宋史

列傳第二百十七 隱逸中 王樵 張愈 黃晞 周啓明 代淵 陳烈 孫侔 劉易 姜潛 連庶 章詧 兪汝尚 陽孝本 鄧考甫 宇文之邵 呉瑛 松江漁翁 杜生 順昌山人 南安翁 張𡒊

列傳第二百十七 隱逸中 王樵 張愈 黃晞 周啓明 代淵 陳烈 孫侔 劉易 姜潛 連庶 章詧 兪汝尚 陽孝本 鄧考甫 宇文之邵 呉瑛 松江漁翁 杜生 順昌山人 南安翁 張𡒊

王樵

原文王樵

王樵、字は肩望、淄州淄川の人。県北の梓桐山に住む。群書に博通し、章句を治めず、特に『易』を考究することを善くす。賈同・李冠と斉名し、学者多くこれに従う。

原文王樵,字肩望,淄州淄川人。居縣北梓桐山。博通群書,不治章句,尤善考《易》。與賈同、李冠齊名,學者多從之。

咸平年中、契丹の遊騎が河を渡り、挙家掠かれる。樵は直ちに妻を棄て、身を挺して契丹に入り父母を訪うるも、累年獲ず、東山に還る。木を刻み招魂して以て葬り、祠を立て像を画き、これを事うること生けるが如くし、喪に服すること六年、哀しみ行路を動かす。また属の尊者が為に次第に喪服を成し、北に向かって歎じて曰く「身世かくの如し、人に比すべきか」と。ここにおいて俗と絶ち、自ら「贅世翁」と称し、ただ兵を論じ剣を撃つことを以て事とす。一驢に装を負わせ、徒歩千里。晚年しばしば塞下に遊び、策を画きて何承矩・耿望に干し、遼を滅ぼし讐を復せんことを求むるも、用いられず。ここにおいて城の東南隅に塼を累ねて自ら環らしめ、これを「繭室」と謂う。その門に銘して曰く「天は王樵を生み、薄命にして寡智、材は時に済わず、道号は『贅世』。生けるを以て室と為し、以て不虞に備え、死すれば則ち形を蔵し、不虞乃ち備わる」と。病革、室に入り戸を自ら掩いて卒す。

原文咸平中,契丹遊騎度河,舉家被掠。樵即棄妻,挺身入契丹訪父母,累年不獲,還東山。刻木招魂以葬,立祠畫像,事之如生,服喪六年,哀動行路。又為屬之尊者次第成服,北望歎曰:「身世如此,自比於人可乎?」遂與俗絕,自稱「贅世翁」,唯以論兵擊劍為事。一驢負裝,徒步千里。晚年屢遊塞下,畫策干何承矩、耿望,求滅遼復讐,不用。乃於城東南隅累磚自環,謂之「繭室」。銘其門曰:「天生王樵,薄命寡智,材不濟時,道號『贅世』。生而為室,以備不虞,死則藏形,不虞乃備。」病革,入室自掩戶卒。

治平末、職方郎中向宗道淄州を知り、繭室を訪うるも、既に屋を構えて民居と為す。樵の甥牟氏の子を得て、乃ち改葬せしことを知る。ここにおいてその地に因り即ち復た繭室及び祠堂を作り、石を刻みてこれを記す。

原文治平末,職方郎中向宗道知淄州,訪繭室,已構屋為民居。得樵甥牟氏子,乃知改葬。因而即其地復作繭室及祠堂,刻石以記之。

張愈

原文張愈

張愈、字は少愚、益州郫の人、その先は河東より徙る。愈は雋偉にして大志有り、四方に遊学し、屡挙して第せず。宝元初、上書して辺事を言い、契丹に使わしめ、外夷をして相攻たしめ、以て中国の勢いを完うせんことを請う、その論甚だ壮なり。使者の薦を用い、試みに秘書省校書郎を除すも、願わくは以て父顕忠に授けて家に隠れんとす。文彦博蜀しょくを治め、青城山白雲溪の杜光庭故居を置きて以てこれを処す。内艱に遭い、塩酪口に入れず。再朞、持する所の柳杖を墓に植うるに、忽ち枝葉を生じ、後ち合抱す。六たび召すも応ぜず。奕棋を喜ぶ。山水を楽しみ、興有るに遇えば、数千里と雖も輒ち尽く室を挙げて往く。ここにおいて湘・沅に浮かび、浙江を観、羅浮に昇り、九疑に入り、石を買い鶴を載せて帰る。門を杜して書を著すも、未だ就わずして卒す。

原文張愈,字少愚,益州郫人,其先自河東徙。愈雋偉有大志,遊學四方,屢舉不第。寶元初,上書言邊事,請使契丹,令外夷相攻,以完中國之勢,其論甚壯。用使者薦,除試祕書省校書郎,願以授父顯忠而隱於家。文彥博治蜀,為置青城山白雲溪杜光庭故居以處之。丁內艱,鹽酪不入口。再朞,植所持柳杖於墓,忽生枝葉,後合抱。六召不應。喜奕棋。樂山水,遇有興,雖數千里輒盡室往。遂浮湘、沅,觀浙江,升羅浮,入九疑,買石載鶴以歸。杜門著書,未就,卒。

妻蒲氏、名は芝、賢にして文有り、これが為に誄して曰く「往古を高視すれば、哲士実に殷なり、秦・漢に施せられ、余烈氛氳たり。挺いて英傑を生み、卓爾として群を逸す、孰か今世に謂えん、亦た其の人ありと。其の人伊何、白雲の隠君。嘗て曰く丈夫、世に趨くも偶わず、仕えるは其の志に非ず、禄は苟もしくすべからず、営営たる末途、吾が守る所に非ず。吾が生は涯有り、少くして実に多艱、窮も亦た自ら固く、困も亦た顛せず。人爵を貴ばず、命を知り天を楽しみ、簪を脱ぎ髪を散らし、雲に眠り泉を聴く。峰千仞有り、溪数曲有り、広成の遺趾、呉興の高躅。石を疏きて逕を通し、林に依りて屋を架す、麋鹿と群を同じくし、昼は遊び夜は息う。嶺月雲を破り、秋霖竹に灑ぐ、清意何ぞ窮まらん、真心自ずから得たり、言を放ち慮を遺し、何ぞ栄え何ぞ辱か。孟春疾を感じ、戸を閉ざして出でず、豈に期せんや遂に往かんとは、英標永く隔たる。詞を抒べて哽噎し、涕を揮いて汍瀾たり、人誰か死無からん、惜しいかな材賢。已んぬるかな吾が人、嗚呼哀しいかな」と。

原文妻蒲氏名芝,賢而有文,為之誄曰:「高視往古,哲士實殷,施及秦、漢,餘烈氛氳。挺生英傑,卓爾逸群,孰謂今世,亦有其人。其人伊何?白雲隱君。嘗曰丈夫,趨世不偶,仕非其志,祿不可苟,營營末途,非吾所守。吾生有涯,少實多艱,窮亦自固,困亦不顛。不貴人爵,知命樂天,脫簪散髮,眠雲聽泉。有峰千仞,有溪數曲,廣成遺趾,吳興高躅。疏石通逕,依林架屋,麋鹿同群,晝遊夜息。嶺月破雲,秋霖灑竹,清意何窮,真心自得,放言遺慮,何榮何辱?孟春感疾,閉戶不出,豈期遂往,英標永隔。抒詞哽噎,揮涕汍瀾,人誰無死,惜乎材賢。已矣吾人,嗚呼哀哉!」

黄晞

原文黃晞

黄晞、字は景微、建安の人。少にして経に通じ、書数千巻を聚め、学者多くこれに遊ぶ、自ら「聱隅子」と号す。『歔欷瑣微論』十巻を著し、以て聱隅は枿物の名、歔欷は歎声、瑣微は辞を述ぶるなりと謂う。石介太学に在り、諸生を遣わして礼を以て聘召すれども、晞は走り匿れて隣家に出でず。枢密使韓琦表してこれを薦め、以て太学助教致仕と為す。命を受くる一夕にして卒す。

原文黃晞,字景微,建安人。少通經,聚書數千卷,學者多從之遊,自號「聱隅子」。著《歔欷瑣微論》十卷,以謂聱隅者枿物之名,歔欷者歎聲,瑣微者述辭也。石介在太學,遣諸生以禮聘召,晞走匿鄰家不出。樞密使韓琦表薦之,以為太學助教致仕。受命一夕卒。

周啓明

原文周啟明

周啓明、字は昭回、その先は金陵の人、後に籍を処州に占む。初め書を以て翰林学士楊億に謁す、億は携えて同列に示す、大いに歎賞を見、ここより知名と為る。四たび進士に挙げられ皆第一。景德中、賢良方正科に挙げらる、既に召さるるも、会に泰山を東封す、言者この科は本災異に因り直言を訪うるに在り、太平の事に非ずと謂い、ここにおいて罷むるを報ず。ここにおいて帰り、弟子百余人を教え、復た仕進の意有ることなく、里人処士と称す。転運使陳堯佐その行義を朝に表し、粟帛を賜う。仁宗即位し、試みに助教を除し、就いて廩給を加う。久しくして、特たび秘書省秘書郎に遷す。太常丞に改め、卒す。啓明は学に篤く、書数千巻を蔵し、多く手自ら伝写し、而して能く口これを誦す。古律詩・賦・牋・啓・雑文千六百余篇有り。

原文周啟明,字昭回,其先金陵人,後占籍處州。初以書謁翰林學士楊億,億攜以示同列,大見歎賞,自是知名。四舉進士皆第一。景德中,舉賢良方正科,既召,會東封泰山,言者謂此科本因災異訪直言,非太平事,遂報罷。於是歸,教弟子百餘人,不復有仕進意,里人稱為處士。轉運使陳堯佐表其行義於朝,賜粟帛。仁宗即位,除試助教,就加廩給。久之,特遷祕書省祕書郎。改太常丞,卒。啟明篤學,藏書數千卷,多手自傳寫,而能口誦之。有古律詩、賦、牋、啟、雜文千六百餘篇。

代淵

原文代淵

代淵、字は蘊之、本は代州の人。唐末、導江に地を避け、家世吏を為し、陰徳有り。淵は性簡潔、親に事うるに孝を以て聞こゆ。李畋・張達に学を受く。年四十、郷人更に勧め、進士甲科に挙げられ、清水主簿を得る。歎じて曰く「禄親に及ばず、何を為さんや」と。家に還り教授し、座席常に満つ。安撫使鳳州団練推官を挙ぐるも、就かず。益州を知る楊日嚴またこれを薦む、ここにおいて太子中允を以て致仕す。諸生を謝絶し、『周易旨要』・『老仏雑説』数十篇を著す。田況その書を上す、太常丞より祠部員外郎に改む。晚年日菜食し、巾褐山水の間、自ら「虚一子」と号す。長吏歳時に致問すれども、澹然として対し、略私に及ばず。嘉祐二年九月、疾有り、術士を召して日を択ばしむ、云く「丙申吉」と、頷く、この日沐浴して絶ゆ。

原文代淵,字蘊之,本代州人。唐末,避地導江,家世為吏,有陰德。淵性簡潔,事親以孝聞。受學於李畋、張達。年四十,鄉人更勸,舉進士甲科,得清水主簿。歎曰:「祿不及親,何所為耶?」還家教授,坐席常滿。安撫使舉鳳州團練推官,不就。知益州楊日嚴又薦之,遂以太子中允致仕。謝絕諸生,著《周易旨要》、《老佛雜說》數十篇。田況上其書,自太常丞改祠部員外郎。晚年日菜食,巾褐山水間,自號「虛一子」。長吏歲時致問,澹然與對,略不及私。嘉祐二年九月,有疾,召術士擇日,云「丙申吉」,頷之,是日沐浴而絕。

陳烈

原文陳烈

陳烈、字は季慈、福州候官の人なり。性は介僻にして、孝友に篤し。親の喪に居り、勺飲口に入れず五日、壮より老に至るまで、奉事すること生けるが如し。学行端飭にして、動き古礼に遵い、平居終日言わず、童僕を御すること賓客に対するが如し。里中の人これ敬い、冠婚喪祭、請うて後に行う。従学する者常に数百。賢父兄子弟を訓うるに、必ず烈の言行を挙げて以て示す。

原文陳烈,字季慈,福州候官人。性介僻,篤於孝友。居親喪,勺飲不入於口五日,自壯及老,奉事如生。學行端飭,動遵古禮,平居終日不言,御童僕如對賓客。里中人敬之,冠昏喪祭,請而後行。從學者常數百。賢父兄訓子弟,必舉烈言行以示之。

嘗て郷薦を以て京師に試みて利あらず、即ち挙を罷む。或いはこれを勉めて仕を求めしむれば、則ち曰く、「伊尹道を守り、成湯三たび幣を以て聘す。呂望既に老い、文王これを載せて俱に帰る。今天子仁聖にして賢を好み、湯・文の心あり、豈に先覚伊・呂の如き者無からんや」と。仁宗屡詔すも、起たず。人その故を問えば、応えて曰く、「吾が学未だ成らず」と。公卿大夫・郡守・郷老章を交えてその賢を称す。嘉祐中、本州教授と為すべしとし、欧陽修またこれを言い、召して国子直講と為すも、皆拝せず。

原文嘗以鄉薦試京師不利,即罷舉。或勉之求仕,則曰:「伊尹守道,成湯三聘以幣;呂望既老,文王載之俱歸。今天子仁聖好賢,有湯、文之心,豈無先覺如伊、呂者乎?」仁宗屢詔之,不起。人問其故,應曰:「吾學未成也。」公卿大夫、郡守、鄉老交章稱其賢。嘉祐中,以為本州教授,歐陽修又言之,召為國子直講,皆不拜。

已にして福建提刑王陶その妻林氏に訟えられしを言い、因って烈を詆して貪詐とし、受くる所の恩を奪わんことを乞う。司馬光諫官たり、率いて同列を争いて曰く、「臣等毎に士の名檢無きを患う、故に烈を挙げて風俗を厲す。烈平生の操守、誠実より出づ。迂闊にして中道に合わざる有りと雖も、猶お節を守るの士たり、保ちてこれを全うすべし。夫婦相諧わざるは、則ち離絶を聴くも、節行の士を横辱の挫かしむる毋からん」と。陶の説遂に行われず。

原文已而福建提刑王陶言其為妻林氏所訟,因詆烈貪詐,乞奪所受恩。司馬光為諫官,率同列爭曰:「臣等每患士無名檢,故舉烈以厲風俗。烈平生操守,出於誠實,雖有迂闊不合中道,猶為守節之士,當保而全之。若夫婦不相諧,則聽之離絕,毋使節行之士為橫辱所挫。」陶說遂不行。

元祐初、部使者申してこれを薦ぐ。詔してその尚に従い、宣徳郎を以て致仕す。明年、復た本州を教授す。職に在りて廩奉を受けず、郷里問遺の絲毫も受けず。家租余有れば、則ち推して以て貧乏を済す。卒す、年七十六。

原文元祐初,部使者申薦之,詔從其尚,以宣德郎致仕。明年,復教授本州。在職不受廩奉,鄉里問遺絲毫無所受;家租有餘,則推以濟貧乏。卒,年七十六。

孫侔

原文孫侔

孫侔、字は少述、王安石・曾鞏と遊び、名一時に傾く。早く孤となり、母に事えて孝を尽くす。禄養を志す、故に屡進士を挙ぐ。母の病革まるに及び、自ら誓いて終身仕を求めず。客として江・淮の間に居り、士大夫これ敬畏す。

原文孫侔,字少述,與王安石、曾鞏遊,名傾一時。早孤,事母盡孝。志於祿養,故屢舉進士。及母病革,自誓終身不求仕。客居江、淮間,士大夫敬畏之。

劉敞揚州を知り、その孝弟忠信、世を扶け俗を矯うるに足り、朝廷にこれを求めば、呂公著・王安石の流なりと言う。詔して揚州教授と為すべしとすも、辞す。敞永興を守り、幕府に辟くも、また辞す。英宗の時、沈遘及び王陶・韓維連ねてこれを薦ぐ。忠武軍推官・常州推官を授くるも、皆赴かず。

原文劉敞知揚州,言其孝弟忠信,足以扶世矯俗,求之朝廷,呂公著、王安石之流也。詔以為揚州教授,辭。敞守永興,辟入幕府,亦辭。英宗時,沈遘及王陶、韓維連薦之,授忠武軍推官、常州推官,皆不赴。

少くして安石と善し。安石相と為り、真州を過ぎて相見ゆ。侔これを待すること布衣の交の如し。卒す、年六十六。

原文少與安石友善,安石為相,過真州與相見,侔待之如布衣交。卒,年六十六。

初め、王回・王令・常秩と侔は皆盛名有り。回・令は寿せず、秩は隠して竟わず、唯だ侔は仕えざるを以て始終す。

原文初,王回、王令、常秩與侔皆有盛名,回、令不壽,秩為隱不竟,唯侔以不仕始終。

劉易

原文劉易

劉易、忻州の人。性は介烈にして、博学古を好み、兵を談ずるを喜ぶ。韓琦定州を知り、その著す所の『春秋論』を上る。太学助教・并へい州州学説書を授く。志を屈して仕進する能わず、虢の盧氏に寓居し、辟穀術を習う。趙抃復たその行誼を薦ぐ。号を「退安処士」と賜う。易詩を作れば、琦毎にこれを石に書す。或いはその意に可からざれば輒ち滌い去り、琦もまたこれを再書す。尹洙渭に帥し、延致して尊礼す。狄青洙に代わり、これ遇すること亦厚し。治平末、卒す。琦文を作りてこれを祭りて云く、「剛介の性、天下能く合する者幾何ぞ。淵源の学、古人到らざる者甚だ多し」と。そのこれを敬すること此の如し。熙寧戸役を察訪定む。詔して易の家に処士を用うること七品の恩の如くし、半減を得しむ。優礼を示すと云う。

原文劉易,忻州人。性介烈,博學好古,喜談兵。韓琦知定州,上其所著《春秋論》,授太學助教、并州州學說書。不能屈志仕進,寓居於虢之盧氏,習辟穀術。趙抃復薦其行誼,賜號「退安處士」。易作詩,琦每為書之石,或不可其意輒滌去,琦亦再書之。尹洙帥渭,延致尊禮,狄青代洙,遇之亦厚。治平末,卒,琦作文祭之云:「剛介之性,天下能合者有幾?淵源之學,古人不到者甚多。」其敬之如此。熙寧察訪定戶役,詔易家用處士如七品恩,得減半,示優禮云。

姜潜

原文姜潛

姜潜、字は至之、兗州奉符の人。孫復に従い『春秋』を学ぶ。田況の挙を用い、召して学士院に試み、明州録事参軍と為る。母の郷を思うを以て致仕を求め、勅門下を過ぐ。封駁司を知る呉奎これを封還し、而して韓絳と共に章を上りて以て薦ぐ。兗州録事参軍に徙す。奎に従い鄆州教授に辟く。奎堂に升りてその母を拝し、また薦めて国子直講・韓王宮伴読と為す。宗正允弼に謁す。吏趨庭を引くも、潜答えず、馬を呼びて去らんと欲す。遂に客礼を以て見ゆ。

原文姜潛,字至之,兗州奉符人。從孫復學《春秋》。用田況舉,召試學士院,為明州錄事參軍。以母思鄉求致仕,敕過門下,知封駁司吳奎封還之,而與韓絳共上章以薦,徙兗州錄事參軍。從奎辟鄆州教授,奎升堂拜其母,又薦為國子直講、韓王宮伴讀。謁宗正允弼,吏引趨庭,潛不答,呼馬欲去,遂以客禮見。

熙寧初、詔して選人の淹滞する者を挙げて京官と為すこと凡そ三十七人、潜選中に在り。神宗その賢を聞き、召して延和殿に対し、治道何を以てこれを致すかを訪う。対えて曰く、「『堯』・『舜』の二『典』在り、顧みるに陛下のこれを致すの道如何」と。陳留県を知る。数箇月に至り、青苗令下る。潜錢を出し、その令を県門に榜す。已にしてこれを郷落に徙し、各三日応ずる者無し。遂に榜を撤し吏に付して曰く、「民願わざるなり」と。錢は是を以て独り散ぜずを得。司農・開封潜の沮格を疑い、各その属を使わして来りて験す。皆令の如し。而して条例司祥符の青苗錢を住散するを劾す。潜知る且つ免れざるを、疾を移して去る。県人府に詣りてこれを留めんことを請うも、得ず。家居して卒す、年六十六。

原文熙寧初,詔舉選人淹滯者與京官凡三十七人,潛在選中。神宗聞其賢,召對延和殿,訪以治道何以致之,對曰:「有《堯》、《舜》二《典》在,顧陛下致之之道何如。」知陳留縣,至數月,青苗令下,潛出錢,榜其令於縣門,已,徙之鄉落,各三日無應者。遂撤榜付吏曰:「民不願矣!」錢以是獨得不散。司農、開封疑潛沮格,各使其屬來驗,皆如令。而條例司劾祥符住散青苗錢,潛知且不免,移疾去,縣人詣府請留之,不得。家居卒,年六十六。

連庶、

原文連庶

連庶は字を居錫といい、安州応山の人である。進士に挙げられ、商水尉・寿春令に任じられた。学を興し礼を尊び、優れた民を励ましてその風俗を勧め、淮水に臨む田地千頃を開き、県は大いに治まった。淮南王の旧塁が山中にあったが、大水があったとき、州の長官がその塼を取って城とすることを議した。庶は言った、「弓矢や舞衣は百世に伝えられ、王府に蔵されるが、必ず用いるべきものというわけではなく、古の物が今に伝えられ、なお典刑があるからである」と。塁はこのために存することができた。母が老いたので陳州税監を請うた。かつて客を送って北門を出ると、日が西に傾き風塵が立ち、冠蓋がひっきりなしに行き交うのを見て、慨然として感ずるところがあり、即日に分司を求めて帰った。久しくして、翰林学士欧陽修・龍図閣直学士祖無擇が庶の文学と行義を言上し、台閣にいるべきであるとした。崑山県知県に任ぜられたが、辞して行かなかった。累遷して職方員外郎となり、卒した。

原文連庶,字居錫,安州應山人。舉進士,調商水尉、壽春令。興學尊禮,秀民以勸其俗;開瀕淮田千頃,縣大治。淮南王舊壘在山間,會大水,州守議取其甓為城,庶曰:「弓矢舞衣傳百世,藏於王府,非為必可用,蓋以古之物傳於今,尚有典刑也。」壘因是得存。以母老乞監陳州稅。嘗送客出北門,見日西風塵,而冠蓋憧憧不已,慨然有感,即日求分司歸。久之,翰林學士歐陽修、龍圖閣直學士祖無擇言庶文學行義,宜在臺閣。以知崑山縣,辭不行。累遷職方員外郎,卒。

庶は初め弟の庠と郷里におり、当時宋郊兄弟・欧陽修らが皆これに依った。二宋が貴顕に達すると、その志に合わず、二十年間退居した。道を守り修養を好み、その人にあらざれば交わらず、その義にあらざれば秋毫も汚すべからざるものであった。庶が死んだ後、宋郊の孫の義年が応山令となり、邑人の意に沿って、法興僧舎に堂を作り、二宋および庶・庠の像を描いてこれを祠った。庠もまた科第に登り、政事に敏で、良吏と号され、都官郎中で終わった。

原文庶始與弟庠在鄉里,時宋郊兄弟、歐陽修皆依之。及二宋貴達,不可其志,退居二十年。守道好修,非其人不交,非其義秋毫不可汙也。庶既死,宋郊之孫義年為應山令,緣邑人之意,作堂於法興僧舍,繪二宋及庶、庠之像祠事之。庠亦登科,敏於政事,號良吏,終都官郎中。

章詧、

原文章詧

章詧は字を隠之といい、成都双流の人である。幼くして孤となり、兄嫂に育てられ、父母に仕えるようにこれに仕えた。経学に博通し、特に『易』・『太玄』に長じ、『発隠』三篇を著し、蓍を用いて道を求める法を明らかにし、数をもって道の用いを寓し、三摹九拠の終始の変を知った。蜀の守の蒋堂・楊察・張方平・何郯・趙抃ら皆逸民として推薦し、一度は粟帛を賜り、再び州助教に命じられたが、就かなかった。嘉祐年間、「沖退処士」の号を賜った。王素が当時州にいたため、その住む郷を「処士郷」、里を「通儒里」、坊を「沖退坊」と改めた。詧はこれによってますます道をもって自らを豊かにし、生を尊び気を養い、憂喜・是非もまたその心身を撓ませることはなかった。

原文章詧,字隱之,成都雙流人。少孤,鞠於兄嫂,以所事父母事之。博通經學,尤長《易》、《太玄》,著《發隱》三篇,明用蓍索道之法,知以數寓道之用、三摹九據始終之變。蜀守蔣堂、楊察、張方平、何郯、趙抃咸以逸民薦,一賜粟帛,再命州助教,不就。嘉祐中,賜號「沖退處士」。王素時為州,因更其所居之鄉曰「處士」,里曰「通儒」,坊曰「沖退」。詧由是益以道自裕,尊生養氣,憂喜、是非亦不以撓其心形。

かつて里人の范百祿を訪ねて言った、「私は辟穀二十余年、今なお体力十分である。あなたもまた気をもって疾を治する説を知っているか」と。百祿はこれに従って『太玄』を叩き、詧はその大旨を解き述べ、さらに『攡』の詞を繰り返して言った、「『人の好んで足らざるものは善なり、醜じて余りあるものは悪なり。君子はその足らざる所を強くし、その余りある所を払う、『太玄』の道これに近し』。これが子雲の仁義の心である。私が『太玄』について述べるのは、これだけである。もしその思惟を苦しめ、その言を艱しくし、その数たる所以に迂溺してその仁義の大を忘れるならば、これどうして道を語るに足りようか」と。熙寧元年、卒した。七十六歳。子の禩もまた古学を好み、かつて行義敦遣の詔に応じた。代々隠徳があり、その住居はなお存した。

原文嘗訪里人范百祿,謂曰:「子辟穀二十餘年,今強力尚足,子亦嘗知以氣治疾之說乎?」百祿因從扣《太玄》,詧為解述大旨,再復《攡》詞曰:「『人之所好而不足者,善也;所醜而有餘者,惡也。君子能強其所不足,而拂其所有餘,《太玄》之道幾矣。』此子雲仁義之心,予之於《太玄》也,述斯而已。若苦其思,艱其言,迂溺其所以為數而忘其仁義之大,是惡足以語夫道哉?」熙寧元年,卒,年七十六。子禩,亦好古學,嘗應行義敦遣詔。仍世有隱德,其所居猶存。

俞汝尚、

原文俞汝尚

俞汝尚は字を退翁といい、湖州烏程の人である。若い時、鄣南の崑山で読書した。人となり温温として礼があり、議論は苟しくない。意に合わなければ、言わざるところあり、言うときは妄りにしたことがない。生計を整えることを好まず、貧乏をもってその懐を撓ませず、勢利に淡泊であった。人の善言善行を聞けば、忘れずに記し、時々人のためにこれを語った。進士第に擢でられ、州県を歴任したが、少しも進取の心を営まなかった。かつて導江県を知り、新繁令が卒したとき、使者がその欠員を継がせようとし、公田をもって資そうとしたが、辞した。許されず、赴任するとすべて旧令の家を周済した。熙寧初年、簽書剣南西川判官となった。趙抃が蜀を守り、簡静をもって治め、毎朝退いて便斎に坐すると、諸吏は敢えて至らなかったが、ただ汝尚が来ると、いつも扉を押し開けて直ちに入り、相対して清談して暮れに至った。

原文俞汝尚,字退翁,湖州烏程人。少時讀書於鄣南之崑山。為人溫溫有禮,議論不苟。不可於意,有所不言,言之未嘗妄也。不肯料理生事,不以貧乏撓其懷,澹於勢利。聞人善言善行,記之不忘,時時為人道之。擢進士第,涉歷州縣,無少營進取之心。嘗知導江縣,新繁令卒,使者使承其乏,將資以公田,辭,不許,至則悉以周舊令之家。熙寧初,簽書劍南西川判官。趙抃守蜀,以簡靜為治,每旦退坐便齋,諸吏莫敢至,唯汝尚來,輒排闥徑入,相對清談竟暮。

王安石が国政を執ると、一時の故老が己と同ぜざることを患え、ある者が汝尚の清望を言い、御史に置き、順次弾撃させるべきであるとした。駅伝で召し出して京師に詣でさせ、推薦された意図を知ると、力辞し、上章を再びして免れることができた。親故の中に子孫のために地歩を作れなかったと責める者がいたが、汝尚は笑って言った、「これこそがその地歩を作ることなのである」と。家に帰って貧苦に悩んだが、禄をもって養うことを忘れることができなかった。また趙抃に従って青州に赴き、ついに屯田郎中で致仕した。蘇軾・蘇轍・孫覚・李常ら皆詩文を賦してこれを歎美した。

原文王安石當國,患一時故老不同己,或言汝尚清望,可置之御史,使以次彈擊。驛召詣京師,既知所以薦用意,力辭,章再上得免。親故有責以不能與子孫為地者,汝尚笑曰:「是乃所以為其地也。」還家苦貧,未能忘祿養。又從趙抃於青州,遂以屯田郎中致仕。蘇軾、蘇轍、孫覺、李常皆賦詩文歎美之。

優遊すること数年、六月の暑さが厳しくなり、寝室に居ることができず、門の外に舎した。妻の黄がこれを見に来ると、汝尚は言った、「人生七十は稀なり、我と夫人は皆これを過ぎた。行くことができる」と。妻は応えて言った、「それならば私が先に行こう」と。三日後に卒した。汝尚はその喪を整え、銘を作り、諸子を召して告げて言った、「我もまたこれより逝く」と。机によりかかって終わり、相去ることわずか十日であった。孫の侔は、紹興年間に敷文閣直学士となった。

原文優遊數年,當六月徂暑,寢室不可居,出舍於門,妻黃就視之,汝尚曰:「人生七十者希,吾與夫人皆過之,可以行矣。」妻應曰:「然則我先去。」後三日卒。汝尚庀其喪,為作銘,召諸子告曰:「吾亦從此逝矣。」隱几而終,相去才十日。孫侔,紹興中敷文閣直學士。

陽孝本、

原文陽孝本

陽孝本は字を行先といい、虔州贛の人である。学は博く行いは高く、城西の通天巌に隠れた。蘇頌・蒲宗孟ら皆山林より特起する者としてこれを推薦した。蘇軾が海外より帰り、これを訪れて愛し、「玉巌居士」と号した。かつて直ちにその室に至り、娶らないことを知り、戯れて元徳秀の流れと為した。孝本は自ら陽城の裔であると言ったので、軾の詩に「衆は元徳秀と謂い、自らは陽道州と称す」とあるのは、これを嘉したのである。隠遁すること二十年、一時の名士多これと遊んだ。崇寧年間、八行に挙げられ、解褐して国子録となり、再転して博士となった。直祕閣をもって帰り、卒した。八十四歳。

原文陽孝本,字行先,虔州贛人。學博行高,隱於城西通天巖。蘇頌、蒲宗孟皆以山林特起薦之。蘇軾自海外歸,過而愛焉,號之曰「玉巖居士」。嘗直造其室,知其不娶,戲以為元德秀之流。孝本自言為陽城之裔,故軾詩有云:「眾謂元德秀,自稱陽道州。」嘉之也。隱遁二十年,一時名士多從之遊。崇寧中,舉八行,解褐為國子錄,再轉博士。以直祕閣歸,卒,年八十四。

鄧考甫、

原文鄧考甫

鄧考甫は字を成之といい、臨川の人である。進士に及第し、陳留尉・万載永明令・上饒県知県を歴任し、積官して奉議郎となり、開封府界河渠提点となったが、事に坐して官を去り、ついに戸を閉じて著書し、再び仕官を言わなかった。

原文鄧考甫,字成之,臨川人。第進士,歷陳留尉、萬載永明令、知上饒縣,積官奉議郎,提點開封府界河渠,坐事去官,遂閉戶著書,不復言仕。

元符末、直言を求める詔があった。考甫は八十一歳で上書して云う、「天下を乱すものは新法なり、末流の禍は将に言うべからざるものあらん。今は時に応じて更化し、純粋に祖宗の法に倣うべきである」と。よって熙寧以下、権臣が迭り起こり、世を欺き国を誤ったことを論じ、歴としてその事を指摘し、その人を枚挙した。蔡京はこれを嫉み、宗廟を誹謗したとし、官籍を削り筠州に羈置した。崇寧年間に党碑が除かれ、逐臣が釈放されると、同類五十三人のうち五十人は帰ることができたが、ただ考甫と范柔中・封覚民だけはそうならず、ついに筠州で卒した。死に臨み、幼孫の名世に筆を執らせ、口述で百余言を占め、その要約は、「我は山中の宰相と自ら謂うも、虚しくその才あり、文昌先生と自ら謂うも、虚しくその詞あり。盛世に大用されざるも、また憾み無し、蓋し天命あるのみ」といった。論述したものに『卜世大宝亀』・『伊周素蘊』・『義命雑著』・『太平策要』などがあり、凡そ二百五十余篇であった。

原文元符末,詔求直言。考甫年八十一,上書云:「亂天下者,新法也,末流之禍,將不可勝言。今宜以時更化,純法祖宗。」因論熙寧而下,權臣迭起,欺世誤國,歷指其事而枚數其人。蔡京嫉之,謂為詆訕宗廟,削籍羈筠州。崇寧去黨碑,釋逐臣,同類者五十三人,其五十人得歸,惟考甫與范柔中、封覺民獨否,遂卒於筠。且死,命幼孫名世執筆,口占百餘言,其略曰:「予自謂山中宰相,虛有其才也;自謂文昌先生,虛有其詞也。不得大用於盛世,亦無憾焉,蓋有天命爾。」所論述有《卜世大寶龜》、《伊周素蘊》、《義命雜著》、《太平策要》等,凡二百五十餘篇。

宇文之邵

原文宇文之邵

宇文之邵、字は公南、漢州綿竹の人。進士に挙げられ、文州曲水県令となった。転運使が軽い絹を高値に設定し、県に命じて民に売らせた。之邵は言う、「県は江の下流、山の上にあり、土地は狭く民は貧しく、耕す者はほとんどおらず、今は凶作で飢饉の年であり、羌夷がしばしば侵入する。これ以上、利を求めて民を困窮させることはできません」と。運使は怒った。

原文宇文之邵,字公南,漢州綿竹人。舉進士,為文州曲水令。轉運以輕縑高其價,使縣鬻於民。之邵言:「縣下江上山,地狹人貧,耕者亡幾,方歲儉饑,羌夷數入寇,不可復困之以求利。」運使怒。

ちょうど神宗が即位し言上を求めたので、上疏して言った、「天下は一家である。祖宗の創業・守成の法はすべて揃っている。陛下はまさに諒闇におられる。諂諛・姦佞の輩はまだ動きを潜めている。正に五聖の功徳を思い、常に左右前後にいるかのようにすべきである。京師は諸夏が見習うところであり、風俗は敦厚であるべきで、軽薄で浮華なことを尊ぶべきではない。公卿大夫は民の模範である。名節をもって自ら励むべきで、勢利に迎合することを先とするべきではない。節義廉恥をもって風化し導き、人々に自重することを知らしめたい。千里の郡において、利益があっても必ずしも興されず、害があっても必ずしも除かれないのは、転運使・提点刑獄がこれを制しているからである。百里の邑において、利益があっても必ずしも興されず、害があっても必ずしも除かれないのは、郡がこれを制しているからである。先日の赦令では、公の負債は一切免除されるはずであったが、役人はこれをますます厳しく取り立て、督促は一層甚だしく、上の恩沢は下に流れず、細民はますます困窮している。賢才を選んで三司の官とし、郡県に少し権限を与えれば、民の苦しみは除かれるであろう。それから番・棸・蹶・楀の盛んなるを監みて外戚を保安し、『棠棣』・『角弓』の義を考えて九族を親睦し、廃れた典章を興し、埋もれた人材を抜擢し、諂う者を遠ざけ、忠直な言論を招く。凡そ建置するものは、必ず大臣と共に議してその善きところを広め、号令と刑賞の権は専ら制御する。このようにすれば、天下の人は太平を見たいと思い、拱手して待つことができるであろう」と。

原文會神宗即位求言,乃上疏曰:「天下一家也。祖宗創業、守成之法具在。陛下方居諒陰,諂諛姦佞之人屏伏未動,正可念五聖之功德,常若左右前後。京師者,諸夏之視效,俗宜敦厚,而勿憸薄浮侈是尚。公卿大夫,民之表也,宜以名節自勵,而勢利合雜是先。願以節義廉恥風導之,使人知自重。千里之郡,有利未必興,有害未必除者,轉運使、提點刑獄制之也。百里之邑,有利未必興,有害未必除者,郡制之也。前日赦令,應在公逋負一切蠲除,而有司操之益急,督之愈甚,使上澤不下流,而細民益困。如擇賢才以為三司之官,稍假郡縣以權,則民瘼除矣。然後監番、棸、蹶、楀之盛以保安外戚,考《棠棣》、《角弓》之義以親睦九族,興墜典,拔滯淹,遠誇毗,來忠讜。凡所建置,必與大臣共議以廣其善,號令威福則專制之。如此,則天下之人思見太平可拱而俟也。」

上疏を奏上したが返答はなかった。嘆息して言った、「私は仕えることができない」。そこで致仕し、太子中允の官をもって帰郷した。時に年はまだ四十に満たなかった。学問に自ら励み、その志を変えず、日々に交友と経史・琴・酒の楽しみをなし、退居して十五年で終わった。司馬光は言った、「私は聞く、志が行われなければ、禄位を錙銖のごとく顧みず、道が同じでなければ、富貴を土芥のごとく視る、と。今、之邵においてそれを見た」と。范鎮もまた言った、「之邵は位は低いが言うところは高く、学は富み行いは篤実である。私より二十一歳年少であるのに、私に先んじて官を辞した。私を慊然たらしめる」と。両賢に推重されたのはこのようであった。

原文疏奏不報。喟然曰:「吾不可仕矣。」遂致仕,以太子中允歸,時年未四十。自強於學,不易其志,日與交友為經史琴酒之樂,退居十五年而終。司馬光曰:「吾聞志不行,顧祿位如錙銖;道不同,視富貴如土芥。今於之邵見之矣。」范鎮亦曰:「之邵位下而言高,學富而行篤,少我二十一歲而先我掛冠,使吾慊然。」其為兩賢所推尚如此。

吳瑛

原文吳瑛

吳瑛、字は德仁、蘄州蘄春の人。父の龍図閣学士遵路の任子の恩蔭により太廟齋郎に補され、西京竹木務を監み、淮南判官に簽書し、池州・黄州の通判を経て、郴州の知州となり、虞部員外郎に至った。治平三年、官任期が満ちて京師に赴き、年四十六歳で、即座に上書して致仕を請うた。公卿大夫で彼を知る者は互いに力を合わせて引き留めたが、聞き入れず、皆感服して及ばないと思い、相率いて都門で詩を賦し餞別の酒宴を開き、そこで帰郷した。

原文吳瑛,字德仁,蘄州蘄春人。以父龍圖閣學士遵路任補太廟齋郎,監西京竹木務,簽書淮南判官,通判池州、黃州,知郴州,至虞部員外郎。治平三年,官滿如京師,年四十六,即上書請致仕。公卿大夫知之者相與出力挽留之,不聽,皆歎服以為不可及,相率賦詩飲餞於都門,遂歸。

蘄に田があり、自給するに足るのみであった。溪流に臨んで家を築き、花を植え酒を醸し、家事は一切子弟に任せた。賓客が来れば必ず飲み、飲めば必ず酔い、あるいは疲れて花の間に臥し、客が去っても問わなかった。人物を批評する者がいても一言も応酬せず、ただ奴隷に促してますます酒を行かせ、人はその楽しく気さくな様を愛し、その高潔さを敬わない者はなかった。かつて貴客が彼を訪れたことがあり、瑛は酒酣に歌い、楽器で自分の頭を叩いて拍子をとったが、客もまた無礼とは思わなかった。財物を糞土のごとく視、妹婿が家財数十万を人に貸して返済できなくなると、瑛は哀れんで言った、「この人には母がいる。重い憂いを抱かせてはなるまい」。呼び寄せてその証文を焼いた。門生が田畑の管理を数年務め、突然辞去しようとして言った、「ある者が私の簿記が不正だと言っていると聞きました。義理として留まることはできません」。瑛は命じて前後の文書を取り寄せて見せたが、蓋を開けてみれば未だ封を切っていなかった。盗賊が家に入り、気づきながらも言わず、しかもその布団を取ろうとしたので、言った、「他の物は望むままにせよ。夜はまさに寒い。どうか私の布団だけは残してくれ」。その真率で曠達な様はこのようなものであった。

原文蘄有田,僅足自給。臨溪築室,種花釀酒,家事一付子弟。賓客至必飲,飲必醉,或困臥花間,客去亦不問。有臧否人物者,不酬一語,但促奴益行酒,人莫不愛其樂易而敬其高。嘗有貴客過之,瑛酒酣而歌,以樂器扣其頭為節,客亦不以為忤。視財物如糞土,妹婿輒取家財數十萬貸人,不能償,瑛哀之曰:「是人有母,得無重憂!」召而焚其券。門生為治田事歷歲,忽謝去,曰:「聞有言某簿書為欺者,誼不可留。」瑛命取前後文書示之,蓋未嘗發封也。盜入室,覺而不言,且取其被,乃曰:「他物唯所欲,夜正寒,幸舍吾被。」其真率曠達類此。

哲宗の朝に推薦する者がおり、吏部郎中に召され、さらに蘄州知州に任じられたが、いずれも起き上がらなかった。崇寧三年に病気を感じると、すぐに門を閉ざして医薬を断ち、臨終に至るまで乱れなかった。卒す。年八十四。

原文哲宗朝有薦之者,召為吏部郎中,就知蘄州,皆不起。崇寧三年感疾,即閉閤謝醫藥,至垂絕不亂。卒,年八十四。

松江漁翁

原文松江漁翁

松江の漁翁は、その姓名を知らない。常に小舟を漕いで長橋に遊び、波の上を往来し、船舷を叩き酒を飲み、酣に歌って自得していた。紹聖年間、閩の人潘裕が京師から官を調えて帰る途中、呉江を過ぎてこれに出会い、異なるものと感じ、起ち上がって揖して言った、「先生の気貌を見るに、もとより漁釣の流れではありません。ほんの少しの言葉を乞い、蒙昧を啓発したい」。翁は睨みつけて言った、「君は非凡だ。もし誠にその気があるなら、我が小舟に来て話さないか」。裕は喜んで舟に移った。翁は言った、「私は喧噪煩わしさを厭い、閑曠なところに身を置き、ここに遁世して三十年になる。幼い頃は経史百家の言を誦することを喜んだが、後に釈氏の書を見て、今は皆捨て去った。ただ飽きるまで食べて遊ぶのみ。まだ何をなすことがあろうか」。裕は言った、「先生はこのように身を洗い徳を浴しておられる。今、聖明の君が上におられる。どうして出仕されないのですか」。笑って言った、「君子の道は、あるいは出、あるいは処る。私はたとえ巌穴に棲み隠れ、園公・綺里季の跡を追うことはできなくとも、ひそかに老子の曲全の義を慕う。そもそも志を養う者は形を忘れ、形を養う者は利を忘れ、道を致す者は心を忘れる。心も形も共に忘れれば、軒冕を糞土のごとく視るに至る。私は君と出処の趣を異にする。君は励むがよい」。裕は言った、「裕は不才ですが、幸いにも先生の高義を聞くことができました。敢えてお住まいをお尋ねします」。言った、「私は姓名すら人に知られたくない。ましてや居室などどうして」。飲み終えると、長揖して裕を元の場所に返らせ、櫂を打って去った。

原文松江漁翁者,不知其姓名。每棹小舟遊長橋,往來波上,扣舷飲酒,酣歌自得。紹聖中,閩人潘裕自京師調官回,過吳江,遇而異焉,起揖之曰:「予視先生氣貌,固非漁釣之流,願丐緒言,以發蒙陋。」翁瞪視曰:「君不凡,若誠有意,能過小舟語乎?」裕欣然過之。翁曰:「吾厭喧煩,處閑曠,遁跡於此三十年矣。幼喜誦經史百家之言,後觀釋氏書,今皆棄去。唯飽食以嬉,尚何所事?」裕曰:「先生澡身浴德如此。今聖明在上,盍出而仕乎?」笑曰:「君子之道,或出或處,吾雖不能棲隱巖穴,追園、綺之蹤,竊慕老氏曲全之義。且養志者忘形,養形者忘利,致道者忘心,心形俱忘,其視軒冕如糞土耳,與子出處異趣,子勉之。」裕曰:「裕也不才,幸聞先生之高義,敢問舍所在?」曰:「吾姓名且不欲人知,況居室耶!」飲畢,長揖使裕反其所,鼓枻而去。

杜生

原文杜生

杜生は、潁昌の人。その名は知られず、県人は杜五郎と呼んだ。住まいは県から三十里離れており、屋が二間あり、その子と共に住んでいた。前に空地が一丈余りあり、そこに籬の門を設け、生は門を出ること三十年であった。

原文杜生者,潁昌人。不知其名,縣人呼為杜五郎。所居去縣三十里,有屋兩間,與其子並居,前有空地丈餘,即為籬門,生不出門者三十年。

黎陽の尉孫軫が彼を訪ねて行った。その人はなかなか洒落ており、自ら述べて言うには、「村人に何の能もありません。官人、どうして訪ねてくださったのですか」と。軫が門を出ない理由を尋ねると、笑って言うには、「告げた者が過言なのです」と。門外の一本の桑を指して言うには、「十五年前を思い出しますと、やはりかつてその下で涼をとったこともあります。どうして出ないと言えましょうか。ただ時に用いられず、人に求められないので、たまたま自ら出ないだけです。何を尊ぶことがありましょうか」と。生計を立てる方法を尋ねると、言うには、「昔、邑の南に住んでおり、田五十畝があり、ある兄とともに耕していました。兄の子が嫁を迎えるに及び、耕すだけでは養いきれないと推し量り、そこで全てを兄に与え、妻子を連れてここに来ました。郷人の家を借りる恵みにあずかり、ここに住んでいます。ただ人に日を選ぶことと、また薬を売って粥を賄うだけで、時には続かないこともありました。後に子が耕し荷うことができるようになり、年長者が哀れんで、田三十畝を与えて耕させてくれました。なお余力があり、また人のために雇われて耕し、これより食は足りました。郷人は貧しく、医術をもって自ら生業とする者が多い。自分は食が既に足りていると思い、さらに他の利益を兼ねるべきではない。これによって日を選ぶことや薬を売ることは、一切しません」と。常日、何をしているかと尋ねると、言うには、「端坐しているだけです」と。「少しは書物を読みますか」と問うと、言うには、「二十年前、かつてある人が一冊の書を遺しました。題号はなく、その中は多く浮名経を説いていました。当時はその議論を極めて愛し、今は忘れ、書もまたどこにあるか分かりません」と。時は厳寒、布の袍に草鞋、室中は空っぽであるが、気韻は閑かで広く、言葉は精簡、有道の士である。その子の為人を尋ねると、言うには、「村の童です。しかし性質は甚だ淳厚で、妄りに言わず、みだりに遊び戯れません。ただ時折県に塩や乳製品を買いに行くだけで、数回の行跡を待ってその帰りを待つことができ、直行直帰、かつて傍らに遊び歩くことは一度もありません」と。軫は嘆息し、しばらく留まり連れ立って、やがて去った。後に延安の幕府に至り、沈括にこのことを言った。括は当時軍書を処理し、夜半に及び、疲れ果ててまだ臥さず、軫がこの話をしたのを聞き、たちまちその労を忘れた。

原文黎陽尉孫軫往訪之。其人頗洒落,自陳:「村人無所能,官人何為見顧?」軫問所以不出門之因,笑曰:「以告者過也。」指門外一桑曰:「憶十五年前,亦曾納涼其下,何謂不出?但無用於時,無求於人,偶自不出耳,何足尚哉。」問所以為生,曰:「昔時居邑之南,有田五十畝,與某兄同耕。迨兄子娶婦,度所耕不足贍,乃盡以與兄,而攜妻子至此,蒙鄉人借屋,遂居之。唯與人擇日,又賣醫藥以給飦粥,亦有時不繼。後子能耕荷,長者見憐,與田三十畝使之耕,尚有餘力,又為人傭耕,自此食足。鄉人貧,以醫術自業者多。念己食既足,不當更兼他利,由是擇日賣藥,一切不為。」問常日何所為,曰:「端坐耳。」「頗觀書否?」曰:「二十年前,曾有人遺一書策,無題號,其間多說浮名經,當時極愛其議論,今忘之,並書亦不知所在矣。」時盛寒,布袍草屩,室中枵然,而氣韻閑曠,言詞精簡,蓋有道之士也。問其子之為人,曰:「村童也,然性質甚淳厚,不妄言,不敢嬉。唯間一至縣買鹽酪,可數行跡以待其歸,徑往徑還,未嘗旁遊一步也。」軫嗟歎,留連久之,乃去。後至延安幕府,為沈括言之。括時理軍書,迨夜半,疲極未臥,聞軫談及此,及頓忘其勞。

順昌の山人

原文順昌山人

順昌の山人。靖康の末、順昌の山中に避乱した者がおり、深く入って茅葺きの家を得た。主人は風裁が甚だ整っており、近づいて語ると、士君子であった。怪しんで問うて言うには、「諸君は何事で妻子を連れてここまで来ることができたのですか」と。そこで事情を話すと、主人は言うには、「乱は何から起こったのですか」と。衆は争って言うと、主人は嘆き哀しみしばらくして、言うには、「我が父は仁宗朝の人で、嘉祐の末からここに居を占めて、それより再び出ませんでした。私の聞くところによれば、ただ熙寧の紀年があることを知るだけで、また今が何年かも知りません」と。

原文順昌山人。靖康末,有避亂於順昌山中者,深入得茅舍,主人風裁甚整,即之語,士君子也。怪而問曰:「諸君何事挈妻孥能至是耶?」因語之故。主人曰:「亂何自而起耶?」眾爭為言,主人嗟惻久之,曰:「我父為仁宗朝人也,自嘉祐末卜居於此,因不復出。以我所聞,但知有熙寧紀年,亦不知於今幾何年矣。」

南安の翁

原文南安翁

南安の翁。漳州の陳元忠が南海に客居していた日、かつて省試に赴く途中南安を通り過ぎ、日が暮れたので、野人の家に宿を求めた。茅葺きの家が数軒、竹や木が茂り密生して可愛らしい。主の翁は麻衣に草鞋であるが、挙止談対はさながら士人のようであった。机の上には文籍が散乱しており、見ると皆、経書や諸子の書であった。陳が叩いて尋ねて言うには、「翁は子に読書を教えるのですか」と。言うには、「園を耕して生計を立てているだけです」と。「また城や市に入りますか」と問うと、言うには、「十五年出ていません」と。「蔵書は何のためですか」と尋ねると、言うには、「たまたまあるだけです」と。そこで他の話を交えた。しばらくして、風雨が激しく起こり、その二人の子が帰ってきた。鋤を置いて客に揖し、人物は農家の子の類ではなかった。翁は豆の羹を進めて客をもてなし、再び共に語ることはなかった。夜明けを待って別れて去った。

原文南安翁者。漳州陳元忠客居南海日,嘗赴省試過南安,會日暮,投宿野人家,茅茨數椽,竹樹茂密可愛。主翁雖麻衣草屨,而舉止談對宛若士人。几案間有文籍散亂,視之皆經、子也。陳叩之曰:「翁訓子讀書乎?」 曰:「種園為生耳。」「亦入城市乎?」曰:「十五年不出矣。」 問:「藏書何用?」曰:「偶有之耳。」因雜以他語。少焉,風雨暴作,其二子歸,舍鉏揖客,人物不類農家子。翁進豆羹享客,不復共談,遲明別去。

陳は用事で城中に留まり、翌日、翁が慌てふためいて歩いているのを見て、陳は追いかけて詰問して言うには、「翁は十五年城を出ないと言ったのに、どうしてここに来たのですか」と。言うには、「私は急用で出ないわけにはいきませんでした」と。尋ねると、なんと長男が関の外で果物を売り税を失い、関の吏に拘束されたのであった。陳が監征に謁見して、行くと既に郡に捕送されていた。翁と小児が共に庭の下に詣で、長子は杖刑に当たる。翁は懇ろに郡守に申し上げて言うには、「私は老いて鈍く無能で、全てこの子に頼って養われています。もし彼が杖に耐えられなければ、明日は食に困ります。どうか身をもって代わりたい」と。小児は言うには、「父上はどうして杖を受けることができましょうか。私が兄の代わりを願います」と。長男もまた罪が己にあるとして、甘んじて受ける、三人が争って決まらない。小児が父の耳元に来て語り、何か請おうとするようであった。翁が叱ると、児はどうしても前に出ようとする。郡守は怪しんで、呼んでその理由を問うと、答えて言うには、「父は元は帯職の正郎であり、宣和の間に累ねて州郡を治めました」と。翁は急いでその衣を引っ張って退かせ、言うには、「児は狂っている、妄りに言うのだ」と。守が誥勅があるかどうか尋ねると、児は言うには、「一束にして甕の中に置き、山下に埋めてあります」と。守は直ちに吏を遣わして児に随行させ取りに行かせると、果たして得た。そこで直ちに翁を上座に招き、謝罪してその子を釈放した。翌日、わざわざ車を回して訪ねると、家は既に空であった。

原文陳以事留城中,翌日,見翁倉遑而行,陳追詰之曰:「翁云十五年不出城,何為到此?」曰:「吾以急事不容不出。」問之,乃大兒於關外鬻果失稅,為關吏所拘。陳為謁監征,至則已捕送郡。翁與小兒偕詣庭下,長子當杖,翁懇白郡守曰:「某老鈍無能,全藉此子贍給。若渠不勝杖,則翌日乏食矣。願以身代之。」小兒曰:「大人豈可受杖,某願代兄。」大兒又以罪在己,甘心焉,三人爭不決。小兒來父耳旁語,若將有所請,翁叱之,兒必欲前。郡守疑之,呼問所以,對曰:「大人元係帶職正郎,宣和間累典州郡。」翁急拽其衣使退,曰:「兒狂,妄言。」守詢誥敕在否,兒曰:「見作一束置甕中,埋於山下。」守立遣吏隨兒發取,果得之,即延翁上坐,謝而釋其子。次日,枉駕訪之,室已虛矣。

張𡒊

原文張𡒊

張𡒊、字は子厚、常州の人。進士甲科に登第した。他の兄弟がいないため、ただその親を養い、少しの間も側を離れることを忍ばなかった。親友が強いて仕官させようとしたので、青溪の主簿に調任されたが、これも官に就かなかった。戸を閉じて四十年読書し、手ずから数万巻を校訂し、一字の誤りもなかった。経を究め著書し、夜半に及んでも眠らなかった。元豊年中、近臣がその高行を推薦した。元祐に至り、大臣がまた彼を推薦し、潁州の教授に起用されたが、辞して就かなかった。そこで孫覚、胡宗愈、范祖禹が交わって上奏して言うには、「𡒊が草むらで死ねば、後世は必ず朝廷が士を失ったと思うでしょう」と。蘇軾が言うのは特に切実であった。詔して秘書省校書郎に任じ、郡県に命じて礼を尽くして敦促して派遣させたが、ついに出なかった。

原文張𡒊,字子厚,常州人。登進士甲科。以無他兄弟,獨養其親,不忍斯須去左右。親友強之仕,乃調青溪主簿,亦不之官。閉戶讀書四十年,手校數萬卷,無一字舛。窮經著書,至夜分不寐。元豐中,近臣薦其高行。至於元祐,大臣復薦之,起教授潁州,辭不就。於是孫覺、胡宗愈、范祖禹交章言曰:「𡒊且死草萊,後世必以為朝廷失士。」蘇軾言之尤切。詔拜祕書省校書郎,敕郡縣致禮敦遣,竟不出。

𡒊は家では孝弟を修め、友には忠信を行い、名声は人に聞こえ、中を踏み常を守り、従容として迫らず、当時の名流に慕われ、門を造らないことを恥とした。崇寧四年、卒去した。翌年、詔して𡒊が丘園に隠徳し、声聞が顕著であるとして、諡を「正素先生」と賜った。

原文𡒊孝弟修於家,忠信行於友,聲名聞於人,蹈中守常,從容不迫,為當時名流所慕,以不造門為恥。崇寧四年,卒。明年,詔以𡒊隱德丘園,聲聞顯著,賜諡曰「正素先生」。