宋史

列傳第二百三十一 姦臣二 蔡京弟:卞 子:攸 翛 族子:崈 趙良嗣 張覺 郭藥師

蔡京

蔡京、字は元長、興化仙遊の人なり。熙寧三年の進士第に登り、錢塘尉・舒州推官に調じ、累遷して起居郎となる。遼に使いして還り、中書舎人を拝す。時に弟卞既に舎人たり。故事に、官に入るは先後を以て序とす。卞、京の下に班せんことを乞う。兄弟同に書命を掌る。朝廷之を栄しむ。龍図閣待制に改め、開封府を知る。

元豊の末、大臣議して立つ所を議す。京、蔡確に附き、将に王珪を害して定策の功を貪らんとす。克たず。司馬光政を秉る。復た差役法を為し、期を五日とす。同列病むに太だ迫りと為すも、京独り約の如く、悉く畿県の雇役を改め、一も違う者無し。政事堂に詣でて光に白す。光喜びて曰く、「人をして法を奉ずること君の如くせしめば、何ぞ行う可からざる有らんや」と。已にして台諫、京の邪を挟み法を壊すを言う。成徳軍を知りて出で、瀛州に改め、成都に徙す。諫官范祖禹、京の用う可からざるを論ず。乃ち江淮荊浙発運使に改め、又た揚州を知るに改む。歴て鄆・永興軍、遷りて龍図閣直学士、復た成都を知る。

紹聖初め、入りて権戸部尚書と為る。章惇復た役法を変じ、司を置きて講議す。久しく決せず。京、惇に謂ひて曰く、「熙寧の成法を取りて之を施行するのみ。何を以て講ぜんや」と。惇之然りとす。雇役遂に定まる。差雇両法、光・惇同じからず。十年の間、京再び其の事に蒞る。反掌の如くに成る。両人相倚りて以て済う。識者有りて以て其の姦を見る。

卞、右丞を拝す。京を以て翰林学士兼侍読と為し、国史を修む。文及甫の獄起こる。命じて京に窮治せしむ。京、内侍張士良を捕え、令して陳衍の事状を述べしむ。即ち大逆不道を以て論じて誅し、並びに劉摯・梁燾を劾す。衍死す。二人も亦た貶死す。皆其の子孫を錮す。王巖叟・范祖禹・劉安世復た遠く竄す。京、執政を覬ふ。曾布枢密院を知り、之を忌む。密かに卞の承轄に備位するを言ひ、京は以て同升す可からずと。但だ承旨を進む。

徽宗即位し、罷めて端明・龍図両学士と為し、太原を知る。皇太后、帝に命じて京を留め史事を畢えしむ。数ヶ月を踰ゆ。諫官陳瓘、其の近侍に交通するを論ず。瓘坐に斥けらる。京も亦た出でて江寧を知る。頗る怏怏たり。遷延して之に官せず。御史陳次升・龔夬・陳師錫交へて其の悪を論ず。職を奪ひ、洞霄宮を提挙し、杭州に居す。

童貫、供奉官を以て三呉に詣で書画奇巧を訪ふ。杭に留まること累月。京と遊び、昼夜を舎てず。凡そ画く所の屏幛・扇帯の属、貫日以て禁中に達し、且つ言語を附し論奏して帝の所に至る。是に由りて帝京に意を属す。又た太学博士范致虚、素より左街道録徐知常と善し。知常、符水を以て元符后殿に出入す。致虚深く之と結び、其の平日の趣向を道ひ、相たるは京に非ざれば以て有為たるに足らずと謂ふ。已にして宮妾・宦官合して一詞と為り京を誉む。遂に致虚を擢て右正言と為し、京を起して定州を知らしむ。崇寧元年、大名府に徙す。韓忠彦と曾布交悪す。謀りて京を引きて自ら助けんとす。復た用ひて学士承旨と為す。徽宗、熙・豊の政事を修めんと意有り。起居舎人鄧洵武、京に党し、『愛莫助之図』を撰びて以て献ず。徽宗遂に意を決して京を用ふ。忠彦罷む。尚書左丞を拝し、俄に曾布に代わりて右僕射と為る。制下るの日、延和殿に坐を賜ひ、之に命じて曰く、「神宗法を創め制を立て、先帝之を継ぐ。両たび変更に遭ひ、国是未だ定まらず。朕上父兄の志を述べんと欲す。卿何を以て之を教へん」と。京頓首して謝し、願くは尽く死せんとす。二年正月、左僕射に進む。

京、逐臣より起こり、一旦志を得て、天下其の為す所を拭目す。而して京陰に「紹述」の柄を託し、天子を箝制す。条例司の故事を用ひ、即ち都省に講議司を置き、自ら提挙と為り、其の党の呉居厚・王漢之等十余人を僚属と為し、政事の大なる者を取り、宗室・冗官・国用・商旅・塩沢・賦調・尹牧の如き、一事毎に三人を以て之を主らしむ。凡そ施設する所は、皆是より出づ。馮澥・錢遹の議を用ひ、復た元祐皇后を廃す。科挙法を罷め、州県に令して悉く太学三舎の考選に仿はしむ。辟雍外学を城南に建て、以て四方の士を待つ。方田を天下に推す。江・淮七路の茶を榷し、官自ら市と為る。尽く塩鈔法を更へ、凡そ旧鈔は皆用ひず。富商巨賈嘗て数十万緡を齎持するも、一旦化して流丐と為り、甚だしきに至りては水に赴き及び縊死す。提点淮東刑獄章縡見て之を哀しみ、奏して法の民を誤るを改めんとす。京怒り、其の官を奪ふ。因りて当十大銭を鋳ち、尽く縡の諸弟を陥る。御史沈畸等、獄を治むるに失意を用ひ、羈削する者六人。陳瓘の子正彎、上書を以てしてげいし海島に置く。

南に黔中を開き、靖州を築く。辰溪の猺叛き、漵浦令を殺す。京重ねて賞を為し、一首領を殺す者を募りて之に絹三百を賜ひ、官は班行を以てし、且つ本末を質究せしめず。荊南守馬珹言す、「生猺有り、省地猺有り。今未だ叛く者何の種族なるかを知らず。若し級を計りて賞を行はば、倶に枉濫無き能はざるべし」と。蔣之奇枢密院を知り、京の意に忤らんことを恐れ、白して珹国を体せずと言ふ。京珹を罷め、命じて舒亶を以て之に代へしめ、以て群猺を勦絶するを期とす。西に湟川・鄯・廓を収め、䍧牱・夜郎の地を取る。

童貫を擢て節度使を領せしむ。其の後揚戩・藍従熙・譚稹・梁師成皆之に踵く。凡そ寄資一切転行す。祖宗の法蕩然として余無し。又た兵柄士心皆己に帰せんと欲し、澶・鄭・曹・拱州を建てて四輔と為し、各兵二万を屯し、而して其の姻昵宋喬年・胡師文を用ひて郡守と為す。禁卒于掫の月給銭五百、驟に十倍を増し以て之を固結す。威福手に在り、中外敢て議する者莫し。累転して司空しくう、嘉国公に封ぜらる。

京既に貴くして貪ますます甚だし。已に僕射の奉を受くるも、復た司空寄祿銭を創めて取る。粟・豆・柴薪と傔従の糧賜は故の如く。時に皆折支するも、亦た悉く真給に従ふ。但だ熟状に入れて奏行するのみ。帝知らず。

時に元祐の群臣貶竄死徙略く尽くす。京猶未だ愜意せず。命じて其の罪状を等しうし、首を司馬光に以てし、目して姦党と曰ひ、石に刻して文徳殿門にす。又た自ら書して大碑と為し、遍く郡国に班す。初め、元符の末、日食を以て言を求む。言者多く熙寧・紹聖の政に及ぶ。則ち又た范柔中以下を籍して邪等と為す。凡そ名の両籍に在る者三百九人。皆其の子孫を錮し、京師及び近甸に官することを得せしめず。五年、司空・開府儀同三司・安遠軍節度使に進み、魏国公に改封せらる。

時に太平の世が既に久しく、国庫は満ち溢れていた。蔡京は豊・亨・・大の説を唱え、官爵や財物を糞土の如く見なし、累朝の蓄積は地を掃うが如く尽きた。帝が大宴を催し、玉の杯と玉の卮を輔臣に示して言うには、「これを用いたいが、人が華美すぎると言うのを恐れる」と。蔡京は言う、「臣が昔、契丹に使いした時、玉の盤や杯を見ましたが、皆、石晋の時代の物で、それを持って臣に誇り、南朝には此れが無いと言いました。今、これを上寿に用いるのは、礼に悖ることはありません」と。帝は言う、「先帝が僅か数尺の小台を作られた時、上封する者が甚だ多かった。朕はその言を甚だ畏れる。この器は既に久しく出来上がっているが、もし人の非難がまた起これば、久しくなれば弁明できまい」と。蔡京は言う、「事が理に適っていれば、多くの言葉は畏れるに足りません。陛下は天下の奉りを享けられるべきで、区区たる玉器など、何を問題にされましょうか」と。

五年正月、彗星が西方に出て、その長さは天を貫いた。帝は言事者が元祐党籍碑を毀すことを聞き、蔡京の建置したものは凡て一切罷めた。蔡京は免ぜられて開府儀同三司・中太乙宮使となった。その党与が密かに上(皇帝)に取り入り、大観元年、再び左僕射に任ぜられた。南丹の帰土に因り、越階して太尉に任ぜられ、八宝を受けて、太師に任ぜられた。

三年、台諫が相次いでその悪を論じ、遂に致仕させられた。然し尚も『哲宗実録』修撰を提挙し、楚国公に改封され、朔望の朝参を許された。太学生の陳朝老が蔡京の悪事十四箇条を追って上疏した。曰く、上帝を瀆し、君父を罔し、奥の援を結び、爵禄を軽んじ、費用を広げ、法度を変え、制作を妄りにし、諛導を喜び、台諫を箝し、親党を熾んにし、奔競を長じ、釈老を崇め、土木を窮め、遠略を矜る。遠方に投じて魑魅を禦がんことを乞う、と。その書が出ると、士人は争って相伝写し、実録と為した。四年五月、彗星が再び奎宿・婁宿の間に現れた。御史の張克公が蔡京が輔政八年、権勢は海内を震わせ、軽々しく賜与して国用を蠹し、爵禄に託けて私恩を売り、将作を役して居第を修め、漕船を用いて花石を運んだと論じた。聖寿を祝うと名付けて塔を修め、臨平の山を壮麗にし、灌田に託けてと水を決し、「興化」の讖に符合させた。法名を退送とし、門号を朝京とす。方田は安業の民を擾し、圜土は徙郡の悪を聚む。不軌不忠、凡そ数十事に及ぶ。先に、御史中丞の石公弼・侍御史の毛注が数度蔡京を弾劾したが、聞き入れられなかった。ここに至り、太子少保に貶ぜられ、杭州に出居させられた。

政和二年、京師に召還され、再び輔政し、魯国公に徙封され、三日に一度都堂に至って政事を治めた。蔡京が去った時、中外の学官に時政を題として策士する者が頗るあった。淮西学士提挙の蘇棫が自ら売り込もうと、五年間の策問を索め、その尋ねる所を校して向背を観ようと献議し、そこで停職・更迭に坐する者三十余人を出した。初め、国の制度では、凡そ詔令は皆中書門下が議し、その後学士に命じて作らせた。熙寧年間に至り、内降の手詔で中書門下の共議を経ないものがあり、これは大臣が密かに中から為したものである。蔡京に至っては、また言事者が己を議するのを患い、故意に御筆を密かに進め、徽宗に親書を乞うて降し、之を御筆手詔と謂い、違う者は違制の罪に坐させた。事の巨細を問わず、皆これに託して行われ、帝の筆跡に似ざるものに至るまで、群下は皆敢えて言う者無し。ここより貴戚・近臣が争って請い求めるに至り、中人の楊球に代書させ、「書楊」と号するに至った。蔡京はまたこれを病んだが、亦止めることが出来なかった。

既に又官名を更定し、僕射を太宰・少宰と為し、自ら公相と称し、三省を総治した。王安石・蔡確を追封して皆王と為し、省吏の員額を復立てず、五品の階に至っては百数を数え、一身で十余の俸を兼ねる者あり。侍御史の黄葆光がこれを論じ、直ちに昭州に竄せられた。旧吏の魏伯芻を抜擢して榷貨を領させ、料次銭券百万緡を造って進上すると、徽宗は大いに喜び、左右に示して言うには、「此れは太師が朕に与えた俸料なり」と。伯芻を徽猷閣待制に抜擢した。

蔡京は毎度帝に言うには、今、泉幣の積み貯めは五千万を超え、和は以て楽を広うるに足り、富は以て礼を備えるに足る、と。そこで九鼎を鋳造し、明堂を建立し、方沢を修め、道観を立て、『大晟楽』を作り、定命宝を制定した。孟昌齢を都水使者に任じ、大伾の三山を鑿ち、天成・聖功の二橋を創り、大いに工役を興し、慮るに四十万を下らなかった。両河の民は愁困して聊生せず、然るに蔡京は恬然として自ら稷・契・周・召であると為した。又、宮室を広めて上を寵媚せんと欲し、童貫ら五人を召し、禁中が狭隘である状を仄めかした。童貫らは皆聴命し、各々力の及ぶ所を見て、争って侈麗高広を以て相誇り、延福宮・景龍江の工役が起こり、次第に艮嶽に及んだ。

子の蔡攸・蔡儵・蔡翛、蔡攸の子の蔡行は皆大学士に至り、執政の待遇を受けた。蔡鞗は茂徳帝姫を尚んだ。帝は七度その邸に幸し、賜与は算うる無し。座を命じて觴を伝え、略ぼ家人の礼を用いた。賎しい者が大官に居り、媵妾が夫人に封ぜられた。然し公論は益々与せず、帝も亦これを厭い薄くした。

宣和二年、致仕を命ぜられた。六年、朱勔の地に因り、再び起用されて三省を領した。蔡京はここに至って四度国政を担当し、目は昏眊して事を為す能わず、全て季子の蔡絛に決させた。凡そ蔡京が判ずる所は、皆蔡絛が為し、且つ蔡京に代わって入奏した。毎度朝に造る時、侍従以下は皆迎えて揖し、囁き耳語し、堂吏数十人が案を抱えて後に従った。ここより恣に姦利を為し、密かに威柄を弄び、急にその婦兄の韓梠を引き抜いて戸部侍郎と為し、密謀を醸成し、朝士を斥逐し、宣和庫式貢司を創設し、四方の金帛と府蔵の儲えを尽く拘括してこれを実らせ、天子の私財と為した。宰臣の白時中・李邦彦は唯文書を奉行するのみで、既に堪えられなかった。兄の蔡攸も亦その事を発し、上怒り、之を竄せんと欲したが、蔡京が力を尽くして免じを乞い、特詔で侍養を停め、韓梠を黄州に安置した。未だ幾ばくもなく、蔡絛の侍読を褫奪し、賜った出身の勅を毀ち、蔡京も亦致仕した。丁度白時中らが蔡絛を罷めて以て蔡京を揺さぶろうとすると、蔡京は全く去る意無し。帝は童貫を呼んで蔡京の許に遣わし、上章して政事を謝せしめると、童貫が至ると、蔡京は泣いて言う、「上は何故蔡京を数年も容れられぬのか。必ずや讒譖する者がいるのだろう」と。童貫は言う、「知りません」と。蔡京は已む無く、章を童貫に授けた。帝は詞臣に命じて代わりに三つの表を作って去りを請わせ、乃ち制を降して之に従った。

欽宗が即位すると、辺境の急報日増しに急なり。蔡京は全家を挙げて南下し、自らの安全を図った。天下は蔡京を六賊の首と罪し、侍御史の孫覿らが初めて其の姦悪を極めて疏し、乃ち秘書監として南京に分司させ、連続して崇信軍節度副使・慶遠軍節度副使に貶し、衡州に安置し、又韶州・儋州の二州に徙せられた。潭州に至って死す。年八十。

蔡京は天資凶譎にして、智を舞わして人を御し、人主の前では、専ら狙い伺って固位の計と為し、終始一つの説を以て、拘攣の俗を越え、四海九州の力を竭くして以て自らを奉ずべしと謂った。帝も亦其の姦を知り、屡々罷め屡々起用し、且つ蔡京と合わざる者を選んで執政とし以て之を牽制した。蔡京は毎度退免せられんと聞けば、輒ち入見して哀れみを祈り、蒲伏して叩頭し、復た廉恥無し。燕山の役に、蔡京は蔡攸を送るに詩を以てし、陽に不可の意を寓して、事の成らざるを冀い以て自ら解せんとした。利を見て義を忘れ、兄弟を参・商の如くし、父子を秦・越の如くするに至った。暮年には家を以て府と為し、営進の徒挙って其の門に集まり、貨を輸する僮隷も美官を得、紀綱法度を棄てて虚器と為した。患失の心至らざる所無く、根株結盤して牢として脱す可からず。卒に宗社の禍を致し、雖も道路に譴死すと雖も、天下は猶も正しき典刑に処せられざるを恨みと為した。

子は八人あり、儵は先に死に、攸・翛は誅せられ、絛は白州に流されて死に、鞗は帝姫を尚するにより免れて竄せられ、余りの子及び諸孫は皆遠悪の郡に分徙せらる。

弟 卞

卞は字を元度とす、京と同年に登科し、江陰主簿に調ず。王安石女を以て妻とし、因りて之に従いて学ぶ。元豊中、張璪薦めて国子直講と為し、集賢校理・崇政殿説書を加え、起居舎人に擢げ、同知諫院・侍御史を歴任す。居職久しからず、皆王安石執政の親嫌を以て辞す。中書舎人兼侍講を拝し、給事中に進む。

哲宗立つ、礼部侍郎に遷る。遼に使いしに、遼人頗る其の名を聞く。卞適た寒疾有り、白駝車を以て載するを命ぜらる、典客者曰く「此れ、君の乗ずる所、蓋し異礼なり」と。使い還りて、龍図閣待制を以て宣州を知り、江寧府に徙り、揚・広・越・潤・陳の五州を歴任す。広州は宝貝叢湊すれども、一も取る所無し。越に徙るに及び、夷人其の去るを清め、薔薇露を以て衣に灑ぎて之を送る。

紹聖元年、復た中書舎人と為り、上疏して言う「先帝の盛徳大業は、卓然として千古の上に出で、休光を発揚するは、正に史策に在り。而るに実録の紀する所は、類多く疑似不根なり、乞うらくは験索審訂し、重ねて刊定を行い、後世の考観するに、迷惑する所無からしめん」と。詔して之に従う。卞を以て国史修撰を兼ぬ。初め、安石将に死せんとし、其の作る所の『日録』を悔い、従子の防に命じて之を焚かしむ、防は詭りて他書を以て代う。是に至り、卞即ち防の家より取りて上せ、因りて事実を芟落し、姦偽を文飾し、修むる所の実録・正史を尽く改む、ここに於いて呂大防・范祖禹・趙彦若・黄庭堅皆深譴を獲たり。翰林学士に遷る。

四年、尚書左丞を拝し、専ら「紹述」の説を託し、上は天子を欺き、下は同列を脅す。凡そ善類を中傷するは、皆密疏を建白し、然る後に帝に請うて親劄を付し外に行わしむ。章惇は巨姦と雖も、然れども猶其の術中に在り。惇は軽率にして思わず、而して卞は深阻にして寡言、論議の際、惇は毅然として主持し、卞は或いは噤して歯を啓かず。一時の論者以て為す、惇の跡は明らかにし易く、卞の心は見難しと。

徽宗即位す、諫官陳瓘・任伯雨・御史龔夬其の兄弟の姦悪を疏す、瓘へいびに卞の私史を尊び以て宗廟を厭うの罪を数え、伯雨言う「卞の悪は惇に過ぐること有り。去年の封事、数千人皆惇・卞を斬らんことを乞う、公議此に於いて見るべし」と。遂に其の大罪六有るを陳ぶ、曰く「宣仁聖烈の保佑の功を誣罔し、追廃を行わんと欲す、一なり;凡そ紹聖以来竄逐の臣僚は、皆卞啓して然る後に行わる、二なり;宮中厭勝の事起こり、哲宗方に疑い、処する所を知らず、惇は礼法官を召し通議せんと欲す、卞云く『既に法を犯せり、何ぞ礼法官の議を用いん』と。皇后是を以て罪を得、三なり;元祐の章牘を編排し、萋菲の語言、罪せらるる者数千人、議は卞より出づ、四なり;鄒浩以て言旨に忤い、卞哲宗を激怒せしめ、之を遠謫に致し、又其の親故送別の罪を治めんことを請う、五なり;蹇序辰看詳訴理の議を建て、章惇は遅疑して未だ応ぜず、卞即ち二心の言を以て之を迫る、惇は黙して敢えて対せず、即日局を置く、士大夫罪を得る者八百三十家、凡そ此れ皆卞之を謀りて惇之を行ふ、六なり。願わくは亟に典刑を正し、以て天下に謝せん」と。詔して資政殿学士を以て江寧府を知らしめ、連ねて少府少監・分司池州に貶す。

才歳を踰ゆるに、起きて大名府を知り、揚州に徙り、召されて中太乙宮使と為り、知枢密院に擢ぐ。時に京相位に居り、卞礼辞す、許さず。帝謀りて湟・鄯を復せんとし、卞に問う、卞は王厚・高永年を以て対ふ。京と合謀し、府蔵を竭くして以て辺に事へ、商人を募りて糧を運ばしめ、復た其の直の貴賤を問わず。鄯・廓に至りては斗米銭四千、束芻銭千二百、秦中騒困す。三州を取るに及び、金紫光禄大夫に進み、永年竟に帳下の執り去りて降るに為る。是より西方兵を交え、連年息まず、任伯雨の言う所を仇として追い、曲りて自ら辦理す。獄を会して証治せんと欲するに至り、諸人坐して貶せらる。

卞は心を傾邪に居し、一意に婦公王氏の行う所を以て至当と為す。兄は晩達して位は上に在り、己をして相たることを得ざらしむ、故に二府の政事時に合わざること有り。京は中旨を以て童貫を陝西制置使に用いんとす、卞言う宦者を用うるは宜しからずと、右丞張康国李憲の故事を引きて以て対ふ、卞曰く「憲を用うるは已に美事に非ず、憲は猶稍兵に習い、貫は略長とする所無し、異時必ず辺計を誤らん」と。帝中書をして之を行わしむ。京帝前において卞を詆し、卞去らんことを求め、資政殿大学士を以て河南を知る。

妖人張懷素敗る、卞素より之と遊び、其の道術神に通ずと謂い、嘗て孔子・漢高祖こうそを識り、至っては大士と称す、坐して職を降す。旋ちて観文殿学士を加え、昭慶軍節度使を拝し、入りて侍読と為り、検校少保・開府儀同三司に進み、節を易えて鎮東とす。

政和末、謁して帰り塚に上る、道に死す、年六十。太傅を贈り、諡して「文正」と曰う。高宗即位し、追責して寧国軍節度副使と為す。紹興五年、又た単州団練副使に貶す。

子 攸

攸は字を居安とす、京の長子なり。元符中、在京裁造院を監す。徽宗時に端王と為り、毎た退朝するや、攸適た局に趨る、途に於いて遇う、必ず下馬して拱立す、王左右に問い、蔡承旨の子なるを知り、心之を善しとす。即位するに及び、其の人を記し、遂に寵有り。

崇寧三年、鴻臚丞より進士出身を賜わり、秘書郎を除し、直秘閣・集賢殿修撰を以て『国朝会要』を編修し、二年間に枢密直学士に至る。京再び相に入り、龍図閣学士兼侍読を加え、『九域図志』を詳定し、『六典』を修め、上清宝籙宮・秘書省両街道録院・礼制局を提挙す。道・史の官僚百人を合し、多くは三館の雋遊なり、而して攸は大臣の子を以て其の間を領袖し、懵として学を知らず、士論与せず。初め宣和殿を置き、命じて大学士と為し、毬文方団金帯を賜い、淮康軍節度使に改む。

帝将に京を去らんとし、先ず其の党の劉昺・劉煥等を逐わしめ、御史中丞王安中をして之を劾せしむ。攸は禁庭に通籍し、其の事を聞き、亟に間を請いて百拝して以て懇う、帝の意遂に解く。其の後京と権勢日相軋ぎ、浮薄者復之を間し、父子各門戸を立て、遂に仇敵と為る。攸は別に賜第に居し、嘗て京に詣る、京正に客と語る、避けしむ、攸甫に入り、遽に起きて父の手を握り胗視の状と為し、曰く「大人の脈勢舒緩す、体中に適せざること有ること無きや」と。京曰く「之無し」と。攸曰く「禁中方に公事有り」と。即ち辞去す。客窃に窺見し、以て京に問う、京曰く「君固より此を解せず、此児吾が疾を以て吾を罷めんと欲するなり」と。数日を閲し、京果たして致仕す。季弟の絛を以て京に鍾愛せらる、数請いて之を殺さしめんとす、帝許さず。

蔡攸は開府儀同三司・鎮海軍節度使・少保を歴任し、時を選ばず参内してますます権勢を振るい、王黼とともに宮中の秘戯に参与し、あるいは曲宴に侍しては、短衫窄袴を着て青紅を塗り、俳優侏儒に混じり、多く市井の淫褻で戯れ放埓な言葉を述べて、帝の心を惑わした。妻の宋氏は禁掖に出入りし、子の蔡行は殿中監を領して執政を見下し、寵信はその父を凌いだ。帝が道家の説に留意すると、蔡攸ひとり異聞を唱え、珠星璧月・跨鳳乗龍・天書雲篆の符瑞があると称し、方士の林霊素の徒と神変の事を争って証し合った。ここにおいて神霄・玉清の祠が天下に遍く建てられ、その咎の端は蔡攸より興ったのである。

童貫が燕を伐つに当たり、蔡攸を宣撫副使としたが、蔡攸は童騃で事に習熟せず、功業は唾手にして得られると考えた。入朝して辞する日、二人の美しい嬪妃が上(皇帝)の側に侍っていたので、蔡攸はこれを指して請うて言うには、「臣が成功して帰りましたならば、これを賞として賜りたい」と。帝は笑って責めなかった。涿州留守の郭薬師が配下の八千人を擁して涿・易の二州を挙げて降ると、蔡攸を少傅に進めた。王師が燕に入ると、少師に進み、英国公に封ぜられた。帰還して、枢密院を領した。王黼が政を罷めると、帝は蔡攸を大用しようとしたが、やがて後悔し、ただ太保に進め、燕国公に転封した。帝が内禅を欲し、親しく「位を東宮に伝う」と書いて李邦彦に授けたが、邦彦は退いて立って敢えて受けず、遂に蔡攸に託した。蔡攸は退き、その客の給事中呉敏にこれを委ね、議は遂に定まった。

靖康元年、上皇(徽宗)に従って南下した。都に戻ると、初め大中大夫に責められ、続いて永州に安置され、続いて潯州・雷州に移された。蔡京が死ぬと、御史が蔡攸の罪はその父に減じないと上言し、燕山の役は禍を宗廟社稷に及ぼし、驕奢淫泆は典籍に未だ見えず、諸海島に竄すべきであると。詔して万安軍に置き、まもなく使者を遣わしてその所在に従って誅殺した。

子に蔡翛あり。

蔡翛は初め恩沢により親衛郎・秘書丞となり、保和殿学士に至った。宣和年中、礼部尚書兼侍講を拝した。当時、蔡翛兄弟も事勢が日に異なることを知り、その客の傅墨卿・孫傅らがさらにこれに語って言うには、「天下の事は必ず敗れ、蔡氏は必ず破れる。速やかに計を為すべきである」と。蔡翛は心にこれを然りとし、密かに蔡攸と議し、少し正論を持したので、蔡京とは異なった。しかし皆、蓄縮して敢えて明言せず、遂に呉敏・李綱・李光・楊時らを引き入れて用い、以て物情を挽回しようとした。まもなく大学士を加えられ、醴泉観を提挙した。

欽宗が立つと、蔡翛は陝西に兵を募る策を上奏し、自ら行くことを請い、また西幸を勧めた。帝はこれをかなり採り入れ、京兆府知府とさせた。計画がまさに成らんとした時、蔡攸はその功の成ることを忌み、ちょうど金が濬州を破り、徽宗が南幸したのに合わせ、蔡攸は徽宗の旨を仮り、蔡翛に鎮江を守らせるよう請い、資政殿大学士に改めた。ある者は蔡翛の前の計画はすでに乖離しており、行くべきでないと言った。蔡翛は幸いにして去ることができ、再び辞さなかった。流言が京師に至り、鎮江で復辟しようとしていると言った。帝は上皇を迎え還すことを促し、蔡翛を昭信軍節度副使に責めた。

蔡攸が誅殺される時、御史の陳述がまさに行かんとしたところ、帝は詔を取りその末尾に批して「蔡翛もまた然り」と。ここにおいて併せて誅殺した。

族子に蔡崈あり。

蔡崈は、蔡京の族子である。性、矯妄にして、鬼神の事を善く談じた。門蔭を承くべき時、固くこれを庶兄に推し与え、宗族は賢と称した。崇寧初年、蔡京の党が学行修飭として朝廷に聞こえ、泉州の布衣呂注とともに道士の服を着た。召し入れて謁見させ、累官して給事中兼侍読を拝した。

蔡京が去位すると、言者に攻撃され、顕謨閣待制提挙崇福宮となった。言者がさらにその不学無文、豪民と結び厚利を図り、道家の吐納の説を持って論思と為し、集英殿に侍立して瞑目自若として不恭であると論じ、遂に職を奪われた。陳正彚が蔡京の変事を上奏し、京師に獄を置くと、杭州にいた時、日に蔡崈が盛んに蔡京には後福があると言うのを聞いたと具陳した。獄が上ると、詔してその籍を削った。蔡京が再び宰相となると、徽宗は蔡崈を用いるなと戒めたが、ただ集英殿修撰に復し、まもなく待制に還り、洞霄宮を提点した。宣和年中、卒した。

趙良嗣

趙良嗣は、本は燕人の馬植であり、代々遼国の大族で、光禄卿に仕えた。行い汚く内乱あり、人に歯せられなかった。政和初年、童貫が使節として出る道中、盧溝にて、馬植は夜にその侍史に会い、自ら燕を滅ぼす策があると言い、よって謁見を得た。童貫がこれと語り、大いにこれを奇とし、車に載せて帰り、姓名を李良嗣と改めさせた。朝廷に推薦すると、即ち献策して言うには、「女真は遼人を恨み骨髄に徹し、天祚帝は荒淫で道を失っています。本朝もし使者を登州・萊州より海を渡らせ、女真と結好し、これと相約して遼を攻めれば、その国は図り得ます」と。議者は、祖宗以来、この道はあるが、その地が諸蕃に接し、商賈の舟船を行かせず、百有余年である。一朝これを開けば、中国の利に非ざるを懼れる、と言った。徽宗が召見し、来たる所以を問うと、対えて言うには、「遼国は必ず亡びます。陛下が旧民の塗炭の苦しみに遭うを思い、中国の往昔の疆土を回復し、天に代わって譴責し、治をもって乱を伐てば、王師一出、必ず壷漿来迎します。万が一女真が志を得て、先んずれば人を制し、後るれば人に制せられ、事は等しからなくなります」と。帝はこれを嘉納し、趙の姓を賜い、秘書丞とし、燕を図る議はここより始まった。直龍図閣に遷り、万寿観を提点し、右文殿修撰を加えられた。

宣和二年二月、金国に使いし、その主阿骨打に会い、燕・雲を取ることを議した。使いより還り、徽猷閣待制に進んだ。ここより使命すること六七回に至り、頗る緩頰して心を尽くし、金と争議し、龍図閣直学士に進んだ。燕山を得てからは、さらに延康殿学士・提挙上清宮を加えられ、官は光禄大夫に至った。

良嗣は言うには、「かつて北国に在った時、燕中の豪士劉範・李奭及び族兄の柔吉の三人と義を結び心を同じくし、幽・薊を抜き帰朝せんと欲し、北極祠の下に酒を瀝ぎ、天に祈って約し、他日功成れば、即ち掛冠して事に謝し、以て本心を表し、初めより功名を取り富貴を徼うるに非ざりしを。陛下の威霊に頼り、今日の事幸いに集まりました。顧みれば前日の約、豈に欺くべけんや?願わくは臣の致仕を許し、田を買い帰耕せしめ、識有る者に『これ平燕の首謀の人、請いを得て閑退す、天下の美事なり』と言わしめ給え。然らずんば、臣は敢えて神明を欺く者となり、何所に至らざらん」と。凡そ三度上章したが、詔して許さず。まもなく朝廷が張覚を容れると、良嗣はこれを争って言うには、「国家新たに金国と盟を結びました。このようにすれば必ずその歓を失い、後悔しても及ばないでしょう」と。聞き入れられず。職を奪われ、五階を削られる罪に坐した。

靖康元年四月、御史の胡舜陟が、その辺患を結成し、契丹の百年の好を敗り、金寇の侵陵をさせ、禍を中国に及ぼしたと論じ、市においてこれを戮することを乞うた。時にすでに柳州に竄逐されており、詔して広西転運副使の李昇之にその所在に至って即座に首を梟せしめ、妻子を万安軍に徙せしめた。

張覺

張覺は平州義豊の人である。遼国において進士に及第し、遼興軍節度副使となった。鎮民がその節度使蕭諦里を殺害したとき、覺は乱を鎮める者を慰撫し、州人は彼を推して州事を統領させた。燕王淳が死ぬと、覺は遼が必ず滅びると悟り、壮丁五万人、馬千匹を登録し、兵を訓練して備えとした。蕭后は時立愛を派遣して州の知事としようとしたが、覺は受け入れを拒絶した。

金人が燕に入ると、遼の旧臣康公弼に覺の情況を尋ねた。公弼は「彼に何ができましょうか、疑いを持たないことを示すべきです」と言い、そこで覺を臨海軍節度使に任じ、平州知事を兼任させた。遼の宰相左企弓らが東へ帰ろうとしたとき、粘罕はまず兵を遣わして覺を捕らえようとしたが、公弼は言った。「このようにすれば、かえって彼を叛かせることになります。私が使いとして行き、様子を見てまいりましょう。」そこで公弼は覺に会いに行った。覺は言った。「契丹の八路は皆陥落し、今ただ平州だけが残っています。どうして異心を持てましょうか。甲冑を解かないのは、蕭幹を防ぐためです。」覺は公弼に厚く賄賂を贈って帰らせた。公弼はその言葉を伝え、粘罕はそれを信じ、平州を南京に昇格させ、覺に同中書門下平章事を加えた。企弓、公弼と曹勇義、虞仲文は皆東へ遷された。

当時、燕の民は全て移住させられ、路上に流離していた。ある者が覺のもとに訴えて来て言った。「公弼、企弓らは燕を守ることができず、我々の民をこのような目に遭わせました。我々を救えるのは、貴公をおいて他に誰がありましょうか。」覺は官僚たちを召集して議した。皆が言った。「近ごろ天祚帝が松漠で再び勢いを盛り返したと聞きます。金人が急いで山西へ向かうのは、契丹が背後を討つことを恐れているからです。貴公が大義を執り、故主を迎えて興復を図り、企弓らの罪を責めてこれを殺し、燕人を燕に帰らせれば、南朝(宋)は受け入れないはずがありません。もし金人が西から来ても、内には営州・平州の兵を用い、外には南朝の援けを借りれば、何を恐れることがありましょうか。」覺はまた翰林學士李石に諮問したが、彼も同様に考えた。そこで企弓ら四人を殺し、再び保大三年と称し、天祚帝の像を庁事に描き、何事も告げてから行った。父老を呼び集めて諭して言った。「女真は仇敵である。どうして従えようか。」その像を指して言った。「これは汝らの主君ではないか。どうして背けようか。死をもって誓い合おう。どうしてもならば、中国(宋)に帰属するのだ。」燕人は義を重んじ、皆影のごとく従った。ここにおいて、移住させられた民を全て帰還させた。

石は名を安弼と改め、元の三司使高黨とともに燕山に行き、王安中を説いて言った。「平州は古来より形勝の地であり、地方数百里、甲兵十余万を擁し、覺は文武の全才です。もし我が方に用いれば、必ずや王室の屏翰となれましょう。もしそうでなければ、彼は西では天祚帝を迎え、北では蕭幹と通じ、我々の肘腋の患いとなるでしょう。」安中はこれを深くもっともだと思い、朝廷に詳しく上奏し、自らその責任を負うことを願い、安弼と黨を京師に赴かせた。徽宗は手詔を詹度に与えて言った。「本朝は金国と通好し、信誓は甚だ重い。どうしてまず違反すべきであろうか。金人が先ごろすぐに覺を討たなかったのは、兵が関中におり、覺が榆関に抗していたからである。今や既に東へ去ったが、他日西から来れば、覺の小さな数城では、恐らく容易には当たれまい。今の計は、しばらく密かに羈縻を示すだけで十分である。」しかし度はたびたび覺を誘致し、内附するようほのめかした。

宣和五年六月、覺は安撫司に書簡を送り言った。「金虜は虎狼の強さに恃み、燕京の富家巨室を駆り立て移住させ、ただ空城を残して盟誓を塞いでいます。大朝(宋)を思いやれば、やむを得ないことでもあります。遺民が我が管区を通ろうとするとき、冤痛の声が街路に満ちています。州人は忍びず、皆、賊の命令に抗して生霊を存えさせ、彼らを父母の郷里に帰し、かつ大朝の守禦の備えとすべきだと言います。すでにその人々を全て境界を越えさせました。謹んで掌書記張鈞、参謀軍事張敦固を安撫司に遣わし、命令を承ります。」

金人は覺の叛いたことを聞き、闍母國王に三千騎を率いさせて討伐に来させた。覺は兵を率いて営州でこれを迎え撃った。闍母は兵が少ないため、交鋒せずに退き、門に大きく「今冬復來(今冬また来る)」と書き記した。覺はそこで妄りに大捷を報告した。朝廷は平州を泰寧軍に建て、覺を節度使に拝し、安弼、黨、鈞、敦固を皆徽猷閣待制とし、宣撫司は銀絹数万で犒賞した。詔命が届くと、覺は喜び、遠くまで出迎えた。金人の間者がこれを知り、兵を挙げて来たので、覺は戻れず、弟とともに受け取った詔敕を抱えて燕へ奔った。母と妻は先に営州に寓居していたが、金人に捕らえられ、弟はこれを聞き、急いで降伏しに行き、その詔敕を献上した。金人は平州を包囲した。覺の従弟及び甥が固守した。金人は叛徒を容れたことを責め、かつ糧食を求めた。攻撃すること数ヶ月、州民数千人が包囲を破って逃げ、誰も降伏しようとしなかった。

金人が二州を平定した後、初めて覺の身柄を要求して来た。王安中はこれを隠した。要求がますます激しくなると、ついに容貌の似た者一人を斬って送った。金人は言った。「これは覺ではない。覺は王宣撫の甲仗庫に匿われている。もし我々に与えなければ、我々自ら兵を以って取りに行く。」安中はやむなく、覺を引き出し、その過ちを数え上げて処刑させた。覺の言葉は甚だ不遜であった。死んだ後、その首を箱に入れて送った。燕の降将及び常勝軍は皆涙を流した。郭藥師は言った。「もし私を要求して来たら、どうすればよいのか。」これ以降、人心は離反し、金人はついにこのことを口実に兵端を開いたという。

郭藥師

郭藥師は渤海鉄州の人である。遼が滅びようとするとき、燕王淳は遼東の飢民を募って兵とし、彼らに女真への怨みを報いさせようとし、「怨軍」と名付けた。藥師はその頭首となった。翌年、そのうちの二営が叛いたが、藥師は叛いた者羅青を殺した。都統蕭幹は二千人を残して四営とし、藥師及び張令徽、劉舜仁、甄五臣を将とした。淳が燕で帝号を建てると、「怨軍」を「常勝軍」と改め、藥師を諸衛上將軍、涿州留守に抜擢した。淳が死に、蕭后が立ち、蕭幹が専権をふるうと、国人は離反した。

宣和四年九月、藥師は配下の八千人を擁して涿・易二州を奉じて来帰した。詔して恩州觀察使とした。王師が北討するとき、劉延慶は蕭幹と盧溝で軍を対峙させた。藥師は言った。「蕭幹は全軍で我が軍に抗していますから、燕城は必ず手薄です。精鋭の騎兵を選んで襲えば、落とせます。」延慶は藥師と諸将に兵六千を率いさせ、夜半に河を渡り、倍の速さで進軍させた。夜明けに、甄五臣が五千騎を率いて迎春門を奪って入り、大軍が続いて到着した。燕人の降伏は受け入れ、契丹や雑虜は全て殺すように命じた。藥師は人を遣わして蕭后を諭し、降伏を促させた。后は密詔を下して蕭幹を呼び戻し、三市で戦わせた。藥師は馬を失い、捕らえられそうになったが、遂に敗れて帰還した。それでも安遠軍承宣使に進んだ。十二月、武泰軍節度使に拝された。五年正月、檢校少保を加えられ、同知燕山府となった。

詔して入朝させると、徽宗は礼遇を甚だ厚くし、甲第と姬妾を賜った。金明池で水嬉びを催し、それを見させ、貴戚大臣に命じて互いに宴を設けさせた。また後苑の延春殿で対面を召されると、藥師は廷の下で拝し、涙を流して言った。「臣が虜にいたとき、趙皇(宋皇帝)は天上のごとしと聞いておりましたが、今日龍顔を拝することができるとは思いませんでした。」帝は深く褒め称え、燕を守ることを委ねた。藥師は答えて言った。「死を尽くすことを願います。」また天祚帝を捕らえて燕人の望みを絶つように命じると、薬師は顔色を変えて言った。「天祚帝は臣の故主です。国が破れて出走し、臣はそれゆえに降伏しました。陛下が臣に他の所で命を尽くさせようとされるなら、敢えて辞しません。しかし故主を裏切らせるのは、陛下に仕える道ではありません。どうか他の者にお任せください。」そして雨のように涙を流した。帝はこれを忠義と思い、自ら着用していた珠袍と二つの金盆を賜った。藥師は出ると、配下に諭して言った。「これは私の功績ではなく、汝らの力である。」すぐに盆を切り分けて与えた。檢校少傅を加えられ、帰鎮した。

蕭幹が塞を侵犯すると、藥師は峰山でその衆を破り、阿魯太師を生け捕りにし、耶律德光の尊号宝劍檢と塗金印を獲得した。蕭幹はまもなく部下に殺された。勲功を策し、檢校太傅を加えられた。

初めに、王安中が燕山府の知事となり、詹度と薬師が同知となったが、薬師は自ら節度使の地位にあるとして、詹度の上位に立たんとした。詹度は皇帝の直筆の書に序列が記されていると称したが、薬師は従わなかった。これに常勝軍の横暴が加わり、薬師は彼らを擁護したため、詹度は制御できず、朝廷に訴えた。朝廷は両者の不和を憂慮し、詹度と河間の蔡靖を交代させた。蔡靖が着任すると、胸襟を開いて薬師に接し、薬師もまた蔡靖を重んじて、少しは行いを抑えるようになったが、王安中はただ媚びへつらって事を運び、朝廷もまたその意を曲げて従い、薬師の請うところは従わぬことがなかった。良質の武器や精鋭の鎧を多く部下に与えて他路で交易させ、珍奇な物品を造らせて権貴や宦官に奉り、かくして賞賛の言葉が日に日に聞こえるようになった。一路を専制し、兵を増募して三十万と号したが、左衽の服を改めず、朝廷の議論は大いに憂慮した。急いで太尉に任じ、朝廷に召し出したが、辞して来なかった。

帝は童貫に辺境を巡視させ、密かに薬師の去就を探らせ、もし従わなければ、連れ出して共に来させよと命じた。童貫が燕に至ると、薬師は易州で出迎え、帳中で再拝した。童貫はこれを避けて言うには、「汝は今や太尉となり、その位は二府に並び、我らと同等である。この礼は何か」と。薬師は言うには、「太師は父なり。薬師はただ我が父に拝するのみ。他のことを知らんや」と。童貫は安心した。そこで薬師は童貫を招いて軍勢を視察させ、広野に至ると、人跡全く無く、薬師は馬を下り、童貫の前で旗を一振りすると、たちまち四方の山に鉄騎が日の光を輝かせ、その数は測り知れなかった。童貫の一行は皆顔色を失った。帰って帝に言上し、薬師は必ずや虜に抗し得ると、蔡攸もまた内廷から強くこれを支持した。金の使者が天寧節を祝賀して帰る際、送伴使が薬師の兵と道で出会うと、金の使者は馬を控えて道を避けた。郷兵が矛を持って金使の子羊を奪い取っても、皆争うことを敢えず、奏上して薬師の威声が遠くまで響くと言うと、蔡攸はますます彼を頼りにできると考え、故に内陸ではもはや防備の措置を取らなかった。たびたび変事の報告や金国との往来文書を押収しても、ついに省みることはなかった。

七年十二月、詹度が言うには、「薬師は目つきが常ならず、志すところに異心を抱き、蜂の目に烏の嘴、寵を頼み功を恃み、叛逆の兆しは既に芽生え、凶暴横暴は日増しに甚だしい。今、金人と交わり結び、朝廷に背き、禍を興すは遠からず、願わくは早くこれに対処されんことを」と。ようやく詔を下して官を遣わし実態を究明させようとしたが、金兵は既に南下して檀州・薊州を破り、玉田に至った。蔡靖は薬師・張令徽・劉舜仁に命じて軍を率い出撃させたが、その夜、張令徽は逃げ帰り、蔡靖は部使者と共に薬師のもとを訪れ作戦を協議した。薬師は降伏しようとしたので、蔡靖は言うには、「靖は誓って死を以て国に報いん。これは何たる言葉ぞ」と。佩刀を抜いて自ら刎ねんとしたので、薬師は抱き留め、諸使者と共に家に鎖して閉じ込めた。斡離不が郊外に至ると、薬師は軍官を率いて迎え拝し、遂に従って南進した。反乱の報が届いたが、帝はなお事を秘し、薬師を燕王に封じ、地を割いて与え、世襲で守らせようと議したが、もはや及ばなかった。

斡離不が慶源に至り、天子が内禅したと聞き、軍を返そうとしたが、薬師は言うには、「南朝は必ずしも備えがあるとは限らぬ。しばらく進むがよかろう」と。その後、京城に迫り、宮省を詰問し責め立て、宝器や服玩を要求し掠め取ったのは、皆薬師が導いたのである。