宋史

列傳第二百二十一 方技下 賀蘭棲眞 柴通玄 甄棲眞 楚衍 僧志言 僧懷丙 許希 龐安時 錢乙 僧智縁 郭天信 魏漢津 王老志 王仔昔 林靈素 皇甫坦 王克明 莎衣道人 孫守榮

列傳第二百二十一 方技下 賀蘭棲眞 柴通玄 甄棲眞 楚衍 僧志言 僧懷丙 許希 龐安時 錢乙 僧智縁 郭天信 魏漢津 王老志 王仔昔 林靈素 皇甫坦 王克明 莎衣道人 孫守榮

賀蘭棲真

原文賀蘭棲真

賀蘭棲真は、何許の人なるかを知らず。道士となり、自ら百歳と称す。服気を善くし、寒暑を憚らず、往々にして食わず。或いは時に酒を縱し、市廛の間を遊び、肉を数斤まで啖う能あり。始め嵩山の紫虛観に居し、後に濟源の奉仙観に徙る。張齊賢これと善し。景德二年、詔して曰く、「師は巖壑に身を棲まし、煙霞に志を抗し、衆妙の門を観心し、浮雲の外に屣を脱す。朕は希夷を奉じて教と為し、清靜を法として民に臨む。有道の人を得て、無為の理を訪わんことを思う。久しく上士を懷い、真風を覿さんと欲し、爰に使車を命じ、往きて禮聘を申さしむ。師其れ暫く林谷を別ち、闕庭に来儀せよ。必ず招延に副い、登涉を憚ること無かれ。今、入內內品李懷贇を遣わして師を召し闕に赴かしむ」と。既に至るや、真宗二韻の詩を作りてこれを賜い、「宗玄大師」と號し、紫服・白金・茶・帛・香・薬を賚い、特に観の田租を蠲免し、その侍者を度す。未だ幾ばくもあらざるに、舊居に還るを求む。大中祥符三年卒す。時に大雪、三日を經て、頂猶ほ熱く、人多くこれを異とす。

原文賀蘭棲真,不知何許人。為道士,自言百歲。善服氣,不憚寒暑,往往不食。或時縱酒,遊市廛間,能啖肉至數斤。始居嵩山紫虛觀,後徙濟源奉仙觀,張齊賢與之善。景德二年,詔曰:「師棲身巖壑,抗志煙霞,觀心眾妙之門,脫屣浮雲之外。朕奉希夷而為教,法清靜以臨民,思得有道之人,訪以無為之理。久懷上士,欲覿真風,爰命使車,往申禮聘。師其暫別林谷,來儀闕庭,必副招延,無憚登涉。今遣入內內品李懷贇召師赴闕。」既至,真宗作二韻詩賜之,號「宗玄大師」,賚以紫服、白金、茶、帛、香、藥,特蠲觀之田租,度其侍者。未幾,求還舊居。大中祥符三年卒,時大雪,經三日,頂猶熱,人多異之。

柴通玄

原文柴通玄

柴通玄、字は又玄、陝州閿郷の人。承天観にて道士となる。年百余歳、辟穀・長嘯を善くし、唯だ酒を飲む。唐末の事を言えば、歴歴として聽くに足る。太宗これを闕下に召し至らしむるも、懇ろに本観に歸るを求む。真宗即位し、屢々京師に來る。召して對せしむるに、語に文飾無く、多く修身慎行を以て説と為す。汾陰を祀るに、行在に召し至らしめ、坐を命じ、無為の要を問う。居る観は即ち唐の軒遊宮にして、明皇の詩石及び書ける所の『道德經』二碑有り。上二韻の詩を作りてこれを賜い、併せて茶・薬・束帛を賚う。修道院と為すことを詔し、その田租を蠲免し、弟子二人を度す。明年の春、通玄遺表を作り、自ら「羅山太一洞主」と稱し、弟子の張守元・李守一を遣わして闕に詣らしめ、龜鶴を以て獻ぜしむ。又官僚士庶を召して生死の要を言わしむ。夜分、盥濯し、香を庭中に然し、闕を望みて坐し、遲明に卒す。

原文柴通玄,字又玄,陝州閿鄉人。為道士於承天觀。年百餘歲,善辟穀長嘯,唯飲酒。言唐末事,歷歷可聽。太宗召至闕下,懇求歸本觀。真宗即位,屢來京師。召對,語無文飾,多以修身慎行為說。祀汾陰,召至行在,命坐,問以無為之要。所居觀即唐軒遊宮,有明皇詩石及所書《道德經》二碑。上作二韻詩賜之,並賚以茶、藥、束帛。詔為修道院,蠲其田租,度弟子二人。明年春,通玄作遺表,自稱「羅山太一洞主」,遣弟子張守元、李守一詣闕,以龜鶴為獻;又召官僚士庶言生死之要。夜分,盥濯,然香庭中,望闕而坐,遲明卒。

時に又た河中の草澤劉巽・華山の隱士鄭隱・敷水の隱士李寧を召す。巽は年七十余、經傳を講授し、躬耕して自ら給す。大理評事を授けて致仕せしめ、綠袍・笏・銀帯を賜う。隱は經術を以て業と為し、道士に遇いて辟穀煉氣の法を傳えられ、修習すること頗る驗あり。華山の王刁巖に居ること二十年を踰え、冬夏裳衣皮裘す。寧は薬術に精しく、老いて衰えず、常に薬を以て人に施し、人の金帛を以て報いんとすれば、輒ちこれを拒む。景德中、萬安太后豫よせず、驛にて寧を召し闕に赴かしむるも、未だ至らざるに而后崩ず。大中祥符四年、「正晦先生」の號を賜う。上並びに詩を作りて賜い、茶・薬・繒帛を以て加う。獨り隱は賜物を辭し受けず。

原文時又召河中草澤劉巽、華山隱士鄭隱、敷水隱士李寧。巽年七十餘,以經傳講授,躬耕自給。授大理評事致仕,賜綠袍、笏、銀帶。隱以經術為業,遇道士傳辟穀煉氣之法,修習頗驗,居華山王刁巖逾二十年,冬夏裳衣皮裘。寧精於藥術,老而不衰,常以藥施人,人以金帛為報,輒拒之。景德中,萬安太后不豫,驛召寧赴闕,未至而后崩。大中祥符四年,賜號「正晦先生」。上並作詩為賜,加以茶、藥、繒帛。獨隱辭賜物不受。

甄棲真

原文甄棲真

甄棲真、字は道淵、單州單父の人。經傳に博く涉り、詩賦に長ず。一たび進士舉に應ずるも、第に中らず、歎いて曰く、「神を勞し精を敝して虛名を追うは、益無きなり」と。遂にその業を棄て、道家の書を讀みて以て自ら樂しむ。初め牢山の華蓋先生に道を訪う。久しくして出でて京師に遊び、因りて建隆観に入り道士と為る。四方を周歷す。薬術を以て人を濟い、その報いを取らず。祥符中、晉州に寓居し、性は和靜にして好惡すること無く、晉人これ愛す。紫極宮の主と為す。

原文甄棲真,字道淵,單州單父人。博涉經傳,長於詩賦。一應進士舉,不中第,歎曰:「勞神敝精,以追虛名,無益也!」遂棄其業,讀道家書以自樂。初訪道於牢山華蓋先生,久之出遊京師,因入建隆觀為道士。周歷四方。以藥術濟人,不取其報。祥符中,寓居晉州,性和靜無所好惡,晉人愛之。以為紫極宮主。

年七十有五、人に遇う。或いは許元陽なるかと以為い、これに語りて曰く、「汝が風神は秀異にして、李筌の如し。老いたりと雖も、尚ほ仙と為るべし」と。因りて煉形養元の訣を授け、且つ曰く、「道を得るは反掌の如し。第に行うこと惟だ艱し。汝勉めよ」と。棲真これを行うこと二三年、漸く童顏に反り、高きに攀じ危きを攝るに、輕くして飛舉の若し。乾興元年秋、その徒に謂いて曰く、「この歳の暮れ、吾まさに逝かん」と。即ち宮の西北隅に自ら殯室を甃く。室成り、一月食わず、平居の知る所と敘別し、十二月二日に紙衣を衣て磚塌に臥し卒す。人未だこれを奇とせず。歳久しきに及び、形は生けるが如く、衆始めて驚き、屍解なりと傳えて以爲う。

原文年七十有五,遇人,或以為許元陽,語之曰:「汝風神秀異,有如李筌。雖老矣,尚可仙也。」因授煉形養元之訣,且曰:「得道如反掌,第行之惟艱,汝勉之。」棲真行之二三年,漸反童顏,攀高攝危,輕若飛舉。乾興元年秋,謂其徒曰:「此歲之暮,吾當逝矣。」即宮西北隅自甃殯室。室成,不食一月,與平居所知敘別,以十二月二日衣紙衣臥磚塌卒。人未之奇也。及歲久,形如生,眾始驚,傳以為屍解。

棲真自ら「神光子」と號し、隱人海蟾子なる者と、詩を以て往還す。養生の秘術を論じ、目して『還金篇』と曰う。凡そ兩卷。

原文棲真自號「神光子」,與隱人海蟾子者,以詩往還。論養生秘術,目曰《還金篇》,凡兩卷。

楚衍

原文楚衍

楚衍は、開封阼城の人。少くして四聲字母に通ず。里人柳曜、衍に師事し、里中にて先生を以てこれを見る。衍は『九章』・『緝古』・『綴術』・『海島』の諸算經に於いて特にその妙を得る。相法及び『聿斯經』に明らかにし、推歩・陰陽・星曆の数を善くし、間いて休咎を語れば中らざること無し。自ら陳べて『宣明曆』を試み、司天監學生に補せられ、保章正に遷る。天聖初、新曆を造る。衆、衍の曆數に明らかなるを推し、靈臺郎を授け、掌曆官宋行古等九人と崇天曆を製す。司天監丞に進み、翰林天文に隷す。皇祐中、同じく『司辰星漏曆』十二卷を造る。久しくして、周琮と同く司天監を管勾す。卒す。子無く、女有り亦た算術に善し。

原文楚衍,開封阼城人。少通四聲字母,裏人柳曜師事衍,裏中以先生目之。衍於《九章》、《緝古》、《綴術》、《海島》諸算經尤得其妙。明相法及《聿斯經》,善推步、陰陽、星曆之數,間語休咎無不中。自陳試《宣明曆》,補司天監學生,遷保章正。天聖初,造新曆,眾推衍明曆數,授靈臺郎,與掌曆官宋行古等九人製崇天曆。進司天監丞,入隸翰林天文。皇祐中,同造《司辰星漏曆》十二卷。久之,與周琮同管勾司天監。卒,無子,有女亦善算術。

僧志言

原文僧志言

僧志言、自ら姓は許、壽春の人と曰う。東京景德寺七俱眂院に落髮し、清璲に事う。初め、璲は經を誦すること勤苦なりしに、志言忽ち璲に造り、跪き前みて弟子たらんことを願う。璲その相貌の奇古なるを見、直視して瞬かず、心にこれを異とし、具戒を授く。然れども動止は軒昂にして、語笑に度無く、多く市里を行き、裳を褰ぎて疾く趨り、指を舉げて空に書し、佇立すること良久し。時に屠酤に從い遊び、飲啖すること擇ぶ所無し。衆以て狂と為すも、璲獨り曰く、「これ異人なり」と。

原文僧志言,自言姓許,壽春人。落髮東京景德寺七俱眂院,事清璲。初,璲誦經勤苦,志言忽造璲,跪前願為弟子。璲見其相貌奇古,直視不瞬,心異之,為授具戒。然動止軒昂,語笑無度,多行市里,褰裳疾趨,舉指書空,佇立良久;時從屠酤遊,飲啖無所擇。眾以為狂,璲獨曰:「此異人也。」

人が斎施を為さんと欲すれば、輒ち先ずその至るを知り、召さずして門を款き、指名して供を取る。温州の人林仲方、其の家より摩衲を以て来たりて献ず、舟始めて岸に及ぶや、遽かに来たりて取り去る。仁宗は毎に禁中に延き入れ、径に登り坐して結跏し、飯畢りて遽に出で、未だ嘗て揖せざりき。王公士庶召せば即ち赴く、然れども一言を交うる者莫し。或いは陰に休咎を卜せば、紙に書し揮翰甚だ疾く、字體遒壮にして、初めは曉るべからず、其の後多く驗あり。仁宗春秋漸く高く、嗣未だ立たず、默かに内侍を遣わして言の所に至らしむ。言の書する所に「十三郎」の字あり、人測る莫く何の謂いぞ。後に英宗、濮王第十三子を以て入りて繼ぎ、衆始めて悟る。大宗正守節書を請う、言顧みず、之を迫るに、「潤州」の字を得たり。未幾、守節薨じ、丹陽郡王を贈らる。寺童義懷を見て、其の背を撫でて曰く「德山、臨濟」と。懷既に落髮し、天衣に住し、説法し、大いに學者に宗とせらる、其の前知多く此に類す。

原文人有欲為齋施,輒先知其至,不召款門,指名取供。溫州人林仲方自其家以摩衲來獻,舟始及岸,遽來取去。仁宗每延入禁中,徑登坐結趺,飯畢遽出,未嘗揖也。王公士庶召即赴,然莫與交一言者。或陰卜休咎,書紙揮翰甚疾,字體遒壯,初不可曉,其後多驗。仁宗春秋漸高,嗣未立,默遣內侍至言所。言所書有「十三郎」字,人莫測何謂。後英宗以濮王第十三子入繼,眾始悟。大宗正守節請書,言不顧,迫之,得「潤州」字。未幾,守節薨,贈丹陽郡王。見寺童義懷,撫其背曰:「德山、臨濟。」懷既落髮,住天衣,說法,大為學者所宗,其前知多類此。

普淨院に浴を施し、夜漏初めて盡き、門扉未だ啟けず、方に佛を迎えんとして浴室に人聲あり、往きて視れば、則ち言在り。齋を具え鱠を薦むる者有り、併せて之を食い、流れに臨みて吐けば、化けて小鮮と為り、群れ泳ぎて去る。海客風に遇いて且に没せんとす、僧の縆を操り舶を引きて濟うを見る。客都下に至りて言に遇い、忽ち之に謂いて曰く「我に非ずんば、汝奈何せん」と。客其の貌を記す、真に舟を引く者なり。曹州の士趙棠と善し、後に棠官を棄て番禺に隠居す。人傳う、棠と言數を以て偈頌を相寄す、萬里の間輒ち數日にして達すと。棠死し、亦盛夏に身壞れず。

原文普淨院施浴,夜漏初盡,門扉未啟,方迎佛而浴室有人聲,往視,則言在焉。有具齋薦鱠者,並食之,臨流而吐,化為小鮮,群泳而去。海客遇風且沒,見僧操縆引舶而濟。客至都下遇言,忽謂之曰:「非我,汝奈何?」客記其貌,真引舟者也。與曹州士趙棠善,後棠棄官隱居番禺。人傳棠與言數以偈頌相寄,萬里間輒數日而達。棠死,亦盛夏身不壞。

言將に死なんとして、頌を作り、曉るべからず。已にして曰く「我古始より成就し、多く國土を逃れ、今南國に至れり」と。仁宗内侍を遣わして真身塑像を以て寺中に置き、榜して曰く「顯化禪師」と。其の後善く厚くする者之を禮すれば、額上熒然として光有るを見、就きて之を視れば、舍利を得たり。

原文言將死,作頌,不可曉。已而曰:「我從古始成就,逃多國土,今南國矣。」仁宗遣內侍以真身塑像置寺中,榜曰「顯化禪師」。其後善厚者禮之,見額上熒然有光,就視之,得舍利。

僧懷丙

原文僧懷丙

僧懷丙、真定の人。巧思天性に出で、學ぶ所能く至るに非ず。真定木を構えて浮圖十三級と為し、勢い特に孤絕なり。既に久しくして中級の大柱壞れ、西北に傾かんと欲し、他の匠能く為す莫し。懷丙短長を度り、別に柱を作り、衆工を命じて維ぎて上らしむ。已にして衆工を卻け、一介を以て自ら從い、戸を閉じて良久しくし、柱を下に易え、斧鑿の聲を聞かず。

原文僧懷丙,真定人。巧思出天性,非學所能至也。真定構木為浮圖十三級,勢尤孤絕。既久而中級大柱壞,欲西北傾,他匠莫能為。懷丙度短長,別作柱,命眾工維而上。已而卻眾工,以一介自從,閉戶良久,易柱下,不聞斧鑿聲。

趙州洨河石を鑿ちて橋と為し、鐵を鎔かして其の中を貫く。唐より以来數百年相傳え、大水能く壞さず。歲久しく、鄉民多く盜みて鐵を鑿む、橋遂に欹倒し、千夫を計りても正しむること能わず。懷丙衆工を役せず、術を以て之を正し、故に復らしむ。河中府の浮梁、鐵牛八を以て之を維ぐ、一牛且つ數萬斤。後水暴漲して梁を絕ち、牛を牽きて河に沒す、能く之を出だす者を募る。懷丙二の大舟に土を實え、牛を夾みて之を維ぎ、大木を以て權衡の狀を為して牛を鉤い、徐ろに其の土を去れば、舟浮かび牛出づ。轉運使張燾以て聞こえしめ、紫衣を賜う。尋で卒す。

原文趙州洨河鑿石為橋,鎔鐵貫其中。自唐以來相傳數百年,大水不能壞。歲久,鄉民多盜鑿鐵,橋遂欹倒,計千夫不能正。懷丙不役眾工,以術正之,使復故。河中府浮梁用鐵牛八維之,一牛且數萬斤。後水暴漲絕梁,牽牛沒於河,募能出之者。懷丙以二大舟實土,夾牛維之,用大木為權衡狀鉤牛,徐去其土,舟浮牛出。轉運使張燾以聞,賜紫衣。尋卒。

許希

原文許希

許希、開封の人。醫を以て業と為し、翰林醫學を補す。景祐元年、仁宗豫せず、侍醫數たび藥を進むるも效なく、人心憂恐す。冀國大長公主希を薦む、希診して曰く「心下包絡の間に鍼すれば、亟に愈ゆべし」と。左右爭いて以て不可と為し、諸黄門身を以て試みんことを祈り、之を試みるに、害する所無し。遂に鍼を以て進め、而して帝疾愈ゆ。命じて翰林醫官と為し、緋衣・銀魚及び器幣を賜う。希拜謝已り、又西向して拜す、帝其の故を問う、對えて曰く「扁鵲は臣が師なり。今の者は臣の功に非ず、殆ど臣が師の賜なり、安んぞ師を忘れんや」と。乃ち以て得たる金を請うて扁鵲廟を興す。帝為に城西隅に廟を築き、靈應侯を封ず。其の後廟益々完く、醫を學ぶ者歸き趨すること之に因り、因りて太醫局を其の傍に立つ。

原文許希,開封人。以醫為業,補翰林醫學。景祐元年,仁宗不豫,侍醫數進藥,不效,人心憂恐。冀國大長公主薦希,希診曰:「鍼心下包絡之間,可亟愈。」左右爭以為不可,諸黃門祈以身試,試之,無所害。遂以鍼進,而帝疾愈。命為翰林醫官,賜緋衣、銀魚及器幣。希拜謝已,又西向拜,帝問其故,對曰:「扁鵲,臣師也。今者非臣之功,殆臣師之賜,安敢忘師乎?」乃請以所得金興扁鵲廟。帝為築廟於城西隅,封靈應侯。其後廟益完,學醫者歸趨之,因立太醫局於其旁。

希殿中省尚藥奉御に至り、卒す。著す『神應鍼經要訣』世に行わる。其の子宗道を錄して内殿崇班に至らしむ。

原文希至殿中省尚藥奉御,卒。著《神應鍼經要訣》行於世。錄其子宗道至內殿崇班。

龐安時

原文龐安時

龐安時、字は安常、蘄州蘄水の人。兒時に能く書を読み、目に過ぐれば輒ち記す。父は世醫なり、脈訣を授く。安時曰く「是は為すに足らざるなり」と。獨り黄帝・扁鵲の脈書を取りて之を治め、未だ久しからずして、已に能く其の説を通じ、時に新意を出だし、辨詰して屈せしむること能わず、父大いに驚く、時に年猶未だ冠せず。已にして聵を病み、乃ち益々『靈樞』・『太素』・『甲乙』諸の秘書を読み、凡そ經傳百家の其の道に涉る者は、靡くを通貫せず。嘗て曰く「世の所謂醫書は、予皆之を見る、惟だ扁鵲の言深し。蓋し所謂『難經』なる者は、扁鵲術を其の書に寓し、而して之を言うに祥らざるは、意は後人をして自ら之を求めしめんか。予の術蓋し此に出づ。之を以て淺深を視、死生を決するは、符節を合するが若し。且つ脈を察するの要は、人迎・寸口より急なるは莫し。是の二脈陰陽相応じ、兩の繩を引くが如く、陰陽均しければ則ち繩の大小等しく、故に陰陽を喉・手に定め、覆溢を尺・寸に配し、九候を浮沉に寓し、四溫を傷寒に分つ。此れ皆扁鵲略其の端を開き、而して予『内經』諸書を參じて、考究して其の説を得たり。審らかにして之を用い、順にして之を治めば、病逃るることを得ず」と。又術を以て後世に告げんと欲し、故に『難經辨』數萬言を著す。草木の性と五藏の宜とを觀、其の職任を秩し、其の寒熱を官し、其の奇偶を班し、以て百疾を療し、『主對集』一卷を著す。古今異宜し、方術脫遺し、陰陽の變を備え、仲景の『論』を補う。藥後出する有り、古の知らざる所、今辨ずること能わず、嘗試して功有り、遺すべからず。『本草補遺』を作る。

原文龐安時,字安常,蘄州蘄水人。兒時能讀書,過目輒記。父,世醫也,授以脈訣。安時曰:「是不足為也。」獨取黃帝、扁鵲之脈書治之,未久,已能通其說,時出新意,辨詰不可屈,父大驚,時年猶未冠。已而病聵,乃益讀《靈樞》、《太素》、《甲乙》諸秘書,凡經傳百家之涉其道者,靡不通貫。嘗曰:「世所謂醫書,予皆見之,惟扁鵲之言深矣。蓋所謂《難經》者,扁鵲寓術於其書,而言之不祥,意者使後人自求之歟!予之術蓋出於此。以之視淺深,決死生,若合符節。且察脈之要,莫急於人迎、寸口。是二脈陰陽相應,如兩引繩,陰陽均,則繩之大小等,故定陰陽於喉、手,配覆溢於尺、寸,寓九候於浮沉,分四溫於傷寒。此皆扁鵲略開其端,而予參以《內經》諸書,考究而得其說。審而用之,順而治之,病不得逃矣。」又欲以術告後世,故著《難經辨》數萬言。觀草木之性與五藏之宜,秩其職任,官其寒熱,班其奇偶,以療百疾,著《主對集》一卷。古今異宜,方術脫遺,備陰陽之變,補仲景《論》。藥有後出,古所未知,今不能辨,嘗試有功,不可遺也。作《本草補遺》。

人の為に病を治し、率ね十に八九を愈やす。門に踵きて診を求むる者の為に、邸舍を辟きて之を居らしめ、親しく饘粥・藥物を視、必ず愈えて而して後遣わす。其の為すべからざる者は、必ず實に之を告げ、復た治めず。人を活かすこと數無し。病家金帛を持ち来たりて謝す、盡く取らず。

原文為人治病,率十愈八九。踵門求診者,為辟邸舍居之,親視饘粥、藥物,必愈而後遣;其不可為者,必實告之,不復為治。活人無數。病家持金帛來謝,不盡取也。

嘗て舒の桐城に詣る、民家の婦孕みて將に産まんとす、七日にして子下らず、百術效する所無し。安時の弟子李百全適た傍舍に在り、安時を邀えて往きて之を視しむ。纔に見るや、即ち連呼して死せずとし、其の家人をして湯を以て其の腰腹を溫めしめ、自ら上下に拊摩す。孕者腸胃微痛を覺え、呻吟の間一男子を生む。其の家驚喜す、而して然る所以を知らず。安時曰く「兒已に出胞す、而して一手誤って母の腸を執りて復た能く脫することを得ず、故に符藥の能く為す所に非ず。吾腹を隔てて兒の手の在る所を捫り、其の虎口に針す、既に痛むや即ち手を縮む、所以に遽かに生まる、他術無きなり」と。兒を取って之を視れば、右手の虎口に針痕存す。其の妙此の如し。

原文嘗詣舒之桐城,有民家婦孕將產,七日而子不下,百術無所效。安時之弟子李百全適在傍舍,邀安時往視之。才見,即連呼不死,令其家人以湯溫其腰腹,自為上下拊摩。孕者覺腸胃微痛,呻吟間生一男子。其家驚喜,而不知所以然。安時曰:「兒已出胞,而一手誤執母腸不復能脫,故非符藥所能為。吾隔腹捫兒手所在,針其虎口,既痛即縮手,所以遽生,無他術也。」取兒視之,右手虎口針痕存焉。其妙如此。

華佗の事を以て問う者有り、曰く「術是の若くんば、人の能く為す所に非ず。其の史の妄れるか」と。年五十八にして疾作る、門人自ら脈を視んことを請う、笑いて曰く「吾之を察するに審らかなり。且つ出入の息も亦脈なり、今胃氣已に絕えたり。死せり」と。遂に藥餌を屏卻す。後數日、客と坐して語りて卒す。

原文有問以華佗之事者,曰:「術若是,非人所能為也。其史之妄乎!」年五十八而疾作,門人請自視脈,笑曰:「吾察之審矣。且出入息亦脈也,今胃氣已絕。死矣。」遂屏卻藥餌。後數日,與客坐語而卒。

錢乙

原文錢乙

錢乙、字は仲陽、本は呉越王錢俶の支族に属し、祖父が北に移住したため、鄆州の人となった。父の穎は医術に優れていたが、酒を好み遊びを楽しみ、ある日、東の海上へ行ったまま帰らなかった。乙は三歳の時、母は先に死に、姑が呂氏に嫁いでいたので、哀れんで引き取って養育し、成長して医術を教え、そこで家の由緒を告げた。乙は泣き、行方を尋ねて往くことを請うたこと、凡そ八、九度。数年を積み、遂に父を迎えて帰ったが、時に既に三十年を経ていた。郷人は感慨し、詩を賦してこれを詠んだ。彼は呂氏に事えること父の如くし、呂氏が没して後嗣が無かったので、葬り喪に服した。

原文錢乙,字仲陽,本吳越王俶支屬,祖從北遷,遂為鄆州人。父穎善醫,然嗜酒喜遊,一旦,東之海上不反。乙方三歲,母前死,姑嫁呂氏,哀而收養之,長誨之醫,乃告以家世。即泣,請往跡尋,凡八九反。積數歲,遂迎父以歸,時已三十年矣。鄉人感慨,賦詩詠之。其事呂如事父,呂沒無嗣,為收葬行服。

乙は初め『顱䪿方』をもって著名となり、京師に至り長公主の娘の病を診て、翰林医学を授けられた。皇子が瘈疭の病にかかると、乙は黄土湯を進めて治癒させた。神宗が召して黄土が病を癒す所以の状を問うと、対えて曰く、「土をもって水に勝たしめ、水が其の平を得れば、則ち風自ずから止む」と。帝は喜び、太醫丞に抜擢し、金紫を賜うた。ここより公卿宗戚の家に招かれること日とて虚しきこと無し。

原文乙始以《顱䪿方》著名,至京師視長公主女疾,授翰林醫學。皇子病瘈疭,乙進黃土湯而愈。神宗召問黃土所以愈疾狀,對曰:「以土勝水,水得其平,則風自止。」帝悅,擢太醫丞,賜金紫。由是公卿宗戚家延致無虛日。

廣親の宗子が病み、診て曰く、「此は薬無くして癒ゆべし」と。其の幼い子が傍らに居り、之を指して曰く、「是れ将に暴疾有りて人を驚かすべく、後三日の午後を過ぐれば、恙無かるべし」と。其の家は憤り、答えず。明日、幼子果たして癎を発すること甚だ急なり、乙を召して治させしに、三日で癒ゆ。其の故を問うと、曰く、「火色直視す、心と肝と俱に邪を受く。午後を過ぐるは、用いる時当に更まるべし」と。王子が嘔吐下痢の病に罹り、他の医は剛剤を与え、喘ぎを加えた。乙曰く、「是れ本中熱に在り、脾将に傷つかんとす、奈何ぞ復た之を燥すや?将に前後の溲を得ざらん」と。之に石膏湯を与う。王信ぜず、謝して去る。二晩経て漸く劇しく、竟に言の如くにして効有り。

原文廣親宗子病,診之曰:「此可毋藥而愈。」其幼在傍,指之曰:「是且暴疾驚人,後三日過午,可無恙。」其家恚,不答。明日,幼果發癎甚急,召乙治之,三日愈。問其故,曰:「火色直視,心與肝俱受邪。過午者,所用時當更也。」王子病嘔泄,他醫與剛劑,加喘焉。乙曰:「是本中熱,脾且傷,奈何復燥之?將不得前後溲。」與之石膏湯,王不信,謝去。信宿寖劇,竟如言而效。

ある士が咳の病に罹り、顔色青くして光り、気が哽哽たり。乙曰く、「肝肺に乗ず、此れ逆候なり。若し秋に之を得ば、治すべし。今春なれば、治すべからず」と。其の人哀れみを乞い、強いて薬を与う。明日、曰く、「吾が薬再び肝を瀉すも、而して少も却かず。三たび肺を補うも、而して益々虚す。又た唇の白きを加う、法当に三日にして死すべし。今尚か粥を能くす、当に期を過ぐべし」と。五日を居てて絶ゆ。

原文士病欬,面青而光,氣哽哽。乙曰:「肝乘肺,此逆候也。若秋得之,可治;今春,不可治。」其人祈哀,強予藥。明日,曰:「吾藥再瀉肝,而不少卻;三補肺,而益虛;又加唇白,法當三日死。今尚能粥,當過期。」居五日而絕。

妊婦の病、医は胎将に墜つと言う。乙曰く、「娠する者は五蔵伝えて養い、率ね六旬にして乃ち更わる。誠に其の月を候い、偏りて之を補わば、何ぞ必ずしも墜つるを要せん」と。已にして母子共に全うを得たり。又た乳婦悸き因りて病み、既に癒ゆるも、目開きて瞑るを得ず。乙曰く、「郁李酒を煮て之を飲ませて酔わしめよ、即ち癒ゆ。然る所以の者は、目係内に肝膽に連なり、恐るれば則ち気結び、膽衡して下らず。郁李は結びを去る能く、酒に随って膽に入り、結び去り膽下れば、則ち目能く瞑る」と。之を飲ませしに、果たして験有り。

原文孕婦病,醫言胎且墜。乙曰:「娠者五藏傳養,率六旬乃更。誠能候其月,偏補之,何必墜?」已而母子皆得全。又乳婦因悸而病,既愈,目張不得瞑。乙曰:「煮郁李酒飲之使醉,即愈。所以然者,目係內連肝膽,恐則氣結,膽衡不下。郁李能去結,隨酒入膽,結去膽下,則目能瞑矣。」飲之,果驗。

乙は元来羸弱の病有り、毎自ら意を用いて之を治すも、而して後甚だしく、歎いて曰く、「此れ所謂周痹なり。蔵に入る者は死す、吾其れ已なんか」と。既にして曰く、「吾之を移して末に在らしむる能し」と。因りて自ら薬を製し、日夜之を飲む。左手足忽ち攣急して用いる能わず、喜んで曰く、「可なり」と。親しき者東山に登り、茯苓斗を逾える大なるを得たり。法に依りて之を啖い尽くす、ここより偏廃すれども、風骨悍堅にして全人の如し。病を以て免じて帰り、復た出でず。

原文乙本有羸疾,每自以意治之,而後甚,歎曰:「此所謂周痹也。入藏者死,吾其已夫?」既而曰:「吾能移之使在末。」因自製藥,日夜飲之。左手足忽攣不能用,喜曰:「可矣!」所親登東山,得茯苓大逾斗。以法啖之盡,由是雖偏廢,而風骨悍堅如全人。以病免歸,不復出。

乙が方剤を為すに一師に名付けず、書に窺わざる無く、靳々として古法を守らず。時に度を越え捨てを縦にし、卒に法と会す。尤も『本草』諸書に遽く、闕誤を辨正す。或いは異薬を得て、之を問えば、必ず生出の本末、物色、名貌の差別の詳しきを言い為し、退きて之を考うるに皆合う。末年攣痹漸く劇しく、為すべからざるを知り、親戚を召して訣別し、衣を易えて尽きるを待ち、遂に卒す。年八十二。

原文乙為方不名一師,於書無不窺,不靳靳守古法。時度越縱舍,卒與法會。尤遽《本草》諸書,辨正闕誤。或得異藥,問之,必為言生出本末、物色、名貌差別之詳,退而考之皆合。末年攣痹寖劇,知不可為,召親戚訣別,易衣待盡,遂卒,年八十二。

僧智縁

原文僧智緣

僧智縁、隨州の人、医に善し。嘉祐の末、京師に召し至り、相国寺に舎す。毎に脈を察し、人の貴賤、禍福、休咎を知り、父の脈を診て而して能く其の子の吉凶を道い、言う所神の若し、士大夫争いて之に造る。王珪と王安石と翰林に在り、珪は古に此れ無きを疑う。安石曰く、「昔し医和晋侯を診て、而して其の良臣将に死すを知る。夫れ良臣の命乃ち其の君の脈に見わる。則ち父を見て子を知るも、亦た何ぞ怪しむに足らんや」と。

原文僧智緣,隨州人,善醫。嘉祐末,召至京師,舍於相國寺。每察脈,知人貴賤、禍福、休咎,診父之脈而能道其子吉凶,所言若神,士大夫爭造之。王珪與王安石在翰林,珪疑古無此,安石曰:「昔醫和診晉侯,而知其良臣將死。夫良臣之命乃見於其君之脈,則視父知子,亦何足怪哉!」

熙寧中、王韶青唐を取らんと謀り、上言して蕃族は僧を重んじ、而して僧結呉叱臘は部帳を主ること甚だ衆しと、智縁を請いて俱に辺に至らしむ。神宗召見し、白金を賜い、伝に乗じて西せしめ、遂に「経略大師」と称す。智縁は弁口有り、径に蕃中に入り、結呉叱臘を説いて帰化せしめ、而して他の族の俞龍珂、禹蔵訥令支等皆因りて以て書をして款かす。韶は頗る之を忌み悪み、其の辺事を撓ますを言い、召し還し、以て右街首座と為し、卒す。

原文熙寧中,王韶謀取青唐,上言蕃族重僧,而僧結吳叱臘主部帳甚眾,請智緣與俱至邊。神宗召見,賜白金,遣乘傳而西,遂稱「經略大師」。智緣有辯口,徑入蕃中,說結吳叱臘歸化,而他族俞龍珂、禹藏訥令支等皆因以書款。韶頗忌惡之,言其撓邊事,召還,以為右街首坐,卒。

郭天信

原文郭天信

郭天信、字は佑之、開封の人。技を以て太史局に隷す。徽宗端王たる時、嘗て退朝す。天信密かに遮り白して曰く、「王当に天下有るべし」と。既にして帝位に即く。因りて親昵を得る。数年を経ずして、枢密都承旨、節度観察留後に至る。其の子中復は閤門通事舎人と為り、進士に許りて陪し径に大廷に試みさせ、秘書省校書郎に擢でらる。未だ幾ばくもせず、天信甚だしきを覚え、武爵に還るを乞う。又た之に従う。

原文郭天信,字佑之,開封人。以技隸太史局。徽宗為端王,嘗退朝,天信密遮白曰:「王當有天下。」既而即帝位,因得親昵。不數年,至樞密都承旨、節度觀察留後。其子中復為閤門通事舍人,許陪進士徑試大廷,擢秘書省校書郎。未幾,天信覺已甚,乞還武爵,又從之。

政和初、定武軍節度使、祐神観使を拝し、頗る外朝の政事に与聞す。蔡京の国を乱すを見て、毎に天文を託して以て之を撼がし、且つ云く、「日中に黒子有り」と。帝甚だ懼れ、之を言うこと已まず。京ここより黜せらる。張商英方に時望有り、天信往々内朝に於いて称す。商英亦た左右遊談の助を借らんと欲し、陰に相結び、僧徳洪の輩をして言語を道達せしむ。商英は帝に節儉を勧め、稍々僧寺を裁抑す。帝始めて之を敬畏す。而して近侍積もって楽しまず、間言浸潤し、眷日を衰えしむ。京の党因りて是を告げて商英と天信と禁中の言語を漏泄すと。天信先ず端を発し、上旨を窺い伺い、動息必ず報ず。乃ち外庭より之を決す。志の如からざる無し。商英遂に罷む。御史中丞張克公復た之を論ず。詔して天信を貶して昭化軍節度副使、単州安置と為し、宋康年に命じて単を守らしめ、其の起居を幾わしむ。再び行軍司馬に貶し、新州に竄す。又た康年を徒して広東に使わしむ。天信至ること数月、死す。京已に再び相と為るも、猶天信の術を挟みて能多きを疑い、死実ならざるを疑い、康年に命じて吏を選び棺を発きて之を験視せしむ。

原文政和初,拜定武軍節度使、祐神觀使,頗與聞外朝政事。見蔡京亂國,每託天文以撼之,且云:「日中有黑子。」帝甚懼,言之不已,京由是黜。張商英方有時望,天信往往稱於內朝。商英亦欲借左右遊談之助,陰與相結,使僧德洪輩道達語言。商英勸帝節儉,稍裁抑僧寺,帝始敬畏之,而近侍積不樂,間言浸潤,眷日衰。京黨因是告商英與天信漏泄禁中語言,天信先發端,窺伺上旨,動息必報,乃從外庭決之,無不如志。商英遂罷。御史中丞張克公復論之,詔貶天信昭化軍節度副使、單州安置,命宋康年守單,幾其起居。再貶行軍司馬,竄新州,又徒康年使廣東,天信至數月,死。京已再相,猶疑天信挾術多能,死未必實,令康年選吏發棺驗視焉。

魏漢津

原文魏漢津

魏漢津、本は蜀しょくの黥げい卒なり。自ら言う、唐の仙人李良「李八百」と号する者に師事し、鼎楽の法を授けられたりと。嘗て三山龍門に過ぎ、水声を聞き、人に謂いて曰く、「其の下必ず玉有らん」と。即ち衣を脱ぎて水に没し、石を抱いて出ず。果たして玉なり。皇祐中、房庶と俱に楽に善きを以て薦めらる。時に阮逸方に黍律を定む。用いられず。崇寧初猶在り。朝廷方に鍾律を協考せんとし、召見を得、楽議を献じ、黄帝、夏禹の声を律と為し、身を度と為すの説を得たりと言う。謂う、人主の稟賦衆と異なり、帝の指の三節三寸を以て度と為し、黄鍾の律を定めよと請う。而して中指の径囲は、則ち度量権衡の自ら出づる所なりと。又た云く、「声に太有り少有り。太なる者は、清声、陽なり。天道なり。少なる者は、濁声、陰なり、地道なり。中声其の間に在り、人道なり。三才の道を合わし、陰陽奇偶を備え、然る後四序得て而して調うべく、万物得て而して理うべし」と。当時迂怪と為す。蔡京独り之を神とす。或いは言う、漢津本は范鎮の役にして、稍々其の製作を窺い見、而して京之を李良に託すと云う。

原文魏漢津,本蜀黥卒也。自言師事唐仙人李良號「李八百」者,授以鼎樂之法。嘗過三山龍門,聞水聲,謂人曰:「其下必有玉。」即脫衣沒水,抱石而出,果玉也。皇祐中,與房庶俱以善樂薦,時阮逸方定黍律,不獲用。崇寧初猶在,朝廷方協考鍾律,得召見,獻樂議,言得黃帝,夏禹聲為律、身為度之說。謂人主稟賦與眾異,請以帝指三節三寸為度,定黃鍾之律;而中指之徑圍,則度量權衡所自出也。又云:「聲有太有少。太者,清聲,陽也。天道也。少者,濁聲,陰也,地道也。中聲在其間,人道也。合三才之道,備陰陽奇偶,然後四序可得而調,萬物可得而理。」當時以為迂怪,蔡京獨神之。或言漢津本范鎮之役,稍窺見其製作,而京託之於李良云。

そこで先に九鼎を鋳造することを請い、次に帝坐大鐘及び二十四気鐘を鋳造した。四年三月、鼎が完成し、号を「冲顕処士」と賜う。八月、『大晟楽』が完成する。徽宗は大慶殿に御して群臣の朝賀を受け、漢津に「虚和冲顕宝応先生」を加え、その楽書を天下に頒布した。しかし蔡京の客である劉昺が楽事を主管し、太・少の説が誤りであると論じ、改作を議しようとした。既に楽が完成して久しく、これを改めれば恐らく世間の耳目を動かすとして、遂に止めた。漢津は密かに蔡京に言うには、『大晟楽は古意を十の三四しか得ておらず、その他は多く古説に非ず、他日に任宗堯を訪ねて問うべきである』と。宗堯は漢津に学んだ者である。

原文於是請先鑄九鼎,次鑄帝坐大鍾及二十四氣鍾。四年三月鼎成,賜號「冲顯處士」。八月,《大晟樂》成。徽宗御大慶殿受群臣朝賀,加漢津「虛和冲顯寶應先生」,頒其樂書天下。而京之客劉昺主樂事,論太少之說為非,將議改作。既而以樂成久,易之恐動觀聽,遂止。漢津密為京言:「《大晟》獨得古意什三四爾,他多非古說,異日當以訪任宗堯。」宗堯學於漢津者也。

漢津は陰陽数術に通暁し、多く奇しく的中し、嘗て知る者に語って曰く、『三十年を経ずして、天下乱れん』と。未幾にして死す。蔡京は遂に宗堯を召して典楽とし、また何か建てようとしたが、田為に奪われた。その語は『楽志』にある。後に即ち鼎を鋳造した所に宝成殿を建て、黄帝・夏禹・成王・周公・召公を祀り、而して良(魏漢津の本姓は良)・漢津ともに配食させた。漢津に諡して「嘉晟侯」とした。

原文漢津曉陰陽數術,多奇中,嘗語所知曰:「不三十年,天下亂矣。」未幾死。京遂召宗堯為典樂,復欲有所建,而為田為所奪,語在《樂志》。後即鑄鼎之所建寶成殿,祀黃帝、夏禹、成王、周、召而良、漢津俱配食。諡漢津為「嘉晟侯」。

馬賁という者あり、蔡京の門下に出で、大晟府に十三年在り、方や魏・劉・任・田が異論を唱えた時、その間に依違し、質正する所なく、通議大夫・徽猷閣待制まで擢げられた。議者は当時の名器の濫りを咎むること此の如し。

原文有馬賁者,出京之門,在大晟府十三年,方魏、劉、任、田異論時,依違其間,無所質正,擢至通議大夫、徽猷閣待制。議者咎當時名器之濫如此。

王老志

原文王老志

王老志は、濮州臨泉の人。親に事えて孝行をもって聞こえた。転運使の小吏となり、賄賂の謝礼を受け取らなかった。乞食の中に異人に遇い、自ら言うには、『我れ所謂鍾離先生なり』と。彼に丹を与え、服して狂気となった。遂に妻子を棄て、田間に草廬を結び、時に人に休咎を言った。

原文王老志,濮州臨泉人。事親以孝聞。為轉運小吏,不受賂謝。遇異人於丐中,自言:「吾所謂鍾離先生也。」予之丹,服之而狂。遂棄妻子,結草廬田間,時為人言休咎。

政和三年、太僕卿王亶がその名を聞こえさせた。京師に召され、蔡京の邸に館せしめられた。嘗て緘書一封を帝の所に至らせ、徽宗が開いて読むと、それは昔の秋中に喬・劉二妃と燕好した時の言葉であった。帝はこれによって稍々信じ、封じて「洞微先生」とした。朝士多く書を求めに従い、初めは解し難きが如く、後に終に応ずる者十に八九、故にその門市の如し。蔡京は甚だしきを慮り、頗る戒めとした。老志もまた謹んで畏れ、乃ち奏して禁絶させた。嘗て乾坤鑑法を献じ、これを鋳造せしめられた。既に成りて、帝と皇后は他日に皆難ありと謂い、時に鑑の下に坐し、以って戒懼し変を消す所以を思うことを請うた。

原文政和三年,太僕卿王亶以其名聞。召至京師,館於蔡京第。嘗緘書一封至帝所,徽宗啟讀,乃昔歲秋中與喬、劉二妃燕好之語也。帝由是稍信之,封為「洞微先生」。朝士多從求書,初若不可解,後卒應者十八九,故其門如市。京慮太甚,頗以為戒;老志亦謹畏,乃奏禁絕之。嘗獻乾坤鑒法,命鑄之。既成,謂帝與皇后他日皆有難,請時坐鑒下,思所以儆懼消變者。

明年、その師に会い、富貴に擅り処することを責められ、乃ち帰ることを乞う。未だ請いを得ず、病甚だしく、始めてその去ることを許す。歩行して出で、就いて居るに、病は已に失せていた。濮に帰って死す。詔して金を賜い以って葬らしめ、正議大夫を贈られた。

原文明年,見其師,責以擅處富貴,乃丐歸,未得請,病甚,始許其去。步行出,就居,病已失矣。歸濮而死。詔賜金以葬,贈正議大夫。

初め、王黼が未だ顕達せざりし時、父が臨泉令たり、黼の名位の至る所を問うと、即ち「太平宰相」の四字を書いた。旋って墨を以ってこれを塗り去り、曰く、『恐らく機を泄らさん』と。黼が敗れるや、人は乃ち悟った。

原文初,王黼未達時,父為臨泉令,問黼名位所至,即書「太平宰相」四字。旋以墨塗去之,曰:「恐泄機也。」黼敗,人乃悟。

王仔昔

原文王仔昔

王仔昔は、洪州の人。始め儒を学び、自ら許遜に遇い、『大洞』・『隠書』豁落七元の法を得たりと称し、嵩山に出遊し、人の未来の事を能く言う。政和中、徽宗召見し、号を「冲隠処士」と賜う。帝は旱魃に雨を祈り、毎に小黄門に紙を持たせて仔昔に画かせんことを求めた。日また至り、忽ち篆符をその上にし、仍て細書して「符を焚き湯を沃ぎてこれを洗え」と。黄門は懼れて肯えて受けず、強いて之をして、乃ち持って去らしむ。蓋し帝は黙祝して宮妃の赤目を療さんとする者に、その説を用い一たび沃げば、立ちどころに癒ゆ。進めて封じて「通妙先生」とし、上清宝籙宮に住まわしむ。九鼎神器は外に蔵すべからざるを献議す。乃ち禁中に円象徽調閣を建ててこれを貯えしむ。

原文王仔昔,洪州人。始學儒,自言遇許遜,得《大洞》、《隱書》豁落七元之法,出遊嵩山,能道人未來事。政和中,徽宗召見,賜號「冲隱處士」。帝以旱禱雨,每遣小黃門持紙求仔昔畫,日又至,忽篆符其上,仍細書「焚符湯沃而洗之」。黃門懼不肯受,強之,乃持去。蓋帝默祝為宮妃療赤目者,用其說一沃,立愈。進封「通妙先生」,居上清寶籙宮。獻議九鼎神器不可藏於外。乃於禁中建圓象徽調閣以貯之。

仔昔は資性倨傲にして、又少し戇直、帝は常に客礼をもって待たれたので、その巨閹に遇うこと殆ど童奴の若く、又道士の群をして皆己を宗とせんと欲す。林霊素の寵有るに及んで、これを忌み、事を以って陥れ、東太一宮に囚う。旋って言語不遜に坐し、獄に下って死す。仔昔の罪を得るや、宦者馮浩の力最も多し。未だ死せざる時、その徒に示して書して曰く、『上蔡に冤人に遇わん』と。その後、浩は南に竄され、上蔡に至って誅せられる。

原文仔昔資倨傲,又少戇,帝常待以客禮,故其遇巨閹殆若童奴,又欲群道士皆宗己。及林靈素有寵,忌之,陷以事,囚之東太一宮。旋坐言語不遜,下獄死。仔昔之得罪,宦者馮浩力最多。未死時,書示其徒曰:「上蔡遇冤人。」其後浩南竄,至上蔡被誅。

林霊素

原文林靈素

林霊素は、温州の人。少時に浮屠に従い学ぶが、その師の笞罵に苦しみ、去って道士となる。妖幻を善くし、淮・泗の間を往来し、僧寺に乞食す。僧寺これを苦しむ。

原文林靈素,溫州人。少從浮屠學,苦其師笞罵,去為道士。善妖幻,往來淮、泗間,丐食僧寺,僧寺苦之。

政和の末、王老志・王仔昔既に衰え、徽宗は左道録徐知常に方士を訪ね、霊素を以って対える。既に見れば、大言して曰く、『天に九霄有り、而して神霄最も高く、その治めを府と曰う。神霄玉清王者は、上帝の長子にして、南方を主り、号して長生大帝君とす、陛下これなり。既に世に下降し、その弟は号して青華帝君、東方を主り、これを摂領す。己は乃ち府の仙卿褚慧と曰い、また下降して帝君の治を輔佐す』と。又た蔡京を左元仙伯と謂い、王黼を文華吏とし、盛章・王革を園苑宝華吏とし、鄭居中・童貫及び諸の巨閹皆これに名を為す。貴妃劉氏方に寵有り、九華玉真安妃と曰う。帝は心に独りその事を喜び、号を「通真達霊先生」と賜い、賞賚算うる無し。

原文政和末,王老志、王仔昔既衰,徽宗訪方士於左道錄徐知常,以靈素對。既見,大言曰:「天有九霄,而神霄為最高,其治曰府。神霄玉清王者,上帝之長子,主南方,號長生大帝君,陛下是也,既下降於世,其弟號青華帝君者,主東方,攝領之。己乃府仙卿曰褚慧,亦下降佐帝君之治。」又謂蔡京為左元仙伯,王黼為文華吏,盛章、王革為園苑寶華吏,鄭居中、童貫及諸巨閹皆為之名。貴妃劉氏方有寵,曰九華玉真安妃。帝心獨喜其事,賜號「通真達靈先生」,賞賚無算。

上清宝籙宮を建て、密かに禁省に連なる。天下皆神霄万寿宮を建つ。浸浸として青華正昼壇に臨み、及び火龍神劍夜に内宮に降るの事を造り為し、帝誥・天書・雲篆を仮り、務めて以って世を欺き衆を惑わす。その説妄誕にして、質するに究むべからず、実に能く解する所無し。唯だ稍々五雷法を識り、風霆を召呼し、間に雨を祷りて小験有るのみ。吏民をして宮に詣り神霄秘録を受けしめ、進を嗜む朝士も、また靡然としてこれに趨る。毎に大斎を設け、輒ち緡錢数万を費やし、これを千道会と謂う。帝はその側に幄を設け、而して霊素は高く昇り正坐し、問う者は皆再拝して以って請う。言う所殊なる異無く、時に時におどけや嘲笑を雑えて以って笑いを助く。その徒美衣玉食、幾二万人。遂に道学を立て、郎・大夫十等を置き、諸殿侍晨・校籍・授経有り、以って待制・修撰・直閣に擬す。始め尽く釈氏を廃して以って前の憾みを逞しうせんと欲し、既にしてその名称冠服を改む。

原文建上清寶籙宮,密連禁省。天下皆建神霄萬壽宮。浸浸造為青華正晝臨壇,及火龍神劍夜降內宮之事,假帝誥、天書、雲篆,務以欺世惑眾。其說妄誕,不可究質,實無所能解。惟稍識五雷法,召呼風霆,間禱雨有小驗而已。令吏民詣宮受神霄秘錄,朝士之嗜進者,亦靡然趨之。每設大齋,輒費緡錢數萬,謂之千道會。帝設幄其側,而靈素升高正坐,問者皆再拜以請。所言無殊異,時時雜捷給嘲詼以資媟笑。其徒美衣玉食,幾二萬人。遂立道學,置郎、大夫十等,有諸殿侍晨、校籍、授經,以擬待制、修撰、直閣。始欲盡廢釋氏以逞前憾,既而改其名稱冠服。

霊素はますます尊重され、温州を応道軍節度に昇格させ、「元妙先生」「金門羽客」「冲和殿侍晨」の号を加えられ、出入りの際の呵引は、諸王と道を争うほどであった。都人は「道家の両府」と称した。もと道士の王允誠と共に怪神をなしていたが、後にその相軋を忌み、毒を盛って死なせた。宣和初年、都城に洪水が起こると、霊素に厭勝を命じた。ちょうど徒歩で虚城の上を率いていたところ、役夫が争って棍棒を挙げて打とうとしたので、逃げて難を免れた。帝は衆人の怨みを知り、初めて快く思わなくなった。

原文靈素益尊重,升溫州為應道軍節度,加號「元妙先生」、「金門羽客」、「冲和殿侍晨」,出入嗬引,至與諸王爭道。都人稱曰:「道家兩府。」本與道士王允誠共為怪神,後忌其相軋,毒之死。宣和初,都城暴水,遣靈素厭勝。方率其徒步虛城上,役夫爭舉梃將擊之,走而免。帝知眾所怨,始不樂。

霊素は京師に四年在り、恣横でますます悔い改めず、道で皇太子に遇っても礼をせず避けなかった。太子が入って訴えると、帝は怒り、太虚大夫とし、故郷に斥還し、江端本に温州通判を命じて監察させた。端本はその居処が制を過ぎていることを廉察して罪に問い、詔して楚州に移すこととしたが、すでに死んでいた。遺奏が届くと、なお侍従の礼をもって葬った。

原文靈素在京師四年,恣橫愈不悛,道遇皇太子弗斂避。太子入訴,帝怒,以為太虛大夫,斥還故里,命江端本通判溫州,幾察之。端本廉得其居處過制製罪,詔徙置楚州而已死。遺奏至,猶以侍從禮葬焉。

皇甫坦

原文皇甫坦

皇甫坦は、蜀の夾江の人である。医術に長じていた。顕仁太后が眼病に苦しみ、国医も治療できず、詔して他の医者を募ったところ、臨安守臣の張偁が坦を推挙した。高宗が召見し、どうすれば身を治めるかと問うと、坦は「心が無為であれば身は安らぎ、人主が無為であれば天下は治まります」と答えた。慈寧殿に引かれて太后の眼病を治療すると、たちまち癒えた。帝は喜び、厚く賜わったが、一切受け取らなかった。香を持って青城山に祈祷させ、帰ると、また召して長生久視の術を問うと、坦は「まず諸欲を禁じ、放逸させぬことです。丹経万巻も、一を守るに如かず」と言った。帝は歎服し、「清静」の二字を書いてその庵の名とし、またその像を禁中に描かせた。

原文皇甫坦,蜀之夾江人。善醫術。顯仁太后苦目疾,國醫不能療,詔募他醫,臨安守臣張偁以坦聞。高宗召見,問何以治身,坦曰:「心無為則身安,人主無為則天下治。」引至慈寧殿治太后目疾,立愈。帝喜,厚賜之,一無所受。令持香禱青城山,還,復召問以長生久視之術,坦曰:「先禁諸欲,勿令放逸。丹經萬卷,不如守一。」帝歎服,書「清靜」二字以名其庵,且繪其像禁中。

荊南帥の李道は坦をひそかに敬い、坦は毎年道を謁見した。隆興初年、道が入朝すると、高宗・孝宗が問うたが、皆皇甫先生と称して名を呼ばなかった。坦はまた人相を見るのが巧みで、かつて道の中女が必ず天下の母となると相し、後に果たして光宗の后となった。

原文荊南帥李道雅敬坦,坦歲謁道。隆興初,道入朝,高宗、孝宗問之,皆稱皇甫先生而不名。坦又善相人,嘗相道中女必為天下母,後果為光宗后。

王克明

原文王克明

王克明、字は彦昭、その初めは饒州楽平の人であったが、後に湖州烏程県に移った。紹興・乾道年間の名医である。生まれた時、母に乳がなく、粥を与えられたため、脾胃の病を得、成長するにつれてますますひどくなり、医者は治せないとした。克明は自ら『難経』『素問』を読んでその法を求め、心を砕いて薬を処方すると、その病は癒えた。初め術をもって江・淮を行き、蘇・湖に入り、鍼灸は特に精妙であった。脈を診て治療困難な者は、必ず深く考えてその要を得てから薬を与えた。病が数証あっても、あるいは一薬を用いてその本を除き、本が除かれると残りの病は自ずから去った。また薬を与えない者もあり、ある日に自ら安らかになることを期した。ある者は薬の過ちではなく、ある事に過ちがあるとして、その事に従って治すべきだと言った。言うことはことごとく験があった。士大夫は皆自ら屈して交遊した。

原文王克明,字彥昭,其始饒州樂平人,後徙湖州烏程縣。紹興、乾道間名醫也。初生時,母乏乳,餌以粥,遂得脾胃疾,長益甚,醫以為不可治。克明自讀《難經》、《素問》以求其法,刻意處藥,其病乃愈。始以術行江、淮,入蘇、湖,鍼灸尤精。診脈有難療者,必沉思得其要,然後予之藥。病雖數證,或用一藥以除其本,本除而餘病自去。亦有不予藥者,期以某日自安。有以為非藥之過,過在某事,當隨其事治之。言無不驗。士大夫皆自屈與遊。

魏安行の妻が風痿で十年起き上がれなかったが、克明が鍼を施すと、歩行が初めのようになった。胡秉の妻が気秘で腹脹し、号呼すること十余日、克明が診察した。時に秉の家でちょうど会食していたので、克明は秉に「恭人の病を癒やし、会食に加わらせてもよいか」と言い、半硫円を生姜で碾き、乳香を調合して飲ませると、たちまち起きて普段のように食事をした。廬州守の王安道が風禁で十日間言葉を発せず、他の医者はどうすることもできなかった。克明は炭を熾くして地を焼き、薬を撒き、安道をその上に置くと、しばらくして蘇生した。金の使者の黒鹿谷が姑蘇を通りかかり、傷寒で死に瀕していたが、克明が治療すると、翌日癒えた。後に徐度に従って金に聘されると、黒鹿谷がちょうど先排使であり、克明を非常に厚く遇した。克明が訝しむと、谷はその故を述べ、これによって北方に名が聞こえた。後にまた呂正己に従って金に使いし、金の接伴使が突然危篤の病にかかると、克明がたちまち治し、謝礼を辞退した。張子蓋が海州を救う時、戦士に大疫が流行し、克明が軍中にいたため、全活した者は数万人に及んだ。子蓋がその功を上奏したが、克明は力辞した。

原文魏安行妻風痿十年不起,克明施針,而步履如初。胡秉妻病氣秘腹脹,號呼逾旬,克明視之。時秉家方會食,克明謂秉曰:「吾愈恭人病,使預會可乎?」以半硫圓碾生薑調乳香下之,俄起對食如平常。盧州守王安道風禁不語旬日,他醫莫知所為。克明令熾炭燒地,灑藥,置安道於上,須臾而蘇。金使黑鹿谷過姑蘇,病傷寒垂死,克明治之,明日愈。及從徐度聘金,黑鹿谷適為先排使,待克明厚甚。克明訝之,谷乃道其故,由是名聞北方。後再從呂正己使金,金接伴使忽被危疾,克明立起之,卻其謝。張子蓋救海州,戰士大疫,克明時在軍中,全活者幾萬人。子蓋上其功,克明力辭之。

克明はかなり書を読み、侠を好み義を尚び、常に数千里を急な人のために赴いた。初め礼部の試験に中選し、累任して医官となった。王炎が四川を宣撫する時、克明を辟召したが、就かなかった。炎は怒り、克明が事を避けたと弾劾し、罪に坐して秩を貶された。後に額内翰林医痊局に遷り、金紫を賜わった。紹興五年に卒し、年六十七。

原文克明頗知書,好俠尚義,常數千里赴人之急。初試禮部中選,累任醫官。王炎宣撫四川,辟克明,不就。炎怒,劾克明避事,坐貶秩。後遷至額內翰林醫痊局,賜金紫。紹興五年卒,年六十七。

莎衣道人

原文莎衣道人

莎衣道人、姓は何氏、淮陽軍朐山の人である。祖父の執礼は、朝議大夫に至った。道人は乱を避けて江を渡り、かつて進士に挙げられたが及第しなかった。紹興末年、平江に来た。ある日、外から帰ると、たちまち狂者のようになり、身に白襴を着て、昼は市で乞食し、夜は天慶観に止まった。久しくして衣はますます破れ、莎で繕った。かつて妙厳寺に遊び、池に臨んで影を見て、豁然として大悟した。人は貴賤を問わず、吉凶を問うと、ことごとく奇しく当たった。ちょうちょう癆病の者が医を乞うと、一草を持って去るよう命じ、十日で癒えた。衆人は翕然として莎草が病を癒やすと伝え、求めて得られない者は、あるいは遂に起き上がれず、これによって遠近で異人とされた。

原文莎衣道人,姓何氏,淮陽軍朐山人。祖執禮,仕至朝議大夫。道人避亂渡江,嘗舉進士不中。紹興末,來平江。一日,自外歸,倏若狂者,身衣白襴,晝丐食於市,夜止天慶觀。久之,衣益敝,以莎緝之。嘗遊妙嚴寺,臨池見影,豁然大悟。人無貴賤,問休咎,罔不奇中。會有瘵者乞醫,命持一草去,旬日而愈。眾翕然傳莎草可以愈疾,求而不得者,或遂不起,由是遠近異之。

孝宗がある夜、莎衣の人が跣足で泣きながら来て弔う夢を見、訊ねると「蘇の人です」と言う。その故を詰問すると、言おうとしなかった。帝が覚めて、内侍に語った。ちょうど后と太子が薨じ、帝が哀泣すると、内侍が進み出て慰め、併せて先の夢を述べた。帝はそこで矍然とし、使者を遣わして召したが、来なかった。帝は恢復の大計を思い、累年属する所がなく、后位が虚しく且つ久しいので、香を焚いて黙言した。「何誠に仙顧あらば、必ず朕の意を知るであろう。」そこで中官に贄を持たせて行かせ、理由は言わなかった。道人はこれを見て首を振り、呉音で言った。「中国あれば外夷あり、日あれば月あり、問うに及ばず。」急いで去らせた。使者が帰って奏上すると、帝は非常に異とし、そこで「通神先生」の号を賜い、観中に庵を築き、衣数襲を賜わったが、皆受け取らなかった。好事者が強いて庵に招き入れると、大笑して出て、また元の場所に戻った。衆人は日に珍饌を贈ったが、毎回大通りで食事し、満腹するとすぐ去った。

原文孝宗一夕夢莎衣人跣哭來吊者,訊之曰:「蘇人也。」詰其故,不肯言。帝寤,以語內侍。會後及太子薨,帝哀泣,內侍進前勉釋,並道前夢。帝乃矍然,因遣使召之,不至。帝念恢復大計,累歲未有所屬,后位虛且久,乃焚香默言:「何誠能仙顧,必知朕意。」遂遣中官致贄,不言所以。道人見之掉首,吳音曰:「有中國即有外夷;有日即有月,不須問。」趣之去。使者歸奏,帝甚異之,遂賜號「通神先生」,為築庵觀中,賜衣數襲,皆不受。好事者強邀入庵,大笑而出,復於故處。眾日以珍饌餉之,每食於通衢,逮飽即去。

帝は毎年内侍に命じてその居所で十道の斎を設け、雲水の士を合わせ、施与を優しく普く行わせた。ある年、たまたま期限が過ぎ、衆人は皆訝しんで請うと、道人は急に臥所から起き、手を振り目を瞬かせて招き、「急げ、急げ!」と言った。この日内侍が平望に至り、衆人はますますその神異に服した。光宗が即位し、召したが、また来なかった。慶元六年に卒した。

原文帝歲命內侍即其居設十道齋,合雲水之士,施予優普。一歲,偶逾期,眾咸訝而請,道人亟起於臥,搖手瞬目而招之曰:「亟來,亟來!」是日內侍至平望,眾益服其神。光宗即位,召之,又不至。慶元六年卒。

孫守栄

原文孫守榮

孫守栄は、臨安富陽の人である。七歳の時、病で目が見えなくなった。異人に遇い、風角・鳥占の術を教えられ、その法は音律をもって五数を推し、五行を播き、万物の始終盛衰の理を測度するものであった。問う者は、一言のうちに、たちまち吉凶を知った。守栄が悟ると、異人は鉄笛を授け、遂に去って再び会わなかった。守栄はそこで「富春子」と号し、市中で笛を吹いたが、人は初めは異としなかった。しかしその術は概ね験があった。

原文孫守榮,臨安富陽人。生七歲,病瞽。遇異人教以風角、鳥占之術,其法以音律推五數,播五行,測度萬物始終盛衰之理。凡問者,一語頃,輒知休咎。守榮既悟,異人授以鐵笛,遂去不復見。守榮因號「富春子」,吹笛市中,人初不異也。然其術率驗。

寶慶年間(1225-1227年)、彼は吳興を遊歴し、譙樓の鼓角の音を聞いて驚き、「旦夕の間に変事が起こり、当地の者が郡守となるであろう」と言った。王元春を見るや、即座に祝して言うには、「郷里の郡守となる者は、必ずや貴君である」と。元春は初めこれを信じなかった。二月を経て、潘丙が乱を起こすと、元春は変事を報告した功績により、果たして郡守となった。ここにおいて富春子の名は大いに顕れ、貴人たちは争って彼を招きもてなした。

原文寶慶間,遊吳興,聞譙樓鼓角聲,驚曰:「旦夕且有變,土人當有典郡者。」見王元春,即賀之曰:「作鄉郡者,必君也。」元春初不之信。越兩月,潘丙作亂,元春以告變功,果典郡。自是富春子之名大顯,貴人爭延致之。

淮南の帥(長官)李曾伯が朝廷に彼を推薦した。都に到着すると、丞相史嵩之に謁見しようとしたが、門番が昼寝中であると断った。守榮は言った、「丞相は今、園池で魚を釣っておられる。どうしてそのようなことがあろうか」と。門番は驚き怪しみ、内に入って丞相に報告した。丞相は一度会って、大いに彼を気に入った。ここよりしばしば相府に出入りするようになった。ある日、庭の鵲が騒がしく鳴いたので、占わせると、言うには、「明日の晡時(午後三時から五時)に、宝物が届くであろう」と。翌日、李全が果たして玉柱斧を貢物として献上した。嵩之はまたかつて李全からの檄文を袖に隠し持っており、その事を尋ねると、守榮は言った、「これは李全が二十万の布囊を詐称したものに過ぎません」と。封を剥がして見ると、果たしてその言う通りであった。

原文淮南帥李曾伯薦諸朝。既至,謁丞相史嵩之,閽者以晝寢辭。守榮曰:「丞相方釣魚園池,何得云爾。」閽者驚異,入白丞相,丞相一見,頗喜之。自是數出入相府。一日,庭鵲噪,令占之,曰:「來日晡時,當有寶物至。」明日,李全果以玉柱斧為貢。嵩之又嘗得李全檄藏袖中,詢其事,守榮曰:「此李全詐假布囊二十萬爾。」剝封,果如其說。

士大夫たちは皆その履歴を尋ねたが、守榮は全てには答えなかった。親しい者に私的に言うには、「私は音律をもって朝廷の諸紳士を推し量ると、互いに盈虧あり、宋の禄(国運)はまさに尽きようとしているのではないか」と。後に嵩之に忌まれるところとなり、他の罪を着せられて、遠郡に貶謫され、その地で死んだ。

原文士大夫咸詢履歷,守榮不盡答。私謂所知曰:「吾以音推諸朝紳,互有贏縮,宋祿其殆終乎!」後為嵩之所忌,誣以他罪,貶死遠郡。