宋史

列傳第二百十六 隱逸上 戚同文 陳摶 种放 萬適 李瀆 魏野 邢敦 林逋 高懌 徐復 孔旼 何羣

中古の聖人が『易』を作るに当たり、〈遯〉の上九に「肥遯、不利無し」と曰い、〈蠱〉の上九に「王侯に事えず、其の事を高尚にす」と曰う。二爻は陽徳を以て高地に処し、而も皆隠逸を以て之に当てる。然らば則ち隠徳の当世に高きは、其の来ること遠し。巣父・許由は経に見えざるも、其れ誣うべけんや。五代の乱、世を避くる宜しく多かるべし。宋興り、巣穴に弓旌の招き、史に重ねて見ゆ。然れども高蹈遠引する陳摶の若きは、終に得て之を致す莫く、豈に二卦の上九なる者に非ずや。种放の徒、大廷に召対され、娓娓として献替す。其の人出処、果たして〈艮〉の君子時止時行に合する有らば、人何ぞ譏けん。『隠逸傳』を作る。

戚同文

戚同文、字は同文、宋の楚丘の人。世儒を為す。幼くして孤と成り、祖母が外氏に携えて育つ。孝を以て奉養し、聞こゆ。祖母卒す、昼夜哀号し、数日食わず、郷里之を感動す。

初め、邑人楊愨が生徒を教授するを聞き、日々其の学舎に過ぎ、因りて『礼記』を授けらる。即ち随って誦し成り、日に一卷を諷し、愨異之を留む。歳を終えずして『五経』を誦し畢え、愨即ち女弟を以て妻と為す。此れより弥益勤励して書を読み、累年帯を解かず。時に晋末喪乱、禄仕を絶意し、且つ混一を見んと思い、遂に「同文」を以て名字と為す。愨嘗て之を仕へんと勉む。同文曰く「長者仕えず、同文も亦仕えず」。愨将軍趙直の家に依る。疾に遇い起たず、家事を同文に託す。即ち為に三世数喪を葬る。直復た厚く礼待を加え、室を築き徒を聚め、益を請うの人千里を遠しとせずして至る。第に登る者五六十人、宗度・許驤・陳象輿・高象先・郭成範・王礪・滕涉皆台閣を践む。

同文純質にして信義を尚ぶ。人に喪有る者は力を拯済し、宗族閭里貧乏なる者は周給す。冬月、多く衣裘を解きて寒き者に与う。財を積まず、居室を営まず。或いは之を勉むれば、輒ち曰く「人生は行義を以て貴しと為す、焉んぞ此れを用いん」。此れにより深く郷里に推服せらる。孝悌に循わざる者有れば、同文必ず善道を以て諭す。頗る人を知る鑑有り、与に遊ぶ所皆一時の名士。人の善を聞くを楽しみ、未だ嘗て人の短を言わず。宗翼・張昉・滕知白と友と為る。生平京師に至らず。長子維随州書記に任じ、同文を迎えて就養す。漢東に卒す。年七十三。詩を好みて作す。『孟諸集』二十巻有り。楊徽之嘗て使に因りて郡に至り、一見して相善し、多く酬唱を与う。徽之嘗て云う、陶隠居「堅白先生」と号す。先生純粋質直、道義を以て自ら富む。遂に其の門人と追号して「堅素先生」と為す。

二子:維・綸。維、建隆二年、屯田員外郎を以て曹王府翊善と為り、累官職方郎中、致仕し、卒す。年八十一。綸、自ら傳有り。

大中祥符二年、府民曹誠即ち同文の旧居旁に舎百余区を造り、書数千巻を聚め、生徒を延いて講習甚だ盛ん。詔して額を賜い本府書院と為し、命じて綸の子奉礼郎舜賓之を主たらしめ、誠を署して府助教と為し、本府幕官を委ねて之を提挙せしむ。

楊愨

楊愨は、虞城の人。力を学び志を勤め、聞達を求めず。

宗翼

宗翼は、蔡州上蔡の人。父虞城主簿と為り、因りて家す。篤く孝にして恭謹、米を負いて母を養う。学を好み記に強く、経籍一見すれば即ち能く默写す。欧陽・虞・柳の書皆其の楷法を得。文を属する能くす。隠して仕えず、家に斗粟無くとも怡怡如たり。未だ嘗て貧窶を以て人に干せず。物を市するに評価せず、市人知りて欺かず。嘗て言う「昼夜は、昏曉の辨なり」と。故に既に暝み未だ曙めざるは、皆戸を出でず。隣里の小児を見れば、之を成人の如く待ち、未だ嘗て欺紿せず。同文嘗て翼に謂いて曰く「子は労謙にして古人の風有り、真に吾が友なり」と。卒す。年八十余。

子度、進士に挙げられ、侍御史に至り、京西転運使を歴任し、『太祖実録』の修撰に預かる。

張昉

張昉は史才あり、知雑御史・省郎を歴任し、殿中少監に至りて致仕す。

子の信は、別に傳あり。

滕知白

滕知白は詩を善くし、刑部員外郎・河北転運使に至る。

子の涉は、給事中となる。

高象先

高象先、父は凝祐、刑部郎中にして、強幹を以て称せらる。象先は、淳化中、三司戸部副使となり、光禄少卿にて卒す。

郭成範

郭成範は最も文あり、倉部員外郎となり、安定公の書記を掌る。疾を辞し、司封員外郎にて致仕し、卒す。

王礪

王礪は母に事へること甚だ謹み、太平興国五年の進士、屯田郎中に至る。子は渙・瀆・淵・沖・泳。

渙の子:稷臣、瀆の子:堯臣、並びに進士及第。渙の子:夢臣、進士出身。

陳摶

陳摶、字は図南、亳州真源の人なり。始め四五歳の時、渦水の岸辺にて遊びしに、青衣のおうありて之に乳を与ふ、是より聡悟日増す。長ずるに及び、経史百家の言を読み、一見して誦し、悉く遺忘すること無く、頗る詩を以て名有り。後唐長興中、進士に挙げられて及第せず、遂に禄仕を求めず、山水を以て楽しみとす。自ら嘗て孫君仿・麞皮処士の二人に遇へりと云ふ、高尚の人なり、摶に語りて曰く、「武当山九室巖に隠居すべし」と。摶往きて棲む。因りて服気辟穀すること二十余年を歴ぬ、但だ日に酒数杯を飲むのみ。華山雲台観に移り住み、又た少華の石室に止る。毎に寝処するに、百余日を出でざること多し。

周世宗は黄白術を好み、摶の名を以て聞こゆる者有り、顕徳三年、華州に命じて闕下に送らしむ。禁中に留め止むること月余、従容として其の術を問ふ。摶対へて曰く、「陛下は四海の主と為り、当に治を致すを念ふべし、奈何ぞ黄白の事に留意せんや」と。世宗之を責めず、諫議大夫と為すを命ずるも、固く辞して受けず。既に其の他術無きを知り、還して所止に放ち、詔して本州の長吏に歳時に存問せしむ。五年、成州刺史朱憲陛辞して赴任せんとす、世宗、帛五十匹・茶三十斤を齎して摶に賜ふことを令す。

太平興國年間に来朝し、太宗は彼を厚く遇した。九年に再び来朝すると、皇帝はますます礼を重んじて遇し、宰相の宋琪らに言った、「陳摶はただ己の身を善くするのみで、勢利に干渉せず、いわゆる方外の士である。陳摶が華山に住むことすでに四十余年、その年齢は百歳に近いと推測される。自ら言うには、五代の離乱を経て、幸い天下が太平になったので、来朝して拝謁したのだと。彼と語ると、大いに聞くべきところがある」と。そこで中使を遣わして中書省に送り、宋琪らがゆったりと尋ねて言った、「先生は玄黙修養の道を得ておられるが、人に教えることはできますか」と。これに対し答えて言った、「陳摶は山野の人であり、時世に用いられることもなく、また神仙黄白の事や、吐納養生の理も知らない。伝えるべき方術はない。仮に白日昇天したとしても、世の中に何の益があろうか。今、聖上の龍顔は秀麗異なり、天人の表があり、古今に博達し、治乱を深く究められて、真に有道の仁聖の主である。まさに君臣が心を協わせ徳を同じくし、教化を興し治を致すべき秋であり、勤めて行う修練は、これに過ぎるものはない」と。宋琪らは善しと称し、その言葉を皇帝に奏上した。皇帝はますます彼を重んじ、詔を下して号を「希夷先生」と賜い、さらに紫衣一襲を賜い、陳摶を闕下に留め、役所に命じて彼の住む雲臺観を増築修繕させた。皇帝はしばしば彼と詩賦を唱和し、数か月後に山に帰すことを許した。

端拱の初め、突然弟子の賈德昇に言った、「汝は張超谷に石を穿って室を作れ、我はそこで憩おう」と。二年の秋七月、石室が完成すると、陳摶は自ら数百言を書いて表とし、その概略に言った、「臣陳摶は大数に終わりあり、聖朝に恋い慕うも、すでに今月二十二日に蓮花峰下の張超谷中にて形を化す」と。期のごとくに卒去し、七日経っても肢体はなお温かかった。五色の雲が洞口を蔽い塞ぎ、ひと月たっても散らなかった。

陳摶は『易』を読むことを好み、手から離さなかった。常に自ら「扶搖子」と号し、『指玄篇』八十一章を著し、導養及び還丹のことを論じた。宰相の王溥もまた八十一章を著してその旨を箋注した。陳摶にはまた『三峰寓言』及び『高陽集』、『釣潭集』があり、詩六百余首がある。

人の意を逆に知ることができた。斎室には大きな瓢箪が壁に掛かっていたが、道士の賈休復が心の中でそれを欲していると、陳摶はすでにその意を知り、休復に言った、「汝が来たのは他に理由はなく、ただ我が瓢箪が欲しいのであろう」と。侍者を呼んで取らせて与えると、休復は大いに驚き、神であると思った。郭沆という者がおり、若い時に華陰に住み、夜に雲臺観に宿泊した。陳摶は夜中に呼び、急いで帰るよう命じたが、郭沆は決断できなかった。しばらくして、また言った、「帰らなくてもよい」と。翌日、郭沆が家に帰ると、果たして夜中に母が突然心痛を発し、ほとんど死にそうになったが、一食ほどの時間で治った。

華陰の隠士李琪は、自ら唐の開元年間の郎官であり、すでに数百歳であると言い、人々がめったに見られない者であった。関西の逸人呂洞賓は剣術を持ち、百余歳で童顔であり、歩みは軽く速く、瞬く間に数百里を行き、世間では神仙とみなした。いずれもたびたび陳摶の斎室に来て、人々は皆これを異としていた。大中祥符四年、真宗が華陰に行幸し、雲臺観に至り、陳摶の画像を閲覧し、その観の田租を免除した。

許瓊

また許瓊という者がいた。開封府鄢陵県の人である。開宝五年、子の許永が盧県尉を罷免され、匭に上書して言った、「臣は年七十五、父の瓊は年九十九、長兄は年八十一、次兄は年七十九であります。近地の一官を乞い、栄養に就きたい」と。皇帝は上奏を覧て、許永を召して訊ね、すぐにその父を迎えて闕下に赴かせるよう命じた。許瓊は講武殿で対面を得て、皇帝が顧み問うこと久しく、すべて奏上して答えられ、しかも言葉の気力は衰えず、唐末以来の事を言うと、歴歴として聞くに値した。皇帝はその父子ともに遐寿を享けることを喜び、襲衣・犀帯・銀の鞍勒馬・帛三十匹・茶二十斤を賜い、許永を鄢城令に任じた。この時、澶州・密州・斉州・沂州・萊州・江州・吉州・万州、及び江陰軍・梁山軍がそれぞれ八十歳以上の呂継美ら二十九人を奏上し、みな爵を公士と賜った。真宗の時、老人で年百歳以上の者は、州県がその名を聞こえさせ、みな詔を下して衣帛・米麦を賜い、長吏が慰問した。

种放

种放、字は明逸、河南府洛陽らくよう県の人である。父の詡は吏部令史で、長安ちょうあん主簿に補任された。种放は沈黙して学を好み、七歳で文を綴ることができ、群児と遊ばなかった。父はかつて進士に挙げるよう命じたが、种放は業が未だ成っていないことを理由に辞し、妄りに動くべきではないと言った。しばしば嵩山・華山の間を往来し、慨然として山林の志を持った。間もなく父が卒去し、数人の兄は皆進取を求めたが、ただ种放だけが母とともに終南山の豹林谷の東明峰に隠れ、草を結んで廬とし、ただ風雨をしのぐのみであった。講習を業とし、従学する者が多く、束脩を得て母を養い、母もまた道を楽しみ、滋味を薄くした。

种放は辟穀の術を得て、別に峰頂に堂を造り、終日雲を望んで端坐した。しばしば山水が暴漲して道路が阻隔され、糧食が乏しくなると、ただ芋や栗を食べた。性来酒を嗜み、かつて秫を植えて自ら醸し、毎日空山清寂なるを以て、聊か和を養うため、よって「雲溪醉侯」と号した。幅巾に短褐を着け、琴を背負い壺を携え、長溪を溯り、磐石に坐り、山薬を採って飲むのを助け、しばしば終日を過ごした。月夜の夕べにはあるいは夜半に至り、自ら豹林から州城までの七十里を、徒歩で樵夫と往返した。性来浮屠氏を喜ばず、かつて仏経を裂いて帷帳を作った。著した『蒙書』十巻及び『嗣禹説』、『表孟子上下篇』、『太一祠録』は、人々にかなり称賛された。多く歌詩を作り、自ら「退士」と称し、かつて伝を作ってその志を述べた。

淳化三年、陝西転運使の宋惟幹がその才能と行いを上言し、詔を下して召し出そうとした。その母は憤って言った、「常に汝に徒を聚めて講学するなと諫めた。身はすでに隠れたのである。何のために文を用いようか。果たして人に知られて安住できなくなれば、私は汝を棄てて深く窮山に入ろう」と。种放は病と称して起たなかった。その母はその筆硯をすべて取り上げて焼き、种放とともに転居して窮僻の地に移り、人の跡はめったに至らなかった。太宗はその節義を嘉し、詔を下して京兆府に命じ緡銭を賜って母を養わせ、その志を奪わず、役所は歳時に慰問した。咸平元年に母が卒去すると、水漿を口にすること三日、墓の側に廬した。翰林学士の宋湜・集賢院学士の錢若水・知制誥の王禹偁が、その貧しくて葬ることができないと上言したので、詔を下して銭三万・帛三十匹・米三十斛を賜い、その喪を助けた。

四年、兵部尚書張齊賢が言上して、種放は三十年間隠居し、十五年間は都市を遊歴せず、孝行は純粋に極まり、風俗を励ますことができ、簡素で質朴、退いて静かであり、古人に劣らないと述べた。再び詔を下して本府に官を山に遣わし、礼をもって発遣して宮闕に赴かせ、旅装の銭五萬を給したが、種放は辞して起たなかった。翌年、張齊賢が京兆の守に出ると、再び種放の操行を条陳し、旌表と賞賜を加えるよう請うた。即時に詔を賜って言う、「汝は丘園に隠居し、古今に博通し、孝悌の行いは、郷里に推され、古人の栄誉を遺すを慕い、君子の常道を挹す。屡々守藩の奏を覧るに、弥々遁世の風を彰わし、来儀を載せて渇き、予の延佇に副わんことを。今、供奉官周旺に詔を齎らせ、汝を召して宮闕に赴かしめ、帛百匹・銭十萬を賜う」と。九月、種放が到着し、崇政殿に対し、幅巾で拝謁し、座を命じて語らせ、民政と辺事を詢ねた。種放は言う、「明王の治は、民を愛するのみ、惟だ徐かにして之を化す」と。その他は皆謙譲して答えなかった。即日に左司諫・直昭文館を授け、巾服と簡帯を賜い、都亭驛に館し、大官に供膳させた。翌日、表を上して恩命を辞した。上は種放が旧く陳堯叟と交遊したことを知り、陳堯叟に意を諭させた。また宰相に謂って言う、「朕は茂異を求めて、以て視聴を広め、治道を資けんとす。種放の如きは終に仁を楽しまずとも、亦その請いを遂げるべし」と。中書より詔を伝えると、種放は言う、「病んで山林に居り、天恩累ねて礼聘を加えられ、巌猿渓鳥の性、固より禄仕を以て意と為す敢えず。然れども主上虚懐して士を待ち、旰食して人を憂うるの心、亦敢えて羈束を以て念と為さず」と。遂に詔してその譲を聴かず。数日後、再び召見し、緋衣・象簡・犀帯・銀魚を賜い、御製の五言詩を以て寵し、昭慶坊の第一区を賜い、帷帳什物を加え、銀器五百両、銭三十萬を賜うた。中謝の日、学士院にて食を賜い、是より屡々召対を得た。六年春、再び表を上して暫く故山に帰ることを謝し、詔してその請いを許す。将に行かんとするに、また起居舎人に遷し、館閣の官に命じて瓊林苑にて宴餞せしめ、上は七言詩三章を賜い、席に在る者は皆賦した。十月、使者を遣わして山に就き撫問し、その林泉の居処を図して献上せしめ、優詔を以てその入覲を促したが、種放は疾い未だ平らかならざるを以て請うた。

景德元年十月、来朝し、山に帰ること久しきを言い、月を計って俸を受けざることを請うたが、詔して特に之を給す。嘗て書を観て詩を賦するに因り、上は言う、「種放の体格は高古なり。その帰るを聞くに、私居終日、一室に黙坐す。山水の楽も、亦天性なり。毎に詢問する所は、皆経に拠りて対し、頗る裨益多し。朕の之を優待するは、蓋し浮競を激するを以てなり」と。種放は京師に至る毎に、秦雍の生徒多く就いて業を受く。二年、右諫議大夫に擢でられる。表を上して嵩少に養疾することを乞い、之を許し、河南府に検校せしむ。資政殿に召対し、学士院に曲宴し、王欽若及び当直の学士・舎人・待制悉く預かる。既に罷み、又た王欽若の直廬に宴を賜う。表を上して都門に置く餞の礼を免ぜんことを乞う。屡々中使を遣わして労問し、茶薬を以て賜う。是の冬、復た来朝す。三年、兄の喪に因り告げて帰り終南に葬を営まんことを請い、復た召して宴し詩を賜う。

種放の山居する草舎は五六区、野蔬と蕎麦を啖う。表を上して太宗の御書及び経史の音疏を求め、悉く之を給す。十月、復た至る。上は宰相に謂って言う、「種放比来高尚其事し、毎に詢問する所、頗る采る可き有り。朝廷爵秩を加うるも、未だ大用せず、即ち物議未だ厭わず、慮う所は種放の巻きて之を懐かんことなり」と。即ち内侍任文慶を遣わし詔を齎らせて之を諭して言う、「朕寰区を臨御し、憂勤旰昃し、茂異を詳延し、隠淪を物色し、話言を思訪し、以て庶績を用熙せんとす。卿の心を巌竇に棲まわせ、跡を囂塵に屏むるを以て、綺皓の遐蹤を躡い、曾・顔の至行有り、特に賁園の典を挙げ、果たして前席の心に符す。毎に諮詢する所、理道を備詳し、敷納を載観するに、蔚として材謀有り、深く朕が懐に簡び、頗る大用を思う。然れども群情未だ悉くせず、成命是れ稽る。今四隩来同し、萬区乂まんと思念し、方に政本を崇め、庶く時風を厚くせんとす。卿必ずや化源を酌斟し、王度を丹青し、富国強兵の術を恢め、制礼作楽の規を陳べ、樸に返り淳に還り、刑を措き訟を息め、予の逮ばざるを輔け、太平に馴致し、機衡に登用し、寡昧を弼成せん。卿宜しく茲の眷遇を体し、乃ち誠明を罄くし、経国の大猷を叙べ、致君の遠略を述べ、奏牘に形を尽くし、以て朕が心を沃すべし。涼徳の倚毗に副い、外朝の観聽を褰き、乃ち枢務を司り、式く至公に洽わん」と。

種放上言して曰く、「臣が書を読み文を業とするは、実に父師の誨に自り、古を学び退を嗜むは、本より山水の楽を求む。天性を率いて以て至道に奉ぜんと思い、豈に麋鹿に意有らんや、蓋し紱冕に心無きなり。その幸いとする所は、邦家化成し、疆場兵偃ぎ、群黎鼓舞し、庶彙胥悦す。蒲帛の聘は、寵渙巌谷し、君命薦く及び、肅聽祗受す。既に象魏の下に朝し、但だ巌林の賤を愧づ。聖顔を咫尺に奉し、徳音の教論を聆く。跡を侍従に列し、冠を諫諍に峨ます。愚者の慮と雖も、忠規を竭くして屡々陳ぶ。而して大君の明は、瞽言の補わざるを懼る。今又た礼楽の制を以て訪れ、其の刑政の方を詢ね、且つ小器微材を以て、大用を加えんとす。蓋し沿革の宜なる所を念い、三五を歴て既に異なり、弛張の体は、豈に一二を以て述ぶ可けんや。国家皇極を謀建し、富寿に躋納せんとし、惟だ二聖の光宅し、百王の闕漏を総ぶ、豈に伊れ葑菲、敢えて論述に預らんや。方今徳義宣明し、鸞驥戾止す、臣が才の如き、儼爾として駢列す。伏して望む、臣が鑒を洞知し、節を守るの志を憐れみ、泛駕に覆圧の害無からしめ、器を為して溢蕩の咎を免れしめ、此の過聽を寝め、其の夙心を遂げしめんことを。況んや臣首めて献納の行を献じ、位無きに為さず。清閑の対に預かり、疏隔に為さず。又安んぞ碌碌として依違し、嘿嘿として曠素せん。願わくは且く諫署に歯し、庶く少しく朝制を観、斯れ亦否能適う有り、名器仮る無からん。唯だ茲の保全の恵は、仰いで仁聖の賜に繋る」と。

時に先ず陳堯叟に旨を諭させ、陳堯叟手筆にて其の意を審らかにす。種放云く、「聘召を受け、及び諫垣に遷りてより、補報する所無く、幸い多し。今主上聖明、朝に闕政無く、之を顕位に処するは、則ち是れ重ねて其の過を増すなり」と。及び表を覧て、上は曰く、「種放能く分を守り懇に譲る、益々嘉す可し」と。大中祥符元年、判集賢院を命じ、泰山に封ずるに従い、給事中を拝す。二年四月、山に帰ることを求め、龍図閣にて宴餞し、学士に命じて即席に詩を賦せしめ、序を製す。上詩を作り、卒章に云く、「我が心虚しく佇つ日、復た山中に酔う無からん」と。初め、種放詩を作り嘗て「渓上酔眠みて都て知らず」の句有り、故に之に及ぶ。三年正月、復た召して宮闕に赴かしめ、表を上して賜告を乞う。手詔を以て優に之に答う。歌を作りて之を賜い、乃ち衣服・器幣を齎らせ、京兆府に命じて毎季幕職を遣わし山に就き存問せしむ。四年正月、復た来朝し、汾陰に祠るに従い、工部侍郎を拝す。

放はたびたび宮闕の下に至ったが、やがてまた山に還り、ある人が書を贈ってその出処の跡を嘲り、かつ巌谷に居を棄てるよう勧めたが、放は答えなかった。放は終身娶らず、とりわけ喧騒を嫌ったので、京城に賜った邸宅は僻地を選んで与えられた。しかし禄賜はすでに優厚で、晩節はかなり輿服を飾った。長安に広く良田を置き、歳利は甚だ博く、また強いて買い取る者もあり、ついに争訟に至り、門人や族属はこれに依り頼んで恣に横暴であった。王嗣宗が京兆を守った時、放はかつて酔って乗り、彼を罵った。嗣宗はたびたび人を遣わして放の不法を責め、なおその事を条上した。詔して工部郎中施護に推究させたが、赦恩に会して止んだ。四月、山に帰ることを求め、また宴を賜ってこれを遣わした。居住する山林には、細民が多く樵採を恣にしていたので、特詔してこれを禁止した。放はついに表を上して嵩山の天封観の側に徙居し、内侍を遣わして興唐観の基址に第を起こしてこれを賜った。百日を超える休暇を与え、その俸給を継続して給した。しかしなお終南山に往来し、田畝を巡視した。毎回行くには必ず駅乗を給し、道中では時に自ら駅吏を罵り、糧食や用具の費用を計算して取り立てた。時の議論は次第にこれを軽んじた。

かつて曲宴を開いて群臣に詩を賦させた時、杜鎬は平素から詩を作らず、『北山移文』を誦してこれを諷した。上はかつて近臣に語って言った、「放は朕のために言う事甚だ多く、ただ外廷に知る者がない」と。そこで彼が上った『時議』十三篇を取り出した。その目は次の通りである:『議道』、『議德』、『議刑』、『議器』、『議文武』、『議制度』、『議教化』、『議賞罰』、『議官司』、『議軍政』、『議獄訟』、『議征賦』、『議邪正』。

八年十一月乙丑、朝に起き、忽ち前後の章疏の草稿を悉く取り出して焼き、道士の衣を着け、諸生を召して次に会飲させ、酒が数巡して卒した。訃報を聞き、上は甚だ嗟悼し、親しく文を製して内侍朱允中を遣わして祭を致させた。終南山に帰葬し、工部尚書を贈り、その甥の世雍に同学究出身を録した。

萬適

萬適、字は縱之、陳州宛丘の人、自ら「遣玄子」と号す。六七歳にして即ち詩を作った。長ずるに及び、学問を喜び、『道德経』に精しかった。高錫の族子の冕及び韓伾と交遊し、酬唱に多く警句があった。仕進を求めず、専ら著述を務めとし、『狂簡集』百巻、『雅書』三巻、『志苑』三巻、『雍熙詩』二百首、『経籍擿科討論』計四十巻があった。

淳化年中、伾が翰林学士に任ぜられ、召対に因り、上が問うて言った、「卿は早く嵩陽に在り、当時の輩流に頗る遺逸はあるか」と。伾は適及び楊璞、田誥を以て答えた。上は悉く召して闕下に至らせよと命じた。詔書が下った時、誥は既に卒していた。璞は既に至り、便殿で対し、仕進を願わず、上は束帛を賜い、一子に出身を与え、故郡に還した。適は最後に至り、特授して慎県主簿とした。適は平素康強で疾なく、詔が下った日には既に病んでいたが、なお強いて朝謝に赴き、挙止は山野の風で、人皆これを笑った。後数日にして卒した。

田誥

田誥は、歴城の人。著述を好み、学徒数百人を聚め、進士に挙げられて顕達する者踵を接し、故に朝廷に聞こえ、宋惟翰、許袞は皆その弟子である。誥の著作百余篇世に伝わり、大率迂闊である。毎に構思するには必ず深草の中に匿れ、全く人声を聞かず、やがて自ら草中より躍り出で、即ち一篇成った。

楊璞

楊璞、字は契玄、鄭州新鄭の人。歌詩を善くし、士大夫多く伝誦した。畢士安と特に相善くし、毎に牛に乗って郭店に往来し、自ら「東野遺民」と称した。かつて杖策して嵩山の窮絶の処に入り、構思して歌詩と為し、凡そ数年にして百余篇を得た。璞は召された後、還り、『帰耕賦』を作って志を示した。真宗が諸陵に詣で、道すがら鄭州に出で、使者を遣わして茶帛を賜った。卒す、年七十八。

李瀆

李瀆は、河南洛陽の人である。六世の祖は坦、馮翊令。坦は仲芳を生み、大理司直。仲芳は玄初を生み、福建観察推官。玄初は鄑を生み、即ち瀆の曾祖である。字は堯封、梁に仕え、滑・魏・宋三鎮の留後を歴任し、崇政使・礼部尚書に拝された。後唐の天成年中、太子少傅を以て致仕し、卒し、太保を贈られた。祖は延昭、殿中丞。父は瑩、字は正白、詞賦を善くし、広順の進士、蒲帥の張鐸が記室に辟き、因って河中に家した。乾徳初、右補闕蘇徳祥が薦めて殿中侍御史・度支判官とした。江南に使いし、李従善の賂遺を受けた罪に坐し、責授して右賛善大夫とし、卒した。

初め、瑩が河祠に祈って瀆を生んだので、故に名を瀆とし、字を河神としたが、後に改めて長源と字した。淳澹で古を好み、経史を博覧した。十六歳で父の喪に遭い、服闕して後、門を杜って再び仕進しなかった。家世は多く書画を聚め、頗る奇妙なものがあった。王祐が河中を典し、深く礼待を加え、これより多く時に聞こえた。中条山中に往来し、産業に親しまず、居住する所は木石幽勝であった。唐室以来の衣冠人物を談ずるに、歴歴として聴くに足りた。文を著すことは稀であった。前後の州将は皆厚くこれに遇した。王旦、李宗諤はこれと世旧であり、毎にその仕えることを勧めたが、瀆は皆答えなかった。乗る馬は、かつて宗人に借りられ、廛間に憩った。これを見た人が瀆に語ると、瀆は即ちこれを売り払った。その喧騒を厭うことこのようであった。州閭はその倹徳に感化された。

真宗が汾陰を祀った時、直史館の孫冕がその隠操を言上し、加えて搜采するよう請うた。陳堯叟がまたこれを薦めた。命じて使者を遣わし召見させたが、足疾を理由に起たずと辞した。内侍を遣わして労問し、長吏に歳時存撫させた。明年、また使者を遣わして存問すると、瀆は自ら世々儒墨の家で静を習い世を避ける意を陳べた。平素より酒を嗜み、ある人がこれを戒めると、答えて言った、「羸を扶け疾を養うには、これを捨てて他に適うものなし。吾が好む所に従い、余年を尽くす、また楽しからずや」と。かつて諸子に語って言った、「山水は以て情を娯しむに足る。もし酔って卒するに遇えば、吾が願いである。吾は将に爾らと永訣せんとす、爾輩は常に左右に在るべし」と。即ち外寝を設け、諸子と同処した。一日、忽ち言った、「適、人ありて床下に至り、詩を誦して云う、『行きて水窮の処に到り、未だ天尽の時を知らず』と。言い終わって見えず、吾まさに逝かん」と。急ぎ瑩の文集七十編及び書画を取り出して諸子に付し、家人に促して酒を置かせた。しばらくして、卒した。時に天禧三年十二月三日、年六十三。

四年春、詔して曰く、「故河中府処士李瀆は、簪纓伝緒し、儒雅践方し、曠逸自ら居り、恬智交養す。茲に晚節に及び、弥邵清猷し、奄に淪亡に及び、良く深く軫惻す。特に行い賁典し、式に営魂を慰む。惟れ蓬閣の文を司るは、乃ち儒林の美秩なり。仍示すに帰生の賻を以てし、兼ねて推すに給復の恩を以てす。守臣に申飭し、優しくその後を恤れ。豈に独り泉壤に旌するのみならん、亦た民風を厚くするに足らん。可なり特に秘書省著作佐郎を贈り、その家に帛二十匹、米三十斛を賜い、州県は常に加えて存恤し、二税の外その差役を蠲免せよ」と。

魏野

魏野、字は仲先、陝州陝県の人である。代々農を業とす。母がかつて夢に月の中で袖を引いて兎を受け取ったところ、妊娠し、やがて野を生んだ。成長すると、詩吟を好み、名声を求めなかった。州の東郊に住み、自ら竹や木を植え、清泉が周りをめぐり、遠く雲山に対し、景趣は幽絶であった。土を掘って丈余の洞とし、「楽天洞」と名付け、その前に草堂を建て、琴を弾じた。好事の者は多く酒肴を携えて遊びに訪れ、終日嘯吟した。前後の郡守は、武臣や旧宰相であっても、皆礼遇し、あるいは自ら訪問した。趙昌言は特に傲慢な性格であったが、特別に賓客の席を設け、門番に野が来たらすぐに報告するよう命じた。野は頭巾を好まず、貴賤を問わず、紗帽に白衣で面会し、外出には白驢に跨った。往来の客や隠士が留まって詩を題し語り合い、数日泊まって去った。野の詩は精緻苦心を極め、唐人風の風格があり、警句が多い。著した『草堂集』十巻は、大中祥符初年に契丹の使者が来朝した際、本国でその上巻を得たので、全巻を求めたいと申し出、詔によって与えられた。

汾陰祭祀の年、李瀆とともに推薦され、陝県令の王希が招きに遣わされたが、野は上奏して言うには、「陛下は天地に成功を告げ、岩藪の士を招聘されました。臣は実に愚かで頑固、生来怠惰で拙く、幸いに聖世に逢い、故郷に安住し、早くから詩吟を楽しみましたが、風雅の道には及びません。まさか天慈が曲げて探し招かれるとは思いませんでした。ただ、かつて心疾を患い、特に礼節に疎く、麋鹿の性分は、繋がれると狂うので、どうして殿陛を仰ぎ奉り、清宴に侍することができましょうか。過分な聴取を返され、愚かなまま守らせてくださるなら、畎畝の間で、永遠に帝力を被るでしょう」と。詔して州県の長吏に常に慰撫を加えさせ、また使者を遣わしてその住居を図画させて見た。五年四月、再び内侍を遣わして慰問した。天禧三年十二月、病気なくして卒す。享年六十。州がその状況を上奏した。

四年正月、詔して曰く、「国家は旌賞の命を挙げて丘園を輝かせ、恤贈の恩を申して泉壤を慰めるのは、逸民を褒めて風俗を厚くするためである。故陝州処士魏野は、儒素を服膺し、篇章に刻意し、その詞格の清新なるを顧みて、士流に推許されながら、よく淳古の行いを篤くし、肥遯の風を慕った。かつて時巡に属し、嘗て招聘を加えたが、誠志を懇ろに陳べ、『考槃』を遂げんと願った。この淪亡に及び、深く嗟悼する。蘭臺の清秩を以て、幽扃を追飾し、その賻助の資を厚くし、復除の命を寛かにする。優礼なることを諒り、令名を顕わす。魂にして知るあらば、この殊渥を歓べ。特に秘書省著作郎を贈り、その家に帛二十匹、米三十斛を賻い、州県は常に存恤を加え、二税以外の差徭を免ぜよ」と。

瀆は即ち野の中表の兄である。瀆の訃報が届くと、野は慟哭し、その子に言った、「私は行けない。行っても必ず間に合わない」と。ただその子を遣わして赴かせたところ、わずか六日で野もまた卒した。当時、大いに異とされた。

邢敦

邢敦、字は君雅、何れの許の人か知れず。雍丘に家し、宋準・趙昌言と交遊甚だ厚し。太平興国初年、嘗て進士に挙げられず及第せず、慨然として隠遁の志あり。性質は介僻にして、妄りに交友せず。経史に耽玩し、術数に精しく、絵画をよくし、酒を頗る嗜む。あるいは市廛を遊び、過客が休咎を尋ねる者あれば、多くこれに語らざりき。里中「邢夫子」と号す。大中祥符七年、真宗が亳州に行幸より還る際、邑人がその事績を列挙して上奏し、王曾が考制度使として、その名を聞こえた。詔して曰く、「敦は早く詞場に預かり、天爵を勤修し、超然として退処すること、既に累年なり。公車の言を覧るに属し、郡学の職に参ぜしめ、儒業を精しくして、耆年を寵せん。許州助教とすべし」と。敦は譲って受けず。乾興元年、病気なくして卒す。享年七十四。

林逋

林逋、字は君復、杭州銭塘県の人。幼くして孤となり、力学し、章句を為さず。性質は恬淡で古を好み、栄利に趨らず、家貧しく衣食足らずとも、晏如たり。初め江・淮の間を放遊し、久しくして杭州に帰り、西湖の孤山に廬を結び、二十年間足を城市に及ぼさず。真宗その名を聞き、粟帛を賜い、長吏に歳時慰問せしむることを詔す。薛映・李及が杭州に在任時、毎度その廬を訪れ、終日清談して去る。嘗て自らその廬の側に墓を作る。臨終に詩を作り、「茂陵他日遺稿を求めば、猶喜ぶ曾て『封禅書』無きを」の句あり。既に卒すと、州が上聞し、仁宗嗟悼し、諡して「和靖先生」と賜い、粟帛を賻う。

逋は行書をよくし、詩を作るを喜び、その詞は澄浹峭特にして、奇句多し。稿が成ると、随って直ちにこれを棄つ。或る人謂う、「何ぞ録して後世に示さざる」と。逋曰く、「吾方に跡を林壑に晦まし、且つ一時に詩名を以てせんと欲せず、況んや後世をや」と。然れども好事の者往々窃かにこれを記し、今伝わる所尚ほ三百余篇。

逋は嘗て臨江に客たりし時、李諮が進士に挙げられようとし、未だ知る者無かりしが、逋は人に謂いて曰く、「此れ公輔の器なり」と。及んで逋の卒するに及び、諮は丁度三司使を罷めて州守となり、素服を着し、その門人とともに七日間臨み、葬り、遺句を刻んで壙中に納む。

逋は娶らず、子無く、兄の子宥を教え、進士甲科に登第せしむ。宥の子大年は、頗る介潔自喜し、英宗の時、侍御史となり、連ねて台移により出でて獄を治むるを命ぜられ、拒んで肯て行かず、中丞唐介に奏せられ、蘄州知事に降格され、官にて卒す。

高懌

高懌、字は文悦、荊南の高季興の四世孫。幼くして孤となり、外家に養わる。十三歳にして文を属する能くし、経史百家の書に通ず。种放が終南山に隠棲すると聞き、乃ち豹林谷に室を築き、放に従い業を受く。放はこれを奇とし、敢えて弟子の列に処せず。同時の張蕘・許勃とともに「南山三友」と号す。

詔して沈淪草沢の士を挙げるに会い、長安府知事の寇準その名を聞き推薦すれど、辞して起たず。景祐年中、国初の侯王の後裔を録するに及び、懌はその弟の忻を推して官を得しむ。范雍が京兆府学を建てるに及び、懌を召して諸生に講授せしむ。席間常に数十百人。杜衍嘗て処士号の賜与を請う、乃ち大理評事に命ずれど、懌固く辞す。仁宗その操守を嘉し、「安素処士」と号す。詔して州県に歳時礼遇せしめ、良田五百畝を与う。文彦博その経術該通、高世の行いあり、風俗を励ますに足ると表し、詔して第一区を賜う。嘉祐年中、就いて光禄寺丞を除すれど、復た固く辞す。道士が素書を持って聘し、白鹿洞主と為さんと夢に見、卒す。

韓退

韓退という者がおり、稷山の人である。また種放に師事した。母が死ぬと、土を背負って墳墓を築き、跣足で喪に服し終え、去って嵩山に隠棲した。呉遵路と石延年がその高節を論じた。詔により粟帛を賜り、「安逸処士」と号し、天寿を全うして終わった。

徐復

徐復、字は復之、建州の人である。初め京師に遊学し、進士に挙げられず。退いて『易』を学び、流衍卦気法に通じ、自ら占って禄なきを知り、進取の意を失った。淮・浙の間を遊学すること数年、ますます陰陽・天文・地理・遁甲・占射諸家の説に通じた。ある日、郷人林鴻範が『詩』を説くのを聴き、かつ『詩』が楽に用いられる所以を言うに及び、忽ち得る所あるが如し。声器をもってこれを求め、遂に大楽を悟り、七音・十二律の清濁の次序及び鐘磬の侈弇・匏竹の高下の制度に至るまで皆洞達した。時に仁宗が楽に留意し、天下に楽を知る者を求めしむる詔を下すと、大臣が胡瑗を推薦し、胡瑗は鐘磬を作り、古法を大いに変えた。復は笑って曰く、「聖人は器に声を寓す。今その声を先に求めずしてその器を改むるは、用いるべきか」と。後に胡瑗の制作は皆効験がなかった。

范仲淹が潤州を過ぎ、復に会って問うて曰く、「今衍卦をもって占うに、四夷に変異なきか」と。復は西方において兵を用いるべきを剋し、その月日を推すに、後に少しも違わなかった。慶暦の初め、布衣の郭京とともに召し出されて見え、帝が天時人事を問うと、復は対えて曰く、「京房の『易』卦をもって推すに、今年に配する年月日時は、小過たるべし。剛位を失いて中ならず、その強き君徳に在るか」と。帝また問う、「明年は何の卦を主とするか」と。復曰く、「『乾』卦用事す」と。説は九五に至り尽きて止む。帝また問う、「前年京師の黒風は、何に応ずるか」と。復曰く、「その兆は内にあり、王の喪その応なり」と。明日、大理評事に任ぜよと命ずるも、固く疾を以て辞し、乃ち「沖晦処士」の号を賜い、その子発に試みに秘書省校書郎を補した。復は性高潔なりしも、処世未だ自ら異なることなく、後に杭州に居ること十数年にして卒した。

郭京

郭京という者は、少にして任侠を好み、家産に事えず、平居兵を言うことを好んだ。范仲淹・滕宗諒がしばしばこれを推薦した。

孔旼

孔旼、字は寧極、孔子四十六代の孫なり。汝州龍興県龍山の滍陽城に隠居す。性孤潔にして、読書を喜ぶ。田数百畝あり、賦税は常に郷里に先んず。凶年に遇えば、余りある所を分かちて不足なる者を賙い、未だ有無を計らわず。人の善を聞けば己より出づるが若く、動止必ず礼法に依る。居を環る百余里、人皆これを愛慕し、路上に旼を見れば、輒ち衽を斂めて避く。その父を葬り、墓側に廬して三年、破れたる棺の中に臥し、日に米一溢を食す。壁間に紫芝数十本生ず。州が行義を以て聞こえ、粟帛を賜い、またその家を復除す。近臣列ねて推薦し、秘書省校書郎を授けて致仕せしむ。数年居りて、国子監直講に召すも、赴かずと辞し、即ち光禄寺丞に遷す。頃くして、龍興県知事に起用すれども、また辞す。卒し、太常丞を贈られる。

盗賊が嘗て旼の家に入り、その倉粟を発く。旼はこれを避け、その取る所に任す。嘗て羸弱なる者が盗賊にその資を掠奪せられるに逢い、旼は盗賊を追ってこれと語り、義を以てこれを責め、金を解いてこれに与え、掠めた所を帰らしむ。山に居て毒蛇虎豹に逢わず、或る者これに謂いて曰く、「子夜行することなかれ、これも亦畏るべし」と。旼曰く、「心無ければ則ち畏るる所無し」と。晚年はただ『周易』・『老子』を玩び、他の書はまた読まず。『太玄図』を作り壁上に張り、外に方州部家を列ね、その中心を規して、空しくして書く所無し。曰く、「『易』の所謂寂然として動かざる者は、これと異ならざるなり」と。

何群

何群、字は通夫、果州西充の人なり。古学を嗜み、議論を激揚するを喜び、進士の業を修むるも、その好む所に非ざりき。慶暦年中、石介が太学に在り、四方より来学する諸生数千人、群も亦しょくより至る。講官が方に諸生を会して講ずるに、介曰く、「生等何群を知るか。群は日に仁義を為さんと思うのみ、飢寒の己に切なるを知らざるなり」と。衆皆これを注仰す。介因りて群をその家に館し、弟子をして推して学長と為さしむ。群ますます自ら克厲し、著書数十篇あり、人と言うに嘗て意を下して曲従せず、同舎は群を「白衣の御史」と目す。

群嘗て言う、「今の士、言語説易にして、挙止惰肆なる者は、その衣冠古の厳しきに如かざるなり」と。因りて古の衣冠を復すことを請う。また上書して言う、「三代は士を取るに、皆郷里に挙げて先に行義あり。後世は専ら文辞に就く。文辞の中に道を害する者は賦に甚だしきは莫し。請う、これを罷去せよ」と。介その説を賛美す。時に諫官御史も亦賦を以て士を取るは治道に益なきを言い、両制に下して議せしむ。皆以て進士科は隋に始まり唐を歴ること数百年、将相多くここより出で、人を得ざるに非ず、且つ祖宗これを行うこと已久しく、廃すべからずと為す。群その説行われざるを聞き、乃ち慟哭し、平生の為す所の賦八百余篇を取ってこれを焚く。講官、群の賦既に多く且つ工なるを見て、情ならざると為し、太学より絀出す。群径ちに帰り、遂に再び進士を挙げず。

嘉祐年中、龍図閣直学士何剡その行義を表し、「安逸処士」の号を賜う。群既に死し、趙抃益州を守り、群の遺稿時政に益あるを奏し、願わくは詔して果州に録して上らしめよとし、云く、「茂陵の書の天子の侈心を起こすが若く非ざるなり」と。寝して下さず。