宋史

列傳第二百二十五 宦者一 竇神寶 王仁睿 王繼恩 李神福弟:神祐 劉承規 閻承翰 秦翰 周懷政 張崇貴 張繼能 えい紹欽 石知顒孫:全彬 鄧守恩

宋代は宦官を待するに甚だ厳しかった。太祖が天下を初めて定めた時、掖庭の給事は五十人を超えず、宦官は中年になって初めて養子を後継ぎとすることを許された。また詔して臣僚の家に私的に閹人を蓄えることを禁じ、民間に幼童を閹して売買する者あれば死罪に論ずとされた。唐の時代から遠く去っておらず、戒めるところがあったのである。

その後、太宗は宰相の請いを退け、王継恩に宣徽使を授けず、真宗は劉承規を節度使にしようとしたが、宰相が不可を堅持して止んだ。その間に幼主と母后の聴政する時期が三朝にわたり、前代にあれば、これこそ宦官が権勢を振るう時節ではなかったか。祖宗の法は厳しく、宰相の権力は重く、貂璫(宦官)に奸悪を抱く者あれば、たちまち排除され、君臣ともに微を防ぎ漸を杜つ慮りが深かったのである。

しかしながら宣和・政和の間、童貫・梁師成の禍も、また豈に些細なことであろうか。南渡後の苗傅・劉正彦の逆乱も、宦官によって激成されたのである。『坊記』に曰く、「君子の道は、譬えば堤防の如きか。大いに之を堤防と為すも、民猶ほ之を踰ゆ」と。戒めざるべけんや。ここに『宦者伝』を作す。

竇神宝

竇神宝、父は思儼、五代の時に内侍となり、宋初に皇城使となった。兄の神興は、左領軍衛大將軍を以て致仕した。神宝は初め黄門となり、太平興国年中、太原征伐に従い、鎧を着て城に登り、流れ矢に当たり、次第に昇進して入内高品となり、へい州の戍兵を監察した。しばしば出撃して賊を襲い、前後三十六の砦を破り、千余級を斬り、鎧甲・牛馬・駱駝を多く獲たため、三つの砦を築いた。詔してこれを褒めた。九年、尹憲とともに夏州に駐屯することを命じられ、時に岌伽羅膩等十四族が久しく叛いていたが、神宝は兵を率いてこれを大破し、その廬帳を焼き、千余級を斬り、虜獲甚だ多かった。

雍熙年中、朝廷は使者を綏・宥・麟・府州に遣わし、辺境の部族で契丹を攻めんとする者を募り、金帛を賜わった。神宝が上言して「狼子野心、これより或いは辺境の隙を生ずるあらん」と言ったので、やめた。まもなく殿頭高品に転じた。淳化年中、河東に使いし、堡柵の兵騎を閲視した。慕容徳豊が邢台から延州に転任したが、郡に至らぬうちに、詔して神宝に駅伝に乗じて臨時に州の事務を執らしめた。環州は辺境に近く内擾があり、陳徳玄とともにこれを討ち、牛家族二十八部を破り、かつ通遠から霊武に至る路の経路を測量し、そのまま環慶同駐泊に任命された。牛家族が再び衆を結んで叛いたので、またこれを破り、余党を極泉鎮で殲滅し、その渠帥九人を捕らえた。西戎が鄜を寇した時、援軍の功労により、供奉官に昇進し、田紹斌とともに霊州の芻糧を護送し、そのまま駐泊を命じられた。

李継遷が侵入した時、慕容徳豊とともにその堡砦を襲撃して破り、帳幕を焼き、人畜数万に及ぶものを獲た。連詔して嘉奨し、内殿崇班に昇進した。至道初年、継遷が再び霊武を寇した時、神宝は間道を遣わして急を朝廷に告げさせた。賊が一年余り包囲し、地震が二百余日続き、城中の糧食は尽きたが、密かに人を遣わして河外で穀物を買い求め、夜間に運び入れた。時折出兵して賊を撃ち、賊は退去し、功により西京作坊副使に任じられた。また浦洛河・清遠軍で芻糧を輸送することを命じられ、楊允恭と議して小車三千両を造り、糧食を環州まで運んだ。三年、西京左蔵庫副使に昇進した。霊武に使いし、帰還後、奏対が旨に適い、面授して供備庫使とした。

咸平年中、外任して高陽関鈐轄となり、貝・冀巡検に転じた。時に原州の野狸族三千余衆が順成谷に徙帳しようとし、大虫堪が熟魏族と接戦したので、詔して神宝に和睦させしめ、到着するとその境界を定め、皆を旧地に還らせた。内侍右班副都知として入朝した。真宗が陵に詣でた時、留め置かれて劉承珪とともに大内の事を掌った。大中祥符初年、三班院を勾当し、また諸王宮事を掌った。西京左蔵庫使・密州刺史を兼ね、往来国信を掌ることを加えられた。

神宝は職務に精勤恪順であったが、性吝嗇で、財貨を巨万蓄積した。天禧初年、皇城使として内職を罷められた。三年、卒去。七十一歳。その子守志を録用して入内供奉官とした。

王仁睿

王仁睿、何れの許の人なるか知らず。十余歳の時、太宗に晋邸にて仕え、左右に服勤し、甚だ淳朴で謹直であった。即位すると、宣伝指揮は頗る旨に適い、歴任して入内小底都知・洛苑副使となった。宮闈の出納の命を掌ることを命じられ、最も親近の地位にあった。かつて柴禹錫等とともに秦王廷美の陰事を発覚させた。雍熙四年に病に罹り、太醫を遣わして診視させた。卒去。四十一歳。特旨をもって内侍省内侍を贈られた。

国朝以来、内侍都知・押班は他の職を兼ねなかった。淳化・至道以後は、皆内殿崇班以上が兼ねて充てられ、多くは諸司使に至り、観察使を兼ねる者もあり、没する時には皆贈官があり、官が葬事を給した。

旧制では、内侍は一人の養子を養うことを許され、継嗣に充てた。開宝四年、その財産争いによる訴訟が起きたため、詔して今後は満三十歳で養父のない者に限り、初めて養子を許し、なおその名を宣徽院に上申せしめ、違反した者は前詔に準じて死罪に処すとした。咸平年中、徐志通が温・台等州巡検となり、李歓の男子四人を仮子とした罪と、また卒を放任して民家の小児を略取させ、その母が児を抱いて海に投身死するに至らしめた罪により、杖刑に処して掃灑班に配流し、改めて前詔を申し述べて戒めとした。

王繼恩

王繼恩は陝州陝の人である。周の顕徳年間に内班高品となった。初め張氏に養われ、名を徳鈞といった。開寶年間に本宗に復することを求め、太祖が召見してこれを許し、よって名を賜うた。累遷して内侍行首となった。

江南を討つに際し、竇神興らとともに禁兵及び戦船を率いて采石に至る。九年春、裏面内班小底都知に改め、金紫を賜う。十月、武徳使を加えられる。太祖崩御し、杜彦圭に副えて陵地を案行し、まもなく永昌陵使を充てる。太平興国三年、宮苑使に遷る。久しくして河州刺史を領し、軍器弓槍庫を掌った。

雍熙年間、王師が雲・朔を克つと、命を受けて師を率いて易州に屯し、また天雄軍駐泊都監となる。岐溝関・君子館の敗績の後、河朔諸路は契丹に侵擾され、城塁多くは頽壊した。四年、詔により翟守素・田仁朗・郭延濬と分路して按行し、これを増築す。将を遣わして北伐するに及び、また排陣都監となり、中山に屯し、皇城使に改む。端拱初、本州団練使を領し、また鎮・定・高陽関三路排陣鈐轄となる。淳化初、甲第一区を賜う。五年、昭宣使を加えられ、皇城司を勾当す。李順が成都で乱を起こすと、剣南両川招安使に命じられ、兵を率いてこれを討った。軍事はその制置に委ねられ、中覆に従わず。管内諸州の繫囚、十惡正贓に非ざる者は、悉く便宜をもって決遣するを得た。二月、馬歩軍都軍頭王杲に命じて剣門に趣かせ、崇儀使尹元に峽路より分遣して賊を討たしめ、並びに継恩の節度を受く。詔して前軍の至る所、その賊党王師に敢えて抗う者は、即ち須らく殺戮すべし。もし元より同悪に非ず、凶徒に制せられ、先に脅従せられ今帰順する能う者は、悉くその罪を釈す、と。四月、継恩は小剣門路より研石砦に入り賊を破り、五百級を斬首し、北に逐って青強嶺を過ぎ、剣州を平らげ、進んで柳池驛にて賊五千を破り、千六百級を斬首す。賊衆風望んで奔走し、殺戮溺死する者算うべからず。また閬・綿二州を克つ。五月、成都に至り、賊十余万を破り、三万級を斬首し、順及び鎧甲・僭偽の服用を獲ること甚だ多し。

朝議功を賞し、中書は宣徽使を除かんと欲す。太宗曰く、「朕前代の史書を読むに、宦官をして政事に預からしむるを欲せず。宣徽使は、執政の漸なり。止むを得ずして他の官を授くべし」と。宰相力めて継恩に大功有りと言い、この任に非ざれば賞典を為すに足らずとす。上怒り、相臣を深く責め、学士張洎・銭若水に議して別に宣政使を立て、序位を昭宣使の上としてこれを授けしむ。進んで順州防禦使を領す。

継恩重兵を握り、久しく成都に留まり、転餉給せず、専ら宴飲を務めとす。出入する毎に、前後に音楽を奏す。また騎兵に命じて博局棋枰を執らしめ自ら随い、威郡県に振るう。僕使輩用事して恣横にし、部を縱して子女金帛を剽掠せしめ、軍士も亦た闘志無し。余賊山谷間に迸伏し、州県に復た陥る者有り。太宗之を知り、乃ち入内押班衛紹欽に命じて同しく其事を領せしむ。又た枢密直学士張鑑・西京作坊副使馮守規を遣わし、伝に乗じて其の賊を捕うるを督せしむ。師徒を分減してしょく境を出で、以て糧運を便にすべしと議す。

高品王文壽なる者、継恩の麾下に隷し、継恩遣わして虎翼卒二千を領し、遂州路に分かれて追討せしむ。文壽下を御するに厳急にして、士卒皆怨む。一夕帳中に臥すに、指揮使張嶙卒を遣わして闥を排し入り、文壽の首を斬りて出づ。会うに夜昏黒、嶙猶其の非なるを疑い、炬を然して之を照らし、曰く「是なり」と。時に嘉州の賊帥張餘衆万余有り、嶙即ち以て所部を之と合し、賊勢甚だ盛ん。初め奏至るに、太宗軍人の妻子を尽く誅せんと欲す。近臣或いは殺す勿らんことを請い、悉く営中の書を索め、帥を遣わして招撫し、罪を釈するを諭し、親属皆全きを以てすれば、必ず自ら引いて来帰し、因って賊を破るべしとす。上然りとし、巡検程道符に命じて旨を諭さしむ。亡卒嶙を斬り、函首して継恩に送り、皆自ら抜けて来帰す。因って之をして郷導と為り賊を撃たしめ、悉く之を平らぐ。

至道二年春、布衣韓拱辰闕に詣り上言す、「継恩に平賊の大功有り、機務を秉ずべし。今止だ防禦使を得るのみ、賞甚だ薄く、中外の望を慰むる無し」と。上大怒し、拱辰を以て衆を惑わすとし、脊を杖ち面をげいして崖州に配す。俄かに継恩を召す。太宗崩御し、李神福とともに山陵を按行するを命じ、桂州観察使を領するを加う。

継恩初め太祖に事え、特り恩顧を承く。及び崩御の夕、太宗南府に在り、継恩中夜馳せて府邸に詣り、太宗の入るを請う。太宗之に忠しみ、是より寵遇比ぶる莫し。党を結び名誉を邀うを喜び、間を乗じて或いは敢えて外朝の臣を薦言し、是より士大夫の軽薄にして進を好む者之に従い交往し、毎に多宝院の僧舎を以て期とす。潘閬なる者詩詠能くし、薬を京師に売る。継恩之を薦め、召見し、進士第を賜う。尋いで其の狂妄を察し、詔書を追還す。

真宗の初めに及び、継恩益々豪横にし、頗る欺罔し、機事を漏泄し、参知政事李昌齢と緘題往来し、請託多く、宮禁に連なる者有り。素より胡旦と善くし、時に将に恩を加えんとし、密かに其の褒辞を為すを諉う。又た士人の詩頌門に盈つ。上其の朋結を悪み、右監門衛将軍・均州安置に貶し、資産を籍没す。多く蜀土の僭擬の物を得たり。昌齢は忠武軍節度行軍司馬に責められ、旦は籍を削られ、長く尋州に流さる。詔して中外の臣僚曾て継恩と交識し及び書尺を通ぜし者は、一切問わず。

咸平二年、貶所に卒す。使を遣わして其の家属を京師に将ち還り、官舎を仮りて之を処す。四年、帰葬を聴す。大中祥符三年、特詔して官爵を追復し、白金千両を以て其の家に賜う。子懷珪、転じて入内高班となる。

李神福

李神福は開封の人である。父継美は後唐に仕えて内侍となり、顕徳初め御厨都監となった。時に内臣は止だ服色を以て貴しと為すも、太祖特り紫を賜い、後右領軍衛将軍に至る。神福少くして晋王府に給事し、謹恪にして上意を解し、未だ嘗て少しく怠ること無し。太宗即位し、入内高品を授かる。太原に従征し、攻城の際、梯衝の間を往来して詔命を宣伝し、即ち行在所にて殿頭に遷る。太平興国六年、擢て入内高品押班と為り、副都知・勾当翰林司に遷り、転じて入内内班都知となる。兼ねて勾当祗候内品班。淳化四年、崇儀副使・勾当皇城司に遷る。属に初めて黄門の号を易うるに、転じて入内黄門都知となり、俄かに宮苑使を加う。太宗筆札を好み、神福毎に側に侍し、多く別本の賜いを得たり。及不に及び、神福朝夕左右に在り、躬ら薬膳に侍す。

真宗即位し、皇城使・内侍省入内内侍都知に遷り、恩州団練使を領し、永熙陵行宮事を勾当す。時に太宗の聖容を模写し、神福を以て立侍せしむ。未だ幾ばくも無く、都知を罷むるを求め、昭宣使を加えられ、皇城司を勾当し、第を宮城の側に賜い、修内の工を遣わして之を葺かしむ。咸平二年秋、兵を東郊に閲し、神福を以て大内都部署と為す。是の冬、大名に幸し、王継英と並びに行宮使と為る。四年、三班を勾当し、部をして含光殿を修めしめ、賜賚甚だ優なり。景德初、兼ねて親王諸宮使を領す。三年、宣政使に改む。諸陵に謁し従い、復た行宮使と為る。西京に進幸し、賜酺し、神福に命じて其の事を主せしむ。

大中祥符元年の初め、天書が降った夜、神福は劉承珪・鄧永遷・李神祐・石知顒・張景宗・藍継宗と共に禁中に宿直し、器幣・緡銭を賜った。京師で酒宴が催されると、また神福に白文肇・閻承翰と共にこれを主管させた。この年、泰山に封禅するに当たり、曹利用と共に行宮の道路を計画・測量した。そして車駕が進発する際には、また行宮使となった。礼儀が終わると、宣慶使を授けられ、昭州防禦使を兼ね、禁衛を整え粛正した。これ以前は、諸司使は宣政使までであったので、特にこの使額を設けて彼を寵遇した。三年、卒去。享年六十四。潤州観察使を追贈された。

神福は性格が恭しく素直で温和であり、しばしば衛紹欽に罵倒されても、皆避けて争わなかった。禁闥に五十年在職し、長者と称された。しかし長く三班を管掌したが、規制がなく、遠近の秩序を失い、請託する者を拒むことができず、人々はその操守を嘲笑した。子に懷斌・懷贇がいる。弟に神祐がいる。

弟 神祐

神祐は、初め父の任子により殿頭高品を授かった。太祖が孝章皇后を娶ろうとした時、神祐に命じて華州に聘礼を奉じさせた。乾徳五年、太原を征伐する際、御璽を背負って従軍した。開宝二年、また太原征伐に従い、時に詔があり辺境沿いに軍需物資を和買したが、車駕が潞州にいてこれを聞き、民を煩わせることを憂慮し、神祐に駅馬を飛ばしてこれを止めさせた。時に詔が下ってから既に五日経っていたが、神祐は一晩で晋陽に到達した。ある日、甲士が既に陣を布くと、賊が密かに火を放って雲梯や衝車を焼いたので、急ぎ神祐に衛兵を率いて援軍となるよう命じ、賊を多く斬り、残りは悉く潰走した。王師が広州を討つ時、軍に随行して賞賜を給与した。劉鋹が平定されると、先に府庫の財物を部送して京師に赴かせた。そして土賊の周瓊らが叛くと、また尹崇珂の副将としてこれを討平した。六年、曹彬に従って南征した。関城を攻克し、偽将の朱令贇を生け捕りにすると、神祐に命じて馳せ入って捷書を献上させ、錦袍・金帯を賜った。

太宗が即位すると、南作坊副使に遷った。銭俶が帰朝すると、神祐に命じてその府庫の蓄積を査察させた。再び太原を征伐する時、工匠・労役者千人を率いて車駕に従い、兵器甲冑の修繕補完に備えさせた。劉継元が降伏の文書を奉ると、太宗は儀仗衛兵を陳列して城北の台でこれを受けようとしたが、継元は時を移しても未だ到着せず、神祐が単騎で城に馳せ入り、間もなく、継元を引き連れて来た。そして北伐して燕薊を征する時、劉廷翰と共に精鋭騎兵を統率して大陣の援軍となるよう命じられた。車駕が還ると、また兵を率いて定州に駐屯し契丹に備えるよう命じられた。太平興国六年、滑州で黄河の堤防を治める時、材木や葦が未だ揃わなかったので、神祐に命じて垣曲に馳せ往き、薪や柴四百万を伐採してその用を賄わせた。七年、契丹が辺境を寇すと、兵を率いて瀛州に駐屯するよう命じられ、間もなく崇儀使に改め、左右蔵庫を提点し、洛苑使に遷った。至道初年、西辺が平穏でなくなると、霊州・環州の排陣都監に任じられ、衆を率いて烏白池まで至って還った。間もなく永興に駐屯し、また糧食輸送を護衛して朔方に送り届けた。

真宗が嗣位すると、内園使・邠州都監に転じた。車駕が北巡する時、天雄軍都監・子城內巡検に改めた。時に北兵が充満し、道路が塞がれていたので、神祐に単騎で諸将に密旨を伝えるよう命じた。敵騎数百が忽然と至ったが、神祐は周囲に手を振り呼びかけ、伏兵を呼び集めるかのようにし、敵は恐れて逃げ去り、遂にその命を伝え届けた。間もなく邢州排陣都監を充て、西八作司を勾当した。景德初年、上(皇帝)が澶州に行幸した時、随駕壕砦を管領した。

三年、入内都知に遷った。東封(泰山封禅)に従って還ると、南作坊使に遷った。時に内侍が昇進する際、山に登った者・登らなかった者、あるいは従祀に預からなかった者があり、神祐にその勤務状況を等級付けさせ、上自ら閲覧して叙任・昇進させた。范守遜・皇甫文・史崇貴・張延訓らは、皆かつて譴責を受けたことがありながら互いに功労を陳述し、かつ神祐らの等級付けが不当であると言い、上に泣きついて訴え、止められてもまた来ること数度に及んだ。守遜らは先に内常侍に改官されていたが、上は怒り、悉くその官を停めた。神祐および石知顒・副都知張景宗・藍継宗は連座して官職を削られた。間もなく御厨を掌ること七年、卒去。享年六十六。大中祥符六年、その孫の永和を録用して三班奉職とした。神祐は性格が謹直で素朴であり、音律に通暁し、詩歌を好んだ。

子の懷岊は、太宗の時に嘗て道士となることを請い、後にまた内侍となった。多く辺境の郡に駐屯し、常に大鉄鞭を持って賊と戦い、屡々流れ矢に当たり、供奉官に至った。懷儼は内殿崇班となった。

劉承規

劉承規、字は大方、楚州山陽の人。父は延韜、内班都知。承規は、建隆年中に高班に補され、太宗が即位すると、超拜されて北作坊副使となった。時に泉帥の陳洪進が帰朝したので、承規を急行させてその府庫を封印させた。土民が嘯聚して寇賊となる事件が起こると、承規は知州の喬維岳と共に兵を率いてこれを討定した。太平興国四年、内衣庫使の張紹ら六人と共に師を率いて定州に駐屯し契丹に備えるよう命じられ、また滑州の黄河決壊を護った。雍熙年中、内蔵庫を勾当し皇城司を兼ね、出て鄜延路排陣都監となり、崇儀使に改め、洛苑使に遷った。至道年中、周瑩と共に提点樞密・宣徽諸房公事を簽書し、なお六宅使を加えられた。承規は懇ろに辞退し、帝は許さなかったがその退譲を嘉した。

真宗が立つと、瑩が宣徽使となり、承規に勝州刺史・簽書宣徽院公事を領させた。間もなく宣徽の事務を譲り、莊宅使を加えられた。咸平三年、北作坊使に遷った。時に辺境が未だ平穏でなく、天雄軍の城塁を修築する議があり、承規に命じて駅馬で計画させ、また内東門・崇政殿等諸門を提挙させ、宮苑使に遷った。上が承規に西方の事を諮問すると、環州木波鎮の戍兵を増やすことを請い、諸路の援軍とすべきとし、従われた。間もなく群牧司の勾当を兼ねた。

景德二年、李允則と共に河間に使いし、嘗て戦陣を経た等の場所の将兵の功労を査察した。この年、京師諸司庫務を提挙する官を置き、承規にこれを領させた。創設した局署は、多く規制を設けた。皇城使に改めた。林特・李溥と茶法の改革を議した。四年、三司が新たな税額が増加したと上言すると、承規は功労により昭州団練使を加領した。

大中祥符初年、泰山封禅を議すると、発運使を掌ることにより昭宣使・長州防禦使に遷った。玉清昭応宮を修築することになると、承規を副使とした。汾陰を祀る時、また運送を監督するよう命じられた。議者は京から河中まで、陸路では山が険しく、舟を用意すれば流れが急であると言ったが、承規は水運を決議し、凡そ百の供応物資は悉く平穏な流れで到達した。朝陵・東封及び今回は皆留まって大内を掌った。礼儀が成就すると、進秩すべきであったが、表を奉って致仕を求め、手詔で敦く勉め、なお七言詩を作って賜った。宣政使・応州観察使を拝した。

五年、病を理由に致仕を求めた。修宮使の丁謂が、承規が宮職を領し、その監督統轄に依っているので、その請願を許さないよう望み、ただ優詔を賜い、特に景福殿使の名を設けてこれを寵遇し、班位を客省使の上とした。なお新州観察使に改め、上は歌を作って賜った。承規は廉使の月俸を有司に返還したので、手詔で褒め称え、また殿使の俸給を定めてこれを給与した。本名は承珪であったが、久しい病で衰弱していたので、上は道家の易名して厄を度するという義を取って、珪を規に改めさせた。病が甚だしくなり、職務を解いて私第に還ることを請い、これを聴された。なお皇城の常務に上印する日には、内蔵庫に創製があれば、就いて相談することを許された。また再び表を奉って罷免を求め、官は検校太傅・左騎衛上將軍・安遠軍節度觀察留後のまま致仕した。七月に卒去。享年六十四。朝を廃し、左衛上將軍・鎮江軍節度を追贈し、諡を「忠粛」といった。

承規は三朝に仕え、精力に富むことで知られ、簿領の校勘を楽しみ、倦むことなく勤勉であった。内蔵を掌ること僅か三十年、検査は精緻周密で、行動は条式に著わされた。また権衡法を制定し、その語は『律暦志』にある。性格は沈毅で公に殉じ、深く倚信され、特に伺察を好み、人多くこれを畏れた。上は瑞命を崇め、祠祀を修め、宮観を飾るに、承規は悉く預かって聞いた。玉清昭応宮を造営するに当たり、特に精麗を極めた。屋室に少しでも規程に合わぬものがあれば、金碧の装飾が既に備わっていても、必ず壊して造り直し、有司は費用を計算することを敢えてしなかった。二聖殿に配饗の功臣を塑像するに当たり、特詔してその像を太宗の側に塑らせた。承規は事に遇うと時に寛恕を示すこともあり、鋳銭工がかつて本監の前後で銅を盗み地中に埋めた数千斤を訴えたが、承規は偽って受け入れず、密かに人を遣わして発掘させ官に還し、その罪を問わなかった。咸平年中、朱昂・杜鎬が館閣の書籍を編次し、銭若水が祖宗実録を修し、その後『冊府元亀』・国史を修し、及び編著讎校の事は、承規が悉く典領した。頗る儒学を好み、書を集めることを喜び、間接に文士に故実を質訪し、朝に名ある者は多く礼待され、あるいは密かに延薦した。

臥病してからはただ公家の務めを念じ、遺奏して贈賻詔葬を免ずることを求め、上は甚だ嗟惜し、内臣を遣わして鴻臚に喪を典せしめ、親しく祭文を作った。玉清昭応宮が完成すると、侍中を加贈し、内侍鄧守恩を遣わして墓に就き告祭させた。子の従愿は、西染院使となった。

閻承翰

閻承翰は、真定の人である。後周の顕徳年中に内侍となった。宋に入り太祖に仕え、謹愿をもって称された。太宗の時に擢て殿頭高品とされ、稍く遷って内侍供奉官・内殿崇班となった。先に、八作司の材木に頗る隠弊があったので、承翰は都城の西に事材場を置き、材木を治めてこれを供給することを建議した。雍熙年中、広州知事徐休復が転運使王延範の不軌の状を奏し、承翰を馳せ遣わして共に逮捕して獄に下し、就いてこれを鞫問させたが、拷掠が過酷であったため、延範は遂に誅に坐した。李順が蜀で乱を起こすと、川峡招安都監に任命された。賊が平定されると、西京作坊副使を授かった。金吾兵の増募に際し、承翰及び劉承蘊が左右金吾都監兼街仗司事を分充した。俄かにこれを罷めた。

真宗が即位すると、西京作坊使・内侍左班副都知に改めた。咸平三年、黄河が鄆州王陵埽で決壊し、承翰を遣わして塞護させた。時に鄆州を移転して河患を避けることを議し、また詔して承翰と工部郎中陳若拙に乗伝して規度させ、旧治の東南に移した。五年、入内都知韓守英が鎮・定・高陽関三路排陣都鈐轄となったが、上はその素より執守なきを以て、別に人を択ぶことを議し、因って宰相に謂って「承翰は武勇無きも、然れども事に涖み勤恪なり」と言った。乃ち守英に代わらせた。時に中山に屯兵甚だ衆く、飛輓に艱しく、承翰は渠を鑿ち、唐河水を嘉山から定州まで三十二里、又蒲陰東まで六十二里引き、沙河に合わして辺呉泊を経て界河に入れ、饋運を済まし、また傍ら方田と為すことを計上し、上は嘉して従った。渠が完成すると、人は便と為し、優詔してこれを褒めた。景德初年、契丹が順安軍を寇すことを謀り、承翰は詔を奉じて雄・の精兵を発し、荊嗣・張延と共に塁を築いてこれを防ぎ、俄かにまた徳清軍に詣でて城塁を重修することを規度させた。車駕が北征するに当たり、承翰は先に澶州北城におり、契丹兵が近しと奏し、河を渡らぬことを請うたが、上は聴かず、駕を促して浮橋を渡らせた。二年、廉州刺史を加領し、群牧司を勾当し、多く馬政を条上し、遂に群牧副使を兼ねた。時に契丹と好を結び、始めて国信司を置いて交聘の事を主とし、承翰を以てこれを領せしめ、多く規置した。

大中祥符初年、西京左蔵庫使に改め、夏州趙徳明加恩官告使を充てた。還朝し、浦洛河に館を置き、夏台の進奉使を待つことを請うたが、上は荒遠で労役を煩わすとして許さなかった。四年、内園使・左班都知に遷り、奨州団練使を領した。

西京左蔵庫副使趙守倫は久しく廄牧を典じ、この時に至りまた估馬を掌り、承翰と職任を聯ねたが、素より姻家であったが、相得ず、遂に各々訴訟し、並びに御史台に付された。承翰は群牧司の銭を擅用した罪に坐し、贖金三十斤に当たる;守倫は制に違いて估馬司を移した罪に坐し、居官を免ずるに当たる;典吏は杖脊に当たる。詔してその罰を寛め:承翰は贖金十斤、守倫は贖金二十斤、典吏もまた杖に降した。群牧都監張継能・判官陳越・田瑴・勾当騏驥院楊保用・估馬楊継凝は皆釈し、制置使陳堯叟は特免して按問しなかった。

六年、上は『内侍箴』を作ってこれを賜い、承翰は表を上して省中に刻石することを請うた。明年、応天府を建てて南京と為し、鴻慶宮を作り、太祖・太宗の像を設け、承翰を京より奉じて往かせた。南作坊使・入内都知を授かった。未だ幾ばくもせず、卒し、年六十八。懐州防禦使を贈られた。

承翰の性格は剛強で、至る所で過度に検査し、和懿の誉れに乏しかった。子の文応は、西京左蔵庫使となった。

秦翰

秦翰は、字を仲文といい、真定獲鹿の人である。十三歳で黄門となり、開宝年中に高品に遷った。太平興国四年、崔彦進が衆数万を領いて契丹を撃つに、翰は都監となり、善戦をもって知られた。太宗は因って賞異を加え、任に属すべきと謂った。雍熙年中、出でて瀛州駐泊となり、仍って先鋒事を管し、入内殿頭高品・鎮・定・高陽関三路排陣都監に遷った。淳化四年、入内押班を補した。

趙保忠が叛くと、命じて李継隆に師を率いて罪を問わせ、翰はその軍を監護した。延州に次ぐと、翰は保忠の遁逸を慮り、即ち駅を乗り先往し、矯詔して安撫してその陰計を緩めた。王師が至ると、翰はまた保忠を諷して地主の礼をもって郊迎させ、因って並び駆り出し、保忠は遂に就擒し、功により崇儀副使を加えられた。至道初年、霊・環・慶州・清遠軍四路都監となった。真宗が即位すると、洛苑使・入内副都知を加えられた。咸平年中、河朔で兵を用いるに、鎮・定・高陽関排陣都監と為し、莫州東で契丹を破り、数万を追斬し、掠めた老幼を尽く奪い返した。詔してこれを褒め、定州行営鈐轄に徙した。

王均の乱に際し、川峡招安巡検使となった。時に上官正と石普が協わず、翰は事を生ずるを恐れ、曉譬して和解させた。親しく衆を督いて賊を撃ち、流矢に中っても退かず、五戦五勝し、遂に益州を克ち、上は手札を以て労問した。翌日、進んで広都に至り、千余級を斬首し、数千匹の馬を獲た。帰朝し、内園使に遷り、恩州刺史を領した。

出でて鎮・定・高陽関前陣鈐轄となり、又後陣に徙った。威虜軍西で契丹二万の衆を破り、その鉄林大将等十五人を俘虜にした。又邠寧・涇原路鈐轄兼安撫都監となり、率いる所部を以て山外を按行し、戎落の酋帥を召し、恩信を以て諭し、凡そ三千余帳が相率いて内附した。未だ幾ばくもせず、康奴族が命に拒んだので、翰は陳興・許均と深く入り撃ち、数千級を斬り、その廬帳を焚き、牛馬を甚だ多く獲た。また陳興・曹瑋と共に武延咸泊川で童埋軍主を襲殺した。詔書を以て加奨し、錦袍・金帯・白金五百両・帛五百匹を賜った。

景德の初め、車駕(天子)が北巡しようとしたとき、先に周翰を駅伝に乗せて澶州・魏州へ派遣し、軍事の要諦を裁断させ、便宜を図ることを許した。まもなく邢洺路鈐轄を充て、大軍と徳清軍で合流し、掎角の勢いを張った。また召されて駕前西面排陣鈐轄となり、大陣を管勾した。周翰はただちに兵士を督励して城をめぐらせ、溝渠を浚って契丹を防いだ。工事が完了すると、契丹兵は果たして急に到来したが、周翰は七十余日の間、甲冑を脱がず、契丹が和を乞うと、凱旋して澶州に留まった。一月余りして、配下の兵を率いて京師に帰還するよう命じられ、宮苑使・入内都知を加えられた。出て涇・原・儀・渭鈐轄となった。これより先、西方の辺境には藩籬となる遮蔽がなかったが、周翰は要害を測量し、巨大な堀を穿ち、工事量三十万を計算し、数年をかけて兵卒を役して完成させ、民に煩わしさをかけなかった。そのまま皇城使・入内都知に昇進した。周翰が辺境に長く在り、力を尽くして勤勉であったため、特にこの官名を設けて寵遇したのである。周翰は上表して辞譲したが、聞き入れられなかった。

大中祥符の初め、東封(泰山封禅)に従うことを求めたが、手詔で西方の辺境を委任する事情の異なることを諭された。昭宣使に改め、また群牧副使となり、汾陰を祀った。この年、夏州の属戸に境上をかき乱す者があったので、即日に周翰を脽上に派遣して視察させ、辺境の各部をくまなく巡行させた。周翰が到着したとき、事態はすでに鎮静しており、再び扈従に戻り、行在所の諸司の細務をすべて裁決させ、中書の覆奏を必要としなかった。礼が終わると、平州団練使を加えられ、亳州で奉祀し、汾陰のときと同様に掌った。八年、大内を営繕するにあたり、詔して周翰にその事を参領させた。閏六月、内庭の官舎で急死した。六十四歳。上は大いに悼み惜しみ、そのために涙を流した。貝州観察使を追贈し、賻襚を一等加えた。内廷の修繕が終わると、詔して使者を遣わし、襲衣・金帯をその家に賜った。

周翰は倜儻として武力があり、方略を自ら任じた。前後の戦闘で、身に四十九の傷を受けた。李継遷がまだ帰順していなかったとき、周翰は使者としてしばしばその帳中に出入りし、疑われる隙がなかった。かつて太宗に言上して、「臣は一介の内官に過ぎず惜しむに足りませんが、この賊を手ずから刺し殺し、死んでも恨みはありません」と言った。太宗はその忠誠を深く賞賛した。

周翰の性格は温良で謙虚謹慎であり、人に接するには誠信をもってし、諸将帥の中に剛狠で不和な者がいても、周翰は皆その歓心を得た。財を軽んじて施しを好み、将士と休戚を共にし、衆心を得ることができ、皆喜んで彼に用いられた。その死に際しては、禁軍の中に涙を流す者があった。

九年、重ねて彰国軍節度使を追贈し、詔して楊億に碑文を撰させた。楊億は彼が財を蓄えなかったことを理由に、贈られた賻物を辞退する上表をした。朝廷は許さなかったが、当時の論議はこれを称賛した。子の懐志は、内殿崇班となった。

周懷政

周懷政は并州の人である。父の紹忠は、黄門として太宗に仕え、河東に従征し、乱屍の中から懐政を得て、養子とした。禁中に給事し、累進して入内高品となった。大中祥符の初め、真宗が東封するにあたり、行宮の頓遞を整備することを命じられた。また泰山の天書を奉じて駅伝で宮闕に馳せ参じ、殿頭に転じた。天書が宮中を出るたびに、皇甫継明とともに夾侍となった。東封の礼が成ると、内殿崇班康宗元とともに泰山に留まり、圜台を修築し、入内西頭供奉官に転じた。汾陰を祀り、東頭供奉官に転じた。六年、劉承規が卒すると、内殿崇班・入内押班・勾当皇城司に抜擢された。太清宮を朝謁することになり、閻承翰らとともに大内の事を管勾した。七年、天書を奉じて乾元殿に模刻し、刻玉都監となり、また兗州景霊宮・太極観の修築都監となり、まもなく内殿承制に遷った。この冬、起居舎人・知制誥盛度を会真宮醮告使とし、懐政を都監とした。還ると、玉清昭応宮都監を兼ね、景霊宮・会霊観使を掌った。刻玉が完成すると、如京副使に遷った。九年、資善堂を建て、懐政を都監とした。寿丘の宮観が完成すると、優詔で襲衣・金帯を賜り、崇儀使に遷った。天禧の大礼では、また修奉宝冊都監となり、長州刺史を加えられ、この冬、洛苑使に遷った。二年春、左蔵庫使に遷った。仁宗が皇太子となると、入内副都知・管勾左右春坊に命じられ、左騏驥使に転じた。三年、英州団練使を領し、昭宣使を加えられた。

懐政は日々内廷に侍し、権勢と任遇が特に盛んであった。そこで付和雷同する者が多く、しばしば事を言上して聞き入れられ、同列で位望が右にある者は、必ず排擠抑圧した。中外の帑庫をことごとく専ら取り立てることができ、そのため多くをその家に入れた。性格は凡庸で浅はかであり、妖妄を酷く信じた。朱能という者がいた。もと単州団練使田敏の下僕で、人となりは凶悪狡猾であり、懐政の親信に賄賂を贈って面会を得、侍卒の姚斌とともに神怪を妄談して懐政を惑わした。懐政は大いに惑わされ、朱能を引き立てて御薬使・階州刺史とした。まもなく終南山で道観を修築し、劉益の輩と符命を造作し、神の言葉に仮託して国家の吉凶や大臣の善悪を論じた。当時、寇準が永興を鎮守しており、朱能は巡検となり、寇準の旧来の声望に依拠して、その事を実証しようとした。寇準は勝ち気で、彼が自分に附くのを喜び、多くは依違した。

朝臣はしばしば懐政の虚妄を言上したが、真宗はこれを含み忍んで斥けず、しかし次第に遠ざけた。懐政は憂慮恐れ、ときどき小黄門を禁中から出させ、宣召と詐称して入内東門に入り、別室に座り、しばらくしてから戻り、同類を欺いた。ちょうど寇準が宰相となったが、一年余りで罷免され、懐政はますます譴責を受けることを畏れ、自ら安んじることができなかった。

四年七月、弟の礼賓副使懐信と謀り、ひそかに客省使楊崇勳・内殿承制楊懐吉・閤門祗候楊懐玉を皇城司に召し寄せ、二十五日に密かに挙兵し、丁謂らを殺し、再び寇準を宰相とし、真宗を太上皇として奉じ、太子に位を伝えることを期した。前夜、崇勳と懐吉が丁謂の邸に赴き密かにこれを告げた。丁謂は即夜、崇勳・懐吉とともに曹利用の邸に至り計議し、翌日、利用が入奏すると、真宗は怒り、懐政を収監するよう命じた。宣徽北院使曹瑋に命じて崇勳とともに御薬院で審問させると、ことごとく自白した。帝は承明殿に座して臨問したが、懐政はただ哀れみを乞うばかりであった。城西の普安寺で斬首するよう命じた。父の内殿承制紹忠および懐信はともに杖罰に処し復州・岳州に配流し、子・甥は官職を停止し、資産は没収された。朱能の父で左武衛將軍致仕の諤と母の周氏は、銅百斤を罰せられ、子の守昱・守吉は邵州・蔡州・道州に分配された。懐政の僕使・親従はともに杖罰に処し海島・遠州に配流し、部下の使臣はそれぞれ差等をもって貶秩された。懐政がまだ敗れる前、紹忠はかつて彼を罵って「首を斬られる小僧め、ついに我を累わすことになるぞ」と言い、懐信は彼に「兄の前の計画は必ず失敗します。早く上に詣でて自ら実情を申し上げ、軽い刑罰を得られるようにすべきです」と言った。その謀乱のときも、また泣いて拝してこれを止めたが、聞き入れられなかった。それゆえ皆、死を免れることができたのである。

右街僧録澄遠は妖詐に預かって聞いたことを理由に、決杖・黥面の上、郴州に配流された。内供奉官譚元吉・高品王徳信・高班胡允則・黄門楊允文は懐政とともに妖妄に協同したので、皆、杖罰に処し遠州に配流された。入内押班鄭志誠は朱能と書問を往来したので、二任を削られ、房州に配流された。入内供奉官石承慶はかつて懐政に召し寄せられ、夜の二更に皇城門の鍵を下ろさず待機したが、黄門黄守忠がこれを見て、門卒に納れるなと戒めた。この時になってその事を言上し、承慶は二任を削られ、宿州に配流された。楊懐玉は翌日になってようやく枢密院に赴き自ら申告したので、侍禁・杭州都監に責授された。崇勳を内客省使・桂州観察使に、懐吉を如京使に抜擢し、金帯・金銀を賜った。

周懐政が誅殺された後、朝廷は急ぎ入内供奉官の盧守明と鄧文慶を駅馬で永興に派遣し、朱能を捕らえさせた。劉益、李貴、康玉、唐信、道士の王先、張用和は皆死罪を免れ、遠州に流刑となった。朱能は使者の到来を探知し、鎧を着て出て、盧守明を殺害して反逆した。詔により内殿承制の江德明、入内供奉官の於德潤が兵を発してこれを捕らえることとなり、朱能は桑林に入って自縊死した。永興・乾耀都巡検供奉官の李興と本軍の十将張順が朱能とその子の首を斬って献上し、李興は閤門祗候に、張順は牢城都頭に補任された。劉益ら十一人が朱能と結託して中使を害したとして、市中で磔刑に処せられた。王先、李貴、唐信、張用和ら八人は皆斬首に処された。朱能の母・妻・子・弟は皆杖刑に処され流刑に配され、閤門祗候の穆介、知永興軍府事の朱巽、転運使の梅詢・劉楚、知鳳翔府事の臧奎らは周懐政・朱能と交結し互いに称揚推薦した罪に連座し、皆罪を論じられた。寇準は太常卿に降格され、さらに道州に貶謫された。朝廷の士人および永興・鳳翔の官吏で寇準と親交の厚かった者は、皆降格・左遷された。

張崇貴

張崇貴は真定の人である。太祖の時に内中高品となり、次第に昇進して殿頭となった。太平興国年間、弓術に優れていたため御帯に昇進した。銭俶が領土を献上した時、急ぎ派遣されて城防と物資の備蓄の数を点検した。親征して太原を攻めた時、崔彦進・李漢瓊に従い先発して水草を視察した。端拱初年、内供奉官に補任された。

淳化四年、駅馬で延州に赴き内附する羌戎を招撫するよう命じられ、官庫の銭を出して犒労し、金幣を酋長に賜った。出発に際し、内班右班押班に転じ、そのまま命を受けて鄜延の屯兵を管轄し、李継隆が李継遷を討伐する際、詔により張崇貴は延安の兵を率いて犄角の勢いで進軍討伐した。趙保忠が捕らえられた後、張崇貴と石覇を留めて綏州を守らせ、平夏の民を移住させて実地した。李継遷が橐駝路を扼し、内属する戎人を脅迫・駆使したため、張崇貴は田敏と共に熟倉族を率いて双塠で遭遇戦を挑み、二千余級を斬首し、牛羊・駱駝・鎧甲を多く掠奪し、詔を連ねて褒賞した。李継遷が漠中に逃れると、その将佐の趙光祚・張浦を遣わして降伏を求め、石堡砦で会見した。張崇貴は牛を屠り酒を漉いでこれを犒労し諭し、錦の袍帯を与えた。内班が黄門に改称された際、黄門右班押班に任じられ、引き続き内殿崇班を加官され、さらに黄門が内侍に改称されると、職務もそれに伴って変更された。その後、李継遷が駱駝・名馬を貢いで罪を待つと、張崇貴を派遣して器幣・茶薬・衣物を賜った。

至道元年、崇儀副使・内侍右班副都知に進んだ。当時、李継遷が再び叛き、浦洛河で糧秣を略奪した。二年、詔により李継隆が大軍を発して進討した。賊が霊州を急襲して包囲したため、太宗はこれを放棄しようとしたが、朝廷の議論は決まらず、張崇貴と馮納に駅馬で赴きその事を議するよう命じた。そこで兵を増やして固守することとし、そのまま霊・環・慶州、清遠軍路の監軍に任命され、さらに排陣都監となった。

真宗が即位すると、洛苑使・右班都知・管勾并州軍馬に任じられた。至道年間以後、五路で賊を討伐し、戦いが相次いだが、ついに成功しなかった。この時、趙保吉(李継遷)が再び貢ぎ物を修め、詔により定難節度使を彼に授け、張崇貴に詔命・衣帯・器幣を持たせて賜るよう命じた。使いから戻ると、六宅使を加官された。

咸平元年、再び鄜延の屯兵を管轄するよう命じられ、延安に駐屯し、駐泊都監に改められ、さらに鈐轄となった。その後、李継遷が再び熟戸の李継福と不和となり、これに乗じて内擾を起こしたため、張崇貴は張守恩と共にこれを撃ち、家屋を焼き、財貨・家畜・武器・鎧甲・捕虜を多く獲得した。また王栄と共に賊を防ぎ、具装馬数十匹を獲得し、再び詔で褒賞された。四年、詔により帰還した。まもなく奨州刺史を兼ね、再び鄜延に赴任し、引き続き沿辺の青白塩の事を制置した。衛超と共に軍を率いて敵境に入り、家屋・帳幕を焼き、蓄えられた糧食・牛羊を獲得し、再び詔で褒賞された。張崇貴はたびたび契丹の情報を探って伝達し、自ら一隊を率いて先鋒となることを願ったが、詔は許さなかった。

景德元年、趙保吉が死に、その子の徳明はまだ幼かった。張崇貴は文書を送って朝廷の恩信を諭し、徳明は喪が明けるのを待って命を承ると請うた。詔書で慰撫し、向敏中を縁辺安撫使とした。これより辺防の事柄は、経制の大小を問わず、全て張崇貴が専管した。保安の北十里余りに台を築き、戎人を召し会議し、彼らと盟約を結んだ。二年春、朝廷に召し出され方略を面授され、徳明に対し定難節度使・西平王を許し、金帛緡銭を各四万、茶二万斤を賜り、内陸の節度使の俸給を与え、回図(交易)の往来を許し、青塩の禁を解く、という五つの条件を示した。一方で徳明には霊州の領土を献納し、平夏にのみ居住し、子弟を入朝させ宿衛とし、略取した官吏を送還し、蕃漢の兵および質を全て解散し、封境の上で侵擾があれば朝廷の指示を仰ぐ、という七つの条件を命じた。徳明は全て約束に従ったが、子弟を入質させることと霊州を献納することは難色を示したため、塩の禁も従来通りとし、回図を許さなかった。

三年九月、徳明の誓表が届けられると、張崇貴はこれにより入朝を請い、許された。功により皇城使・内侍左右班都知に任じられ、誠州団練使を兼ねた。また旌節誥命を持って徳明に授ける使いとなり、太常博士の趙湘がその副使となった。四年、使いから戻ると、ちょうど皇帝が陵墓に参詣し、瓊林苑に滞在していたため、張崇貴は苑中で応対し、そのまま行宮使に任命された。この秋、再び延安に戻った。供奉官の曹信が当時辺境の軍を監察していたが、曹信は琴に優れていた。張崇貴と石普が軍中で宴会を開いた時、曹信に演奏を命じたが、曹信は長く廃れていると辞退した。張崇貴と石普はそこで彼の他の過失を摘まんで上奏したが、真宗はそれが誣告であると知り、問わなかった。大中祥符元年、昭宣使を加官された。

張崇貴は長く辺境に在り、羌戎の真偽をよく見分け、西方の人々は畏服した。徳明が何か述べたり、境上で侵擾があれば、皆まず張崇貴に裁断を委ねた。夏州から辺境に至るには二つの道があり、環慶に送られる文書は、全て延州に付して議させた。かつて縁辺安撫使を設置するよう請うたが、北面の制度のようであった。皇帝は言った、「西方の辺境では別に経営することはない。もし徳明が富貴を守ることができれば、朝廷が恩信を失うことを憂うるには及ばない。官署を増設するのは、ただ騒ぎ立てるだけで、卿に委ねて静かに制するに如かぬ」。二年、長く郷里を離れていることを述べ、告帰して父母を葬ることを願った。許され、賜与は甚だ厚かった。再び都鈐轄に任命され、榷場を提挙した。張崇貴は京師に留まることを乞い、委嘱の意を面諭され、年に一度入朝して奏事することを許された。四年八月、卒去した。五十七歳であった。帝は悼惜し、豊州観察使を追贈し、内侍に喪を護送させて京師に還した。子の承素は、東染院副使である。

張継能

張継能は字を守拙といい、并州太原の人である。父の張贊は、晋の末年に内班となった。張継能は、建隆初年に黄門として禁中に仕え、太平興国初年に内品となった。河東征伐に従軍し、城南の洞屋を主管するよう命じられ、労により高品に昇進した。契丹が侵入すると、高陽・鎮・定路先鋒都監に命じられ、崔彦進に従って長城口で戦い、多くの捕虜と首級を獲た。翌年、また崔彦進と共に唐興口で契丹を破り、殿頭高品に転じた。

雍熙年間、夏州が叛命すると、李継隆を銀州・夏州都部署とし、継能を監軍とした。まもなく定州の屯兵を護衛して移り、ぎょう捷の卒三千を率い、五回嶺に駐屯した。端拱初年、入内殿頭に遷り、趙保忠に従って李継遷を討った。保忠はその才能を推薦し、保忠とともにその事を経略するよう命じられた。代わって還り、内弓箭庫を掌った。淳化三年、白承睿とともに芻粟を護衛して霊武に入る。時に継遷が再び辺境を寇すと、継能・承睿と霊州知州侯延広に命じて驍卒五千を率い、ともに軍務を主とし、まもなく留まって本州都監となった。鄭文宝が威州・清遠軍を城するを議すると、継能はその役を護った。工事が終わると、西京作坊副使張延州とともに軍事を同知し、また田紹斌とともに積石砦を掌った。内供奉官・霊環慶・清遠軍後陣都監に就いて遷り、西人と転戦し、これを敗走させた。再び清遠に還る。闕に詣でて事を奏し、内殿崇班に遷った。まもなく、供備庫副使を拝し、また環州の屯兵を護衛して遣わされ、涇州・原州・儀州・渭州都巡検使に移った。

真宗が即位すると、崇儀使・霊州・環州十州軍兵馬都監兼巡検安撫使に遷った。咸平三年、王均の乱が起こると、川峡両路招安巡検使に命じられた。成都が平定されると、留まって利州招安巡検となり、まもなく召し還された。時に銀州・夏州の寇警があり、また邠寧駐泊都監となった。夏人が清遠軍を寇し、積石河に営すると、継能は楊瓊・馮守規とともに慶州で逗留し、時に赴いて援けず、城堡を陥落させ、また青岡砦を焼き棄てたため、特詔を下して御史府に付し、死を免じて長流で儋州に流された。景德二年、赦に会い、還って内侍省内常侍となり、また陝西捕賊巡検となり、千余人を獲て、内殿崇班に改めた。陵に朝するに従い、行宮四面巡検となった。

四年、宜州の卒陳進が乱を為す。初め、知州劉永規が下を馭するに厳酷で、澄海の卒に木を伐って州廨を葺くことを課し、数回で程に中らなければ即ちこれを杖ち、妻孥を率いて山林に趣き採る者があるほどで、甚だ風雨であってもその役を停めなかった。故に進は衆の怨みに因り、永規及び監軍国鈞を殺し、判官盧成均を擁して帥とし、その城を拠った。

七月、奏が至ると、詔して東上閤門使忠州刺史曹利用・供備庫使賀州刺史張煦を広南東・西路安撫使とし、如京副使張従古及び継能をその副とし、虞部員外郎薛顔を同勾当転運事とし、荊湖蘄黄州の兵を発してこれを討たしめた。上は近臣に語って曰く、「番禺は宝貨雄富なり、賊若し驍果を募り、謀主を立て、流れに沿って東下し広州に趣かば、則ち患い深からん」。内侍高品周文質を遣わして広州に使わし、屯兵を監し、隣路の巡検使に会して要路を控えさせ、東西の海戦棹を集め、端州峡口を扼させた。賊は衆を悉くして来たり柳城県を攻め、殿直韓明・許貴・郝惟和が所部の兵千余をもって敵を禦いだが、明・貴はこれに死し、惟和は僅かに身を免れ、成均は宜州の印を奉じて使を舒賁に詣でさせて罪を赦すを求めた。この夕、進はまた柳城を陥とし、官軍は退いて象州を保った。賊はまた懐遠軍を寇し、知軍殿直任吉と邕桂巡検・殿直張崇宝・侍禁張守栄がこれを撃ち走らせた。賊は退きてまた集まること累日、吉らは固守し、屡々とこれと闘い、大いにその器甲を獲た。また天河砦を攻めると、砦兵は甚だ少なかったが、監軍奉職銭吉の部分厳整にして、一戦にしてこれを敗った。賊衆は屡々衄き、頗る潰走し、衆心携貳し、宜州を棄てんとし、家属の悼耄なる者五百人を江中に隕し、その衆裁三千を率いて柳州・象州に趣き、容管に入らんとした。初めて柳州に至り、江に限られて渡ることができなかった。知州王昱は賊を望んで遁走し、城遂に陥った。

朝廷は詔書四十分を以て要路に掲げ、賊に諭して帰順する者は悉くその罪を釈す。賊は族を挈いて思順州に居り、兵を分かち象州を攻む。利用は命じて入内高班于徳潤に千兵を以て倍道して襲逐せしめ、利用らは継いて至り、賊に武仙県の李練舗で遇う。賊は初め知覚せず、惟だ進が衆を率いて来たり拒ぎ、直ちに前軍を犯す。前軍の寄班侍班郭志言は騎士を麾して左右より縦撃す。賊は順水甲を衣、標牌を執して進み、飛矢鋒を攢えても却くることができず、前軍は即ち棹刀巨斧を以てその牌を破り、史崇貴は山に登り大呼して曰く、「賊走る矣、急ぎこれを殺せ!」賊心動き、衆遂に潰えた。北に逐って象州城下に至る。賊砦にはなお長竿に拠り城中を瞰る者あり、成均は始めてその族を挈き詔書を以て来降し、乃ち進を斬りその党を並べ、賊帥六十余人を生擒し、首級を斬り、器甲戦馬を獲ること甚だ衆し。

利用は兵を分かち余寇を捕え、于徳潤を遣わして馳せてその事を奏せしめた。利用を引進使に授け、煦を如京使とし、従古を庄宅副使とし、継能を供備庫使とし、志言を供備庫使とした。また御前忠佐馬歩軍副都軍頭郭全豊を以て都軍頭とし、勤州刺史を領せしめた。帰遠軍士で手ずから進を殺した者李昊・劉宗・趙敏を並び本軍都頭に補し、張守栄を供奉官・閤門祗候とし、張崇宝・任吉を並び供奉官とし、銭吉を右侍禁とした。また象州知州大理寺丞何邴が最も労ありとし、優に祠部員外郎を拝し、緋を賜った。また邴の三子知道・知古・知常に出身を賜い、邴の親属で同しく寇を扞した者を悉く甄叙した。象州を昇めて防禦使とした。

初め、賊が象州を攻むるに、城は高丘の上にあり、素より井なく、壘を閉ずるの日、皆以て水の乏しきを慮う。天雨に頼り、停水将に竭きんとして雨また下り、是の如きこと両月、汲みて以て済う。山中に烽候なく、毎に賊を破らんと欲すれば、即ち城西の神祠に禱り、或いは巨蟒の亀を吞むを見る。是の日果たして克獲あり、衆以て神霊の順を助くるの応と為す。張守栄は俄かに瘴に病み、尚医を遣わして馳せ往きてこれを視せしむるも、未だ至らざるに卒す。如京使を贈り、その子に官を録す。十二月、余寇悉く平ぐ。

東封に、継能を留めて京旧城内巡検鈐轄とし、俄かに東染院使を加う。

大中祥符二年、入内都知李神祐らが事に坐して悉く罷められ、継能を擢て入内内侍省副都知とした。時に宗室多く召して侍講説書せしめ、上はその勤学を嘉し、講誦する日に別に公膳を給し、専ら継能を遣わしてこれを主とせしめた。俄かにまた内殿承制岑保正とともに郡県主諸院事を提点す。三年、群牧都監を兼ぬ。汾陰を祀り、大内を掌り兼ねて旧城内巡検鈐轄を留め、俄かに会州刺史を領す。太清宮に謁し、天書扶侍都監となる。七年、疾を以て職を解くを求むるも、許さず。涇原儀渭・鎮戎軍両路鈐轄を命ず。未だ幾ばくもせず、鄜延都鈐轄に移る。先に、内属戸が漢口を殺す者は止めて孳畜を罰するも、継能は則ち常法に麗す。ここにより西人は畏れて敢えて犯さず。徳明は朝命を受くといえども、羌部は絶えず境を寇す。継能は日々卒に課して竹を截りて簽と為し、その上に字を署し、かつ将士の記して殺獲の功状を備うるを以てすと言う。賊これを聞き甚だ懼る。帰朝し、また群牧に涖る。仁宗儲宮に在りしとき、嘗て親しく一幅を書いてこれを賜う。継能は以て聞く、真宗もまたその末を標題す。人以って栄と為す。九年、前に庄穆皇后陵を護修して摧陷せしめしに坐し、左授して西染院使とし、往来国信を掌らしむ。

天禧初年、再び西京左蔵庫使となる。国信司の吏である陳誠という者は、頗る巧みで狡猾であり、継能は彼を群牧司に引き入れようとしたが、陳誠は先に群牧司に所属しており、事に坐して停職となっていた。この時、群牧司の吏である左宗が彼の旧債を抉り出し、制置使曹利用に報告したため、陳誠は求めていた職を得られなかった。継能は左宗が自分を阻んだことを怒り、密かに親事卒を遣わして左宗を探らせた。折しも左宗の弟である左元が妻を喪い、左宗はかつて敦駿軍校の馬を借りて葬送に用いたが、帰還の際、左元が酒肆に立ち寄り酒保と殴り合い、府中に拘束され、馬を借りた事はまだ発覚していなかった。陳誠は即座に継能に報告し、府に属してこの事を併せて弾劾するよう請うた。知府の楽黄目が嘱託を受け、獄が未だ決せぬうちに、群牧副使の楊崇勳に発覚し、継能は内職を罷免される罪に坐し、西京作坊使に降授され、邠寧鈐轄として出向した。継能は自ら外任を望まないと陳述し、瑞聖園を掌ることを得、まもなく往来国信所を領した。三年、再び西京左蔵庫使・内侍右班副都知となる。間もなく、崇儀使に遷り、衰老を理由に職の解任を求め、内園使に転じ、瓊林苑を掌った。五年、卒去。六十五歳。特に汀州団練使を追贈され、その子の懐忠を大理寺丞に、孫の逖を三班奉職に、遜を借職・春坊祗候に録した。

継能の性格は沈密で兵事に通じ、頗る勇敢であり、読書を好んだが、生計を営むことを好んだ。晚年は蓄財に急であり、人々はこれをもって彼を軽んじた。

何邴は後に帰朝し、磁州の知州となり卒去した。一子の知崇は十余歳に満たず、特に太廟齋郎に補された。またその甥で平夷尉の知古を滏陽尉に転任させた。省郎には賞延の例はなかったが、なお城を守った功労により、故に選び録したのである。

衛紹欽

衛紹欽は開封の人である。父の漢超は内侍高品であった。紹欽は初め中黄門として晋邸に給事し、太宗が即位すると、入内高品に補され、甚だ親信された。太原征伐に従い、諸将を督いて城を攻めさせた。劉継元が降伏すると、驍卒を率いて先に城に入り、その営柵を焼くことを命じられ、殿頭高品に遷った。雍熙二年、入内西頭供奉官に抜擢された。淳化年間、皇城の修築を部し、工事が完了すると、入内押班を授かった。五年、崇儀副使を加えられた。

李順の乱に際し、王師が討伐に赴くと、王継恩と共に招安捉賊事を領し、賊に遭遇し、学射山の南で戦った。また清水埧を攻め、双流砦を破り、数万の衆を招降し、千余級を斬った。李順が死ぬと、余党が険要な地に拠って寇と為り、また楊瓊と共に先んじて要路を扼してこれを邀え撃ち、万余人を擒斬し、器甲・槍槊千を獲た。別将の曹習を遣わして兵を率い安国鎮で余賊を捕らえさせ、三百級を斬った。当時、嘉州・眉州の二州の賊はなお城郭を擾していたため、また内殿崇班の宿翰を遣わしてこれを討たせた。両川が平定されると、召還され、深く褒労された。

真宗が嗣位すると、宮苑使に拝され、愛州刺史を領し、入内副都知・修奉永熙陵都監を充て、陵が完成すると、即座に陵使となった。景德二年、皇城使に改めた。河朔に幸するに従い、車駕前後行宮四面都巡検に任じられた。澶淵に至り、扈駕兵を率いて河橋を守ることを命じられた。三年、昭宣使を加えられた。諸陵に朝する際、再び行宮巡検となった。洛陽らくように駐蹕し、皇城内外都巡検に任じられた。三班院・皇城儀鸞翰林司を歴任して掌った。卒去。五十六歳。

紹欽は苛酷で剛愎、恩恵に乏しく、衆に附かれなかった。太平興国年間、江東の僧が闕下に詣でて天台寿昌寺の修復を請い、かつ寺が完成したら焚身して報いんと願った。太宗はその請いを允し、紹欽に往って営繕を監督させた。工事が完了すると、急いで庭に薪を積み、僧が願った通りにするよう請うた。僧は至尊に面して謝したいと言ったが、紹欽は「昨日朝辞の日、親しく徳音を奉じた。謝するに煩わすには及ばぬ」と言った。僧は恐れ慄き、ぐずぐずし、道俗を見回して救う者を望んだが、紹欽は即座に促して薪の上に登らせ、火が盛んになると、僧は飛び降りようとしたが、紹欽は左右の者を遣わし叉で押さえつけて焚き殺した。子の承慶は、内殿承制に至った。

石知顒

石知顒は真定の人である。曾祖父の承渥は、梁の尚食使であった。祖父の守忠は、晋の内供奉官であった。父の希鐸は、高品であった。

知顒は体つきが甚だ雄偉であり、建隆年間に内中高品を授かった。太宗が即位すると、供奉官に改めた。雍熙年間、諸将が幽薊を征討するに際し、知顒を随軍させた。帰還後、儀鸞司を掌った。

淳化年間、明州に初めて市舶司を設置し、蕃商と貿易するに当たり、知顒を往ってこれを経制させた。内殿崇班・親王諸宮都監に転じた。王継恩に従って蜀の寇を平定し、そのまま西京作坊副使に遷った。

咸平初年、正使・帯御器械に遷った。契丹が辺境を侵犯すると、上は北巡し、天雄軍・澶州巡検使に任じ、まもなく徳州・博州等の河沿いの巡検使兼安撫に改め、長州刺史を加領した。三年、鎮州・定州・高陽関の三路に戍守し、大陣を押さえた。この冬、高陽関駐泊行営鈐轄に改めた。帰朝し、再び親王諸宮の事を掌った。景德年間、京から泗州に至るまで、人夫を遣わして河堤を修治し、その役を総轄することを命じられた。初め工期を数ヶ月と見積もっていたが、この時は十日で完了した。上は面して褒諭を加え、白金千両を賜い、入内都知を授かった。

大中祥符初年、内園使に遷った。まもなく内侍の遷秩品第を定めるのに不当があったとして、同列者に誣告され、都知を罷免される罪に坐した。三年、幷州・代州鈐轄となり、莊宅使に遷り、鎮州・定州・高陽関鈐轄に転じた。四年、内殿崇班の張継能・供奉官の侍其旭と共に太祖神御殿を修することを命じられた。上封して闕下に参謁を求め、再び群牧司・三班院・親王諸宮の事を掌った。

天禧二年、幷州・代州鈐轄兼管勾麟府路軍馬事となった。三年、卒去。六十九歳。孫に全彬がいる。

孫全彬

全彬、字は長卿、知顒の奏補により入内小黄門に補せられ、累遷して西頭供奉官となる。仁宗、香幣を南海に致すことを命じ、密詔して過ぐる所の州県の吏治・民俗を察せしめ、還りて具に以て対えしむ。帝、忠謹なりと為す。陝右の群盗、鳳州巡検を殺す。遣わして往きて之を擒滅せしむ。

元昊叛く。全彬、鄜州の兵を監し延州を救い、囲みを解きて去る。経略使明鎬、其の勇略将を善くし、辺人の情を得たりと言う。幷・代州都監を除し、内侍押班を加う。鈐轄に進み、鄜延に徙り、還りて押班と為る。

儂智高、広南を寇す。以て湖南・江西路安撫副使と為す。桂林に出で、宣撫使狄青に請い、願わくば独り一隊を当てて以て自ら効わんとす。ここに於いて左方の兵を将うることを使わしめ、邕州に於いて力戦す。南方平ぐ。綿州防禦使を領す。

張貴妃、寧華殿閣に居る。命じて全彬に提挙せしむ。妃薨ず。喪を治むるに制を過ぐ。皆劉沆・王洙と全彬と共に之を為す。数月、宮苑使・利州観察使に進み、両使留後の俸を給す。俄かに入内副都知と為る。制誥劉敞、詞命を封じて還す。三月居りて、復た之を授く。転じて信武軍留後を領し、永昭陵鈐轄と為る。時に永定陵復土より四十二年、有司多く其の籍を亡う。全彬、心計を以て治め辨ず。福延宮使に遷り、奉先院を提点す。

熙寧中、卒す。年七十六。太尉・定武軍節度使を贈られ、諡して「恭僖」と曰う。

鄧守恩

鄧守恩、并州の人。十歳にして黄門を以て太宗に事う。淳化中、盗、成都に起こる。王継恩に従いて往きて之を討つ。至道初、就いて西蜀の屯兵を護る。咸平初、入内高班と為る。契丹寇す。石保吉を鎮・定都部署と為し、守恩を以て都監と為す。年を踰えて、入りて騏驥院を掌る。会に龍騎の叛卒、環・慶を剽劫す。守恩を遣わして之を擒翦せしむ。景德初、澶・濮都巡検と為る。又た環・慶及び戎・瀘等州に使い、辺事を巡察せしむ。

大中祥符初、濮州に於いて獄を按じ、冤人十余を雪ぐ。玉清昭応宮・会霊観の監修に預かる。七年、又た真遊殿・景霊宮の修に兼ねて預かる。累遷して入内高品・供奉官と為る。宮成る。内殿承制に遷る。八年、大内の修に預かり、西京作坊副使に改む。九年、営造皆畢る。東染院使を授け、会霊観都監を充てる。

天禧二年、軍頭引見司を掌る。又た祥源観の修成る。崇儀使に遷る。三年、入内押班を授く。河、滑州に決す。命じて修河鈐轄と為す。郊祀、召して行宮使と為し、如京使に改め、復た本任に還る。四年春、河故道に復す。文思院使に遷る。朝に帰り、昭州刺史を領することを加う。是の秋、皇城・国信の二司を掌り、禁衛を整肅し、入内副都知に遷る。会に天章閣を建つ。命じて其の事を領せしむ。又た資善堂を勾当し、太子左右春坊司を兼ぬ。

守恩、長さ七尺余、状貌甚だ偉く、事に涖み幹敏にして、強果を以て時に称せらる。五年、卒す。年四十八。淄州防禦使を贈られる。其の子を録して官す。