宋史

列傳第二百二十六 宦者二 楊守珍 韓守英 藍繼宗 張惟吉養子:若水 甘昭吉 盧守懃 王守規 李憲 張茂則 宋用臣 王中正 李舜舉 石得一 梁從吉 劉惟簡

列傳第二百二十六 宦者二 楊守珍 韓守英 藍繼宗 張惟吉養子:若水 甘昭吉 盧守懃 王守規 李憲 張茂則 宋用臣 王中正 李舜舉 石得一 梁從吉 劉惟簡

楊守珍

原文楊守珍

楊守珍、字は仲寶、開封祥符の人なり。入內黃門となり、書史を習い、兵家の方略を学ぶ。射を善くし、家僮が堂下を過ぐるに、一発にして髻を貫き、人は其の精妙に服す。選ばれて環慶路走馬承受公事となる。契丹、塞に入らんと謀るに、鎮・定・高陽關行營同押先鋒事と為る。時に許民の周繼宗、人に誣告せられて外夷と交通すと為り、干證する者六十人、辞服す。守珍を遣わして覆問せしむるに、悉く辦理して之を出だす。真定・保・趙等州駐泊都監に徙り、邕・桂等十州安撫都監となる。曹克明に從い撫水州蠻を降し、二柵を築きて其の要を扼す。天禧初、青灰山にて盗を擒う。累遷して西京作坊使・帶御器械・永興軍兵馬鈐轄となり、真定・邠寧路に徙る。内侍省內侍押班と為り、内弓箭軍器庫を提點す。進みて内園使・右班都知・端州刺史を領す。嘗て仁宗に苑中に侍し、命じて馬に乗り馳射せしむ。其の便習を賞し、錦袍卮酒を賜う。卒す。原州防禦使を贈らる。

原文楊守珍,字仲寶,開封祥符人。為入內黃門,習書史,學兵家方略。善射,家僮過堂下,一發貫髻,人服其精。選為環慶路走馬承受公事。契丹謀入塞,為鎮、定、高陽關行營同押先鋒事。會許民周繼宗為人誣告與外夷交通,干證者六十人,辭服,遣守珍覆問,悉辦理出之。徙真定、保、趙等州駐泊都監,邕、桂等十州安撫都監。從曹克明降撫水州蠻,築二柵以扼其要。天禧初,擒盜於青灰山。累遷西京作坊使、帶御器械、永興軍兵馬鈐轄,徙真定、邠寧路。為內侍省內侍押班,提點內弓箭軍器庫。進內園使、右班都知、領端州刺史。嘗侍仁宗苑中,命乘馬馳射,賞其便習,賜錦袍卮酒。卒,贈原州防禦使。

韓守英

原文韓守英

韓守英、字は德華、開封祥符の人なり。初め入內高品と為り、河東に征することに從い、数たび詔を奉じて石嶺關に至り督戰し、隆州を取り、殿頭に遷る。久しくして、西頭供奉官より擢て入內內侍押班となり、副都知に遷る。王繼恩に隨い西川を招安し、先鋒と為り、劍門にて戰いて功有り、西京作坊使・劍門都監に遷る。還りて、三班院を勾當し、入內內侍都知に進む。歴て定州・鎮定高陽關・幷代路兵馬鈐轄と為る。契丹、岢嵐軍を圍む。守英は鈐轄張志言・知府州折惟昌と帥を所部し河を渡り、朔州に抵り、以て賊の勢を牽く。遂に狼水砦を破り、数百人を俘え、馬牛羊鎧甲を数万を以て計うるを得、賊は為に解き去る。錦袍・金帯を賜う。俄かに會州刺史を領し、都知を解く。再び昭宣使に遷り、復た三班を領す。

原文韓守英,字德華,開封祥符人。初為入內高品,從征河東,數奉詔至石嶺關督戰,取隆州,遷殿頭。久之,以西頭供奉官擢入內內侍押班,遷副都知。隨王繼恩招安西川,為先鋒,戰於劍門有功,遷西京作坊使、劍門都監。還,勾當三班院,進入內內侍都知。歷定州、鎮定高陽關、幷代路兵馬鈐轄。契丹圍岢嵐軍,守英與鈐轄張志言、知府州折惟昌帥所部渡河,抵朔州,以牽賊勢。遂破狼水砦,俘數百人,獲馬牛羊鎧甲以數萬計,賊為解去。賜錦袍、金帶。俄領會州刺史,解都知。再遷昭宣使,復領三班。

鄜延路都鈐轄として出で、幷代路に徙る。建言す「本路の宿兵多し、百姓は飛輓に困す。今幸いに邊鄙事無し。請う騎軍千人を留め、餘人は悉く内に徙さしむべし」と。真宗曰く「邊臣能く朝廷の民を恤うの意を體す。宜しく諸路に詔して此に視いて之を行わしむべし」と。

原文出為鄜延路都鈐轄,徙幷代路。建言:「本路宿兵多,百姓困於飛輓,今幸邊鄙無事,請留騎軍千,餘人悉徙內地。」真宗曰:「邊臣能體朝廷恤民之意,宜詔諸路視此行之。」

在京諸司庫務を提舉し、皇城司を勾當し、趙德明官告使と為る。歴て宣政・宣慶二使、内侍左班都知、獎州團練使・雅州防禦使を領し、入內都知となり、修國史を管勾す。書成りて、景福殿使に進み、又た延福宮使・入內都知と為り、復た諸司庫務を提舉す。卒す。定國軍節度觀察留後を贈らる。

原文提舉在京諸司庫務,勾當皇城司,為趙德明官告使。歷宣政、宣慶二使,內侍左班都知,領獎州團練使、雅州防禦使,入內都知,管勾修國史。書成,進景福殿使,又為延福宮使、入內都知,復提舉諸司庫務。卒贈定國軍節度觀察留後。

藍繼宗

原文藍繼宗

藍繼宗、字は承祖、廣州南海の人なり。劉鋹に事えて宦者と為り、朝に歸す。年十二、中黃門に遷る。太原に征することに從い、詔を營陳の間に傳うるに、多く旨に稱す。

原文藍繼宗,字承祖,廣州南海人。事劉鋹為宦者,歸朝,年十二,遷為中黃門。從征太原,傳詔營陳間,多稱旨。

秦州の並邊に大洛門砦・小洛門砦有り、唐末より西羌に陷つ。雍熙中、溫仲舒、酋豪を諭して其の地を獻せしめ、衆を渭北に徒す。言者、事を生ずと以為い、仲舒を罷めんことを請う。太宗、繼宗を遣わして往き按視せしむ。還り奏す、二砦要害を據え、良木を産す、棄つべからずと。帝悅び、復た繼宗を使い仲舒を勞賜せしむ。累遷して西京作坊副使・勾當内東門と為る。

原文秦州並邊有大、小洛門砦,自唐末陷西羌。雍熙中,溫仲舒諭酋豪使獻其地,徒眾渭北。言者以為生事,請罷仲舒。太宗遣繼宗往按視,還奏二砦據要害,產良木,不可棄。帝悅,復使繼宗勞賜仲舒。累遷西京作坊副使、勾當內東門。

元德太后・章穆皇后葬らるるに、按行園陵使と為る。車駕北征するに、留司・皇城司を勾當す。車駕諸陵を謁す。近陵舊より水乏し、繼宗泉を陵下に疏き、百司の從官皆之を取って濟う。擢て入內副都知と為り、天書扶侍都監と為る。詔して李神祐と東封の扈從内臣の勞を第せしむ。而して入內供奉官范守遜等其の不公を訴う。都知を罷む。汾脽を祀るに、復た天書扶侍都監と為り、再び東染院使に遷る。

原文元德太后、章穆皇后葬,為按行園陵使。車駕北征,勾當留司、皇城司。車駕謁諸陵,近陵舊乏水,繼宗疏泉陵下,百司從官皆取以濟。擢入內副都知,為天書扶侍都監。詔與李神祐第東封扈從內臣之勞,而入內供奉官范守遜等訴其不公,罷都知。祀汾脽,復為天書扶侍都監,再遷東染院使。

明年、會州刺史を領し、崇儀使に進み、皇城司を勾當す。玉清昭應宮を修するに、劉承珪と典りて工作す。宮成りて、洛苑使・高州團練使に遷り、都監を充つ。章穆皇后陵の隧墊するに坐し、如京使に貶せらる。景靈宮を修するを典り、南作坊使に進み、復た會靈・祥源観を修す。車駕亳州に幸するに、留司・大内公事を管勾し、在京諸司庫務を提舉し、三班院を勾當し、國史院を修す。趙德明加恩使と為る。德明、繼宗と射る。繼宗、発する毎に必ず中り、德明、乗する所の名馬を以て遺う。内侍省右班都知と為り、入內都知に遷る。

原文明年,領會州刺史,進崇儀使、勾當皇城司。修玉清昭應宮,與劉承珪典工作。宮成,遷洛苑使、高州團練使,充都監。坐章穆皇后陵隧墊,貶如京使。典修景靈宮,進南作坊使,復修會靈、祥源觀。車駕幸亳州,管勾留司、大內公事,提舉在京諸司庫務,勾當三班院,修國史院。為趙德明加恩使,德明與繼宗射,繼宗每發必中,德明遺以所乘名馬。為內侍省右班都知,遷入內都知。

仁宗即位し、左騏驥使・忠州防禦使・永定陵修奉鈐轄に遷る。歴て昭宣・宣政・宣慶使と為る。累上章して致仕を求む。特に入朝の拜舞及び行幸に從うことを免ず。頃くして、復た固く請うて都知を罷め、景福殿使・邕州觀察使を以て家居し疾を養う。卒す。安德軍節度使を贈られ、諡して「僖靖」と曰う。

原文仁宗即位,遷左騏驥使、忠州防禦使、永定陵修奉鈐轄。歷昭宣、宣政、宣慶使。累上章求致仕,特免入朝拜舞及從行幸。頃之,復固請罷都知,以景福殿使、邕州觀察使家居養疾。卒,贈安德軍節度使,諡「僖靖」。

繼宗四朝に事え、謙謹自ら持ち、職を領すること未だ久しからずして、輒ち罷めんことを請う。家に園池有り、退朝すれば即ち亟に歸る。同列或いは之を留むるも、繼宗曰く「我歸りて花卉を種え、遊魚を弄びて楽しまんと欲するのみ」と。景福殿に使を置くこと、大中祥符間より繼宗に至るまで、授くる者纔に三人なり。養子に元用・元震有り。

原文繼宗事四朝,謙謹自持,每領職未久,輒請罷。家有園池,退朝即亟歸,同列或留之,繼宗曰:「我欲歸種花卉、弄遊魚為樂爾。」景福殿置使,自大中祥符間至繼宗,授者才三人。養子元用、元震。

元用は終わりに左蔵庫使・梓州観察使となった。

原文元用終左藏庫使、梓州觀察使。

養子に元震がいる。

原文養子 元震

元震は兄の蔭により入内黄門に補され、高班に転じ、明粛太后に給事した。禁中に夜火あり、后は仁宗を擁して西華門に登り、左右の者が未だ集まらぬ中、元震独り宿衛に伝呼し、功により高品に遷った。三陵都監となり、防守の法を条列し、その後諸陵はこれをもって式とした。歴て群牧都監、三館秘閣を監し、積官して皇城使となる。累遷して入内副都知・忠州防禦使となった。仙韶院の火災に、元震救護し、火は時に息んだ。詔してこれを褒め、襲衣・金帯を賜う。卒し、鎮海軍留後を贈られた。元震の養子は五人、閹子を養わず。

原文元震以兄蔭補入內黃門,轉高班,給事明肅太后。禁中夜火,后擁仁宗登西華門,左右未集,元震獨傳呼宿衛,以功遷高品。為三陵都監,條列防守法,其後諸陵以為式。歷群牧都監,監三館祕閣,積官皇城使。累遷入內副都知、忠州防禦使。仙韶院火,元震救護,火以時息。詔褒之,賜襲衣、金帶。卒,贈鎮海軍留後。元震養子五人,不畜閹子。

張惟吉

原文張惟吉

張惟吉、字は佑之、開封の人。初め入内黄門に補され、殿頭・高陽関路走馬承受公事に遷る。塞を護り滑州天台埽の役を監督し、西頭供奉官に遷り、在京榷貨務を監す。嘉州知事張約が贓により敗れたとき、詔して御史王軫とともにその獄を劾すべく往く。還り、内東門司を領し、章献・章懿両太后の二陵修奉承受となる。時に議ありて李諮の榷茶算緡法を復用せんとし、乃ち惟吉を内殿崇班とし、再び榷貨務を監せしむ。凡そ内侍が内東門を領すれば、次に勾当御薬院に遷るものなりしが、惟吉は才たるに官を進めたるのみにて、衆は薄しと為すも、惟吉は欣然として職に就く。再び期を経て、羨余により承制に遷る。

原文張惟吉,字佑之,開封人。初補入內黃門,遷殿頭、高陽關路走馬承受公事。護塞滑州天台埽役,遷西頭供奉官,監在京榷貨務。知嘉州張約以贓敗,詔與御史王軫往劾其獄。還,領內東門司,為修奉章獻、章懿太后二陵承受。時議復用李諮榷茶算緡法,乃以惟吉為內殿崇班,復監榷貨務。凡內侍領內東門,次遷勾當御藥院,而惟吉才進官,眾以為薄,惟吉欣然就職。再期,以羨餘遷承制。

趙元昊の官告使となり、還りて、元昊の驕僭を言い、勢い必ず叛かんとし、予め辺備を飭るべしと請う。及び元昊が延州を寇すや、遣わされて鄜延・環慶両路の器甲を按視し、併せて攻守の利害を訪う。敵既に退き、夏竦・韓琦は鄜延より深入し、虚に乗じてこれを撃たんと謀り、惟吉に命じて幷・汾の驍ぎょう勇を募り、土兵を副えて軽齎し河外に赴かしむ。惟吉は我が師は持重して変を伺うべく、不測に馳赴して自ら困るべからずと為し、已にして元昊果たして去る。還りて奏し旨に称し、皇城司を領し、内侍省押班・群牧都監に遷り、陝西の冗兵を簡し、軍頭引見司を領し、供備庫使に遷り、軍頭司の軍校の罷癃なる者を尽く汰す。同提挙在京諸司庫務となり、恩州刺史を領し、入内都知となる。

原文為趙元昊官告使,還,言元昊驕僭,勢必叛,請預飭邊備。及元昊寇延州,遣按視鄜延、環慶兩路器甲,並訪攻守利害。敵既退,夏竦、韓琦謀自鄜延深入,乘虛擊之,命惟吉募幷、汾驍勇,副以土兵,輕齎赴河外。惟吉以為我師當持重伺變,不宜馳赴不測以自困,已而元昊果引去。還奏稱旨,領皇城司,遷內侍省押班、群牧都監,簡陝西冗兵,領軍頭引見司,遷供備庫使,盡汰軍頭司軍校之罷癃者。同提舉在京諸司庫務,領恩州刺史,為入內都知。

商胡が決し、澶州修河都鈐轄となる。転運使施昌言は亟に塞ぐべしと請い、崔嶧は歳災民困なれば役は緩むべしと為す。惟吉に命じて按視せしむ。言うに河は塞ぐべしと雖も民誠に困し、財用足らず、宜しく少しくこれを待つべしと。その議に従う。如京使・果州団練使に遷り、再び皇城司を領し、卒す。

原文商胡決,為澶州修河都鈐轄。轉運使施昌言請亟塞,崔嶧以為歲災民困,役宜緩。命惟吉按視,言河可塞而民誠困,財用不足,宜少待之。從其議。遷如京使、果州團練使,復領皇城司,卒。

惟吉は任事久しく、頗る親信せられしも、言うところ阿徇せず。張貴妃薨じ、将に皇儀殿にて治喪せんとす。諸宦官皆以て可と為すも、独り惟吉曰く「此の事は典礼に干し、須らく翌日宰相に問うべし」と。既にして宰相能く議を執ること能わず、惟吉深く以て非と為す。昭信軍節度観察留後を贈られる。一箇月を逾え、また保順軍節度使を贈り、諡して「忠安」とす。

原文惟吉任事久。頗見親信,而言弗阿徇。張貴妃薨,將治喪皇儀殿,諸宦官皆以為可,獨惟吉曰:「此事幹典禮,須翌日問宰相。」既而宰相不能執議,惟吉深以為非。贈昭信軍節度觀察留後。逾月,又贈保順軍節度使,諡「忠安」。

養子に若水がいる。

原文養子 若水

養子若水、字は益之、惟吉の奏により小黄門に補され、章恵太后殿に給事し、転じて入内高品となる。王師貝州を平らげ、儂賊を征するに、皆以て幹敏をもって選ばれ走馬承受となる。賊平らぎ、労により官を進め、三遷して環慶路鈐轄となる。環州解乜臼族を討ち復た功あり、歴て帯御器械・内侍押班・副都知となる。

原文養子若水,字益之,以惟吉奏補小黃門,給事章惠太后殿,轉入內高品。王師平貝州,征儂賊,皆以幹敏選為走馬承受。賊平,以勞進官,三遷環慶路鈐轄。討環州解乜臼族復有功,歷帶御器械、內侍押班、副都知。

熙寧初め、神臂弓造り成り、神宗延和殿に御し臨閲す。鉄甲を七十歩に置き、衛士をして射しむるも、未だ中る者なし。若水自ら射を請い、連中して札を徹す。慶寿・宝慈両宮を建つるに、工作を典領し、再遷して嘉州防禦使となる。病を以て職を解かんことを蘄り、輝州観察使を領し、四園苑諸司庫務を提挙す。卒し、天平軍留後を贈られる。

原文熙寧初,造神臂弓成,神宗御延和殿臨閱,置鐵甲七十步,俾衛士射,未有中者。若水自請射,連中徹札。建慶壽、寶慈兩宮,典領工作,再遷嘉州防禦使。以病蘄解職,領輝州觀察使,提舉四園苑諸司庫務。卒,贈天平軍留後。

甘昭吉

原文甘昭吉

甘昭吉、字は祐之、開封の人。初め内侍殿頭として英・韶州巡検となり、盗を捕らえて功あり、再遷して内殿崇班・京東路都巡検となる。斉州武衛小校馮坦が営卒二百を率いて州庁事に突入し、変を為さんとす。昭吉単騎馳せ往き、従う将士に兵を操りて外に在らしむるを戒め、先ず独り乱卒に会い、福禍を諭し、首悪を推して自ら贖わしむ。衆疑沮して敢えて動かず。已にして兵を操る者皆入り、即ち共に十余人を執り、告げて曰く「此れ我を誘う者なり」と。昭吉立ってこれを殺し、其の余を放ち去らしむ。州以て事無し。特遷して供備庫副使・帯御器械となる。後ち内侍省押班闕け、仁宗前功を記し、特もってこれを授く。入内副都知に遷る。

原文甘昭吉,字祐之,開封人。初以內侍殿頭為英、韶州巡檢,捕盜有功,再遷內殿崇班、京東路都巡檢。齊州武衛小校馮坦率營卒二百突入州廳事,欲為變,昭吉單騎馳往,戒所從將士操兵在外,先獨見亂卒,諭以福禍,令推首惡自贖,眾疑沮不敢動。已而操兵者皆入,即共執十餘人,告曰:「此誘我者也。」昭吉立殺之,縱其餘去,州以無事。特遷供備庫副使、帶御器械。後內侍省押班闕,仁宗記前功,特以授之。遷入內副都知。

英宗即位の夕べ、昭吉禁中に直し、翊衛に労あり。文思副使より超遷して供備庫使・康州刺史となる。昭吉奏して曰く「臣本孤微にして左右の挙無し。然るに先帝臣の樸直なるを知り、小官より抜用して此に至る。分当に従葬すべし。今願わくは陵寝を灑掃するを得ば足れり」と。帝其の忠を愛し、特授して永昭陵使とし、如京使を加う。朝に還り、表して職を辞し、左龍武軍大将軍を以て致仕し、卒す。昭吉敦実慎密、人士之を称す。

原文英宗即位之夕,昭吉直禁中,翊衛有勞,自文思副使超遷供備庫使、康州刺史。昭吉奏曰:「臣本孤微,無左右之舉,而先帝知臣樸直,自小官拔用至此,分當從葬,今願得灑掃陵寢足矣。」帝愛其忠,特授永昭陵使,加如京使。還朝,表辭職,以左龍武軍大將軍致仕,卒。昭吉敦實慎密,人士稱之。

盧守懃

原文盧守懃

盧守懃は、字を君錫といい、開封祥符の人である。入内内品より累進して礼賓使・邠寧環慶路鈐轄となり、還って入内内侍省押班・昌州刺史を領した。明道年間、章懿太后を改葬した際、旧蔵に水が入っていたため、守懃がかつて葬事を主管したことを理由に、永興軍兵馬鈐轄に左遷され、鄜延路に転じた。再び六宅使に昇進し、貴州団練使を加えられ、さらに栄州防禦使兼邠寧環慶路安撫都監に進んだ。元昊が保安軍を寇したとき、守懃は兵を率いてこれを撃退し、特に左騏驥使に昇進し、陝西鈐轄に移った。

原文盧守懃,字君錫,開封祥符人。自入內內品累遷禮賓使、邠寧環慶路鈐轄,還為入內內侍省押班、領昌州刺史。明道中,改葬章懿太后,而舊藏有水,以守懃嘗典葬事,罷為永興軍兵馬鈐轄,徙鄜延路。再遷六宅使,加貴州團練使,進榮州防禦使兼邠寧環慶路安撫都監。元昊寇保安軍,守懃率兵擊走之,特遷左騏驥使,移陝西鈐轄。

初め、劉平・石元孫が捕らえられたとき、守懃は胸を打って涙を流し、出撃しようとせず、また蕃官の馬を交換したことがあった。延州通判の計用章は范雍に城を棄てて鄜州に退くよう勧め、范雍は安撫都監の李康伯を遣わして賊を説得させようとしたが、康伯は行こうとせず、賊が去った後、守懃と用章は互いに上奏して論じ合った。知制誥の葉清臣は、守懃が兵を擁して傍観したことを理由に、その罪を正すよう請い、二人を合わせて取り調べるよう求めた。守懃は防禦使を剥奪され、湖北都監となった。用章は官籍を削除され、雷州本城に配流された。康伯は均州都監となった。

原文初,劉平、石元孫被執,守懃撫膺涕泣不敢出,又嘗易蕃官馬。延州通判計用章勸范雍棄城,將保鄜州,雍欲遣安撫都監李康伯往說賊,不肯行,賊去而守懃、用章更相論奏。知制誥葉清臣以守懃擁兵觀望,請正其罪,並按二人。守懃奪防禦使,為湖北都監;用章除籍,配雷州本城;康伯,均州都監。

久しくして、恩州防禦使に復し、利州観察使に昇進し、真定府・定州・北京路鈐轄を歴任した。左衛大将軍をもって致仕し、卒すと、保順軍節度使を追贈され、諡を「安恪」といった。養子に昭序がいる。

原文久之,復恩州防禦使,遷利州觀察使,歷真定府、定州、北京路鈐轄。以左衛大將軍致事,卒,贈保順軍節度使,諡「安恪」。養子昭序。

王守規

原文王守規

王守規は、真定欒城の人で、入内都都知の守忠の弟である。守忠は真宗に仕え、謹直で慎み深く、寵遇は最も厚かった。明道の時、守規は小黄門であったが、禁中で夜半に火災が起こると、守規は先にこれを察知し、寝殿から後苑に至るまでの鎖をすべて打ち外し、仁宗及び皇太后を延福宮に奉じて避難させた。振り返って経由した所を見ると、すでに灰燼かいじんと化していた。翌日、執政が起居を伺うと、帝は「王守規が朕をここに導かなければ、卿らと再び会うことはなかったであろう」と言った。功により入内殿頭に昇進した。京城の水害を治めることを選ばれ、汴河を公賈村で、蔡河を四里橋で決壊させ、水害は鎮まった。帯御器械を加えられた。累官して宣慶使・康州防禦使・内侍右班副都知に至った。卒去、年六十七、昭武軍留後を追贈された。

原文王守規,真定欒城人,入內都都知守忠之弟。守忠事真宗,謹愿慎密,眷遇最厚。明道時,守規為小黃門,禁中夜半火,守規先覺,自寢殿至後苑皆擊去其鎖,乃奉仁宗及皇太后至延福宮,回視所經處已成煨燼。翌日,執政候起居,帝曰:「非王守規導朕至此,幾不與卿等相見。」以功遷入內殿頭。選治京城水,決汴河於公賈村,決蔡河於四里橋,水患以息。加帶御器械。積官至宣慶使、康州防禦使、內侍右班副都知。卒,年六十七,贈昭武軍留後。

李憲

原文李憲

李憲は、字を子範といい、開封祥符の人である。皇祐年間、入内黄門に補され、やがて供奉官に昇進した。神宗が即位すると、永興・太原府路走馬承受を歴任し、しばしば辺境の事について論じ、その意見は上意に合い、後苑を幹当した。王韶が上書して河湟の回復を請うと、憲を派遣して師を視察させ、王韶とともに進軍して河州を収め、東染院使を加えられ、御薬院を幹当した。さらに牛精谷で戦い、珂諾城を抜き、熙河経略安撫司幹当公事となった。鄜延の軍制を視察し、蒲中に至ったとき、木征が董氈・鬼章の兵と合流して踏白城を攻め落とし、景思立を殺し、河州を包囲したとの報が入り、詔により急行を命じられ、憲は馳せて軍に至った。先に、朝廷は黄旗に勅諭を書いて将士に出し、命に従って賊を破った者は倍賞するとしていた。そこで憲は朝、帳中で起き、これを掲げて衆に示し、「この旗は天子の賜ったものである。これを見て戦え、帝は実に臨在している」と言った。兵士は争って命に従い進撃した。諸将を督いて傍山の族帳を焼き、即日に通路を開いて河州に至った。賊の残党は踏白に拠ったが、官軍が出て戦い、これを大破した。余川に進み、さらに賊の堡を十余り破り、木征は酋長八十余人を率いて軍門に降伏した。捷報が聞こえると、功により昭宣使・嘉州防禦使を加えられた。還って、入内内侍省押班・皇城司幹当となった。

原文李憲,字子範,開封祥符人。皇祐中,補入內黃門,稍遷供奉官。神宗即位,歷永興、太原府路走馬承受,數論邊事合旨,幹當後苑。王韶上書請復河湟,命憲往視師,與韶進收河州,加東染院使,幹當御藥院。復戰牛精谷,拔珂諾城,為熙河經略安撫司幹當公事。按視鄜延軍制,行至蒲中,會木征合董氈、鬼章之兵攻破踏白城,殺景思立,圍河州,詔趣赴之,憲馳至軍。先是,朝廷出黃旗書敕諭將士,如用命破賊者倍賞。於是憲晨起帳中,張以示眾曰:「此旗,天子所賜也,視此以戰,帝實臨之。」士爭呼用命以進。督諸將傍山焚族帳,即日通路至河州。賊餘眾保踏白,官軍出與戰,大破之。進至餘川,又破賊堡十餘,木征率酋長八十餘人詣軍門降。捷聞,以功加昭宣使、嘉州防禦使。還,為入內內侍省押班、幹當皇城司。

安南が叛くと、趙卨の副使として招討に任じられたが、出発前に、卨が建言した。「朝廷が招討副使を置くのは、軍事は共に議すべきであるが、節制号令に至っては宜しく一に帰すべきです」。憲はこれを恨んだ。これによりたびたび紛争し、遂に憲を罷免し、駅伝で秦鳳・熙河の辺事を計議させ、諸将は皆その節制を聴くこととした。そこで御史中丞の鄧潤甫・御史の周尹・蔡承禧・彭汝礪が極論してその不可を述べ、また「鬼章の患は小さいが、憲を用いる患は大きい。憲の功が成らぬ禍は小さいが、功を成すことの禍は大きい」と言った。上奏文を再上したが、聴き入れられなかった。冷雞朴が山後の生羌を誘って辺境を擾乱すると、木征が自ら効力を請うたが、衆はこれを不可とした。憲は「何の害があろうか。羌人の天性は貴種を畏服するものである」と言い、彼を行かせることを許した。木征が盛装して出ると、衆は仰ぎ見て、皆闘志を失い、師はこれに乗じ、殺獲は万を数え、冷雞朴を斬った。董氈は恐れ、即ち使者を遣わして贄を奉じて順従した。宣州観察使・宣政使・入内副都知を加えられ、さらに宣慶使に昇進した。当時、連年兵を用い、度支の調度が続かず、詔により憲が経制財用を兼ね、冗費を十分の六削減し、毎年西山の巨木を運んで京師の営繕に供給した。瑞応坊の園宅一区を賜った。

原文安南叛,副趙卨招討,未行,卨建言:「朝廷置招討副使,軍事須共議,至節制號令即宜歸一。」憲銜之。由是屢紛辨,遂罷憲而令乘驛計議秦鳳、熙河邊事,諸將皆聽節度。於是御史中丞鄧潤甫、御史周尹、蔡承禧、彭汝礪極論其不可,又言:「鬼章之患小,用憲之患大;憲功不成其禍小,有成功其禍大!」章再上,弗聽。冷雞朴誘山後生羌擾邊,木征請自效,眾以為不可。憲曰:「何傷乎!羌人天性畏服貴種。」聽之往。木征盛裝以出,眾聳視,皆無鬥志,師乘之,殺獲萬計,斬冷雞朴。董氈懼,即遣使奉贄效順。加宣州觀察使、宣政使、入內副都知,又遷宣慶使。時用兵連年,度支調度不繼,詔憲兼經制財用,裁冗費什六,歲運西山巨木給京師營繕。賜瑞應坊園宅一區。

元豊年間、五路より出師して夏国を討ち、憲は熙・秦の軍を率いて西市新城に至った。蘭州を回復し、城を築き、帥府を建てるよう請うた。帝はまた詔して憲に兵を率いて直ちに興・霊に向かわせ、董氈もまた行きたいと称したので、機に乗じて協力して巣穴を掃討すべきであり、もし興・霊の道が阻まれるならば、河を渡って涼州を取るべきであるとした。そこで兵を総べて東上し、高川石峡で夏人を平定した。屈呉山に進み、打囉城に営し、天都に向かい、南牟の府庫を焼き、次いで葫蘆河に至って還った。

原文元豐中,五路出師討夏國,憲領熙、秦軍至西市新城。復蘭州,城之,請建為帥府。帝又詔憲領兵直趣興、靈,董氈亦稱欲往,宜乘機協力入掃巢穴,若興、靈道阻,即過河取涼州。乃總兵東上,平夏人於高川石峽。進至屈吳山,營打囉城,趨天都,燒南牟府庫,次葫蘆河而還。

憲は既に霊州に至ることができず、董氈も期に遅れ、師は功を立てなかった。憲は蘭・会を開いたことで功を邀い、責めを消そうとしたが、同知枢密院の孫固が言った。「兵法に、期に後れて至る者は斬るとある。まして諸路は皆至ったのに憲のみ行かなかったのは、赦すべからざるものである」。帝は憲にまだ功があるとして、ただ擅に還った理由を詰問させるのみとし、憲は糧餉が続かなかったことを理由としたので、誅することなく釈放した。再挙の策を上奏し、併せて進んで五つの城を築く利を陳述し、帝は暫くこれに従った。李舜挙が入奏し、師が疲れ民が困窮している状況を詳しく陳述したので、兵を罷めた。憲を闕に赴かせるよう促し、途中で銀帛四千を賜った。涇原経略安撫制置使とし、衛兵三百を与えた。景福殿使・武信軍留後に進め、熙河に還らせ、なお秦鳳軍馬を兼ねさせた。

原文憲既不能至靈州,董氈亦失期,師無功。憲欲以開蘭、會邀功弭責,同知樞密院孫固曰:「兵法,期而後至者斬。況諸路皆至而憲獨不行,不可赦。」帝以憲猶有功,但令詰擅還之由,憲以饋餉不接為辭,釋弗誅。復上再舉之策,兼陳進築五利,且從之。會李舜舉入奏,具陳師老民困狀,乃罷兵。趣憲赴闕,道賜銀帛四千。為涇原經略安撫制置使,給衛三百。進景福殿使、武信軍留後,使復還熙河,仍兼秦鳳軍馬。

夏人が蘭州に入り、西関を破ると、宣慶使に降格された。憲は蘭州が西人の必争の地であると考え、賊が数度河外に至りながら彷徨して進まないのは、必ず大挙して来るつもりであるとし、城守・塹壁を増強し、楼櫓を完備させた。翌年の冬、夏人は果たして大挙して侵入し、蘭州を包囲し、歩騎号八十万と称し、十日間攻め落とせず、糧食が尽きて退去した。また詔により憲は間諜を遣わして阿里骨結らを諭させ、かつ騎兵を選んで河を渡らせ、賊と遭遇してこれを破った。功状を妄りに奏した罪に坐し、内省の職事を罷免された。

原文夏人入蘭州,破西關,降宣慶使。憲以蘭州乃西人必爭地,眾數至河外而相羊不進,意必大舉,乃增城守塹壁,樓櫓具備。明年冬,夏人果大入,圍蘭州,步騎號八十萬眾,十日不克,糧盡引去。又詔憲遣間諭阿里骨結等,且選騎渡河,與賊遇,破之。坐妄奏功狀,罷內省職事。

哲宗が立つと、永興軍路副都総管に改められ、崇福宮を提挙した。御史中丞の劉摯が、憲が功を貪り事を生じ、一たび欺罔を行い、興・霊での会師の期を避け、兵を頓挫させて蘭州を城し、禍患を今日に遺し、永楽の囲みでは逗留して急ぎ赴援しなかったと論じた。宣州観察使に降格され、さらに右千牛衛将軍に貶され、分司南京となり、陳州に居住した。卒去、年五十一。紹聖元年、武泰軍節度使を追贈され、初め諡を「敏恪」とし、後に「忠敏」と改めた。

原文哲宗立,改永興軍路副都總管,提舉崇福宮。御史中丞劉摯論憲貪功生事,一出欺罔,避興、靈會師之期,頓兵以城蘭州,遺患至今,永樂之圍,逗留不急赴援。降宣州觀察使,又貶右千牛衛將軍,分司南京,居陳州。卒,年五十一。紹聖元年,贈武泰軍節度使,初諡「敏恪」,改「忠敏」。

憲は中人として将となり、地を拓き敵を降すことはできたが、上を欺き民を害し、終には中国に患いを遺したという。

原文憲以中人為將,雖能拓地降敵,而罔上害民,終貽患中國云。

張茂則

原文張茂則

張茂則は、字を平甫といい、開封の人である。初め小黄門に補され、五度昇進して西頭供奉官となり、内東門を幹当した。禁庭で夜に盗賊が入ると、茂則は真っ先に屋根に登って入り、賊を捕らえた後、御薬院を領するよう昇進した。

原文張茂則,字平甫,開封人。初補小黃門,五遷至西頭供奉官,幹當內東門。禁庭夜有盜,茂則首登屋以入,既獲賊,遷領御藥院。

仁宗御不豫よに陥り、夜半に急ぎ召され、茂則は走り入って扶護し、左右の者が宮門を閉ざそうとしたが、茂則は言った、「事態に慮るべきことはなく、何ぞ中宮と外廷に疑念を生ぜしめんや」と。帝の病が小康すると、押班に任じようとしたが、茂則は外任を補うことを懇願し、宮苑使・果州團練使に転じ、永興路兵馬鈐轄となった。後に内侍押班として召され、再び副都知に遷った。熙寧初年、司馬光とともに恩・冀・深・瀛の四州の生堤および六塔・二股河の利害を視察し、内都知に進んだ。

原文仁宗不豫,中夜促召,茂則趨入扶衛,左右或欲掩宮門,茂則曰:「事無可慮,何至使中外生疑耶?」帝疾間,欲處以押班,懇求補外,轉宮苑使、果州團練使,為永興路兵馬鈐轄。入為內侍押班,再遷副都知。熙寧初,同司馬光相視恩、冀、深、瀛四州生堤及六塔、二股河利害,進入內都知。

上元節の夜、宮中で火災が起こると、茂則は衆を督して直ちにこれを撲滅させた。詔して曰く、「宮禁は驚かず、帑蔵は元の如し、忠誠と尽力とにより、朕は固よりこれを嘉す」と。窄衣と金帯を賜った。累次にわたり退休を乞うたが、国より厚恩を受け、禄食が過分であり、積み置かれて未だ請け取らぬものが七年分あると言い、三司に券を破棄させるよう求めた。詔してこれを褒め、なおその官を進めた。哲宗即位すると、寧国軍留後に遷り、両省都都知を加えられた。卒す、年七十九。

原文上元夜,宮中火,督眾即撲滅。詔曰:「宮禁不驚,帑藏如故,惟忠與力,予固嘉之。」賜以窄衣金帶。累乞退休,言受國厚恩,廩食過量,積而未請者七年,乞令三司毀券。詔褒之,仍進其官。哲宗即位,遷寧國軍留後,加兩省都都知。卒,年七十九。

茂則は性質倹素にして、食事は二品を重ねず、衣裘は十数年を累ねても替えなかった。紹聖年間に元祐の党人を論じるにあたり、茂則がかつて任用に関与したとして、左監門衛将軍に追貶され、崇寧年間に党籍に入れられた。

原文茂則性儉素,食不重味,衣裘累十數年不易。紹聖論元祐人,以茂則嘗預任使,追貶左監門衛將軍,崇寧中入黨籍。

宋用臣

原文宋用臣

宋用臣、字は正卿、開封の人。人となり精思強力あり、父の蔭により職内省に隷した。神宗が東府・西府を建て、京城を築き、尚書省を建て、太学を起こし、原廟を立て、洛水を導いて汴水に通じるなど、凡そ大工役は、悉くその事を董理した。性敏給にして、詔令を伝えるに巧みであったため、しばしば外事について諮問された。同列は皆これに籍して進み、廉節を欠く朝士は往々にして諂い附き、権勢は一時に震赫した。積労により登州防禦使に至り、宣政使を加えられた。元祐初年、言事者がその罪を論じ、皇城使に降格され、滁州・太平州の酒税監に謫された。四年、霊仙観を主管した。紹聖初年、召されて内侍押班となり、瀛州刺史に進んだ。

原文宋用臣,字正卿,開封人。為人有精思強力,以父蔭隸職內省。神宗建東、西府,築京城,建尚書省,起太學,立原廟,導洛通汴,凡大工役,悉董其事。性敏給,善傳詔令,故多訪以外事。同列悉籍以進,朝士之乏廉節者,往往諂附之,權勢震赫一時。積勞至登州防禦使,加宣政使。元祐初,言者論其罪,降為皇城使,謫監滁州、太平州酒稅。四年,主管靈仙觀。紹聖初,召為內侍押班,進瀛州刺史。

徽宗即位すると、蔡州観察使・入内副都知に遷った。永泰陵の修奉鈐轄となり、陵下に卒す。安化軍節度使を贈られ、諡して「僖敏」といった。諡議において用臣を広平宋公と称し、「天子公の労を念じ、久しく外に徙す」との語があった。豊稷が論奏して、凡そ公と称する者は皆耆宿・大臣と郷党の有徳の士でなければならず、その「公の労を念じ、久しく外に徙す」とは、これは古の周公の事であり、用臣に対して言うべき言葉ではないとした。ただ諡を賜うのみとし、論者はこれを是とした。

原文徽宗即位,遷蔡州觀察使、入內副都知。為永泰陵修奉鈐轄,卒陵下,贈安化軍節度使,諡「僖敏」。諡議謂用臣為廣平宋公,有「天子念公之勞,久徙於外」之語。豐稷論奏,以為凡稱公者皆須耆宿、大臣與鄉黨有德之士,其曰「念公之勞,久徙於外」,斯乃古周公之事,於用臣非所宜言也。止令賜諡,論者是之。

王中正

原文王中正

王中正、字は希烈、開封の人。父の任により補われて入内黄門となり、延福宮に赴いて詩書・暦算を学んだ。仁宗その才を嘉し、左右に置くことを命じた。慶曆の衛士の変に際し、中正は弓矢を援って殿の西で督捕し射かけ、賊は悉く擒えられた。時に年甫だ十八、人々は大いにこれを壮とした。東頭供奉官に遷り、幹当御薬院・鄜延環慶路公事を歴任し、河東の辺事を分治した。西人を破って功あり、帯御器械となった。

原文王中正,字希烈,開封人。因父任補入內黃門,遷赴延福宮學詩書、曆算。仁宗嘉其才,命置左右。慶曆衛士之變,中正援弓矢即殿西督捕射,賊悉就擒,時年甫十八,人頗壯之。遷東頭供奉官,歷幹當御藥院、鄜延、環慶路公事,分治河東邊事。破西人有功,帶御器械。

神宗が熙河を回復せんとし、中正にその規模を測らせた。還って言うには、「熙河は譬えば乳虎の玉を抱くが如く、爪牙未だ備わらざるに乗じて、取るべし」と。遂に王韶に従って熙河に入り、城壁守具を治め、功により作坊使・嘉州團練使に遷り、内侍押班に擢でられた。

原文神宗將復熙河,命之規度。還言:「熙河譬乳虎抱玉,乘爪牙未備,可取也。」遂從王韶入熙河,治城壁守具,以功遷作坊使、嘉州團練使,擢內侍押班。

吐蕃が茂州を囲むと、詔して陝西の兵を率いてこれを救援させ、包囲は解けた。石泉より茂州に至るまで、これを隴東路と謂い、土田肥美なるも、西羌がこれを占拠しており、中正は討つことができなかった。そこで吐蕃の入寇に因り言うには、「その路は静州等の族を経て、榛蕪僻遠にして通ぜず、近年商旅稍々往来するにより、故に外蕃これに乗じて間隙を生ず。県より綿と茂に至るまで、道里均しく、而して龍安に都巡検あり、緩急倚仗すべし。石泉を割いて綿に隷せしめ、その故道を塞ぐことを請う」と。これに従い、隴東は遂に得られざるに至った。還り、熙河に使いして鬼章を経画し、昭宣使・入内副都知に進んだ。

原文吐蕃圍茂州,詔率陝西兵援之,圍解。自石泉至茂州,謂之隴東路,土田肥美,西羌據有之,中正不能討。乃因吐蕃入寇,言:「其路經靜州等族,榛僻不通,邇年商旅稍往來,故外蕃因以乘間。縣至綿與茂,道里均,而龍安有都巡檢,緩急可倚仗。請割石泉隸綿,而窒其故道。」從之,隴東遂不可得。還,使熙河經畫鬼章,進昭宣使、入內副都知。

元豊初年、畿県保甲将兵の捕賊盗巡検を提挙し、民兵伍保法を献じ、村疃及び県において時に閲習することを請い、その言を悉く行わせた。再び鄜延・環慶に往きて辺事を経制し、詔して凡そ須要する用度は、両路に取り給せしめ、多寡に限りなからしめた。既に行き、また面して詔を受けたと称し、過ぐる所で禁兵を募り、従わんとする者を将い、主者は敢えて違えなかった。

原文元豐初,提舉教畿縣保甲將兵捕賊盜巡檢,獻民兵伍保法,請於村疃及縣以時閱習,悉行其言。復往鄜延、環慶經制邊事,詔凡所須用度,令兩路取給,無限多寡。既行,又稱面受詔,所過募禁兵,願從者將之,主者不敢違。

西夏に問罪するに当たり、中正をして涇原路経略司事を簽書せしめた。詔して五路の師は皆霊州に会せしめたが、中正は期を失い、糧道続かず、士卒多く死に、命じて権に鄜延の辺城砦に分屯せしめ、以て後の挙を俟たしめた。自ら省職を罷めることを請い、金州観察使・提挙西太一宮に遷り、前の敗戦に坐して秩を貶された。元祐初年、言事者が再びその王師二十万を将い、公然と詔書に違う罪を論じ、劉摯は中正を李憲・宋用臣・石得一と並べて四凶に比し、また秩を二等貶された。久しくして崇福宮を提挙した。紹聖初年、嘉州團練使に復した。卒す、年七十一。

原文問罪西夏,以中正簽書涇原路經略司事。詔五路之師皆會靈州,中正失期,糧道不繼,士卒多死,命權分屯鄜延並邊城砦,以俟後舉。自請罷省職,遷金州觀察使、提舉西太一宮,坐前敗貶秩。元祐初,言者再論其將王師二十萬,公違詔書之罪,劉摯比中正與李憲、宋用臣、石得一為四凶,又貶秩兩等。久之,提舉崇福宮。紹聖初,復嘉州團練使。卒,年七十一。

李舜挙

原文李舜舉

李舜挙、字は公輔、開封の人。代々内侍を務め、曾祖父の神福は太宗に事えて信謹を終始した。舜挙は少にして黄門に補され、仁宗が工を督して金を冶し器とさせたが、既に成りて、余剰の数あり、併せてこれを上進した。帝はその欺かざるを嘉した。出でて秦鳳路走馬承受となった。

原文李舜舉,字公輔,開封人。世為內侍,曾祖神福,事太宗以信謹終始。舜舉少補黃門,仁宗使督工冶金為器,既成,有羨數並上之,帝嘉其不欺。出為秦鳳路走馬承受。

英宗立つと、京師にて奏事した。時に帝不豫に陥り、内謁者が宮門でこれを止めたが、舜挙は言った、「天子新たに即位せられ、使者辺方より来たり、一見せずして去らば、何をもって遠人を慰めんや」と。謁者がこれを聞き、急ぎ召して対せしめると、帝の意大いに悦んだ。そこで言うには、「承受公事は、守将の不法を察するを職とし、終更に最を論ずるに、乃ち帥臣に保任せしむるは、これを免ぜられんことを乞う」と。遂に旧制を刪した。

原文英宗立,奏事京師。會帝不豫,內謁者止之宮門,舜舉曰:「天子新即位,使者從邊方來,不得一見而去,何以慰遠人!」謁者以聞,亟召對,帝意良悅。因言:「承受公事,以察守將不法為職,而終更論最,乃使帥臣保任,乞免之。」遂刪舊制。

熙寧年間、内東門・御薬院・講筵閣・実録院の幹當を歴任した。郭逵が交州を討つに当たり、広西幹當公事とされ、軍中の政事に参画し、あるいは疾駆して入朝し、成算を稟受した。郭逵が貶せられると、左蔵庫副使に降格され、文思院使として文州刺史を領し、帯御器械となった。内侍押班に進み、涇原軍馬を制置した。

原文熙寧中,歷幹當內東門、御藥院、講筵閣、實錄院。郭逵討交州,以為廣西幹當公事,軍中之政得與講畫,或疾置入朝,稟受成算。會逵貶,亦降左藏庫副使,以文思院使領文州刺史、帶御器械。進內侍押班,制置涇原軍馬。

五路の軍が功なく出師し、再挙を議する中、李憲が糧食輸送を監督し、密詔を受けたと言い、都転運使以下で軍興に乏しい者は皆斬ることを許された。民は前日の役で多くが凍餒死したことを懲り、皆行くことを憚り、百緡出しても一夫を雇えず、山沢に柵を立てて相聚い調に応ぜず、吏が往って逼呼すれば、殴撃し、解州では県令を械して督したが、集めることができなかった。舜挙が入朝してこれを奏上したため、兵を罷めた。退いて中書に詣でると、王珪が迎えて労い、「朝廷は辺事を押班及び李留後に属せしめ、西顧の憂い無し」と言った。舜挙は言った、「四郊に多壘は、これ卿大夫の辱なり、相公が国を当たるに、辺事を二内臣に属すとは、可ならんや。内臣は正に禁庭の灑掃の職を供すべきであり、将帥の任に当たるべきか」。聞く者は王珪に代わって慚じた。

原文五路師出無功,議再舉,李憲督饋糧,言受密詔,自都轉運使以下乏軍興者皆聽斬。民懲前日之役多死於凍餒,皆憚行,出錢百緡不能雇一夫,相聚立柵山澤不受調,吏往逼呼,輒毆擊,解州至械縣令以督之,不能集。舜舉入奏其事,乃罷兵。退詣中書,王珪迎勞之曰:「朝廷以邊事屬押班及李留後,無西顧之憂矣。」舜舉曰:「四郊多壘,此卿大夫之辱,相公當國,而以邊事屬二內臣,可乎?內臣正宜供禁庭灑掃之職,豈可當將帥之任!」聞者代珪慚焉。

嘉州団練使に転じた。沈括が永楽を城するに当たり、舜挙を遣わして計議させたが、包囲が急となり、衣襟を断ち奏状を作り、「臣は死すとも恨むところ無し、願わくは朝廷この賊を軽んぜざらんことを」と記した。まもなく死を以て聞こえ、昭信軍節度使を贈られ、「忠敏」と諡された。

原文轉嘉州團練使。沈括城永樂,遣舜舉計議,被圍急,斷衣襟作奏曰:「臣死無所恨,願朝廷勿輕此賊。」尋以死聞,贈昭信軍節度使,諡曰「忠敏」。

舜挙は資性安重にして、人と言うに未だ嘗て宮省の事に及ばず。頗る書伝を覧め、文辞筆札に能くした。御薬院に在ること十四年、神宗は嘗て「李舜挙公忠奉上、恭勤檢身、始終惟一、以安以栄」の十九字を書して賜った。

原文舜舉資性安重,與人言未嘗及宮省事。頗覽書傳,能文辭筆劄。在御藥院十四年,神宗嘗書「李舜舉公忠奉上,恭勤檢身,始終惟一,以安以榮」十九字賜之。

石得一

原文石得一

石得一、開封の人。内侍黄門となり、累官して内殿承制に至る。神宗の時、帯御器械・龍図・天章・宝文閣・皇城司を管幹し、四遷して入内副都知となった。元祐初め、成州団練使を領し、内省の職を罷められた。御史劉摯が言う、「得一は頃に皇城を管し、その残刻を恣にし、邏者を縱遣し、所在に棋布し、阱を張り網を設け、無を以て有と為し、虚を以て実と為す。朝廷の大吏及び富家の小人、飛語朝に上れば、暮に狴犴に入り、上下惴恐して自保できず、目を以て顧みる者殆ど十年」。坐して左蔵庫使に降格され、卒した。紹聖年中、随州観察使を贈られた。

原文石得一,開封人。為內侍黃門,累官內殿承制。神宗時,帶御器械、管幹龍圖、天章、寶文閣、皇城司,四遷入內副都知。元祐初,領成州團練使,罷內省職。御史劉摯言:「得一頃筦皇城,恣其殘刻,縱遣邏者,所在棋布,張阱設網,以無為有,以虛為實。朝廷大吏及富家小人,飛語朝上,暮入狴犴,上下惴恐,不能自保,至 顧以目者殆十年。」坐降左藏庫使,卒。紹聖中,贈隨州觀察使。

梁従吉

原文梁從吉

梁従吉、字は君祐、開封の人。入内高班に補せられた。王則が反すると、奉命して宣慰し、還って言う、「小寇は多慮無く、諸将の兵は以て翦除に足り、若し重臣を得てその事を統せしめば、崇朝せずして平らげられん」。ここにおいて仁宗は文彦博を安撫招討使とした。賊が平らぎ、また奏請して河北を路に分ち、毎路に一帥府を以てこれを統べさせ、遂に魏・鎮・定・瀛の四帥を建てた。熙寧初め、邠寧環慶路駐泊兵馬鈐轄となった。夏人が大順城に寇し、慶州七砦を囲むと、従吉は兵八百余人を率いて戦い、その酋領を獲た。また寧州の叛卒を討平し、功により都鈐轄に昇り、累官して皇城使となった。高遵裕に従って霊武に至り、士卒を督して城を攻め、身に創を被ること甚だしく、入内押班に進み、永州団練使に遷り、副都知となった。元祐年中に卒し、成徳軍節度使を贈られ、「敏恪」と諡された。

原文梁從吉,字君祐,開封人。補入內高班。王則反,奉命宣慰,還言:「小寇無多慮,諸將之兵足以翦除,若得重臣統其事,不崇朝可平矣。」於是仁宗以文彥博為安撫招討使。賊平,又奏請分河北為路,每路以一帥府統之,遂建魏、鎮、定、瀛四帥。熙寧初,為邠寧環慶路駐泊兵馬鈐轄。夏人寇大順城,圍慶州七砦,從吉率兵八百餘人與戰,獲其酋領。又討平寧州叛卒,以功升都鈐轄,累官皇城使。從高遵裕至靈武,督士卒攻城,身被創甚,進入內押班,遷永州團練使,為副都知。元祐中卒,贈成德軍節度使,諡曰「敏恪」。

劉惟簡

原文劉惟簡

劉惟簡、開封の人、入内黄門より積官して昭宣使・康州刺史・高陽関路兵馬都監に至り、入内押班となった。英宗が初めて立つと、惟簡は河北より来朝し、寝門に対請したが、内謁者がこれを難じ、独り皇太后に引見された。惟簡は福寧殿下に立ち、雨が衣を沾しても退かず、帝は幃中に起坐し、望見して呼び問う、「諸路に汝の如き者は幾人か、何を以て独り来たるか」。対えて言う、「陛下新たに即位せられ、臣は辺塞より来たり、未だ天表を瞻せず、敢えて輒ち還らず、他のことを知らず」。帝は歎じて言う、「小臣の守る所を知ること此の如し」。その姓名を屏間に識した。他日、神宗が題した屏を覧て、延福宮の幹當に擢げ、これより親信を蒙った。

原文劉惟簡,開封人,由入內黃門積官至昭宣使、康州刺史、高陽關路兵馬都監,為入內押班。英宗初立,惟簡自河北來朝,請對寢門,內謁者難之,獨引見皇太后。惟簡立福寧殿下,雨沾衣不退,帝起坐幃中,望見呼問曰:「諸路如汝者幾人,何以獨來?」對曰:「陛下新即位,臣來自邊塞,未瞻天表,不敢輒還,不知其他。」帝歎曰:「小臣知所守如此。」識其姓名屏間。他日,神宗覽所題屏,擢幹當延福宮,自是蒙親信。

交人が叛くと、詔して馳驛して桂州に至り事勢を審視させ、還って言う、「帥臣劉彝は功を貪り事を生じ、罪誅に当たる。乾德は狂童にして、頸は繫ぐに足らず」。帝はこれを信じた。郭逵・趙卨が南征するに当たり、行営承受とされた。郭逵・趙卨が謫せられると、惟簡も一官を奪われた。

原文交人叛,詔馳驛至桂州審視事勢,還言:「帥臣劉彝貪功生事,罪當誅。乾德狂童,頸不足繫。」帝信之。郭逵、趙卨南征,以為行營承受。逵、卨被謫,惟簡亦奪一官。

陝西五路の師が還ると、命を受けて士卒を撫犒したが、疾を以て先に還った者は賜わらなかった。惟簡は心にその不便を知り、慶州に至り、疏を上って言う、「士卒は不幸にして、将臣の上聖略に違い、糧食継がず、逃生して帰るも、その情は貸すべし。今同じく庭中に立つに賜に預からざれば、患い倉卒に生ずるを恐る」。帝はその言を用い、均しくこれを与えた。また河北の保甲を案閲し、京西の水災を振済し、諸陵の薦献を参定させた。既にして言者に劾せられ、擯斥されて用いられなかった。哲宗が藩に在る時、惟簡は奔奏服勤し、親政に及んで、左右に召された。内侍押班として卒し、昭化軍留後を贈られた。

原文陝西五路師還,受命撫犒士卒,以疾先還者不賜。惟簡心知其不便,至慶州,疏言:「士卒不幸,以將臣上違聖略,糧食不繼,逃生以歸,其情可貸。今同立庭中而不預賜,恐患生倉卒。」帝用其言,均予之。又使案閱河北保甲,振濟京西水災,參定諸陵薦獻。既而為言者所劾,擯不用。哲宗在藩時,惟簡奔奏服勤,及親政,召至左右。以內侍押班卒,贈昭化軍留後。