王貽永
王貽永、字は季長、王溥の孫なり。性質清く慎み寡言にして、頗る書に通じ、声技を好まず。初めて生まれて十余歳の時、その舅魏咸信之を見て奇とし、曰く「後必ず我に類せん」と。
咸平年中、鄭国公主に尚し、右衛将軍・駙馬都尉を授かる。泰山封禅に従い、高州刺史を領し、再び右監門衛大将軍・奨州団練使に遷る。外補を求め、単州を知るを得たり。真宗之を戒めて曰く「衆を和し治を静むるは、卿の当に先んずべき所なり」と。真に洺州団練使を拝し、徐州に徙る。河滑州に決し、徐に大水あり、貽永堤を城南に作って之を禦ぐ。衛州団練使に改め、進みて懷州防禦使となり、澶・定二州を知り、成徳軍に徙る。
時に曹訥の変を告ぐる者有り、貽永之を奏して治む。耀州観察使に遷り、復た澶州を知る。彰化・武定軍節度使観察留後を歴て、安德軍節度使を拝す。出でて天雄軍を知り、保寧軍節度使・鄆州知事に徙る。州は咸平年中より城を徙めてより、故治は通衢となり、梁山に介し、春夏多く水患有り、貽永地勢を相度し、東西道三十余里を築きて、民之に便す。復た定州に徙り、又成徳軍に徙る。同知枢密院事に擢でられ、副使に改め、宣徽南院使を加えられ、進みて枢密院使となる。久しくして、同中書門下平章事を拝し、遂に侍中を兼ぬるを加えらる。
節を鎮海に徙め、疾を以て罷めんことを求め、手詔を以て撫諭し、上医を遣わして診視せしむ。帝臨問し、尚方の珍薬を頒ち、手ずから糜粥を取りて之を食わしむ。貽永自ら寵禄の過ぎて盛んなるを言い、枢筦を罷め、使相を解きて第に還らんことを願う。帝其の愈ゆるを冀ひ、乃ち侍中を罷むるを聴し、彰徳節度使に徙め、同平章事・枢密使は故の如し。疾稍く間あり、入見し、其の子道卿に命じて掖け登らしめ垂拱殿に至らしむ。仍て五日一朝を賜い、朝参起居に遇うは、殿側に於いて休むを許す。至和初め、復た疾を以て辞し、尚書右僕射・検校太師兼侍中・景霊宮使を拝す。卒し、太師・中書令を贈られ、諡して「康靖」と曰う。
当時外姻の政を輔くる者無く、貽永能く権勢を遠ざけ、枢密に在ること十五年、終に過失無く、人其の謙静を称す。子道卿、西上閤門使。
李昭亮
李昭亮、字は晦之、明徳太后の兄継隆の子なり。四歳にして、東頭供奉官を補し、禁中に出入りするを許さる。継隆契丹を北征するに、昭亮を遣わして詔を軍中に持せしむ。方略及び営陣衆寡の勢を問うに、昭亮年雖少なれど、還り奏して旨に称す。累遷して西上閤門使となる。出でて潞州兵馬鈐轄となり、麟府路軍馬事を領するに徙り、尋ち管勾軍頭引見司兼三司衙司と為る。軍士に逃死して官廩を冒請する者数百人、昭亮之を按発す。高州刺史を領し、代州を知る。四方館使を以て復た麟府路軍馬事を領す。引進使に遷り、賀州団練使を領す。瀛定二州・成州団練使・寧州防禦使・延州観察使・感徳軍節度観察留後を知り歴て。殿前都虞候・秦鳳路馬歩軍副都総管・経略招討副使に擢でらる。永興路馬歩軍副都指揮使・幷代州路副都総管・安撫招討副使に徙る。未幾、代州を守り、再び真定路都総管に徙る。
保州兵叛き、官吏を殺す。詔して王果を遣わして之を招降せしむ。叛する者埤に乗り呼びて曰く「李歩軍を得て来らば、我降らん」と。是に於いて昭亮を遣わす。昭亮軽騎数十人に従い、甲盾弓矢を持たず、城門を叩き城上に呼びて曰く「爾輩第に来り降れ、我其の虞無きを保たん。爾らざれば、幾くんぞ噍類無からんや」と。卒稍く城を縋り下る。明日、相率いて城門を開きて降る。淮康軍節度観察留後に改め、復た定州を知る。勅使をして存労せしめ、黄金三百両を賜い、節度使の俸を給し、以て其の功を褒む。都転運使歐陽修言う「昭亮保州に入り、叛卒の女口を分ちて諸軍に隷し、輒ち其の家に私入する者有り」と。置いて問わず。
明年、武寧軍節度使を拝し、李用和に代わりて殿前副都指揮使と為る。時承平久しく、将士多因循して楽み縱弛す。昭亮本より将家の子、恩沢を以て進むと雖も、然れども軍中の事に習ひ、既に宿衛を統ぶるに、政厳を尚び、多く建請有り。万勝・龍猛軍蒲博して勝負を争い、屋椽を徹して相撃ち、士皆惶駭す。昭亮之を捕斬し、其の主者を杖ち、諸軍之が為に股慄す。帝南郊に祠り、騎卒の挟む所の弓を亡うする者有り。赦に会い、当に釈き去るべし。昭亮曰く「宿衛謹まず、貸すべからず」と。卒を配隷して下軍とし、禁兵是より頓に肅す。
宣徽北院使を以て河陽を判じ、延州に徙る。南院使を以て澶州を判じ、并州・成徳軍に徙り、同中書門下平章事を拝し、大名府を判ず。仁宗塗金紋羅に書して曰く「李昭亮親賢勲舊」と。其の子惟賢に命じて持たしめて賜う。定州に徙り、天平・彰信・泰寧軍節度使に改む。定州に在りて数言す、老疾辺事に任えず、願わくは京師に還らんと。乃ち以て景霊宮使と為し、又昭徳軍節度使に改む。卒し、中書令を贈られ、諡して「良僖」と曰う。
昭亮人和易にして、近事に練習し、吏治に於いて頗る通敏にし、善く僚佐を委任す。以て故に数藩鎮を更むるも他過無し。昭亮妻早く亡び、内嬖の三妾迭りに家政に預かり、能く制する莫し。
子 惟賢
子の惟賢、字は寶臣、父の蔭により三班奉職となり、後に閤門祗候・通事舍人となる。累遷して西上閤門使となり、まもなく高州刺史を領し、莫州を管轄する。州の倉粟が陳腐し、戍兵が大いに騒ぎ、受け取ろうとせず、州人は皆恐れた。惟賢は馳せ往って諭して曰く、「辺兵が多ければ積粟も多し、倉庫が多くてかつ積み久しければ、陳腐せざるを得んや?新たなものを全て取らんと欲すれば、陳腐のものは何れに帰せん?」遂に首悪一人を斬り、十人を流罪とし、軍中は平然たり。召還されて諸司庫務を提挙し、榮州團練使を領し、冀州を管轄する。会に禁軍を遷補するに及び、隷籍後に贓汙を犯した者は皆下軍に絀せられることとなった。惟賢曰く、「武士に何ぞ廉節を責めん?かつ罪を犯したのは昔の事、今新令を以てこれを縛るべからず。」帝はその制を改め、恩州に転じ、後に四方館使に遷り、卒す。惟賢は辞令を善く宣べ、朝儀に習熟し、仁宗は頗るこれを愛せり。
李用和
李用和、字は審禮、章懿皇太后の弟なり。少時窮困し、京師に居て紙錢を鑿つことを業とす。劉美が民間に用和を求め、三班奉職に奏す。累遷して右侍禁・閤門祗候・權提點在京倉草場・考城縣兵馬都監となる。
太后崩じ、詔して喪に赴かしむ。葬り終わりて後、禮賓副使に遷り、八作司を領す。禮賓使に遷り、皇城司を同領す。崇儀使・賀州刺史に遷る。太后を永安に改葬するに、捧日・天武の兵を領して梓宮を護る。
明年春、また詔して伝に乗り太后の陵を行かしむ。還りて寧州刺史を授かる。歴遷して澤州團練使・慶州防禦使・鄜州觀察使となる。既にして殿前都虞候・鄜延路馬步軍副都總管に擢でられる。未だ行かずして永清軍節度觀察留後を拝し、真定府・定州路に改む。旧制、刺史以上に賜う公使錢は私に入るを得るも、用和は悉く軍費に用う。歴任して侍衛親軍歩軍馬軍副都指揮使となり、建武軍節度使・殿前副都指揮使を拝す。老いて軍職を罷めんことを乞い、宣徽北院使を拝す。一月を踰えて、彰信軍節度使・同中書門下平章事・景靈宮使に改む。疾を以て告ぐると、仁宗臨問し、銀飾の肩輿を賜い、進みて侍中を兼ぬ。
初め、居第無く、詔して芳林園に寓館せしむるも、用和固く辞し、また惠寧坊の官第を以て仮す。病革す、帝臥内に入り見え、その次子珣を閤門使に擢で、居る第を賜い、並びに日ごとに官舍の僦錢五千を給す。既に卒す、帝慟哭し、太師・中書令・隴西郡王を贈り、朝を五日輟め、禁中に制服し、諡して「恭僖」とす。帝神道碑を撰し、書して「親賢之碑」と曰う。その妻卒すも、また朝を輟ぎて成服す。
初め、仁宗は太后の養わざるに逮らざるを以て、故に外家の褒寵特に厚し。用和は将相の位に列なり、能く小心靜默にして、権勢を推し遠ざけ、論者は此を以てこれを称す。子に璋あり。
子 璋
璋、字は公明、章懿皇后の恩により三班借職に補せられ、官を積んで天平軍節度觀察留後となり、澶州を管轄す。商胡の塞を護り、会に河漲し、訛言に水将に至らんとす。璋は廳事に据わりて自若たり、人心乃ち安んじ、河も亦溢れず。曹州觀察使に転じ、累遷して武勝軍節度使・殿前都指揮使となる。仁宗「忠孝李璋」の字を書し、並びに祕書を賜う。近臣を群玉殿に宴し、酒半ば、大盞二を命じ、韓琦及び璋に飲ませ、如くに属する所あるが如し。帝崩じ、執政京城の甲士を増やさんと欲す。璋曰く、「例は累代に出づ、宜しく輙く易うべからず。」時に禁衛相いに乾興の故事を告げ、内に給する食物中に金ありとす。既にして果たして食を賜う。衆食中を視る。璋曰く、「天子未だ政に臨まざるに已に優賞す。汝何の功か復云云す。敢えて喧嘩する者は斬らん!」衆乃ち定まる。
武成軍節度使を以て鄆州を管轄す。京東の盗賊昼日に縣令を殺し、人を道中に略す。璋は賞罰を信じ擒捕し、盗賊衰え止む。歳大いに水し、競いて船筏を以て利を邀う。溺死する者多し。璋一切これを籍し、載する所の勝つを約して黄河の法の如くす。卒を発して州の西関を城し、夫を調えて路を修すること数十里、道を夾みて柳を植う。人指して「李公柳」と為す。鄧州を管轄し、挙げるを失うに坐し、節を振武軍に改め、郢州を管轄す。還朝し、道中に卒す。年五十三。太尉を贈られ、諡して「良惠」と曰う。弟に瑋・珣あり。
子 瑋
瑋、選ばれて兗國公主に尚し、官を積んで濮州團練使となる。樸陋を以て主と協わず、生母また主の意に忤う。主禁中に入り訴う。瑋惶恐して自ら劾し、罰金に坐す。後数年、終に協わず、主宮に還る。瑋は安州觀察使より建州に降り、駙馬都尉を落とし、衛州を管轄す。未だ幾ばくもなく、主岐國に徙封せられ、瑋の都尉を復す。主薨じ、主に奉ずる状亡きを以て、郴州團練使に貶せられ、陳州に安置せらる。赦に遇い京師に還り、建武軍節度使・檢校太師に至り、卒す。哲宗臨奠し、哭し、太師・中書令を贈る。
子 珣
珣、字は公粹、蔭により閤門祗候となる。時に兄璋は閤門副使たり、珣また通事舍人を求む。仁宗曰く、「爵賞は以て天下と共にする所なり。儻し尽く親戚を用いば、何を以て勲旧を待たん?」後一年にして乃ちこれを命ず。
車駕用和の疾を視る。西上閤門副使より累遷して均州防禦使となり、相州を管轄し、御製の詩・飛白の字を賜いその行を寵す。未だ幾ばくもなく、相州觀察使に遷る。時に劉永年も亦同じく官を除かれんとす。知制誥楊畋は僥倖の門を開くべからずと以為い、詔して他の舍人に制を草せしむ。御史范鎮復これを論ず。命遂に寝す。
契丹に使いし、釣魚会に預かり、多く獲たり。契丹、金器を遺す。使い還りて、悉く之を上る。更に黄金及び「李珣忠孝」の字を賜う。
熙寧中、宣州観察使に遷り、潁州を知る。哲宗初、泰寧軍留後に進み、万寿観を提挙す。故事に、正任覃恩に遇うれば止だ移鎮するのみ、唯だ宗室のみ乃ち官を遷す。是に至り、珣と李端愨皆特旨にて遷官し、戚里の一覃恩遷官此より始まる。復た相州を知り、卒す。年七十四。
李遵勖
李遵勖、字は公武、崇矩の孫、継昌の子なり。生れて数歳、相者曰く「是れ当に姻戚を以て貴ぶべし」。少しく騎射を学び、冰雪の間を馳す。馬逸して、崖下に墜つ。衆以て死せりと為す。遵勖徐に起き、恙無し。
長ずるに及び、文詞を好み、進士に挙げらる。大中祥符間、便殿に召対し、万寿長公主に尚ぶ。初め名は勖、帝「遵」の字を益し、其の行を升して崇矩の子と為す。左龍武将軍・駙馬都尉を授け、第を永寧里に賜う。主下嫁すれど、居る堂の甃あるいは瓦甓多く鸞鳳の状を為す。遵勖令して鑱去せしむ。主の服に龍飾有り、悉く屏蔵す。帝歎喜す。
澄州刺史を領す。主の乳母に私するに坐し、均州団練使に謫せらる。蔡州に徙す。一年を踰え、起たしめて太子左衛率府副率と為し、復た左龍武軍将軍、宏州団練使を領し、真に康州団練使を拝し、観察使の禄を給す。時に継昌刺史に官す。遵勖其の下に班せんことを請う。之を許す。後、継昌涇州を守る。暴に風眩を感ず。遵勖馳せて省み、命を俟たず。帝使いを遣わし、駅を乗じて之に赴かしむ。既に還り、表を上りて自ら劾す。帝輔臣をして慰諭せしむ。
沢州防禦使に遷り、又た宣州観察使に遷る。郡を補い自ら試みんことを求む。出でて澶州を知り、宴を長春殿に賜う。郡に在りて、会す河水溢れ、将に浮梁を壊さんとす。遵勖工徒を督し、七日にして堤成る。昭徳軍節度観察留後に遷り、寧国軍節度使を拝す。鎮国軍に徙し、許州を知る。水軍多く練習せずして籍に隷す。遵勖部校を命じて按劾せしめ、十の七八を抜き去る。復た疾を以て唐の韋嗣立の故事に援き、山林の号を求めんことを請う。詔して許さず。
初め、天聖間、章献太后左右を屏いて問うて曰く「人何か言うこと有りや」。遵勖答えず。太后固めて之を問う。遵勖曰く「臣他に聞くこと無し。但だ人言う、天子既に冠し、太后宜しく時に政を還すべしと」。太后曰く「我此れに恋するに非ず。但だ帝少なく、内侍多し。恐らく未だ能く之を制せざらん」。嘗て三説五事を上りて以て時政を論ず。晋国夫人林氏、太后の乳母を以て、多く国事に干預す。太后崩ず。遵勖密かに別院に置き、出入りして之を伺察せんことを請い、以て衆論を厭服せしむ。其の補助多く此の類に類す。
居る第の園池、京城に冠たる。奇石を嗜み、人を募りて載送せしむ。千里より至る者有り。堂を構え水を引き、佳木を以て環らし、一時の名士大夫を延いて宴楽す。楊億に師いて文を為す。億卒す。制服を為す。及び許州を知り、億の墓に奠し、慟哭して返る。又た劉筠と相善しむ。筠卒す。其の家を存恤す。釈氏の学に通ず。将に死せんとし、浮図楚円と為に偈頌す。卒す。中書令を贈られ、諡して「和文」と曰う。『間宴集』二十巻、『外館芳題』七巻有り。子に端懿有り。
子 端懿
端懿、字は元伯、性は和厚、学を問うことを喜び、頗る陰陽・医術・星経・地理の学に通ず。七歳、如京副使を授かる。真宗の東宮に侍し、尤も親愛せらる。嘗て方玉帯を解きて之を賜う。稍く長ずるに及び、宮禁に出入りすること家人の如し。
七遷して済州防禦使と為り、群牧副使と為る。杜衍枢密と為り、外戚の子弟を択びて外官を試みしむ。乃ち端懿を以て冀州を知らしむ。政を為すこと法度に循い、民其の擾さざるを愛す。転運使州に移して妖人李教を捕えしむ。教已に死す。恩州に王則城に拠りて叛く。人言う有り、教死せずして賊軍中に在りと。遂に単州団練使・均州知州に降し、滑州兵馬鈐轄に改む。賊平ぐ。実に李教なる者無し。乃ち汝州防禦使・在京諸司庫務提挙と為す。
蔡州観察使・同勾当三班院に遷る。華州観察使に徙す。母喪に以て、起復して鎮国軍節度観察留後と為る。終制を願う。之を許し、仍って全奉を給す。服除く。集禧観を提挙し、出でて鄆州を知り京東西路安撫使を兼ぬ。是歳、京東水有り、民多く饑う。大いに倉廩を発して以て之を賑う。弓手局を置き、戦闘を以て教え、遂に精兵の如し。汶陽の堤百余里を治め、以て水患を却け、民之に便す。
尋いで寧遠軍節度使・澶州知州を除く。御史中丞韓絳奏す、端懿功無く、旄節を得るに当らずと。拝せず。留後を以て澶州に赴き、数月にして卒す。訃聞く。帝方に禁中に宴す。楽を徹し、其の家に黄金三百両を贈り、感徳軍節度使を贈り、諡して「良定」とす。再び兼侍中を贈る。
端懿能く自ら刻厲し、善士を聞けば、身を傾けて之に下る。以て故に士大夫之と遊び、甚だ名誉を得たり。弟に端愿有り。
子に端愿あり。
端愿は字を公謹と為し、穆獻公主の恩により、七歳にして如京副使を授かり、四遷して恩州團練使と為る。仁宗、歳旱を以て、便殿に御し囚を慮り、宮女を放つ。端愿上疏し、謂く、「罪有る者を縦釈するは、小人の幸なり;宮女を放つは宦者の専制を為し、反って帰する所を失い、何を以て災変を弭せん」と。
累進して邢州觀察使・鎮東軍留後に至り、襄・郢二州を知る。本路轉運使、羨財数十万を献じて賞せらる。端愿言う、常賦三折は、其の民堪えずと。即ち其の事を上る。帝怒り、轉運使の賞を奪い、折変の禁を申す。廬州に移る。富弼謂いて曰く、「肥上の政、何を以て襄陽に減ぜん」と。端愿曰く、「初官は事を喜び、厨伝を飾りて名を干ぶれば、則ち誉る者至る;事に更ふること既に久しく、豪強を抑へ猾吏を制するを知れば、故に毀之に随ふ」と。弼其の言を深く然りとす。
英宗初め、同提舉在京諸司庫務を為す。帝疾を以て拱默す。端愿対を求め、進みて曰く、「陛下当に権綱を躬攬し、以て人心を係うべし、退託すべからず、天下の望を失うに宜しからず」と。武康軍節度使・知相州を拝す。帰るを請い、醴泉觀使を除く。
神宗即位し、使を遣わして其の家に就き異時の章奏を録取せしめ、詔を賜いて之を褒む。河東、囉兀を城す。端愿手ずから趙普の『諫太宗北伐疏』を写して以て聞かしむ。
連年請老し、太子少保を以て致仕す。凡そ大礼成るごとに、金帯・器幣を賜い、品数は執政に視る。哲宗位を嗣ぎ、太子太保に進む。欽聖皇后、甥舅の故を以て、嘗て其の第に幸し、献穆祠堂に礼を致し、近侍に命じて端愿を掖し拝せしめず。元祐六年、卒す。帝朝を輟みて臨奠し、賻典を加等し、開府儀同三司を贈る。弟に端愨あり。子に評あり。
子に端愨あり。
端愨は字を守道と為し、官は左藏庫使に至り、献穆の喪を執り、起復を辞す。詔して特にお俸を給す。累遷して東上閤門使・幹辦三班院に至る。嘗て群玉殿に侍宴し、仁宗独り珠花・飛白の字を賜い、寵顧特異なり。邢・冀・衛三州を知り、蔡州觀察使に至る。元祐中、安德軍留後を以て卒す。昭徳軍節度使を贈られ、諡して「恭敏」と曰う。
兄端懿は、嘉祐の時に嘗て密かに儲を建つるを請う。人知る者無し。澶淵に卒す。端愨走りて其の喪を護り帰る。元豊の間、進対に因り、旧稿を袖中にして之を上る。神宗歎じて曰く、「近世の賢戚なり」と。是より端愨の名益々著し。
端愿の子に評あり。
評は字を持正と為し、東頭供奉官より八遷して皇城使と為る。父の告老を以て、西上閤門使を授かり、樞密都承旨と為る。陝西・河東に出使し、還りて言う、鄜延の人皆謂う、囉兀を城するは便ならずと。速やかに毀撤を乞い、一路の患を解かんと。師、安南に出ず。兵を調べて河東に及ぶ。又言う、王師南征するに、卒を西北に取るは、蛮之を聞きて、以て我を窺うを得んと。論ずる所の事頗る多く、或いは施行を見る。然れども天資刻薄にして、権を招き忌みず、多く耳目を布き、外事を采聽し自ら効して以て忠と為す。僥倖進用し、中外仄目す。
曹佾
曹佾は字を公伯と為し、韓王彬の孫、慈聖光獻皇后の弟なり。性温和にして、儀度美しく、音律に通じ、奕射を善くし、詩を為すを喜ぶ。右班殿直より累進して殿前都虞候・安化軍留後に至る。言者謂う、年未だ四十ならざれば軍を典むる毋かれと。出でて澶・青・許三州を知り、河陽に徙る。建武軍節度使を以て宣徽北院使と為り、鄆州を知り、保靜・保平軍節度使・同中書門下平章事・景靈宮使に改め、兼侍中を加えられ、濟陽郡王に封ぜらる。
神宗は常に政務について諮問したが、退朝後は終日、公事には言及しなかった。帝は大臣に言った、「曹王は近親の貴人として用いられているが、端然として過ちが少なく、よく身を保ち、真の純臣である」と。進対の際も名を呼ぶことはなかった。元豊年中に病気を告げ、癒えてから入謝すると、帝は言った、「舅は久しく太皇太后に拝謁していない。内東門で少し休むがよい。朕が自ら取り次ごう」。やがて召し入れて、上下の儒・釈・道の五閣や大椿蟠桃亭を巡り、再び殿上に昇ってから退出させた。護国軍節度使・司徒兼中書令として中太一宮使に任じ、朱衣と双引の騎吏・前馬を給された。
慈聖(太皇太后)の喪が終わると、郡への出仕を請うた。帝は言った、「時に舅に会うのは慶寿宮に面するようである。どうして朕から遠ざかろうとするのか。礼遇に至らぬところがあるのか」。曹佾は恐縮した。すぐに城南に園池を造営し、八作兵を与えて工事に当たらせ、惠民河の水を引いて灌漑した。さらに三百の部屋を持つ邸宅を築こうとしたが、固辞したのでやめた。高麗が玉帯を献上した。秋の蘆に白鷺の紋様で極めて精巧であり、詔により後苑の工人に黄金でその制を模して帯を作らせ、曹佾に賜った。誕生日には、宰相・親王と同様の賜物を与え、教坊の楽工に色衣を着せて酒宴を助けさせ、尊寵を示した。
哲宗が即位すると、少保を加えられた。坤成節(太皇太后誕生日)に寿を献じる際、特に宰相の班列に連なり、優詔により拝礼を減じられた。死去、七十二歳。太師を追贈され、沂王に追封された。従弟に曹偕、子に曹評・曹誘がいる。
従弟 曹偕
曹偕は字を光道といい、若くして書を読み義を知り、節義と侠気を自ら喜んだ。許州都監となった時、幕客の史沆が傾危で、不法を働き、上下がこれを恐れた。曹偕は悠々と酒宴を設け、客の前で史沆の十の罪を数え、撃ち殺そうとした。史沆は起きて拝謝した。曹偕は罵って言った、「また改めなければ、必ず汝を殺す」。史沆は行いを改めた。累遷して東上閤門使・帯御器械・雄州知州となった。議者が塘濼を廃して田としようとした時、曹偕は言った、「何承矩・李允則が多年かけてこれを営み、契丹を防ぐ限界とした。廃すことはできない」。進んで華州防禦使・相州知州となり、河陽総管に転じ、死去した。かつて梅堯臣に詩を学び、梅堯臣に称賛され、その詩に序を書かせた。
子 曹評
性格は文史を好み、書には楷法があった。慈聖が屏風に書くよう命じ、神宗はすぐに玉帯を賜ってその才能を表彰した。特に射術に優れ、左右の手が同じようにでき、夜に灯火を消しても命中させた。契丹の使者に伴って射ると、かつて二つの的を同時に破り、客は驚き恐れた。戚里(外戚の家)では湛厚(深く厚い)と号された。死去、六十六歳。開府儀同三司を追贈された。
子 曹誘
曹誘は字を公善といい、蔭官により左蔵庫副使となった。熙寧年中、父の曹佾が病気を告げて入謝した時、神宗は面と向かって曹誘に閤門通事舎人を授けた。元祐年中、東上閤門使として真定府・定州路兵馬鈐轄となり、文州刺史に遷った。
契丹に使者として行き、その宮門に至ると、館客(接待役)が下馬して曹誘に共に入るよう促した。曹誘は言った、「北朝の使者が来た時、朝堂の門に至るまで、両朝は積年の友好がある。妄りに事を起こすな」。ついに馬に乗ったまま入った。使いから戻り、枢密副都承旨となった。徽宗の時、都承旨に進んだ。慶州団練使・恩州防禦使・晋州観察使・保慶軍留後を歴任した。大観年中、安德軍節度使・醴泉観使に進んだ。兄の曹評と同日に拝命し、家に双節堂を建て、戚里の栄誉とした。
性格は謹密で、典故に習熟していた。死去、六十五歳。開府儀同三司を追贈され、諡は「忠定」といった。
高遵裕
高遵裕は字を公綽といい、忠武軍節度使高瓊の孫である。父の任により累遷して供備庫副使・鎮戎軍駐泊都監となった。夏人が大順城を寇した時、諒祚が矢に中って逃げた。ちょうど英宗が崩御したので、高遵裕を遣わして哀報を告げさせた。宥州下宮に到着すると、夏人は王盥を遣わして命を受けさせた。王盥が吉服で来たので、高遵裕は厳しく責め、ついに喪服に着替えさせた。やがて上宮で食事を供した時、大順城の事に言及すると、王盥は言った、「掠奪の輩です」。高遵裕は言った、「そちらの主君が辺境を寇し、傷を負って逃げた。この言葉は妄りではないか」。夏人は侮辱されたと思い、急いで人を代えて応対させたが、食事が終わるまで口を開けず、やがて憤然として言った、「王人の使者が下国を蔑視する。弊邑は小国ではあるが、控弦の士十数万を擁し、また自ら橐(弓袋)を執って君と周旋することもできる」。高遵裕は目を怒らせて言った、「主上は天縦の神武である。狂蹶をほしいままにして、誅夷を招くことなかれ」。その時、諒祚が屏風の間から覗き、手を振って止めさせた。神宗はこれを聞いて賞賛し、保安軍知軍に抜擢した。
横山の豪族が帰順を望んだので、帝は高遵裕に命じて种諤に図らせた。种諤は遂に綏州を取った。師帥(主将)は种諤が独断で兵を発したことを怒り、軍法に照らそうとした。种諤は恐れ、高遵裕から密旨を得たと称した。ゆえに种諤は罪を得、高遵裕も乾州都監に降格された。通事舎人に遷り、西路羌部を主管し、古渭砦に駐屯した。配下の羌兵を三等に分け、軍法を教えた。
熙寧の初め、朝廷は王韶を用いて洮・隴を回復せしめ、秦鳳路沿邊安撫に任じ、遵裕をその副とせしむ。まもなく古渭を通遠軍とし、軍事を知らしむ。翌年、帰順した羌部の図籍および青唐・武勝の形勢を描いた絵を携えて献上し、引進副使・帯御器械に抜擢され、帰って軍を治めしむ。軍は慶平堡に駐屯し、夜に行軍し、朝に野人関に至る。羌人が抵抗するも、親兵を率いて一鼓にこれを破る。進んで武勝城下に営し、羌の衆は逃げ去り、遂にその城を占拠す。詔して鎮洮軍を建て、また軍事を知らしむ。まもなく熙・河・洮・岷・通遠を一路とし、西上閤門使・栄州刺史に進み、総管を充て、再び通遠軍を知る。
翌年、王韶は河州を取らんとす。遵裕曰く、「古渭にて事を挙ぐるや、先ず堡砦を建て、漸次に進みし故、一挙に武勝を抜けり。今、兵と糧備わらず、一旦にして数舎を越えて人の地を図らば、彼をして要害を阻ましめ、我が軍は進退する所なからん」と。王韶と李憲は笑いて曰く、「君何ぞ急に相異なるや」と。檄をして臨洮を守らしむ。王韶、河州を攻むるも、果たして克たず。帝は遵裕の議を善しとし、洮・岷・疊・巖の未だ款附せざる者を専ら管せしむ。
遵裕は俞龍珂の地に塩井あるを以て、遂に塩川砦を築く。瞎呉叱、諸羌を率いて青唐を脅し、辺境を擾わさんとす。詔して張玉を遣わして攻討せしむ。遵裕曰く、「青唐は罪無し、ただ生羌に脅かされたるのみ」と。裨将を遣わし、龍珂と衆を率いてこれを防がしむ。青唐の人、龍珂を見て泣き訴う。瞎呉叱、己に附かざるを知り、潰走す。王韶に従い岷州を取り、これを下す。士卒に令して曰く、「老幼を生け捕るは首級を得るに同じ」と。全活する者数万に及ぶ。捷報聞こえ、岷州刺史を加う。
翌年、羌、景思立の敗に乗じ、河・岷二州を囲み、道路通ぜざること数ヶ月。或いは退き守らんことを請う。遵裕曰く、「敢えてこれを議する者は斬る」と。岷城の軍備欠け、守る者恐る。遵裕、西門に登り、将に命じて縦撃せしめ、別に精騎を選び南門より譟いて出で、合撃す。羌敗走す。時に朝廷は岷城遠くして守り難しとし、これを棄つるを議す。詔至るも、賊は既に潰えたり。功により団練使・龍神衛都指揮使・知熙州に進む。張穆之を転運使に薦めたるに坐し、穆之罪有り、潁州知事を罷め、まもなく慶州に移る。また事に坐し淮陽軍知事に貶せらる。
元豊四年、再び慶州を知る。詔して諸路とともに夏国を討たしむ。援軍を請い、東兵十一将を得る。騎兵足らず、群牧の馬を以てこれを補う。また涇原の兵を節制せしめらる。劉昌祚先んじて霊州に至り、幾ばくも城を得んとす。遵裕これを嫉み、故にその計を用いず、遂に潰走して帰る。語は昌祚の『伝』に在り。郢州団練副使に貶せらる。
哲宗即位し、右屯衛将軍に復し、中嶽廟を主管す。卒す。年六十。永州団練使を贈らる。紹聖中、崇めて奉国軍節度観察留後を贈らる。従弟に遵恵あり。
従弟 遵恵
遵恵、字は子育、蔭により供奉官となる。熙寧中、経義を試みて選に中り、大理評事に換官す。三班院主簿・軍器丞を歴任す。
元祐初、上疏して言う、「法度を更張するに当たり、事の当否あり。先帝の施設せし所の如きは、軽々に議すべからず」と。太僕少卿に抜擢され、太府卿に上り、出でて河中府を知り、河北路都転運使に改む。未だ行かず、工部侍郎に拝され、集賢殿修撰を以て鄆州・河南・穎昌府を知り、宝文閣待制を加えられ成徳軍を知る。召されて戸部侍郎となり、龍図閣学士を以て慶州を知る。卒す。年五十八。枢密直学士を贈らる。
宣仁后の朝に臨みし時、法度を以て一族を厳しく律せしめ、乃ち家事を挙げて遵恵に付す。遵恵躬から表率し、人に間言無し。また遠嫌して自らを保つ能く、故に紹聖の禍に罹らず。従姪に士林あり。
従姪 士林
士林、字は才卿、宣仁聖烈皇后の弟なり。累官して内殿崇班・殿直に至る。英宗、「謹守法律」の四字を書してこれを誨え曰く、「能く此れを為せば則ち良吏たり」と。毎に進擢せんと欲すれども、后屡々辞して輒ち止む。儒学を喜び、経史を渉猟し、大義を通じ、特に巧智有り。嘗て揚州召伯閘の税を監む。木に旧く火印を用いしを、士林は印文を刃に改め、鑿して以て識と為し、特に簡便なり。傍郡皆これに倣う。卒し、徳州刺史を贈らる。神宗立ち、昭徳軍節度使を加贈す。紹興初、普安郡王を追封す。子に公紀あり。
士林の子 公紀
公紀、字は君正、閤門祗候・通事舍人を歴任し、累進して寧州刺史・団練使・永州防禦使・集慶留後に至る。性倹約にて、珍異・声伎を好まず、俸禄多く諸族に給し、任子の恩を得て、均しく孤遠に及ぼす。宣仁后の喪に服し未だ終わらざるに卒す。感徳軍節度使を贈られ、諡して「懐僖」と曰う。紹興初、新興郡王を追封す。子に世則あり。
公紀の子 世則
世則は、字を仲貽といい、幼時に恩蔭により左班殿直に補せられ、内殿崇班に至った。また父の遺表の恩により閤門祗候となり、後に親衛郎を除された。経典に通じたことにより、内殿承制に転じた。累遷して康州防禦使となり、西上閤門事を管掌した。
宣和の末、金の汎使が到来すると、徽宗は世則に客を掌らせた。世則は学識が広く詳しく、応対に根拠があったので、帝はこれを聞いて喜び、これより客を掌ることは多く世則に命じた。金人の軍が城下に迫ると、また世則をその軍に派遣し、帰還後、二等を進秩し、東上閤門使に遷った。金が燕人の呉孝民を遣わして和を請うと、孝民は宰執・親王が軍前に赴き議事するよう求めた。高宗が康王の邸にあった時、行くことを請うた。この日、世則が入対し、計議副使に除せられて従った。康王が再び河北に使すると、世則は華州觀察使に改められ、参議官を充てた。召されて対し、金帯を賜った。
高宗が艱難の中にあった時、世則は常に左右にあり、寝起きして少しも離れなかった。大元帥府が建てられると、元帥府参議官に改められ、諸路に檄を布告して人心を定めるよう請うた。遙郡承宣使に進んだが、拝受しなかった。高宗が制を承けると、越州觀察使に転じた。即位すると、保靜軍承宣使に除せられ、萬壽観を提挙した。詔して元帥府の事跡を編類して史館に付するよう命じ、召されて枢密都承旨兼提挙京畿監牧とし、再び萬壽観を提挙した。
世則が温州に居住すると、帝は中使を遣わして守臣に時宜に応じて俸祿を給するよう諭し、凡そ二万緡を積んだが、これをもって郡の費用を補うよう請うた。常に瘍を病み、鞍に据えることが困難であったので、また旧く御用いした肩輿を賜った。帝は宣仁聖烈皇后が三朝を保祐したこと、中程で誣詆に遭い、外家の班秩に顕者がないことを毎度思い、制して感徳軍節度使とし、萬壽観使を充て、開府儀同三司に進め、奉朝請とし、臨安に邸宅を賜った。景霊宮使に除せられ、温州を兼判した。まもなく病を以て罷免を請い、後に萬壽観使となった。十四年、召されて入覲し、少保に進んだが、懇請して還った。卒す。六十五歳。太傅を贈られ、田三十頃を賜り、諡して「忠節」といった。
向傳範
向傳範は、字を仲模といい、尚書左僕射敏中の子である。父の任により衛尉丞となった。南陽郡王惟吉の女を娶り、内殿崇班・帯御器械に改められ、相・恩・邢の三州を歴知した。入って客省・閤門・皇城司を管幹した。陝州を知ると、仁宗は詩を賜ってその行を寵した。
熙寧の初め、鄆州を知り京東西路安撫使を兼ねた。諫官楊繪が言うには、「傳範が安撫使を領することは、外戚の僥求の源を杜ぐことにならない」と。枢密使文彦博は「傳範は累ねて郡を典とし、外戚によるものではない」といった。神宗は「諫官がこのように言うを得るは、甚だ善く、以て他日の妄求を止めるべし」といった。密州觀察使のまま卒し、昭徳軍節度使を賜り、諡して「恵節」といった。
傳範は、宰相の子であり、戚里に連なり、至る所に能称があった。橐中の資千余万を以て、族人の殯にある者六十四喪を葬った。從侄に経・綜がいる。
從侄 経
経は、字を審禮といい、蔭により虞部員外郎に至った。神宗が穎王であった時、経の女を選んで妃とし、経は莊宅使に改められた。帝が即位すると、妃は皇后となり、経は光州團練使に進んだ。
濰州防禦使として陳州を知り、年中に囚を閲し、重辟三人を生かした。西華令が人を掠めて死なせ、病と誣ったが、吏は令を畏れ、敢えて言う者なし。経はその実情を得て、遂に法の如く窮治した。歳大雪の時は、公私の僦銭を弛めて民を寛げようとしたが、有司が不可を主張した。経は「上は我に陳を守らしむ、民の窮は蓋し我が責なり、我自ら此れを為す、爾を累さじ」といった。方鎮には別に公使銭を賜うが、例として私的に自奉し、去ればその余を尽く入れるが、経は独り斥けて有司に帰し、ただ享労賓客軍師の用に供したのみ。河陽を知り、旱蝗に会い、民は食に乏しかった。経は官廩の歳用に余りなしと度り、乃ち先ず圭田の租入を以て振救し、富人は争って粟を出し、多く済活した。
徐州に徙り、明州觀察使に遷った。召還されて景霊宮を提挙した。定国軍留後に進み、再び出て青州を知った。行くに及び、官が車徒を給し、三宮皆使を遣わして送り、車馬道に相属した。一年を逾えず、疾を得て還り、淄州にて卒す。五十四歳。詔して内侍にその喪を迎えさせ、皇后は新昌第に出て哭した。喪至ると、慶壽・宝慈宮交々に謁者を遣わして醊を予け、后は国門の外に臨んだ。侍中を贈り、諡して「康懿」といった。葬らんとする時、近臣を遣わして典護穿復土させ、太常の鹵簿を給した。帝は郊に出て奠し、その柩を周視した。葬る三日後、后は墓下に臨み、篆碑首に「忠勤懿戚」と賜った。
経の至る所は吏治に勤め、事皆自ら省決し、頗る才を以て用いられんことを欲したので、数え外補を請うた。嘗て太祖の忌日に因り、百官が開元殿下に班した時、后は経を行幄に召して見え、朝廷に尽忠するよう勉め、経もまた三宮に善く事えることを言い、その家事には及ばなかった。子に宗回・宗良がいる。
從侄 綜
綜は、字を君章といい、歙県を知り、閭里の悪少年を籍し、盗発あれば用いて推跡すれば輒ち得た。桂州・常州を通判し、随・鼎・漳・汾・密・棣・沂の七州を知った。沂は山に阻まれて盗多く、綜は重法を用いて繩禁するよう請い、歳の大辟を断ずること半減した。兵は久しく惰り、初めて官を置いて提挙し、急に教えると、衆は悦ばず、監兵が夜に闥を排して変を告げた。綜は他に謀り有りと疑い、就寝自若であった。明日大閲し、号令を厳しくし、その高強なるを賞し、進まざる者を罰し、卒も亦事無し。性寛裕にして、劇を治めるに善く、姦悪には少しも恕さなかった。官累ねて中散大夫に至り、卒した。
経子 宗回
宗回は字を子發といい、累官して相州觀察使となった。徽宗が即位すると、彰德軍留後に進んだ。安國・保信・鎮南・保平軍節度使を歴任し、檢校司空に至り、永陽・寧海・安康・漢東郡王に封ぜられ、開府儀同三司となった。崇寧初年、その陰事を告げる者があり、詔して開封府に実状を審問させ、御史中丞吳執中が臨んで尋問した。宗回は惶懼し、印綬を上還して、太子少保をもって致仕した。言者が止まず、官爵を削り郴州に流された。二日行き、家居して咎を省みることを聴された。一年余りして、その故官をことごとく還された。
宗回は若い頃驕慢で勝手気儘であったが、小才があり、かつて群牧都監を代行し、しばしば家畜の繁殖により賞賜を受けた。蔡州の知州として出向し、凶悪な賊を捕らえ、その徒党を殲滅した。凶作の年には、倉を開いて労役を起こし、飢えた者を救済するとともに、官舎や倉庫を一新した。欽聖后の喪が明けると、奉朝請に起用され、後に朔望のみの朝参を命じられた。六十二歳で卒去すると、帝は苑中で喪服を着て哀悼し、検校少師を追贈し、「榮縱」と諡した。
経子宗良
宗良、字は景弼、秀州刺史・利州観察使・昭信軍留後を歴任し、奉国・清海・鎮東・武寧・寧海軍節度使、永嘉郡王、開府儀同三司に至る。欽聖后が朝政を臨んだ時、陳瓘が彼が蔡京と結託していると論じたことがあった。政事に参与するに及んでも、また謹んで自らを守ることができた。宣和年中に卒去、享年六十六、少保を追贈された。
張敦禮
章惇が政を執るに及び、言うには、「敦禮は徳を忘れ分を犯し、正を醜くし邪を朋とす。封を密にして章疏を上し、先烈を詆毀す。罪首を引いて誉め、褒崇すべしと謂い、その党儔を尽く収用せんと欲す」と。乃ち左千牛衛大將軍に責授し、朝參を勒止す。徽宗立つ、有司敦禮の貴籍に在るを以て、恩賜を奏審す、帝と欽聖后皆与うべしと以為う。惇等前の疏を執る、欽聖曰く、「戚里何ぞ必ずしも朝廷の事を預知せん、當時の罰亦太重きかな」と。和州防禦使に復し、保信軍留後に進む。
崇寧の初め、寧遠軍節度使に拝された。諫官の王能甫が言うには、「敦禮は匹夫の賤しき身にて、一日にして富貴を具えたり。神宗の親愛は隆厚にして、禮遇は優渥なりしに、敦禮は盛德を詆毀し、罪大にして謫輕し。今また之に節鉞を与ふるは、乃ち陛下の『紹述』の志を傷つくること無からんや」と。乃ち節を奪ひ、仍て集慶軍留後と為す。大觀の初め、復た寧遠軍を節度し、雄武に徙る。卒し、開府儀同三司を贈らる。
任澤
任澤は、字を天錫といい、仙遊夫人の母方の弟である。英宗が大統を継承して入ると、延和殿に召し出され、西頭供奉官に任じられ、邸宅一区を賜り、寵愛と賜物は甚だ厚かった。神宗の時、累進して皇城使となり、昌州刺史を兼ねた。仙遊の柩を護って濮園に遷葬し合祀すると、真除で嘉州刺史となった。卒すると、崇信軍節度使を追贈され、諡して「恭僖」といい、墓所の寺を賜り、寺額は「旌孝」とされた。任澤は田舎から出て、恩寵に際会したが、自ら規律を守って安んじることができた。帝はその住居を広げようとしたが、固く辞した。任子の恩典に当たっても、請わず、その篤実で慎み深いことはこのようであった。