宋史

列傳第二百十八 隱逸下 徐中行 蘇雲卿 譙定 王忠民 劉勉之 胡憲 郭雍 劉愚 魏掞之 安世通 卓行 劉庭式 巣谷 徐積 曾叔卿 劉永一

徐中行

徐中行は、台州臨海の人である。学問を知り始め、安定の胡瑗が道学を講明していると聞き、その門弟が転相伝授しているので、これに従おうと赴いた。京師に至り、まず范純仁に謁見し、純仁は彼を賢者と認め、司馬光に推薦した。光はこの人は神清気和で、道に進ませることができると言った。時に福唐の劉彝が朝廷に赴き、胡瑗の授けた経書を得たので、熟読精思し、苦労して粗食に耐え、夏は扇がず、冬は炉を用いず、夜も安らかに枕につかずに一年余りを過ごした。そして帰郷して小室を修築し、終日端坐し、その造詣は人々には測り知れなかった。父が死ぬと、跣足で墓側に廬し、自ら耕作して母を養った。その余力を推し及ぼし、内外の親族及び州里の貧しくて後継ぎのない者十余家の葬儀を行った。晚年には学者を教授し、灑掃応対、格物致知から治国平天下に至るまで、その本性を失わず、その順序を越えずに行うことを教えた。

その友人の羅適が本路の按察使となり、自らの代わりに推挙し、また部使者を率いて遺逸として推薦した。崇寧年間、郡守の李諤がまた八行で推薦した。時に章惇・蔡京が国柄を窃み、善類をことごとく追放していたので、中行は命を聞くたびに涙を流した。ある日、黄巖に去り、親友と会い、自らの書いた文章をすべて焼き捨て、幅巾に藜杖を持ち、委羽山中を往来した。客が挙を避けて名声を求めるのかと詰問すると、中行は言った。「人にして行いがなければ、禽獣と等しい。もし私が八行で科目に応じることができれば、それで挙げられなかった者は人間ではないのか。私はまさにこの名を避けようとしているのであって、名声を求めているのではない。」客は慙じて退いた。陳瓘が台州に謫された時、その名を聞いて交わりを結び、彼が没すると、その行状を記録し、山陽の徐積と並び称され、「八行先生」と呼んだ。

子 庭筠

子三人、庭筠はその末子である。幼少より志操行いに優れ、父兄に事えて孝友の情は天性のものであった。喪に居ては甚だしく憔悴し、喪が明けた後も、娶ることを忍ばずに十余年を過ごした。秦檜が国政を執ると、科挙の場では諂佞が尊ばれ、試題に中興の歌頌を問うた。庭筠は嘆いて言った。「今日はまさに歌頌すべき時なのか。」中興たり得ない点を五つ挙げて疏にし、見た者はそれを咎めたが、庭筠は言った。「私は妄語をせず、敢えて君を欺こうか。」

黄巖尉の鄭伯熊が代任される際、教えを請うた。庭筠は言った。「富貴は得やすく、名節は守り難し。時に安んじて順に処し、世道を主張せんことを願う。」伯熊はその言葉を受け入れ、ついに名臣となった。詔があり、五度春官(礼部試)に上った者に嶽廟の祠禄を与えることとなった。庭筠はちょうど条件に合い、親しい者は皆勧めたが、庭筠は辞して言った。「私はかつて封事を草し、嶽廟の冗禄は無用であると述べた。心でそれを非としながら、自ら踏み込むことができようか。」

その学問は誠敬を主とし、夜は必ず寝床に就いてから頭巾を脱ぎ、朝は必ず頭巾を着けてから起きた。居るに惰慢な容色なく、喜びに戯言なく、外見を飾らず、軽率に人物を批評しなかった。人の些細な善行を聞けば、その姓名を記した。飢え凍える者に遇えば、食物を分け衣服を解いて惜しまなかった。家を借りて住んだが、憂い悲しむことはなかった。尤袤が郡守となってその名を聞き、書を遣わして礼を尽くした。ある日、車に乗って旧友を歴訪し、数か月間逍遥した。帰って微恙を感じ、端坐して目を閉じたまま逝去した。八十五歳であった。郷人は彼を崇敬し、父子ともに隠遁したので、二徐先生と称した。淳熙年間、常平使者の朱熹が管区を巡行し、墓下に拝礼し、題詩に「道学千古に伝わり、東甌二徐を説く」の句があり、また大書して表した。「有宋高士二徐先生之墓」。

庭筠の兄、庭槐・庭蘭は、いずれも父の風があった。孫の日升は苦学して節操を守り、ここに徐氏の詩書は六世にわたって絶えなかった。

蘇雲卿

蘇雲卿は、広漢の人である。紹興年間、章の東湖に来て、廬を結び独居した。近隣の人々に恩礼をもって接し、良賤老幼を問わず皆が敬愛し、「蘇翁」と称した。身長七尺、美しい鬚髯、寡黙で笑わず、布の粗衣と草鞋は一年中変えず、病気になったことはなかった。荊を払い礫を運んで菜園とし、植え付け、除草、灌漑、土寄せにはすべて法度があった。酷暑や極寒で土が焦げ草が凍っても、園の野菜は絶えず、生い茂りよく育ち、四季の品が欠けることはなかった。味は他の園より優れ、また値段は一定で、市場で売れば利益は倍で売れ行きが速く、先に代金を支払う者もいた。夜に草鞋を織れば、革靴より堅靭で、人々は争って買い求め遠方への贈り物にした。そのため薪や米に事欠かず、余れば急を救い貸しに応じ、借りた者が返済を怠っても、一切気に留めなかった。園を灌ぐ暇には、門を閉じて高臥し、あるいは終日端坐し、その心を測り知る者はなかった。

若い頃、張浚と布衣の交わりがあった。浚が宰相となると、書状と金幣を馳せさせて豫章の帥(知州)と漕(転運使)に託して言った。「我が同郷の蘇雲卿は、管仲・楽毅の流れで、湖海に遁跡して数年になる。近頃東湖で灌園していると聞く。その高風偉節は、簡単な招きでは屈しない。幸いにも直接その廬を訪れ、必ず私のために招き寄せてほしい。」帥と漕は密かに探し求め、「ここにはただ灌園の蘇翁がいるだけで、雲卿はいない」と言った。帥と漕は従者を退け、服を着替えて遊士となり、その園に入った。翁は鋤を動かして顧みない。進み出て揖すると、翁は言った。「二客はどこから来られたのか。」室に招き入れると、土の竈に竹の机、床には塵一つなく、机の上には『西漢書かんじょ』一冊があった。二客は茫然自失し、これが蘇雲卿に違いないと心中で思った。やがて泉を汲んで茶を煮、気持ちが少し和らぐと、その郷里を尋ねた。翁はゆっくりと「広漢」と言った。客が「張徳遠は広漢の人ですが、翁はご存知か」と言うと、「然り」と答えた。客がまた「徳遠はどのような人か」と尋ねると、「賢人である。ただし君子を知るには長けているが、小人を知るには短く、徳は余るが才が足りない」と言った。そこで「徳遠は今どのような官か」と尋ねると、二客は「今、朝廷は張公を起用し、この大事を成し遂げようとしている」と言った。翁は「これは恐らく彼には容易に成し遂げられまい」と言った。二客は立ち上がって言った。「張公が我々に命じて、公と共に大業を助けさせようとしている。」そこで書状と金幣を机の上に置いた。雲卿の鼻の奥でかすかに音がし、自らを咎め嘆いているようであった。二客は車に同乗するよう強く請うたが、辞退して承知せず、明朝に謁見すると約束した。翌朝、使いを迎えにやると、戸は閉ざされひっそりとしており、戸を押し開けて入ると、書状と金幣は開封されず、家具は元のままで、翁はすでに遁走しており、ついにどこへ行ったか分からなかった。

帥と漕が復命すると、浚は机を叩いて嘆いて言った。「早く求めなかったことが、実に位を窃む恥を抱かせる。」箴を作ってこれを記した。「雲卿の風節は、傅霖よりも高い。私は彼と期し、共に当今を助けんとした。山は潜み水は杳かで、遥かに尋ねるべからず。力を尽くさず早からざりし、我が罪いかに針せん。」

譙定

譙定、字は天授、涪陵の人なり。少にして仏学を好み、その理を析して儒に帰す。後に郭曩氏に《易》を学び、「見乃ち之を象と謂ふ」の一語より入る。郭曩氏は、南平に世居し、始祖は漢に在りて厳君平の師たり、世々《易》学を伝ふ、蓋し象数の学なり。定一日汴に至り、伊川程頤の洛に於いて道を講ずるを聞き、衣を潔くして往きて見、その学を棄てて之に学ぶ。遂に精義を聞くを得、造詣愈々至り、浩然として帰る。その後頤涪に貶せらる、実に定の郷なり、北山に巖有り、師友其の中に游泳す、涪人これを「読易洞」と名づく。

靖康初、呂好問之を薦む、欽宗召して崇政殿説書と為すも、論合はざるを以て、辞して就かず。高宗即位す、定猶汴に在り、右丞許翰又之を薦む、詔して宗澤に津遣して行在に詣らしむ。惟揚に至り、邸舎に寓す、窶甚だし、一中貴人偶々隣と為り、之に食を饋るも受けず、之に衣を与ふるも受けず、金を委して去る、定袖にして之を帰す、其の自立の操此の類なり。上将に之を用いんとす、会に金兵至り、定の所在を失ふ。復たしょくに帰り、青城大面の勝を愛し、其の中に棲遯す、蜀人其の地を指して「譙巖」と曰ふ。定を敬して敢へて名づけず、之を称して「譙夫子」と曰ひ、像を繪きて之を祀る者有り、久しくして衰へず。定の《易》学は程頤に之を得、之を胡憲・劉勉之に授け、而して馮時行・張行成は則ち定の余意を得たる者なり。定後に行く所を知らず、樵夫牧童往々之を見る者有り、世其の仙と為るを伝ふ。

初め、程頤の父向嘗て広漢を守り、頤と兄顥皆随侍し、成都に遊び、篾を治め桶を箍く者の冊を挟むを見、就きて之を視れば則ち《易》なり、擬議して詰めんと欲す、而して篾者は先づ曰く「若嘗て此を学びし乎」と。因りて「《未済》男の窮まり」を指して以て問を発す。二程遜りて之に問へば、則ち曰く「三陽皆位を失ふ」と。兄弟渙然として省る所有り、翌日再び之を過ぐれば、則ち去れり。其の後袁滋洛に入り、頤に《易》を問ふ、頤曰く「《易》学は蜀に在るのみ、盍ぞ往きて之を求めざる」と。滋蜀に入り訪問す、久しく遇ふ所無し。已にして眉・邛の間に於いて醬を売る薛翁を見、之と語り、大いに得る所有り、得たる所何の語なるかを知らず。

憲・勉之・滋皆閩の人、時行・行成蜀の人、郭曩氏及び篾叟・醬翁皆蜀の隠君子なり。

王忠民

王忠民、潁陽の人、世業医なり。忠民幼より経史に通じ、靖康以来、数辺方の利害を朝に言ひ、累召すれども至らず。高宗江を渡り、忠民隠居して出でず、諸鎮翟興等皆之を重んず、致す能はず。張浚迪功郎を授くも受けず。興薬川に治を徙す、忠民地を避けて南下し、内郷に於いて商虢鎮撫使董先に遇ひ、軍中に留め、師礼を以て事ふ。

時に劉豫僭立す、忠民《九思図》及び乱を定むる四象を作りて之を金主に達し、及び板を鏤り図を印して偽境に散じ、以て天下の義を明らかにす。紹興三年、翟琮其の忠節を朝に薦む、特づく宣教郎を授け、詔して董先に津遣して行在に詣らしむ。既に至る、宰相呂頤浩・簽書枢密院事徐俯之を見て皆拝し、政府に舎す。忠民上疏して官を辞し、言ふ「臣金人の無道を憤る故に、三たび金主に上書し、二帝の還御を乞ふ、本心国に報ぜんとす、名禄を冀ふに非ず」と。上許さず。忠民誥を櫝の中に置き、七宝山下に蔵し、力を竭きて去らんことを求む。復た董先の軍中に依り、遂に出でず。

蘇庠 附

時に又蘇庠有り、丹陽の人。紳の後、頌の族なり。少にして詩を能くす、蘇軾其の《清江曲》を見て、大いに之を愛し、是より名を知らる。徐俯其の賢を薦む、上特づく之を召すも、固く辞す。又命じて守臣礼を以て津遣せしむるも、庠疾を辞して至らず、寿を以て終はる。

劉勉之

劉勉之、字は致中、建州崇安の人。幼より強学し、日に数千言を誦す。冠を踰え、郷挙を以て太学に詣る。時に蔡京事を用ひ、元祐の書を挟むことを禁じて得しめず、是より伊・洛の学行はれず。勉之其の書を求得し、毎深夜、同舎生皆寐るに及び、乃ち潜かに抄して默誦す。譙定京師に至る、勉之其の程頤に従ひて遊び、邃く《易》学なるを聞き、遂に師事す。已にして科挙の業を厭ひ、諸生に揖して帰り、劉安世・楊時に見え、皆請ひて業とす。家に至るに及べば、即ち邑の近郊に草を結びて堂と為し、其の中に読書し、力を耕して自ら給し、澹然として世に求むること無し。胡憲・劉子翬と相往来し、日を以て講論切磋を事とす。

紹興間、中書舎人呂本中其の行義志業を疏して以て聞かしむ、特づく召して闕に詣らしむ。秦檜方に和を主とし、勉之の上に見えて正論を執らんことを慮り、乃ち引見せず、但だ策試後省に令して劄を給するのみ。勉之檜と合はざるを知り、即ち病を謝して帰る。門を杜すること十餘年、学者踵きて至り、其の材品に随ひ、聖賢教学の門及び前言往行の懿を説く。居る所白水有り、人号して「白水先生」と曰ふ。賢士大夫趙鼎以下皆敬慕して交はる。後秦檜益々横はり、鼎竄死し、諸賢禁錮せらる、勉之竟に出づること復たせず。

勉之一介妄りに取らざる。婦家富み、子無く、謀りて尽く貲を女に帰せんとす、勉之受けず、以て族の賢者に畀へ、之を命じて祀を奉ぜしむ。其の友朱松卒す、後事を属し、且つ其の子熹を戒めて学を受く。勉之其の家を經理し、而して熹を誨ふること子姪の如し。熹の道を得るは、勉之より始まる。紹興十九年、卒す、年五十九。

胡憲

胡憲、字は原仲、建の崇安に居る。生まれながらにして静愨、妄りに笑語せず、長じて従父胡安国に従ひて学ぶ。平居危坐し植立し、時に然る後に言ひ、倉卒と雖も疾言遽色無く、人之を犯すも未だ嘗て校せず。紹興中郷貢を以て太学に入る。会に伊・洛の学に禁有り、憲独り陰に劉勉之と其の説を誦習す。既にして譙定に《易》を学ぶ、久しく得る所無し、定曰く「心物に漬さるる故に、見有る能はざる、唯だ学ぶに在りて乃ち明らかにす可し」と。憲喟然として歎じて曰く「所謂学ぶ者は、克己の工夫に非ずや」と。是より一意下学し、人の知るを求めず。一旦、諸生に揖して故山に帰り、力を田に売薬し、以て其の親を奉ず。安国其の隠君子の操有りと称す。従ひて遊ぶ者日衆く、号して「籍溪先生」とす、賢士大夫亦高く之を仰ぐ。

折彥質、范沖、朱震、劉子羽、呂祉、呂本中らが共にその行義を朝廷に聞こえさせたので、上は特に召し出されたが、胡憲は母が年老いていると辞退した。折彥質が西府に入ると、また上に言上し、召し出しを急がせたが、胡憲は強く辞退した。そこで進士出身を賜り、左迪功郎・添差建州教授に任じられたが、胡憲はなお屈しなかった。太守の魏矼が行義に優れた諸生を里に遣わして詔を伝えさせ、かつ手書をもって大義を説き、極力に諭したので、胡憲はやむを得ず職に就いた。日々諸生と接し、己を修める学問を訓導した。聞く者は初めは笑い、次いで疑い、久しくその修身・事親・人に接する様子を見るに、一言一句も言うところと違わないので、やがて一致して悦服した。郡人の程元は篤行をもって称せられ、龔何は廉節をもって著しかったが、皆を迎えて学政に参与させたので、学者はここに大いに教化された。

七年間官が移らなかったため、母が年高で官舎に住むのを好まないので、南嶽廟の監を求めて帰郷した。久しくして、福建路安撫使司の属官として起用された。当時、帥の張宗元は塩の専売を厳しくし、私販する者は銖両であっても重く処罰した。胡憲が為政の大本を告げると、宗元は喜ばず、胡憲は再び祠官を請願して去った。

秦檜が権勢を振るっていた頃、諸賢は零落し、胡憲は家に居て出仕しなかった。秦檜が死ぬと、大理司直として召されたが、赴任せず、祕書正字に改められた。到着後、順番で奏事することになったが、病で朝参できず、草疏を上奏して言った。「金人は汴京の宮室を大いに造営しており、勢い盟約を破るであろう。今、元勲の臣・宿将では張浚・劉錡のみが健在である。識者は皆、金がもし南侵すれば、この両人でなければ防げないと言う。願わくは急ぎこれを起用されたし。臣は死んでも恨みはない。」当時、両人とも積年の誹謗によって傷つけられており、敢えて顕かにその起用を言う者はなかったが、胡憲のみが真っ先にこれを言上した。疏が入ると、すぐに去職を求めた。上はその忠を嘉し、詔して官等を改め祠禄を与えて帰郷させた。

初め、胡憲は劉勉之と共に隠棲し、後にまた劉子翬・朱松と交わった。朱松が臨終に際し、その子の朱熹に胡憲及び勉之・子翬に学ぶよう託した。朱熹は自ら、三君子と交遊したが、籍溪先生(胡憲)に事えること最も久しかったと述べている。胡憲が館職として召された時、丁度秦檜が言論を忌避した後であり、胡憲は王十朋・馮方・査籥・李浩と相次いで時事を論じたので、太学生が『五賢詩』を作ってこれを称えた。人々は初めて胡憲が軽々しく出仕しないことを信じ、その在位わずか半年で、その深遠な学識を究められなかったことを惜しんだという。紹興三十二年、卒去。七十七歳。

郭雍

郭雍、字は子和、その先祖は洛陽らくようの人である。父の忠孝は、官は太中大夫に至り、程頤に師事し、『易説』を著し、「兼山先生」と号した。別に伝がある。郭雍は父の学問を伝え、世務に通じ、峽州に隠居し、長楊の山谷間に放浪し、「白雲先生」と号した。

乾道年間、峡州の太守任清臣・湖北帥張孝祥の推薦により朝廷に挙げられたが、表彰して召しても応じず、「沖晦處士」の号を賜った。孝宗はその賢を熟知し、毎度輔臣に対し称道し、所在の州郡に命じて歳時ごとに礼を尽くして見舞わせた。後に更に「頤正先生」に封じ、部使者に命じて官吏を遣わし、郭雍の言いたいことを尋ねさせ、詳細に記録して上進させた。この時、郭雍は八十三歳であった。

淳熙初年、学者が程顥・程頤・張載・游酢・楊時及び忠孝・郭雍の凡そ七家を集め、『大易粹言』として世に行われた。その郭雍の説を述べたところは次のようである。

『易』は三才を貫通し、万理を包括する。伏羲氏の画は、天を得て天を明らかにする。文王の画は、人を得て人を明らかにする。羲の画は天であり、天は君道である。故に五は人においては君となる。文の重ねたものは地であり、地は臣道である。故に二は人においては臣となる。上下二卦を別々に言えばこのようである。六爻を合わせて言えば、則ち三と四は皆人道である。故にこれを「中爻」という。

『乾』の元亨利貞は、初めに四徳と言う。後にまた乾元と言い、始めて亨ずるものである。利牝馬貞、利君子貞。故に四徳を二義とすることもまた可である。乾は陽の物である。坤は陰の物である。『乾』一卦によって論ずれば、則ち元と亨は陽の類、利と貞は陰の類である。これは春夏秋冬が四時であるが、陰陽から観れば、則ち春夏は陽、秋冬は陰であるようなものである。天のいわゆる元亨利貞は、天の道を立てるが如く、陰と陽の類である。地のいわゆる元亨利貞は、地の道を立てるが如く、柔と剛の類である。人のいわゆる元亨利貞は、人の道を立てるが如く、仁と義の類である。

また『坤』の六五は、坤は臣道であるが、五は実に君位であり、柔徳をもってするも、君であることを害しない。『乾』の九二が、君徳あれども、臣であることを害しないのと同様である。故に乾には両君あり、徳に両君はない。坤には両臣あり、徳に両臣はない。六五は柔をもって尊位に居り、下々に下る君である。江海が百谷の王たり得る所以は、その下々に善く下るによる。下々は本来坤の徳である。黄は中色であり、色の至美である。裳は下服である。故に至美の徳をもって人に下るのである。

その発明はこのように精到であった。淳熙十四年。卒去。

劉愚

劉愚、字は必明、衢州龍遊県の人である。幼少より聡敏で力学した。弱冠で太学に入り、名声があり、門弟が甚だ多かった。侍御史の柴瑾・祭酒の顔師魯・博士の林光朝は深く器重した。柴瑾は毎度奏対が上意に適うと、「臣の客の劉愚が臣に言いました」と言った。顔師魯はかつて劉愚の行芸を奏上したが、上は覚えておられ、「これは以前柴瑾が推薦した者である」と言われた。上舎試に及第し、第一位であった。江陵府教授に調任され、朝夕諸生に講説し、同僚も相率いて聴講した。劉愚はますます謙虚で、葉適・項安世と講論して倦まず、常に隠居して学道することを楽しみとした。

任期が満ちると、帥の王藺が書を送り招聘したが、固く辞退し、貧しくて帰郷できなかった。外任で安郷県令に移ると、県の未納租税は万単位に上ったが、劉愚は実数を査定し、期限を緩め、民は役人と会わずして租税は自然に充足した。凶年に当たり、常平米を出して救済貸付しようとしたが、県の副官が反対した。劉愚は「罪があれば、お前には及ぼさない」と言い、数千万の緡銭を出し、商人を召して他郡から米を買い入れ原価で売り、米価はたちまち平準化し、なお数千石の米を倉に蓄えて飢饉・旱魃に備えた。県には范仲淹の読書の地があり、その画像を描き祠堂を立て、学校を興すと、士人は競って励むことを知った。

諸司より相次いで推薦され、官位を改められたが、愚は元来官途を楽しまず、遂に致仕した。丞相余端禮は同郷の人で、愚と旧知があり、且つ堂審を召したが、愚は結局去って顧みなかった。城南に廬を結び、崩れた壁、荒れ果てた庭に蓬蒿が寂しく茂っていた。著書して自ら楽しみ、『書経』、『礼記』、『論語』、『孟子』に皆解釈を加えた。八十三歳で卒した。故友とその門人が私諡して「謙靖先生」とし、後に更に諡して「靖君」と改め、郷郡において祠を建てて祀った。

妻徐氏は実家にいた時、その母が姑の子の富める者に嫁がせようとしたが、徐は泣いて言った、「富人の妻となるは、願わざるなり」と。遂に愚に嫁ぎ、破屋に住み、機織り一筋に過ごした。愚がかつて白金を懐にして帰った時、徐は怒って言った、「我は子を賢しとおもいて然るに斯くの如きか、速やかに返し申せ」と。愚が書物を取り出して示すと、束修として得たものだと分かり、やっと許した。梁鴻の風があった。

子に克、几、凡がいた。克は早くから詩で名を知られ、葉適はかつて陶潜・韋応物を継ぐに足ると称賛した。

魏掞之

魏掞之、字は子実、建州建陽の人、初めの字は元履。幼少より大志を抱いた。胡憲に師事し、朱熹と交遊した。二度郷挙で礼部の試験を受けたが及第しなかった。かつて衢州の太守章傑の客となったことがある。趙鼎が謫死した時、その子の趙汾が喪を送って衢州を通った。章傑は平素より趙鼎を恨んでおり、また秦檜の意を迎えようとして、尉の翁蒙之に兵卒を率いさせ、趙鼎が生前に故旧と往来した書簡を急襲して奪い取らせた。蒙之は先に人を遣わして趙汾に告げて焼かせ、捕らえに行った時には何も得られなかった。章傑は怒り、蒙之を処罰し、趙汾を兵営に拘束し、且つ秦檜に報告しようとした。掞之は書を送って章傑を責め、長揖してまっすぐ帰った。室を築いて読書し、扁額に「艮齋」と掲げ、これより人は「艮齋先生」と称した。

閩の帥汪応辰と建州の太守陳正同はその賢を知り、朝廷に推薦したが、時の宰相が阻んだため、果たして召されなかった。乾道年間、詔して遺逸を挙げよとの命があり、部刺史の芮燁が帥・守と共にその行誼を上表し、特詔して召されたが、掞之は強く辞退した。時の宰相陳俊卿は閩の人で、平素より掞之を知っており、強く招いた。そこで布衣のまま入見し、当時の急務を極力陳述し、要は上に修徳業・正人心・養士気を以て恢復の根本とすべきことを勧めた。上は嘉納し、同進士出身を賜い、太学録に任じた。

これ以前、学官は声望を養って自ら高くし、諸生と接しなかった。掞之が就職すると、日々諸生を進めて教え諭し、またその舎を増築修繕し、人々感奮激励した。釈菜の礼を行おうとする時、掞之は王安石父子の従祀を廃し、程顥・程頤を追爵して祀典に列するよう請うたが、返答がなかった。また言上した、「太学の教えは宜しく德行経術を以て先とすべく、その次は世務を通習すべきである。今は専ら空言を以て人を取る」と、また返答がなかった。遂に辞職を願い出た。

時に福州副総管曾覿が任期満了で帰還し、途中にあった。掞之は累疏して諫め、病と称して門を閉ざし、陳俊卿に書を送り、彼が救い止められなかったことを責め、言葉は甚だ切実であった。遂に親を迎えることを理由に帰郷を請い、数日行った後、台州教授に左遷された。掞之が未だ出発していない時、曾覿は都の城門外に既に長くいたが、掞之の去るのを伺い、やっと敢えて入った。掞之が朝廷にいたのは半年にも満たず、帰って後、慨然として嘆いて言った、「上恩はかくも深厚であるのに、我が学は聖意を感悟させるに足らぬ」と。乃ち日々艮齋に居て、旧聞を条理し、未だ至らざる所を求めた。

その家に居ては、喪祭を謹み、礼法を重んじた。従父で南方に客寓している者がおり、千里を隔てて迎え養い、死すれば礼に従って葬り、その孤児を養育した。建州の風俗では子を多く産んでも育てないことが多く、文を書いて戒め、全く生き延びさせた者は甚だ多かった。また官に申し出て、親を葬らない者を監督するよう請い、富める者には期限を与え、貧しい者には財を与え、後継ぎのない者は埋葬させた。毎年飢饉に遇うと、粥を作って飢えた者に食べさせた。後に古の社倉法に依り、官米を請うて民に貸し、冬に至って取り立てて倉に納めさせた。部使者は平素より掞之を敬っており、千余斛の米を提供して貸し与え、歳々収散を常の如く行い、民はこれに頼って救済された。諸郷の社倉は掞之に始まる。

人と交わるに、その善を嘉しその過失を救った。後進で礼を以て来る者があれば、仮に寸長あれば必ず汲々として推挽し成就させた。或いはその名声に近づくことを誹る者があれば、顔を曇らせて言った、「もし人がこの嫌疑を避けるならば、善を行う道は絶えるであろう」と。病が重篤に及んだ時、母が見舞いに来たが、頭巾を付けなければ会おうとしなかった。子に戒めて「僧侶や巫女の俗礼を以て我を汚すなかれ」と言った。書を以て朱熹を召し寄せ、後事を委ねて訣別した。卒す、五十八歳。

後に上はその直諒を思い、召し用いようとしたが、大臣が既に死したと奏上したため、直秘閣を追贈した。朱熹の平素の志は掞之と同じであった。乾道年間、朱熹も召されたが、行こうとして、掞之が国を去ったと聞き、乃ち止めた。

安世通

青城山の道人安世通は、元は西の人である。その父は謀策を有し、武官であったが、数度言を以て当路に干渉して用いられず、遂に自ら酒に沈んで終わった。世通もまた青城山中に隠居して出なかった。

呉曦が反逆すると、乃ち成都の帥楊輔に書を献じて言った、「世通山中に在りて、忽ち関外の変を聞き、覚えず大いに慟哭す。世通方外の人と雖も、而して大人先生も亦た嘗て入道の門を発せり。窃かに以為う、公初めて曦の檄を得るや、即ち当に書を返し、その家世を誦し、忠義を以て激し、官属軍民を聚め、素服して号慟し、これに因りて金を散じ粟を発し、忠義を鼓き集め、剣門を閉じ、夔・梓に檄し、仗義の師を興し、順を以て逆を討たば、誰か従わざらんや?而るに士大夫は皆酒缸飯囊、大義を明らかにせず、尚お少しく屈して以て生霊を保たんと云う、何ぞ其れ軽重を知らざること此の如きや!夫れ君は乃ち父なり、民は乃ち子なり、豈に父を棄てて子を救うの理あらんや?此れ曦一人の叛に非ず、乃ち挙げて蜀の士大夫の叛なり。古に叛民有りて叛官無しと聞く、今曦叛くに及びて士大夫皆手を縮めて以て命を聴く、是れ民を駆りて叛と為すなり。且つ曦叛逆と雖も、猶お忌む所有り、未だ敢えて正朔を建て、士大夫を殺さず、尚お虚文を以て見招す、亦た公の与するや否やを以て民の従違を卜す。今悠悠として決せず、徒らに婦人女子の悲しみと為る、所謂る停囚長智、吾朝廷の失望を恐る。凡そ大事を挙ぐる者は、成敗死生皆当に之を度外に付すべし。区区行年五十二、古人言う、『生くべくして生くるは福なり、死すべくして死するも亦た福なり』と。決して汗面して天を戴き、同じく叛民と為るを忍びず」と。

楊輔は重名有り、蜀中の士大夫多く義挙を勧める者ありしが、而して世通の言は特に切至であった。楊輔決断できず、遂に東して江陵に至り、呉獵に兵を挙げて呉曦を討つよう請うた。未幾、呉曦敗れ、呉獵蜀に使いし、士を推薦するに世通を以て首とした。

卓行

父子に親あり、夫婦に別あり、朋友に信あり、これ天下の共に知りて共に由る所なり。乃ち斯に卓行ある者あり。徐積のその天に於けるや、劉庭式のその室家に於けるや、巢谷のその知己に於けるや、皆常人の難きを行ふ。其の難きを行ひて而も安んずるは、豈に卓ならずや。曾叔卿の欺かざるや、劉永一の苟も取らざるや、皆一事を以て人其の終身を誉む。蓋し其の所有る所あればなり、其れ忽にすべけんや。『卓行傳』を撰す。

劉庭式

劉庭式、字は得之、齊州の人なり。進士に挙げらる。蘇軾密州を守るに、庭式を通判と為す。初め、庭式未だ第せざりし時、郷人の女を娶らんと議し、既に約し、未だ幣を納れず。庭式乃ち及第す。女病を以て明を喪ふ。女家躬耕して貧甚だしく、復た言ふを敢へず。或は其の幼女を納るるを勧む。庭式笑ひて曰く、「吾が心已に之を許せり。豈に吾が初心に負くべけんや」と。卒に之を娶る。数子を生む。後死す。庭式之を喪ふこと年を踰え、復た娶るを肯はざりき。軾之を問ひて曰く、「哀は愛より生じ、愛は色より生ず。今君の愛は何よりか生じ、哀は何よりか出づる」と。庭式曰く、「吾は吾が妻を喪ふを知るのみ。吾若し色に縁りて愛を生じ、愛に縁りて哀を生ぜば、色衰へ愛弛み、吾が哀も亦忘れん。則ち凡そ袂を揚げ市に倚り、目挑みて心招く者は、皆以て妻と為すべけんや」と。軾其の言を深く感ず。庭式後太平観を監し、廬山に老ゆ。粒を絶ちて食はず。目奕奕として紫光有り、峻坂を上下するに歩み飛ぶが如し。高寿を以て終る。

巢谷

巢谷、初め名は穀、字は元修、眉州眉山の人なり。父中、谷其の学を傳ふ。樸なれども博し。京師にて進士に挙げらる。谷素より力多く、武芸を挙ぐる者を見て心に之を好み、遂に其の旧学を棄て、弓箭を蓄へ、騎射を習ふ。久しくして業成れども第せず。西辺にぎょう勇多きを聞き、四方の冠たるを為すと。去りて秦鳳・涇原の間を遊ぶ。至る所其の秀桀と友とし、韓存寶と尤も相善くし、之に兵書を教ふ。

熙寧中、存寶河州の将と為り、功有り、熙河の名将と號す。會す滬州蠻の乞弟辺を擾すに、諸郡制すること能はず。存寶を命じて兵を出だし之を討たしむ。存寶蠻事に習はず、谷を邀へて軍中に至らしめ焉を問ふ。及て存寶罪を得、将に逮はらんとす。自ら度るに必ず死すべし。谷に謂ひて曰く、「我涇原の武夫、死は惜しむに足らず。顧みるに妻子寒餓を免れず。橐中に銀数百両有り。君に非ざれば使ひて之を遺すべき者莫し」と。谷諾す。即ち姓名を變じ、銀を懷きて歩往きて其の子に授く。人知る者無し。存寶死し、谷江・淮の間に逃避す。赦に會して乃ち出づ。

蘇軾黄州に謫せらる。谷と同郷にし、幼くして之を知る。因りて之と遊ぶ。及て軾と弟轍朝に在るに、谷里中に浮沈し、未だ嘗て一たび來り相見ること無し。紹聖初、軾・轍嶺海に謫せらる。平生の親旧復た相聞ふる者無し。谷獨り慨然として眉山より自ら誦言し、徒歩にて両蘇を訪はんと欲す。聞く者皆其の狂を笑ふ。

元符二年、谷竟に往く。梅州に至りて轍に書を遺して曰く、「我万里を步行して公に見ゆ。自ら全からんことを意ひず。今梅に至れり。旬日を出でず必ず見ん。死すとも恨み無し」と。轍驚喜して曰く、「此れ今世の人に非ず、古の人なり」と。既に見て、手を握りて相泣き、已にして平生を道ふ。月を踰えて厭はず。時に穀年七十三、瘦瘠多く病み、将に復た軾を海南に見んとす。轍愍みて之を止めて曰く、「君の意は則ち善し。然れども儋に循るまで数千里、當に復た海を渡るべし。老人の事に非ず」と。谷曰く、「我自ら視るに未だ即ち死せず。公我を止むること無かれ」と。其の橐中を閲するに数千錢無し。轍方に困乏す。亦強ひて資して之を遣る。舟行して新會に至る。蠻隷其の橐裝を竊ひて逃ぐる有り。新州に於て獲らる。谷之に從ひて新に至り、遂に病死す。轍聞き、之を哭して声を失ひ、己が言を用ひずして死に致すを恨み、又其の己が言を用ひずして其の志を行ふを奇とす。

徐積

徐積、字は仲車、楚州山陽の人なり。孝行天稟より出づ。三歳にして父死す。旦旦に之を求めて甚だ哀しむ。母『孝経』を読ましむれば、輒ち淚落ちて止むこと能はず。母に事ふること至孝にし、朝夕冠帶して定省す。胡翼之に從ひて学ぶ。居る所一室、寒に一衲裘、菽を啜り水を飲む。翼之食を以て饋るも、受けず。

応挙して都に入る。其の親を捨つるに忍びず、徒に載せて西す。進士第に登る。挙首の許安國同年生を率ひ入り拜し、且つ百金を致して寿と為すも、謝して卻る。父の名「石」を以て終身石器を用ひず、行くに石に遇へば則ち避けて踐まず。或は之を問ふ。積曰く、「吾之に遇へば則ち怵然として吾が心を傷み、吾が親を思ふ。故に忍びて足を其の上に加ふること能はず爾」と。母亡び、水漿口に入ること七日有り、悲慟して血を嘔す。墓に廬すること三年、苫に臥し塊を枕し、衰絰體を去らず。雪夜墓側に伏し、哭して音を絶たず。翰林學士の呂溱其の廬を過ぎ適ひ之を聞き、泣下して曰く、「鬼神知有らば、亦涕を垂るべし」と。甘露歳ごとに兆域に降り、杏兩枝合はせて幹と為る。既に喪を終へて、筵几を徹さず、起居饋獻平生の如し。

中年に聵疾有り、窮里に屏處すれども、四方の事知らざる無し。客南越より來る。積之と論じて嶺表の山川の險易・鎮戍の疏密を、口に誦し手に畫き、一二を數ふるが若し。客歎じて曰く、「戸を出でずして天下を知るは、徐公是れなり」と。少より老に及び、日ごとに一詩を作り、文を為すに率ね腹稿を用ひ、口占して其の子に授く。嘗て人の書策を借る。一宿を經て之を還す。借る者紿ひて言ふ、中に金葉有りと。積謝して辨ぜず、衣を賣りて之を償ふ。郷人爭訟有れば、多く就きて決を取る。州行ひを以て聞こゆ。詔して粟帛を賜ふ。

元祐初、近臣合ひて言ふ、「積親を養ふに孝を以て著しく、郷に居るに廉を以て稱せらる。道義文學、東南に顯る。今年五十を過ぎ、耳疾を以て出仕すること能はず。朝廷方に中外の學官を挙ぐるを詔す。積の賢の如きは、宜しく表する所に在るべし」と。乃ち揚州司戸參軍を以て楚州教授と為す。每たび堂に升り、諸生を訓ひて曰く、「諸君君子たらんと欲して、己が力を勞し、己が財を費し、此くの如くにして而も為さざるは、猶ほ之れ可なり。己が力を勞せず、己が財を費さず、何ぞ君子たらざる。郷人之を賤しみ、父母之を惡む、此くの如くにして而も為さざるは、可なり。郷人之を榮しみ、父母之を欲す、何ぞ君子たらざる」と。又曰く、「其の善きを言ひ、其の善きを行ひ、其の善きを思ふ、此くの如くにして而も君子ならざる者は、未だ之有らざるなり。其の善からざるを言ひ、其の善からざるを行ひ、其の善からざるを思ふ、此くの如くにして而も小人ならざる者は、未だ之有らざるなり」と。之を聞く者衽を斂めて敬聽す。

数歳居る。使者又交はりて之を薦む。和州防禦推官に轉じ、宣德郎に改め、中嶽廟を監す。卒す。年七十六。政和六年、諡「節孝處士」を賜ひ、其の一子を官す。

曾叔卿

曾叔卿は、建昌軍南豊県の人、曾鞏の族兄である。家は貧苦に耐え、心に欺かざるを存す。嘗て西江の陶器を買い、北方に貿易せんと欲し、既にして果たして行かず。之に従いて転売せんとする者あり、之に与う。既に代価を受けし後、何くにか将に行かんとするやと問う。其の人曰く、「君が前の策を效はんと欲するのみ」と。叔卿曰く、「不可なり。吾聞く、北方新たに災饉有り、此の物は必ず時に泄らさず、故に行はざるなり。余豈に告げずして子を誤るべけんや」と。其の人即ち銭を取り去る。郷に居りて介潔にして、受くべからざる所は、一介も取らず。妻子は飢寒に困すれども、孤煢を拊庇して、唯其の意を失はんことを恐る。進士より起家し、著作佐郎に至る。熙寧年中、卒す。

劉永一

劉永一は、陝州夏県の人。孝友廉謹なり。熙寧初年、巫咸水溢れて県城に入り、民多く溺死す。永一は竿を持ちて門前に立ち、他人の物の流入するを見れば輒ち之を擿出す。僧有りて数万銭を其の室に寓す、無何にして僧死す。永一は県に詣りて自ら言ひ、請ふに銭を以て其の弟子に帰さしむ。郷人の負債して償はざる者あれば、立って其の券を焚く。行事此の類の如し。兄大為は、医助教なり。親の喪に居りて、酒を飲み肉を食はず、三年を終ふ。司馬光之を伝へ、以て今の士大夫の難くする所と為す。