古えは天子みずから耕し、男子に力を尽くして働くことを教え、皇后みずから蠶を飼い、女子に生業を営むことを教えた。王道の根本、風俗の源は、もとよりここに存するのである。男子には塾師があり、女子には師氏があり、国にはその官があり、家にはその教えがあった。しかしながら詩書に称えられる男女の賢人は、なお数えることができる。世の道が既に下り、教えの典が古に非ざるに及び、男子は四方に志すも、なお師を尊び親しく友として善をなすことができる。女子が環堵の中に生長し、美しき行いを著して汗青に垂れることができるのは、いったい容易に得られることであろうか。故に歴代に伝わる列女を、どうして棄てることができようか。宋の旧史を考証して列女若干人を得たので、『列女傳』を作る。
朱娥
朱娥は、越州上虞の朱回の女である。母は早くに亡くなり、祖媼に養われた。娥が十歳の時、里中の朱顏が媼と争い、刀を持って媼を殺さんとした。一家は驚き潰走したが、ただ娥のみが号呼して突き進み、その媼を擁蔽し、手で顏の衣を引き、身を以て顏の刀の下に墜ちて言うには、「寧ろ我を殺せ、媼を殺すなかれ」と。媼は娥の故に逃れることができた。娥は連続して数十刀を被りながらも、なお手で顏の衣を引き放さず、顏は忿恚して、その喉を断って死なせた。事が聞こえ、その家に粟帛を賜う。その後、会稽令の董皆が娥の像を曹娥廟に立て、歳時に配享した。
張氏
張氏は、鄂州江夏の民の婦である。里の悪少謝師乞がその家を通り過ぎ、刀を持って迫り、乱を為さんと欲し、「我に従えば全うし、従わねば死す」と言った。張は大いに罵って言うには、「庸奴!死すべし、他のこと(従うこと)はならぬ」と。遂に刃を以てその喉を断たれても、なお走ることができ、師乞を擒らえ、以て隣人に告げた。既に死して後、朝廷これ聞き、詔して旌徳県君に封じ、墳に「列女之墓」と表し、酒帛を賜い、郡県に命じて奠を致させた。
彭列女
彭列女は、洪州分寧の農家に生まれる。父の泰に従って山に入り薪を伐る。父が虎に遇い、逃れられそうにないとき、女は刀を抜いて虎を斫り、その父を奪い返った。事が聞こえ、詔して粟帛を賜い、州県に勅して歳時に存問させた。
郝節娥
郝節娥は、嘉州の娼家の女である。五歳の時に生まれ、母の娼は貧苦しみ、洪雅の良家に売って養女とした。初めて笄をさす頃、母が奪い帰り、世襲して娼にさせんと欲した。娥は娼を楽しまず、日々これを逼る。娥は言う、「幼くより良家に育ち、織作や組紃の事を習い、また常に精巧で、粗ながらも母の朝夕を給うることができます。この身をして終に良民たらしめんことを求めます。よろしいでしょうか」と。母はますます怒り、かつ箠打ちかつ罵った。
洪雅では春時に蠶叢祠があり、娼は邑の少年と期し、蠶叢に因って酒を具え娥を邀えた。娼は娥と徐に行く。娥は少年を見て、倉皇驚き走らんとしたが、母が引き摑んで去らせなかった。已むを得ず座中に留まる。時に酒食を顧みては直ちに唾し、強いて飲ませると、嘔噦して地に満ちた。少年はついに侵淩することができなかった。暮れに帰り、雞鳴渡を過ぎる。娥は他日必ず脱することができないと推し量り、渇いたふりをして飲み物を求め、自ら江に投じて死んだ。郷人はこれを「節娥」と言う。
朱氏
朱氏は、開封の民の婦である。家貧しく、巾・屨・簪・珥を売ってその夫を給した。夫は日に俠少と飲み博打し、家を事とせず、法を犯して武昌に徒された。父母は奪い嫁がせんと欲した。朱は言う、「何ぞかくも我を迫るのか」と。その夫が行かんとする前夜、自ら経死し、かつ言うには、「我が夫の未だ去らざるに及び、我が不義に屈せざることを知らしめよ」と。呉充が時に開封府判官であり、『阿朱詩』を作ってその事を述べた。
包繶妻崔氏
崔氏は、合淝の包繶の妻である。繶は、枢密副使包拯の子で、早世し、ただ一人の幼い子がいた。拯夫婦は崔が守節できないと思い、左右の者にその心を試させた。崔は髪を振り乱し涙を流して堂下に出、拯を見て言った、「舅上は天下の名公でございます。嫁めが賤しい下女の列に加わり、洗濯などの雑事を務めるだけでも幸いなのに、ましてや家を汚すことなどできましょうか。生きては包家の嫁、死しては包家の鬼、他心は決してございません」。
その後、幼い子も亡くなった。実母の呂が荊州から来て、崔を誘い、その一族の者に嫁がせようとし、そこで言った、「夫を喪い子を守っていたが、子が死んで誰を守るというのか」。崔は言った、「かつて留まったのは、子のためではなく、舅姑のためでした。今、舅は亡くなり、姑は年老いておられます。どうして捨てて去ることができましょうか」。呂は怒り、ののしって罵った、「私は寧ろここで死のうとも、決して一人で帰ることはしない。お前も一緒に行かねばならぬ」。崔は泣いて言った、「母が遠くから来られた以上、義として母を一人で帰らせるわけにはまいりません。しかし、荊州に着いて、もし不義をもって迫られるならば、必ずや帯の下で命を絶ちます。どうか屍を包氏に返していただきたい」。こうして共に行った。母はその必ず死ぬという誓いを見て、ついに包氏に返した。
趙氏
趙氏は、貝州の人である。父はかつて学究に挙げられた。王則が反乱を起こした時、趙氏に並外れた美色があると聞き、人を遣わして強奪し、妻にしようとした。趙は毎日号泣し、罵り、死を求めた。賊はその色を愛して殺さず、多くの者に守らせた。趙は逃れられぬと知り、そこで騙して言った、「必ず私を妻にしたいなら、日を選び礼を尽くして聘すべきです」。賊はこれを信じ、彼女を実家に帰らせた。家族は彼女が自害するのを恐れ、賊から禍を受けることを心配し、ますます人を遣わして見張らせた。賊が聘礼の絹を整え、盛大な輿に従者を連れて迎えに来た。趙は家族と決別して言った、「私はもうここには帰りません」。その理由を問うと、答えて言った、「どうして賊にここまで汚辱されて、なお生き長らえる道理がありましょうか」。家族が言った、「お前は一族のことを考えないのか」。趙は言った、「ただ心配なさらぬように」。そして涙を流して輿に乗り去った。州庁に至り、簾を上げて見ると、すでに輿の中で首を吊って死んでいた。尚書屯田員外郎の張寅に『趙女詩』がある。
張晉卿の妻丁氏
張晉卿の妻丁氏は、鄭州新鄭の人で、参知政事丁度の五世孫である。靖康年中、晉卿と共に大隗山で金兵を避けた。金兵が山に入り、捕らえられ、鞍の上に抱き上げられた。丁は自ら地に投げ出し、戟手(人差し指と中指を伸ばして罵る仕草)して大声で罵り、連呼して言った、「私は死ぬなら死ぬがよい。決してお前たちの輩に辱めを受けはしない」。再び馬に抱き上げられ、再三罵ってやまなかった。兵卒はついに憤然として棍棒を振り上げて打ち据え、ついに杖の下で死んだ。
項氏
項氏は、吉州吉水の人である。永昌里に住み、同里の孫氏に嫁いだ。宣和七年、里胥に捕らえられ、途中で侵犯しようとした。項は刀を引いて自ら刺し、死んだ。郡がこれを上聞し、詔して孺人を追贈し、その家を旌表した。
王氏の二婦
王氏の二婦は、汝州の人である。建炎初年、金人が汝州に至り、二婦が掠奪され、舟の中に押し込められた。そこで漢江に投じて死んだ。屍は皆浮かび上がり腐敗せず、人が収めて城外の江辺に葬り、双塚を築いてこれを顕彰した。
徐氏
栄氏
呉永年の妻何氏
何氏は呉の人。呉永年の妻である。建炎四年の春、金兵が三呉を通り、官兵は遁走し、城中の死者は五十余万に及んだ。永年はその姉および妻の何と共に母を奉じて逃れた。母は老いており、支えられて歩くのを待っていたが、ついに賊に捕らえられた。賊はその姉と何を縛ろうとした。何は賊を欺いて言った、「諸君は何と武勇に欠けることか。婦人の行く先は命ずるままです」。賊はこれを信じた。水辺に至った時、何は夫に言った、「私はあなたに背きません」。そして河に身を投げた。その姉も続いた。
董氏
四年、盗賊の祝友が滁州龔家城に徒党を集め、人を掠めて食糧とした。東安県の民で丁国兵という者とその妻が祝友に掠められた。妻は泣いて言った、「丁氏の一族は流亡して既に尽きました。夫を存えてその祭祀を続けさせてください」。賊は遂に夫を釈放して彼女を害した。
同時に、叛卒の楊が南剣州を寇し、小常村を通り過ぎた時、一人の民婦を掠め、乱れようとした。婦人は毅然として死を誓い汚れを受けず、遂に害され、屍は道傍に棄てられた。賊が退いた後、人が収めて埋葬した。屍が枕にしていた所の跡は宛然として滅びず、雨が降れば乾き、晴れれば湿り、あるいは削り去ってもまた現れ、他の土で覆えばその跡は愈々明らかであった。
呉琪の妻譚氏
譚氏は英州真陽県の人。曲江村の士人呉琪の妻である。紹興五年、英州に飢饉があり、観音山の盗賊が起こり、郷落を攻め略奪した。琪は逃げ去り、譚は共に行けず、その娘と共に捕らわれた。譚は姿色あり、盗賊は妻にしようとした。譚は怒って罵って言った、「お前らは賊である。私は良家の女、どうしてお前らの配偶者になれようか」。賊はどうしようもないと悟り、彼女を害した。
同時に、南雄の李科の妻謝氏がいた。保昌故村の人である。虔州の盗賊の中に囚われて数日、犯そうとする者がいた。謝はその顔に唾して言った、「たとえ私を万段にしても、お前に従うものか」。盗賊は怒り、彼女を切り刻んで去った。
陳公緒の妻劉氏
劉氏は海州朐山の人。同里の陳公緒に嫁いだ。紹興の末、金人が山東を犯し、郡県は震動した。公緒は義を唱えて帰順し、たまたま劉は里帰りしており、慌ただしく共に行くことができず、ただその子の庚を連れて行った。宋は八品官を授け、後功を重ねて正使に至った。劉は北方に留まり、音信は通じなかった。ある者が彼女に言った、「人は『貴ければ交わりを易え、富めば妻を易える』と言う。今陳は既に貴くなった。必ず他に娶っているだろう。どうして改めて嫁がないのか」。劉は言った、「私はただ私の志を守るのみを知る。どうして他を憂えようか」。公緒もまた他に娶らなかった。子の庚が次第に成長すると、常に思い慕って涕泣し、家財を傾け、任侠の徒と結び、淮甸を奔走し、険阻を備え嚐めた。このようにして十余年、遂に母を迎えて帰ることができた。劉は北方に二十五年、嘗ては蕭を緯にして自ら生計を立てた。
張氏
張氏は羅江の士人の女。その母の楊氏は寡居していた。ある日、親族に婚礼の会があり、母女は共に行き、その典庫の雍乙という者が従った。席に着くと、乙は先に帰った。会が終わり、楊氏が帰ると、乙は庫の中で死んでおり、殺した者の主名は知れなかった。提点成都府路刑獄の張文饒は楊に私通があると疑い、人に知られるのを恐れ、乙を殺して口を滅ぼしたと考え、石泉軍に命じて劾治させた。楊は娘と同榻したと述べ、実に他はないと言った。そこでその女を捕らえ、拷問したが実証がなかった。吏は地を掘って坑とし、女をその中に縛り、傍らに熾火を並べ、間に水を注いだ。絶えてまた蘇ること屡り、供述は終に服さなかった。ある日、女は獄吏に言った、「私は苦毒に耐えられず、死ぬでしょう。母に一度会ってから絶命したい」。吏は憐れんで許した。会うと、母に言った、「母は清潔で聞こえています。どうしてこのような汚辱を受けましょう。寧ろ箠楚で死すとも、自ら誣いることはできません。娘は今死にます。死して天に冤を訟うでしょう」。言い終わって絶命した。ここにおいて石泉は三日連続して大地震があり、声は雷の如く、天は雪を降らせ、屋瓦は皆落ち、邦人は震恐した。
勘官の李志寧はその獄を疑い、夕方に衣冠を整えて天に祈った。俄かに仮寐して庁事に坐っていると、恍として猿が前に墜ちるのを見て驚いて覚め、吏卒を呼んで探させたが見えない。志寧は夢の兆しを考えた、「殺人者は袁の姓ではないか」。ある門卒が突然、張氏に食物を届ける夫が袁大というと言った。翌日袁が来ると、吏に捕らえさせて言った、「殺人者は汝だ」。袁は色を動かし、急いで言った、「私は長く憐れんでいました。願わくば死に就きたい」。問うと、云うには、「丁度庫の金を盗もうとした時、雍が帰ってきたので、遂に殺した」。楊はここに免れることができた。時に女が死んでから僅か数日であった。獄が上奏され、郡はその住居に「孝感坊」と掲げた。
范孝純の妻師氏
陳堂前
陳堂前は、漢州雒県の王氏の娘である。節操と行義に優れ、郷里の人々から敬われ、ただ「堂前」と呼んだのは、あたかも私的にその母を尊ぶが如きであった。堂前は十八歳の時、同郡の陳安節に嫁ぎ、一年余りで夫が亡くなり、ただ一人の子があった。舅姑には生計を立てる術がなく、堂前は涙を抑えて告げて曰く、「人が子を持つのは、親に仕え家を治めるためです。今は已むを得ません、嫁が後を継いで、子が在世の如く務めます」と。舅姑は曰く、「もしそうしてくれるなら、我が子は亡くならぬ」と。夫を葬った後、親に仕え家を治めることに法があり、舅姑は安んじた。子の日新は、年が稍々長ずると、名儒を招いて訓導し、元服後、太学に入り、三十歳で卒した。二人の孫は綱と紱といい、共に篤学で名声があった。
初め、堂前が陳に嫁いだ時、夫の妹は尚幼く、堂前はこれを教育し、笄年に至り、厚礼をもって嫁がせ遣わした。舅姑が亡くなると、妹が財産の分与を求め、堂前は家の中の有り物を全て与え、惜しむ色がなかった。五年と経たぬうちに、妹の得た財産は夫によって使い尽くされ、乃ち帰って悔いた。堂前は田を買い屋を設け、諸甥を撫育すること己が子と異ならなかった。親族に貧窮して自活できぬ者がいれば、収養し婚嫁させること三四十人に及び、その後宗族は百数を数えるに至った。里に旧家の甘氏があり、貧しくして末娘を酒家に質入れしていたが、堂前は金を出してこれを贖い、帰る所を得させた。子孫はその遺訓に従い、五世同居し、共に孝友と儒業で著名となった。乾道九年、詔してその門閭を旌表したという。
歐陽希文の妻廖氏
この年、盗賊の彭友が吉州龍泉を犯した時、李生の妻梁氏は義のために辱めを受けず、水に赴いて死んだ。
劉當可の母王氏
曾氏の婦晏
曾氏の婦晏は、汀州寧化の人である。夫が死に、幼い子を守って再嫁しなかった。紹定年間、賊が寧化県を破り、県令と佐官は共に逃げた。将楽県宰の黄垺が土豪の王万全・王倫に命じて諸砦と結約させ賊を拒がせたが、晏は率先して兵糧を助け、多くを殺傷捕獲した。賊はその敗北に憤り、結集して愈々衆く、諸砦は防禦できず、晏は乃ち黄牛山の傍に依り、自ら一つの砦を築いた。
ある日、賊が数十人を遣わして婦女と金帛を要求して来た。晏はその田丁を召して諭して曰く、「汝らは我家に衣食している、賊が婦女を求めるのは、実は私を狙っているのだ。主母を思い、各々命を用いるべく、勝たねば即ち私を殺せ」と。因みに首飾りを解いて悉く田丁に与えると、田丁は感激して奮い立った。晏自ら鼓を捶ち、諸婢に金を鳴らさせて、その勇気を鼓舞した。賊はまた退き敗れた。隣郷はこれに依れると知り、家を携えて黄牛山に避難する者が甚だ衆かった。自給できぬ者があれば、晏は悉く家の糧でこれを助けた。ここに於いて衆を聚めること日増しに広がり、また倫・万全と共に措置し、黄牛山を五つの砦に分け、少壮を選んで義丁とし、急あれば則ち互いに応援して犄角の勢いとし、賊は屡々攻めたが克てなかった。救われた老幼は数万人に及んだ。
南剣州知事の陳韡が人を遣わして金帛を贈ると、晏は悉くこれを配下に分け与えた。また楮幣を贈って五砦の義丁を労い、且つその子を借補し、その砦を「万安」と名付けた。事が聞こえ、詔して特に晏を恭人に封じ、仍って冠帔を賜い、その子には特に承信郎を補した。
王袤の妻趙氏
王袤の妻趙氏は、饒州楽平の人である。建炎年間、袤は上高の酒税を監り、金兵が筠を犯した時、袤は官を棄てて逃げ去り、趙はこれに従って行った。金人に遇い、縛られて連れ去られ、劉氏の門に袤夫婦を繋ぎ、中に入って劉の家を掠奪した。趙はもがいて縄を解き、併せて袤の縄も解き、袤に謂って曰く、「君は速やかに去れ」と。間もなく金人が出て来て、袤は何処へ行ったかと問うと、趙は他を指して誤らせた。金人がこれを追って得ず、趙が己を欺いたことに怒り、これを殺した。袤は叢薄の間に伏していたが、これを望んで悲痛に思い、帰って趙の像を刻んで葬った。袤は後に孝順監鎮に至るまで仕えた。
涂端友の妻陳氏
涂端友の妻陳氏は、撫州臨川の人である。紹興九年、賊が起こり、黄山寺に追い立てられた。賊が彼女を脅して従わせようとしたが、従わず、刃をその頸に加えられると、叱って言った。「お前ら鼠輩のごとき賊は、命は蜉蝣のようにはかないもの。私は良家の子、義をもってお前らのような者に辱められようか。たとえ私を殺しても、官兵はすぐに来る。お前らが免れることができようか。」賊は屈せられぬと知り、屋壁の中に幽閉した。数日経ち、一族や同党で釈放された者がおり、皆金帛を携えて妻子を贖おうとした。賊は端友の妻を引き出して帰らせようとした。彼女は言った。「貞女は閨閣を出ないと聞く。今私はここまで追い立てられた。何の面目あって涂氏の堂に登れようか。」再び賊を罵り絶えず、ついにそのために死んだ。
詹氏
詹氏の娘は、蕪湖の人である。紹興初年、十七歳の時、淮の賊で「一窠蜂」と号する者が突然県を破った。娘は嘆いて言った。「父子ともに生きる道理はない。私の決心は固まった。」間もなく賊が来て、その父兄を殺そうとした。娘は進み出て拝して言った。「妾は貧しく醜い者ですが、進んで巾帚を執って将軍に仕え、父兄の命を贖いたいと思います。そうでなければ、父子ともに命を絶つだけで、益はありません。」賊は父兄の縄を解いた。娘は手を振って急いで去るよう促し、「私のことは顧みないでください。私が将軍に侍ることができれば、何の遺憾がありましょうか。」と言った。そして賊に従った。数里行き、市の東橋を過ぎた時、身を躍らせて水に入り死んだ。賊は互いに顔を見合わせ驚き嘆いて去った。
劉生の妻歐陽氏
劉生の妻歐陽氏は、吉州安福の人である。劉生は新楽郷に住んでいたが、用事で出かけた時、悪少が来て彼女を侵凌しようとした。歐陽は辱めを受けずに死んだ。邑人の劉寛が詩を作ってこれを弔った。時は紹興十年である。
同県に朱雲孫の妻劉氏がいた。姑が病にかかり、雲孫が股の肉を切り取って粥を作って進めると治った。姑が再び病にかかると、劉もまた股の肉を切り取って進め、また治った。尚書謝諤が『孝婦詩』を賦した。
謝泌の妻侯氏
謝泌の妻侯氏は、南豊の人である。初めて笄をさした頃、家は貧しく、姑に孝行で慎み深く仕えた。賊が起こり、里の家屋を焼き人を殺した。遠近の人々は逃避した。姑の病が重く動けなかったので、侯は姑の側で号泣した。賊が彼女を脅すと、侯は言った。「寧ろ死んでも従わない。」賊が刃で彼女を斬り、溝の中に倒した。賊が退いた後、次第に蘇生し、傍らに一つの篋があるのを見た。開けると皆金珠であった。一族の婦人が自分の物だと思ったが、侯は全てそれを返した。婦人はその一つを分けて謝礼としようとしたが、侯は辞して言った。「私の物ではないので、願いません。」後に夫と姑がともに亡くなり、子は幼かった。父母は彼女を再嫁させようとしたが、侯は言った。「私は賤しい婦人でありながら、隠居した賢者の門に嫁ぐことができたのは既に幸せです。どうして去って謝氏に後継ぎがいなくなるようにできましょうか。寧ろ貧しくしてその子を養い、たとえ餓死してもそれは天命です。」
謝枋得の妻李氏
謝枋得の妻李氏は、饒州安仁の人である。容色美しく聡明で、女訓などの書物に通じていた。枋得に嫁ぎ、舅姑に仕え、祭祀を奉じ、賓客をもてなすこと全て礼に適っていた。枋得が兵を起こして安仁を守ったが、兵敗れて閩中に逃げ込んだ。武萬戸は枋得が豪傑であるため、その扇動による変を恐れ、懸賞をかけて捕らえようとし、その根を絶やそうとして家族にまで及んだ。李氏は二人の子を連れて貴溪の山の荊棘の中に隠れ、草木を採って食べた。至元十四年の冬、信州の兵が山中に跡を追って来て、命令した。「もし李氏を捕らえられなければ、お前たちを皆殺しにして廃墟にするぞ。」李はこれを聞き、言った。「どうして私の故に人を累わすことができよう。私が出れば、事は塞がれる。」そこで捕らわれの身となった。翌年、建康に囚人として移された。ある者が李を指して言った。「明日には没官されるだろう。」李はこれを聞き、二人の子を撫でて、悲しげに泣いた。左右の者が言った。「没官されても、官人の妻となることは失わないでしょう。なぜ泣くのですか。」李は言った。「私はどうして二夫に嫁げようか。」二人の子を振り返って言った。「もし幸いにも生きて帰ることがあれば、よく私の姑に仕えなさい。私は最後まで養うことができない。」その夜、裙の帯を解いて獄中で自ら首を吊って死んだ。
枋得の母桂氏は特に賢明で道理に通じており、枋得が逃亡して以来、嫁と孫が遠方に幽閉されていても、泰然として処し、一言の怨言もなかった。人が尋ねると、言った。「義として当然のことです。」人々は賢母と称した。
王貞婦
翌年の春、軍が帰還するに及び、行を連れて嵊青楓嶺に至る。下は絶壑に臨む。婦は守衛の者が少し油断するのを待ち、指を噛んで血を出し、山石の上に字を書き、南を望んで慟哭し、自ら崖下に投身して死す。後にその血は皆石の間に滲み込み、ことごとく石と化す。天が陰雨となるや、即ち盛り上がって初めて書いた時の如くなる。至治年間、朝廷はこれを旌表して「貞婦」と称し、郡守は石祠を嶺上に立て、名を改めて清風嶺と曰う。
趙淮の妾
趙淮の妾は、長沙の人なり、その姓名は逸す。徳祐年間、淮に従って銀樹埧を戍る。淮の兵敗れ、ともに捕らえられて瓜州に至る。元帥阿朮、淮を使わして李庭芝を招かしむ。淮は陽に諾し、揚州城下に至りて、乃ち大いに呼びて曰く、「李庭芝、男子は死するのみ、降るなかれ」と。元帥怒り、これを殺し、その屍を江濱に棄つ。妾は一軍校の帳中に俘虜とされ、乃ち衣中の金を解きてその左右に遺し、且つこれに告げて曰く、「妾は夙に趙運使に事えしが、今その死して葬られず、妾誠に情を忘れ難し。願わくは公の言によりてこれを掩埋せしめよ、当に終身相公に事えて憾なからん」と。軍校その言を憐れみ、数兵をして輿に乗せて江上に至らしむ。妾は薪を聚めて淮の骨を焚き、瓦缶の中に置き、自ら抱持し、小舟を操って急流に至り、天を仰いで慟哭し、水に躍り入って死す。
譚氏の婦趙
譚氏の婦趙は、吉州永新の人なり。至元十四年、江南既に内附すれども、永新は復た城を嬰って自ら守る。天兵城を破り、趙氏は嬰児を抱きてその舅・姑に随い、ともに邑校の中に匿る。悍卒に獲られ、その舅・姑を殺し、趙を執ってこれを汚さんとす。従わず、刃を以て臨みて曰く、「我に従えば則ち生く、従わざれば則ち死す」と。趙罵して曰く、「吾が舅は汝に死し、吾が姑また汝に死す。吾はその不義にして生くるに、寧ろ吾が舅・姑に従いて死せん」と。遂に嬰児とともに害に遇う。血は礼殿の両楹の間に漬き、磚に入って婦人と嬰児の状となり、久しくして宛然として新たなるが如し。或る者これを訝り、沙石を以て磨るも滅せず、また熾炭を以て煆くも、その状益々顕著なり。
呉中孚の妻
呂仲洙の女
呂仲洙の女、名は良子、泉州晉江の人なり。父疾を得て瀕死に陥る。女は香を焚きて天を祝し、身を以て代わることを請い、股を刲きて粥と為し進む。時に夜中、群鵲屋を繞り飛びて騒ぎ、空中を仰ぎ視れば、大星燁煜として月の如きもの三たびあり。越えて翼日、父瘳ゆ。女弟細良もまた相従いて拝祷せんとす。良子これを退ける。細良恚りて曰く、「豈に姉は能くして、児は能くせざらんや」と。守真徳秀これを嘉し、その居を表して「懿孝」と曰う。
林老女
童八娜
童八娜は、鄞の通遠郷建奧の人なり。虎その大母を銜う。女手を以て虎の尾を拽き、身を以て代わることを祈る。虎その大母を釈し、女を銜えて去る。初め、林栗親に侍してその地に官す、嘗てこれを目睹す。已にして守と為り、以て朝廷に聞こえ、祠祀す。
韓氏
王氏婦梁
王氏の妻梁氏は、臨川の人なり。夫の家に嫁いで僅か数ヶ月にして、大元の兵の来襲に遭う。一夜、夫と約して曰く、「妾、兵に遇えば必ず死すべし、義として汚辱を受くるを許さず。若し後に娶らば、必ず我に告げよ」と。間もなく、夫婦ともに捕らえられる。ある軍の千戸が強いて己に従わしめんとす。婦は欺いて曰く、「夫あり、伉儷の情、忍び難きものあり。乞う、之を帰らしめて後、可なり」と。千戸は得たる金帛を其の夫に与えて帰らしめ、併せて一矢を与え、以て後の兵を退けしむ。約十里余り行くや、千戸、之に近づく。婦は拒み且つ罵りて曰く、「斫頭奴(首を斬る奴)!我、夫と誓う、天地鬼神実に之を臨む。此の身、寧ろ死すとも得べからず」と。因りて奮い立ち之と搏つ、乃ち殺さる。同じく捕らわれて脱帰したる者あり、其の事を語る。数年を越え、夫、嗣なきを以て更に娶らんと謀るも、議する毎に諧わず。因りて故妻に告ぐ。夜、夢に妻曰く、「我、死して後、某氏の家に生まる。今十歳なり。後七年、当に復た君の婦とならん」と。明日、人を遣わして之に聘す。一言にして合す。其の生まれを詢ねれば、婦の死したる年月と同じきと云う。
劉仝子妻林氏
劉仝子の妻林氏は、福州福清の人なり。其の父は公遇、知名の士なり。仝子は福建招撫使として起義兵を挙ぐ。事は『林同傳』に見ゆ。仝子は亡命し自経して死す。有司、其の妻を執り反状を具す。林氏叱して曰く、「林・劉の二族、世々宋の臣たり、忠義を以て国に報ぜんと欲す。事成らず、天なり。何を以て反と為さんや。汝、去歳に壁に血を以て書して死せし者あるを知るか。是れ吾が兄なり。吾と兄、忠義の心は則ち一なり。死して且つ地下にて汝を治めんことを求む。生きて汝等の為に淩辱せらるべけんや」と。遂に害に遇う。
毛惜惜