之に居る。老宮人の之を見る者往々垂涕す。顔棫制を草し、其の聖の清を得たりと言う。易袚答詔を撰し、元聖を以て之を褒む。四方より書を投じ頌を献ずる者、伊・霍・旦・奭も以て其の勲に似るに足らずと謂い、「我が王」と称する者有り。余𡕇九錫を加えんことを請い、趙師𢍰平原郡王府官属を置かんことを乞う。侂冑皆之に当たりて辞せず。嬖愛する妾張・譚・王・陳皆郡国夫人に封ぜられ、「四夫人」と号す。内宴毎に、妃嬪と雑坐し、勢に恃み驕倨す。掖庭皆之を悪む。其の下封を受くる者尤も衆し。是に至り、四夫人の罪を論じ、或いは杖し或いは徒し、余数十人を縦遣す。有司其の家を籍す。乗輿服御の飾多く、其の僭紊極まれり。

原文侂胄用事十四年,威行宮省,權震寓內。嘗鑿山為園,下瞰宗廟。出入宮闈無度。孝宗疇昔思政之所,偃然居之,老宮人見之往往垂涕。顏棫草制,言其得聖之清。易袚撰答詔,以元聖褒之。四方投書獻頌者,謂伊、霍、旦、奭不足以似其勳,有稱為「我王」者。余𡕇請加九錫,趙師𢍰乞置平原郡王府官屬。侂胄皆當之不辭。所嬖妾張、譚、王、陳皆封郡國夫人,號「四夫人」,每內宴,與妃嬪雜坐,恃勢驕倨,掖庭皆惡之;其下受封者尤眾。至是,論四夫人罪,或杖或徒,餘數十人縱遣之。有司籍其家,多乘輿服御之飾,其僭紊極矣。

初め、侂冑中外の言を導達するを以て、遂に見寵任さる。朱熹・彭亀年既に侂冑を論じて去る。貴戚呉琚人に語りて曰く、「帝初め固より侂冑を留めんとする意無し。一人をして継ぎて之を言わしめば、之を去るは易きのみ。而るに一時の台諫及び執政大臣多く其の党与なり。故に其の悪を稔らして以て大僇に底る」と。開禧兵を用うるに、帝の意善しとせず。侂冑死し、寧宗大臣に諭して曰く、「恢復豈に美事に非ずや、但だ力を量らざるのみ」と。

原文始,侂胄以導達中外之言,遂見寵任。朱熹、彭龜年既以論侂胄去,貴戚吳琚語人曰:「帝初無固留侂胄意,使有一人繼言之,去之易爾。而一時臺諫及執政大臣多其黨與,故稔其惡以底大僇。」開禧用兵,帝意弗善也。侂胄死,寧宗諭大臣曰:「恢復豈非美事,但不量力爾。」

侂冑憲聖呉皇后の姪女を娶る。子無し。魯𡬐の子を取って後と為し、名を㣉とす。侂冑を誅するに及び、籍を削ぎ沙門島に流すと云う。

原文侂胄娶憲聖吳皇后姪女,無子,取魯𡬐子為後,名㣉,既誅侂胄,削籍流沙門島云。

丁大全

原文丁大全

丁大全、字は子万、鎮江の人。面は藍色。嘉熙二年進士に挙げられ、蕭山尉に調ず。帥閫に謁し上る。安撫使史巖之衆賓の退くを俟ち、独り大全を留め、款曲甚だ至り、他日必ず大用せらるるを期す。大全は戚里の婢婿たり。寅縁して以て寵位を取る。内侍盧允昇・董宋臣に事う。累官して大理司直・添差通判饒州と為る。入りて太府寺簿と為り、尚書茶塩所検閲江州分司に調じ、復た枢密院編修官を兼ぬ。右正言兼侍講に拝し、辞す。右司諫に改め、殿中侍御史に拝す。

原文丁大全,字子萬,鎮江人。面藍色。嘉熙二年舉進士,調蕭山尉。上謁帥閫,安撫使史巖之俟眾賓退,獨留大全,款曲甚至,期以他日必大用。大全為戚里婢婿,寅緣以取寵位。事內侍盧允昇、董宋臣。累官為大理司直、添差通判饒州。入為太府寺簿,調尚書茶鹽所檢閱江州分司,復兼樞密院編修官。拜右正言兼侍講,辭。改右司諫,拜殿中侍御史。

侍御史兼侍読に昇る。丞相董槐を劾奏す。章未だ下らず、大全夜半隅兵百余を調え、露刃して槐の第を囲み、台牒を以て之を駆迫して出だし、輿を令して槐を大理寺に至らしめ、以て此れを以て之を恐れんとす。須臾にして北関を出で、槐を棄て、嘂呼して散ず。槐徐歩して接待寺に入る。罷相の命下る。是より志気驕傲、道路目を以てす。

原文升侍御史兼侍讀。劾奏丞相董槐,章未下,大全夜半調隅兵百餘人,露刃圍槐第,以臺牒驅迫之出,紿令輿槐至大理寺,欲以此恐之。須臾,出北關,棄槐,嘂呼而散。槐徐步入接待寺,罷相之命下矣。自是志氣驕傲,道路以目。

尋いで右諫議大夫と為り、端明殿学士・僉書枢密院事に進み、丹陽郡侯に封ぜられ、同知枢密院事兼権参知政事に進む。宝祐六年、参知政事に拝す。四月、右丞相兼枢密使に拝し、公に進封さる。初め、大全袁玠を以て九江制置副使と為す。玠貪にして且つ刻なり。漁湖の土豪を逮繫し、輸銭を督促して甚だ急なり。土豪怒り、尽く漁舟を以て北来の兵を済す。太学生陳宗・劉黼・黄鏞・曾唯・陳宜中・林則祖等六人、闕に伏して上書し大全を訟う。台臣翁応弼・呉衍は大全の鷹犬と為り、学校を鈐制し、宗等を貶逐す。

原文尋為右諫議大夫,進端明殿學士、僉書樞密院事,封丹陽郡侯,進同知樞密院事兼權參知政事。寶祐六年,拜參知政事。四月,拜右丞相兼樞密使,進封公。初,大全以袁玠為九江制置副使,玠貪且刻,逮繫漁湖土豪,督促輸錢甚急。土豪怒,盡以漁舟濟北來之兵。太學生陳宗、劉黼、黃鏞、曾唯、陳宜中、林則祖等六人,伏闕上書訟大全。臺臣翁應弼、吳衍為大全鷹犬,鈐制學校,貶逐宗等。

開慶元年九月、相を罷め、観文殿大学士を以て鎮江府を判ず。中書舎人洪芹繳言す、「大全は鬼蜮の資、穿窬の行、兇悪を引用し、忠良を陷害し、言路を遏塞し、朝綱を濁乱す。官を追い遠竄せんことを乞い、以て国法を伸べ、天下に謝す」と。侍御史沈炎・右正言曹永年相継いで論じて罷む。監察御史朱貔孫復た論ず、「大全は姦回険狡、狠毒貪残、陛下の刑威を仮りて以て天下の口を箝し、陛下の爵禄を挟みて以て天下の財を籠む」と。監察御史饒虎臣又た大全の四罪を論ず:言路を絶ち、人才を壊し、民力を竭し、辺防を誤る。再び其の官を削ぐ。景定元年、詔して中奉大夫を守りて致仕せしむ。臣僚言う「遠竄して刑を失わざらしめんことを乞う」。詔して南康軍に送り居住せしむ。台臣復た以て言と為す。三官を追削し、南安軍に移送して居住せしむ。

原文開慶元年九月,罷相,以觀文殿大學士判鎮江府。中書舍人洪芹繳言:「大全鬼蜮之資,穿窬之行,引用兇惡,陷害忠良,遏塞言路,濁亂朝綱。乞追官遠竄,以伸國法,以謝天下。」侍御史沈炎、右正言曹永年相繼論罷。監察御史朱貔孫復論:「大全姦回險狡,狠毒貪殘,假陛下之刑威以箝天下之口,挾陛下之爵祿以籠天下之財。」監察御史饒虎臣又論大全四罪:絕言路,壞人才,竭民力,誤邊防。再削其官。景定元年,詔守中奉大夫致仕。臣僚言「乞遠竄使不失刑」,詔送南康軍居住。臺臣復以為言,追三官,移送南安軍居住。

明年、監察御史劉応龍加えて竄せんことを請う。両官を追削し、貴州団練使に移竄す。州守游翁明と失色杯酒の間、翁明大全の陰に弓矢を造り、将に蛮を通じて不軌を為さんとすと訴う。朱禩孫以て朝に聞こゆ。又た明年、新州に移置す。太常少卿兼権直舎人院劉震孫繳奏し、海島に移徙せんことを乞う。四年正月、将官畢遷護送す。舟藤州を過ぐるに、之を水に擠して死せしむ。

原文明年,監察御史劉應龍請加竄,追削兩官,移竄貴州團練使。與州守游翁明失色杯酒間,翁明訴大全陰造弓矢,將通蠻為不軌。朱禩孫以聞于朝。又明年,移置新州。太常少卿兼權直舍人院劉震孫繳奏,乞移徙海島。四年正月,將官畢遷護送,舟過藤州,擠之于水而死。

大全淮西を知る。総領鄭羽は富みて呉門に甲たり。始め婣を結ばんと欲すも、羽従わず。遂に台臣卓夢卿を令して之を弾せしめ、其の家を籍す。子寿翁の為に婦を聘す。其の艶なるを見て、自ら取る。世の醜と為す所と為る。

原文大全知淮西,總領鄭羽富甲吳門,始欲結婣,羽不從。遂令臺臣卓夢卿彈之,籍其家。為子壽翁聘婦,見其豔,自取,為世所醜。

賈似道

原文賈似道

賈似道、字は師憲、台州の人、制置使賈涉の子なり。若き時は落魄し、遊博を事とし、操行を修めず。父の蔭により嘉興司倉に補せらる。時に其の姉宮中に入り、理宗に寵愛せられ、貴妃と為り、遂に詔して廷対に赴かしむ。妃は内中にて湯薬を奉り以て之を給す。太常丞・軍器監に擢でらる。益々寵を恃みて不檢に、日ごと諸妓の家に遊び、夜に至れば即ち湖上に燕遊して反らず。理宗嘗て夜高きに憑り、西湖中の燈火が常の時に異なるを見て、左右に語りて曰く、「此れ必ず似道なり」と。明日之を詢ねれば果たして然り、京尹史巖之をして之を戒めしむ。巖之曰く、「似道は少年の気習有りと雖も、然れども其の材は大用に堪えん」と。尋いで出でて澧州を知る。

原文賈似道,字師憲,台州人,制置使涉之子也。少落魄,為遊博,不事操行。以父蔭補嘉興司倉。會其姊入宮,有寵于理宗,為貴妃,遂詔赴廷對,妃於內中奉湯藥以給之。擢太常丞、軍器監。益恃寵不檢,日縱游諸妓家,至夜即燕遊湖上不反。理宗嘗夜憑高,望西湖中燈火異常時,語左右曰:「此必似道也。」明日詢之果然,使京尹史巖之戒敕之。巖之曰:「似道雖有少年氣習,然其材可大用也。」尋出知澧州。

淳祐元年、湖広総領に改む。三年、戸部侍郎を加う。五年、宝章閣直学士を以て沿江制置副使・江州知事兼江西路安撫使と為る。一年の中に、再び京湖制置使兼江陵府知事に遷り、調度賞罰、便宜施行を得たり。九年、宝文閣学士・京湖安撫制置大使を加う。十年、端明殿学士を以て両淮に移鎮す。年始めて三十余なり。宝祐二年、同知枢密院事・臨海郡開国公を加う。威権日々に盛ん。台諫嘗て其の二部将を論ずれば、即ち毅然として去らんことを求む。孫子秀新たに淮東総領を除せらる。外人忽ち似道已に密奏して不可なりと伝ふ。丞相董槐懼れ、留身して之を請ふ。帝以て無しと為すも、槐終に敢へて子秀を遣わず、似道の善くする所の陸壑を以て之に代ふ。其の憚らるる已に此の如し。四年、参知政事を加う。五年、知枢密院事を加う。六年、両淮宣撫大使に改む。

原文淳祐元年,改湖廣總領。三年,加戶部侍郎。五年,以寶章閣直學士為沿江制置副使、知江州兼江西路安撫使。一歲中,再遷京湖制置使兼知江陵府,調度賞罰,得以便宜施行。九年,加寶文閣學士、京湖安撫制置大使。十年,以端明殿學士移鎮兩淮,年始三十餘。寶祐二年,加同知樞密院事、臨海郡開國公,威權日盛。臺諫嘗論其二部將,即毅然求去。孫子秀新除淮東總領,外人忽傳似道已密奏不可矣,丞相董槐懼,留身請之,帝以為無有,槐終不敢遣子秀,以似道所善陸壑代之,其見憚已如此。四年,加參知政事。五年,加知樞密院事。六年,改兩淮宣撫大使。

端平の初めより、孟珙師を帥いて大元兵と会し共に金を滅ぼし、陳・蔡を以て界と為すを約す。師未だ還らずして趙范の謀を用い、兵を発して殽・函を据へ、河津を絶ち、中原地を取らんとす。大元兵之を撃ち破り、范僅かに数千人を以て遁れ帰る。追兵至りて問ひて曰く、「何を為して盟を敗るや」と。遂に攻撃を放ちて淮・漢に及び、是より兵端大いに啓く。

原文自端平初,孟珙帥師會大元兵共滅金,約以陳、蔡為界。師未還而用趙范謀,發兵據殽、函,絕河津,取中原地,大元兵擊敗之,范僅以數千人遁歸。追兵至,問曰:「何為而敗盟也?」遂縱攻淮、漢,自是兵端大啟。

開慶初め、憲宗皇帝自ら将として蜀を征し、世祖皇帝時に皇弟として鄂州を攻め、元帥兀良哈台雲南より入り交阯を経て、邕州より広西を蹂躙し、湖南を破り、檄を伝えて宋の背盟の罪を数ふ。理宗大いに懼れ、乃ち趙葵をして信州に軍し広兵を禦がしめ、似道をして漢陽に軍し鄂を援げしむ。即ち軍中にて右丞相を拝す。十月、鄂の東南隅破れ、宋人再び築き、再び之を破る。高達諸将を率いて力戦するに頼る。似道時に漢陽より入り師を督す。十一月、城を攻むること急なり。城中の死傷者一万三千人に至る。似道乃ち密かに宋京を遣わし軍中に詣りて称臣し、歳幣を輸すことを請はしむ。従はず。時に憲宗皇帝釣魚山に晏駕す。合州守王堅阮思聰をして急流を踔て走りて鄂に報ぜしむ。似道再び京を遣わし歳幣を議せしむ。遂に之を許す。大元兵砦を抜きて北し、張傑・閻旺を留めて偏師を以て湖南兵を候はしむ。明年正月、兵至る。傑浮梁を新生磯に作り、師を済して北帰す。似道劉整の計を用い、浮梁を攻め断ち、殿兵百七十を殺し、遂に表を上りて以て肅清せりと聞こゆ。帝其の再造の功有りと以て、少傅・右丞相を以て朝に召し入る。百官郊労すること文彦博の故事の如し。

原文開慶初,憲宗皇帝自將征蜀,世祖皇帝時以皇弟攻鄂州,元帥兀良哈台由雲南入交阯,自邕州蹂廣西,破湖南,傳檄數宋背盟之罪。理宗大懼,乃以趙葵軍信州,禦廣兵;以似道軍漢陽,援鄂,即軍中拜右丞相。十月,鄂東南陬破,宋人再築,再破之,賴高達率諸將力戰。似道時自漢陽入督師。十一月,攻城急,城中死傷者至萬三千人。似道乃密遣宋京詣軍中請稱臣,輸歲幣,不從。會憲宗皇帝晏駕于釣魚山,合州守王堅使阮思聰踔急流走報鄂,似道再遣京議歲幣,遂許之。大元兵拔砦而北,留張傑、閻旺以偏師候湖南兵。明年正月,兵至,傑作浮梁新生磯,濟師北歸。似道用劉整計,攻斷浮梁,殺殿兵百七十,遂上表以肅清聞。帝以其有再造功,以少傅、右丞相召入朝,百官郊勞如文彥博故事。

初め、似道漢陽に在りし時、丞相呉潜監察御史饒応子の言を用い、之を黄州に移し、曹世雄等の兵を分かちて以て江閫に属せしむ。黄は下流と雖も、実に兵衝なり。似道潜の己を殺さんと欲すと以為ひ、之を銜む。且つ潜事急なる時、毎事先づ発して後に奏すと聞く。帝栄王子孟啓を立てて太子と為さんと欲す。潜又た不可とす。帝已に潜に積怒す。似道遂に建儲の策を陳べ、沈炎をして潜の措置方無きを劾せしめ、全・衡・永・桂皆破るるを致すとせしむ。大いに旨に称す。乃ち孟啓を立てんことを議し、潜を循州に貶し、其の党人を尽く逐ふ。高達囲中に在り、其の武勇を恃み、殊に似道を易くし、毎に其の督戦するを見れば、即ち之を戯れて曰く、「巍巾者何を為すこと能はんや」と。毎戦、必ず労を須ひて始めて出で、然らずんば即ち兵士をして其の門に嘩かしむ。呂文徳似道に諂ひ、即ち人をして呵して曰はしむ、「宣撫在り、何ぞ爾るを敢へんや」と。曹世雄・向士璧軍中に在り、事皆似道に関白せず。故に似道皆之を恨む。諸兵費を覈するを以て、世雄・士璧皆坐して官銭を侵盗し遠州に貶せらる。毎に帝に言ひて達を誅せんと欲す。帝其の功有るを知り、従はず。尋いで功を論じ、文徳を以て第一と為し、而して達其の次に居る。

原文初,似道在漢陽,時丞相吳潛用監察御史饒應子言,移之黃州,而分曹世雄等兵以屬江閫。黃雖下流,實兵衝。似道以為潛欲殺己,銜之。且聞潛事急時,每事先發後奏;帝欲立榮王子孟啟為太子,潛又不可。帝已積怒潛,似道遂陳建儲之策,令沈炎劾潛措置無方,致全、衡、永、桂皆破,大稱旨。乃議立孟啟,貶潛循州,盡逐其黨人。高達在圍中,恃其武勇,殊易似道,每見其督戰,即戲之曰:「巍巾者何能為哉!」每戰,必須勞始出,否即使兵士嘩于其門。呂文德諂似道,即使人呵曰:「宣撫在,何敢爾邪!」曹世雄、向士璧在軍中,事皆不關白似道,故似道皆恨之。以覈諸兵費,世雄、士璧皆坐侵盜官錢貶遠州。每言于帝欲誅達,帝知其有功,不從。尋論功,以文德為第一,而達居其次。

明年、大元世祖皇帝位に登り、翰林侍読学士・国信使郝経等を遣わし書を持して好を申し兵を息め、且つ歳幣を徴す。似道方に廖瑩中等をして『福華編』を撰ばしめ鄂の功を称頌せしむ。国を挙げて皆和議の所謂を知らず。似道乃ち密かに淮東制置司に令し経等を真州忠勇軍営に拘す。

原文明年,大元世祖皇帝登極,遣翰林侍讀學士、國信使郝經等持書申好息兵,且徵歲幣。似道方使廖瑩中輩撰《福華編》稱頌鄂功,通國皆不知所謂和也。似道乃密令淮東制置司拘經等於真州忠勇軍營。

時に理宗位に在ること久しく、内侍董宋臣・盧允昇之が為に聚斂して以て之に媚び、奔競の士を引薦し、賄賂に交通し、諸を通顕に置く。又た外戚の子弟を用いて監司・郡守と為す。芙蓉閣・香蘭亭を宮中に作り、倡優傀儡を進めて、以て帝を奉じて游燕せしむ。権柄を窃み弄ぶ。台臣之を言ふ者有れば、帝宣諭して之を去らしめ、之を「節貼」と謂ふ。

原文時理宗在位久,內侍董宋臣、盧允昇為之聚斂以媚之。引薦奔競之士,交通賄賂,置諸通顯。又用外戚子弟為監司、郡守。作芙蓉閣、香蘭亭宮中,進倡優傀儡,以奉帝為游燕。竊弄權柄。臺臣有言之者,帝宣諭去之,謂之「節貼」。

似道入り、盧・董の薦むる所の林光世等を逐ひ、悉く之を罷め、外戚を勒して監司・郡守と為ることを得ざらしめ、子弟門客跡を斂めて敢へて朝政に干せず。是より権中外に傾き、群小を進用す。先朝の旧法を取り、率意に紛更し、吏部七司法を増す。公田を買ひて以て和糴を罷む。浙西の田畝直ち千緡有る者、似道均しく四十緡を以て之を買ふ。数稍々多ければ、銀絨を予ふ。又多ければ、度牒告身を予ふ。吏又恣に操切を為す。浙中大いに擾る。奉行至らざる者有れば、提領劉良貴之を劾す。有司争ひて相迎合し、務めて田を買ふこと多きを功と為し、皆謬りて七八斗を以て一石と為す。其の後、田少なくして磽瘠なる者、租を虧き佃人の租を負ひて逃ぐる者、率ね償ひを田主に取る。六郡の民、家を破る者多し。包恢平江を知り、田を買ふことを督め、至りて肉刑を以て事に従ふ。復た楮賤きを以て、銀関を作り、一を以て十八界会の三に準じ、自ら其の印文を「賈」の字の状の如く製して之を行ひ、十七界は廃して用ゐず。銀関行はれば、物価益々踴り、楮益々賤し。秋七月、彗星柳に出で、光天を燭し、長さ数十丈、四更より東方に見え、日高くして始めて滅す。台諫・布韋皆上書し、此れ公田の不便、民間の愁怨の致す所なりと言ふ。似道上書して力めて之を辯じ、且つ政を罷めんことを乞ふ。帝勉めて之を留めて曰く、「公田行ふべからず。卿の建議の始め、朕已に之を沮げたり。今公私兼ねて裕なり。一年の軍餉、皆此に仰ぐ。人の言に因りて之を罷むるは、一時の議を快くするに足ると雖も、国計を如何せん」と。太学生蕭規・葉李等上書し、似道の専政を言ふ有り。京尹劉良貴を命じて罪を捃摭して以て之にせしめ、悉く黥配す。後又た推排法を行ふ。江南の地、尺寸皆税有り。而して民力弊る。

原文似道入,逐盧、董所薦林光世等,悉罷之,勒外戚不得為監司、郡守,子弟門客斂跡,不敢干朝政。由是權傾中外,進用群小。取先朝舊法,率意紛更,增吏部七司法。買公田以罷和糴,浙西田畝有直千緡者,似道均以四十緡買之。數稍多,予銀絹;又多,予度牒告身。吏又恣為操切,浙中大擾。有奉行不至者,提領劉良貴劾之。有司爭相迎合,務以買田多為功,皆繆以七八斗為石。其後,田少與磽瘠、虧租與佃人負租而逃者,率取償田主。六郡之民,破家者多。包恢知平江,督買田,至以肉刑從事。復以楮賤,作銀關,以一準十八界會之三,自製其印文如「賈」字狀行之,十七界廢不用。銀關行,物價益踴,楮益賤。秋七月,彗出柳,光燭天,長數十丈,自四更見東方,日高始滅。臺諫、布韋皆上書,言此公田不便,民間愁怨所致。似道上書力辯之,且乞罷政。帝勉留之曰;「公田不可行,卿建議之始,朕已沮之矣。今公私兼裕,一歲軍餉,皆仰於此。使因人言而罷之,雖足以快一時之議,如國計何!」有太學生蕭規、葉李等上書,言似道專政。命京尹劉良貴捃摭以罪,悉黥配之。後又行推排法。江南之地,尺寸皆有稅,而民力弊矣。

理宗が崩御し、度宗もまた彼が擁立したものであるため、毎朝必ず答礼し、『師臣』と称して名を呼ばず、朝臣は皆『周公』と呼んだ。理宗を葬ったばかりで、すぐに官を棄てて去ろうとし、呂文徳に命じて北兵が下沱を攻め落とし急を告げさせると、朝廷は大いに驚き、帝と太后は自ら詔を書いて彼を起用した。似道が到着すると、経筵において太師に任じようとしたが、故事により節度使の節を授ける必要があり、鎮東軍節度使を授けたところ、似道は怒って言った、「節度使など粗野な者の極致に過ぎぬ!」そこで節を出すよう命じると、都の人が集まって見物した。節がすでに出されたが、また言った、「日時が良くない。」急いで返すよう命じた。宋の制度では、節が出されると、関門を撤去し屋根を壊しても、節を倒すことはなく、不屈を示した。この時、人々は皆驚き嘆いた。しかし下沱の急報は実際には兵が来ていなかったのである。三年、また帰郷して母を養うことを乞うた。大臣や侍従が詔を伝えて留める者は日に四五度、中使が賜物を加えてくる者は日に十数度に及び、夜には邸の外に交互に寝て守った。太師・平章軍国重事に任じ、一月に三度経筵に赴き、三日に一度朝参し、中書堂に赴いて政務を処理した。葛嶺に邸宅を賜り、母を迎えて養わせた。官吏が文書を抱えて邸で署名を求め、大小の朝政は一切、館客の廖瑩中と堂吏の翁応龍が決め、宰執は紙の末尾に署名するだけの役を充てられた。

原文理宗崩,度宗又其所立,每朝必答拜,稱之曰「師臣」而不名,朝臣皆稱為「周公」。甫葬理宗,即棄官去,使呂文德報北兵攻下沱急,朝中大駭,帝與太后手為詔起之。似道至,欲以經筵拜太師,以典故須建節,授鎮東軍節度使,似道怒曰:「節度使粗人之極致爾!」遂命出節,都人聚觀。節已出,復曰:「時日不利。」亟命返之。宋制:節出,有撤關壞屋,無倒節理,以示不屈。至是,人皆駭歎。然下沱之報實無兵也。三年,又乞歸養。大臣、侍從傳旨留之者日四五至,中使加賜賚者日十數至,夜即交臥第外以守之。除太師、平章軍國重事,一月三赴經筵,三日一朝,赴中書堂治事。賜第葛嶺,使迎養其中。吏抱文書就第署,大小朝政,一切決于館客廖瑩中、堂吏翁應龍,宰執充位署紙尾而已。

似道は深く邸に籠もっていたが、すべての台諫の弾劾、諸司の推薦任用、および京尹・畿漕の一切の事柄は、彼に報告せずには行えず、李芾・文天祥・陳文龍・陸達・杜淵・張仲微・謝章らは、少しでも意に逆らえばすぐに罷免され、重ければ追放されて、終身録用されなかった。一時の正人端士は、似道によってほとんど破壊された。官吏は競って賄賂を納めて良い官職を求め、帥閫・監司・郡守になろうとする者の貢物は数え切れなかった。趙溍らは競って宝玉を献上し、陳奕はついに似道の玉工陳振民を兄のように仕えて昇進を求めるほどで、一時貪婪の風が大いに広まった。五年、また病気と称して去ろうとした。帝は涙を流して引き留めたが、従わなかった。六日に一度の朝参、一月に二度の経筵出席を命じた。六年、入朝しても拝礼しないよう命じた。朝が終わると、帝は必ず席を立ち避け、彼が殿廷を出るまで見送ってから座った。続いてまた十日に一度の入朝を命じた。

原文似道雖深居,凡臺諫彈劾、諸司薦辟及京尹、畿漕一切事,不關白不敢行,李芾、文天祥、陳文龍、陸達、杜淵、張仲微、謝章輩,小忤意輒斥,重則屏棄之,終身不錄。一時正人端士,為似道破壞殆盡。吏爭納賂求美職,其求為帥閫、監司、郡守者,貢獻不可勝計。趙溍輩爭獻寶玉,陳奕至以兄事似道之玉工陳振民以求進,一時貪風大肆。五年,復稱疾求去。帝泣涕留之,不從。令六日一朝,一月兩赴經筵。六年,命入朝不拜。朝退,帝必起避席,目送之出殿廷始坐。繼又令十日一入朝。

当時、襄陽の包囲はすでに切迫しており、似道は毎日葛嶺に座し、楼閣亭榭を建て、宮人・娼妓・尼で美しい者を妾に取り、日々その中で淫楽に耽った。ただ昔の博徒だけが毎日来て博打にふけり、人々は彼の邸を覗こうとする者もなかった。その妾の兄が来て、府門に立ち、入ろうとする様子を見て、似道は彼を縛り火中に投げ込んだ。かつて群妾と地面に踞って蟋蟀を闘わせていた時、親しい客が入ってきて、戯れて言った、「これは軍国重事か?」宝物玩器を酷く好み、多宝閣を建て、毎日一度登って玩んだ。余玠が玉帯を持っていると聞き、求めると、すでに殉葬されていたので、その塚を発掘して取り出した。人が宝物を持っていて、求めても与えないと、すぐに罪を得た。これ以来、数か月も朝参しないこともあり、帝が景霊宮に行く時も従駕しなかった。八年、明堂の礼が成り、景霊宮で祭祀を行った。大雨が降り、似道は帝が雨が止んでから輅に乗るのを待った。胡貴嬪の父顕祖が帯御器械として、開禧の故事のように、輅を退けて逍遥輦に乗って宮に還るよう請うた。帝は平章(似道)がどうのと言ったが、顕祖は騙して言った、「平章はすでに逍遥輦に乗ることを承諾されました。」帝はそこで帰った。似道は大いに怒って言った、「臣は大礼使として、陛下の挙動を予め聞くことができませんでした。政務を罷めることを乞います。」即日に嘉会門を出て、帝が引き留めてもできず、そこで顕祖を罷免し、涙を流して貴嬪を出して尼とし、ようやく戻った。

原文時襄陽圍已急,似道日坐葛嶺,起樓閣亭榭,取宮人娼尼有美色者為妾,日淫樂其中。惟故博徒日至縱博,人無敢窺其第者。其妾有兄來,立府門,若將入者,似道見之,縛投火中。嘗與群妾踞地鬥蟋蟀,所狎客入,戲之曰:「此軍國重事邪?」酷嗜寶玩,建多寶閣,日一登玩。聞余玠有玉帶,求之,已殉葬矣,發其塚取之。人有物,求不予,輒得罪。自是,或累月不朝,帝如景靈宮亦不從駕。八年,明堂禮成,祀景靈宮。天大雨,似道期帝雨止升輅。胡貴嬪之父顯祖為帶御器械,請如開禧故事,卻輅,乘逍遙輦還宮,帝曰平章云云,顯祖紿曰:「平章已允乘逍遙輦矣。」帝遂歸。似道大怒曰:「臣為大禮使,陛下舉動不得預聞,乞罷政。」即日出嘉會門,帝留之不得,乃罷顯祖,涕泣出貴嬪為尼,始還。

似道は専横が日増しに甚だしくなり、人が己を非議するのを恐れ、権術を用いて人を操り、官爵を惜しまず、一時の名士を籠絡し、また太学生の食料銭を増やし、科挙の恩例を緩めて、小利で彼らを誘った。これにより言路は断絶し、威福をほしいままに行った。

原文似道既專恣日甚,畏人議己,務以權術駕馭,不愛官爵,牢籠一時名士,又加太學餐錢,寬科場恩例,以小利啖之。由是言路斷絕,威福肆行。

襄陽が包囲されて以来、毎度上書して辺境に出向くことを請うたが、密かに台諫に上奏させて自分を引き留めさせた。呂文煥が急を告げると、似道はまたそれを申請し、事は公卿の雑議に下された。監察御史陳堅らは、師臣が出向いても、襄陽を顧みれば淮を顧みられず、淮を顧みれば襄陽を顧みられない、天下を運営するには中央にいる方が得策であると考えた。そこで中書に機速房を設置して辺境の事を調整した。当時の世論は多く高達が襄陽を救援できると言い、監察御史李旺が朝士を率いて似道に進言した。似道は言った、「私が高達を用いれば、呂氏はどうなるか?」李旺らが出て、嘆いて言った、「呂氏が安泰ならば趙氏は危うい。」文煥は襄陽で、高達が救援に来ると聞き、また喜ばず、その客に話した。客は言った、「簡単です。今朝廷は襄陽が危急なので、高達を派遣して救援させるのです。我々が大勝を報告すれば、高達は必ず派遣されません。」文煥は大いにそうだと思った。時折襄陽の兵が出て、敵の偵騎を数人捕らえると、すぐに大勝と偽って奏上したが、朝廷に実際は襄陽救援の計画がないことを知らなかった。襄陽が降伏すると、似道は言った、「臣は最初たびたび辺境に出ることを請いましたが、先帝は皆許されませんでした。もし早く臣が出るのを聞き入れられていたなら、ここまでにはならなかったでしょう。」

原文自圍襄陽以來,每上書請行邊,而陰使臺諫上章留己。呂文煥以急告,似道復申請之,事下公卿雜議。監察御史陳堅等以為師臣出,顧襄未必能及淮,顧淮未必能及襄,不若居中以運天下為得。乃就中書置機速房以調邊事。時物議多言高達可援襄陽者,監察御史李旺率朝士入言於似道。似道曰:「吾用達,如呂氏何?」旺等出,歎曰:「呂氏安則趙氏危矣。」文煥在襄,聞達且入援,亦不樂,以語其客。客曰:「易耳,今朝廷以襄陽急,故遣達援之,吾以捷聞,則達必不成遣矣。」文煥大以為然。時襄兵出,獲哨騎數人,即繆以大捷奏,然不知朝中實無援襄事也。襄陽降,似道曰:「臣始屢請行邊,先帝皆不之許,向使早聽臣出,當不至此爾。」

十月、その母胡氏が薨去した。詔により天子の鹵簿で葬り、墳墓を山陵に擬して築き、百官が葬儀に奉仕し、大雨の中に立ち、終日誰も位置を変えようとしなかった。まもなく喪中起復して入朝した。

原文十月,其母胡氏薨,詔以天子鹵簿葬之,起墳擬山陵,百官奉襄事,立大雨中,終日無敢易位。尋起復入朝。

度宗が崩御した。大軍が鄂を破ると、太学生たちも群をなして師臣が親征しなければならないと言った。似道はやむを得ず、ようやく臨安に都督ととく府を開いたが、劉整を恐れて出発しなかった。翌年正月、劉整が死ぬと、似道は喜んで言った、「我に天の助けあり。」そこで上表して出師し、諸路の精兵を抽いて行軍し、金帛輜重を積んだ船は、舳艫百余里に連なった。安吉に至ると、似道の乗った船が堰に乗り上げ、劉師勇が千人で水中に入って曳いたが動かず、他の船に乗り換えて去った。蕪湖に至り、軍中で捕らえた曾安撫を返し、荔枝と黄柑を丞相伯顔に贈り、宋京を軍中に遣わして、開慶の時の約束のように歳幣を納めて臣と称することを請うたが、聞き入れられなかった。夏貴が合肥から軍を率いて来て合流し、袖から編書を取り出して似道に示して言った、「宋の暦は三百二十年。」似道はうつむくばかりであった。当時、一軍七万余人はすべて孫虎臣に属し、丁家洲に駐屯した。似道と夏貴は少数の軍で魯港に駐屯した。二月庚申の夜、虎臣が敗戦を報告すると、似道は慌てて出て叫んだ、「虎臣が敗れた!」夏貴を呼んで対策を話し合うよう命じた。しばらくして虎臣が到着し、胸を撫でて泣いて言った、「我が兵に一人として命令に従う者なし。」夏貴は微笑んで言った、「私はかつて血戦してこれを防ぎました。」似道は言った、「どうするつもりか?」夏貴は言った、「諸軍はすでに胆を落としています。私がどうして戦えましょう。公は揚州に入り、潰走した兵を招集し、海上で御駕を迎えるしかありません。私はただ死を賭して淮西を守るだけです。」そこで船を解いて去った。似道もまた虎臣と単艦で揚州に奔った。翌日、敗兵が江を覆い尽くして下り、似道は人を岸に登らせて旗を揚げて招いたが、皆来ず、悪口を言って罵る者もいた。そこで諸郡に檄を飛ばして海上で御駕を迎えるよう命じ、遷都を上書して請うた。諸郡の太守はそこで皆逃げ、遂に揚州に入った。

原文度宗崩。大兵破鄂,太學諸生亦群言非師臣親出不可。似道不得已,始開都督府臨安,然憚劉整,不行。明年正月,整死,似道欣然曰:「吾得天助也。」乃上表出師,抽諸路精兵以行,金帛輜重之舟,舳臚相銜百餘里。至安吉,似道所乘舟膠堰中,劉師勇以千人入水曳之不能動,乃易他舟而去。至蕪湖,遣還軍中所俘曾安撫,以荔子、黃甘遺丞相伯顏,俾宋京如軍中,請輸歲幣稱臣如開慶約,不從。夏貴自合肥以師來會,袖中出編書示似道曰:「宋曆三百二十年。」似道俛首而已。時一軍七萬餘人,盡屬孫虎臣,軍丁家洲。似道與夏貴以少軍軍魯港。二月庚申夜,虎臣以失利報,似道倉皇出呼曰:「虎臣敗矣!」命召貴與計事。頃之,虎臣至,撫膺而泣曰:「吾兵無一人用命也。」貴微笑曰:「吾嘗血戰當之矣。」似道曰:「計將安出?」貴曰:「諸軍已膽落,吾何以戰?公惟入揚州,招潰兵,迎駕海上,吾特以死守淮西爾。」遂解舟去。似道亦與虎臣以單舸奔揚州。明日,敗兵蔽江而下,似道使人登岸揚旗招之,皆不至,有為惡語慢罵之者。乃檄列郡如海上迎駕,上書請遷都,列郡守於是皆遁,遂入揚州。

陳宜中が賈似道の誅殺を請うたが、謝太后は言った、「似道は三朝にわたり勤労した。一朝の罪をもって、大臣を待遇する礼を失うに忍びない」と。ただ平章・都督を罷免し、祠官を与えるにとどめた。三月、賈似道の諸々の民を恤れない政令を除き、諸々の流謫人を放還し、呉潜・向士璧らの官を復し、その幕官翁応龍を誅し、廖瑩中・王庭は皆自殺した。潘文卿・季可・陳堅・徐卿孫は皆賈似道の鷹犬であったが、この時至って互いに上奏して彼らを弾劾した。四月、高斯得が賈似道の誅殺を乞うたが、聞き入れられなかった。一方賈似道もまた自ら上表して保全を乞うたので、三官を削ることを命じたが、なお揚州に居て帰らなかった。五月、王爚が論じて、賈似道は既に忠に死せず、また孝に死せずと述べると、太皇太后はついに詔して賈似道に帰って喪を終わらせることを命じた。七月、黄鏞・王応麟が賈似道を隣州に移すことを請うたが、聞き入れられなかった。王爚が入朝して太后に拝謁し言った、「本朝の権臣が禍を醸したことは、賈似道ほど甚だしい者はありません。縉紳も草茅も幾たびの上疏を知りませんが、陛下は皆抑えて行われません。ただ人言を顧みないだけでなく、どうして天下に謝することができましょうか」と。ようやく賈似道を婺州に移した。婺州の人は賈似道が来ると聞くと、衆を率いて露布を掲げて彼を追い払った。監察御史孫嶸叟らは皆罰が軽すぎると考え、言い続けた。また建寧府に移した。翁合が上奏して言った、「建寧は名儒朱熹の故里であり、三尺の童子でさえ粗方に向かうべき方を知っています。賈似道が来ると聞いて嘔吐し悪心するのに、ましてその人を見ればなおさらです」と。当時、国子司業方応発が権直舎人院を兼ね、録黄を封還し、賈似道を広南に竄逐することを乞うた。中書舎人王応麟・給事中黄鏞もまたこれを言ったが、皆聞き入れられなかった。侍御史陳文龍が衆言に従うことを乞うと、陳景行・徐直方・孫嶸叟及び監察御史俞浙が並び上疏した。ここにおいて初めて賈似道を高州団練使に貶し、循州に安置し、その家を没収した。

原文陳宜中請誅似道,謝太后曰:「似道勤勞三朝,安忍以一朝之罪,失待大臣之禮。」止罷平章、都督,予祠官。三月,除似道諸不恤民之政,放還諸竄謫人,復吳潛、向士璧等官,誅其幕官翁應龍,廖瑩中、王庭皆自殺。潘文卿、季可、陳堅、徐卿孫皆似道鷹犬,至是交章劾之。四月,高斯得乞誅似道,不從。而似道亦自上表乞保全,乃命削三官,然尚居揚不歸。五月,王爚論似道既不死忠,又不死孝,太皇太后乃詔似道歸終喪。七月,黃鏞、王應麟請移似道鄰州,不從。王爚入見太后曰:「本朝權臣稔禍,未有如似道之烈者。縉紳草茅不知幾疏,陛下皆抑而不行,非惟付人言於不恤,何以謝天下!」始徙似道婺州。婺人聞似道將至,率眾為露布逐之。監察御史孫嶸叟等皆以為罰輕,言之不已。又徙建寧府。翁合奏言:「建寧乃名儒朱熹故里,雖三尺童子粗知向方,聞似道來嘔惡,況見其人!」時國子司業方應發權直舍人院,封還錄黃,乞竄似道廣南;中書舍人王應麟、給事中黃鏞亦言之,皆不從。侍御史陳文龍乞俯從眾言,陳景行、徐直方、孫嶸叟及監察御史俞浙並上疏,於是始謫似道為高州團練使、循州安置,籍其家。

福王趙与芮は平素より賈似道を恨んでおり、賈似道を殺すことのできる者を募って、彼を貶所に送らせようとした。県尉鄭虎臣が欣然としてこれを行うことを請うた。賈似道が行く時、侍妾はなお数十人いたが、虎臣は悉くこれを退け、その宝玉を奪い、轎の蓋を取り外し、秋の日中を曝し歩かせ、轎を担ぐ夫に杭州の歌を歌わせて彼を嘲弄し、毎回賈似道の名を呼び斥け、辱めること極まりなかった。賈似道が古寺に至ると、壁に呉潜が南行した時に題した字があった。虎臣は賈似道を呼んで言った、「賈団練、呉丞相はどうしてここに至ったのか」と。賈似道は慚じて答えることができなかった。孫嶸叟・王応麟が上奏して、賈似道の家に乗輿服御の物を蓄えているのは、反状があるからだとし、彼を斬ることを乞うた。詔して訊問に派遣したが、到着する前に、八月、賈似道は漳州の木綿庵に至った。虎臣はたびたび彼に自殺をほのめかしたが、聞き入れず、言った、「太皇は私に死なせないと許された。詔があれば即座に死のう」と。虎臣は言った、「私は天下のために賈似道を殺すのだ。たとえ死んでも何の遺憾があろうか」と。引きずり出して殺した。

原文福王與芮素恨似道,募有能殺似道者使送之貶所,有縣尉鄭虎臣欣然請行。似道行時,侍妾尚數十人,虎臣悉屏去,奪其寶玉,撤轎蓋,𣌈行秋日中,令舁轎夫唱杭州歌謔之,每名斥似道,辱之備至。似道至古寺中,壁有吳潛南行所題字,虎臣呼似道曰:「賈團練,吳丞相何以至此?」似道慚不能對。嶸叟、應麟奏似道家畜乘輿服御物,有反狀,乞斬之。詔遣鞫問,未至。八月,似道至漳州木綿庵,虎臣屢諷之自殺,不聽,曰:「太皇許我不死,有詔即死。」虎臣曰:「吾為天下殺似道,雖死何憾?」拉殺之。