宋史

列傳第二百二十八 宦者四 邵成章 藍珪康履 馮益 張去爲 陳源 甘昪 王德謙 關禮 董宋臣

邵成章

邵成章は、欽宗朝の内侍である。帝が青城に入ると、成章に命じて皇太子を衛り宣徳門に赴かせ、制を称して事を行わしめた。太子が北へ去ると、成章は汴に留まった。康王が即位せんとする時、元祐太后は成章を遣わして乗輿・服御を奉じて南京に至らせ、揚州に従幸した。

金人が陝西・京東諸郡を掠め、群盗が山東に起こると、黄潜善・汪伯彦は匿して聞かせず。張遇が真州を焼き、行在より六十里去った時も、帝もまたこれを知らなかった。成章が上疏し、潜善・伯彦の罪を条具し、「必ず国を誤らん」と曰い、かつ潜善らにこれを聞かしむるよう申し上げた。帝怒り、除名し、南雄州に編管した。侍御史馬伸が言うには、「成章は上書に縁って罪を得たり。今は何の時ぞ、言を以て諱と為すや」と。

久しくして、帝は成章の忠直を思い、行在に召し赴かせようとしたが、その徒がこれを忌み、帝に譖えて曰く、「邵九百来らば、陛下に歓楽無からん」と。すなわち洪州にこれを止めた。金人が洪に入り、その名を聞き、訪ね求めてこれを得、これに謂いて曰く、「公の忠正なるを知る、能く吾が主に事え、坐して富貴を享くべし」と。成章応ぜず、威を以て脅すも、また従わず。金人曰く、「忠臣なり、吾殺すに忍びず」と。金帛を遺して去った。

藍珪

康履 附

藍珪・康履は、初め皆康王府都監・入内東頭供奉官となり、嘗て康王に従い金人の行営に使した。及び元帥府を開くと、並びに主管機宜文字を務めた。朝廷人が師を促し入援せしむるに、履らは王に相州に留まるよう請うたが、王はこれを叱して行った。既に即位すると、二人倶に恩を恃んで事を用い、履は特に妄りに威福を作し、大将たる劉光世らの多くは曲意してこれに事えた。帝これを知り、詔して内侍は統兵官と相見することを許さず、違う者は官を停め編隷すべしと。履は終に忌憚する所無く、内侍曾択と諸将を凌忽し、或いは踞坐して足を洗い、諸将を左右に立たせ、声喏を馬前に至らしむるもした故、これを疾む者衆し。俄かに内侍省押班・金州観察使に遷る。

帝が揚州に在りし時、金兵卒然として至り、帝は馳馬して門を出で、百官備えを戒めず、従行する者は惟だ履ら五六人のみ。ここより履ら益々自ら衒い、愈々外朝を軽んずる心あり。及び浙に幸するに、呉江を道すがら、その党競いて射鴨を以て楽と為す。杭州に至るに及び、江下に観潮し、中官の供帳、赫然として道を遮る。統制苗傅ら切歯して曰く、「此輩天子をして此に至らしめ、尚お敢えて爾るか」と。傅の幕客王世修もまた中官の恣横を疾み、武功大夫劉正彦に告げると、正彦曰く、「会に当に共にこれを除くべし」と。王淵が枢筦に躋るを、正彦は宦者の薦むる所に由ると為し、愈々平らかならず、謀遂に決す。伏兵して淵を斬り、兵を遣わして履の家を囲み、中官を分捕し、凡そ須なき者は皆これを殺す。

履は馳せ入りて帝に白す。傅ら至り、厲声して曰く、「陛下中官を信任し、凡そ中官の主る者は皆美官を得たり。王淵は賊に遇いて戦わず、康履と交わりて枢密を得たり。外に在る中官は已に誅せり、更に康履・藍珪・曾択等を誅し、以て三軍に謝すことを乞う」と。帝忍びず、傅らに官を除き以てこれを安んず。傅ら曰く、「官を遷らんと欲せば、第に両匹の馬を控えて内侍に与うるを須う、何ぞ必ずしも此に至らんや」と。帝、百官に策の出づる所を問う。主管浙西機宜文字時希孟曰く、「中官の患いと為る、此に至りて極まれり。これを除かざれば、天下の患い未だ已まじ」と。軍器監葉宗諤言う、「陛下何ぞ一康履を惜しみ、以て三軍を慰めざる」と。帝已むを得ず、人を遣わして履を執らしめて至らしむ。履、帝を望みて呼びて曰く、「大家何ぞ独り臣を殺す」と。すなわち以て傅に付す。即ち腰斬し、その首を梟す。帝、睿聖宮に幸す。傅ら内侍十五人を留めて左右に奉ぜしむ。尋いで珪・択等を捕え、皆遠州に編置す。択は、昭州に行くこと一程、追い還して斬る。

傅ら誅せられ、履に官を贈り、諡して「栄節」と曰う。珪らを召し還す。中書舎人季陵言う、「中官復た召され、その党与相賀い、気焰益々張り、中外切歯す」と。報えず。珪至り、武功大夫より擢て内侍省押班と為す。慈寧宮建つや、命じて事務を提点せしめ、尋いで内侍省都知に升る。及び太后を迎えるに、命じて都大主管を充てしむ。太后既に宮に還ると、珪奏して応干補授の恩は、慈寧宮の施行を聴くことを乞う。これに従う。珪は初め履と同く進みしも、驕横は履に及ばず、故に幸いに寿を以て終わる。

安石という者有り、同姓にして、内侍省副都知となり、景福殿使・湖州観察使に至る。卒し、保寧軍節度使を贈られ、諡して「良恪」と曰う。江を渡った後、中官の贈諡は安石より始まる。

また履と同姓の者有り、名は諝、内侍省押班となり、亦親幸されて事を用い、知閤門事藍公佐と善くし、毎に公佐をその直舎に邀えば、必ず縦飲大酔し、薄暮にして乃ち帰り、嘗て禁中の語を漏泄す。劉光遠劾せられし時、諝は内侍陳永錫と其の金を受け、力を尽くして営救す。言官これを劾す。帝詔して永錫は祠とし、諝は吏部に送る。後に累官して均州観察使に至る。卒し、保信軍節度使を贈られ、諡して「忠定」と曰う。

馮益

馮益は、康王(後の高宗)の邸宅の旧臣である。王が即位すると、入内東頭供奉官から幹辦御藥院に昇進し、まもなく幹辦皇城司を兼ねた。旧恩を恃んで驕慢放恣であった。帝が浙東に行幸した際、馮益は御前右軍都統制の張俊と渡河の順番を争い、言葉で張俊を侮辱し、さらに帝に訴えた。事は御史臺に下され、侍御史の趙鼎が言上した。「明受の変は、内侍から起こった。覆轍は戒めねばならない。」事はそこで収まった。

紹興三年、武功大夫・康州防禦使・帯御器械を授けられた。当時、帝は侍御史常同の上言を用い、皇城司を台察(御史臺)に隷属させる詔を下したが、馮益はこれは祖宗の旧制ではないと上言し、帝は前の詔を撤回させた。特旨で宣政使に昇進した。馮益は自ら藩邸の旧吏であると称し、恩典を加えるよう請うたので、明州観察使に昇格した。内廐にはもと騏驥院官があったが、馮益は別に御馬院を設置するよう請い、自らその事を管轄し、また勝手に皇城の便門を穿った。侍御史の沈與求がこれを問題として上言し、趙鼎らも皆これを憂慮した。

ちょうど劉が山東で掲示を出し、馮益が人を遣わして飛鴿を買い集めさせたことから、不遜な言葉があったと述べた。張浚は馮益を斬って誹謗を解消すべきと請うたが、帝は許さなかった。趙鼎は事が国体に関わると言い、解職して罰を加えるべきと上言した。帝は喜んで言った。「馮益が外部の事柄と交渉していると聞く。漸くして長ずべからざるものだ。」宮祠を与えて帰郷させた。張浚の怒りはまだ収まらなかったが、趙鼎がこれを解いた。馮益はこれより家に居て宮祠の禄を受けること十四年に及んだ。

先に、偽りの柔福帝姫が現れ、自らを王貴妃の末娘と称した時、馮益はかつて貴妃の閤に仕えたことがあると自ら言い、帝は彼に検視させたが、馮益はその詐欺にかかり、真実であると報告した。事が発覚すると、馮益は検視が不実であった罪に坐し、昭州に送られ編管され、まもなく皇太后と姻戚関係にあることを理由に免罪された。十九年、家で死去した。

張去為

張去為は、内侍張見道の養子である。初め韋太后の宅の提点官となり、累進して安德軍承宣使・帯御器械に至り、さらに内侍省押班に昇進した。当時、見道は入内内侍省押班であり、父子ともに景福殿使を充てられた。去為は次第に寵愛を受け、一官を回授して見道に与えるよう請うた。帝はこれを嘉して許した。その後、見道は保康軍承宣使で致仕したが、去為は秦檜・王継先とともに権勢を振るい、延福宮使に昇り、累進して入内内侍省都知に至り、恩寵を恃んで外朝の謀議に干渉した。

金兵が迫り、使者を遣わして来て、傲慢な言葉を出して脅した。去為は密かに出兵を沮み、しょくに行幸する計略を進めたが、宰相の陳康伯が強くこれに反対し、帝は悟ってやめた。侍御史の杜莘老が去為を斬って士気を奮い立たせるよう請うた。先に、去為が御馬院の西兵二百人を取ってその頭髪を剃り落とし、都人はこれを驚いた。莘老はさらにその罪を弾劾した。帝は已むなく、去為を致仕させ、莘老もまた外補に出された。

内禅の後、致仕を取り消す詔が下り、徳寿宮提挙に任じられ、文書のやり取りは内侍省の如く行われ、さらに印を鋳造して賜った。宮殿修造に功労があったため、また特旨で安慶軍承宣使に昇進した。初め、安恭后が宮中に入ったのは、去為が実際に推薦したのである。后が崩御すると、上皇(高宗)はまた去為を遣わして旨を伝えさせ、謝貴妃を后に立てたので、去為もまた貴重されたが、死に至るまで再び朝廷の事には関わらなかった。

陳源

陳源は、淳熙年間に徳寿宮提挙となり、頗る寵愛を受けた。まもなく浙西副総管を兼ねたが、給事中の趙汝愚が「内侍は軍政に干渉すべきではない」と上言したため、罷免された。源は恩寵を恃んで専横放恣であり、本宮の書史である徐彦通という者は、源のために家務を掌り、数年も経たぬうちに経武大夫にまで官位が上がった。甄士昌は源の下僕であったが、理髪が巧みで、承信郎に奏補された。また臨安府の都吏李庚に官を補し、府中の事を窺わせた。孝宗はこれを聞いて憎んだ。十年春、詔して源は長く応奉してきたので、特旨で階官を落とし、京祠を与えるとした。給事中の宇文価が録黄を封還し、外祠に改めた。台官の黄洽らがさらにこれを弾劾し、ついに源を建州居住に貶し、その財産を没収して徳寿宮に進めた。彦通は除名・道州編管、士昌と庚は皆罪に当てられた。言官の弾劾はまだ止まず、源は郴州に移された。源には「小隠」という庭園があり、その規模は禁苑に勝るとも劣らぬもので、高宗はこれを王才人に賜った。

光宗が即位すると、再び召還された。紹熙四年、拱衛大夫・永州防禦使から入内内侍省押班に任じられた。帝が病気のため重華宮(孝宗)に朝謁しないと、源と内侍の楊舜卿・林億年はしばしば離間の言葉を弄した。寧宗が即位すると、三人をともに泰安宮で光宗に仕えさせよと命じた。御史の章穎がその君親を離間した罪を論じ、誅戮もしくは流竄に処して寿皇(孝宗)の在天の霊を慰めるよう請うた。詔して源らの官を罷免し、源は撫州、億年は常州に居住させ、舜卿は任意の地に居住させた。慶元二年、皇子誕生の恩赦により、源と億年は自便を許され、舜卿は内祠を与えられた。給事中の汪義端がこれに反駁したため、源を婺州に、億年を湖州に移した。義端がさらに舜卿の内祠を駁すと、かえって外補に出され、その後、源らはついに自便を許された。億年は別邸に娼女を養い、源は貶所で妓女と淫らに交わり、ともに淫らな行いで知られ、人々は彼らが宦官ではないのではないかと疑ったという。

甘昪

甘昪は、内侍省押班甘澤の子である。澤の死後、累進してやはり押班に至った。乾道年間、帝は頗る昪を親しくし、昪はこれによって権勢を振るった。臨安尹の胡與可が小官であった時、臨安の富民馬氏に借金を請うたが、望み通りにならず、恨みを抱いた。この時、馬氏が官塩を規定以上に売った罪で獄に繋がれると、與可は役人に唆して私塩の罪に論じさせた。御史の陳升卿が裁判を行い、冤罪を晴らした。昪の子の妻は與可の娘であったので、昪は密かに與可のために便宜を図り、帝の前で升卿を讒言し、豪民馬氏のために事を請い、得たものは万緡に及ぶと言った。上(孝宗)は疑い、遂に罪を論じ、馬氏は厳州に流罪、升卿はこれによって罷免追放された。

当時、曾覿は使弼として京祠を領し、王抃は知閤門事兼樞密都承旨として入内押班となり、互いに結託し、士大夫の中の恥知らずな者が争ってこれに附いた。やがて覿は死に抃は追放されたが、昪だけは残り、朱熹が強くこれを言上すると、帝は言った。「これは徳寿宮(高宗)の推薦によるもので、才能があるというのだ。」朱熹は言った。「奸人に才がなければ、どうして人主を動かせましょうか。」二十年にわたり権勢を振るい、権力を弄んで賄賂を求め、黄由が策問に対しても、頗るこれに言及した。後に帝はその奸悪を察し、遂に罪に当て、その財産を没収し、ついに廃されて死んだ。

弟の甘昺は、淳熙末年に幹辦内東門司・帯御器械となった。光宗の朝、累進して親衛大夫・保康軍承宣使・提挙佑神観に至った。慶元初年、内侍省都知となった。帝が寿康宮(高宗皇后)に過ごされた時、昺は力があった。官位を二階級昇進し、頗る貴重寵愛された。

王德謙

王德謙は、初め嘉王府の都監となり、寵愛を受けた。孝宗が危篤に陥ると、光宗は病により長く重華宮に朝見しなかった。黄由は当時王府の賛読であり、嘉王が重華宮に赴き病状を問うよう奏請した。既に旨を得たが、王德謙は強いて覆奏を請うたので、王はこれを斥けて遂に行った。孝宗が崩御すると、王は喪中の位置におり、内外が騒然とした。王は直講の彭龜年に告げた。龜年は、皇太子を立てれば人心が安らぐと考え、中宮に申し上げる必要があると言った。即座に王德謙に命じて皇太后に奏上させようとしたが、王德謙は敢えてせず、強いても、その後返答はなかった。

王が即位すると、王德謙は累進して昭慶軍承宣使・内侍省押班となり、邸宅を賜った。驕慢で法を越え、衣服や飲食は天子に擬し、出入りの際には導駕の燈籠を用いることもあった。人のために官を求め、賄賂は巨万に及び、その事を漏らす者は直ちに禍を受けたため、外朝の者も多く彼に附いた。

中書舎人呉宗旦は特に謹んで彼に仕え、夜には衣服を替えて謁見した。王德謙が節度使を求めた際、先に宗旦を刑部侍郎・直学士院に推薦し、麻を起草させようとした。宗旦は先に草案を準備して彼に見せ、天宝・同光の故事を引き合いに出したので、王德謙は喜んだ。制書が出ると、参知政事何澹が署名を肯まず、諫議大夫劉徳秀が台諫を率いて論列し、宰相京鏜もまた上言したため、命令は遂に取り止めとなった。

韓侂冑は王德謙と権勢を争い、王德謙はたびたび計略で勝ったが、侂冑が彼を排斥し、詔して外祠を与えようとした。台諫もまた相次いで上章して反論した。侍御史姚愈は、呉宗旦がかつて王德謙の制書を起草したと上言し、遂にその官を罷免させた。愈はまた同列を率いて王德謙を力攻し、詔して広徳軍居住に送られた。まもなく臨安尹がその贓濫・僭擬を弾劾し、詔して団練使に降格し、撫州に移住させ、他の事は問わないこととした。中書舎人高文虎が安置に改めるよう請うたが、台諫はまたその奸詭を上言し、今後は赦令による移転を認めず、たとえ特旨であっても執奏を許すよう乞うた。帝はその言を用い、王德謙は遂に廃斥されて死に至った。

関礼

関礼は、高宗朝の宦官である。淳熙末年、累官して親衛大夫・保信軍承宣使に至った。孝宗は彼を頗る親信し、後に重華宮提挙を命じた。

孝宗が崩御し、光宗が病のため喪を執ることができず、枢密趙汝愚らが皇太子を立てて人心を安んずるよう請うた。光宗の御批にはまた「退閑を念う」との語があり、丞相留正は恐れて官禄を返上して去り、人心はますます動揺した。汝愚は戚里の韓侂冑を遣わし、内侍張宗尹を通じて禅位の議を奏上させた。太皇太后は「これは軽々に言えることではない」と言った。翌日、汝愚は再び侂冑を遣わして宗尹に附けて奏上させたが、命を得ないうちに侂冑が退出し、関礼と出会った。礼はその意を知り、問うたが、侂冑は告げなかった。礼は天を指して誓って言わないと誓い、侂冑は遂にその事を打ち明けた。礼は直ちに宮中に入り、時事の憂うべき状を涙ながらに太后に告げ、かつ言った。「留丞相は既に去り、頼みとするは趙知院のみです。今、大計を定めようとして太皇太后の命がなければ、彼もまた去ろうとしています」。太后は驚いて言った。「知院は同姓であり、事体は他人とは異なる」。礼は言った。「知院が去らないのは、太后を恃んでいるからです。今、請うて許されず、計略の出る所がなければ、ただ去るのみです。知院が去れば、天下はどうなるでしょうか」。太后は悟り、遂に礼に命じて侂冑に旨を伝えさせ汝愚に諭し、明日、太后が垂簾し、その事を上奏することを約束させた。また翌日、嘉王が入って禫祭を行い、汝愚は簾前で御批を進呈すると、太后は遂に王に命じて皇帝の位に即かせた。まもなく礼を入内内侍省都知に任じ、また重華・慈福宮承受を兼ねさせ、提挙皇城司を充て、中侍大夫に遷した。

礼は功を自ら誇らず、致仕を乞うたが許されず、推恩を免じるよう乞うたが、また許されなかった。南渡後、宦官で称えられるべき者は、邵成章と関礼のみである。

董宋臣

董宋臣は、理宗朝の宦官である。淳祐年中、睿思殿祗候より特転して横行官となった。宝祐三年、幹辦佑聖観を兼ねた。侍御史洪天錫が彼を弾劾したが、報いられず、天錫は左遷されて大理少卿となった。開慶初年、大元の兵が江上に駐屯し、京師は大いに震動した。宋臣は帝に寧海軍への遷幸を勧め、簽判文天祥が上疏して宋臣の誅殺を乞うたが、また報いられなかった。

景定四年、保康軍承宣使より入内内侍省押班に任じられ、まもなく太廟・往来国信所主管を兼ね、同提点内軍器庫・翰林院・編修敕令所・都大提挙諸司、提点顕応観、景献太子府事主管となった。時に天祥が著作佐郎兼景献府教授となったが、義として宋臣と連署することを肯まず、上書して去職を求めたため、天祥は出知して瑞州知州となった。

言官が宋臣を論じ止まなかったが、帝は曲げて諭解し彼を庇った。秘書少監湯漢が封事を上じ、また言った。「宋臣は十余年来、勢威が盛んで、その力は台諫を去らせ、大臣を排斥し、凶徒と結んで大禍を招くに至りました。内外は惶惑して切歯しているのに、陛下はなお彼のために弁明し、大臣はなお彼のために和解しようとしています。これは過った計らいです。押班等の除命を取り戻されることを願います。宗社の幸いこれに勝るものはありません」。疏が入ったが、帝はまたこれを省みなかった。六月、御前馬院及び酒庫主管を命じた。既に卒去した後も、帝はなお特転して節度使とするよう命じた。その寵愛された様はこのようなものであった。