宋史

列傳第二百二十九 佞幸 弭德超 侯莫陳利用 趙贊 王黼 朱勔 王繼先 曾覿龍大淵 張説 王抃 姜特立譙熙載

君主は深宮の中で生長し、法家や輔弼の士が耳目に接する時は少なく、宦官や女子と共に起居する日が多い。この二つは、佞幸が登る梯子であり媒介である。剛明の主にも佞幸はいる。剛は専任を好み、明は偏った察しを好む。彼ら佞幸は一度その機に投じれば、禍いは深くなる。他日、欠損が露見し、たとえ殄除できたとしても、城を壊して狐を求め、社を灌いで鼠を索むるが如く、危うきこと甚だしいと言わねばなるまい。宋代の中材の君主には、朝に佞幸があることは、免れざるところであった。太宗には弭德超、趙贊がおり、孝宗には曾覿、龍大淵がいた。二君は固より剛明の主でないとは言えない。ここに『佞幸傳』を作る。

弭德超

弭德超は、滄州清池の人である。李符、李琪が彼を推薦し、太宗が晉王の邸におられた時に給事した。太宗が即位すると、供奉官に補された。太平興国三年、酒坊使、杭州兵馬都監に遷り、また鎮州駐泊都監となった。

初め、太宗は辺境の戍守の労苦を思い、士卒に毎月銀を賜い、これを「月頭銀」と称した。德超は隙に乗じて急変を太宗に奏上して言うには、「枢密使曹彬は政務を執ること年久しく、士卒衆人の心を得ています。臣が塞上から来ましたが、士卒の言うのを聞きました。『月頭銀は曹公がもたらしたもので、曹公がおられなければ我々は餓死していたでしょう』と」。また巧みに曹彬を他の事で誣告した。上は大いに疑い、曹彬を出して天平軍節度使とした。王顕を宣徽南院使とし、德超を宣徽北院使とし、ともに枢密副使を兼ねさせた。

德超が曹彬を讒言した事が成就したが、枢密使を得ることを期待していたのに、副使に過ぎなかった。また柴禹錫は德超と官が同じで、先に授けられ、班位がその上にあった。故に德超は視事すること一ヶ月余りで、病と称して告暇を請い、平素から怏怏としていた。ある日、王顕と禹錫を罵って言うには、「私は国家の大事を言い、社稷を安んずる功があったのに、僅かばかりの官に止まった。汝らは何者か、反って我が上にあり、更に我に汝らの為す所を効わせようとする。我は実にこれを恥じる」。また大罵して言うには、「汝らは断頭されるべきである。我は上に守り執る所がないと推し量る。汝らに眩惑されているのだ」。王顕がこれを告げると、太宗は怒り、膳部郎中・知雑事の滕中正に命じてその邸で德超を訊問させた。ことごとく自白したので、詔を下して官職を奪い、その家族とともに瓊州に配流して禁錮した。間もなく死んだ。

侯莫陳利用

侯莫陳利用は、益州成都の人で、幼い頃に変幻の術を得た。太平興国初年、京師で薬を売り、黄白の事を言って人を惑わした。枢密承旨の陳従信が太宗に白上すると、即日に召見され、その術を試すと頗る験があった。即ち殿直を授け、累遷して崇儀副使となった。雍熙二年、右監門衛将軍に改め、応州刺史を領した。三年、諸将が北征するに当たり、利用を王侁とともにへい州駐泊都監とし、単州刺史に抜擢した。四年、鄭州団練使に遷った。前後して賜与は甚だ厚く、依附する者は多く進用され、遂に横暴恣肆で再び畏憚する所がなくなった。その居処や服玩はみな乗輿に僭越し、人はこれを畏れて敢えて言わなかった。

時に趙普が再び中書に入ると、殺人及び諸々の不法の事を察知し、ことごとく奏上した。太宗は近臣を遣わして姦状を案じて得たが、その死を赦そうとした。趙普が固く請うて言うには、「陛下が誅さないのは、天下の法を乱すものです。法こそ惜しむべきであり、この者など惜しむに足りません」。遂に詔を下して除名し、商州に配流して禁錮した。初めその家を没収したが、間もなく詔してこれを返還させた。

趙普は彼が再び用いられることを恐れ、殿中丞の竇諲がかつて鄭州の榷酤を監察し、利用が毎度独り南向きに坐って京師の使者を接し、犀玉の帯に紅黄の羅の袋を用いていたこと、澶州で黄河が清んだ時、鄭州でこれを詩題として挙人を試し、利用が試官の状を判じ、言が甚だ不遜であったことを知っていたので、諲を中書に召して詰めて実状を確かめ、上疏してこれを告げさせた。また京西転運副使の宋沆が利用の家を没収した時、数紙の書を得たが、言う所はみな指斥して痛切であり、ことごとく進上した。太宗は怒り、中使に命じて臠殺させた。既にしてまた使者を遣わしてその死を赦そうとしたが、疾置に乗って新安に至った時、馬が泥濘で転倒し、泥濘から出て馬を換えたが、追い及んだ時には、既に前の使者によって誅されていた。

趙贊

趙贊は、并州の人で、性質は険詖で弁舌が巧みで、利害を言うことを好んだ。初め軍の小吏となり、都校と協わず、兵営の中で謀叛があると誣告したため、劉継元がこれを屠って遺類なくし、やがて趙贊を右職に署した。太原が平定されると、三司に隷属して走吏となり、また本司に欺いて殿直に補されることを許され、太宗は頗る彼を任用した。供奉官・閤門祗候に遷り、京西・陝西数州の銭帛を提挙し、摘発すること甚だ多かった。また自ら盗賊を捕らえることを乞い、永興に至り、兵士が銭二百を盗んだ者を得て、市中で磔にしようとしたが、知府の張斉賢が奪って釈放した。太宗は御史台に命じて按問させ、趙贊の官を数ヶ月停めた。また専ら三司の簿を鉤校することを命じ、趙贊に自ら十数人の吏を選んで耳目とさせ、専ら中書・枢密及び三司の事を窺い、隙に乗じてこれを白上させた。太宗は忠誠で他意なしと思い、中外はますますその口を畏れた。時に三司の官属を改めるに当たり、趙贊を西京作坊副使・度支都監とした。

時にまた鄭昌嗣という者がいた。宣州の人で、やはり三司の役吏から起こり、やがて侍禁に遷った。西川に奉使し、帰還して在官で治績のない者数十人を奏上したので、太宗はその直諫を嘉した。時に市物の吏が縁故で姦を行うため、列肆が屡々開封府に訴えたので、雑買務を置き、昌嗣にこれを監させた。昌嗣は便殿門に籍を著することを乞い、非時の入奏を許され、趙贊と親しく比して表裏をなし、累遷して西上閤門副使・塩鉄都監となった。二人は既に連事を得て、ここにおいてますます横暴恣肆となり、為す所はみな不法であった。太宗は頗るこれを知っていたが、左右に問うと、皆二人を畏れて、敢えてその悪を言う者はいなかった。

至道元年の上元節、京城で燈を張り、太宗は上清宮が完成したので、臨幸した。趙贊と昌嗣はその党数人を誘い、妓楽を携えて宮中の玉皇閣に登り、夜半まで飲宴した。掌舎の宦者は止めることができず、その事を奏上した。太宗は大怒し、併せて諸々の事を摘発し、詔を下して趙贊の官を奪い、家族を携えて房州に配流して禁錮することを許し、即日駅伝で遣わした。昌嗣は唐州団練副使に貶黜され、事を署することはなかった。数日後、ともに路上で賜死した。

太宗が侍臣に謂ひて曰く、「君子と小人とは芝蘭と荊棘の如く、其の類を絶つこと能はず、人の甄別に在るのみ。苟くも君子を尽くさば、則ち何ぞ刑罰を用ゐんや」と。参知政事寇準對へて曰く、「帝堯の時、四凶庭に在り、則ち三代以前、世質民淳にして、既に小人有り。今の儒服を衣、清列に居る者も、亦頗る小人に朋附し、自安を計る。賛・昌嗣の類の賤吏に奔走するは、言ふに足らず」と。

王黼

王黼、字は將明、開封祥符の人なり。初め名は甫と曰ひ、後に東漢の宦官に同じきを以て、名を黼と賜ふ。人となり美風姿、目睛金の如く、口辯有り、才疏雋にして學術寡く、然れども智多く佞に善し。崇寧の進士第に中り、相州司理參軍に調じ、『九域圖志』を編修す。何志同じく局を領す、其の人を喜び、父執中に之を言ひ、校書郎に薦擢し、符寶郎・左司諫に遷る。張商英相位に在り、漸く帝意を失ひ、使を遣はして玉環を以て蔡京に杭に賜ふ。黼之を覘ひ知り、數條に京の行はるる政事を奏し、並びに商英を撃つ。京復た相となり、己を助けたるを德とし、左諫議大夫・給事中・御史中丞を除し、校書より是に至るまで纔に兩歳なり。

黼執中に因りて進むも、乃ち執中を去らんと欲し、京をして國を顓にせしめんとし、遂に其の二十罪を疏し、聽かず。俄かに侍讀を兼ね、翰林學士に進む。京と鄭居中合はず、黼復た居中に内交し、京怒り、戶部尚書に徙す。大農方に乏しく、將に邦用給はざるを以て其の罪と爲さんとす。既にして諸班の禁旅賚犒期に如かず、左藏に詣り鼓噪す。黼之を聞き、即ち諸軍に諸り大榜を揭げ、某月某日を期す。衆榜を讀みて皆散じ、京の計行はれず。還りて學士と爲り、承旨に進む。

父憂に遭ふ。五月を閱て、起復して宣和殿學士と爲り、第を昭德坊に賜ふ。故門下侍郎許將の宅左に在り。黼父の事として梁師成に事へ、恩府先生と稱し、其の聲焰に倚り、許氏を逼りて之を奪ひ、白晝將が家を逐ふ。道路憤歎す。復た承旨と爲り、尚書左丞・中書侍郎を拜す。宣和元年、特進・少宰を拜す。通議大夫より八階を超え、宋朝命相未だ前に比ふる無し。別に城西の甲第を賜ひ、徙居の日、教坊樂を以て導き、供張什器悉く官に取り、寵一時に傾く。

蔡京致仕す。黼陽に人心に順ひ、悉く其の爲す所に反し、方田を罷め、辟雍・醫・算學を毀ち、並びに會要・六典諸局を合し、吏を汰省し、遙郡使・橫班官の奉入の半を減じ、茶鹽鈔法復た比較せず、富戶の科抑一切之を蠲除す。四方翕然として賢相と稱す。

位を得てより、高きに乘じて邪を爲し、多く子女玉帛を畜へ自ら奉じ、禁省に僭擬す。徽猷閣待制鄧之綱の妾を誘ひ奪ひ、反つて罪を以て之綱を嶺南に竄る。少保・太宰を加ふ。應奉局を置くを請ひ、自ら提領を兼ね、中外の名錢皆擅用を許され、天下の財力を竭して費を供す。官吏風旨を承望し、凡そ四方の水土珍異の物、悉く民に苛取し、帝の所に進むる者は什一に能はず、餘は皆其の家に入る。御史陳過庭御前使喚を名と爲す冗官を盡く罷むるを乞ひ、京西轉運使張汝霖西路の花果を進むるを罷むるを請ふ。帝既に納るも、黼復た章を露はして之を劾し、兩人皆遠郡に徙す。

睦の寇方臘起る。黼方に太平を文り、以て告げず、蔓延彌月し、遂に六郡を攻破す。帝童貫を遣はし秦甲十萬を督して始めて之を平ぐ。猶ほ功を以て少傅に轉じ、又少師に進む。貫の行くや、帝全く東南の一事を付し、之に謂ひて曰く、「如し急有らば、即ち御筆を以て之を行へ」と。貫吳に至り、民花石の擾に困るを見、衆言ふ、「賊急に平らざるは、此に坐するのみ」と。貫即ち其の僚董耘に命し手詔を作らしめ、若し罪已然の若くし、且つ應奉局を罷むるの令有り。吳民大いに悦ぶ。貫賊を平げて歸る。黼帝に言ひて曰く、「臘の起るは茶鹽法に由るなり。而るに貫姦言に入り、過を陛下に歸す」と。帝怒る。貫謀りて蔡京を起し以て黼を間はんとし、黼懼る。

是の時朝廷已に趙良嗣の計を納れ、女真と結び共に燕を圖らんとす。大臣多く以て可と爲さず。黼曰く、「南北通好すること百年なれども、然れども累朝以来、彼の我を慢する者多し。弱を兼ね昧を攻むるは、武の善經なり。今取らざれば、女真必ず強くならん。中原の故地將に復た我が有と爲らざらん」と。帝其の言に向くといへども、然れども兵を貫に屬し、保民觀釁を以て上策と爲すを命ず。黼復た簡を折りて誠を貫に通じ、曰く、「太師若し北行せば、願くは死力を盡さん」と。時帝方に睦寇の故を以て其の事を悔ふ。及んで黼一言有りて、遂に復た兵を治む。

黼三省に經撫房を置き、專ら邊事を治め、樞密に之を關せず。天下の丁夫を括り、口を計り算を出し、錢六千二百萬緡を得、竟に空城五六を買ひて凱を奏す。百僚を率ひて賀を稱し、帝玉帶を解き以て賜ひ、優に太傅に進め、楚國公に封じ、紫花袍を服するを許し、騶從の儀物幾くんぞ親王に等しからんとす。黼尊號を上るを議す。帝曰く、「此れ神宗皇帝の敢へて受けざる所なり」と。卻けて許さず。

初め、遼の使至る、率ね其の驛程を迂し、燕犒華侈を以て示さず。及んで黼務めて欲速に在り、女真の使をして七日を以て燕より都に至らしめ、每に其の居に宴を張れば、輒ち尚方の錦繡・金玉・瑰寶を陳べ、以て富盛を誇る。是に由りて女真益々心を生ず。身三公と爲り、位元宰に至るも、曲宴に陪扈するに至りては、親しく俳優の鄙賤の役を爲し、以て笑を獻げ悅を取る。

欽宗東宮に在り、其の爲す所を惡む。鄆王楷寵有り。黼陰に奪宗の策を畫く。皇孫諶節度使・崇國公と爲る。黼謂ひて但だ觀察使を得るべしとし、宮臣耿南仲を召し指を諭し、東宮に代はり諶の官を辭する奏を草せしむ。竟に之を奪ふ。蓋し是を以て東宮を撼搖せんと欲するなり。

帝待遇の厚きこと、其の居る閤を名づけて「得賢治定」と曰ひ、亭・堂の榜九を書す。玉芝堂柱に産す。乘輿臨み之を觀る。梁師成と牆を連ね、便門を穿ち往來す。帝始めて其の交結の狀を悟る。宮に還り、黼の眷頓に熄む。尋ひて致仕を命ず。

欽宗禪を受け、黼惶駭して賀に入る。閤門上旨を以て納れず。金兵汴に入る。命を俟たず、其の孥を載せて東す。詔して崇信軍節度副使に貶し、其の家を籍す。吳敏・李綱黼を誅するを請ふ。事開封尹聶山に下る。山方に宿怨を挾み、武士を遣はし躡き及んで雍丘南輔固村に於て、之を戕す。民家其の首を取り以て獻ず。帝初め即位するを以て、大臣を誅するに難しとし、託言して盜の殺す所と爲す。議者黼を誅するを過と爲さずして、天討の正しからざるを以て刑を失へりと爲す。

朱勔

朱勔は蘇州の人である。父の沖は狡猾で知謀に富んだ。家は元来賤しく微賤で、人に雇われて働き、強情で粗暴で従順でなく、罪に触れて鞭背の刑を受けた。去って隣県に借金を乞い、異人に遇い、金と方書を得て帰り、店を構えて薬を売ると、病人が服すれば即ち効き、遠近から車の轂が集まるように人が集まり、家は遂に富んだ。そこで園圃を修築し植栽し、遊客を結びつけ、往来の称誉を招いた。

初め、蔡京が錢塘に居た時、蘇州を過ぎ、僧寺の楼閣を建てようとしたが、費用が巨万に上り、僧は言う、必ずこの縁を集めようとすれば、朱沖でなければならぬと。京は郡守に命じ、郡守は沖を呼んで京に会わせ、京は事情を語ると、沖は独力で担当することを願った。数日後、京に寺へ行って土地を測るよう請うと、到着すると大木数千本が庭下に積み上げられており、京は大いに驚き、密かにその才能を器とした。翌年召還されると、勔を伴って共に上京し、その父子の姓名を童貫に託して軍籍に書き入れさせ、皆官を得た。

徽宗は花石に頗る意を注がれ、蔡京は勔に諭してその父に語らせ、密かに浙中の珍異を取って進上させた。初め黄楊三本を献じて、帝はこれを嘉された。後年々増加したが、然し毎年の率は二、三度の貢進を過ぎず、貢物も僅か五、七品に過ぎなかった。政和年中に至って初めて極めて盛んとなり、船首船尾が淮水・汴水で相銜なり、「花石綱」と号し、応奉局を蘇州に置き、内帑金を指して取ることは嚢中の物の如く、毎回数十百万を以て数えた。延福宮・艮嶽が完成すると、奇卉異植が其中に充満した。勔は防禦使に抜擢され、東南部の刺史・郡守は多くその門下より出た。

徐鑄・応安道・王仲閎らがその悪を助け、県官の経常費を尽くして奉仕とした。貢進する物は、民から豪奪漁取し、毛髪ほども償わなかった。士民の家で一石一木少しも玩賞に堪えるものがあれば、即ち健卒を率いて直ちにその家に入り、黄封を以て標識し、直ちに取らずとも、之を護視させ、些かも謹まざれば、即ち大不敬の罪を被せた。及び発送する時は、必ず屋を撤き牆を抉って以て出す。人が不幸にも一物小異なるものがあれば、共に不祥と指し、芟夷することの速からざるを恐れた。民でこの役に預かる者は、中流の家は悉く破産し、或いは子女を売り払ってその需要を供した。山を伐り石を輦し、程限を督すること峻惨で、江湖の不測の淵に在りとも、百方取り、必ず出すまで止まなかった。

嘗て太湖石を得、高さ四丈、巨艦に載せ、役夫数千人、経過する州県には、水門・橋樑を拆ち、城垣を鑿って以て通る者あり。既に至ると、「神運昭功石」と名を賜う。諸道の糧餉綱を截ち、旁らに商船を羅し、貢進する所の物を其上に掲げて暴き、篙工・柁師は勢いに倚り貪横に、州県を陵轢し、道路では目を以て相視た。広済卒四指揮を尽くして輓士に給しても尚足りず。蔡京は初めて之を患い、従容として帝に言い、其の甚だしきを抑えんことを願う。帝も亦その擾乱を病み、乃ち糧綱船の使用を禁じ、塚蔵を伐ち室廬を毀つことを戒め、黄封帕を以て人の園囿花石を蒙ることを加うるを得ず、凡そ十余事。勔と蔡攸ら六人の入貢を聴し、其余の進奉は悉く罷む。是より勔は稍々収まる。

既にして勔は甚だしくなる。居宅は蘇州市中の孫老橋に直くし、忽ち詔を称し、凡そ橋の東西四至の壤地室廬を悉く買い賜いて己に与え、数百軒を合わせ、五日を期して尽く移徙せしめ、郡吏が逼逐し、民は路上で嗟哭した。遂に神霄殿を建て、青華帝君の像を其中に奉じ、監司・都邑の吏は朔望に皆庭下に拝し、命士が至れば、輒ち朝謁し、然る後に刺を通じて勔に詣る。主たる趙霖が三十六浦の牐を建て、必ず成し得ざる功を興す、天方や大寒に、役死者相枕藉す。霖は勔に媚びることを志し、益々苛虐を加え、呉・越は其の苦しみに勝えず。徽州の盧宗原は庫銭を尽くして之に遺い、発運使に引き立てられ、公然と掊克す。園池は禁籞に擬し、服飾器用は上僭して乗輿に倣う。又舟を輓くことを託して兵数千人を募り、擁して以て自衛す。子の汝賢らは郷州の官寮を召呼し、頤指目摂し、皆奔走して命を聴き、州郡に流毒すること二十年。

方臘が起こり、勔を誅するを名とす。童貫が出師し、上旨を承けて花木進奉を尽く罷去し、帝は又勔の父子弟姪の在職者を黜け、民大いに悦ぶ。然れども寇平ぎ、勔復た志を得、声焰熏灼す。邪人穢夫は、門に候いて奴事し、直秘閣より殿学士に至るまで、望めば得べく、附かざる者は旋踵にして罷去せられ、時に東南の小朝廷と謂う。帝末年益々之を親任し、中に居て事を白し、上旨を伝達し、大略内侍の如く、進見して宮嬪を避けず。随州観察使・慶遠軍承宣使を歴任す。燕山に功を奏し、進んで寧遠軍節度使・醴泉観使を拝す。一門尽く顕官となり、騶僕も亦金紫に至り、天下之が為に扼腕す。

靖康の難に、自全の計を為さんと欲し、倉卒に上皇を擁して南巡し、且つ其の第に邀えんと欲す。欽宗、御史の言を用い、帰田里に放ち、凡そ勔より官を得たる者は皆罷む。其の資財を籍没し、田は三十万畝に至る。言者已まず、之を衡州に羈縻し、韶州・循州に徙し、使を遣わして即ち其の至る所に斬る。

王継先

王継先は開封の人である。姦黠で佞に善くす。建炎初年に医を以て幸を得、その後次第に貴寵に浸り、世に「王医师」と号す。和安大夫・開州団練使に至り致仕す。尋で覃恩を以て、武功大夫に改授し、致仕を落とす。給事中富直柔奏す、「継先は雑流を以て前班に易うれば、則ち此より転行に碍無く、深く将帥の解体を恐る」と。帝曰く、「朕頃に海気を冒す、継先診視に奇効有り。特書を読みしむべし」と。直柔再駁し、命乃ち寝す。既にして特に栄州防禦使を授く。

太后疾有り、継先診視に労有り、特その子悦道を補して閤門祗候とす。尋で継先に命じて翰林医官局を主管せしむ、力辞す。是の時、継先用事し、中外切歯す、乃ち陽に致仕を乞い、以て人言を避く。詔して秩二等を遷し、回授を許す。俄に右武大夫・華州観察使を除し、詔して余人の例に援るを得ざらしむ。呉貴妃進封するに、推恩して奉寧軍承宣使に遷し、特その妻郭氏を封じて郡夫人とす。

継先の遭遇は人臣を冠絶し、諸大帥は下風に承順し、敢えて少も忤うる者無く、其の権勢は秦檜と埒る。檜は其の夫人をして之に詣らしめ、兄弟を叙拜し、表裏引援す。昭慶軍承宣使に遷し、又節鉞を得んと欲し、其の徒張孝直らをして『本草』を校せしめて以て献ぜしむ、給事中楊椿之を沮み、計行わず。継先の富は王室に埒り、子弟は朝籍に通じ、戎寄を総べ、姻戚党与は要途に盤據し、数十年の間、能く之を揺がす者無し。

金兵将に至らんとす、劉錡戦備を為さんことを請う、継先乃ち言う、「新進の主兵官は、好んで弗靖を作し、若し一二人を斬らば、和好復た固し」と。帝懌えずして曰く、「是れ我に劉錡を斬らしめんと欲するか」と。

侍御史杜莘老其の十罪を劾し、大略謂く、「継先は広く第宅を造り、民居数百軒を占め、都人は之を『快樂仙宮』と謂う;良家の婦女を奪いて侍妾とし、鎮江に娼妓歌舞に妙なる者あり、御前を矯って之を索む;淵聖喪を成すに、挙家燕飲し、妓女をして舞せしめて歌わず、之を『啞楽』と謂う;金使来るより、日々重宝を輦して呉興に運び、避走の計と為す;悪少を陰に養い、兵甲を私置す;富民の金を受け、閤職に薦む;州県の大獄、賂を以て解免せしむ;姉を誣いて姦淫し、之にげい隸を加う;又諸処の佛寺に生祠を建立し、凡そ名山大刹の所有するもの、大半其の家に入る。此れ特に其の大なる者を挙ぐるなり、其余は髪を擢げて数うるに足らず」と。

上奏が入ると、詔して継先を福州居住とす。その子安道は武泰軍承宣使、守道は朝議大夫・直徽猷閣、悅道は朝奉郎・直秘閣、孫の錡は承議郎・直秘閣、並びに勒停せしむ。良家の子で奴婢となった者凡そ百余人を放還す。その資産を籍没すること千万を数え、その田園及び金銀を売却し、並びに御前激賞庫に隷属せしむ。その海舟は李寶に付す。天下これを快と称す。

継先が寵を恃み法をかしますや、帝もまたこれを知り、故に晚年に公議を以てこれを廃し、遂に復た起用せず。孝宗即位し、詔して任便居住とし、行在に至ることを許さず。淳熙八年、卒す。

曾覿

龍大淵 附

曾覿、字は純甫、その先祖は汴の人なり。父の任により官を補す。紹興三十年、寄班祗候として龍大淵とともに建王の内知客となる。孝宗禅を受けしむるや、大淵は左武大夫より枢密副都承旨に除せられ、而して覿は武翼郎より帯御器械・幹辦皇城司を除せらる。諫議大夫劉度入対し、首めて二人は潜邸の旧人なるを言い、これを待つに節度なかるべからざるを論ず。又故事を進むるに因り、京房・石顯の事を論ず。大淵遂に知閤門事を除せられ、而して覿は権知閤門事を除せらる。度言す、「臣退けんと欲するに、陛下進めらる、何の面目を以て尚ほ諫官たらんや。賜いて貶黜せられんことを乞う」と。中書舎人張震その命を繳し再びに及び、出でて紹興府を知る。殿中侍御史胡沂もまた二人の権を市うを論ず。既にして給舎金安節・周必大再び録黄を封還す。時に張燾新たに参政を拝し、また大淵・覿を以て去就を決せんと欲し、力を尽くしてこれを言う。帝納れず。燾辞して去り、遂に内祠を以て侍読を兼ぬ。劉度言職を奪われ、権工部侍郎と為り、而して二人は仍として知閤門事たり。必大除目を格して下さず、尋いで祠を与えらる。二人の除命もまた寝す。未だ幾ばくもなく、遂に大淵を宜州観察使・知閤門事と為し、覿を文州刺史・権知閤門と為す。皆皇城司を兼ぬ。数箇月の間に、除命四たび変ず。劉度出でて建寧府を知り、尋いで放罷せらる。

群臣既に二人を言いて罪を得て去るや、侍御史周操章十五上るも、報いず。是より覿と大淵勢い甚だ張り、士大夫の寡恥なる者潜かにこれに附麗す。帝嘗て大淵に命じて両淮の将士を撫慰せしむ。侍御史王十朋言う、大淵命をふくみ師を撫するは、朝廷の論選の公より出ずるに非ず、国体を軽んずる有りと。時にまた内侍押班梁珂なる者有り、三人表裏して事を用う。及び珂罪を以て出でるや、右正言龔茂良入対し、首めて論ず、「二人の政を害すること珂より百倍す。陛下一の政事を行い罷め、一の人才を進退するに、必ず美を掠めて自ら帰し、己が力と謂う。或いは時に少過有らば、外に昌言し、嘗てこれを争えども聴かれざりしと謂う。群臣の章疏留中して未だ出でざるも、間これを窺見し、出でて人に語る。有司条陳利害するも、副封を示し、公然と可否す。若し交通賄賂し、差遣を干求するは、特なる其の小なる者なるのみ。願わくは特に出でて威断を加え、並びに行い罷去せられん」と。

先に、江・浙大水有り、詔して侍従・台諫に闕政を陳ぜしむ。著作郎劉夙封事を上りて曰く、「陛下覿・大淵の輩と觴詠唱酬し、字して名を呼ばず。宰相を罷め、大将を易うるも、其の言を待ちて後決す。法守を厳にし、僥倖を裁するは、当に宮掖近侍より始むべし」と。茂良時に監察御史たり、また言う、「水は至陰なり、其の占は女寵、嬖佞、小人と為り、蓋し専ら左右近習を指すなり」と。帝に諭して二人は皆潜邸の旧人、近習に比すべからず。且つ俱に文学有り、敢えて諫諍し、門を杜して出でず、外事に預からず。退きて訪問すべしと。茂良再び上疏して言う、「徳宗盧杞の姦邪を知らざりし、此れ其の姦邪たる所以なり。大淵・覿の為す所、行道の人能くこれを言う、特なるに陛下未だこれを覚らざるのみ」と。疏入りて報いず。茂良待罪し、太常少卿を除せらる。五たび辞して拝せず、出でて建寧府を知る。

一日、右史洪邁参政陳俊卿を過ぎて曰く、「将に右史を除かんと聞く、邁西掖に遷らん、信なるか」と。俊卿曰く、「何よりこれを得る」と。邁二人を以て告ぐ。俊卿即ち以て宰相葉顒・魏杞に語り、而して己独りこれを奏し、且つ邁の語を以て帝の前に質す。帝怒り、即ち二人を外に出だす。ここにおいて大淵を江東総管に遷し、覿を淮西副総管と為す。中外これを快とす。尋いで大淵を浙東に、覿を福建に改む。乾道四年、大淵死す。覿尚ほ福建に在り。帝憐れみ、召さんと欲す。枢密劉珙奏して曰く、「此の曹は奴隷なるのみ、厚く賜うべし。自ら近くに引き賓友を以て待ち、政事を聞くに与からしむるは、聖徳を増し朝綱を整うる所以に非ず」と。帝珙の言を納れ、命遂に寝す。

既にして覿垂満せんとす。俊卿其の入るを恐れ、予め請うて浙東総管を以てこれを処せんとす。台臣上疏してこれを論ずも、報いず。太学録魏掞之亟に封事を上りて論列し、且つ俊卿に見えて切にこれを責む。掞之台州教官を得て出づ。覿龍山に至ること已久しく、掞之の去るを伺い、然る後に国門に入る。会に虞允文しょくより使い還り、俊卿とともに覿の留むべからざるを奏す。帝曰く、「然り、留むれば則ち朕を累わす」と。卒に浙東副総管を除す。未だ幾ばくもなく、墨詔を以て覿の一官を進めて観察使と為す。中書舎人繳還し、事に因らざる除拜は必ず人言有らんとす。帝聴かず。俊卿曰く、「然らずんば、亦た名有るべし」と。会に汪大猷金の正旦使を賀するに当たり、覿をしてこれを副わしむ。比べ還るに及び、一秩を遷し、而して竟に浙東の命を申し、且つ閤門吏に戒めて朝辞をうながさしむ。覿ここにおいて怏怏として去る。

六年夏、俊卿政を罷む。十月、覿京祠を以て召さる。七年、皇太子立てらる。覿伴読の労により、承宣使に升る。八年、姚憲金国尊号使を賀するに当たり、覿これを副う。帰りて武泰軍節度使を除せられ、万寿観を提挙す。淳熙元年、開府儀同三司を除せらる。四年、覿文資官を以て其の子孫を官せんと欲す。帝中使を遣わし省中に至らしめ使相奏補の法を具えしむ。龔茂良時に参政として丞相の事を行い、遽かに文武官各随本色蔭補の法を以て進め繳す。覿大いに怒る。茂良朝を退き、覿の従騎避けず。茂良これを執りて撻ち、待罪して出でんことを乞う。許さず。戸部員外郎謝廓然忽ち出身を賜わり、侍御史を除せらる。廓然首めて茂良を論じ、資政殿学士を以て鎮江を知らしむ。章再上り、鐫罷せらる。言うこと已まず、英州に貶す。皆覿の使う所なり。覿前に雖も事に預かるも、未だ敢えてほしいままにせず、ここに至りて大臣を責逐し、士始めて側目重足す。廓然既に擅権を以て茂良を罪す。従班に韓彦古なる者有り、覿の姻、廓然の党、遂に議を献じてこれを助け、人主をして大臣を疑い近習を信ぜしむ。ここに至りて益々甚だし。

六年二月、帝佑聖観に幸し、宰臣史浩及び覿を召して同しく酒を賜う。是歳、覿に少保・醴泉観使を加う。時に周必大制を草すに当たり、人其の必ず肯て従わざるを謂う。及び制出づるや、乃ち「敬故は尊賢の上に在り」の語有り。士論これを惜しむ。

曾覿は初め龍大淵と結託していたが、大淵が死ぬと、王抃・甘昪と蟠り結び、文武の要職は多く三人の門下より出た。葉衡は小官より十年にして宰相に至った。徐本中は小使臣より積み重ねて刺史・知閤門事となり、文資に換えて右文殿修撰・樞密都承旨となり、三品の服を賜わり、まもなく浙西提刑となり、やがて集英殿修撰として内祠を奉じた。この二人は、皆曾覿が推挙した者である。

著作郎胡晉臣が転対の機会に、近習が権勢をほしいままにする害を極論したため、出されて漢州知州となった。南康守朱熹が詔に応じて上書したが、その言は特に激しく、曰く「一二の近習の者が、陛下の心志を惑わし、いわゆる宰相・師傅・賓友・諫諍の臣は、あるいはかえってその門牆に出入りし、その風旨を承望している」と。疏が入ると、帝は怒り、分析を命じたが、丞相趙雄がこれを言上し、事はやんだ。陳俊卿が金陵を守り、闕を過ぎて入見し、まず曾覿・王抃が権を招き賄を受け、人材を推薦進用するのは、皆中批によって行われていると述べた。帝は「瑣細な差遣は、あるいはやむを得ず従うこともある。近上の除目については、この輩がどうして敢えて干渉できようか」と言った。俊卿が入辞する時、また言った「以前は士大夫が曾覿・王抃の門に奔走する者は、十に一二で、まだ人に知られるのを恐れていた。今では公然と趨附し、十に八九に及んでおり、朝廷の美事ではない」と。帝は感ずるところがあった。曾覿は二十年にわたり権勢を振るい、中外に威を震わし、大臣を讒訴して追放し、嶺外に貶死させるに至った。ここに至って漸くその奸を悟り、左右に謂って「曾覿は我を誤ること少なからず」と言った。そこで次第に曾覿を疎んじた。

曾覿は憂い憤り、背中に癰ができた。七年三月、翠寒堂で帝の宴に侍し、退いて記を作り進上した。十二月、卒去した。ここにおいてかつて曾覿を論じて罪を得た者は皆記録して贈官し、胡晉臣は起用されて執政に至り、魏掞之は直秘閣を贈られ、龔茂良はその職名と恩数を悉く返還された。

張説

張説は開封の人である。父の公裕は省吏であり、和州防禦使となり、建炎初年に軍功があった。説は父の任により右職となり、寿聖皇后の妹を娶り、これにより累遷して知閤門事となった。隆興初年、枢密副都承旨を兼ねた。乾道初年、都承旨となり、明州観察使を加えられた。

七年三月、簽書枢密院事に除せられた。時に劉珙が起復して同知枢密院事となったが、珙は彼と同命となることを恥じ、力辞して拝命せず、命が下ると、朝論は嘩然として不平で、敢えて朝に直言する者はなかった。ただ左司員外郎張栻が経筵で力言し、中書舎人范成大は詞を草しなかった。まもなく張説を安遠軍節度使に除し、祠を奉じて邸に帰した。数ヶ月も経たぬうちに、張栻を出して袁州知州とした。説が祠を奉じた後、人に語って「張左司は平素から仲が良くなかったのは、もとよりである。范致能もどうして攻撃するのか」と言い、座っている亭の材木を指して「これらは皆致能が恵んでくれたものだ」と言った。

八年二月、再び安遠軍節度使より万寿観提挙・簽書枢密院事となった。侍御史李衡・右正言王希呂が相次いで上章してこれを論じ、起居郎莫済は録黄を書かず、直院周必大は答詔を草さなかった。そこで権給事中姚憲に命じて書読して行下させ、翰林学士王曮に命じて答詔を草させた。間もなく、王曮は学士承旨に昇進し、姚憲は出身を贈られて諫議大夫となった。詔して王希呂は党を結び名を求め、持論が反覆しているとし、遠小の監当に責めた。李衡は平素より張説と親しく、言ったことも婉曲であったため、言職を罷めるのみで、左史に遷され、莫済・周必大は皆在外の宮観を与えられ、即日国門を出た。国子司業劉焞は書を移して宰相を責め、張説を用いるべきでないと言ったが、すぐに言者に論ぜられ、出されて江西転運判官となった。ここにおいて張説の勢いは赫然として、敢えてこれに逆らう者はいなかった。九年春、張説が露章して莫済・周必大を推薦したため、二人は皆郡守を与えられたが、必大は結局出仕しなかった。

淳熙元年、帝は張説が数事を欺罔していたことを察知し、侍御史范仲芑に命じてこれを究明させ、遂に罷めて太尉とし、玉隆宮提挙とした。諫官湯邦彦がまたその奸贓を弾劾したため、明州観察使に降格し、撫州に居住を責められた。三年、自便を許された。七年、湖州で卒去した。帝はなおこれを思い、詔して承宣使を復させようとしたが、給事中陳峴がこれを封還したため、やんだ。その子の張薦は文州刺史、張嶷は明州観察使であった。張説が敗れると、張薦も郴州に貶された。

先に、南丹州の莫延葚が表して宜州市での馬の取引を乞い、横山より三十行程近いと述べた。張説が枢府に在ってこれを聞き入れようとしたが、枢属にその不便を論ずる者がいたのに、張説は聞き入れなかった。張説が貶されると、遂にその議は廃された。張説はまた郎官・卿監を通じて武臣を差遣するよう建議したが、中書舎人留正は不可とし、遂にやんだ。右相梁克家と使事について議が合わず、克家は罷め去ったが張説は留まり、その政権を窃み、大臣を傾けることはこのような類であった。

王抃

王抃は初め国信所の小吏であった。金人が海・泗・唐・鄧・商・秦の地を求め、議論は久しく決しなかった。金兵が来ると、王抃を遣わして使わしめ、地を許し、歳貢を歳幣に改めて帰還させた。乾道年中、官を積んで知閤門事に至り、帝に親信された。金使が来て国書の礼儀について議したが合わず、王抃は宰執虞允文の命により、その使を欺いて「両朝の通好には常礼があり、使人がどうして妄りに事を生ずるのか、既に対境に牒知した」と言った。翌日、金使はようやく書を進めた。帝は任に堪えると思い、荊襄に遣わして軍馬を点閲させた。

淳熙年中、枢密都承旨を兼ね、殿前司・歩軍司の二司の軍に虚籍が多いことを理由に、各三千人を募るよう建議した。やがて殿前司は市人を捕らえて軍に充て、号呼が道に満ち、軍士が隙に乗じて民財を掠め取った。帝は専ら殿前指揮使王友直を罪に問い、王抃に命じて権殿前司事とした。

時に王抃は曾覿・甘昪と結び、恩を恃んで専横し、その門は市の如くであった。著作郎胡晉臣がかつて近習の権勢を論じたが、帝は執政趙雄にその人を尋ねさせた。趙雄は王抃らを憚り、胡晉臣に王抃らを避け、位の卑しい数人を指して答えるよう命じ、胡晉臣は結局外補された。校書郎鄭鑒・宗正丞袁枢が転対の機会に、しばしば帝にこれを言上したが、帝はまだ気づかなかった。吏部侍郎趙汝愚が王抃の罪を力疏し、言うには「陛下が即位された初め、宰相の葉顒らは皆陛下の左右がその権を侵すことを恐れ、日夜これと敵対していた。陛下は数年を経て以来、大臣にまだ陛下の左右と是非を争う者がいるかお察しください。その勢いが積もってここに至ったのです。今や将帥の権はことごとく王抃に帰しています」と。

先に、王抃が金使を欺いて国書を取ったが、使が帰ると、金主はこれを誅した。翌年、金使が来ると、帝は徳寿宮の命により、席を離れて国書を受けたが、まもなく後悔した。淳熙八年、金の賀正旦使が来て、再び帝に起立して旧儀の如くするよう求め、帝は急いで内に入ったが、王抃は擅かに金使に旧儀で見えることを許した。翌日、趙汝愚が殿上に侍すると、帝は数日間不機嫌であった。汝愚はこれにより急いで王抃を攻撃し、帝は遂に王抃を外祠に出し、再び召さなかった。淳熙十一年、福州観察使として卒去した。

姜特立

姜特立は、字を邦傑といい、麗水の人である。父の綬の恩蔭により、承信郎に補せられた。

淳熙年間、累遷して福建路兵馬副都監となった。海賊の姜大獠が泉南を寇したとき、特立は一舟を率いて先に進み、これを擒らえた。帥臣の趙汝愚が朝廷に推薦し、召されて謁見し、自ら作った詩百篇を献上した。閤門舍人に除せられ、太子宮左右春坊を兼ね、皇孫平陽王の伴読を命ぜられ、これにより太子の寵を得た。太子が即位すると、知閤門事に除せられ、譙熙載とともに春坊の旧人として権勢を振るい、恩寵を恃んで何ら憚るところがなく、当時の人は曾覿・龍大淵の再出と称した。

留正が右相となったとき、執政にまだ欠員があった。特立がある日、留正に言うには、「帝は丞相が在位久しいことを以て、左揆に遷らせようとし、二尚書の中から一人を選んで執政としたいとお考えですが、誰が適任でしょうか」と。翌日、留正は彼が権勢を招き賄賂を受け取る様子を論じたので、遂に職を奪われて外祠に任ぜられた。帝は彼を思い、再び浙東馬歩軍副総管に除し、詔して銭二千緡を賜り行装とした。留正は唐の憲宗が吐突承璀を召した故事を引き、宰相を罷めるよう請うたが、許されなかった。留正はまた言うには、「臣と特立とは勢い両立し難い」と。帝は答えて、「成命は既に下った。朕に汗を反すことはない。卿は自ら処すべきである」と。留正は国門外で待罪したが、帝は再び召さず、特立もまた至らなかった。寧宗が禅を受けられると、特立は和州防禦使に遷り、再び祠官を奉じ、間もなく慶遠軍節度使に拝され、卒した。

譙熙載 附

熙載もまた平陽邸の伴読となり、累官して忠州防禦使・知閤門事に至った。紹熙年間に卒し、特立に比べて頗る廉勤であった。

熙載の子、令雍は、恩蔭により承信郎・平陽郡王府幹辦に補せられ、間もなく王府内知客を充てられ、小才があった。王がかつて『春秋』の褒貶や、斉の宣王が牛を易え、秦の穆公が過ちを悔いた故事について論じたとき、令雍は即座に三首の詩を作って献上し、王は甚だこれを愛重した。即位すると、知閤門事に除せられ、累遷して揚州承宣使に至った。職を謝し、保成軍節度使を拝した。初めて邸宅を賜ったとき、帝は親しく「依光」の二字を書いて賜った。この時至り、また「得閒知止」の四字を書いてその堂の名とした。宝璽が帰還したとき、広く恩赦が行われ、検校少保に進み、なお太尉に転じて致仕した。卒し、開府儀同三司を贈られた。