宋史

列傳第二百二十一 方技下 賀蘭棲眞 柴通玄 甄棲眞 楚衍 僧志言 僧懷丙 許希 龐安時 錢乙 僧智縁 郭天信 魏漢津 王老志 王仔昔 林靈素 皇甫坦 王克明 莎衣道人 孫守榮

賀蘭棲真

賀蘭棲真は、何許の人なるかを知らず。道士となり、自ら百歳と称す。服気を善くし、寒暑を憚らず、往々にして食わず。或いは時に酒を縱し、市廛の間を遊び、肉を数斤まで啖う能あり。始め嵩山の紫虛観に居し、後に濟源の奉仙観に徙る。張齊賢これと善し。景德二年、詔して曰く、「師は巖壑に身を棲まし、煙霞に志を抗し、衆妙の門を観心し、浮雲の外に屣を脱す。朕は希夷を奉じて教と為し、清靜を法として民に臨む。有道の人を得て、無為の理を訪わんことを思う。久しく上士を懷い、真風を覿さんと欲し、爰に使車を命じ、往きて禮聘を申さしむ。師其れ暫く林谷を別ち、闕庭に来儀せよ。必ず招延に副い、登涉を憚ること無かれ。今、入內內品李懷贇を遣わして師を召し闕に赴かしむ」と。既に至るや、真宗二韻の詩を作りてこれを賜い、「宗玄大師」と號し、紫服・白金・茶・帛・香・薬を賚い、特に観の田租を蠲免し、その侍者を度す。未だ幾ばくもあらざるに、舊居に還るを求む。大中祥符三年卒す。時に大雪、三日を經て、頂猶ほ熱く、人多くこれを異とす。

柴通玄

柴通玄、字は又玄、陝州閿郷の人。承天観にて道士となる。年百余歳、辟穀・長嘯を善くし、唯だ酒を飲む。唐末の事を言えば、歴歴として聽くに足る。太宗これを闕下に召し至らしむるも、懇ろに本観に歸るを求む。真宗即位し、屢々京師に來る。召して對せしむるに、語に文飾無く、多く修身慎行を以て説と為す。汾陰を祀るに、行在に召し至らしめ、坐を命じ、無為の要を問う。居る観は即ち唐の軒遊宮にして、明皇の詩石及び書ける所の『道德經』二碑有り。上二韻の詩を作りてこれを賜い、併せて茶・薬・束帛を賚う。修道院と為すことを詔し、その田租を蠲免し、弟子二人を度す。明年の春、通玄遺表を作り、自ら「羅山太一洞主」と稱し、弟子の張守元・李守一を遣わして闕に詣らしめ、龜鶴を以て獻ぜしむ。又官僚士庶を召して生死の要を言わしむ。夜分、盥濯し、香を庭中に然し、闕を望みて坐し、遲明に卒す。

時に又た河中の草澤劉巽・華山の隱士鄭隱・敷水の隱士李寧を召す。巽は年七十余、經傳を講授し、躬耕して自ら給す。大理評事を授けて致仕せしめ、綠袍・笏・銀帯を賜う。隱は經術を以て業と為し、道士に遇いて辟穀煉氣の法を傳えられ、修習すること頗る驗あり。華山の王刁巖に居ること二十年を踰え、冬夏裳衣皮裘す。寧は薬術に精しく、老いて衰えず、常に薬を以て人に施し、人の金帛を以て報いんとすれば、輒ちこれを拒む。景德中、萬安太后せず、驛にて寧を召し闕に赴かしむるも、未だ至らざるに而后崩ず。大中祥符四年、「正晦先生」の號を賜う。上並びに詩を作りて賜い、茶・薬・繒帛を以て加う。獨り隱は賜物を辭し受けず。

甄棲真

甄棲真、字は道淵、單州單父の人。經傳に博く涉り、詩賦に長ず。一たび進士舉に應ずるも、第に中らず、歎いて曰く、「神を勞し精を敝して虛名を追うは、益無きなり」と。遂にその業を棄て、道家の書を讀みて以て自ら樂しむ。初め牢山の華蓋先生に道を訪う。久しくして出でて京師に遊び、因りて建隆観に入り道士と為る。四方を周歷す。薬術を以て人を濟い、その報いを取らず。祥符中、晉州に寓居し、性は和靜にして好惡すること無く、晉人これ愛す。紫極宮の主と為す。

年七十有五、人に遇う。或いは許元陽なるかと以為い、これに語りて曰く、「汝が風神は秀異にして、李筌の如し。老いたりと雖も、尚ほ仙と為るべし」と。因りて煉形養元の訣を授け、且つ曰く、「道を得るは反掌の如し。第に行うこと惟だ艱し。汝勉めよ」と。棲真これを行うこと二三年、漸く童顏に反り、高きに攀じ危きを攝るに、輕くして飛舉の若し。乾興元年秋、その徒に謂いて曰く、「この歳の暮れ、吾まさに逝かん」と。即ち宮の西北隅に自ら殯室を甃く。室成り、一月食わず、平居の知る所と敘別し、十二月二日に紙衣を衣て磚塌に臥し卒す。人未だこれを奇とせず。歳久しきに及び、形は生けるが如く、衆始めて驚き、屍解なりと傳えて以爲う。

棲真自ら「神光子」と號し、隱人海蟾子なる者と、詩を以て往還す。養生の秘術を論じ、目して『還金篇』と曰う。凡そ兩卷。

楚衍

楚衍は、開封阼城の人。少くして四聲字母に通ず。里人柳曜、衍に師事し、里中にて先生を以てこれを見る。衍は『九章』・『緝古』・『綴術』・『海島』の諸算經に於いて特にその妙を得る。相法及び『聿斯經』に明らかにし、推歩・陰陽・星曆の数を善くし、間いて休咎を語れば中らざること無し。自ら陳べて『宣明曆』を試み、司天監學生に補せられ、保章正に遷る。天聖初、新曆を造る。衆、衍の曆數に明らかなるを推し、靈臺郎を授け、掌曆官宋行古等九人と崇天曆を製す。司天監丞に進み、翰林天文に隷す。皇祐中、同じく『司辰星漏曆』十二卷を造る。久しくして、周琮と同く司天監を管勾す。卒す。子無く、女有り亦た算術に善し。

僧志言

僧志言、自ら姓は許、壽春の人と曰う。東京景德寺七俱眂院に落髮し、清璲に事う。初め、璲は經を誦すること勤苦なりしに、志言忽ち璲に造り、跪き前みて弟子たらんことを願う。璲その相貌の奇古なるを見、直視して瞬かず、心にこれを異とし、具戒を授く。然れども動止は軒昂にして、語笑に度無く、多く市里を行き、裳を褰ぎて疾く趨り、指を舉げて空に書し、佇立すること良久し。時に屠酤に從い遊び、飲啖すること擇ぶ所無し。衆以て狂と為すも、璲獨り曰く、「これ異人なり」と。

人が斎施を為さんと欲すれば、輒ち先ずその至るを知り、召さずして門を款き、指名して供を取る。温州の人林仲方、其の家より摩衲を以て来たりて献ず、舟始めて岸に及ぶや、遽かに来たりて取り去る。仁宗は毎に禁中に延き入れ、径に登り坐して結跏し、飯畢りて遽に出で、未だ嘗て揖せざりき。王公士庶召せば即ち赴く、然れども一言を交うる者莫し。或いは陰に休咎を卜せば、紙に書し揮翰甚だ疾く、字體遒壮にして、初めは曉るべからず、其の後多く驗あり。仁宗春秋漸く高く、嗣未だ立たず、默かに内侍を遣わして言の所に至らしむ。言の書する所に「十三郎」の字あり、人測る莫く何の謂いぞ。後に英宗、濮王第十三子を以て入りて繼ぎ、衆始めて悟る。大宗正守節書を請う、言顧みず、之を迫るに、「潤州」の字を得たり。未幾、守節薨じ、丹陽郡王を贈らる。寺童義懷を見て、其の背を撫でて曰く「德山、臨濟」と。懷既に落髮し、天衣に住し、説法し、大いに學者に宗とせらる、其の前知多く此に類す。

普淨院に浴を施し、夜漏初めて盡き、門扉未だ啟けず、方に佛を迎えんとして浴室に人聲あり、往きて視れば、則ち言在り。齋を具え鱠を薦むる者有り、併せて之を食い、流れに臨みて吐けば、化けて小鮮と為り、群れ泳ぎて去る。海客風に遇いて且に没せんとす、僧の縆を操り舶を引きて濟うを見る。客都下に至りて言に遇い、忽ち之に謂いて曰く「我に非ずんば、汝奈何せん」と。客其の貌を記す、真に舟を引く者なり。曹州の士趙棠と善し、後に棠官を棄て番禺に隠居す。人傳う、棠と言數を以て偈頌を相寄す、萬里の間輒ち數日にして達すと。棠死し、亦盛夏に身壞れず。

言將に死なんとして、頌を作り、曉るべからず。已にして曰く「我古始より成就し、多く國土を逃れ、今南國に至れり」と。仁宗内侍を遣わして真身塑像を以て寺中に置き、榜して曰く「顯化禪師」と。其の後善く厚くする者之を禮すれば、額上熒然として光有るを見、就きて之を視れば、舍利を得たり。

僧懷丙

僧懷丙、真定の人。巧思天性に出で、學ぶ所能く至るに非ず。真定木を構えて浮圖十三級と為し、勢い特に孤絕なり。既に久しくして中級の大柱壞れ、西北に傾かんと欲し、他の匠能く為す莫し。懷丙短長を度り、別に柱を作り、衆工を命じて維ぎて上らしむ。已にして衆工を卻け、一介を以て自ら從い、戸を閉じて良久しくし、柱を下に易え、斧鑿の聲を聞かず。

趙州洨河石を鑿ちて橋と為し、鐵を鎔かして其の中を貫く。唐より以来數百年相傳え、大水能く壞さず。歲久しく、鄉民多く盜みて鐵を鑿む、橋遂に欹倒し、千夫を計りても正しむること能わず。懷丙衆工を役せず、術を以て之を正し、故に復らしむ。河中府の浮梁、鐵牛八を以て之を維ぐ、一牛且つ數萬斤。後水暴漲して梁を絕ち、牛を牽きて河に沒す、能く之を出だす者を募る。懷丙二の大舟に土を實え、牛を夾みて之を維ぎ、大木を以て權衡の狀を為して牛を鉤い、徐ろに其の土を去れば、舟浮かび牛出づ。轉運使張燾以て聞こえしめ、紫衣を賜う。尋で卒す。

許希

許希、開封の人。醫を以て業と為し、翰林醫學を補す。景祐元年、仁宗豫せず、侍醫數たび藥を進むるも效なく、人心憂恐す。冀國大長公主希を薦む、希診して曰く「心下包絡の間に鍼すれば、亟に愈ゆべし」と。左右爭いて以て不可と為し、諸黄門身を以て試みんことを祈り、之を試みるに、害する所無し。遂に鍼を以て進め、而して帝疾愈ゆ。命じて翰林醫官と為し、緋衣・銀魚及び器幣を賜う。希拜謝已り、又西向して拜す、帝其の故を問う、對えて曰く「扁鵲は臣が師なり。今の者は臣の功に非ず、殆ど臣が師の賜なり、安んぞ師を忘れんや」と。乃ち以て得たる金を請うて扁鵲廟を興す。帝為に城西隅に廟を築き、靈應侯を封ず。其の後廟益々完く、醫を學ぶ者歸き趨すること之に因り、因りて太醫局を其の傍に立つ。

希殿中省尚藥奉御に至り、卒す。著す『神應鍼經要訣』世に行わる。其の子宗道を錄して内殿崇班に至らしむ。

龐安時

龐安時、字は安常、蘄州蘄水の人。兒時に能く書を読み、目に過ぐれば輒ち記す。父は世醫なり、脈訣を授く。安時曰く「是は為すに足らざるなり」と。獨り黄帝・扁鵲の脈書を取りて之を治め、未だ久しからずして、已に能く其の説を通じ、時に新意を出だし、辨詰して屈せしむること能わず、父大いに驚く、時に年猶未だ冠せず。已にして聵を病み、乃ち益々『靈樞』・『太素』・『甲乙』諸の秘書を読み、凡そ經傳百家の其の道に涉る者は、靡くを通貫せず。嘗て曰く「世の所謂醫書は、予皆之を見る、惟だ扁鵲の言深し。蓋し所謂『難經』なる者は、扁鵲術を其の書に寓し、而して之を言うに祥らざるは、意は後人をして自ら之を求めしめんか。予の術蓋し此に出づ。之を以て淺深を視、死生を決するは、符節を合するが若し。且つ脈を察するの要は、人迎・寸口より急なるは莫し。是の二脈陰陽相応じ、兩の繩を引くが如く、陰陽均しければ則ち繩の大小等しく、故に陰陽を喉・手に定め、覆溢を尺・寸に配し、九候を浮沉に寓し、四溫を傷寒に分つ。此れ皆扁鵲略其の端を開き、而して予『内經』諸書を參じて、考究して其の説を得たり。審らかにして之を用い、順にして之を治めば、病逃るることを得ず」と。又術を以て後世に告げんと欲し、故に『難經辨』數萬言を著す。草木の性と五藏の宜とを觀、其の職任を秩し、其の寒熱を官し、其の奇偶を班し、以て百疾を療し、『主對集』一卷を著す。古今異宜し、方術脫遺し、陰陽の變を備え、仲景の『論』を補う。藥後出する有り、古の知らざる所、今辨ずること能わず、嘗試して功有り、遺すべからず。『本草補遺』を作る。

人の為に病を治し、率ね十に八九を愈やす。門に踵きて診を求むる者の為に、邸舍を辟きて之を居らしめ、親しく饘粥・藥物を視、必ず愈えて而して後遣わす。其の為すべからざる者は、必ず實に之を告げ、復た治めず。人を活かすこと數無し。病家金帛を持ち来たりて謝す、盡く取らず。

嘗て舒の桐城に詣る、民家の婦孕みて將に産まんとす、七日にして子下らず、百術效する所無し。安時の弟子李百全適た傍舍に在り、安時を邀えて往きて之を視しむ。纔に見るや、即ち連呼して死せずとし、其の家人をして湯を以て其の腰腹を溫めしめ、自ら上下に拊摩す。孕者腸胃微痛を覺え、呻吟の間一男子を生む。其の家驚喜す、而して然る所以を知らず。安時曰く「兒已に出胞す、而して一手誤って母の腸を執りて復た能く脫することを得ず、故に符藥の能く為す所に非ず。吾腹を隔てて兒の手の在る所を捫り、其の虎口に針す、既に痛むや即ち手を縮む、所以に遽かに生まる、他術無きなり」と。兒を取って之を視れば、右手の虎口に針痕存す。其の妙此の如し。

華佗の事を以て問う者有り、曰く「術是の若くんば、人の能く為す所に非ず。其の史の妄れるか」と。年五十八にして疾作る、門人自ら脈を視んことを請う、笑いて曰く「吾之を察するに審らかなり。且つ出入の息も亦脈なり、今胃氣已に絕えたり。死せり」と。遂に藥餌を屏卻す。後數日、客と坐して語りて卒す。

錢乙

錢乙、字は仲陽、本は呉越王錢俶の支族に属し、祖父が北に移住したため、鄆州の人となった。父の穎は医術に優れていたが、酒を好み遊びを楽しみ、ある日、東の海上へ行ったまま帰らなかった。乙は三歳の時、母は先に死に、姑が呂氏に嫁いでいたので、哀れんで引き取って養育し、成長して医術を教え、そこで家の由緒を告げた。乙は泣き、行方を尋ねて往くことを請うたこと、凡そ八、九度。数年を積み、遂に父を迎えて帰ったが、時に既に三十年を経ていた。郷人は感慨し、詩を賦してこれを詠んだ。彼は呂氏に事えること父の如くし、呂氏が没して後嗣が無かったので、葬り喪に服した。

乙は初め『顱䪿方』をもって著名となり、京師に至り長公主の娘の病を診て、翰林医学を授けられた。皇子が瘈疭の病にかかると、乙は黄土湯を進めて治癒させた。神宗が召して黄土が病を癒す所以の状を問うと、対えて曰く、「土をもって水に勝たしめ、水が其の平を得れば、則ち風自ずから止む」と。帝は喜び、太醫丞に抜擢し、金紫を賜うた。ここより公卿宗戚の家に招かれること日とて虚しきこと無し。

廣親の宗子が病み、診て曰く、「此は薬無くして癒ゆべし」と。其の幼い子が傍らに居り、之を指して曰く、「是れ将に暴疾有りて人を驚かすべく、後三日の午後を過ぐれば、恙無かるべし」と。其の家は憤り、答えず。明日、幼子果たして癎を発すること甚だ急なり、乙を召して治させしに、三日で癒ゆ。其の故を問うと、曰く、「火色直視す、心と肝と俱に邪を受く。午後を過ぐるは、用いる時当に更まるべし」と。王子が嘔吐下痢の病に罹り、他の医は剛剤を与え、喘ぎを加えた。乙曰く、「是れ本中熱に在り、脾将に傷つかんとす、奈何ぞ復た之を燥すや?将に前後の溲を得ざらん」と。之に石膏湯を与う。王信ぜず、謝して去る。二晩経て漸く劇しく、竟に言の如くにして効有り。

ある士が咳の病に罹り、顔色青くして光り、気が哽哽たり。乙曰く、「肝肺に乗ず、此れ逆候なり。若し秋に之を得ば、治すべし。今春なれば、治すべからず」と。其の人哀れみを乞い、強いて薬を与う。明日、曰く、「吾が薬再び肝を瀉すも、而して少も却かず。三たび肺を補うも、而して益々虚す。又た唇の白きを加う、法当に三日にして死すべし。今尚か粥を能くす、当に期を過ぐべし」と。五日を居てて絶ゆ。

妊婦の病、医は胎将に墜つと言う。乙曰く、「娠する者は五蔵伝えて養い、率ね六旬にして乃ち更わる。誠に其の月を候い、偏りて之を補わば、何ぞ必ずしも墜つるを要せん」と。已にして母子共に全うを得たり。又た乳婦悸き因りて病み、既に癒ゆるも、目開きて瞑るを得ず。乙曰く、「郁李酒を煮て之を飲ませて酔わしめよ、即ち癒ゆ。然る所以の者は、目係内に肝膽に連なり、恐るれば則ち気結び、膽衡して下らず。郁李は結びを去る能く、酒に随って膽に入り、結び去り膽下れば、則ち目能く瞑る」と。之を飲ませしに、果たして験有り。

乙は元来羸弱の病有り、毎自ら意を用いて之を治すも、而して後甚だしく、歎いて曰く、「此れ所謂周痹なり。蔵に入る者は死す、吾其れ已なんか」と。既にして曰く、「吾之を移して末に在らしむる能し」と。因りて自ら薬を製し、日夜之を飲む。左手足忽ち攣急して用いる能わず、喜んで曰く、「可なり」と。親しき者東山に登り、茯苓斗を逾える大なるを得たり。法に依りて之を啖い尽くす、ここより偏廃すれども、風骨悍堅にして全人の如し。病を以て免じて帰り、復た出でず。

乙が方剤を為すに一師に名付けず、書に窺わざる無く、靳々として古法を守らず。時に度を越え捨てを縦にし、卒に法と会す。尤も『本草』諸書に遽く、闕誤を辨正す。或いは異薬を得て、之を問えば、必ず生出の本末、物色、名貌の差別の詳しきを言い為し、退きて之を考うるに皆合う。末年攣痹漸く劇しく、為すべからざるを知り、親戚を召して訣別し、衣を易えて尽きるを待ち、遂に卒す。年八十二。

僧智縁

僧智縁、隨州の人、医に善し。嘉祐の末、京師に召し至り、相国寺に舎す。毎に脈を察し、人の貴賤、禍福、休咎を知り、父の脈を診て而して能く其の子の吉凶を道い、言う所神の若し、士大夫争いて之に造る。王珪と王安石と翰林に在り、珪は古に此れ無きを疑う。安石曰く、「昔し医和晋侯を診て、而して其の良臣将に死すを知る。夫れ良臣の命乃ち其の君の脈に見わる。則ち父を見て子を知るも、亦た何ぞ怪しむに足らんや」と。

熙寧中、王韶青唐を取らんと謀り、上言して蕃族は僧を重んじ、而して僧結呉叱臘は部帳を主ること甚だ衆しと、智縁を請いて俱に辺に至らしむ。神宗召見し、白金を賜い、伝に乗じて西せしめ、遂に「経略大師」と称す。智縁は弁口有り、径に蕃中に入り、結呉叱臘を説いて帰化せしめ、而して他の族の俞龍珂、禹蔵訥令支等皆因りて以て書をして款かす。韶は頗る之を忌み悪み、其の辺事を撓ますを言い、召し還し、以て右街首座と為し、卒す。

郭天信

郭天信、字は佑之、開封の人。技を以て太史局に隷す。徽宗端王たる時、嘗て退朝す。天信密かに遮り白して曰く、「王当に天下有るべし」と。既にして帝位に即く。因りて親昵を得る。数年を経ずして、枢密都承旨、節度観察留後に至る。其の子中復は閤門通事舎人と為り、進士に許りて陪し径に大廷に試みさせ、秘書省校書郎に擢でらる。未だ幾ばくもせず、天信甚だしきを覚え、武爵に還るを乞う。又た之に従う。

政和初、定武軍節度使、祐神観使を拝し、頗る外朝の政事に与聞す。蔡京の国を乱すを見て、毎に天文を託して以て之を撼がし、且つ云く、「日中に黒子有り」と。帝甚だ懼れ、之を言うこと已まず。京ここより黜せらる。張商英方に時望有り、天信往々内朝に於いて称す。商英亦た左右遊談の助を借らんと欲し、陰に相結び、僧徳洪の輩をして言語を道達せしむ。商英は帝に節儉を勧め、稍々僧寺を裁抑す。帝始めて之を敬畏す。而して近侍積もって楽しまず、間言浸潤し、眷日を衰えしむ。京の党因りて是を告げて商英と天信と禁中の言語を漏泄すと。天信先ず端を発し、上旨を窺い伺い、動息必ず報ず。乃ち外庭より之を決す。志の如からざる無し。商英遂に罷む。御史中丞張克公復た之を論ず。詔して天信を貶して昭化軍節度副使、単州安置と為し、宋康年に命じて単を守らしめ、其の起居を幾わしむ。再び行軍司馬に貶し、新州に竄す。又た康年を徒して広東に使わしむ。天信至ること数月、死す。京已に再び相と為るも、猶天信の術を挟みて能多きを疑い、死実ならざるを疑い、康年に命じて吏を選び棺を発きて之を験視せしむ。

魏漢津

魏漢津、本はしょくげい卒なり。自ら言う、唐の仙人李良「李八百」と号する者に師事し、鼎楽の法を授けられたりと。嘗て三山龍門に過ぎ、水声を聞き、人に謂いて曰く、「其の下必ず玉有らん」と。即ち衣を脱ぎて水に没し、石を抱いて出ず。果たして玉なり。皇祐中、房庶と俱に楽に善きを以て薦めらる。時に阮逸方に黍律を定む。用いられず。崇寧初猶在り。朝廷方に鍾律を協考せんとし、召見を得、楽議を献じ、黄帝、夏禹の声を律と為し、身を度と為すの説を得たりと言う。謂う、人主の稟賦衆と異なり、帝の指の三節三寸を以て度と為し、黄鍾の律を定めよと請う。而して中指の径囲は、則ち度量権衡の自ら出づる所なりと。又た云く、「声に太有り少有り。太なる者は、清声、陽なり。天道なり。少なる者は、濁声、陰なり、地道なり。中声其の間に在り、人道なり。三才の道を合わし、陰陽奇偶を備え、然る後四序得て而して調うべく、万物得て而して理うべし」と。当時迂怪と為す。蔡京独り之を神とす。或いは言う、漢津本は范鎮の役にして、稍々其の製作を窺い見、而して京之を李良に託すと云う。

そこで先に九鼎を鋳造することを請い、次に帝坐大鐘及び二十四気鐘を鋳造した。四年三月、鼎が完成し、号を「冲顕処士」と賜う。八月、『大晟楽』が完成する。徽宗は大慶殿に御して群臣の朝賀を受け、漢津に「虚和冲顕宝応先生」を加え、その楽書を天下に頒布した。しかし蔡京の客である劉昺が楽事を主管し、太・少の説が誤りであると論じ、改作を議しようとした。既に楽が完成して久しく、これを改めれば恐らく世間の耳目を動かすとして、遂に止めた。漢津は密かに蔡京に言うには、『大晟楽は古意を十の三四しか得ておらず、その他は多く古説に非ず、他日に任宗堯を訪ねて問うべきである』と。宗堯は漢津に学んだ者である。

漢津は陰陽数術に通暁し、多く奇しく的中し、嘗て知る者に語って曰く、『三十年を経ずして、天下乱れん』と。未幾にして死す。蔡京は遂に宗堯を召して典楽とし、また何か建てようとしたが、田為に奪われた。その語は『楽志』にある。後に即ち鼎を鋳造した所に宝成殿を建て、黄帝・夏禹・成王・周公・召公を祀り、而して良(魏漢津の本姓は良)・漢津ともに配食させた。漢津に諡して「嘉晟侯」とした。

馬賁という者あり、蔡京の門下に出で、大晟府に十三年在り、方や魏・劉・任・田が異論を唱えた時、その間に依違し、質正する所なく、通議大夫・徽猷閣待制まで擢げられた。議者は当時の名器の濫りを咎むること此の如し。

王老志

王老志は、濮州臨泉の人。親に事えて孝行をもって聞こえた。転運使の小吏となり、賄賂の謝礼を受け取らなかった。乞食の中に異人に遇い、自ら言うには、『我れ所謂鍾離先生なり』と。彼に丹を与え、服して狂気となった。遂に妻子を棄て、田間に草廬を結び、時に人に休咎を言った。

政和三年、太僕卿王亶がその名を聞こえさせた。京師に召され、蔡京の邸に館せしめられた。嘗て緘書一封を帝の所に至らせ、徽宗が開いて読むと、それは昔の秋中に喬・劉二妃と燕好した時の言葉であった。帝はこれによって稍々信じ、封じて「洞微先生」とした。朝士多く書を求めに従い、初めは解し難きが如く、後に終に応ずる者十に八九、故にその門市の如し。蔡京は甚だしきを慮り、頗る戒めとした。老志もまた謹んで畏れ、乃ち奏して禁絶させた。嘗て乾坤鑑法を献じ、これを鋳造せしめられた。既に成りて、帝と皇后は他日に皆難ありと謂い、時に鑑の下に坐し、以って戒懼し変を消す所以を思うことを請うた。

明年、その師に会い、富貴に擅り処することを責められ、乃ち帰ることを乞う。未だ請いを得ず、病甚だしく、始めてその去ることを許す。歩行して出で、就いて居るに、病は已に失せていた。濮に帰って死す。詔して金を賜い以って葬らしめ、正議大夫を贈られた。

初め、王黼が未だ顕達せざりし時、父が臨泉令たり、黼の名位の至る所を問うと、即ち「太平宰相」の四字を書いた。旋って墨を以ってこれを塗り去り、曰く、『恐らく機を泄らさん』と。黼が敗れるや、人は乃ち悟った。

王仔昔

王仔昔は、洪州の人。始め儒を学び、自ら許遜に遇い、『大洞』・『隠書』豁落七元の法を得たりと称し、嵩山に出遊し、人の未来の事を能く言う。政和中、徽宗召見し、号を「冲隠処士」と賜う。帝は旱魃に雨を祈り、毎に小黄門に紙を持たせて仔昔に画かせんことを求めた。日また至り、忽ち篆符をその上にし、仍て細書して「符を焚き湯を沃ぎてこれを洗え」と。黄門は懼れて肯えて受けず、強いて之をして、乃ち持って去らしむ。蓋し帝は黙祝して宮妃の赤目を療さんとする者に、その説を用い一たび沃げば、立ちどころに癒ゆ。進めて封じて「通妙先生」とし、上清宝籙宮に住まわしむ。九鼎神器は外に蔵すべからざるを献議す。乃ち禁中に円象徽調閣を建ててこれを貯えしむ。

仔昔は資性倨傲にして、又少し戇直、帝は常に客礼をもって待たれたので、その巨閹に遇うこと殆ど童奴の若く、又道士の群をして皆己を宗とせんと欲す。林霊素の寵有るに及んで、これを忌み、事を以って陥れ、東太一宮に囚う。旋って言語不遜に坐し、獄に下って死す。仔昔の罪を得るや、宦者馮浩の力最も多し。未だ死せざる時、その徒に示して書して曰く、『上蔡に冤人に遇わん』と。その後、浩は南に竄され、上蔡に至って誅せられる。

林霊素

林霊素は、温州の人。少時に浮屠に従い学ぶが、その師の笞罵に苦しみ、去って道士となる。妖幻を善くし、淮・泗の間を往来し、僧寺に乞食す。僧寺これを苦しむ。

政和の末、王老志・王仔昔既に衰え、徽宗は左道録徐知常に方士を訪ね、霊素を以って対える。既に見れば、大言して曰く、『天に九霄有り、而して神霄最も高く、その治めを府と曰う。神霄玉清王者は、上帝の長子にして、南方を主り、号して長生大帝君とす、陛下これなり。既に世に下降し、その弟は号して青華帝君、東方を主り、これを摂領す。己は乃ち府の仙卿褚慧と曰い、また下降して帝君の治を輔佐す』と。又た蔡京を左元仙伯と謂い、王黼を文華吏とし、盛章・王革を園苑宝華吏とし、鄭居中・童貫及び諸の巨閹皆これに名を為す。貴妃劉氏方に寵有り、九華玉真安妃と曰う。帝は心に独りその事を喜び、号を「通真達霊先生」と賜い、賞賚算うる無し。

上清宝籙宮を建て、密かに禁省に連なる。天下皆神霄万寿宮を建つ。浸浸として青華正昼壇に臨み、及び火龍神劍夜に内宮に降るの事を造り為し、帝誥・天書・雲篆を仮り、務めて以って世を欺き衆を惑わす。その説妄誕にして、質するに究むべからず、実に能く解する所無し。唯だ稍々五雷法を識り、風霆を召呼し、間に雨を祷りて小験有るのみ。吏民をして宮に詣り神霄秘録を受けしめ、進を嗜む朝士も、また靡然としてこれに趨る。毎に大斎を設け、輒ち緡錢数万を費やし、これを千道会と謂う。帝はその側に幄を設け、而して霊素は高く昇り正坐し、問う者は皆再拝して以って請う。言う所殊なる異無く、時に時におどけや嘲笑を雑えて以って笑いを助く。その徒美衣玉食、幾二万人。遂に道学を立て、郎・大夫十等を置き、諸殿侍晨・校籍・授経有り、以って待制・修撰・直閣に擬す。始め尽く釈氏を廃して以って前の憾みを逞しうせんと欲し、既にしてその名称冠服を改む。

霊素はますます尊重され、温州を応道軍節度に昇格させ、「元妙先生」「金門羽客」「冲和殿侍晨」の号を加えられ、出入りの際の呵引は、諸王と道を争うほどであった。都人は「道家の両府」と称した。もと道士の王允誠と共に怪神をなしていたが、後にその相軋を忌み、毒を盛って死なせた。宣和初年、都城に洪水が起こると、霊素に厭勝を命じた。ちょうど徒歩で虚城の上を率いていたところ、役夫が争って棍棒を挙げて打とうとしたので、逃げて難を免れた。帝は衆人の怨みを知り、初めて快く思わなくなった。

霊素は京師に四年在り、恣横でますます悔い改めず、道で皇太子に遇っても礼をせず避けなかった。太子が入って訴えると、帝は怒り、太虚大夫とし、故郷に斥還し、江端本に温州通判を命じて監察させた。端本はその居処が制を過ぎていることを廉察して罪に問い、詔して楚州に移すこととしたが、すでに死んでいた。遺奏が届くと、なお侍従の礼をもって葬った。

皇甫坦

皇甫坦は、蜀の夾江の人である。医術に長じていた。顕仁太后が眼病に苦しみ、国医も治療できず、詔して他の医者を募ったところ、臨安守臣の張偁が坦を推挙した。高宗が召見し、どうすれば身を治めるかと問うと、坦は「心が無為であれば身は安らぎ、人主が無為であれば天下は治まります」と答えた。慈寧殿に引かれて太后の眼病を治療すると、たちまち癒えた。帝は喜び、厚く賜わったが、一切受け取らなかった。香を持って青城山に祈祷させ、帰ると、また召して長生久視の術を問うと、坦は「まず諸欲を禁じ、放逸させぬことです。丹経万巻も、一を守るに如かず」と言った。帝は歎服し、「清静」の二字を書いてその庵の名とし、またその像を禁中に描かせた。

荊南帥の李道は坦をひそかに敬い、坦は毎年道を謁見した。隆興初年、道が入朝すると、高宗・孝宗が問うたが、皆皇甫先生と称して名を呼ばなかった。坦はまた人相を見るのが巧みで、かつて道の中女が必ず天下の母となると相し、後に果たして光宗の后となった。

王克明

王克明、字は彦昭、その初めは饒州楽平の人であったが、後に湖州烏程県に移った。紹興・乾道年間の名医である。生まれた時、母に乳がなく、粥を与えられたため、脾胃の病を得、成長するにつれてますますひどくなり、医者は治せないとした。克明は自ら『難経』『素問』を読んでその法を求め、心を砕いて薬を処方すると、その病は癒えた。初め術をもって江・淮を行き、蘇・湖に入り、鍼灸は特に精妙であった。脈を診て治療困難な者は、必ず深く考えてその要を得てから薬を与えた。病が数証あっても、あるいは一薬を用いてその本を除き、本が除かれると残りの病は自ずから去った。また薬を与えない者もあり、ある日に自ら安らかになることを期した。ある者は薬の過ちではなく、ある事に過ちがあるとして、その事に従って治すべきだと言った。言うことはことごとく験があった。士大夫は皆自ら屈して交遊した。

魏安行の妻が風痿で十年起き上がれなかったが、克明が鍼を施すと、歩行が初めのようになった。胡秉の妻が気秘で腹脹し、号呼すること十余日、克明が診察した。時に秉の家でちょうど会食していたので、克明は秉に「恭人の病を癒やし、会食に加わらせてもよいか」と言い、半硫円を生姜で碾き、乳香を調合して飲ませると、たちまち起きて普段のように食事をした。廬州守の王安道が風禁で十日間言葉を発せず、他の医者はどうすることもできなかった。克明は炭を熾くして地を焼き、薬を撒き、安道をその上に置くと、しばらくして蘇生した。金の使者の黒鹿谷が姑蘇を通りかかり、傷寒で死に瀕していたが、克明が治療すると、翌日癒えた。後に徐度に従って金に聘されると、黒鹿谷がちょうど先排使であり、克明を非常に厚く遇した。克明が訝しむと、谷はその故を述べ、これによって北方に名が聞こえた。後にまた呂正己に従って金に使いし、金の接伴使が突然危篤の病にかかると、克明がたちまち治し、謝礼を辞退した。張子蓋が海州を救う時、戦士に大疫が流行し、克明が軍中にいたため、全活した者は数万人に及んだ。子蓋がその功を上奏したが、克明は力辞した。

克明はかなり書を読み、侠を好み義を尚び、常に数千里を急な人のために赴いた。初め礼部の試験に中選し、累任して医官となった。王炎が四川を宣撫する時、克明を辟召したが、就かなかった。炎は怒り、克明が事を避けたと弾劾し、罪に坐して秩を貶された。後に額内翰林医痊局に遷り、金紫を賜わった。紹興五年に卒し、年六十七。

莎衣道人

莎衣道人、姓は何氏、淮陽軍朐山の人である。祖父の執礼は、朝議大夫に至った。道人は乱を避けて江を渡り、かつて進士に挙げられたが及第しなかった。紹興末年、平江に来た。ある日、外から帰ると、たちまち狂者のようになり、身に白襴を着て、昼は市で乞食し、夜は天慶観に止まった。久しくして衣はますます破れ、莎で繕った。かつて妙厳寺に遊び、池に臨んで影を見て、豁然として大悟した。人は貴賤を問わず、吉凶を問うと、ことごとく奇しく当たった。ちょうちょう癆病の者が医を乞うと、一草を持って去るよう命じ、十日で癒えた。衆人は翕然として莎草が病を癒やすと伝え、求めて得られない者は、あるいは遂に起き上がれず、これによって遠近で異人とされた。

孝宗がある夜、莎衣の人が跣足で泣きながら来て弔う夢を見、訊ねると「蘇の人です」と言う。その故を詰問すると、言おうとしなかった。帝が覚めて、内侍に語った。ちょうど后と太子が薨じ、帝が哀泣すると、内侍が進み出て慰め、併せて先の夢を述べた。帝はそこで矍然とし、使者を遣わして召したが、来なかった。帝は恢復の大計を思い、累年属する所がなく、后位が虚しく且つ久しいので、香を焚いて黙言した。「何誠に仙顧あらば、必ず朕の意を知るであろう。」そこで中官に贄を持たせて行かせ、理由は言わなかった。道人はこれを見て首を振り、呉音で言った。「中国あれば外夷あり、日あれば月あり、問うに及ばず。」急いで去らせた。使者が帰って奏上すると、帝は非常に異とし、そこで「通神先生」の号を賜い、観中に庵を築き、衣数襲を賜わったが、皆受け取らなかった。好事者が強いて庵に招き入れると、大笑して出て、また元の場所に戻った。衆人は日に珍饌を贈ったが、毎回大通りで食事し、満腹するとすぐ去った。

帝は毎年内侍に命じてその居所で十道の斎を設け、雲水の士を合わせ、施与を優しく普く行わせた。ある年、たまたま期限が過ぎ、衆人は皆訝しんで請うと、道人は急に臥所から起き、手を振り目を瞬かせて招き、「急げ、急げ!」と言った。この日内侍が平望に至り、衆人はますますその神異に服した。光宗が即位し、召したが、また来なかった。慶元六年に卒した。

孫守栄

孫守栄は、臨安富陽の人である。七歳の時、病で目が見えなくなった。異人に遇い、風角・鳥占の術を教えられ、その法は音律をもって五数を推し、五行を播き、万物の始終盛衰の理を測度するものであった。問う者は、一言のうちに、たちまち吉凶を知った。守栄が悟ると、異人は鉄笛を授け、遂に去って再び会わなかった。守栄はそこで「富春子」と号し、市中で笛を吹いたが、人は初めは異としなかった。しかしその術は概ね験があった。

寶慶年間(1225-1227年)、彼は吳興を遊歴し、譙樓の鼓角の音を聞いて驚き、「旦夕の間に変事が起こり、当地の者が郡守となるであろう」と言った。王元春を見るや、即座に祝して言うには、「郷里の郡守となる者は、必ずや貴君である」と。元春は初めこれを信じなかった。二月を経て、潘丙が乱を起こすと、元春は変事を報告した功績により、果たして郡守となった。ここにおいて富春子の名は大いに顕れ、貴人たちは争って彼を招きもてなした。

淮南の帥(長官)李曾伯が朝廷に彼を推薦した。都に到着すると、丞相史嵩之に謁見しようとしたが、門番が昼寝中であると断った。守榮は言った、「丞相は今、園池で魚を釣っておられる。どうしてそのようなことがあろうか」と。門番は驚き怪しみ、内に入って丞相に報告した。丞相は一度会って、大いに彼を気に入った。ここよりしばしば相府に出入りするようになった。ある日、庭の鵲が騒がしく鳴いたので、占わせると、言うには、「明日の晡時(午後三時から五時)に、宝物が届くであろう」と。翌日、李全が果たして玉柱斧を貢物として献上した。嵩之はまたかつて李全からの檄文を袖に隠し持っており、その事を尋ねると、守榮は言った、「これは李全が二十万の布囊を詐称したものに過ぎません」と。封を剥がして見ると、果たしてその言う通りであった。

士大夫たちは皆その履歴を尋ねたが、守榮は全てには答えなかった。親しい者に私的に言うには、「私は音律をもって朝廷の諸紳士を推し量ると、互いに盈虧あり、宋の禄(国運)はまさに尽きようとしているのではないか」と。後に嵩之に忌まれるところとなり、他の罪を着せられて、遠郡に貶謫され、その地で死んだ。