宋史

列傳第二百十七 隱逸中 王樵 張愈 黃晞 周啓明 代淵 陳烈 孫侔 劉易 姜潛 連庶 章詧 兪汝尚 陽孝本 鄧考甫 宇文之邵 呉瑛 松江漁翁 杜生 順昌山人 南安翁 張𡒊

王樵

王樵、字は肩望、淄州淄川の人。県北の梓桐山に住む。群書に博通し、章句を治めず、特に『易』を考究することを善くす。賈同・李冠と斉名し、学者多くこれに従う。

咸平年中、契丹の遊騎が河を渡り、挙家掠かれる。樵は直ちに妻を棄て、身を挺して契丹に入り父母を訪うるも、累年獲ず、東山に還る。木を刻み招魂して以て葬り、祠を立て像を画き、これを事うること生けるが如くし、喪に服すること六年、哀しみ行路を動かす。また属の尊者が為に次第に喪服を成し、北に向かって歎じて曰く「身世かくの如し、人に比すべきか」と。ここにおいて俗と絶ち、自ら「贅世翁」と称し、ただ兵を論じ剣を撃つことを以て事とす。一驢に装を負わせ、徒歩千里。晚年しばしば塞下に遊び、策を画きて何承矩・耿望に干し、遼を滅ぼし讐を復せんことを求むるも、用いられず。ここにおいて城の東南隅に塼を累ねて自ら環らしめ、これを「繭室」と謂う。その門に銘して曰く「天は王樵を生み、薄命にして寡智、材は時に済わず、道号は『贅世』。生けるを以て室と為し、以て不虞に備え、死すれば則ち形を蔵し、不虞乃ち備わる」と。病革、室に入り戸を自ら掩いて卒す。

治平末、職方郎中向宗道淄州を知り、繭室を訪うるも、既に屋を構えて民居と為す。樵の甥牟氏の子を得て、乃ち改葬せしことを知る。ここにおいてその地に因り即ち復た繭室及び祠堂を作り、石を刻みてこれを記す。

張愈

張愈、字は少愚、益州郫の人、その先は河東より徙る。愈は雋偉にして大志有り、四方に遊学し、屡挙して第せず。宝元初、上書して辺事を言い、契丹に使わしめ、外夷をして相攻たしめ、以て中国の勢いを完うせんことを請う、その論甚だ壮なり。使者の薦を用い、試みに秘書省校書郎を除すも、願わくは以て父顕忠に授けて家に隠れんとす。文彦博しょくを治め、青城山白雲溪の杜光庭故居を置きて以てこれを処す。内艱に遭い、塩酪口に入れず。再朞、持する所の柳杖を墓に植うるに、忽ち枝葉を生じ、後ち合抱す。六たび召すも応ぜず。奕棋を喜ぶ。山水を楽しみ、興有るに遇えば、数千里と雖も輒ち尽く室を挙げて往く。ここにおいて湘・沅に浮かび、浙江を観、羅浮に昇り、九疑に入り、石を買い鶴を載せて帰る。門を杜して書を著すも、未だ就わずして卒す。

妻蒲氏、名は芝、賢にして文有り、これが為に誄して曰く「往古を高視すれば、哲士実に殷なり、秦・漢に施せられ、余烈氛氳たり。挺いて英傑を生み、卓爾として群を逸す、孰か今世に謂えん、亦た其の人ありと。其の人伊何、白雲の隠君。嘗て曰く丈夫、世に趨くも偶わず、仕えるは其の志に非ず、禄は苟もしくすべからず、営営たる末途、吾が守る所に非ず。吾が生は涯有り、少くして実に多艱、窮も亦た自ら固く、困も亦た顛せず。人爵を貴ばず、命を知り天を楽しみ、簪を脱ぎ髪を散らし、雲に眠り泉を聴く。峰千仞有り、溪数曲有り、広成の遺趾、呉興の高躅。石を疏きて逕を通し、林に依りて屋を架す、麋鹿と群を同じくし、昼は遊び夜は息う。嶺月雲を破り、秋霖竹に灑ぐ、清意何ぞ窮まらん、真心自ずから得たり、言を放ち慮を遺し、何ぞ栄え何ぞ辱か。孟春疾を感じ、戸を閉ざして出でず、豈に期せんや遂に往かんとは、英標永く隔たる。詞を抒べて哽噎し、涕を揮いて汍瀾たり、人誰か死無からん、惜しいかな材賢。已んぬるかな吾が人、嗚呼哀しいかな」と。

黄晞

黄晞、字は景微、建安の人。少にして経に通じ、書数千巻を聚め、学者多くこれに遊ぶ、自ら「聱隅子」と号す。『歔欷瑣微論』十巻を著し、以て聱隅は枿物の名、歔欷は歎声、瑣微は辞を述ぶるなりと謂う。石介太学に在り、諸生を遣わして礼を以て聘召すれども、晞は走り匿れて隣家に出でず。枢密使韓琦表してこれを薦め、以て太学助教致仕と為す。命を受くる一夕にして卒す。

周啓明

周啓明、字は昭回、その先は金陵の人、後に籍を処州に占む。初め書を以て翰林学士楊億に謁す、億は携えて同列に示す、大いに歎賞を見、ここより知名と為る。四たび進士に挙げられ皆第一。景德中、賢良方正科に挙げらる、既に召さるるも、会に泰山を東封す、言者この科は本災異に因り直言を訪うるに在り、太平の事に非ずと謂い、ここにおいて罷むるを報ず。ここにおいて帰り、弟子百余人を教え、復た仕進の意有ることなく、里人処士と称す。転運使陳堯佐その行義を朝に表し、粟帛を賜う。仁宗即位し、試みに助教を除し、就いて廩給を加う。久しくして、特たび秘書省秘書郎に遷す。太常丞に改め、卒す。啓明は学に篤く、書数千巻を蔵し、多く手自ら伝写し、而して能く口これを誦す。古律詩・賦・牋・啓・雑文千六百余篇有り。

代淵

代淵、字は蘊之、本は代州の人。唐末、導江に地を避け、家世吏を為し、陰徳有り。淵は性簡潔、親に事うるに孝を以て聞こゆ。李畋・張達に学を受く。年四十、郷人更に勧め、進士甲科に挙げられ、清水主簿を得る。歎じて曰く「禄親に及ばず、何を為さんや」と。家に還り教授し、座席常に満つ。安撫使鳳州団練推官を挙ぐるも、就かず。益州を知る楊日嚴またこれを薦む、ここにおいて太子中允を以て致仕す。諸生を謝絶し、『周易旨要』・『老仏雑説』数十篇を著す。田況その書を上す、太常丞より祠部員外郎に改む。晚年日菜食し、巾褐山水の間、自ら「虚一子」と号す。長吏歳時に致問すれども、澹然として対し、略私に及ばず。嘉祐二年九月、疾有り、術士を召して日を択ばしむ、云く「丙申吉」と、頷く、この日沐浴して絶ゆ。

陳烈

陳烈、字は季慈、福州候官の人なり。性は介僻にして、孝友に篤し。親の喪に居り、勺飲口に入れず五日、壮より老に至るまで、奉事すること生けるが如し。学行端飭にして、動き古礼に遵い、平居終日言わず、童僕を御すること賓客に対するが如し。里中の人これ敬い、冠婚喪祭、請うて後に行う。従学する者常に数百。賢父兄子弟を訓うるに、必ず烈の言行を挙げて以て示す。

嘗て郷薦を以て京師に試みて利あらず、即ち挙を罷む。或いはこれを勉めて仕を求めしむれば、則ち曰く、「伊尹道を守り、成湯三たび幣を以て聘す。呂望既に老い、文王これを載せて俱に帰る。今天子仁聖にして賢を好み、湯・文の心あり、豈に先覚伊・呂の如き者無からんや」と。仁宗屡詔すも、起たず。人その故を問えば、応えて曰く、「吾が学未だ成らず」と。公卿大夫・郡守・郷老章を交えてその賢を称す。嘉祐中、本州教授と為すべしとし、欧陽修またこれを言い、召して国子直講と為すも、皆拝せず。

已にして福建提刑王陶その妻林氏に訟えられしを言い、因って烈を詆して貪詐とし、受くる所の恩を奪わんことを乞う。司馬光諫官たり、率いて同列を争いて曰く、「臣等毎に士の名檢無きを患う、故に烈を挙げて風俗を厲す。烈平生の操守、誠実より出づ。迂闊にして中道に合わざる有りと雖も、猶お節を守るの士たり、保ちてこれを全うすべし。夫婦相諧わざるは、則ち離絶を聴くも、節行の士を横辱の挫かしむる毋からん」と。陶の説遂に行われず。

元祐初、部使者申してこれを薦ぐ。詔してその尚に従い、宣徳郎を以て致仕す。明年、復た本州を教授す。職に在りて廩奉を受けず、郷里問遺の絲毫も受けず。家租余有れば、則ち推して以て貧乏を済す。卒す、年七十六。

孫侔

孫侔、字は少述、王安石・曾鞏と遊び、名一時に傾く。早く孤となり、母に事えて孝を尽くす。禄養を志す、故に屡進士を挙ぐ。母の病革まるに及び、自ら誓いて終身仕を求めず。客として江・淮の間に居り、士大夫これ敬畏す。

劉敞揚州を知り、その孝弟忠信、世を扶け俗を矯うるに足り、朝廷にこれを求めば、呂公著・王安石の流なりと言う。詔して揚州教授と為すべしとすも、辞す。敞永興を守り、幕府に辟くも、また辞す。英宗の時、沈遘及び王陶・韓維連ねてこれを薦ぐ。忠武軍推官・常州推官を授くるも、皆赴かず。

少くして安石と善し。安石相と為り、真州を過ぎて相見ゆ。侔これを待すること布衣の交の如し。卒す、年六十六。

初め、王回・王令・常秩と侔は皆盛名有り。回・令は寿せず、秩は隠して竟わず、唯だ侔は仕えざるを以て始終す。

劉易

劉易、忻州の人。性は介烈にして、博学古を好み、兵を談ずるを喜ぶ。韓琦定州を知り、その著す所の『春秋論』を上る。太学助教・へい州州学説書を授く。志を屈して仕進する能わず、虢の盧氏に寓居し、辟穀術を習う。趙抃復たその行誼を薦ぐ。号を「退安処士」と賜う。易詩を作れば、琦毎にこれを石に書す。或いはその意に可からざれば輒ち滌い去り、琦もまたこれを再書す。尹洙渭に帥し、延致して尊礼す。狄青洙に代わり、これ遇すること亦厚し。治平末、卒す。琦文を作りてこれを祭りて云く、「剛介の性、天下能く合する者幾何ぞ。淵源の学、古人到らざる者甚だ多し」と。そのこれを敬すること此の如し。熙寧戸役を察訪定む。詔して易の家に処士を用うること七品の恩の如くし、半減を得しむ。優礼を示すと云う。

姜潜

姜潜、字は至之、兗州奉符の人。孫復に従い『春秋』を学ぶ。田況の挙を用い、召して学士院に試み、明州録事参軍と為る。母の郷を思うを以て致仕を求め、勅門下を過ぐ。封駁司を知る呉奎これを封還し、而して韓絳と共に章を上りて以て薦ぐ。兗州録事参軍に徙す。奎に従い鄆州教授に辟く。奎堂に升りてその母を拝し、また薦めて国子直講・韓王宮伴読と為す。宗正允弼に謁す。吏趨庭を引くも、潜答えず、馬を呼びて去らんと欲す。遂に客礼を以て見ゆ。

熙寧初、詔して選人の淹滞する者を挙げて京官と為すこと凡そ三十七人、潜選中に在り。神宗その賢を聞き、召して延和殿に対し、治道何を以てこれを致すかを訪う。対えて曰く、「『堯』・『舜』の二『典』在り、顧みるに陛下のこれを致すの道如何」と。陳留県を知る。数箇月に至り、青苗令下る。潜錢を出し、その令を県門に榜す。已にしてこれを郷落に徙し、各三日応ずる者無し。遂に榜を撤し吏に付して曰く、「民願わざるなり」と。錢は是を以て独り散ぜずを得。司農・開封潜の沮格を疑い、各その属を使わして来りて験す。皆令の如し。而して条例司祥符の青苗錢を住散するを劾す。潜知る且つ免れざるを、疾を移して去る。県人府に詣りてこれを留めんことを請うも、得ず。家居して卒す、年六十六。

連庶、

連庶は字を居錫といい、安州応山の人である。進士に挙げられ、商水尉・寿春令に任じられた。学を興し礼を尊び、優れた民を励ましてその風俗を勧め、淮水に臨む田地千頃を開き、県は大いに治まった。淮南王の旧塁が山中にあったが、大水があったとき、州の長官がその塼を取って城とすることを議した。庶は言った、「弓矢や舞衣は百世に伝えられ、王府に蔵されるが、必ず用いるべきものというわけではなく、古の物が今に伝えられ、なお典刑があるからである」と。塁はこのために存することができた。母が老いたので陳州税監を請うた。かつて客を送って北門を出ると、日が西に傾き風塵が立ち、冠蓋がひっきりなしに行き交うのを見て、慨然として感ずるところがあり、即日に分司を求めて帰った。久しくして、翰林学士欧陽修・龍図閣直学士祖無擇が庶の文学と行義を言上し、台閣にいるべきであるとした。崑山県知県に任ぜられたが、辞して行かなかった。累遷して職方員外郎となり、卒した。

庶は初め弟の庠と郷里におり、当時宋郊兄弟・欧陽修らが皆これに依った。二宋が貴顕に達すると、その志に合わず、二十年間退居した。道を守り修養を好み、その人にあらざれば交わらず、その義にあらざれば秋毫も汚すべからざるものであった。庶が死んだ後、宋郊の孫の義年が応山令となり、邑人の意に沿って、法興僧舎に堂を作り、二宋および庶・庠の像を描いてこれを祠った。庠もまた科第に登り、政事に敏で、良吏と号され、都官郎中で終わった。

章詧、

章詧は字を隠之といい、成都双流の人である。幼くして孤となり、兄嫂に育てられ、父母に仕えるようにこれに仕えた。経学に博通し、特に『易』・『太玄』に長じ、『発隠』三篇を著し、蓍を用いて道を求める法を明らかにし、数をもって道の用いを寓し、三摹九拠の終始の変を知った。蜀の守の蒋堂・楊察・張方平・何郯・趙抃ら皆逸民として推薦し、一度は粟帛を賜り、再び州助教に命じられたが、就かなかった。嘉祐年間、「沖退処士」の号を賜った。王素が当時州にいたため、その住む郷を「処士郷」、里を「通儒里」、坊を「沖退坊」と改めた。詧はこれによってますます道をもって自らを豊かにし、生を尊び気を養い、憂喜・是非もまたその心身を撓ませることはなかった。

かつて里人の范百祿を訪ねて言った、「私は辟穀二十余年、今なお体力十分である。あなたもまた気をもって疾を治する説を知っているか」と。百祿はこれに従って『太玄』を叩き、詧はその大旨を解き述べ、さらに『攡』の詞を繰り返して言った、「『人の好んで足らざるものは善なり、醜じて余りあるものは悪なり。君子はその足らざる所を強くし、その余りある所を払う、『太玄』の道これに近し』。これが子雲の仁義の心である。私が『太玄』について述べるのは、これだけである。もしその思惟を苦しめ、その言を艱しくし、その数たる所以に迂溺してその仁義の大を忘れるならば、これどうして道を語るに足りようか」と。熙寧元年、卒した。七十六歳。子の禩もまた古学を好み、かつて行義敦遣の詔に応じた。代々隠徳があり、その住居はなお存した。

俞汝尚、

俞汝尚は字を退翁といい、湖州烏程の人である。若い時、鄣南の崑山で読書した。人となり温温として礼があり、議論は苟しくない。意に合わなければ、言わざるところあり、言うときは妄りにしたことがない。生計を整えることを好まず、貧乏をもってその懐を撓ませず、勢利に淡泊であった。人の善言善行を聞けば、忘れずに記し、時々人のためにこれを語った。進士第に擢でられ、州県を歴任したが、少しも進取の心を営まなかった。かつて導江県を知り、新繁令が卒したとき、使者がその欠員を継がせようとし、公田をもって資そうとしたが、辞した。許されず、赴任するとすべて旧令の家を周済した。熙寧初年、簽書剣南西川判官となった。趙抃が蜀を守り、簡静をもって治め、毎朝退いて便斎に坐すると、諸吏は敢えて至らなかったが、ただ汝尚が来ると、いつも扉を押し開けて直ちに入り、相対して清談して暮れに至った。

王安石が国政を執ると、一時の故老が己と同ぜざることを患え、ある者が汝尚の清望を言い、御史に置き、順次弾撃させるべきであるとした。駅伝で召し出して京師に詣でさせ、推薦された意図を知ると、力辞し、上章を再びして免れることができた。親故の中に子孫のために地歩を作れなかったと責める者がいたが、汝尚は笑って言った、「これこそがその地歩を作ることなのである」と。家に帰って貧苦に悩んだが、禄をもって養うことを忘れることができなかった。また趙抃に従って青州に赴き、ついに屯田郎中で致仕した。蘇軾・蘇轍・孫覚・李常ら皆詩文を賦してこれを歎美した。

優遊すること数年、六月の暑さが厳しくなり、寝室に居ることができず、門の外に舎した。妻の黄がこれを見に来ると、汝尚は言った、「人生七十は稀なり、我と夫人は皆これを過ぎた。行くことができる」と。妻は応えて言った、「それならば私が先に行こう」と。三日後に卒した。汝尚はその喪を整え、銘を作り、諸子を召して告げて言った、「我もまたこれより逝く」と。机によりかかって終わり、相去ることわずか十日であった。孫の侔は、紹興年間に敷文閣直学士となった。

陽孝本、

陽孝本は字を行先といい、虔州贛の人である。学は博く行いは高く、城西の通天巌に隠れた。蘇頌・蒲宗孟ら皆山林より特起する者としてこれを推薦した。蘇軾が海外より帰り、これを訪れて愛し、「玉巌居士」と号した。かつて直ちにその室に至り、娶らないことを知り、戯れて元徳秀の流れと為した。孝本は自ら陽城の裔であると言ったので、軾の詩に「衆は元徳秀と謂い、自らは陽道州と称す」とあるのは、これを嘉したのである。隠遁すること二十年、一時の名士多これと遊んだ。崇寧年間、八行に挙げられ、解褐して国子録となり、再転して博士となった。直祕閣をもって帰り、卒した。八十四歳。

鄧考甫、

鄧考甫は字を成之といい、臨川の人である。進士に及第し、陳留尉・万載永明令・上饒県知県を歴任し、積官して奉議郎となり、開封府界河渠提点となったが、事に坐して官を去り、ついに戸を閉じて著書し、再び仕官を言わなかった。

元符末、直言を求める詔があった。考甫は八十一歳で上書して云う、「天下を乱すものは新法なり、末流の禍は将に言うべからざるものあらん。今は時に応じて更化し、純粋に祖宗の法に倣うべきである」と。よって熙寧以下、権臣が迭り起こり、世を欺き国を誤ったことを論じ、歴としてその事を指摘し、その人を枚挙した。蔡京はこれを嫉み、宗廟を誹謗したとし、官籍を削り筠州に羈置した。崇寧年間に党碑が除かれ、逐臣が釈放されると、同類五十三人のうち五十人は帰ることができたが、ただ考甫と范柔中・封覚民だけはそうならず、ついに筠州で卒した。死に臨み、幼孫の名世に筆を執らせ、口述で百余言を占め、その要約は、「我は山中の宰相と自ら謂うも、虚しくその才あり、文昌先生と自ら謂うも、虚しくその詞あり。盛世に大用されざるも、また憾み無し、蓋し天命あるのみ」といった。論述したものに『卜世大宝亀』・『伊周素蘊』・『義命雑著』・『太平策要』などがあり、凡そ二百五十余篇であった。

宇文之邵

宇文之邵、字は公南、漢州綿竹の人。進士に挙げられ、文州曲水県令となった。転運使が軽い絹を高値に設定し、県に命じて民に売らせた。之邵は言う、「県は江の下流、山の上にあり、土地は狭く民は貧しく、耕す者はほとんどおらず、今は凶作で飢饉の年であり、羌夷がしばしば侵入する。これ以上、利を求めて民を困窮させることはできません」と。運使は怒った。

ちょうど神宗が即位し言上を求めたので、上疏して言った、「天下は一家である。祖宗の創業・守成の法はすべて揃っている。陛下はまさに諒闇におられる。諂諛・姦佞の輩はまだ動きを潜めている。正に五聖の功徳を思い、常に左右前後にいるかのようにすべきである。京師は諸夏が見習うところであり、風俗は敦厚であるべきで、軽薄で浮華なことを尊ぶべきではない。公卿大夫は民の模範である。名節をもって自ら励むべきで、勢利に迎合することを先とするべきではない。節義廉恥をもって風化し導き、人々に自重することを知らしめたい。千里の郡において、利益があっても必ずしも興されず、害があっても必ずしも除かれないのは、転運使・提点刑獄がこれを制しているからである。百里の邑において、利益があっても必ずしも興されず、害があっても必ずしも除かれないのは、郡がこれを制しているからである。先日の赦令では、公の負債は一切免除されるはずであったが、役人はこれをますます厳しく取り立て、督促は一層甚だしく、上の恩沢は下に流れず、細民はますます困窮している。賢才を選んで三司の官とし、郡県に少し権限を与えれば、民の苦しみは除かれるであろう。それから番・棸・蹶・楀の盛んなるを監みて外戚を保安し、『棠棣』・『角弓』の義を考えて九族を親睦し、廃れた典章を興し、埋もれた人材を抜擢し、諂う者を遠ざけ、忠直な言論を招く。凡そ建置するものは、必ず大臣と共に議してその善きところを広め、号令と刑賞の権は専ら制御する。このようにすれば、天下の人は太平を見たいと思い、拱手して待つことができるであろう」と。

上疏を奏上したが返答はなかった。嘆息して言った、「私は仕えることができない」。そこで致仕し、太子中允の官をもって帰郷した。時に年はまだ四十に満たなかった。学問に自ら励み、その志を変えず、日々に交友と経史・琴・酒の楽しみをなし、退居して十五年で終わった。司馬光は言った、「私は聞く、志が行われなければ、禄位を錙銖のごとく顧みず、道が同じでなければ、富貴を土芥のごとく視る、と。今、之邵においてそれを見た」と。范鎮もまた言った、「之邵は位は低いが言うところは高く、学は富み行いは篤実である。私より二十一歳年少であるのに、私に先んじて官を辞した。私を慊然たらしめる」と。両賢に推重されたのはこのようであった。

吳瑛

吳瑛、字は德仁、蘄州蘄春の人。父の龍図閣学士遵路の任子の恩蔭により太廟齋郎に補され、西京竹木務を監み、淮南判官に簽書し、池州・黄州の通判を経て、郴州の知州となり、虞部員外郎に至った。治平三年、官任期が満ちて京師に赴き、年四十六歳で、即座に上書して致仕を請うた。公卿大夫で彼を知る者は互いに力を合わせて引き留めたが、聞き入れず、皆感服して及ばないと思い、相率いて都門で詩を賦し餞別の酒宴を開き、そこで帰郷した。

蘄に田があり、自給するに足るのみであった。溪流に臨んで家を築き、花を植え酒を醸し、家事は一切子弟に任せた。賓客が来れば必ず飲み、飲めば必ず酔い、あるいは疲れて花の間に臥し、客が去っても問わなかった。人物を批評する者がいても一言も応酬せず、ただ奴隷に促してますます酒を行かせ、人はその楽しく気さくな様を愛し、その高潔さを敬わない者はなかった。かつて貴客が彼を訪れたことがあり、瑛は酒酣に歌い、楽器で自分の頭を叩いて拍子をとったが、客もまた無礼とは思わなかった。財物を糞土のごとく視、妹婿が家財数十万を人に貸して返済できなくなると、瑛は哀れんで言った、「この人には母がいる。重い憂いを抱かせてはなるまい」。呼び寄せてその証文を焼いた。門生が田畑の管理を数年務め、突然辞去しようとして言った、「ある者が私の簿記が不正だと言っていると聞きました。義理として留まることはできません」。瑛は命じて前後の文書を取り寄せて見せたが、蓋を開けてみれば未だ封を切っていなかった。盗賊が家に入り、気づきながらも言わず、しかもその布団を取ろうとしたので、言った、「他の物は望むままにせよ。夜はまさに寒い。どうか私の布団だけは残してくれ」。その真率で曠達な様はこのようなものであった。

哲宗の朝に推薦する者がおり、吏部郎中に召され、さらに蘄州知州に任じられたが、いずれも起き上がらなかった。崇寧三年に病気を感じると、すぐに門を閉ざして医薬を断ち、臨終に至るまで乱れなかった。卒す。年八十四。

松江漁翁

松江の漁翁は、その姓名を知らない。常に小舟を漕いで長橋に遊び、波の上を往来し、船舷を叩き酒を飲み、酣に歌って自得していた。紹聖年間、閩の人潘裕が京師から官を調えて帰る途中、呉江を過ぎてこれに出会い、異なるものと感じ、起ち上がって揖して言った、「先生の気貌を見るに、もとより漁釣の流れではありません。ほんの少しの言葉を乞い、蒙昧を啓発したい」。翁は睨みつけて言った、「君は非凡だ。もし誠にその気があるなら、我が小舟に来て話さないか」。裕は喜んで舟に移った。翁は言った、「私は喧噪煩わしさを厭い、閑曠なところに身を置き、ここに遁世して三十年になる。幼い頃は経史百家の言を誦することを喜んだが、後に釈氏の書を見て、今は皆捨て去った。ただ飽きるまで食べて遊ぶのみ。まだ何をなすことがあろうか」。裕は言った、「先生はこのように身を洗い徳を浴しておられる。今、聖明の君が上におられる。どうして出仕されないのですか」。笑って言った、「君子の道は、あるいは出、あるいは処る。私はたとえ巌穴に棲み隠れ、園公・綺里季の跡を追うことはできなくとも、ひそかに老子の曲全の義を慕う。そもそも志を養う者は形を忘れ、形を養う者は利を忘れ、道を致す者は心を忘れる。心も形も共に忘れれば、軒冕を糞土のごとく視るに至る。私は君と出処の趣を異にする。君は励むがよい」。裕は言った、「裕は不才ですが、幸いにも先生の高義を聞くことができました。敢えてお住まいをお尋ねします」。言った、「私は姓名すら人に知られたくない。ましてや居室などどうして」。飲み終えると、長揖して裕を元の場所に返らせ、櫂を打って去った。

杜生

杜生は、潁昌の人。その名は知られず、県人は杜五郎と呼んだ。住まいは県から三十里離れており、屋が二間あり、その子と共に住んでいた。前に空地が一丈余りあり、そこに籬の門を設け、生は門を出ること三十年であった。

黎陽の尉孫軫が彼を訪ねて行った。その人はなかなか洒落ており、自ら述べて言うには、「村人に何の能もありません。官人、どうして訪ねてくださったのですか」と。軫が門を出ない理由を尋ねると、笑って言うには、「告げた者が過言なのです」と。門外の一本の桑を指して言うには、「十五年前を思い出しますと、やはりかつてその下で涼をとったこともあります。どうして出ないと言えましょうか。ただ時に用いられず、人に求められないので、たまたま自ら出ないだけです。何を尊ぶことがありましょうか」と。生計を立てる方法を尋ねると、言うには、「昔、邑の南に住んでおり、田五十畝があり、ある兄とともに耕していました。兄の子が嫁を迎えるに及び、耕すだけでは養いきれないと推し量り、そこで全てを兄に与え、妻子を連れてここに来ました。郷人の家を借りる恵みにあずかり、ここに住んでいます。ただ人に日を選ぶことと、また薬を売って粥を賄うだけで、時には続かないこともありました。後に子が耕し荷うことができるようになり、年長者が哀れんで、田三十畝を与えて耕させてくれました。なお余力があり、また人のために雇われて耕し、これより食は足りました。郷人は貧しく、医術をもって自ら生業とする者が多い。自分は食が既に足りていると思い、さらに他の利益を兼ねるべきではない。これによって日を選ぶことや薬を売ることは、一切しません」と。常日、何をしているかと尋ねると、言うには、「端坐しているだけです」と。「少しは書物を読みますか」と問うと、言うには、「二十年前、かつてある人が一冊の書を遺しました。題号はなく、その中は多く浮名経を説いていました。当時はその議論を極めて愛し、今は忘れ、書もまたどこにあるか分かりません」と。時は厳寒、布の袍に草鞋、室中は空っぽであるが、気韻は閑かで広く、言葉は精簡、有道の士である。その子の為人を尋ねると、言うには、「村の童です。しかし性質は甚だ淳厚で、妄りに言わず、みだりに遊び戯れません。ただ時折県に塩や乳製品を買いに行くだけで、数回の行跡を待ってその帰りを待つことができ、直行直帰、かつて傍らに遊び歩くことは一度もありません」と。軫は嘆息し、しばらく留まり連れ立って、やがて去った。後に延安の幕府に至り、沈括にこのことを言った。括は当時軍書を処理し、夜半に及び、疲れ果ててまだ臥さず、軫がこの話をしたのを聞き、たちまちその労を忘れた。

順昌の山人

順昌の山人。靖康の末、順昌の山中に避乱した者がおり、深く入って茅葺きの家を得た。主人は風裁が甚だ整っており、近づいて語ると、士君子であった。怪しんで問うて言うには、「諸君は何事で妻子を連れてここまで来ることができたのですか」と。そこで事情を話すと、主人は言うには、「乱は何から起こったのですか」と。衆は争って言うと、主人は嘆き哀しみしばらくして、言うには、「我が父は仁宗朝の人で、嘉祐の末からここに居を占めて、それより再び出ませんでした。私の聞くところによれば、ただ熙寧の紀年があることを知るだけで、また今が何年かも知りません」と。

南安の翁

南安の翁。漳州の陳元忠が南海に客居していた日、かつて省試に赴く途中南安を通り過ぎ、日が暮れたので、野人の家に宿を求めた。茅葺きの家が数軒、竹や木が茂り密生して可愛らしい。主の翁は麻衣に草鞋であるが、挙止談対はさながら士人のようであった。机の上には文籍が散乱しており、見ると皆、経書や諸子の書であった。陳が叩いて尋ねて言うには、「翁は子に読書を教えるのですか」と。言うには、「園を耕して生計を立てているだけです」と。「また城や市に入りますか」と問うと、言うには、「十五年出ていません」と。「蔵書は何のためですか」と尋ねると、言うには、「たまたまあるだけです」と。そこで他の話を交えた。しばらくして、風雨が激しく起こり、その二人の子が帰ってきた。鋤を置いて客に揖し、人物は農家の子の類ではなかった。翁は豆の羹を進めて客をもてなし、再び共に語ることはなかった。夜明けを待って別れて去った。

陳は用事で城中に留まり、翌日、翁が慌てふためいて歩いているのを見て、陳は追いかけて詰問して言うには、「翁は十五年城を出ないと言ったのに、どうしてここに来たのですか」と。言うには、「私は急用で出ないわけにはいきませんでした」と。尋ねると、なんと長男が関の外で果物を売り税を失い、関の吏に拘束されたのであった。陳が監征に謁見して、行くと既に郡に捕送されていた。翁と小児が共に庭の下に詣で、長子は杖刑に当たる。翁は懇ろに郡守に申し上げて言うには、「私は老いて鈍く無能で、全てこの子に頼って養われています。もし彼が杖に耐えられなければ、明日は食に困ります。どうか身をもって代わりたい」と。小児は言うには、「父上はどうして杖を受けることができましょうか。私が兄の代わりを願います」と。長男もまた罪が己にあるとして、甘んじて受ける、三人が争って決まらない。小児が父の耳元に来て語り、何か請おうとするようであった。翁が叱ると、児はどうしても前に出ようとする。郡守は怪しんで、呼んでその理由を問うと、答えて言うには、「父は元は帯職の正郎であり、宣和の間に累ねて州郡を治めました」と。翁は急いでその衣を引っ張って退かせ、言うには、「児は狂っている、妄りに言うのだ」と。守が誥勅があるかどうか尋ねると、児は言うには、「一束にして甕の中に置き、山下に埋めてあります」と。守は直ちに吏を遣わして児に随行させ取りに行かせると、果たして得た。そこで直ちに翁を上座に招き、謝罪してその子を釈放した。翌日、わざわざ車を回して訪ねると、家は既に空であった。

張𡒊

張𡒊、字は子厚、常州の人。進士甲科に登第した。他の兄弟がいないため、ただその親を養い、少しの間も側を離れることを忍ばなかった。親友が強いて仕官させようとしたので、青溪の主簿に調任されたが、これも官に就かなかった。戸を閉じて四十年読書し、手ずから数万巻を校訂し、一字の誤りもなかった。経を究め著書し、夜半に及んでも眠らなかった。元豊年中、近臣がその高行を推薦した。元祐に至り、大臣がまた彼を推薦し、潁州の教授に起用されたが、辞して就かなかった。そこで孫覚、胡宗愈、范祖禹が交わって上奏して言うには、「𡒊が草むらで死ねば、後世は必ず朝廷が士を失ったと思うでしょう」と。蘇軾が言うのは特に切実であった。詔して秘書省校書郎に任じ、郡県に命じて礼を尽くして敦促して派遣させたが、ついに出なかった。

𡒊は家では孝弟を修め、友には忠信を行い、名声は人に聞こえ、中を踏み常を守り、従容として迫らず、当時の名流に慕われ、門を造らないことを恥とした。崇寧四年、卒去した。翌年、詔して𡒊が丘園に隠徳し、声聞が顕著であるとして、諡を「正素先生」と賜った。