宋史

列傳第二百十九 列女 朱娥 張氏 彭列女 郝節娥 朱氏 崔氏 趙氏 丁氏 項氏 王氏二婦 徐氏 榮氏 何氏 董氏 譚氏 劉氏 張氏 師氏 陳堂前 節婦廖氏 劉當可母 曾氏婦 王袤妻 涂端友妻 詹氏女 劉生妻 謝泌妻 謝枋得妻 王貞婦 趙淮妾 譚氏婦 呉中孚妻 呂仲洙女 林老女 童氏女 韓氏女 王氏婦 劉仝子妻毛惜惜

古えは天子みずから耕し、男子に力を尽くして働くことを教え、皇后みずから蠶を飼い、女子に生業を営むことを教えた。王道の根本、風俗の源は、もとよりここに存するのである。男子には塾師があり、女子には師氏があり、国にはその官があり、家にはその教えがあった。しかしながら詩書に称えられる男女の賢人は、なお数えることができる。世の道が既に下り、教えの典が古に非ざるに及び、男子は四方に志すも、なお師を尊び親しく友として善をなすことができる。女子が環堵の中に生長し、美しき行いを著して汗青に垂れることができるのは、いったい容易に得られることであろうか。故に歴代に伝わる列女を、どうして棄てることができようか。宋の旧史を考証して列女若干人を得たので、『列女傳』を作る。

朱娥

朱娥は、越州上虞の朱回の女である。母は早くに亡くなり、祖おうに養われた。娥が十歳の時、里中の朱顏が媼と争い、刀を持って媼を殺さんとした。一家は驚き潰走したが、ただ娥のみが号呼して突き進み、その媼を擁蔽し、手で顏の衣を引き、身を以て顏の刀の下に墜ちて言うには、「寧ろ我を殺せ、媼を殺すなかれ」と。媼は娥の故に逃れることができた。娥は連続して数十刀を被りながらも、なお手で顏の衣を引き放さず、顏は忿恚して、その喉を断って死なせた。事が聞こえ、その家に粟帛を賜う。その後、会稽令の董皆が娥の像を曹娥廟に立て、歳時に配享した。

張氏

張氏は、鄂州江夏の民の婦である。里の悪少謝師乞がその家を通り過ぎ、刀を持って迫り、乱を為さんと欲し、「我に従えば全うし、従わねば死す」と言った。張は大いに罵って言うには、「庸奴!死すべし、他のこと(従うこと)はならぬ」と。遂に刃を以てその喉を断たれても、なお走ることができ、師乞を擒らえ、以て隣人に告げた。既に死して後、朝廷これ聞き、詔して旌徳県君に封じ、墳に「列女之墓」と表し、酒帛を賜い、郡県に命じて奠を致させた。

彭列女

彭列女は、洪州分寧の農家に生まれる。父の泰に従って山に入り薪を伐る。父が虎に遇い、逃れられそうにないとき、女は刀を抜いて虎を斫り、その父を奪い返った。事が聞こえ、詔して粟帛を賜い、州県に勅して歳時に存問させた。

郝節娥

郝節娥は、嘉州の娼家の女である。五歳の時に生まれ、母の娼は貧苦しみ、洪雅の良家に売って養女とした。初めて笄をさす頃、母が奪い帰り、世襲して娼にさせんと欲した。娥は娼を楽しまず、日々これを逼る。娥は言う、「幼くより良家に育ち、織作や組紃の事を習い、また常に精巧で、粗ながらも母の朝夕を給うることができます。この身をして終に良民たらしめんことを求めます。よろしいでしょうか」と。母はますます怒り、かつ箠打ちかつ罵った。

洪雅では春時に蠶叢祠があり、娼は邑の少年と期し、蠶叢に因って酒を具え娥を邀えた。娼は娥と徐に行く。娥は少年を見て、倉皇驚き走らんとしたが、母が引き摑んで去らせなかった。已むを得ず座中に留まる。時に酒食を顧みては直ちに唾し、強いて飲ませると、嘔噦して地に満ちた。少年はついに侵淩することができなかった。暮れに帰り、雞鳴渡を過ぎる。娥は他日必ず脱することができないと推し量り、渇いたふりをして飲み物を求め、自ら江に投じて死んだ。郷人はこれを「節娥」と言う。

朱氏

朱氏は、開封の民の婦である。家貧しく、巾・屨・簪・珥を売ってその夫を給した。夫は日に俠少と飲み博打し、家を事とせず、法を犯して武昌に徒された。父母は奪い嫁がせんと欲した。朱は言う、「何ぞかくも我を迫るのか」と。その夫が行かんとする前夜、自ら経死し、かつ言うには、「我が夫の未だ去らざるに及び、我が不義に屈せざることを知らしめよ」と。呉充が時に開封府判官であり、『阿朱詩』を作ってその事を述べた。

包繶妻崔氏

崔氏は、合淝の包繶の妻である。繶は、枢密副使包拯の子で、早世し、ただ一人の幼い子がいた。拯夫婦は崔が守節できないと思い、左右の者にその心を試させた。崔は髪を振り乱し涙を流して堂下に出、拯を見て言った、「舅上は天下の名公でございます。嫁めが賤しい下女の列に加わり、洗濯などの雑事を務めるだけでも幸いなのに、ましてや家を汚すことなどできましょうか。生きては包家の嫁、死しては包家の鬼、他心は決してございません」。

その後、幼い子も亡くなった。実母の呂が荊州から来て、崔を誘い、その一族の者に嫁がせようとし、そこで言った、「夫を喪い子を守っていたが、子が死んで誰を守るというのか」。崔は言った、「かつて留まったのは、子のためではなく、舅姑のためでした。今、舅は亡くなり、姑は年老いておられます。どうして捨てて去ることができましょうか」。呂は怒り、ののしって罵った、「私は寧ろここで死のうとも、決して一人で帰ることはしない。お前も一緒に行かねばならぬ」。崔は泣いて言った、「母が遠くから来られた以上、義として母を一人で帰らせるわけにはまいりません。しかし、荊州に着いて、もし不義をもって迫られるならば、必ずや帯の下で命を絶ちます。どうか屍を包氏に返していただきたい」。こうして共に行った。母はその必ず死ぬという誓いを見て、ついに包氏に返した。

趙氏

趙氏は、貝州の人である。父はかつて学究に挙げられた。王則が反乱を起こした時、趙氏に並外れた美色があると聞き、人を遣わして強奪し、妻にしようとした。趙は毎日号泣し、罵り、死を求めた。賊はその色を愛して殺さず、多くの者に守らせた。趙は逃れられぬと知り、そこで騙して言った、「必ず私を妻にしたいなら、日を選び礼を尽くして聘すべきです」。賊はこれを信じ、彼女を実家に帰らせた。家族は彼女が自害するのを恐れ、賊から禍を受けることを心配し、ますます人を遣わして見張らせた。賊が聘礼の絹を整え、盛大な輿に従者を連れて迎えに来た。趙は家族と決別して言った、「私はもうここには帰りません」。その理由を問うと、答えて言った、「どうして賊にここまで汚辱されて、なお生き長らえる道理がありましょうか」。家族が言った、「お前は一族のことを考えないのか」。趙は言った、「ただ心配なさらぬように」。そして涙を流して輿に乗り去った。州庁に至り、簾を上げて見ると、すでに輿の中で首を吊って死んでいた。尚書屯田員外郎の張寅に『趙女詩』がある。

張晉卿の妻丁氏

張晉卿の妻丁氏は、鄭州新鄭の人で、参知政事丁度の五世孫である。靖康年中、晉卿と共に大隗山で金兵を避けた。金兵が山に入り、捕らえられ、鞍の上に抱き上げられた。丁は自ら地に投げ出し、戟手(人差し指と中指を伸ばして罵る仕草)して大声で罵り、連呼して言った、「私は死ぬなら死ぬがよい。決してお前たちの輩に辱めを受けはしない」。再び馬に抱き上げられ、再三罵ってやまなかった。兵卒はついに憤然として棍棒を振り上げて打ち据え、ついに杖の下で死んだ。

項氏

項氏は、吉州吉水の人である。永昌里に住み、同里の孫氏に嫁いだ。宣和七年、里胥に捕らえられ、途中で侵犯しようとした。項は刀を引いて自ら刺し、死んだ。郡がこれを上聞し、詔して孺人を追贈し、その家を旌表した。

王氏の二婦

王氏の二婦は、汝州の人である。建炎初年、金人が汝州に至り、二婦が掠奪され、舟の中に押し込められた。そこで漢江に投じて死んだ。屍は皆浮かび上がり腐敗せず、人が収めて城外の江辺に葬り、双塚を築いてこれを顕彰した。

徐氏

徐氏は、和州の人である。徐閎中の娘で、同郡の張弼に嫁いだ。建炎三年春、金人が維揚を侵犯した。官軍は風の便りに奔り潰え、多くは略奪をほしいままにし、徐を捕らえて汚そうとした。徐は目を怒らして大声で罵った、「朝廷は汝らを蓄えて緩急に備えさせたのに、今、敵が行在を犯しているのに、難に赴くこともできず、また時乗じて盗賊となる。私は一女子として汝らの首を剣で断ち、衆憤を快くすることができないことを恨む。どうして汝らに辱められて苟くも生き長らえようか。ただ早く私を殺せ」。賊は恥じ怒り、刃で刺し殺し、江中に投げ捨てて去った。

栄氏

栄氏は、栄薿の妹である。幼い時から成人のようで、『論語』、『孝経』を読み、大義を通じ、父母に孝行した。将作監主簿馬元穎に嫁いだ。建炎二年、賊の張遇が儀真を寇した。栄はその姑と二人の娘と共に維揚に逃れた。姑は元来病弱で、栄は支え扶けて捨てるに忍びなかった。やがて賊が至り、脅しても従わないので、賊はその娘を殺し、ますます激しく脅した。栄は声を厲して罵り、ついに害に遇った。

呉永年の妻何氏

何氏は呉の人。呉永年の妻である。建炎四年の春、金兵が三呉を通り、官兵は遁走し、城中の死者は五十余万に及んだ。永年はその姉および妻の何と共に母を奉じて逃れた。母は老いており、支えられて歩くのを待っていたが、ついに賊に捕らえられた。賊はその姉と何を縛ろうとした。何は賊を欺いて言った、「諸君は何と武勇に欠けることか。婦人の行く先は命ずるままです」。賊はこれを信じた。水辺に至った時、何は夫に言った、「私はあなたに背きません」。そして河に身を投げた。その姉も続いた。

董氏

董氏は沂州滕県の人。劉氏の子に嫁ぐことが決まっていた。建炎元年、盗賊の李昱が滕県を攻め略奪し、その色を悦び、乱れようと誘い諭すこと再三、言った、「もし我に従わねば、汝を万段に切り刻むであろう」。女は終に屈せず、遂にその首を断たれた。劉氏の子は女の死に様を聞き、大いに慟哭して言った、「烈女である」。葬り、祠を立てた。

三年の春、盗賊の馬進が臨淮県を掠め、王宣はその妻の曹氏に避難を促した。曹は言った、「私は婦人は死すとも閨房を出でずと聞く」。賊が至り、宣は避けたが、曹は堅く臥して起きなかった。賊らが彼女を劫持すると、大いに罵り屈せず、害された。

四年、盗賊の祝友が滁州龔家城に徒党を集め、人を掠めて食糧とした。東安県の民で丁国兵という者とその妻が祝友に掠められた。妻は泣いて言った、「丁氏の一族は流亡して既に尽きました。夫を存えてその祭祀を続けさせてください」。賊は遂に夫を釈放して彼女を害した。

同時に、叛卒の楊が南剣州を寇し、小常村を通り過ぎた時、一人の民婦を掠め、乱れようとした。婦人は毅然として死を誓い汚れを受けず、遂に害され、屍は道傍に棄てられた。賊が退いた後、人が収めて埋葬した。屍が枕にしていた所の跡は宛然として滅びず、雨が降れば乾き、晴れれば湿り、あるいは削り去ってもまた現れ、他の土で覆えばその跡は愈々明らかであった。

呉琪の妻譚氏

譚氏は英州真陽県の人。曲江村の士人呉琪の妻である。紹興五年、英州に飢饉があり、観音山の盗賊が起こり、郷落を攻め略奪した。琪は逃げ去り、譚は共に行けず、その娘と共に捕らわれた。譚は姿色あり、盗賊は妻にしようとした。譚は怒って罵って言った、「お前らは賊である。私は良家の女、どうしてお前らの配偶者になれようか」。賊はどうしようもないと悟り、彼女を害した。

同時に、南雄の李科の妻謝氏がいた。保昌故村の人である。虔州の盗賊の中に囚われて数日、犯そうとする者がいた。謝はその顔に唾して言った、「たとえ私を万段にしても、お前に従うものか」。盗賊は怒り、彼女を切り刻んで去った。

陳公緒の妻劉氏

劉氏は海州朐山の人。同里の陳公緒に嫁いだ。紹興の末、金人が山東を犯し、郡県は震動した。公緒は義を唱えて帰順し、たまたま劉は里帰りしており、慌ただしく共に行くことができず、ただその子の庚を連れて行った。宋は八品官を授け、後功を重ねて正使に至った。劉は北方に留まり、音信は通じなかった。ある者が彼女に言った、「人は『貴ければ交わりを易え、富めば妻を易える』と言う。今陳は既に貴くなった。必ず他に娶っているだろう。どうして改めて嫁がないのか」。劉は言った、「私はただ私の志を守るのみを知る。どうして他を憂えようか」。公緒もまた他に娶らなかった。子の庚が次第に成長すると、常に思い慕って涕泣し、家財を傾け、任侠の徒と結び、淮甸を奔走し、険阻を備え嚐めた。このようにして十余年、遂に母を迎えて帰ることができた。劉は北方に二十五年、嘗ては蕭をよこいとにして自ら生計を立てた。

張氏

張氏は羅江の士人の女。その母の楊氏は寡居していた。ある日、親族に婚礼の会があり、母女は共に行き、その典庫の雍乙という者が従った。席に着くと、乙は先に帰った。会が終わり、楊氏が帰ると、乙は庫の中で死んでおり、殺した者の主名は知れなかった。提点成都府路刑獄の張文饒は楊に私通があると疑い、人に知られるのを恐れ、乙を殺して口を滅ぼしたと考え、石泉軍に命じて劾治させた。楊は娘と同榻したと述べ、実に他はないと言った。そこでその女を捕らえ、拷問したが実証がなかった。吏は地を掘って坑とし、女をその中に縛り、傍らに熾火を並べ、間に水を注いだ。絶えてまた蘇ること屡り、供述は終に服さなかった。ある日、女は獄吏に言った、「私は苦毒に耐えられず、死ぬでしょう。母に一度会ってから絶命したい」。吏は憐れんで許した。会うと、母に言った、「母は清潔で聞こえています。どうしてこのような汚辱を受けましょう。寧ろ箠楚で死すとも、自ら誣いることはできません。娘は今死にます。死して天に冤を訟うでしょう」。言い終わって絶命した。ここにおいて石泉は三日連続して大地震があり、声は雷の如く、天は雪を降らせ、屋瓦は皆落ち、邦人は震恐した。

勘官の李志寧はその獄を疑い、夕方に衣冠を整えて天に祈った。俄かに仮寐して庁事に坐っていると、恍として猿が前に墜ちるのを見て驚いて覚め、吏卒を呼んで探させたが見えない。志寧は夢の兆しを考えた、「殺人者は袁の姓ではないか」。ある門卒が突然、張氏に食物を届ける夫が袁大というと言った。翌日袁が来ると、吏に捕らえさせて言った、「殺人者は汝だ」。袁は色を動かし、急いで言った、「私は長く憐れんでいました。願わくば死に就きたい」。問うと、云うには、「丁度庫の金を盗もうとした時、雍が帰ってきたので、遂に殺した」。楊はここに免れることができた。時に女が死んでから僅か数日であった。獄が上奏され、郡はその住居に「孝感坊」と掲げた。

范孝純の妻師氏

師氏は、彭州永豊の人である。父の驥は、政和二年の省試で第一となった。宣和年間、右正言を十数日務め、およそ七八度の上疏をして、権勢に近い者や廉訪使者の害を論じて去った。娘は范世雍の子孝純に嫁いだ。建炎初年、しょくに帰る途中、唐州方城県に至った時、賊の朱顕終が方城を掠奪することに遭遇し、孝純は先に害され、賊は師氏を捕らえて強いて犯そうとし、死なせぬと約束した。師は罵って曰く、「私は中朝の言官の娘である、どうして賊の辱めを受けられようか。我が夫は既に死んだ、速やかに私を殺すがよい」と。賊は屈せられぬと知り、遂に彼女を害した。

陳堂前

陳堂前は、漢州雒県の王氏の娘である。節操と行義に優れ、郷里の人々から敬われ、ただ「堂前」と呼んだのは、あたかも私的にその母を尊ぶが如きであった。堂前は十八歳の時、同郡の陳安節に嫁ぎ、一年余りで夫が亡くなり、ただ一人の子があった。舅姑しゅうこには生計を立てる術がなく、堂前は涙を抑えて告げて曰く、「人が子を持つのは、親に仕え家を治めるためです。今は已むを得ません、嫁が後を継いで、子が在世の如く務めます」と。舅姑は曰く、「もしそうしてくれるなら、我が子は亡くならぬ」と。夫を葬った後、親に仕え家を治めることに法があり、舅姑は安んじた。子の日新は、年が稍々長ずると、名儒を招いて訓導し、元服後、太学に入り、三十歳で卒した。二人の孫は綱と紱といい、共に篤学で名声があった。

初め、堂前が陳に嫁いだ時、夫の妹は尚幼く、堂前はこれを教育し、笄年けいねんに至り、厚礼をもって嫁がせ遣わした。舅姑が亡くなると、妹が財産の分与を求め、堂前は家の中の有り物を全て与え、惜しむ色がなかった。五年と経たぬうちに、妹の得た財産は夫によって使い尽くされ、乃ち帰って悔いた。堂前は田を買い屋を設け、諸甥を撫育すること己が子と異ならなかった。親族に貧窮して自活できぬ者がいれば、収養し婚嫁させること三四十人に及び、その後宗族は百数を数えるに至った。里に旧家の甘氏があり、貧しくして末娘を酒家に質入れしていたが、堂前は金を出してこれを贖い、帰る所を得させた。子孫はその遺訓に従い、五世同居し、共に孝友と儒業で著名となった。乾道九年、詔してその門閭を旌表したという。

歐陽希文の妻廖氏

廖氏は、臨江軍の貢士歐陽希文の妻である。紹興三年春、盗賊が建昌で起こり、「白氈笠」と号し、臨江を過ぎた時、希文は妻と共にその母の傅を挟んで山中に逃げ、賊に追われた。廖は身をもって姑を蔽い、希文にこれを背負って逃げさせた。賊は廖氏を捕らえ、廖は正色してこれを叱った。賊は屈せられぬと知り、刃を揮ってその耳と腕を断ったが、廖は尚も賊に謂って曰く、「お前らが叛逆してここまで来た、私は即死するが、お前らも間もなく屠戮されるであろう」と。語り終えて倒れた。郷人はその義を感じて葬り、「廖節婦墓」と号した。

この年、盗賊の彭友が吉州龍泉を犯した時、李生の妻梁氏は義のために辱めを受けず、水に赴いて死んだ。

劉當可の母王氏

王氏は、利州路提挙常平司幹弁公事劉當可の母である。紹定三年、興元に赴き養われた。大元の兵が蜀を破り、提刑の龐授が檄を飛ばして當可に行司に議事を詣でさせた。當可は檄を捧げて母に告げると、王氏は毅然としてこれを励まして曰く、「汝は君の禄を食んでいる、どうして難を避けられようか」と。當可が行くと、大元軍が興元を屠り、王氏は義のために辱めを受けず、大声で罵りながら江に投じて死んだ。その婦の杜氏及び婢僕五人も、皆難に及んだ。當可は変を聞き、江辺に駆けつけ、母の喪を得て帰った。詔して和義郡太夫人を贈った。

曾氏の婦晏

曾氏の婦晏は、汀州寧化の人である。夫が死に、幼い子を守って再嫁しなかった。紹定年間、賊が寧化県を破り、県令と佐官は共に逃げた。将楽県宰の黄垺が土豪の王万全・王倫に命じて諸砦と結約させ賊を拒がせたが、晏は率先して兵糧を助け、多くを殺傷捕獲した。賊はその敗北に憤り、結集して愈々衆く、諸砦は防禦できず、晏は乃ち黄牛山の傍に依り、自ら一つの砦を築いた。

ある日、賊が数十人を遣わして婦女と金帛を要求して来た。晏はその田丁を召して諭して曰く、「汝らは我家に衣食している、賊が婦女を求めるのは、実は私を狙っているのだ。主母を思い、各々命を用いるべく、勝たねば即ち私を殺せ」と。因みに首飾りを解いて悉く田丁に与えると、田丁は感激して奮い立った。晏自ら鼓を捶ち、諸婢に金を鳴らさせて、その勇気を鼓舞した。賊はまた退き敗れた。隣郷はこれに依れると知り、家を携えて黄牛山に避難する者が甚だ衆かった。自給できぬ者があれば、晏は悉く家の糧でこれを助けた。ここに於いて衆を聚めること日増しに広がり、また倫・万全と共に措置し、黄牛山を五つの砦に分け、少壮を選んで義丁とし、急あれば則ち互いに応援して犄角の勢いとし、賊は屡々攻めたが克てなかった。救われた老幼は数万人に及んだ。

南剣州知事の陳韡が人を遣わして金帛を贈ると、晏は悉くこれを配下に分け与えた。また楮幣を贈って五砦の義丁を労い、且つその子を借補し、その砦を「万安」と名付けた。事が聞こえ、詔して特に晏を恭人に封じ、仍って冠帔を賜い、その子には特に承信郎を補した。

王袤の妻趙氏

王袤の妻趙氏は、饒州楽平の人である。建炎年間、袤は上高の酒税を監り、金兵が筠を犯した時、袤は官を棄てて逃げ去り、趙はこれに従って行った。金人に遇い、縛られて連れ去られ、劉氏の門に袤夫婦を繋ぎ、中に入って劉の家を掠奪した。趙はもがいて縄を解き、併せて袤の縄も解き、袤に謂って曰く、「君は速やかに去れ」と。間もなく金人が出て来て、袤は何処へ行ったかと問うと、趙は他を指して誤らせた。金人がこれを追って得ず、趙が己を欺いたことに怒り、これを殺した。袤は叢薄そうはくの間に伏していたが、これを望んで悲痛に思い、帰って趙の像を刻んで葬った。袤は後に孝順監鎮に至るまで仕えた。

涂端友の妻陳氏

涂端友の妻陳氏は、撫州臨川の人である。紹興九年、賊が起こり、黄山寺に追い立てられた。賊が彼女を脅して従わせようとしたが、従わず、刃をその頸に加えられると、叱って言った。「お前ら鼠輩のごとき賊は、命は蜉蝣のようにはかないもの。私は良家の子、義をもってお前らのような者に辱められようか。たとえ私を殺しても、官兵はすぐに来る。お前らが免れることができようか。」賊は屈せられぬと知り、屋壁の中に幽閉した。数日経ち、一族や同党で釈放された者がおり、皆金帛を携えて妻子を贖おうとした。賊は端友の妻を引き出して帰らせようとした。彼女は言った。「貞女は閨閣を出ないと聞く。今私はここまで追い立てられた。何の面目あって涂氏の堂に登れようか。」再び賊を罵り絶えず、ついにそのために死んだ。

詹氏

詹氏の娘は、蕪湖の人である。紹興初年、十七歳の時、淮の賊で「一窠蜂」と号する者が突然県を破った。娘は嘆いて言った。「父子ともに生きる道理はない。私の決心は固まった。」間もなく賊が来て、その父兄を殺そうとした。娘は進み出て拝して言った。「妾は貧しく醜い者ですが、進んで巾帚を執って将軍に仕え、父兄の命を贖いたいと思います。そうでなければ、父子ともに命を絶つだけで、益はありません。」賊は父兄の縄を解いた。娘は手を振って急いで去るよう促し、「私のことは顧みないでください。私が将軍に侍ることができれば、何の遺憾がありましょうか。」と言った。そして賊に従った。数里行き、市の東橋を過ぎた時、身を躍らせて水に入り死んだ。賊は互いに顔を見合わせ驚き嘆いて去った。

劉生の妻歐陽氏

劉生の妻歐陽氏は、吉州安福の人である。劉生は新楽郷に住んでいたが、用事で出かけた時、悪少が来て彼女を侵凌しようとした。歐陽は辱めを受けずに死んだ。邑人の劉寛が詩を作ってこれを弔った。時は紹興十年である。

同県に朱雲孫の妻劉氏がいた。姑が病にかかり、雲孫が股の肉を切り取って粥を作って進めると治った。姑が再び病にかかると、劉もまた股の肉を切り取って進め、また治った。尚書謝諤が『孝婦詩』を賦した。

謝泌の妻侯氏

謝泌の妻侯氏は、南豊の人である。初めて笄をさした頃、家は貧しく、姑に孝行で慎み深く仕えた。賊が起こり、里の家屋を焼き人を殺した。遠近の人々は逃避した。姑の病が重く動けなかったので、侯は姑の側で号泣した。賊が彼女を脅すと、侯は言った。「寧ろ死んでも従わない。」賊が刃で彼女を斬り、溝の中に倒した。賊が退いた後、次第に蘇生し、傍らに一つの篋があるのを見た。開けると皆金珠であった。一族の婦人が自分の物だと思ったが、侯は全てそれを返した。婦人はその一つを分けて謝礼としようとしたが、侯は辞して言った。「私の物ではないので、願いません。」後に夫と姑がともに亡くなり、子は幼かった。父母は彼女を再嫁させようとしたが、侯は言った。「私は賤しい婦人でありながら、隠居した賢者の門に嫁ぐことができたのは既に幸せです。どうして去って謝氏に後継ぎがいなくなるようにできましょうか。寧ろ貧しくしてその子を養い、たとえ餓死してもそれは天命です。」

同県に楽氏の娘がいた。父は果物を売るのを業としていた。紹定二年、賊が境に入り、父は舟を買って家族を連れて建昌に逃げた。賊がその舟を掠め、二人の娘を脅そうとしたが、ともに従わず、一人は水に赴いて死に、一人は殺された。

謝枋得の妻李氏

謝枋得の妻李氏は、饒州安仁の人である。容色美しく聡明で、女訓などの書物に通じていた。枋得に嫁ぎ、舅姑に仕え、祭祀を奉じ、賓客をもてなすこと全て礼に適っていた。枋得が兵を起こして安仁を守ったが、兵敗れて閩中に逃げ込んだ。武萬戸は枋得が豪傑であるため、その扇動による変を恐れ、懸賞をかけて捕らえようとし、その根を絶やそうとして家族にまで及んだ。李氏は二人の子を連れて貴溪の山の荊棘の中に隠れ、草木を採って食べた。至元十四年の冬、信州の兵が山中に跡を追って来て、命令した。「もし李氏を捕らえられなければ、お前たちを皆殺しにして廃墟にするぞ。」李はこれを聞き、言った。「どうして私の故に人を累わすことができよう。私が出れば、事は塞がれる。」そこで捕らわれの身となった。翌年、建康に囚人として移された。ある者が李を指して言った。「明日には没官されるだろう。」李はこれを聞き、二人の子を撫でて、悲しげに泣いた。左右の者が言った。「没官されても、官人の妻となることは失わないでしょう。なぜ泣くのですか。」李は言った。「私はどうして二夫に嫁げようか。」二人の子を振り返って言った。「もし幸いにも生きて帰ることがあれば、よく私の姑に仕えなさい。私は最後まで養うことができない。」その夜、裙の帯を解いて獄中で自ら首を吊って死んだ。

枋得の母桂氏は特に賢明で道理に通じており、枋得が逃亡して以来、嫁と孫が遠方に幽閉されていても、泰然として処し、一言の怨言もなかった。人が尋ねると、言った。「義として当然のことです。」人々は賢母と称した。

王貞婦

王貞婦は、夫の家は臨海の人である。徳祐二年の冬、大元の兵が浙東に入った。婦人はその舅、姑、夫とともに捕らえられた。やがて舅、姑、夫は皆死んだ。主将は婦人が色白く美しいのを見て、自分のものにしようとした。婦人は慟哭して自殺しようとしたが、取り押さえられて死にきれなかった。夜、捕虜の婦人たちを混ぜて監視させた。婦人はそこで主将に偽って言った。「もし私を妻妾とするならば、終生主君に善く仕えさせたいのでしょう。私の舅、姑、夫が死んだのに、私が彼らのために喪に服さないのは、天に背くことです。天に背く者を、あなたはどうして用いられましょうか。どうか喪服を着る期間を請いたい。そうすればあなたの命に従います。もし私の言うことを聞かなければ、私は結局死ぬだけです。あなたの妻にはなれません。」主将は彼女が本当に死ぬのを恐れ、これを許した。しかし監視はますます厳重になった。

翌年の春、軍が帰還するに及び、行を連れて嵊青楓嶺に至る。下は絶壑に臨む。婦は守衛の者が少し油断するのを待ち、指を噛んで血を出し、山石の上に字を書き、南を望んで慟哭し、自ら崖下に投身して死す。後にその血は皆石の間に滲み込み、ことごとく石と化す。天が陰雨となるや、即ち盛り上がって初めて書いた時の如くなる。至治年間、朝廷はこれを旌表して「貞婦」と称し、郡守は石祠を嶺上に立て、名を改めて清風嶺と曰う。

趙淮の妾

趙淮の妾は、長沙の人なり、その姓名は逸す。徳祐年間、淮に従って銀樹埧を戍る。淮の兵敗れ、ともに捕らえられて瓜州に至る。元帥阿朮、淮を使わして李庭芝を招かしむ。淮はうわべに諾し、揚州城下に至りて、乃ち大いに呼びて曰く、「李庭芝、男子は死するのみ、降るなかれ」と。元帥怒り、これを殺し、その屍を江濱に棄つ。妾は一軍校の帳中に俘虜とされ、乃ち衣中の金を解きてその左右に遺し、且つこれに告げて曰く、「妾はつとに趙運使に事えしが、今その死して葬られず、妾誠に情を忘れ難し。願わくは公の言によりてこれを掩埋せしめよ、当に終身相公に事えて憾なからん」と。軍校その言を憐れみ、数兵をして輿に乗せて江上に至らしむ。妾は薪を聚めて淮の骨を焚き、瓦缶の中に置き、自ら抱持し、小舟を操って急流に至り、天を仰いで慟哭し、水に躍り入って死す。

譚氏の婦趙

譚氏の婦趙は、吉州永新の人なり。至元十四年、江南既に内附すれども、永新は復た城をかこって自ら守る。天兵城を破り、趙氏は嬰児を抱きてその舅・姑に随い、ともに邑校の中に匿る。悍卒に獲られ、その舅・姑を殺し、趙を執ってこれを汚さんとす。従わず、刃を以て臨みて曰く、「我に従えば則ち生く、従わざれば則ち死す」と。趙罵して曰く、「吾が舅は汝に死し、吾が姑また汝に死す。吾はその不義にして生くるに、寧ろ吾が舅・姑に従いて死せん」と。遂に嬰児とともに害に遇う。血は礼殿の両楹の間に漬き、磚に入って婦人と嬰児の状となり、久しくして宛然として新たなるが如し。或る者これを訝り、沙石を以て磨るも滅せず、また熾炭を以てくも、その状益々顕著なり。

呉中孚の妻

呉中孚の妻は、隆興の進賢の人なり、少にしてやもめとなる。景定元年、兵乱あり、孤女を携えて県の染歩に自ら沈み、曰く、「義、吾が夫を辱しめじ」と。

呂仲洙の女

呂仲洙の女、名は良子、泉州晉江の人なり。父疾を得て瀕死に陥る。女は香を焚きて天を祝し、身を以て代わることを請い、股をきて粥と為し進む。時に夜中、群鵲屋を繞り飛びて騒ぎ、空中を仰ぎ視れば、大星燁煜として月の如きもの三たびあり。越えて翼日、父瘳ゆ。女弟細良もまた相従いて拝祷せんとす。良子これを退ける。細良恚いかりて曰く、「豈に姉は能くして、児は能くせざらんや」と。守真徳秀これを嘉し、その居を表して「懿孝」と曰う。

林老女

林老女は、永春の人なり、けいに及んで未婚なり。紹定三年夏、寇邑を犯し、山に入りてこれを避く。にわかに寇に遇い、これを汚さんとす。従わず。脱することを得ざるを度り、紿いつわりて曰く、「金帛家に埋めたり、なんぞともにこれを取らん」と。はじめて門に入り、大いに呼びて曰く、「吾は寧ろ家に死せん、決して吾が身を辱しめじ」と。賊怒りてこれを殺す。三日を越えて面生けるが如し。

童八娜

童八娜は、鄞の通遠郷建奧の人なり。虎その大母をくわう。女手を以て虎の尾をき、身を以て代わることを祈る。虎その大母を釈し、女を銜えて去る。初め、林栗親に侍してその地に官す、嘗てこれを目睹す。已にして守と為り、以て朝廷に聞こえ、祠祀す。

韓氏

韓氏の女、字は希孟、巴陵の人なり、或いは曰く丞相琦の裔なり。少より明慧にして、書を読むことを知る。開慶元年、大元の兵岳陽に至る。女年十八、卒に掠められ、将にこれを挟んでその主将に献ぜんとす。女必ず免れざるを知り、ついに水に赴いて死す。三日を越えてその屍を得る。練裙の帯に詩ありて曰く、「我が質本より瑚璉、宗廟蘋蘩を供す。一朝禍難に嬰り、身を戎馬の間に失う。寧ろ血刃に死すべく、衽席の完を為さじ。漢上に王猛有り、江南に謝安無し。長号して洪流に赴き、激烈として心肝をくだく」と。

王氏婦梁

王氏の妻梁氏は、臨川の人なり。夫の家に嫁いで僅か数ヶ月にして、大元の兵の来襲に遭う。一夜、夫と約して曰く、「妾、兵に遇えば必ず死すべし、義として汚辱を受くるを許さず。若し後に娶らば、必ず我に告げよ」と。間もなく、夫婦ともに捕らえられる。ある軍の千戸が強いて己に従わしめんとす。婦は欺いて曰く、「夫あり、伉儷の情、忍び難きものあり。乞う、之を帰らしめて後、可なり」と。千戸は得たる金帛を其の夫に与えて帰らしめ、併せて一矢を与え、以て後の兵を退けしむ。約十里余り行くや、千戸、之に近づく。婦は拒み且つ罵りて曰く、「斫頭奴(首を斬る奴)!我、夫と誓う、天地鬼神実に之を臨む。此の身、寧ろ死すとも得べからず」と。因りて奮い立ち之と搏つ、乃ち殺さる。同じく捕らわれて脱帰したる者あり、其の事を語る。数年を越え、夫、嗣なきを以て更に娶らんと謀るも、議する毎に諧わず。因りて故妻に告ぐ。夜、夢に妻曰く、「我、死して後、某氏の家に生まる。今十歳なり。後七年、当に復た君の婦とならん」と。明日、人を遣わして之に聘す。一言にして合す。其の生まれを詢ねれば、婦の死したる年月と同じきと云う。

劉仝子妻林氏

劉仝子の妻林氏は、福州福清の人なり。其の父は公遇、知名の士なり。仝子は福建招撫使として起義兵を挙ぐ。事は『林同傳』に見ゆ。仝子は亡命し自経して死す。有司、其の妻を執り反状を具す。林氏叱して曰く、「林・劉の二族、世々宋の臣たり、忠義を以て国に報ぜんと欲す。事成らず、天なり。何を以て反と為さんや。汝、去歳に壁に血を以て書して死せし者あるを知るか。是れ吾が兄なり。吾と兄、忠義の心は則ち一なり。死して且つ地下にて汝を治めんことを求む。生きて汝等の為に淩辱せらるべけんや」と。遂に害に遇う。

毛惜惜

毛惜惜は、高郵の妓女なり。端平二年、別将栄全、衆を率いて城を拠り以て畔く。制置使、人を遣わし武翼郎を以て之を招く。全は偽り降り、使者を殺さんと欲す。方に同党の王安等と宴飲す。惜惜は供給するを恥ず。安、之を斥責す。惜惜曰く、「初めは太尉の降るを謂い、太尉の更生を賀せんとす。今乃ち門を閉ざして使者を納れず、酒を縦にし法に違う。是れ畔逆なるのみ。妾、賤しき妓と雖も、畔臣に事うる能わず」と。全怒り、遂に之を殺す。三日を越え、李虎、関を破り、全を禽えて斬り、並びに其の妻子及び王安以下畔に預かる者百余人を悉く法に傅す。