西漢より外戚の禍あり、歴代これを鑑み、爵を崇くし禄を厚くして、事権を与えず、然れども一旦その馭するを失えば、なお肺腑の変あり。宋の法は外戚を厚く待ち、その間に文武の才諝ある者は、皆抜擢して用う。勢いに恃みて法を犯せば、重刑を以てこれを縛し、また少も貸さず。仁宗・英宗・哲宗の三朝、母后朝に臨みて政を聴くも、終に外家の政を干るの患なし。将に法度の厳なる、体統の正なる、以てその過ちを防閑するか。或いは母后の賢なる、自ら以ってその戚里を制するか。『外戚伝』を作る。
杜審琦
弟 審瓊
弟 審肇
弟 審進
甥(従子) 彦圭
彦圭は、初め六宅副使に任ぜられ、翰林使に遷る。開宝五年、信州刺史を領す。六年、饒州団練使を領するよう改め、まもなく本州防禦使を加領す。太原征伐に従い、曹翰・孫継業とともに城の西面を攻む。北征より軍を返し、彦圭に命じて孟玄喆・薬可瓊・趙延進とともに兵を率い中山に駐屯せしむ。竹木を売買し詔制を偽って税を免ぜしめた罪により、洛苑使・饒州刺史に責授され、わずか数日にして復職す。数年を経て、沙州観察使に遷り、定州知州として出向す。
甥(従子) 彦鈞
彦鈞は、初め補されて供奉官となり、累遷して崇儀使となる。端拱初年、庄宅使を加えられ、羅州刺史を領す。淳化四年、特に昭宣使を置き、彦鈞及び王延徳・王継恩をこれに任ず。まもなく恩州防禦使を加領す。西辺に兵を用うるに及び、永興軍駐泊鈐轄を命ぜらる。真宗即位後、潁州防禦使を領するよう改め、河中府知事として出向す。便殿にて拝謝し、内使の職務の解任を請う。これを許す。邠・慶・延・鳳の四州知事を歴任す。景德年中、天雄軍副都部署となる。車駕が澶淵に駐蹕するに及び、駕前東面貝冀路副都部署となる。契丹の騎兵が月城を攻むると、彦鈞兵を率いてこれを撃退し、その功により封邑を優加せらる。召還されて再び河中府を任ぜらる。
従孫 守元
曾孫 惟序
惟序は、字を舜功とす。三班奉職より累遷して惠州・莫州知事となり、供備庫使として梓夔路鈐轄となり、環慶路に転じ、邠州知事となり、また慶州権知事となる。時に任福敗れるや、騎兵数千を率いて懐安路より賊の三砦を破り、数百級を斬首し、牛馬千計を獲る。功により忠州刺史を領し、涇原鈐轄となり、辺州を巡警すべく勅せらる。
久しくして、六宅使・雄州知事に改む。時に契丹は燕・薊の間に兵を勒し、使を遣わして割地を求む。未だ至らざるに、惟序その草稿を購い得て、先んじてこれを聞かしむ。滄州知事に転じ、また定州知事に転ず。再遷して東上閤門使・涇州知事となる。四方館使・瀛州知事に改め、再び滄州知事となる。入朝して祁州団練使となり、恩州知事として出向し、大名府路総管に転じ、乾州団練使に改め、卒す。
賀令図
先に、令図は辺郡に兵権を握ること十余年、藩邸の旧恩を恃み、毎年入朝して奏事するごとに、多く辺塞の利害及び幽薊の取るべき状を言上す。上これを信じ、故に岐溝の挙あり。既にして師敗れ、議者皆その功を貪り事を生ずるを咎とす。
令図は軽率にして謀略なく、契丹の将耶律遜寧(号は于越)は、間諜を遣わして令図を欺き言うには、「私は本国に罪を得、日夜南朝に帰順せんと願うも、自ら抜け出す道なし。幸い君侯、少し留意せられよ」と。令図はその偽りを慮らず、密かに重錦十両を贈った。この年十二月、于越は衆を率いて侵入し、大将劉廷讓と君子館で戦い、令図は先鋒となり、数重に囲まれた。于越は軍中に伝言して「雄州の賀使君に会いたい」と言った。令図はかつて欺かれたが、彼が降伏に来てついに大功を獲るものと思い、即ち麾下数十騎を率いて迎えに出た。その帳に至ること数歩外にて、于越は床に据えて罵りて言うには、「汝は常に辺境の事を経度するを好むが、今死を送りに来たのか!」と。左右に命じてその従騎をことごとく殺し、令図を反縛して去った。
令図とその父はまず北伐を謀り、一年のうちに父子ともに陥ちた。令図の時年三十九。この役に、武州防禦使・高陽関部署楊重進はこれに死す。
楊重進 附
重進は太原の人。少より膂力あり、周祖が大名を鎮める時、帳下に隷し、広順初め、衛士に補せられる。宋初、累遷して内殿直都虞候に至る。太平興国初め、龍衛軍都校に改め、徐州刺史を領す。太原征伐に従い、出でて萊州刺史となる。曹彬の北征に随い、右廂排陣使となり、武州防禦使・高陽関部署に改む。契丹兵の至るに会し、これと力戦し、遂に陣に没す。年六十五。
王継勲
継勲のなすところ多く法に背く。新たに募った兵千余りが雄武に隷し、出征を遣わさんとするに、多く妻室なし。太祖、継勲に謂いて曰く、「これには必ず婚を願う者あらん、聘財を備えずとも、ただ酒炙で足りる」と。継勲は上旨を諭す能わず、恣に人子女を掠め取らせ、京城これがために紛擾す。上聞き大いに驚き、捕らえて百余りを斬り、人情始めて定まる。時に后は既に崩じ、上は后を追念したため、故にこれを罪せず。
乾徳四年、継勲また部曲に訟せられ、詔して中書にこれを鞫かしむ。兵柄を解き、彰国軍留後となり、朝請に奉ず。継勲は自ら失職を以て、常に怏怏とし、専ら奴婢を臠割するを楽しみとし、前後多く被害を受く。一日、雨が降りて牆が壊れ、群婢突出し、国門を守って冤を訴う。上大いに駭き、中使を命じて就き詰問せしめ、尽く継勲の不法なる事を得る。詔して官爵を削奪し、私第に帰するを勒し、なお甲士をしてこれを守らしむ。俄かにまた登州に配流す。未だ至らざるに、右監門率府副率に改む。
その後、家は西洛潁陽に寓す。孫惟徳は不肖にして自立できず、食を乞いて以て給す。真宗聞きてこれを憫れみ、惟徳に汝州司士参軍を授く。
劉知信
太宗即位し、本州団練使を進領し、武徳使に拝す。河東征伐に従い、また行宮使となる。太平興国五年、親信を遣わして秦・隴に竹木を市い、制を矯って過ぐる所の算緡を免じ、官に入れて多くその直を取るに坐し、左遷されて軍器庫使、錦州刺史を領し、俄かにまた武徳使となる。武徳を皇城司に改むるに会い、即ち皇城使となる。七年、秦王廷美の事に坐し、右衛将軍に改む。この秋、出でて静難軍節度行軍司馬となる。九年、起きて左衛将軍となり、営州刺史を領す。
知信は外戚の縁故により貴顕に至り、殊に親任を受け、朝廷内外の官職を歴任し、最も旧知の故人であった。顕著な名声は無いが、謹直な人物として当時に聞こえた。子に承宗、承渥あり。
子 承宗
承宗は幼より射術に優れ、併せて書算を学び、蔭補により殿直となり、寄班祗候を務めた。咸平初年、供奉官に転じ、鎮・定・高陽関三路承受公事を兼ね、帰還後は軍器庫を管掌した。真宗が臨幸した際、その整然たる様を見て、面授で閤門祗候に任じられた。知信が卒去すると、内殿崇班に転じた。間もなく、河北縁辺安撫都監となった。大中祥符初年、内殿承制を加えられ、如京副使・文思副使を歴任し、河東縁辺安撫に移り、また保州知州を兼ねた。やがて東染院使・定州知州に任じられた。薛映に副使として契丹に使いし、帰還後は本任に戻り、さらに鎮定路兵馬鈐轄を兼ね、間もなく宮苑使・雄州知州・河北縁辺安撫使に改められた。州郡において治績があり、詔書で嘉賞され、召還された。時に霊昌の黄河決壊が塞がれたばかりであり、守臣を選ぶに当たり、承宗を皇城使・滑州知州とした。間もなく、再び代わって召還された。
時に西辺より吐蕃の唃斯囉が文法を為し、甚だ辺患となるとの奏上があり、龍図閣直学士陳堯咨に副使として鄜延・邠寧環慶・涇原儀渭・秦州路巡撫使を命じ、詔して堯咨らに至る軍州において官吏将校を犒労し、民間の利害・郡官使臣の能否功過を諮訪して奏上せしめた。或いは陳訴して屈抑され、転運司・提点司の区断が不当な場合は、即ち按問して実情を究め、杖刑以下は法に依り処断し、徒刑以上は駅伝で上聞せしめ、併せて囚人を取調べ自ら録問し、審決を催促せしめた。出発後、就いて堯咨を秦州知州に、承宗を西上閤門使・鈐轄に任じた。乾興初年、東上閤門使に進み、鄜延都鈐轄に移ったが卒去した。中使が柩を護送して京師に至り、葬地を賜った。
承渥は蔭補により殿直となり、累任して使職に就き、条奏を好み、供奉官・閤門祗候に至った。承宗の子永釗は、右侍禁・閤門祗候となった。
劉文裕
李飛雄という者あり、太保致仕の李鏻の孫、秦州節度判官李若愚の子。性格は凶険で、家に容れられず、常に京師・魏博の間を往来し、無頼の悪少と交遊し、酒を縱し博奕を事とした。父の縁故により、秦州の倉庫の蓄積、及び地形の険易・兵籍の多少を悉く知っていた。また妻の父の張季英が鳳翔盩厔尉であり、飛雄は京師よりこれを訪ね、季英の馬に乗って使者を詐称し、夜に駅舎に至り卒を呼び馬を求めた。卒は炬火を執って出迎え、飛雄は私的に購入した馬纓を示すと、卒は辨別できず、即ち馬を授けた。一卒が一馬に乗って先導し、巡辺を名目とし、詔を矯って巡驛殿直の姚承遂を率い、隴州で監軍供奉官の王守定を、呉山県で県尉の盧賛を率い、皆従わせた。先に、秦州が内属し、羌人が寇掠したため、朝廷は周承瑨・田仁朗・王侁・梁崇賛・韋韜・馬知節及び文裕を遣わし兵を率いて清水県に駐屯させた。飛雄が至り、制を称して彼らを悉く縛った。承瑨らは姚承遂ら数名が同来するのを見て、その詐りに気付かなかった。仁朗のみが号泣して詔書を求めると、飛雄は叱って曰く、「我は密旨を受け、汝らが逗留して命令に従わぬ故に、悉く誅せよと命ずる。汝は封州で李鶴を殺したことを聞かぬか?詔書を汝が得られるものか」。先に、皇帝が即位し、諸道に親信を分遣して官吏の善悪を廉察し、密かに奏上させた。嶺南の使者が封州の李鶴が法を奉ぜず、軍吏を誣って謀反と奏上したと言上したため、詔して即時に誅した。故に飛雄はこれを引き合いに出したのである。承瑨らを械で縛って秦州に至り誅し、城を占拠して叛き、遂に承瑨らを駆り立てて行進させた。
初め、飛雄が偽って制を宣する時、自ら言うに、「我は上(皇帝)が南府に在った時の親吏なり」。文裕は因って哀願して飛雄に曰く、「我も亦た嘗て晋邸に依りし者なり、使者は豈に救わざるや」。飛雄は低声で文裕に謂いて曰く、「爾は我と共に富貴を同じくせんか」。文裕はその詐りに気付き、偽ってこれを許諾した。飛雄は即ち左右に命じて文裕の縛を解かせた。文裕は馬を進めて耳打ちで仁朗に語り、仁朗は偽って墜馬し、卒中風の眩暈の状を装った。飛雄が共に前進してこれを見ると、またその縛を解いた。仁朗は奮起して飛雄を搏ち、文裕と共にこれを擒らえた。飛雄は尚も呼んで曰く、「田仁朗ら謀反して使者を殺す」。秦州の獄に送り審問して実情を得、飛雄・承遂・守定・賛は腰斬に処し、飛雄の家は誅滅した。先に飛雄と親善した何大挙ら数名を捕らえ、悉く棄市とし、駅舎の卒も亦たその族を誅滅した。因って詔を下して曰く、「中外の臣庶の家に、子弟に或は行いの不謹なる者あり、甚だ郷党に知られ、戒勖を加うるも曾て悛改せざる者は、並びに本家の尊長に名を具して聞かせ、州県は吏を遣わして闕下に錮送せしむべし、当に諸処に配隷す。敢えて匿して名を聞かせざる者は、他時醜状顕露の時、期功以上の親族は悉くその罪を以て罪すべし」。
文裕は後に軍器庫使に遷った。四年、車駕が太原を征するに当たり、文裕と通事舍人王侁に命じて分兵して石嶺関を押さえしめた。六年、儒州刺史を領した。明年、高陽関都監となった。時に契丹の万余騎が侵入し、文裕は大将の崔彥進と共にこれを撃退した。雍熙初年、三交に移駐し、順州団練使を加領した。時に李継遷が折遇乜を率いて辺境を寇し、初め田仁朗と王侁らに討たしめたが、仁朗は逗留の罪に坐し、文裕に仁朗を代わらせた。継遷らは遁走した。
劉美
美は即ち后の兄なり。初め真宗に藩邸に事え、謹力をもって親信せらる。即位す。三班奉職を補し、再遷して右侍禁となる。咸平年中、傅潛律を失い、房州に流さる。美を選びて監軍とし、及び潜が潁州に徙せらるるに及び、また自京より陳・潁に至る巡檢と為す。石保吉陳州に在りて大いに廨舍を治め、城壁を修むるも、以て聞かず、僮奴輩威を仮りて民を擾す。会に言者有り、美を遣わして其の状を廉む。美曰く「保吉は世に國恩を受け、高貲を擁し、藩閫に列し、營繕過度にして、下を檢するに拙し。誠に或いは之れ有らん。自餘は保つに他患無からん」と。上意乃ち解く。朝に帰り、閤門祗候を充つ。
子 從德
從德、字は復本。父美卒す。年十四。殿直より遷りて供備庫副使に至る。弟從廣は是の歳始めて生まる。亦た西頭供奉官を補し、内殿崇班に遷る。太后朝に臨む。從德は崇儀使を以て真に恩州刺史を拝し、和州に改め、又た蔡州團練使に遷り、出でて衛州を知り、恩州兵馬都總管に改め、相州を知る。從德は齒少なく才能無し。特だ外家の故を以て、恩寵比ぶる無し。其の衛州に在るや、縣吏李熙輔なる者は善く從德に事え、乃ち其の才を朝に薦ぐ。太后喜びて曰く「兒能く士を薦ぐ。政を為す所以を知れり」と。即ち熙輔を擢て京官とす。從事鄭驤は從德に因縁し、亦た美官に擢つ。從德の妻は、嘉州王蒙正の女なり。蒙正は家豪右にして、厚賂を以て結納し、郎官に至り、郡守と為る。既にして從德病み、召還さる。道中に卒す。年二十四。保寧軍節度使を贈り、榮國公に封じ、諡して「康懷」とす。太后悲憐すること尤も甚だしく、内外の姻戚門人及び僮隸数十人を錄す。從德の娣婿龍圖閣直學士馬季良・母越國夫人錢氏の兄惟演の子集賢校理曖及び蒙正は皆二官を遷す。尚書屯田員外郎戴融は嘗て從德に佐けて衛州にあり、以て三司度支判官と為す。御史曹修古・楊偕・郭勸・推直官段少連上疏して之を論ず。皆坐して貶さる。子永年。
子 從廣
從廣、字は景元。少くして禁中に出入し、仁宗の左右に侍す。太后之を愛すること家人の子の如し。太后崩ず。真に崇州團練使を拝す。荊王元儼の女を娶る。滁州防禦使と為る。時年十七。趙元昊反す。從廣自ら言う「行間に罪を待ち、疆埸の患を扞すること能わず、坐して縣官を耗す。願わくは上に給うる所の公使錢を上せん」と。帝嘉びて之を納る。群牧都監と為り、副使に改む。
從廣自ら防禦使として十年遷らざるも、特だ宣州觀察使・同勾當三班院を拝し、外に補せられ自ら效せんことを請う。以て洺州を知る。漳水溢る。從廣は隋の故渠を穿ちて以て水勢を殺す。洺人之に便す。邢州に徙す。郷軍の罷老する者の籍をとり、子弟を引きて自ら代わるを聴す。令と為して著す。召還さる。復た三班院を領す。出でて襄州を知り、真定府路馬步軍副都總管に徙す。卒す。昭慶軍節度使を贈り、諡して「良惠」とす。從廣は性謹飭なり。然れども士大夫を交わるを喜び、時に頗る之を称す。
孫 永年
永年、字は君錫。生れて四歳、内殿崇班を授けられ、両宮に出入するを許さる。仁宗使わして《小山詩》を賦せしむ。「一柱天を擎く」の語有り。帝誤って金杯を瑤津亭の下に投ず。戲れて左右に謂いて曰く「能く之を取らんや」と。永年一躍して之を持ち出づ。帝其の首を拊して曰く「奇なる童子なり」と。常に内中に置く。年十二、始めて外に出るを聴さる。累遷して廉州團練使となり、陝州都監と為る。郭邈山等盗を為す。永年密かに壮士を遣わし夜河を渡り、其の凶桀二十余人を殺す。衆遂に散ず。鈐轄に遷る。代わりて還り召見さる。賊を破るの状を問う。擢て干辦皇城司と為し、単州團練使・永興軍路總管に改む。
契丹使いを遣わし来たりて帝の繪像を請う。張昇を選び副使として報いしむ。契丹未だ志を得ずして、夜巨石を取りて驛門を塞ぐ。衆皆恐る。永年素より力有り。手に擲ち棄つ。契丹驚きて神と為す。
涇州の知州として出向し、帝は詩を賜ってこれを寵遇した。郡兵は毎年香薬を折支(俸給の代わり)としていたが、三司が時を移さず車で送り届けない。振武卒は平素驕慢で、突如通判の庁舎に乱入し、他の物品での支給を求め、喧噪して言葉が不遜であった。永年は庭下に召してその罪を数え、首謀者二人を斬り、残りは動けなかった。同提挙在京諸司庫務を兼ねる。三度防禦使に任じられたが、いずれも言官の論議によって取りやめとなった。
代州の知州となる。契丹が西山の木材を十余里にわたって伐り積み、車で運搬する列が道に連なったが、前任の守臣は阻止できなかった。永年は人を遣わしてこれを焼き払い、一晩で尽きた。その事を上奏すると、帝は善しと称えた。契丹は檄を移して放火の盗賊を捕らえよと求めたが、永年は言った、「盗賊は確かに罪があるが、しかし事の発端は我が境內にある。汝らの関わることか」と。そこで契丹は再び言うことができなかった。帝がかつて戎狄防禦の策を問うたところ、その答えが意に適い、「忠孝」の字を書いて賜った。
英宗が即位すると、沂州防禦使に遷り、再び代州の知州となる。歩軍馬軍殿前都虞候、太原定州路副都総管を歴任した。王師が安南を征討した際、永年は士卒に先んじ、富良江を渡って賊を捕らえて献上することを請うたが、許されなかった。邕州観察使、歩軍副都指揮使に遷る。卒し、崇信軍節度使を追贈され、諡は「荘恪」といった。
馬季良 附
馬季良、字は元之、開封府尉氏の人である。家はもと茶商で、劉美の娘を娶った。初め越州上虞の尉に補され、秘書省校書郎に改め、明州鄞県の知県となり、入朝して刑部詳覆官となった。太后が臨朝すると、光禄寺丞に遷った。まもなく、祕閣校理・同判太常礼院に抜擢され、再び太子中允・判三司度支勾院に遷り、太常丞・直史館を以て提挙在京諸司庫務となり、龍図閣待制に抜擢された。三丞(太常丞など)が近職(龍図閣待制など)を充てるのは、先例のないことであった。尚書工部員外郎・龍図閣直学士・同知審官院に遷る。劉従徳が卒すると、遺表によって季良は二官の昇進を得たが、辞退して就かず、代わりにその子の直方を館閣読書とさせることを請うた。
江南が旱魃に見舞われた折、安撫使として出向し、再び兵部郎中に遷った。太后が崩御すると、濠州防禦使に換えられ、本州に赴任した。御史中丞范諷が、季良は僥倖によって官を得たと上言し、屯衛将軍に降格され、滁州に安置された。開封府が、季良が偽りの証文を立て、富民の劉守謙を庇って戸役を免じさせたと弾劾上奏した。詔して季良に自ら陳述することを許し、土地は返還させた。一年余り後、寿州に移され、致仕して、京師に戻り卒した。
季良は縁故によって進んだのであって、他の行能はなく、礼院在任時に建言したことがある。摂祠事の官が三日間の致斎を行うのに供帳や飲食がなく、祠事を重んじるものではない、と。これ以後、翰林・儀鸞司が供帳を設け、大官が祠所で食事を給するようになったという。
郭崇仁
郭崇仁、字は永年、守文の子で、章穆皇后の弟である。淳化四年、左班殿直に補され、東頭供奉官・閤門祗候に遷った。契丹が侵入した際、密詔を携えて河北の諸将に諭し、還って奏上したところ意に適い、累遷して崇儀副使兼閤門通事舎人となった。章穆皇后が崩ずると、特に庄宅使・康州刺史を授けられ、再び宮苑使・昭州団練使に遷った。母の喪に服したが、起復して雲麾将軍となり、解州団練使を拝命し、蔡州に改め、捧日天武四廂都指揮使・賀州防禦使・高陽関路馬歩軍副都総管に抜擢された。病気のため軍職を解かれ、磁州防禦使に改められた。卒し、彰徳軍節度観察留後を追贈された。
崇仁は外戚ではあったが、朝廷は過度に恩沢を推し広めることはなく、解州団練使として十年間昇進がなく、かつて相州・衛州の知州に任じられたが、いずれも辞退して行かなかった。慎み深く静かな性格で、地方官を好まなかったのである。
楊景宗
楊景宗、字は正臣、章恵皇太后の従父弟である。若い頃は博奕にふけり無頼で、京師に客寓し、罪により致遠務に隷属させられた。章恵が宮中に入り美人となると、上奏して茶酒班殿侍に補され、累遷して西頭供奉官・閤門祗候となったが、事に坐して左侍禁・郢州兵馬都監に降格された。まもなく官を復し、累遷して東染院副使となった。章恵が太后となると、崇儀使に進み、連州刺史・揚州兵馬鈐轄を兼ねた。間もなく、秦州刺史を授かり、滑州鈐轄に移り、舒州団練使に遷って兵馬総管となった。
章恵太后が崩ずると、成州防禦使に遷ったが、皇儀殿への入臨の際に酒に酔って喧噪した罪により、兗州総管として出向し、天雄軍副都総管に改められた。当時呂夷簡が魏を守っており、常に官属の礼をもって戒めたが、景宗はほしいままに振る舞って悔い改めず、ついに不法として奏上された。斉州都監に貶謫され、衛州に移り、また鄆州鈐轄に移った。召還されて、同勾当景霊宮・提挙四園苑となった。章献・章懿の両后が太廟に昇祔された際、帝は章恵を思い、特に景宗を徐州観察使に拝し、留後の俸給を給した。一年余り後、軍頭引見司を管轄し、磁州知州として出向し、建寧軍節度観察留後・潞州知州となり、節度使の俸給を給された。皇城司を管轄したが、衛士が禁中に入って乱を謀った罪に坐し、徐州観察使・済州知州に貶謫された。還って、提挙万寿観となり、建寧軍留後を復し、再び軍頭引見を管轄した。また従卒の王安が刃物を携えて皇城に入った罪に坐し、左監門衛大将軍に貶謫され均州に安置されたが、起用されて汝州鈐轄となった。明堂の祭祀の恩赦に際し、改められた官を還してほしいと願い、郡守を求めた。帝は輔臣に言った、「景宗は性貪虐で、老いてますます甚だしい。郡を与えることはできない」と。そこで再び建寧軍留後・提挙四園苑とし、提挙在京諸司庫務に改めた。卒し、安武軍節度使兼太尉を追贈され、諡は「荘定」といった。
景宗は刑徒の中から起用され、外戚の縁故によって顕官に至ったが、暴戾で、赴任先ごとに人々の患いとなった。また酒を飲んで気ままに振る舞い、滑州在任時には通判の王述を殴りつけて地面に倒したことがある。帝は深く酒を飲むなと戒めたが、景宗はその戒めを座右に書き記したものの、しばらくするとまた酔っていた。その俸給や賜り物もまた費やして余りがなかった。初め、宰相の丁謂が勢い盛んな時、敦教坊に邸宅を築き、景宗は役卒としてその邸内で土を運んだ。後に丁謂が失脚すると、仁宗はその邸宅を景宗に賜り、三十年間居住して終わった。
符惟忠
符惟忠、字は正臣、彦卿の曾孫なり。外祖母賢靖大長公主の蔭により、三班奉職となり、後に閤門通事舍人・勾當東排岸司に抜擢された。三司使寇瑊は部下を厳しく統制し、漕米の数が綱(輸送単位)に満たない場合、吏卒は一律に自盗の罪に論じられた。惟忠は争って言うには、「法において、欠損が四百に満たない者は罪に問わず、もし自盗として論ずるならば、その価値が八百に計上されれば徒罪に当たるであろう」と。寇瑊は怒って言うには、「敢えて三司使に抗するのか」と。惟忠は言うには、「職務として弁明すべきことがあるのであり、抗しているのではない」と。寇瑊はますます怒り、惟忠はますます力を込めて争い、自らの議論の通りにしてようやく終わった。
西染院副使を以て権提挙倉草場・提点開封府界県鎮公事を兼ねる。開封主簿楽誥は、宰相王曾の外孫である。ある者が風説を流して彼を推薦させようとした。惟忠は従わず、言うには、「楽誥に善き事績はなく、どうして勢力で私を使うことができようか」と。やがて楽誥は果たして贓罪で失脚した。時に呉奎は長垣尉であったが、惟忠は厚く呉奎を遇し、府に申し出て共に彼を推薦した。
惠民河と刁河が合流する地点では、毎年多く決壊・氾濫し、民田を害した。惟忠は宋楼鎮碾湾・横隴村に二つの斗門を設けて水勢を弱め、鄭河・圭河に接続させた。これ以降、水害は再び起こらなくなった。陝西で戦役が起こると、涇原路兵馬鈐轄兼知涇州に任じられた。三司使鄭戩が都大管勾汴河使として留任するよう上奏し、渠には広狭があり、もし水が広くて流れが緩やかであれば、砂が沈殿して舟の航行に不利であるから、その広い場所に木岸を築いて狭めることを建議した。三司は不便であると考えたが、後に結局その建議が採用された。再び西上閤門副使に遷る。契丹が使者を遣わして土地を求めたため、惟忠は富弼に副使として随行し返答の使者となり、閤門使に遷ったが、武彊県に至り、背中に癰ができて卒去した。客省使・眉州防禦使を追贈された。
柴宗慶
柴宗慶、字は天祐、大名の人である。祖父の禹錫は、鎮寧軍節度使であった。父の宗亮は、太子中舎であった。宗慶は太宗の娘である魯国長公主に尚し、その行いを禹錫の子として昇格させ、左衛将軍・駙馬都尉に任じられ、恩州刺史を領した。禹錫が卒去すると、真に康州防禦使に任じられ、復州に改めた。
旧制では、諸公主の邸宅は皆雑買務で物品を購入していたが、宗慶は家僮を外州に遣わして炭を購入させ、通過する地で税を免除され、都に至ると全てを売り払い、再び雑買務で購入した。これにより詔が下り、雑買務は公主宅が購入する物品の取り扱いを廃止した。汾陰に従祀し、行宮四面都巡検となり、泉州管内観察使に進んだ。また自ら陝西で材木を都まで購入し、通過する地の税免除を求めた。真宗は言うには、「以前、汝に私的な販売をして民利を奪うなと諭したのに、今またそうするのか」と。やがて河東提点刑獄が宗慶が私的に人を使い馬を購入して税を納めなかったことを弾劾したが、不問に付された。武勝軍節度観察留後を授かり、彰徳軍節度使に至った。
仁宗が即位すると、静難軍に移り、また永清・彰徳軍に移り、同中書門下平章事に任じられ、武成軍に節度使として移り、澶州の知州として出向したが、赴任せずに陝州・潞州に改められた。後に鄭州の判官となり、部曲を放任して民を擾乱させたため、召還されて奉朝請となり、毎年の公用銭を四百万削減された。久しくして、済州の判官として出向したが、御史中丞賈昌朝の上言により、留め置かれて派遣されず、本使の公使銭を全て停止された。卒去し、中書令を追贈され、諡は「栄密」といった。公主は累進して楚国大長公主に封ぜられ、宗慶に先立って没した。
宗慶は歴任した官職で多くの過失があり、性格は極めて貪欲で卑劣で、財を積んで巨万に及びながら、自らの生活は質素であり、甚だしくは俳優がこれを戯れの種にしたが、宗慶は知りながらも、改めることができなかった。子がなかった。臨終に際し、資産を官に送ることを願ったが、仁宗はその娘がまだ幼いことを理由に許さなかった。人々は宗慶が選ばれて尚し栄華富貴を極めて四十年余り、晩年に積んだ俸禄を軍用に補おうとしたのは、おそらく以前の過ちを追って補おうとしたものであろうと言った。
張堯佐
張堯佐、字は希元、河南永安の人、温成皇后の世父(伯父)である。進士に挙げられ、憲州・筠州の推官を歴任した。吉州に道士が商人と夜に酒を飲み、商人が急死し、道士は恐れて逃げたが、巡邏者に捕らえられ、百余人が捕縛された。転運使が堯佐に再審理を命じると、その冤罪をことごとく明らかにした。大理寺丞に改め、汜水県知事となり、殿中丞に遷り、犀浦県知事となった。犀浦は土地が狭く民が多く、田畑に関する訴訟が多かった。堯佐はその境界を正し、多くの弊害を条項に分けて民に理解させ、訴訟は遂に簡素化された。開州知事となり、還って登聞鼓院の判官となった。
時に温成皇后がちょうど脩媛であり、門閥をもって自らを異ならせようとしたため、堯佐は次第に進用され、権開封府推官となり、また提点府界公事となった。諫官余靖が言うには、「堯佐を用いるのはあまりに急ぎ過ぎる。かつて郭皇后の禍は楊尚(尚美人)から起こった。これを鑑とせねばならない」と。間もなく、三司戸部判官に遷り、また副使となった。天章閣待制・吏部流内銓に抜擢され、累進して兵部郎中・権知開封府となり、龍図閣直学士を加えられ、給事中・端明殿学士に遷り、三司使に任じられた。
翌年、諫官包拯・陳升之・呉奎が言うには、「近年、水が城郭を冒し、地震や河川の氾濫があるのは、小人の道が盛んであるからである。天下の者は皆、堯佐が大計(財政)を主管し、諸路は誅求(厳しい取り立て)に困窮し、内帑(宮中の財庫)は借用に煩わされ、法制は摩滅し弛緩したのは、実に堯佐に起因すると言っている。臣らはひそかに考えるに、親しい者への私情は聖人でも免れないが、ただそれを道理にかなった方法で処置し、危機に陥らせないようにするのが得策である」と。仁宗が明堂で祭祀を行うと、戸部侍郎に改め、間もなく淮康軍節度使・群牧制置使・宣徽南院使・景霊宮使に任じられ、二人の子に進士出身を賜った。包拯らが再び言うには、「陛下が即位して三十年足らず、失道敗徳の事はなかったが、この五、六年来堯佐を抜擢任用し、人々はひそかに議論し、その過ちは陛下にあるのではなく、女謁(后妃の取り次ぎ)・近習(側近)と執政大臣にあると言っている。女謁・近習は陛下に継嗣がまだ立てられていないことを知り、すでに私心を持つと、ひそかに趨向(迎合)しない者はなく、執政大臣は規諫することができず、むしろ諂いへつらって旨に順い、高官要職を堯佐がその意に満たないことを恐れ、陛下をして後宮を私昵する過ちに陥らせている。任命の詔が下った日、陽精(太陽)は晦塞し、霧や妖気が蒙孛(覆いかぶさる)した。大義によって断じ、速やかに追って取り止めることを命ずべきである。やむを得ないならば、宣徽使と節度使のどちらか一つを選んで与えるべきである。このようにすれば、天意に合い、人情に順うであろう」と。御史中丞王挙正が百官の列を留めて、朝廷で議論しようとしたが、許されなかった。そこで詔して言うには、「近ごろ台諫官が堯佐の三司使罷免を求め、また執政に用いるべからずと言った。もし優れた官職を与えるならば、体裁が良いであろう。朕はその言葉を用いて、この任命を行った。今また不可と言うのは、前後矛盾しており、法によって罷免すべきである。中書に命じてこれを戒め諭させよ。今後、言事官が相率いて上殿するには、先に旨を取るように」と。この日、堯佐は宣徽使・景霊宮使を辞退し、これに従った。
間もなく、また宣徽使を以て河陽の判官となり、挙正がまた抗議の上奏文を論じ、三度に及んだ。時に呉育が西京留台の判官であったが、河陽の民で決着のつかない訴訟がある者は多く呉育を訪れ、呉育は訴状の末尾に曲直を判じた。堯佐は畏怖し、すぐにこれに従って執行した。召還され、天平軍の節度使に移った。卒去し、太師を追贈され、その家に日々三千の賃舎銭を賜った。
堯佐は寒士(貧しい士人)から身を起こし、身を謹み慎み、吏治に通じ、法律を理解していたが、戚里(外戚)として進み、急に崇高顕要な地位に至り、恩寵に執着し、世に軽蔑された。子の山甫は、引進副使・枢密副都承旨となった。
従弟の堯封は、孝行で謹み深く学問を好み、進士に挙げられ、石州推官として卒去した。次女が、すなわち温成皇后である。累贈されて中書令・清河郡王に至り、諡は「景思」といった。