宋史

列傳第二百十三 忠義九 趙時賞 趙希洎 劉子薦黃文政 呂文信 鍾季玉潘方 耿世安 丁黼 米立趙文義 楊壽孫 侯畐 王孝忠 高應松張山翁 黃申 陳羍 蕭雷龍 宋應龍褚一正 鄒㵯劉子俊 劉沐 孫㮚 彭震龍 蕭燾夫 陳繼周 陳龍復 張鏜 張雲 張汴 呂武 鞏信 蕭明哲 杜滸 林琦 蕭資 徐臻 金應 何時陳子敬 劉士昭王士敏 趙孟壘 趙孟枀

趙時賞、字は宗白、和州の宗室なり、太平州に居住す。咸淳元年に進士第に擢でられ、累官して宣州旌徳縣の知縣となる。徳祐元年、北軍境に至る。時賞民兵を擁して捍戰し功有り、直寶章閣・軍器太監に昇る。二王に従ひ閩中に入る。益王即位し、邵武軍の知軍に擢でらる。未だ幾ばくもせず、言者城を棄つるを以て論じ之を罷む。

文天祥都督ととく府を南劍に開き、奏して參議軍事・江西招討副使を辟す。宗室の孟濚と兵を提げて贛州に趣き、石城を取道し、寧都縣を復す。數たび偏師を以て一面に當たり、戰ふ毎に勝有り。時賞風神明俊にして、議論慷慨、策謀有り、特に天祥に知らる。空坑の役に及び、兵敗れて吳溪に走り、追兵に執へられ、屈せずして之に死す。

時賞軍中に在りし時、同列の輜重を盛んにし、姬侍を飾るを見て、歎じて曰く、「軍行くこと春遊の如くんば、其れ能く濟はんや」と。執へらるるに及び、係累せらるる他の僚屬の至る者を見れば、時賞輒ち麾き去りて云く、「小小の簽廳官なる爾、此れを執ふる何を爲さん」と。是れに由りて脱するを得る者衆し。

趙希洎

趙希洎、宗室の子、宜春に居住す。歷官して戶部尚書に至る。咸淳中、丞相賈似道に迕ひ、出でて廣東轉運使を領す。徳祐元年、制置使黃萬石其の勤王を檄す。潰卒數百を得、道廬陵を經る。郡守其の軍を邀ふ。遂に從子の必向と與に贛州に避地す。亂定まつて里に歸る。時に袁の守聶嵩孫は、希洎の内婣なり、内款を勉むるも、屈する能はず。文天祥兵敗れ、失言を以て必向と俱に囚はれ、辭節愈々厲し。家人食を饋れば、則ち器を碎きて諸れを地に覆ひ、俱に食はず、榻に據りて死す。

劉子薦

劉子薦、字は貢伯、吉州安福の人。父夢驥、進士を以て歷官し澧州の知州となり、王事に沒す。子薦父の任に因りて湘鄉尉となり、盜を獲る功を以て撫州司錄に調す。王應亨の荷擔の黃九を毆死せしむと訴ふる者有り、獄成る。子薦爰書を閱し、疑ひて之を駁す。俄かに烈風迅雷獄戶を辟き、吏揳を裂く。人を殺す者は實に孔目の馮汝能にして、應亨に非ず。獄遂に白し、死を免るる者八人を得。事聞こえ、天下の理官たる者の爲に諭を頒つ。贛縣の知縣に改め、行在左藏庫を監し、常德府を通判し、融州の知州となる。陛辭に、度宗之を慰めて曰く、「廣郡凋瘵たり、卿の撫摩に頼む」と。子薦對へて曰く、「臣當に德化を推行し、以て其の民を安んぜん」と。官に至り、廉靜を以て聞こゆ。

仙都觀を主管し、廣西經略司檄して參議官と爲す。徳祐二年十一月、北兵靜江に至る。權經略使馬塈子薦を遣はし徭兵藥弩手を提げて城東門を守らしむ。勢支へず。時に瀛國公已に燕に入る。子薦笏を取り其上に書して云く、「我が頭は斷つ可し、膝は屈す可からず」と。城に登り北を望み再拜し、衣する所の袍を取りて之を瘞り、左右に語りて曰く、「事急にして爲す可からず、吾死を以て守る所有り」と。或ひは子薦に遁去を諷す。子薦曰く、「事に死するは義なり、何を以て遁るるを爲さん」と。竟に之に死す。

黃文政

黃文政なる者有り、淮の人。しょくに戍し、軍潰え、間道を走りて靜江に至る。馬塈邀へて與に同守せしむ。城破れ、文政執へられ、大に詬りて屈せず。大軍其の舌を斷ち、次いで劓刖す。文政含胡して叱咄し、死に比するまで聲絶えず。

呂文信

呂文信、文德の弟なり。仕へて武功大夫・沿江副司諮議官に至る。徳祐初、舟師を帥ひて南康斛林に次ぎ、白鹿磯に夾りて北兵と遇ひ、戰死す。特に寧遠軍承宣使を贈らる。子師憲、特に帶行の閤職と與へられ、兩子に承信郎の恩澤を與ふ。仍ひ廟を立て額を賜ふ。

河湖砦巡檢の張興宗亦た之に死す。武翼郎を贈り、緡錢三萬を賜ひ、仍ひ一子に承信郎の恩澤を與ふ。

鍾季玉

鍾季玉は、饒州楽平の人である。淳祐七年に進士に挙げられ、都大坑冶属に任じられ、後に万載県知事に転じた。淮東制置使李庭芝に推薦され、審計院に遷り、宗正寺簿に改められ、さらに枢密院編修に遷り、建昌軍知軍として出向した。時に朝廷より江西で和糴を行う旨の命令があり、季玉が郡に着任して半年ばかりの時、旱魃が続き、通常の税収では調達できないと見込み、朝廷に請願して、和糴の量を三分の一減らすことを得た。提挙常平に遷ったが、間もなく転運判官に改められ、いずれも赴任しなかった。後に江西転運判官として強いて起用された。郡の大胥が賄賂で失脚したが、前任の使臣が百方手を尽くして庇護した。季玉はついに徹底的に糾明し、嶺南に流した。まもなく秘書丞として召還されたが、前任の使臣の讒言によって封駁され、都大提点坑冶に改められた。北兵が長江を渡ると、季玉は建陽に寓居したが、兵が到着し、屈服せずに死んだ。

潘方

潘方という者がいた。温州平陽の人である。宝祐四年の進士で、慶元府市舶の監官に任じられた。慶元が降伏すると、潘方は屈服せず、水に赴いて死んだ。

耿世安

耿世安は、武翼大夫・淮東副総管・両淮都撥発官であった。初め、諜報により大軍が迫ると、制置使賈似道は世安に兵を率いて漣水軍に増援に向かうよう命じた。兵士らがなお躊躇している中、世安はまっすぐ漁溝まで進み出て、三百騎で敵陣に突入し激戦を交え、午後から夕方まで戦い、七ヶ所の傷を負いながらもなお敗走する兵を追撃した。兵を収めて帰還する途中、数里の地点で没した。事が朝廷に聞こえ、五官を追贈され、淮安に廟が立てられ、「忠武」の扁額を賜った。

丁黼

丁黼は、成都制置使である。嘉熙三年、北兵が新井から侵入し、偽って宋の将軍李顯忠の旗を掲げ、まっすぐ成都に向かった。黼はこれを敗残兵と思い、旗や立て札で招いたが、やがてそれが偽りと知り、兵を率いて夜に城南を出て迎撃し、石筍街に至り、兵は散り散りとなり、黼は力戦して死んだ。大軍が未だ到来しないうちに、黼は先に妻子を南方に帰らせ、自らは死守を誓っていた。この時、黼に従ったのは幕客の楊大異と信任する数人のみで、大異は死んでから蘇生した。黼が蜀を統率した時、政は寛大で、蜀人は彼を慕った。事態が収まると、扁額を賜り廟が立てられた。

米立

米立は、淮の出身で、三代にわたり将軍を務めた。陳奕に従って黄州を守ったが、奕が降伏すると、立は包囲を突破して脱出した。江西制置使黄万石が彼を帳前都統制に任命した。大軍が江西を攻略すると、立は江坊で迎撃したが捕らえられ、降伏せず、獄に繋がれた。行省は万石を遣わして説得させた。万石は言った、「私の官階は、一枚の牙牌に書ききれぬほどであるが、今は降伏したのだ」。立は言った、「侍郎は国家の大臣であり、私は一介の兵卒に過ぎません。何を言うことがありましょう。ただ三代にわたり趙氏の禄を食んでおり、趙が滅びれば、どうして生きていられましょう。私は生け捕りにされた者であり、投降した者とは違います」。万石が再三説得したが、屈せず、ついに害された。

趙文義

趙文義という者は、郢州都統制であった。交代で守備を終えて帰還する途中、北兵と遭遇し、力戦して死んだ。初め、開州の戦役では、文義の兄の武義もまたそこで死んでいる。

楊壽孫

楊壽孫という者がいた。雲安軍主簿を兼ね、参佐忠勝軍を教練した。端平年間、北兵が中江県に至ると、将官の何庚・安惟臣・田広澤・歹坤らと連日戦い、ともにそこで死んだ。壽孫には通直郎を追贈され、一子に下州文学の官が与えられた。庚らにはそれぞれ承節郎を追贈し、一子に進勇副尉が与えられた。

侯畐

侯畐は、字を道子といい、温州楽清の人である。三度郷試に貢挙され、二度転運司の試験を受け、いずれも第一となった。武挙により合浦尉、柳城令、侍衛歩軍司幹弁公事、侍衛馬軍行司計議官に任じられた。宝祐五年、制置使賈似道が召し出して海州通判兼河南府計議官とした。李松壽が山東を占拠し、突如漣州・泗州に現れると、侯畐は城下で激戦し、戦死し、一家も皆殺しに遭った。太学生三十一人が朝廷に上書し、ただちに海州に廟を賜って忠を顕彰し、諡を「節毅」とし、またその郷里にも廟を建立した。侯畐の著作に『霜厓集』がある。

王孝忠

王孝忠は、鎮江前軍統制兼淮東路を務め、淮陰に分かれて駐屯した。楊貴が叛くと、王孝忠は兵を率いて迎え撃ち、気勢は百倍であった。やがて水軍統制朱信が賊に降ると、王孝忠は孤軍で力及ばず、そこで戦死した。

高応松

高応松は、開慶元年の進士である。衡州教授から広徳軍通判を経て、召されて国子監丞となり、権礼部員外郎・翰林権直を兼ねた。北兵が湧金門から侵入すると、朝廷の臣僚は皆逃げ散り、従官で留まった者は九人、高応松はその一人であった。中書舎人・直学士院に転じ、まもなく権工部侍郎に進み、端明殿学士・簽書枢密院事となった。瀛国公に従って燕京に至り、食を絶ち言葉を発せず、七日を経て卒した。

張山翁

張山翁は、字を君寿といい、普州の人である。景定三年の進士。徳祐元年、荊湖宣撫司幹官となった。鄂州守の張晏然が降伏を議すると、張山翁は書を送ってこれを責めた。張晏然が降った後、張山翁は軍前に捕らえられ、諭されて「もし降れば、顕官となることを失わない」と言われたが、張山翁は屈せずに応対した。行省の官賈思貞はその義を感じ、殺さずに許した。後に黄鵠山に住み、門徒を集めて教授し、その生涯を終えた。著作に『南紀』、『緇林蔵』、『雲山』、『相鋤』などの集がある。

黄申

黄申は、字を酉郷といい、井研の人である。開慶元年の進士で、徳安尉に任じられ、主簿を代行し、江西刑獄司簽庁を兼管し、多くの獄事を弁明した。丞相江万里と提刑黄震が相次いで推薦し、楽安丞に転じた。

黄申は政務を廉潔謹直に行い、治績の評判があった。恩により従事郎に昇進した。大軍が撫州を陥落させ、諸県に降伏状を求めると、楽安県令はその僚属と連署して提出した。黄申は変事を聞くと、初めに家族を皆遠くに避難させており、この時はただ一人抵抗して行かなかった。県令が吏を遣わして促したが、黄申は動かなかった。吏が県令に報告すると、県令は怒った。やがて吏民数百人が庭に集まり、無理に輿に乗せて連れて行こうとしたが、黄申は地面に倒れ伏し、中風にでもなったかのようであった。人々はつかみ蹴り罵って、「お前が従わないために、我々まで累が及ぶのだ」と言った。黄申は死んだふりをして聞こえない振りをし、県令もどうすることもできなかった。黄申は民に恩愛があったので、夕方になると、人々が担ぎ入れて中堂に置き、翌日には粥を食べさせて、難を免れた。そこで去り、巴山に隠れて生涯を終えた。

陳羍

陳羍は、字を肇芳といい、一字を偉節といい、饒州安仁の人である。父の詩川は、武功により沭陽令に補せられた。咸淳元年、父子同時に進士に挙げられた。滁州司戸参軍に任じられた。父の喪で免官となり、荊閫糧料院に改められ、また母の喪で去った。朐山主簿に任じられた。制置使印応雷が幕下に召し入れた。徳祐元年秋、陳羍は海路を経て杭州に帰り、南安軍教授に任じられたが、就任せず、帰郷した。

陳羍は若い頃謝枋得と交遊し、ちょうど謝枋得が安仁で兵を起こすと、真っ先に召し出されて幕下に入った。安仁県令李景を捕らえた。李景は陳羍の同郷人である。李景は家財二万を以て罪を贖うことを願い出たが、陳羍は「普天の下、王土ならざるはなし。家財だけが朝廷の銭ではないのか」と言い、その罪を声高に言い立てて斬った。李景の子が郷民五千を率いて仇を討とうとすると、陳羍は形勢敵わずと判断し、兵を率いて信州に向かった。ちょうど守吏が逃げ去ったので、陳羍は朝廷に報告し、そのまま郡の事務を代行した。

益王が即位すると、陳羍は入朝し、宗正寺簿・太府寺丞に転じ、江東安撫使を兼ねた。上饒に出て、郡県に呼応し、配下はわずか千余人で、火焼山に駐屯した。数ヶ月後、戦いに敗れて潰走し、捕らえられて章に至った。元帥はその才を惜しみ、館に留めて繋ぎ止めたが、逃げ去った。三年後、再び兵を起こしたが、まもなく敗れて積煙山中に入り、自ら剣で死んだ。著作に『鶴心集』があり、その詩は当時の士大夫を多く諷刺している。弟の陳年は同時に捕らえられ、そこで死んだ。

蕭雷龍

蕭雷龍、字は顯辰、建昌新城の人なり。景定三年に進士となり、臨安府學教授に調せられ、衢州を通判す。及んで州守城を棄てて遁るるに及び、朝命により雷龍、知府事を權ず。

北兵城下に迫るも降らず、脱して去り、建昌に還る。建昌既に降るも、雷龍は同里の人黄巡檢と兵を起こす。時に大兵四方より合し、雷龍支ふべからざるを度り、黄巡檢及び麾下数人とともに閩に奔る。未だ境を出でざるに、同安の武人徐浚冲に獲られて縣に送らる。權縣尹劉聖仲、素より雷龍と怨み有り、之を殺す。後、聖仲北より来たり、舟を小孤山に泊す。巨艦有りて前に衝き、大旗を建てて「蕭知府兵」と書す。継いで雷龍の船上に坐するを見る。聖仲大いに呼び、有りて頃にして見えず、驚きて死す。

宋應龍

宋應龍は、儒生なり。兵に通じ、行陳に出入すること三十餘年、諮議官となり、泰州に寓す。德祐二年六月甲寅、大兵泰州に至る。裨校孫貴・胡惟孝・尹端甫・李遇春、門を開きて迎へ降る。應龍は其の妻とともに圃中にて自縊す。

褚一正

是の時、提刑諮議褚一正、字は粹翁、廬州の人、武舉進士なり。高沙に督戰して創を受け、竟に水に沒す。興化縣を知る胡拱辰、縣破れ、亦之に死す。

鄒㵯

鄒㵯、字は鳳叔、吉水の人、後に永豐に徙る。少より慷慨として大志有り、豪俠を以て鳴る。文天祥に從ひて勤王し、武資を補して將軍に至る。益王立つ、寺丞に改め、江西招諭副使を領す。寧都に兵を聚め、数萬を得、江西安撫副使に改授せらる。興國・永豐二縣を復し、兵部侍郎兼江東・西處置副使に進む。永豐に敗るるに及び、継いで天祥に從ひて嶺道に関を間し、未幾にして復た出で、督府を開き、永豐・興國の境上に分司す。北兵驟然として至り、大戰す。㵯身を脱して潮州に走る。天祥の執はるるに及び、㵯自殺す。

是の時に當たり、天祥に從ひて勤王し死事する者、㵯と劉子俊等凡そ十有九人、因りて其の名を次第し、左方に見するに附す。

劉子俊

劉子俊、字は民章、廬陵の人。嘗て漕試に中る。少くより文天祥と同里閈にして、相善しむ。天祥督府を興國に開く、子俊府に詣りて事を計り、宣教郎・帶行軍器監簿兼督府機宜を補す。空坑に兵敗れ、子俊兵を収めて洞源を保ち、郡縣に接應す。尋いで廣に入り、大兵と遇ひて戰ひ潰れ、復た散亡を招集し、鄒㵯とともに潮州に趨る。天祥兵敗れ、子俊執はれ、自ら天祥と詭り、大兵の窮追せざらんことを意とし、天祥間を走るべしとす。未幾、別隊天祥を執へて至る。途に於いて相遇ひ、各真贗を爭ひ、大將の前に至りて始めて其の實を得、乃ち子俊を烹る。

劉沐

劉沐、字は淵伯、廬陵の人。文天祥の鄰曲なり。少くより相狎暱し、天祥奕を好み、沐と對奕し、思ひを窮めて日夜を忘るるを常とす。兵を起こすに及び、辟して宣教郎・督府機宜を補す。天祥使を出すに及び、沐兵を領して還る。天祥歸り、南劍に府を開く、沐部曲を収めて来會し、太府寺簿に改授せられ、專ら一軍を將ひ、督府の親衛と為る。空坑に兵敗るるに會し、執はれて豫章に至り、父子同日に死す。仲子は亂兵に死し、季子復た天祥に從ひて嶺南に死す。當時江西の忠義は皆沐の號召する所なり。沐性沈實にして圜機、晝夜應酬し、亹亹として倦まずと云ふ。

孫㮚

孫㮚、字は實甫、吉州龍泉の人、獻簡公抃の後、天祥の長妹婿なり。天祥兵を起こし、㮚を檄して忠義士を招かしめ、宣教郎・帶行監官告院・吉州龍泉縣知事を補す。天祥兵を擁して贛に出づ。里人㮚を奉じて龍泉を復し、拒み守りて下らざるも、尋いで叛者に陷れられ、執はれて隆興に至り殺さる。

彭震龍

彭震龍、字は雷可、永新の人、天祥の次妹の婿なり。性跌宕にして事を好み、嘗て罪に坐して墨刑を受く。天祥兵を起こすや、宣教郎を補し、帯行太社令を以て永新県を知る。会に天祥使を出して執らるるや、震龍遁れて帰る。吉州既に失はれ、乃ち峒獠を結び兵を起こす。天祥兵を嶺に出せば、震龍接応し、永新を復す。大兵至り、震龍親党に執らるる所となり、帥府に至り、腰斬せらる。永新を屠る。

蕭燾夫

蕭燾夫、永新の人、兄敬夫と共に天祥の客たり。燾夫詩を為すに豪俊の気有り。天祥兵を起こすや、従仕郎を補す。彭震龍其の県を復せんと謀るに及び、燾夫之を賛す。県屠られ、兄弟俱に之に死す。

陳繼周

陳繼周、字は碩卿、寧都の人。淳祐三年郷に貢す。盗を捕ふる功を行ふを以て、未だ名を奏せず、廉州司法、南豊県知録、淮東総領幹官、藤州観察推官、吉州永豊県を知り、高安県を知るに改め、広東経略司準備差遣、衡陽県を知り、淮東転般倉を辟し、江東提点刑獄幹弁公事たり。

未だ上らず、会に咸淳十年、詔して勤王を徴す。文天祥方に贛州を守るや、即日兵を挙げ、継周に造りて計を問ふ。継周慨然として為に閭里の豪傑子弟と凡そ兵を起こすの処とを具に言ひ、其の方略甚だ詳なり。是に於て継周を幕中に留め、昼夜調度し、継周に江西安撫司準備差遣を授け、贛士を率ひて従はしむ。継周弱くして衣に勝たざるも、年徳以て人を服する有り、士之を父兄と視、進止疾徐惟だ指呼に在り、敢へて先後する者無し。詔して継周の合入官を改め、帯行監文思院を以て、江浙制置司主管機宜に差充す。部する所夜大兵を南柵門に襲ひ、殺傷相當ひ、質明猶戦ひ、渇きて水に赴きて死す。

張汴

張汴、字は朝宗、一字は次山、蜀の人。少くして丞相呉潜兄弟の門に客たり、荊閫に出入りして年を歴、韜略に明習す。潜兄弟既に罷めらる、廃斥すること十餘年。文天祥の兵を起こすに継ぎ、祕閣修撰に辟し、広東提挙を領し、督府参謀たり、幕府の左右に在りて、知りて為さざる無し。空坑に兵敗れ、乱兵に殺さる。処置使鄒㵯其の屍を得て之を葬る。

呂武

呂武、太平州の歩卒なり。文天祥使を出すや、武募に応じて行に従ひ、共に鎮江の難を脱し、淮に沿ひ東に走り海道す。武力を頼むこと多し。天祥南剣に開府す、武功を以て官を補し、之を遣はして州県に結約し兵を起こして相応ぜしむ。道阻まれ、復た崎嶇数千里にして汀・梅に於て天祥に即く。身を患難に挺し、賊を化して兵と為す。環衛官を以て数千人を将ひ江西に出づ。士大夫に遇ふに礼無きを以て、横逆に死す。一軍涕を揮ひて之を葬る。武忠梗にして天性に出づ、強禦を避けず、而して面して人の過を折るを好み、多く忌諱に触る、故に禍に及ぶと云ふ。

鞏信

鞏信、安豊軍の人。荊湖都統と為り、沈勇にして謀有り。本蘇劉義の部曲に隷し、文天祥督府を開くや、劉義信と王福・張必勝を以て天祥に詣る。信官団練使・同督府都統制・江西招討使に至る。初めて都府に至るや、天祥義士千人を之に付す。信曰く「此輩徒らに人を累はすのみ」と。乃ち淮士数千を招き自ら随ふ。然れども常に怏怏として曰く「将有りて兵無し、彼を如何せん」と。天祥興国より永豊に趨く、大兵其の後を追ふ。信方石嶺に戦ひ、数矢に中り、傷重くして戦ふ能はず、自ら厓石に投じて死す。士人之を葬るに、顔色生けるが如し。清遠軍承宣使を贈り、廟を立てて之を旌す。

蕭明哲

蕭明哲、字は元甫、太和の人。性剛毅にして胆気有り、大節を明らかにす。少くして進士に挙げらる。天祥汀州に開府す、督幹架閣監軍に辟充す。師嶺を出づ、明哲贛県の民義を以て万安を復し、諸砦を連結して拒み守る。兵敗れ、執らるるも屈せず、隆興にて死す。刑に臨み大罵して絶えず、聞く者之を壮とす。

杜滸

杜滸、字は貴卿、丞相杜範の從子(甥)なり、少より気節を負ひ遊俠す。德祐元年、詔ありて王事に勤むべしとす、滸時に縣をつかさどり、民兵を糾集して四千人を得たり。文天祥平江にこんを開くや、往きて之に附す。時に陳志道等天祥の使節として出づるを贊し、滸力爭して不可とす、志道之を逐ひて去らしむ。已にして天祥果たして留められ、志道は密かに蔵を竊み逃げ歸る。天祥北行するに、諸客従ふ者敢へて無く、滸獨り慨然として行くを請ふ。わざわひ兵部架閣に改む。京口に従ひ、計を以て守夜の劉千戸なる者を賂ひ、官鐙を得、天祥を脱し、ともに淮甸に走り、海道をりて永嘉に達す。

益王即位し、司農卿・廣東提挙・招討副使・督府参謀を授く。すみやかに温・台に往きて兵財を招集す。福安陥り、天祥と相失ひ、遂に行朝におもむく。蘇劉義滸の自ら来るを疑ひ、之を殺さんと欲す、陳宜中・張世傑不可とし、人をして之を監護せしめ、乃ち免る。久しくして、命を奉じ復た天祥の幕に入る。空坑の兵敗するに及び、又も患難を跋渉して出づ。天祥潮州に移屯す、滸は海道に趨るを議す、天祥聴かず、海舟を護り官富場に至らしむ。滸力單ひとるを懼れ、ただちに厓山に趨る、兵潰へて執へられ、憂憤に感して疾を病み卒す。

林琦

林琦、閩の人なり。德祐二年、大兵既に臨安に迫るや、琦赭山に於て忠義数千人を結集し、海道を捍禦す。功を以て宣教郎・督府主管機宜文字に補し、検院を充つ。文天祥南剣に開府す、琦其の幕を佐く。琦外は文采、内は忠實、数へて患難に渉り、怨懟の辭無し。潮州移屯するに及び、琦俱に執へられ、惠州に至りて遁れ、復た之を執へて北行せしめ、水に赴かんとす、吏の為に抜かる、建康に至り、憂憤して死す。

蕭資

蕭資、天祥幕下の書史なり。天祥兵を起すや、資患難の中に於て扶持甚だ至れり。空坑兵敗す、全督府印の功を以て、閤門・路鈐轄に升る。資性温和、機に臨み應變し、將士を輯穆しゅうぼくにし、細務を總攝し、腹心の寄を任す。潮陽移屯し、大兵と遇ひ、之に死す。

徐臻

徐臻、温州の人なり。父河南に官す、德祐元年春、臻省みまひに往く、道阻まるを以てす。たまたま天祥王事に勤む、臻往きて之に依る、筆劄を以て樞密をつかさどり、小心精練なり。天祥執へらる、臻難を脱し復た来り、願はくは天祥に従ひて北行し、患難を扶持し、忠款をことごとくさんとす、隆興に至り病みて死す。

余應

余應なる者、性稍やや剛にして義を知る。天祥の職書司となり、京に入り承信郎に補し、路分の官となる。天祥使を奉じて執へられ、左右皆散ず、應獨りそむく志無し。鎮江に脱走し、淮東に至り、憂憤して死す。

何時

何時、字は了翁、撫州樂安の人、天祥の同年進士なり。廬陵尉に調じ、尋に江西轉運使の幕府に入り、還りて臨江軍司理参軍となる。郡獄相傳ふ、もと一寇を斬る、屍能く一里許り行く。衆之を神とし、肉身皐陶こうようと為してす。時に至り、故牘を取て閲す、此の寇嘗て数人を掠殺せり、曰く「此くの如くして神と為すべけんや」と。命じて之を鞭ち、水にく、人其の明を服す。興國縣を知るに改む。

天祥兵を起す、辟して帥府機宜を署し、監文思院を帶行す。天祥入衛す、時は留司に任じ、分司して吉州にす。餉運平江す、天祥奏して時をして撫州を知らしむ。吉州下る、時身を脱して郷里に歸る。益王立ち、天祥南剣に開府す、時兵を起して興國に趨り接引し、時をして卿監を帶行し、江西提刑と為さしむ。時に兵を聚めて崇仁縣を復す、未幾まもなく大軍奄たちまち至り、兵敗れ、髮を削りて僧と為り、跡を嶺南にのがれ、卜を賣りて自ら給し、姓名を變じ、自ら「堅白道人」と號す。

陳子敬

また陳子敬という者がいた、贛州の人である。資産をもって郷里に雄をなす、かつて文天祥に従って遊学した。天祥が汀州に幕府を開くと、子敬は民兵を募集して皂口に屯し、贛江の下流を押さえた。天祥が贛州を攻めたとき、子敬はこれと合謀し、忠誠と功績が甚だ顕著であった。空坑で兵が敗れた後、また兵を集めて黄塘砦に屯し、山砦と連絡して降らなかった。大軍が重兵をもってその砦を襲撃し、砦は潰え、子敬は行方知れずとなった。

劉士昭

劉士昭は太和の人、かつて鍼工をしていた。郷人とともに太和県を回復しようと謀り、敗れ、血で指を用いて帛に書きつけた、「生きては宋の民、死しては宋の鬼、赤心を以て国に報い、一死するのみ」と。その帛をもって自縊して死んだ。

王士敏

その仲間が獄に入ると、多くは憐れみを乞い、苟くも免れようとした。王士敏という者がおり、ただひとり慷慨として屈せず、その裾に題して、「この生、再び生還を望むこと無からん、一死はすべて談笑の間に帰す、大地ことごとく腥血の汚れと為る、よくわが骨を首陽山に収めよ」と。刑に臨んで嘆いて曰く、「わが病、声を失い、大いに罵ることができざるを恨むのみ」と。

趙孟壘

同時に趙孟壘という者がいた、合州の人である。開慶元年の進士に及第し、金華尉となった。臨安が降ると、甥の趙由鑑とともに太皇太后の帛書を懐にして益王のもとに赴き、宗正寺簿・監軍に抜擢された。明州を回復したが、戦いに敗れて捕らえられ、屈せず磔刑に処せられて死んだ。

大軍が紹興に駐屯していたとき、福王趙与芮の甥に趙孟枀がおり、挙兵を謀ったが、事が漏れ、捕らえられて臨安に送られた。范文虎がその謀反を詰問すると、孟枀は罵って曰く、「賊臣は国の厚恩に背き、ともに社稷を危うくす、我は帝室の裔にして、宗廟の恥を一刷せんと欲するのみ、それ逆と為すや」と。文虎は怒り、引き出して斬ろうとした。宋の宗廟の前を通るとき、孟枀は呼んで曰く、「太祖・太宗列聖の霊は天に在り、何を以て孟枀をしてここに至らしむるか」と。都人の涙を流さざる者はなかった。死して後、雷電が起こり昼も暗くなることが久しく続いた。