百行の冠冕は孝より大なるはなく、百為の範防は義より大なるはなし。先王は孝を興して民の厚きを教え、民用いて薄からず。義を興して民の睦びを教え、民用いて争わず。天下を率いて孝義に由らしむるは、信を履み順を思うの世に非ずや。太祖・太宗以来、子に父の仇を復して人を殺す者有れば、壮としてこれを釈し、股を刲き肝を割くこと、皆褒賞を見る。数世同居に至っては、輒ちその家を復す。一百余年、孝義の感ずる所、醴泉・甘露・芝草・異木の瑞、史絶えず書す。宋の教化に足るべきもの有ること観るべし。『孝義伝』を作る。
李璘
李璘は、瀛州河間の人なり。晋の開運の末、契丹辺境を犯し、陳友という者あり、乱に乗じて璘の父及び家屬三人を殺す。乾徳の初め、璘は殿前散祗候に隷し、友は軍の小校たり。京師宝積坊の北にて相遇い、璘は手ずから刃を以て友を殺し、遁去せず。自ら父の仇を復せりと言う。案を鞫して実を得、太祖は壮としてこれを釈す。
甄婆兒
雍熙の中、また京兆鄠県の民甄婆兒あり。母の劉が同里の人董知政と忿競し、知政は劉氏を撃ち殺す。婆兒始め十歳、妹は方に繈褓にあり、隣人の張氏に託して乳養せしむ。婆兒は仇を避け、赦村に徙居す。後数年、稍々長大し、母が知政に殺されたるを思い、またその妹が張氏に寄せるを思い、兄の課兒とともに張氏に詣りて妹を見んことを求む。張氏これを拒み、見るを得ず。婆兒憤怒悲泣し、兄に謂いて曰く、「我が母は人の為に殺され、妹は他姓に流寄す。大仇報いずして、何を以て生くると為さん」と。時に方に寒食、酒肴を具えて母の墳に詣り慟哭し、帰りて条桑の斧を取り袖中に置き、往って知政を見る。知政方に小児と戯るるに、婆兒その後に出で、斧を以てその脳を斫りてこれを殺す。有司その事を上請す。太宗その能く母の仇を復せるを嘉し、特これを貸す。
徐承珪
劉孝忠
呂昇
呂昇は、萊州の人なり。父の権失明す。腹を剖き肝を探りて以て父の疾を救い、父復た視ることを能うて昇死せず。
王翰
冀州南宮の人王翰、母喪明す。翰自ら右目の睛を抉りて以てこれを補う。母の目明らかなること故の如し。淳化の中、並びに詔を下して粟帛を賜う。
羅居通
黃德輿
大中祥符の初め、資州の人黃德輿が父母を葬り、土を背負って墳丘を築くと、甘泉がその側に湧き出た。詔を下してこれを旌表した。
齊得一
齊得一は密州諸城の人。幼い頃より学問を好み、成長すると『五経』を読み解き、郷里での教授に長じた。士大夫の子弟は百里を遠しとせず、皆彼のもとに就いて学業に励んだ。晋の末、皇甫暉が密州防禦使となった時、得一の父は客将であった。皇甫暉が淮南に叛いて帰順すると、しばしば兵を率いて旧郡で略奪を働き、民の牛羊犬豕をことごとく取り上げて士卒を犒労したため、得一の家は略奪され尽くした。後に王萬敢が防禦使となったが、性貪暴で、郷民十八家を捕らえ、かつて牛や酒を賊に贈ったことを責め、ことごとく殺してその資産を奪った。得一の親族で死んだ者は十余人に及び、ただ得一と兄だけが身を逃れて免れた。翌年、闕に赴いて上訴すると、朝廷は使者を遣わして審理させ事実を得たため、王萬敢は官を削られ、判官胡轍は死罪に処せられた。得一は郷里に帰り、布衣に蔬食、仕進を楽しまなかった。開寶年間、詔して郡国に廉退孝悌の士を挙げさせると、本郡は即座に得一を詔に応じた。闕に至り、策試に中選し、章丘主簿に任じられた。
李罕澄
邢神留
邢神留は深州陸沢の人。父の超は官租を滞納し、里胥が租税を督促した際に超と闘い、超が里胥を殴打して死なせた。神留は十六歳で、役人のもとに赴き父に代わって死ぬことを求めた。州がこれを上聞すると、特に詔して死罪を減じ、里胥の家に一万銭を賜って棺や収殮の具とした。
沈正
端拱の初め、泰州海陵の人沈正は、父が屯田院の衙官で、凶暴無頼の徒であり、酒に任せて無辜の人を殴打して死なせた。正は途中でこれを見て、父が恐れおののき事情を述べると、正はすぐに号泣して衣を脱ぎ、その屍を殴りに行った。巡警の者が捕らえて官に送り、獄が決すると、怡然として死に就き、聞く者これを悲しんだ。
許祚
李琳 等
胡仲堯
弟 仲容
陳兢
陳兢は、江州徳安県の人で、陳の宜都王叔明の後裔である。叔明の五世の孫の兼は、唐の右補闕であった。兼が京を生み、秘書少監・集賢院学士となったが、子がなく、從子の褒を嗣とし、褒は塩官令に至った。褒が灌を生み、高安丞となった。灌の孫の伯宣は、難を避けて泉州に移り、馬総と善く司馬遷の『史記』に注して世に行われた。後に廬山に遊び、因って徳安に居し、嘗て著作佐郎として召されたが起たず、大順初年に卒した。伯宣の子の崇は江州長史となり、益々田園を増やし、家法を定めて子孫を戒め、群從の中から選んでその事を掌らせ、書堂を建ててこれを教誨した。僖宗の時に嘗て詔してその門を旌表し、南唐ではまた義門を立て、その徭役を免じた。崇の子の袞は、江州司戸であった。袞の子の昉は、試奉礼郎であった。
洪文撫
易延慶
易延慶は、字は餘慶、筠州上高県の人である。父の贇は、勇力を以て南唐に仕え雄州刺史に至った。延慶は幼くして聰慧で、経史に渉猟し、特に声律に長じ、父の蔭により奉礼郎となった。顕徳四年、周師が淮南を克つと、贇は朝に帰し、道州刺史を授けられた。延慶も亦大名府兵曹参軍を授かり、後に大理評事となり、臨淮県を知った。乾徳末年、贇が卒し、臨淮に葬られた。延慶は喪に居り摧毀し、墓側に廬し、手ずから松柏数百本を植え、朝に出でて墓を守り、夕べに帰りて母に侍した。紫芝が墓の西北に生じ、数年してまた玉芝十八莖が生じた。本州がその事を表そうとしたが、延慶は懇ろに辞した。或る者がその芝を画いて京師に来ると、朝士多く詩賦を作り、その孝感を称えた。
董道明
董道明は蔡州褒信の人なり。母死して出葬す、道明潜かに墓中に匿れ、人これを瘞む、三日を経て、家人塚を発してこれを取るに、道明恙無く、終身墓側に廬る。
郭琮
又た越州応天寺の僧有り、幼くして貧しく以て母を養うこと無く、髪を剃りて食を乞い以て晨夕を給す。母年一百五歳にして終わる。
畢賛
潭州長沙の人畢賛、郡に仕えて引賛吏と為り、性至孝、父母皆八十余歳なり。転運使其の事を表し、詔して賛に職を解かしめて終養せしむ。
顧忻
顧忻は泰州泰興の人なり。十歳にして父に喪り、母病むを以て、葷辛口に入れずすること十載。鶏初めて鳴けば、冠帯を具え妻子を率いて母の室に詣り、其の欲する所を問う、此の如く五十年、未だ嘗て母の左右を離れず。母老い、目物を睹ること能わず、忻日夜号泣して天に祈り、血を刺して仏経数巻を写す。母の目忽ち明らかにして、燭下にて能く袵を縫い、九十余にして疾無くして終わる。
李瓊
又た杭州仁和の人李瓊有り、繒を鬻ぐを業と為し、母に事えて孝、夜常に十余り起きて母を省る。母時新を食するを喜ぶ、瓊百方求めて市い、得れば必ず十倍其の直に酬ゆ。
朱泰
朱泰は湖州武康の人なり。家貧しく、薪を鬻ぎて母を養い、常に数十里外に適きて甘旨を易え以て母に奉ず。泰服食粗糲にして、妻子に戒めて常に母の色を候わしむ。一日、鶏初めて鳴きて山に入り、明けに及んで、山足に憩う、虎に遇い搏攫されて之を負いて去る。泰已に瞑眩す、百余歩を行くに、忽ち稍く醒め、声を厲して曰く「虎暴を為して我を食らう、恨む所は母託る所無き爾!」と。虎忽ち泰を地に棄て、顧みずして走る、人の疾く駆くるが如き状なり。泰匍匐して帰る。母扶持して泣き、泰も亦強いて挙動し、一月を踰えずして故の如し。郷里其の孝感を聞き、金帛を率いて之に遺る、里人目して「朱虎残」と為す。
成象
成象は渠州流江の人なり。詩書を以て里中に訓授し、父母に事えて孝を以て聞こゆ。母病み、股の肉を割きて之を食わしむ、詔して束帛醪酒を賜う。淳化中、李順郡県を盗み据う、象の父母驚悸して死に、燼骨浮図の舎に寄す、象号泣して葬を営む。賊平らぎ、郷里銭三百万を率いて之に贈る。象墓側に廬り、衰服の襟袂を以て土を墳上に篩い、日に三斗。毎に慟すれば、聞く者戚愴す。未だ嘗て肉を食い帛を衣せず、或いは之に贈るも亦受けず。虎豹廬を環りて臥す、象畏色無し。燕百余廬中に集い、禾墓側に生じて九穂を吐く。服終わりて猶未だ家に還らず、礼を知る者書を為り以て之を諭す、遂に帰り教授し、遠近目して「成孝子」と為す。
陳思道
方綱
龐天祐
龐天祐は江陵の人である。経籍を以て里中で教授した。父が病気になると、天祐は腿の肉を切り取って食べさせた。病気が治ったが、また目を病んで失明したので、天祐は泣き叫んで天に祈り、舐めてやった。父は八十余歳で、大中祥符四年に亡くなり、天祐は土を背負って墳墓を築き、その傍らに小屋を結び、昼夜を問わず号泣の声が絶えなかった。知府陳堯咨が自ら赴いて弔問し、その事績を上奏したところ、詔して門閭を旌表した。天祐の家には一石の蓄えもなく、陋巷に住んでいたので、堯咨が里門の右に移し、闕を築いてこれを表彰した。
劉斌
劉斌は定州の人である。父の加友は、端拱年中に従弟の志元に殺された。斌兄弟は皆幼く、母に従って再嫁したが、母はかつて戒めて言った、「お前たちが成長したら、必ず父の仇を討て」と。景德年中、斌兄弟は刀を携えて道で志元を待ち伏せ、刺したが死なず、すぐに役所に出頭して自ら陳述した。州は獄案を整えて上請したところ、詔して志元に黥面を施して汝州に配流し、斌らの罪を赦した。
樊景溫 榮恕旻
樊景溫は陝州芮城の人、榮恕旻は雄州帰信の人である。兄弟は別居して数年を経た。大中祥符年中、景溫の家の樗樹の五枝が一つになり、恕旻の家の榆樹二本が自然に合わさった。両家はこの異変に感じ入り、再び義をもって同居し、郷人はその和やかさを称えた。
祁暐
何保之
何保之は梓州通泉の人である。進士の学業に励み、至高の行いがあった。母が亡くなると、土を背負って墳墓を築き、その傍らに廬居した。日に群烏が飛来して墳上に集まり、哀鳴して去らず、またかつて兎が座の隅に馴れたことがあり、人々はこれを異と称えた。大中祥符年中に詔が下り、旌表と撫恤がなされた。
李玭
侯義
侯義は応天府楚丘の人。貧しく資産なく、田を傭って母に仕ふ。里人に其の親を葬りて急ぎ返る者有り、義の母其の塚を過ぎ、泣きて義に謂ひて曰く、「我死すれば、其れ是の若きか」と。義乃ち感激自ら誓ひて言はんと欲せず、但だ其の母を慰めて曰く、「悲しむ勿れ、義必ず爾らず」と。咸平中、母卒す、義力自ら葬を辦じ、墳壙を掩はず、晝は則ち土を負ひて墳を築き、夜は則ち慟哭柩の側にす。妻子困匱して給せず、田主曹氏之を哀憐し、餱糧を以て資す。逾年、墳の間瓜異蒂、木連理し、又巨蛇其の側を繞りて物を暴かず、野鴿飛びて去らず。嘗て盜に遇ひ其の衣服を劫る、既にして是れ義の物と知り、悉く之を還す。
王光済
李祚 周善敏
時に又徐州豐の人李祚有り、親に喪し、墓側に廬すること凡そ二十七年、家人百計勉諭すれども聽かず。益州雙流の人周善敏、父に喪し、墓側に廬す。母病み、又股肉を割きて以て之を啖ひしむ、遂に愈ゆ。大中祥符九年、特詔祚を旌表し、善敏に粟帛を賜ひ存慰す。
江白
裘承詢
裘承詢は越州會稽の人。雲門山前に居り、十九世爨を異にせず。子弟弦誦を習ひ、鄉里其の敦睦を稱す。州以て聞こえ、詔其の門閭を旌す。
孫浦 等
咸平後、又保定軍孫浦、襄州常元紹、蔡州王美、解州董孝章並びに十世同居す;莫州高珪、永定軍朱仁貴、潞州邢濬、相州趙祚八世同居す;麟州楊榮、隰州趙友、開封李居正、潁州張可象、衛州張珪、滄州崔諒七世同居す;邢州王覺、趙州曹遵六世同居す;兗州童升、陳州樊可行、京兆元守全、平定軍段德五世同居す;開封張仁遇、亳州王子上、建昌軍瞿肅四世同居す。肅家百五十口、長幼孝悌、鄉人之に化す。又河陰王世及、大名李宗祐、陳州劉閏、宣州汪政、潭州李耕、或は聚居七百口に至り、數十百年を累ぬ。並びに所在請ひて旌表を加へんとす、詔之に從ひ、仍て其の課調を蠲す。
大中祥符初、東に泰山を封じ、判兗州王欽若言ふ曲阜東野宜、乾封竇益合居五六世、節行有りと。四年、汾陰を祀り、考制度使馬起言ふ陝州張化基、閻用和、楊忠義聚族累世、孝悌稱す可しと。並びに行在所に即ち詔を降し褒美し、各優に粟帛を賜ふ。
常真
また、齊州の王洤、河南の李繼成、滄州の胡元興がおり、いずれも母が死ぬと土を背負って墳墓を築き、昼夜を分かたず声を絶やさずに泣いた。州郡が相次いでこれを朝廷に報告すると、皆詔を下してその門閭を表彰し、粟帛を賜った。
杜誼
杜誼、字は漢臣、台州黄岩の人。父母に仕えて至孝であった。父は剛厳で、誼だけは愛されず、不安で身の置き所がなく、顔色を窺ってから進んだ。父母が相次いで亡くなると、昼夜を分かたず慟哭して声を絶やさず、数日にわたり水さえ口にしなかった。葬地を卜し、裸足で土を背負って墳墓を築き、往復十余里、毎日塘澗を渡り、泥水が脛まで没したが、大雨雪であっても少しも止めなかった。手足は皸裂して血が流れ、漆を塗った。一畚の土を覆うごとに、必ず三度墳墓を巡って号泣してから去った。葬り終えると、墓の傍らに仮小屋を建て、喪が明けるまで土を背負い続け、人が見に行くと、すぐに帰らせた。一日一食、肉は食べなかった。虎狼が墓の側で交わっても、誼は泰然として少しも恐れなかった。翌年、呉越で大水があり、山々が皆洪水を起こし、巨石を押し流して十数里を行った。台州の山は最も高く、水はまた夜に至ったので、山の傍らの民の、家屋・墓田・畜産が流され壊れた者は甚だ多かったが、誼だけは及ばなかった。邑人がその事実を記して報告すると、詔書が下って嘉奨した。
族父の杜衍に仕えて甚だ謹み、衍は彼を諸子と同等に愛した。祖父の杜垂象の蔭で官に入り、贊善大夫に至った。かつて永城県の知事を務め、毎年俸銭三十万を投じて、汴渠で溺死した者を収葬すること凡そ四十余りに及んだ。また俸銭を出して部下を率いて文宣王廟を新築し、両側に学舎数十区を設け、朝夕その堂で講学した。永城の父老は誼の政績を及ぶべからざるものと称えた。
誼は生平敦厚で、信義を尊び、大志があり、家は貧しかったが、有無を顧みず、常に推して親友を救済した。後に梓州の通判となり、卒去した。子の揆はわずか十六歳で、誼の墓の傍らで泣きながら亡くなった。
姚宗明
棲雲は嶽を生み、嶽は君儒を生み、君儒は師正を生んだ。嶽から師正まで、四世にわたり墓傍に廬居した。五世の孫は厚、六世は雅、七世は文、八世は敬真、九世は直、十世は宗明。慶曆初め、役人が姚氏が十世同居していることを朝廷に報告すると、仁宗は詔してその家の賦役を免除した。十一世の孫は用和、十二世の孫は士明、十三世の孫は徳。宗明から徳までまた三世、慶曆以後また五十余年を経たが、その家の孝行と和睦は絶えなかった。
姚氏は代々農を業とし、学問をする者はいなかった。家は甚だ富まず、田数十頃を持ち、一族百余りを集めて住んだ。子孫は自ら農桑に従事し、衣食をやっと賄うのみで、三百余年を経ても異議を唱える者はなかった。唐末・五代を経て、兵戈乱離の世にあっても、子孫は墳墓を守り、骨肉が離散することなく、天下に求めても、未だかってなかった。
鄧中和
鄧中和、字は祖徳、開封長垣の人。『三礼』に挙げられた。景祐・慶曆の間に親を喪い、喪が明けるまで墓傍に廬居し、生前のように定省往來すること二十年、土を背負って墳を積み上げること三丈に及んだ。
毛安輿
李訪
李訪、韶州の人、進士を業とする。父母の墓に廬居したところ、虎が暴れて傍人を傷つけても李訪には近寄らず、また白い烏が墓の上に集まった。
朱壽昌
朱壽昌、字は康叔、揚州天長の人。父の巽の蔭により将作監主簿を守り、累次州県に転調し、陝州・荊南を通判し、権知岳州となった。州は重湖に臨み、水賊が多い。壽昌は民船を籍に載せ、姓名を刻み、互いに伺察させ、出入りは必ず告げさせた。盗賊が発生すると、船の向かった方向を検証して徹底的に討伐したので、盗賊は少し鎮まり、傍らの郡はこれを取って法とした。
富弼・韓琦が相となった時、使者を四方に遣わして民力を寛恤し、壽昌を選んで湖南に派遣した。或る者が邵州に冶を置き金を採るべしと言うと、詔があり興作することとなった。壽昌は言うに、州は蛮に近く、金冶を大いに興せば蛮は必ず争い、これより辺境は恐らく多事となり、かつ良田数百頃を廃するは、本を敦くし末を抑える道に非ず、と。詔して直ちにこれを罷めしめた。
閬州を知る。大姓の雍子良は屡々人を殺し、財と勢いを恃んで死を免れていた。この時至り、また人を殺してその里民を賄い吏に出頭させた。獄が具わると、壽昌はその奸を覚り、囚を引き寄せ詰問して言うには、「吾聞く、子良が汝に銭十万を与え、汝の娘を娶って婦とすることを許し、かつ汝の子を婿とすると、故に汝がその命に代わる、これ有るか」と。囚の色が動くと、則ちまた擿いて言うには、「汝が死せんとする時、券を書いて汝の娘を婢に抑え、銭を顧直(報酬)と指し、また汝の子を婿とせず、将た如何にせん」と。囚は悟り、涕泣して顔を覆い、言うには、「囚は幾んど誤って死せんとす」と。実を以て答えた。直ちに子良を取って法に正した。郡は神と称し、蜀人は今に至るまでこれを伝える。
広徳軍を知る。壽昌の母劉氏は、巽の妾である。巽が京兆を守った時、劉氏は妊娠中に出された。壽昌は数歳になって初めて父の家に帰り、母子は互いに消息を聞かず五十年に及んだ。四方を行きて求めやまず、飲食には酒肉をめったに用いず、言えば必ず流涕した。浮屠の法を用いて背を灼き頂を焼き、血を刺して仏経を書き、力の及ぶ限り、為さざるはなかった。熙寧初年、家人と辞訣し、官を棄てて秦に入り、言うには、「母に会わずんば、吾は返らじ」と。遂に同州において得た。劉氏は時に年七十余り、党氏に嫁いで数子あり、皆迎えて帰した。京兆の銭明逸がその事を聞こえ、詔して官に就くことを還し、ここより孝を以て天下に聞こえた。王安石・蘇頌・蘇軾以下、士大夫は争って詩を作りこれを美とした。壽昌は母を養う故を以て、河中府通判を求めた。数年して母が卒すと、壽昌は喪に居て幾んど目を喪う。葬った後、白烏が墓上に集まった。同母の弟妹を拊でること益々篤かった。
また鄂州を知り、崇禧観を提挙し、累官して司農少卿となり、朝議大夫に易え、中散大夫に遷り、卒す。年七十。壽昌は義に勇み、人の急を周うに愛する所なく、兄弟の孤女二人を嫁がせ、葬ること能わざる者十余りの喪を葬り、天性かくの如し。
侯可
侯可、字は無可、華州華陰の人。少にして倜儻不羈、気節を以て自ら許す。壮に至り、前の好みを尽く易え、志を篤くして学を為す。計(上計の吏)に随って京に入る。里中金を醵めて贐行す。帰るに及び、その余を悉く同挙の者に散じ、言うには、「この金は、郷里が詔に応ずるを資する所なり、他の利と為すべからず」と。且つ行かんとし、郷人の病むを聞き、念じて言うには、「吾が帰れば、則ち彼は死せん」と。遂に留まり去らず。病める者癒ゆると、己が馬を輟めてこれを載せ、徒歩して帰る。
孫沔が儂徭を征するに、軍事に参ずるを請い、功を奏して官を得、巴州化城県を知る。巴の俗は鬼を尚び医を廃し、唯巫の言を用いる。婦を娶るには必ず財を責め、貧しき人の娘は老するに至るまで嫁ぐことを得ず。可はこれを約束し、制度を立て、違う者は罪ありとし、幾んどその習いを変えしめた。再び華原主簿に調ず。富人は田籍を占めずして人田の券を質に取り万畝に至り、歳ごとにその租を責む。可は晨に馳せて富家に至り、櫝を発して券を出しその主に帰す。郡吏の趙至誠は貪狡凶横にして、守以下の短長を持ち、前後去る者なし。可はその罪を暴き、校を荷わせて獄に置き、大府に言ってこれを誅し、聞く者快服す。
儀州判官に簽書す。西夏辺を寇す。使者、可に按視をさせしむ。即ち数十騎を以て夏境に渉り、猝にこれと遇う。亟にその騎を三四に分かち、これに令して言うには、「爾が旗幟を建て、山を旋り徐行せよ」と。夏人は循環して間に見るも、誘騎なりと疑いて敢えて撃たず。韓琦が長安を鎮むるに、涇陽県を知るを薦む。渭源の羌酋を説き地八千頃を輸めさせ、因りて熟羊に城してこれを撫す。琦その功を上る。また鄭白渠を復するを議し、召対を得るが、旋なく微罪に坐して罷む。官は殿中丞に至り、家にて卒す。年七十二。
可は財を軽んじ義を楽しみ、人の急を急ぎ、人の憂いを憂う。田顔と友となる。顔病重く、千里医を求む。未だ帰らずして顔死す。目瞑じず。人言うには、「侯君を待つか」と。且つ斂せんとして可至る。これを拊すれば乃ち瞑ず。顔に子なく、葬ることを克くせず。可は辛勤百営し、衣を鬻って相役し、遂にこれを葬る。方に天寒く、単衣を以て居る。白金を饋る者有り。顔の妹の処室(未婚)なるを顧み、挙げて以てその奩具を佐く。一日遠きより帰る。家、窶しきを以て告ぐ。適友人郭行門を扣きて言うには、「吾が父病む。医、銭百千を邀む。吾が廬を売るも而も售れず」と。可惻然とし、橐中の装を計るに略その数に当たる。尽くこれに与う。関中その賢を称す。
申積中
申積中、成都の人。繈褓の中、楊繪がその父の起に従いこれを求めて子とす。長ずるに及び、楊氏に非ざるを知りながら絶口言わず。年十九、進士第に登る。養う所の父母に事え、終身孝を尽くす。二弟一妹あり、その婚娶を畢え、始めて本族に帰り、復た申氏と為る。蜀人は純孝を以てこれを帰す。政和六年、奉議郎を以て徳順軍を通判す。翰林学士許光凝嘗て成都を守り、その事を得て朝に薦む。京師に召し赴かしめ、永興軍学事を提挙す。道にて卒す。光凝復た宣和殿学士薛嗣昌・中書舎人宇文黄中とその操行を表し、詔して一子に官を与う。
初め、光凝の同く薦むる者三人。其一は河陽の故大理丞陳芳、一門十四世、三百年同居す。一は鄧州の王襄、経術にて科に登り、年未だ六十ならずして老を請い、孀嫂に事えること母の如く、孤甥を養うこと子の如く、後進を教誨し、郷里の貧民を周恤し、学行を以て称せらる。賞異を加うるを乞う。詔して芳の門閭を表し、襄に号「処士」を賜う。
郝戭
郝戭、字は伯牙、石州定胡の人。家は貧しく、力を尽くして父母を養った。或る人がこれを憐れみ、数百万銭を貸して利子で自活させようとしたが、戭は重ねて謝意を表し、その銭を五六年間用いず、再び返した。進士に挙げられ、宛丘尉・舞陽主簿・通山令に任じられた。時に年未だ五十ならず、父の樵が老いて官に就いていないのを以て、上書して致仕を請い、父のために官を求めた。執政は官に赴いてから請うよう諭し、「このようにすれば、朝籍に昇り、恩が親に及ぶであろう」と言った。そこで妻子を家に留め、独り父を奉じて行き、一年余りして遂に職を辞した。上官はその県の治績ありとし、その去るを惜しみ、固く留めた。耆老が庭に拝し道を遮っても、皆止めることができなかった。太子中允を得て帰郷したが、郷里に至らぬうちに樵は卒した。自ら土を運んで墳墓を築き、助ける者があれば、土を塚の上に置かせ、去れば直ちに撤げ去らせた。喪服を除くと、州がその状況を上聞し、詔して粟帛を賜った。
治平の末、翰林学士呂公著の推薦により、奉寧軍推官として起用され、涇原経略使もまた幕府に辟召を奏請した。戭は言った、「以前、未だ老いないのに致仕したのは、官が親に及ぶことを欲したからである。既に及ばず、なお恩をもって贈官を得ることを望んだが、今は及ばない」。姻族がその妻聶氏に語り、戭に出仕を勧めさせると、聶氏は言った、「私は不徳にして君子を助けることができず、ましてやその欲せざることを強いてその高節を累わすことなどできましょうか」。聶氏は舅姑に仕えることも孝義をもって著しかった。戭は忠信を自ら守り、篤行苦節を貫き、仕官せずして卒した。司馬光がその墓に銘を撰した。
支漸
支漸、資州資陽の人。年七十、母の喪に服し、葬り終えると、墓側に廬し、土を背負って墳墓を築き、蓬髪垢面、三時に号泣し、哀毀して甚だ瘠せ衰えた。白蛇・狸・兔がその傍らを擾れ、白雀・白烏が日に壟上の木に集まり、五色雀は万余に至り、回翔悲鳴して哀しみを助けるが如かった。郷人の句文鼎は妻を娶ってより即ち父母と離居していたが、漸の至行を目にして深く悔責し、号慟して帰り、孝養を尽くして志した。郷閭で観感して化する者甚だ衆かった。
鄧宗古
鄧宗古、簡州陽安の人。父が死ぬと、自ら土を培って墳墓とし、その側に廬し、朝夕号慟し、甘露が墓木に降った。里中で鄧孝子と号した。
沈宣
沈宣、汝州梁の人。母が亡くなり、葬り終えると、墓門を塞がず三十六箇月、昼は土を背負い、夜は棺を撫でて臥し、墳墓を広さ百尺に築いた。妻の高氏もまた孝行があった。漸以下の三人は、元豊年中、皆粟帛を褒賜された。
蘇慶文 台亨
蘇慶文・台亨、共に夏県の人。慶文は父母に事えること孝をもって聞こえた。母は若くして寡となり、慶文はその妻が敬って事えることができないことを懼れ、毎に戒めて言った、「汝が我が母に事えるに、少しでも謹まざれば必ず汝を逐う」。妻は教えを奉じ、母はその室に安んじて終身を過ごした。
仰忻
趙伯深
彭瑜
彭瑜、字は君玉、吉州安福県の人。熙寧年間に母を失い、瑜は朝夕香を焚いて天に祈り、母の所在を知らんことを願うこと十余年。俄かに人が言うに、母は泰和の倪氏の婦となったと。瑜は遂に迎えて帰す。
毛洵
李籌
李籌なる者は、洵の同県の人、字は彦良。弟衡(字は平国)と生を同じくして乳を同じくし、二歳にして母を喪い、十歳にして父を喪う。兄弟毎に親に事え逮ばざるを以て恨みと為す。政和中、其の母を楊山に改葬し、土を負って墳を成し、墓の左に廬す。未だ幾ばくもせず、廬の所に産する木一本にして両幹、高さ丈許にして復た一に合し、其の末に至りて乃ち両幹五枝に分かれる。郷人以って瑞と為す。
楊芾
楊芾なる者有り、亦た同県の人、字は文卿、性至孝にして、帰る必ず酒肉を市いて以て二親に奉じ、未だ嘗て妻子に及ぼさず。紹興五年大饑あり、親の為めに米を百里の外に負い、盗に遇い之を奪うも与えず、盗兵を以てせんと欲す。芾慟哭して曰く「吾れ親の為めに米を負う、食わざること三日なり。幸いに我を哀れめ」と。盗義として之を釈す。
楊慶
陳宗
陳宗、永嘉の人。年十六、母蔡氏病篤し、股を刲きて餌と為す、病癒ゆ。已にして復た病み救わず、宗一たび慟して絶ゆ。郡守陸徳輿云う「陳宗自ら其の體を毀ち、哀慟生を傷つく。孝道の正しきに非ざる雖ども、能く人の為し難き事を為す、亦た天性の至りなり」と。官為に合葬し、榜して「陳孝子墓」と曰う。
郭義
郭義、興化軍の人。早く太学に遊び、操尚を以て称せらる。年四十余、錢塘に客す。母の喪を聞き、徒跣して喪に奔り、一たび慟する毎に輒ち血を嘔す。家甚だ貧しく、故人の饋る所有るも受けず。土を聚めて墳と為し、手ずから松竹を蒔き、而して其の旁に廬す。甘露墓上に降り、烏鵲馴らかに集う。郡其の事を上る。詔して其の閭を旌表し、居る所の前に綽楔を安んじ、左右に土台を建つ。高さ一丈二尺、方正、下広く上狭く、白を飾り、赤を以て間い、仍って宜しき木を植う。
申世寧
申世寧は信州鉛山の人なり。紹興六年、潘達の兵が鉛山を襲い、父の愈は七十歳にして、戸外に出るに及ばず賊に遇う。賊は其の蔵金あるを意い、之を殺さんとす。世寧は未だ冠せざる年なりしが、亟に頸を引きて願わくは父に代わりて死なんとす。賊其の孝に感じ、両全す。
苟與齢
苟與齢、字は壽隆、滁州來安の人なり。志尚高潔にして、其の親に事え、生養死葬、力を竭くして禮を盡くす。郷黨之を稱す。母歿し、墓側に廬し、芝十九莖墓亭に生ず。郡縣事を以て聞かせ、其の門を旌す。
王珠
王珠、字は仲淵、吉州龍泉の人なり。孝謹を以て聞こゆ。建炎年間、父の憂に居り、芝数本墓側に生じ、竹を倒植して杙と爲すに、復た柯葉を生ず。紹興年間、再び母喪に罹り、復た双竹靈芝の祥有り。
顏詡
顏詡は唐の太師真卿の後なり。真卿嘗て廬陵に謫せられし故に、詡は吉州永新の人と爲る。詡は少くして孤となり、兄弟数人、継母に事えて孝を以て聞こゆ。一門千指、家法嚴肅にして、男女序を異にし、少長輯睦し、匜架主無く、廚饌異ならず。義居すること数十年、終日怡愉にして、家人其の喜慍を見ず。年七十餘にして卒す。
張伯威
蔡定
鄭綺
鄭綺は婺州浦江の人なり。善く書を読み、『春秋穀梁』の學に通ず。肅睦を以て家を治め、九世爨を異にせず。四世孫の德珪・德璋は孝友天至にして、晝は則ち几案を聯ね、夜は則ち衾を同くして寢す。德璋は素より剛直にして、物と多く迕う。宋亡び、仇家遂に死罪を以て之を陷る。當に會して揚州に逮せらるべし。德珪は弟の誣わるるを見るを哀しみ、乃ち陽に謂いて曰く、「彼は吾を害せんと欲す。何ぞ爾の事に預からん。我往かば則ち奸狀白ばん。爾去きて死せざるを得ざらんや」と。即ち行を治む。德璋は諸暨の道中に追い至り、兄弟相い持ちて頓足哭し、争いて就死せんと欲す。德珪は默計して其の行を沮まんとし、遂に無往を以て紿し、夜將に半ばならんとするに、間道より逸去す。德璋は復た廣陵に追い至るも、德珪は已に獄に斃る。德璋之を聞き、慟絶すること数四し、骨を負いて歸葬す。墓に廬すること再期、每一たび悲號すれば、烏鳥皆翔集して食わず。德珪の子文嗣は幼くして僂に病む。德璋之を鞠くること己が子の如し。
鮑宗岩
鮑宗岩有り、字は傅叔、徽州歙の人なり。子の壽孫は字は子壽。宋末、盜里中に起る。宗岩は山谷間に地を避く。賊に得らるるに及び、宗岩を樹上に縛し、將に之を殺さんとす。壽孫前に拜して願わくは父に代わりて死なんとす。宗岩曰く、「吾は老いたり。僅かに一子先祀を奉ず。豈に之を殺すべけんや。吾願わくは自ら死なん」と。盜両つ共に之を釋す。