黃潛善
黃潛善、字は茂和、邵武の人である。進士に及第し、宣和初年、左司郎となった。陝西・河東の地が大いに震動し、陵谷がその所を変えた。徽宗は潛善に命じて陝西を察訪させ、これにより視察に向かわせた。潛善は帰還したが、実情を報告せず、ただ地震があったと述べるのみであった。戸部侍郎に抜擢されたが、事に坐して亳州に貶謫され、徽猷閣待制として河間府の知事となった。
靖康初年、金人が侵入して攻めてきた。康王が天下兵馬大元帥府を開くと、潛善に兵を率いて入援するよう檄を飛ばした。張邦昌が僭位すると、潛善は急いで帥府に報告し、王は承制の権限により潛善を副元帥に任じた。
翌年、金人が陝西を攻め、京東・山東で賊が起こったが、潛善・伯彦はこれを隠して報告しなかった。張遇が真州を焼き、行在から六十里の距離となった。内侍の邵成章が潛善・伯彦の誤国を上疏すると、成章は除名に処せられた。御史の馬伸もまた潛善・伯彦を弾劾したことで罪を得、濮州の酒税監に貶謫され、赴任途中で死去した。
潛善は左僕射兼門下侍郎に進んだ。鄆州・濮州が相次いで陥落し、宿州・泗州がたびたび警報を発した。右丞の許景衡が扈衛の兵力が手薄であることを理由に、皇帝にその鋒を避けるよう請うたが、潛善は憂慮に足らぬと考え、同列の者を率いて浮屠の克勤の説法を聴いた。やがて泗州から金人がまもなく到着するとの奏上があり、皇帝は大いに驚き、南渡を決断した。御舟の準備は既に整っていたが、潛善と伯彦はちょうど共に食事をしていた。堂吏が大声で「御駕が発します!」と呼ぶと、ようやく顔を見合わせて慌てふためき、馬を鞭打って南へ馳せた。都の人は争って城門から出ようとし、死者が互いに枕し、人々は怨憤しない者はなかった。折しも司農卿の黃鍔が江上に到着した。軍士はその姓を聞いて潛善であると思い、争ってその罪を数え上げ、刃を振りかざして前に進んだ。鍔がまさに自分は別人であると弁明しようとしたところ、首は既に斬り落とされていた。
皇帝が瓜州を渡り、鎮江に幸すると、敵兵は既にその後を追っていた。潛善と伯彦は連名で上疏し、艱難の時にあたり、敢えて形式的な文書をもって退任を求めないと述べた。中丞の張澄がこれを弾劾し、潛善は罷免されて観文殿大学士・江寧府知事とされ、落職して衡州に居住した。鄭瑴がまた潛善・伯彦はともに誤国の罪は同等だが、潛善の悪はより多いと論じ、王庭秀がこれに続いて上言したため、責めを負って英州に安置された。諫官の袁植が都市で斬刑に処すよう請うたが、皇帝は許さなかった。まもなく梅州で死去した。
潛善はみだりに国権を握り、忠良を嫉み害した。李綱が既に追放された後、張愨・宗澤・許景衡の輩が相次いで貶謫され死去し、諫言が一言あるごとに、たちまちその禍に陥り、朝廷内外はこれに切歯した。高宗の末年、旨があり、潛善・余深・薛昂は皆、官を復し子孫を録用することとなった。諫官の淩哲が、余深・薛昂は蔡京に朋党して附き、潛善は専横に恣にして国を誤ったと上言し、今三人の恩典を全て復するのは、政刑の公平を失い、忠義の士が離反する恐れがあると述べた。詔により、潛善はかつて副元帥を務めたことを理由に、特に元の官職を復し、一子を録用することとした。
汪伯彦
汪伯彦、字は廷俊、徽州祁門県の人である。進士に及第し、官を積んで虞部郎官となった。靖康に改元すると、召されて謁見し、河北辺防十策を献上し、直龍図閣・相州知事に任じられた。この冬、金人が真定を陥落させると、詔により真定の帥司を相州に移し、伯彦にこれを統率させた。
高宗が康王として金に使し磁州に至った時、金の騎兵が充満し、かつて甲馬数百が城下に至り、王の所在を探ったことがあった。伯彦は急ぎ帛書をもって王の相州への帰還を請い、自ら鞬を帯びて兵を率い、河上で王を迎えた。王は労って言った。「他日、上に拝謁した際、真っ先に京兆の任を公に推薦しよう。」その知遇を受けたのはここから始まった。間もなく、王は蠟書を受け、天下兵馬大元帥府を開き、伯彦を副将とした。王が兵を率いて河を渡り、進むべき方向を謀ると、言う人それぞれで異なったが、伯彦のみが言った。「北門を出て子城を渡らねばならぬ。」王は喜んで言った。「廷俊の言う通りである。」渡河後、大名を経て鄆州・済州を歴て南京に達し、伯彦を集英殿修撰に奏上した。
北兵が京城に迫ると、欽宗は詔を下した。「金人は今、和議を協議している。康王は兵を率いるが、軽々しく動いてはならない。」伯彦はこれを正しいと考えた。宗澤は言った。「女真は狂悖で詭譎であり、これは我が軍をなだめようとしているだけだ。もしこれをすぐに信じれば、後悔してもどうしようもない。速やかに進兵すべきである。」伯彦らはこれに反対した。城が陥落し、金人が二帝を北行に迫り、張邦昌が僭立すると、王はこれを聞いて涕泣した。翌年の春、王は承制により伯彦を顯謨閣待制に任じ、元帥に昇進させ、直学士に進めた。高宗が即位すると、知樞密院事に抜擢された。間もなく、右僕射に任じられた。
高宗が政務を始めたばかりの時、天下は治世を望んでいた。伯彦と潛善は一年余り宰相の位にあり、専権自恣で、何ら計画を立てることができなかった。御史・諫官から、下は布衣の内侍に至るまで、皆これを弾劾上奏した。伯彦は罷免されて観文殿大学士・洪州知事とされ、崇福宮提挙に改められ、まもなく落職して永州に居住した。紹興初年、職を復し、池州知事・江東安撫大使となった。上言する者がやめなかったため、詔により旧職で宮祠を奉じさせ、まもなく広州知事となった。四年、皇帝は陳東・歐陽澈を追贈した。中書舎人の王居正が伯彦・潛善を論じやまず、前職を再び褫奪された。
七年、帝は輔臣に謂ひて曰く、「元帥の旧僚は、往々にして淪謝す。惟だ汪伯彦のみは実に艱難を同じくせり。朕が故人、存するもの幾ばくも無し。宜しく牽復に与ふべし」と。秦檜・張浚曰く、「臣等已に議す。郊恩を以て旨を取るべし。更に天筆を得て其の旧労を明らかにせば、庶幾くは内外孚信せん」と。初め伯彦の未だ第せざる時、館を王氏に受けしに、檜嘗て之に従ひて学び、而して浚も亦た伯彦の引く所なり。故に共に賛す。九年、宣州を知り、闕を過ぐ。帝、檜に謂ひて曰く、「伯彦は便ち之を官せしめよ。庶幾くは紛紜を免れん」と。又曰く、「伯彦は潜藩の旧僚にして、国を去ること七年なり。漢の高・光の豊沛・南陽の故旧を忘れざるは、皆人情の常なり」と。伯彦、上る所の著『中興日暦』五巻、検校少傅・保信軍節度使を拝す。十年、祠を請ふ。之に従ふ。明年五月、卒す。少師を贈り、諡して「忠定」と曰ふ。
初め、伯彦既に相州を去りし後、金人其の子軍器監丞の似を執り、地を割きて以て相州に至らしむ。守臣趙不試固く守りて下らず。遂に拘へて北にし、久しうして乃ち還る。或は云ふ、似の帰るを得るは、伯彦実に人をして之を贖はしむと。似後更めて名を召嗣とす。
秦檜
時に三鎮を割きて以て兵を弭がんことを議し、檜に命じて礼部侍郎を借り、程瑀と割地使と為り、肅王を奉じて以て往かしむ。金師退く。檜・瑀燕に至りて還る。御史中丞李回・翰林承旨吳幵共に檜を薦む。殿中侍御史を拝し、左司諫に遷る。王雲・李若水金の二酋に見え帰り、言ふ、金堅く地を得んと欲し、然らざれば、兵を進めて汴京を取らんと。十一月、百官を集めて延和殿に議す。范宗尹等七十人之に与ふるを請ふ。檜等三十六人不可を堅持す。未だ幾ばくもせず、御史中丞を除す。
「檜国恩の厚きを荷ひ、甚だ愧づ報ふること無きを。今金人重兵を擁し、已に抜けたる城に臨み、生殺の柄を操り、必ず姓を易へんと欲す。檜死を尽くして以て弁す。主に忠なるのみに非ず、且つ両国の利害を明らかにするのみ。趙氏は祖宗より嗣君に至るまで、百七十余載なり。頃に姦臣盟を敗り、鄰国に怨を結び、謀臣計を失ひ、主を誤り師を喪はしめ、遂に生靈の禍を被り、京都の守を失ひ、主上郊に出で、軍前に和を求めしむるに致る。両元帥既に其の議を允じ、中外に布聞せり。且つ帑藏を空竭し、服御の用ふる所を追ひ取り、両河の地を割き、恭しく臣子と為る。今乃ち前議を変易す。人臣安んぞ死を畏れて論ぜざるに忍びんや。
宋は中国に於て、号令一統し、地は万里に綿り、徳沢は百姓に加はり、前古未だ有らざるなり。興亡の命は天に在りて数有りと雖も、焉ぞ一城を以て廃立を決せんや。昔西漢は新室に絶え、光武以て興り、東漢は曹氏に絶え、劉備蜀に帝し、唐は朱温に篡奪せられ、李克用猶ほ其の世序を推して之を継げり。蓋し基広ければ則ち傾け難く、根深ければ則ち抜け難し。
張邦昌は上皇の時、権幸に附会し、共に蠹国の政を為せり。社稷傾危し、生民塗炭す。固より一人の致す所に非ざるも、亦た邦昌の為す所なり。天下方に之を疾むこと仇讎の如し。若し土地を付し、人民を主せしめば、四方の豪傑必ず共に起きて之を誅し、終に大金の屏翰と為るに足らず。必ず邦昌を立てば、則ち京師の民は服す可く、天下の民は服す可からず。京師の宗子は滅す可く、天下の宗子は滅す可からず。檜斧鉞の誅を顧みず、両朝の利害を言ひ、願くは嗣君の位を復して以て四方を安んぜん。大宋の福を蒙るのみに非ず、亦た大金の万世の利なり」。
金人尋ひて檜を取って軍前に詣らしむ。三月、金人邦昌を立てて偽楚と為す。邦昌金に書を遺はし、孫傅・張叔夜及び檜を還さんことを請ふ。許さず。初め、二帝北遷せし時、檜は傅・叔夜・何㮚、司馬朴と従ひて燕山に至り、又韓州に徙す。上皇康王の即位を聞き、書を作りて粘罕に貽ひ、和議を約し、檜をして之を潤色せしむ。檜厚賂を以て粘罕に達す。会ふに金主吳乞買、檜を以て其の弟撻懶に賜ひ任用と為す。撻懶山陽を攻む。建炎四年十月甲辰、檜は妻王氏及び婢僕一家と、軍中より漣水軍水砦を取って航海し行在に帰る。丙午、檜入見す。丁未、礼部尚書を拝し、銀帛を賜ふ。
檜の帰るや、自ら言ふ、金人の己を監する者を殺し舟に奔りて来たりと。朝士多く謂ふ、檜は㮚・傅・朴と同拘せられ、而して檜独り帰る。又自ら燕より楚に至るまで二千八百里、河を踰え海を越ゆ。豈に譏訶の者無からんや。安んぞ監を殺して南せん。就令軍に従ひ撻懶すと雖も、金人の之を縱すも、必ず妻属を質とすべし。安んぞ王氏と偕にせん。惟だ宰相范宗尹・同知樞密院李回のみは檜と善くし、群疑を尽く破り、力めて其の忠を薦む。未だ対せざる前の一日、帝命じて先づ宰執に見えしむ。檜首に言ふ、「天下をして事無からしめんと欲せば、南は南、北は北」と。及び首に奏す所の撻懶と求和する書の草す。帝曰く、「檜は樸忠人に過ぎり。朕之を得て喜びて寐ず。蓋し二帝・母后の消息を聞き、又た一佳士を得たり」と。宗尹之を経筵に処せんと欲す。帝曰く、「且つ一事簡の尚書とせよ」と。故に礼部の命有り。従行の王安道・馮由義・水砦の丁不異及び参議官並びに京秩に改め、舟人孫靖も亦た承信郎を補す。始め、朝廷数たび使を遣はすと雖も、但だ且つ守り且つ和す。而して専ら金人と仇を解き和を議するは、実に檜に始まる。蓋し檜は金庭に在りて首に和議を唱へし故に、撻懶之を縱して帰らしむるなり。
頤浩が江上より還り、檜を追い落とすことを謀る。朱勝非を引き入れて助けとせよと教える者あり。詔して勝非を同都督とす。給事中胡安国は勝非を用うべからずと言い、勝非は遂に醴泉観使兼侍読となる。安国は去職を求める。檜は三たび上章してこれを留めんとするも、報い無し。頤浩は間もなく黄亀年を殿中侍御史に、劉棐を右司諫に任じ、蓋し檜を追い落とさんとするためなり。ここにおいて江躋・呉表臣・程瑀・張燾・胡世将・劉一止・林待聘・楼炤は並びに職を落とし祠官に任ぜられ、台省は一空となり、皆檜の党なり。檜は初め頤浩を傾けんと欲し、一時の名賢たる安国・燾・瑀らを引き入れて清要の職に布列せしむ。頤浩が席益に檜を去らしむる術を問うと、益曰く、「党と目すべし。今、党の魁首たる胡安国が瑣闥(宮中)に在り、宜しく先ずこれを去るべし」と。蓋し安国はかつて遊酢に人材を問うたところ、酢は檜を以て言い、かつこれを荀文若に比した。故に安国は力強く檜が張浚ら諸人より賢であると言い、檜もまた力強く安国を引き入れた。ここに至り、安国ら去り、檜もまた間もなく去る。檜が再び宰相となり国を誤った時には、安国は既に死していた。黄亀年が初めて檜を弾劾し、専ら和議を主とし、恢復を沮止し、党を植え権を専らにし、漸くすべからざるに至ったとし、ついに檜を王莽・董卓に比す。八月、檜罷免され、観文殿学士・提挙江州太平観となる。
五年、金主既に死し、撻懶が議を主とし、ついにその和を成す。二月、資政殿学士に復し、旧のごとく宮祠に任ぜらる。六月、観文殿学士・知温州に任ぜらる。六年七月、知紹興府に改む。間もなく醴泉観使兼侍読に任ぜられ、行宮留守を充てる。孟庾が同留守となり、並びに尚書省・枢密院に権赴して庶事を参決す。時に既に詔を降して行幸せんとし、檜は扈従を乞うも、許されず。帝が平江に駐蹕し、檜を行在に召し赴かせる。右相張浚の推薦によるなり。十二月、檜は醴泉観兼侍読として講筵に赴く。七年正月、何蘚が金に使いして還り、徽宗及び寧徳后の訃報を得る。帝は号慟して喪を発し、即日檜に枢密使を授け、恩数は宰臣に視す。四月、王倫を命じて金国に使いし梓宮を迎え奉らしむ。
九月、浚去職を求む。帝問う、「誰か卿に代わり得る」と。浚答えず。帝曰く、「秦檜は如何」と。浚曰く、「これと共事して、始めてその暗愚を知る」と。帝曰く、「然らば趙鼎を用いよ」と。鼎はここにおいて再び宰相となる。台諫は交々上章して浚を論じ、嶺表に安置す。鼎は同列と約して救解せんとす。張守と面奏し、各々千百言を数うるも、檜は独り一言も無し。浚は遂に永州に謫せらる。初め、浚・鼎は甚だ相得、浚は先達として、力を尽くして鼎を引き入れた。嘗て共に人材を論じ、浚は激しく檜の善を談じたが、鼎曰く、「この人志を得ば、吾人は足を措く所無からん」と。浚は然りとせず、故に檜を引き入れ、共に政務を執って始めてその暗愚を知り、再び推薦すること無し。檜はここにおいて浚を恨み、反って鼎に謂う、「上は公を召さんと欲するも、張相が遅留す」と。蓋し鼎を怒らせて浚を排斥せしめんとするなり。檜は枢密府においてはただ鼎に聴き、鼎は素より檜を悪むも、ここにおいて反って深くこれを信じ、ついに傾けらるるに至る。鼎と浚は後に閩で遇い、このことに言及し、始めて皆檜に売られたことを知る。
十一月、奉使朱弁が書を以て粘罕の死を報ず。帝曰く、「金人暴虐、亡びずして何を待たん」と。檜曰く、「陛下ただ徳を積まれよ。中興は固より時あり」と。帝曰く、「これ固より時あり。然れども亦た施為する所あるべく、然る後に以て志を得べし」と。
十月、宰執が入見したが、秦檜のみが独り留身し、言うには、「臣僚は首尾を畏れ、多く両端を持し、これ大事を断つに足らず。もし陛下が講和を決意せられば、乞うらくは専ら臣と議し、群臣の参与を許さざらんことを。」帝曰く、「朕は独り卿に委ぬ。」檜曰く、「臣もまた未だ便ならざるを恐る。望むらくは陛下更に三日を思し召し、臣をして別に奏せしめよ。」また三日後、檜また留身して奏事す。帝の和を欲する意は甚だ堅し。檜なお未だならずと以為い、曰く、「臣は別に未だ便ならざることを恐る。願わくは陛下更に三日を思し召し、臣をして別に奏せしめよ。」帝曰く、「然り。」また三日後、檜また留身して奏事すること初めの如し。上意の確かに移らざるを知り、乃ち文書を出して和議を決するを乞い、群臣の参与を許さざらんことを請う。
趙鼎は力を尽くして去位を求め、少傅として出て紹興府を知る。初め、帝に子無し。建炎の末、范宗尹が造膝して請う有り、遂に宗室の令懬に命じて藝祖の後を択ばしむ。伯琮・伯玖を得て宮中に入る。皆藝祖の七世孫なり。伯琮は名を瑗と改め、伯玖は名を璩と改む。瑗は先に建節し、建国公に封ぜらる。帝は鼎に諭して専ら其の事を任ぜしむ。また資善堂の建立を請う。鼎が罷むると、言者は鼎を攻め、必ず資善を以て口実とす。及びび鼎・檜が再び相となると、帝は御札を出し、璩を節度使と為し、呉国公に封ず。執政が聚議す。枢密副使王庶之を見て大呼して曰く、「后を並べ嫡を匹す、此れ行うべからず。」鼎以て檜に問うも、答えず。檜更に鼎に問う。鼎曰く、「丙辰に罷相してより、議者は専ら此を以て藉口とす。今は嫌を避くべし。」と。共に奏して面して御筆を納るるを約す。及び帝の前に至るも、檜は一語も無し。鼎曰く、「今建国公は上に在り。名は未だ正しからずと雖も、天下の人は陛下に子有るを知れり。今日の礼数は異ならざるを得ず。」帝乃ち御筆を留めて議を俟つ。明日、檜留身して奏事す。後数日、参知政事劉大中が参告し、亦此を以て言とす。故に鼎と大中は俱に罷む。明年、璩は遂に保大軍節度使を授けられ、崇国公に封ぜらる。故に鼎が入辞するに、帝を勧めて曰く、「臣去りて後、必ず孝弟の説を以て陛下を脅制する者有らん。」出て檜を見るに、一揖して去る。檜も亦之を憾む。
鼎既に去り、檜独り国を専らにし、決意して和を議す。中朝の賢士、議論合わざるを以て、相継ぎて去る。ここにおいて、中書舎人呂本中・礼部侍郎張九成は皆和議に附和せず。檜之に諭して優遊委曲せしむ。九成曰く、「己を枉ぐして能く人を正す者未だ有らず。」檜深く之を憾む。殿中侍御史張戒は上疏して趙鼎を留むるを乞い、又十三事を陳べて和議の非を論じ、檜に忤う。王庶は檜と尤も合わず、淮西より枢庭に入り、終始和議の是に非ざるを言い、疏凡そ七上す。且つ檜に謂いて曰く、「而東都に趙氏を存せんと欲せし時を忘れたるか、何ぞ此の敵を遺すや。」檜方に金人を挟んで自ら重しと為し、尤も庶の言を恨む。故に之を出だす。
金使の張通古・蕭哲は江南を詔諭するを名と為す。檜猶お物論の己を咎むるを恐れ、哲等と議し、江南を宋と改め、詔諭を国信と為す。京淮宣撫処置使韓世忠は凡そ四上疏して力諫し、「金は劉豫を以て相待す」の語有り。且つ兵勢の重き処は、願わくは身を以て之に当らんと言う。許されず。哲等既に泗州に至り、過ぐる州県に要して臣礼を以て迎えさせ、臨安に至る日は、帝に客礼を以て待たんと欲す。世忠益々憤り、再疏して言う、「金は詔諭を以て名と為し、暗に陛下を帰順せしむるの義を致す。此れ主辱れ臣死すの時なり。願わくは死戦を効い以て勝敗を決せん。若し其れ克たずんば、委曲に之に従うも未だ晩しからず。」と。亦許されず。哲等既に境に入る。接伴使范同は再拝して金主の起居を問う。軍民之を見る者、往々流涕す。平江を過ぐるに、守臣の向子諲は拝せず、致仕を乞う。哲等は淮安に至り、先ず河南の地を帰し、且つ上を冊して帝と為し、徐ろに余事を議すと言う。
九年、金人が河南・陝西の故地を返還し、王倫を簽書樞密院事とし、迎奉梓宮・奉還兩宮・交割地界使を充て、藍公佐をその副使とした。判大宗正事士㒟・兵部侍郎張燾が八陵に朝拝した。帝は宰執に謂いて曰く、「河南は新たに回復せり。宜しく守臣を命じて専ら遺民を撫し、農桑を勧め、各々其の地に因りて以て食い、其の人に因りて以て守らしむべし。東南の財を移し、内を虚しくして以て外に事うるべからず」と。帝は檜の和議を聴きながらも実は金の詐りを疑い、未だ備えを弛めざりき。
時に張浚は永州に在り、馳せて奏し、力を以て石晉・劉豫を戒めと為すを言い、復た孫近に書を遺し、「帝秦の禍は、発くること遅くして大なり」と。徐俯は上饒を守り、連南夫は広東を帥とし、岳飛は淮西を宣撫し、皆賀表に因りて諷を含む。俯曰く、「禍福は倚伏し、情偽は多端なり」と。南夫曰く、「信ぜずとも亦信ず、其の然り豈に然らんや?虞舜の十二州と雖も、皆王化に帰す、然れども商於の六百里は、当に爾の欺くを念うべし」と。飛曰く、「暫くの急を救いて倒懸を解くは、猶之れ可なり、長慮を欲して中国を尊ぶは、豈に其れ然らんや」と。他の如きは秘書省正字汪応辰・樊光遠・澧州推官韓紃・臨安府司戸参軍毛叔慶、皆金人の測るべからざるを言い、迪功郎張行成は『詢蕘書』二十篇を献じ、大意は古より講和、終わり変ぜざる者無しと言い、条具する者は皆予備の策なり。檜悉く之に黜責を加え、紃は循州に貶せらる。
七月、兀朮其の領三省事宗磐及び左副元帥撻懶を殺し、王倫を中山府に拘す。蓋し兀朮は地を帰するを二人の主と為すを以て、将に他謀有らんとす。倫嘗て密かに朝に奏す、檜之を備えず、但だ倫の進むを促す。時に韓世忠に乗懈掩撃の請有り、檜『春秋』は喪を伐たずと言い、帝の意と合し、遂に已む。
十年、金人果たして盟を敗り、四道に分かれて入侵す。兀朮は東京に入り、葛王褎は南京を取り、李成は西京を取り、撒離喝は永興軍に向かう。河南諸郡相継いで陷没す。帝始めて大いに怪しみ、詔を下して兀朮を罪状す。御史中丞王次翁奏して曰く、「前日の国是は、初め主議無し。事小変有れば、則ち更に他の相を用い、後來の者は必ずしも賢ならず、而して異党を排黜し、紛紛として累月定まる能わず。願わくは陛下以て至戒と為さんことを」と。帝深く之を然りとす。檜は群言を力排し、終始和議を以て自ら任とし、而して次翁の主議無きを謂うは、専ら檜の地を為すなり。ここに於いて檜の位復た安く、之に拠ること凡そ十八年、公論之を撼搖する能わず。
六月、檜奏して曰く、「徳に常師無く、善を主と為すを師と為す。臣昨見るに撻懶に割地講和の議有り、故に陛下を賛して河南の故疆を取らしむ。今兀朮其の叔撻懶を戕し、藍公佐帰り、和議已に変ず、故に陛下を賛して吊伐の計を定めしむ。願わくは江上に至り諸帥を諭し同力招討せしめん」と。卒に行われず。閏六月、趙鼎を興化軍に貶し、王次翁の檜の旨を受け、其の規図復用を言うを以てす。言者已まず、尋いで潮州に竄す。
時に張俊は亳州を克し、王勝は海州を克し、岳飛は郾城を克し、幾くんか兀朮を獲んとす。張浚は長安に戦いて勝ち、韓世忠は泇口鎮に勝つ。諸将の向かう所皆捷を奏す。而して檜は力を主として班師す。九月、詔して飛に行在に還らしめ、沂中に鎮江に還らしめ、光世に池州に還らしめ、錡に太平に還らしむ。飛の軍詔を聞き、旗靡れ轍乱る。飛口呿して合する能わず。ここに於いて淮寧・蔡・鄭復た金人の有と為る。明堂の恩を以て檜を莘国公に封ず。十一年、兀朮再び挙り、寿春を取り、廬州に入る。諸将邵隆・王德・関師古等連戦皆捷す。楊沂中は拓皋に戦い、又之を破る。檜忽ち沂中及び張俊に諭して遽かに班師せしむ。韓世忠之を聞き、濠州に止まり進まず、劉錡之を聞き、寿春を棄てて帰る。ここより後復た兵を出さず。
四月、檜は諸将の兵権を尽く収めんと欲し、給事中范同献策す。檜之を納る。密かに三大将を召し功を論じ賞を行わんと奏す。韓世忠・張俊並びに樞密使と為り、岳飛は副使と為り、宣撫司の軍を以て樞密院に隷せしむ。六月、左僕射・同中書門下平章事兼樞密使を拝し、慶国公に進封さる。『徽宗実録』成り、少保に遷り、冀国公を加封さる。先に、莫将・韓恕金に使し、涿州に拘さる。ここに至り、兀朮に求和の意有り、之を釈して帰らしむ。檜復た劉光遠・曹勳を遣わし金に使せしむるを奏し、又魏良臣を通問使と為す。未だ幾ばくもなく、良臣金使蕭毅等と偕に来り、淮水を以て界と為し、唐・鄧二州の割を求むるを議す。尋いで何鑄を遣わし報聘せしめ、之を許す。
十月、岳飛の獄を興す。檜諫官万俟禼をして其の罪を論ぜしめ、張俊又飛の旧将張憲の謀反を誣う。ここに於いて飛及び子雲倶に大理寺に送られ、御史中丞何鑄・大理卿周三畏に之を鞫せしむ。十一月、李光を藤州に貶し、范同参知政事を罷む。同は和議に附和すと雖も、自ら事を奏するを以て、檜之を忌むなり。十二月、岳飛を殺す。檜は飛の屡々和議の失計を言い、且つ嘗て国本を定むるを奏請し、倶に檜と大いに異なるを以て、必ず之を殺さんと欲す。鑄・三畏初めに鞫す、久しく伏せず、禼臺に入り、獄遂に上る。飛嘗て自ら言う「己と太祖は皆三十歳にて建節す」と為すを誣り、乗輿を指斥し、詔を受けて淮西を救わざる罪と為し、獄中に賜死す。子雲及び張憲は都市にて殺さる。天下之を冤とし、聞く者は涕を流す。飛の死は、張俊力有り、語は『飛伝』に在り。
洪皓が金国より帰還し、名節は特に顕著であったが、金の酋長室撚の言葉を伝えたことにより、直ちに翰林院に入れられて一月足らずで追放された。室撚とは、粘罕の側近である。初め、粘罕が行軍して淮上に至った時、檜はかつて彼のために檄文を起草し、室撚に見られたので、洪皓の帰還に際して声を託したのである。檜は士大夫に知る者などいないと思っていたが、洪皓の言葉を聞き、深く遺憾とし、そこで李文会に命じて彼を弾劾させた。胡舜陟は朝政を嘲笑した罪で獄に下され死に、張九成は浮言を鼓吹した罪で流罪となり、僧宗杲にまで累が及び、編配されたが、いずれも言葉が檜に逆らったためである。張邵もまた、檜に対して金人が欽宗及び諸王・后妃を帰還させる意向があると述べた罪で、外祠に斥けられた。十四年、黄亀年を貶したが、以前に檜を論じたためである。閩・浙で大水があり、右武大夫白鍔が「燮理乖謬(政治が道理に背いている)」と発言し、刺配して万安軍に送られた。太学生張伯麟がかつて壁に「夫差、爾忘越王殺而父乎(夫差よ、汝は越王が汝の父を殺したことを忘れたのか)」と題し、脊杖の上、刺配して吉陽軍に送られた。故将の解潛は罷官して閑居し、辛永宗は外郡で軍を統率していたが、これも和議に附和しなかった罪で、解潛は南安に流されて死に、辛永宗は編置されて肇慶で死んだ。趙鼎・李光はいずれも再び流罪となり、海を渡った。洪皓の罪は白鍔が彼を称揚したことによるものであり、李光は藤州で唱和した詩に檜を諷刺するものがあったことを、守臣に告発されたためである。
先に、建国公の出閣を議した際、吏部尚書呉表臣・礼部尚書蘇符ら七人が礼について論じたことが檜の意に反し、ここに至って表臣らは討論が不祥であり、姦を懐いて趙鼎に附いたとして皆罷免された。初め、檜は上に言上して、「趙鼎が皇太子を立てようとしたのは、陛下に終に子が無いと待つものであり、宜しく親子が生まれるのを待って立てるべきです」と言った。そこで御史中丞詹大方を嗾けて、趙鼎の邪謀密計は深く測り難く、范冲らと共に皆異意を懐き、妄らに無妄の福を求めたと上言させた。范冲はかつて資善翊善を務めたので、大方はこれを誣いたのである。その後、監察御史王鎡が帝に嗣子が無いことを言い、宜しく高禖を祀るべきと上言し、詔して圜丘の東に壇を築かせたが、これらは皆檜の意であった。
十五年、秦熺は翰林学士兼侍読に任ぜられた。四月、檜に甲第を賜い、教坊の楽を命じて導いて入らせ、緡銭・金・綿を差等有りて賜う。六月、帝は檜の邸に幸し、檜の妻・婦・子・孫は皆恩を加えられた。檜は先に私史を禁じていたが、七月、また帝に対し私史が正道を害すると言上した。時に司馬伋は遂に『涑水記聞』はその曾祖司馬光が論著した書ではないと上言し、その後李光の家もまた光の所蔵書万巻を焼いた。十月、帝は親しく「一徳格天」と書いてその閣に扁額を掲げた。十六年正月、檜は家廟を立てた。三月、祭器を賜い、将相が祭器を賜わるのは檜から始まった。
先に、帝は彗星が現れたことを以て上言を求めた。張浚が上疏し、言うには、「今の事勢は頭目心腹の間に大なる疽を養うが如く、決せざれば止まず、願わくは豫め備えを謀られたい。然らずんば、異時に国を敵に与える者は、反って正議に罪を帰すでしょう」と。檜は久しく張浚を恨んでいたが、ここに至って大いに怒り、即座に張浚の節鉞を落とし、連州に貶し、尋いで永州に移した。
十七年、檜を益国公に改封した。五月、洪皓を英州に移して貶した。八月、趙鼎が吉陽軍で死んだ。この夏、先に趙鼎は赦に遇っても永く検挙しないとの旨があり、また月ごとに存亡を申告するよう命じられ、鼎はこれを知り、食を絶って卒した。鼎が謫されて以来、門人故吏は皆罪に羅織され、その死を聞いて嘆息した者さえも罪に加えられた。また呂頤浩の子呂摭を藤州に流した。十二月、進士施鍔が『中興頌』・『行都賦』及び『紹興雅』十篇を上進し、永く文解を免ぜられた。ここより頌詠導諛は愈々多くなった。百官に喜雪の御筵を檜の邸で賜う。
十八年、秦熺は知枢密院事に任ぜられた。檜は胡寅に問うて、「外議は如何か」と言うと、胡寅は「公相は必ずや蔡京の跡を襲わないと為しています」と答えた。五月、李顕忠が恢復の策を上進し、軍職を落とされ、祠官とされた。六月、迪功郎王廷珪は辰州に編管され、胡銓を送る詩を作ったためである。閏八月、福州が民が竹の実を万斛採って飢えを救ったと上言した。十一月、胡銓は新州より移して吉陽軍に貶したが、頌を作って謗訕したためである。
十九年、帝は命じて檜の像を描かせ、自ら賛を為した。この年、湖・広・江西・建康府はいずれも甘露が降ったと上言し、諸郡は獄空を奏上した。帝はかつて檜に語って、「今より獄空を奏する者あらば、当に監司に実を検せしむべし。もし妄誕ならば、即ち按治し、仍って御史台に察せしめよ。もし懲戒せざれば、則ち甘露・瑞芝の類を奏し、虚を崇め誕を飾りて、至らざる所無からん」と言った。帝は檜を眷顧していたが、このように蔽い欺くことは出来なかったのである。十二月、私に野史を作ることを禁じ、人の告発を許した。
二十年正月、檜が朝に趨った時、殿司の小校施全が檜を刺したが中らず、市で磔にされた。ここより毎回外出する際、五十人の兵を列ねて長梃を持たせて自衛した。この月、曹泳が李光の子孟堅が光の作った私史を省み記していたと告発し、獄が決し、光は既に久しく流されていたが、詔して永く検挙せず、孟堅は峡州に編置し、朝士で連坐した者八人は皆落職・貶秩し、胡寅は新州に流した。曹泳はここより驟用された。五月、秘書少監湯思退が檜の趙氏を存する本末を史館に付するよう奏上した。六月、秦熺に少保を加えた。鄭煒がその郷人で福建安撫司機宜の呉元美が『夏二子伝』を作り、蚊・蠅を指したこと、家に潜光亭・商隠堂があり、亭号を潜光とするのは李(光)に与する心あり、堂名を商隠とするのは秦(檜)に事える意無し、と告発した。故に檜は特にこれを憎んだ。右迪功郎安誠・布衣汪大圭を編管し、蔭有る人惠俊・進義副尉劉允中を斬り、径山の僧清言に黥を施したが、皆謗訕のためである。時に檜は病が癒え、朝参には肩輿を許され、二孫が扶掖し、仍って拝礼を免じられた。二十一年、朝散郎王揚英が上書して秦熺を宰相に推薦し、檜は揚英を泰州知州に奏した。
六月、王循友が前に建康を治めし時、秦檜の族党を罪せしことを以て、循友を藤州に安置す。八月、王趯が李光の内徙を求めしにより、趯は辰州に編管せらる。鄭玘・賈子展は会中に和議を嘲謔するの語ありしにより、玘は容州に竄せられ、子展は徳慶府に竄せらる。方疇は胡銓と通書せしにより、永州に編置せらる。十二月、魏安行・洪興祖は程瑀の『論語解』を広く伝えしにより、安行は欽州に編置せられ、興祖は昭州に編置せらる。また程緯を竄す。上を慢り礼無きを以てす。
帝嘗て檜に諭して曰く「近頃輪対する者、多く謁告して避け免る。百官の輪対は、正に未だ聞かざる所を聞かんと欲するなり。検挙して約束せしむべし」と。檜が政を擅にして以来、人言を屏塞し、上の耳目を蔽い、凡そ一時献言する者は、檜の功德を誦せざれば、則ち人の言語を訐って善類を中傷す。言わんと欲する者は恐れて忌諱に触れ、国事を言うを畏れ、僅かに銷金鋪翠・鹿胎冠子の禁を乞うの類を論じて、以て責めを塞ぐのみ。故に帝これに及ぶは、蓋しまた檜の壅蔽を防がんがためなり。
衢州嘗て盗賊起こる。檜は殿前司将官辛立に将いて千人を以てこれを捕えしむ。もって上聞せず。晋安郡王、入侍に因りてこれを言う。帝大いに驚き、檜に問う。檜曰く「聖慮を上煩するに足らず、故に敢えて聞えず。盗賊平らげば即ち奏すべし」と。退きてその故を求め、晋安の言いしを知り、遂に晋安が秀王の喪に居りて俸を給すべからざるを奏し、月に二百緡を損ず。帝は内帑を出してこれに給す。
紹興二十五年二月、沈長卿が旧に李光とともに和議を譏り、また芮燁とともに『牡丹詩』を賦し、「寧ろ漢の社稷を令して、莽の乾坤に変ぜしめん」の句ありしを、隣人の告ぐる所となり、長卿は化州に編置せられ、燁は武岡軍に編置せらる。静江に秦城と名づくる駅あり。知府呂愿中、賓僚を率いてともに『秦城王気詩』を賦して檜に媚び、賦さざる者は劉芮・李燮・羅博文の三人のみ。愿中ここより召され得る。また張扶は檜に金根車に乗るを請い、また益国の官属を置き九錫を議するを乞う者あり。檜これを聞きて安然たり。十月、専門の学を禁ず。太廟の芝を以て華旗に絵し、凡そ郡国の奏する瑞木・嘉禾・瑞瓜・双蓮悉くこれを絵す。
趙令衿、檜の『家廟記』を観て、口に「君子の沢は、五世にして斬つ」と誦す。汪召錫の告ぐる所となる。御史徐𡕇また趙鼎の子趙汾が令衿と飲別して厚く贐を贈りしを論じ、必ず姦謀有りとす。詔して大理寺に送り、令衿を南外宗正司に拘す。檜、一徳格天閣に趙鼎・李光・胡銓の姓名を書き、必ずこれを殺して後已まんと欲す。鼎は既に死すも憾みて措かず、遂に汾を孥戮せんと欲す。檜は張浚を忌むこと尤も甚だしく、故に令衿の獄、張宗元の罷免、皆浚に波及す。浚は永州に在り、檜はまたその死党張柄をして潭州を知らしめ、郡丞汪召錫とともにこれを伺察せしむ。ここに至り、汾をして自ら浚及び李光・胡寅と大逆を謀りしと誣らしむ。凡そ一時の賢士五十三人皆これに関与せり。獄成るも、檜病みて書く能わず。
この月乙未、帝、檜の第に幸して疾を問う。檜一語も無く、唯だ流涕するのみ。熺、代わって相位に居らんことを請う。帝曰く「この事は卿関与すべからず」と。帝遂に権直学士院沈虚中に命じ、檜父子の致仕の制を草せしむ。熺なおその子塤と林一飛・鄭柟を遣わし、夜に臺諫徐喜・張扶に見えて、己が相たることを奏請せんことを謀る。丙申、詔して檜に建康郡王を加封し、熺を少師に進め、皆致仕せしむ。塤・堪並びに江州太平興国宮を提挙す。この夜、檜卒す。年六十六。後に申王を贈り、諡して「忠献」とす。
檜が両たび相位に据わること、凡そ十九年。君父を劫制し、禍心を包蔵し、和議を倡えて国を誤り、仇を忘れ倫を斁す。一時の忠臣良将、誅鋤略ほぼ尽く。その頑鈍無恥の者、率ね檜に用いられ、争いて善類を誣陷するを功とす。その矯誣するや、罪状とすべき無く、誹謗・指斥・怨望・立党沽名を曰うに過ぎず、甚だしきは則ち君心無き有りと曰う。凡そ人を論ずる章疏は、皆檜自ら操りて言者に授く。識る者は曰く「これ老秦の筆なり」と。察事の卒、京城に満ち佈り、小しく譏議に渉れば、即ち捕え治め、深文を以て中る。また内侍及び医師王継先と陰に結び、上の動静を伺う。郡国の事は唯だ省に申すのみ、一も上の前に至る者無し。檜死して後、帝方に人とこれを言う。
檜は久任の説を立て、士は淹滞して職を失い、十年解かれざる者有り。己に附く者は立って擢用せらる。その独相より、死するの日に至るまで、執政を易えること二十八人、皆世に一誉無し。柔佞にして制し易き者、孫近・韓肖胄・楼炤・王次翁・范同・万俟禼・程克俊・李文会・楊愿・李若谷・何若・段拂・汪勃・詹大方・余堯弼・巫伋・章夏・宋朴・史才・魏師遜・施鉅・鄭仲熊の徒の如きは、率ね冗散より抜き、遽かに政地に躋る。既に政を共にすれば、則ち拱默するのみ。また多く言官に自ら檜の弾撃を聴き、輒ち政府を以てこれに報ゆ。中丞・諫議より昇る者凡そ十二人。然れども甫に入りて即ち出で、或いは一月、或いは半年にして即ち罷め去る。唯だ王次翁は四年を閲し、金人の盟を敗るの初めに相を易えざるの論を持せしを以て、檜これに徳する深かりしなり。門を開き賂を受け、富は国に敵す。外国の珍宝、死するに及びてなお門に及ぶ。人謂う、熺は檜の政を秉るより日として酒具を鍛え、書画を治めざる日無しと。特だその細事なる爾。
檜の陰険なること崖阱の如く、深阻にして竟に測るべからず。同列、上前に事を論ずるも、未だ力んで弁ぜず、但だ一二語を以て傾擠す。李光嘗て檜と争論し、言頗る檜を侵す。檜答えず。光の言畢るに及び、檜徐に曰く「李光に人臣の礼無し」と。帝始めてこれを怒る。凡そ忠良を陥るるに、率ねこの術を用う。晚年は残忍尤も甚だしく、数えて大獄を興し、また諛佞を喜び、形跡を避けず。