宋史

列傳第二百十四 忠義十 陳東 歐陽澈 馬伸何兌 呂祖儉 呂祖泰 楊宏中 華岳 鄧若水 僧眞寶 莫謙之 徐道明

陳東

陳東、字は少陽、鎮江丹陽の人である。早くより俊才の声高く、倜儻として気概を負い、貧賤に戚戚とせず。蔡京・王黼が権勢を振るうや、敢えて指弾する者なき中、東ひとり隠し立てすることがなかった。赴くところ宴席にては、座客は己が累となるを懼れて、次第に立ち去った。貢挙により太学に入る。欽宗即位の際、その徒を率いて宮門に伏し上書し、論じて曰く、「今日の事態は、蔡京が前もって乱を壊し、梁師成が陰に謀をなす。李彦は西北に怨みを結び、朱勔は東南に怨みを結び、王黼・童貫はまた遼・金に怨みを結び、辺境に隙を開く。六賊を誅し、その首を四方に伝示し、以て天下に謝すべきである」と。言、極めて憤切なり。翌年の春、貫らが徽宗を挟んで東行するや、東は単独で上書し、貫を追還して典刑に正し、別に忠信の人を選んで左右に侍らせることを請うた。金人が京師に迫ると、また六賊を誅することを請うた。時に師成はなお禁中に留まっていたが、東がその前後の姦謀を発露させたので、ついに貶謫されて死んだ。

李邦彦が金との和議を主張し、李綱及び种師道が主戦を主張する中、邦彦は小敗を理由に綱を罷免し三鎮を割譲しようとした。東はまた諸生を率いて宣徳門下に伏し上書して曰く、

朝廷の臣において、奮勇顧みず、身を以て天下の重きを任ずる者は李綱なり、いわゆる社稷の臣である。その庸繆にして才なく、賢能を忌み疾み、動もすれば身のためを謀り、国計を恤みない者は、李邦彦・白時中・張邦昌・趙野・王孝迪・蔡懋・李棁の徒なり、いわゆる社稷の賊である。

陛下が綱を列卿の中から抜擢し、一二日と経ずして執政と為されたことは、中外相慶し、陛下の賢を任用し得るを知った。時中を斥けて用いざるは、陛下の邪を去り得るを知った。然るに綱は任用されながら専らにされず、時中は斥けられながら去らず、また邦彦を相とし、さらに邦昌を相とし、その他また皆擢用される。何ぞ陛下の賢を任用するに猶お貳きを能くせず、邪を去るに猶お疑いを能くせざるや。今また綱の職事を罷むると聞く、臣等驚疑し、その由を知る莫し。

綱は庶官より起り、独り大事を任ず。邦彦らはこれを仇讎の如く疾み、その成功を恐れ、兵を用いること小利あらずを因として、遂に隙に乗じ間を投じ、罪を綱に帰す。一勝一負は兵家の常勢、豈に急ぎて此を以て任事の臣を傾動せんや。窃かに聞く、邦彦・時中らは尽く陛下に他幸を勧め、京城騷動す。もし綱が陛下の為に建言せざれば、則ち乗輿播遷し、宗廟社稷は既に丘墟と為り、生霊は既に魚肉に遭わん。頼むに聡明にして惑わず、特に関の請いを従えられたれば、邦彦らの讒嫉すること至らざる所無きは宜なり。陛下もし其の言を聴き、綱を斥けて用いざれば、宗社の存亡、未だ知るべからず。邦彦らが割地を執議するは、蓋し河北は実に朝廷の根本、三関四鎮無くんば是れ河北を棄つるなり。朝廷能く復た大梁に都せんや。則ち太原・中山・河間以北を割いた後の、邦彦ら能く金人の復た盟を敗らざらしむるや知らず。

一進一退は、綱においては甚だ軽く、朝廷においては甚だ重し。幸いに陛下は即時に前命を反し、綱の旧職を復し、以て中外の心を安んじ、閫外の事を种師道に付せよ。陛下臣が言を信ぜずば、請う諸国人に遍く問わん、必ず皆曰く綱は用いる可く、邦彦らは斥く可しと。用捨の際、諸を審にせざる可けんや。

軍民従う者数万。上書聞こえ、伝旨慰諭する者旁午すも、衆去るを肯ぜず、登聞鼓を舁い上げてこれを撾き壊し、喧呼地を震わす。中人出でる有り、衆これを臠切りにして磔にす。ここにおいて急ぎ詔して綱を入らしめ、行営を復た領せしめ、撫諭を遣わすや、乃ち稍々引き去る。

金人が既に解き去りし後、学官は観望し、時の宰相は伏闕の士を屏斥するを議し、まず東より始めんとす。京尹王時雍は諸生を尽く獄に致さんと欲し、人々惴恐す。朝廷楊時を用いて祭酒と為し、東の職を復し、聶山を遣わして学に詣り撫諭せしめ、然る後に定まる。吳敏は謗を弭がんと欲し、東に官を補し第を賜い、太学録を除くことを奏議す。東はまた蔡氏を誅することを請い、且つ力めて官を辞して帰らんとし、前後五度上書す。既に帰りし後、また郷薦に預かる。

高宗即位して五日、李綱を相とし、また五日にして東を召し至らしむ。未だ対せず、会に綱去るや、乃ち上書して綱を留め黄潜善・汪伯彦を罷むるを乞う。報いず。親征を請いて二聖を還し、諸将の進兵せざる罪を治め、以て士気を作し、車駕を京師に帰し、金陵に幸せざるを請う。また報いず。潜善らが綱の金陵に幸せし旧奏を示すや、東言う、綱は中途に在りて事体を知らず、後の説を以て正とすべく、必ず速やかに潜善らを罷むべしと。

時に布衣歐陽澈もまた上書して事を言う。潜善急ぎて語を以て高宗を激怒せしめ、誅すること急がざれば、将にまた衆を鼓して伏闕せんとす。上書は独り潜善の所に下る。府尹孟庾、東を召して事を議す。東は食してより行かんことを請い、手書して家事を区処し、字画平時の如し。已にして乃ち其の従者に授けて曰く、「我死せば、爾帰りて此を吾が親に致せ」と。食し終わりて厠に赴かんとす。吏難色有り。東笑いて曰く、「我は陳東なり、死を畏るれば即ち敢えて言わず、已に言いて肯て死を逃れんや」と。吏曰く、「吾も亦た公を知る、安んぞ敢えて相迫らん」と。頃くして、東冠帯を具えて出で、同邸に別れ、乃ち澈とともに市に斬らる。四明の李猷、其の屍を贖いこれを瘞る。東初め綱を識らず、ただ国故の為に、至って其の為に死す。識ると識らざると皆涙を流す。時に年四十有二。

潜善二人を殺した後、明日府尹事を白すや、独り其の何ぞ以て先に関白せざるかを詰め、微かに慍色を示し、以て己が意に非ざるを明らかにす。三年を越え、高宗感悟し、東・澈を追贈して承事郎とす。東に子無く、官に服親一人有り。澈に一子有り、州県に令して其の家を撫せしむ。及び車駕鎮江を過ぐるに及び、守臣を遣わして東の墓を祭り、緡銭五百を賜う。紹興四年、並びに朝奉郎・秘閣修撰を加え、其の後二人に官し、田十頃を賜う。

歐陽澈

歐陽澈、字は德明、撫州崇仁の人なり。年少にして鬚眉美しく、世事を談ずるを善くし、気を尚び大言し、慷慨少しも屈せず、而して国を憂ひ時を閔ふ、天性に出づ。靖康初、制に応じ敝政を條し、安邊禦敵の十策を陳ぶ、州未だ発を許さず。退きて復た朝廷の闕失、政令の乖違を采り、以て保邦御俗の方、蠹國殘民の賊を去るべき者十事を為し、復た書を為し、並びに上聞す。已にして復た十事を論列し、言ふ、「臣の進むる所の三書は実に切要なり、然れども権臣に触るる者有り、天聴に迕ふる者有り、或は富貴の門に怨を結び、或は臺諫の官に怒を遺す、臣知らざるに非ず、而して敢へて抗言する者は、身を以て天下を安んぜんと願ふなり」と。上る所の書は三巨軸と為し、廄置卒辞して挙ぐること能はず、州将為に力士を選び荷はして行かしむ。

会ひに金人大いに入り、城下に盟を要して去る、澈聞き、輒ち人に語りて曰く、「我能く口を以て金人を伐つ、百万の師に強し、願くは身を殺して以て社稷を安んぜん。上に見信せられざること有らば、請ふ子女を朝に質し、身は穹廬に使し、親王を御して以て帰らしめん」と。郷人毎に其の狂を笑ひ、之を止むるも可からず、乃ち徒歩にて行在に走る。高宗即位す南京に、闕に伏して封事を上ぐ、用事大臣を極めて詆す、遂に見殺さる、『陳東伝』に見ゆ。死する時年三十七。

許翰政府に在り、朝を罷み、潜善に処分の人を問ふ、曰く、「陳東・歐陽澈を斬るのみ」と。翰驚きて色を失ひ、因りて其の書の何を以て政府に下さざるかを究む、曰く、「独り潜善に下す、故に以て相視ることを得ず」と。遂に力を求めて罷む。東・澈の為に哀詞を著す。澈の著す所の『飄然集』六巻、会稽の胡衍既に之を刻し、豊城の范應鈐之が為に祠を学中にす。

馬伸

馬伸、字は時中、東平の人なり。紹聖四年進士。馳騁を楽しまず、官を調する毎に、未だ便利を択ばず。成都郫県丞と為り、守委ねて成都の租を受く。前に輸を受くる者は率ね食色玩好を以て蠱訹し而して敗る、伸宿弊を絶たんことを請ふ。民争ひて先づ輸し、途に至りて仮寐して以て旦に達す、常平使者孫俟蚤に行き、怪しみて之を問ふ、皆応へて曰く、「今年馬県丞納を受く、我を病ますこと無し」と。俟朝に薦む。

崇寧初、范致虚程頤を攻めて邪説と為し、河南府に下して尽く学徒を逐ふ。伸西京法曹に注し、頤の門に依りて以て学ばんと欲し、張繹に因りて求見す、十反し、愈よ恭しく、頤固より之を辞す。伸官を休めて来らんと欲す、頤曰く、「時論方に異なり、恐らくは子に累を貽さん、子能く官を棄つれば、則ち官必ずしも棄つるに及ばず」と。曰く、「伸をして道を聞かしむれば、死何の憾みか有らん、況んや未だ必ずしも死せざる乎」と。頤其の志有るを歎し、之を進む。是より公暇風雨と雖も必ず日に一造し、忌𡝭する者飛語を以て之を中傷す、顧みず、卒に『中庸』を受けて以て帰る。

靖康初、孫傅卓行を以て薦めて召され、御史中丞秦檜迎へて之を辟き、監察御史に擢ず。汴京の陷るに及び、金人張邦昌を立て、百官を集め、兵を以て環らしめて之を脅し、推戴せしむ。衆唯唯す、伸独り奮ひて曰く、「吾が職は諫争なり、忍びて坐視せんや」と。乃ち御史呉給と秦檜を約し共に議状を為し、趙氏の存するを乞ひ、嗣君の位を復せしむ。会ひに統制官呉革起義し、兵を募りて二帝を復さんと図る、伸其の謀に預る。

邦昌既に僭立す、賊臣多く之に従臾す、伸首に書を具し邦昌に速やかに元帥康王を迎奉せんことを請ふ。同院に名を連ぬるを肯ふる者無し、伸独り持して往く、而して銀臺司書を見て臣と称せず、辞して受けず。伸袂を投げて之を叱りて曰く、「吾今日一死を愛せざるは、正に此の為なり、爾吾をして臣と称せしめんと欲するか」と。即ち尚書省に繳申し、以て邦昌に示す。其の書略ねば曰く、

相公累朝に服事し、宋の輔臣と為る。比不幸にして強敵に迫られ、偽号に当たらしめ、変非常に出づ、相公此の時豈に義を犯す可く、君を忘る可く、宗社神霊を昧ます可きを以てせんや。須臾の死を忍びて之を詭聴する所以の者は、其の心若し曰く、「人に虚遜するに与りて実に趙氏の宗を亡ぼすに、孰くか己に虚受するに与りて実に存して以て之に帰せしめん」と。忠臣義士未だ即ち死に就かず、闔城の民庶未だ即ち変を生ぜざるも、亦た相公必ず能く趙の孤を立つるを以てなり。

今金人北に還る、相公義に当りて憂懼し、自ら朝に列すべし。康王外に在り、国統属有り、獄訟謳歌、人皆帰往す。宜しく即ち使を発して通問し、宮室を掃清し、群臣を率ひて共に迎へて之を立つべし。相公服を易へて退き処り、省中の庶事皆太后に稟命し、其の赦書恩恵を施し、人心を収むる等の事は、日下拘収し、康王の御極するを俟ち施行すべし。然る後相公北面して咎を引き、以て身人臣と為り、防患に昧く、寇仇の脅汙に遭ひ、当時に能く即ち死せず、以て陛下を待つ、今復た何の面目か有りて君に事へん、請ふ死を司寇に帰し、人臣の失節の戒めと為り、闕下に伏して命を俟たん。此くの如くせば、則ち明主必ず能く相公の忠実国を存するを察し、義苟も生きんとせず、且つ過を棄てて功を録せん。

今乃ち謀此に出でず、時日已に多し、肆然として尚ほ非據に当り、禁闥に偃寢し、若し固より之を有するが若し。群心狐疑し、道路混澒し、相公方に強金を挟み、人をして康王に遊説せしめ、姑く南遁せしめ、久仮して帰らざるの計と為すと謂ふ。上天欺く難く、下民畏る可し。相公若し愚言を以て粗く覚悟を知り、此に及びて図を改めば、猶ほ禍を転じて福と為すことを匪朝伊夕の間に於て得べし。此を過ぎ以往れば、則ち相公包藏已に深く、志慮転た異なり、外は事端を飾り、悽日して期を待ち、而して陰に寇讐を結び、合従して乱を為さば、九廟天に在り、万に成る理無く、伸必ず相公を輔けて宋朝の叛臣と為す能はず。請ふ先づ都市に死を伏して、以て此の心を明かさん。

邦昌書を得て、気沮み謀喪ふ。明日、哲宗后孟氏の垂簾を迎ふるを議し、偽赦を追還し、乃ち馮澥・李回等を遣はして康王を迎ふ。

時に王及之等猶ほ龍德宮の宝貨を籍し、霊沼の魚藕を斥売し、以て官用に資せんことを請ふ。伸復た慨然として義を引きて之を檄して曰く、「古へ人臣国を去り、三年反らざるを、然る後に其の田里を収む。君の臣を礼する此くの如し、臣の君に報ずる宜く如何すべき。今二聖遠狩し、猶ほ未だ境を出でず、天下の人方に北首し、追挽して之を還さんと欲す。君の府蔵燕遊、忍びて一朝にして毀たんや。爾等の逆節甚だし」と。力を争ひて乃ち止む。

高宗即位す、伸章を拝して城の陷るを救ふ能はざるを以て、主の遷るに死す能はざるを以て、就きて竄削せんことを請ふ。上其の国に忠力有るを知り、殿中侍御史に擢で、荊湖・広南を撫諭し、以て邦昌及び其の党王時雍等を誅せしむ。過ぐる所の州県、吏の賢否と民の利疚とを諏察し、次を以て朝に列上す。

伸湖・広より将に黄潜善・汪伯彦の不法凡そ十有七事を奏せんと入り、草疏已に具す、朝廷方に孫覿・謝克家を召す、乃ち先づ奏す、「覿・克家趨操正しからず、靖康の間に在りて王時雍・王及之等七人と死党を結び、耿南仲に附き和議を倡へ、賊謀を助成す。和議を主せざる者有らば、則ち執りて金人に送らんと欲す。覿金人の女楽を受け、表を草して之に媚び、其の筆力を極む、乃ち国に負ふの賊、宜しく遠竄を加ふべし」と。報ぜず。伸又疏を進めて曰く、

陛下は黄潛善・汪伯彦を得て輔相と為し、委任して再び疑わず。然るに彼らが宰相に入って以来、事を処するに未だ嘗て物情に適当せず、遂に女真をして日強く、盗賊をして日熾んじ、国本をして日蹙き、威権をして日削がらしむ。且つ三鎮未だ服せず、汴都方に危うきに、前日急に還都の詔を下し、今に至るまで鑾輿順動すること能わず。其の詔命を謹まざること此の如し。

草茅の対策が式に如かざれば、考官の罰金は可なり、一日に三舍人を黜し、乃ち沈晦・孫覿・黄哲輩の諸群小を取って以て誥命を掌らしむ。其の黜陟の公ならざること此の如し。

呉給・張誾は言事を以て逐われ、邵成章は上言に縁りて遠竄せらる。其の言路を壅塞すること此の如し。祖宗の旧制、諫官御史に闕あれば、御史中丞・翰林学士名を具して以て進め、三省敢えて預からず、厥れ深旨有り。近く臺諫を用いんと擬するに、多く親旧を取り、己が助けと為さんと欲するに過ぎず。其の法を毀り自ら恣にすること此の如し。

張愨・宗澤・許景衡は公忠にして才あり、皆重きを任すべし、潜善・伯彦之を忌み、沮抑して死に至らしむ。其の功を妨げ能を害すること此の如し。

或いは焚を救い溺を拯うの事を以て責むれば、則ち曰く言い難し、蓋し陛下之を制して施設を得ざるを謂うなり。或いは陳東の死を問えば、則ち曰く知らず、蓋し其の事陛下に繇るを謂うなり。其の過は則ち君を称し、善は則ち己を称すること此の如し。

呂源は狂横、陛下之を逐い去る、数ヶ月を経ずして郡守より発運に升る。其の強狠にして自ら専にすること此の如し。

御営使は兵権を主と雖も、凡そ行在の諸軍は皆其の統ぶる所、潜善・伯彦別に親兵一千人を置き、請給居処を、衆兵に優れり。其の軍情を収めんと務むること此の如し。

広く私恩を市えば、則ち多く祠官の闕を復し、悪を同じくして相い済まば、則ち力を尽くして王安中の罪を庇う。其の為す所を摭えれば、豈に陛下の倚任の重きに辜ならざらんや。陛下隠忍して肯て斥逐せず、塗炭の遺民固より已に望みを絶ち、二聖還期何れの時に在るか。臣毎に此を念う、生なきに如かず。歳月流るる如く、時幾易く失す、速やかに潜善・伯彦の政柄を罷め、別に賢者を選び、共に大事を図らんことを望む。

疏入り、中に留まる。明日、衛尉少卿に改む。伸は論事行われざるを以て、辞して拝せず、其の疏を録して御史臺に申し、且つ章を疊ねて言う、「臣の言採るべくんば、即ち施行を乞う。若し臣の言是に非ざれば、誣罔の罪に坐するに合う。」疾を移して命を待つ。旬日、詔して伸の言事実ならざるを言い、吏部に送り濮州監酒稅を責む。時に用事者恚み甚だしく、必ず之を殺さんと欲し、濮は寇境に迫れるを以て、故に是の命有り。趣して上道せしむ、伸怡然として襥被して行き、道中に死す。或いは曰く、王淵濮に在り、潜善密かに其の伸に利あらざるを嗾く。天下識ると識らざると皆冤痛す。

明年、金人広陵を陷し、伸の言始めて験す。潜善・伯彦始めて誤国を以て竄殛せらる。ここに於て臺臣奏す、伸嘗て潜善等の罪を論ずと。乃ち復た衛尉少卿を以て召す、実に其の存亡を知らず。尋いで直龍圖閣を加う。

紹興初、胡安国『時政論』を上る、有りて曰く、「伸の言う潜善・伯彦の措置乖方、其の罪状を條す、凡そ一事を挙ぐるに必ず一證を立て、皆衆の共に知り共に見る所、敢えて無を以て有と為し、是を以て非と為さず。而るに当時曾て従用せず、反って以て言事実ならずと為して重く之を責む、是れ忠讜を沮むを罰し、邪説何に由りて息み、公道何に由りて明かならんや。伸既に遠貶せられ、詔命有りと雖も、邈として来期無く、君子之を閔む。龍圖を以て賁すも、猶未だ褒勸の典を尽くさず。重ねて追獎を加え、其の子孫に及び、以て天意を承けんことを乞う。」詔して諫議大夫を贈る。

伸は天資純確、学問に原委有り、義を為すに勇み、而して蘊む所深厚、自ら名づくるを恥ず。建炎初、右正言鄧肅嘗て朝士臣邦昌なる者を論じ、例に二秩を貶す、伸は弁ぜず。凡そ建明有れば、輒ち其の稿を削り、人稀に之を知る。官に居り、晨興すれば必ず衣を整え端坐し、『中庸』一遍を読み、然る後に出でて事に涖る。毎に曰く、「吾が志は道を行わんに在り。富貴を以て心と為せば、則ち富貴に累せられ、妻子を以て念と為せば、則ち妻子に奪わる、道行わるべからず。」故に広陵に在り、行篋一簷、図書其の半ば。山東已に擾き、家尚お鄆に留まる。常に称して、「孔子の言う、『志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れず。』今日何れの日ぞ、溝壑乃ち吾が死する所なり。」

何兌

何兌有り、昭武の人、伸に学を受く。伸没し、兌嘗て其の事状を輯む。紹興中、辰州通判と為り、都郵報す、秦檜自ら其の趙を存するの功を陳べ、他人預からずと謂う。兌径ち取りし所輯の事状を達して尚書省に至らしむ、檜大怒し、兌を下して荊南詔獄に付す、獄辞皆吏の手に出ず、兌坐して官を削り真陽に竄る。檜死して始めて放還し、其の官を復す。尋いで卒す。

呂祖儉

呂祖儉、字は子約、祖謙の弟なり、諸生の如く祖謙に学業を受く。明州倉を監り、将に上らんとす、会に祖謙卒す。部法に曰く、半年上らざる者を違年と為すと、祖儉必ず期喪を終えんと欲す、朝廷之に従い、詔して違年なる者を以て一年を限と為す、祖儉より始まる。

終更して銓に赴く、丞相周必大尚書尤袤に語りて之を招かしむ、祖儉已に衢州法曹を調せられて後に往きて見る。潘時広東を経略し、辟きて属と為さんと欲す、祖儉辞す。尋いで侍従鄭僑・張杓・羅點・諸葛庭瑞の薦に以て、召されて籍田令を除す。

中丞何澹の生みし父の継室周氏死す、澹伯母の服を服せんと欲し、太常百官を下して雑議せしむ。祖儉宰相に書を貽して曰く、「『礼』に曰く、『伋の為に妻たる者は、是れ白の為に母たるなり』と。今周氏中丞の父の妻に非ずや?将に之を母と謂わずして何と謂わんとするか?中丞風憲の首たり、而して不孝を以て令せば、百僚何をか観んとするか」と。司農簿を除し、已にして外に補わんことを乞い、台州を通判す。寧宗即位し、太府丞を除す。

時に韓侂冑漸く事を用い、正言李沐右相趙汝愚を論じて之を罷む。祖儉奏す、「汝愚亦た過ち無きを得ず、然れども未だ言者の云うが如くに至らず」と。侂冑怒りて曰く、「呂寺丞乃ち我が事に預かるか」と。会に祭酒李祥・博士楊簡皆上書して汝愚を訟う、沐皆之を劾して罷む。祖儉乃ち封事を上りて曰く、「陛下初政清明、忠良を登用す、然れども曾て未だ時を踰えず、朱熹老儒なり、論列する所あれば、則ち亟に之を去らしむ;彭龜年旧学なり、論列する所あれば、亦た亟に之を去るを許す;李祥に至りては老成篤実、偏比有るに非ず、蓋し衆聴の共に孚する所なるに、今又終に斥逐せらる。臣恐らく是より天下に言うべき事有らんには、必ず将に相視て以て戒めと為し、鉗口結舌の風一成して反し易からざるに至らん、是れ豈に国家の利ならんや」と。

又曰く、「今の能く言うの士、其の難きは君父に得罪するに在るに非ずして、権勢の意に忤うに在り。姑く臣の知る所を以て之を言わば、災異を論ずるより難きは莫し、然れども之を言いて諱まざるは、其の事権勢に関せざるを以てなり。若し乃ち御筆の降るや、廟堂敢えて重ねて違わず、台諫敢えて深く論ぜず、給・舍敢えて固執せず、蓋し其の事貴幸に関し、深く間に乗じて激発し重ねて罪を得んことを慮うを以てなり。故に凡そ人主を勧導して事中より出づる者は、蓋し人主の声勢を仮りて、以て漸く威権を窃まんと欲するなり。比者道路に之を聞く、左右褻御、黜陟廃置の際に於いて、間かに聞くを得る者、車馬輻湊し、其の門市の如し、権に恃み寵に怙り、外庭を揺がす。臣事勢の浸淫を恐れ、政倖門に帰し、公室に在らざるに至らん。凡そ薦進する所は皆其の私する所、凡そ傾陥する所は皆其の悪む所、豈に但だ側目憚畏し、敢えて指言する莫きのみならんや、而して阿比順従、内外表裏の患、必ず将に形見せん。臣李祥の罪を得るに因りて深く此に及ぶは、是れ豈に矯激自ら罪戾を取らんとするか?実に士気頽靡の中に在りて、稍々権臣に忤えば、則ち去ること踵を旋らさず。私憂過計、深く陛下の勢孤なるを慮い、而して相与に宗社を維持する者漸く寡きなり」と。

疏既に上り、擔を束ねて罪を待つ。旨有り、「呂祖儉朋比して上を罔しむ、韶州に安置す」と。中書舎人鄧馹奏を繳して曰く、「祖儉の罪貶に至らず」と。御筆、「祖儉の意君無きに在り、罪誅すべし。竄逐已に寛恩と為す」と。会に楼鑰呂公著の元祐初めに上りし十事を進読し、因りて進みて曰く、「公著の如きは社稷の臣、猶お十世之を宥すべし、前日太府寺丞呂祖儉言事を以て罪を得し者は、其の孫なり。今之を嶺外に投ず、万一即ち死せば、聖朝言者を殺すの名有らん、臣窃に陛下の為に之を惜しむ」と。上問う、「祖儉の言う所何事ぞ」と。然る後に知る、前日の行い上意に出でざるを。侂冑人に謂いて曰く、「復た祖儉を救う者有らば、当に新州を以て之を処せん」と。衆敢えて口を出だす莫し。侂冑に謂う者有りて曰く、「趙丞相去りてより、天下已に切歯す、今又祖儉を瘴郷に投ず、不幸或いは死せば、則ち怨み益々重し、何ぞ少しく内地に徙さざる」と。侂冑亦た悟る。祖儉廬陵に至り、将に嶺に趨らんとす、旨を得て改めて吉州に送る。赦に遇い、量りて高安に移す。二年卒す、詔して帰葬せしむ。

祖儉の謫せらるるや、朱熹書を与えて曰く、「熹官を以てすれば則ち子約より高く、上の顧遇恩礼を以てすれば則ち子約より深し、然れども群小の為すを坐視し、一言を以て報効する能わず、乃ち子約をして独り憤懣を舒べ、群小に触れて禍機を蹈ます、其の愧歎深し」と。祖儉書に報じて曰く、「朝行に在りて時事を聞けば、水火の中に在るが如く、一朝も居るべからず。郷閭に処せしめ、理乱を知らず、又何を以て多言を為さんとするか」と。謫所に在りて、書を読み理を窮め、薬を売りて以て自ら給す。毎に出づるに必ず草履徒步し、嶺を踰ゆるの備えと為す。嘗て言う、「世変に因りて摧折する所有り、其の素履を失う者は、固より言うに足らず;世変に因りて意気加わる所有る者も、亦た私心なり」と。為す所の文に『大愚集』有り。祖儉の従弟祖泰。

従弟 祖泰

祖泰。字は泰然、夷簡の六世の孫、常の宜興に寓す。性疏達、気誼を尚び、学問該洽なり。遍く江・淮に遊び、当世の知名士と交わり、銭を得れば或いは分かち挈けて去り、吝色無し。酒を飲むこと数斗に至りて醉わず、世事を論ずるに忌諱する所無し、聞く者或いは耳を掩いて走る。

慶元初め、祖儉言事を以て韶州に安置せらる。既に瑞州に移り、祖泰徒步して往きて之を省う、月余り留まり、其の友王深厚に語りて曰く、「吾が兄の貶せらるるより、諸人箝口す。我位無きと雖も、義必ず言を以て国に報ぜん、当に少しく之を須つべし、今未だ敢えて以て吾が兄を累せしめざるなり」と。祖儉の貶所に没するに及び、嘉泰元年、周必大少保に降りて致仕す、祖泰之を憤り、乃ち登聞鼓院に詣りて上書し、侂冑に君無きの心有るを論じ、請う之を誅して以て禍乱を防がんと。其の略に曰く、「道学は、古より恃みて以て国と為す所なり。丞相汝愚は、今の大勳労有る者なり。偽学の禁を立て、汝愚の党を逐うは、是れ将に陛下の国を空うして、而して陛下悟らざるか?陳自強は、侂冑童孺の師、躐て宰輔に致る。陛下旧学の臣、彭龜年等の如きは、今安くにか在るか?蘇師旦は、平江の吏胥、潜邸に以て節鉞を得;周筠は、韓氏の廝役、皇后の親属に以て大官を得。陛下潜邸の時に在りて果たして師旦を識るや?椒房の親果たして筠有るか?凡そ侂冑の徒、自ら尊大にして朝廷を卑しむ、一に此に至るなり!願わくは亟に侂冑及び師旦・周筠を誅し、而して自強の徒を罷逐せよ。独り周必大を用うべく、宜しく以て之に代うべし、然らずんば、事将に不測ならん」と。書出で、中外大いに駭く。

旨有り、「呂祖泰私を挟みて上書し、言語狂妄、連州に拘管す」と。右諫議大夫程松は祖泰の狎友たり、懼れて曰く、「人我が素より与に遊ぶを知る、其れ預聞せりと謂わんか」と。乃ち独り奏言して曰く、「祖泰に誅すべきの罪有り、且つ其の上書必ず之を教うる者有らん、今縱え殺さずとも、猶お杖げいして遠方に竄すべし」と。殿中侍御史陳讜も亦た以て言と為す。乃ち之を杖すること百、欽州牢城に配して収管す。

初めに、監察御史の林采が偽学の習いが成るのは、端緒は必ず周必大から始まると言ったので、少保の任命があったのである。祖泰は必ず死ぬと知りながら、自らの身をもって朝廷を悟らせようと望み、懼れる色がなかった。府廷に至ると、府尹は甘い言葉で誘って言った、「誰がお前に上奏文を共に作れと教えたのか。お前、試みに言ってみよ、私はお前を寛大に扱おう」。祖泰は笑って言った、「公は何と愚かなことをお尋ねになるのか。私は固より必ず死ぬと知っているのに、どうして人から教えを受け、かつ人とこれを議することができようか」。府尹が言った、「お前は狂気で心を失ったのか」。祖泰は言った、「私の見るところでは、今の韓氏に附いて美官を得る者こそ、狂気で心を失っているのである」。

祖泰が既に貶謫され、潭州を通過する途中、錢文子が醴陵令であったので、ひそかにその旅路を贈った。韓侂冑は人をやってその所在を探らせたので、祖泰は襄・郢の間に匿れた。韓侂冑が誅殺されると、朝廷は祖泰の所在を訪ね得て、詔してその冤罪を雪ぎ、特に上州文学に補し、迪功郎・監南嶽廟に改めて授けた。母を喪って葬るに資なく、都に至って諸公に謀ったが、寒疾にかかり、紙を求めて書いて言った、「私は我が兄と共に権臣を攻めた。今、権臣は誅せられた。私は死んでも遺憾はない。ただ、生きて還りながら国に報いることができず、かつ我が母を葬ることができなかったことを遺憾とするのみである」。そして卒した。府尹の王柟が棺を整えて収斂し、帰葬させた。

楊宏中

楊宏中、字は充甫、福州の人である。弱冠にして国子生に補せられた。孝宗が崩御し、光宗は疾のために喪を執ることができなかった。時に趙汝愚が枢密院を知り、太皇太后に奏請して寧宗を嘉邸より迎え立て、喪礼を成し遂げさせ、朝野は安らかであった。そこで汝愚を右丞相に命じ、耆徳及び一時の知名の士を登用進め、慶曆・元祐の治をなさんと意図した。韓侂冑が国柄を窃み弄び、将作監の李沐を引きいて右正言とし、まず汝愚を論じて罷免させ、中丞の何澹・御史の胡紘の上奏文が相次いで上り、汝愚を永州に流した。国子祭酒の李祥・博士の楊簡が連続して上疏して救い争ったが、ともに排斥された。宏中は言った、「師儒は大臣の冤罪を弁じることができるのに、諸生は師儒の去るを留めることができないのは、義として安らかであろうか」。衆は応じなかったが、ただ林仲麟・徐範・張衟・蔣傅・周端朝の五人がその議に加わることを願った。そこで上書して言った。

古より国家の禍乱の由る所は、初めより一道にあらず、ただ小人が君子を中傷するは、その禍い特に惨い。君子が登用されれば、邪枉を杜絶し、その心に要する所は実に君を愛し国を憂うるにある。小人が志を得れば、正人を仇視し、必ずその朋類を空しくして、然る後に肆に行い忌憚なからしめんとする。ここにおいて人主孤立し、社稷危うくなる。党錮は漢を蔽い、朋党は唐を乱す、大率これより起こる。元祐以来、邪正交わって攻め、ついに靖康の変を成し、臣子の忍びず言う所、陛下の忍びず聞く所なり。

臣は窃かに見るに、近ごろ諫臣の李沐が前宰相の趙汝愚が数たび夢兆を談じ、権を擅にし党を植え、将に陛下に利あらざらんとするを論じた。これをもって誣いるは、実にその然らざるなり。汝愚が去るを乞うや、中外憤りを懐き、言者が父老歓呼すと為すは、天聴を蒙蔽し、一にここに至る。章穎は力めてその非を弁じ、まず斥逐に遭い、聞く者すでに駭く。既にして祭酒の李祥・博士の楊簡相継いで抗論し、毅然として去るを求め、告仮すること幾月、善類は惶惶たり。一旦に外補の命あり、言者はその正論を扶植するを悪み、極力に牴排し、同日に報罷せしめ、六館の士これがために憤惋涕泣す。今、李沐は自ら邪正の両立せず、公議の己を直さざるを知り、乃ち尽く正人を去らんとしてその私に便ならしめんとし、ここにおいて朋党に託して陛下の聴を罔す。臣は謂う、二人の去るは若し未だ惜しむに足らざるも、恐らくは君子小人消長の機ここに一たび判せば、則ち靖康已然の鑑、豈に復た今日に見えんに堪えんや。陛下は精を厲して政を図り、まさに三綱を正して人心を維え、群議を采って国是を定めんとするに、遽かに奸回に聴き、概ね善類を疑う、これ臣らの未だ諭せざる所なり。

臣は願わくば、陛下は漢・唐の禍を鑑とし、靖康の変を懲らしめ、精しく宸慮を加え、特奮して睿断せられんことを。汝愚の忠勤を念い、祥・簡の党ならざるを察し、李沐の回邪を灼かにし、好悪を明示し、淑慝を旌別し、李沐を竄して天下に謝し、祥・簡を還して士心を収められんことを。臣は身たとえ鼎鑊に膏すとも、実に辞せざる所なり。

書が奏上されて返答がなく、則ち副封を臺諫・侍従に繳した。韓侂冑は大いに怒り、不合上書の罪に坐し、六人皆編置に処し、宏中を首として、嶺南に竄さんとした。中書舎人の鄧馹が上書してこれを救ったが、聴かれなかった。右丞相の余端礼が榻前に拝して数十度に及び、遠く徙することを免ぜんことを丐うた。上は惻然としてこれを許し、乃ち太平州に送って編管させた。天下はこれを「六君子」と号した。

明年、福州に移して聴読させた。嘉泰三年、寧宗が学に幸し、特旨をもって放還させた。開禧元年、宏中は進士第に登り、南剣州教授となった。太守の余嶸は故相の端礼の子で、彼と相得て甚だ歓んだ。韓侂冑が誅殺されると、先に言によって罪を得た者悉く褒録を加えられた。嘉定元年、特に宏中の一秩を遷したが、また拝さなかった。六年、嶸と汪逵・趙彦橚の推薦により、戸部架閣を授け、俄かに太学正に遷った。八年夏、旱魃があり、封事を上し、指切して隠すところがなかった。武学博士に遷り、宣教郎に改めた。

時に諫官の応武が一学官を論じ、宏中が季試で策士を試みその故に及んだので、武はこれを聞いて恨んだ。秋の戊日に武成王を祀り、祭酒が行事を行った。故事では、博士が亜献を摂るが、この時は宏中に命ぜず、宏中は祭酒に申し出た。ここにおいて武は宏中が同列と競うを劾し、かつその激矯にして自ら愛せざるを謂い、遂に潭州通判とした。親老を以って祠を請い、武岡軍知事に差されたが、受けずして卒し、年五十三。

端朝、字は子靜、嘉定三年に礼部試で第一となり、終に刑部侍郎兼侍講となった。衟、字は用叟、父の任により官に補せられ、二子あり、端朝と同進士第に登った。仲麟、字は景仲。傅、字は象夫、久しく学校に居り、忠鯁聞こえ、皆不遇のうちに死んだ。範は自ら伝がある。

華岳

華岳、字は子西、武学生となり、財を軽んじ侠を好んだ。韓侂冑が国政を執るに当たり、岳は上書して言った。

旬月以来、都城の士民は彷徨四顧し、将にその室家を喪わんとするが若く、諸軍の妻子は隠哭含悲し、将にこれを水火に駆らんとするが若し。闤闠籍籍として、語らんと欲して復た噤み、伝聞に駭き、何を謂うか曉らざる。臣が徐かにこれを考うるに、則ち侍衛の兵は日夜潜発し、枢機の遞は星火交馳し、戎作の役は平時に倍し、郵伝の程は疇昔に兼ね、乃ち知る、陛下将に北征に事あらんとするなり。

韓侂冑は后族の親として、位は極品に居り、専ら権柄を執り、公に賄賂を取り、無籍の吏僕を畜養し、腹心に委ね、名器を売り、爵賞を私し、神器を睥睨し、宗社を窺覘し、日益に炎炎として、敢えて向かわざるはこれにあらず。これ外患の吾が腹心に居る者なり。

朝臣の中には、凡庸で取るに足らぬ資質でありながら、師旦に姻戚関係を請うて、急に政府に入った者がある。諂諛で佞巧な資質で、侂胄に阿附して、身を顕貴に致した者がある。陳自強は老いて恥を知らず、貪り飽くことを知らず、私に党与を植え、密かに門第を結び、その行うところを見るに、ただ侂胄を知るのみで、君父を知らない。これが外患が我が股肱に居る者である。

爽・奕・汝翼ら諸李の貪懦で謀なく、倪・僎・倬・杲ら諸郭の膏粱で用をなさず、諸吳の寵恃して専僭し、諸彭の庸孱で不肖である。皇甫斌・魏友諒・毛致通・秦世輔らが軍心を凋瘵し、士気を瘡痍にし、そのため陳孝慶・夏興祖・商榮・田俊邁の徒は、皆一卒の材に過ぎないのに、各々麾を把り専制するを得、平素は膏を刳り血を刻み、侂胄に包苴して、通顕に至り、饑寒の士は皆その肉を食らわんことを願うも得られない。万一陛下が大事を付せられれば、彼らの首級は自ら保つべからず、いずくんぞ陛下のために計る暇があろうか。これが外患が我が爪牙に居る者である。

程松は妾を納れて知を求め、あるいは妹を売って府に入り、あるいは妻を献じて閣に入り、魯宜宜は子を貢して郎と為し、富宮は庸駑で位を充たす。これが外患が我が耳目に居る者である。

蘇師旦は穢吏をもって節鉞を冒し、牙儈が名爵を冒す。周筠は隷卒をもって戎鈐を冒し、市易が将相を冒す。これが外患が我が咽喉を扼する者である。彼らのいわゆる外患は実は憂うるに足らず、しかるにこの外患はすでに我が一身の間に遍満しているのである。

「礼楽征伐は天子より出づ」。中国を貴ぶ所以は、皆陛下に命を聴くにある。今や与奪の命・黜陟の権も、また陛下より出でずして、侂胄より出づ。これは我に二つの中国があるということである。命がまた侂胄より出でずして、蘇師旦・周筠より出づ。これは我に三つの中国があるということである。女真は区区の地をもって、なお我が淮・漢を逼ることを得る。ましてや外患が我が腹心・股肱・耳目・爪牙及び我が咽喉に居りながら、我が宗廟社稷を馮陵せざるがあろうか。ましてや一家の中自ら秦・越と為り、一舟の中自ら敵国と為りながら、遠人を制すること能うであろうか。近年軍は皆掊克で、士卒自らその将佐を仇とし、民は皆侵漁で、百姓自らその守令に畔き、家自ら戦う。これまた我が中国に億万の仇敵を啓くのである。今、我が腹心・股肱・爪牙・耳目・咽喉及び億万の仇敵を去ることに務めずして、国を空しくする師、国を竭くす財をもって、遠人と血刃相塗れるの地に相従わんと欲するは、顧みて外にその心を用いざるか。

臣はかつて兵書を推演し、去歳の上元甲子より、五福太一が初めて呉分に度り、四神直符が荊・楚に対臨し、始撃蜚符が旁ら甌・粵に臨み、青門直使が幽・冀に交次し、黒殺黄道が正しく燕・趙に按ずる。成法を考うるに、主算最も長く、客算最も短し。兵は先発を以て客と為し、後発を以て主と為す。太歳乙丑より庚午までの六年の間は、皆先挙するに利あらず。もし彼らが盟に畔き義を犯し、我が疆場を撓かし、事已むを得ざるに至り、然る後にこれに応ずれば、則ち反って主を客と為し、なお曰く庶幾からん。万一国家が首事し謀を倡えば、則ち将帥内に睽き、士卒外に畔き、万民の肝脳を塗り、千里に血刃す。これは天数の先挙に利あらざる所以である。ましてや将帥は庸愚、軍民は怨懟し、馬政は講ぜず、騎士は熟せず、豪傑は出でず、英雄は収めず、饋糧は豊かならず、形便は固からず、山砦は修せず、堡壘は設けず、我れたとえ甲を帯びること百万、餫餉千里あれども、師出でて功なく、戦わずして自ら敗る。これは人事の先挙に利あらざる所以である。

臣は願わくは陛下に吾が一身の外患を除かんことを。吾が国中の外患既に除かるれば、然る後に公道開明し、正人登用され、法令自ら行わり、紀綱自ら正しく、豪傑自ら帰し、英雄自ら附き、侵疆自ら還り、中原自ら復し、天下自ら和平に底し、四海自ら仁寿に躋らん。何ぞ兵革を俟たんや。然らずんば、則ち乱臣賊子は冕を毀ち冠を裂き、九錫隆恩の詩を哦し、貴もって侔うべからざるの相を恃み、私妾内姫、陰臣将相、軍士を魚肉し、生霊を塗炭にし、百世の遠図を墜とし、十廟の遺業を虧かさん。陛下この時に至り、たとえこれと偕に亡せんと欲すとも、則ち禍身に迫り、権人より出で、首を俯して終わりを待つ。何の臍をぜいわんとすべきか。

事未だ然らざるは、取り信じ難し。臣は願わくは身を以て廷尉に属し、その軍行用師し、労を労して凱を奏するを待たん。則ち臣が首を梟して四方に風遞し、以て天下の君を欺き上を罔くする者の戒めと為さん。もし干戈相尋い、敗亡相継ぎ、強敵外より攻め、姦臣内に畔き、臣の言うところと尽く符契に合わば、然る後に臣をして老いを田里に帰せしめ、永く不歯の民と為さしめよ。

書が奏せられると、侂胄は大いに怒り、大理寺に下し、建寧の圜土の中に貶した。郡守の傅伯成はこれを憐れみ、獄卒に命じて、出入りするに繫がざらしめた。伯成が去ると、また守の李大異に迕い、再び獄に置かれた。

侂胄が誅せられると、放還され、再び学に入り登第し、殿前司の官属となったが、鬱として志を得ず。丞相史弥遠を除かんと謀り、事覚え、臨安の獄に下された。獄具し、大臣を議するに坐して死に当たる。寧宗は岳の名を知り、生かさんと欲したが、弥遠は曰く、「これは臣を殺さんと欲する者なり。」ついに東市で杖死した。

鄧若水

鄧若水、字は平仲、隆州井研の人。経史に博通し、文章を作るに気骨あり。呉曦が叛くと、州県敢えて抗う者なく、若水はなお布衣であったが、憤り甚だしく、県令を殺し、兵を起こしてこれを討たんとせり。夜に鶏を刲きてその僕と盟して曰く、「我明日知県に謁す。汝密かに刃を懐いて従え。我汝を顧みれば、即ちこれを殺せ。」僕は佯りて諾し、期に至り三たび顧みるも発たず。帰ってその僕を背盟を以て責むると、僕曰く、「平人尚お殺すべからず、況んや知県においてをや。これ何等の事ぞ、而して我をしてこれを為さしむ。」若水は乃ち剣を杖きて徒歩武興に如き、曦を手ずから刃せんと欲し、中道曦の死を聞き、乃ち還る。人皆その狂を笑うも、その志を壮とす。

嘉定十三年の進士に登第す。時に史弥遠国政を柄ること久しく、若水は対策して極めてその姦を論じ、これを罷め、更に賢相を命ぜんことを請い、然らずんば必ず宗社の憂いとならんとす。考官これを末甲に置く。策の語は播行し、都の士争いてこれを誦す。弥遠怒り、府尹に諭して逆旅の主人にその出入りを譏らしめ、将にこれを罪に置かんとす。或る人のこれを解するあり、乃ち已む。

理宗即位し、詔に応じて封事を上るに曰く、

大義を行いて然る後に以て大謗を弭すべく、大権を収めて然る後に以て大位を固うすべく、大姦を除いて然る後に以て大難を息むべし。

寧宗皇帝が崩御され、済王は大位を継ぐべき者であったが、廃されたことは先帝に聞こえず、過失は天下に聞こえなかった。史弥遠は済王の立つことを利せず、夜に先帝の命を偽り、済王を棄逐し、併せて皇孫を殺し、陛下を奉迎した。未だ半年を経ず、済王はついに湖州で不幸に遭った。『春秋』の法で推し量れば、しいしいぎゃくではないか?さんさんだつではないか?強奪ではないか?悖逆の初めに当たり、天下が皆弥遠に罪を帰して敢えて陛下に過ちを帰さなかったのは、何故か。天下は皆、倉卒の間、陛下の知り得ざる所であり、また陛下に必ずその心なきことを諒とし、また陛下が必ず妖気を清めて表し、先帝・済王父子の終天の憤りを雪ぐことを料ったのである。今や一年を過ぎたが、乾剛決せず、威断行われず、以て天下の望みを大いに慰めることがない。昔、陛下に必ず無きを信じた者は、今或いはその有りを疑い、昔、陛下の知らざるを信じた者は、今或いはその知るを疑う。陛下は何を以て清明の天日に忍び、この身をもってこの汚辱を受けるのか。蓋しまた天下にこの心を明らかに求め、千古に辞有らしめんとするか。陛下の計りに為すは、泰伯の至徳、伯夷の清名、季子の高節に遵うに若くはなく、然る後に陛下の本心は天下に明らかとならん。これ臣の所謂、大義を行って大謗を弭ぎ、策の上たる所以である。

昔より人君が大権を失うは、廃立の際より尽く失わざるは少ない。その廃立の間に当たり、威は天下を動かす。既に立てば則ち人主を眇視し、是の故に強臣は恩を挟んで上を陵ぎ、小人は強を恃んで上無し、久しければ内外相い一体となり、上たる者は喑黙としてその為す所を聴き、日朘月削、殆ど人臣の忍びて言わざる者有り。威権一旦去れば、人主たとえその位を固め、その身を保たんと欲すとも、得ざる有り。宣繒・薛極は、弥遠の肺腑なり。王愈は、その耳目なり。盛章・李知孝は、その鷹犬なり。馮榯は、その爪牙なり。弥遠が某事を行い、某人を害せんと欲すれば、則ちこの数人者相い謀り、嘗て陛下の意のその間に行わるること有りや。臣以為わく、この数凶を除かざれば、陛下は謗を弭ぐに足らざるのみならず、また必ずしもその位を安んずるを得ず。然らば則ち陛下は何を憚って久しく為さざるか。これ臣の所謂、大権を収めて大位を定め、策の次たる所以である。

次を行わず、また一有り。曰く「大姦を除き然る後に以て大難を弭ぐべし」。李全は、一流民に過ぎず、我に寓食す。兵多く加わらず、土地広く加わらず、勢力特に盛んならず。賈涉が帥たりしは、庸人に過ぎず、全敢えて妄動せず、何ぞや。名正しくして言順うなり。陛下即位より、乃ち敢えて倔強す、何ぞや。彼はその衆を用うるに辞有り。その意必ず曰わく「済王は先皇帝の子なり、而るに弥遠これを放弑す。皇孫は先皇帝の孫なり、而るに弥遠これを戕害す」と。その辞直く、その勢壮んなり、是を以て淮に沿う数十万の師も敢えてその鋒を睥睨せず。今暫く事無しと雖も、未だならず。その一日羽檄飛馳し、済王を辞とし、君側の悪を討つを名としてせざるを知らんや。弥遠の徒は、死して余罪有り、復た惜しむべからず、宗社生霊何の辜か有らん。陛下今日にして弥遠の徒を誅すれば、則ち全はその衆を用うるに辞無からん。上を得ずんば則ちその次を思い、次を得ずんば則ちその下を思う、悲しいかな。

制置司は敢えて附驛せず、これを却還す。格をもって官を改むるに当たり、奏上す。弥遠筆を取って横に抹し、罷む。

嘉熙年間、召されて太学博士と為る。対すべきに当たり、奏を草すること数千言、略して曰く「寧宗御不、弥遠急にその詐を成さんと欲す。この心豈に復た先帝の生くるを願わんや。先帝その終わりを正すを得ず、陛下その始めを正すを得ず。臣請う、塚を発き棺を斵ち、その屍を取り斬り、以て在天の霊に謝せん。往年臣嘗て封事を上し、近属に禅位し、以て不義の汚れを洗わんことを請う。路自ら達する無く、今その書尚在り。謹んで昧死を以て聞く」と。

対すべき前日、筆吏を所親の潘允恭に仮す。允恭素より若水の危言を好むを知り、筆吏に諭して窃かにこれを録せしむ。允恭これを見て、懼れて併せて禍に及ばんとし、走って丞相喬行簡に告ぐ。行簡も亦大いに駭く。翌日早朝、奏して若水を出して寧国府通判と為す。退朝し、閤門舎人を召して問うて曰く「今日輪対の官有りや」と。舎人若水を以て対す。行簡曰く「已に旨を得て外に補す。班を格すべし」と。若水その書を袖にして廡下に待つ。舎人諭して去らしむ。若水怏怏として退く。自ら時の容るる所ならざるを知り、官に到ること数月、言を以て罷められ、遂に復た仕えず、太湖の洞庭山に隠る。

賈似道京湖に在り、その名を聞き、辟いて軍事に参ぜしむ。若水雅にその郷を思い、乃ち起ちてその招きに従い、因りて西帰してしょくす。山中に居る。盗夜にこれを劫う。若水危坐して動かず。盗その首を撃つ。血面に被るも亦動かず。乃ち舎て去る。若水学を為すに躬行を務め、空言を恥ず。木を削りて主と為し、大いに書して曰く「古より以来の忠臣孝子義夫節婦の位」と。歳時これを祀る。一子有り。膂力人に絶る。山砦を築き、兵を以て郷井を捍衛す。砦破れ、挙家害に遇う。

僧眞寶

僧真寶、代州の人、五台山の僧正と為る。仏を学び、能く死生を外にする。靖康の擾乱、その徒と山中に於いて武事を習う。欽宗便殿に召対し、眷賚隆縟なり。真宝山に還り、益々兵を聚めて討伐を助く。州守らず、敵衆大いに至る。昼夜これを拒ぐ。力敵せず、寺舎尽く焚かる。酋長生け捕りに真宝を致すを下令す。至れば則ち抗詞撓まず。酋長これを異とし、忍びて殺さず。郡守劉騊に使って百方誘勸せしむも、終に顧みず、且つ曰く「吾が法中に口回の罪有り。吾既に宋皇帝に死を許す。豈に妄言すべけんや」と。怡然として戮を受けしむ。北人見聞する者歎異す。

莫謙之

莫謙之、常州宜興の僧なり。徳祐元年、義士を糾合して郷閭を捍禦す。詔して溧陽尉と為す。この冬、戦陣に没す。武功大夫を贈る。

時に万安の僧も亦兵を起こし、旗を挙げて曰く「降魔」と。又曰く「時危うければ聊か将と作し、事定まれば復た僧と為らん」と。旋にして亦敗死す。

徐道明

徐道明、常州天慶観の道士なり。管轄と為り、紫を賜う。徳祐元年、北兵城を囲む。道明郡守姚訔に謁し、請うて曰く「事急なり。君侯計いずくにか出ださん」と。訔曰く「内に食無く、外に援無く、死守するのみ」と。道明急ぎ還り、慨然としてその徒に告げて曰く「姚公城と俱に亡なんと誓う。吾属も亦義士を失わざらん」と。乃ち観の文籍を取りて石函に置き、坎中に蔵す。兵城を屠る。道明危坐して香を焫ぎ、『老子』の書を読む。兵これに拝せしむも顧みず、誦声琅然たり。刃を以てこれを脅すも動かず。遂に死す。