宋史

列傳第二百二十六 宦者二 楊守珍 韓守英 藍繼宗 張惟吉養子:若水 甘昭吉 盧守懃 王守規 李憲 張茂則 宋用臣 王中正 李舜舉 石得一 梁從吉 劉惟簡

楊守珍

楊守珍、字は仲寶、開封祥符の人なり。入內黃門となり、書史を習い、兵家の方略を学ぶ。射を善くし、家僮が堂下を過ぐるに、一発にして髻を貫き、人は其の精妙に服す。選ばれて環慶路走馬承受公事となる。契丹、塞に入らんと謀るに、鎮・定・高陽關行營同押先鋒事と為る。時に許民の周繼宗、人に誣告せられて外夷と交通すと為り、干證する者六十人、辞服す。守珍を遣わして覆問せしむるに、悉く辦理して之を出だす。真定・保・趙等州駐泊都監に徙り、邕・桂等十州安撫都監となる。曹克明に從い撫水州蠻を降し、二柵を築きて其の要を扼す。天禧初、青灰山にて盗を擒う。累遷して西京作坊使・帶御器械・永興軍兵馬鈐轄となり、真定・邠寧路に徙る。内侍省內侍押班と為り、内弓箭軍器庫を提點す。進みて内園使・右班都知・端州刺史を領す。嘗て仁宗に苑中に侍し、命じて馬に乗り馳射せしむ。其の便習を賞し、錦袍卮酒を賜う。卒す。原州防禦使を贈らる。

韓守英

韓守英、字は德華、開封祥符の人なり。初め入內高品と為り、河東に征することに從い、数たび詔を奉じて石嶺關に至り督戰し、隆州を取り、殿頭に遷る。久しくして、西頭供奉官より擢て入內內侍押班となり、副都知に遷る。王繼恩に隨い西川を招安し、先鋒と為り、劍門にて戰いて功有り、西京作坊使・劍門都監に遷る。還りて、三班院を勾當し、入內內侍都知に進む。歴て定州・鎮定高陽關・幷代路兵馬鈐轄と為る。契丹、岢嵐軍を圍む。守英は鈐轄張志言・知府州折惟昌と帥を所部し河を渡り、朔州に抵り、以て賊の勢を牽く。遂に狼水砦を破り、数百人を俘え、馬牛羊鎧甲を数万を以て計うるを得、賊は為に解き去る。錦袍・金帯を賜う。俄かに會州刺史を領し、都知を解く。再び昭宣使に遷り、復た三班を領す。

鄜延路都鈐轄として出で、幷代路に徙る。建言す「本路の宿兵多し、百姓は飛輓に困す。今幸いに邊鄙事無し。請う騎軍千人を留め、餘人は悉く内に徙さしむべし」と。真宗曰く「邊臣能く朝廷の民を恤うの意を體す。宜しく諸路に詔して此に視いて之を行わしむべし」と。

在京諸司庫務を提舉し、皇城司を勾當し、趙德明官告使と為る。歴て宣政・宣慶二使、内侍左班都知、獎州團練使・雅州防禦使を領し、入內都知となり、修國史を管勾す。書成りて、景福殿使に進み、又た延福宮使・入內都知と為り、復た諸司庫務を提舉す。卒す。定國軍節度觀察留後を贈らる。

藍繼宗

藍繼宗、字は承祖、廣州南海の人なり。劉鋹に事えて宦者と為り、朝に歸す。年十二、中黃門に遷る。太原に征することに從い、詔を營陳の間に傳うるに、多く旨に稱す。

秦州の並邊に大洛門砦・小洛門砦有り、唐末より西羌に陷つ。雍熙中、溫仲舒、酋豪を諭して其の地を獻せしめ、衆を渭北に徒す。言者、事を生ずと以為い、仲舒を罷めんことを請う。太宗、繼宗を遣わして往き按視せしむ。還り奏す、二砦要害を據え、良木を産す、棄つべからずと。帝悅び、復た繼宗を使い仲舒を勞賜せしむ。累遷して西京作坊副使・勾當内東門と為る。

元德太后・章穆皇后葬らるるに、按行園陵使と為る。車駕北征するに、留司・皇城司を勾當す。車駕諸陵を謁す。近陵舊より水乏し、繼宗泉を陵下に疏き、百司の從官皆之を取って濟う。擢て入內副都知と為り、天書扶侍都監と為る。詔して李神祐と東封の扈從内臣の勞を第せしむ。而して入內供奉官范守遜等其の不公を訴う。都知を罷む。汾脽を祀るに、復た天書扶侍都監と為り、再び東染院使に遷る。

明年、會州刺史を領し、崇儀使に進み、皇城司を勾當す。玉清昭應宮を修するに、劉承珪と典りて工作す。宮成りて、洛苑使・高州團練使に遷り、都監を充つ。章穆皇后陵の隧墊するに坐し、如京使に貶せらる。景靈宮を修するを典り、南作坊使に進み、復た會靈・祥源観を修す。車駕亳州に幸するに、留司・大内公事を管勾し、在京諸司庫務を提舉し、三班院を勾當し、國史院を修す。趙德明加恩使と為る。德明、繼宗と射る。繼宗、発する毎に必ず中り、德明、乗する所の名馬を以て遺う。内侍省右班都知と為り、入內都知に遷る。

仁宗即位し、左騏驥使・忠州防禦使・永定陵修奉鈐轄に遷る。歴て昭宣・宣政・宣慶使と為る。累上章して致仕を求む。特に入朝の拜舞及び行幸に從うことを免ず。頃くして、復た固く請うて都知を罷め、景福殿使・邕州觀察使を以て家居し疾を養う。卒す。安德軍節度使を贈られ、諡して「僖靖」と曰う。

繼宗四朝に事え、謙謹自ら持ち、職を領すること未だ久しからずして、輒ち罷めんことを請う。家に園池有り、退朝すれば即ち亟に歸る。同列或いは之を留むるも、繼宗曰く「我歸りて花卉を種え、遊魚を弄びて楽しまんと欲するのみ」と。景福殿に使を置くこと、大中祥符間より繼宗に至るまで、授くる者纔に三人なり。養子に元用・元震有り。

元用は終わりに左蔵庫使・梓州観察使となった。

養子に元震がいる。

元震は兄の蔭により入内黄門に補され、高班に転じ、明粛太后に給事した。禁中に夜火あり、后は仁宗を擁して西華門に登り、左右の者が未だ集まらぬ中、元震独り宿衛に伝呼し、功により高品に遷った。三陵都監となり、防守の法を条列し、その後諸陵はこれをもって式とした。歴て群牧都監、三館秘閣を監し、積官して皇城使となる。累遷して入内副都知・忠州防禦使となった。仙韶院の火災に、元震救護し、火は時に息んだ。詔してこれを褒め、襲衣・金帯を賜う。卒し、鎮海軍留後を贈られた。元震の養子は五人、閹子を養わず。

張惟吉

張惟吉、字は佑之、開封の人。初め入内黄門に補され、殿頭・高陽関路走馬承受公事に遷る。塞を護り滑州天台埽の役を監督し、西頭供奉官に遷り、在京榷貨務を監す。嘉州知事張約が贓により敗れたとき、詔して御史王軫とともにその獄を劾すべく往く。還り、内東門司を領し、章献・章懿両太后の二陵修奉承受となる。時に議ありて李諮の榷茶算緡法を復用せんとし、乃ち惟吉を内殿崇班とし、再び榷貨務を監せしむ。凡そ内侍が内東門を領すれば、次に勾当御薬院に遷るものなりしが、惟吉は才たるに官を進めたるのみにて、衆は薄しと為すも、惟吉は欣然として職に就く。再び期を経て、羨余により承制に遷る。

趙元昊の官告使となり、還りて、元昊の驕僭を言い、勢い必ず叛かんとし、予め辺備を飭るべしと請う。及び元昊が延州を寇すや、遣わされて鄜延・環慶両路の器甲を按視し、併せて攻守の利害を訪う。敵既に退き、夏竦・韓琦は鄜延より深入し、虚に乗じてこれを撃たんと謀り、惟吉に命じて幷・汾のぎょう勇を募り、土兵を副えて軽齎し河外に赴かしむ。惟吉は我が師は持重して変を伺うべく、不測に馳赴して自ら困るべからずと為し、已にして元昊果たして去る。還りて奏し旨に称し、皇城司を領し、内侍省押班・群牧都監に遷り、陝西の冗兵を簡し、軍頭引見司を領し、供備庫使に遷り、軍頭司の軍校の罷癃なる者を尽く汰す。同提挙在京諸司庫務となり、恩州刺史を領し、入内都知となる。

商胡が決し、澶州修河都鈐轄となる。転運使施昌言は亟に塞ぐべしと請い、崔嶧は歳災民困なれば役は緩むべしと為す。惟吉に命じて按視せしむ。言うに河は塞ぐべしと雖も民誠に困し、財用足らず、宜しく少しくこれを待つべしと。その議に従う。如京使・果州団練使に遷り、再び皇城司を領し、卒す。

惟吉は任事久しく、頗る親信せられしも、言うところ阿徇せず。張貴妃薨じ、将に皇儀殿にて治喪せんとす。諸宦官皆以て可と為すも、独り惟吉曰く「此の事は典礼に干し、須らく翌日宰相に問うべし」と。既にして宰相能く議を執ること能わず、惟吉深く以て非と為す。昭信軍節度観察留後を贈られる。一箇月を逾え、また保順軍節度使を贈り、諡して「忠安」とす。

養子に若水がいる。

養子若水、字は益之、惟吉の奏により小黄門に補され、章恵太后殿に給事し、転じて入内高品となる。王師貝州を平らげ、儂賊を征するに、皆以て幹敏をもって選ばれ走馬承受となる。賊平らぎ、労により官を進め、三遷して環慶路鈐轄となる。環州解乜臼族を討ち復た功あり、歴て帯御器械・内侍押班・副都知となる。

熙寧初め、神臂弓造り成り、神宗延和殿に御し臨閲す。鉄甲を七十歩に置き、衛士をして射しむるも、未だ中る者なし。若水自ら射を請い、連中して札を徹す。慶寿・宝慈両宮を建つるに、工作を典領し、再遷して嘉州防禦使となる。病を以て職を解かんことを蘄り、輝州観察使を領し、四園苑諸司庫務を提挙す。卒し、天平軍留後を贈られる。

甘昭吉

甘昭吉、字は祐之、開封の人。初め内侍殿頭として英・韶州巡検となり、盗を捕らえて功あり、再遷して内殿崇班・京東路都巡検となる。斉州武衛小校馮坦が営卒二百を率いて州庁事に突入し、変を為さんとす。昭吉単騎馳せ往き、従う将士に兵を操りて外に在らしむるを戒め、先ず独り乱卒に会い、福禍を諭し、首悪を推して自ら贖わしむ。衆疑沮して敢えて動かず。已にして兵を操る者皆入り、即ち共に十余人を執り、告げて曰く「此れ我を誘う者なり」と。昭吉立ってこれを殺し、其の余を放ち去らしむ。州以て事無し。特遷して供備庫副使・帯御器械となる。後ち内侍省押班闕け、仁宗前功を記し、特もってこれを授く。入内副都知に遷る。

英宗即位の夕べ、昭吉禁中に直し、翊衛に労あり。文思副使より超遷して供備庫使・康州刺史となる。昭吉奏して曰く「臣本孤微にして左右の挙無し。然るに先帝臣の樸直なるを知り、小官より抜用して此に至る。分当に従葬すべし。今願わくは陵寝を灑掃するを得ば足れり」と。帝其の忠を愛し、特授して永昭陵使とし、如京使を加う。朝に還り、表して職を辞し、左龍武軍大将軍を以て致仕し、卒す。昭吉敦実慎密、人士之を称す。

盧守懃

盧守懃は、字を君錫といい、開封祥符の人である。入内内品より累進して礼賓使・邠寧環慶路鈐轄となり、還って入内内侍省押班・昌州刺史を領した。明道年間、章懿太后を改葬した際、旧蔵に水が入っていたため、守懃がかつて葬事を主管したことを理由に、永興軍兵馬鈐轄に左遷され、鄜延路に転じた。再び六宅使に昇進し、貴州団練使を加えられ、さらに栄州防禦使兼邠寧環慶路安撫都監に進んだ。元昊が保安軍を寇したとき、守懃は兵を率いてこれを撃退し、特に左騏驥使に昇進し、陝西鈐轄に移った。

初め、劉平・石元孫が捕らえられたとき、守懃は胸を打って涙を流し、出撃しようとせず、また蕃官の馬を交換したことがあった。延州通判の計用章は范雍に城を棄てて鄜州に退くよう勧め、范雍は安撫都監の李康伯を遣わして賊を説得させようとしたが、康伯は行こうとせず、賊が去った後、守懃と用章は互いに上奏して論じ合った。知制誥の葉清臣は、守懃が兵を擁して傍観したことを理由に、その罪を正すよう請い、二人を合わせて取り調べるよう求めた。守懃は防禦使を剥奪され、湖北都監となった。用章は官籍を削除され、雷州本城に配流された。康伯は均州都監となった。

久しくして、恩州防禦使に復し、利州観察使に昇進し、真定府・定州・北京路鈐轄を歴任した。左衛大将軍をもって致仕し、卒すと、保順軍節度使を追贈され、諡を「安恪」といった。養子に昭序がいる。

王守規

王守規は、真定欒城の人で、入内都都知の守忠の弟である。守忠は真宗に仕え、謹直で慎み深く、寵遇は最も厚かった。明道の時、守規は小黄門であったが、禁中で夜半に火災が起こると、守規は先にこれを察知し、寝殿から後苑に至るまでの鎖をすべて打ち外し、仁宗及び皇太后を延福宮に奉じて避難させた。振り返って経由した所を見ると、すでに灰燼かいじんと化していた。翌日、執政が起居を伺うと、帝は「王守規が朕をここに導かなければ、卿らと再び会うことはなかったであろう」と言った。功により入内殿頭に昇進した。京城の水害を治めることを選ばれ、汴河を公賈村で、蔡河を四里橋で決壊させ、水害は鎮まった。帯御器械を加えられた。累官して宣慶使・康州防禦使・内侍右班副都知に至った。卒去、年六十七、昭武軍留後を追贈された。

李憲

李憲は、字を子範といい、開封祥符の人である。皇祐年間、入内黄門に補され、やがて供奉官に昇進した。神宗が即位すると、永興・太原府路走馬承受を歴任し、しばしば辺境の事について論じ、その意見は上意に合い、後苑を幹当した。王韶が上書して河湟の回復を請うと、憲を派遣して師を視察させ、王韶とともに進軍して河州を収め、東染院使を加えられ、御薬院を幹当した。さらに牛精谷で戦い、珂諾城を抜き、熙河経略安撫司幹当公事となった。鄜延の軍制を視察し、蒲中に至ったとき、木征が董氈・鬼章の兵と合流して踏白城を攻め落とし、景思立を殺し、河州を包囲したとの報が入り、詔により急行を命じられ、憲は馳せて軍に至った。先に、朝廷は黄旗に勅諭を書いて将士に出し、命に従って賊を破った者は倍賞するとしていた。そこで憲は朝、帳中で起き、これを掲げて衆に示し、「この旗は天子の賜ったものである。これを見て戦え、帝は実に臨在している」と言った。兵士は争って命に従い進撃した。諸将を督いて傍山の族帳を焼き、即日に通路を開いて河州に至った。賊の残党は踏白に拠ったが、官軍が出て戦い、これを大破した。余川に進み、さらに賊の堡を十余り破り、木征は酋長八十余人を率いて軍門に降伏した。捷報が聞こえると、功により昭宣使・嘉州防禦使を加えられた。還って、入内内侍省押班・皇城司幹当となった。

安南が叛くと、趙卨の副使として招討に任じられたが、出発前に、卨が建言した。「朝廷が招討副使を置くのは、軍事は共に議すべきであるが、節制号令に至っては宜しく一に帰すべきです」。憲はこれを恨んだ。これによりたびたび紛争し、遂に憲を罷免し、駅伝で秦鳳・熙河の辺事を計議させ、諸将は皆その節制を聴くこととした。そこで御史中丞の鄧潤甫・御史の周尹・蔡承禧・彭汝礪が極論してその不可を述べ、また「鬼章の患は小さいが、憲を用いる患は大きい。憲の功が成らぬ禍は小さいが、功を成すことの禍は大きい」と言った。上奏文を再上したが、聴き入れられなかった。冷雞朴が山後の生羌を誘って辺境を擾乱すると、木征が自ら効力を請うたが、衆はこれを不可とした。憲は「何の害があろうか。羌人の天性は貴種を畏服するものである」と言い、彼を行かせることを許した。木征が盛装して出ると、衆は仰ぎ見て、皆闘志を失い、師はこれに乗じ、殺獲は万を数え、冷雞朴を斬った。董氈は恐れ、即ち使者を遣わして贄を奉じて順従した。宣州観察使・宣政使・入内副都知を加えられ、さらに宣慶使に昇進した。当時、連年兵を用い、度支の調度が続かず、詔により憲が経制財用を兼ね、冗費を十分の六削減し、毎年西山の巨木を運んで京師の営繕に供給した。瑞応坊の園宅一区を賜った。

元豊年間、五路より出師して夏国を討ち、憲は熙・秦の軍を率いて西市新城に至った。蘭州を回復し、城を築き、帥府を建てるよう請うた。帝はまた詔して憲に兵を率いて直ちに興・霊に向かわせ、董氈もまた行きたいと称したので、機に乗じて協力して巣穴を掃討すべきであり、もし興・霊の道が阻まれるならば、河を渡って涼州を取るべきであるとした。そこで兵を総べて東上し、高川石峡で夏人を平定した。屈呉山に進み、打囉城に営し、天都に向かい、南牟の府庫を焼き、次いで葫蘆河に至って還った。

憲は既に霊州に至ることができず、董氈も期に遅れ、師は功を立てなかった。憲は蘭・会を開いたことで功を邀い、責めを消そうとしたが、同知枢密院の孫固が言った。「兵法に、期に後れて至る者は斬るとある。まして諸路は皆至ったのに憲のみ行かなかったのは、赦すべからざるものである」。帝は憲にまだ功があるとして、ただ擅に還った理由を詰問させるのみとし、憲は糧餉が続かなかったことを理由としたので、誅することなく釈放した。再挙の策を上奏し、併せて進んで五つの城を築く利を陳述し、帝は暫くこれに従った。李舜挙が入奏し、師が疲れ民が困窮している状況を詳しく陳述したので、兵を罷めた。憲を闕に赴かせるよう促し、途中で銀帛四千を賜った。涇原経略安撫制置使とし、衛兵三百を与えた。景福殿使・武信軍留後に進め、熙河に還らせ、なお秦鳳軍馬を兼ねさせた。

夏人が蘭州に入り、西関を破ると、宣慶使に降格された。憲は蘭州が西人の必争の地であると考え、賊が数度河外に至りながら彷徨して進まないのは、必ず大挙して来るつもりであるとし、城守・塹壁を増強し、楼櫓を完備させた。翌年の冬、夏人は果たして大挙して侵入し、蘭州を包囲し、歩騎号八十万と称し、十日間攻め落とせず、糧食が尽きて退去した。また詔により憲は間諜を遣わして阿里骨結らを諭させ、かつ騎兵を選んで河を渡らせ、賊と遭遇してこれを破った。功状を妄りに奏した罪に坐し、内省の職事を罷免された。

哲宗が立つと、永興軍路副都総管に改められ、崇福宮を提挙した。御史中丞の劉摯が、憲が功を貪り事を生じ、一たび欺罔を行い、興・霊での会師の期を避け、兵を頓挫させて蘭州を城し、禍患を今日に遺し、永楽の囲みでは逗留して急ぎ赴援しなかったと論じた。宣州観察使に降格され、さらに右千牛衛将軍に貶され、分司南京となり、陳州に居住した。卒去、年五十一。紹聖元年、武泰軍節度使を追贈され、初め諡を「敏恪」とし、後に「忠敏」と改めた。

憲は中人として将となり、地を拓き敵を降すことはできたが、上を欺き民を害し、終には中国に患いを遺したという。

張茂則

張茂則は、字を平甫といい、開封の人である。初め小黄門に補され、五度昇進して西頭供奉官となり、内東門を幹当した。禁庭で夜に盗賊が入ると、茂則は真っ先に屋根に登って入り、賊を捕らえた後、御薬院を領するよう昇進した。

仁宗御不に陥り、夜半に急ぎ召され、茂則は走り入って扶護し、左右の者が宮門を閉ざそうとしたが、茂則は言った、「事態に慮るべきことはなく、何ぞ中宮と外廷に疑念を生ぜしめんや」と。帝の病が小康すると、押班に任じようとしたが、茂則は外任を補うことを懇願し、宮苑使・果州團練使に転じ、永興路兵馬鈐轄となった。後に内侍押班として召され、再び副都知に遷った。熙寧初年、司馬光とともに恩・冀・深・瀛の四州の生堤および六塔・二股河の利害を視察し、内都知に進んだ。

上元節の夜、宮中で火災が起こると、茂則は衆を督して直ちにこれを撲滅させた。詔して曰く、「宮禁は驚かず、帑蔵は元の如し、忠誠と尽力とにより、朕は固よりこれを嘉す」と。窄衣と金帯を賜った。累次にわたり退休を乞うたが、国より厚恩を受け、禄食が過分であり、積み置かれて未だ請け取らぬものが七年分あると言い、三司に券を破棄させるよう求めた。詔してこれを褒め、なおその官を進めた。哲宗即位すると、寧国軍留後に遷り、両省都都知を加えられた。卒す、年七十九。

茂則は性質倹素にして、食事は二品を重ねず、衣裘は十数年を累ねても替えなかった。紹聖年間に元祐の党人を論じるにあたり、茂則がかつて任用に関与したとして、左監門衛将軍に追貶され、崇寧年間に党籍に入れられた。

宋用臣

宋用臣、字は正卿、開封の人。人となり精思強力あり、父の蔭により職内省に隷した。神宗が東府・西府を建て、京城を築き、尚書省を建て、太学を起こし、原廟を立て、洛水を導いて汴水に通じるなど、凡そ大工役は、悉くその事を董理した。性敏給にして、詔令を伝えるに巧みであったため、しばしば外事について諮問された。同列は皆これに籍して進み、廉節を欠く朝士は往々にして諂い附き、権勢は一時に震赫した。積労により登州防禦使に至り、宣政使を加えられた。元祐初年、言事者がその罪を論じ、皇城使に降格され、滁州・太平州の酒税監に謫された。四年、霊仙観を主管した。紹聖初年、召されて内侍押班となり、瀛州刺史に進んだ。

徽宗即位すると、蔡州観察使・入内副都知に遷った。永泰陵の修奉鈐轄となり、陵下に卒す。安化軍節度使を贈られ、諡して「僖敏」といった。諡議において用臣を広平宋公と称し、「天子公の労を念じ、久しく外に徙す」との語があった。豊稷が論奏して、凡そ公と称する者は皆耆宿・大臣と郷党の有徳の士でなければならず、その「公の労を念じ、久しく外に徙す」とは、これは古の周公の事であり、用臣に対して言うべき言葉ではないとした。ただ諡を賜うのみとし、論者はこれを是とした。

王中正

王中正、字は希烈、開封の人。父の任により補われて入内黄門となり、延福宮に赴いて詩書・暦算を学んだ。仁宗その才を嘉し、左右に置くことを命じた。慶曆の衛士の変に際し、中正は弓矢を援って殿の西で督捕し射かけ、賊は悉く擒えられた。時に年甫だ十八、人々は大いにこれを壮とした。東頭供奉官に遷り、幹当御薬院・鄜延環慶路公事を歴任し、河東の辺事を分治した。西人を破って功あり、帯御器械となった。

神宗が熙河を回復せんとし、中正にその規模を測らせた。還って言うには、「熙河は譬えば乳虎の玉を抱くが如く、爪牙未だ備わらざるに乗じて、取るべし」と。遂に王韶に従って熙河に入り、城壁守具を治め、功により作坊使・嘉州團練使に遷り、内侍押班に擢でられた。

吐蕃が茂州を囲むと、詔して陝西の兵を率いてこれを救援させ、包囲は解けた。石泉より茂州に至るまで、これを隴東路と謂い、土田肥美なるも、西羌がこれを占拠しており、中正は討つことができなかった。そこで吐蕃の入寇に因り言うには、「その路は静州等の族を経て、榛蕪僻遠にして通ぜず、近年商旅稍々往来するにより、故に外蕃これに乗じて間隙を生ず。県より綿と茂に至るまで、道里均しく、而して龍安に都巡検あり、緩急倚仗すべし。石泉を割いて綿に隷せしめ、その故道を塞ぐことを請う」と。これに従い、隴東は遂に得られざるに至った。還り、熙河に使いして鬼章を経画し、昭宣使・入内副都知に進んだ。

元豊初年、畿県保甲将兵の捕賊盗巡検を提挙し、民兵伍保法を献じ、村疃及び県において時に閲習することを請い、その言を悉く行わせた。再び鄜延・環慶に往きて辺事を経制し、詔して凡そ須要する用度は、両路に取り給せしめ、多寡に限りなからしめた。既に行き、また面して詔を受けたと称し、過ぐる所で禁兵を募り、従わんとする者を将い、主者は敢えて違えなかった。

西夏に問罪するに当たり、中正をして涇原路経略司事を簽書せしめた。詔して五路の師は皆霊州に会せしめたが、中正は期を失い、糧道続かず、士卒多く死に、命じて権に鄜延の辺城砦に分屯せしめ、以て後の挙を俟たしめた。自ら省職を罷めることを請い、金州観察使・提挙西太一宮に遷り、前の敗戦に坐して秩を貶された。元祐初年、言事者が再びその王師二十万を将い、公然と詔書に違う罪を論じ、劉摯は中正を李憲・宋用臣・石得一と並べて四凶に比し、また秩を二等貶された。久しくして崇福宮を提挙した。紹聖初年、嘉州團練使に復した。卒す、年七十一。

李舜挙

李舜挙、字は公輔、開封の人。代々内侍を務め、曾祖父の神福は太宗に事えて信謹を終始した。舜挙は少にして黄門に補され、仁宗が工を督して金を冶し器とさせたが、既に成りて、余剰の数あり、併せてこれを上進した。帝はその欺かざるを嘉した。出でて秦鳳路走馬承受となった。

英宗立つと、京師にて奏事した。時に帝不豫に陥り、内謁者が宮門でこれを止めたが、舜挙は言った、「天子新たに即位せられ、使者辺方より来たり、一見せずして去らば、何をもって遠人を慰めんや」と。謁者がこれを聞き、急ぎ召して対せしめると、帝の意大いに悦んだ。そこで言うには、「承受公事は、守将の不法を察するを職とし、終更に最を論ずるに、乃ち帥臣に保任せしむるは、これを免ぜられんことを乞う」と。遂に旧制を刪した。

熙寧年間、内東門・御薬院・講筵閣・実録院の幹當を歴任した。郭逵が交州を討つに当たり、広西幹當公事とされ、軍中の政事に参画し、あるいは疾駆して入朝し、成算を稟受した。郭逵が貶せられると、左蔵庫副使に降格され、文思院使として文州刺史を領し、帯御器械となった。内侍押班に進み、涇原軍馬を制置した。

五路の軍が功なく出師し、再挙を議する中、李憲が糧食輸送を監督し、密詔を受けたと言い、都転運使以下で軍興に乏しい者は皆斬ることを許された。民は前日の役で多くが凍餒死したことを懲り、皆行くことを憚り、百緡出しても一夫を雇えず、山沢に柵を立てて相聚い調に応ぜず、吏が往って逼呼すれば、殴撃し、解州では県令を械して督したが、集めることができなかった。舜挙が入朝してこれを奏上したため、兵を罷めた。退いて中書に詣でると、王珪が迎えて労い、「朝廷は辺事を押班及び李留後に属せしめ、西顧の憂い無し」と言った。舜挙は言った、「四郊に多壘は、これ卿大夫の辱なり、相公が国を当たるに、辺事を二内臣に属すとは、可ならんや。内臣は正に禁庭の灑掃の職を供すべきであり、将帥の任に当たるべきか」。聞く者は王珪に代わって慚じた。

嘉州団練使に転じた。沈括が永楽を城するに当たり、舜挙を遣わして計議させたが、包囲が急となり、衣襟を断ち奏状を作り、「臣は死すとも恨むところ無し、願わくは朝廷この賊を軽んぜざらんことを」と記した。まもなく死を以て聞こえ、昭信軍節度使を贈られ、「忠敏」と諡された。

舜挙は資性安重にして、人と言うに未だ嘗て宮省の事に及ばず。頗る書伝を覧め、文辞筆札に能くした。御薬院に在ること十四年、神宗は嘗て「李舜挙公忠奉上、恭勤檢身、始終惟一、以安以栄」の十九字を書して賜った。

石得一

石得一、開封の人。内侍黄門となり、累官して内殿承制に至る。神宗の時、帯御器械・龍図・天章・宝文閣・皇城司を管幹し、四遷して入内副都知となった。元祐初め、成州団練使を領し、内省の職を罷められた。御史劉摯が言う、「得一は頃に皇城を管し、その残刻を恣にし、邏者を縱遣し、所在に棋布し、阱を張り網を設け、無を以て有と為し、虚を以て実と為す。朝廷の大吏及び富家の小人、飛語朝に上れば、暮に狴犴に入り、上下惴恐して自保できず、目を以て顧みる者殆ど十年」。坐して左蔵庫使に降格され、卒した。紹聖年中、随州観察使を贈られた。

梁従吉

梁従吉、字は君祐、開封の人。入内高班に補せられた。王則が反すると、奉命して宣慰し、還って言う、「小寇は多慮無く、諸将の兵は以て翦除に足り、若し重臣を得てその事を統せしめば、崇朝せずして平らげられん」。ここにおいて仁宗は文彦博を安撫招討使とした。賊が平らぎ、また奏請して河北を路に分ち、毎路に一帥府を以てこれを統べさせ、遂に魏・鎮・定・瀛の四帥を建てた。熙寧初め、邠寧環慶路駐泊兵馬鈐轄となった。夏人が大順城に寇し、慶州七砦を囲むと、従吉は兵八百余人を率いて戦い、その酋領を獲た。また寧州の叛卒を討平し、功により都鈐轄に昇り、累官して皇城使となった。高遵裕に従って霊武に至り、士卒を督して城を攻め、身に創を被ること甚だしく、入内押班に進み、永州団練使に遷り、副都知となった。元祐年中に卒し、成徳軍節度使を贈られ、「敏恪」と諡された。

劉惟簡

劉惟簡、開封の人、入内黄門より積官して昭宣使・康州刺史・高陽関路兵馬都監に至り、入内押班となった。英宗が初めて立つと、惟簡は河北より来朝し、寝門に対請したが、内謁者がこれを難じ、独り皇太后に引見された。惟簡は福寧殿下に立ち、雨が衣を沾しても退かず、帝は幃中に起坐し、望見して呼び問う、「諸路に汝の如き者は幾人か、何を以て独り来たるか」。対えて言う、「陛下新たに即位せられ、臣は辺塞より来たり、未だ天表を瞻せず、敢えて輒ち還らず、他のことを知らず」。帝は歎じて言う、「小臣の守る所を知ること此の如し」。その姓名を屏間に識した。他日、神宗が題した屏を覧て、延福宮の幹當に擢げ、これより親信を蒙った。

交人が叛くと、詔して馳驛して桂州に至り事勢を審視させ、還って言う、「帥臣劉彝は功を貪り事を生じ、罪誅に当たる。乾德は狂童にして、頸は繫ぐに足らず」。帝はこれを信じた。郭逵・趙卨が南征するに当たり、行営承受とされた。郭逵・趙卨が謫せられると、惟簡も一官を奪われた。

陝西五路の師が還ると、命を受けて士卒を撫犒したが、疾を以て先に還った者は賜わらなかった。惟簡は心にその不便を知り、慶州に至り、疏を上って言う、「士卒は不幸にして、将臣の上聖略に違い、糧食継がず、逃生して帰るも、その情は貸すべし。今同じく庭中に立つに賜に預からざれば、患い倉卒に生ずるを恐る」。帝はその言を用い、均しくこれを与えた。また河北の保甲を案閲し、京西の水災を振済し、諸陵の薦献を参定させた。既にして言者に劾せられ、擯斥されて用いられなかった。哲宗が藩に在る時、惟簡は奔奏服勤し、親政に及んで、左右に召された。内侍押班として卒し、昭化軍留後を贈られた。