万俟禼
時に檜諸将の兵権を収めんと謀り、禼力を以て之を助け、諸大将は行伍より起り、利を知りて義を知らず、死を畏れ法を畏れず、高官大職、子女玉帛、已に其の欲を極む、何ぞ逗遛の罰、敗亡の誅、不用命の戮を以て示し、懼るる所を知らしめざらんやと言う。
張俊楚州より帰り、檜と合謀して飛を擠み、禼をして飛が将佐に対し山陽守るべからずと言えるを劾せしむ。中丞何鑄に命じ飛の獄を治めしむも、鑄其の無辜なるを明らかにす。檜怒り、禼を以て代わりて治めしめ、遂に飛と其の子雲が張憲に書を致し、虚に警報を申して以て朝廷を動かしめ、及び憲に措置して飛の軍を還らしむるを令せしと誣う。獄成らず、又淮西逗遛の事を以て誣う。飛父子と憲俱に死し、天下之を冤とす。大理卿薛仁輔・寺丞李若樸・何彦猷飛無罪を言うも、禼之を劾す。知宗正寺士㒟百口を以て飛を保せんことを請うも、禼又之を劾し、士㒟建州に竄死す。劉洪道飛と旧有り、禼其の足恭にして飛に媚ぶを劾し、飛宣撫を罷むるを聞き、掌を抵って涕を流すとす。ここに於いて洪道罪に抵り、終身復せず。参政范同檜に引かれたるも、或いは自ら奏事す、檜之を忌み、禼劾して罷め、再び同の罪を論じ、筠州に謫居す。又檜の為に李光の鼓倡、孫近の朋比を劾し、二人皆竄謫せらる。
和議成り、禼詔を請うて戸部に会計せしめ、用兵の時と通和の後の費やす所各幾何なるかを計らしめ、若し前日に減ぜば、羨財を以て別に御前激賞庫に貯え、他用を許さず、蓄積稍く実ならば、緩急に備うべしと。梓宮還り、禼を以て攢宮按行使と為し、内侍省副都知宋唐卿之に副う。禼唐卿と同班上殿して奏事せんことを請う、其の無恥此の如し。張浚長沙に寓居す、禼妄りに浚の宅を卜するに制を踰ゆと劾し、至って五鳳楼に擬す。会うに呉秉信長沙より朝に還り、浚の宅は衆人に過ぎず、常産にて弁ずべしと奏す、浚乃ち免るるを得たり。
参知政事を除し、金国報謝使を充つ。使より還り、檜金人の己を誉むる数千言を仮り、禼に嘱して以て聞かしめんとす、禼之を難ず。他日奏事退き、檜殿廬中に坐して上旨を批し、輒ち厚くする所の者の官を除し、吏紙尾に鈐して進む、禼曰く「聖語を聞かず」と。却って視ず。檜大いに怒り、ここより一語も交わさず。言官李文会・詹大方章を交えて禼を劾す、禼遂に去らんことを求む。帝守に出づるを命ず、檜愈々怒る。給事中楊愿詞頭を封還す、遂に罷めて去り、尋いで帰州に謫居す。赦に遇い、量りて沅州に移す。
二十五年、召し還され、参知政事を除し、尋いで尚書右僕射・同中書門下平章事を拝す。太后の回鑾の事実を纂次し、之を上る。張浚禼と沈該が相位に居るを以て、天下の望みに厭わず、上書して其の専ら金に命を受けんと欲すとを言う。禼書を見て大怒し、金人未だ釁無く、而して浚の奏する所は乃ち禍歳月の間にあるが若しと為す、浚坐して竄謫せらる。禼提挙として《貢挙敕令格式》五十巻、《看詳法意》四百八十七巻を刊修し、書進み、金紫光禄大夫を授かり、致仕す。卒す、年七十五、諡して「忠靖」と曰う。
禼始め檜に附き言官と為り、言う所多くは檜の意より出づ。政府に登りてより、鉗制を受くる能わず、遂に檜に忤いて去る。檜死し、帝親政し、将に檜の為す所を反せんとし、首に禼を召し還す。禼和を主として位を固め、檜に異なること無く、士論益々之を薄し。
韓侂胄
韓侂胄、字は節夫、魏忠献王琦の曾孫なり。父誠、高宗憲聖慈烈皇后の女弟を娶り、宝寧軍承宣使に至る。侂胄父の任を以て官に入り、閤門祗候・宣賛舎人・帯御器械を歴任す。淳熙末、汝州防禦使を以て閤門事を知る。
孝宗崩じ、光宗疾を以て喪を執る能わず、中外洶洶たり、趙汝愚策を定めて皇子嘉王を立てんと議す。時に憲聖太后慈福宮に居り、而して侂胄雅く慈福の内侍張宗尹に善し、汝愚乃ち侂胄をして宗尹に介せしめて其の議を以て密かに太后に啓せしむ。侂胄両たび宮門に至るも、命を得ず、彷徨として退かんと欲す、重華宮提挙関礼故を問うに遇い、入りて憲聖に白し、言甚だ懇切なり、憲聖其の議を可とす。礼以て侂胄に告ぐ、侂胄馳せて汝愚に白す。日已に夕に向かう、汝愚亟に殿帥郭杲に命じ、其の部する兵を以て夜分に南北内を衛せしむ。翌日、憲聖太后即ち喪次に垂簾し、宰臣旨を伝え、嘉王に命じて即皇帝位せしむ。
寧宗既に立ち、侂胄定策の恩を推し定めんと欲す、汝愚曰く「吾は宗臣なり、汝は外戚なり、何を以て功を言うべけんや。惟だ爪牙の臣は、則ち賞を推すべし」と。乃ち郭杲に節鉞を加え、而して侂胄は但だ宜州観察使兼枢密都承旨に遷すのみ。侂胄始めて望みを觖き、然れども詔旨を伝導するを以て、浸く親幸を見、時時に乗間して威福を窃み弄ぶ。朱熹汝愚に白して厚賞を以て其の労に酬い而して之を疏遠すべしとすれども、汝愚意と為さず。右正言黄度侂胄を劾せんと欲すも、謀泄れ、斥け去らる。朱熹其の姦を奏す、侂胄怒り、優人をして峩冠闊袖大儒に象り、上前に戯れしめ、熹遂に去る。彭亀年熹を留め侂胄を逐わんことを請う。未だ幾ばくもあらず、亀年郡と為る。侂胄保寧軍承宣使に進み、佑神観を提挙す。ここより、侂胄益々事を用い、而して賞を抑えたる故を以て、汝愚を怨むこと日深し。
霅川の劉㢸なる者、曩に侂胄と同知閤門事たり、頗る書を知るを以て自ら負う。内禅を議する時方に、汝愚独り侂胄と計議し、㢸与聞するを得ず、内に不平を懐く、ここに至り、侂胄に謂いて曰く「趙相大功を専らにせんと欲す、君豈に惟だ節度を得ざるのみならんや、将に恐らくは嶺海の行を免れざらん」と。侂胄愕然たり、因りて計を問う、㢸曰く「惟だ台諫を用いるのみ」と。侂胄問う「如何にして可ならん」と、㢸曰く「御筆の批出する是れなり」と。侂胄悟り、即ち内批を以て知る所の劉徳秀を監察御史に除し、楊大法を殿中侍御史と為す。呉獵監察御史を罷め、而して劉三傑を以て之に代う。ここに於いて言路皆侂胄の党、汝愚の跡始めて危うし。
四年、侂冑少傅を拝し、豫国公に封ぜらる。蔡璉と云う者嘗て罪を得、汝愚これを執して黥す。五年、侂冑璉を使わしめて告げしむ、汝愚定策の時に異謀有りと。その賓客の言う所七十紙を具す。侂冑彭亀年、曾三聘、徐誼、沈有開を逮えて大理に下し鞫わんと欲す。張仲芸力争して乃ち止む。其の年少師に遷り、平原郡王に封ぜらる。六年、太傅に進む。婺州の布衣呂祖泰上書して道学禁ずべからずと言い、侂冑を誅し、周必大を以て相と為さんことを請う。侂冑大いに怒り、杖を決して欽州に流す。言者侂冑の意を希い、必大を劾して首めて偽党を植うとす。少保に降す。一時の善類悉く党禍に罹る。本と侂冑の意と雖も、謀は実に京鏜に始まる。鏜の死に逮び、侂冑亦稍々前事に厭い、張孝伯以爲う、党禁を弛めざれば、後恐らく報復の禍を免れざらんと。侂冑然りと以為い、汝愚・朱熹の職名を追復し、留正・周必大亦復秩して政に還り、徐誼等皆先後に復官す。偽党の禁浸く解く。
或る者侂冑に勧めて蓋世の功名を立て以て自ら固くせんとす。ここに於いて恢復の議興る。殿前都指揮使呉曦を以て興州都統と為す。識者多く曦は不可なりと言い、西師を主れば必ず叛かんと。侂冑省みず。安豊守厲仲方、淮北の流民帰附を願うと言う。会す辛棄疾入見し、敵国必ず乱れ必ず亡ぶと言い、願わくは元老大臣に属して預め応変の計を為さしめんと。鄭挺・鄧友龍等又其の言に附和す。開禧と改元し、進士毛自知廷対し、機に乗じて以て中原を定むべしと言う。侂冑大いに悦ぶ。詔して中外の諸将に密かに行軍の計を為さしむ。先ず、楊輔・傅伯成兵動かすべからずと言い、罪に抵る。是に至り、武学生華岳閽を叩きて侂冑・蘇師旦・周筠を斬り以て天下に謝せんことを乞う。諫議大夫李大異亦開辺を止むるを論ず。岳は大理に下し罪を劾して編置せられ、大異は斥去せらる。
陳自強故事に援いて侂冑に兼ねて平章を領せしむるを命ぜんことを乞う。台諫鄧友龍等継いて以て請う。侂冑平章軍国事を除す。蕭逵・李壁時に太常に在り、典礼を論定す。三日に一朝し、因りて都堂に至り、班を丞相の上に序す。三省の印並びに其の第に納む。侂冑蘇師旦を昵して腹心と為し、師旦を安遠軍節度使に除す。自ら機速房を私第に置く。甚だしきは御筆を仮作し、将帥を陞黜す。事機要に関すれば、未だ嘗て奏稟せず。人敢えて言う者無し。
未だ幾ばくもあらざるに、皇甫斌兵唐州に敗れ、秦世輔城固に至りて軍潰え、郭倬・李汝翼宿州に敗る。敵追い囲み倬をす。倬統制田俊邁を執り以て敵に遺わす。乃ち免るるを得。事聞こゆ。鄧友龍罷めらる。丘崈を以て代わり宣撫使と為す。侂冑既に師を喪い、始めて師旦に誤らるるを覚ゆ。侂冑李壁を招きて酒を飲ます。酒酣に及び、師旦に語及びす。壁微かに其の過を摘まむ。侂冑然りと以為う。壁乃ち悉く其の罪を数え、侂冑を賛めて之を斥去せしむ。翌日、師旦韶州に謫せられ、郭倬を京口に斬り、李汝翼・王大節・李爽を嶺南に流す。
既にして金人淮を渡り、廬・和・真・揚を攻め、安豊・濠を取り、又襄陽を攻め、棗陽に至る。乃ち丘崈を以て僉書枢密院事と為し、江・淮の軍馬を督視せしむ。侂冑家財二十万を輸して以て軍を助け、丘崈に諭して人を募り書幣を敵営に持赴かしむ。用兵は乃ち蘇師旦・鄧友龍・皇甫斌の為す所にして、朝廷の意に非ずと謂う。金人答書の辞甚だ倨り、且つ多く所要索す。「侂冑用兵の意無くんば、師旦等安んぞ専に得んや」と謂う。崈又書を遣わして淮北の流民及び今年の歳幣を還すを許す。金人乃ち許すの意有り。
時に招撫使郭倪が金人と戦い、六合にて敗れる。金人が蜀を攻め、呉曦が叛き、金の命を受けて蜀王と称す。崈は敵営に書を移して前議を伸べることを請い、かつ金人は太師平章を首謀と指すゆえ、繫銜を免ずべきと謂う。侂冑忿り、崈は坐して罷免さる。曦の反状聞こえ、挙朝震駭す。侂冑急ぎ曦に書を遺し、茅土の封を許す。書未だ達せずして安丙・楊巨源已に義士を率いて曦を誅す。侂冑連ねて方信孺を遣わし北に使わして和を請わしめ、林拱辰を通謝使とす。金人は正隆以前の礼賂を責め、侵疆を以て界とし、かつ犒軍銀数千万を索め、首議用兵の臣を縛送せんとす。信孺帰り、事を朝堂に白すも、敢えて斥言せず。侂冑其の説を窮めしむるに、乃ち微かに之に及ぶ。侂冑大いに怒り、和議遂に輟む。辛棄疾を起用して枢密都承旨とす。時に棄疾死す。乃ち殿前副都指揮使趙淳を以て江淮制置使とし、復た鋭意兵を用いんとす。
兵興以来、蜀口・漢・淮の民兵戈に死する者勝計すべからず、公私の力大いに屈し、侂冑の意未だ已まず、中外憂懼す。礼部侍郎史弥遠、時に資善堂翊善を兼ね、侂冑を誅せんと謀り、議甚だ秘なり。皇子栄王入奏し、楊皇后も亦中より力請す。乃ち密旨を得る。弥遠以て参知政事銭象祖・李壁に告ぐ。御筆に云く、「韓侂冑久しく国柄を任じ、軽く兵端を啓き、南北の生霊をして枉しく凶害に罹らしむ。平章軍国事を罷め、在外宮観に与うべし。陳自強阿附して位を充し、国事を恤みず。右丞相を罷め、日下国門を出づべし。」仍って権主管殿前司公事夏震に兵三百を以て防護せしむ。象祖奏審せんと欲す。壁謂う、事留まらば泄るるを恐る、不可なりと。翌日、侂冑朝に入る。震途に於て呵止し、玉津園の側に擁して至り殛殺す。
侂冑事を用うること十四年、威は宮省に行わり、権は寓内を震わす。嘗て山を鑿ちて園と為し、下より宗廟を瞰る。宮闈に出入りして度無し。孝宗曩昔政を思うの所、偃然として之に居る。老宮人の之を見る者往々垂涕す。顔棫制を草し、其の聖の清を得たりと言う。易袚答詔を撰し、元聖を以て之を褒む。四方より書を投じ頌を献ずる者、伊・霍・旦・奭も以て其の勲に似るに足らずと謂い、「我が王」と称する者有り。余𡕇九錫を加えんことを請い、趙師𢍰平原郡王府官属を置かんことを乞う。侂冑皆之に当たりて辞せず。嬖愛する妾張・譚・王・陳皆郡国夫人に封ぜられ、「四夫人」と号す。内宴毎に、妃嬪と雑坐し、勢に恃み驕倨す。掖庭皆之を悪む。其の下封を受くる者尤も衆し。是に至り、四夫人の罪を論じ、或いは杖し或いは徒し、余数十人を縦遣す。有司其の家を籍す。乗輿服御の飾多く、其の僭紊極まれり。
初め、侂冑中外の言を導達するを以て、遂に見寵任さる。朱熹・彭亀年既に侂冑を論じて去る。貴戚呉琚人に語りて曰く、「帝初め固より侂冑を留めんとする意無し。一人をして継ぎて之を言わしめば、之を去るは易きのみ。而るに一時の台諫及び執政大臣多く其の党与なり。故に其の悪を稔らして以て大僇に底る」と。開禧兵を用うるに、帝の意善しとせず。侂冑死し、寧宗大臣に諭して曰く、「恢復豈に美事に非ずや、但だ力を量らざるのみ」と。
侂冑憲聖呉皇后の姪女を娶る。子無し。魯𡬐の子を取って後と為し、名を㣉とす。侂冑を誅するに及び、籍を削ぎ沙門島に流すと云う。
丁大全
侍御史兼侍読に昇る。丞相董槐を劾奏す。章未だ下らず、大全夜半隅兵百余を調え、露刃して槐の第を囲み、台牒を以て之を駆迫して出だし、輿を令して槐を大理寺に至らしめ、以て此れを以て之を恐れんとす。須臾にして北関を出で、槐を棄て、嘂呼して散ず。槐徐歩して接待寺に入る。罷相の命下る。是より志気驕傲、道路目を以てす。
尋いで右諫議大夫と為り、端明殿学士・僉書枢密院事に進み、丹陽郡侯に封ぜられ、同知枢密院事兼権参知政事に進む。宝祐六年、参知政事に拝す。四月、右丞相兼枢密使に拝し、公に進封さる。初め、大全袁玠を以て九江制置副使と為す。玠貪にして且つ刻なり。漁湖の土豪を逮繫し、輸銭を督促して甚だ急なり。土豪怒り、尽く漁舟を以て北来の兵を済す。太学生陳宗・劉黼・黄鏞・曾唯・陳宜中・林則祖等六人、闕に伏して上書し大全を訟う。台臣翁応弼・呉衍は大全の鷹犬と為り、学校を鈐制し、宗等を貶逐す。
明年、監察御史劉応龍加えて竄せんことを請う。両官を追削し、貴州団練使に移竄す。州守游翁明と失色杯酒の間、翁明大全の陰に弓矢を造り、将に蛮を通じて不軌を為さんとすと訴う。朱禩孫以て朝に聞こゆ。又た明年、新州に移置す。太常少卿兼権直舎人院劉震孫繳奏し、海島に移徙せんことを乞う。四年正月、将官畢遷護送す。舟藤州を過ぐるに、之を水に擠して死せしむ。
大全淮西を知る。総領鄭羽は富みて呉門に甲たり。始め婣を結ばんと欲すも、羽従わず。遂に台臣卓夢卿を令して之を弾せしめ、其の家を籍す。子寿翁の為に婦を聘す。其の艶なるを見て、自ら取る。世の醜と為す所と為る。
賈似道
賈似道、字は師憲、台州の人、制置使賈涉の子なり。若き時は落魄し、遊博を事とし、操行を修めず。父の蔭により嘉興司倉に補せらる。時に其の姉宮中に入り、理宗に寵愛せられ、貴妃と為り、遂に詔して廷対に赴かしむ。妃は内中にて湯薬を奉り以て之を給す。太常丞・軍器監に擢でらる。益々寵を恃みて不檢に、日ごと諸妓の家に遊び、夜に至れば即ち湖上に燕遊して反らず。理宗嘗て夜高きに憑り、西湖中の燈火が常の時に異なるを見て、左右に語りて曰く、「此れ必ず似道なり」と。明日之を詢ねれば果たして然り、京尹史巖之をして之を戒めしむ。巖之曰く、「似道は少年の気習有りと雖も、然れども其の材は大用に堪えん」と。尋いで出でて澧州を知る。
端平の初めより、孟珙師を帥いて大元兵と会し共に金を滅ぼし、陳・蔡を以て界と為すを約す。師未だ還らずして趙范の謀を用い、兵を発して殽・函を据へ、河津を絶ち、中原地を取らんとす。大元兵之を撃ち破り、范僅かに数千人を以て遁れ帰る。追兵至りて問ひて曰く、「何を為して盟を敗るや」と。遂に攻撃を放ちて淮・漢に及び、是より兵端大いに啓く。
開慶初め、憲宗皇帝自ら将として蜀を征し、世祖皇帝時に皇弟として鄂州を攻め、元帥兀良哈台雲南より入り交阯を経て、邕州より広西を蹂躙し、湖南を破り、檄を伝えて宋の背盟の罪を数ふ。理宗大いに懼れ、乃ち趙葵をして信州に軍し広兵を禦がしめ、似道をして漢陽に軍し鄂を援げしむ。即ち軍中にて右丞相を拝す。十月、鄂の東南隅破れ、宋人再び築き、再び之を破る。高達諸将を率いて力戦するに頼る。似道時に漢陽より入り師を督す。十一月、城を攻むること急なり。城中の死傷者一万三千人に至る。似道乃ち密かに宋京を遣わし軍中に詣りて称臣し、歳幣を輸すことを請はしむ。従はず。時に憲宗皇帝釣魚山に晏駕す。合州守王堅阮思聰をして急流を踔て走りて鄂に報ぜしむ。似道再び京を遣わし歳幣を議せしむ。遂に之を許す。大元兵砦を抜きて北し、張傑・閻旺を留めて偏師を以て湖南兵を候はしむ。明年正月、兵至る。傑浮梁を新生磯に作り、師を済して北帰す。似道劉整の計を用い、浮梁を攻め断ち、殿兵百七十を殺し、遂に表を上りて以て肅清せりと聞こゆ。帝其の再造の功有りと以て、少傅・右丞相を以て朝に召し入る。百官郊労すること文彦博の故事の如し。
明年、大元世祖皇帝位に登り、翰林侍読学士・国信使郝経等を遣わし書を持して好を申し兵を息め、且つ歳幣を徴す。似道方に廖瑩中等をして『福華編』を撰ばしめ鄂の功を称頌せしむ。国を挙げて皆和議の所謂を知らず。似道乃ち密かに淮東制置司に令し経等を真州忠勇軍営に拘す。
時に理宗位に在ること久しく、内侍董宋臣・盧允昇之が為に聚斂して以て之に媚び、奔競の士を引薦し、賄賂に交通し、諸を通顕に置く。又た外戚の子弟を用いて監司・郡守と為す。芙蓉閣・香蘭亭を宮中に作り、倡優傀儡を進めて、以て帝を奉じて游燕せしむ。権柄を窃み弄ぶ。台臣之を言ふ者有れば、帝宣諭して之を去らしめ、之を「節貼」と謂ふ。
似道入り、盧・董の薦むる所の林光世等を逐ひ、悉く之を罷め、外戚を勒して監司・郡守と為ることを得ざらしめ、子弟門客跡を斂めて敢へて朝政に干せず。是より権中外に傾き、群小を進用す。先朝の旧法を取り、率意に紛更し、吏部七司法を増す。公田を買ひて以て和糴を罷む。浙西の田畝直ち千緡有る者、似道均しく四十緡を以て之を買ふ。数稍々多ければ、銀絨を予ふ。又多ければ、度牒告身を予ふ。吏又恣に操切を為す。浙中大いに擾る。奉行至らざる者有れば、提領劉良貴之を劾す。有司争ひて相迎合し、務めて田を買ふこと多きを功と為し、皆謬りて七八斗を以て一石と為す。其の後、田少なくして磽瘠なる者、租を虧き佃人の租を負ひて逃ぐる者、率ね償ひを田主に取る。六郡の民、家を破る者多し。包恢平江を知り、田を買ふことを督め、至りて肉刑を以て事に従ふ。復た楮賤きを以て、銀関を作り、一を以て十八界会の三に準じ、自ら其の印文を「賈」の字の状の如く製して之を行ひ、十七界は廃して用ゐず。銀関行はれば、物価益々踴り、楮益々賤し。秋七月、彗星柳に出で、光天を燭し、長さ数十丈、四更より東方に見え、日高くして始めて滅す。台諫・布韋皆上書し、此れ公田の不便、民間の愁怨の致す所なりと言ふ。似道上書して力めて之を辯じ、且つ政を罷めんことを乞ふ。帝勉めて之を留めて曰く、「公田行ふべからず。卿の建議の始め、朕已に之を沮げたり。今公私兼ねて裕なり。一年の軍餉、皆此に仰ぐ。人の言に因りて之を罷むるは、一時の議を快くするに足ると雖も、国計を如何せん」と。太学生蕭規・葉李等上書し、似道の専政を言ふ有り。京尹劉良貴を命じて罪を捃摭して以て之にせしめ、悉く黥配す。後又た推排法を行ふ。江南の地、尺寸皆税有り。而して民力弊る。
似道は深く邸に籠もっていたが、すべての台諫の弾劾、諸司の推薦任用、および京尹・畿漕の一切の事柄は、彼に報告せずには行えず、李芾・文天祥・陳文龍・陸達・杜淵・張仲微・謝章らは、少しでも意に逆らえばすぐに罷免され、重ければ追放されて、終身録用されなかった。一時の正人端士は、似道によってほとんど破壊された。官吏は競って賄賂を納めて良い官職を求め、帥閫・監司・郡守になろうとする者の貢物は数え切れなかった。趙溍らは競って宝玉を献上し、陳奕はついに似道の玉工陳振民を兄のように仕えて昇進を求めるほどで、一時貪婪の風が大いに広まった。五年、また病気と称して去ろうとした。帝は涙を流して引き留めたが、従わなかった。六日に一度の朝参、一月に二度の経筵出席を命じた。六年、入朝しても拝礼しないよう命じた。朝が終わると、帝は必ず席を立ち避け、彼が殿廷を出るまで見送ってから座った。続いてまた十日に一度の入朝を命じた。
当時、襄陽の包囲はすでに切迫しており、似道は毎日葛嶺に座し、楼閣亭榭を建て、宮人・娼妓・尼で美しい者を妾に取り、日々その中で淫楽に耽った。ただ昔の博徒だけが毎日来て博打にふけり、人々は彼の邸を覗こうとする者もなかった。その妾の兄が来て、府門に立ち、入ろうとする様子を見て、似道は彼を縛り火中に投げ込んだ。かつて群妾と地面に踞って蟋蟀を闘わせていた時、親しい客が入ってきて、戯れて言った、「これは軍国重事か?」宝物玩器を酷く好み、多宝閣を建て、毎日一度登って玩んだ。余玠が玉帯を持っていると聞き、求めると、すでに殉葬されていたので、その塚を発掘して取り出した。人が宝物を持っていて、求めても与えないと、すぐに罪を得た。これ以来、数か月も朝参しないこともあり、帝が景霊宮に行く時も従駕しなかった。八年、明堂の礼が成り、景霊宮で祭祀を行った。大雨が降り、似道は帝が雨が止んでから輅に乗るのを待った。胡貴嬪の父顕祖が帯御器械として、開禧の故事のように、輅を退けて逍遥輦に乗って宮に還るよう請うた。帝は平章(似道)がどうのと言ったが、顕祖は騙して言った、「平章はすでに逍遥輦に乗ることを承諾されました。」帝はそこで帰った。似道は大いに怒って言った、「臣は大礼使として、陛下の挙動を予め聞くことができませんでした。政務を罷めることを乞います。」即日に嘉会門を出て、帝が引き留めてもできず、そこで顕祖を罷免し、涙を流して貴嬪を出して尼とし、ようやく戻った。
似道は専横が日増しに甚だしくなり、人が己を非議するのを恐れ、権術を用いて人を操り、官爵を惜しまず、一時の名士を籠絡し、また太学生の食料銭を増やし、科挙の恩例を緩めて、小利で彼らを誘った。これにより言路は断絶し、威福をほしいままに行った。
襄陽が包囲されて以来、毎度上書して辺境に出向くことを請うたが、密かに台諫に上奏させて自分を引き留めさせた。呂文煥が急を告げると、似道はまたそれを申請し、事は公卿の雑議に下された。監察御史陳堅らは、師臣が出向いても、襄陽を顧みれば淮を顧みられず、淮を顧みれば襄陽を顧みられない、天下を運営するには中央にいる方が得策であると考えた。そこで中書に機速房を設置して辺境の事を調整した。当時の世論は多く高達が襄陽を救援できると言い、監察御史李旺が朝士を率いて似道に進言した。似道は言った、「私が高達を用いれば、呂氏はどうなるか?」李旺らが出て、嘆いて言った、「呂氏が安泰ならば趙氏は危うい。」文煥は襄陽で、高達が救援に来ると聞き、また喜ばず、その客に話した。客は言った、「簡単です。今朝廷は襄陽が危急なので、高達を派遣して救援させるのです。我々が大勝を報告すれば、高達は必ず派遣されません。」文煥は大いにそうだと思った。時折襄陽の兵が出て、敵の偵騎を数人捕らえると、すぐに大勝と偽って奏上したが、朝廷に実際は襄陽救援の計画がないことを知らなかった。襄陽が降伏すると、似道は言った、「臣は最初たびたび辺境に出ることを請いましたが、先帝は皆許されませんでした。もし早く臣が出るのを聞き入れられていたなら、ここまでにはならなかったでしょう。」
十月、その母胡氏が薨去した。詔により天子の鹵簿で葬り、墳墓を山陵に擬して築き、百官が葬儀に奉仕し、大雨の中に立ち、終日誰も位置を変えようとしなかった。まもなく喪中起復して入朝した。
度宗が崩御した。大軍が鄂を破ると、太学生たちも群をなして師臣が親征しなければならないと言った。似道はやむを得ず、ようやく臨安に都督府を開いたが、劉整を恐れて出発しなかった。翌年正月、劉整が死ぬと、似道は喜んで言った、「我に天の助けあり。」そこで上表して出師し、諸路の精兵を抽いて行軍し、金帛輜重を積んだ船は、舳艫百余里に連なった。安吉に至ると、似道の乗った船が堰に乗り上げ、劉師勇が千人で水中に入って曳いたが動かず、他の船に乗り換えて去った。蕪湖に至り、軍中で捕らえた曾安撫を返し、荔枝と黄柑を丞相伯顔に贈り、宋京を軍中に遣わして、開慶の時の約束のように歳幣を納めて臣と称することを請うたが、聞き入れられなかった。夏貴が合肥から軍を率いて来て合流し、袖から編書を取り出して似道に示して言った、「宋の暦は三百二十年。」似道はうつむくばかりであった。当時、一軍七万余人はすべて孫虎臣に属し、丁家洲に駐屯した。似道と夏貴は少数の軍で魯港に駐屯した。二月庚申の夜、虎臣が敗戦を報告すると、似道は慌てて出て叫んだ、「虎臣が敗れた!」夏貴を呼んで対策を話し合うよう命じた。しばらくして虎臣が到着し、胸を撫でて泣いて言った、「我が兵に一人として命令に従う者なし。」夏貴は微笑んで言った、「私はかつて血戦してこれを防ぎました。」似道は言った、「どうするつもりか?」夏貴は言った、「諸軍はすでに胆を落としています。私がどうして戦えましょう。公は揚州に入り、潰走した兵を招集し、海上で御駕を迎えるしかありません。私はただ死を賭して淮西を守るだけです。」そこで船を解いて去った。似道もまた虎臣と単艦で揚州に奔った。翌日、敗兵が江を覆い尽くして下り、似道は人を岸に登らせて旗を揚げて招いたが、皆来ず、悪口を言って罵る者もいた。そこで諸郡に檄を飛ばして海上で御駕を迎えるよう命じ、遷都を上書して請うた。諸郡の太守はそこで皆逃げ、遂に揚州に入った。
陳宜中が賈似道の誅殺を請うたが、謝太后は言った、「似道は三朝にわたり勤労した。一朝の罪をもって、大臣を待遇する礼を失うに忍びない」と。ただ平章・都督を罷免し、祠官を与えるにとどめた。三月、賈似道の諸々の民を恤れない政令を除き、諸々の流謫人を放還し、呉潜・向士璧らの官を復し、その幕官翁応龍を誅し、廖瑩中・王庭は皆自殺した。潘文卿・季可・陳堅・徐卿孫は皆賈似道の鷹犬であったが、この時至って互いに上奏して彼らを弾劾した。四月、高斯得が賈似道の誅殺を乞うたが、聞き入れられなかった。一方賈似道もまた自ら上表して保全を乞うたので、三官を削ることを命じたが、なお揚州に居て帰らなかった。五月、王爚が論じて、賈似道は既に忠に死せず、また孝に死せずと述べると、太皇太后はついに詔して賈似道に帰って喪を終わらせることを命じた。七月、黄鏞・王応麟が賈似道を隣州に移すことを請うたが、聞き入れられなかった。王爚が入朝して太后に拝謁し言った、「本朝の権臣が禍を醸したことは、賈似道ほど甚だしい者はありません。縉紳も草茅も幾たびの上疏を知りませんが、陛下は皆抑えて行われません。ただ人言を顧みないだけでなく、どうして天下に謝することができましょうか」と。ようやく賈似道を婺州に移した。婺州の人は賈似道が来ると聞くと、衆を率いて露布を掲げて彼を追い払った。監察御史孫嶸叟らは皆罰が軽すぎると考え、言い続けた。また建寧府に移した。翁合が上奏して言った、「建寧は名儒朱熹の故里であり、三尺の童子でさえ粗方に向かうべき方を知っています。賈似道が来ると聞いて嘔吐し悪心するのに、ましてその人を見ればなおさらです」と。当時、国子司業方応発が権直舎人院を兼ね、録黄を封還し、賈似道を広南に竄逐することを乞うた。中書舎人王応麟・給事中黄鏞もまたこれを言ったが、皆聞き入れられなかった。侍御史陳文龍が衆言に従うことを乞うと、陳景行・徐直方・孫嶸叟及び監察御史俞浙が並び上疏した。ここにおいて初めて賈似道を高州団練使に貶し、循州に安置し、その家を没収した。
福王趙与芮は平素より賈似道を恨んでおり、賈似道を殺すことのできる者を募って、彼を貶所に送らせようとした。県尉鄭虎臣が欣然としてこれを行うことを請うた。賈似道が行く時、侍妾はなお数十人いたが、虎臣は悉くこれを退け、その宝玉を奪い、轎の蓋を取り外し、秋の日中を曝し歩かせ、轎を担ぐ夫に杭州の歌を歌わせて彼を嘲弄し、毎回賈似道の名を呼び斥け、辱めること極まりなかった。賈似道が古寺に至ると、壁に呉潜が南行した時に題した字があった。虎臣は賈似道を呼んで言った、「賈団練、呉丞相はどうしてここに至ったのか」と。賈似道は慚じて答えることができなかった。孫嶸叟・王応麟が上奏して、賈似道の家に乗輿服御の物を蓄えているのは、反状があるからだとし、彼を斬ることを乞うた。詔して訊問に派遣したが、到着する前に、八月、賈似道は漳州の木綿庵に至った。虎臣はたびたび彼に自殺をほのめかしたが、聞き入れず、言った、「太皇は私に死なせないと許された。詔があれば即座に死のう」と。虎臣は言った、「私は天下のために賈似道を殺すのだ。たとえ死んでも何の遺憾があろうか」と。引きずり出して殺した。