宋史

列傳第二百十八 隱逸下 徐中行 蘇雲卿 譙定 王忠民 劉勉之 胡憲 郭雍 劉愚 魏掞之 安世通 卓行 劉庭式 巣谷 徐積 曾叔卿 劉永一

列傳第二百十八 隱逸下 徐中行 蘇雲卿 譙定 王忠民 劉勉之 胡憲 郭雍 劉愚 魏掞之 安世通 卓行 劉庭式 巣谷 徐積 曾叔卿 劉永一

徐中行

原文徐中行

徐中行は、台州臨海の人である。学問を知り始め、安定の胡瑗が道学を講明していると聞き、その門弟が転相伝授しているので、これに従おうと赴いた。京師に至り、まず范純仁に謁見し、純仁は彼を賢者と認め、司馬光に推薦した。光はこの人は神清気和で、道に進ませることができると言った。時に福唐の劉彝が朝廷に赴き、胡瑗の授けた経書を得たので、熟読精思し、苦労して粗食に耐え、夏は扇がず、冬は炉を用いず、夜も安らかに枕につかずに一年余りを過ごした。そして帰郷して小室を修築し、終日端坐し、その造詣は人々には測り知れなかった。父が死ぬと、跣足で墓側に廬し、自ら耕作して母を養った。その余力を推し及ぼし、内外の親族及び州里の貧しくて後継ぎのない者十余家の葬儀を行った。晚年には学者を教授し、灑掃応対、格物致知から治国平天下に至るまで、その本性を失わず、その順序を越えずに行うことを教えた。

原文徐中行,台州臨海人。始知學,聞安定胡瑗講明道學,其徒轉相傳授,將往從焉。至京師,首謁范純仁,純仁賢之,薦於司馬光,光謂斯人神清氣和,可與進道。會福唐劉彝赴闕,得瑗所授經,熟讀精思,攻苦食淡,夏不扇,冬不爐,夜不安枕者逾年。乃歸葺小室,竟日危坐,所造詣人莫測也。父死,跣足廬墓,躬耕養母。推其餘力,葬內外親及州里貧無後者十餘喪。晚年教授學者,自灑掃應對、格物致知達於治國平天下,不失其性,不越其序而後已。

その友人の羅適が本路の按察使となり、自らの代わりに推挙し、また部使者を率いて遺逸として推薦した。崇寧年間、郡守の李諤がまた八行で推薦した。時に章惇・蔡京が国柄を窃み、善類をことごとく追放していたので、中行は命を聞くたびに涙を流した。ある日、黄巖に去り、親友と会い、自らの書いた文章をすべて焼き捨て、幅巾に藜杖を持ち、委羽山中を往来した。客が挙を避けて名声を求めるのかと詰問すると、中行は言った。「人にして行いがなければ、禽獣と等しい。もし私が八行で科目に応じることができれば、それで挙げられなかった者は人間ではないのか。私はまさにこの名を避けようとしているのであって、名声を求めているのではない。」客は慙じて退いた。陳瓘が台州に謫された時、その名を聞いて交わりを結び、彼が没すると、その行状を記録し、山陽の徐積と並び称され、「八行先生」と呼んだ。

原文其友羅適持節本路,舉以自代,又率部使者以遺逸薦。崇寧中,郡守李諤又以八行薦。時章、蔡竊國柄,竄逐善類且盡,中行每一聞命輒淚下。一日,去之黃巖,會親友,盡毀其所為文,幅巾藜杖,往來委羽山中。客有詰以避舉要名者,中行曰:「人而無行,與禽獸等。使吾得以八行應科目,則彼之不被舉者非人類與?吾正欲避此名,非要名也。」客慙而退。陳瓘謫台州,聞名納交,暨其沒,錄其行事,謂與山陽徐積齊名,呼為「八行先生」。

子 庭筠

原文子 庭筠

子三人、庭筠はその末子である。幼少より志操行いに優れ、父兄に事えて孝友の情は天性のものであった。喪に居ては甚だしく憔悴し、喪が明けた後も、娶ることを忍ばずに十余年を過ごした。秦檜が国政を執ると、科挙の場では諂佞が尊ばれ、試題に中興の歌頌を問うた。庭筠は嘆いて言った。「今日はまさに歌頌すべき時なのか。」中興たり得ない点を五つ挙げて疏にし、見た者はそれを咎めたが、庭筠は言った。「私は妄語をせず、敢えて君を欺こうか。」

原文子三人,庭筠其季也。童丱有志行,事父兄孝友天至。居喪毀甚,既免喪,不忍娶者十餘年。秦檜當國,科場尚諛佞,試題問中興歌頌,庭筠歎曰:「今日豈歌頌時耶!」疏其未足為中興者五,見者尤之,庭筠曰:「吾欲不妄語,而敢欺君乎?」

黄巖尉の鄭伯熊が代任される際、教えを請うた。庭筠は言った。「富貴は得やすく、名節は守り難し。時に安んじて順に処し、世道を主張せんことを願う。」伯熊はその言葉を受け入れ、ついに名臣となった。詔があり、五度春官(礼部試)に上った者に嶽廟の祠禄を与えることとなった。庭筠はちょうど条件に合い、親しい者は皆勧めたが、庭筠は辞して言った。「私はかつて封事を草し、嶽廟の冗禄は無用であると述べた。心でそれを非としながら、自ら踏み込むことができようか。」

原文黃巖尉鄭伯熊代去,請益,庭筠曰:「富貴易得,名節難守。願安時處順,主張世道。」伯熊受其言,迄為名臣。有詔舉人嘗五上春官者予嶽祠。庭筠適應格,所親咸勸之,庭筠辭曰:「吾嘗草封事,謂嶽廟冗祿無用。既心非之,可躬蹈耶?」

その学問は誠敬を主とし、夜は必ず寝床に就いてから頭巾を脱ぎ、朝は必ず頭巾を着けてから起きた。居るに惰慢な容色なく、喜びに戯言なく、外見を飾らず、軽率に人物を批評しなかった。人の些細な善行を聞けば、その姓名を記した。飢え凍える者に遇えば、食物を分け衣服を解いて惜しまなかった。家を借りて住んだが、憂い悲しむことはなかった。尤袤が郡守となってその名を聞き、書を遣わして礼を尽くした。ある日、車に乗って旧友を歴訪し、数か月間逍遥した。帰って微恙を感じ、端坐して目を閉じたまま逝去した。八十五歳であった。郷人は彼を崇敬し、父子ともに隠遁したので、二徐先生と称した。淳熙年間、常平使者の朱熹が管区を巡行し、墓下に拝礼し、題詩に「道学千古に伝わり、東甌二徐を説く」の句があり、また大書して表した。「有宋高士二徐先生之墓」。

原文其學以誠敬為主,夜必就榻而後脫巾,旦必巾而後起。居無惰容,喜無戲言,不事緣飾,不苟臧否。聞人片善,記其姓名。遇饑凍者,推食解衣不靳。僦屋以居,未嘗戚戚。尤袤為守,聞其名,遣書禮之。一日,巾車歷訪舊遊,徜徉幾月。歸感微疾,端坐瞑目而逝,年八十有五。鄉人崇敬之,以其父子俱隱遁,稱之曰二徐先生。淳熙間,常平使者朱熹行部,拜墓下,題詩有「道學傳千古,東甌說二徐」之句,且大書以表之曰「有宋高士二徐先生之墓」。

庭筠の兄、庭槐・庭蘭は、いずれも父の風があった。孫の日升は苦学して節操を守り、ここに徐氏の詩書は六世にわたって絶えなかった。

原文庭筠之兄庭槐、庭蘭,皆有父風。孫日升,苦學有守,於是徐氏詩書不絕六世矣。

蘇雲卿

原文蘇雲卿

蘇雲卿は、広漢の人である。紹興年間、豫よ章の東湖に来て、廬を結び独居した。近隣の人々に恩礼をもって接し、良賤老幼を問わず皆が敬愛し、「蘇翁」と称した。身長七尺、美しい鬚髯、寡黙で笑わず、布の粗衣と草鞋は一年中変えず、病気になったことはなかった。荊を払い礫を運んで菜園とし、植え付け、除草、灌漑、土寄せにはすべて法度があった。酷暑や極寒で土が焦げ草が凍っても、園の野菜は絶えず、生い茂りよく育ち、四季の品が欠けることはなかった。味は他の園より優れ、また値段は一定で、市場で売れば利益は倍で売れ行きが速く、先に代金を支払う者もいた。夜に草鞋を織れば、革靴より堅靭で、人々は争って買い求め遠方への贈り物にした。そのため薪や米に事欠かず、余れば急を救い貸しに応じ、借りた者が返済を怠っても、一切気に留めなかった。園を灌ぐ暇には、門を閉じて高臥し、あるいは終日端坐し、その心を測り知る者はなかった。

原文蘇雲卿,廣漢人。紹興間,來豫章東湖,結廬獨居。待鄰曲有恩禮,無良賤老稚皆愛敬之,稱曰「蘇翁」。身長七尺,美須髯,寡言笑,布褐草履,終歲不易,未嘗疾病。披荊畚礫為圃,藝植耘芟,灌溉培壅,皆有法度。雖隆暑極寒,土焦草凍,圃不絕蔬,滋鬱暢茂,四時之品無闕者。味視他圃尤勝,又不二價,市鬻者利倍而售速,先期輸直。夜織屨,堅韌過革舄,人爭貿之以饋遠。以故薪米不乏,有羨則以周急應貸,假者負償,一不經意。溉園之隙,閉門高臥,或危坐終日,莫測識也。

若い頃、張浚と布衣の交わりがあった。浚が宰相となると、書状と金幣を馳せさせて豫章の帥(知州)と漕(転運使)に託して言った。「我が同郷の蘇雲卿は、管仲・楽毅の流れで、湖海に遁跡して数年になる。近頃東湖で灌園していると聞く。その高風偉節は、簡単な招きでは屈しない。幸いにも直接その廬を訪れ、必ず私のために招き寄せてほしい。」帥と漕は密かに探し求め、「ここにはただ灌園の蘇翁がいるだけで、雲卿はいない」と言った。帥と漕は従者を退け、服を着替えて遊士となり、その園に入った。翁は鋤を動かして顧みない。進み出て揖すると、翁は言った。「二客はどこから来られたのか。」室に招き入れると、土の竈に竹の机、床には塵一つなく、机の上には『西漢書かんじょ』一冊があった。二客は茫然自失し、これが蘇雲卿に違いないと心中で思った。やがて泉を汲んで茶を煮、気持ちが少し和らぐと、その郷里を尋ねた。翁はゆっくりと「広漢」と言った。客が「張徳遠は広漢の人ですが、翁はご存知か」と言うと、「然り」と答えた。客がまた「徳遠はどのような人か」と尋ねると、「賢人である。ただし君子を知るには長けているが、小人を知るには短く、徳は余るが才が足りない」と言った。そこで「徳遠は今どのような官か」と尋ねると、二客は「今、朝廷は張公を起用し、この大事を成し遂げようとしている」と言った。翁は「これは恐らく彼には容易に成し遂げられまい」と言った。二客は立ち上がって言った。「張公が我々に命じて、公と共に大業を助けさせようとしている。」そこで書状と金幣を机の上に置いた。雲卿の鼻の奥でかすかに音がし、自らを咎め嘆いているようであった。二客は車に同乗するよう強く請うたが、辞退して承知せず、明朝に謁見すると約束した。翌朝、使いを迎えにやると、戸は閉ざされひっそりとしており、戸を押し開けて入ると、書状と金幣は開封されず、家具は元のままで、翁はすでに遁走しており、ついにどこへ行ったか分からなかった。

原文少與張浚為布衣交,浚為相,馳書函金幣屬豫章帥及漕曰:「余鄉人蘇雲卿,管、樂流亞,遁跡湖海有年矣。近聞灌園東湖,其高風偉節,非折簡能屈,幸親造其廬,必為我致之。」帥、漕密物色,曰:「此獨有灌園蘇翁,無雲卿也。」帥、漕乃屏騎從,更服為遊士,入其圃,翁運鋤不顧。進而揖之,翁曰:「二客何從來耶?」延入室,土銼竹几,地無纖塵,案上有《西漢書》一冊。二客恍若自失,默計此為蘇雲卿也。既而汲泉煮茗,意稍款浹,遂扣其鄉里,徐曰:「廣漢。」客曰:「張德遠廣漢人,翁當識之。」曰:「然。」客又問:「德遠何如人?」曰:「賢人也。第長於知君子,短於知小人,德有餘而才不足。」因問:「德遠今何官?」二客曰:「今朝廷起張公,欲了此事。」翁曰:「此恐怕他未便了得在。」二客起而言曰:「張公令某等致公,共濟大業。」因出書函金幣置几上。雲卿鼻間隱隱作聲,若自咎歎者。二客力請共載,辭不可,期以詰朝上謁。旦遣使迎伺,則扃戶闃然,排闥入,則書幣不啟,家具如故,而翁已遁矣,竟不知所往。

帥と漕が復命すると、浚は机を叩いて嘆いて言った。「早く求めなかったことが、実に位を窃む恥を抱かせる。」箴を作ってこれを記した。「雲卿の風節は、傅霖よりも高い。私は彼と期し、共に当今を助けんとした。山は潜み水は杳かで、遥かに尋ねるべからず。力を尽くさず早からざりし、我が罪いかに針せん。」

原文帥、漕復命,浚拊几歎曰:「求之不早,實懷竊位之羞。」作箴以識之,曰:「雲卿風節,高於傅霖。予期與之,共濟當今。山潛水杳,邈不可尋。弗力弗早,予罪曷鍼。」

譙定

原文譙定

譙定、字は天授、涪陵の人なり。少にして仏学を好み、その理を析して儒に帰す。後に郭曩氏に《易》を学び、「見乃ち之を象と謂ふ」の一語より入る。郭曩氏は、南平に世居し、始祖は漢に在りて厳君平の師たり、世々《易》学を伝ふ、蓋し象数の学なり。定一日汴に至り、伊川程頤の洛に於いて道を講ずるを聞き、衣を潔くして往きて見、その学を棄てて之に学ぶ。遂に精義を聞くを得、造詣愈々至り、浩然として帰る。その後頤涪に貶せらる、実に定の郷なり、北山に巖有り、師友其の中に游泳す、涪人これを「読易洞」と名づく。

原文譙定,字天授,涪陵人。少喜學佛,析其理歸於儒。後學《易》於郭曩氏,自「見乃謂之象」一語以入。郭曩氏者,世家南平,始祖在漢為嚴君平之師,世傳《易》學,蓋象數之學也。定一日至汴,聞伊川程頤講道於洛,潔衣往見,棄其學而學焉。遂得聞精義,造詣愈至,浩然而歸。其後頤貶涪,實定之鄉也,北山有巖,師友游泳其中,涪人名之曰「讀易洞」。

靖康初、呂好問之を薦む、欽宗召して崇政殿説書と為すも、論合はざるを以て、辞して就かず。高宗即位す、定猶汴に在り、右丞許翰又之を薦む、詔して宗澤に津遣して行在に詣らしむ。惟揚に至り、邸舎に寓す、窶甚だし、一中貴人偶々隣と為り、之に食を饋るも受けず、之に衣を与ふるも受けず、金を委して去る、定袖にして之を帰す、其の自立の操此の類なり。上将に之を用いんとす、会に金兵至り、定の所在を失ふ。復た蜀しょくに帰り、青城大面の勝を愛し、其の中に棲遯す、蜀人其の地を指して「譙巖」と曰ふ。定を敬して敢へて名づけず、之を称して「譙夫子」と曰ひ、像を繪きて之を祀る者有り、久しくして衰へず。定の《易》学は程頤に之を得、之を胡憲・劉勉之に授け、而して馮時行・張行成は則ち定の余意を得たる者なり。定後に行く所を知らず、樵夫牧童往々之を見る者有り、世其の仙と為るを伝ふ。

原文靖康初,呂好問薦之,欽宗召為崇政殿說書,以論弗合,辭不就。高宗即位,定猶在汴,右丞許翰又薦之,詔宗澤津遣詣行在。至惟揚,寓邸舍,窶甚,一中貴人偶與鄰,饋之食不受,與之衣亦不受,委金而去,定袖而歸之,其自立之操類此。上將用之,會金兵至,失定所在。復歸蜀,愛青城大面之勝,棲遯其中,蜀人指其地曰「譙巖」。敬定而不敢名,稱之曰「譙夫子」,有繪像祀之者,久而不衰。定《易》學得之程頤,授之胡憲、劉勉之,而馮時行、張行成則得定之餘意者也。定後不知所終,樵夫牧童往往有見之者,世傳其為仙云。

初め、程頤の父向嘗て広漢を守り、頤と兄顥皆随侍し、成都に遊び、篾を治め桶を箍く者の冊を挟むを見、就きて之を視れば則ち《易》なり、擬議して詰めんと欲す、而して篾者は先づ曰く「若嘗て此を学びし乎」と。因りて「《未済》男の窮まり」を指して以て問を発す。二程遜りて之に問へば、則ち曰く「三陽皆位を失ふ」と。兄弟渙然として省る所有り、翌日再び之を過ぐれば、則ち去れり。其の後袁滋洛に入り、頤に《易》を問ふ、頤曰く「《易》学は蜀に在るのみ、盍ぞ往きて之を求めざる」と。滋蜀に入り訪問す、久しく遇ふ所無し。已にして眉・邛の間に於いて醬を売る薛翁を見、之と語り、大いに得る所有り、得たる所何の語なるかを知らず。

原文初,程頤之父向嘗守廣漢,頤與兄顥皆隨侍,遊成都,見治篾箍桶者挾冊,就視之則《易》也,欲擬議致詰,而篾者先曰:「若嘗學此乎?」因指「《未濟》男之窮」以發問。二程遜而問之,則曰:「三陽皆失位。」兄弟渙然有所省,翌日再過之,則去矣。其後袁滋入洛,問《易》於頤,頤曰:「《易》學在蜀耳,盍往求之?」滋入蜀訪問,久無所遇。已而見賣醬薛翁於眉、邛間,與語,大有所得,不知所得何語也。

憲・勉之・滋皆閩の人、時行・行成蜀の人、郭曩氏及び篾叟・醬翁皆蜀の隠君子なり。

原文憲、勉之、滋皆閩人,時行、行成蜀人,郭曩氏及篾叟、醬翁皆蜀之隱君子也。

王忠民

原文王忠民

王忠民、潁陽の人、世業医なり。忠民幼より経史に通じ、靖康以来、数辺方の利害を朝に言ひ、累召すれども至らず。高宗江を渡り、忠民隠居して出でず、諸鎮翟興等皆之を重んず、致す能はず。張浚迪功郎を授くも受けず。興薬川に治を徙す、忠民地を避けて南下し、内郷に於いて商虢鎮撫使董先に遇ひ、軍中に留め、師礼を以て事ふ。

原文王忠民,潁陽人,世業醫。忠民幼通經史,自靖康以來,數言邊方利害於朝,累召弗至。高宗渡江,忠民隱居不出,諸鎮翟興等皆重之,弗能致;張浚授以迪功郎,不受。興徙治藥川,忠民避地南下,遇商虢鎮撫使董先於內鄉,留軍中,事以師禮。

時に劉豫僭立す、忠民《九思図》及び乱を定むる四象を作りて之を金主に達し、及び板を鏤り図を印して偽境に散じ、以て天下の義を明らかにす。紹興三年、翟琮其の忠節を朝に薦む、特づく宣教郎を授け、詔して董先に津遣して行在に詣らしむ。既に至る、宰相呂頤浩・簽書枢密院事徐俯之を見て皆拝し、政府に舎す。忠民上疏して官を辞し、言ふ「臣金人の無道を憤る故に、三たび金主に上書し、二帝の還御を乞ふ、本心国に報ぜんとす、名禄を冀ふに非ず」と。上許さず。忠民誥を櫝の中に置き、七宝山下に蔵し、力を竭きて去らんことを求む。復た董先の軍中に依り、遂に出でず。

原文時劉豫僭立,忠民作《九思圖》及定亂四象達之金主,及鏤板印圖散於偽境,以明天下之義。紹興三年,翟琮薦其忠節於朝,特授宣教郎,詔董先津遣詣行在。既至,宰相呂頤浩、簽書樞密院事徐俯見之皆拜,舍於政府。忠民上疏辭官,言:「臣憤金人無道,故三上金主書,乞還二帝,本心報國,非冀名祿。」上不許。忠民以誥置櫝中,藏七寶山下,力懇求去。復依董先軍中,遂不出。

蘇庠 附

原文蘇庠 附

時に又蘇庠有り、丹陽の人。紳の後、頌の族なり。少にして詩を能くす、蘇軾其の《清江曲》を見て、大いに之を愛し、是より名を知らる。徐俯其の賢を薦む、上特づく之を召すも、固く辞す。又命じて守臣礼を以て津遣せしむるも、庠疾を辞して至らず、寿を以て終はる。

原文時又有蘇庠者,丹陽人。紳之後,頌之族也。少能詩,蘇軾見其《清江曲》,大愛之,由是知名。徐俯薦其賢,上特召之,固辭;又命守臣以禮津遣,庠辭疾不至,以壽終。

劉勉之

原文劉勉之

劉勉之、字は致中、建州崇安の人。幼より強学し、日に数千言を誦す。冠を踰え、郷挙を以て太学に詣る。時に蔡京事を用ひ、元祐の書を挟むことを禁じて得しめず、是より伊・洛の学行はれず。勉之其の書を求得し、毎深夜、同舎生皆寐るに及び、乃ち潜かに抄して默誦す。譙定京師に至る、勉之其の程頤に従ひて遊び、邃く《易》学なるを聞き、遂に師事す。已にして科挙の業を厭ひ、諸生に揖して帰り、劉安世・楊時に見え、皆請ひて業とす。家に至るに及べば、即ち邑の近郊に草を結びて堂と為し、其の中に読書し、力を耕して自ら給し、澹然として世に求むること無し。胡憲・劉子翬と相往来し、日を以て講論切磋を事とす。

原文劉勉之,字致中,建州崇安人。自幼強學,日誦數千言。踰冠,以鄉舉詣太學。時蔡京用事,禁止毋得挾元祐書,自是伊、洛之學不行。勉之求得其書,每深夜,同舍生皆寐,乃潛抄而默誦之。譙定至京師,勉之聞其從程頤遊,邃《易》學,遂師事之。已而厭科舉業,揖諸生歸,見劉安世、楊時,皆請業焉。及至家,即邑近郊結草為堂,讀書其中,力耕自給,澹然無求於世。與胡憲、劉子翬相往來,日以講論切磋為事。

紹興間、中書舎人呂本中其の行義志業を疏して以て聞かしむ、特づく召して闕に詣らしむ。秦檜方に和を主とし、勉之の上に見えて正論を執らんことを慮り、乃ち引見せず、但だ策試後省に令して劄を給するのみ。勉之檜と合はざるを知り、即ち病を謝して帰る。門を杜すること十餘年、学者踵きて至り、其の材品に随ひ、聖賢教学の門及び前言往行の懿を説く。居る所白水有り、人号して「白水先生」と曰ふ。賢士大夫趙鼎以下皆敬慕して交はる。後秦檜益々横はり、鼎竄死し、諸賢禁錮せらる、勉之竟に出づること復たせず。

原文紹興間,中書舍人呂本中疏其行義志業以聞,特召詣闕。秦檜方主和,慮勉之見上持正論,乃不引見,但令策試後省給劄而已。勉之知不與檜合,即謝病歸。杜門十餘年,學者踵至,隨其材品,為說聖賢教學之門及前言往行之懿。所居有白水,人號曰「白水先生」。賢士大夫自趙鼎以下皆敬慕與交。後秦檜益橫,鼎竄死,諸賢禁錮,勉之竟不復出。

勉之一介妄りに取らざる。婦家富み、子無く、謀りて尽く貲を女に帰せんとす、勉之受けず、以て族の賢者に畀へ、之を命じて祀を奉ぜしむ。其の友朱松卒す、後事を属し、且つ其の子熹を戒めて学を受く。勉之其の家を經理し、而して熹を誨ふること子姪の如し。熹の道を得るは、勉之より始まる。紹興十九年、卒す、年五十九。

原文勉之一介不妄取。婦家富,無子,謀盡以貲歸於女,勉之不受,以畀族之賢者,命之奉祀。其友朱松卒,屬以後事,且戒其子熹受學。勉之經理其家,而誨熹如子侄。熹之得道,自勉之始。紹興十九年,卒,年五十九。

胡憲

原文胡憲

胡憲、字は原仲、建の崇安に居る。生まれながらにして静愨、妄りに笑語せず、長じて従父胡安国に従ひて学ぶ。平居危坐し植立し、時に然る後に言ひ、倉卒と雖も疾言遽色無く、人之を犯すも未だ嘗て校せず。紹興中郷貢を以て太学に入る。会に伊・洛の学に禁有り、憲独り陰に劉勉之と其の説を誦習す。既にして譙定に《易》を学ぶ、久しく得る所無し、定曰く「心物に漬さるる故に、見有る能はざる、唯だ学ぶに在りて乃ち明らかにす可し」と。憲喟然として歎じて曰く「所謂学ぶ者は、克己の工夫に非ずや」と。是より一意下学し、人の知るを求めず。一旦、諸生に揖して故山に帰り、力を田に売薬し、以て其の親を奉ず。安国其の隠君子の操有りと称す。従ひて遊ぶ者日衆く、号して「籍溪先生」とす、賢士大夫亦高く之を仰ぐ。

原文胡憲,字原仲,居建之崇安。生而靜愨,不妄笑語,長從從父胡安國學。平居危坐植立,時然後言,雖倉卒無疾言遽色,人犯之未嘗校。紹興中以鄉貢入太學。會伊、洛學有禁,憲獨陰與劉勉之誦習其說。既而學《易》於譙定,久未有得,定曰:「心為物漬,故不能有見,唯學乃可明耳。」憲喟然歎曰:「所謂學者,非克己工夫耶?」自是一意下學,不求人知。一旦,揖諸生歸故山,力田賣藥,以奉其親。安國稱其有隱君子之操。從遊者日眾,號「籍溪先生」,賢士大夫亦高仰之。

折彥質、范沖、朱震、劉子羽、呂祉、呂本中らが共にその行義を朝廷に聞こえさせたので、上は特に召し出されたが、胡憲は母が年老いていると辞退した。折彥質が西府に入ると、また上に言上し、召し出しを急がせたが、胡憲は強く辞退した。そこで進士出身を賜り、左迪功郎・添差建州教授に任じられたが、胡憲はなお屈しなかった。太守の魏矼が行義に優れた諸生を里に遣わして詔を伝えさせ、かつ手書をもって大義を説き、極力に諭したので、胡憲はやむを得ず職に就いた。日々諸生と接し、己を修める学問を訓導した。聞く者は初めは笑い、次いで疑い、久しくその修身・事親・人に接する様子を見るに、一言一句も言うところと違わないので、やがて一致して悦服した。郡人の程元は篤行をもって称せられ、龔何は廉節をもって著しかったが、皆を迎えて学政に参与させたので、学者はここに大いに教化された。

原文折彥質、范沖、朱震、劉子羽、呂祉、呂本中共以其行義聞於朝,上特召之,憲辭母老。及彥質入西府,又言於上,趣召愈急,憲力辭。乃賜進士出身,授左迪功郎、添差建州教授,憲猶不屈。太守魏矼遣行義諸生入里致詔,且為手書陳大義,開譬甚力,憲不得已就職。日與諸生接,訓以為己之學。聞者始而笑,中而疑,久而觀其所以修身、事親、接人者,無一不如所言,遂翕然悅服。郡人程元以篤行稱,龔何以廉節著,皆迎致俾參學政,學者自是大化。

七年間官が移らなかったため、母が年高で官舎に住むのを好まないので、南嶽廟の監を求めて帰郷した。久しくして、福建路安撫使司の属官として起用された。当時、帥の張宗元は塩の専売を厳しくし、私販する者は銖両であっても重く処罰した。胡憲が為政の大本を告げると、宗元は喜ばず、胡憲は再び祠官を請願して去った。

原文因七年不徙官,以母年高不樂居官舍,求監南嶽廟以歸。久之,起為福建路安撫使司屬官。時帥張宗元榷鹽急,私販者銖兩亦重坐。憲告以為政大體,宗元不悅,憲復請祠而去。

秦檜が権勢を振るっていた頃、諸賢は零落し、胡憲は家に居て出仕しなかった。秦檜が死ぬと、大理司直として召されたが、赴任せず、祕書正字に改められた。到着後、順番で奏事することになったが、病で朝参できず、草疏を上奏して言った。「金人は汴京の宮室を大いに造営しており、勢い盟約を破るであろう。今、元勲の臣・宿将では張浚・劉錡のみが健在である。識者は皆、金がもし南侵すれば、この両人でなければ防げないと言う。願わくは急ぎこれを起用されたし。臣は死んでも恨みはない。」当時、両人とも積年の誹謗によって傷つけられており、敢えて顕かにその起用を言う者はなかったが、胡憲のみが真っ先にこれを言上した。疏が入ると、すぐに去職を求めた。上はその忠を嘉し、詔して官等を改め祠禄を与えて帰郷させた。

原文秦檜方用事,諸賢零落,憲家居不出。檜死,以大理司直召,未行,改祕書正字。既至,次當奏事,而病不能朝,乃草疏言:「金人大治汴京宮室,勢必敗盟。今元臣、宿將惟張浚、劉錡在,識者皆謂金果南牧,非此兩人莫能當。願亟起之,臣死不恨。」時兩人皆為積毀所傷,未有敢顯言其當用者,憲獨首言之。疏入,即求去。上嘉其忠,詔改秩與祠歸。

初め、胡憲は劉勉之と共に隠棲し、後にまた劉子翬・朱松と交わった。朱松が臨終に際し、その子の朱熹に胡憲及び勉之・子翬に学ぶよう託した。朱熹は自ら、三君子と交遊したが、籍溪先生(胡憲)に事えること最も久しかったと述べている。胡憲が館職として召された時、丁度秦檜が言論を忌避した後であり、胡憲は王十朋・馮方・査籥・李浩と相次いで時事を論じたので、太学生が『五賢詩』を作ってこれを称えた。人々は初めて胡憲が軽々しく出仕しないことを信じ、その在位わずか半年で、その深遠な学識を究められなかったことを惜しんだという。紹興三十二年、卒去。七十七歳。

原文初,憲與劉勉之俱隱,後又與劉子翬、朱松交。松將沒,屬其子熹受學於憲與勉之、子翬。熹自謂從三君子遊,而事籍溪先生為久。方憲之以館職召也,適秦檜諱言之後,憲與王十朋、馮方、查籥、李浩相繼論事,太學士為《五賢詩》以歌之。人始信憲之不苟出,而惜其在位僅半年,不究其底蘊云。紹興三十二年,卒,年七十七。

郭雍

原文郭雍

郭雍、字は子和、その先祖は洛陽らくようの人である。父の忠孝は、官は太中大夫に至り、程頤に師事し、『易説』を著し、「兼山先生」と号した。別に伝がある。郭雍は父の学問を伝え、世務に通じ、峽州に隠居し、長楊の山谷間に放浪し、「白雲先生」と号した。

原文郭雍,字子和,其先洛陽人。父忠孝,官至太中大夫,師事程頤,著《易說》,號「兼山先生」,自有傳。雍傳其父學,通世務,隱居峽州,放浪長楊山谷間,號「白雲先生」。

乾道年間、峡州の太守任清臣・湖北帥張孝祥の推薦により朝廷に挙げられたが、表彰して召しても応じず、「沖晦處士」の号を賜った。孝宗はその賢を熟知し、毎度輔臣に対し称道し、所在の州郡に命じて歳時ごとに礼を尽くして見舞わせた。後に更に「頤正先生」に封じ、部使者に命じて官吏を遣わし、郭雍の言いたいことを尋ねさせ、詳細に記録して上進させた。この時、郭雍は八十三歳であった。

原文乾道中,以峽守任清臣、湖北帥張孝祥薦於朝,旌召不起,賜號「沖晦處士」。孝宗稔知其賢,每對輔臣稱道之,命所在州郡歲時致禮存問。後更封頤正先生,令部使者遣官就問雍所欲言,備錄繳進。於是,雍年八十有三矣。

淳熙初年、学者が程顥・程頤・張載・游酢・楊時及び忠孝・郭雍の凡そ七家を集め、『大易粹言』として世に行われた。その郭雍の説を述べたところは次のようである。

原文淳熙初,學者裒集程顥、程頤、張載、游酢、楊時及忠孝、雍凡七家,為《大易粹言》行於世。其述雍之說曰:

『易』は三才を貫通し、万理を包括する。伏羲氏の画は、天を得て天を明らかにする。文王の画は、人を得て人を明らかにする。羲の画は天であり、天は君道である。故に五は人においては君となる。文の重ねたものは地であり、地は臣道である。故に二は人においては臣となる。上下二卦を別々に言えばこのようである。六爻を合わせて言えば、則ち三と四は皆人道である。故にこれを「中爻」という。

原文《易》貫通三才,包括萬理。伏羲氏之畫,得於天而明天。文王之畫,得於人而明人。羲畫為天,天,君道也,故五之在人為君。文重為地,地,臣道也,故二之在人為臣。以上下二卦別而言之如此。合六爻而言之,則三四皆人道也,故謂之中爻。

『乾』の元亨利貞は、初めに四徳と言う。後にまた乾元と言い、始めて亨ずるものである。利牝馬貞、利君子貞。故に四徳を二義とすることもまた可である。乾は陽の物である。坤は陰の物である。『乾』一卦によって論ずれば、則ち元と亨は陽の類、利と貞は陰の類である。これは春夏秋冬が四時であるが、陰陽から観れば、則ち春夏は陽、秋冬は陰であるようなものである。天のいわゆる元亨利貞は、天の道を立てるが如く、陰と陽の類である。地のいわゆる元亨利貞は、地の道を立てるが如く、柔と剛の類である。人のいわゆる元亨利貞は、人の道を立てるが如く、仁と義の類である。

原文《乾》,元亨利貞,初曰四德。後又曰乾元,始而亨者也。利牝馬貞,利君子貞。是以四德為二義亦可矣。乾,陽物也。坤,陰物也。由《乾》一卦論之,則元與亨陽之類,利與貞陰之類也。是猶春夏秋冬雖為四時,由陰陽觀之,則春夏為陽,秋冬為陰也。天之所謂元亨利貞者,如立天之道,陰與陽之類也。地之所謂元亨利貞者,如立地之道,柔與剛之類也。人之所謂元亨利貞者,如立人之道,仁與義之類也。

また『坤』の六五は、坤は臣道であるが、五は実に君位であり、柔徳をもってするも、君であることを害しない。『乾』の九二が、君徳あれども、臣であることを害しないのと同様である。故に乾には両君あり、徳に両君はない。坤には両臣あり、徳に両臣はない。六五は柔をもって尊位に居り、下々に下る君である。江海が百谷の王たり得る所以は、その下々に善く下るによる。下々は本来坤の徳である。黄は中色であり、色の至美である。裳は下服である。故に至美の徳をもって人に下るのである。

原文又《坤》之六五,坤雖臣道,五實君位,雖以柔德,不害其為君;猶《乾》之九二,雖有君德,不害其為臣。故乾有兩君,德無兩君;坤有兩臣,德無兩臣。六五以柔居尊,下下之君也。江海所以能為百谷王者,以其善下下也。下下本坤德也。黃,中色也,色之至美也;裳,下服也,是以至美之德而下人也。

その発明はこのように精到であった。淳熙十四年。卒去。

原文其發明精到如此。淳熙十四年。卒。

劉愚

原文劉愚

劉愚、字は必明、衢州龍遊県の人である。幼少より聡敏で力学した。弱冠で太学に入り、名声があり、門弟が甚だ多かった。侍御史の柴瑾・祭酒の顔師魯・博士の林光朝は深く器重した。柴瑾は毎度奏対が上意に適うと、「臣の客の劉愚が臣に言いました」と言った。顔師魯はかつて劉愚の行芸を奏上したが、上は覚えておられ、「これは以前柴瑾が推薦した者である」と言われた。上舎試に及第し、第一位であった。江陵府教授に調任され、朝夕諸生に講説し、同僚も相率いて聴講した。劉愚はますます謙虚で、葉適・項安世と講論して倦まず、常に隠居して学道することを楽しみとした。

原文劉愚,字必明,衢州龍遊人。幼警敏力學。弱冠入太學,有聲,受業者甚眾。侍御史柴瑾、祭酒顏師魯、博士林光朝深器重之。瑾每奏對稱上意,則曰:「臣客劉愚為臣言。」師魯嘗奏愚行藝,上記曰:「此向者柴瑾所薦也。」上舍釋褐,居第一。調江陵府教授,早晚為諸生講說,同僚相率以聽。愚益謙下,與葉適、項安世講論不倦,每以隱居學道為樂。

任期が満ちると、帥の王藺が書を送り招聘したが、固く辞退し、貧しくて帰郷できなかった。外任で安郷県令に移ると、県の未納租税は万単位に上ったが、劉愚は実数を査定し、期限を緩め、民は役人と会わずして租税は自然に充足した。凶年に当たり、常平米を出して救済貸付しようとしたが、県の副官が反対した。劉愚は「罪があれば、お前には及ぼさない」と言い、数千万の緡銭を出し、商人を召して他郡から米を買い入れ原価で売り、米価はたちまち平準化し、なお数千石の米を倉に蓄えて飢饉・旱魃に備えた。県には范仲淹の読書の地があり、その画像を描き祠堂を立て、学校を興すと、士人は競って励むことを知った。

原文歲滿,帥王藺致書剡辟,固辭,貧不能歸。外移安鄉縣令,邑逋賦萬計,愚核實數,寬限期,民不見吏而賦自足。會歲歉,出常平米振貸,邑佐持不可,愚曰:「有罪不以相累。」出緡錢數千萬,召商糴他郡而收元直,米價頓平,猶積廩數千石以備饑旱。邑有范仲淹讀書地,為繪像立祠,興學,士競知勸。

諸司より相次いで推薦され、官位を改められたが、愚は元来官途を楽しまず、遂に致仕した。丞相余端禮は同郷の人で、愚と旧知があり、且つ堂審を召したが、愚は結局去って顧みなかった。城南に廬を結び、崩れた壁、荒れ果てた庭に蓬蒿が寂しく茂っていた。著書して自ら楽しみ、『書経』、『礼記』、『論語』、『孟子』に皆解釈を加えた。八十三歳で卒した。故友とその門人が私諡して「謙靖先生」とし、後に更に諡して「靖君」と改め、郷郡において祠を建てて祀った。

原文諸司交薦,改秩,愚雅不樂仕進,遂致仕。丞相余端禮,鄉人也,與愚有舊,且召堂審,愚竟舍去不顧。結廬城南,頹坦敗壁,蓬蒿蕭然。著書自適,《書》、《禮》、《語》、《孟》皆有解。年八十三而卒。故友與其門人私諡曰「謙靖先生」,後更諡曰「靖君」,鄉郡祠之。

妻徐氏は実家にいた時、その母が姑の子の富める者に嫁がせようとしたが、徐は泣いて言った、「富人の妻となるは、願わざるなり」と。遂に愚に嫁ぎ、破屋に住み、機織り一筋に過ごした。愚がかつて白金を懐にして帰った時、徐は怒って言った、「我は子を賢しとおもいて然るに斯くの如きか、速やかに返し申せ」と。愚が書物を取り出して示すと、束修として得たものだと分かり、やっと許した。梁鴻の風があった。

原文妻徐氏在家時,其母將以嫁姑子之富者,徐泣曰:「為富人妻,不願也。」遂歸於愚,居破屋中,一事機杼。愚嘗懷白金歸,徐怒曰:「我以子為賢而若是,亟具歸。」愚出書以示,束修得也,乃已。有梁鴻之風焉。

子に克、几、凡がいた。克は早くから詩で名を知られ、葉適はかつて陶潜・韋応物を継ぐに足ると称賛した。

原文子克、几、凡。克蚤以詩名,葉適嘗稱其可繼陶、韋。

魏掞之

原文魏掞之

魏掞之、字は子実、建州建陽の人、初めの字は元履。幼少より大志を抱いた。胡憲に師事し、朱熹と交遊した。二度郷挙で礼部の試験を受けたが及第しなかった。かつて衢州の太守章傑の客となったことがある。趙鼎が謫死した時、その子の趙汾が喪を送って衢州を通った。章傑は平素より趙鼎を恨んでおり、また秦檜の意を迎えようとして、尉の翁蒙之に兵卒を率いさせ、趙鼎が生前に故旧と往来した書簡を急襲して奪い取らせた。蒙之は先に人を遣わして趙汾に告げて焼かせ、捕らえに行った時には何も得られなかった。章傑は怒り、蒙之を処罰し、趙汾を兵営に拘束し、且つ秦檜に報告しようとした。掞之は書を送って章傑を責め、長揖してまっすぐ帰った。室を築いて読書し、扁額に「艮齋」と掲げ、これより人は「艮齋先生」と称した。

原文魏掞之,字子實,建州建陽人,初字元履。自幼有大志。師胡憲,與朱熹遊。兩以鄉舉試禮部不第。嘗客衢守章傑所。趙鼎以謫死,其子汾將喪過衢。傑雅憾鼎,又希秦檜意,遣尉翁蒙之領卒掩取鼎平時與故舊來往簡牘。蒙之先遣人告汾焚之,逮至一無所得。傑怒,治蒙之,拘汾於兵家所,且以告檜。掞之以書責傑,長揖徑歸。築室讀書,牓以「艮齋」,自是人稱曰「艮齋先生」。

閩の帥汪応辰と建州の太守陳正同はその賢を知り、朝廷に推薦したが、時の宰相が阻んだため、果たして召されなかった。乾道年間、詔して遺逸を挙げよとの命があり、部刺史の芮燁が帥・守と共にその行誼を上表し、特詔して召されたが、掞之は強く辞退した。時の宰相陳俊卿は閩の人で、平素より掞之を知っており、強く招いた。そこで布衣のまま入見し、当時の急務を極力陳述し、要は上に修徳業・正人心・養士気を以て恢復の根本とすべきことを勧めた。上は嘉納し、同進士出身を賜い、太学録に任じた。

原文閩帥汪應辰、建守陳正同知其賢,薦於朝,時相尼之,不果召。乾道中,詔舉遺逸,部刺史芮燁與帥、守共表其行誼,特詔召之,掞之力辭。時宰相陳俊卿,閩人也,雅知掞之,招之甚力。乃以布衣入見,極陳當時之務,大要勸上以修德業、正人心、養士氣為恢復之本。上嘉納之,賜同進士出身,守太學錄。

これ以前、学官は声望を養って自ら高くし、諸生と接しなかった。掞之が就職すると、日々諸生を進めて教え諭し、またその舎を増築修繕し、人々感奮激励した。釈菜の礼を行おうとする時、掞之は王安石父子の従祀を廃し、程顥・程頤を追爵して祀典に列するよう請うたが、返答がなかった。また言上した、「太学の教えは宜しく德行経術を以て先とすべく、その次は世務を通習すべきである。今は専ら空言を以て人を取る」と、また返答がなかった。遂に辞職を願い出た。

原文先是,學官養望自高,不與諸生接。掞之既就職,日進諸生教誨之,又增葺其舍,人人感勵。將釋菜,掞之請廢王安石父子從祀,追爵程顥、程頤,列於祀典,不報。復言:「太學之教宜以德行經術為先,其次則通習世務。今乃專以空言取人」,又不報。遂丐去。

時に福州副総管曾覿が任期満了で帰還し、途中にあった。掞之は累疏して諫め、病と称して門を閉ざし、陳俊卿に書を送り、彼が救い止められなかったことを責め、言葉は甚だ切実であった。遂に親を迎えることを理由に帰郷を請い、数日行った後、台州教授に左遷された。掞之が未だ出発していない時、曾覿は都の城門外に既に長くいたが、掞之の去るのを伺い、やっと敢えて入った。掞之が朝廷にいたのは半年にも満たず、帰って後、慨然として嘆いて言った、「上恩はかくも深厚であるのに、我が学は聖意を感悟させるに足らぬ」と。乃ち日々艮齋に居て、旧聞を条理し、未だ至らざる所を求めた。

原文會福州副總管曾覿秩滿還,在道,掞之累疏以諫,移疾杜門,遺書陳俊卿責其不能救止,語甚切。遂以迎親請歸,行數曰,罷為台州教授。方掞之之未行也,覿至國門外已久,伺掞之去,乃敢入。掞之在朝不能半歲,既歸,喟然歎曰:「上恩深厚如此,而吾學不足以感悟聖意。」乃日居艮齋,條理舊聞,以求其所未至。

その家に居ては、喪祭を謹み、礼法を重んじた。従父で南方に客寓している者がおり、千里を隔てて迎え養い、死すれば礼に従って葬り、その孤児を養育した。建州の風俗では子を多く産んでも育てないことが多く、文を書いて戒め、全く生き延びさせた者は甚だ多かった。また官に申し出て、親を葬らない者を監督するよう請い、富める者には期限を与え、貧しい者には財を与え、後継ぎのない者は埋葬させた。毎年飢饉に遇うと、粥を作って飢えた者に食べさせた。後に古の社倉法に依り、官米を請うて民に貸し、冬に至って取り立てて倉に納めさせた。部使者は平素より掞之を敬っており、千余斛の米を提供して貸し与え、歳々収散を常の如く行い、民はこれに頼って救済された。諸郷の社倉は掞之に始まる。

原文其居家,謹喪祭,重禮法。從父有客於南者,千里迎養,死葬如禮,而字其孤。建俗生子多不舉,為文以戒,全活者甚眾。又白於官,請督不葬其親者,富與期,貧與財,而無主後者掩之。每遇歲饑,為粥以食饑者。後依古社倉法,請官米以貸民,至冬取之以納於倉。部使者素敬掞之,捐米千餘斛假之,歲歲斂散如常,民賴以濟。諸鄉社倉自掞之始。

人と交わるに、その善を嘉しその過失を救った。後進で礼を以て来る者があれば、仮に寸長あれば必ず汲々として推挽し成就させた。或いはその名声に近づくことを誹る者があれば、顔を曇らせて言った、「もし人がこの嫌疑を避けるならば、善を行う道は絶えるであろう」と。病が重篤に及んだ時、母が見舞いに来たが、頭巾を付けなければ会おうとしなかった。子に戒めて「僧侶や巫女の俗礼を以て我を汚すなかれ」と言った。書を以て朱熹を召し寄せ、後事を委ねて訣別した。卒す、五十八歳。

原文與人交,嘉其善而救其失。後進以禮來者,苟有寸長,必汲汲推挽成就之。至或訾其近名,則蹙然曰:「使夫人而避此嫌,為善之路絕矣。」病革,母視之,不巾不見。戒其子「毋以僧巫俗禮浼我。」以書召朱熹至,委以後事而訣。卒,年五十八。

後に上はその直諒を思い、召し用いようとしたが、大臣が既に死したと奏上したため、直秘閣を追贈した。朱熹の平素の志は掞之と同じであった。乾道年間、朱熹も召されたが、行こうとして、掞之が国を去ったと聞き、乃ち止めた。

原文後上思其直諒,將召用之,大臣言已死,乃贈直祕閣。熹平日趣向與掞之同。乾道中,熹亦被召,將行,聞掞之去國,乃止。

安世通

原文安世通

青城山の道人安世通は、元は西の人である。その父は謀策を有し、武官であったが、数度言を以て当路に干渉して用いられず、遂に自ら酒に沈んで終わった。世通もまた青城山中に隠居して出なかった。

原文青城山道人安世通者,本西人。其父有謀策,為武官,數以言干當路不用,遂自沈於酒而終。世通亦隱居青城山中不出。

呉曦が反逆すると、乃ち成都の帥楊輔に書を献じて言った、「世通山中に在りて、忽ち関外の変を聞き、覚えず大いに慟哭す。世通方外の人と雖も、而して大人先生も亦た嘗て入道の門を発せり。窃かに以為う、公初めて曦の檄を得るや、即ち当に書を返し、その家世を誦し、忠義を以て激し、官属軍民を聚め、素服して号慟し、これに因りて金を散じ粟を発し、忠義を鼓き集め、剣門を閉じ、夔・梓に檄し、仗義の師を興し、順を以て逆を討たば、誰か従わざらんや?而るに士大夫は皆酒缸飯囊、大義を明らかにせず、尚お少しく屈して以て生霊を保たんと云う、何ぞ其れ軽重を知らざること此の如きや!夫れ君は乃ち父なり、民は乃ち子なり、豈に父を棄てて子を救うの理あらんや?此れ曦一人の叛に非ず、乃ち挙げて蜀の士大夫の叛なり。古に叛民有りて叛官無しと聞く、今曦叛くに及びて士大夫皆手を縮めて以て命を聴く、是れ民を駆りて叛と為すなり。且つ曦叛逆と雖も、猶お忌む所有り、未だ敢えて正朔を建て、士大夫を殺さず、尚お虚文を以て見招す、亦た公の与するや否やを以て民の従違を卜す。今悠悠として決せず、徒らに婦人女子の悲しみと為る、所謂る停囚長智、吾朝廷の失望を恐る。凡そ大事を挙ぐる者は、成敗死生皆当に之を度外に付すべし。区区行年五十二、古人言う、『生くべくして生くるは福なり、死すべくして死するも亦た福なり』と。決して汗面して天を戴き、同じく叛民と為るを忍びず」と。

原文吳曦反,乃獻書於成都帥楊輔曰:「世通在山中,忽聞關外之變,不覺大慟。世通雖方外人,而大人先生亦嘗發以入道之門。竊以為公初得曦檄,即當還書,誦其家世,激以忠義,聚官屬軍民,素服號慟,因而散金發粟,鼓集忠義,閉劍門,檄夔、梓,興仗義之師,以順討逆,誰不願從?而士大夫皆酒缸飯囊,不明大義,尚云少屈以保生靈,何其不知輕重如此!夫君乃父也,民乃子也,豈有棄父而救子之理?此非曦一人之叛,乃舉蜀士大夫之叛也。聞古有叛民無叛官,今曦叛而士大夫皆縮手以聽命,是驅民而為叛也。且曦雖叛逆,猶有所忌,未敢建正朔、殺士大夫,尚以虛文見招,亦以公之與否卜民之從違也。今悠悠不決,徒為婦人女子之悲,所謂停囚長智,吾恐朝廷之失望也。凡舉大事者,成敗死生皆當付之度外。區區行年五十二矣,古人言:『可以生而生,福也;可以死而死,亦福也。』決不忍汗面戴天,同為叛民也。」

楊輔は重名有り、蜀中の士大夫多く義挙を勧める者ありしが、而して世通の言は特に切至であった。楊輔決断できず、遂に東して江陵に至り、呉獵に兵を挙げて呉曦を討つよう請うた。未幾、呉曦敗れ、呉獵蜀に使いし、士を推薦するに世通を以て首とした。

原文輔有重名,蜀中士大夫多勸以舉義者,而世通之言尤切至。輔不能決,遂東如江陵,請吳獵舉兵以討曦。未幾,曦敗,獵使蜀,薦士以世通為首云。

卓行

原文卓行

父子に親あり、夫婦に別あり、朋友に信あり、これ天下の共に知りて共に由る所なり。乃ち斯に卓行ある者あり。徐積のその天に於けるや、劉庭式のその室家に於けるや、巢谷のその知己に於けるや、皆常人の難きを行ふ。其の難きを行ひて而も安んずるは、豈に卓ならずや。曾叔卿の欺かざるや、劉永一の苟も取らざるや、皆一事を以て人其の終身を誉む。蓋し其の所有る所あればなり、其れ忽にすべけんや。『卓行傳』を撰す。

原文父子有親,夫婦有別,朋友有信,天下之所共知而共由者也,乃有卓行於斯焉。徐積於其所天,劉庭式於其室家,巢谷於其知己,皆行常人之難。行其所難而安焉,豈非卓乎?曾叔卿之不欺,劉永一之不苟取,皆以一事而人譽之終身,蓋有其所矣,其可忽諸!撰《卓行傳》。

劉庭式

原文劉庭式

劉庭式、字は得之、齊州の人なり。進士に挙げらる。蘇軾密州を守るに、庭式を通判と為す。初め、庭式未だ第せざりし時、郷人の女を娶らんと議し、既に約し、未だ幣を納れず。庭式乃ち及第す。女病を以て明を喪ふ。女家躬耕して貧甚だしく、復た言ふを敢へず。或は其の幼女を納るるを勧む。庭式笑ひて曰く、「吾が心已に之を許せり。豈に吾が初心に負くべけんや」と。卒に之を娶る。数子を生む。後死す。庭式之を喪ふこと年を踰え、復た娶るを肯はざりき。軾之を問ひて曰く、「哀は愛より生じ、愛は色より生ず。今君の愛は何よりか生じ、哀は何よりか出づる」と。庭式曰く、「吾は吾が妻を喪ふを知るのみ。吾若し色に縁りて愛を生じ、愛に縁りて哀を生ぜば、色衰へ愛弛み、吾が哀も亦忘れん。則ち凡そ袂を揚げ市に倚り、目挑みて心招く者は、皆以て妻と為すべけんや」と。軾其の言を深く感ず。庭式後太平観を監し、廬山に老ゆ。粒を絶ちて食はず。目奕奕として紫光有り、峻坂を上下するに歩み飛ぶが如し。高寿を以て終る。

原文劉庭式,字得之,齊州人,舉進士。蘇軾守密州,庭式為通判。初,庭式未第時,議娶鄉人之女,既約,未納幣。庭式乃及第,女以病喪明,女家躬耕貧甚,不敢復言。或勸納其幼女,庭式笑曰:「吾心已許之矣,豈可負吾初心哉。」卒娶之。生數子,後死,庭式喪之逾年,不肯復娶。軾問之曰:「哀生於愛,愛生於色。今君愛何從生,哀何從出乎?」庭式曰:「吾知喪吾妻而已。吾若緣色而生愛,緣愛而生哀,色衰愛弛,吾哀亦忘,則凡揚袂倚市,目挑而心招者,皆可以為妻也耶?」軾深感其言。庭式後監太平觀,老於廬山,絕粒不食,目奕奕有紫光,步上下峻阪如飛,以高壽終。

巢谷

原文巢谷

巢谷、初め名は穀、字は元修、眉州眉山の人なり。父中、谷其の学を傳ふ。樸なれども博し。京師にて進士に挙げらる。谷素より力多く、武芸を挙ぐる者を見て心に之を好み、遂に其の旧学を棄て、弓箭を蓄へ、騎射を習ふ。久しくして業成れども第せず。西辺に驍ぎょう勇多きを聞き、四方の冠たるを為すと。去りて秦鳳・涇原の間を遊ぶ。至る所其の秀桀と友とし、韓存寶と尤も相善くし、之に兵書を教ふ。

原文巢谷,初名穀,字元修,眉州眉山人。父中,谷傳其學,雖樸而博。舉進士京師。谷素多力,見舉武藝者心好之,遂棄其舊學,蓄弓箭,習騎射,久之業成而不中第。聞西邊多驍勇,為四方冠,去遊秦鳳、涇原間。所至友其秀桀,與韓存寶尤相善,教之兵書。

熙寧中、存寶河州の将と為り、功有り、熙河の名将と號す。會す滬州蠻の乞弟辺を擾すに、諸郡制すること能はず。存寶を命じて兵を出だし之を討たしむ。存寶蠻事に習はず、谷を邀へて軍中に至らしめ焉を問ふ。及て存寶罪を得、将に逮はらんとす。自ら度るに必ず死すべし。谷に謂ひて曰く、「我涇原の武夫、死は惜しむに足らず。顧みるに妻子寒餓を免れず。橐中に銀数百両有り。君に非ざれば使ひて之を遺すべき者莫し」と。谷諾す。即ち姓名を變じ、銀を懷きて歩往きて其の子に授く。人知る者無し。存寶死し、谷江・淮の間に逃避す。赦に會して乃ち出づ。

原文熙寧中,存寶為河州將,有功,號熙河名將。會滬州蠻乞弟擾邊,諸郡不能制,命存寶出兵討之。存寶不習蠻事,邀谷至軍中問焉。及存寶得罪,將就逮,自度必死,謂谷曰:「我涇原武夫,死非所惜。顧妻子不免寒餓,橐中有銀數百兩,非君莫可使遺之者。」谷許諾,即變姓名,懷銀步往授其子,人無知者。存寶死,谷逃避江、淮間,會赦乃出。

蘇軾黄州に謫せらる。谷と同郷にし、幼くして之を知る。因りて之と遊ぶ。及て軾と弟轍朝に在るに、谷里中に浮沈し、未だ嘗て一たび來り相見ること無し。紹聖初、軾・轍嶺海に謫せらる。平生の親旧復た相聞ふる者無し。谷獨り慨然として眉山より自ら誦言し、徒歩にて両蘇を訪はんと欲す。聞く者皆其の狂を笑ふ。

原文蘇軾謫黃州,與谷同鄉,幼而識之,因與之遊。及軾與弟轍在朝,谷浮沉里中,未嘗一來相見。紹聖初,軾、轍謫嶺海,平生親舊無復相聞者,谷獨慨然自眉山誦言欲徒步訪兩蘇,聞者皆笑其狂。

元符二年、谷竟に往く。梅州に至りて轍に書を遺して曰く、「我万里を步行して公に見ゆ。自ら全からんことを意ひず。今梅に至れり。旬日を出でず必ず見ん。死すとも恨み無し」と。轍驚喜して曰く、「此れ今世の人に非ず、古の人なり」と。既に見て、手を握りて相泣き、已にして平生を道ふ。月を踰えて厭はず。時に穀年七十三、瘦瘠多く病み、将に復た軾を海南に見んとす。轍愍みて之を止めて曰く、「君の意は則ち善し。然れども儋に循るまで数千里、當に復た海を渡るべし。老人の事に非ず」と。谷曰く、「我自ら視るに未だ即ち死せず。公我を止むること無かれ」と。其の橐中を閲するに数千錢無し。轍方に困乏す。亦強ひて資して之を遣る。舟行して新會に至る。蠻隷其の橐裝を竊ひて逃ぐる有り。新州に於て獲らる。谷之に從ひて新に至り、遂に病死す。轍聞き、之を哭して声を失ひ、己が言を用ひずして死に致すを恨み、又其の己が言を用ひずして其の志を行ふを奇とす。

原文元符二年,谷竟往,至梅州遺轍書曰:「我萬里步行見公,不意自全,今至梅矣,不旬日必見,死無恨矣。」轍驚喜曰:「此非今世人,古之人也。」既見,握手相泣,已而道平生,逾月不厭。時穀年七十三,瘦瘠多病,將復見軾於海南,轍愍而止之曰:「君意則善,然循至儋數千里,當復渡海,非老人事也。」谷曰:「我自視未即死也,公無止我。」閱其橐中無數千錢,轍方困乏,亦強資遣之。舟行至新會,有蠻隸竊其橐裝以逃,獲於新州,谷從之至新,遂病死。轍聞,哭之失聲,恨不用己言而致死,又奇其不用己言而行其志也。

徐積

原文徐積

徐積、字は仲車、楚州山陽の人なり。孝行天稟より出づ。三歳にして父死す。旦旦に之を求めて甚だ哀しむ。母『孝経』を読ましむれば、輒ち淚落ちて止むこと能はず。母に事ふること至孝にし、朝夕冠帶して定省す。胡翼之に從ひて学ぶ。居る所一室、寒に一衲裘、菽を啜り水を飲む。翼之食を以て饋るも、受けず。

原文徐積,字仲車,楚州山陽人。孝行出於天稟。三歲父死,旦旦求之甚哀,母使讀《孝經》,輒淚落不能止。事母至孝,朝夕冠帶定省。從胡翼之學。所居一室,寒一衲裘,啜菽飲水,翼之饋以食,弗受。

応挙して都に入る。其の親を捨つるに忍びず、徒に載せて西す。進士第に登る。挙首の許安國同年生を率ひ入り拜し、且つ百金を致して寿と為すも、謝して卻る。父の名「石」を以て終身石器を用ひず、行くに石に遇へば則ち避けて踐まず。或は之を問ふ。積曰く、「吾之に遇へば則ち怵然として吾が心を傷み、吾が親を思ふ。故に忍びて足を其の上に加ふること能はず爾」と。母亡び、水漿口に入ること七日有り、悲慟して血を嘔す。墓に廬すること三年、苫に臥し塊を枕し、衰絰體を去らず。雪夜墓側に伏し、哭して音を絶たず。翰林學士の呂溱其の廬を過ぎ適ひ之を聞き、泣下して曰く、「鬼神知有らば、亦涕を垂るべし」と。甘露歳ごとに兆域に降り、杏兩枝合はせて幹と為る。既に喪を終へて、筵几を徹さず、起居饋獻平生の如し。

原文應舉入都,不忍捨其親,徒載而西。登進士第,舉首許安國率同年生入拜,且致百金為壽,謝卻之。以父名「石」終身不用石器,行遇石則避而不踐,或問之,積曰:「吾遇之則怵然傷吾心,思吾親,故不忍加足其上爾。」母亡,水漿不入口者七日,悲慟嘔血。廬墓三年,臥苫枕塊,衰絰不去體,雪夜伏墓側,哭不絕音。翰林學士呂溱過其廬適聞之,為泣下曰:「使鬼神有知,亦垂涕也。」甘露歲降兆域,杏兩枝合為幹。既終喪,不徹筵几,起居饋獻如平生。

中年に聵疾有り、窮里に屏處すれども、四方の事知らざる無し。客南越より來る。積之と論じて嶺表の山川の險易・鎮戍の疏密を、口に誦し手に畫き、一二を數ふるが若し。客歎じて曰く、「戸を出でずして天下を知るは、徐公是れなり」と。少より老に及び、日ごとに一詩を作り、文を為すに率ね腹稿を用ひ、口占して其の子に授く。嘗て人の書策を借る。一宿を經て之を還す。借る者紿ひて言ふ、中に金葉有りと。積謝して辨ぜず、衣を賣りて之を償ふ。郷人爭訟有れば、多く就きて決を取る。州行ひを以て聞こゆ。詔して粟帛を賜ふ。

原文中年有聵疾,屏處窮里,而四方事無不知。客從南越來,積與論嶺表山川險易、鎮戍疏密,口誦手畫,若數一二。客歎曰:「不出戶而知天下,徐公是也。」自少及老,日作一詩,為文率用腹稿,口占授其子。嘗借人書策,經宿還之,借者紿言中有金葉,積謝而不辨,賣衣償之。鄉人有爭訟,多就取決。州以行聞,詔賜粟帛。

元祐初、近臣合ひて言ふ、「積親を養ふに孝を以て著しく、郷に居るに廉を以て稱せらる。道義文學、東南に顯る。今年五十を過ぎ、耳疾を以て出仕すること能はず。朝廷方に中外の學官を挙ぐるを詔す。積の賢の如きは、宜しく表する所に在るべし」と。乃ち揚州司戸參軍を以て楚州教授と為す。每たび堂に升り、諸生を訓ひて曰く、「諸君君子たらんと欲して、己が力を勞し、己が財を費し、此くの如くにして而も為さざるは、猶ほ之れ可なり。己が力を勞せず、己が財を費さず、何ぞ君子たらざる。郷人之を賤しみ、父母之を惡む、此くの如くにして而も為さざるは、可なり。郷人之を榮しみ、父母之を欲す、何ぞ君子たらざる」と。又曰く、「其の善きを言ひ、其の善きを行ひ、其の善きを思ふ、此くの如くにして而も君子ならざる者は、未だ之有らざるなり。其の善からざるを言ひ、其の善からざるを行ひ、其の善からざるを思ふ、此くの如くにして而も小人ならざる者は、未だ之有らざるなり」と。之を聞く者衽を斂めて敬聽す。

原文元祐初,近臣合言:「積養親以孝著,居鄉以廉稱,道義文學,顯於東南。今年過五十,以耳疾不能出仕。朝廷方詔舉中外學官,如積之賢,宜在所表。」乃以揚州司戶參軍為楚州教授。每升堂,訓諸生曰:「諸君欲為君子,而勞己之力,費己之財,如此而不為,猶之可也;不勞己之力,不費己之財,何不為君子?鄉人賤之,父母惡之,如此而不為,可也。鄉人榮之,父母欲之,何不為君子?」又曰:「言其所善,行其所善,思其所善,如此而不為君子者,未之有也。言其不善,行其不善,思其不善,如此而不為小人者,未之有也。」聞之者斂衽敬聽。

数歳居る。使者又交はりて之を薦む。和州防禦推官に轉じ、宣德郎に改め、中嶽廟を監す。卒す。年七十六。政和六年、諡「節孝處士」を賜ひ、其の一子を官す。

原文居數歲,使者又交薦之,轉和州防禦推官,改宣德郎,監中嶽廟。卒,年七十六。政和六年,賜諡「節孝處士」,官其一子。

曾叔卿

原文曾叔卿

曾叔卿は、建昌軍南豊県の人、曾鞏の族兄である。家は貧苦に耐え、心に欺かざるを存す。嘗て西江の陶器を買い、北方に貿易せんと欲し、既にして果たして行かず。之に従いて転売せんとする者あり、之に与う。既に代価を受けし後、何くにか将に行かんとするやと問う。其の人曰く、「君が前の策を效はんと欲するのみ」と。叔卿曰く、「不可なり。吾聞く、北方新たに災饉有り、此の物は必ず時に泄らさず、故に行はざるなり。余豈に告げずして子を誤るべけんや」と。其の人即ち銭を取り去る。郷に居りて介潔にして、受くべからざる所は、一介も取らず。妻子は飢寒に困すれども、孤煢を拊庇して、唯其の意を失はんことを恐る。進士より起家し、著作佐郎に至る。熙寧年中、卒す。

原文曾叔卿,建昌南豐人,鞏族兄也。家苦貧,即心存不欺。嘗買西江陶器,欲貿易於北方,既而不果行。有從之轉售者,與之。既受直矣,問將何之,其人曰:「欲效君前策耳。」叔卿曰:「不可。吾聞北方新有災饉,此物必不時泄,故不以行。余豈宜不告以誤子。」其人即取錢去。居鄉介潔,非所宜受,一介不取。妻子困於饑寒,而拊庇孤煢,唯恐失其意。起家進士,至著作佐郎。熙寧中,卒。

劉永一

原文劉永一

劉永一は、陝州夏県の人。孝友廉謹なり。熙寧初年、巫咸水溢れて県城に入り、民多く溺死す。永一は竿を持ちて門前に立ち、他人の物の流入するを見れば輒ち之を擿出す。僧有りて数万銭を其の室に寓す、無何にして僧死す。永一は県に詣りて自ら言ひ、請ふに銭を以て其の弟子に帰さしむ。郷人の負債して償はざる者あれば、立って其の券を焚く。行事此の類の如し。兄大為は、医助教なり。親の喪に居りて、酒を飲み肉を食はず、三年を終ふ。司馬光之を伝へ、以て今の士大夫の難くする所と為す。

原文劉永一,陝州夏縣人。孝友廉謹。熙寧初,巫咸水溢入縣城,民多溺死。永一持竿立門前,見他人物流入者輒擿出之。有僧寓錢數萬於其室,無何而僧死,永一詣縣自言,請以錢歸其弟子。鄉人負債不肯償,立焚其券。行事類此。兄大為,醫助教。居親喪,不飲酒食肉,終三年。司馬光傳之,以為今士大夫所難。