宋史

列傳第二百十五 孝義 李璘甄婆兒 徐承珪 劉孝忠 呂升王翰 羅居通黃德輿 齊得一 李罕澄 邢神留沈正 許祚李琳等 胡仲堯弟:仲容 陳兢 洪文撫 易延慶 董道明 郭琮畢贊 顧忻李瓊 朱泰 成象 陳思道 方綱 龐天祐 劉斌 樊景温榮恕旻 祁暐 何保之 李玭 侯義 王光濟李祚 周善敏 江白 裘承詢孫浦等 常眞子:晏 王洤等 杜誼 姚宗明 鄧中和 毛安輿 李訪 朱壽昌 侯可 申積中 郝戭 支漸 鄧宗古 沈宣 蘇慶文臺亨 仰忻 趙伯深 彭瑜 毛洵李籌 楊芾 楊慶 陳宗 郭義 申世寧 苟與齡 王珠 顏詡 張伯威 蔡定 鄭綺鮑宗巌

列傳第二百十五 孝義 李璘甄婆兒 徐承珪 劉孝忠 呂升王翰 羅居通黃德輿 齊得一 李罕澄 邢神留沈正 許祚李琳等 胡仲堯弟:仲容 陳兢 洪文撫 易延慶 董道明 郭琮畢贊 顧忻李瓊 朱泰 成象 陳思道 方綱 龐天祐 劉斌 樊景温榮恕旻 祁暐 何保之 李玭 侯義 王光濟李祚 周善敏 江白 裘承詢孫浦等 常眞子:晏 王洤等 杜誼 姚宗明 鄧中和 毛安輿 李訪 朱壽昌 侯可 申積中 郝戭 支漸 鄧宗古 沈宣 蘇慶文臺亨 仰忻 趙伯深 彭瑜 毛洵李籌 楊芾 楊慶 陳宗 郭義 申世寧 苟與齡 王珠 顏詡 張伯威 蔡定 鄭綺鮑宗巌

百行の冠冕は孝より大なるはなく、百為の範防は義より大なるはなし。先王は孝を興して民の厚きを教え、民用いて薄からず。義を興して民の睦びを教え、民用いて争わず。天下を率いて孝義に由らしむるは、信を履み順を思うの世に非ずや。太祖・太宗以来、子に父の仇を復して人を殺す者有れば、壮としてこれを釈し、股を刲き肝を割くこと、皆褒賞を見る。数世同居に至っては、輒ちその家を復す。一百余年、孝義の感ずる所、醴泉・甘露・芝草・異木の瑞、史絶えず書す。宋の教化に足るべきもの有ること観るべし。『孝義伝』を作る。

原文冠冕百行莫大於孝,範防百爲莫大於義。先王興孝以教民厚,民用不薄;興義以教民睦,民用不爭。率天下而由孝義,非履信思順之世乎。太祖、太宗以來,子有復父仇而殺人者,壯而釋之;刲股割肝,咸見褒賞;至於數世同居,輒復其家。一百餘年,孝義所感,醴泉、甘露、芝草、異木之瑞,史不絕書,宋之教化有足觀者矣。作《孝義傳》。

李璘

原文李璘

李璘は、瀛州河間の人なり。晋の開運の末、契丹辺境を犯し、陳友という者あり、乱に乗じて璘の父及び家屬三人を殺す。乾徳の初め、璘は殿前散祗候に隷し、友は軍の小校たり。京師宝積坊の北にて相遇い、璘は手ずから刃を以て友を殺し、遁去せず。自ら父の仇を復せりと言う。案を鞫して実を得、太祖は壮としてこれを釈す。

原文李璘,瀛州河間人。晉開運末,契丹犯邊,有陳友者乘亂殺璘父及家屬三人。乾德初,璘隸殿前散祗候,友爲軍小校,相遇於京師寶積坊北,璘手刃殺友而不遁去,自言復父仇,案鞫得實,太祖壯而釋之。

甄婆兒

原文甄婆兒

雍熙の中、また京兆鄠県の民甄婆兒あり。母の劉が同里の人董知政と忿競し、知政は劉氏を撃ち殺す。婆兒始め十歳、妹は方に繈褓にあり、隣人の張氏に託して乳養せしむ。婆兒は仇を避け、赦村に徙居す。後数年、稍々長大し、母が知政に殺されたるを思い、またその妹が張氏に寄せるを思い、兄の課兒とともに張氏に詣りて妹を見んことを求む。張氏これを拒み、見るを得ず。婆兒憤怒悲泣し、兄に謂いて曰く、「我が母は人の為に殺され、妹は他姓に流寄す。大仇報いずして、何を以て生くると為さん」と。時に方に寒食、酒肴を具えて母の墳に詣り慟哭し、帰りて条桑の斧を取り袖中に置き、往って知政を見る。知政方に小児と戯るるに、婆兒その後に出で、斧を以てその脳を斫りてこれを殺す。有司その事を上請す。太宗その能く母の仇を復せるを嘉し、特これを貸す。

原文雍熙中,又有京兆鄠縣民甄婆兒,母劉與同里人董知政忿競,知政擊殺劉氏。婆兒始十歲,妹方繈褓,託鄰人張氏乳養。婆兒避仇,徙居赦村,後數年稍長大,念母爲知政所殺,又念其妹寄張氏,與兄課兒同詣張氏求見妹,張氏拒之,不得見。婆兒憤怒悲泣,謂兄曰:「我母爲人所殺,妹流寄他姓,大仇不報,何用生爲!」時方寒食,具酒肴詣母墳慟哭,歸取條桑斧置袖中,往見知政。知政方與小兒戲,婆兒出其後,以斧斫其腦殺之。有司以其事上請,太宗嘉其能復母仇,特貸焉。

徐承珪

原文徐承珪

徐承珪は、萊州掖の人なり。幼くして父母を失い、兄弟三人及びその族三十口とともに藜藿を甘んじ、衣服相譲り、四十年を歴てその操を改めず。居る所は崇善郷緝俗里、木連理し、瓜瓠異蔓にして同じく実る。州以て聞す。乾徳元年、詔して郷の名を義感と改め、里の名を和順とす。承珪嘗て贊皇の令と為る。

原文徐承珪,萊州掖人。幼失父母,與兄弟三人及其族三十口同甘藜藿,衣服相讓,曆四十年不改其操。所居崇善鄉緝俗里,木連理,瓜瓠異蔓同實,州以聞。乾德元年,詔改鄉名義感,累名和順。承珪嘗爲贊皇令。

劉孝忠

原文劉孝忠

劉孝忠は、并へい州太原の人なり。母病みて三年を経、孝忠は股の肉を割き、左の乳を断ちて以て母に食わしむ。母の病、心痛劇しく、孝忠は火を掌中に然し、母に代わって痛みを受く。母尋いで癒ゆ。後数年、母死す。孝忠は傭いて富家の奴と為り、錢を得て以て葬る。富家その孝行を知り、養いて己が子と為す。後、養父両目失明す。孝忠為にこれを舐め、七日を経て復た視ることを能う。親の故を以て、仏に事うること謹み、嘗て像の前に於いて双股の肉を割き、油を創中に注ぎ、燈を然すこと一昼夜。劉鈞聞きて召見し、衣服・錢帛・銀の鞍勒馬を給し、宣陵副使に署す。開宝二年、太祖親征して太原し、召見して慰諭す。

原文劉孝忠,并州太原人。母病經三年,孝忠割股肉、斷左乳以食母;母病心痛劇,孝忠然火掌中,代母受痛。母尋愈。後數歲母死,孝忠傭爲富家奴,得錢以葬。富家知其孝行,養爲己子。後養父兩目失明,孝忠爲舐之,經七日復能視。以親故,事佛謹,嘗於像前割雙股肉,注油創中,然燈一晝夜。劉鈞聞而召見,給以衣服、錢帛、銀鞍勒馬,署宣陵副使。開寶二年,太祖親征太原,召見慰諭。

呂昇

原文呂昇

呂昇は、萊州の人なり。父の権失明す。腹を剖き肝を探りて以て父の疾を救い、父復た視ることを能うて昇死せず。

原文呂昇,萊州人。父權失明,剖腹探肝以救父疾,父復能視而昇不死。

王翰

原文王翰

冀州南宮の人王翰、母喪明す。翰自ら右目の睛を抉りて以てこれを補う。母の目明らかなること故の如し。淳化の中、並びに詔を下して粟帛を賜う。

原文冀州南宮人王翰,母喪明,翰自抉右目睛補之,母目明如故。淳化中,並下詔賜粟帛。

羅居通

原文羅居通

羅居通は益州成都の人。母が死ぬと、墓の傍らに廬を結んで三年間喪に服し、甘露が墳墓の樹木に降り、芝草がその側に生じた。開寶四年、長吏がこれを聞き届けると、詔して羅居通を延長主簿に任じた。

原文羅居通,益州成都人。母死,廬墓三年,有甘露降墳樹,芝草生其旁。開寶四年,長吏以聞,詔以居通爲延長主簿。

黃德輿

原文黃德輿

大中祥符の初め、資州の人黃德輿が父母を葬り、土を背負って墳丘を築くと、甘泉がその側に湧き出た。詔を下してこれを旌表した。

原文大中祥符初,資州人黃德輿葬父母,負土成墳,甘泉湧其側,降詔旌表。

齊得一

原文齊得一

齊得一は密州諸城の人。幼い頃より学問を好み、成長すると『五経』を読み解き、郷里での教授に長じた。士大夫の子弟は百里を遠しとせず、皆彼のもとに就いて学業に励んだ。晋の末、皇甫暉が密州防禦使となった時、得一の父は客将であった。皇甫暉が淮南に叛いて帰順すると、しばしば兵を率いて旧郡で略奪を働き、民の牛羊犬豕をことごとく取り上げて士卒を犒労したため、得一の家は略奪され尽くした。後に王萬敢が防禦使となったが、性貪暴で、郷民十八家を捕らえ、かつて牛や酒を賊に贈ったことを責め、ことごとく殺してその資産を奪った。得一の親族で死んだ者は十余人に及び、ただ得一と兄だけが身を逃れて免れた。翌年、闕に赴いて上訴すると、朝廷は使者を遣わして審理させ事実を得たため、王萬敢は官を削られ、判官胡轍は死罪に処せられた。得一は郷里に帰り、布衣に蔬食、仕進を楽しまなかった。開寶年間、詔して郡国に廉退孝悌の士を挙げさせると、本郡は即座に得一を詔に応じた。闕に至り、策試に中選し、章丘主簿に任じられた。

原文齊得一,密州諸城人。幼嗜學,及長,能讀《五經》,善於教授鄉里。士大夫子弟不遠百里,皆就之肄業焉。晉末,皇甫暉爲密州防禦使,得一父爲客將。及暉叛歸淮南,屢率眾剽劫於故郡,民之牛羊犬豕悉取以犒士卒,得一之家被略殆盡。後王萬敢爲防禦使,性貪暴,執鄉民十八家,責其嘗以牛酒饋賊,盡殺之而取其資產,得一親屬死者十餘人,唯得一與兄脫身獲免。明年詣闕上訴,朝廷遣使按鞫之得實,萬敢削官,判官胡轍坐死。得一乃歸鄉里,布衣蔬食,不樂仕進。開寶中,詔郡國舉廉退孝悌之士,本郡即以得一應詔。至闕,策試中選,授章丘主簿。

李罕澄

原文李罕澄

李罕澄は冀州阜城の人、七世が同居した。漢の乾祐三年、詔して郷里の名を改め、その門閭を旌表した。太平興国六年、長吏が漢の時に賜わった詔書を持参して上奏すると、再びこれを旌表した。

原文李罕澄,冀州阜城人也,七世同居。漢乾祐三年,詔改鄉里名及旌其門閭。太平興國六年,長吏以漢所賜詔書來上,復旌表之。

邢神留

原文邢神留

邢神留は深州陸沢の人。父の超は官租を滞納し、里胥が租税を督促した際に超と闘い、超が里胥を殴打して死なせた。神留は十六歳で、役人のもとに赴き父に代わって死ぬことを求めた。州がこれを上聞すると、特に詔して死罪を減じ、里胥の家に一万銭を賜って棺や収殮の具とした。

原文邢神留,深州陸澤人。父超,逋官租,里胥督租,與超鬥,超歐里胥死。神留年十六,詣吏求代父死。州以聞,特詔減死,賜里胥家萬錢爲棺斂具。

沈正

原文沈正

端拱の初め、泰州海陵の人沈正は、父が屯田院の衙官で、凶暴無頼の徒であり、酒に任せて無辜の人を殴打して死なせた。正は途中でこれを見て、父が恐れおののき事情を述べると、正はすぐに号泣して衣を脱ぎ、その屍を殴りに行った。巡警の者が捕らえて官に送り、獄が決すると、怡然として死に就き、聞く者これを悲しんだ。

原文端拱初,泰州海陵人沈正,父爲屯田院衙官,凶暴無賴,使酒毆平人死,正中塗見,父恐慴,述其故,正即號呼褫衣,就毆其屍。巡警者捕送官,獄具,怡然就死,聞者悲之。

許祚

原文許祚

許祚は江州徳化の人。八世が同居し、長幼七百八十一口であった。太平興国七年、その門閭を旌表した。淳化二年、本州が祚の家は春夏に常に食糧が乏しいと上言すると、詔して毎年千斛の米を貸し与えた。

原文許祚,江州德化人。八世同居,長幼七百八十一口。太平興國七年,旌其門閭。淳化二年,本州言祚家春夏常乏食,詔歲貸米千斛。

李琳 等

原文李琳 等

また信州の李琳は十五世同居し、貝州の田祚・京兆の惠從順は十世同居し、廬州の趙廣・順安軍の鄭彥圭・信州の俞雋は八世同居し、陝州の張文裕は六世同居し、襄州の張巨源・劉芳・潭州の瞿景鴻・溫州の陳偘・江陵の褚彥逢は五世同居し、徐州の彭程は四世同居した。皆詔を賜い門閭を旌表された。巨源は平素より法律を習熟し、太平興国五年に明法及第を賜った。劉芳は淳化四年に寿寧節を賀するために来朝し、進士出身を賜った。陳偘は母に至孝であり、その母に粟帛を賜った。彥逢兄弟五人はいずれも年七十余りであり、至道元年、転運使がその事を上表し、詔して彥逢を教練使に補した。

原文又有信州李琳十五世同居,貝州田祚、京兆惠從順十世同居,廬州趙廣、順安軍鄭彥圭、信州俞雋八世同居,陝州張文裕六世同居,襄州張巨源、劉芳、潭州瞿景鴻、溫州陳偘、江陵褚彥逢五世同居,徐州彭程四世同居,皆賜詔旌表門閭。巨源素習法律,太平興國五年,賜明法及第。芳,淳化四年來賀壽寧節,賜進士出身。偘,事母至孝,賜其母粟帛。彥逢兄弟五人皆年七十餘,至道元年,轉運使表其事,詔補彥逢教練使。

胡仲堯

原文胡仲堯

胡仲堯は、洪州奉新県の人である。累世にわたり聚居し、数百口に至った。華林山の別墅に学舎を構え、書を万巻集め、大いに厨廩を設け、もって四方の遊学の士を招いた。南唐の李煜の時に嘗て寺丞を授けられた。雍熙二年、詔してその門閭を旌表した。仲堯は闕に詣でて恩を謝し、白金器二百両を賜った。淳化年中、州境が旱魃で凶作となり、仲堯は倉を開き市価を下げて飢民を賑い、また私財を以て南津橋を造った。太宗はこれを嘉し、本州の助教に除し、毎年香稻と時果を内東門に貢することを許した。五年、弟の仲容を遣わして寿寧節を賀させた。仲容を召見し、特に試校書郎を授け、袍笏犀帯を賜い、また御書を以てこれを賜った。公卿多く詩を賦して称美した。仲堯は稍く国子監主簿に遷り、致仕して卒した。

原文胡仲堯,洪州奉新人。累世聚居,至數百口。構學舍於華林山別墅,聚書萬卷,大設廚廩,以延四方遊學之士。南唐李煜時嘗授寺丞。雍熙二年,詔旌其門閭。仲堯詣闕謝恩,賜白金器二百兩。淳化中,州境旱歉,仲堯發廩減市直以振饑民,又以私財造南津橋。太宗嘉之,除本州助教,許每歲以香稻時果貢於內東門。五年,遣弟仲容來賀壽寧節。召見仲容,特授試校書郎,賜袍笏犀帶,又以御書賜之。公卿多賦詩稱美。仲堯稍遷國子監主簿,致仕,卒。

弟 仲容

原文弟 仲容

仲容は、字は咸和、咸平三年、再び闕に至り土物を貢し、大理評事に改め、屡々賜齎を受けた。仲容は本県の孔子廟を建て、頗る宏敞であった。後に光禄丞に遷り致仕し、天禧年中、特に緋魚を賜った。卒し、年七十九。弟の子の用訥を以て後とし、試校書郎とした。仲容の弟の克順は、端拱二年の進士で、都官員外郎・三司戸部判官に至った。仲容の子の用之及び從子の用莊・用舟は、並びに進士及第した。

原文仲容,字咸和,咸平三年,復至闕貢土物,改大理評事,屢被賜齎。仲容建本縣孔子廟,頗爲宏敞。後遷光祿丞致仕,天禧中,特賜緋魚。卒,年七十九。以弟之子用訥爲後,試校書郎。仲容弟克順,端拱二年進士,至都官員外郎、三司戶部判官。仲容子用之洎從子用莊、用舟,並進士及第。

陳兢

原文陳兢

陳兢は、江州徳安県の人で、陳の宜都王叔明の後裔である。叔明の五世の孫の兼は、唐の右補闕であった。兼が京を生み、秘書少監・集賢院学士となったが、子がなく、從子の褒を嗣とし、褒は塩官令に至った。褒が灌を生み、高安丞となった。灌の孫の伯宣は、難を避けて泉州に移り、馬総と善く司馬遷の『史記しき』に注して世に行われた。後に廬山に遊び、因って徳安に居し、嘗て著作佐郎として召されたが起たず、大順初年に卒した。伯宣の子の崇は江州長史となり、益々田園を増やし、家法を定めて子孫を戒め、群從の中から選んでその事を掌らせ、書堂を建ててこれを教誨した。僖宗の時に嘗て詔してその門を旌表し、南唐ではまた義門を立て、その徭役を免じた。崇の子の袞は、江州司戸であった。袞の子の昉は、試奉礼郎であった。

原文陳兢,江州德安人,陳宜都王叔明之後。叔明五世孫兼,唐右補闕。兼生京,秘書少監、集賢院學士,無子,以從子褒爲嗣,褒至鹽官令。褒生灌,高安丞。灌孫伯宣,避難泉州,與馬總善注司馬遷《史記》行於世;後遊廬山,因居德安,嘗以著作佐郎召,不起,大順初卒。伯宣子崇爲江州長史,益置田園,爲家法戒子孫,擇群從掌其事,建書堂教誨之。僖宗時嘗詔旌其門,南唐又爲立義門,免其徭役。崇子袞,江州司戶。袞子昉,試奉禮郎。

昉の家は十三世同居し、長幼七百口、僕妾を養わず、上下姻睦し、人に間言無し。毎食するに必ず群坐して広堂にし、未だ成人せざる者は別に一席とした。犬百余りあり、また一槽を置きて共に食し、一犬至らざれば、群犬も亦皆食さず。別墅に書楼を建て、四方の士を招き、肄業する者は多くこれに依った。郷里は率ね化され、争訟稀少であった。開宝初年、江南を平定し、知州の張齊が上請して旧に仍ってその徭役を免ずることを請うと、これに従った。昉の弟の子が鴻である。太平興国七年、江南転運使の張齊賢がまた雑科を免ずることを奏した。兢は即ち鴻の弟である。淳化元年、知州の康戩がまた上言して兢の家は常に食不足を苦しむとし、詔して本州に毎歳粟二千石を貸し与えた。

原文昉家十三世同居,長幼七百口,不畜僕妾,上下姻睦,人無間言。每食,必群坐廣堂,未成人者別爲一席。有犬百餘,亦置一槽共食,一犬不至,群犬亦皆不食。建書樓於別墅,延四方之士,肄業者多依焉。鄉里率化,爭訟稀少。開寶初,平江南,知州張齊上請仍舊免其徭役,從之。昉弟之子鴻。太平興國七年,江南轉運使張齊賢又奏免雜科。兢即鴻之弟。淳化元年,知州康戩又上言兢家常苦食不足,詔本州每歲貸粟二千石。

後に兢が死ぬと、その從父弟の旭は毎歳貸粟の半ばのみを受けて、省嗇して食すれば秋の収穫まで及ぶと云った。歳が凶作で穀貴の折、或いは全額受け取ってこれを売れば善価を得られると勧めたが、旭は「朝廷は旭の家の群從千口が食に乏するを軫み、公粟を以て貸すのである。豈に利を見て義を忘れ、上を罔くする事を行えようか」と言った。至道初年、内侍の裴愈を遣わして就き御書を賜い、還って、旭の家が孝友儉譲で淳古に近いと言上した。太宗は嘗て近臣に対しこれを言い、参知政事の張洎が対して「旭の宗族千余口は、世々家法を守り、孝謹衰えず、閨門の内は公府よりも厳かである」と言い、且つ旭が貸粟を受けた事に言及した。上は遠民が義を以て聚まり、また能く廉節を固くするを以て、これがために歎息した。大中祥符四年、旭を以て江州助教とした。旭が卒すると、弟の蘊が家事を主った。天聖元年、また蘊を以て助教を継がせた。蘊が卒すると、弟の泰がこれを主った。泰の弟の度は、太子中舍で致仕した。從子の延賞・可は、並びに進士に挙げられた。延賞は職方員外郎であった。

原文後兢死,其從父弟旭每歲止受貸粟之半,云省嗇而食,可以及秋成。屬歲儉穀貴,或勸其全受而糶之,可邀善價,旭曰:「朝廷以旭家群從千口,軫其乏食,貸以公粟,豈可見利忘義,爲罔上之事乎?」至道初,遣內侍裴愈就賜御書,還,言旭家孝友儉讓,近於淳古。太宗嘗對近臣言之,參知政事張洎對曰:「旭宗族千餘口,世守家法,孝謹不衰,閨門之內,肅於公府。」且言及旭受貸事。上以遠民義聚,復能固廉節,爲之歎息。大中祥符四年,以旭爲江州助教。旭卒,弟蘊主家事。天聖元年,又以蘊繼爲助教。蘊卒,弟泰主之。泰弟度,太子中舍致仕。從子延賞、可,並舉進士。延賞職方員外郎。

洪文撫

原文洪文撫

洪文撫は、南康軍建昌県の人で、本姓は宣祖の偏諱に犯すため、改めた。曾祖の諤は、唐の虔州司倉参軍で、子孫多く、孝悌をもって著称された。六世義居し、室に異爨無し。居する所の雷湖北に書舎を創り、学者を招来した。至道年中、本軍がこれを聞こえ、内侍の裴愈を遣わして御書百軸を齎しその家に賜った。文撫は弟の文挙を遣わして闕に詣で土物を貢して謝し、太宗は飛白一軸に「義居人」と書いてこれを賜い、文挙を江州助教に命じた。三年八月、また詔してその門閭を表した。是より毎歳子弟を遣わして入貢し、必ず厚く賜いこれに答えた。文撫の兄の子の待用は、咸平二年の進士第に登り、都官員外郎に至った。

原文洪文撫,南康建昌人,本姓犯宣祖偏諱,改焉。曾祖諤,唐虔州司倉參軍,子孫眾多,以孝悌著稱。六世義居,室無異爨。就所居雷湖北創書舍,招來學者。至道中,本軍以聞,遣內侍裴愈齎御書百軸賜其家。文撫遣弟文舉詣闕貢土物爲謝,太宗飛白一軸曰「義居人」以賜之,命文舉爲江州助教。三年八月,又詔表其門閭。自是每歲遣子弟入貢,必厚賜答之。文撫兄子待用,登咸平二年進士第,至都官員外郎。

易延慶

原文易延慶

易延慶は、字は餘慶、筠州上高県の人である。父の贇は、勇力を以て南唐に仕え雄州刺史に至った。延慶は幼くして聰慧で、経史に渉猟し、特に声律に長じ、父の蔭により奉礼郎となった。顕徳四年、周師が淮南を克つと、贇は朝に帰し、道州刺史を授けられた。延慶も亦大名府兵曹参そうしん軍を授かり、後に大理評事となり、臨淮県を知った。乾徳末年、贇が卒し、臨淮に葬られた。延慶は喪に居り摧毀し、墓側に廬し、手ずから松柏数百本を植え、朝に出でて墓を守り、夕べに帰りて母に侍した。紫芝が墓の西北に生じ、数年してまた玉芝十八莖が生じた。本州がその事を表そうとしたが、延慶は懇ろに辞した。或る者がその芝を画いて京師に来ると、朝士多く詩賦を作り、その孝感を称えた。

原文易延慶,字餘慶,筠州上高人。父贇,以勇力仕南唐至雄州刺史。延慶幼聰慧,涉獵經史,尤長聲律,以父蔭爲奉禮郎。顯德四年,周師克淮南,贇歸朝,授道州刺史;延慶亦授大名府兵曹參軍,後爲大理評事,知臨淮縣。乾德末,贇卒,葬臨淮。延慶居喪摧毀,廬於墓側,手植松柏數百本,旦出守墓,夕歸侍母。紫芝生於墓之西北,數年又生玉芝十八莖。本州將表其事,延慶懇辭。或畫其芝來京師,朝士多爲詩賦,稱其孝感。

服闋すると、延慶は母老を以て疾を称して官に就かず。母が卒した後、槁殯すること数年、延慶は出でて大理寺丞となった。嘗て建安市の征を司り、母の葬期が定まった時、私に帰りて葬を営み、壙を掩うて返った。知軍の扈継昇がその職を擅に去ったと上言し、坐して居官を免ぜられ、再び墓側に廬すること数年。母は平生栗を嗜み、延慶は墓側に二本の栗樹を植えると、二樹連理した。蘇易簡・朱台符がこれを賛美した。後に端州を知り、卒した。子の綸は、大中祥符元年、進士及第した。

原文服闋,延慶以母老稱疾不就官。母卒後,槁殯數年,延慶出爲大理寺丞。嘗司建安市征,及母葬有期,私歸營葬,掩壙而返。知軍扈繼昇言其擅去職,坐免所居官,復廬墓側數年。母平生嗜栗,延慶樹二栗樹墓側,二樹連理。蘇易簡、朱台符爲贊美之。後知端州,卒。子綸,大中祥符元年,進士及第。

董道明

原文董道明

董道明は蔡州褒信の人なり。母死して出葬す、道明潜かに墓中に匿れ、人これを瘞うずむ、三日を経て、家人塚を発してこれを取るに、道明恙つつが無く、終身墓側に廬いおる。

原文董道明,蔡州褒信人。母死出葬,道明潛匿墓中,人瘞之,經三日,家人發塚取之,道明無恙,終身廬於墓側。

郭琮

原文郭琮

郭琮は台州黄岩の人なり。幼にして父に喪ほうむり、母に事つかえて極めて恭順なり。妻を娶り子有りと雖も、母の室に移り居る。凡そ母の欲する所は、必ず親しくこれを奉ず。居常中食を過ぎず、酒を飲み葷くさぐさしきものを茹くうことを絶つこと三十年、以て母の寿を祈る。母年百歳、耳目衰えず、飲食減ぜず、郷里これを異とす。至道三年、詔書孝悌を存恤そんじゅつす、郷老陳賛、同里四十人を率いて琮の事を状じょうして転運使に聞かしむ、詔有りて門閭を旌表し、其の徭役を除く。明年、母疾無くして終わる。琮哀号幾ほとほとしく性を滅ぼさんとす、郷閭金帛を率そっいて以て葬を助く。

原文郭琮,台州黃岩人。幼喪父,事母極恭順。娶妻有子,移居母室。凡母之所欲,必親奉之。居常不過中食,絕飲酒茹葷者三十年,以祈母壽。母年百歲,耳目不衰,飲食不減,鄉里異之。至道三年,詔書存恤孝悌,鄉老陳賛率同里四十人狀琮事於轉運使以聞,有詔旌表門閭,除其徭役。明年,母無疾而終。琮哀號幾乎滅性,鄉閭率金帛以助葬。

又た越州応天寺の僧有り、幼くして貧しく以て母を養うこと無く、髪を剃りて食を乞い以て晨夕を給す。母年一百五歳にして終わる。

原文又有越州應天寺僧者,幼貧無以養母,剃髮乞食以給晨夕。母年一百五歲而終。

畢賛

原文畢賛

潭州長沙の人畢賛、郡に仕えて引賛吏と為り、性至孝、父母皆八十余歳なり。転運使其の事を表し、詔して賛に職を解かしめて終養せしむ。

原文潭州長沙人畢賛,仕郡爲引贊吏,性至孝,父母皆年八十餘。轉運使表其事,詔賛解職終養。

顧忻

原文顧忻

顧忻は泰州泰興の人なり。十歳にして父に喪り、母病むを以て、葷辛くんしん口に入れずすること十載。鶏初めて鳴けば、冠帯を具そなえ妻子を率いて母の室に詣り、其の欲する所を問う、此の如く五十年、未だ嘗て母の左右を離れず。母老い、目物を睹みること能わず、忻日夜号泣して天に祈り、血を刺して仏経数巻を写す。母の目忽ち明らかにして、燭下にて能く袵おくみを縫い、九十余にして疾無くして終わる。

原文顧忻,泰州泰興人。十歲喪父,以母病,葷辛不入口者十載。雞初鳴,具冠帶率妻子詣母之室,問其所欲,如此五十年,未嘗離母左右。母老,目不能睹物,忻日夜號泣祈天,刺血寫佛經數卷。母目忽明,燭下能縫袵,九十餘無疾而終。

李瓊

原文李瓊

又た杭州仁和の人李瓊有り、繒ぞうを鬻ひさぐを業と為し、母に事えて孝、夜常に十余り起きて母を省みる。母時新じしんを食するを喜ぶ、瓊百方求めて市い、得れば必ず十倍其の直あたいに酬むくゆ。

原文又有杭州仁和人李瓊,以鬻繒爲業,事母孝,夜常十餘起省母。母喜食時新,瓊百方求市,得必十倍酬其直。

朱泰

原文朱泰

朱泰は湖州武康の人なり。家貧しく、薪を鬻ぎて母を養い、常に数十里外に適ゆきて甘旨かんしを易かえ以て母に奉ず。泰服食粗糲それいにして、妻子に戒めて常に母の色を候うかがわしむ。一日、鶏初めて鳴きて山に入り、明けに及んで、山足に憩う、虎に遇い搏攫はくかくされて之を負いて去る。泰已に瞑眩めいげんす、百余歩を行くに、忽ち稍ようやく醒さめ、声を厲はげして曰く「虎暴を為して我を食らう、恨む所は母託る所無き爾のみ!」と。虎忽ち泰を地に棄て、顧みずして走る、人の疾く駆くるが如き状なり。泰匍匐ほふくして帰る。母扶持して泣き、泰も亦強しいて挙動し、一月を踰こえずして故の如し。郷里其の孝感を聞き、金帛を率いて之に遺おくる、里人目して「朱虎残」と為す。

原文朱泰,湖州武康人。家貧,鬻薪養母,常適數十里外易甘旨以奉母。泰服食粗糲,戒妻子常候母色。一日,雞初鳴入山,及明,憩於山足,遇虎搏攫負之而去。泰已瞑眩,行百餘步,忽稍醒,厲聲曰:「虎爲暴食我,所恨母無託爾!」虎忽棄泰於地,走不顧,如人疾驅狀。泰匍匐而歸。母扶持以泣,泰亦強舉動,不踰月如故。鄉里聞其孝感,率金帛遺之,里人目爲「朱虎殘」。

成象

原文成象

成象は渠州流江の人なり。詩書を以て里中に訓授し、父母に事えて孝を以て聞こゆ。母病み、股の肉を割きて之を食わしむ、詔して束帛醪酒を賜う。淳化中、李順郡県を盗み据う、象の父母驚悸して死に、燼骨じんこつ浮図ぶっとの舎に寄す、象号泣して葬を営む。賊平らぎ、郷里銭三百万を率いて之に贈る。象墓側に廬り、衰服の襟袂きんべいを以て土を墳上に篩ふるい、日に三斗。毎に慟どうすれば、聞く者戚愴せきそうす。未だ嘗て肉を食い帛を衣きせず、或いは之に贈るも亦受けず。虎豹廬を環めぐりて臥す、象畏色無し。燕百余廬中に集い、禾墓側に生じて九穂を吐く。服終わりて猶未だ家に還らず、礼を知る者書を為つくり以て之を諭す、遂に帰り教授し、遠近目して「成孝子」と為す。

原文成象,渠州流江人。以詩書訓授里中,事父母以孝聞。母病,割股肉食之,詔賜束帛醪酒。淳化中,李順盜據郡縣,象父母驚悸而死,燼骨寄浮圖舍,象號泣營葬。賊平,鄉里率錢三百萬贈之。象廬於墓側,以衰服襟袂篩土於墳上,日三斗。每慟,聞者戚愴。未嘗食肉衣帛,或贈之亦不受。虎豹環廬而臥,象無畏色。燕百餘集廬中,禾生墓側吐九穗。服終猶未還家,知禮者爲書以諭之,遂歸教授,遠近目爲「成孝子」。

陳思道

原文陳思道

陳思道は江陰の人である。父を喪い、母と兄に仕えて孝悌をもって知られた。酢を市の傍らで売り、朝夕の生計を支え、物を買うときは値段を交渉せず、求められた通りに与えた。母が病むと、思道は数ヶ月にわたり衣帯を解かず、両目は瘡で爛れ、飲食も母の量に合わせた。母の喪に際しては、七日間水漿を口にしなかった。葬った後、酢を売った利益を集めて十万銭を得、兄に奉った。墓の傍らに小屋を結び、日夜悲慟し、妻が時折子供を連れて訪れても、会おうとしなかった。夏には瓜を植えて、通りがかりの客をもてなした。昼は白兎が馴れて近づき、夜は虎豹が小屋を囲んで臥した。咸平元年、知軍がその事績を上奏し、詔して束帛を賜い、その門を旌表した。

原文陳思道,江陰人。喪父,事母兄以孝悌聞。鬻醯市側,以給晨夕,買物不酬價,如所索與之。母病,思道衣不解帶者數月,雙目瘡爛,飲食隨母多少。洎母喪,水漿不入口七日。既葬,裒鬻醯之利,得錢十萬,奉其兄。結廬墓側,日夜悲慟,其妻時攜兒女詣之,拒不與見。夏日種瓜,以待過客。晝則白兔馴狎,夜則虎豹環其廬而臥。咸平元年,知軍上其事,詔賜束帛,旌其門。

方綱

原文方綱

方綱は池州青陽の人である。八世が同じ竈で炊き、家族七百人、住居六百区画、毎朝太鼓を鳴らして一緒に食事をした。かつて五千𥮬の米を出して貧民に貸し与えた。景德二年、転運使馮亮がこれを上聞し、詔してその門を旌表した。天禧年中、侍御史韓億が江南を安撫し、帰還して上奏したところ、方綱の家の税籍は銭四百余千、米二千五百斛であり、四百年同居しているのに、本県の賦課は一切緩和されていないので、その戸の雑税を免除するよう望むと、詔してこれに従った。

原文方綱,池州青陽人。八世同爨,家屬七百口,居室六百區,每旦鳴鼓會食。嘗出稻五千𥮬振貸貧民。景德二年,轉運使馮亮以聞,詔旌其門。天禧中,侍御史韓億安撫江南,使還,言綱家稅籍錢四百餘千,米二千五百斛,同居四百年,而本縣科率一無寬假,望蠲其戶雜科,詔從之。

龐天祐

原文龐天祐

龐天祐は江陵の人である。経籍を以て里中で教授した。父が病気になると、天祐は腿の肉を切り取って食べさせた。病気が治ったが、また目を病んで失明したので、天祐は泣き叫んで天に祈り、舐めてやった。父は八十余歳で、大中祥符四年に亡くなり、天祐は土を背負って墳墓を築き、その傍らに小屋を結び、昼夜を問わず号泣の声が絶えなかった。知府陳堯咨が自ら赴いて弔問し、その事績を上奏したところ、詔して門閭を旌表した。天祐の家には一石の蓄えもなく、陋巷に住んでいたので、堯咨が里門の右に移し、闕を築いてこれを表彰した。

原文龐天祐,江陵人。以經籍教授里中。父疾,天祐割股肉食之。疾愈,又復病目喪明,天祐號泣祈天舐之。父年八十餘,大中祥符四年卒,天祐負土封墳,結廬其側,晝夜號不絕聲。知府陳堯咨親往致奠,上其事,詔旌表門閭。天祐家無儋石儲,居委巷中,堯咨爲徙里門之右,築闕表之。

劉斌

原文劉斌

劉斌は定州の人である。父の加友は、端拱年中に従弟の志元に殺された。斌兄弟は皆幼く、母に従って再嫁したが、母はかつて戒めて言った、「お前たちが成長したら、必ず父の仇を討て」と。景德年中、斌兄弟は刀を携えて道で志元を待ち伏せ、刺したが死なず、すぐに役所に出頭して自ら陳述した。州は獄案を整えて上請したところ、詔して志元に黥げい面を施して汝州に配流し、斌らの罪を赦した。

原文劉斌,定州人。父加友,端拱中爲從弟志元所殺。斌兄弟皆幼,隨母改適人,母嘗戒之曰:「爾等長,必復父仇。」景德中,斌兄弟挾刀伺志元於道,刺之不殊,即詣吏自陳。州具獄上請,詔志元黥面配隸汝州,釋斌等罪。

樊景溫 榮恕旻

原文樊景溫 榮恕旻

樊景溫は陝州芮城の人、榮恕旻は雄州帰信の人である。兄弟は別居して数年を経た。大中祥符年中、景溫の家の樗樹の五枝が一つになり、恕旻の家の榆樹二本が自然に合わさった。両家はこの異変に感じ入り、再び義をもって同居し、郷人はその和やかさを称えた。

原文樊景溫,陝州芮城人;榮恕旻,雄州歸信人。兄弟異居積年。大中祥符中,景溫樗樹五枝並爲一,恕旻家榆樹兩本自合,兩家感其異,復義聚,鄉人稱雍睦。

祁暐

原文祁暐

祁暐は字を坦之といい、萊州膠水の人である。淳化三年の進士、度支員外郎・直集賢院を歴任した。天禧年中、濰州知州として出向したが、母が亡くなった。州城の南に葬った。暐は官を解かれると、墳墓の傍らに小室を構え、号泣して守護し、粗食で六年の冬を過ごし、足の指を二本失った。白烏と白兎が墳墓の傍らに馴れ従い、州人はこれを異とし、状況を上聞した。詔してこれを表彰し、帛三十匹・粟三十石を賜い、長吏に毎月見舞いを命じた。

原文祁暐,字坦之,萊州膠水人。淳化三年進士,歷度支員外郎、直集賢院。天禧中,出知濰州,母卒。葬於州城之南。暐既解官,就墳側構小室,號泣守護,蔬食,經六冬,墮足二指。有白烏白兔馴擾墳側,州人異之,以狀聞。有詔旌美,賜帛三十匹、粟三十石,令長吏每月存問。

何保之

原文何保之

何保之は梓州通泉の人である。進士の学業に励み、至高の行いがあった。母が亡くなると、土を背負って墳墓を築き、その傍らに廬居した。日に群烏が飛来して墳上に集まり、哀鳴して去らず、またかつて兎が座の隅に馴れたことがあり、人々はこれを異と称えた。大中祥符年中に詔が下り、旌表と撫恤がなされた。

原文何保之,梓州通泉人。業進士,有至行。母卒,負土成墳,廬於其側。日有群烏飛集墳上,哀鳴不去,又嘗有兔馴於坐隅,人稱異焉。大中祥符降詔旌恤。

李玭

原文李玭

李玭は大名宗城の人である。性質は篤実で孝行であり、力を尽くして耕して母に仕えた。母が亡くなると、田を弟の堅に譲り、葬所の傍らに廬居し、昼夜号泣し、土を背負って墳墓を築き高さ一丈余りにした。また二代および諸族の父母で仮葬されていた者にも礼を尽くして築き、凡そ三年で六つの墳墓を完成させ、皆一丈余りであった。肉を食べず帛を着ず、人の世話にも預からず、ただ築くのが及ばないことを恐れて慌ただしく過ごし、墳墓が完成すると、さらに三年間墳墓を守った。常に兄の子に薬を売らせて自ら生計を立てた。六十余歳になっても、足を県の門に入れたことはなかった。郷人はこれを「李孝子」と見なした。天禧年中、知府張知白が状況を上聞したところ、詔して粟帛を賜い、府県に安んじて世話をさせるよう命じた。里中に母がいるのに財産を分けた者が、玭が旌表されたと聞き、兄弟は慚愧して恐れ、再び相率いて同居した。

原文李玭,大名宗城人。性篤孝,力耕以事母。母卒,讓田與其弟堅,遂廬於葬所,晝夜號泣,負土築墳高丈餘。又以二代及諸族父母槁葬者盡禮築之,凡三年成六墳,皆丈餘。不食肉衣帛,不預人事,遑遑然唯恐築之不及,墳成,復留守墳三年。常令兄之子賣藥以自給。年六十餘,足未嘗入縣門。鄉人目爲「李孝子」。天禧中,知府張知白以狀聞,詔賜粟帛,令府縣安存之。里中有母在而析產者聞玭被旌,兄弟慚懼,復相率同居。

侯義

原文侯義

侯義は応天府楚丘の人。貧しく資産なく、田を傭って母に仕ふ。里人に其の親を葬りて急ぎ返る者有り、義の母其の塚を過ぎ、泣きて義に謂ひて曰く、「我死すれば、其れ是の若きか」と。義乃ち感激自ら誓ひて言はんと欲せず、但だ其の母を慰めて曰く、「悲しむ勿れ、義必ず爾らず」と。咸平中、母卒す、義力自ら葬を辦じ、墳壙を掩はず、晝は則ち土を負ひて墳を築き、夜は則ち慟哭柩の側にす。妻子困匱して給せず、田主曹氏之を哀憐し、餱糧を以て資す。逾年、墳の間瓜異蒂、木連理し、又巨蛇其の側を繞りて物を暴かず、野鴿飛びて去らず。嘗て盜に遇ひ其の衣服を劫る、既にして是れ義の物と知り、悉く之を還す。

原文侯義,應天府楚丘人。貧無產,傭田以事母。里人有葬其親而遽返者,義母過其塚,泣謂義曰:「我死,其若是乎!」義乃感激自誓而不欲言,但慰其母曰:「勿悲,義必不爾。」咸平中,母卒,義力自辦葬,不掩墳壙,晝則負土築墳,夜則慟哭柩側。妻子困匱不給,田主曹氏哀憐之,資以餱糧。逾年,墳間瓜異蒂、木連理,又有巨蛇繞其側不暴物,野鴿飛而不去。嘗遇盜劫其衣服,既而知是義物,悉還之。

王光済

原文王光濟

王光済は廬州の人。母に喪し、因りて像を刻み日夕奉事すること平生の如くし、孝道純篤なり。咸平二年、本州孝を以て聞こえ、詔有りて之を旌す。

原文王光濟,廬州人。喪母,因刻像日夕奉事如平生,孝道純篤。咸平二年,本州以孝聞,有詔旌之。

李祚 周善敏

原文李祚 周善敏

時に又徐州豐の人李祚有り、親に喪し、墓側に廬すること凡そ二十七年、家人百計勉諭すれども聽かず。益州雙流の人周善敏、父に喪し、墓側に廬す。母病み、又股肉を割きて以て之を啖ひしむ、遂に愈ゆ。大中祥符九年、特詔祚を旌表し、善敏に粟帛を賜ひ存慰す。

原文時又有徐州豐人李祚,親喪,廬墓側凡二十七年,家人百計勉諭,不聽。益州雙流人周善敏,喪父,廬於墓側。母病,又割股肉以啖之,遂愈。大中祥符九年,特詔旌表祚,賜善敏粟帛存慰之。

江白

原文江白

江白は建昌の人。景德二年進士。父禹錫、節義有り、高年仕へず、躬自教授す、大中祥符初、『東封詩』十五篇を獻じ、詔有りて嘉美し、粟帛を以て賜ひ、歳時使を遣はし存問す。五年、卒す。白鄞尉自ら罷め還り、土を負ひて葬を營み、墓側に廬し、藜羹芒屩、晝夜號泣し、將に終制せんとす猶然たり。轉運使其の狀を以て聞こえ、詔帛二十匹、粟麥二十石、醪酒十缸を賜ふ。

原文江白,建昌人。景德二年進士。父禹錫,有節義,高年不仕,躬自教授,大中祥符初,獻《東封詩》十五篇,有詔嘉美,賜以粟帛,歲時遣使存問。五年,卒。白自鄞尉罷還,負土營葬,廬於墓側,藜羹芒屩,晝夜號泣,將終制猶然。轉運使以其狀聞,詔賜帛二十匹,粟麥二十石,醪酒十缸。

裘承詢

原文裘承詢

裘承詢は越州會稽の人。雲門山前に居り、十九世爨を異にせず。子弟弦誦を習ひ、鄉里其の敦睦を稱す。州以て聞こえ、詔其の門閭を旌す。

原文裘承詢,越州會稽人。居雲門山前,十九世無異爨。子弟習弦誦,鄉里稱其敦睦。州以聞,詔旌其門閭。

孫浦 等

原文孫浦 等

咸平後、又保定軍孫浦、襄州常元紹、蔡州王美、解州董孝章並びに十世同居す;莫州高珪、永定軍朱仁貴、潞州邢濬、相州趙祚八世同居す;麟州楊榮、隰州趙友、開封李居正、潁州張可象、衛州張珪、滄州崔諒七世同居す;邢州王覺、趙州曹遵六世同居す;兗州童升、陳州樊可行、京兆元守全、平定軍段德五世同居す;開封張仁遇、亳州王子上、建昌軍瞿肅四世同居す。肅家百五十口、長幼孝悌、鄉人之に化す。又河陰王世及、大名李宗祐、陳州劉閏、宣州汪政、潭州李耕、或は聚居七百口に至り、數十百年を累ぬ。並びに所在請ひて旌表を加へんとす、詔之に從ひ、仍て其の課調を蠲す。

原文咸平後,又有保定軍孫浦、襄州常元紹、蔡州王美、解州董孝章並十世同居;莫州高珪、永定軍朱仁貴、潞州邢濬、相州趙祚八世同居;麟州楊榮、隰州趙友、開封李居正、潁州張可象、衛州張珪、滄州崔諒七世同居;邢州王覺、趙州曹遵六世同居;兗州童升、陳州樊可行、京兆元守全、平定軍段德五世同居;開封張仁遇、亳州王子上、建昌軍瞿肅四世同居。肅家百五十口,長幼孝悌,鄉人化之。又河陰王世及、大名李宗祐、陳州劉閏、宣州汪政、潭州李耕,或聚居至七百口,累數十百年。並所在請加旌表,詔從之,仍蠲其課調。

大中祥符初、東に泰山を封じ、判兗州王欽若言ふ曲阜東野宜、乾封竇益合居五六世、節行有りと。四年、汾陰を祀り、考制度使馬起言ふ陝州張化基、閻用和、楊忠義聚族累世、孝悌稱す可しと。並びに行在所に即ち詔を降し褒美し、各優に粟帛を賜ふ。

原文大中祥符初,東封泰山,判兗州王欽若言曲阜東野宜、乾封竇益合居五六世,有節行。四年,祀汾陰,考制度使馬起言陝州張化基、閻用和、楊忠義聚族累世,孝悌可稱。並即行在所降詔褒美,各優賜粟帛。

常真

原文常真

常真は陳州項城の人。父母死に、墓に廬し喪を終へ、土を負ひて墳を成し、葷血を茹はず。周廣順中、詔其の門閭を旌す。開寶七年、本州以て聞こえ、詔再び旌表を加ふ。真妻病み、子晏股肉を割きて以て母を養ひ、及び死し、次子守規徒跣し、日一食し、墓に廬すること三年。太平興國八年、詔之を旌表す。

原文常真,陳州項城人。父母死,廬墓終喪,負土成墳,不茹葷血。周廣順中,詔旌其門閭。開寶七年,本州以聞,詔再加旌表。真妻病,子晏割股肉以養母,及死,次子守規徒跣,日一食,廬墓三年。太平興國八年,詔旌表之。

また、齊州の王洤、河南の李繼成、滄州の胡元興がおり、いずれも母が死ぬと土を背負って墳墓を築き、昼夜を分かたず声を絶やさずに泣いた。州郡が相次いでこれを朝廷に報告すると、皆詔を下してその門閭を表彰し、粟帛を賜った。

原文又有齊州王洤、河南李繼成、滄州胡元興,並母死負土成墳,晝夜哭不絕聲。州郡繼以聞,皆降詔旌其門閭,賜以粟帛。

杜誼

原文杜誼

杜誼、字は漢臣、台州黄岩の人。父母に仕えて至孝であった。父は剛厳で、誼だけは愛されず、不安で身の置き所がなく、顔色を窺ってから進んだ。父母が相次いで亡くなると、昼夜を分かたず慟哭して声を絶やさず、数日にわたり水さえ口にしなかった。葬地を卜し、裸足で土を背負って墳墓を築き、往復十余里、毎日塘澗を渡り、泥水が脛まで没したが、大雨雪であっても少しも止めなかった。手足は皸裂して血が流れ、漆を塗った。一畚の土を覆うごとに、必ず三度墳墓を巡って号泣してから去った。葬り終えると、墓の傍らに仮小屋を建て、喪が明けるまで土を背負い続け、人が見に行くと、すぐに帰らせた。一日一食、肉は食べなかった。虎狼が墓の側で交わっても、誼は泰然として少しも恐れなかった。翌年、呉越で大水があり、山々が皆洪水を起こし、巨石を押し流して十数里を行った。台州の山は最も高く、水はまた夜に至ったので、山の傍らの民の、家屋・墓田・畜産が流され壊れた者は甚だ多かったが、誼だけは及ばなかった。邑人がその事実を記して報告すると、詔書が下って嘉奨した。

原文杜誼,字漢臣,台州黃岩人。事父母至孝。父剛嚴,誼獨失愛,惴惴不自容,伺顏色而後進。繼喪父母,號慟晝夜不絕,勺水不入口者累日。卜葬,徒跣負土爲墳,往來十餘里,日渡塘澗,泥水沒骭,雖大雨雪未嘗少止。手足皸裂血流,以漆塗之。每覆一畚,必三繞墳號而後去。既葬,遂茇舍墓旁,負土終喪,人往視之,輒遣去。日一飯,不葷。雖虎狼交於墓側,誼泰然無所畏。明年,吳越大水,山皆發洚,推巨石走十數里。台州山最高而水又夜至,旁山之民,居廬、墓田、畜牧漂壞者甚眾,而獨不及誼。邑人狀其事以聞,詔書嘉獎。

族父の杜衍に仕えて甚だ謹み、衍は彼を諸子と同等に愛した。祖父の杜垂象の蔭で官に入り、贊善大夫に至った。かつて永城県の知事を務め、毎年俸銭三十万を投じて、汴渠で溺死した者を収葬すること凡そ四十余りに及んだ。また俸銭を出して部下を率いて文宣王廟を新築し、両側に学舎数十区を設け、朝夕その堂で講学した。永城の父老は誼の政績を及ぶべからざるものと称えた。

原文事族父衍甚謹,衍愛之均諸子。以祖垂象蔭入官,至贊善大夫。嘗知永城縣,歲捐奉錢三十萬,以收瘞汴渠之溺死者凡四十餘。又出奉錢率其下新文宣王廟,兩旁爲學舍數十區,旦夕講學於其堂。永城父老稱誼之政爲不可及。

誼は生平敦厚で、信義を尊び、大志があり、家は貧しかったが、有無を顧みず、常に推して親友を救済した。後に梓州の通判となり、卒去した。子の揆はわずか十六歳で、誼の墓の傍らで泣きながら亡くなった。

原文誼生平敦厚,尚信義,有大志,家貧,不恤有無,常推以濟親友。後通判梓州,卒。子揆才十六歲,哭誼墓旁卒。

姚宗明

原文姚宗明

姚宗明、河中永楽の人。その十世の祖は棲雲。唐の貞元年中、兵卒を徴発して辺境を守らせた時、棲雲の父はその兄に言った。「兄には後継ぎがまだいない。行かなくてよい。私は幸い子がある。兄に代わって行かせてほしい。」遂に塞上で戦死した。当時棲雲はわずか三歳で、その母は再嫁し、棲雲は伯母に養われた。成長すると、伯母を実の母のように仕え、伯母が亡くなると、棲雲が葬った。また父の魂を招いて葬り、父が辺境で死んだことを痛み、墓の傍らに廬を結び、終身哀慕の情を衰えさせなかった。県令の蘇轍が俸銭で土地を買い、阡陌を開き石碑を刻んで表彰した。河中尹の渾瑊がその事跡を上奏すると、詔して優れた賜物を加え、その門を表彰し、郷を孝悌、社を節義、裏を敬愛と名付けた。

原文姚宗明,河中永樂人也。其十世祖棲雲。當唐貞元中,調卒戍邊,棲雲之父語其兄曰:「兄嗣未立,可無往。某幸有子,請代兄行。」 遂戰沒塞上。時棲雲方三歲,其母再嫁,棲雲養於伯母。既長,事伯母如其母,伯母亡,棲雲葬之。又招魂葬其父,痛其父死於邊,乃廬於墓次,終身哀慕不衰。縣令蘇轍以俸錢買地,開阡刻石表之。河中尹渾瑊上其事,詔加優賜,表其門,名其鄉曰孝悌,社曰節義,裏曰敬愛。

棲雲は嶽を生み、嶽は君儒を生み、君儒は師正を生んだ。嶽から師正まで、四世にわたり墓傍に廬居した。五世の孫は厚、六世は雅、七世は文、八世は敬真、九世は直、十世は宗明。慶曆初め、役人が姚氏が十世同居していることを朝廷に報告すると、仁宗は詔してその家の賦役を免除した。十一世の孫は用和、十二世の孫は士明、十三世の孫は徳。宗明から徳までまた三世、慶曆以後また五十余年を経たが、その家の孝行と和睦は絶えなかった。

原文棲雲生嶽,嶽生君儒,君儒生師正。自嶽至師正,四世廬墓。五世孫曰厚,六世曰雅,七世曰文,八世曰敬真,九世曰直,十世曰宗明。當慶曆初,有司以姚氏十世同居聞於朝,仁宗詔復其家。十一世孫用和,十二世孫士明,十三世孫德。自宗明至德又三世,自慶曆以後又五十餘年,而其家孝睦不替。

姚氏は代々農を業とし、学問をする者はいなかった。家は甚だ富まず、田数十頃を持ち、一族百余りを集めて住んだ。子孫は自ら農桑に従事し、衣食をやっと賄うのみで、三百余年を経ても異議を唱える者はなかった。唐末・五代を経て、兵戈乱離の世にあっても、子孫は墳墓を守り、骨肉が離散することなく、天下に求めても、未だかってなかった。

原文姚氏世爲農,無爲學者。家不甚富,有田數十頃,聚族百餘人。子孫躬事農桑,僅給衣食,曆三百餘年無異辭者。經唐末、五代,兵戈亂離,而子孫保守墳墓,骨肉不相離散,求之天下,未或有焉。

鄧中和

原文鄧中和

鄧中和、字は祖徳、開封長垣の人。『三礼』に挙げられた。景祐・慶曆の間に親を喪い、喪が明けるまで墓傍に廬居し、生前のように定省往來すること二十年、土を背負って墳を積み上げること三丈に及んだ。

原文鄧中和,字祖德,開封長垣人。舉《三禮》。景祐、慶曆間喪親,廬墓終其喪,定省往來如事生者二十年,負土累墳高三丈。

毛安輿

原文毛安輿

毛安輿、嘉州洪雅の人。九歳の時に父が死に、土を背負って墳墓を築き、その側に三年廬居した。益州知事の張方平がこれを聞き、酒食を贈り、その事跡を記して報告した。

原文毛安輿,嘉州洪雅人。年九歲父死,負土爲墳,廬於其側三年。知益州張方平聞之,遺以酒餼,狀其事以聞。

李訪

原文李訪

李訪、韶州の人、進士を業とする。父母の墓に廬居したところ、虎が暴れて傍人を傷つけても李訪には近寄らず、また白い烏が墓の上に集まった。

原文李訪,韶州人,業進士。廬父母墓,有虎暴傷旁人而不近訪,又有白烏集墓上。

朱壽昌

原文朱壽昌

朱壽昌、字は康叔、揚州天長の人。父の巽の蔭により将作監主簿を守り、累次州県に転調し、陝州・荊南を通判し、権知岳州となった。州は重湖に臨み、水賊が多い。壽昌は民船を籍に載せ、姓名を刻み、互いに伺察させ、出入りは必ず告げさせた。盗賊が発生すると、船の向かった方向を検証して徹底的に討伐したので、盗賊は少し鎮まり、傍らの郡はこれを取って法とした。

原文朱壽昌,字康叔,揚州天長人。以父巽蔭守將作監主簿,累調州縣,通判陝州、荊南,權知岳州。州濱重湖,多水盜。壽昌籍民船,刻著名氏,使相伺察,出入必以告。盜發,驗船所向窮討之,盜爲少弭,旁郡取以爲法。

富弼・韓琦が相となった時、使者を四方に遣わして民力を寛恤し、壽昌を選んで湖南に派遣した。或る者が邵州に冶を置き金を採るべしと言うと、詔があり興作することとなった。壽昌は言うに、州は蛮に近く、金冶を大いに興せば蛮は必ず争い、これより辺境は恐らく多事となり、かつ良田数百頃を廃するは、本を敦あつくし末を抑える道に非ず、と。詔して直ちにこれを罷めしめた。

原文富弼、韓琦爲相,遣使四出寬恤民力,擇壽昌使湖南。或言邵州可置冶采金者,有詔興作。壽昌言州近蠻,金冶若大發,蠻必爭,自此邊境恐多事,且廢良田數百頃,非敦本抑末之道也。詔亟罷之。

閬州を知る。大姓の雍子良は屡々人を殺し、財と勢いを恃んで死を免れていた。この時至り、また人を殺してその里民を賄い吏に出頭させた。獄が具わると、壽昌はその奸を覚り、囚を引き寄せ詰問して言うには、「吾聞く、子良が汝に銭十万を与え、汝の娘を娶って婦とすることを許し、かつ汝の子を婿とすると、故に汝がその命に代わる、これ有るか」と。囚の色が動くと、則ちまた擿ついて言うには、「汝が死せんとする時、券を書いて汝の娘を婢に抑え、銭を顧直(報酬)と指し、また汝の子を婿とせず、将はた如何にせん」と。囚は悟り、涕泣して顔を覆い、言うには、「囚は幾ほとんど誤って死せんとす」と。実を以て答えた。直ちに子良を取って法に正した。郡は神と称し、蜀しょく人は今に至るまでこれを伝える。

原文知閬州,大姓雍子良屢殺人,挾財與勢得不死。至是,又殺人而賂其里民出就吏。獄具,壽昌覺其姦,引囚詰之曰:「吾聞子良與汝錢十萬,許納汝女爲婦,且婿汝子,故汝代其命,有之乎?」囚色動,則又擿之曰:「汝且死,書券抑汝女爲婢,指錢爲顧直,又不婿汝子,將奈何?」囚悟,泣涕覆面,曰:「囚幾誤死。」以實對。立取子良正諸法。郡稱爲神,蜀人至今傳之。

広徳軍を知る。壽昌の母劉氏は、巽の妾である。巽が京兆を守った時、劉氏は妊娠中に出された。壽昌は数歳になって初めて父の家に帰り、母子は互いに消息を聞かず五十年に及んだ。四方を行きて求めやまず、飲食には酒肉をめったに用いず、言えば必ず流涕した。浮屠の法を用いて背を灼き頂を焼き、血を刺して仏経を書き、力の及ぶ限り、為さざるはなかった。熙寧初年、家人と辞訣し、官を棄てて秦に入り、言うには、「母に会わずんば、吾は返らじ」と。遂に同州において得た。劉氏は時に年七十余り、党氏に嫁いで数子あり、皆迎えて帰した。京兆の銭明逸がその事を聞こえ、詔して官に就くことを還し、ここより孝を以て天下に聞こえた。王安石・蘇頌・蘇軾以下、士大夫は争って詩を作りこれを美とした。壽昌は母を養う故を以て、河中府通判を求めた。数年して母が卒すと、壽昌は喪に居て幾んど目を喪う。葬った後、白烏が墓上に集まった。同母の弟妹を拊なでること益々篤かった。

原文知廣德軍。壽昌母劉氏,巽妾也。巽守京兆,劉氏方娠而出。壽昌生數歲始歸父家,母子不相聞五十年。行四方求之不置,飲食罕御酒肉,言輒流涕。用浮屠法灼背燒頂,刺血書佛經,力所可致,無不爲者。熙寧初,與家人辭訣,棄官入秦,曰:「不見母,吾不反矣。」遂得之於同州。劉時年七十餘矣,嫁党氏有數子,悉迎以歸。京兆錢明逸以其事聞,詔還就官,由是以孝聞天下。自王安石、蘇頌、蘇軾以下,士大夫爭爲詩美之。壽昌以養母故,求通判河中府。數歲母卒,壽昌居喪幾喪明。既葬,有白烏集墓上。拊同母弟妹益篤。

また鄂州を知り、崇禧観を提挙し、累官して司農少卿となり、朝議大夫に易え、中散大夫に遷り、卒す。年七十。壽昌は義に勇み、人の急を周すくうに愛する所なく、兄弟の孤女二人を嫁がせ、葬ること能わざる者十余りの喪を葬り、天性かくの如し。

原文又知鄂州,提舉崇禧觀,累官司農少卿,易朝議大夫,遷中散大夫,卒,年七十。壽昌勇於義,周人之急無所愛,嫁兄弟兩孤女,葬其不能葬者十餘喪,天性如此。

侯可

原文侯可

侯可、字は無可、華州華陰の人。少にして倜儻不羈、気節を以て自ら許す。壮に至り、前の好みを尽く易え、志を篤くして学を為す。計(上計の吏)に随って京に入る。里中金を醵あつめて贐行す。帰るに及び、その余を悉く同挙の者に散じ、言うには、「この金は、郷里が詔に応ずるを資する所なり、他の利と為すべからず」と。且つ行かんとし、郷人の病むを聞き、念じて言うには、「吾が帰れば、則ち彼は死せん」と。遂に留まり去らず。病める者癒ゆると、己が馬を輟やめてこれを載せ、徒歩して帰る。

原文侯可,字無可,華州華陰人。少倜儻不羈,以氣節自許。既壯,盡易前好,篤誌爲學。隨計入京,里中醵金贐行。比還,悉散其餘與同舉者,曰:「 此金,鄉里所以資應詔者也,不可以爲他利。」且行,聞鄉人病,念曰:「吾歸,則彼死矣!」遂留不去。病者愈,輟己馬載之,徒步而歸。

孫沔が儂徭を征するに、軍事に参ずるを請い、功を奏して官を得、巴州化城県を知る。巴の俗は鬼を尚たっとび医を廃し、唯巫の言を用いる。婦を娶るには必ず財を責め、貧しき人の娘は老するに至るまで嫁ぐことを得ず。可はこれを約束し、制度を立て、違う者は罪ありとし、幾んどその習いを変えしめた。再び華原主簿に調ず。富人は田籍を占めずして人田の券を質に取り万畝に至り、歳ごとにその租を責む。可は晨あしたに馳せて富家に至り、櫝を発して券を出しその主に帰す。郡吏の趙至誠は貪狡凶横にして、守以下の短長を持ち、前後去る者なし。可はその罪を暴き、校を荷になわせて獄に置き、大府に言ってこれを誅し、聞く者快服す。

原文孫沔征儂徭,請參軍事,奏功得官,知巴州化城縣。巴俗尚鬼而廢醫,唯巫言是用。娶婦必責財,貧人女至老不得嫁。可爲約束,立制度,違者有罪,幾變其習。再調華原主簿。富人有不占田籍而質人田券至萬畝,歲責其租。可晨馳至富家,發櫝出券歸其主。郡吏趙至誠貪狡凶橫,持守以下短長,前後莫能去。可暴其罪,荷校置獄,言於大府誅之,聞者快服。

儀州判官に簽書す。西夏辺を寇す。使者、可に按視をさせしむ。即ち数十騎を以て夏境に渉り、猝にわかにこれと遇う。亟すみやかにその騎を三四に分かち、これに令して言うには、「爾が旗幟を建て、山を旋めぐり徐行せよ」と。夏人は循環して間あいだに見るも、誘騎なりと疑いて敢えて撃たず。韓琦が長安ちょうあんを鎮むるに、涇陽県を知るを薦む。渭源の羌酋を説き地八千頃を輸おさめさせ、因りて熟羊に城してこれを撫す。琦その功を上る。また鄭白渠を復するを議し、召対を得るが、旋なく微罪に坐して罷む。官は殿中丞に至り、家にて卒す。年七十二。

原文簽書儀州判官。西夏寇邊,使者使可按視,即以數十騎涉夏境,猝與之遇,亟分其騎爲三四,令之曰:「建爾旗幟,旋山徐行。」夏人循環間見,疑以爲誘騎不敢擊。韓琦鎮長安,薦知涇陽縣。說渭源羌酋輸地八千頃,因城熟羊以撫之。琦上其功。又議復鄭白渠,得召對,旋以微罪罷。官至殿中丞,卒於家,年七十二。

可は財を軽んじ義を楽しみ、人の急を急ぎ、人の憂いを憂う。田顔と友となる。顔病重く、千里医を求む。未だ帰らずして顔死す。目瞑とじず。人言うには、「侯君を待つか」と。且つ斂れんせんとして可至る。これを拊すれば乃ち瞑ず。顔に子なく、葬ることを克よくせず。可は辛勤百営し、衣を鬻って相役し、遂にこれを葬る。方まさに天寒く、単衣を以て居る。白金を饋おくる者有り。顔の妹の処室(未婚)なるを顧み、挙げて以てその奩具を佐たすく。一日遠きより帰る。家、窶まずしきを以て告ぐ。適友人郭行門を扣たたきて言うには、「吾が父病む。医、銭百千を邀もとむ。吾が廬を売るも而しかも售うれず」と。可惻然とし、橐中の装を計るに略ほぼその数に当たる。尽くこれに与う。関中その賢を称す。

原文可輕財樂義,急人之急,憂人之憂。與田顏爲友。顏病重,千里求醫,未歸而顏死,目不瞑。人曰:「其待侯君乎?」且斂而可至,拊之乃瞑。顏無子,不克葬,可辛勤百營,鬻衣相役,卒葬之。方天寒,單衣以居,有饋白金者,顧顏之妹處室,舉以佐其奩具。一日自遠歸,家以窶告,適友人郭行扣門曰:「吾父病,醫邀錢百千,賣吾廬而不售。」可惻然,計橐中裝略當其數,盡與之。關中稱其賢。

申積中

原文申積中

申積中、成都の人。繈褓の中、楊繪がその父の起に従いこれを求めて子とす。長ずるに及び、楊氏に非ざるを知りながら絶口言わず。年十九、進士第に登る。養う所の父母に事え、終身孝を尽くす。二弟一妹あり、その婚娶を畢おえ、始めて本族に帰り、復た申氏と為る。蜀人は純孝を以てこれを帰す。政和六年、奉議郎を以て徳順軍を通判す。翰林学士許光凝嘗て成都を守り、その事を得て朝に薦む。京師に召し赴かしめ、永興軍学事を提挙す。道にて卒す。光凝復た宣和殿学士薛嗣昌・中書舎人宇文黄中とその操行を表し、詔して一子に官を与う。

原文申積中,成都人。繈褓中,楊繪從其父起求之爲子。及長,知非楊氏而絕口不言。年十九,登進士第。事所養父母,盡孝終身。有二弟一妹,爲畢婚娶,始歸本族,復爲申氏,蜀人以純孝歸之。政和六年,以奉議郎通判德順軍。翰林學士許光凝嘗守成都,得其事薦諸朝,召赴京師,擢提舉永興軍學事,道卒。光凝復與宣和殿學士薛嗣昌、中書舍人宇文黃中表其操行,詔予一子官。

初め、光凝の同く薦むる者三人。其一は河陽の故大理丞陳芳、一門十四世、三百年同居す。一は鄧州の王襄、経術にて科に登り、年未だ六十ならずして老を請い、孀嫂に事えること母の如く、孤甥を養うこと子の如く、後進を教誨し、郷里の貧民を周恤し、学行を以て称せらる。賞異を加うるを乞う。詔して芳の門閭を表し、襄に号「処士」を賜う。

原文初,光凝所同薦者三人:其一河陽故大理丞陳芳,一門十四世,同居三百年;一鄧州王襄,經術登科,年未六十,請老,事孀嫂如母,養孤甥如子,教誨後進,周恤鄉里貧民,以學行稱。乞加獎異。詔表芳門閭,賜襄號「處士」。

郝戭

原文郝戭

郝戭、字は伯牙、石州定胡の人。家は貧しく、力を尽くして父母を養った。或る人がこれを憐れみ、数百万銭を貸して利子で自活させようとしたが、戭は重ねて謝意を表し、その銭を五六年間用いず、再び返した。進士に挙げられ、宛丘尉・舞陽主簿・通山令に任じられた。時に年未だ五十ならず、父の樵が老いて官に就いていないのを以て、上書して致仕を請い、父のために官を求めた。執政は官に赴いてから請うよう諭し、「このようにすれば、朝籍に昇り、恩が親に及ぶであろう」と言った。そこで妻子を家に留め、独り父を奉じて行き、一年余りして遂に職を辞した。上官はその県の治績ありとし、その去るを惜しみ、固く留めた。耆老が庭に拝し道を遮っても、皆止めることができなかった。太子中允を得て帰郷したが、郷里に至らぬうちに樵は卒した。自ら土を運んで墳墓を築き、助ける者があれば、土を塚の上に置かせ、去れば直ちに撤げ去らせた。喪服を除くと、州がその状況を上聞し、詔して粟帛を賜った。

原文郝戭,字伯牙,石州定胡人。家貧,竭力營養。或憐傷之,貸以錢數百萬,使取息自贍,戭重謝,留錢五六年不用,復返之。舉進士,調宛丘尉、舞陽主簿、通山令。時年未五十,以父樵老不第,上書請致仕,爲父求官。執政諭使赴官而後請,曰:「如是,則可升朝籍,遇恩及親矣。」於是留妻子於家,獨奉父行,逾歲竟謝事。上官以其治縣有績,惜其去,固留之;耆老拜庭遮道,皆不能止。得太子中允以歸,未至鄉里而樵卒。自畚土造塚,人有助之者,使置土塚上,去則隨撤之。服除,州以狀聞,詔賜粟帛。

治平の末、翰林学士呂公著の推薦により、奉寧軍推官として起用され、涇原経略使もまた幕府に辟召を奏請した。戭は言った、「以前、未だ老いないのに致仕したのは、官が親に及ぶことを欲したからである。既に及ばず、なお恩をもって贈官を得ることを望んだが、今は及ばない」。姻族がその妻聶氏に語り、戭に出仕を勧めさせると、聶氏は言った、「私は不徳にして君子を助けることができず、ましてやその欲せざることを強いてその高節を累わすことなどできましょうか」。聶氏は舅姑に仕えることも孝義をもって著しかった。戭は忠信を自ら守り、篤行苦節を貫き、仕官せずして卒した。司馬光がその墓に銘を撰した。

原文治平末,以翰林學士呂公著薦,起爲奉寧軍推官,涇原經略使亦奏辟幕府。戭曰:「向所以未老致仕,欲官及親也。既不能及,尚庶幾以恩得贈,今則無及矣!」姻族語其妻聶氏,使勸戭仕,曰:「吾不德,無以助君子,矧敢強其所不欲以累其高哉。」聶事舅姑亦以孝義著。戭忠信自將,篤行苦節,不仕而卒。司馬光爲銘其墓。

支漸

原文支漸

支漸、資州資陽の人。年七十、母の喪に服し、葬り終えると、墓側に廬し、土を背負って墳墓を築き、蓬髪垢面、三時に号泣し、哀毀して甚だ瘠せ衰えた。白蛇・狸・兔がその傍らを擾れ、白雀・白烏が日に壟上の木に集まり、五色雀は万余に至り、回翔悲鳴して哀しみを助けるが如かった。郷人の句文鼎は妻を娶ってより即ち父母と離居していたが、漸の至行を目にして深く悔責し、号慟して帰り、孝養を尽くして志した。郷閭で観感して化する者甚だ衆かった。

原文支漸,資州資陽人。年七十,持母喪,既葬,廬墓側,負土成墳,蓬首垢麵,三時號泣,哀毀瘠甚。白蛇狸兔擾其旁,白雀白烏日集於壟木,五色雀至萬餘,回翔悲鳴若助哀者。鄉人句文鼎自娶婦即與父母離居,睹漸至行,深自悔責,號慟而歸,孝養盡誌。鄉閭觀感而化者甚眾。

鄧宗古

原文鄧宗古

鄧宗古、簡州陽安の人。父が死ぬと、自ら土を培って墳墓とし、その側に廬し、朝夕号慟し、甘露が墓木に降った。里中で鄧孝子と号した。

原文鄧宗古,簡州陽安人。父死,自培土爲墳,廬其側,晨夕號慟,甘露降於墓木。里中號爲鄧孝子。

沈宣

原文沈宣

沈宣、汝州梁の人。母が亡くなり、葬り終えると、墓門を塞がず三十六箇月、昼は土を背負い、夜は棺を撫でて臥し、墳墓を広さ百尺に築いた。妻の高氏もまた孝行があった。漸以下の三人は、元豊年中、皆粟帛を褒賜された。

原文沈宣,汝州梁人。母亡,既葬,不塞墓門三十有六月,晝負土,夜拊棺而臥,爲墳廣百尺。妻高氏亦有孝行。漸以下三人,元豐中,皆褒賜粟帛。

蘇慶文 台亨

原文蘇慶文 台亨

蘇慶文・台亨、共に夏県の人。慶文は父母に事えること孝をもって聞こえた。母は若くして寡となり、慶文はその妻が敬って事えることができないことを懼れ、毎に戒めて言った、「汝が我が母に事えるに、少しでも謹まざれば必ず汝を逐う」。妻は教えを奉じ、母はその室に安んじて終身を過ごした。

原文蘇慶文、台亨,皆夏縣人。慶文事父母以孝聞。母少寡,慶文懼其妻不能敬事,每戒之曰:「汝事吾母,少不謹必逐汝。」妻奉教,母得安其室終身。

亨は画をよくし、元豊年中、朝廷が景霊宮を修築するに当たり、天下の画工を徴発して京師に詣らせ、その優れた者を選試して翰林に待詔とし、官禄を与えた。亨の名は第一であった。父が老いているのを以て固く辞して帰養し、閭里でこれを賢とした。

原文亨工畫,元豐中,朝廷修景靈宮,調天下畫工詣京師,選試其優者待詔翰林,畀以官祿,亨名第一。以父老固辭歸養,閭里賢之。

仰忻

原文仰忻

仰忻、字は天貺、温州永嘉の人。力学し、篤行をもって称された。年五十余り、母の喪に服して孝礼を尽くした。躬自ら土を背負い、墓側に廬し、慈烏白竹の瑞祥があった。紹聖年中、郡守の楊蟠がその里に「孝廉坊」の表を立てた。大観二年、行をもって士を取るに、郡は忻を以て詔に応じた。未だ幾ばくもせず卒し、特旨をもって将仕郎を贈られた。

原文仰忻,字天貺,溫州永嘉人。力學,以篤行稱。年五十餘,執母喪盡孝禮。躬自負土,廬於墓側,有慈烏白竹之瑞。紹聖中,郡守楊蟠表其裏「孝廉坊」。大觀二年,以行取士,郡以忻應詔。未幾卒,特贈將仕郎。

趙伯深

原文趙伯深

趙伯深、字は逢原。父の子佪は、宣和年間に棣州の兵官属となった。時に兵が燕雲に出動し、子佪は檄を受けて塞上に往った。伯深は時に尚幼く、その母の張と共に棣州に留まった。既にして金人が河を渡り、伯深母子は相失った。子佪もまた隔絶し、建炎二年、始めて南帰を得た。子佪が卒すると、伯深はその母を訪ね尋ねること二十余年。一旦、滬南に在ると聞き、伯深は徒歩で蜀に入り、間関累年。紹興二十一年、乃ちその母を得て、相い持って号泣し、哀しみ行路の人を感動させた。曾慥が夔州に在り、詩を賦してその孝を美とした。

原文趙伯深,字逢原。父子佪,宣和間爲棣州兵官屬。會兵動燕雲,子佪被檄往塞上。伯深時尚幼,與其母張留居棣州。既而金人渡河,伯深母子相失。子佪亦隔絕,建炎二年,始得南歸。子佪卒,伯深訪尋其母二十餘年。一旦聞在滬南,伯深徒步入蜀,間關累年。紹興二十一年,乃得其母,相持號泣,哀感行路。曾慥在夔州,賦詩以美其孝。

彭瑜

原文彭瑜

彭瑜、字は君玉、吉州安福県の人。熙寧年間に母を失い、瑜は朝夕香を焚いて天に祈り、母の所在を知らんことを願うこと十余年。俄かに人が言うに、母は泰和の倪氏の婦となったと。瑜は遂に迎えて帰す。

原文彭瑜,字君玉,吉之安福人。熙寧間失其母,瑜朝夕焚香祈天,願知母所在,如是十餘年。俄有人言母爲泰和倪氏婦,瑜竟迎以歸。

毛洵

原文毛洵

毛洵、字は子仁、吉州吉水県の人。天聖二年の進士、また抜萃科に及第す。性至孝にして、凡そ四官を守るも、再び親の疾を以て任を解き、薬を執り膳を調え、嘗めて後に進め、三月寝室に就かず。父応佺は太平州を通判し、官に卒す。母高氏は継いで池陽の舟中に卒す。鍤を持ち土を担いで墳と為し、手は胼胝し顔は黒く、親友識る能わず、墓に廬すること凡そ二十一月、朝夕哭き踴び、食は裁ちて脱粟のみ。諸生経義を問うに、之に対し流涕し、未だ嘗て文を言わず。疾を抱いて帰り、数日にして卒す。郡孝を以て聞こえ、其の家に帛五十匹・米五十斛を賜う。兄溥、字は文祖、亦た哀毀を以て舟中に卒す。

原文毛洵,字子仁,吉州吉水人。天聖二年進士,又中拔萃科。性至孝,凡守四官,再以親疾解任,執藥調膳,嘗而後進,三月不之寢室。父應佺通判太平州,卒官,母高繼卒於池陽舟次。持鍤荷土以爲墳,手胝麵黔,親友不能識,廬於墓凡二十一月,朝夕哭踴,食裁脫粟。諸生請問經義,對之流涕,未嘗言文。抱疾歸,數日而卒。郡以孝聞,賜其家帛五十匹、米五十斛。兄溥,字文祖,亦以哀毀卒於舟中。

李籌

原文李籌

李籌なる者は、洵の同県の人、字は彦良。弟衡(字は平国)と生を同じくして乳を同じくし、二歳にして母を喪い、十歳にして父を喪う。兄弟毎に親に事え逮ばざるを以て恨みと為す。政和中、其の母を楊山に改葬し、土を負って墳を成し、墓の左に廬す。未だ幾ばくもせず、廬の所に産する木一本にして両幹、高さ丈許にして復た一に合し、其の末に至りて乃ち両幹五枝に分かれる。郷人以って瑞と為す。

原文李籌者,洵同縣人,字彥良。與弟衡字平國生同乳,二歲喪母,十歲喪父,兄弟每以不逮事親爲恨。政和中,改葬其母於楊山,負土成墳,廬於墓左。未幾,廬所產木一本兩幹,高丈許復合於一,至其末乃分兩幹五枝,鄉人以爲瑞。

楊芾

原文楊芾

楊芾なる者有り、亦た同県の人、字は文卿、性至孝にして、帰る必ず酒肉を市いて以て二親に奉じ、未だ嘗て妻子に及ぼさず。紹興五年大饑あり、親の為めに米を百里の外に負い、盗に遇い之を奪うも与えず、盗兵を以てせんと欲す。芾慟哭して曰く「吾れ親の為めに米を負う、食わざること三日なり。幸いに我を哀れめ」と。盗義として之を釈す。

原文有楊芾者,亦同縣人,字文卿,性至孝,歸必市酒肉以奉二親,未嘗及妻子。紹興五年大饑,爲親負米百里外,遇盜奪之不與,盜欲兵之,芾慟哭曰:「吾爲親負米,不食三日矣。幸哀我。」盜義而釋之。

楊慶

原文楊慶

楊慶、鄞県の人。父病み、貧しくして医を召す能わず、乃ち股の肉を刲きて之を啖わしむ、良く已む。其の後母病みて食う能わず、慶右の乳を取って之を焚き、灰を以て薬に和して進む、入口すなわち差ゆ。久しくして乳復た生ず。宣和三年、守楼異其の坊を名づけて「崇孝」と曰う。紹興七年、守仇悆之が為めに請う。十二年、詔して其の門を表し、復す。悆曰く「韓退之『鄠人対』を作り、以て支體を毀傷するを義を害すと為す。而るに匹夫単人、身草莽に膏し、軌訓の理未だ宏からず、汲引の徒多しと雖ども闕く。而るに乃ち行は内に成り、情は天より発す。使わくは稍く詩書礼義の説を知り、其の存する所を推し、身を出して主に事え、難に臨み節を伏し義に死せば、豈に介之推・安金蔵に減ぜんや」と。

原文楊慶,鄞人。父病,貧不能召醫,乃刲股肉啖之,良已。其後母病不能食,慶取右乳焚之,以灰和藥進焉,入口遂差,久之乳復生。宣和三年,守樓異名其坊曰「崇孝」。紹興七年,守仇悆爲之請。十二年,詔表其門,復之。悆曰:「韓退之作《鄠人對》,以毀傷支體爲害義。而匹夫單人,身膏草莽,軌訓之理未宏,汲引之徒多闕,而乃行成於內,情發自天。使稍知詩書禮義之說,推其所存,出身事主,臨難伏節死義,豈減介之推、安金藏哉!」

陳宗

原文陳宗

陳宗、永嘉の人。年十六、母蔡氏病篤し、股を刲きて餌と為す、病癒ゆ。已にして復た病み救わず、宗一たび慟して絶ゆ。郡守陸徳輿云う「陳宗自ら其の體を毀ち、哀慟生を傷つく。孝道の正しきに非ざる雖ども、能く人の為し難き事を為す、亦た天性の至りなり」と。官為に合葬し、榜して「陳孝子墓」と曰う。

原文陳宗,永嘉人。年十六,母蔡病篤,刲股爲餌,病愈。已而復病不救,宗一慟而絕。郡守陸德輿云:「陳宗自毀其體,哀慟傷生,雖非孝道之正,而能爲人所難爲之事,亦天性之至。」官爲合葬,榜曰「陳孝子墓」。

郭義

原文郭義

郭義、興化軍の人。早く太学に遊び、操尚を以て称せらる。年四十余、錢塘に客す。母の喪を聞き、徒跣して喪に奔り、一たび慟する毎に輒ち血を嘔す。家甚だ貧しく、故人の饋る所有るも受けず。土を聚めて墳と為し、手ずから松竹を蒔き、而して其の旁に廬す。甘露墓上に降り、烏鵲馴らかに集う。郡其の事を上る。詔して其の閭を旌表し、居る所の前に綽楔を安んじ、左右に土台を建つ。高さ一丈二尺、方正、下広く上狭く、白を飾り、赤を以て間い、仍って宜しき木を植う。

原文郭義,興化軍人。早遊太學,以操尚稱。年四十餘,客錢塘,聞母喪,徒跣奔喪,每一慟輒嘔血。家貧甚,故人有所饋,不受。聚土爲墳,手蒔鬆竹,而廬於其旁。甘露降於墓上,烏鵲馴集。郡上其事,詔旌表其閭,於所居前安綽楔,左右建土台,高一丈二尺,方正,下廣上狹,飾白,間以赤,仍植所宜木。

申世寧

原文申世寧

申世寧は信州鉛山の人なり。紹興六年、潘達の兵が鉛山を襲い、父の愈は七十歳にして、戸外に出るに及ばず賊に遇う。賊は其の蔵金あるを意い、之を殺さんとす。世寧は未だ冠せざる年なりしが、亟に頸を引きて願わくは父に代わりて死なんとす。賊其の孝に感じ、両全す。

原文申世寧,信州鉛山人。紹興六年,潘達兵襲鉛山,父愈年七十,未及出戶遇賊,賊意其有藏金,欲殺之。世寧年未冠,亟引頸願代父死,賊感其孝,兩全之。

苟與齢

原文苟與齡

苟與齢、字は壽隆、滁州來安の人なり。志尚高潔にして、其の親に事え、生養死葬、力を竭くして禮を盡くす。郷黨之を稱す。母歿し、墓側に廬し、芝十九莖墓亭に生ず。郡縣事を以て聞かせ、其の門を旌す。

原文苟與齡,字壽隆,滁州來安人。誌尚高潔,事其親,生養死葬,力竭而禮盡,鄉黨稱之。母歿,廬墓側,有芝十九莖生於墓亭。郡縣以事聞,旌其門。

王珠

原文王珠

王珠、字は仲淵、吉州龍泉の人なり。孝謹を以て聞こゆ。建炎年間、父の憂に居り、芝数本墓側に生じ、竹を倒植して杙と爲すに、復た柯葉を生ず。紹興年間、再び母喪に罹り、復た双竹靈芝の祥有り。

原文王珠,字仲淵,吉州龍泉人,以孝謹聞。建炎間,居父憂,芝數本生墓側,倒植竹以爲杙,復生柯葉。紹興間,再罹母喪,復有雙竹靈芝之祥。

顏詡

原文顏詡

顏詡は唐の太師真卿の後なり。真卿嘗て廬陵に謫せられし故に、詡は吉州永新の人と爲る。詡は少くして孤となり、兄弟数人、継母に事えて孝を以て聞こゆ。一門千指、家法嚴肅にして、男女序を異にし、少長輯睦し、匜架主無く、廚饌異ならず。義居すること数十年、終日怡愉にして、家人其の喜慍を見ず。年七十餘にして卒す。

原文顏詡,唐太師真卿之後。真卿嘗謫廬陵,故詡爲吉州永新人。詡少孤,兄弟數人,事繼母以孝聞。一門千指,家法嚴肅,男女異序,少長輯睦,匜架無主,廚饌不異。義居數十年,終日怡愉,家人不見其喜慍。年七十餘卒。

張伯威

原文張伯威

張伯威は大安軍の人なり。武翼大夫・御前前軍正將祥の子なり。紹熙元年、武挙進士に及第す。神泉尉に調す。大母黃は九十八歳にして、之が官に赴くを忍びず。黃血痢疾を得て瀕死に及ぶ。伯威左臂の肉を剔りて之を食わしむるに、遂に愈ゆ。継母楊は姑の病篤きに因り、驚きて疾を成す。伯威復た臂の肉を剔りて粥を作り以て進むるに、其の疾亦愈ゆ。伯威の妹は崔均に嫁す。其の姑王疾有り、妹亦た左臂の肉を剔りて粥を作り以て進むるに、達旦にして即ち愈ゆ。大安軍を知る羅植は即ち伯威の居る所に純孝坊を立て、崔均の居る所に孝婦坊を立てる。事聞こえ、詔して伯威に升擢を与え、其の妹に束帛を倍賜す。

原文張伯威,大安軍人。武翼大夫、御前前軍正將祥之子。紹熙元年,武舉進士。調神泉尉。大母黃,年九十八,不忍之官。黃得血痢疾瀕殆,伯威剔左臂肉食之,遂愈。繼母楊因姑病篤,驚而成疾,伯威復剔臂肉作粥以進,其疾亦愈。伯威妹嫁崔均,其姑王疾,妹亦剔左臂肉作粥以進,達旦即愈。知大安軍羅植即伯威所居立純孝坊,崔均所居立孝婦坊。事聞,詔伯威與升擢,倍賜其妹束帛。

蔡定

原文蔡定

蔡定、字は元應、越州會稽の人なり。家世微にして且つ貧し。父の革は郡獄吏に依り傭書を以て生き、資を定に使いて學ばしめ、郷校に遊ばしむるに、稍稍稱有り。郡獄吏一日舞文法に坐して係せらる。革は詿誤を以てす。年七十餘なり。法當に係を免るべし。鞫胥の任澤其の籍の年を削りて之を入れ、罪且つ獄吏と等しからんとす。案具わり、府奏上す。方に朝に命を待つ。故に俱に久しく囚われ、而して革は独り決するを得ず。定切に痛み父の耆年に當り、非辜を以て圄狴に墮つを念い、誓いて身を以て贖わんとす。数たび府に詣り號訴し、代わりて獄に坐するを請うも、許さず。戎行に效命するを請うも、許さず。五符に隷して兵と爲るを請うも、又た許さず。定は父終に贖う可からざるを知り、仰ぎて呼びて曰く、「天よ、將に定をして父の徽纆に纏わるるを坐視せしむるか。父老耄たり、應に連係すべからず。傭書は罪應に獄吏と等しからず。理明らかなり。而して雲訴する所無し。父老いて刑せらる。定の生くる其れ何の益かあらん。定死を圖らん。庶くは有司哀憐して父を釋せば、則ち死すと雖も憾無からん」と。是に於て預め其の墓に誌銘し、又た状を爲りて府に詣る者の若くし袂間に結置す。皆致死の由を敘陳し、其の父の必ず免るるを冀う。建炎元年十二月甲申を以て、自ら河に赴きて死す。府帥之を聞き、驚きて曰く「真に孝なり」と。立って命して革を出だし、厚く定の爲に棺斂の事を具し、而して其の家を撫周す。

原文蔡定,字元應,越州會稽人。家世微且貧。父革,依郡獄吏傭書以生,資定使學,遊鄉校,稍稍有稱。郡獄吏一日坐舞文法被係,革以詿誤,年七十餘矣,法當免係。鞫胥任澤削其籍年而入之,罪且與獄吏等。案具,府奏上之。方待命於朝,故俱久囚,而革不得獨決。定切痛念父當耆年,以非辜墮圄狴,誓將身贖。數詣府號訴,請代坐獄,弗許;請效命於戎行,弗許;請隸五符爲兵,又弗許。定知父終不可贖也,仰而呼曰:「天乎!將使定坐視父纏徽纆乎!父老耄,不應連係;傭書,罪不應與獄吏等。理明矣,而無所雲訴。父老而刑,定之生其何益乎?定圖死矣,庶有司哀憐而釋父,則雖死無憾矣!」於是預爲誌銘其墓,又爲狀若詣府者結置袂間,皆敘陳致死之由,冀其父之必免也。以建炎元年十二月甲申,自赴河死。府帥聞之,驚曰「真孝」,立命出革,厚爲定具棺斂事,而撫周其家。

鄭綺

原文鄭綺

鄭綺は婺州浦江の人なり。善く書を読み、『春秋穀梁』の學に通ず。肅睦を以て家を治め、九世爨を異にせず。四世孫の德珪・德璋は孝友天至にして、晝は則ち几案を聯ね、夜は則ち衾を同くして寢す。德璋は素より剛直にして、物と多く迕う。宋亡び、仇家遂に死罪を以て之を陷る。當に會して揚州に逮せらるべし。德珪は弟の誣わるるを見るを哀しみ、乃ち陽に謂いて曰く、「彼は吾を害せんと欲す。何ぞ爾の事に預からん。我往かば則ち奸狀白ばん。爾去きて死せざるを得ざらんや」と。即ち行を治む。德璋は諸暨の道中に追い至り、兄弟相い持ちて頓足哭し、争いて就死せんと欲す。德珪は默計して其の行を沮まんとし、遂に無往を以て紿し、夜將に半ばならんとするに、間道より逸去す。德璋は復た廣陵に追い至るも、德珪は已に獄に斃る。德璋之を聞き、慟絶すること数四し、骨を負いて歸葬す。墓に廬すること再期、每一たび悲號すれば、烏鳥皆翔集して食わず。德珪の子文嗣は幼くして僂に病む。德璋之を鞠くること己が子の如し。

原文鄭綺,婺州浦江人。善讀書,通《春秋穀梁》學。以肅睦治家,九世不異爨。四世孫德珪、德璋,孝友天至,晝則聯几案,夜則同衾寢。德璋素剛直,與物多迕,宋亡,仇家遂陷以死罪,當會逮揚州。德珪哀弟之見誣,乃陽謂曰:「彼欲害吾也,何預爾事?我往則奸狀白,爾去得不死乎!」即治行。德璋追至諸暨道中,兄弟相持頓足哭,爭欲就死。德珪默計沮其行,遂紿以無往,夜將半,從間道逸去。德璋復追至廣陵,德珪已斃於獄。德璋聞之,慟絕者數四,負骨歸葬。廬墓再期,每一悲號,烏鳥皆翔集不食。德珪之子文嗣,幼病僂,德璋鞫之如己子。

鮑宗岩

原文鮑宗岩

鮑宗岩有り、字は傅叔、徽州歙の人なり。子の壽孫は字は子壽。宋末、盜里中に起る。宗岩は山谷間に地を避く。賊に得らるるに及び、宗岩を樹上に縛し、將に之を殺さんとす。壽孫前に拜して願わくは父に代わりて死なんとす。宗岩曰く、「吾は老いたり。僅かに一子先祀を奉ず。豈に之を殺すべけんや。吾願わくは自ら死なん」と。盜両つ共に之を釋す。

原文有鮑宗岩者,字傅叔,徽州歙人。子壽孫字子壽。宋末,盜起里中。宗岩避地山谷間,爲賊所得,縛宗岩樹上,將殺之。壽孫拜前願代父死,宗岩曰:「吾老矣,僅一子奉先祀,豈可殺之?吾願自死。」盜兩釋之。