宋史

列傳第二百三十  姦臣一 蔡確 呉處厚 邢恕 呂惠卿 章惇 曾布 安惇

『易経』に曰く、「陽卦は陰多く、陰卦は陽多し」と。君子が多くとも、小人が事を用うれば、その象は陰となる。小人が多くとも、君子が事を用うれば、その象は陽となる。宋の初め、五星奎宿に聚まり、占う者これを人才衆多の兆と為す。然れども宋の世を終えるまで、賢哲乏しからず、姦邪亦多し。その盛んなる時方に、君子政を秉り、小人命を聴き、患いと為ること亦鮮し。その衰えに及びては、小人志を得、その狡謀を逞しくし、上聴を壅閼し、国是を変易し、忠直を賊虐し、善良を屛棄し、君子野に在りて、禍乱を捄うこと無し。国家を有つ者は、正邪の弁、慎まざるべけんや。『姦臣傳』を作す。

蔡確

蔡確、字は持正、泉州晉江の人、父は陳に徙る。確は智数有り、気を尚び、細行を謹まず。進士に第し、邠州司理参軍に調じ、賄をもって聞こゆ。転運使薛向部を行き、按治せんと欲し、その儀観秀偉なるを見て、召して語り、これを奇とし、更に延誉を加う。韓絳陝西を宣撫し、その制する所の楽語を見て、材と為し、弟の開封尹維に薦む。管幹右廂公事に辟し、維去りて確至る。旧制庭参すべしとすれども、確肯わず。後尹劉庠これを責む。確曰く、「唐の藩鎮自ら掾属を置く、故にこの礼有り。今輦轂の下肩を比べて主に事え、故事と雖も用うべからず」と。遂に職を解くことを乞う。

王安石確を薦め、三班主簿に徙む。鄧綰の薦を用い、監察御史裏行と為る。王韶熙河を開き、多く公銭を貸す。秦帥郭逵その罪を劾す。詔して杜純をして鞫治せしむるに実を得たり。安石その牘を却け、更に確を遣わす。確意に希い韶を直し、逵・純譴を獲たり。確は人主の意を観るに善く、時に上下し、神宗已に安石を厭うを知り、安石の馬に乗り宣徳門に入り衛士と競うに因り、即ちその過を疎かにして以て直を買う。直集賢院を加えられ、御史知雑事に遷る。

范子淵の河を浚うの役、知制誥熊本按行して以て是に非ずと為す。子淵に訟せられ、確本を劾して文彦博に附くと為し、これを黜く。代わって知制誥・知諫院兼判司農寺と為る。三司使沈括宰相呉充に謁して免役法を論ず。確言う、括は近臣たり、朝廷の法令未だ便ならざるを見て、公にこれを言わずして私に執政に語り、王安石既に去り、新法動かすべしと意うと。括坐して宣州知州に黜けらる。

開封相州の民の訟を鞫す。事判官陳安民に連なり、安民その甥の文及甫をして充の子安持に援を求めしむ。及甫は充の婿なり。確言う、事大臣に関わり、開封の了うる所に非ずと。遂に御史台に移す。時に獄皇城より起り、卒事多く讎わず。中丞鄧潤甫・御史上官均これを按ずるに、府獄と同じ。王珪奏して確を遣わし台に詣り参治せしむ。確鍛錬して獄を為し、潤甫・均制すること能わず、密に確の諸囚を惨掠するを奏す。確これを伺い知り、即ち二人を劾して罪有るを庇い、且つ詐りて吏をして使者と為らしめ慮問せしむ。囚冤を称すれば、輒ちこれを苦辱す。帝頗るその濫を疑い、連ねて諫官及び内侍を遣わし審直せしむるに、皆怖畏し、冤ならずと言う。ここにより潤甫・均皆罷められ、而して確中丞を得、猶司農を領す。凡そ常平・免役法皆その手に成る。

太学生虞蕃学官を訟う。確深くその獄を探り、朝士を連引し、翰林学士許将以下皆逮捕し械繫す。獄卒に令して同じく寝処飲食せしめ、旋溷共に一室と為し、大盆を前に設け、凡そ羹飯餅胾挙げて其中に投じ、杓を以て混攪し、犬豕の如く分飼す。久しく繫がれて問わず、幸いにして問うを得れば、一事として承わざる無し。遂に参知政事元絳に所属の請有りと劾す。絳出でて亳州を知る。確その位に代わる。確自知制誥より御史中丞・参知政事と為るに、皆獄を起こして人の位を奪いてこれに居るを以てす。士大夫口を交えて咄罵すれども、確自ら計を得たりと為す。

呉充数えて帝に新法の不便を言い、その甚だしきものを稍く去らんと欲す。確曰く、「曹参そうしん蕭何しょうか隙有り、相を代わるに至りて、一に何の約束に遵う。今陛下の自ら建立する所、豈に一人怨みを挟みてこれを壊すを容れんや」と。法遂に変ぜず。

元豊五年、尚書右僕射兼中書侍郎を拝す。時に富弼西京に在り、上言す、蔡確小人、大用すべからずと。確既に相たり、羅織の獄を興すに属し、縉紳士大夫重足して立つ。初め官制を議す、蓋し『唐六典』に倣い、事の大小無く、並びに中書旨を取り、門下審覆し、尚書これを受けて行う。三省分班して事を奏す。柄中書に帰す。確王珪に説いて曰く、「公久しく相位に在り、必ず中書令を得ん」と。珪疑わずと信ず。確乃ち帝に言う、「三省長官位高く、令を置くを須いず、但だ左右僕射をして両省侍郎を分兼せしむるに足る」と。帝然りと以為う。故に確名は次相と為れども、実に大政を顓り、珪は左僕射として門下を兼ぬるも、拱手するのみ。帝雖も次叙を以て珪・確を相とすれども、礼重を加えず、屡微失に因り罰金し、毎に罰すれば輒ち門謝す。宰相罰金して門謝するは、これ以前未だ有らず、人皆これを恥ず。

哲宗立ち、左僕射に転ず。韓縝中書に相に入り、その両侄を列卿に用う。確風して御史中丞黄履に縝を劾せしむ。始めて三省に詔し、凡そ旨を取る事及び台諫官の章疎は、並びに執政同に進擬し、専ら中書に属せず。蓋し確権を失うを畏れ、又改制を復すなり。

永裕山陵使と為り、霊駕発引の夕、次に宿せず、道に在りて又扈従せず、還りて、又去ることを丐わず。御史劉摯・王巖叟連ねてこれを撃ち、確に十の去るべし有りと言う、「熙寧・元豊の時に在りて、冤獄苛政、首尾その間に預る。今日に及びては、稍人に語りて曰く、『当時確豈に敢えて言わんや』と。このその意は固く名位を窃み、反って曲を先帝に帰せんと欲するなり」と。司馬光・呂公著進用せられ、煩苛を蠲除す。確言う、皆己の建白する所なりと。公論益々容れず、太皇太后猶即ち退斥するに忍びず。元祐元年閏二月、始めて罷められ観文殿学士・陳州知州と為る。明年、弟碩の事に坐し職を奪われ、安州に徙り、又鄧に徙る。

初め、神宗疾革み、王珪儲を建つる事を議す。確と同列皆側に在り、状を知る。確自ら世に罪を得るを見て、陰に章惇・邢恕等と志を合わし邪謀を為し、珪実に異意を懐き、己の擁護に頼りて、故に逞うることを得ずと謂う。確陵下に使を奉じ、韓縝白くその端を発す。事寝て籍籍たり。既に勢を失い、愈怨望し、恕又益々往来して言を造り、識者以て憂いと為すも、発する所以未だ有らず。

蔡確が安陸に在った時、嘗て車蓋亭に遊び、詩十章を賦した。漢陽軍知軍の呉処厚がこれを上奏し、全てが譏諷と誹謗に渉るとし、特に郝処俊が上元年間に高宗が天后(武后)に位を伝えようとしたことを諫めた故事を用いて、東朝(太皇太后高氏)を斥けているとして、言葉が特に切実で有害であるとした。そこで左諫議大夫の梁燾、右諫議大夫の范祖禹、左司諫の呉安詩、右司諫の王巖叟、右正言の劉安世が、相次いで上章して蔡確の罪を正すよう請うた。詔して蔡確に詳しく説明させると、蔡確は自らを弁明して甚だ詳しかった。劉安世らはまた、蔡確の罪状は明白であり、何を待って詳説させる必要があるか、これは大臣が曲げて彼のために余地を作っているだけだ、と上言した。ついに光禄卿に貶し、南京分司とし、さらに英州別駕に責め、新州に安置した。宰相の范純仁、左丞の王存は廉前で出た言葉で蔡確を救おうとした罪に坐し、御史の李常、盛陶、翟恩、趙挺之、王彭年は弾劾しなかった罪に坐し、中書舎人の彭汝礪は詞命を封還した罪に坐し、皆罷免された。蔡確は後に貶所で卒した。

紹聖元年、馮京が卒すと、哲宗は臨奠した。蔡確の子の蔡渭は、馮京の婿であったが、喪次の中で闌訴した。翌日、詔して正議大夫に復した。二年、太師を贈られ、諡を「忠懷」とし、中使を遣わしてその葬儀を護らせ、また京師に邸宅を賜った。崇寧初年、哲宗廟庭に配饗された。蔡京は徽宗に「元豊受遺定策殊勳宰相蔡確之墓」と書くよう請い、その家に賜った。蔡京は太宰の鄭居中と仲が悪く、鄭居中は憂いにより去ったが、蔡京は彼が再び用いられることを恐れた。鄭居中は王珪の婿であった。時に蔡渭は名を蔡懋と改めていた。蔡京は彼に前事を再び理めさせ、鄭居中を沮むため、ついに蔡確を清源郡王に追封し、御製の文を墓前に石碑として立てさせた。蔡懋を同知枢密院事に抜擢し、次子の蔡莊を従官とし、弟の蔡碩に待制を贈り、諸女は超えて封爵を進め、諸婿は皆官を得て、その貴さは当世を震わせた。

高宗が即位すると、詔を下して群奸の罪を暴き、蔡確を武泰軍節度副使に貶し、蔡懋を英州に竄せ、彼らに関わる濫恩は一切削奪し、天下の人はこれを快とした。

附 呉処厚

呉処厚は、邵武の人で、進士に及第した。仁宗が屡々皇嗣を喪うと、呉処厚は上言して言った、「臣は嘗て『史記しき』を読み、趙氏の廃興の本末を考うるに、屠岸賈の難に当たり、程嬰・公孫杵臼は尽く死して趙の孤児を全うしました。宋が天下を有して以来、二人の忠義は未だ褒表されておりません。宜しくその墓域を訪ね、祠を建てるべきです」。帝はその上疏を覧て矍然とし、直ちに呉処厚を将作丞とし、絳州で両墓を訪ね得て、侯に封じ廟を立てた。

初め、蔡確は嘗て呉処厚に賦を学んだが、宰相となると、呉処厚は書簡を通じて憐れみを乞うたが、蔡確に引き立てる気は無かった。王珪が彼を大理丞に用いた。王安礼と舒亶が互いに攻撃し合い、事は大理寺に下った。呉処厚は王安礼が王珪と親しいことを知り、舒亶が官燭を用いたことを自盗と論じた。蔡確は密かに人を遣わして意を伝え舒亶を救おうとしたが、呉処厚は従わず、蔡確は怒って彼を追い出そうとしたが果たせなかった。王珪が呉処厚に館職を除するよう請うと、蔡確はまたこれを沮んだ。王珪が永裕山陵使となると、彼を辟いて牋奏を掌らせた。蔡確が代わって使となると、通利軍知軍に出し、さらに漢陽知軍に移したので、呉処厚は悦ばなかった。

元祐年間、蔡確が安州知州となった時、郡に静江の卒兵が漢陽に戍るべきところ、蔡確は固より遣わさず、呉処厚は怒って言った、「お前が廟堂にいた時、屡々私を陥れた。今、隣郡の太守となっても、まだそうするのか」。ちょうど蔡確の『車蓋亭詩』を得て、郝甑山の故事を引いているのを見ると、注釈を付けて上奏し、言った、「郝処俊は甑山公に封ぜられ、高宗が武后に位を譲ろうとした時、処俊が諫めて止めました。今、これを以て太皇太后に比している。かつ滄海揚塵の故事を用いているが、これは時運の大変であり、特に佳い言葉ではない。譏謗は切実で有害であり、言うべきではない」。蔡確はついに南方に竄せられた。呉処厚はえい州知州に抜擢されたが、士大夫はこれによって彼を畏れ憎み、間もなく卒した。紹聖年間、歙州別駕に追貶された。

邢恕

邢恕は、字は和叔、鄭州陽武の人である。経籍に博く貫通し、文章を能くし、功名を喜び、古今の成敗の事を論じるに、戦国の縦横の気習があった。程顥に学び、これによって司馬光・呂公著の門を出入りした。進士に及第し、永安主簿を補した。呂公著が朝廷に推薦し、崇文院校書を得た。王安石も彼を愛し、賓客を通じて意を諭し、晦を養って用いられるのを待つようさせたが、邢恕は従えず、その子の王雱に対して新法の不便を語った。王安石は怒り、諫官も新進の進士が官を歴ねずして即座に館閣に処するのは奔競の路を開く、と上言したので、延陵県知県に出された。県が廃されると再び調べられず、陝・洛の間を浮沈すること七年、再び校書となった。

呉充が彼を館閣校勘に用い、歴史館検討・著作佐郎を歴任した。蔡確が代わって宰相となると、呉充が用いた人を全て逐い、邢恕は深く家に居て及ぶことを恐れた。神宗が彼の『送文彦博詩』を見て、蔡確に称えたので、職方員外郎に進んだ。帝には司馬光・呂公著を再び用いる意向があり、蔡確は邢恕が両人の門下客であることから、急いで彼と結び付いた。邢恕も深く自ら附託し、蔡確のために策を画し、少しずつ名士を収召し、政事に微かに更革を加え、これより互いに昔からの交わりのように親しくなった。

帝が不となると、邢恕は蔡確と謀りを成し、密かに宣仁后の甥の公繪・公紀に語って言った、「家に白桃が花を着けています。道書に言う、上疾を療することができると。帰ってこれを見てくださいとお誘いします」。至るとその手を執って言った、「蔡丞相が腹心を布かせます。上疾は避けられません。延安(哲宗)は沖幼です。宜しく早く定論有るべきです。雍王・曹王は皆賢王です」。公繪は驚いて言った、「これは何という言葉か。君は我が家に禍いをもたらそうとするのか」。急いで走り出た。邢恕の計は行わず、却って太后が雍王に属意していると宣言し、王珪と表裏しているとした。蔡確を導いて王珪と約し、病を問いに参内させ、陽に王珪の言葉を鉤致し、開封府知事の蔡京に外に剣士を伏せさせ、王珪が少しでも異を挟めば捕らえて誅するようにした。既にして王珪は「上には自ら子がおられる」と言い、延安を立てることで議が定まった。邢恕は益々施すところが無くなったが、なお自ら定策の功有りと謂い、その言葉を伝播させた。

哲宗が立つと、右司員外郎・起居舎人に遷った。また公繪のために奏文を具し、朱太妃を尊崇し、高氏(宣仁后)の他日のための計らいを乞うた。后が詰問して言った、「汝は元々字が読めなかった。誰がこれを為したのか」。公繪は隠し得ず、邢恕だと答え、かつその草稿を上った。時に邢恕は方々中書省で召試を受けていたが、ついに随州知州に貶黜され、汝・襄・河陽に改めた。邢恕は久しく外に斥けられ、怒憤を蓄え、間道を通って鄧で蔡確に謁し、前の悪事を繋ぎ成し、司馬光の子の司馬康の手書を騙し取り、信を取るために持った。ちょうど蔡確が罪を得ると、邢恕も責められて永州酒税監となった。

紹聖初年、宝文閣待制・青州知州に抜擢された。章惇・蔡卞が政を得ると、元祐の諸人に甘心せんとし、邢恕を引き自助とし、刑部侍郎に召し、再び吏部尚書兼侍読に遷り、御史中丞に改めた。邢恕は既に風憲の職に処ると、遂に宣仁后に廃立の謀有りと誣い、司馬光が言った北齊婁后宣訓の故事を引き、高遵裕の子の士京を訹してその父の在世中、王珪がその兄の士充を来らせ雍王を立てようと謀り、遵裕がこれを非とした、と追訟させた。また蔡懋に文及甫の私牘を上奏させて廋詞とし、梁燾・劉摯を歴詆し、陰に不軌を図り、かつ司馬光・呂公著に凶悖の名を加えた。章惇は蔡京に同文館に獄を置かせ、組織万端、将に悉く諸人を族罪に陥れんとしたが、既にして得る所無く、乃ち已んだ。

邢恕は内心に猜疑と狡猾を抱きながら、外見は正論を保っていた。かつて経筵で宝訓を講読した際、仁宗が輔臣に諭して、人君は政事を修め行うべきであり、そうすれば日月の薄食や星文の変現は憂うるに足らぬとされたところに至った。恕は言う、仁宗の御旨は荀卿の書に合うとはいえ、古来帝王で自ら政事を修めないと言う者が誰かおられようか、このようにしては天変が遂に廃されてしまう、と。帝はこれを嘉納し、しばしば登対させた。章惇は彼が大用されることを恐れ、ひどく忌み嫌った。恕もまた帝が少しずつ惇を軽んじていると推し量り、たびたびその短所を訴えたが、ついに惇に陥れられ、汝州知州として出された。間もなく、応天府に移された。惇はさらに彼の過去の過失を摘発し、南安軍知軍に移された。徽宗の初め、言事官がその虚偽を論じ、少府少監・西京分司に責められ、均州に居住した。

蔡京が国政を執るとき、湟州・鄯州を経営し、辺境に隙を開こうとし、恕に方面の勲を立てさせようと、鄜延経略安撫使として起用し、まもなく涇原に改め、龍図閣学士に抜擢した。恕は蕭関を築くことを請い、その里人許彦圭の車戦法を採用し、浅攻の計略とした。また熙河に造船させ、直接興州・霊州に到達させ、夏国の巣穴を空しくしようと謀ったが、その謀略はみな迂遠で荒唐であった。転運使李復が恕のなすことは児戯に類し用いるべからずと上言し、帝もまたその妄りを看破したが、蔡京が強くこれを主張した。やがて夏人が鎮戎軍を寇し、渭州に向かおうとしたため、警報の奏上が京師に日に五六度も届き、蔡京は恐れ、ようやく恕を太原に移し、続けて永興・潁昌・眞定に移し、まもなく官職を奪った。久しくして、再び顕謨閣待制に復した。卒す。年七十。

恕は本来程門(程頤)に従って諸公の間で交遊を得、一時の賢士は争って彼と交わった。恕は表立つことを巧みにし、早くから名声を得たが、天資は反覆し、危険を冒して進み、司馬光の客となれば即ち光を陥れ、章惇に附けば即ち惇に背き、三蔡(蔡確・蔡卞・蔡京)と腹心となるに至っては死ぬまで替えなかった。上は母后を誹謗し、下は忠良を誣い、ほとんど宗廟に禍が及ぶところであった。建炎元年、蔡確とともに追貶され、恕は常徳軍節度副使となった。子に居実・倞あり。

居実は異才があり、八歳で『明妃引』を作り、黄庭堅・晁補之・張耒・秦観・陳師道らは皆これを見て愛した。恕に従って随州を守ったとき、『南征賦』を作り、蘇軾がこれを読んで嘆じて言うには、「これは足るるものありて古人に見するに藉るべし」と。卒したとき年十九、遺文に『呻吟集』がある。

倞は恕の在世時に司農丞となり、靖康の初めに少卿に至り、詔を奉じて金国の使節を館した。このとき、粛王が幹離不の軍に使いし、人質とされたため、朝廷もまたその使節を留めて相応にしようと議し、そこで一月を過ぎても送還しなかった。都管の趙倫は燕の人で、性狡猾であり、帰れぬことを恐れ、偽って情を告げて倞に言うには、「金国に余睹金吾という者がおり、なお契丹の精鋭を多く率い、金人に二心を抱き、大国に帰順を願っている。これと結んで二酋(幹離不・粘罕)を図るべし」と。倞はこれを聞き上げ、大臣はこれを信じ、即座に余睹に賜わる詔書を作って趙倫に授け、衣領の中に納めさせ、趙倫に厚く金帛を与えた。趙倫はその書を粘罕に献上し、粘罕は大いに怒り、金主に聞かせ、報じて深く攻討するよう命じ、ついに再び兵を挙げて南下した。倞はこのとき岳州知州として出ていたが、詔によってその禍を始めたことを責められ、官籍を削り官を停められた。まもなく京師は失守したという。

呂惠卿

呂惠卿、字は吉甫、泉州晋江の人。父の璹は吏事に習熟し、漳浦県令となった。県は山林が蔽い翳す間にあり、民は瘴霧や蛇虎の害に苦しんだ。璹は民に焚き払って耕すことを教え、害は衰え止んだ。宜州通判となり、儂智高が侵入したとき、転運使が璹に檄を飛ばして兵と会するよう命じたが、ある者は行くなと勧めたが、聞き入れなかった。二千人を率いて賊の後を追って赴き、斬首捕虜を多く得た。開封府司録となり、宦官史志聰が衛卒を役して木材を伐採した事件を審理したが、吏は多く彼のために便宜を図った。璹は徹底的にこれを糾明し、志聰は左遷されて去った。終に光禄卿となった。

惠卿は進士に及第し、真州推官となった。任期満了して都に入り、王安石に会い、経義を論じ、意多く合い、ここに交わりを定めた。熙寧の初め、安石が政を執ると、惠卿はちょうど集賢院の書籍を編校しており、安石は帝に言うには、「惠卿の賢は、ただ今人に優るのみならず、前世の儒者と雖も容易に比べるべからず。先王の道を学びて用いることのできる者は、ただ惠卿のみである」と。制置三司条例司が設けられると、これを以て検詳文字とし、事の大小を問わず必ず彼と謀り、凡そ建請した章奏は皆その筆によるものだった。太子中允・崇政殿説書・集賢校理に抜擢され、司農寺を判った。

司馬光は帝に諫めて言うには、「惠卿は邪険で巧みな非佳士であり、安石が中外に誹謗を負うは皆その為すところである。安石は賢ではあるが剛愎で、世務に通じず、惠卿がその謀主となり、安石が力を以てこれを行う故、天下並びにこれを姦邪と指す。近ごろ抜擢が順序を越え、大いに衆心を厭わず」と。帝は言う、「惠卿は進対して明辨であり、また美才のようである」と。光は言う、「惠卿は確かに文学に優れ弁慧であるが、心を用いること正しからず、願わくは陛下徐々にこれを察せられよ。江充・李訓もし才がなければ、どうして人主を動かすことができようか」と。帝は黙然とした。光はまた安石に書を送り言うには、「諂諛の士は、公にとって今日誠に順適の快さがあるが、一旦勢いを失えば、必ずや公を売って自らを売り込むであろう」と。安石は悦ばなかった。

ちょうど惠卿が父の喪で去り、服喪が終わると、天章閣侍講として召され、同修起居注となり、進んで知制誥となり、国子監を判り、王雱とともに『三経新義』を修した。また諫院を知り、翰林学士となった。安石が去職を求めたとき、惠卿はその党に変名させ、日に投匭して上書して留めるようさせた。安石は力を尽くして惠卿を参知政事に推薦した。惠卿は安石が去れば新法必ずや揺らぐと恐れ、書を作って監司・郡守に遍く送り、利害を陳述させた。また従容として帝に詔を下すよう言上し、終に吏が法に違う故を以て、法を廃するようなことはしないと述べさせた。故に安石の政は、守ること益々堅固となった。制科を廃止しようと議し、馮京が争ったが得られなかった。

弟の升卿は学術なく、侍講に引き上げられた。また弟の和卿の計を用い、五等丁産簿を制定し、民に自ら申告させ、尺の椽、寸の土まで、検査して漏れなく、鶏や豚に至るまで遍く抄記した。隠匿する者は告発を許し、その資産の三分の一を賞に充て、民はその困苦に耐えられなかった。また保甲の正長に青苗銭の給散を行わせ、甲を結んで官に赴かせ、一人も漏らさず、上下騒然とした。

鄭俠が惠卿の朋党による姦悪と蔽塞を疏で論じると、惠卿は怒り、また馮京が己と異なることを憎み、一方安石の弟の安国は惠卿の姦諂を憎み、面と向かって辱めた。ここにおいて勢いに乗じて三人を共に陥れ、皆罪を得させた。安石は安国の故をもって、初めて隙が生じた。惠卿は安石に背いてからは、凡そ王氏を害することのできることは何でも行った。韓絳が宰相となっても制することができず、安石を再起用するよう請うた。安石が至っても、なお共に事に当たった。御史蔡承禧がその悪を論じ、鄧綰はまたその兄弟が秀州の富民から金を強借して田を買ったと上言し、陳州知州として出された。久しくして、資政殿学士として延州知州となった。

初め、陝西の縁辺では漢兵と蕃兵が各自軍を為し、戦う毎に蕃部を先鋒とし、漢兵は城を守り、機会を窺って出戦した。惠卿は初めてこれを合して一つとし、先ず守兵を捜索補充してその選抜を出して戦わせ、屯ごとに将を置き、条約を具えて上奏した。辺境の人や議者は多く不可と言った。路都監の高永亨は老将であり、強く争い、上奏してこれを斥けた。蕃部の屈全乜が将として侵入しようとしたとき、惠卿は近世の帥臣が多く威を養って持重するのを見て、牙兵を率いて辺境を巡按し、東郊で師を啓き、ついに綏徳に向かい、無定河に抵り、十八日を経て還った。

俄かに母の憂に服す。詔して本俸の外に特に五万を給す。惠卿更に添支一万五千を請ふ。御史之を劾す。将に揚州に下り奉歴を取らんとす。帝曰く、「惠卿固より貪冒なりと雖も、然れども嘗て執政たり。之を治むれば体を傷つく。姑く義を以て責むる可し」と。但だ其の誤奉を削るのみ。惠卿猶自ら弁す。御史又其の方喪に居るを論じ、言有るべからずとす。詔して問はず。

元豊五年、大学士を加へられ、太原府を守る。入見す。将に仍鄜延を鎮せしめんとす。惠卿云く、「陝西の師は、唯攻む可からずと非るのみならず、亦守る可からず。要は大いに形勢を為すに在るのみ」と。帝曰く、「惠卿の言の如くんば、是れ陝西を棄つ可しと為すなり。豈に辺事を委ぬるに宜しからんや」と。其の軽躁矯誣の罪を数へ、単州に知らしめて斥く。明年復た太原を守る。哲宗即位し、疆吏に勅して外界を侵擾せざらしむ。惠卿歩騎二万を遣はし、夏人を聚星泊に襲ひ、首六百級を斬る。夏人遂に鄜延を寇す。

惠卿正人の匯進するを見て、時に容れられざるを知り、散地を懇求す。是に於て右司諫蘇轍其の姦を条奏して曰く、「惠卿は張湯の辨詐を懐き、盧杞の姦邪有り。詭変多端にして、敢へて非度を行ふ。王安石強佷傲誕にして、吏事に於て宜しく知る所無かるべし。惠卿指擿教導して、以て其の悪を済す。又大獄を興起し、株連蔓引せんと欲し、公卿を塗汚せんとす。頼むに先帝仁聖にして、毎事裁抑す。然らずんば、安常守道の士噍類無からん。安石は惠卿に卵翼の恩、父師の義有り。其の進を求むる方に則ち膠固して一と為し、勢力相軋するに及んで、敵仇に化し、其の私書を発して、余力を遺さず。犬彘の為さざる所にして、而るに惠卿之を為す。昔呂布は丁原に事へて則ち丁原を殺し、董卓に事へて則ち董卓を殺す。劉牢之は王恭に事へて則ち王恭に反し、司馬元顯に事へて則ち司馬元顯に反す。故に曹操、桓玄終に畏れて之を誅す。惠卿の悪の如きは、縦ひ典刑を正さずとも、猶当に四裔に投畀して、以て魑魅を禦ぐべし」と。中丞劉摯其の五罪を数へ、以て大悪と為す。乃ち光禄卿に貶し、分司南京とす。再び建寧軍節度副使を責め、建州に安置す。中書舎人蘇軾制に当たり、備へて其の罪を訓詞に載す。天下伝訟して快と称す。

紹聖中、復た資政殿学士、大名府を守る。観文殿学士を加へられ、延州を守る。夏人復た入寇す。将に全師を以て延安を囲まんとす。惠卿米脂諸砦を修めて以て備ふ。寇至り、攻めんと欲すれば則ち城近づく可からず、掠めんと欲すれば則ち野に得る所無く、戦はんと欲すれば則ち諸将兵を按じて動かず、南せんと欲すれば則ち腹背敵を受くるを懼れ、二日留まりて即ち柵を抜きて去る。遂に金明を陥す。惠卿闕に詣らんことを求む。許さず。威戎、威羌城を築くを以て、銀青光禄大夫を加へられ、保寧、武勝両軍節度使に拝す。

徽宗立ち、節を易へて鎮南とす。曾布宿憾有るに因り、杭州に徙す。而して范純粹を用ひて延を帥せしめ、其上功罔冒の事を治め、節度を奪ふ。布位を去り、復た武昌節度使、大名を守る。数歳、又上表引喩失当を以て、還た銀青光禄大夫と為し、致仕を令す。崇寧五年、起して観文殿学士、杭州を守らしむ。其の子淵妖人張懷素の言を聞きて告げざるに坐し、淵は沙門島に配す。惠卿は祁州団練副使を責められ、宣州に安置す。再び廬州に移す。観文殿学士を復し、醴泉観使と為し、致仕す。卒す。開府儀同三司を贈る。

初め、惠卿安石に逢合し、驟に執政に致る。安石位を去り、遂に力を極めて之を排し、其の私書を上に発するに至る。安石退きて金陵に処る。往々「福建子」の三字を写す。蓋し深く惠卿に誤らるるを悔ふなり。章惇、曾布、蔡京国に当たりと雖も、咸其の人を畏悪し、敢へて朝に引入れず。是を以て外服に転徙し、死に訖る云ふ。

章惇

章惇、字は子厚、建州浦城の人。父兪蘇州に徙る。起家して職方郎中に至り、致仕す。惇の貴に用ひられ、累官銀青光禄大夫、年八十九にして卒す。

惇豪俊にして、博学善文。進士名に登り、侄衡の下に出るを恥ぢ、敕を委ねて出づ。再挙して甲科に及第し、商洛令に調す。蘇軾と南山に遊び、仙遊潭に抵る。潭下は絶壁万仞に臨み、横木其の上に在り。惇軾に揖して壁に書かしむ。軾懼れて敢へて書かず。惇平歩して之を過ぎ、索を垂れて樹を挽き、衣を摂めて下り、漆墨を以て筆を濡らし大いに石壁に書して曰く、「蘇軾、章惇来る」と。既に還り、神彩動かず。軾其の背を拊して曰く、「君他日必ず能く人を殺すべし」と。惇曰く、「何ぞや」と。軾曰く、「能く自ら命を判ずる者は、能く人を殺すなり」と。惇大笑す。召して館職を試む。王陶劾して之を罷む。

熙寧初、王安石政を秉り、其の才を悦び、用ひて編修三司条例官と為し、集賢校理、中書検正を加ふ。時に南、北江群蛮を経制し、命して湖南、北察訪使と為す。提点刑獄趙鼎言ふ、峡州群蛮其の酋の剝刻を苦しみ、謀りて内附せんとす。辰州布衣張ぎょう亦南、北江群蛮の朝廷に帰化するを言ふ。遂に事を以て惇に属す。惇流人李資、張竑等を募りて往きて之を招かしむ。資、竑夷婦に淫し、酋に殺さる。遂に攻討を致し、是に由りて両江扇動す。神宗其の命を擾すを疑ひ、安石惇に戒めて軽動せざらしむ。惇竟に三路の兵を以て懿、洽、鼎州を平ぐ。蛮方に潭の梅山を据ふるを以て、遂に勢に乗じて南す。転運副使蔡燁言ふ、是の役亟に成す可からずと。神宗然りと為す。専ら燁に委す。安石惇を主とし、之を争ひて已まず。既にして燁蛮地を得る。安石燁の惇を沮むを恨み、乃ち其の賞を薄くす。惇を進めて起居注を修めしむ。是を以て兵久しく決せず。

惇を召し還し、知制誥、直学士院、判軍器監に擢ぐ。三司火す。神宗楼に御して之を観る。惇役兵を部して奔救す。楼下を過ぐ。神宗問ひて惇なるを知る。明日命して三司使と為す。呂惠卿位を去る。鄧綰惇の同悪を論ず。出でて湖州を守り、杭州に徙す。入りて翰林学士と為る。元豊三年、参知政事に拝す。朱服御史と為る。惇密かに客をして服に意を達せしむ。服に白せらる。惇の父民沈立の田を冒占す。立遮りて惇に訴ふ。惇之を開封に繫ぐ。二罪に坐し、罷めて蔡州を守る。又陳、定二州を歴る。五年、召して門下侍郎に拝す。豊稷奏して曰く、「官府肇めて新たにし而して惇首めて用ひらる。古を稽へ官を建つる意に非ず」と。稷左遷に坐す。諫官趙彦若又惇の無行を疎す。報へず。

哲宗即位し、枢密院事を知る。宣仁后聴政す。惇蔡確と矯りて定策の功を唱ふ。確罷む。惇自ら安からず。乃ち司馬光の更むる所の役法を駁し、累数千言。其の略に曰く、「保甲、保馬の如きは一日罷めざれば、一日の害有り。若し役法に於ては則ち熙寧の初め遽かに免役を改め、後遂に弊有り。今復た差役と為す。当に議論尽く善くして、然る後に之を行ふべし。遽に改むるに宜しからず。以て後悔を貽すべからず」と。呂公著曰く、「惇の論ふ所固より取る可き有りと雖も、然れども専ら意を求勝にし、朝廷の大體を顧みず」と。光の議既に行はる。暴に憤恚し簾前に爭辨す。其の語甚だ悖る。宣仁后怒る。劉摯、蘇轍、王覿、朱光庭、王巖叟、孫升交章して之を撃つ。汝州に知らしめて黜く。七八年の間、数へて言者の弾治を受く。

哲宗が親政を始めると、熙寧・元豊の治を復活させようとする意図があり、まず章惇を尚書左僕射兼門下侍郎として起用した。そこで専ら「紹述」(神宗の新法を継承すること)を国是とし、元祐年間に廃止された法令をすべて復活させた。蔡卞・林希・黄履・来之邵・張商英・周秩・翟思・上官均らを要職に引き入れ、言論の責任を担わせ、共謀して朋党の奸をなして仇怨に報復し、大小の臣僚で災いを免れた者は一人もおらず、死者はその妻子にまで禍が及んだ。甚だしきは宣仁太后を誹謗し、元祐の初めは老奸が国政をほしいままにしたと称した。また司馬光と呂公著の墳墓を発掘し、その棺を斬るよう請うた。哲宗は聞き入れなかったが、章惇は意を満たさず、元祐諸臣の上奏文を分類編纂するよう請い、識者は禍いが未だ止まないことを知った。そこで劉安世と范祖禹が禁中で乳母を雇ったことを諫めた事件を追及し、また文及甫の誣告の言葉を書状にしたため蔡渭を導き、劉摯と梁燾に逆謀があると告発させ、同文館の獄を起こし、蔡京・安惇・蹇序辰に徹底的に追及させ、諸家を滅ぼそうとした。また呂升卿と董必を嶺南に派遣して巡察させ、流罪の者を皆殺しにしようと議した。哲宗は言った、「朕は祖宗の遺制に従い、未だ大臣を殺戮したことはない。釈放して追及するな」。しかし重く罪に処せられた者は千余人に及び、ある者は三、四度も貶謫・移徙され、天下の人はこれを冤罪とした。

章惇は邢恕を御史中丞に任用した。邢恕は北斉の婁太后の宮名が「宣訓」であり、かつて孫の少主を廃して子の常山王高演を立てた故事を引き合いに出し、司馬光が范祖禹に語ったと託して言った、「今上は幼少で国は疑心暗鬼、宣訓の故事もなお憂慮すべきである」。また高士京を誘って上書させ、父の高遵裕が臨終の際に左右を退けて士京に言ったと称した、「神宗が弥留の際、王珪が高士充を遣わして尋ねて来た、『皇太后が誰を立てようとしているか分からない』と。私は士充を叱りつけて追い返した」。いずれも宣仁太后を誣告し、このことを以て事実としようとした。章惇はついに司馬光と王珪を追貶し、高遵裕に奉国軍留後を追贈した。宦官の郝随と結んで助力とし、宣仁太后を追廃しようとしたが、皇太后(神宗の皇后向氏)・太妃(神宗の妃朱氏)らが皆力爭した。哲宗は感覚して悟り、その上奏文を焼いた。郝随がこれを窺い知り、密かに章惇と蔡卞に告げた。翌日、章惇と蔡卞が再び言上すると、哲宗は怒って言った、「卿らは朕が英宗の廟に入ることを望まないのか」。章惇と蔡卞はようやく止めた。

章惇はまた、皇后孟氏が元祐年間に宣仁太后によって立てられたことを理由に、郝随に迎合し、哲宗を勧めて掖庭の秘獄を起こさせ、左道の術を託りに、皇后を廃して瑤華宮に居住させた。その後、哲宗は大いに後悔し、嘆いて言った、「章惇が我が名節を損なった」。章惇はまた劉友端と結んで表裏をなし、劉賢妃を中宮に立てるよう請うた。

初め、神宗は王安石の言を用いて熙州・河州を開拓し、霊州・夏州を謀り、軍旅は十余年にわたって止まなかった。永楽の敗報を聞くと、神宗は御座において慟哭し、これにより不豫となり、故に元祐の宰輔はその意を推し量り、専ら外国を懐柔することに務めた。西夏が故地を請うと、要害でない城砦を返還した。章惇はこれを国を縮め地を棄てる行為とし、その帥臣を罪に問い、遂に浅攻撓耕の説を用い、辺境の隙間を恣に開き、夏人の歳賜を絶ち、汝遮などの城を進築し、陝西諸道で五十余所の工事を興し、軍を敗り将を覆し、また青唐を放棄し、死傷者は数えきれなかった。天下が己を怨んでいることを知り、その議論を塞ごうとして、内外に詔して民の妄語を察し、律に照らして論ずるよう請うた。賞金を厚くして巡察させ、告発の風潮は次第に盛んになった。民に酒に酔って狂言を吐いた者がおり、詔してその死罪を赦そうとしたが、章惇はついに論じて殺した。刑罰はますます峻烈になったが、止めることはできなかった。

哲宗が崩御すると、皇太后(神宗の皇后向氏)が後継を議論した。章惇は声をはげして言った、「礼律をもって言えば、同母弟の簡王が立つべきである」。皇太后は言った、「老身には子がなく、諸王は皆神宗の庶子である」。章惇はまた言った、「長幼の序をもってすれば申王が立つべきである」。皇太后は言った、「申王は病身で、立てることはできない」。章惇がなお言おうとすると、知枢密院事の曾布が叱って言った、「章惇、太后の処分に従え」。皇太后は決断して端王を立てた。これが徽宗である。章惇を特進に遷し、申国公に封じた。

山陵使となったが、霊輿が沼地に陥り、一晩経ってから進んだ。言事官がその不敬を弾劾し、越州知州に左遷され、まもなく武昌軍節度副使に貶謫され、潭州に安置された。右正言の任伯雨が、宣仁太后を追廃しようとしたことを論じ、さらに雷州司戸参軍に貶謫された。初め、蘇轍が雷州に謫された時、官舎を使用することを許されず、民屋を借りた。章惇はまたこれを民家を強奪したとして、州に下して民を追及させたが、賃貸契約が甚だ明白であったため、ようやく止めた。この時、章惇がこの民に住居を求めると、民は言った、「以前蘇公が来られた時、章丞相のために我が家はほとんど潰されそうになった。今はできない」。睦州に移され、そこで卒した。

章惇は識見が鋭敏で人より数等優れており、凶悪を極め悪事を重ねたが、官爵を以て親しい者に私することはがえんぜず、四子は連続して科挙に合格したが、末子の章援のみが校書郎を務め、その他は皆、吏部の東銓に従って州県に仕え、ついに顕職に就く者はなかった。

妻の張氏は甚だ賢明で、章惇が宰相に入る時、張氏は病みつつ死に際し、言い含めて言った、「君が宰相となるなら、幸いに怨みに報いることなかれ」。喪が明けた後、章惇が陳瓘に言った、「亡き妻を悼んで耐えがたい、どうしたものか」。陳瓘は言った、「悲傷して益なきにかず、いずくんぞその臨終の言葉を思わんや」。章惇は答える言葉がなかった。

政和年間、観文殿大学士を追贈された。紹興五年、高宗が任伯雨の上奏文を閲覧し、手詔して言った、「章惇は宣仁太后を誣告誹謗し、庶人に追廃しようとした。哲宗がその請いを容れなかったことに頼る。もしその言が施行されていたならば、豈に泰陵(哲宗)の上にわずらわさざらんや。昭化軍節度副使に貶し、子孫は朝に仕えることを得ず」。詔が下ると、海内は快哉を称し、ただその家のみがなお『弁誣論』を作り、見る者はこれをわらった。

曾布

曾布、字は子宣、南豊の人。十三歳で孤児となり、兄の曾鞏に学び、共に科挙に合格し、宣州司戸参軍・懐仁県令に任じられた。

熙寧二年、開封に移り、韓維と王安石の推薦により、上書して政治の根本は二つあり、風俗を励まし人材を選ぶことであると言い、その要は八つあり、農桑を勧め財賦を理め学校を興し選挙を審かにし吏課を責め宗室を叙し武備を修め遠人を制することであると言った。おおむね皆王安石の指摘するところであった。

神宗が召見し、論じ建てたことが意に合い、太子中允・崇政殿説書に授けられ、集賢校理を加えられ、司農寺を判じ、中書五房を検正した。わずか三日の間に、五度も敕告を受けた。呂恵卿と共に青苗法・助役法・保甲法・農田水利法を創設し、一時、旧臣や朝士の多くがこれを爭った。曾布が上疏して言った、「陛下は世に出ずる資質を以て、碩学遠識の臣を登用延き、天下に大いに為さんと思われるが、大臣は法令を軽んじ上にとなえ、小臣は横議をなし下に和す。人人は隙間を窺い、巧言を弄して醜く誹謗し、以て衆に諠嘩けんかし上をあざむく。これは勧沮の術が明らかでなく、威福の用い方が果たされないからである。陛下誠に赤心を推して君子を待遇しその気を励まし、威断を奮って小人を屛斥しその萌芽を消し、四方に明らかに知らしめて、主はあらがうべからず、法は侮るべからざることを知らしめれば、何を為して不可ならん、何を欲して成さざらんや」。曾布は神宗の意志を堅固にし、王安石を専任させて衆を脅し、敢えて言わせないようにしようとした。故ににわかに抜擢任用され、遂に起居注・知制誥を修め、翰林学士兼三司使となった。韓琦が上疏して新法の害を極論すると、神宗はやや悟るところがあった。曾布は王安石のために条分しけてこれを駁し、主張をますます固くした。

七年、大旱があり、直言を求める詔が下り、曾布は判官呂嘉問の市易法による搾取の苛酷を論じ、おおよそ次のように述べた。「天下の財が欠乏するのは、まさに貨物が流通しないからである。貨物が流通しないのは、商賈が行わないからである。商賈が行わないのは、兼併の家が巧みに抑制するからである。故に京師に市易司を設けて四方の貨物を売り、常にその価格を低く抑え、兼併の家より高く、倍蓰の値段より低くし、官が二分の利息を失わなければ、商賈は自然に停滞することはない。今、嘉問は四方に官吏を派遣して貨物を買い付け、客商に先に交易することを禁じ、利息の多寡をもって誅賞・殿最の基準としている。故に官吏・牙儈は、集め尽くさず利息が多くないことを恐れ、これは官自らが兼併を行うことであり、市易の本意とは全く異なる。」事は両制に下って議せられ、呂恵卿は新法を沮むものとし、王安石は怒り、曾布は遂に職を去った。

恵卿が大政に参与し、獄を置いて弾劾し、曾布を饒州知州に左遷し、潭州に移した。復た集賢院学士・広州知州となる。元豊初め、龍図閣待制として桂州知州となり、直学士に進み秦州知州となり、陳州・蔡州・慶州を歴任した。元豊末、復た翰林学士となり、戸部尚書に遷る。司馬光が政を執り、役法を増損するよう命じたが、曾布は辞して言う。「免役の一事は、法令の細かい点まで皆、自らの手によるものである。もし急に自ら改易せよと言われれば、道義的に行うことはできない。」元祐初め、龍図閣学士として太原府知府となり、真定・河陽及び青州・瀛州の二州を歴任した。紹聖初め、江寧に移り、京師を過ぎた際、留められて翰林学士となり、承旨兼侍読に遷り、同知枢密院事を拝し、知院事に進んだ。

初め、章惇が宰相となった時、曾布が起草した制書は彼を極めて称賛し、惇が自分を同省の執政に引き上げることを期待したが、惇は彼を忌み、ただ枢府に居ることを薦めただけだったので、次第に仲が悪くなった。曾布は章惇の「紹述」を大いに支持し、元祐の臣庶で役法変更の不都合を論じた者を甄別して賞与し、敢言を奨励するよう請うた。惇は遂に大獄を起こし、正人を陥れ、流罪・貶謫・削官・廃棄がほとんど一日も途絶えることなく、曾布は多く陰に彼らを排斥した。掖庭の詔獄が決し、執政に罪の判断を委ねた時、法官は厭魅の事は未完成であり、極刑に処すべきではないと言った。曾布は言う。「驢媚蛇霧(妖術)は、未完成と言えるか?」衆は皆驚き恐れ、これにより三人が死罪となった。

章惇は士人の心が付かないことを理由に、虚情を弄して過ちを飾り、名士の彭汝礪・陳瓘・張庭堅らを推薦・登用し、奪った司馬光・呂公著の贈謚を正し、墓を毀ち碑を倒すことを止めるよう請うたが、曾布は無益な事だと考えた。また上奏して言う。「人主が権柄を操るのであって、逆に持たれてはならない。今、丞相・輔弼から言官に至るまで、宰相を畏れ、陛下を畏れないことを知っている。臣が言わなければ、誰が敢えて言えようか?」その意は、章惇を失脚させようとして果たせなかったことにあった。哲宗が崩御し、皇太后が宰執を召して誰を立てるべきか問うた時、章惇に異議があり、曾布は章惇を叱って皇太后の命に従わせた。

徽宗が即位し、章惇が罪を得て罷免されると、中使を遣わして蔡京を召し鎖院させ、韓忠彦を左僕射に拝した。蔡京は徽宗の意を探ろうと、徐に請うて言う。「麻詞(任命詔書の文案)を、専ら一相を任用する趣旨で作るか、或いは両相を分命する趣旨で作るか、未だ審らかではありません。」徽宗は言う。「専ら一相を任用せよ。」蔡京は退出し、宣言して言う。「子宣(曾布)は再び宰相にはならない。」しばらくして再び曾肇を召して制書を起草させ、曾布を右僕射に拝した。その制書には「東西に台を分ち、左右に輔を建つ」とあった。韓忠彦は上位にあったが、柔弱で、事は多く曾布が決し、曾布はなおも彼を容れることができなかった。当時の議論は元祐・紹聖の両方に過失があるとし、大公至正をもって朋党を消し去ろうとし、翌年、年号を建中靖国と改め、邪正を雑用し、韓忠彦は遂に罷免されて去った。曾布が独り国政を担当し、次第に「紹述」の説を進めた。

翌年、また年号を崇寧と改め、蔡京を左丞に召したが、蔡京は曾布と意見が合わなかった。曾布が陳佑甫を戸部侍郎に擬した時、蔡京が上奏して言う。「爵禄は陛下の爵禄である。どうして宰相にその親族を私すことを許すのか?」曾布の婿の陳迪は、佑甫の子である。曾布は憤然と争って弁明し、久しくして声と顔色が次第に激しくなった。温益が曾布を叱って言う。「曾布、御前でどうして礼を失うのか?」徽宗は不愉快に思い、朝議を罷めた。御史は遂に曾布を攻撃し、観文殿大学士・潤州知州に左遷された。

蔡京の積年の恨みは未だ止まず、曾布に賄賂の罪を加え、開封府の呂嘉問に命じてその諸子を逮捕させ、でっち上げて取り調べ、証人を誘って自ら罪を認めさせ、その罪を許させた。曾布は落職し、太清宮提挙・太平州居住となった。また司農卿に降格し、南京で分司となった。またかつて学官の趙諗を推薦したが趙諗が叛逆したため、散官に責められ衡州に安置された。また湟州を放棄した罪で、賀州別駕に責められ、また廉州司戸に責められた。凡そ四年を経て、舒州に移され、復た太中大夫・崇福宮提挙となった。大観元年、潤州で卒去。七十二歳。後に観文殿大学士を追贈され、諡は「文粛」といった。

安惇

安惇、字は処厚、広安軍の人である。上舎及第し、成都府教授に調任された。上書して学制を論じ、召対を受け、監察御史に抜擢された。哲宗の初政の時、察官に言事を許し、諫議大夫孫覚がその不適任者を淘汰するよう請うた。詔により劉摯が推択し、安惇を罷めて利州路転運判官とし、夔州路・湖北路・江東路の三路を歴任した。

紹聖初め、召されて国子司業となり、三度遷って諫議大夫となった。章惇・蔡卞が同文の謗獄を捏造し、蔡京と安惇に雑治させた。二人はその嫉妬心を恣にし、上言して言う。「司馬光・劉摯・梁燾・呂大防らは陳衍の徒と交通し、先帝の成法を変え、陛下が一日親政されれば必ず欺君の誅罰があることを懼れ、密かに朝廷を傾搖する計略を為した。ここにおいて両宮を疎隔し、随龍の内侍を斥けて、陛下の腹心を去らせ、顧命大臣を廃して、陛下の羽翼を剪った。先帝の罪とした者を放免し、先帝の棄てた者を収用した。君無き悪は、司馬昭の心と同じであり、事を擅にする跡は、趙高の指鹿為馬を超える。比して本末を究め、その情状を得たところ、大逆不道、死して尚余責あり。」帝は言う。「元祐の人は果たしてこのようであったのか?」安惇・蔡京は言う。「誠にその心はありましたが、ただ反逆の形跡が未だ具わらなかっただけです。」帝は陳衍を誅し、劉摯・梁燾の子孫を禁錮した。安惇は御史中丞に遷った。

劉皇后が冊立を受けた時、百官の仗衞が大庭に陳列され、この日は天気が清らかで晴れていた。安惇は班中に巍然と立ち、声を張り上げて言う。「今日の事は、上は天心に当たり、下は人望に合う。」朝士は皆その姦佞を笑った。また鄒浩の事を審理し、広東使者の鐘正甫に檄を飛ばして新州でこれを取り扱わせ、士大夫の中には千里を隔てて逮捕に会う者もあり、蹇序辰の初議に踵き、訴理の書牘を閲し、禍を受けた者は七、八百人に及び、天下は怨み憎み、「二蔡・二惇」という謡が流れた。徽宗は元より彼を嫌悪していた。鄒浩が朝廷に還ると、安惇は言う。「浩がもし再用されれば、先帝の過失が顕わになることを慮ります。」帝は言う。「后を立てるのは大事である。御史中丞は言わずして浩のみ敢えてこれを言った。どうして再用できないことがあろうか?」安惇は懼れて退いた。陳瓘が請うて言う。「陛下が正路を開き、浩の既往の善を取ろうとされるのに、安惇は主上の聴き方を惑わし、私心を逞しくしようと図っています。もし好悪を明示されるならば、安惇から始めるべきです。」そこで宝文閣待制として潭州知州とし、まもなく田里に帰された。

蔡京が宰相となると、復た工部侍郎・兵部尚書を拝した。崇寧初め、同知枢密院事となる。卒去し、特進を追贈された。

長子の安郊は、後に指斥の罪に坐して誅殺された。次子の安邦を涪州に流し、安惇を単州団練副使に追貶したため、その祭祀は遂に絶えた。人はこれを、安惇が平生数えきれぬほど忠良を陥れた報いであると言った。