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宋史
列傳第二百二十 方技上 趙修己 王處訥子:熙元 苗訓子:守信 馬韶 楚芝蘭 韓顯符 史序 周克明 劉翰 王懷隱 趙自化 馮文智 沙門洪蘊 蘇澄隱 丁少微 趙自然
昔し少皡氏の衰えた時、九黎が徳を乱し、家ごとに巫史となり、神と人とが混淆した。顓頊氏は南正の重に命じて天を司らせて神に属せしめ、北正の黎に地を司らせて民に属せしめたので、その患いは遂に止んだ。その後、三苗がまた典常を棄てたので、帝堯は羲と和に命じて重と黎の職を修めさせ、地と天とを通じることを絶ったので、その患いはまた止んだ。しかしながら、天には王相孤虚があり、地には燥湿高下があり、人事には吉凶悔吝・疾病劄瘥がある。聖人はこの民が安きに趨き危きを避けんことを欲するならば、巫医を廃することはできないのである。後世の占候・測験・厭禳・禬、さらには兵家の遁甲・風角・鳥占、および方士の修煉・吐納・導引・黄白・房中に至るまで、一切の焄蒿妖誕の説は、皆巫医を宗としている。漢以来、司馬遷・劉歆がまたしきりにこれを称えた。しかしながら歴代の君臣、その言に一度惑わされて、国に害をなし、家に凶をなさない者はなかった。宋の景德・宣和の世は、鑑とすべきであろう。では歴代の方技は何を修めてその事を善くすることができるのか。曰く、「人にして恒なくんば、もって巫医を作すべからず」。漢の厳君平・唐の孫思邈・呂才の言は皆道に近く、誰がこれを少なしとすることができようか。宋の旧史には『老釈』『符瑞』の二志があり、また『方技伝』があり、多くは禨祥を言う。今二志を省き、『方技伝』を存する。
趙修己
趙修己は、開封浚儀の人である。若くして天文推歩の学に精通した。晋の天福年中、李守真が禁軍を掌握し、滑州節度使を兼ねた時、表して司戸参軍とし、門下に留めた。守真が出征するたびに、修己は必ず従い、軍中の占候は多く当たった。大理評事に試用され、緋衣を賜った。漢の乾祐年中、守真が蒲津を鎮守した時、ひそかに異志を抱いていた。修己はたびたび禍福をもってこれを諭したが、聞き入れず、そこで病を理由に辞して郷里に帰った。翌年、守真は果たして叛き、幕吏の多くは誅殺されたが、修己だけは免れた。朝廷はその才能を知り、召して翰林天文とした。
周祖が鄴を鎮守した時、参軍謀に奏した。ちょうど隠帝が楊邠・史弘肇らを誅殺し、かつ周祖を害そうとした時、修己は天命の在るところを知り、密かに周祖に言った。「釁は蕭牆より発し、禍難ここに作らんとす。公は全師を擁し、巨屏に臨み、臣節まさに立たんとし、忠誠疑いを見る。今幼主は讒を信じ、大臣は戮を受け、公は位極めて将相、功高くして賞せざるの地に居る。身を殺して仁を成さんと欲すとも、事に何の益かあらん。兵を引いて南渡し、闕に詣でて自ら訴うるに如かず。そうすれば明公の命は、天の与うる所なり。天与うるを取りざれば、悔い何ぞ追うべけん」。周祖はこれを然りとし、遂に渡河の計を決した。即位すると、殿中省尚食奉御とし、金紫を賜った。鴻臚少卿に改め、司天監に遷った。顕徳年中、累次加えて検校戸部尚書とした。かつて翰林学士承旨陶穀の副使として遣わされ、御衣・金帯・戦馬・器幣を以て呉越の銭俶に賜った。宋初、大府卿に遷り、監事を判じた。上章して老いを告げたが、優詔して許さなかった。建隆三年に卒した。年七十一。
王処訥
王処訥は、河南洛陽の人である。若い時、老翁が家に来て、洛河の石を麺のように煮て、処訥に食べさせ、かつ言った。「汝は性質聡悟、後必ず人の師とならん」。またかつて人が大きな鏡を持ち、星宿が燦然とその中に満ちている夢を見、腹を剖いてそれを納めた。覚めて汗が全身にわき、一月余り、心胸にまだ痛みを覚えた。そこで星暦・占候の学に留意し、その旨を深く究めた。晋末の乱に、太原に避地した。漢祖が節度使を兼ねていた時、辟いて幕府に置いた。即位すると、抜擢して司天夏官正とし、出て許田令を補い、召されて国子『尚書』博士とし、司天監事を判じた。
周祖はかつて処訥と共に漢祖に仕え、平素から親しくしていた。鄴より挙兵して汴に入った時、急ぎ命じて処訥を訪ね求め、得て大いに喜び、劉氏の祚の短いことについて問うた。答えて言った。「人君は位を得ざる時は、常に寛大を務め、位を得て後は、即ち復讐を思う。漢氏は中土を拠り、正統を承け、暦数をもってこれを推すに、その大祀はなお永からん。ただ高祖が位を得た後、多く復讐して人を殺し、および人の族を夷することにより、天下に怨を結んだので、運祚長からざるなり」。周祖は蹶然として太息した。ちょうど兵を発して漢の大臣蘇逢吉・劉銖らの家を囲み、夜明けを待って妻子を戮さんとしていた時、急ぎ命じてこれを止めた。逢吉はすでに自殺しており、劉銖を誅するのみで止め、その他は皆全活させた。
広順年中、司天少監に遷った。世宗は旧暦の誤差が大きいのを以て、処訥に詳定させた。暦は完成したが上奏せず、ちょうど枢密使王朴が『欽天暦』を作って献上した。これは頗る精密であったが、処訥は私的に王朴に言った。「この暦はしばらく用いることができるが、久しからずして誤差が出よう」。因みに指摘して朴に示すと、朴は深くこれを然りとした。
建隆二年に至り、『欽天暦』に謬誤があるとして、詔して処訥に別に新暦を作らせた。三年を経て完成し、六巻となった。太祖自ら序を製し、『応天暦』と命じた。処訥はまた漏刻が正確でないのを以て、水秤および中星を候うこと、五鼓の時刻を分かつことを重ねて定めた。まもなく少府少監に遷った。太平興国初年、司農少卿に改め、ともに司天事を判じた。六年、また新暦二十巻を上り、司天監に拝された。一年余りして卒した。年六十八。子に熙元あり。
子 熙元
熙元は幼くして父の業を習い、開宝年中、司天暦算に補された。端拱初年、監丞に改め、累遷して太子洗馬兼春官正となり、殿中丞を加えられた。景德年中、同判監事となった。東封の時、経度制置使に随い祠所に詣でた。礼が畢わると、権知司天少監を授けられた。汾陰を祠る時、真に少監に拝された。詔を奉じて後苑において陰陽事十巻を纘し、これを上った。真宗は序を製し、名を『霊台秘要』と賜り、および詩を作ってこれを記した。
初め、上った所修の『儀天暦』について、秋官正趙昭益が、その二年後必ず誤差が出ると言い、また熒惑の度数が少し謬っていると言った。後、果たして験があった。熙元はその精一なることに頗る服した。上は常に宰相に対し暦算の事に言及し、「暦象は、陰陽家流の大なるもの、推歩天道を以て、人時を平秩するを功とす」と言い、かつ「昭益は能くその業に専一し、人及びがたし」と言った。
玉清昭応宮が完成した時、祗事の勤めにより、司天監を授けられた。日を択ぶことに差謬があったことを坐し、少監に降格された。目の病気のため、将作監に改め、致仕した。天禧二年に卒した。年五十八。
苗訓
苗訓は河中人にして、天文占候の術に長ず。周に仕えて殿前散員右第一直散指揮使となる。顕徳末、太祖に従い北征す。訓は日上にまた一日あるを見て、久しく相摩蕩するを視、楚昭輔に指して謂ひて曰く、「此れ天命なり」と。夕べ陳橋に次ぐ。太祖が六師に推戴せられんとするや、訓は皆其の事を預め白くす。既に禅を受けて後、翰林天文に擢げられ、尋いで銀青光禄大夫・検校工部尚書を加へらる。年七十余にして卒す。子に守信あり。
子 守信
守信は少くして父の業を習ひ、司天暦算に補せらる。尋いで江安県主簿を授けられ、司天臺主簿に改め、算造を知る。太平興國中、『応天暦』の小差あるを以て、詔して冬官正呉昭素・主簿劉内真と新暦を造らしむ。成るに及び、太宗、衛尉少卿元象宗に命じて明律暦の者と共に校定せしめ、号を『乾元暦』と賜ひ、頗る精密にして、皆優に束帛を賜ふ。雍熙中、冬官正に遷る。端拱初、太子洗馬・判司天監に改む。淳化二年、守信上言す、「正月一日は一歳の首なり。每月八日は、天帝下りて人世を巡り、善悪を察す。太歳日は歳星の精にして、人君の象なり。三元日は、上元は天官、中元は地官、下元は水官、各人を録する善悪を主る。又春の戊寅・夏の甲午・秋の戊申・冬の甲子は天赦日、及び上慶誕日は、皆極刑の事を断ずべからず」と。下して司に議して行はしむ。未だ幾もあらざるに、殿中丞・権少監事に転じ、本品の下に立ち、俄かに金紫を賜ふ。
至道二年、上は梁・雍に宿兵し、歳を弥て凶歉なるを以て、心に之を憂ひ、宰相をして守信を召し天道咎證の在る所を問はしむ。守信奏して曰く、「臣玄象を仰瞻し、及び太一の宮分を経歴するを推験するに、其の荊楚・呉越・交広は並びに皆安寧なり。自ら来り五緯の陵犯・彗星の見及水神太一の井鬼の間に臨むは、秦・雍の分及び梁・益の地に属し、民其の災に罹る。水神太一は来歳燕分に入り、歳は房心に在り、正に京都の地に当たり、此より朝野に慶有らん」と。詔して史館に付す。明年、真に少監を授く。咸平三年卒す。年四十六。子舜卿は国子博士となる。
馬韶
馬韶は趙州平棘の人、天文三式を習ふ。開寶中、太宗、晋王として京を尹す。私に天文を習ふの禁を申厳す。韶は素より太宗の親吏程徳玄と善し。徳玄は毎に韶を戒めて門に及ばしめず。九年冬十月十九日、既に夕べ、韶忽ち徳玄に造る。徳玄甚だ恐れ、其の来る所以を詰む。韶曰く、「明日は乃ち晋王の利見の辰なり。韶故に以て相告ぐ」と。徳玄惶駭し、韶を一室に止め、遽かに入りて太宗に白す。太宗、徳玄に命じて人を以て防守せしめ、将に太祖に聞かんとす。詰旦に及び、太宗入謁し、果たして遺を受けて阼を践む。韶は赦を以て免る。月を踰へて、家を起して司天監主簿と為る。太平興國二年、太僕寺丞に擢げられ、秘書省著作佐郎に改む。太子中允・秘書丞を歴て、出でて平恩令と為る。朝に帰り、復た旧任を守り、楚芝蘭と同く判司天監事と為り、就きて太常博士に遷る。淳化五年、事に坐し、出でて博興令と為り、長山令に移る。秩満して郷里に帰り、家に於て卒す。
楚芝蘭
楚芝蘭は汝州襄城の人、初め『三礼』を習ふ。忽ち自ら言ふ、有道の士に遇ひ、符天・六壬・遁甲の術を教へらるると。朝廷の方技を博く求むるに属し、闕に詣りて自薦し、録せられて学生と為る。占候に拠る所あるを以て、擢げられて翰林天文と為る。楽源県主簿を授けられ、司天春官正・判司天監事に遷る。占者言ふ、五福太一は呉分に臨み、当に蘇州に於て太一祠を建つべしと。芝蘭独り上言す、「京師は帝王の都にして、百神の集まる所なり。且つ今京城の東南一舍の地、名づけて蘇村と為す。若し此に於て五福太一の為に宮を建てば、万乗親しく謁すべく、有司便ちに事を祗るに便なり。何を為ぞ遠く江外に趨き、蘇臺を以て呉分と為さんや」と。輿論能く奪ふこと能はず、遂に其の議に従ひ、仍ち同く本宮の四時祭祀の儀及び醮法を定めしむ。宮成るや、特ち尚書工部員外郎に遷し、五品服を賜ふ。淳化初、馬韶と同く監を判じ、俱に事に坐し、芝蘭は出でて遂平令と為る。卒す。年六十。其の子継芳を録して城父県主簿と為す。
韓顕符
韓顕符は何の許の人なるかを知らず。少くして三式を習ひ、辰象を察視するに善くし、司天監生に補せられ、霊臺郎に遷り、累ねて司天冬官正を加ふ。顕符は渾天の学に専らす。淳化初、表を上りて銅渾儀・候儀の造るを請ふ。詔して用度を給し、顕符をして規度せしめ、匠を択びて之を鑄せしむ。至道元年渾儀成る。司天監に於て臺を築き之を置く。顕符に雑綵五十匹を賜ふ。顕符其の『法要』十巻を上る。之に序して云く、
伏羲氏渾儀を立て、北極の高下を測り、日影の短長を量り、南北東西を定め、星間の広狭を観る。帝堯即位し、羲氏・和氏渾儀を立て、暦象日月星辰を定め、民時に欽授し、緩急を知らしむ。降りて虞舜に及び、璿璣玉衡を測りて以て七政を斉す。『通占』又云く、「渾儀を撫で、天道を観れば、万象以て多と為すに足らず」と。是れ渾儀は、実に天地造化の準、陰陽暦数の元なるを知る。古より聖帝明王是を用ひて天象を精詳し、差忒を預知せざるは莫し。或は銅を以て鑄し、或は玉を以て飾り、内庭に置き、日官近臣を遣はして同く窺測せしむ。
伏羲甲寅年より皇朝大中祥符三年庚戌歳に至るまで、積みて三千八百九十七年。五帝の後より今に訖るまで、暦象の玄を明らかにし、渾天の奥を知る者は、近きこと十余朝、考へて之を論ずれば、至妙に臻る者は四五を過ぎず。自余は徒に一日の重きを誇り、久要に深く図らず。致して天象準無く、暦算漸く差ひ、占候同じからず、盈虚定め難し。陛下廃墜を講求し、爰に渾儀を造る。漏刻星躔、暁然として弁じ易し。若し人目下に窺れば、則ち銅管上に運び、七曜の進退盈縮、衆星の次舎遠近、逆順を占ひ、吉凶を明らかにし、然る後に福を修めて其の度に俾し順はしめ、事を省みて以て其の災を退けしむ。悉く斯の器に由りて之を験す。
昔、漢の洛下閎渾儀を修め、『太初暦』を測りて云く、「後五百年必ず当に重ねて製すべし」と。唐の李淳風に至りて、果たして前契に合す。貞観初。淳風又言ふ、前代渾儀得失の差を。因りて銅鑄を令す。七年、太宗凝暉閣を禁中に起す。侍臣をして占験せしむ。既に宮掖に在り、人得て見ること莫く、後其の処所を失ふ。玄宗、沙門一行に命じて『大衍暦』を修めしむ。蓋し渾儀を以て証と為す。又梁令瓚渾儀の木式を造る。一行其の精密なるを謂ひ、古人に出でたりと思ひ、遂に銅を以て鑄す。今文徳殿鼓楼の下に古本銅渾儀一有り。製極めて疏略にして、施用すべからず。且つ暦象の作は、渾儀無くんば以て真偽を考ふる無し。算造の士は、占験無くんば能く得失を究むること能はず。渾儀の成るは、則ち司天歳に細行暦を上る。益々其の詳密を致す可し。
其の制九有り。事は『天文志』に具はす。是より顕符渾儀の測験に専らし、累ねて春官正を加へ、又太子洗馬に転ず。
大中祥符三年、詔して顕符に監官或いは子孫の渾儀法を授くべき者を選ばしむ。顕符言う、長子監生承矩は躔度を察するに善く、次子保章正承規は算造を知るに優れ、また主簿杜貽範・保章正楊惟徳も皆その学を伝うべしと。詔して顕符に貽範等と参驗せしむ。顕符は後に殿中丞兼翰林天文に改む。六年卒す、年七十四。また詔して監丞丁文泰にその事を嗣がしむ。
史序
史序、字は正倫、京兆の人。推歩暦算に善く、太平興国年中、司天学生に補す。太宗親しく較試し、主簿に擢でる。稍く監丞に遷り、緋魚を賜い、翰林天文院に隷す。雍熙二年、廷試に中選する者二十六人、而して序はその首と為り、算造を知り、また監事を知るを命ぜらる。
淳化三年、司天鄭昭晏言う、「臣、金・火の行度を測るに相犯すべき有り。今これを天に験するに、火行漸く南にし、金度漸く北し、相い避くるが若く、遂に相犯せず」と。序また言う、「木・火・金の三星初夜午に在り、木は東に、火は中に、金は最も西に在り、漸く北行して火を去ること尺餘。これ国家の天道を欽崇し、聖徳の感ずる所なり」と。
序は後に累遷して夏官正・河西環慶二路随軍転運・太子洗馬と為る。『儀天暦』を修めて上る、また嘗て天文暦書を纂して十二巻と為し以て献ず、殿中丞に改め、金紫を賜い、俄に監事を権む。景德二年権知少監に遷り、大中祥符初め即真す。三年卒す、年七十六。序は慎密にして職に勤め、監に在ること三十年、未だ嘗て過ち有ること無く、衆頼りて之を称す。
周克明
周克明、字は昭文。曾祖徳扶、唐の司農卿。祖傑、開成中進士、解褐して獲嘉尉、弘文館校書郎を歴任す。中和中、僖宗蜀に在り、傑上書して治乱を言うこと万余言。水部員外郎に擢でられ、三遷して司農少卿と為る。傑は暦算に精しく、嘗て『大衍暦』の数に差有りとし、因ってその法を敷衍し、『極衍』二十四篇を著し、以て天地の数を究む。時に天下方に乱る、傑天文を以てこれを占うに、惟だ嶺南は以て地を避くべしと、乃ち其の弟鼎を遣わして封州録事参軍を求む。傑天復中も亦官を棄て家を携えて南に嶺表に適す。劉隠素よりその名を聞き、毎に令して天文災変を占候せしむ。傑自ら老いたるを以て、嘗て中朝に名を策し、星暦を以て僭偽に事うるを恥じ、乃ち病を謝して出でず。龑位を襲ぎ、強いてこれを起し、司天監事を知らしむ、因って国祚の脩短を問う。傑『周易』を以てこれを筮うに、『比』の『復』を得、曰く、「卦に二土有り、土の数は五を生じ、十に成る、二五相い比し、歳を以てこれを言えば、当に五百五十なるべし」と。龑大いに喜び、賞賚甚だ厚し。 龑は梁の貞明三年に僭号し、開宝四年に国滅するに至り、止むこと五十五年。蓋し傑は成数を挙げて以て害を避くるのみ。大有中、太常少卿に遷り、卒す、年九十余。傑は茂元を生む、亦その学を世にし、龑に事えて司天少監に至り、宋に帰して監丞を授かりて卒す、即ち克明の父なり。
克明は数術に精しく、凡そ律暦・天官・五行・讖緯及び三式・風雲・亀筮の書、その指要を究めざる無し。開宝中司天六壬を授かり、台主簿に改め、監丞に転じ、五遷して春官正と為る。克明は頗る詞藻を修め、書を蔵するを喜ぶ。景德初め、嘗て著す所の文十編を献じ、召されて中書に試みられ、同進士出身を賜う。三年、大星氐の西に出づ、衆能く辨ふる莫し、或いは国に妖星見ゆと言い、兵凶の兆と為す。克明時に嶺表に使いし、及び還り、亟に対を請い、言う、「臣『天文録』・『荊州占』を按ずるに、その星の名は周伯と曰い、その色は黄、その光は煌煌然たり、見ゆるの国は大いに昌んず、是れ徳星なり。臣途に在りて中外の人の頗るその事に惑うを聞く、願わくは文武に慶びを称するを許し、以て天下の心を安んぜしめよ」と。上これを嘉し、即ちその請いに従う。太子洗馬・殿中丞を拝し、皆翰林天文を兼ね、また監事を権判す。両朝国史を修するに属し、その天文律暦の事、克明に参ずるを命ず。大中祥符九年、本監の日を択ぶに差互するに坐し、例に降りて洗馬と為る。
天禧元年夏、火霊台を犯す、克明親しき所に語りて曰く、「去歳太白霊台を犯し、暦を掌る者悉く降譴せらる、上天象を垂る、深く畏るべし。今熒惑またこれを犯す、吾其れ起たざるか」と。八月、疽背に発し、卒す、年六十四。克明久しく司天の職に居り、頗る勤慎、凡そ奏対するには必ず経に拠り言を尽くす。及び卒す、上頗る悼惜し、内侍を遣わしてその婿直龍図閣馮元に諭し、喪事を主たしめ、賻を賜うこと甚だ厚し。
初め、諸僭国皆録を纂する有り、独り嶺南闕く。惟だ胡賓王・胡元興の二家の纂述有るも、皆これを備えず。克明は耆旧を訪い、碑誌を采り、孳孳として著撰し、裁すこと十数巻、書未だ成らずして卒す。
劉翰
劉翰、滄州臨津の人。世医業を習い、初め護国軍節度巡官を摂す。周の顕徳初め、闕に詣でて『経用方書』三十巻・『論候』十巻・『今体治世集』二十巻を献ず。世宗これを嘉し、翰林医官と為すを命じ、その書を史館に付し、再加えて衛尉寺主簿と為す。
太祖北征し、翰を行に従わしむるを命ず。建隆初め、朝散大夫・鴻臚寺丞を加う。時に太祖治を求め、事皆実を核す、故に方技の士は必ず精練せしむ。乾徳初め、太常寺に令して翰林医官の芸術を考較せしむるに、翰を以て優と為し、その業精ならざる者二十六人を絀く。自ら後、また詔して諸州に医術優長なる者を訪いその名を籍し、仍り装銭を量りて賜い、所在の厨伝に食を給し、闕に遣わし詣らしむ。開宝五年、太宗藩邸に在りて疾有り、翰と馬志にこれを視しむるを命ず。及び愈ゆるに及び、尚薬奉御に転じ、銀器・緡銭・鞍勒馬を賜う。
嘗て詔されて『唐本草』を詳定せしめらる、翰は道士馬志・医官翟煦・張素・吳復珪・王光祐・陳昭遇と同議し、凡そ『神農本経』三百六十種、『名医録』一百八十二種、唐本先附一百一十四種、有名無用一百九十四種、翰等また参定して新たに一百三十三種を附す。既に成り、詔して翰林学士中書舎人李昉・戸部員外郎知制誥王祐・左司員外郎知制誥扈蒙に詳覆して畢りて上るをせしむ。昉等これを序して曰く、
『三墳』の書、神農その一に預かる。百薬即ち辨ぜられ、『本草』その録を序す。旧経三巻、世に流伝す。『名医別録』、互いに編纂を為す。梁の陶弘景に至りて乃ち『別録』を以てその『本経』に参し、朱墨雑書し、時に明白と謂う。而又功用を彼に考へ、為に注釈し、列して七巻と為し、南国に行わる。有唐に逮る、別に参校を加え、薬を増すこと余八百味、注を添えて二十巻と為す。『本経』漏缺すれば則ちこれを補い、陶氏誤説すれば則ちこれを証す。然れども年祀を載せ、また四百を逾え、朱字墨字、本を得て同じからず、旧注新注、その文互いに闕く。聖主の大同の運を撫で、無疆の休を永くせざれば、その何を以てか改めてこれを正さんや。
そこで命じて伝来の誤りを徹底的に考証し、刊行して定本とした。分類の例が妥当でないものは、これに従って改めた。例えば筆頭灰は兔毫であるのに草部にあったが、今は兔頭骨の下に移して附した。半天河・地漿は皆水であるのに、これも草部にあったが、今は土石類の間に移して附した。敗鼓皮は獣名に移し附し、胡桐淚は木類に改め従わせた。紫鑛も木であるのに、玉石品から改めた。伏翼は実は禽類であるのに、蟲魚部から移した。橘柚は果実に附し、食鹽は光鹽に附した。生薑・乾薑は同じ一類に帰した。また雞腸・蘩蔞、陸英・蒴藋は類が似ているので、これに従って附した。なお陳蔵器の『拾遺』、李含光の『音義』を採り、あるいは別本に源を窮め、あるいは醫家に效を傳え、参照して較べ、その臧否を辨じた。例えば突屈白は旧説では灰類であったが、今は木の根である。天麻根は赤箭に似ていると解されていたが、今は全く異なる。非を去り是を取り、特に新條を立てた。その他の刊正は、悉く数えられないほどである。
下って衆議を採り、印板と定めた。そこで白字を神農の説いたところとし、墨字を名醫の傳えたところとし、唐附・今附には各々顯注を加え、その解釋を詳しくし、その形性を審らかにした。謬誤を證してこれを辨じたものには、今注と署し、文意を考えてこれを述べたものには、また今按とした。義は既に判定され、理もまた詳明である。今、新旧の薬を合わせて九百八十三種とし、目錄二十一卷を併せ、広く天下に頒ち、傳えて行わせた。
翰は後に檢校工部員外郎を加えられた。太平興国四年、翰林醫官使に任ぜられ、さらに檢校戸部郎中を加えられた。雍熙二年、滑州の劉が病を得たので、詔して翰を馳せ往って診させた。翰が還り、劉は必ず癒えると言ったが、間もなく即死したので、坐して和州團練副使に責授された。端拱初め、起用されて尚薬奉御となった。淳化元年、再び醫官使となった。卒す。七十二歳。
王懷隱
王懷隱は、宋州睢陽の人である。初め道士となり、京城の建隆観に住み、醫診に長じていた。太宗が京尹であった時、懷隱は湯劑をもって祗事した。太平興国初め、詔して還俗させ、尚薬奉御に命じ、三遷して翰林醫官使となった。三年、呉越が子の惟濬を入朝させたが、惟濬が病を得たので、詔して懷隱に診させた。
初め、太宗が藩邸におられた時、暇日に多く醫術に留意し、名方千餘首を蔵していたが、皆嘗て驗のあるものであった。この時に至り、詔して翰林醫官院に各々家傳の經驗方を具えて獻上させると、また萬餘首あり、懷隱と副使の王祐・鄭奇・醫官の陳昭遇に命じて參對編類させた。各部ごとに隋の太醫令巢元方の『病源候論』をその首に冠し、方薬をこれに次がせ、一百卷を成した。太宗は御製の序を撰し、名を『太平聖惠方』と賜い、なお板を鏤らせて天下に頒行し、諸州に各々醫博士を置いてこれを掌らせた。懷隱は後數年して卒した。
昭遇はもと嶺南の人で、醫術は特に精驗に優れ、初め醫官となり、溫水主簿を領し、後に光祿寺丞を加えられ、金紫を賜わった。
趙自化
趙自化は、もと德州平原の人である。高祖父は嘗て景州刺史となったが、後、挙家契丹に陷った。父の知嵓は身を脱して南帰し、洛陽に寓居し、經方名藥の術を習い、またこれを二子の自正・自化に授けた。周の顯德年中、ともに京師に來り、悉く醫術をもって稱された。知嵓が卒すると、自正は方技を試みられ、翰林醫學に補された。
時に秦國長公主が病を得たので、自化の診候を薦める者がおり、病が癒えると、表して醫學とし、さらに尚薬奉御を加えられた。淳化五年、醫官副使を授けられた。時に陳州の隱士萬適を召し至らせ、自化の家に館した。時に適を慎縣主簿に補することとなり、適は平素強力で病がなかったが、詔が下った日、自化はその色の變わるのを怪しみ、脈を切って曰く「君は死なんとす」と。數日を経ずして、適は果たして卒した。
至道年中、布衣の鄭元輔という者がおり、嘗て自化の姻戚である吏部令史張崇敏の家に依っていた。元輔は時に自化に丐索したが、得る所がなく、心にこれを銜んだ。そこで檢に詣でて上書し、自化が禁中の語を漏泄し、及び指斥・言うべからざる事などを告げた。太宗は初め甚だ駭き、王繼恩をして御史府に就いてこれを鞫させたが、皆狀がなく、元輔を都市で斬った。自化は交遊非類に坐し、郢州團練副使に貶された。間もなく、旧職に復した。咸平三年、正使を加えられた。
景德初め、雍王元份及び晉國長公主がともに上言して自化の薬餌に功ありとし、使秩を加え、遙郡を領するよう請うた。上は自化が太醫の長に居ることを以て、再び請求すべきでないとし、樞密院に命じて自化を召し戒めさせた。雍王が薨じると、診治無狀に坐し、副使に降格された。二年、旧官に復した。この冬卒す。五十七歳。遺表をもって撰した『四時養頤錄』を獻じたので、真宗は名を『調膳攝生圖』と改め、なお序を製した。
自化は頗る篇什を作ることを好み、郢州に貶された時、『漢沔詩集』五卷があり、宋白・李若拙がこれに序を為した。また嘗て古より方技をもって貴仕に至った者を纘し、『名醫顯秩傳』三卷を為した。
馮文智
馮文智は、并州の人である。代々方技を業としていた。太平興国年中に都に詣でて自ら陳べ、召し試みられて醫學に補され、樂源縣主簿を加えられた。端拱初め、少府監主簿を授けられ、一年餘りして醫官に轉じ、少府監丞を加えられた。嘗て并代部署に隷した。淳化五年、府州の折禦卿が病を得たので、文智が診療して癒えることを得、禦卿が表してこれを薦めたので、緋を賜わり、光祿寺丞を加えられた。咸平三年、明德太后が豫せず、文智が醫に侍したが、癒えると、尚薬奉御を加えられ、金紫を賜わった。六年、直翰林醫官院となった。東封の時、醫官副使に轉じた。汾陰を祀る時、また檢校主客員外郎を加えられた。大中祥符五年卒す。六十歳。
建隆以来、近臣や皇親、諸大校に疾病があると、必ず内侍を派遣して医師を伴わせて診療させ、群臣の中で特に寵遇を受けた者も同様であった。その効果があった者は、あるいは官位を昇進させ、あるいは服色を賜った。辺境の郡の屯駐軍の将帥には多く医官や医学を随行させ、三年ごとに交代させた。出師や境外への使者派遣、貢院の鎖宿の際には、皆医官に随行させた。京城の四面には、翰林祗候を分遣して将士を診療させた。暑月には、即ち医官に薬を調合させ、内侍と分かれて城門や寺院に赴き、軍民に分け与えさせた。上(皇帝)は便座で兵を閲するたびに、金瘡を負った者がいれば、即ち医官に処置治療させた。
咸平年間、ある軍士がかつて流れ矢に当たり、頬から耳へ貫通したが、多くの医師が取り出せず、医官の閻文顯が薬を塗布すると、二晩で鏃が出た。上はその才能を嘉し、命じて緋色の官服を賜った。
また医学の劉贇もこの術を善くした。天武右廂都指揮使の韓晸が太祖に従って晋陽を征した時、弩の矢が左腿を貫き、鏃は出ずにほぼ三十年を経ていた。景德初年、上は劉贇を派遣して韓晸を診させ、劉贇が薬を塗布してそれを出させると、歩行は以前のようになった。韓晸は拝謁を請い、自ら感激を述べて、死に場所を得たいと願い、また劉贇の妙技を極めて称えた。特に劉贇に白金を賜い、医官に昇進させた。
沙門洪蘊
沙門洪蘊は、本姓は藍、潭州長沙の人である。母の翁氏は、初め子がなく、専ら仏経を誦していたが、やがて懐妊し、洪蘊を生んだ。十三歳の時、郡の開福寺の沙門智巴のもとに赴き、出家を請い、方技の書を習い、後に京師に遊学し、医術をもって知名となった。太祖が召し出して見、紫の方袍を賜い、号を広利大師とした。太平興国年間、詔して医方を購求すると、洪蘊は古方数十を書き出して献上した。真宗が蜀邸におられた時、洪蘊は方薬をもって謁見した。咸平初年、右街首座に補され、累転して左街副僧録となった。洪蘊は特に診切に巧みで、毎年事前に人の生死を言い当て、外れることがなかった。湯剤は精緻を極め、貴戚大臣に疾病のある者は、多く詔を下して診療に派遣された。景德元年に卒し、六十八歳であった。
また廬山の僧法堅も、善く医することをもって著名で、久しく京師に遊学し、かつて紫の方袍を賜い、号を広済大師とし、後に山に還った。景德二年、雍王元份が久しく疾病に罹っていたため、召して闕下に赴かせたが、到着すると元份は既に薨去していた。法堅は再び山に帰り、やがて卒した。
蘇澄隱
蘇澄隱、字は棲真、真定の人である。道士となり、龍興観に住し、養生の術を得て、八十余歳でも衰老しなかった。後唐の明宗はかつて詔を下して召し、また宰相の馮道に命じて書を送り旨を諭させたが、清泰、天福の年間を通じて引き続き招聘の命があったが、皆病気を理由に辞して至らなかった。開運末年、契丹主の兀欲が立つと、名称のある僧道を求めて恩命を加えたが、ただ澄隱だけは受けなかった。当時、公卿は馮道、李崧、和凝以下、皆鎮陽におり、日ごとにその室を訪れて談宴し、各々詩を賦して贈った。周の広順、顕徳年間、詔してその安否を問うた。
太祖が太原を征して還り、鎮陽に駐蹕した時、行宮に召し出して見、中使に命じて掖き上げて殿に昇らせ、これに言った、「京師に建隆観を造り、有道の士を得てこれに住まわせたいと思う。師は累次召命を辞しているが、郷土を懐かしむのか」と。答えて言った、「大梁は帝宅であり、浩穰として繁会しており、林泉の士の寄跡すべきところではありません」。上はその意を察し、強いることもなく、茶百斤、絹二百匹を賜った。またその観に幸し、問うて言った、「師は年八十を超えて気貌ますます壮んである。養生を善くする者である」。そこでその術を問うと、答えて言った、「臣の養生は、精思練気に過ぎません。帝王の養生はこれとは異なります。老子は言われます、『我無為にして民自ずから化し、我無欲にして民自ずから正し』と。無為無欲、神を凝らして太和に至る、昔の黄帝、唐堯が国を享けて永年であったのは、この道を得たからです」。上は大いに悦び、紫衣一襲、銀器五百両、帛五百匹を賜った。百歳ほどで卒した。
丁少微
丁少微は、亳州真源の人である。道士となり、斎戒を守り、科儀を奉じて特に精緻を極めた。かつて華山の潼谷に隠棲し、密かに陳摶の居所に通じ、摶と斉名した。少微は志尚清潔であり、摶は酒を嗜んで性に適うことを好み、その道は異なり、互いに往来することはなかった。少微は服気を善くし、多く薬を服用し、百余歳で、康強で疾病がなかった。初め、山上に居を卜し、壇場や浄室を建て、終夜朝礼し、五十余年少しも怠ることがなかった。太平興国三年、召して闕下に赴かせ、金丹、巨勝、南芝、玄芝を献上した。数か月留め、山に還らせた。七年の冬に卒した。
趙自然
趙自然は、太平州繁昌の人で、家は荻港の傍らにあり、茶を売ることを業とし、本名は王九といった。十三歳の時、病が重く、父が抱いて青華観に詣でさせ、道士となることを許した。後に一人の人物の夢を見た。状貌魁偉で、綸巾に素袍、鬢髪は斑白であり、自ら姓は陰と言い、彼を導いて高山に登り、言った、「汝には道気がある。吾、汝に辟穀の法を教えよう」。そこで青柏の枝を出して食べさせ、夢の中でこれを食べた。覚醒すると、遂に食べず、神気爽やかで、火食の気を聞くたびに嘔吐し、ただ生の果物と清泉だけであった。一年余り後、再び以前見た老人が数百字の篆書を教える夢を見、覚めて全て記憶することができた。書き出して人に見せると、皆識別できなかった。ある者が言うには、「これは篆書ではない。道家の符籙である」と。かつて『元道歌』を作り、修練の要を述べた。知州の王洞がその事績を上表すると、太宗が召して闕下に赴かせ、親しく問い、道士の服を賜い、名を自然と改め、銭三十万を賜った。一月余りで還らせ、青華観に住まわせた。後に病気のため、飲食は以前のようになった。大中祥符二年、詔して言った、「聞くところによると自然は頗る修養の術に精通しているようだ」。発転使の楊覃に委ねてその行跡を訪ねさせ、内侍の武永全に命じて召して闕下に至らせ、屡々対面を得、紫衣を賜い、青華観を延禧と改称させた。自然は母が老いていることを理由に還って侍養することを求め、これを許された。
大中祥符年間、また鄭栄という者がいた。もとは禁軍で、壁州に戌守して還り、夜に神人に遇い、言われた、「汝には道気がある。火食するなかれ」。そこで医術を授けられて人を救った。七年、名を自清と賜り、道士に度し、上清宮に住まわせた。伝える薬は大風疾(ハンセン病)を癒すことができ、民多くこれを求めた。皆、臂の血を刺して餅に和えて与えた。
趙抱一
また秦州の民家の子に趙抱一という者がおり、常に田野で羊を放牧していた。ある夕べ、門を叩いて彼を呼ぶ者がおり、杖で導いて行くと、杖の先端には煙のような気があり、その香りは喜ばしいものであった。やがて山崖の絶頂に至ると、数人が集まって飲み、音楽が交々に奏でられ、人間界と異なることはなかった。抱一は驚き、測り知れなかった。ちょうど巡検司がその下を通り過ぎ、楽の音を聞き、群盗が歓び集まっているのではないかと疑い、村民を集めて崖に梯子をかけて登った。至ってみると何も見えず、抱一だけがそこにおり、引き下ろして事情を詳しく話させた。一晩中経ったが、まるで一瞬のようであった。これ以後、彼は火を通した食物を好まず、火で調理したものは口にしたことがなかった。甘菊・柏の葉・果実・井戸水を食べ、時には酒も飲み、容貌は嬰児のようであった。元来文墨を習ったことはなく、口ずさみで辞句を作ると、かなりまとまった詩文となった。道家の趣きがあった。そこで農事に親しまず、野を行き露に宿った。大中祥符四年、京師に至った時には、まだ髪を両角に結った童子の姿であり、詔により名を賜り、道士として度牒を受けた。これ以後、隔年あるいは一度京師に至り、常に太一宮に居住させられ、人と話す時は多く養生の事を語った。