宋史

列傳第二百二十四 外戚下 孟忠厚 韋淵 錢忱 邢煥 潘永思 呉益弟:蓋 益子:琚 李道 鄭興裔 楊次山

孟忠厚

孟忠厚、字は仁仲、隆祐太后の兄、追封咸寧郡王彦弼の子なり。后が瑤華宮に退居し、哲宗の恩眷衰えず、故に忠厚は以て仕進を得たり。宣和中、官は将作少監に至る。靖康元年、海州を知り、召されて衛尉卿を権む。金人城を囲み、後宮火災あり、出でて忠厚の家に居す、これにより北遷を免る。金兵退き、張邦昌后を迎えて聴政せしむ、后忠厚を遣わし書を持ちて康王に遺わす。王即位し、将に后を迎えんとし、忠厚に徽猷閣待制を授け、一行事務を提挙せしめ、尋いで兼ねて奉迎太廟神主事を幹辦せしむ。

帝揚州に幸す、顕謨閣直学士を除す、台諫交章して論列す、帝太后の故を以て、之を難しとす。后聞き、即ち命して武秩に易えしむ、遂に常徳軍承宣使を授け、皇城司を幹辦せしむ。未だ幾ばず、太后に奉じて杭州に幸す。苗傅の乱平ぎ、趙鼎張浚に謂ひて曰く、「太后復辟、其の功甚だ大なり、当に外家に恩を推すべし」と。浚乃ち奏す忠厚を寧遠軍節度使とす。尋いで太后に奉じて南昌に幸し、帰りて越に至り、母憂を以て職を解く。

頃くして、后崩ず、祔廟の恩を以て、起復して鎮潼軍節度使、開府儀同三司とす。及び后の大祥に、信安郡王に封ぜられ、礼儀使を充て、太后の神御に奉じて温州に幸す。紹興九年、鎮江府を判じ、明州判に改め安撫使を兼ね、婺州判に改む。既にして帝太后の攢宮会稽に在るを以て、乃ち忠厚に命じて紹興府を判せしめ、兼ねて修奉攢宮事をせしめ、少保を加ふ。三梓宮帰り、迎護使を充てる。及び佑陵を営むに、秦檜当に総護使と為るべし、往くを憚り、乃ち忠厚に枢密使を除して以て其の行に代わらしむ。檜と忠厚は僚婿なり、然れども心実に之を忌む。山陵の事畢り、忠厚枢密府に帰らんと欲す、檜言路に諷して故事を引き論列せしむ、遂に福州を判ず。

時に海寇猖獗す、帝忠厚其の患を弭ぐこと能はざるを憂ひ、建康府判に改め、又紹興府判に改む。会に郊赦有りて恩を加ふ、謝表に「本時才無く、出でて世用と為る」の語有り。中丞詹大方檜の意に希ひ、忠厚の表辞軽侮を論じ、今日与に為す有るに足らずと謂ふ、遂に罷めて醴泉観使と為す。檜死し、召されて行在に還り、保寧軍節度使、平江府判を授け、再び紹興府判に改め、闕を過ぎて入見し、復た詔して万寿観使を充て、秘書省を提挙せしむ。二十七年、卒す、太保を贈らる。

忠厚昭聖太后の訓を奉じ、権勢を避け遠ざかり、敢えて私を以て朝廷に干せず。明受の変に、太后簾を垂れ、忠厚本家の恩沢を裁節を乞ひ、もし夤縁有らば、三省をして執奏せしむ。御史秦檜の国に当り、親姻扳援を以て進むを劾す、忠厚独り之と忤ふ。越より入見し、善くする所の王銍に語りて曰く、「忠厚檜と雖も親好有り、毎に疑心を懐く、今一の時忌を傷へざる対劄を求めんと欲す」と。銍之に教ふ、但だ提挙学事を免ぜんことを乞ふのみと、然れども亦見廃せらる。帝太后擁佑の功を以て、故に忠厚を眷すること特優なり。后瑤華に在ること三十年、恩沢未だ嘗て陳請せず、詔して忠厚に田三十頃を賜ひて以て之を賞す。既に内祠を奉じ、金使至る、特命して押班せしめ、且つ月に局を過ぐるを令し、宰執の例の如くす。及び卒す、三子皆直秘閣を除せられ、親属六人各一官を進む。

韋淵

韋淵、顕仁太后の季弟なり。靖康末、官は拱衛大夫、忠州防禦使、勾当軍頭引見司に至る。金人退き、張邦昌淵を遣わし書を持ちて康王に济南に於て遺わす。王即位し、親衛大夫、寧州観察使、知東上閤門事に遷す、言ふ「横行五司未だ元豊の旧制に遵はず、乞ふ並びに引進司を客省に帰し、東、西上閤門を合して一と為し、以て冗費を省くべし」と。之に従ふ。遂に命して同管客省、四方館、閤門事とす。

淵性暴横にして、法度に循はず、帝其の過有るを慮り、行法に難しとし、遂に福建路副総管に遷す。淵疾を引き祠を丐ふ、之を許す。淵乃ち言ふ、宣和より今に及び、十二年未だ嘗て磨勘せず、秩を遷さんことを乞ふと。吏部言ふ、法に在りて、横行に年労を以て磨勘する無しと、帝遂に許さず。久しくして、階官を落とし、徳慶軍節度使を除す。召されて行在に赴き、開府儀同三司を除す。会に建康軍帥辺順疾篤し、留守呂頤浩淵を以て代はらんと奏す、帝戚里を以て軍を管せしむるを欲せず、許さず。淵恩数を陳乞す、帝太后家の故例を詢ね、田五十頃、房緡銭日二十千を賜ふ。帝久しく淵に官を与へず、太后将に入境せんと聞き、乃ち平楽郡王に封じ、境上に於て逆はしむ。既に后に従ひて帰り、即ち致仕を令す。又た詔して奉朝請とし、少師に遷す。淵内に在りて逞ふるを得ず、致仕を乞ひ、任便居住せしむ。之に従ふ。

未だ幾ばず、帝其の外に於て肆横せんことを恐れ、復た詔して致仕を落とし、賜第に還り居らしむ。太后景霊宮に朝す、淵后に見え、出でて言を詆毀す、詔して侍御史余堯弼に其の家に即き鞫治せしむ、淵具に誣罔を伏す、責めて寧遠軍節度副使、袁州安置を授く。数年して故職に復し、累遷して太保、太傅に至る。卒す、太師を贈らる。子三人:訊、謙、讜。

訊、紹興中、官は達州刺史に至り、過ちに坐し、太后の旨を用ひて武徳郎に降し、嶺外の監当とす。謙、学を好み詩能くす、官は建康軍節度使に至る。

孫 璞

謙の子璞、淳熙末、仕えて太府少卿に至る。高宗崩じ、擢て司農少卿と為し、金国告哀使と為る。金主宴を錫ふ、其の館使楽を用ひんと欲す、璞不可とす、朝より夜漏下三十刻に至るまで、金人奪ふこと能はず。及び入見するに、其の閤門璞に吉服を以て入るを令す、璞又た不可とす。日将に中らんとす、乃ち凶服を以て見ゆ。紹熙初、煥章閣を除す、論者以て祖宗の旧制に非ずと為す、遂に換授して明州観察使と為し、十年遷らず。寧宗其の恬退を嘉し、清遠軍節度使を授け、致仕せしむ。卒す、太尉を贈らる。

錢忱

錢忱、字は伯誠、呉越王俶の五世孫。父は景臻、仁宗の第十女秦魯国大長公主をめとり、忱を生む。神宗は命じて名を賜い、莊宅副使・騎都尉に除す。

帝嘗て景臻に諭して曰く、「主賢し、子有るに宜しく、嘉配を択ぶべし」と。唐介の孫女を娶り、又晁迥の外孫なり。忱は二家に従い遊び、伯父勰の翰苑に在るに因り、以て一時の名卿を識るを得たり。

哲宗之を愛し、常に左右に侍せしむ。徽宗八寶の恩をおよぼし、邕州觀察使と為し、武寧軍觀察留後に遷る。其の靖共を喜び、瀘州節度使を除す。欽宗は檢校少保を加え、尋いで節を納む。高宗立ち、復た檢校少保・瀘川節度使・中太一宮使を拝し、御書「忠孝之家」の四字を之に賜い、開府儀同三司に進む。紹興十五年、秦魯主の喪終わるを以て、少保を除し、榮國公に封ず。三十年、少師に遷り、なお舊節、致仕し、真奉を給す。明年卒す、年八十餘、太師を贈らる。子端禮、自ら傳有り。

邢煥

邢煥、字は文仲、開封の人。父の任に以て調ととのへられ孟州汜水縣主簿と為り、在京藥局・平準務・茶場を監し、勞に以て宣德郎・莫州司錄に改む。移りて開封府陽武縣を知り、都大提舉開德・大名府堤埽と為る。歴て開封府士・工・儀曹。

詔して其の女を納れて康王妃と為す。靖康初、亳州明道宮を主管す。王即位し、右文殿修撰に升り、徽猷閣待制に進む。諫議大夫衛膚敏言す、后の父は從臣に班すべからずと、遂に光州觀察使に改め、樞密都承旨を除す。煥屢しばしば馬伸の言事切當なるを奏し、宗澤の忠勞倚る可きを奏し、黃潛善・汪伯彥の國を誤るを奏す、其の言多く裨益有る所なり。

保靜軍承宣使に遷る。苗・劉の變、煥自らはかり争ふ能はざるを、乃ち病を以て免ず。兼ねて萬壽觀を提舉し、去るを求めてまず、江州太平觀に改め、遂に忠州に徙居す。

紹興二年、入對し、はじめに川・陝の形勢利害を陳べ、荊南に幸するを請ひ、兵を分ち以て恢復を圖らしむ、凡そ數百言、帝甚だ之を嘉す。復た以て都承旨と為さんとす、疾を引きて拝せず。慶遠軍節度使・提舉洞霄宮にぐ。

煥學にわたり文有り、節儉自ら持し、未だ嘗て恩私に恃みて請ふこと有らず、識者は之を取る。是の年、卒す、開府儀同三司を贈らる、諡して「恭簡」と曰ふ、少師を加贈し、嘉國公を追封す。

潘永思

潘永思、賢妃の叔父なり。妃初め進封せらる、詔して梁師成の第を以て永思に賜ふ。建炎初、閤門宣贊舍人・帶御器械と為る。

元祐太后虔に在り、帝永思を遣わして迎え帰らしむ、權三省・樞密事。盧益頗る之と交結し、諫官吳表臣の論ずる所と為り、范宗尹永思を出だすを請ふ、帝曰く、「未だ可からず、姑く祿を罷めて以て之を困し、悔過を知らしむべし」と。遂に職を奪ふ。既にして辛企宗言ふ、永思嘗て魔賊を捕ふる功有りと、復た帶御器械と為る。

未だばからず、大理推治偽告す、事永思に連なり、帝曰く、「永思戚里と雖も、既に過有らば、安んぞ法を廢せんや!」と。乃ち職を罷めて就逮せしむ。獄成り、一官を追ふ。尋いで復た閤門宣贊舍人と為り、同知閤門事に遷る。永思飧錢の増給を乞ふ、戶部其の格法に應ぜざるを言ふ、乃ち止む。紹興八年、右武郎より擢て右武大夫・知閤門事と為り、尋いで卒す。

吳益

吳益は字を叔謙といい、吳蓋は字を叔平といい、ともに憲聖皇后の弟である。益は、建炎の末年に恩蔭により官に補せられ、累遷して幹辦御輦院・帯御器械となった。蓋は、紹興五年に恩蔭により官に補せられ、累遷して宣贊舍人となった。帝と后はともに書画を好まれたので、益・蓋兄弟も師法し、また書の名があった。后が冊立を受けると、推恩があり、益は成州団練使を加えられ、蓋は文州刺史を加えられた。帝は皇后宅の大小学教授を置き、王鎡をこれに任じた。鎡は経学に明るく、訓導に長けていたので、益・蓋は身分を屈して彼に師事した。

鄭益は秦檜の長孫女を娶り、また王継先と互いに推薦し合ったので、三家の姻族は皆美官を越えて任用された。鄭益は官歴を重ねて保康軍節度使に至り、太尉・開府儀同三司を加えられた。初め、節度使に任ぜられた後、秦檜の縁故により、文官の資格を授けられ、直祕閣となった。秦檜が徽宗の御製を進上した際、加恩を辞退したので、帝は特に命じて鄭益に三品の服を賜い、累進して祕閣修撰・直徽猷閣となった。秦檜が編修寬恤詔令を提挙したので、また鄭益に直寶文閣を加えた。秦檜が死ぬと、その子秦熺が再び帝に請うて、さらに敷文閣待制に昇進させた。中丞湯鵬挙が言上し、鄭益は凡庸で取るに足らない才能であり、親しい者の権勢を頼みとしているとし、その職名を剥奪して至公を示すよう求めたが、帝は「鵬挙の論ずる所は甚だ適切であるが、朕は秦檜を弔った日に、秦檜の妻子に諭し、その家を保全することを許した。今もし急にその婿を追放すれば恩を傷つけることになる。臣僚はこれ以上論じてはならない」と言った。これ以後、鄭益は再び昇進しなかった。顕仁太后が葬られた時、攢宮総護使となり、初めて少保に進んだ。孝宗が位を継ぐと、少傅に進み、さらに太師に進み、太寧郡王に封ぜられた。乾道七年に卒去し、享年四十八、諡は「荘簡」、衛王を追封された。

弟の蓋

蓋は官は寧武軍節度使に至り、また累進して太尉・開府儀同三司・少保となり、新興郡王に封ぜられた。乾道二年に卒し、年四十二。太傅を贈られ、鄭王に追封された。

子は琚なり。

益子琚は吏事を習い、乾道九年に特旨を以て添差臨安府通判を授けられ、その後尚書郎・部使者を歴任し、資を換えて鎮安軍節度使に至り、また才幹を以て選ばれ、明州知州兼沿海制置使を除された。寧宗の初年、祠官を得て、朝請を奉じた。まもなく鄂州知州となり、再び慶元府知州となり、位は少師に至り、建康府を判し兼ねて留守を務め、卒した。

孝宗の崩御の際、光宗は病により喪に服することができず、大臣らが太后の垂簾聴政を請い、寧宗を冊立した。琚は后に言うには、「垂簾は暫くは可なりと雖も、久しきは不可なり」と。后は遂に翌日に簾を撤した。琚は嘗て金に使いし、金人は其の信義を嘉した。琚の死後、宋は使を遣わして金に和議を議すも、屡々合わず、金人は言うには、南使の中にては惟だ呉琚の言のみ信ずべきなりと。

琚の弟の璹は、保靜軍節度使に至るまで仕えた。蓋の子の瑰もまた、昭化軍節度使に至った。

李道

李道、字は行之、相州の人なり。その中女は光宗の后となる。初め、道は兄の旺と衆を聚めて宗澤に帰し、澤は事に因りて旺を斬り、道に命じて其の軍を掌らしむ。澤薨じ、道は軍を引いて襄陽鎮撫使桑仲に依る。仲は以て副都統制兼知隨州と為し、朝に奏し、武義郎・閤門宣贊舍人を授く。仲は霍明に為さるる所と殺され、道は統制李横と兵を率いて縞素を以て明を郢に囲む。明は亡去す。

は人を遣わして書状を持たせて李道を招いたが、李道は従わず、その使者を捕らえて朝廷に報告したので、詔を下してこれを嘉奨した。劉豫は怒り、将の穆楷を遣わして李道を攻撃させたが、李道はこれを防ぎ破った。鄧随州鎮撫使兼知鄧州に任ぜられた。時に李横は既に別将を命じて鄧州を守らせており、李道は李横を憚って、これを受けることを敢えてせず、遂に命じて仍として随州知事とさせた。枢密院は李道が軍情を察知し、鎮撫使の命を受けなかったことを以て、理として褒賞すべきであるとした。詔を下して栄州団練使を領せしめ、武義大夫に進めた。

胡安中は唐州を守り、勢孤にして自立すること能わず、遂に豫に附す。道これを招く、安中復た来帰す。会に李成入寇し、鎮撫使李横襄陽を棄て去り、道も亦た随を棄て南帰し、江州に至る。詔して道をして岳飛に属して選鋒軍統制と為し、唐州に入り、偽将を擒え、唐・鄧・郢州・襄陽都統制を除す。飛に従い襄陽等の郡を収復し、行営護軍を授かる。累ねて復州防禦使・果州觀察使に至る。鄂州を戍し、中侍大夫・武勝軍承宣使を加え、又た御前諸軍統制に升る。

武興の蛮族楊再興が連年にわたり寇掠し、道はその衆を破り、再興及びその二子を擒え、保寧軍承宣使に遷す。群盗朱持等が桂陽に聚まり、詔して道に軍を移して衡州に經理せしむ、道は高仲等を遣わしてこれを撃ち平らぐ。階官を落とし、龍神衛四廂都指揮使を加え、鎮南軍承宣使に遷す。

金将が盟約を破らんとし、道に命じてその部を率いて荊南府を守備せしむ。帥臣劉錡が奏上して御前前軍・右軍と改め、就いて道にこれを統率せしむ。錡が召されて奏事に赴くや、道が代わって御前諸軍都統制となる。金将劉士萼が光化の境に屯す。道が掩撃し、その舟を焼き、萼は遂に遁走す。間もなく大将の言により、道が鄂帥と協調せずとあって罷免さる。一年余りを経て、起用され捧日・天武四廂都指揮使・知荊南府を授かる。

隆興の初め、湖北の諸司がその過失を弾劾したが、帝は言った、「道は戚里を恃んで妄りに作す、罷むべし」と。久しくして、再び湖北副総管となった。及び卒すに及び、乃ち慶遠軍節度使を拝し、太尉を贈られ、諡して「忠毅」と曰う。后貴きに既に及び、進めて楚王に封ぜらる。孫の孝友・孝純、皆節度使に至る。

鄭興裔

鄭興裔、字は光錫、初名は興宗、顯肅皇后の外家三世の孫なり。曾祖の紳は、樂平郡王に封ぜらる。祖の翼之は、陸海軍節度使。父の蕃は、和州防禦使。興裔は早く孤となり、叔父の藻、子を以て之を字し、餘貲を分かたんとす。興裔受けず、請うて義莊を立て宗族を贍わんとす。藻の没するに及び、遂に官を解き追報の義を致す。初め后恩を以て成忠郎を授かり、幹辦祗候庫を充つ。聖獻后の葬に、攢宮內外巡檢を充て、累ねて江東路鈐轄に至る。

乾道の初め、建康留司、行宮を治め巡幸に備えんことを請う。興裔、人を労し財を費やすを奏し、其の役を罷むるを乞い、且つ都統及び馬軍帥皆其の人に非ざるを言う。福建路兵馬鈐轄に徒す。闕を過ぎ入見す。守令の臧否を詢ねらるるに、興裔、条析して以て対す。帝曰く、「卿は時務を識り、吏事に習う。行く当に卿を用いん」と。会に武臣提刑を復置するに、就いて命じて之を為さしめ、遙領高州刺史を加う。郡県積玩し、検驗法廃る。興裔、格目を創め、分かち属県に畀う。吏其の姦を行うことを得ず、因りて令と為す。

建・劍・汀・邵の塩策屢更す。漕臣、綱運を易えて鈔法と為さんことを請う。興裔、極めて其の不可なるを言う。海寇倏ち去り忽ち来たり、兵を調うるに常に及ばず。興裔、澳長を置くことを請い、寇至れば径ちに民兵を率いて之を禦がしむ。又た禁兵の事藝精ならず、多く私役に充つるを言い、禁止を行わんことを乞う。尉、盗を捕うるを以て秩を改むる多く偽り、当に審実を加うべしと。帝其の数事を論ずるを善しとし、詔して成州團練使を加う。

時に伝聞す、金盟を敗らんと欲すと。興裔を召して賀生辰副使と為し以て之を覗わしむ。使い還り、他なしを言う。卒に所料の如し。累ねて浙東・浙西・江東提刑を差し、祠を請いて帰る。尋いで詔して知閤門事兼幹辦皇城司と為し、又た兼ねて樞密副都承旨とす。軍婦の楊、鄰舍の児を殺し、其の臂釧を取りて其の屍を棄つ。獄成るも、刑部証左無きを以て、之を出だす。命じて興裔に覆治せしむるに実を得たり。帝喜び、居第を賜う。母憂に丁り官を去る。服闋し、故職に復し、均州防禦使を除く。

再び金に使いし、還りて、潭州觀察使に遷る。復た祠を請う。起きて廬州を知り、移りて揚州を知る。揚は廬と鄰す。初め、興裔廬に在りし時、嘗て鄰道の互送の礼を却く。至るに及び郡籍を按ずるに、前に却けたる者の出でて帰らざる有るを見る。遂に奏して其の禁を厳にす。揚に重屯有り、糧乏し、例として他境に糴す。興裔滲漏を捜括して以て之を補い、食遂に足る。民旧より皆茅舍にして、焚え易し。興裔之に銭を貸し、命じて瓦を以て易えしむ。是より火患乃ち息む。又た其の償を免ぜんことを奏し、民甚だ之を徳とす。学宮を修め、義塚を立て、部轄民兵升差の法を定む。郡大いに治まる。楚州城を改築せんと議す。韓世忠の遺基易うべからざる有りと謂う者有り。命じて興裔往きて視さしむ。既に至り、地を闕き丈餘りを増築す。帝奏を閲し、喜びて曰く、「興裔吾を欺かざるなり」と。

紹熙元年、保靜軍承宣使に遷り、召されて内祠を領し、明堂大禮都大主管大內公事を充つ。寧宗即位し、明州を知り兼ねて沿海制置使を除く。老を告げ、武泰軍節度使を授かる。卒す。年七十四。太尉を贈られ、諡して「忠肅」と曰う。

興裔四朝に歴事し、材名を以て主知を結ぶ。中興外族の賢、未だ其の比有ること無し。子三人。挺は、横行團練使を以て淮・襄両道の帥を歴ぬ。損は、進士甲科に登り、抗と共に皆朝に位有り。

楊次山

楊次山、字は仲甫、恭聖仁烈皇后の兄なり。其の先は開封の人。曾祖の全は、材武を以て奮い、靖康の末、京城を捍ぎて死事す。祖の漸は、遺澤を以て官を補い、東南に仕え、越の上虞に家す。

次山儀状魁偉、少くより学を好み文を能くす。右学生を補う。后宮中に職を受けしに、次山遂に恩に沾い官を得、階を積みて武德郎に至る。后貴妃と為り、累ねて帯御器械・知閤門事に遷る。祠を丐い、吉州刺史を除かれ、佑神観を提挙す。后冊を受けしに、福州觀察使を除き、尋いで岳陽軍節度使を拝す。后家廟に謁し、太尉を加う。韓侂胄誅せられ、開府儀同三司を加う。尋いで少保に進み、永陽郡王に封ぜらる。南郊の恩に少傅を加え、萬壽観使を充つ。致仕し、太保を加えられ、安德軍・昭慶軍節度使を授かり、会稽郡王に改封せらる。

次山権勢を避け、国事に預からざる能くし、時論之を賢とす。嘉定十二年、卒す。年八十一。太師を贈られ、冀王を追封せらる。子二人。谷は、太傅・保寧軍節度使に至り、萬壽観使・永寧郡王を充つ。

子 石

石、字は介之、乾道の間武学に入り、恭聖仁烈后の貴を以て、第を賜う。慶元中、承信郎を補い、差して閤門看班祗候を充て、尋いで帯御器械を帯ぶ。嘉泰四年、賀正旦接伴使を充つ。時に金使頗る驕倨にして、自ら其の善射を矜る。石従容として起ち、弦を挽きて三発三中のす。金使気沮む。嘉定改元、揚州觀察使・知閣門事を除き、保寧承宣使に進む。久しくして、保寧節度使を授かり、萬壽観を提挙し、奉朝請し、信安郡侯に進封せらる。十五年、検校少保を以て開国公に進封す。

寧宗崩ず。宰相史彌遠、皇子竑を廃し成国公昀を立てんと謀り、石と谷を命じて后に白せしむ。后不可とし、曰く、「皇子は先帝の立てし所、豈に敢えて擅に変えんや」と。谷・石凡そ一夜七往反して以て告ぐ。后終に聴かず。谷等拝泣して曰く、「内外の軍民皆已に心を帰す。苟も従わざれば、禍変必ず生ぜん。則ち楊氏且つ噍類無からん」と。后默然として良久くして曰く、「其の人安在ぞ」と。彌遠等昀を召し入る。遂に詔を矯りて竑を廃し濟王と為し、昀を立てる。是れ理宗なり。開府儀同三司を授かり、萬壽観使を充つ。

時に宝慶(太后)が垂簾聴政を行っており、人々多くは本朝が代々母后の聖徳を有することを言う。石のみが曰く、「事は豈に一概に言うを容れんや。昔、仁宗・英宗・哲宗が嗣位した時は、或いは尚幼沖に在り、或いは素より撫育によるもので、軍国の重事につうじざる所あれば、則ち母后の臨朝は宜しきなり。今、主上は民事に熟知し、天下悦服す。聖孝天に通ずるといえども、然れども早く政を復さざれば、小人の離間の嫌いをもととすこと無からんや」と。乃ち密かに章献(劉后)・慈聖(曹后)・宣仁(高后)の臨朝した所以を疏にし、遠く漢・唐の母后が臨朝称制した得失に及んで上る。后、奏を覧て、即ち日に命じて簾をるを択ばしむ。石を少保に進め、永寧郡王に封ず。寿明慈睿仁福の三冊(宝冊)を以て太后の宝(璽)とし、太傅に進む。

石の性恬淡にして、毎たび爵命を拝するに必ず力辞す。恭聖(楊太后)が廟にあわせまつるに及び、太師を除す。兄の谷は辞受に疑いを抱く。石力言して曰く、「吾が家は元勳盛徳有るに非ず、徒だ恭聖の故を以て貴顕に致す。さきに吾が父は是の官に居らず、吾兄弟今偃然として之を受くれば、是れ将に自ら顛覆をすみやかにせんとす。況んや恭聖は族属を抑遠し、意慮深遠なり。言猶お耳に在り、何ぞにわかに忘れんや」と。乃ち合疏して懇に辞し、再三に至り、受けず。疾に属するに及び、彰徳・集慶節度使を除し、魏郡王に進封す。卒す。年七十一。太師を贈る。